品第七 小笠原源与斎の奇特な軍配
一、甲州に小笠原源与斎という軍配者がいた。彼は様々の奇特をあらわし、ある時は風呂に入って、出口が無いのに人に気付かれないように外に出たり、夜の会合に、座席の向かいに山林に火を幾度もたてて自慢していた。しかも人が注文する通りに火をたてるはどの凄腕だった。およそ軍配をしっかり学ぶと、その軍配の範囲も広がりさまざまな奇特が生まれた。
永禄四年(1561)の川中島合戦で討死した山本勘介は、信玄公旗本の足軽大将の中で五指に入るすぐれた武将とうたわれたが、これも軍配鍛錬に達していた人である。
この山本勘介入道道鬼の軍配は、宮・商・角・緻・羽(きゅう・しょう・かく・ち・う)の五つに分けて見る。雲気・煙気・その他に烏(カラス・えぎ)・鳶(トビ・さこ)・鳩(ハト・すた)の三軍鳥の来る方向や飛びかたによって、戦況をあらかじめ占う口伝がある。その他にも口伝があるが、勘介流は要約してあって一段と短い。ただし小笠原源与嘉のような奇特は、勘介のものには無い。
奇特は軍配の神変であると源与斎はいう。しかし威光や神変だけでは勝負は有利にならない。(後略)戦いの真の計略・策略からいえばそれほど役にたたない。敵味方対陣の瞬間においては、勘介も源与斎も同等だ。それならともかく神変いたす方が益しだと人は言うだろう。(後略)
品第七 所載記事(奇特について)
この件について馬場美濃守信房が語る。
甲陽軍艦には馬場美濃守信房の多彩記事が載っている。
神変は神変でけっこうあるけれど、それは人によってのこと、武士が弓矢のために軍配を習って神変を期待したのでは、あの奇特をする人などと言われ、禰宜・山伏などのように言われよう。その上、正法に奇特なし、と聞けば余計に神変など信用できなくなる。
おおよそ武士が武芸を習う場合は弓・鉄砲・馬・兵法のこの四つを何より重視すべきで、できるだけ精を出し、工夫し思案して鍛錬するしか道はないのだ。
鍛錬するうちに腕があがると必ず弟子をとるが、弟子をとるのは武道のたしなみとはいえない。弓射る人・鉄砲打・馬術・兵法つかいなどと名付けて、無難に過ごしている人にでも同輩は笑顔をむけず、人は人を片意地にみなすものである。本筋からそれて仕事をしては、武士とはいわないので、どんなに武道磨いても弟子をとるなどということは無益なのだ。
さて馬を鑑識する人も、弓矢を心がける人も馬が好きだからといって、あまり馬に関わりすぎると、他人からは博労(バクロウ/馬の鑑識や売買をする人)のように思われてしまう。やがて、武士道の本来からそれて欲が出て、同僚を出し抜くことになりやすい。それはすべきではない。但し足軽などはさしつかえない。
ことに盗みともなれば、他人の物を取ることはもとより、
- ロで偽りをいうのは口の盗み、
- 主君の使いなのに私用で遅れて、永い間主君を待たせて遅れた返事をもってくるのなどは足の盗みともいうべきものだ。けれども侍が武略として使う時は、虚言をもっぱら駆使する。それを偽りというのは、戦略を知らない武士のいうことで、それは女性のような侍というべきで、そういう者は、武略の意味で使う嘘といってもいいのは道理だ。(後略)品第七 山本勘介の事を信房が語る(略)信玄公二十三歳の時、駿州より山本勘介を百貫の知行と約束して甲州に招き、対面した。その場で二百貫に増した朱印を与えた。何故かと言うと、あれほどの醜男なのに有名なのは、武道を始め、何事にも鍛錬をつみ、諸事にわたってすぐれ、思慮深いであろうと御判断なされたからである。その後四、五日たって、駿州の様子を信玄公がお尋ねになると、明快に答えたので、信頼して山本勘介を側近として任命した。その当時、長坂長閑は左衛門丞といっていたが、信玄公が勘介を側近としたことに対し、今川家への外聞もあることだからと、御忠告申しあげた。信玄公はこれに対して、策謀をもつ者を近付けているかどうかは、駿州の評判より何より、勘介に直接聞いて見れば分ることだ、といわれた。<筆註>甲陽軍艦は、このような長坂長閑に対する話が散りばめられている。信玄公はこのとき御年23歳、大善大夫と名乗っていた時期だったけれども、度々こうした場面に出会ったが、老将より若い信玄公の方が理が通っているので、左衛門丞は恥ずかしさの余り退出された。さて、三カ年の間に勘介には八百貫の知行となり、勘介も過分の待遇に恐縮して、譜代同然だと感謝した。その後勘介は、策略を廻らし、信玄公の信州数カ所での落城に尽力し、ついには村上義清殿を信濃の北信から追いし、悉く信州を手中に治めた。これは山本勘介の戦略によってである。信玄公18歳の六月、天文7年(1538)戊成の村上殿との合戦をはじめ、同九年目の天文15年(1540)には、信州から追放に成功し、信玄公二十六歳の年に戦勝で終った。山本勘介が駿州から甲州へ来たのは天文12年芙卯の正月、信玄公28歳の時のことである。勘介は4年目に村上殿との合戦は終った。信玄公が武道の面で優れたのは、村上殿と九9年の間、毎年合戦されたからである。またその年の八月より、越後の長尾輝虎公17歳、信玄公26歳で衝突なされ、海野平ではじめて合戦となった。ところで勘介の軍配にはこれといった奇特はないのであるが、信玄公が度々にわたって合戦で勝利を得られたことは、ひとえに勘介のみごとな戦略によるものだ。このように、軍配は何事によらず、奇特なんかを期待するものではない。さらに侍は武芸をけいこして上達しても、弟子をとって満足などしてはならないのだ。<筆誅>と、馬場美濃が申し上げた。品第七終