『甲陽軍艦』品第五十一「甲州味方衆の心替わり」
勝頼、信州伊那で祖父信虎公と対面
信玄弔のこと
甲陽軍艦 品第五十二 長篠合戦
武田信玄、恵林寺での葬儀 武田滅亡
信玄と父の離別のなぞ、信玄は本当に父信虎を追放したのか
信虎・信玄随伴「高白斎日記」
信虎、信玄随伴『高白齊日記』2
信長公記 武田滅亡
北杜市文学講座 山口素堂 門人とされる黒露・馬光・素丸
馬光と素丸
馬光は『葛飾正統系図』によれば、二世其日庵を名乗り初名を素丸といった。俗称は長谷川半左衛門・藤原直行。名を白芹と云い、素堂の門に入り絢堂素丸と改め、後に其日庵二世の主となり、『五色墨』や『百番句合』を著した。
絢堂素丸は二代目で葛飾蕉門では三代目の総師になっているが、これは素堂を初代とするからである。初代素丸は始め誰に師事したかは判明しないが白芹と云い、素堂の社中となってから絢堂素丸と改め、後に馬光と称した。その門人二代目白芹が統を継いで二代目素丸となった。仮説を逞しくすれば、その素丸が馬光と同胞であった子光の追悼句を贈ったのではないだろうか。
子光の『素堂句集』序文には素堂の性格や思惑態度が書かれている。
・素堂は聞き分ける力や記憶力が優れていて、
・数多く詠んだ詩歌和文らの作品はみ な己の胸中に秘めて全て覚えている。
・人が紙と硯を添えて句や文を請えば、すぐに筆書を与える。
・左のごとき草稿(『芭蕉庵再建勧化簿』)はここに写して高位高官の人は
・これを召し、好事者は最も鐘愛する。招かれるとそれに従い宿することは数日から~十日にも及ぶ。然るに人や待遇によって勿体振ったり別け隔てる考えはなく、誰彼とも話し合いしかもその内容については口を閉ざし、人に説く話は固く他言はしない……
二人は一才違いで馬光が一才上である。二人とも素堂の周辺で活動し素堂の教えを受けながら俳諧修業に入ったのは宝永年間であると思われ、句の作風も同じような傾向を示している。ここに判る範囲で句集や入集句を比べてみる。
○宝永6年(1709)素堂68才。
黒露…『紫竹杖』無倫編。入集。(雁山)
馬光…『菊の塵』園女編。入集。(素堂序文)
○正徳4年(1714)素堂73才。
黒露…
馬光…『二の切れ』湖十編。入集。
○正徳5年(1715)素堂74才。
黒露…
馬光…『芋の子』玉全編。入集。
○享保1年(1716)素堂逝去。
○享保2年(1717)素堂没後。
黒露…(雁山)『通天橋』雁山編。
馬光…(素丸)『通天橋』入集。『百寿草』沾徳編。入集。
○享保3年(1718)
黒露…『成九十三回忌』朝叟編。入集。
馬光…
○享保4年(1719)
黒露…上洛する。『阿女』祇空編。『花月六百韻』入集。
馬光…(素丸)『花林燭』文露編。入集。
○享保5年(1720)
黒露…(雁山)『やすらい花』祇空編。入集。
馬光…(素丸)「沾徳点俳諧帖」椿子舎興行。入集
○享保7年(1722)
黒露…(雁山)『今の月日』潭北編。入集。
馬光…(素丸)『その影』(素堂七回忌追善)素丸編。
○享保8年(1723)
黒露…(雁山)『晋子(其角)十七回忌』淡々主催。『俳諧ふた昔』一漁編。入集。
『ひろ葉』捨翠編。入集。『そのはしら』貞佐編。入集。『月の鶴』湖十編。入集。
『野あかり』雨橘編。入集。『百千万』雁山編。『嵐雪十七回忌集』百里編。入集。
馬光…(素丸)『その影』素丸編。『晋子(其角)十七回忌』淡々主催。『俳諧ふた昔』
一漁編。入集。『ひろ葉』捨翠編。入集。『そのはしら』貞佐編。入集。
『秋風七回忌』文露編。入集。『百千万』雁山編。入集。
○享保9年(1724)
黒露…(雁山)『長水吟行百韻』長水編。入集。
馬光…(素丸 『ふたもとの花』露月編。入集。『五重軒月次』・『染ちらし』露月編。
入集。
○享保10年(1725)
黒露…(雁山)『百千万』沾州編。
馬光…(素丸)
○享保11年(1726)
黒露…(雁山)『代々蚕』歌仙。貞佐編。入集。
馬光…(素丸)『俳諧春の水』千魚編。入集。『代々蚕』歌仙。貞佐編。入集。
『白字録下』沾州編。
○享保12年(1727)
黒露…(雁山)『閏の梅』露月編。入集。
馬光…(素丸)『俳諧宮遷表』露月編。入集。
(『とくとくの句合』百里跋。素堂十三回忌追善集か。
○享保14年(1729)
黒露…(雁山)『花坦籠』歌仙、常陽編。入集。
馬光…(素丸)『花坦籠』歌仙、常陽編。入集。
○享保15年(1730)
黒露…六月駿河宇津山に雁山の墓(現存)を建てる。これ以後、黒露と称す。
馬光…
○享保16年(1731)
黒露…
馬光…(素丸)『五色墨』風葉(宗端)編。入集。
○享保18年(1733)
黒露…
馬光…(素丸)『百番句合』宗端編。敬雨跋。入集。
○享保19年(1734)
黒露…伊勢の乙由を尋ねる。
馬光…(素丸)『紀行俳諧二十歌仙』淡々編。入集。『俳諧二十集』露月編。入集。
○享保20年(1735)
黒露…(黒露)『とくとくの句合』祇空編。五人組歌仙二巻付。(歌仙は前年のもの)
馬光…(素丸)『とくとくの句合』祇空編。五人組歌仙二巻付。(歌仙は前年のもの)
『次の月』歌仙。和橋編。入集。『大和記事』歌仙。講古編。入集。
○元文元年(1736)
黒露…(黒露)甲斐、稲中庵で宗端と興行。『燈火三吟』黒露編。
…甲斐より江戸に戻る。
馬光…(素丸)甲斐、稲中庵で宗端と興行。『燈火三吟』黒露編。入集。
『霜なし月』歌仙。桃里編。入集。
○元文2年(1737)
黒露…(黒露)『有渡日記』黒露編。
馬光…(馬光)『有渡日記』馬光跋。歳旦に立机する。『島山紀行』百韻。岑水編。入集。
○元文4年(1738)
黒露…(黒露)『するが百韻』黒露編。
馬光…(馬光)『跡の錦』歌仙。入集。
○元文5年(1739)
黒露…(黒露)『すずり沢紀行』黒露編。付興行。
馬光…(馬光・白芹)『すずり沢紀行』黒露編。付興行。入集。
○寛保3年(1743)
黒露…(黒露)『芭蕉林』朶雲編。馬光主催。黒露序。
馬光…(白芹)『芭蕉林』朶雲編。馬光主催。黒露序。
○延享元年(1744)
黒露…(黒露)『老山集』黒露編。宗端との両吟。
馬光…(白芹)『老山集』黒露編。発句の号に白芹・馬光。
○延享3年(1746)
黒露…(黒露)『寝言』黒露編。
馬光…(馬光)『寝言』黒露編。入集。『三十二番句合』柳里恭編。馬光判詞。
○延享4年(1747)
黒露…(黒露)『いつも正月』黒露編。
馬光…(馬光)
○寛延元年(1748)
黒露…(黒露)
馬光…(馬光)『戊辰試豪』馬光編。
○寛延2年(1749)
黒露…(黒露)『素堂三十三回忌』黒露編。『職人尽俳諧集』寥和編。入集。
馬光…(馬光)『素堂三十三回忌』黒露編。入集。
○寛延4年(1751)
黒露…(黒露)『つゆ六歌仙』大梅編。独吟歌仙。
馬光…(馬光)5月1日没。68才。
○宝暦2年(1752)
黒露…(黒露)『睦百韻』佐々木来雪編。黒露小序。馬光追善『松のひびき』黒露編。
以上、大まかな対照表を作成してみたが、馬光を筆頭とする葛飾派の動きは黒露の動とほぼ一致することが理解できる。やはり葛飾派としては黒露が素堂社中の筆頭人との認識を持っていたようである。黒露や馬光にしても番年の素堂の影響を強く受けており、其角・嵐雪・沾徳など素堂の指導や影響を受けた俳人の周辺に在ったと考えられ、黒露は馬光の没する寛延4年までは付かず離れずの状態にあったと思われる。黒露の作風は享保期の十年(1725)近い間に、俗に云う支麦派という伊勢美濃系の影響を受けていることは、諸氏の指摘されているところであり、馬光も五色墨運動の後徐々に影響されていったように思われる。
また宗端らと沾州の争いに馬光らが巻き込まれたかは不明であるが、享保19年(1735)の沾州編『俳諧友あぐら』に素丸名で取られていて、素丸は両派の争いの当て馬にされたようである。
黒露は立机したのかは不明であるが、馬光は元文元年(1736)の桃里歌仙『雪なし月』では素丸であり、同年8月の黒露編『燈下三吟』の歌仙で麦阿と共に馬光が三吟を巻いているから、この年の辺りで立机しているのであろう。因に麦阿は長水の事で享保18年(1733)に麦林門に入った。馬光の『歳旦帖』は「元文二丁巳歳旦」が初出。次いで延享2年(1745)に門人の白芹に絢堂素丸名を譲り、同四年(1747)致任して剃髪し泥山と号した。ついでながら前掲の対照表に寛保2年(1742)の珪淋追善『蓮社燈』(晩牛編)、寛延元年(1741)の珪淋追善『万燈供』(番牛偏)・延享元年(1744)の宗端追善『翌(あした)たのむ』に出句しているが、寛保2年(1742)の柳居(麦阿)追善『扶桑三景集』には名が見えず、この頃から柳居門との交流が跡絶えたのではないだろうか。
余談ではあるが、葛飾派には二つの秘書(伝書)があると云い、馬光に伝えられた『俳諧大意弁』(享保16年書写)と二世素丸の『乞食袋』(延享3年成)が存在していた。
北杜市文学講座 山口素堂『睦百韻』の小叙(二世来雪襲名披露記念集)
----人見竹洞子、素堂を謂ていはく、「素堂は誰ぞ、山口信章来雪なり」と。
----かゝる古めきし名は当世知る人あらず。来雪は前号也。ことし雅君忠久名あらため----給ふる。
----其旧号心つけて其高当乃価□(高蹈の価値)をしたひ行一歩にや。むさし野の草の----心かりよるとくりなきため山なりけり。そや、この名を為したまふ倶老が詠じ奉るに、----笹のつゆ何のさわりやさぶらはん。
----風雅を学ぶは風雅の徒、ただにつゝみし候して、長くこの有にあなひましませ。来雪----と聞へしは『長学集』によれる名とぞ。
------于時宝暦万年第二申歳孟春吉 江東草々斎 黒露(雁山)著
《解説》
この小集はごく身近な人で構成され、七吟百韻は、黒露・来雪・寒我・竹酔などであり、その他の多くは黒露の津知友や門人であった。因に二世来雪は佐々木一徳で字は仲祐、名は忠久と云ったようであり、後に来雪庵三世素堂となる。二世素堂は誰なのかは、後述するが素堂の嫡孫とる山口素安が素堂没後素堂の親族である寺町百庵に譲ろうとしたが、百庵は固辞した為に空席のままであったと思われる。
北杜市文学講座 山口素堂と黒露
素堂と黒露
前にも触れたが黒露は素堂の一族に属する人であるが、これといった資料が見当たらないが、散見する諸書から推察を試みてみることにする。諸書の記載には、「甥」・「姪」『通天橋』の後文では「ふたたび舅氏にあふ…」、『摩訶十五夜』でも「舅氏・亜父」、との記述が在る。これらの用例からすると黒露は、素堂の姉妹の子、素堂の母方の「おじ」いうことになる。なお古文書に記述される血筋、血統での文字の用例は実に厳密である。
妻の兄弟姉妹の夫。外孫にもつかう。
姪…(てつ・をひ)兄弟の生んだ男子。めひ…兄弟の生ん
だ女子。妻の兄弟の子。
舅…(をぢ・しゅうと)母の兄弟。
舅氏…(きふし・をじ)伯父・叔父。
舅甥…(きふさう)母方の「をぢ」と「をひ」。
亜父…(あふ)尊敬語。おやじさん。父につぐとの義。
北杜市文学講座 山口素堂と寺町百庵
寺町百庵は素堂の一族の出身であると『俳文学大辞典』などにも記載がある。百庵は元禄八年(1695)の生まれである。百庵の考証は中野三敏氏の「寺町百庵の前半生、享保の俳諧」に譲り、諸書に紹介されている略歴を記すと、姓は寺町、名は三知(智)また友三 、幕府御茶坊主で御坊主組頭を務め俸禄百俵二人扶持で、矢の倉に住んでいたが百庵の号のごとく住所を転々としたとする書もある。俳諧や和歌それに故実に精通して道阿・梅仁斎・不二山人・己百庵・新柳亭など号した。唇子言満の狂名や越智百庵とも称した。寛保元年(1741)冬、過ちがあって転役となり、翌春より時守を勤め後小普請入り、宝暦六年(1756)致任して買閑の身となった。俳諧は二世青峨門と云うが、一世青峨門とも素堂門とも云う。儒者の成島道筑と交わり、権門富豪の取り巻きも努めた。殊に紀伊国屋文左衛門の幇間俳人の一人として、吉原での小粒金の豆撒きをした折の。撒き手の一人だった話は有名であるが、年代が合わないとも思える。後の住処は石町の鐘楼に隣接していたとか伝わるが、浅草待乳山に草庵を構えて、不二山人と号した。
御坊主組頭を努めただけあって故実考証に造詣が深く、連歌師、歌学者でもあったが、一説には転役の原因を幕府連歌方への運動工作にあったという。著書も多く『花葉集』・『梅花林叢漫談』・『林叢余談』・『楓考』・『蕨微考』・『花月弁』・『芭蕉考』などがある。その他の話題も多いがここでは省く。天明六年(1786)2月27日に没した92才の長寿であった。素堂の家系についても『連俳睦百韻』の序文中で『甲斐国志』とはかけ離れた記載内容を述べている。後世の研究者は都合よく両書を継ぎ合わせて素堂の生涯にして「素堂誤伝」を生み出しているが、両書の記載内容は全く異質であり、結びつかない内容である。
ここで素堂の後継者についての記述のある、百庵の『毫の秋』を見る。この書は百庵の愛児一周忌の追善集で四十二才の時であり、序文中で自分の生い立ちを語っている。百庵の父は三貞といって、幕府に勤めていた。この『毫の秋』に寄せた素堂嫡孫山口素安の文がある。百庵にとっても素堂にとっても重要な文である。
北杜市文学講座 山口素堂 『毫の秋』 素堂嫡孫 山口素安の文
『毫の秋』 素堂嫡孫 山口素安の文
執文朝が愛子失にし歎き、我もおなじかなしみの袂を湿す。
まことや往し年九月十日吾祖父素堂亭に一宴を催しける頃、
よめ菜の中に残る菊
せて、
十日の菊よめ菜もとらず哀也
俳号百庵の初出は今のところ享保15年(1730)午寂編『太郎河』で其角系を主に沾徳・調和系の俳人十六人の独吟歌仙集で、 里村 家連歌師の丈裳も入っている。午寂は人見元治・又八郎といい、其角門である。儒学者で医師、幕府に出仕する。素堂と親しかった人見竹洞の一族の人見必大の子である。次いで享保19年の前出の『たつのうら』と同年4月刊行の百庵他編『今八百韻』で、百庵や青峨等との四吟ほか、江戸新風を目指したもの。元文元年の『毫の秋』に露月の『跡の錦』、寛保3年の二世湖十の『ふるすだれ』宝暦6年(1756)6月の栄峨編『心のしおり』などが知られている。『心のしおり』には松江。新発田諸侯や江戸座の俳家に柏筵ら役者が参加している。
北杜市文学講座 山口素堂 「山口黒露(雁山)と寺町百庵」
黒露(雁山)と百庵
其角と嵐雪が死んだ宝永4年(1707)、雁山は22才、百庵は13才。素堂はこの時期元禄16年末の地震火事で焼け出され、宝永元年に深川六間掘の続き地に家の建築願いを出して上洛の旅に出て、京都で越年して宝永2年5月末に江戸に帰った。江戸の家を守っていたのは子光か僕伝九郎、それに雁山であったのであろうか。
宝永4年春、素堂は上京して『東海道記行』を著した。このために其角の病死に会えず、追善にも出席できなかった。その年の10月の嵐雪没には間に合って、雷堂百里の嵐雪追悼集『風の上』に序文を載せた。次いで九月末頃に雁山を伴って浅草へ、鈴木三左衛門の勧進興行を見物(『摩訶十五夜』)に出かけている。雁山は6月越後の人志村無倫編の『紫竹杖』(江戸俳友よりの送句)に入集している。
雁山が俳諧に手を染めはじめたの頃の素堂の周辺には、其角・嵐雪・桃隣・沾徳らとその一門が大半を占めていた。雁山の言によれば、素堂は様々な指導をしていたが、雁山は嵐雪の生前に彼の所え出入りしていたらしい。後に其角門の人たちと親しく交流しているから、其角・嵐雪周辺の俳人と思える。
百庵は素堂門とも言われるが、どの辺りにいたのであろうか。結婚するまでの30才頃まで放蕩生活に浸っていた。つまり享保12年(1727)くらいまで遊び呆けていた
という。『連俳睦百韻』の序文の中に、水間沾徳・佐久間長水の事が引き合いに出てくる。
沾徳は享保11年(1726)に没して、その追悼集『白字録』(沾州・長水等編)を撰した事が記されている。この年百庵32才、翌年は子供の安明が生まれ、享保15年には其角門の午寂による『太郎河』(8月刊)に百庵として登場する。この集は其角系統を主に沾徳、調和系の俳人で構成された集で、百庵36才の時である。各書に見られる俳号の由来は、これ以前に成されたものと考えられる。周辺では享保12年には高野百里や素堂の序文(『一字幽蘭集』)を写した書道家佐々木文山などが没している。享保19年には豪商紀伊国屋文左衛門が没して、馬場美濃守信房を祖という馬場存義が立机している。
紀伊国屋文左衛門と寺町百庵
文左衛門は寛文9年(1669)の生まれ、姓は五十嵐、初めは文吉のち文平。紀伊熊野の産で、若くして江戸に出て商いを学び、材木商を営みながら、紀伊国の物産を江戸で捌いたという。元禄の初め頃、其角に俳諧を学び俳号千山と云う。(千山を号する同時代の俳人がいた)書は佐々木文山の兄玄龍に習った能書家でもある。江戸と云う土地での商売柄、幕府の要人に取り入るために、吉原と云う廓を舞台に派手な遊びを繰り広げ、特に奈良茂と云う豪商に張り合う為にはかなり苦労したらしい。その一つが吉原揚町での小粒蒔きの逸話があり、奈良茂の接待交渉を妨害したという。
紀文が吉原を積極的に利用し、商売のための社交場とし始めたのは元禄の初期からで、殊に幕府勘定方萩原重秀や将軍側用人柳沢保明(後の吉保)など、幕府要人との接触にあった。為に二回の吉原惣仕廻しをしての豪遊が伝えられ、取り巻き連中は其角をはじめ、交際の広い其角から多賀朝湖(英一蝶)や佐々木文山らと知り合い、同業の栂屋善六などがいた。また元禄6年には其角の手引きで芭蕉にも紹介され、翌7年の難波畦止亭での芭蕉最後の句会にも一座した。
紀文が吉原で豪遊したのは宝永五年(1708)頃までのようで、翌6年は店仕舞いと旅行に出ているところから年初くらいまでとみられる。後に享保年間の出来事として語られているのは後の人の仮託した噺である。百庵が紀文の豪遊に参加したり小粒蒔きを買って出たとする噺も、この年、百庵は数えのやっと14才である。紀文の豪遊と百庵の放蕩が結びついた噺でないだろうか。