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武田信玄 諏訪攻略

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武田信玄 諏訪攻略
『武田信玄の全て』磯貝正義氏著 
 
  天文二年(1541) 信玄、二十二歳
  戦場   長野県諏訪市一帯
  対戦武将 諏訪板重・板高兄弟
信虎追放後一年、沈黙の晴信は六月二十四日、諏訪攻めの号令を出した。諏訪領の諏訪頼重・頼高兄弟と同族の高遠頼継、諏訪上社の矢島満継、下社の大祝金剃ら禰宜一党の反乱に便乗し、晴信は高遠派と結託して妹の夫君である頼重を滅ぼすための出陣であった。途中、大熊口などで諏訪軍と対戦、諏訪方の重臣千野伊豆入道、千野南明庵らが戦死した。
七月四日、諏訪氏の居城桑原城を包囲した武田軍は頼重に和議を申し入れ、頼重兄弟を甲府へ護送した。晴信は諏訪攻略の緒戦で成功し、信濃通の板坦信形を上原城(茅野市上原)の城主に命じ、諏訪守護代に任命した。晴信独立して初めての合戦だった。甲府へ送られた頼重・頼高兄弟は東光寺で謀殺された。
 
武田軍の諏訪乱入
 『武田信玄百話』坂本徳一編 一部加筆
 
父信虎を追放して甲斐の固守となった晴信。その若き当主をとりまく四隣の情勢は、南の駿河には三河進出を狙う今川義元がおり、東の相模には北条氏康がいて、上杉氏を追い関東を席巻しようとしていた。
 ところが、北の信濃は山と山が入り組んで幾つもの盆地をなし、その盆地の一つ一つに城を構えた独立国があった。北信の村上義清、中信の小笠原長時、木曽には木曽義昌、高遠には高遠頼継、そして諏訪には諏訪頼重という具合であった。いうなれば群雄の分立割拠で、信濃ほど平定のむずかしい国はない。だが、反面、それらの勢力を一つ一つ潰していけばいいわけだから、容易な地ともいえる。
 晴信は、甲斐と北の境を摸する諏訪地方に狙いをつけた。諏訪は諏訪湖をかかえて地味豊かな地方である。湖岸には上社と下社に分かれる諏訪神社が鎮座し、全国に散在する七千余社の総本社として崇められていた上社と下社は本来、括抗関係にあったが、上社の大祝、諏訪頼満が下社の大祝、金刺氏を攻めてからは、上社大祝が諏訪一帯の領主をつとめていた。頼満の孫が頼重である。諏訪氏は、袖代からの名族で、その居城は諏訪湖の南、永明山の一峰にある上原城(茅野市上原)である。
 晴信の諏訪攻略の機会は意外に早くやってきた。上伊那の高遠城主高遠頼継は、かねてから「諏訪の惣領はこのわたしである」と主張し、頼重と対立していた。南北朝期、頼継の祖である信濃権守頼継が、兄にも拘わらず高遠家を継ぎ、弟の信嗣が惣領職を継ぎ、諏訪と高遠は本家と分家の間柄となった。このため分家の頼継は何世代も前のことを持ち出して、諏訪本家の頼重を追い出し、その地位に座ろうとしていたのだ。
 反頼重派はまだいる。諏訪下社の大祝、金刺氏も上社に押されっぱなしの勢力を挽回しようと考えていたし、頼重の膝元にいる上社の禰宜矢島満清も、主頼重とはそりが合わず、ひそかに頼継と気脈を通じていた。
 諏訪には、高遠頼継、禰宜矢島満清、下社大祝金刺氏という頼重排斥の包囲網ができていた。晴信はこのグループと手を結んだのである。晴信とグループの頼重打倒計画はきわめて秘密裡に運ばれた。
 こうして晴信は、国守となった翌年の天文十一年(1542)六月十五日に大軍を率いて甲府を出発した。
この報が上原城の頼重のもとに届いたのは、二十四日夕刻であった。だが頼重は半信半疑だった。というのも、頼重の正室は信虎時代に嫁いだ晴信の妹禰々で、二人の間には二カ月前に嫡男の寅王丸が誕生したばかりだ。頼重は「どうせ高遠勢の流言だろう」くらいしか考えず、あくまで諏訪・武田の同盟を信じていた。
 事態をはじめて認識したのは、それから四日後の二十八日である。頼重は慌しく兵を招集した。上原城から法螺貝や太鼓の音が響いたが、集結したのは騎馬が百五十、徒士が八百にすぎなかった。近隣の諸豪に援軍要請の使者も間にあわない。四日間の空費はとり返しが甲信国境をこえた武田軍は、二十九日に御射山(富士見町)に陣をしいた。この武田勢を、諏訪方の物見は騎馬二万、徒士二万とみた。恐怖心からくる過大な読みだったが、こ、の恐怖心はそのまま頼重のものだった。家臣から武田方に夜襲をかけましょうと案が出されたが、頼重はその決断もつかぬほどであった。
 
馬場信房、諏訪を平らぐ 『名将言行録巻之九』 
信房、諏訪大社にて敵情を探る
 信房末だ教来石に居たりし時、信州の諏訪明神に日詣をしけり。後には大祝もに知る人になりて、懇(ねんごろ)に言替はしつゝ、何事の願ありて、斯く計り厚く信心を凝し給ふにやと問ふ。信房、某は甲州の小給人にて候が、年々軍の供えの当るが迷惑にて、陣用意の当らんと覚ゆる時は、此明神へ参詣して候へば、不在なれば力なく陣の供を外れ候と答ふ。
祝の心には、臆病至極の男哉と思へども、甲州の風聞を探り知らんには、此男能き方人と、猶も労はりければ、武田家に事実を少しづゝ語る程に、祝弥々芳心を加へ、様々の引出物して酒を進め杯しつに信房快よげに、酒を飲み、遂に沈酔して前後も知らず臥したりけり。
祝、之を見て、密かに信房が刀脇差を抜き見るに、赤く錆て、実に見苦敷物なれば、速に鞘に納め、燧袋(ひうちぶくろ)臂袋(ひじぶくろ)之を開き見るに怪むべき程の物なく、但是在住の足軽に疑なし。
信房、諏訪に住む
是に於て祝曰く、御辺は軍に出ること嫌ひ給はゞ、此明神の氏人と成りて、此神郡へ移られなば、永く兵仗の難を免かれ給はんと勧むれば、信房大に喜びて、忽ちに甲州の産を収めて、諏訪へ移る。祝則ち神郡の内にて、山深き所に住ましむ。
信房、諏訪に存ること凡そ三年、諏訪郡の内の案内悉く熟知せり。依て時々甲州に至て、内外の消息を求めて、祝等に告げ知らす。祝等も信房の愚直を隣み、神郡の大小事、之を秘するに及ばず。
信房悉く諏訪の所置を見定め、爰を攻て彼を取り、彼を討たば、爰を疾ましむべきと云ふことを考へ、偖(さて)甲州へ帰り、晴信を勧めて、諏訪を撃平げたり。 

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