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武田 海ノ口城攻略

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武田 海ノ口城攻略
 天文五年(1536)信玄、十六歳
 長野県南佐久郡南牧村
 城将 大井貞隆 援将 平賀源心
 
 十一月二十一日、父信虎に従い初出陣。八千余の武田軍は海ノ口城を包囲。大雪と必死の抵抗に阻まれて三十四日間、数回にわたり攻撃したが落城せず、信虎あきらめて帰館する。
途中、晴信は三百余騎を引き連れて海ノ口城へ引き返し、油断していた大井軍の虚を衝いて一瞬にして城を攻め落とした。
〔注〕晴信初陣の記録は後年作の『甲陽軍鑑』『武田三代軍記』によるもので確証はない。
 
海ノ口の初陣
『武田信玄百話』坂本徳一編
 
 武田信玄の初陣は、天文五年(1536)十一、十二月の信州海ノ口城攻略であると、『甲陽軍鑑』は書いている。
 さらに『甲陽軍鑑』や『武田三代軍記』は、父信虎の軍に加わった信玄(当時は晴信)が、猛将信虎でさえ攻略できなかった海ノ口城を、知略をもっていとも簡単に落としてしまった大手柄をくわしく述べている。
 佐久海ノ口城は、信州南佐久郡南牧村の山城である。
城主の平賀源心入道は身のたけ七尺八寸【23㍍】をこえる巨漢で、七十人力の怪力といわれた。
 怪物源心入道が、天峻の城にたてこもって懸命に防戦するのだから、海ノ口城の攻略は容易ではない。十一月下旬に始まった城攻めはなかなか進展せず、そのぅちに雪も降り出し、十二月の未となった。包囲三十四日間、それでも城は落ちず、さしも勇猛な信虎も困り果てた。
 軍議が開かれた。このさいいったん囲みを解いて、甲斐へ帰り、来春もう一度攻撃してはどうか、という意見が強かった。
 「大雪ふりて中々城の落べきやうさらになし」(『陽軍鑑』はいい、信虎軍の部将たちは、「城の中には千人ほどの軍勢がおり、急いで攻め立てるこどうでしょうか」「すでに暮れもおしせまって二十六日になりました。われわれが囲みを解いて退いても、雪と年の暮れ、よもや迫撃してくることはありますますまい」と進言した。
 信虎もあきらめ、では明日早々に撤退しようと軍議は決まった。
 そのとき晴信が、
「自分に殿(しんがり)を受け持たせてください」と申し出、信虎に冷笑された。だが、晴信はさらに殿を希望して信虎の許を得た。
 信虎は翌二十七日の明け方、予定どおり牽きあげて行った。
一方、晴信は本隊とともに引き揚げたかに見せかけ、途中で隊を停止させるとそこで陣を張った。三百人の部下には全員に食糧を三食分ずつ配り、脚絆・甲冑も脱がせなかった。
馬にはじゅうぶん飼い葉を与え、鞍も置いたままである。つまり戦闘態勢を解かぬ小休止であった。
 さらに晴信は、「あすの朝は七つ(午前四時)頃出発する。出発のさいには、上戸も下戸も酒を飲んで体を温めよ」と、自身でふれ歩いた。部下たちは晴信の意図がわからない。
「若殿は敵の追撃を恐れておられるようだが、この雪と寒さのなかを、何一
来るものか」
「殿を申し出られて大殿のご不興、をかったが、この怖がりようでは、信虎公のお怒りももっともなことだ」と、小声で言い合っていた。
 つねづね信虎に軽んじられている晴信だ。家来たちの見る目も、自然敬意が失われていく。
 午前四時、出発である。「さて、いよいよ甲斐へ帰れるか」と腰を上げた部下たちに、晴信は、「これから海ノ口城を攻略する。引き返すのだ」と命じた。かつて見なかった晴信の気迫の前に、部下たちは命じられるまま雪の中を海ノ口城めざして駈けた。
 平賀源心入道には、心の隙があった。甲州は全員撤退したものと、疑ってもみなかった。しかし、寄せ手の総大将である信虎でさえ、自軍の一部がもう一度海ノ口城に攻めかかろうとは考えてもいない源心の油断もやむをえまい。
 源心の配下の者、応援の武将、そのほとんどが信虎軍の撤退後、二十七日のうちに城を離れて里へ戻った。
寄せ手を悩ませた籠城組の武士たちも、実は疲れきっていたし、だれしも正月は家で迎えたかった。源心自身も、まる一日ゆっくり休み二十八日のうちには城を出るつもりでいた。城の中には軽輩の者が七、八十人残っていただけで、源心も彼らも、とうに武装を解いていた。
 そこへ、思いもかけぬ晴信の急襲である。とっさのことで、源心も部下たちも、状況がつかめなかった。
わずか三百人の晴信軍の攻撃と知ったら、防戦のしようがあったろう。
 しかし、一万人にもおよぶ甲斐勢が押し寄せたと思い込んでいるのだから、戟意のわくはずがない。城兵たちは逃げまどい、ほら穴や谷底に落ちて死ぬ者もあるあわてぶりだった。なかには武勇にすぐれた者もいたのだが、応戟のいとまもなく討ち取られ、四尺三寸の大太刀をふるって戦った大将源心も、やがて首をはねられた。
 八千の大軍が一カ月余も包囲して落とせなかった海ノ口城を、初陣の晴信が数時間で陥落させたのだから大殊勲である。晴信の名声は、たちまち近隣諸国に伝わった。
 しかし晴信は、大手柄に慢心することなく、討ち取った平賀源心入道を石地蔵としてまつり、源心の大太刀を弓の番所に丁重に置いていた。
 『甲陽軍鑑』などの伝える晴信の初陣の働きは、以上のとおりだが、しかし史実ではないといわれている。信虎は確かに信州佐久を攻めた。
しかし信頼のおける史料である『妙法寺記』(甲斐の日蓮宗道場の一つ、郡内小立妙法寺の住職が代々書き継いだ記録。合戦のことだけでなく、当時の自然、経済、社会の動きなども記されている)は、佐久攻撃開始を天文九年としている。信虎は、天文五年には佐久を攻めてはいない。また、平賀源心入道という豪傑の存在にも疑問が持たれている。
 天文五年は、晴信が元服した年だ。将軍足利義晴の一字を賜わり、名前も太郎から晴信となった。勅使が甲府へ下って来て、従五位下大膳大夫の官位を伝えた。
『甲陽軍鑑』は晴信の元服をさらに華やかに飾るため、信虎の佐久攻めを四年繰り上げ、海ノ口城攻略の初陣の手柄話をそえたのではないだろうか。

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