武田晴信、父信虎を追放
『武田信玄百話』坂本徳一編 一部加筆
天文十年(1541)六月の初め。佐久口から信濃に侵入した武田信虎は、目標とした小県郡の滋野一族の勢力を駆逐したのをはじめ、各地で連戦連勝して甲
府に引き揚げた。そして同月十四日、娘婿の今川義元の招きを受けて、側室四人、供侍数人を伴い、物見遊山のいでたちで駿府へ向かった。四十八歳だった信虎は、以後八十一歳で死ぬまで甲斐の地は踏めなかった。
信玄の行動と考え
長男の晴信が軍兵を派遣し、甲斐と駿河の交通を遮断して帰路を塞ぐなど、信虎は考えてもみなかっただろう。晴信は、義兄義元を事前に説得し、父親の追放を断行し、みごとに成功させた。信虎に従って駿河へ行った家来たちも、妻子を晴信に人質に取られているため、信虎を残して甲斐へ帰って来た。
なぜ晴信は、このような思いきった行動に出たのか。粗暴な独裁者の信虎は、領民から恐れられ疎まれていたことは前項で触れたが、家臣たちの中にも、いつ信虎の怒りを買うかと、戦々恐々の毎日を送っていたものが少なくなかったことは確かである。
この者たちの何人かは、わが身の危うさばかりか甲斐の前途にも不安を抱き、晴信と計って主君を追放したのだろう。
また信虎・晴信父子の関係も、決して良好なものではなかった。
『甲陽軍鑑』が記すような、晴信の戦功を称賛するどころか、逆に冷笑したり、元日に次男の次郎信繁には杯を与えながら、長男の晴信を無視したり、
晴信を追放して信繁を後継者に選ぶ様子を見せたり、信虎の態度がすべて事実だったとはいえぬにしても、根も葉もない虚構ではなかったろう。
自分が追放されるなら、その前に父を追放してしまおうと、晴信が切羽つまってやってのけたかどうかはわからないが、日ごろの父親の仕打ちを思えば、自分の行為にさしたる良心の珂責も感じずにすんだかもしれない。
今川義元は
一方、信虎を引き取った今川義元も、晴信に異を唱えたりはしなかった。家臣を晴信のもとへ送って、信虎の隠居分の知行や女中衆の扱いなどについて交渉させている。
つまり、食客としてめんどうをみることを承知したのである。
義元は、剛の者の舅の信虎が自分の思うようになる男でないことを十分に知っており、義弟にあたる若い晴信が領主になれば甲斐のことにも干渉しやすくなると考えて、晴信と手を組んだのだとする『甲陽軍鑑』の説は当たっていよう。
信虎追放は、このように不思議なほどスムーズに事が運ばれ、どこからも苦情が出なかったが、当の信虎もまた、甲府へ帰せと義元に迫った様子もない。嫌いな長男の顔を見て暮らすより、大事にしてくれるむすめ夫婦の世話になる方がいいと信虎は思ったのか。また合戦に明け暮れた毎日に疲れ果て、気楽な隠居の日々に思いもかけぬ安らぎを見いだしたのか。
信虎は、京へ上って公卿と交わったり、高野山へ登ったりして優雅に過ごしていた。しかし、義元が桶狭間の合戟で敗死すると、境遇は変わった。義元の跡を継いだ氏真(信虎の外孫)は信虎に冷たかった。信虎は駿府に居たたまれず、永禄六年(1563)ごろには追われるように京へ上った。そして子の信玄が死んだ後もなお一年近く生き、天正二年(1574)三月五日、信州伊部の娘婿禰津神平宅で没した。