甲陽軍鑑 品第二十四 山本勘介の工夫と信州塩尻合戦
一、天文十二年(一五回三)正月三日に、武田家の家老衆が集まって、モの年の清信公の軍備について相談した。諏訪・佐久・小県の敵味方の接する境に城をかまえる場合は、その構え方さえよければ、千人の敵兵に対して味方は三百人で持ちこたえることができる。これは城のかまえ方、設計に大事な秘訣があるからだ。この城のかまえ方をよく知っている剛の者が、駿河の今川親元公の御家来である庵原殿(安房守)の身内となっていること。この人は今川殿へ御奉公しようと望んでいるが、義元はお召し抱えにならないこと。この者は三河の牛窪の持であるけれども、四国・九州・中国・関東にまでも廻りあるいた山本勘介という大剛の武士との評判である。
板垣信形は、この勘介を呼びよせ、お抱えになるようにと清信公に申しあげたので、その年の三月、知行百貨という約束で勘介を駿河から呼びよせられた。勘介からのお礼の挨拶を受けられた清信公は、即座に「勘介は片目であり、数カ所の負傷で手足もちょっと不自由のように見える。しかも色は黒い。これほどの醜男でありながら、その名声が高いのは、よくよく能力のすぐれた誉れ多い武士と思われる。このような武士に百貫では少ない。」と仰せられ、二百貫を下された。 さてもの年の暮、十一月中旬に信州へ御出陣された。十一月下旬から十二月十五日までの間に、城が九つおちて晴信公のお手にはいったが、これはすべて山本勘介の武略によるものであった。晴信公が二十二歳のときのことである。
諏訪頼重洙される
一、天文十三年(1543)甲辰二月に、清信公は信州諏訪に出陣なされた。このとき板垣信形の戦略で、晴信公の御弟の典厩信繁を介することで諏訪頼茂(重)と清信公の和睦が成り立ち、頼重は甲府に出仕するとの約束が結ばれた。そこで晴信公は三月に御帰陣された。さてまた諏訪頼重との間に和議が成立し、甲信の国境は聚が□(不明)ということになり、頼重は甲府へ出仕された。その三度目に、御中間頭の萩原弥右衛門に仰せつけられて、頼重を御成敗なされた。その後は、頼重が治めていた諏訪勢はことごとく晴信公の敵となり、蓮蓬を大将として、再び甲信の取りあいが始まった。
ところが、三年前に駿河から召し寄せられた牛窪生まれの山本勘介がささやいて板垣・飯官・甘利の三人の侍大将として、再び甲信の取りあいが始まった。
信玄の諏訪攻め
一、天文十四年(1545)乙巳正月十九日に、典厩を大将とし、板垣信形が先鋒、日向大和守が後備となって諏訪に攻め入った。
その二月、板垣信形の先鋒は諏訪勢との合戦で勝利を得た。そのときのようすだが諏訪の大将の蓮蓬が落馬して、五丈ほどもある崖から落ちた。それを長坂長閑が討ち取った。長坂は長い間改易の身(謹慎)だったが、諏訪の蓮蓬という名の高い大将を討ちとって手柄をたてたので、典厩のとりなしによって晴信公に召し出された。
長坂長閑が長坂左衛門といっていたときのことである。このとき板垣勢は、
諏訪勢の雑兵三百あまりの首をとって勝岡をあげた。そこで板垣信形は諏訪の郡代を仰せつけられた。典厩信繁にも諏訪の武士たちを配下に所属させられた。こうして諏訪は晴信公の御手に入り、塩尻を境として、伊那勢と松本の小笠原勢への進撃が始まるのである。
諏訪の家は断絶
諏訪の家は断絶したが、頼重の十四歳になられた娘はたいへんな美人であられた。晴信はこの娘を妾にと望まれた。しかしながら、板垣信形・飯富兵部・甘利備前の三人をはじめ、各家老たちは、晴信公にむかって、たとえ女人とはいえ退治なさった頼重の娘は敵にあたるゆえ、側女になさることはいかがなものでしょうか、とお諌め申しあげた。
山本勘介
ところが、三年前に駿河かち召し寄せられた三河国は牛窪生まれの山本勘介がささやいて板垣・飯富・甘利の三人の侍大将に申した。晴信公の御威光がたいしたことでなければ、諏訪の者たちも、公のおそばに頼重の息女がいることをこれ幸として悦び、よくない策略をたてるかもしれません。けれど晴信公の御威光は深くゆきわたってきていますのでその心配はありません。私のごとき者も、あらかた日本国中を見聞いたしましたが、中国安芸の毛利元就は、もとの知行七百貫の身分から戦功をあげ、いまでは中国のほとんどを征服し、四国、九州にまでもその威光が及んでおります。現在では将軍に御意見申しあげる三好長慶さえ、元就の機嫌をとっていることは隠れもない事実です。晴信公は二十五歳前でありながら、この元就にさほど劣ってはおられない御威光の方であると、駿河にいたころから承って、日本国中第一の若手の武将と存じあげてまいりました。私が甲府にまいりまして二年余り居ります間に、晴信公の御言葉を承り、また敵との戦いのようすを拝見いたしますに、この屋形様は、御長命でさえいらっしゃれば、将来は必ず、文武二道において、日本一の名大将と呼ばれましょう。したがって諏訪家の親類、家臣たちも、いかなる謀略をも考えつくことはありますまい。したがって、頼重の息女を側女になさることを諏訪の人々は喜び、そのお腹に御曹子が誕生されれば諏訪の家が再興できるかもしれないと望みをかけ、武田譜代の人たちに劣らない御奉公をつとめるでありましょう。そのためには頼重の息女を召されることはけっこうなことと存じます、という。この山本勘介の工夫した意見により、晴信公は頼重の息女を召し置かれることになった。勘介の推測のように、諏訪の人々は、みなこのことを喜び、人質を甲府へ進上いたした。
次の年、天文十五年丙午に四郎殿が誕生なされたので諏訪の人々は、いっそう屋形様を大切にし、そこで譜代の人々同然になった。
ところで、四郎勝頼公という方は、諏訪頼重の跡目と定められていたから、武田の嫡子は、たいてい代々「信」という字をその御名につけてきたものであるが(そうならなかったものである。)
(以下、山本勘介と信玄公との問答形式による、戦略統治のしかたの意見が展開されるが、他と重複する部分も多いので略した。次の信州塩尻合戦の前後も一部略してある。)