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山梨県偉人伝 樋貝詮三 皇室典範委員長 衆議院議長

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山梨県偉人伝 樋貝詮三 皇室典範委員長 衆議院議長

『郷土史にかがやく人々』第8集「青少年のための山梨県民会議編」
 

樋負詮三略歴

 明治二十三年(一八九〇)四月三日、東山梨郡勝沼町樋貝三艮兵衛の三男  として生まれた。
県立日川中学校卒業後、年老いた父を助けて家業に従い、父の死後、明治四十五年二月、二十三歳にして上京、中央大学英法科二年の編入試験に合格、大正三年間大学を主席の成績で卒業、つづいて高等文官試験に合格したが、翌四年、京都帝国大学法文学部に入学、同じ年三月、同大学を恩賜の叙時計を授与されて卒業後は、官界進出を志して逓信省管船局に入り、半年後見出されて内閣法制局に迎えられ、ついで法制局参事官・恩給局書記官となり、かたわら母校中央大学講師をかねて幾多の後輩の指導に当たった。
 その当時より人も知る法制畑の秀才官僚として多くの崇敬をあつめ、既に郷土期待の俊秀として着目されていた。
昭和六年行政裁判所評定官、昭和八年法制局第二部長に昇進し、国会における政府委員としてようやく風連急を告げる時期に処して活躍した功績は大きかった。
 その後、国際連盟の脱退によりわが国の孤立が深刻さを増し、戦時下、国をあげて長期建設の新段階に移行する昭和九年内閣恩給局長、昭和十五年には厚生省保健院長官に進んで、戦時色が一層濃厚の度を加えた厚生省内にあって活躍して、二十年法制局第一部長・保険院長官を最後に一切の官職を辞任して官界を後にしたが、その間昭和十八年九月十言に、東京良書普及会から「海の慣習法」の著書を上梓して、母校京都帝国大学から法学博士の学位を授与された。
昭和二十一年四月十日、戦後初の衆議院議員選挙に郷里山梨より立候補して当選、戦後初の(県人としても)衆議院議長となった。特にその才腕は皇室問題に発揮せられ、当時最も物議をかもした皇室典範委員長・皇室財産の予備委員等の要職を歴任した。その後相つぐ国会解散により、昭和二十二年四月、昭和二十四年一月と連続して当選し、その年吉田茂内閣の下に国務大臣となり、警察関係等国家治安の衝に当たり、明るい警察の育成に力を注いだ。しかし昭和二十六年に至って病魔の襲うところとなり、国務大臣退官後昭和二十八年一月一日、七十万県民の哀惜のうちに永眠した。享年六十三歳であつた。

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