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山梨県偉人伝 穴山勝堂

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山梨県偉人伝 穴山勝堂

『郷土史にかがやく人々』第8集「青少年のための山梨県民会議編」
 
穴山勝堂略歴
(本名義平)明治二十三年(1890)二月三日、現在の八代郡御坂町八千蔵の花曲(穴山)慶作の長男として生まれた。四歳の時、現御坂西小学校(当時錦生小学校)に学齢より一年早く入学した。二年の時、母方の叔父和知茂一が山梨師範学校の教員を
していたため、そこで教育されることになり、叔父の家に寄宿して山梨師範学校附属小学校に通うことになった。のち叔父が増穂小学校長に転出と同時に増穂小に転校、同校で高等科卒業まで学んだ。
明治四十一年三月、県立山梨県第二中学校(現日川高等学校)を卒業。その年、近在の小学校の代教員を勤めたが、翌年東京美術学校(現東京芸術大学)師範科へ入学、同四十五年三月ここを卒業した。
大正六年、松岡映丘に師事し、同十年新興大和絵会を起こした。同会は昭和六年に解散したが、同年第十二回帝展に〝夕映えの松〝を初出品して初入選、しかも特選となって宮内省のお買上げとなる。(現存、那須御用邸に展示されている。)さらに同八年、第十四回帝展出品の〝磯松風〟が、再び特選となって次第に地歩を固め、翌九年、帝展無鑑査となって、以後文展・日展と官展系に出品、有力な新進画家として活躍する。この年、郷土にも目を向け、山梨美術脇会の創立会員として尽くしている。同十三年から芸術院会員依田九浦画伯・望月春江画伯(本県出身)ら同志と日露院を設立同会同人として画業に専念したが、戦争が急迫したため、同十九年東八代郡一宮町一宮に疎開して居を移した。戦後昭和四十三年十一月、山梨県文化功労者として表彰され、同四去年四月には永年の文化業績によって勲五等瑞宝章を授与された。そして次の年の昭和四十六(-九七一)年七月、八十歳をもって生涯を終えた。

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