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白州町水害の歴史 明治・大正 

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明治以降 白州町水害の歴史
○明治二年(一、八六九年)釜無川・尾白川 
 ・釜無川通上教来石村、
(堤防切所延長一三〇問、中聖牛一入組、中枠一〇組流失、甲信境橋(現国堺橋)流失、往還押掘三五〇間、田畑損地八反歩)。下
・教来石村(堤欠所長六問、中聖牛三組、菱牛一四組、大川倉三組流失)。
・白須村(自普請所切、田畑損失六町。
・台ケ原村(釜無・尾白両川満水、田畑損地二町三反)
 ・片颪村(現、花水)(白普請所切、田畑損地二町三反)。
・流川通下教来石村(堤切長九八、五間 堤欠所長一一三間半)。
以上の諸川は七月十二日夜ヨリ十三日ノ暴風雨ニテ。
 ・甲州道中釜無川通土橋流失(教来石村)
 
○明治三年(一、八七〇年)県下全土(治水水害資料による)
 この年四月十八日、七月二十日及八月の三回大洪水あり、就中七月二十日の出水被害は範囲広く全県下に亘り、惨たんたるものであつた。
 
○明治七年(一、八七四年)釜無川
甲斐国巨摩郡村々定式堤防当明治八年春修繕仕上帳から。
 上教来石村(釜無川)一六五円七五三、
下教来石村(同)九三円二三一〇三 
 
○明治九年(一、八七六年)釜無川
 甲斐国巨摩郡村々堤防明治九年度秋修繕仕上帳
鳳来村(釜無川、大武川・上教来石・下教来石・九四円四七九)
 
○明治十一年(一、八七八年)
本年九月十五・十六両日の水害により鳳来村道路欠所長四間
 
○明治十八年(一、八八五年) 
(富士川流域河川調査書白による)
 ・本年六月二十九日~七月一日至ル三日間大雨洪水ニ而鳳来村教来石地内堤防一〇〇間余欠潰 耕地流失五町歩、
・片嵐(花水)地内ニテ道路破壊三ケ所二〇〇間、堤塘欠潰四ケ所一五〇間、橋梁一ケ所家屋二戸流失、被害反別五町歩。
 
○明治二十七年 (一、八九四年)釜無川
 この年八月から甲府測候所の気象観測が始まった。
「本年の水害ハ八月十日・十一日ノ暴風雨ニ原因シ其ノ進路ノ中心ハ実ニ本県ノ西境山脈重畳ノ処ヲ通過セシヲ以テ釜無川に注入スル処ノ谷川渓谷崩潰シ非常ノ惨状ヲ極メタリ」(略)と述べている。
 
○明治二十九年(一、八九六年)
 九月の水害は全国的のもので、八月中部日本に暴風雨、九月台風全国を荒す。(災害の歴史)
 
○明治三十一年 (一、八九八年)大水害
「甲州全土の大小河川が一時に氾濫し五〇万県民をして生色なからしめた」と水害史は述べている。
この水害により免租になった宅地反別一反歩以上のものを拾った。
・白州町鳥原五筆二反八〇九。・武川村上三吹六四筆二四反八二六。
・下円井七筆一反一二四。・祖母石一九筆八反二〇六。
・河原部(韮崎市)二五筆七反〇一六。岩下(韮崎)六四筆二八反九二九。
 
北巨摩中被害最大の大泉村は原谷戸、福岡二組合せて一七〇戸の小部落で死者五五、傷者五〇、浸水家屋九〇余戸。・新富村三吹、流失家屋一六戸溺死者四。韮崎町は未曾有の水災、土砂押入二〇〇戸、流失三二戸、死者四〇余。(山日、大正三・四・一四)
 
 また北巨摩郡誌によれば、韮崎町が最も惨状を極め、堤防九分通り欠潰、人家流失三二戸、溺死者四一名、浸水家屋二二八戸。大泉村谷戸組で山津波により溺死者五七人、馬一〇頭、押流家屋六五戸、田野二〇〇町歩。
新富村(武川)三吹富貴野堤五〇間決潰、溺死者三、流失家屋三戸、全部落床上浸水、押流田園五〇町余。
最大激甚地である大泉村原谷戸と、新富村上三吹にはそれぞれ水害記念碑が建てられている。
 この二ケ所の大災害の原因はどちらも八ヶ岳の大崩壊である。それも編笠山につらなる東南斜面に発生した莫大な崩落土によるものと思われる。一は鴨川の支流宮川を圧して大泉村原谷戸を蹂躪し、一は高川、古拙川を征して大深沢川を一潟千里にくだり、上三吹の集落かみで釜無、尾自の二川と会し、流れを変えて上三吹を襲ったのである。
 
○明治四十年 (一、九〇七年)
 台風による雨量
八月二十二日 二、六ミリメートル
二十三日 一二九、五ミリメートル
二十四日 二二二、二ミリメートル
二十五日  五二、六ミリメートル
二十六日   三、七ミリメートル
二十七日   四、三ミリメートル
二十八日一、二ミリメートル 
計 三二六・一ミリメートル
八月二十一日夜半から降り出した雨は二十五日まで降りつづき、
上野原 四三八ミリメートル
谷村四  六九ミリメートル
石和四  八〇ミリメートル 
甲府  三一五ミリメートル 
韮崎  四〇四ミリメートル
鰍沢  三〇五ミリメートル
を記録した。(山梨の百年)
 明治四十年の水害のすさまじさは、山梨県水害史によれば
「此時に甲州に河なく唯だ一面の泥海を見、山腹一帯に幾百千の大操布を見たるのみ」
と言わしめ、また
「災後の甲州は最後の甲州であるといわれるほど、山梨の多くの富を流した」と山梨の百年に書かれている。
 四十年水害で免租になった宅地反別が一反歩以上の地区として、菅原村白須一三筆五反一畝一八歩とある。
 
○明治四十三年(一、九一〇年)
 全国的な水害であつた。死者一、二五七人、氾濫面積六〇万町歩、建物損害三〇万棟という大きなものであった。甲府盆地一帯は八日から降りつづいた雨で十日午後には各地に大出水。
県の調査によると、県下の被害は
死者   二四人
家屋流失 二〇二
半流失   四一
全壊    八九
半壊   二四八
浸水   一万〇四一四
田畑流出 一、一七一町
浸水   四、六五二町歩
堤防欠壊 三七九ケ所
ガケ崩れ 一、一五入ケ所
などとなっている。
恩師林
まさに記録的な大水害で、こうした惨状に胸を痛めた明治天皇が、四十四年三月十一日県内山林の半分を占める広大なご料林を山梨県民にご下賜になり、治山治水に役立たせるようおさとしになった。
北海道へ移民
 北巨摩郡町村取調書五によれば「鳳来村、釜無川大洪水ニテ田約一五町歩流失」とあり、北海道移住民資料には、明治四十三年も亦県下大洪水ありて其被害の及ぶ処前四十年より尚一層悲惨を極めければ、県下被害民中復又祖先伝来の愛慕の地を捨て、北海道に移住を隣出づる者続々相建けり。県当局も亦県民の飢寒に泣笑するを閲見するに忍びず、各方面に斡旋尽力の労を執られ、其翌年四月に至りいよいよ之を実行せられたり。
第一回輸送 四十四年四月十二日、戸数一一六、人員五三五人。
第二回輸送四月十八日、戸数一三七、人員六四六人。
北巨摩は九町村二八戸一二六人であると記されている。
 
○大正三年(一、九一四年)菅原村 尾白川
 台風による雨量八月二十九日と三十日、計一三三・五ミリメートル。菅原村尾白川増水八尺に及び台ケ原より菅原村に通ずる橋梁流失、台ケ原より日野春に通ずる花水橋も流失せり。徳島堰取入口は明治三十一年、一万五千余円を投じて竣工したるものにして、四十、四十三年両年度の出水に幾分の被害ありしも、今回程甚だしからず。水門と砂溜ケ所共に流失損害は一万円ぐらいか。(山日、大正三・九・九)
大正三年八月二十八日より降り始めた雨は二十九日益々強く、篠を束ねて降る有様に村人は寺山と金比羅山に避難した。
 
黒戸山大崩壊
 黒戸山の大崩壊と共に大武川は大洪水となった(略)(中山嘉明文書)。
この年から四十五年あとの昭和三十四年八月十四日朝の牧の原 祖母石などの一大悲劇も、黒戸山の大崩壊によるものであつた。
 
○大正十二年(一、九二三年)
 大雨 雨量九月三日、四日、五目、六日、計一一九・九ミリメートル。 
関東大地震にて土地、道路、堤防など随所に大亀裂を生じ地盤ゆるみ、わずか三尺程度の増水で堤防が決壊し、南湖村、東八代郡富士見村などに大きな被害があった。

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