昭和三十六年(一、九六一年)
梅雨前線豪雨雨量、六月二十三日~三十日 計三三一・〇ミリメートル
二十三日ころより前線が四国南部に発生し、本土の西部に大雨をもたらした。この前線は台風六号に刺戟され、急速に活発になり豪雨域が東に移動して、長野、山梨など中部地方が大きな被害を受けた。昭和三十四年の大災害で徹底的にやられた釜無川筋には被害らしいものは無かったが、清里の降雨量四二二ミリメートルのため須玉川、塩川の流域では被害が甚大であった。
○昭和四十一年(一、九六六年)
甲府市北部集中豪雨雨量、七月二十二日~二十三日 計七八・九ミリメートル
七月二十二日集中豪雨、甲府気象台で午後七時二分から九時三十七分迄の二時間三五分間に七九ミリメートル、午後入時三分~九時三分迄の一時間雨量が四八ミリメートルを記録し、東西約一〇キロメートルの狭い地域での局地豪雨であった。水源山地は民間人の調査や洪水調査等から判断して一時間雨量一〇〇ミリメートル以上と推測される。
相川通り被害は、死者一、軽傷五七、全壊二五棟、半壊七九棟、床上浸水一、四九二戸、床下浸水一三、〇三六戸(甲府市の三分の一にあたる)、田畑二〇六ヘクタール、推定被害額約三〇億円、ほか土木被害一九九ケ所一三借入六五二万円(県土木事務概要)
台風二六号雨量、九月二十一日~二十五日 計一七八・九ミリメートル
猛威をふるったのはわずか二時間程度であったが、時間雨量が大きく、山岳部では一〇〇ミリメートルを越えていたものと思われる。九月二十一日以来秋雨前線と台風二四号とによって降雨が続いて、地盤は吸水飽和状態にあったところへ豪雨が重なったため山腹に大崩壊を起し、土石流が山津波となって沿岸をおそった。被害激甚地は足和田村、上九一色村、下部町、芦川村などがあげられる。(わが国の災害誌(続))
死者や土木被害額などで、山梨県は全国一の水害県になったが、これは七月二十二日の相川の大氾濫と九月二十五日足和田村などの山崩れ山津波によるもので全県的なものではなかった。釜無川筋では、韮崎市民会館の駐車場がくずれ、五〇メートル下の五世帯二棟が押し潰されて三人の死者が出た。