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信玄 上原城奪還

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信玄 上原城奪還
『武田信玄の全て』磯貝正義氏著 
 
 天文二年(1542)信玄、二十二歳
 長野県茅野市上原
 城将 高遠顔継
 
晴信の諏訪攻略に荷担した高遠額継は諏訪領を占領した武田方の処遇を不服として諏訪上・下社の禰宜一党と伊那の藤沢額親とひそかに謀議して武田軍に反旗をひるがえした。
九月十日早朝、武田軍が警備する上原城を襲い、諏訪社の実権を取りもどした。翌三日、府中館(甲府)の晴信、騎馬隊を集結、諏訪頼重の遺児虎王(生後六カ月)を先頭に晴信はその後見人という陣立てで信州へ入り、抵抗する信州勢を追い払って上原城を奪還。さらに諏訪領全域で掃討戦をくり返して完全に諏訪領を占領した。政治の具に供された虎王は間もなく死亡、未亡人になっ
た頼重の妻禰々も翌存二月十九日、十六歳で薄幸の生涯を閉じた。
 
敵将の妾になった美姫
『武田信玄百話』坂本徳一編 一部加筆
 
 晴信によって滅ぼされた諏訪頼重には、一男一女がいた。二男は晴信の妹で正室掛かとの間に設けた京王、一女は小笠原長時の家臣小知氏の娘が側室と
なってもうけた娘だ(この娘が、のちに晴信の側室となり、一子勝頼を生んでいる)。名前は不詳。この名無しの女人を小説では、井上靖『風林火山』に由布姫、新田次郎『武田信玄』には湖衣姫と創作されている。
小説ならともかく、名前が伝承しない場合は、一般的に姓や地名でよぶことになる。したがって、この女性も諏訪姫、あるいは諏訪御科人という。
 信虎の三女禰々は、武田と諏訪の友好のあかしとして天文九年(1540)頼重に嫁している。時に禰々十三歳。いわゆる政略結婚である。武田から送れば諏訪からも質を出さねばならない。人質の等価交換である。こうして甲府へ送りこまれてきたのが諏訪御科人である。年は禰々より、一つ二つ下である。
 諏訪氏は、神氏ともいい、諏訪神社の祭神建御名方命の子孫といわれる信濃一の名家である。諏訪御科人は名家の気品と、目のさめるような美貌をもつ女性だった。晴信にはすでに正室三条夫人がいたが、日増しに美しくなる諏訪御科人に惹かれ、いつしか側室にしたいと思うようになった。だが、諏訪氏の生家はすでに滅び、その滅ぼした張本人が、当の晴信である。諏訪御科人にとって晴信は父の仇敵である。重臣の根垣信方、甘利虎奉らはこぞって反対する。
「そればかりはなりませぬ。側妾であっても敵方の娘、いつ殿の寝首をかくやも知れませぬ」
 だが、ただ一人、新参者の山本勘助だけは意見を異にしていた。
「諏訪家の娘が側室になれば、諏訪家の旧臣にとっては武田の親族衆の藩屏になるということで身の保全が計れましょう。しかも、もしそのお腹に御子が誕生したならば、諏訪家を再興できるかもしれないと望みをかけ、武田家譜代の臣にまけぬ忠勤をはげみましよう。また武田家にとっても、諏訪は信濃統一の喉元にあたる重要な地、旧主を温存することは、諏訪の領民を慰撫する最上の方策かと思われます」
 両家にとって得なことと意見を述べた。勘助の考えに重臣たちは返す言葉もなく、晴信は、晴れて諏訪御科人を側室に迎えた。
 おそらく諏訪御科人にとっても、生きる意味を問い直す運命のわかれ道だったであろう。晴信に愛されて是か非でも男子をもうけ、諏訪家を再興する、これが戦国乱世の敗将の娘の生きる道だった。
 二人の祝言が行なわれたのは、天文十二年(1543)十一月十五日であった。頼重が謀殺されて約一年後、諏訪御科人十三歳である。待望の男子が生まれたのは、それから三年後の同十五年十二月のことである。四郎勝頼である。武田家の男子は、代々「信」の字がつくが、勝頼は勘肋の言う通り諏訪家の相続と定められていたから、頼重の一字をとって勝頼と命名された。この勝頼が、諏訪家ばかりでなく、やがて晴信(信玄)の跡目を継いで武田家の総帥となる。しかし諏訪御科人は、そんなわが子の晴れ姿を知らない。弘治元年(1555)十一月、わずか十歳の勝頼の行く末を案じながらこの世を去った。行年二十五。その墓は、高遠城主になった勝頼の計らいで高遠町の臨済宗建福寺に移された。
 

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