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白州町の気象災害 江戸時代以前

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白州町の気象災害
『白州町誌』第三節 気象災害 一部加筆
 
 過去における気象災害は地勢上風水害が最も多く、また農業が主であるため凍霜害、雹(ひょう)害がこれにつぐ。以下本町と共通する県内とくらべながら実態を記述する。
■本町は昔からその急峻な地勢と、もろい地質との悪条件によって、有史以来水害は宿命となっている。町を流れる釜無川、尾白川、その他の河川はいずれも標高二〇〇〇メートル~三〇〇〇メートルに源を発し、その高度に比較して流下する距離が非常に短く、その流れは激流となり山腹を縦横に浸食し、鉄砲水となって山地で被害を起こし、多量の土石を流下する。本町の河川は東の方向にすべて流れ盆地に向っている。「あばれ川」を支流にもつ釜無川は、時にとてつもない水害をもたらしたのである。
 
白州町の水害の歴史 江戸時代以前
『白州町誌』第三節 気象災害 一部加筆
 
伝説
 日本武尊(やまとたけるのみこと)甲斐入国の折、底地一帯湖水となった。この時玉を埋めて退水を祈ったとあるが、これが水害記録の最初である。
 養老年間(七一八年ころ)僧行基が旅の途次、洪水になやむ住民を救ぅため富士川を開いて治水に努めたと伝えられる。
 天長二年(八二五年)御勅使川の氾濫により釜無川は流路を変え、甲府盆地は大湖水となり、「水没せる人命田畑算なし」とある。
 このあと武田信玄在世までの六十年~七十年間にも天災地変が格別多かつたようである。天文九~十一年(一、五四〇年~一、五四二年)の洪水、とくに十一年寅年釜無川大洪水となり、秋八月より冬十一月まで甲州一円泥砂の海と化し去る。沃野も一木の青葉をとどめず、人畜の被害数えるに堪えず。信玄見て以て邦家の大事これに過ぐるなしとし、これより一大土工を起さんとする。このようにして万代不朽の竜王信玄堤は十六年の歳月をかけ、弘治三年(一、五五七年)完成した。
これより記録されているものとして
・元亀元年 (一、五七〇年)
・天正二年 (一、五七四年)
・天正十一年(一、五八三年)
・慶長六年 (一、六〇一年)
・承応三年 (一、六五四年)
・元禄二年 (一、六八九年)
・正徳三年 (一、七一三年
・正徳五年 (一、七一五年)
・享保五年 (一、七二〇年)
・享保十三年(一、七二八年)
この年は日本自然災害年表にも諸国大風雨洪水とあるように白州町にも相当な被害があったと思われるが資料がない。                          
○延享四年(一、七四七年)台ケ原
 ●延享四年十二月御川陵内目論見書上帳(台ケ原村)
 尾白川通右横八ケ所、延長八八間、腹付一〇ケ所、
延長二五四間枠五ケ所四九阻、堀川一ケ所長一〇間、
往還築立一ケ所長五間 釜無川通右横腹付一ケ所三〇間
  右の通大破ニ付村中立合内目論見任候、
  延享四年卯十二月、台ケ原村(帳箱)
○延享五年(一、七四八年)鳥原
 延享五年辰六月、御注進喜之事、家九軒普月五日満水ニ而水押掛ケ慎ニ付 (鳥原渡辺源輝所蔵)
○宝暦七年(一、七五七年)大坊
 当五月満水ニ而御川除ハ不及申上御田地流出仕田畑山崩石砂入ニ罷成道橋押崩シ百姓途方にくれ難儀至極仕候、宝暦七年七月(大坊新田村道村初夫所蔵)○天明四年(一、七八四年)大武川
 天明四甲辰年三月、乍恐書付を以奉願上供出作大凶作ニ付(大武川)
また同年同月晦日一札 大豆上納ニ付御取延願ニ付
 *この資料では水害か凍霜害か、虫害かはっきりしないが災害のあったことは事実である。
○寛政二年(一、七九〇年)
寛政二年八月式日釜無川、塩川大満水田地・屋敷流失(青木秀知所蔵)
なお日本自然災害年表によればこの年八月関東中部地方大風雨とある。
○寛政二年(一、七九〇年)大坊
堰川除ケ所附帳大坊新田滝道川通り右横切所延長四六間
砂堤切所延長一二〇間、中込川右横押埋長八〇間、砂堤押堀長二六間
大武川川右横切所長六〇間、井堰御普請所一、三一二間
など右者八月十九日夕から二十日迄大風雨洪水ニ而松平勝五郎様御手伝御普請所流埋押切等相改候所御注進申上候以上
 戌九月 甲府御役所 (道村初夫所蔵)
○寛政三年 (一、七九一年)
 寛政三年三月白須村普請仕立帳 釜無川通右横切所三ケ所九五間、右腹付三ケ所七七間、棚牛七〇組、
濁川(神宮川)通用水口右横欠所一ケ所三〇間、田沢川通瀬渡願八詣(白須村文書)、
○寛政四年 (一、七九二年)大坊新田
 寛政四年堰川除ケ所附帳大坊新田、大武川右横延長八七間、
式部沢右横延長三〇間、中込沢砂堤延長二〇六間、
滝道川右横延長一〇〇間、田用水堰一五〇間、
右者七月十二日才十四日迄大雨洪水二而松平勝五郎様
御手伝普請所流埋押切等相致供所御注進中上候以上(道村初夫所蔵)
○享和二年(一、八〇二年)
 甲州大水損之事、享和二年六月二十八日より二十九日大雨ニテ川通り田畑大損し家等流レ人数多流レ死す尤も此降りは諸国一統の大雨なり、(水害資料)
○享和三年(一、八〇三年)釜無川
 字波円井区文書によれば享和三亥年八月下円井村甲州道中が釜無川本瀬となり諸往来が止まった。地元下円井村は代官の命により長六〇間の瀬掘と菱牛六八阻の〆切工事を行なって本瀬をもとに戻したがその工事金七〇両余が自普請では困ると奉行所に訴えている。
穴山橋の西へ釜無川が切り込んだ大水害は右の享和三年(一、八〇三年)明治四〇年(一、九〇七年)昭和三十四年(一、九五九年)などであるが、一、八三〇年~一、九〇七年の中間一、八五五年は安政二年で大水害の年であり、入戸野村では御高の九分通り流失した。つまり一、八〇三年から一、九五九年の間に四回の大水害があり、五二年周期となる。
○文化元年(一、八〇四年)釜無川
 日本自然災害年表文化元子年八月諸国大風雨洪水。(災害の歴史) 
 この年も甲州道中筋は釜無川の本瀬がかわり往来できなくなったとあり、
下円井地内甲州道中は享和二年、三年、文化元年と連続三年流れたことになる。
○文政六年(一、八二三年)釜無川 尾白川
 甲州道中が信州境まで寸断され道中できなくなり、その上田畑も流失し住民は食料不足などをきたし困窮した。御川除内目論見書上帳、
尾白川通右横一四ケ所一八八間、右腹付四ケ所一三七間、
往還右腹付一ケ所二四間、棚牛一〇組、蛇籠二二本、釜無川通笈牛五組 
右者当八月出水ニ而大破出来仕自力ニ難叶候間(略)また用水路堀割内目論見書上帳で水掛り高一〇二石一斗九升二合村中春用水尾白川才引入欠所白須村畑地堀割長七七間、堀口深七尺三寸、上幅一丈五尺、川底四尺、左右土手縁九尺、石堰代引反別一反九歩、堀割取土坪一四八坪八分余、右の者当八月十七日之出水二而井路掘欠ケ通水仕ニ付(略)
文政六年十月 甲府御役所(台ケ原村文書)
○文政十一年(一、八二八年)山梨県全土
 明治二十四年五月、富士川流域河川取調書大正以降の洪水(但明治五年迄は皆大陰暦)中被害ノ最モ甚シキハ文政十一年(一、八二八年)六月十日トス。
聞ク処ニ拠レバ同日午後ヨリ暴風烈シク雲時ニシテ細大ノ河川一時ニ暴港シ堤防川除等決壊殆卜余ス所ナシ、人民之ヲ防クニ途ナク唯身命ヲ遁ルルニ汲々タルノミ后チ被害ノ景況ヲ望メバ山寧朋壊シ田野ハ凡テ浸水シ田園家屋禾稼人畜ノ流亡英数ヲ知ラズ。(県立図書館蔵)
古老伝え言う、文政十一年の大洪水は甲州全土殆んど其災を被らざるなく、口碑を以テ後人を戒め避難の方法防水の準備を伝えたり。(県水害史)
 御普請出来形帳文政十二年二月(白須村)
 御林川欠反別木教書上帳 文政十二丑三月(白須村)
 御普請願箇所附書上帳 文政十一年子八月(台ケ原村)
 巨摩郡山高村、牧原村、三吹村、白須村、鳥原村右五ケ村一同奉申上候、私共村々田方用水堰井川除自普請所之儀先々大破侯節老臨時御普請被仰付来り候処去ル子六月晦日七月朔日大風雨出水ニ而右村々用水堰川除共々無躰押流、御田地悉流失仕極難至極ニ付村々取調奉差上候箇所附帳ヲ以去秋中御普請役様為御見分被成下置供処(略)文政十二丑正月(白州町教育委員会文書)
 
 気象庁高橋管理官の研究によれば、室戸、伊勢湾台風を上回る猛台風は、一、八二八年九月十七日(文政十一年八月九日)九州西部を襲ったもので中心示度九〇〇ミリバール、雨量三〇〇ミリメートル、最大風速五〇メートルと推定され、明治以後気象観測始まって以来の最大台風でも九一一ミリバールだったから、文政台風ほさらにひと回りも大きいわけで五、〇〇〇戸が倒れ、土、七〇〇戸が流失、死者一万人ぐらいという大変なものだった。人口も家屋も現在よりずっと少ない時代の被害なので、これからみて「室戸」よりずっと大きい台風と思われる。
 中心気圧九〇〇ミリバールの文政台風級は二五〇年に一回、九一〇ミリバールの室戸台風級は一〇〇年に一回、九二〇ミリバールの伊勢湾台風級は五〇年に一回くらいである。(毎日新聞、昭三六・五・二二)
そのほか
天保八年(一、八三七年)弘化二年(一、八四五年)
安政二年(一、八五五年)安政六年(一、八五九年)
万延元年(一、八六〇年)元治元年(一、八六四年)
慶応二年(一、八六六年)にも災害があつた。

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