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古代 天皇の即位・退位は誰が決めた?

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天皇の即位・退位は誰が決めた?
『歴読本スペシャル』特別増刊86-11「日本史そこが知りたい」
 野村忠夫氏著 一部加筆
 
奈良時代つまり律令国家体制下の天皇の即位は、天智天皇が定めたとされる
「不改常典」(カハルマジキ、ツネノノリ)を基調として展開された。この 「不改常典」の内容については諸説が対立しているが、やはり直系相承を基盤にした譲位の方式であったと理解すべきであろう。
具体的にみることにしよう。
 さて、持統天皇十年(696六九六)七月、実質的な皇太子と目されていた太政大臣高市皇子が世を去り、持続女帝は宮中に皇子以下を召集して立太子会議を開いたのであるが、意見の対立するなかで、葛野王が直系相承の理念を強調し、そのため天武・持続の嫡孫で、故草壁皇太子の嫡子である軽皇子が翌十一年二月に立太子し、八月朔に女帝の譲位をうけて即位した。ここに「不改常典」が初めて登場したのである。
即位した文武天皇(十五歳)は、大宝建元、大宝律令施行の後、慶雲三年(706)十一月に病床につき、生母の阿閇(あへ)皇女(天智皇女、故草壁皇太子妃)に譲位の意向を示したが、翌四年六月半ばに生涯を終えた。
約一カ月後、文武の遺詔によって、皇女は「不改常典」に基づくとして即位し、元明女帝となったのである。
 ここで次の皇太子は、直系相承の原理からして、文武の嫡子である首(おびと)皇子であるが、まだ数え年七歳であり、祖父にあたる新興律令貴族藤原朝臣不比等の政界における地歩に支えられて時期を待った。そして和銅七年(714)六月に立太子したのであるが、翌霊亀元年(715)九月、首皇太子が「年齢幼稚ニシテ、未ダ深宮ヲ離レズ」という状況であるとして、かねてから予定されていた氷高内親王(文武の姉、故草壁皇太子の女)に譲位している。
皇太子が心身ともに成長するまでの中継ぎとしての性格が濃厚で、「不改常典」の表示はみられない。
 そして養老四年(720)八月、右大臣不比等が没し、いわゆる長屋王政権が成立するが、翌五年十月、不比等の次男戻前(さき)が内臣(うちつおみ)に任ぜられて、女帝の意向に密着する地位に就いたのは、一つには首皇太子の前途を安泰にする役割を担うものであった。
やがて神亀元年(724)二月四日、首皇太子は、元正女帝から「不改常典」に基づいて譲位され、聖武天皇となった(二十四歳)。ついで同六年二月の長屋王の変をへて、夫人藤原朝臣安宿媛(やすかべひめ・不比等の女)が人臣立后(光明皇后)を達成したのである。
 ついで天平十年(738)八月、聖武と光明皇后とのあいだの嫡女である阿倍内親王(二十一歳)が、まったく異例の女性皇太子となった。その同母弟である基(もとい)皇太子が神亀五年(728)に天逝し、同年に夫人県犬養宿禰広刀自(ひろとじ)が産んだ安積親王があるという状況の中で、嫡系相承の原理と光明皇后の意向とによるものとみられるが、この女性皇太子を仮のものとみる貴族宮人も少なくなかったようである。
しかし、同十六年閏正月に安積(あさか)親王は十七歳で急逝し、天平勝宝元年(749)七月、阿倍皇太子は「不改常典」に基づいて聖武天皇の譲位をうけ、孝謙女帝となったのである。
 ここで配偶者のない女帝の継承者が問題になるが、天平勝宝八歳五月に世を去った聖武太上天皇の遺詔によって、新田部親王の子である道祖王が立太子した。
しかし、翌九歳三月末に女帝は、諒闇(りょうあん)中に不謹慎であるかどで道祖皇太子の廃不を諮問し、右大臣藤原朝臣豊成らの答申によって廃太子が決定された。そして翌四月初めの立太子会議では意見が分かれたが、「女帝が択ぶところに従う」とした大納言藤原朝臣仲麻呂の意見によって、大炊王(舎人親王の子)が立太子している。仲麻呂は光明皇太后と意を通じ、大炊王を自分の田村第に住まわせて、亡男真従の婦栗田朝臣諸姉(もろね)を配侍させていたのである。
 そして天平宝字二年(758)八月朔、大炊皇太子は孝謙女帝の譲位をうけて淳仁天皇となったが、即位にあたって「不改常典」の表明はない。
 この譲位には光明皇太后・仲麻呂の圧力が推測できるが、同四年六月に光明皇太后が世を去ると、孝謙太上天皇の地歩が上昇し、道鏡の処遇をめぐって淳仁天皇との不和も深まって、ついに同六年六月、太上天皇は「国家ノ大事、賞罰二柄」の執行を宣言して、実質的に復位し称徳女帝となった。
 ついで同八年九月仲麻呂(恵美押勝)が乱を起こして敗死すると、先帝聖武から生殺与奪の権を委ねられたとして、翌十月九日に淳仁天皇を廃している。
 やがて神護貴賓四年(770)八月に称徳(=孝謙)女帝が生涯を閉じると、左大臣藤原朝臣永手らは立太子会議を開き、永手や藤原式家の人びとが主導権をもって、天智天皇の孫にあたる白壁王(六十二歳)を擁立した。白壁皇太子は同年十月朔に即位し、宝亀元年と改元されたが、「不改常典」の表現はみられない。直系相承の譲位ではなかったからである。(野村忠夫氏著)

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