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甲斐駒ヶ岳開山の真実 二

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南アルブスの北端に響える鋭峰甲斐駒ケ岳開山に秘められた伝説と史実
『歴史読本』「歴史の旅 特集 ふるさとの山河」昭和448月号
 藤森栄一氏著 一部加筆
「駒ヶ岳講、そうだ、その開山だ」

権三郎初登攀(尾白川溯上)に失敗


総領の亀次郎を家事に、今右衛門は幼い次男権三郎の訓育に打ち込んだのはそれからである。


 訓練(修行)は苛酷を極めた。走る。岩を攀じ登る。断食をする。水を断つ。眠らせない。その他、権三郎はその都度泣きさけんで嫌がったが、今右衛門は呵責なく鍛えた。つまり、権三郎の幼年は、甲斐駒ケ岳開山の悲願だけに、常住座臥の一切がしばられていたわけである。


訓練(修行)は苛酷を極めた。走る。岩を攀じ登る。断食をする。水を断つ。眠らせない。その他、権三郎はその都度泣きさけんで嫌がったが、今右衛門は呵責なく鍛えた。つまり、権三郎の幼年は、甲斐駒ケ岳開山の悲願だけに、常住座臥の一切がしばられていたわけである。
 文化十年(1813)六月、今右衛門は十七歳の権三郎を、尾白川(白州町白須)徒渉(としょう)点に、十日分の乾し飯を与えて放置した。放置したと言う書き方は、おかしいようであるが、今右衛門の執念にとって、既に、権三郎は条件反射学の実験動物のようなものであった。この川筋をつめて、頂上を極めて帰える他、生きて上古田へ帰る方法はないと、固く信じさせられたのである。
しかし、その尾白川遡上は失敗だった。今右衛門には渓谷遡上の技術的むずかしさについては、何の知るところは何もなかったのである。
尾白川には、三の滝から始まって、現今の登山技術でも遡上不可能な千丈滝まで、数個所の滝がある。小説風に云うなら、その滝のいくつかを遠く巻いて昇り越え、とうとう、どの滝かで、進退極まって倒れた権三郎の苦闘が描写される筈のところであるが、実際には、それが、一向に分かっていないのである。ただ、分かっているのは、滝に身半ばをつかり、倒れていた権三郎を、岩魚釣りの樵人が発見して背負い降ろして、麓、北巨摩郡横手村(現白州町横手)原の旧家旅籠山田孫四郎宅に収容、命拾いをしたことだけである。
権三郎、上古田に帰る
溯上失敗で上古田に帰った権三郎に、今右衛門の激しい再訓練が、また一年続いた。今度は渡渉と、滝をまく技術にしぼられた。
権三部、大武川本谷へ
 権三部は翌年夏、今度は大武川本谷へ入った。滝をまく訓練は八ヶ岳の渋川・柳川の渓谷での猛訓練があったのだろう。この年は行程が割合にはかどったし、記録もある。
それは、第三日日の「子別れ」の岩陰までは、今右衛門が、鉈を持って、荊棘を伐る手助けをした日記が残っている。気の急ぐままの陣頭指揮というところでもあろうが、日記も無愛相な候から候でつながった候文で、頗る難解である。
 
本谷ハ水少クテ候、一ツ二ツ左方ヨリノ沢ニ出合ヒ候、倒レ朽チタル木、流し積ミタル木柏重居候水ドニ歩ヰ難ク候、透ニ落チ程ニ権三郎ガ声存天ニキコエ候ホドニ候
 
 以上は、ほんの大武川本谷切入口の描写である。流木倒十本が本谷いっぱいに積み重なって、水は造か深い渓底を流れていた状態がわかる。文化十年(1813)の夏は、中部日本に大旱魃のあった年である。大武川の水量が甚だし
大武川遡上
 今右衛門の手記は、百年前の山の博物誌をみるようである。
 
一の沢、二の沢の出合を渡って、赤薙の沢をすぎたところに、小さな滝があった。もう二日目の夕暮れだった。滝下の深い淵に、真っ黒な水が深々と沈んでいる.岩漁がしきりに腹をひるがえしては、空気を吸っている。水をくむため蔓で吊った鍋を下ろしてやると、数匹の岩魚が躍りこんできた。ふとみると、魚を追って、白い腹をひるがえしているのは、二匹の獺(かわうそ)である。
 
と書いているが、これはハンザキではなかったろうか。鍋の湯で蕎麦粉をかいて喰ったと木喰戒らしいことを書いているが、むろん、腹一杯に岩魚を喰って栄養をとっただろうことは、今右衛門の言動からみて明らかである。
 
三日目には、出発するとすぐ、上下につらなる滝に合った。水はほとんどない、二人して真っ白の御影石の滝をよじ登って見ると、そこの瀬は僅かに五六寸の水が残り、一尺もあろうと思われる岩魚がひしめき合って、今にも自ら溢れ出しそうであった。二人は夢中でそれを撲殺し、焚火をして炙った。谷の水はいよいよ涸れていった。左からの小さな沢を越えるとき、今右衛門が大きな棘(とげ)を踏み抜いた。枯れていたので斬れてしまい、今右衛門は小束で掘り出し、煙管のヤニと吸殻灰をまぜて、そのあとへ塗った。
 右側からめ沢はかなり水量があった。駒ヶ岳主稜から出るはじめての沢だった。遡上をあきらめた彼は、すぐヒョングリ(ねじれた)かえった大きな滝に当ったからである。このとき、リスの大群が一斉に滝の上を渡ったのをみた。
 この辺の倒木のびどきは、谷の上に倒れては重なり、朽ちてまた倒れ、二人は掛橋のような樹幹を渡り、いくども転落し、荊(いばら)に全身をとらわれた。ヒョングリの滝を攀じ登ると、異臭がはげしく鼻をつき、思わず二人は顔を背けた。沢は案外に平坦で、水はすっかり涸れ、そこは見渡す限りの岩魚の墓場だった。両岸は灰色の嶮しい断崖が立ち並び、高巻のしようもない。二人は嘔吐を催しながら、岩魚の死骸をグチャグチャと踏み込んで、夕暮れまで沢身を進んだ。
 三日目の夜、赤い岩石の多い沢の脇に、恰好な岩陰を見つけて、背中の岩魚を降し、包を開くや、二人は嘔吐した。午前焼いた魚が凄い悪臭を放つのである。手も脚も、衣類も、二人はとうとう、何も喰わずに倒れこむようにそこへ眠った。今右衛門は夜中うなされどおしで朝を迎えた。
 
今右衛門の手記はここで、実況から離れてしまっている。その夜から、右足が腫れ上り、彼は一歩も歩けなくなって、大変な発熱である。それから上は、権三郎一人が登ったのである。権三郎はいくつかの滝をよじ、谷をつめて、仙水峠の向いの沢を、直接、駒主峯に挑んだらしい。そして、屹立てする摩利支天の裏白な花崗岩の巨塔に、空しく追いかえされたものと想像される。
 今右衛門の言う子別れの石室から、傷ついた今右衛門を負って、大武川本谷から脱出すると権三郎の苦闘は、今右衛門の手記によれば、当今むきな、ちょっとした残酷物語だが、先へ急ぐことにする。
 谷を遡上するより、下ることが、いかにむずかしいか。それも片脚きかない熱病患者をかかえてである。二人は横手村の山田孫四郎邸に再び倒れ込んだまま、三月を、そこに過していることでもわかろう。
 
山上弥陀来迎の図
 三年目の文化十三年(1816)六月、権三郎は、始めて、稜線を辿って行く正攻法をとった。前二回の谷登りの苦い体験から学んだものであろう。上古田区有の自画、延命行者開山の図を見ると、どうも、この三回目も、単独行でなく、サポーターくらいは連れていったらしい疑いがある。岩に憩っている権三郎の図には荷物らしいものが全くないからである。しかし、二回目とちがって、今右衛門は同行しなかったことは確かである。足が回復していなかったのかも知れない。そのため、権三郎は手記を残していないので、コースの詳細はわからないが、横手村原の山田家を根拠に、笹ノ平、黒戸山稜線から、五合目、七各目を過ぎて頂上を極めるか現今の正面登山路を開いたものと思われる。
 肝心な初登攣のデータがはっきりしないのは、何としても残念であるが、若干の手がかりはなくもない。
まず、前出した「駒ケ嶽開山威力不動尊由来記」によれば、
 
権三郎乃ち腰の数日の糧として蕎麦粉を用意し、独力草、荊棘を切り開かれ、万古不伐の秘境に入り給ふ。此の如くにして、糧尽き、力極まりぬれば、乃ち家に帰り、力を養ひ、糧を携へて再び深山に分け入り、樹を亘り、岩を鬱じ、嶮岨身の毛もよだつ絶壁を伝ひ、岩下に臥し、飢餓と戦ひ、草根を食し、辛苦を重ねて、神明仏陀の加護により、
遂に頭上を極め、天日と共に、弥陀来迎を拝するを得たり。時に文化十三年(1816)六月十五日、御歳正二十歳の時なり。
 
 以上のような次第で、まあ、初登攀成功と言うわけであるが、どうもマスコミ文書風のきまり文句で賞讃だけに終っているのがさみしい。どうも、ここまで来て残念な次第である。
 私は再び上古田を訪ねて見ることにした。
文献は既に出尽して研究しつくされたようなので、区内の口碑伝承のたぐいを聞いてまわった。結果、案外にたくさんな、いろいろな咄が集まってきた。
 子供の頃、胎児の性別月数を言い当てて叱られたこと。どうもこれは、あまり頂けない話で、例の枝に呪縛された鶯の話と同じ、大人の作意がうかがえる。
 「大智は却って愚かなる如し」といった風格だった。おそらくこれこそは真を伝えたものだろう。それは自画像からも言えることだ。草根薬種の術に詳しかった。これは行者の常識。寒に入ると、寒行をして、普く人類の災難病苦を救った。どれも手掛りというほどのものはない。
 大法徳、近郷に聞え、遠くは甲斐、武蔵、相模、近くは伊那、筑摩から、善男善女が集った。これは、駒ケ岳開山の利徳といえそうである。もちろん、今右衛門の初願は叶えられたわけで、寒村上古由村の願いも見えるようである。
 ところで、信徒・門人を集め、自分の死期を予言した。そして、その予告した日の「同時刻に死んだ。これは少々おかしい。今までの挿話はまあ良いとしても人間の命、これは当るかむしれないではすまないことである。
 威力不動尊堂、即ち延命行者墓へまわった。遺骸は上古田村を眼下にした、八ヶ岳泥流台地の一つ、棚畑の上に、榧の木の木立に囲まれていた。眼を上げれば黒い程に青い空の下、入笠山を踏まえて、真っ白な聖三角、駒ケ岳の岩峯か望まれる。
付近は一面のローム層火山酸性土質で、黒土はほとんどない。これでは、掘って見るまでもなく、遺骸は死後五十年を経ずに、とうの昔に、朽ち果てているだろう。墓碑は大きな自然石で、
「駒ケ嶽開山功徳院威力不動尊・文政二年(1819)六月十五日」
と刻んである。私はそれをノートした。六月十五日、これが予言した日であるが、何か記憶にある日付の様な気もした。其の日付、六月十五日が、駒ヶ岳初登攀の当月だったとことに、気がついたのは、不覚にも十日も後のことであった。これはいったい、どうしたことだ。延命行者は、開山の日に死ぬことを予言したのである。
関山と死と、何か関連があるのだろうか。「駒ケ嶽開山威力不動尊由来記」をいま一度、読み直してみた。あった。最後に不可解な文句があった。
「遂に頂上を極め、天日と共に、弥陀来迎を拝するを得たり」
天日はわかる。おそらく、深い霧の中だったのを、登頂すると同時に、僅かだろうが陽が射したのだろう。そうすると、弥陀来迎は阿弥陀如来が見えた、これは何だ。そうだ。ブロッケン山の怪だ。
ウインパァの『マッターホーン登攀記』の中で、七名のうち四人のメンバーが、下山のロープ切断によって、墜落した直後に、空中に浮ぶ巨大な十字架を見ている。天保五年(1834)に日本アルプスの槍ヶ岳を開山した播隆和尚の手記が、松本市の日本民俗資料館に残っているが、これにも、この現象の記述がある。
深い霧の中を別けて、播隆が槍の肩から、突端にはい上ると、一瞬、密雲は霧散し、陽がさすと同時に、
「霧の中に、弥陀の大尊像を拝す。恐懼して踞拝せんとするや、そも如何に、尊像たちまちにして消え給ふ」
と書いているのは、やはり、この「ブロッケン山の怪」の現象で懸る。自分の影であるだけに、伏し拝すると同時に消滅する筈である。霧の中に、巨大に動く虚像窄が、西洋人には十字架に見え、日本の修験者たちに、阿弥陀尊像に見えるのも、それぞれ、高山の雰囲気のうちであっては、無理からぬことであろう。
 延命行者は甲斐駒の頂上で、自分の影を、弥陀来迎の図と考え、六月十五日を自分の忌日と信じ込み、また、意識的にその日に死んだのだろうか。
 そうすると、仏画に一般に見られる「山越弥陀来迎之図」、が、延命行者の脳中には,抜き難い程に染みこんでいたのに相違ない。
 墓参者した後、私は現存する、小尾宏を尋ねて見た。かつて、大きな屋敷跡だったらしいセロリーの畑の片隅収残った、その辺の農家と一向に変らない、「ひっちく」な建物だった。
要は今右衛門・権三郎という二人の人間の執念によってわずかに消えてしまわないですんだというにすぎない。当主は信太郎、権三郎の兄、亀次郎の曽孫に当る人である。この人も丸顔なおだやかな人柄に思えた。小尾家は次の受取証が一連保管されていた。
 覚え
一 理趣分  一巻
一 大刀   一振
一 袈裟   一
一 独鈷杵  一
一 三鈷杵  一
一 五鈷杵  一
一 御山掟書 一
一 難病除札 一
 〆 九品
 右之点為筐と被下御送慥論敬申候 以上
文政二年八月 甲州北巨摩郡横手村 山田孫四郎 
信州諏訪郡上古田村 小尾今右衛門殿
  
死と繁栄
 横手村原の山田孫四郎家は、当主瑞穂さんでいまは白須町の助役をしていた。二階の大きな家は森閑(しんかん)と留守だった。権三郎の遺品はみせて貰えなかったが、四月二十一日の駒表口の山開きには、駒ヶ岳神社の本社で、開山の遺品は年に一度だけ展示されるそうある。私は神社へ行って、初代孫四郎以来の 行者の流れをくむ今橋幸雄さんと奥さんに、いろいろな話をきいた。今橋さんも甲斐駒の初登攀は権三郎かどうかわからない。前にも誰か登ったのではないかという意見だった。
 それが、東山田村の善心かどうかなど、むろん調べる方法もないし、また権三郎のみた地上阿弥陀来迎は三尊仏で、たしかに二人のパートナーがいたらしいということ、そのうち一人は今右衛門か、一人善心の亡霊では、などというミステリーもでた。(後略)

甲斐駒ヶ岳の二人【文中註】甲斐駒ケ岳(二九六五・六m
▽下りの中央本線に乗って甲府を過ぎると、左手の車窓に甲斐駒が見え出す。ピークの左側に摩利支天の岩峰をつけたドッシリとした偉容は、連なる山並の中で一際高い川四季おりおり、中央線に乗るたびに眺めるその姿は、甲斐、信濃路への旅の楽しみの一つである。
▽中央線韮崎駅から竹宇駒ケ岳神社まで約四〇分。ここから笹平、黒戸山、五合目と黒尾根を辿るのが、甲斐駒登山の最もポピーラーなコース。夏は駒ヶ岳神社から尾白川谷沿いに五合目に至るコースもいい。どちらのコースをとっても七合田の小屋まで(七~八時間)が、第一日の行程である。
▽翌日、南に鳳凰三山をその後ろに聳える富士を眺めながら、頂上まで二時間余。途中に信仰の山らしく古い鉄製の宝剣や石標が立つ。帰路は、黒戸尾根を引き返すか、仙水峠、北沢峠を経、戸台川を下って伊那に出る。戸台から飯田線伊那北駅までは、バスで約一時間である。また日数に余裕があれば、仙水峠から早川尾根を経て鳳凰三山へ縦走するのも良いし北沢峠から仙文岳に登るのもよい。

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