Quantcast
Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

武田信虎は暴君か

$
0
0
武田信虎は暴君か
『武田信玄百話』坂本徳一編 一部加筆
 武田信虎は、悪逆無道の暴君だったという。『武田三代記』によると、信虎は妊婦の腹を裂いて胎児を見たいと言い出した。妊娠したばかりの女から臨月の女まで十人の腹を裂いて、胎児の性別を調べた。領民たちは恐れおののき、老臣が諌言すると、その者を手討ちにした。
 また、野良で働いている百姓を標的にして鉄砲の試射をしたり、白毛の大きな猿を飼って、家来にこれをけしかけて喜んだという。こうした粗暴な性格は最晩年になっても変わらず、八十歳をこえた信虎が、信州伊那で初めて孫の勝頼と対面したとき、伝家の名刀左文字を抜き放って
「おれが壮年のころはこの刀で五十人あまりを手討ちにしたが、内藤修理と名乗るやつの兄を袈裟がけに斬ったときは心地よかったぞ」
と語ったともいわれている。
 以上の乱行が事実なら、尋常な神経とは思えない。信虎が後年長男の晴信に駿河へ追放されたとき、同情を集めなかったことも暴君の証拠とされている。同情されるどころか、
「地下、侍、出家、男女共に喜び満足致し候こと限りなし」
「信虎平生悪逆無道なり。国中の人民牛馬畜類共に愁悩せり。(略)辛丑六月中旬駿府に行く。晴信万民の愁を済はんと欲し足軽を河内境に出しその帰道を断ち、位に即き国々を保つ。人民悉く快楽の咲(わら)ひを含む」
ということで、人々は拍手喝采して信虎のいなくなったのを喜んでいる。前は『妙法寺記』、後は『塩山向嶽禅庵小年代記』の記述である。
 信虎は確かに粗暴な性格の持ち主だったろう。また相次ぐ合戟のため、徴兵と重税を繰り返す苛酷な領主であったから、領民からは嫌われていただろう。だが、『武田三代軍記』にもウソがある。信虎のころは鉄砲が伝来していなかった。臨月の女の腹を裂く話は、類例が多すぎる。家臣の手討ちは信虎に限った話ではない。この種の〝残虐談″は、洋の東西を問わず暴君といわれた人を語る場合必ずといっていいほど出てくる。
『日本書紀』にはい人を木に登らせたうえその木を切り倒し人を押しつぶして喜んだり、裸にした女を馬と交合させて楽しんだりした暴君武烈天皇が、やはり女の腹を裂いて胎児を見たとある。信虎の暴虐ぶりは、あまりに類型的で真実味に乏しい。
板垣信方、信虎を語る
 『甲陽軍鑑』は品第十九で、信虎を追放した後にわかに行跡が乱れ、夜昼のけじめもなく狂ったような生活を送っている信玄を、重臣の板垣信方が諌めたことを書いているが、その諌言の中で信方は信虎についてこう言っている。
「信虎公は重罪の者もさほど罪のない者も、同じよぅに成敗されました。ご自分がお腹立ちのときは善悪の区別なく処分されて、お気に入りの者ならば一度背いた者にも所領を下さり、忠義の武士で何の罪もない者をお許しにならないなど、すべてに逆のご処置をなさいました (略)」
つまり信方は、独裁者にありがちな、信虎の不公平で思いつきの人事・賞罰を批判しているのである。そしてこの辺のところが、家来から見た暴君信虎の本当の姿だったのではないだろうか。
 粗暴と勇猛は紙一重で、強い信虎だったからこそ、甲斐の統一もできた。しかし無理に無理を重ねた代償として、無理を強いた人々から誇張した非難も受けねばならなかった。

イメージ 1



Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>