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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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品第十一 鈍過ぎる大将 駿河での山本勘助

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品第十一 鈍過ぎる大将
附、駿州今川家ならびに山本勘介
  駿河での山本勘介
以前、駿河の今川義元公の時代に、山本勘介が三河の国、牛窪より今川殿へ奉公を望んで参上したが、この山本勘介はひどい醜男で、目も一眼、指も足も不自由であった。けれど大剛の者だったから、 義元公が召しかかえてはと、勘介の寄宿先の広東という人が、家老の朝比奈兵衛尉を通じて申上げた。
勘介は大剛の者で、中でも城取り、陣取り(城構え、設計)といった軍法はよく鍛錬されている。京流(剣道)の達人である。軍配もよく知っている者ですが、と申し上げたけれども、義元公は召抱えられなかった。
駿河での勘介の評判は、
「あの山本勘介は第一、片輪者、それに城とり、陣取りの軍法も、自分で築城の経験もなく、自ら城をもったこともなく、兵を抱えたことがない身なのに、どうしてそのような知識があるのか、今川殿へ奉公したいからこそ虚言をいっているのだ」
と、噂した。勘介は九年間も駿河にいたけれど、そんな巷間の話を真に受けて、今川殿は召しかかえなかった。九年間のうちに剣術の面で、二、三度手柄があったけれども、新当流の兵法こそ本物で、勘介の流儀はどうも疑わしいと、皆人は噂した。加えて勘介は浪人の身であったから、草履とりも居らず、非難する人ばかりで、正しく評価する人などいない。このことはしかし、今川殿の御家が万事にわたって活力を失い、御家が末に傾き、武士の道の見きわめが浅く無案内であったから、山本勘介の身の上の批判まで悪い評判がおよんだのであろう。
(略)
  また山本勘介流の剣術について、新当流(卜伝流)ではないからと軽蔑するのは見当違いだ。新当流でも皆上手だというわけではなく、京流でも皆下手だというわけでもない。勘介は自刃でも、木刀でも度々手柄をたてるほど上手であった。いかなる道でも上手なことこそ褒めるべきことだ。そうした理解の無い中で、山本勘介を批判なした。今川殿の家運が尽きてしまったのも、勘介への調査の怠慢からである。
山本勘介が、牛窪という田舎の身分の低い家の出身であったが、軍法をよく鍛錬しているという点では、信玄公は勘介の博識を聞かれ、感服して注目し、百貫の知行で召抱えられた。家来を一人もたない勘介に百貫の知行を下さるとは、 と、譜代の小身衆がむやみに騒いではと、板垣信形(紺酢蛸)に仰せつけ、馬・弓・鑓・小袖・小者を迎えの道の途中まで差し向けられた。それで山本勘介は甲府へよろしき姿で参上し、出仕の挨拶に参上した。その態度に感じて信玄公は即座に二百貫の知行へと増したことについての経緯だが、あれほどの小男だったにかかわらず有名だった勘介は、よくよくの手柄があったのだろう。約束の百貫でも多いくらいなのに、二百貫にしたについては、信玄公が勘介を家中の宝と考えられたからだ。

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