品第九 信玄とその時代
信玄公御歌の会
馬場美濃守信房
(略)一昨々年の酉の4月12に信玄公が御逝去なされた。
(略)戦術の事にかけては、軽々しく洩れ伝わってはならないと、勝頼公御自筆で直接命令を下される。信玄公が御他界のことは、来年四月まで隠密ある故、右の勝頼公の御書は誰にもお見せにならない。
それは馬場美濃殿が預かっておかれるのがよく、総じて両人が親交のある客人には、こちらは関係しない。信玄公の時代には通じていた越中の椎名康胤の所からの使者の親書の扱いなどは馬場美濃殿がとりなされた。
(略)内藤修理は言う。わが主君におかれては、京二親紫・東国に対して不名誉な立場におられるわけではない。それくらいのことは我らに限らず、御譜代の者ならば皆よく存じ上げているはずだ。他国といっても信州は手に入れてから、欝・芦田(謀略郡)をはじめ、霜・欝・和田(恥肘聖)の衆は、二、三代にわたっているからこの方々も勝頼公の細胞のうちは存じているはず。だからやたらと出頭するのは無用なことだ。
そこで馬場美濃が申す。それは内藤修理殿も失礼というもの、まずは長閑の申されるのをよく聞きなされ。我らは小城ながら預かり命じられているが、何としても御前とは意の疎通が遠い感がある。云々