信玄 安国寺の合戦
『武田信玄の全て』磯貝正義氏著
天文二年(1542) 信玄、二十二歳
長野県茅野市宮川
対戦武将 高遠頼継
諏訪領の正統の後継者であると自負する高遠頼継は、武田軍の諏訪支配に最後まで抵抗した。顧継は伊那の藤沢頼親を後ろ楯に干沢城に拠り、武田軍の甲信寸断をはかった。安国寺を挟んでの武田・高遠の決戦は九月二十五日白昼にはじまり、約六時問の合戦のすえ、高遠軍は頼継の弟頼宗ら七日余人の戦死者を残して高遠城へ向かって敗走した。武田軍の戦死は五十余人だったと伝えら
れる。
信玄 高遠頼継の反乱 安国寺合戦
『武田信玄百話』坂本徳一編 一部加筆
上伊那郡の高遠城主、高遠頼継は、諏訪の惣領家を継ぎたいために、武田晴信に味方して諏訪家滅亡の一翼を払なったのだが、その戟後処理は、頼継の望みとはかけ離れた不満足なものだった。
晴信は、諏訪平を南から北へ流れて諏訪湖に注ぐ宮川を境として、上原城のある東側を武田領とし、西側を頼継の領地としたのである。頼継は不服だ。これではなんのために武田方に加担して諏訪本家を滅ぼしたのかわからない。晴信は一兵も損なうことなく、諏訪の半分を手に入れたのだ。諏訪本家を名乗り、諏訪地方の領主とならなければ意味をなさないのである。
頼継の怒りはつのるばかりだった。そして、ついに、諏訪家滅亡に功のあった諏訪上社の禰宜・矢島満清と謀り、新たに上伊那郡の福与(箕輪)城主・藤沢頼親と結んで、反武田の狼煙をあげた。天文十一年(1542)九月十日のことで、この日の早朝、頼継は、武田の守備兵がいた上原城を急襲した。城兵は戦わずして甲斐へ逃れた。
この報はその日のうちに甲府の晴信にもたらされた。晴信は、頼継の暴発を待っていたふしがある。晴信は十一日未明、根垣信方を先発隊として出撃させ、自身は、諏訪頼重の遺子で、生後六カ月の寅王丸を擁して、十九日に甲府を出発。寅王丸の母は、晴信の妹禰々だ。京王丸は名目だけにせよ、諏訪家の当主だ。伯父である晴信は、その後見入として諏訪に乗り込んだのだ。
晴信の策は当たった。貴王丸という錦の御旗をかかげた晴信に、諏訪氏の一族や旧臣、領民はなびいたのである。頼重の叔父満隆、満隣をはじめ、矢島氏や千野氏など有力な旧臣が、寅王丸のもとに参じた。二十四日、晴信は京王丸をともなって諏訪大社に願をささげて戦勝を祈願した。
合戦の火蓋が切られたのは、翌二十五日未刻(午後二時)である。高遠町に抜ける杖突峠の茅野市側の登り口に、臨済宗安国寺がある。この寺は、室町時代に足利尊氏が諸国に建立した安国寺の一つで、諏訪家の菩提寺となっていた寺で為る。両軍は宮川のほとりの安国寺の門前で激突した。
武田軍騎馬五千に対して高遠軍二千五百、兵力の差に加えて武田軍には、寅王丸という大義名分があったから、戦いは一方的に武田軍有利のうちに展開された。
高遠軍はしだいに追いつめられ、後方の樋沢城まで後退したが、そこも支えかねて、日没を待って杖突峠をこえて命からがら高遠城へ逃れた。
晴信は敗残の兵を掃討するために、駒井高自斎政武(『高白斎記』の著者)を伊那に派遣した。高自斎は一千の兵を率いて杖突峠をこえて上伊那郡に入り、高遠から一拠に藤沢頼親のいる箕輪の福与城を攻めた。駒井勢を支えきれなくなった頼親は、二十八日に降伏した。高遠勢は頼継の弟頼宗をはじめ七百余名が戦死し、諏訪上社の禰宜矢島満清は他郷へ逃亡した。
世にこれを安国寺合戦という。晴信はこの戦いによって諏訪地方を完全に掌握した。諏訪は、この後、晴信の信濃経略の重要な根拠地となっていく。なお、頼重の遺子京王丸は、この後まもなく死亡。その母禰々も翌天文十二年に矢と子供の後を追うように十六歳の短い生涯を閉じた。諏訪家の血筋をひくものは、諏訪御科人ただ一人となり、その腹から勝頼が生まれるのは、それから三年後のことである。