○昭和三十四年(一、九五九年)七号台風
武川町大被害
雨量、八月十二日~十三日 計一九四、七ミリメートル。
前線による強風雨域は十三日十一時から十二時にはさらに北上して、韮崎付近から八ケ丘山麓まで達し韮崎で時間雨量四八ミリメートル、高根三八ミリメートル、清里二四ミリメートルの強雨があつた。
この前線による豪雨も午後には一応峠を越したが、台風七号の接近により県中北部は夕刻ごろから雨が強くなり、本格的な台風の豪雨となった。こうして
台風が三〇〇キロメートル以内に接近した十四日三時ごろには、顕著な降雨のピークが現われ、大菩薩峠では一時間に五四ミリメートル、釜無川流域の日向山で四二ミリメートル、薮の湯で三七ミリメートル、芦倉で三五ミリメートル、甲府で一九ミリメートルの強雨が降った。
このピークのあと一時雨の勢力は弱まったが台風が富士川河口附近に上陸したころより、県の南部から降雨が急激に強くなり、特に台風が襲来した七時~入時ごろにかけては、全県下猛烈な豪雨となり、十四日午前三時ごろ薮の湯では一時間三七ミリメートル、台風通過時 (午前七~入時)には五〇ミリメートルに達し、西の山間部では五〇~六〇ミリメートルの豪雨であつた。
最大風力の発現時刻は県の南部、東部で十四日午前六時半ごろ、県の西部や北部では八時1入時半ごろで、甲府の瞬間最大風速四三、二メートルで甲府測候所開設以来の記録であつた、この台風による県下河川の水位変化は、十四日午前七時~十時がピークで、釜無川の水位は著しく上昇し、武田橋で、十四日午前八時に五メートル一五に達した(ここの指定水位二メートル五〇、警戒水位三メートル)。
十四日午前六時ころ、駒ケ嶽の前山である黒戸山 (二、二五三メートル) の八合目附近から下方に数百ヘクタールの山崩れがあり、大音響を伴って大崩落した。七時四〇分大音響とともに柳沢集落の上の堤防が切れ、高さ三メートル以上もあると思われる山津波が流木を立てに横に柳沢集落に押し込んできた。流失した駒城橋附近の河幅はふだん三〇メートルぐらいであるが三〇〇メートル以上にもなった。
十四日午前七時三五分、釜無川と大武川合流点の上河原の堤防決壊し、大武川橋両岸の堤防も決壊した。十四日午前入時、山津波のような濁流が武川銀座の牧の原をおそって、新開地の商店街四五軒のうち三六軒が一瞬にして流失した。
この台風で武川村における被害は、流失・全壊一三二戸、死者一三名、行方不明一〇名、耕地面積四三九、六ヘクタールのうち流失埋没二七%、冠水を含めて七〇%の被害を受けた。また釜無川流域の下三吹、上三吹は対岸の大深沢川が、八ヶ岳山麓の水を集めて合流する地点に当るので右岸の堤防が決壊し大被害を受けている。
白州町内の被害
白州町内の被害を見ると、尾白川の氾濫で堤防を破られたため台ケ原集落で一三戸が流失した。また一方駒城地内では降り続いた雨で地盤が軟弱化したうえに集中豪雨にみまわれたため、大武川上流で数多くの山崩れが発生し樹木や土砂を混入した濁流は水嵩を増し、両岸の堤防はいたるところで決壊していった。そのためにその沿岸にある横手区字大武(おおたけ)集落(一七世帯)も一瞬のうちに濁流に呑まれた。その内の一世帯は家屋と共に流失し、家族四名中三名が死亡した。たまたま親戚へ行っていて難をのがれた小学生の女児は孤児となるという悲惨なでき事が起こるなど甚大な被害を被った。その結果本町全体の被害は死者三名、行方不明者一名、全壊家屋三三戸を数え、耕地の一三パーセントが埋没または流出した。
伊勢湾台風 白州町
一五号台風(伊勢湾台風)は、七号台風被害の応急対策も完了しないままに同年九月二十六日夜半に襲来した。台風の中心は岐阜県を通過したものだが、半径二四〇キロメートルに及ぶ大型台風であったため県の西北寄りに位置する本町激甚災害をこうむった。瞬間最大風速三七、二メートルの強風が一晩中吹き荒れたために、七号台風の傷痕を更に大きくする結果となった。この台風の特徴は水害よりむしろ風害によるものが大きく人家に相当の被害があった。そのために災害救助法適用も県下六市四三ケ町村と広範囲に及び七号台風と重複して大部分が再災害を受けた。この再度の風水害により家屋の損失は勿論、水田、畑、山林等の被害は甚大で、これに伴う精神的打撃は図りしれなかつた。この雨台風による災害復興事業は三十七年度まで続き、被害額の総計はほ四〇四億五、七〇〇万円にものぼる莫大なものとなった。
伊勢湾台風雨量
九月二十三日~二十六日計八二、五ミリメートル。
台風の接近にともない本邦南岸の前線が活発化し、二十五目昼ごろから県下全般に降雨が始まり、二十六日十五時ごろから本格的な台風の雨となった。二十一時ころ~二十三時ころにかけて県の西部や南部の早川流域と釜無川上流の長坂附近に集中豪雨があり、二十二時~二十三時までの一時間に、雨畑で六一ミリメートル、奈良田で五九ミリメートル、長坂で六〇ミリメートルの強雨を記録した。台風直接の降雨であった二十六日の日雨量を見ると
奈良田三三八ミリメートル(七号で三一二ミリメートル)
雨畑三八八ミリメートル(七号で二九五ミリメートル)
小渕沢一六〇ミリメートル(七号で一〇二ミリメートル)
といずれも既往の日最大降水量を更新した。
暴風状況
甲府では二十六日夕刻まで凰は一〇メートル以下であつたが、台風が奈良県附近に達した二十時ころより急に強くなり、南東の風が二〇メートルを越える暴風雨となった。このため甲府市は停電し暗里のなか風雨はますます激しくなり、二十一時ごろより二十二時ころにかけて最も強く、二十一時五十分には最大風速二九・八メートル(七号三三・九メートル、瞬間最大風速南南東三七・二メートル)を記録した。しかし二十三時ごろより夙は急に弱まり、一時すぎには一〇メートル以下となった。
今回の暴風雨は継続時間が非常に長かったこと、全県下にわたって三〇メートル内外の烈風をともない、本県史上最大の暴風雨であったと思われる。
(山梨県災害誌、昭三四)
一昨年の七号台風では、風は甲府で北~東~南~南西と変わり、強い時は東南東四三メートル、十五号台風では南西1南-東1北と移り最も強い時は南西三七メートルを記録した。暴風の時間は七号で一時間二〇分、十五号で六時間、雨が降り続いた時間は七号で四六時間、十五号では一五時問であった。山梨県における過去最大の水害であった明治四十年、四十三年には大水害はあったが暴風被害は全然なく、また明治三十三年九月二十八日の台風では、北西の風三二・八メートルで倒壊家臣一、〇〇〇余戸を出したが水害は起らなかった。
ところが昭和三十四年の七号台風は過去における最大の水害と最大の風害とが同時に引きおこった。(三十四年土木災害記録集)