甲陽軍鑑 伊奈武略 板垣信方
こうして五月二十三日午の刻(真昼)に塩尻峠において、小笠原・木曾軍勢が戦い放れたという報が伊奈郡の軍勢に伝わると、大手(正面かちの軍)が負けたのだから、搦め手(裏面からの軍)がどうして応戦できるものかと、まずは下々の兵が騒ぎだした。その日の七つさがり(午後四時過ぎ)には、伊那衆はことごとく陣を引きはらって退却していった。そのようすを板垣信形がみていて、この機を見逃すまいと追いつめ退却する敵をくい留めた。やむなく退却もできない敵はまた引返すといったありさまで、馬足軽などはいかにも神妙にしているふうにみえた。
荻原与惣左衛門・荻原九郎次郎
ここに荻原与惣左衛門・荻原九郎次郎という兄弟があった。この者は板垣信形にとっては外戚腹(げしゃくばら 本妻以外の子)の、妹の子供で甥にあたる。この両人のうち九郎次郎はその時二十一歳だったが、三十歳をこえていた兄の武道への精通ぶりにも増して、なかなかの賢者だった。この九郎次郎が兄の与惣左衝門にささやいて言った。伊那勢は武道に達者な連中だから当然密偵を出してぉり、大手の軍勢が塩尻峠の昼の一戦で放れたことをよもや知らないはずはない。それぞれ内通していたはずの小笠原・木曽の両人がおくれをとったのに、今頃四時すぎまで退却しないのは不思議である。そのうえ陣払い(退陣)に、風はないものの陣屋に火をかけず、処々火をつけても結局消してしまっているのは何とも不思議である。
そう九郎次郎が言うと、兄の与惣左衛門は、その時三十五歳で、この者はすでに度々の手柄があり、信虎公と晴信公父子の勲功を証する御証文を九つまでも持っている、この時代では中老の巧者であったから、年も行かぬ弟の言うことであったが、もっともな意見でもあると思われた。
そこで兄弟でうちそろい板垣信形の馬近くまで乗り寄せ、敵方に隠れた手段があるように思われる旨を申し、これ以上追撃することに対して再考をうながした。
板垣信方
板垣信形は弓矢をとっては近国にも聞えた高名なすばらしい大将だったけれども、一つの欠点は、以前から自分の配下の同心被官の意見をとりあげなさることがない点だった。ことに今度は九郎次郎というまだ二十五歳にもならぬ者が、敵が何かをたくらんでいるなどと意見をいうのは、何という臆病な言い方かと両人の者を信形はさんざん叱りつけたのだった。そんな問答をしているうちにもだんだんと日は暮れて、霧雨が降りはじめ東西が暗くなる時刻となった。そこを伊那勢は見はらって、一度引き返すそぶりをして障をたて直した。戦を再開すると見せかけてすこし間をおき、後の陣屋から足手強剛な者を侍雑人の中から三百人えらびだし、相印(味方同士の印)をよく確かめさせ、先頭によい武者をしたてて三軍に分けてひそかに隠しておいた。その三手が三カ所から鬨の声をあげてかかったのだ。これを見て板垣衆は二手にわけて後の敵軍から攻めかかり、進んで応戦するように信形は馬を乗り廻して命令を下した。けれども、出抜の不意うちだったので、板垣二百五十騎の同心被官のうちで、二手のうちの先の軍で十八騎、後の軍で二十三騎が討ち死してしまった。足軽雑人の場合には育五十三人が討たれた。敵は先の軍で馬三騎、従兵十一人、上下合せて十四人を板垣方に討ちとられ、後の軍で攻めた方は皆歩射(かちたち 歩兵合戦)であったから、その利で戦いすませて山にからまるように移動し、あるいは谷へ降りるというふうで、一人も射たれなかった。
伊那衆がこのように勝利を得て帰ることになったのは、板垣信形の心があまりに勇猛すぎて、部下の言う意見をとりあげなかったためである。
さて先に記した荻原九郎次郎は二十一歳と届かったので、信形に臆病の心があると言われたのだ。それが口惜しいと先頭にたって戦い、敵のすぐれた武者一人を討ちとり、その首を信形に見せてにっこり笑い、そのあと敵中に突込み討死した。
(この合戦で、板垣信形は批判されたものの、勇猛な戦いぶりを信玄公は弁護した旨が記されるが、略した。)