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『甲陽軍艦』品第五十一「甲州味方衆の心替わり」

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『甲陽軍艦』品第五十一「甲州味方衆の心替わり」
天正二年(1574) 高天神落城 勝頼29歳
(『甲陽軍艦』原本現代訳 発行者 高森圭介氏)
 
〔勝頼、長坂長閑らの意見を重視するようになる〕
◇ 天正二年五月、勝頼公は御出馬なされ、遠州高天神の城を攻略なされて、家康旗の小笠原与八郎(長忠)を攻めなされた。けれども、後陣は家康だけでなくて信長を引き出しての戦いとなった。その時の使者が小栗大六という者で、家康譜代の三河侍だとは、浜松での生捕によって判明したことだ。◇
 さて勝頼公は信長・家康両旗が高天神の後陣としてつめているのなら、勝頼公は一身を賭して決戦を覚悟すると勇みたち、小山(榛原)という境に陣をしかれて後陣を待ちなされた。
ある時、城から追手が池の壇へ兵を出し、足軽の小笠原勢内の渡辺金大夫・林平六・吉原又兵衡・伊達与兵衛・小池左近といった連中が勇み活躍しようとしていた。
一方、内藤修理の軍勢は同心に手柄ある武士が多くいた。駿河先方衆には岡部治部がいてこれは岡部次郎右衝門の弟なのであるが、信玄公が三方ケ原での合戦のおりも、毛付を目指して活躍し名をあげた大剛の武士である。岡部忠次郎、大塚三助、これらの武士もそのとき鑓を合せた人々である。
その後、七月に入って高天神は落城となったのであるが、それは「猿もどり」という郭を岡部治郎右衝門の軍が攻めていて、そのとき次郎右衛門の配下の朝比奈金兵衛という若者と、右に話した剛強の武者・岡部治部が、一番に郭の塀に登って攻めたので落城となったのだ。けれども岡部治部はそこで討死した。金兵衛に続いて塀へ乗りあげて戦ったのは岡部忠次郎、鈴木弥次右衛門である。その後ついにかなわず降参いたし、小笠原は、富士の下方の地域で一万貫の所領を与えるという御約束のもとに、高天神の城を勝頼公に明け渡したものだ。
       信長は家康を支援して後陣から出動したのだったが、高天神城が落ちたと聞いて早々に兵をひき岐阜へ帰障した。
◇ こうして遠州の城東郡は勝頼公の御代になって所領となった。その年の春、美濃において数カ所の要害を攻め落としなされたので、信玄公よりも勝頼公の兵力の方が強力だとあちこちで評されもしたが、信玄公の名大将としての御威光が強かったためで、心底から大小上下の者がそう思って評したわけではない。こうして城東郡のご処置をすませてから、勝頼公は七月に御馬を甲府に戻された。これは勝頼公二十九歳の御時のことである。
◇ 甲府の御館で御祝事となり、杯を出して御盃を侍大将に下された。高坂弾正は御盃をうけて立ちながら飲み、長坂長閑に向って、武田の御家の減亡ときまった御盃こそこれだともらした。
長閑はそれを聞き、それは言ってはならぬ弾正の言いかただと応じたものだ。
その後、内藤修理と高坂弾正の二人が同時に言うのに、三年のうちに当武田家は滅亡するだろうとのこと、その理由を聞くと内藤も高坂も次のように挨拶した。東美濃で数カ所の城を攻め落し、そのうえ高天神城をも落して、城東郡を御手に入れられた。だから、これからは各家老の意見を勝頼公は聞き入れて採用することがなくなる。
そして、長坂長閑・跡部大炊助の言うがままになり、そうこうしているうちに、信長・家康の両連合軍を相手になされて、勝頼公は無理な一戦をなされ、諸将那皆討死して、それ以後の武田家は滅亡するだろうこと疑いない。それも元はといえば、東美濃・遠州城東郡の両所で戦勝し、しかも一年のうちにそういう手柄をたてたことに起因するのだ。と語る。
各武将はこれを聞き、高坂・内藤は何と臆病な推測をするものだと笑った。これらのことに関して、さらに長閑・大炊助が話されたから、勝頼公も内心は高坂・内藤を心よくお思いにならなかったけれども、信玄公御代からの重臣であるからして、高坂は勝頼公の御近くに参上しては、人を退けて意見を申し上げた。
◇ 高坂弾正申し上げる
すなわち、東美濃を信長の子息が統治していたから、その御坊(織田信長の五男、勝長)に下さって、誰か近い御親類をえらんで祝儀をなして聟とし、信長と和睦を結びなされよ、というものである。また城東郡を家康の弟源三郎(康俊)に与えなされよ。
この源三郎は、信玄公の御代に人質におかれ、その後出奔したけれども、和睦なされば水に流し、信玄公御息女子のおきく御料人は伊勢の長島へ嫁ぐべく信玄公が考えられたのだったが、家康のこの弟の所へ御料人をとの話もあったことです。こうして信長・家康と和議を結ばれて、小田原(北条家)を攻略なさることです。そうなされば信長の御恩があるから家康はかたじけなく思い、加勢をするはずです。
信長は信長で都の敵を制圧するために、我らとの和睦を歓迎いたし、北条攻略に加勢の軍をさし向けると存じます。そうなれば我が武田勢が所持する国は、小田原の北条の持ち分が一つ加わって、そこを支配すれば、以降は勝頼公のお考えになられることが実現しやすくなること確実と存じます。と弾正は勝頼公に申し上げる。
◇ 長坂長閑が申す
ところが長坂長閑はこれを聞いて、もったいたいことをいう弾正の誤った判断だ。都への制覇を望まないで、向いあう敵と和睦して、今まで味方であった北条殿を敵にまわすということ、それはまったく戦略を心得ぬことと存じます。領有した国郡を人手に渡すということは、下劣なたとえで、猫に鰹節というのが、おおかたこの弾正のような分別のなさをいうのではと長閑が言ったので、勝頼公は長坂長閑の意向を尊重しておられたから、高坂弾正の申し上げた意見はおとりあげにならずに終わった。(中略)
 

勝頼、信州伊那で祖父信虎公と対面

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勝頼、信州伊那で祖父信虎公と対面
(『甲陽軍艦』原本現代訳 発行者 高森圭介氏)
『甲陽軍艦』品第五十一「甲州味方衆の心替わり」
勝頼公は平山を越えて信州伊那へ御軍馬を入れた。その伊那で、信虎公八十一歳であったが勝頼公と御対面となった。甲州へ信虎公を迎え入れてさしあげるということについて、長坂長閑が考えて申すのに、信虎公は普通の者とはちがった荒大将で、いくつになられても御遠慮などはなさるまい。さらに逍遥軒(信廉)、一条殿(信竜)、兵庫殿(信実)、典厩(信繁)。以上信玄の弟、穴山殿(信玄の妹を妻とする)そのほか御親類が多いので、逆心なさって政変ということにもなりかねない、という意見によって信州伊那で御対面となった。
長閑が心配したように勝頼公との御対面の座で、勝頼公は、母方は誰になるのか、と尋ねなさる。長閑はひきとって、諏訪の頼茂(頼重)の娘の子供でいらっしゃいますという。
信虎公はすこし御機嫌ななめになり、勝頼公は今年で幾歳かと尋ねなさる。長閑はうけたまわり、二十九歳におなりですと申す。その後はそれぞれの侍大将衆のことをお尋ねになった。が、昔の親の名字を名乗る者は一人もいなかった。工藤源左衛門は内藤修理と称し、教来石民部を馬場美濃守といい、飯富兵部の弟は山県三郎兵衛と申す。高坂弾正についてお尋ねなされる。伊沢(石和)の春日大隅の息子ですと申し上げる。信虎公はそれをお聞きになり、百姓を大身の地位にまでしたのは、信玄の考え違いだと仰せられる。
 
その次に武田の御重代(祖先伝来の宝物)、左文字の刀剣を、押板の上に置きなされたのは、信虎公が四十五歳で甲州を御出立なされた時で、あれから三十七年たって、今八十一歳となり帰参なさろうとしているという話になる。
孫であられる勝頼公に御対面であるから、武田の御重代であるその名刀を御座敷に置きなされるのは当然である。
そこで信虎公は、その御腰物(名刀)を抜きなさって、かつてこの刀で五十人あまりを御手うちなされたのだが、その中に内藤修理と名乗る奴の兄を肩から脇へ斜めに袈裟がけに切ったのだ、と言われる。
その後、勝頼公の御顔を御覧なされ、その左文字の腰物を抜いて、手に持たれたまま、袈裟切りのようになさる。座中の人女の視線はことごとく凍りつき、目もあてられぬ様相を呈したところ、小笠原慶庵という者は、心が剛強だったから、こういう機会にその武田御重代の名刀を拝見させていただきたいと願い出て、信虎公の側に参上して、勝頼公の間に割り入り、その御腰物を無理に奪いとって鞘に納め、おしいただいて長閑に渡したのだった。
信玄公のお目がねで、この小笠原慶蕃をたのもしいとお認めになり、御咄衆の一人として、話相手になされて、大勢の中からこの慶庵を大事な場所へも連れて行かれたものだったが、やはりこの様に剛たる者と慶蕃を見抜かれた信玄公を、諸人が尊敬したのはもっともなことである。その後すぐに勝頼公は甲府へ御帰りなされたけれども、信虎公は、伊那へそのまま留めおかれたのだったが、それは長坂長閑の判断がよかったといえる。信虎公はやがて御他界となられた。

信玄弔のこと

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信玄弔のこと
『甲陽軍艦』品第五十一「甲州味方衆の心替わり」
(『甲陽軍艦』原本現代訳 発行者 高森圭介氏)
小田原の北条氏政より、信玄公は御他界かとその真偽を見届けるために、坂美岡(板部岡)江雪をさLむけてきた。
武田の家老は申し合わせて一計を案じ、江雪をしばらく引き留めて適当にもてなし、そのあと夜に入ってから逍遥軒を信
玄だと申して御対面の場を設け、八百枚の紙にしるしおいた御判の中から、いかにも不出来な御書判をえらんでそれに御返事を書いて江雪に渡した。
さすがに賢い江雪もそれを信じて小田原へ帰り、信玄公は御在世だと氏政へ報告申し上げたから、御他界のうわさは聞かれなかった。
小田原の北条家はそのようだったけれども、三河の先方衆の中で、奥平父子(貞能とその子九八郎)の挙動があやしく裏切りの気配があるため、誓紙により確かめを命じ、さらに九八郎の奥方を人質にとった。それを信長が知って、家康の聟に九八郎を(家康の女、亀姫を妻にする)ということで、信長がとりもったので、奥平父子は逆心というかたちになった。そのため人質の奥平九八郎女房は、勝頼公によって磔礫刑にかげられたのだ。奥平は、長篠の城にたてこもることになった。
◇◇
天正三年乙亥四月十二日に信玄公の御弔がおこなわれた。
宗旨は禅宗関山派、本寺は京都妙心寺である。その東堂衆で以下七仏事ということでおこなわれた。その次第は鎖龕(さがん・お棺を寝室から法堂に移す式)は藍田和尚(甲府東光寺)、掛真(無き高僧の掛け軸を掛けるは東谷和尚(駿河臨済寺)、起龕(出棺のときの読経の式)は説山和尚(甲府円光院)、念誦は圭首座、葬衆は噋首座、奠茶は速伝和尚(伊那開善寺)、奠湯は高山和尚(甲府長善寺)、導師は快川和尚(恵林寺)だったといわれる(品第四)。その道中は六間の広さにして、道の両側には虎落(もがり)を結い、稲莚を敷き、その上に布を敷き、さらに絹を敷いて、勝頼公、典厩、穴山殿、仁科殿、葛山殿)、望月殿、逍遥軒、そのほか御親類衆が御竈()に手をかけて御供なされた。御位牌は御曹司の信勝がお持ちになり、その時九歳だったが御供していかれた。
ほかに侍大将衆、直参衆が御供する。又被官衆は虎落の外でお見送りした。東堂達がなされた儀の中では、長禅寺の高山和尚の奠湯をよく覚えているのであるが、ともかく以上記し置く。
一服反魂死諸葛 作竜呑却尽扶桑。
一服の箕湯で魂はよみがえり、
死せる諸葛孔明、
生ける仲達を走らすといった故事のように、
竜となって日本国中を制圧する。
右の葬儀のあと、勝頼公は出発たされて諏訪明神へ御社参なされたが、そのとき御鑓が折れた。続いてそれから高遠の城へ到着たされるおりも、堅固な橋が折れて、御供の小人衆が一人死んだ。勝頼公は御馬のあしらいが上手であられたから、蹴立てて逃れた。御馬の後の左足が、橋の崩れかかったところであやうくとまったので無事だったから、やはり運がお強くめでたいことだ、と言う者もあれば、こんな堅固た橋が崩れるなんて、物怪(もののけ)につかれたような無気味なことだとつぶやく者もいた。以上。
 
天正元年四月、信玄公は御他界。
天正元年四月、信玄公は御他界となった。その年の秋、勝頼公は二十八歳で遠州へ進攻していた。草履取、二十人そこそこの中の小者十五人が挾竹を持ち、軍の後方に従っていたところ、敵方の馬乗が三騎襲って草履取りを一人斬った。ところが残りの十四人が馬乗を一人討ちおとし搦とってタ暮れに金谷(榛原)に着いて、この生捕った敵を報告いたした。
武田勢は五十騎も六十騎もその後から進軍していたから、それほどの手柄というわけではなかったけれども、本隊と離れたところで、しかも懸川(掛川)と久能との間の敵の領分の中でこのようであったのも、よくよく勝頼公の御先鋒赤強かったからである。これとても信玄公の威力の蓄積があるからである。馬場美濃・内藤修理・山県三郎兵衛・高坂弾正といった各巧者衆の批判は、武田の軍カがすでに頂上に達している証拠で、大いに危いことだというのである。
こういう意見も、ひとえに大敗ということの兆しだというので、ことのほか侍大将衆が悔んで語ったわけだが、後になって現実となったのであった。

甲陽軍艦 品第五十二 長篠合戦

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甲陽軍艦 品第五十二 長篠合戦
(『武田流軍学』吉田豊氏著 『甲陽軍艦』原本現代訳 発行者 高森圭介氏)
〔読み下し〕
其後勝頼公、信州より、遠州平山越を御出あり、三州うり谷と云ふ所へ、御着被一成、長篠奥平籠居たる城へ、取懸御せめなされ候に、家康後詰ならず、結局山県三郎兵衛に、おしつめられて、悉く塩を付られ侯ゆへ、信長引出す。
其使は、家康譜代の旗本奉公人、小栗大六と申者也。二度の使に、二度ながら、信長出まじきとの御返事也。三度に、家康小栗大六に申付らるゝは、
「信長公と起請を書、互に見つき申べきと、申合侯ごとく江州箕作より、此方若狭陣、姉川方々へ、我等も加勢仕り候、此度信長公、御出なくば、勝頼公へ遠州をさし上我等は、三河一国にて罷有侯はば、誰今にも、四郎殿と無事申べく候。左候て、信長今一度長篠の後詰、無御座を付ては、申合候起請、そなたより、御破なされ候間、是非に及ばず、誓段を水に仕り、勝頼と一和して、先をいたし、尾州へうちて出、遠州の替地に、尾張を四郎殿より、申請べく候。さるに付て、四郎殿を、旗本にて、我等はたらき、出る程ならば、恐らくは、十日の間に、尾州は、此方へかたづき申べきと、存候へ共其儀しろく申事は無用、大形聞知り給ふやうに、矢都善七迄、申理(もうしわけ)侯へ」
と、家康小栗大六に被申越候。
又信長家老毛利河内、佐久間右衛門、加勢に参り候へども、三州長沢より、此方へ出る事ならず候。
さる程に、小栗大六、岐阜へ罷越、此趣をば、おしかくし、たゞ信長殿、御旗本を、出され候やうにと、申候へども、三度目の使ひに、出まじきとある儀也。
そこにて、家康使の右の奥意を、矢部善七に、粗(あらまし)申渡す故、信長出る也。又さすが大身の信長も、若き勝頼公を、ふかみ(重く見てと)、出かねられたるとは。其後熱田大明神へ参詣有て、なめかたの謀有。是にても諸人勇なし。
かくて長篠へ着て、軍の評定し給へ共諸人弥勇(いよいよいさま)ざれば、酒井左衛門尉に、夷くいの狂言を被仰付。此者聞ゆる名人なれば、甲を脱て高紐にかけ、誠に面白く舞済し、鼻をかみ引入時、諸軍一度に、どっと笑、此勢を以、明日の合戦談合有所に、右の左衛門尉かけ出、今夜九里の道を廻り、鳶ケ巣へ押懸、一戦を遂ば、明日の御一戦必勝也と申、信長公大に瞋(いかり)給ひ、今日本に、信長、家康出合、軍の詮議仕中へ、匹夫の身として、推参也と、散々悪口はき散して、小用有振にて立給ひ、物影へ酒井を招、天下一の謀也、今此辺の者共、一石の米を六斗は、武田方へ運ぶ折柄なれば、態こそ悪口したれ、金森五郎八を召連、早速打立候へとて、元の座席へかへらるゝ。此事共、合戦過て後、五十日の内に聞えたり。
◇〔訳、原本現代訳『甲陽軍艦』〕
勝頼公は信州から遠州平山越えに進み、三州のうりという所にお着きになって、長篠の奥平(九八郎貞昌)のこもる長篠の城を囲み、お攻めになった。
家康は、支援にかげつけようとしたがならず、結局は、山県三郎兵衝の軍に妨げられて、相ついで合戦に敗れたため、信長の軍をひきだした。その使者は家康譜代の旗本の奉行人小栗大六(重常)という者である。二度にわたる督促の使いにも、二
度とも信長は応じないという御返事である。
そこで三度目には、家康は小栗大六に申しつけた。家康は信長公と誓約を交わし、互いに助け合うとお約束申したとおり、江州箕作の戦い以来、若狭・姉川等あちらこちらで加勢申し上げてきた。この度、信玄公の御来援がないならば、遠州を勝頼公に進呈し、我らは三河一国に甘んじることにより、只今にも勝頼四郎殿と和睦をいたします。この度、長篠城への御支援がないということについては、これまでの誓約は、そちらからお破りなされたわけでありますから、やむなくお約束は水に流し、勝頼と結んでその先鋒をつとめ、尾張へ討って出て、遠州の替地に尾張を攻めて勝頼殿から尾張をいただくことになります。そこで、四郎殿を総大将として、我らが戦うならば、おそらくは、あっという間に尾州の国はかたがつき、きっとこちらのものになろうかと存じます。
といった意味のことを、明らさまにいうことはないが、しかし信長公の耳にあらまし聞こえるように、矢部善七(康信)に向かって確かに伝えるようにと、家康は、小栗大六に申しつけた。
なお、信長の家老、毛利河内(秀頼)、佐久間右衛門(信盛)も援兵に出ていたけれども、三州の長沢からこちらには出ることができずにいた。そのうち、小栗大六は岐阜に到着し、いわれた主旨は伏せたまま、ただ信長公の御旗本勢の御出馬をお願いしたいと申し述べたが、三度目の使いにもやはり出る考えはないとのことである。
そこで家康への使いとして右の真意を矢部善七にあらまし申し渡したので、信長は出陣した。さすが大身の信長も、若い勝頼公が強気なので、出兼ねておられたのだったことは、合戦が終わって五十日のうちにうわさとなったことだ。
さて、その長篠において、武田の家老の馬場美濃、内藤修理、山県三郎兵衛、小山田兵衛尉、原隼人その他の老若すべての人々が、「御一戦なさることはこれ以上無用です」、といろいろお諌めしたけれども、御屋形様勝頼公と長坂長閑、跡部大炊助とは合戦を決行してよいと決められた。
御屋形この時三十歳で若かったので、それをもっともと思われ、明日の合戦はもはややめられぬと、武田累代の御旗と楯無しの鎧に御誓言なさった。その後はだれもが何も申し上げることもできず、三州長篠において、天正三年(1575)乙亥五月二十一日に、
勝頼公三十歳の大将として、その兵力一万五千人
敵は信長四十二歳、その子息城介殿(信忠)二十歳、その弟(織田信雄)十八歳、家康三十四歳、その子息(松平信康)十七歳、兵力は信長、家康の両軍合せて十万で決戦となった。
さて、上柵を二重に設けて、要害を三つかまえて待ちうけているところへ、勝頼公は一万二千の兵で攻めかかって攻防の一戦がなされたが、武田方が全面的に勝利した。
それは、馬場美濃守が、七百の兵で佐久間右衛門の率いる六千ばかりの軍を柵の中へ追いこみ、追い討ちに二、三騎を討ちとる。
滝川(一益)の兵三千ばかりを、内藤修理勢が千ほどの兵で柵の内へ追い込んでしまう。
家康の軍勢の六千ばかりを山県三郎兵衝が三千五百の兵で柵の中へ追いこむ。
けれども家康軍も強敵だから再び突進して来る。
山県勢は味方の左側の方へ廻り、敵が柵の木を仕立て無い右方へ進攻して背後から攻めかかる態勢をみせたのを
家康勢も察して、大久保七郎右、衛門が蝶の羽の印の差物(鵡欄敵)をかざして、大久保次右衝門は釣鐘の指物で兄弟だと名乗りあげて、
山県三郎兵衝衆の小菅五郎兵衛、広瀬江左衛門、三科伝右衛門の三人と声を発しながら追いつ追われつ九度の攻防が繰り返される。
九度目に三科も小菅も傷ついて退く。さらに山県三郎兵衛が鞍の前輪のはずれた所を、鉄砲で前から後へと打ちぬかれてそのまま討死したのを、山県の被官であった志村が、首を甲州へ持ち帰る。
そのあと甘利衆も一接戦あり、
原隼人衆も一戦あり、
跡部大炊助も一せり合い、
小山田衆も一せり合い、
小幡衆も一せり合い、
典厩衆も一せり合い、
望月衆も安中衆(安中左近)も、いずれの軍蟄も戦闘で皆柵際へ敵を追いつめて勝利した。
甲州武田勢の中央の軍と左翼の戦いは以上のようなものである。
 
さて右翼の方は、真田源太左衛門(信綱)、同兵部助(真田昌輝)、土屋右衝門尉(昌次)この三将で、馬場美濃衆と入れ替わり戦ったが、上方の軍勢は家康衆のようには柵の外へ出て来ないので、真田衆が攻めこんで柵を一重破って突進した、そのためあらかた討死してしまった。あるいは何とか重傷のまま引き下った者もいたが、
その中の真田源太左衛門兄弟はともに深手を負ったまま討死した。
次に土屋右衛門尉は、先月の信玄公の御葬儀では追腹(殉死)をはたそうとしたが高坂弾正に意見されて、このような合戦まで待てと言われたにつき今まで命ながらえてきた。今こそ討死するのだと言って、敵が柵の外に出て来ないので、自分から攻め込んで柵を破ろうとし、そこで土屋右衛門尉は三十一歳でそのまま討死となった。
馬場美濃守のひきいる七百の部隊も、あらかた負傷して退き、または討死して残るは八十余人。美濃守自身は軽傷も負っておらず、他の同心や被官たちに早く退けとすすめなされたが、さすが武勇の武田勢ゆえ、美濃守をさしおいて退こうとはしない。
穴山殿は戦闘を交えることもなく、退く。
一条右衛門大夫殿(信竜)が馬場美濃守の近くに馬を乗り寄せて一所にいるとき、一条配下の同心和田という者は、三十歳ほどであったが、合戦慣れのした利口な武者ゆえ馬場にむかって、下知をなされるようにという。馬場美濃守はにっこりと,笑ってそれを聞き、命令するとすれば退くよりほかはあるまい、と退却を始めた。しかし、御旗本隊が退くまでは、馬場隊も退かず、勝頼公の「大」の字の御小旗が、敵にうしろを見せたのを見とどげてから馬場美濃も退かれた。
そのあとは一条殿も他の軍も退きなされた。
だが馬場美濃守は、いったん退却しながらも長篠の橋場までくると少しもとへ引き返し、高い所にあがって、我れこそは馬場美濃という者なり、討ちとって手柄にせよとまことにみごとに名乗る。敵兵四、五人が鑓を取って突きかかるのに刀に手もかげず、この歳六十二歳で討死をとげる。これは、勝頼公にこの合戦を思いとどまられるようにと意見したとき、この美濃守の意向をお聞き入れがなかったので、そこで長坂長閑、跡部大炊助にて、合戦をおすすめするおのおの方は遁れることがあろうとも、おとどめ申す馬場美濃はおおかた討死をとげるのだ、と述べた、そのことば通りであった。
ここで勝頼公につき従っていたのは、初鹿伝右衛門というこの年三十二歳の者、土屋惣蔵その年二十歳の二人が御供であった。土屋惣蔵は若いけれども剛強な根性があるから、兄の右衛門尉をたよりなく思って、かわりに二度かばって後退する。勝頼公は土屋惣蔵をふかくいたわっておられたから、二度とも御馬をとめて惣蔵を先にやりすごしながら立ち退きなされる。
その次に典厩の歩兵三十ほどと、馬乗三騎の将が後退したが、幌を着けていなかったから勝頼公は声をかけられた。金地金泥の幌に四郎勝頼と我らの名を書いて、信玄公の御時には先鋒をつとめたものだったが、今は我らが屋形の立場にいるから、その線を典厩に譲った。これを捨てなされば、譲るのは内輪のこと、勝頼が指物(標識)を落して逃げたといわれては、信玄の一代の名誉と御名をよごすことになる。とくに武田家、二十七代までのうちで勝頼一人が不孝をしたことになる。だからこの幌を捨てては退くわけにはいくまい、
と仰せられたので、初鹿伝右衛門は典厩の所へ乗り寄せこの由を伝えると、さすがは武田の武者、旺盛に戦って幌串をひろい、典厩の御供の青木尾張という者がこの幌衣をひろって首に巻いてもってきて伝右衛門に渡した。これを伝右衛門は請けとり勝頼公にお目にかけると、勝頼公はそれを御腰にはさんで立ち退かれた。伝右衛門はこの間、御使いに参上し、往復五六町働き廻ったが、そのうち勝頼公は御馬をとめられた。それは御馬がくたびれて動かなかったので、初鹿伝右衛門が御馬に声をかけて進めようとしたのだが、昔から今にいたるまで武勇の大将の敗け戦には、えてして馬も進まぬものなのだ。
そんなところへ笠井肥後守(河西満秀)という、信玄公の御代から旗本において指おりの剛強な武者が、どこかで勝頼公の御馬が動かなくなったと知って馬を速めて駆け付けてきて、馬からとび降り、この馬にえさを与えるからと言う。
勝頼公が言われるのに、そんなことをしていると、そなたは討死してしまうぞとの御言葉に、ものともせず、肥後守の命は義理よりも軽いことです。この命は主君への恩の為にさしあげます。我らの倅を以後取り立てていただければそれで満足、と言って屋形(勝頼公)を馬にお乗せする。自分は屋形の御馬の子綱をとって誘導いたし、それから元の戦場に一町ほどもどってから討死した。
 
さて信玄公が勝頼公へ御譲りし扱いを許しなされた、諏訪法性院上下大明神と前立に書かれた甲は、信玄公が御秘蔵になされていたから、諏訪法性の御甲、とこれを呼ぶ。この御甲を勝頼公も御秘蔵されておられたけれども、五月の頃とて暑いため、初鹿伝右衛門に持たせておられた。伝右衛門はあわただしく急ぎのあまり、この甲を捨ててしまおうというわけで捨てたのだ。けれども小山田弥助という武士が、あとからこれを見つけて、名高い御甲を捨てるのは何としてもといって持ち帰った。このように何も残さない心意気、義理深い剛強な心というのは、ひとえに信玄公の御威光が強くしみわたっているたまものである。 
御他界は天正元年酉の年だけれども、天正三年乙亥五月までの三年間は、ともかく強かったことは以上の通りである。これは勝頼公三十歳の御年のことで、三州長篠の合戦をいうのである。
甲州方は、侍大将、足軽大将、小身な兵まで、また剛強な武士とことごとく討死した敗北の合戦であった。討死した将は、
馬場美濃守、
内藤修理、
山県三郎兵衛、
原隼人佐、
望月殿、
安中左近、
真田源太左衛門、
真田兵部助、
土屋右衛門尉、
足軽大将の横田十郎兵衛で、他はまた追って記したい。
城伊庵 (城景茂)は深沢(御殿場)へ、小幡又兵衛は足助(愛知県)へ出動していたから、この両人は足軽大将として残った。 
御飛脚がたてられてすぐに甲府へ呼びもどされた。
 
甲州勢がこの合戦で少勢だったのは、越後の謙信から前年(天正2年)の十二月に、一向衆長遠寺(長延寺住職)を経て勝頼公に御断りがあったのによる。それは、遠州・三州・美濃の三カ国を制圧しつつ来春、勝頼公は御上洛なされよ、謙信は越前から上洛をめざすから、というのであった。が、勝頼公が承諾した旨の御返事をなさらなかったから、輝虎が立腹されたのだった。さらに東美濃、遠州の域東郡で、勝頼の先鋒が見事だと聞いて、謙信が信濃へ進攻したげれば勝頼公を恐れてのことだ、などと諸国から言われてはと考えて、信濃へ手をだすかもしれないと内々考慮しているとの報もあって、一万余の信州勢を高坂弾正に任せて越後のおさえこみに置きなされたからだった。だから勝頼公の総勢は、長篠へは一万五千で出陣なされたのである。
その中でも長篠の奥平貞能のおさえに二千の兵をさぎ、鳶巣山には、兵庫殿(武田信実)を大将にして、浪人衆、雑兵千人で、
名和無理介、井伊弥四右衛門(飯尾助友)、五味与三兵衛(高重)の三人を頭にして差し向けておいた。この方は一人も残らず兵庫殿をはじめあらかた討死であった。このように一万五千のうち三千の兵を失って、信長、家康勢に向うのはただ一万二千ということになったのだった。
高坂の異見 甲陽軍艦 品第五十二 長篠合戦
(『武田流軍学』吉田豊氏著 『甲陽軍艦』原本現代訳 発行者 高森圭介氏)
 
高坂弾正は、謙信勢をよく牽制しておいて、八千をひきいて駒場まで御迎えに出た。三年前に信玄公が御他界なされたおりもこのようだった、と高坂弾正は想いかえす。
信玄公の青貝で飾った御持鑓に、小熊の垂れの鑓印二十本、亀の甲の御鑓二本と合せて二十二本、鑓持の羽織まで段子にして慎重に支度をし、あちこちに伏兵を二人、三人と二日にわたって出し、甲府へ勝頼公が御到着になるまでは、少しも御旗本に支障がないように勝利したようにとりはからったのも、高坂弾正のやさしさと、信玄公から受けた御工夫の教訓の深さを身につけていたから、このようなことができたのだ。
以上のようなわけだったけれども、都の町人その他諸国の商人は甲府にもいたから、落書を札に書いて言ったものだ。
〃信玄の後をやうやう四郎殿、敵のかつより名をばながしの〃
(信玄公の後を「枕草子」の冒頭、春はあけぼの、やうやう白う----というように、四郎殿も明るく継ぐかと思ったが、敵が勝つことにより、勝頼公は長篠で名声を流してしまったことだよ。)
 
◇高坂弾正は勝頼公へ五ケ条にわたり意見を申した。
◇駿河・遠州は氏政へさしあげて、北条氏政の幕下におなりになり、勝頼公は甲州・信州・上野の三カ国を統治して氏政の御先をつとめなさることで交渉なさるのが妥当であること。
◇右に関して氏康は御娘子がおられるから、むかえて勝頼公が氏政公の御妹智におなりになるのが穏当であること。
◇木曾(木曾義昌)を上野小幡へさしむけ、小幡上総を信州の木曽(福島城)へ配備なさるのが適当であること。
◇ただ今まで足軽大将衆に皆兵を持たせられてきたが、馬場、内藤、山県の三人の子供をはじめ、皆同心をとりあげて、(固定的な関係でない)奥近習とし、小身として召しつかわれることです。明日にも我れらの命はてたならば、我れらが子息、源五郎も小身の地位になされて我れらの同心、被官の誰にでも御配置いたされるのが妥当であること。
◇典厩・穴山殿には腹を御切らせなさるべぎです。穴山殿を典厩に仰せつけられ、典厩を我れらに御命じになられるのがもっ
ともだと申し上げたけれども、勝頼公が御承諾なされず、五ケ条のうち小田原北条氏政の御妹聲におたりになったことだけが、配慮された唯一の点だった。
あとは、真田源太左衛門のあとに弟の喜兵衛(真田昌幸)を任命されたことくらいである。
       信長、家康はこの合戦に勝ち、めでたいとよろこび、信長が家康に向かって言った。
       その方に駿河の国をさし出そう。三河、遠州については異議なく城を明け渡すものだ。駿河は家康自身で統治できかねるなら加勢いたすが、というのである。
家康は答えて言った。
◆ 我れら一身を投げうつ覚悟であるから手こずるようなことはまずあるまいと言うと、信長は機嫌よく、では我れらは東美濃の岩村(聰那)を攻め、秋山伯耆、座光寺そのほかの武田勢を討ちとるというので、三年のうちには信州へとりかかるつもりで、まず岩村へ軍を寄せていく。秋山伯書は軍を出し、信長の軍とにらみあったままで、そこはそのままで押えおき、越前へと進攻し、その年七月には朝倉(義景)を倒す。
◆ 一方家康の方は、長篠の合戦の勢いをかりて、駿河の油井、倉沢まで攻略し、引き返して遠州二俣を攻めたが、芦田は少しも弱気を見せない。そこで家康は三河侍を皆石集し、猿楽をあつめて一日能を演じさせる。次の日に懸川へ軍を進め、その次は諏訪ノ原へ攻めかかり、六月七月八月まで攻め続けたので諏訪の原城は家康に明け渡される。
◆ 家康の家老の酒井左衛門(忠次)という侍大将は言った。甲州方の城はすでに攻め落したのも同然、以後次第に落城していくはず。一気に攻めかかりなされと申す。
◆ 家康はしかしそれを聞き入れず、小山の城を攻めよと命令する。
◆ 酒井左衛門は申す。信玄の武道は古今例のないほどだったから、その跡つぎの勝頼はすぐに後陣をしいて支援するだろうと言う。
◆ 松平左近という家康の家老は、やはり小山城に攻めかかりなされと申す。勝頼公は、五年や三年の間は出動不可能である。理由は、すぐれた武将をはじめ大小の兵を多く討死させ、そのうえ越後の謙信に信濃をとられない様にと努めねばならないからです。どうしてこちらまで出動する余裕などあり得よう。今のうちに小山城を攻め落しなされば、高天神・二俣の両城も難なく攻め取りなさることもできます。と婆言したこともあって、左衛門尉もそれに賛同し、小山城へ攻め寄せた。小山城には駿河の先方侍大将が五頭たてこもって守っていた。
◇ こうして八月に入ると勝頼公は甲州・信濃・上野勢で、名の通った者の子孫や、若い者で出家になったり、町人になっている者を皆召集して二万あまりの軍をしたてて、八月中旬.に遠州小山の支援をした。家康勢はこの様子をみて、小山城をとりまいた軍をといて立退いたのだった。駿河の先方衆は城からも出て、その後退を妨害した。酒井左衝門尉衆の中の戸田左門が、大津土左衛門と名乗っていたが、その者がしんがりをつとめた。高坂弾正はこの時も御意見を申し上げ、勝頼公がこの際に有無をいわず決戦をと言われたのを、引きとめたのだった。というのも、負けて以降、百日たらずで出陣したのだから、敵は勝ちほこった勢いがあり、とりまいた城をとかせて圧倒しただけでも、武田の武威がまだ衰えていない証拠だと弾正がしきりに力説申し上げ、引きとめ申したため合戦にはならず、互いに軍を引いたのだった。
◇ 勝頼公は、小山の城に逗留なされて、小身なのに小山城に籠城してよく堅固に維持し活躍し、功あったとて御感状を下された。その御感状を受けた衆は、蒲原小兵衛・鳥井長太夫.朝倉六兵衛・朝比奈金兵衛・村松藤左衛門・望且七郎左衛門・岡部忠次郎・・鈴木弥次右衝門・末高・杉山。以上であった。

武田信玄、恵林寺での葬儀 武田滅亡

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恵林寺での葬儀
(「武田信玄の生涯」『別冊歴史読本』)昭和62年)新人物往来社
 
信玄の死を契機として、畿内の信長包囲網も瓦解していった。
●信長  天正元年8月
将軍義昭が追放された翌月、天正元年八月には越前の朝倉義景と近江の浅丼長政とがあいついで本拠を信長に攻められ、ともに滅亡した。
近畿周辺の反信長勢力で残ったのは、肩山本願寺を頂点とする一向一揆だけであり、とりわけ伊勢長島の一向衆は根強く信長に低抗した。
○勝頼  天正元年7月14日
一方、信玄亡き後の武田領国は、四男勝頼が継承し、三年秘喪の遺命により、表向きは信玄が病気中のため隠居ということにし、正式に家督相続をしている。その経過ははっきりしないが、七月十四日には、北条氏政が長延寺師慶に宛てた書状の中で勝頼が家督を継いだので、攻守同盟の誓詞を交換したと伝えているし(「秋山吉次郎氏所蔵文書」)
○勝頼  天正元年8月19日
八月十九日には勝頼自身が高野山の成慶院に対して、家督相続の祝儀の礼状を出している。
 
     周辺の諸大名は信玄の死の情報を得たものの、対外的には勝頼が秘喪の擬装を続けたので、半信半疑であった。 
●家康 そのため当面の最大の敵であった徳川家康は、信玄の死の真偽を確かめるため、五月に駿河へ攻め入り、さらに東三河へ侵入し、九月には長篠城を攻めている。
○勝頼 天正元年9月8日
勝頼は九月八日、在陣中の真田信綱に(天正二~四年)対して遠州の武田勢を二俣城に集め、長篠城を救援するよう指令したと伝えており(「真田文書」)、さらに東三河衆に続友と謀反者が出ているとの報告をうけ、長篠城在番衆に城内の用心を厳重にするよう指令している。
しかし、そのかいなく九月八日、長篠城は家康に奪還され、武田方は三河から後退した。この家康の一連の動きに対して、勝頼が出陣した形跡はみられない。おそらく服褒中ということで、行軍を自重していたのであろう。
○勝頼 天正元年9月21日
九月二十一日付の甲斐二宮神社宛の分国昇平の願文では、自らを「重服深厚之族」といつている。
○勝頼 天正元年11月
十一月に入ると勝頼は行動を起こし、まず分国中に二十二ヵ条の軍役定書を発して出陣命令を出し、十一月四日には、下野の佐野房綱に対して遠江へ出兵して浜松近辺に放火したこと、久能城・懸川城(静岡県掛川市)を攻めていることなどを通報した(『甲斐国志』)
●謙信 天正2年(1574)
上杉謙信も武田領の西上野へ出兵の動きをみせ、同盟者である信長・家康に同時に武田領への侵入を呼びかけている(「榊原家文書」)
○勝頼 天正2年(1574)1月
それに対して一月末、勝頼は東美濃へ出兵し、信長方の岩村城(妓阜県恵那郡岩村町)を攻め、その属城十八を落とし、さらに明知城(恵那郡明智町)を攻めて、二月七日には落城させた。
○勝頼 天正2年(1574)3月6日
三月六日には、諸国を流浪ののち、信州高遠に戻っていた祖父信虎が死去したとの知らせをうけ、岩村田龍雲寺の北高全祝禅師を甲府へ呼び、大泉寺での葬儀の執行を依頼している。
天正2年(1574)5月~6月18日
五月初旬、勝頼は遠江へ出兵し、同二十三日付の江尻城(清水市)主穴山信君宛の書状によれば、高天神城(静岡県小笠郡)主小笠原長忠の要求にこたえて誓詞を書き、領地なども安堵する亡伝えており(「桜林文書」)
『信長公記』によると六月十八日、高天神城は開城したという。
●信長 この頃、信長は三度めの長島一向衆攻めを敢行しており、今回は、総攻撃を加えて根絶やしにする勢いであった。
○勝頼 天正2年(1574)7月5日
勝頼のもとへも顕証寺から緩軍要請があり、七月五日付の武田信豊書状によれば、援軍に赴いた種村兵部丞の在陣をねぎらっている(「福正寺文書」)
●信長 しかし九月末には長島は陥落し、信長は膝下の宿敵を排除した。
○勝頼 天正2年(1574)8月~10月
八月末には勝頼自身が長島後詰めと称して再度遠江へ出陣しており、十月に小笠郡の諸士の知行を安堵している。
 
○勝頼 天正3年(1575)3月
翌天正三年の初めは目立った動きがみられないが、三月末になると、上野の安中景繁に諏訪上原域(長野県茅野市)へ参陣を命じた
り、四月十三日には、やはり上州箕輪城(群馬郡)の内藤昌豊に参陣を命じ、二十日には勝頼自身が甲府を出陣すると伝えている(「信州古文書」)。そして五月六日、三河長篠に着陣し、諸士に十三ヶ条の陣中定書を示し、長篠城を包囲した。
● 家康は信長に援軍を求め、十八日に長篠城南方の設楽原に着陣した。
○ 天正3年(1575)3月
●○ 両は五月二十一日に設楽原で対戦し、勝頼は大敗。して宿将の多くを失った。
 
天正3年(1575)8月~11月
●家康 この戦いののち、家康は一気に遠江の武田方を攻め、八月には諏訪原域(静岡県榛原郡)、二俣城(天竜市)、光明寺山城などが落城した。
●信長 信長も美濃岩村城を攻め、十一月二十一日に陥落させている。
 
○勝頼 天正3年(1575)12月
十二月に入って、勝頼は再起のための三河出動命令を出し、「当家興亡の一戦」に臨むつもりだったが、翌天正
四年正月六日の春日昌信宛書状によれば、ト筮(ぼくぜい)の結果とりやめたといっている(「宝月氏所蔵文書」)
 
父信玄の葬儀
○勝頼 天正3年(1575)4月12日~26日
そして、父信玄の三ヵ年秘喪が終わった四月十二日、領内に喪を発し、十六日を期して葬儀を行なうことにした。
葬儀の模様は、その場所となった恵林寺で書きとめた「天正玄公仏事法語」と、参列した御宿監物の書状に詳しい。それによれば、葬儀の前日、信玄の遺骸を納めていた塗籠を開いたところ、玉体は崩れて彩らず、壼中に座していたという。そして当日は一門をはじめ僧侶千余人が参列し、盛大をきわめた葬儀が執り行なわれており、四月二十六日までには七周忌の法要まで済ませている。
 
武田氏滅亡
天正5年(1577)
○勝頼 天正5年(1577)1月22日
勝頼は北条氏政の妹を正室として迎えた。「北条系図」によれば氏康の末子で、当時十四歳であったという。
これは長篠の戦いで大敗した勝頼が、その後、徳川家康に遠江を侵略され、さらに西上野で上杉謙信の攻勢に直面し、どうしても北条氏との関係を強化しておく必要があったからである。
 
天正6年(1578)
○勝頼 天正6年(1578)3月13日~6月上旬
〔御館の乱〕
越後春日山城中で上杉謙信が病死すると、その家督の座をめぐって養子景虎と景勝との争いが起こり、勝頼もこの越後の内乱(御館の乱)に巻き込まれていった。
五月二十九日、勝頼は北条氏政の要請によって、景虎に援軍を送ることになり、武田信豊を信越国境に派遣した。
六月上旬、景勝側から和睦の申し入れがあり、信豊の斡旋で勝頼もそれを承諾し、誓詞を交わすことになった。
○勝頼 天正6年(1578)6月22日~12月
勝頼は信濃海津城(長野市)を出発して越後へ向かい、府内(上越市)に滞在して景虎・景勝間の和議調停に尽力した。
しかし調停は進まず、勝頼は八月二十八日に甲府へ帰陣した。府内滞陣中から景勝側の勝頼への働きかけは積極
的で、贈答品や同盟の条件などが示されていた。
十二月ころまでに両者の盟約は整い、景勝側の示した条件は、勝頼の妹を妻に迎えること、上州の割譲、黄金を贈るというもので、勝頼にとって一方的な好条件であった。
 
天正7年(1579)
○勝頼 天正7年3月24日
天正七年三月二十四日、御館の乱は景虎の自害によって終結し、景勝が正式に上杉の家督を継承することになった。景勝は盟約に従って沼田・厩橋など東上野を勝頼に渡し、十月二十日には勝頼の妹の御菊御料人を越後に迎えている。
●氏政  天正7年9月5日
こうした勝頼の動きに対して、景虎の実兄北条氏政は甲相同盟の破棄を決意し、九月五日には家康に書状を送って、駿遠の武田領の挟撃を要請している。
    勝頼
 こうして勝頼は東上野と駿豆国境で氏政と争うことになり、さらに家康の遠江侵攻も激しく、にわかに軍役が増していった。
七月、勝頼は上野へ出兵して厩橋城へ入り、武田信豊に広木城を攻めさせ、
九月には駿河に出陣して黄瀬川で氏政軍と対戦している。いずれも決戦にはならなかったが、状況は元亀二年末の甲相同盟成立以前の構図に戻ってしまった。
 
天正8年(1580)
○勝頼 天正8年3月
翌天正八年に入ると北条氏政との対立は一層緊迫したものになり、三月には勝頼も駿河浮島ケ原へ出陣し、氏政の水軍と伊豆三島の重須沖で対戦した。この戦いは武田水軍の活躍で勝頼有利のうちに終結した。
 
●家康 天正8年8月・9月
氏政の要請によって遠江へ侵入してきた家康は、武田方の拠点であった高天神城(静岡県小笠郡)を攻め、さらに進んで駿河に入り、田中城(藤枝市)をも攻撃した。
八月から九月にかけても北条・徳川の連携した出兵があり、
○勝頼 天正8年9月28日
駿河へ出陣して、伊豆戸倉で氏政と対戦したのち、急いで沼津城の修築を進めている。家康軍に包囲されていた高天神城からは、勝頼のもとに援軍要請があり、九月二十八日、江尻城(清水市)主の穴山信君が向かったが、途中で敗れて退いた。
●信長
この年閏三月には、信玄以来、武田氏と同盟し、信長に対抗していた大坂の石山本願寺が、ついに信長に屈して講和を結び、本拠を開け渡すことになった。
○勝頼
これによって勝頼の外交策も変更を余儀なくされ、中国の毛利輝元らと連絡をとって進めてきた信長包囲網は崩れ、逆に信長の武田領への侵攻が迫った。
●信長
信長はこのころから木曾氏に働きかけて勝頼からの離反を誘っているし、穴山信君も家康の内応交渉に心を動かしはじめたようである。
○勝頼
しかし上州では真田昌幸の活躍によって武田方が優位を保っていた。六月十八日、昌幸は沼田城(沼田市)を開城させ、利根郡・吾妻郡を完全に押さえていた。十月には勝頼も上州に出陣し、膳の城を攻め落としている。
 
天正9年(1581)
○勝頼
天正九年に入り、勝頼は領国維持の危機感から、新たに防衛のための築城を決し、正月、韮崎の北、七里岩の要害に新府城建設の着工をした。
普請奉行は真田昌幸が担当し、分国中の郷村から家十間につき人足一人を徴収し、軍役衆には人足の糧米を割り当てた。
●家康
三月二十二日、ついに高天神城は落城し、家康は勢いにのって駿府近くまで侵入している。
●氏政
これに呼応して氏政も駿豆国境に出陣し、武田方と対戦した。十一月十日には、同盟者の上杉景勝に書を送って、新府城普請成就の祝品の礼をのべ、あわせて近日中に新城へ移転する予定であったが、氏政方の伊豆戸倉城主笠原新六郎らが武田方へ帰属したので、その仕置のために出陣して遅れていると伝えている(「上杉家文書」)
○勝頼
十二月二十四日、勝頼は新府城へ移り、新年を迎えた。
 
天正10年(1582)
○勝頼
天正十年正月二十五日、まず木曾義昌が離反し、勝頼がその討伐に向かう。
●信長
信長の先陣として長男信忠が木曾救援のため出馬、二月十四日には伊那へ入った。
○勝頼
勝頼は鳥居峠(木曾郡木祖村)で木曾勢に敗れ諏訪へ後退し、三月二日に高遠域が落城すると新府城へ帰り、翌日、自ら城に火をかけて一族とともに小山田信茂の郡内領へ落ちのびようとした。
ところが、信茂に笹子峠で行手をはばまれ、日川沿いを遡って田野(山梨県東山梨郡大和村)へ至った十一日、織田方と周辺の地下人に前後から攻められて一族とともに自害し、武田家は滅亡した。

信玄と父の離別のなぞ、信玄は本当に父信虎を追放したのか

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信玄と父の離別のなぞ、信玄は本当に父信虎を追放したのか
『甲陽軍艦』「品第三」にて検証
 
私は多くのこの関係書を読んできたが、未だに理解できないほど、この信玄の父追放は謎に包まれている。当時の信虎は、ようやく州内外の紛争や戦いを乗り切り、人間としてもその人望まで相当なものであったに違いない。しかし甲陽軍艦やその後の資料は「信玄が追放」と伝える。しかし戦争や紛争に勝つために必要なものは戦力・戦略それに団結力などが必要となる。またそれを支える武器や軍馬や食糧などすべてがあって長期の戦いが可能になる。よく引き合いに出される「妙法寺記」の記録では甲斐に人が生きていては不思議なくらい天災や戦いが繰り返しありすべて記載内容を信じるわけにもいかない。
 また後世の著は信玄を讃えるあまりに、信虎を悪行者に著述してある。しかし誰が同書こうが、その事実を伝える書は見えない。唯一の「甲陽軍艦」は真実を伝えているのであろうか。何筆にもなる「甲陽軍艦」は時には高坂弾正の記が見えるが、それは長坂長閑や跡部への憎しみがにじみ出ている。いずれにしても「甲陽軍艦」の内容は相当な知識博識人物の著したことは間違いない。
 
【信玄、父追放の序奏 不和】
甲州の武田信虎公の秘蔵の鹿毛馬は、足から肩まで四尺八寸八分、その鬣(たてがみ)姿はたとえば、(宇治川の合戦で先陣を争った、あの源頼朝公の生食・摺墨(いげずきするすみ)といった駿馬にもひけをとらないと、近国まできこえた名馬なので、鬼鹿毛と名付けた。跡継ぎの勝千代殿(以下、信玄)がその鬼鹿毛を欲しがった、信虎公は並はずれて悪大将であったので、信玄が、我が子だといっても秘蔵の馬を容易くゆずる気持はまったくなかった。
そうかといって信玄が望みを全く聞かないわけにもいかない。考えた末に、
「お前はまだ若いからこの名馬は似合わない、来年十四歳で元服に達した時に、先祖伝来の義弘の太刀、左文字の刀脇指、そして二十七代までの御旗・楯無の鎧を授けよう、と約束をした。
信玄はそれには同意せずにかさねて馬を所望した。
「楯無はわが甲斐源氏の祖、新羅三郎の鎧、御旗は同様に八幡太郎義家の旗である。太刀、刀、脇指は先祖伝来のものであるから、家督の相続時にいただくべきです。来年のといってもそれまでは半人前なので、それらは今受け継ぐわけにはまいりません。」
「それにひきかえ馬は今より乗り習い、一、二年の間には、どの出陣にもなんとか後陣をつとめたい覚悟で所望いたしましたので、以上のような御意向では、とても承知することはできません」と言われる。
すると信虎公はひとかた在らぬ狂気の人であられたので、おおいに怒って大声をあげておおせられるに、
「家督を譲るも譲らぬもこの胸三寸にあることだ。先祖代代の大切な武田家の宝を譲ろうというのに厭だというならば、弟の信繁を武田家の惣領にする。」
「この父の命令をきかない者は追放するぞ」と。
その時、信玄は
「武田家を離れたり、他の方策を考えても、なまじ父は承諾すまい」と考えて、突如、備前兼光の刀を抜き放ち、使いの者を信虎公のもとへ追い払ってしまった。
そんな折、禅宗曹洞宗の賢者、春巴(しゅんは)和尚が仲裁にはいられたことにより大事にはならなかった。
その後も此の一件のわだかまりはとけず、相変わらず信玄を信虎公は苦しい目に合わせられた。で、家中の多くの人達は皆、勝千代殿を馬鹿にした感じでみていた。勝千代殿はこの軽んじられた表情を承知していたが、一層愚かなそしらぬふりで、落馬して背中に土をつけ汚れた姿で信虎公の前に平気で出られたりした、書も無理に拙くまずく書き、水を浴びても深い所で溺れたり、石や材木の大物を引く場合でも弟の次郎殿は二度引けても、勝千代殿はあっさり諦め一度きりでだめだという風であった。
何もかも弟より劣る人というわけで、信虎公が勝千代殿をそしられるのにならって、家中皆それに同調する気風があった。
【駿河の今川義元公登場】【信玄元服】
そんな中、駿河の今川義元公の肝入りで、信玄は十六歳の三月吉日(一五三六)に元服なされて、信濃守大膳大夫晴信と命ずる旨の勅使が宮中より参った。勅使転法輪三条殿(三条公頼)が甲府へ下向なされ、そのおり勅命をもって三条殿の姫君を晴信へということで、同年七月お輿入れということになった。
 
【信玄初陣と信虎】
その年の十一月は晴信公の初陣であった。敵は海野口といって信濃国に城をもっていた。ここへ信虎公は出陣なさって、敵を追いつめたが城内の兵は多い。平賀の源心法師(須玉町に墓がある・胴塚)という者が加勢に来て籠っている。とりわけ大雪が降って攻めにくく、城はとても落ちそうな気配すらない。
甲州勢はそこで家臣が内々相談して、「城内には三千ほどの人数ということなので我攻(無理押しの攻め)ではまずいということになる。味方の兵もよもや七、八千には達していまい。」
「それに今日はすでに十二月二十六日で暮れもせまった。ひとまず甲州へ帰陣されて、来春攻めてはいかがであろうか。敵も大雪であり、年末であり、追撃するなどということは決して考えられないことですから」
と申しあげると、信虎公は納得して、
「では明日早々に引き返そう」
と決心しておられた。そこへ晴信公が参られて、
「それでは私にしんがり(殿)を仰せつけられたい」
と所望されたのであった。
信虎公はそれをお聞きになって大いに笑い、
「お前は武田家の不名誉になることを申すものだ。敵は追撃はしてこないと戦いの功者が云っているのだ。また例え私がお前にしんがりを申しつけても、長男であるお前は次郎に仰せつけていただきたい、といってこそ惣領というべきなのだ。次郎がお前の立場ならけっしてそのような望みは申し出まい」
とお叱りなされたが、晴信公は聞き入れず強くしんがりを望まれ実現した。
それではということで、信虎公は二十七日の暁に先頭になって軍馬を引かれた。
晴信公は東道甲州方面へ三十里ほどあとの地に残って、いかにも用心したようすで、ようやく三百ばかりの手勢を指揮して、その夜は食を一人あて三人前ほど作って、早々に出発の準備をする。身支度して兵器をそのまま身につけて、馬はよく養い、鞍も置いたままである。寒空なので、明日出発するという時、酒をたしなむ人もそうでない人も酒をふるまい、「夜七ツの時分(午前四時)になったら出かけるつもりだ」と自分で触れてまわった。
家人.召使いも晴信公が深慮なされているとは知らない。
「ほんとうに信虎公が信玄の事を悪く言うのもごもっともだ。この寒天にどうして敵が追撃などしてこようか」 と、部下の人々皆がつぶやくのだった。
さて七ツの時分に出発したのだったが、甲府へは行かずに取って返し、後にしてきた城を攻略し、二十八日の暁にわずか三百あまりの兵力で、あっさり敵城を陥してしまわれた。
城の内では平賀の源心法師が、側近の部下をすでに二十七日には里にかえし、源心だけは一日くつろいで、寒天なので二十八日の昼にでも発とうとのんびりしていた。
他の侍も年越の用意に自分の家に帰り、城に歩武者七、八十人のみであった。
晴信公の軍勢は、源心をはじめとして番兵を五、六十人討ちとり、功名も何のその、
「平賀の源心の首だけをここへ持って参れ」
と命じて前に置か昔、根小屋に火を放ち、あちこち油断していた敵の侍どもを一からげに、二十、三十人と討ち捨てる。他からの加勢の者は村々におって、この度は一日休息してから帰城しようとしていた矢先だったから、なおのこと戦わずに逃げて行くのだった。
その中には剛の武者がかなり居るにはいたけれども、すでに落城し、そのうえ晴信公大将一人とは思わなかった。信虎公が引き返して戦っていると思っているから、一万人におよぶ人数が攻めているのだから何の応戦もできまいというわけで、女子を連れて逃げるのに急で、山の洞谷に落ちて死ぬ有様であった。
まったく晴信公の手柄は古今まれなことだと、他の国の家臣にまで評判がたった。
【平賀源心】
ところでこの平賀源心法師は、非常に剛の兵で、力も七十人力との評判であった。きっと十人力はあっただろう。四尺三寸ばかりの刀を常に所持している大人で、数回の激しい戦いで働いてきた強兵である。これを晴信公は初陣で討ちとり手がらをたてたのだ。これが十六歳の時のことである。
【信玄に対する信虎の姿勢】
ところがこのことも信虎公がいわれるには、城にそのまま居て使者もたてずに城を捨ててきたのは臆病者だと非難されたこともあって、内衆十人のうち八人は晴信公の戦功をほめなかった。時の運だったとし、その上敵方は加勢の者もいなくなり、地元の侍も年とりの用意に城から在所に降りていて、あき城になっていたのだから勝利も当然だと、晴信公の武勲を認める者はすくなかった。
信虎公へのおせじもあって、弟の次郎殿をほめる手前、心では晴信公を讃しながら、口先ではそしるものばかりであった。弟の次郎殿とは、後に典厩信繁と申された人のことだ。
とにかく、晴信公は奇特な不思議な魅力をもつ名人であられた。このような武勲をたてられてもおごる気配もなく、そらとぼけた様子で時々駿河の義元公へ書信を寄せた。次郎殿を惣領にたて、自分を嫡子からはずすと信虎公は申されるが、そのおりは義元公だけが頼りですからよろしく、といろいろお頼み申されたのだ。だから義元公もまた欲をおこし、信虎公は舅にあたるし、自分より前から剛者としてきこえているから、今は甲州一国であるが我が配下にはとてもなりそうにない。だから晴信をとりたてておけば、確実に我らが統治下に入り、そうなれば子息(今川氏真)の代までも旗下に仕えるかたちになるだろうと考えられて、晴信公と組んで信虎公を駿河へ招かれたのだ。
 
そのあと晴信は思いの通りに謀叛をおこして成功なされたわけだが、それには今川義元公の以上のような思惑がはたらいていたのだ。しかしこの謀叛も信玄殿の御工夫が大きくものをいったのである。
信虎公が次郎殿を惣領にたてたいという意図は、重大な手ちがいであったから、先祖の新羅三郎公の御憎しみをうけて、あのように御牢人の身(浪人)になられたのかと思われる。
前車をくつがえすをみて後車のいましめ(前人の失敗は後人の戒め)といわれるように、勝頼公はこれに学び、間違った判断をけっしてなされぬよう申上げる次第です。
さて信玄公の初陣のしるしに、平賀の源心を石地蔵として祭り、今でも大門峠に碑を建ててある。刀は常に館のお弓の番所に「源心の太刀」として置いてある。
【勝頼に対して】
武士はただ剛強なだけでは勝つことができない。勝利がなければ評判をとって有名にはなれぬ。信玄公のなされた業績を手本にたされず、ただやたらと勝利と名声を望まれるから今度の長篠の戦も失敗し、家老衆を多く失ったのである。これは勝頼公の若気のいたりであり、おのおの方の配慮が浅く誤っていたからである。
我らが死んだあかつきには、この書物をどうか御覧になっていただきたい。右のような御父子の事は、信虎公が四十五歳で浪人になられた時のことである。信玄殿は十八歳の時であった。
天正三年六月吉日 高坂弾正

信虎・信玄随伴「高白斎日記」

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信虎・信玄随伴「高白斎日記」
明応七戊午年(1498)~天文二十二癸丑年(1553
 
 
○明応七戊午年(1498
正月六日、信虎公誕生。
同六月十一日、大地震。
 
○明応八己未年(1499
朝鮮より一切経渡る。
 
○明応九庚申年(1500
九月二十八日、主上(後土御門天皇)崩御(御年五十九)
 
○明応十幸酉年(1501
二月二十七日、栗原式部大輔騎馬二百騎之を預かる。
 
○文亀二壬戌年(1502
七月、将軍(足利)義高公名を義澄と改める。
 
○文亀三庚亥年(1503
夏大早。
 
○永正元甲子年(1504
十月、上杉(山内)顕定と上杉(扇谷)朝良合戦。
〈注〉九月、両上杉は武蔵立川に括いて合戦。山内顕定は鉢形城に、扇谷朝良は河越城に拠った。
 
○永正二乙丑年(1505
九月十六日、傑山(武田信昌)死去。
〈注〉①武田信守の子。寛正六年、ときの守護代跡部上野介景家の横暴をにくみ、兵を挙して景家を謙している。五十九歳で没した。
 
○永正三丙寅年(1506
・両上杉和睦。
 
○永正四丁卯年(1507
二月十四日、孚山(武田信縄)死去。(武田信昌の子。従四位下左京大夫陸奥守。)
六月二十四日、紬川政元遭害。
 
○永正五戊辰年(1508
十月四日、油川彦八郎(武田信恵)と四郎(縄美)生害。
〈注〉信恵は信昌の子。信縄の弟。四郎も信縄の弟。信虎年少で家督したのを快しとせず、惣領家に抗し曾根勝山の城に拠ったが戦死。
 
○永正六己巳年(1509
十月二十三日、小尾弥十郎江岬城を乗っ取る。
 
○永正七庚午年(1510
八月七日、大地震。
 
○永正八幸未年(1511
八月、前将軍源義澄江州岳山にて逝去。
 
○永正九壬申年(1512
(輿か)
大内介義口船岡山(山城国)の軍功を賞して従三位
に叙す。
○永正十癸酋年(1513
三月、義ヂ(足利義植)江州合戦に於て敗軍。
 
○永正十一甲戌年(1514
一条前関白冬良票ず。
 
○永正十二乙亥年(1515
四月十日、積翠寺(要害山麓の古寺)の客殿柱立つ。
同五月二十四日、残らず柱立ち、並びに棟上げ。
 
○永正十三丙子年(1516
七月、北条(長氏"早雲)、三浦(義同)の城(新井城)を攻め取る。三浦道寸討死。
九月二十八日、扇山(恵林寺の北の仙)破れ、之に依り信虎公恵林寺へ御引き籠る。翌月、御帰陣。
 
○永正十四丁丑年(1517
七月十三日、暴雨洪水。
 
○永正十五戊實年(1518
天下飢饉、餓死。
 
○永正十六己卯年(1519
五月二十七日、小田原に至る。
八月、北条早雲死
八月十五日、新府中(麟鰯ヶ崎の館)御鍬立て初む。
八月十六日、信虎公御見分。
八月十二月二十日
庚辰、信虎公府中へ御屋移り。
 
○永正十七庚辰年(1520
三月十八日、三沢(現下部町)の宗香(未詳)、甲府に於て万部の経を初める。
三月晦日戊午巳刻、宗本地香夢 本地・空虚・水和蔵。
六月十日丙虎、今諏訪合戦(大井氏との合戦)、是より逸見西郡滅却。
晦日丙戌、積翠寺丸山を御城に取り立てられ普請はじまる。
六月朔日丁亥、信虎公丸山(要害山)の城に御登り。香積寺(現甲府市.臨済宗済白寺末)に下さる。
十五日、七月節(立秋)
 
○大永元幸巳年(1521823日改元
正月二十七日、正法寺悉皆御判形を下さる。
三月二十五日、将軍義稙京都に没落する。
八月十日己丑申刻、昌頼(未詳)丸山の城主に仰せ付けられる。
九月、久島(福島)の脚事。
十六日乙丑亥刻、富田落城(現甲西町.城址不詳)。弓刻、御前御城へ御登り。
十月十六日丁未、飯田(現甲府市)に於いて合戦御勝利。
◎十一月三日幸亥戌刻、晴信公誕生。墓目を曾根三河守縄長相勤む。
十日戊午、敵駿河衆勝山(現中道町.城址あり)へ移る。
二士二日幸未酉刻、上条河原(現敷島村・荒川の河原)に於いて御合戦。駿河福島衆(福島兵庫助正成の人数)数多討ち捕り為される。
◎二十七日乙亥、積翠寺より御曹司殿(太郎晴信)初めて府中へ御下り。
 
○大永二壬午年(1522
正月朔日立春(正月節)
正月十四日乙未、富田に蹲る駿河衆除かる。
註 上条河原の戦い(前年十一月二十三日)で敗れた駿河衆が富田(戸田)に籠り越年していたが、
一月十四日、身命を乞うて帰国した。
八月十日甲申、正法寺(金剛山正法寺)に初めて行く。
八月十一日、観音寺(法城山観音寺・臨済宗妙心寺末)に下される。
十六日、三沢の宗香遷化。
 
○大永三癸未年(1523
正月十二日甲寅、立春。
正月、観音寺へ初めて行く。
四月大幸丑、義稙公莞ず。
十六日節。
二十四日、湯の島(湯村山)の山城御普請はじまる。
五月小十三日、水神のホクヲ()、城に立つ。
◇六月小十日己酉、信虎公善光寺(信濃国)へ御参詣。
◎十二月三日己亥、晴信公御袴着。
 
○大永四甲申年(1524
正月二十四日節。二月七日壬寅、信虎公凍橋(現大月市)へ御出陣。
註〉『妙法寺記』に「大永四年、此年正月より陣立て初めて二月十一日、国中勢一万八千立て猿橋に御陣にて日女に御働候、奥三方へはたらき、やいくさ(箭軍)あり此時分乗房(上杉憲房)は、八十里御陣よせと承り候。」と、ある。
四月小三日戊戌、庫院の柱立つ。
四月四日、小庫院柱立つ。
四月十四日、信虎公御移徒なされ、五貫下される。
六月小十六日、一条(一蓮寺)小山(現甲府城坦)御普請はじまる。
七月小甲子二十日、信虎公関東へ御出陣。岩村攻め(現岩槻市。上杉朝輿を援けて、信虎は北条氏綱勢と戦った。)。
八月大朔日、癸巳節。
 
○大永五乙酉年(1525
正月小幸酉。
十二月大甲寅。
十二月二十八日壬午、信虎公御出。未刻、報恩寺(不詳)下さる。
 
○大永六丙戌年(1526
正月小朔日乙酉、万森(現山梨市)西の方へ、新三郎(未詳)越す。
正月十七日二月節。
二月大十三日丙寅、山水作り初める。
二月十八旦二月節(晴明)
三月大幸巳。
四月七日、帝(後柏原天皇)崩御。
四月二十七日、本一条を小山原へ引き、新一条道場の柱立て。五月大乙巳午刻、一条道場(一蓮寺)の棟挙げ。
六月二十三日、今川氏親死す。
七月大壬午二日、報恩寺門前の者共、御普請御赦免。
七月二十八日、羽黒(現甲府市)の彦右衛門林、たちきられ候。
八月小壬子二十三日節。
九月大幸巳十六日丙申、内匠又四郎(未詳)の子、出仕。
十月小幸亥五乙卯午未刻・駒井(現韮崎市)五百貫、昌頼に下さる。
十月八日戊午、昌頼駒井へ打ち入る。
十八日戊辰、大蔵峯へ御出陣。
 
○大永七丁亥年(1527
御奈良 立春去月二十六日。正月二十五日幸亥、上条の地蔵堂(現甲府市・稲積国母地蔵)取り立てる可きとて、南宮(古府中の地名)の西の地形平普請初まる。
二月小朔日乙酉二日、小田切落城。
二月十八日、報恩寺の堂建つ。
二月二十七日乙亥、堂の棟上げ。
二月二十八日、矢野分御代官仰せ付けらる。
四月小戊申節(立夏)
四月二十日丁卯。
五月大丁丑節。
五月十八日甲午、岩殿(現大月市)の橋掛かる。
六月小二日節辛亥。信虎公御出で在り魚鳥を取る。
◇七月大丙子八日、信虎公善光寺へ御参詣。
◇七月十七日、御下向。
七月十九日甲午、上条の地蔵、府中へ御移り。
八月三日節戊申、地蔵仏殿の柱一本立ち初める。
八月三日、身延山大堂柱立つ。
九月小五日、徳林遷化。
十月大六日、仏殿の右の方柱ニカワ立つ。
十二大月甲辰七日小寒入り。
 
○大永八戌子年(1528)享禄元年(88日改元)
正月小甲丑八日立春。
 
○享禄二已丑年(1529
正月小戊戌。
 
○享禄三庚寅年(1530
正月大壬辰。
 
○享禄四幸卯年(1531
正月小丁亥六月、三好海雲等、細川澄元が子晴元を大将として、細川高国と摂州尼崎に於いて合戦、高国敗軍自殺す。
 
○享禄五壬辰年・天文元年(1532729日改元)
正月大庚戌。
 
○天文二癸巳年(1533
正月大甲辰四日立春。
 
○天文三甲午年(1534
正月小己亥。春より夏まで、疫病人多く死す。
 
○天文四乙未年(1535
正月小癸亥。
 
○天文五丙申年(1536
正月大丁巳七日立春。
二月、御即位。
◎三月、武田晴信公元服。十六歳。義晴の講の晴の字を賜う。
三月十七日今川氏照(輝)、同彦五郎同時に死す(氏照二十四歳)
同五月二十四日夜、氏照の老母(中御門大納言宣胤の娘)、福島越前守宿所へ行き、花蔵(遍照寺住職良真)と同心して、翌二十五日未明より駿府に於いて戦い、夜中、福島党久能へ引き籠る。
六月十四日、花蔵生害(自殺)
 
○天文六丁酉年(1537
正月大幸巳。
 
○天文七戊戌年(1538
正月小丙子。北条氏康が上杉憲政、上杉朝定と武州河越にて合戦。氏康勝利す。
《註》河越合戦については『甲陽軍鑑』に天文七年とあり、他の諸録はおゝむね天文六年とある。
 
○天文八己亥年(1539
正月大庚午。
 
○天文九庚子年(1540
正月大甲午。春夏大疫、人多く死す。
 
○天文十年辛丑念(1541
正月大戊子。
正月二日、立春。
二月大戊午。
三月小戊子。
四月大丁巳。
四月四、日立夏(四月節)
五月二十五日、海野平(海野棟綱)破る。村上義清、諏訪頼重両将出陣。
《註》信虎は諏訪、村上両将とともに信州海野平に棟綱を攻めた。棟綱は破れて上州へ逃げ、関東管領の上杉憲政をたよった。
六月小丙辰十四日己巳、信虎公甲府を御立、駿府へ御越。今年に至り御帰国無く候(後の書込みか)。甲府に於いて十六日各々存じ候。
六月二十八日癸未、天恩日(最上吉日)。三・吉日也。御家督御祝儀の御酌湿井丹波守(未詳)
七月大乙酉七日立秋(七月節)
八月小己卯十一日大風、禁中殿門多く吹き倒す。
九月小甲申。
十月大癸丑。
十一月大癸未二十六日冬至。
十二月小癸未
十二日小寒。
二十七日大寒(十二月節)
 
○天文十一壬寅年(1542
正月大朔日壬午。
正月十三日立春。
二月九日、定奉行衆はじまる。
二十四日乙亥午刻御勢調。
三月大朔日幸亥
三月十五日四月節(立夏)。上諏訪に向け御出馬。朝曇り細雨。大井の森(現長坂町)御陣所。湿井人衆も高白(駒井高白斎)に同心仕り候。
三月二十九日、(御射山)原御陣所。鶉取り候て御調美。
七月己酉、土峯(長峰・現茅野市東部・八ケ岳西麓)御出陣所。諏訪の方、雲黒く赤し。
七月三日、桑原(現諏訪市、高島の南東)へ押詰める。風雨。
七月四日、桑原城を攻め頼重を生け捕る。酉刻、各陣所へ帰る。
七月五日、頼重甲府へ遣わさる。申刻着府。
七月九日屋形様
御帰府。十三日、諏訪大祝へ御預け。
七月十八日八月節(白露)
七月十九日丁卯頼重牽者。
二十一日己巳寅刻、頼重切腹させられる。
二十五日癸酉、下諏訪始めて出仕。
八月小己卯六日彼岸に入る。
八月十二日、棟別帳始める。
九月小戊申。
九月十日丁巳午刻、下諏訪に火を放つ。
九月十一日戊午、信形(板垣駿河守信方)諏訪に向け動く。
十九日丙司巳刻、御出馬。若神子(現須玉町)御陣所。
二十五日壬申、未刻に出て宮川橋(現茅野市安国寺の前)御合戦、蓮芳(高遠頼宗、蓮峯軒)討ち取らるる。長坂筑後守・粟原左衛門高名。酉刻御勝利。
九月二十六日辰刻、仰せ付けられ侯間、高白、藤沢口(箕輸城.藤沢頼親)に火を放つ。案内者神長(守矢頼真)一騎、諏訪薩摩守(諏訪満隆)方竹慶(未詳)は遅れて着陣。
九月二十八日乙亥、簑輸次郎(藤沢頼親)出仕。

信虎、信玄随伴『高白齊日記』2

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○天文十七戊申年(1548
^正月小戊司。
正月十七日甲午、畑一反元松(未詳)より鶏菴(未詳)へ。高白より畠一反鶏菴へ寄進す。畠一反仏殿へ是は元松より。
正月十八日乙未、御具足召し初まる。信州本意に於いては相当の地、宛行わる可くの由御朱印下され候。
二月大丁未巳刻、坂木(現坂城町・村上義清の居城)に向かう。雪深くつもり候間、大門峠より御出馬。細雨、夕方みぞれ。
二月二日戊申、小山田出羽守(信有)出陣。
二月十四日庚申、板駿(板垣駿河守信方)・甘備(甘利備前守虎泰)其外討死す。
二月十五日未刻申し来る。
二月十七日癸亥、甘利藤三(虎泰の子)を呼び、兵始めて仕り始む。申刻、並門を出て東方に向かう。
二月十九日、相模(今井相模守信甫)と高白談合致し御北様(信玄生母・大井氏)へ申し上げる。野村筑前守・春降出雲守両人御陣所へ参り、御帰陣の御意申し上げる。
三月小丁丑。五日、諏訪の上原まで御馬納められる。
三月十四庚刁、始めて甘利藤三出陣す。
三月二十六日壬刁未刻、府中へ御馬納めらる。
三月二十七日癸卯、諏訪神三郎方へ山の内分下され候。高白所により人越し侯得共上意。
四月小丙午。
四月三日戊申午刻、諏訪頼継出府。台ケ原(現白州町)泊り。
四月四日、頼継宝鈴。
四月五日、頼継高遠へ帰城す。
四月二十二日五月節。
四月二十五日敵内山宿城に動く、過半火を放つ。
五月大乙亥。
五月十七日幸卯、信州布引きの城鍬立。
六月小朔日乙巳。
六月四日戊申、今より以後、府中地下人田畠新屋敷、立てなされ問敷の由之、印形小道之問の北の方に押しなされる。
六月二十四日節。幸未御門出。
七月大朔日甲戌。
七月四日丁丑巳刻、平次郎(未詳)在家並びに八代の内、境分一貫之地留之所譲り状出し候。
七月十一日甲申、諏訪之西方衆相替之由候間、申刻御馬出らる。跡部越中守田屋御陣所。
七月十三日、麗馬進上申候。
七月十八日幸卯、大井の森より御馬進められる。翌十九日卯刻、塩尻峠にたてこもり小笠原長時責め破り、数多討ち捕りなされ候。
七月二十五日、上原へ御馬納めらる。
七月二十六日節。
八月大朔日癸卯。
八月十一日癸丑。諏訪在城候由、御意之旨、始めて長坂大炊助へ高白秋着御使いのため申し届候。
八月十二日、於曾(現塩山市)下され御判形板垣弥次郎(信恵)方へ渡す。
八月十六日戊午、御目付にて所帯御印形長坂大炊助・内藤庄左ヱ門に下される。
八月十八日、御重代御太刀こくりからの作景光、永く御神前へ納めらる。
九月大一日癸酉。
九月六日戊司巳刻、諏訪より佐久郡前山に向け御馬出られる。矢戸御陣所。晴天。
九月七日、海野口御陣所。
九月八日、海野口に於いて穴山(伊豆守信友)と箕輸(藤沢頼親)と御判形申請進し候。
九月九日、宮の上御陣所。
九月十一日癸未辰刻、打ち立ち臼田(現臼田町)。大雨。前山(現佐久市)責め落す。敵数百人討ち捕りなされる。城士ニケ所自落。
九月十三日網雨。
九月二十一日癸巳、前山の城普請始まる。
九月二十二日、桜井山の御判形伴野(左衛門信豊)へ渡す。
九月二十六日戊戌夜、望月源三郎(海野氏の支流)方へ被官衆布引山へ忍損し両人討たる。
九月二十七日己亥卯刻、打ち立ち彼の新地へ御馬寄せられる。望月御陣所へ参る。
九月二十八日、上原へ御馬納められる。
十月朔日癸卯。二日甲辰酉刻、巳の方に向かい、村井の城の鍬立、高白致し候。鍬五具。
十月四日、御普請初まる。
十月二十四日丙刁、上原まで御帰陣。
十一月大。
十一月七日朝、元春(未詳)死す。
十一月二十九日小寒。
十二月大朔日壬刁。
十二月三日甲辰、来福寺の御判形、戌刻甲し請け翌日渡す。
十二月十日幸亥。
 
○天文十八己酉年(1549
正月朔日壬申。
正月八日己卯、長坂方始めて高島へ移られ候。
正月十三日甲申、山本勘助高島の鍬立。
●《註》この項は筆者が加筆したもので、原文には無い
三月大幸未。
三月二日節。
三月十四日土用。七百貫文の御朱印、望月源三郎方へ下され候。真田渡す、依田新左ヱ門請け取る。三月九日己卯、芦田四郎左ヱ門春日の城を再興。
四月小朔日幸丑。
四月二日節。
四月三日癸卯、敵動く、依って春日落城、味方勝利す。
五月小朔日庚午。
五月四日節。
五月七日丙子、徳役始めの御談合落着、相州(今井相模守信甫)・羽州(小山田出羽守信有)・勢州(今井伊勢守清冬)三人連判。
五月二十七日、望月新六同心致し、布引を出て高白海野口まで帰る。
五月二十八日着府。
五月二十九日戊戌酉刻、望月新六始めて出仕する。
六月大朔日乙亥、伴野左ヱ門方始めて出仕。
六月五日節。望月左ヱ門佐方忠信に依り望月の惣跡となさる可く之由御判下され候。
六月十七日土用。
六月二十七日乙丑滅日、大井信常(上野介)、大井の名代に戌亥の刻落着す、高白跡又、御使い致し
候。
七月小朔日己巳。
七月四日壬申申刻、御馬出される。跡部越中守田屋御陣所。
七月五日節。九日、高島に御着城。
七月十四日壬午辰刻、御人数を立てさせられ、翌十五日未刻、午方に向かい簑輸の城御鍬立。
八月小朔日戊戌。
八月五日弓刻、布引へ忍入る。
八月七日節。
八月十六日、簑輸より各帰陣す。
八月二十三日庚申午刻、高島より御出馬。上原御陣所。
八月二十六日申刻、桜井山御着城。細雨。
八月二十八日乙丑辰刻、御井立(佐久郡)に火を放つ。
九月大朔日丁卯。鷺林(佐久郡)に御陣すえられる。
九月四日、平原(小諸の東南)の宿城へ火を放つ。
九月七日、平林出仕。
九月八日節。
九月十四日庚辰、一宮出羽守(今川の家臣)坂木へ参る。鷺林より内山へ御馬納めらる。
九月十七日、終夜富白斎談合致し、一書御目に掛け候。
九月二十日丙戌、内山を御立ち海野口まで御帰り。
九月二十一日御帰府。
九月晦日丙申、穴山殿同心在り藤沢次郎参府。
十月大朔日丁酉。
十月九日節。
十月二十日丙辰、面付け並びに諸役の義に連判仕り候。
十月二十二日、和田孫五郎(大井氏の分流)参上。
霜月小朔日丁卯。神林入道高遠へ行く。
十一月九日節。
十二月大朔日丙申。
十二月七日大雪。
十二月十一日小寒。
十二月十二日丁未、板垣小次郎方へ御前を迎える。
十二月十六日幸亥、伴野左衛門太夫始めて出仕する。
十二月二十三日戊午、馬場民部少輔(のち美濃守信房)こと高白より御奏者に相定め侯とて、五十疋持
参、太刀進ぜ候。
十二月二十四日己未、下諏訪へ御輿入れられ候。
 
〇天文十九庚戌年(1550
正月朔日丙司。
正月十九日甲申、駿府へ御使者の為高白参る。岩問に泊る。伝馬十疋。
正月二十二日酉刻、駿府へ着く。
正月二十三日戊子酉刻、義元御対面。戌刻、御口上の段申し渡す。
正月二十七日“御振舞い東林(未詳)へ御脇指下され候。指刀進上、作彦四郎にて候。
正月二十九日重ねて御振舞い、御数奇屋の座に於いて御茶、御酒、御太刀下される。粟毛糟毛の馬進上。其後駿府より御使者に太刀並びに千疋下さる。御曹司様(今川氏真)より御使者三浦内匠助(今川家臣)へ御太刀、御馬下され候。晦日に甲府を立ち、駿河に帰る。
二月小朔日丙申、本須に泊り二日酉刻、帰府致し、御返事の趣披露仕り候。義元興国寺御普請に御越し候。
二月十一日節。
二月十三日戊申、水上六郎兵衛奏者、高白仕り侯得と上意の由、三郎仰せられ候。
三月大朔日己丑。
三月十三日、西殿(三条西実枝)より御状下さる。
三月二十四日、斎藤宗雄着府。
四月大朔日乙未。
四月二十一日、高島へ着く。御使いの旨仁科上野介(盛政)方に申し渡す。翌仁科道外(盛政の父)に対面致し用骵申談候。
五月小朔日己丑。
五月四日、義晴公死す。
五月十五日、茶の木畠に狐鳴く。
五月二十三日、屋形様、御曹司様台所に御出で侯時、源七と小六酔狂にて新三郎疵を蒙る。是を狐鳴き候や。
閏五月小朔日甲午、向山又七郎幕を仕立に参る。
閏五月九日、上様御呼兵。跡部越中守田屋まで出仕なされ候。
閏五月十五日戊申。
閏五月二十五日戊午辰刻、当府を出て下山に泊る。
閏五月二十七日庚申、駿府に着く。酉刻、御前様(義元夫人)へ参る。雪斎(太原和尚)に逢う。小笠原
見所なされ候由申し触れ候。
閏五月二十九日、義元へ参る。
六月大朔日癸亥、義元公に於て御振舞い。
六月二日甲子午刻、御前様御死去。申の刻朝奈名(朝比奈)備中守(今川家臣)、一ノ宮出羽守(同上)、高井兵庫助(同上)方より甲府高白宿へ申し遣わす。使者七ツ時出府、江尻に泊る。
十七日節。
六月二十九日幸卵、義元公への御返事出し侯。
七月小朔日癸巳。
七月三日乙未、御出馬若神子に御着。
七月十日、屋形様村井へ御着城。
七月十三日乙巳、孫五郎未刻始めて出陣する。酉刻に駒井(現韮崎市)へ着く。
七月十五日丁未、御備場へすぐに参る。酉の刻、イヌイの城を攻め敗り勝鬨御執行。戌刻、村井の城へ御馬納められ候。子の刻、大城(小笠原氏の一の要害)、深志、岡田、桐原、山家五ケ所の城自落。島立(現松本市・島立右近)、浅問降参す。仁科道外出仕。
七月十七日八月節。
七月十九日幸亥、深志の城酉の刻高白鍬立。庚亥に向かい鍬五具。屋形様深志へ御出。
七月二十三日、惣普請。
八月小朔日壬戌。
八月二日、春日意足、同備前守誓句。
八月三日大洪水。
八月五日丙刁、長坂出陣す。
八月十日辛未、足軽衆備えを立てる。会田岩出陣する。和田自落。
八月十七日、落山(未詳)出仕、同誓句。
八月十九日庚辰辰刻御立ち。戌亥の刻長窪へ御着陣。
八月二十四日乙酉、砥石の城(村上義清の属城)見積りに今井藤左ヱ門、安田式部少輔同心申す。辰刻に出て酉の刻に帰る。翌二十五日、砥石の城見積りに又、大井上野助(信常)、横田備中守(高松)、原美濃守(虎胤)指し越さる。長窪の陣所の上、辰巳の方に黒雲の中に赤雲立つ。西の雲先なびく気にて。八月二十七日戊子辰刻、長窪を御立ち。未刻、海野口(筑摩川西岸)向の原へ御着陣。鹿一陣の中をとおる。
八月二十八日、砥万の城際、屋降地(不詳)号に御陣すえられる。
八月二十九日庚刀午刻、屋形様敵城の際へ御見物なされ、御出て矢入れ始まる。酉刻、西の方に赤黄の雲、五尺ばかり立ちて紅ひの如くにして消える。
九月大朔日幸卯。申刻、清野(村上一族)出仕。
九月三日、砥万の城ぎわへ御陣寄せらる。
九月九日己亥、酉刻より砥石の城を攻をる。敵味方の陣所へ霧ふりかかる。未の刻晴れる。
九月十九日、?須田新左衛門誓句。
九月二十日十月節。
九月二十三日癸丑寅刻、清野方より注進。高梨(政頼)・坂木(坂木城の村上義清)和談半途に於いて対面、咋日寺尾の城へ取かけらるるの間、真田(弾正宰隆)方は助けとして越られ候。勝沼衆虎口を一騎合同心始終存じ候。
九月二十八日、雨宮(現更植市・村上の幕下)と坂木は退出仕るの由注進。子刻(二十九日)真田弾正帰陣。
九月晦日、御馬納めらる可く之御談合。
十月小幸酉。卯刻、御馬入れらる。御跡衆(殿軍)終日戦う。酉刻敵敗北。其夜望月の古地御陣所。終夜雨。
十月二日、峠(大門峠)を越えて諏訪へ御馬納めらる。酉刻、湯川(現茅野市)へ御陣所。
十月三日、上原に於いて万事を聞し召し合わせられ、方友へ御状つかわさる。
十月六日丙刀、上原を御立。
十月七日、府中へ御馬納めらる。九日より十一日まで敵岩村田(現佐久市)に動き火を放つ。
十月二十日節。
十月二十一日、義清・長時、平瀬(松本の北)へ出られるの由候間中下条まで二十三日に御馬出られ候。十一月大一日庚刀。
十一月八日丁酉義清小室(小諸市)へ移る。
十一月十三日、野沢(現佐久市)桜井山宿城に火を放つ。
十一月十四日卯癸、若神子まで御出馬。
十一月十五日、高白海野口に陣取り。
十一月十九日、帰府。
十二月大朔日庚申。
十二月七日丙刀、太郎様(武田義信)御元服。
十二月九日、大蔵太夫能仕り候。
十二月十四日癸酉、深志へ先手の為高白越す。越年。
十二月二十二日立春。
 
○天文二十幸亥年(1551
正月大朔日庚刀。深志敵地へ動き始むる。
正月二十二日節。
二月小朔日庚申、左馬介(晴信の弟)吉田御名字御祝儀御申し候。
二月十日已巳戌刻、下諏訪と穴山同心致され再来の出仕。
二月二十三日節。
三月大朔日己丑。
三月十日戊戌大井左ヱ門内山へ近日移り申す可き之由上意。安田、高白御使い致し候。
三月二十五日節。
三月二十七日乙卯、大井左ヱ門当府を出て内山へ行く。
三月二十八日申刻着城。
三月二十九日、上原伊賀守帰府。翌日出仕。
四月小朔日己未。
四月二十五日節。
四月二十九日丁亥、屋形様の御台所御柱立つ。
五月大朔日戊子。
五月二十六日節。砥眉の城真田乗取る。
六月小朔日戊午、若神子まで御出馬。栗原左衛門は桜井山へ越えて上意趣を甲し渡す。
六月十日細雨。
六月二十七日節。
七月大朔日丁亥。
七月二日戊子御出馬。
七月二十日丙午、岩尾弾正(大井弾正行真)初めて若神子まで出仕。
七月二十五日幸亥、若神子より御馬納めらる。
七月二十六日壬子、孫六(晴信の弟)御前迎えに出て駿府に着く。未刻、小田原の使者遠山方に御対
面。烏帽子落し之由聞き候。
七月二十八日節。晦日丙辰巳刻、重ねて御出馬。
八月小朔日丁巳、桜井山へ御着城。
八月九日乙丑天晴地霧。辰巳の刻より酉の刻まで。
八月二十二日己卯、御曹司様の西の御坐立ち始む。
八月二十八日甲申午刻、未の方に向い岩尾の城の鍬立七五三。同岩村の鍬立、申の刻未の方に向い七五九。栗原左ヱ門仰せ付けられ侯て相勤むる。
八月二十九日節。
九月小朔日丙戌。
九月十四日己亥岩村田の地下人普請始む。
九月二十日乙巳、大井左ヱ門内山を出て甲府へ来る。上原伊賀守重ねて内山へ移り名字替、小山田備中守と号す。
九月二十二日、屋形様内山を御立。
九月二十三日戊申御帰府。
十月大朔日乙卯節。
十月十四日、義清丹生子に動き、押落られ之由注進。
十月十五日己巳未刻出馬。
十月二十日甲戌、深志へ御着城。
十月二十二日、ほりか子(堀金)出仕す。
十月二十四日戊刁、平瀬(深志の北)を攻め敗る。敵二百四人討ち取りなされ候。終日網雨。栗原左ヱ門手において首十八討ち取る。酉の刻より大雨。
十月二十七日幸巳、小岩竹宿城に火を放つ。
十月二十八日壬午午刻、巳の方に向いて平瀬城割其の上鍬立。此後辰の刻仰せ付けられ候間、則ち栗原左ヱ門まかりこし城をわり其の上鍬立てを仕り候。
十一月小朔日乙酉。
十一月四日戊子辰の刻、駒走るを引き寄せつなぐ。
十一月十日甲午、原美濃守(虎胤)平瀬に在城仰せ付けらる。
十一月十七日庚子冬至。高島御馬納めらる。
十一月二十一日、御帰府。
十一月二十二日丙午、飯富稲蔵坂木より一番手の衆東条討ち捕る。
十二月大朔日甲刀。
十二月十一日甲子、駿府の御曹子様(今川氏真)御屋移り。
十二月二十四日丁丑子刻、中島(未詳)の代官呂泉(未詳)に申し付く。
晦日癸未。
 
○天文二十一壬子年(1552
正月朔日甲申。
正月四日、栗原左ヱ門出仕す。
正月八日幸卯未刻、亥の方に向い太郎様御具足召し初め。
正月二十三日丙午、諏紀(諏訪紀伊守頼継).諏氏高遠に於て二十五日当府へ出仕。二十七日、諏氏生害。
二月小朔日甲刀、駿府へ御使者をつかわさる。
二月二日、駿府へ着く。小林所宿、穴山殿(伊豆守信友)旅宿参る。一出(一宮出羽守)、高兵相談致し義元へ披露。
二月三日、一出より御誓句の案文請取る。翌日、飛脚を以て甲府へ進上仕り侯。
二月五日節。
二月六日己未午の刻、義元へ出仕致す。

信長公記 武田滅亡

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信長公記
木曾義政忠節の事(信長公記)
◆ 天正10年2月1日
二月朔口、信州、木曾義政御身方の色を立てられ候間、御人数出だされ候様にと、苗木久兵衛、御調略の御使申すに付きて、三位申将信忠卿へ言上のところ、時日を移さず、平野勘右衛門を以て、信長公へ右の趣仰せ上げられ侯。然るところ、境目の御人数出だされ、人質執り固め、其の上、御山馬の旨、上意候。則ち、苗木久兵衛父子、木曾と一手に相はたらき、義政の舎弟上松蔵人、人質として先ず進上候。御祝着ならる。菅屋九右衛門にあづけおかれ侯。(信長公記)
 
◇ 天正10年2月2日
二月二目、武田四郎父子、典厩、木曾謀叛の由丞り、新府今城より馬を出だし、一万五千計にて諏訪の上原に至りて陣を居、諸口の儀、申しつけられ候。(信長公記)
 
◆ 天正10年2月3日
三月三日、信長公諸口に出勢すべきの旨仰せ出だされ、駿河口より、家康公、関東口より、北条氏政、飛蝋口より、金森五郎八大将として相働き、伊奈口、信長公、三位申将信忠卿、二手に分かれて御乱入をなすべき旨、仰せ出だされ候なり。(信長公記)
 
◆ 天正10年2月3日~2月6日
二月三日、三位申将信忠、森勝蔵、団平八、先陣として、尾州・濃州の御人数、木曾口・岩村口両手に至りて出勢力なり。
御敵・伊奈口節所を拘へ・滝ケ沢に要害を構へ・下条伊豆守を入れおき侯ところ、家老下条九兵衛逆心を企て、二月六日、伊豆を立出し、岩村口より、河尻与兵衛の人数引き入れ、御身方仕り候。(信長公記)
 
◆ 天正10年2月12日
ニ月十二日、三位中将信忠卿、御馬を出だされ、其の日は土田に御陣取り、十三日高野(こうの)に御陣を懸けさせられ、十四目に岩村に至りて御渚陣。滝川左近、河尻与兵衛、毛利河内守、水野監物、水野宗兵衛、差し遣はさる。(信長公記)
 
◆ 天正10年2月14日
二月十四日、信州松尾の城主小笠原掃部大輔御忠節仕るべきの旨、申し上ぐるに付きて、妻子(妻子・妻籠)口より、団平八、森勝蔵、先陣として晴南寺口より相働き、木曾峠、打ち越えなしの峠へ御人数打ち上げられ候処、小笠掃部大輔手合せとして所々に煙揚げられ、御敵留の城に星名(保科)弾正楯籠り、拘へがたく存知。
 
◆ 天正10年2月15日
二月十五日、森勝蔵三里計り懸け出し、印田と云ふ所にて退後候は十騎計り討ち止め候ひキ。(信長公記)
 
◆ 天正10年2月16日
二月十六日、御敵今福筑守武者・大将として薮原より鳥居峠へ足軽を出だし候。
木曾の御人数も、苗木久兵衛父子相加へ、なら井(奈良井)坂より懸け上り、鳥居峠にて取り合ひ一戦遂げ、討取りし頚の注文、趣部治部丞、有賀備後守、笠井、笠原、以上頸数四十余り有り。究党の者、討ち捕り候ヘキ。
木曽口御加勢の御人数の事、織田源五、織田、織田孫十郎、稲葉彦六、梶原平次郎、塚本小大膳、水野藤次郎、簗田彦四郎、丹羽勘助、以上、
右の御人数、木曾と一手に鳥居峠を相拘へしたり。御敵場美濃守子息、ふかし(深志・松本城)の城に楯籠り、鳥居峠へ差し向ひ対陣なり。
二位中将信忠卿、岩村より険難節所をこさせられ、平谷に御陣取り。次の日、飯田に至りて御陣を移され、大島に、御敵日向玄徳斎(武田軍)たてこもり物主なり。小原丹後守・正用軒(逍遥軒)のあん中、是等も番手に相加へられ、大島を拘へ候。 
中将信忠卿、御馬寄せせられ候処、運をひらき難く存知、夜中に廃北なす。則ち、三位中将信忠卿、大島に御在城なさる。
玆には、河尻与兵衛、毛利河内入れおかれ、又、御先手飯島へ御移りなり。森勝蔵、団平八、松尾の城主、小笠原掃部大輔、是れ等は先陣仰せつけられ、先々より百姓ども己々(おのれおのれ)か家に火を懸け罷り出で候なり。
子細は、近年、武田四郎、新儀の課役等申しつけ、新関を居え、民百姓の悩尽なく、重罪を期するをば賄を取りて用拾せしめ、かろき科(とが)をば懲(こらしめ)の由申し候て、或ひは張付に懸け、或ひは討たせられ、歎き悲しみ、貴賎上下共に踈果(ウミトハテ)、内心は、信長の御国に仕り度と諸人願ひ存ずる砌に候間、此の時を幸と上下御手合せの御忠節仕り候。然れば、木曾口・伊奈口御陣の様子懇(ねんごろ)に見及び申し上ぐべきの旨、御使として信長公より、智・犬両人、信州御陣へ差し遣はされ、大島まで、三位中将信忠卿御馬寄せられ、異儀なきの趣、帰り言上候。(信長公記)
 
◇ 武田の動向
さる程に、穴山玄蕃、近年遠州口押への手として、駿河国江尻に要害拵(こしら)へ、入れおき候。
今度御忠節仕り候へと上意候処に、則ち御請け申し、甲斐国府中に妻子を人質として置かれ候を、
◇ 天正10年2月25日
二月廿五目、雨夜の紛れに愉出だし、穴山逆心の由承り、館(たち)を拘ふべき存分にて
二月十八目、武田四郎勝頼父子、典厩、諏訪の上原を引き払ひ、新府の館に至りて人数打ち納め侯ひキ。(信長公記)
 
信州高遠の城、中将信忠卿攻めらるゝの事
◆天正10年3月1日
三月朔日、三位中将信忠卿、飯島より御人数を出だされ、天龍川乗り越され、貝沼原に御人数立てられ、松尾ノ城主小笠原掃部大輔を案内者として、河尻与兵衛、毛利河内守、団平八、森勝蔵、足軽に御先へ遣はさる。
中将信忠卿は御ほろの衆十人ばかり召し列れ、仁科五郎楯籠り候高遠の城、川よりこなた高山へ懸け上げさせられ、御敵城の振舞の様子御見下墨(さげすみ)なされ、其の日はかいぬま原に御陣取。高遠の城は三方さがしき山城にて、うしろは尾続きあり。城の麓、西より北へ富士川(?天竜川)たぎつて流れ、城の拵へ殊に大夫なり。在所へ入口三町ばかりの間、下は大河、上は大山そわつたひ、一騎打ち節所の道なり。川下に浅瀬あり。爰を松尾の小笠原掃部大輔案内者にで、夜の間に、森勝蔵、団平八、河尻与兵衛、毛利河内、これらの衆乗り渡し、大手の口川向ひへ、取り詰め候。星名(保科)弾正飯田の城主にて候。彼の城退出の後、高遠城へ楯籠る。爰にて城中に火を懸け、御忠節仕るべきの趣、松尾掃部かたまで夜中に申し来たり候へども、申し上ぐべき透もなく、
◆天正10年3月2日
三月二目、払暁に、御人数寄せられ、中将信忠卿は尾続を搦め手の口へ坂りよせられ、大手の口、森勝蔵、団平八、毛利河内、河尻与兵衛、松尾掃部大輔、此の口へ切りて出で、数刻相戦ひ、数多討ち取り侯間、残党逃げ入るなり。か様候とごろ、中将信忠御自身、御道具を持たれ先を争つて塀際へつけられ、柵を引き破り、塀の上へあがらせられ、一旦に乗り入るべきの旨、御下知の間、我劣らじと、御小姓衆・御馬廻城内へ乗り入り、大手搦手より、込み入れ込み立てられ、火花を散らし相戦ひ、各疵つけられ討死算を乱すに異らず。歴々の上子供いちいちに引き寄せく差し殺し、切つて出で、働く事、申すに及ばず。爰に、諏訪勝右衛門女房刀を抜き切って廻し、比類なき働き、前代未聞の次第なり。又、十五、六のうつくしき若衆一人、弓を持ち、台所のつまりにて余多射倒し、矢数射尽し、後には刀を抜き切りてまいり、討死、手負、死人、上を下へと員を知らず。討捕る頸の注文。
仁科五郎、原隼人、春日河内守、渡辺金大夫、畑野源左衛門、飛志越後守、神林十兵衛、今福叉左衛門、小山田備中守(是は仁科五郎脇大将にて候たり)、小山田大学、小幡因播守、小幡五郎兵衛、小幡清左衛門、諏訪勝右衛門、飯島小太郎、今福筑前守、以上頸数四百余あり。
仁科五郎が頸、信長公へもたせ、御進上候。今度、三位中将信忠卿、険難、節所をこさせられ東国に於いて強物と其の隠れなき武田四郎に打ち向かひ、名城の高遠の城、鹿目と究竟(くっきょう)の侍ども入れおき、相拘へ候を、一且に乗り入れ、攻め破り、東国、西国の誉れを取る。信長の御代を御相続、代次の御名誉、後胤の亀鏡(きけい・証拠)に備へらるべきものなり。(信長公記)
 
◆天正10年3月3日
三月三日、中将信忠卿、上の諏訪表に至って、御馬を出され、所々放火。
そもそも、当杜諏訪大明神は・日本無双の霊験、殊勝七不思儀、神秘の明神なり。神殿を初め奉り、諸伽藍悉く一時の煙となされ、御威光、是非なき題目なり。
関東あん中大島を退出す。従つて叉、諏訪の池はづれに、高島とて、小城あり。是れへ楯籠り、拘へ難く存知、当城も津田源三郎へ相渡し罷り退く。木曾口烏居峠の御人数もふかし表に至りて打ち出で、相働き候なり。
御敵城ふかし城、馬場美濃守相抱え、居城なりがく存知・降参申す。織田源五へ相渡し、退散候ふなり。(信長公記)
 
家康公駿河口より御乱入の事
家康公、穴山玄蕃(信君)を案内者として召し列れ、駿河の河口より甲斐国文殊堂の麓市川口へ御乱入。(信長公記)
 
武田四郎甲州新府退散の事
武田四郎勝頼、高遠の城にて先づ相拘へらる士と存知せられ候ところ、思ひの外、早速相果て、既に、三位中将信忠、新府へ御取り懸け候由、取々申すにつきて、新府在地の上下一門、家老の衆、軍の行は、一切これなく、面々足軽・子供引越し候に取り紛れ、廃忘致し、取る物も取り敢へず四郎勝頼幡本に人数一勢もこれなし。
爰より典厩引き別れ、信州佐久の郡小諸に楯籠り、一先、相拘ふべき覚悟にて、下曾根を頼み、小諸へのがれ候。四郎勝頼攻め、一仁に罷りなる。
◇天正10年3月3日
三月三目、卯の刻、新府の館に火を懸け、世上の人質余多これありしを、焼き籠にして罷り退かる。人質、瞳(どっ)と泣き悲しむ声、天に轟くばかりにて、哀れなる有様、申すもなかなか愚かなり。
去る年、十二月廿四目に、古府より新府今城勝頼簾中一門移徒(わたまし)の砌は、金銀を鏤め、輿車.馬鞍美々しくして、隣国の諸侍に騎馬をうたせ、崇敬斜ならざる見物なり。群集栄花を誇り、常は簾中深く仮にも人にまみゆる事なく、いつきかしづき、寵愛せられし上臈達、幾程もなく引き替ヘて、勝頼の御前、同そば上臈高畠のおあひ、勝頼の伯母大方、信玄末子のむすめ、信虎、京上薦のむすめ、此の外、一門親類の上臈の付きく等、弐百余人の其の中に馬乗り廿騎には過ぐべからず。
歴々の上臈子共踏み差らはぬ山道を、かちはだしにて、足は紅に染みて、落人の哀れさ、中々目も当てられぬ次第なり。名残りしくも、住み馴れし古府をば、所に見て、直ちに小山田を頼み、勝沼と申す山中より、「こがつこ」(?)と申す山賀へのがれ候。漸く、小山田が館程近くなりしところに、内々、肯じ候て、呼び寄する。爰にて、無情無下に撞堕(つきおとし)、拘へがたきの由申し来たり、上下の者、はたと、十万を失ひ、難儀なり。新府を出で候時、侍分、五、六百も候ひキ。路次すがら引き散らし、遁ざる者、纏か四十一人になるなり。田子と云ふ所の平屋敷に暫時の柵を付け、居陣候て、足を休まれ候。 
左を見、右を見るに、余多の女房達、我れ一人を便として、歴々とこれあり。我身ながらも、詮議区為方(せんかた)なし。 
さるほどに、人を誅伐する事、思ひながらも、小身業に叶はず、国主に生るゝ人は、他国を奪取せんと欲するに依りて、人数を殺す事、常の習ひなり。信虎、信玄より勝頼まで、三代、人を殺す事数千人と云ひ員を知らず。世間の盛衰時節の転変、間髪を容るゝを捍(ふせ)ぐべくもあらず。因果歴然、此の節なり。天を恨まず、人を尤もとせず、闇より闇道に迷ひ、苦より苦境に沈む。哀れなる勝頼かな。
 
信長公御乱入の事
◆ 天正10年3月5日
三月五日、信長公隣国の御人数を召し列れられ、御動座。其の目は江州の内、柏原が上菩提院に御泊り。翌目、仁科五郎が頸もたせ参り候を、ろくの渡りにて御覧じ、岐阜へ持たされ、長良の河原に懸けおかれ、上下の見物仕り候。
◆ 天正10年3月7日
七日雨降り、岐阜に御逗留。
三月七日、三位中将信忠卿、上の諏訪春甲府塁りて御入国、秦蔵人私宅に御陣を居えさせられ、
武田四郎勝頼一門、親類、家老の者尋ね捜して悉く御成敗、生害の衆、
一条右衛門大輔、清野美作守、朝比奈摂津守、諏訪越中守、武田上総介・今福筑前守・小山田出羽守、正用(逍遥)軒、山懸三郎兵衛子、隆(竜)宝、是れはおせうどう事なり。此等皆、御成敗候なり。
織田源三郎、団平八、森勝蔵、足軽衆に仰せつけられ、上野国表へ差し遣はされ侯ところ・小幡、人質進上申し、別条これなし。駿・甲・信・上野四ケ国の諸侍、有縁をもって、帰りの御礼、門前市をなすなり。
◆ 天正10年3月7日~11日
三月八日、信長公、岐阜より犬山まで御成り。音金山御泊り。十日高野御陣取、十一日岩村に至りて、信長卿着陣。
 
武田四郎父子生害の事
◇ 天正10年3月11日
三月十一日、武田郎父子簾中一門、「こがっこの山中」(?)へ引籠らるるの由、滝川左近承り、険難・節所の山中へ分け入り、相尋ねられ候ところに、田子(田野)と云ふ所、平屋敷に暫時柵を付け、居陣候。則ち、先陣、滝川儀大夫、篠岡平右衛門に下知を申しつけ、取り巻き侯ところ、遁れがたく存知せられ、誠に花を折りたる如く、さもうつくしき歴々の上臈、子供、いちいちに、引き寄せひきよせ、四十余人さし殺し、其の外、ちりぢりに罷りなり、切りて出で、討死候。
武田四郎勝頼若衆土屋右衛門尉、弓を努て、さしつめ引きつめ、散くに矢数射尽し、能き武者余多射倒し、追腹仕り、高名比類なき働なり。武田太郎齢十六歳、さすが歴々の事なれぱ、容顔美麗、膚は白雪の如く、うつくしき事余人に勝、見る人、あつと感しつつ、心を懸けぬはなかりけれ。会者定離のかなしさは、老いたるを跡に残し、若きが先立つ世の習ひ、朝顔のタベをまたぬ、唯、蜻蛉の化(あだ)なる命なり。是れ又、家の名を惜しみ、おとなしくも、切りてまはり、手前の高名、名誉なり。
歴々討死相伴の衆、武田四郎勝頼、武田太郎信勝、長坂釣竿、秋山紀伊守、小原下総守、小原丹後守、跡部尾張守、同息、安部加賀守、土屋右衛門尉、りんがく長老、中にも比類なき働きなり。以上、四十一人侍分。五十人上臈達女の分。
◇ 天正10年3月11日
三月十一日、巳の刻、各相伴、討死なり。四郎父子の頸、滝川左近かたより、三位中将信忠卿へ御目に懸けられ候のところに、関可平次・桑原助六両人にもたせ、信長公へ御進め候。
 
越中富山の城、神保越中居城謀飯の事
◆ 天正10年3月11日
さる程に、越中国富山の城に、神保越中守居城侯。然るに今度、信長公御父子、信州表に至りて御動座候のところ、武田四郎節所を拘へ一戦を遂げ、悉く討ち果し候の間、此の競ひに越中国も一揆蜂起せしめ、其の国存分に申しつけ候へと、有り有りと越中へ偽申し遣はし候事、実に心得、小島六郎左衛門、加老戸式部両人、一揆大将に罷りなり、神保越中を城内へ押し籠め、三月十一日、富山の城居取りに仕り、近辺に煙を挙げ候ひて、時目を移さず、柴田修理亮、佐次内蔵介、前田叉左衛門、佐久間玄蕃頭、此等の衆として冨山の一揆の城取り巻き候間、落去幾程
もあるべからざるの旨、注進申し上げられ候。
 
武田一族の頚・武田典厩生害、下曾彌忠節の事
御返書の趣、武田四郎勝頼、武田太郎信勝、武田典厩、小山田、長坂釣竿を初めとして、家老の者悉く討ち果たし、駿・甲・信滞りなく一篇に仰せつけられ候間、機遣(きづかい)あるべからず候。飛脚見及び候間、申し達すべく候。其の表の事、是叉存分にたすべき事勿論なり。
三月十三日
柴田修理亮殿・佐々内蔵介殿・前田又左衛門殿・不破彦三殿
 
三月十三日
信長公、岩村より彌羽根まで御陣を移さる。
三月十四日
平谷を打ち越え、越なみあひに御陣坂り、爰にて、武田四郎父子の頸、関与兵衛、桑原介六、もたせ参り、御目に懸けられ候。則ち、矢部善七郎に、仰せつけられ、飯田へ持たせ遣はさる。
三月十五日
午の刻より雨つよく降り、
其の日、飯田に御陣を懸けさせられ、四郎父子の頸、飯田に懸けおかれ、上下見物候。
三月十六日
御逗留。信州さくの郡小諾に、下曾根覚雲軒楯籠り侯。武田典魔、下そねを頼み、纏廿騎ばかりにて罷り越され候。肯申(うけこい)二の丸まで呼び入れ、無情心を替へ、とり巻き、既に家に火を懸け候。
典厩が若衆に朝比奈弥四郎とて候ひキ。今度、討死を究め、上原在陣の時、諏訪の要明寺の長老を道師に、み戒をたもち、道号をつけ候て頸に懸け、最後に切つて廻り、典厩を介錯し、追腹仕り、名誉、是非なき題目なり。典厩の頼みし姪女智百井と申す仁、是れも一所に腹を仕り、侍分十一人生害させ、典厩の頸、御忠節として、下曾根持ち来たり、進上仕り候。則ち、長谷川与次にもたせ参る。
三月十六日
飯田御逗留の時、典厩の首、信長公へ御目に懸けられ侯。仁科五郎乗り候秘蔵の葦毛馬馬、武田四郎乗馬大鹿毛、是れ又、進められ候ところ、大鹿毛は、三位中将信忠卿へ参らせられ、武田四郎勝頼最後にさゝれたる刀、滝川左近かたより、信長公へ上申され候。使に、祇候の稲田九蔵に御小袖下され、悉き次第なり。
武田四郎、同太郎、武田典厩、仁科五郎四人の首、長谷川宗仁に仰せつけられ、京都へ上せ、獄門に懸けらるべきの由候て、御上京候なり。
三月十七日
信長公、飯田より大島を御通りなされ、飯島に至りて御陣取り。
三月十八日
信長公高遠の城に御陣を懸けらる。
三月十九日
上の諏訪湖に御居陣・諸手の御陣取り段々に仰せつけられ候ひしなり。
 
木曾義政出仕の事
 
三月廿日
木曾義政、出仕申され、御馬ニツ進上。申次、菅屋九右衛門、当座の御奏者滝川左近、御腰物梨地蒔、金具所焼付け、地ぼり、目貫、梗築は十二神、後藤源四郎ほりなり。
拝びに、黄金百枚、新知分信州の内二郡下され、御縁まで御送りなされ、冥加の至りなり。
三月廿日
晩に、穴山梅雪、御礼、御馬進上。御脇指、梨地蒔、金具所焼付け、地ぼりなり。
御小刀、御つかまでなし地まき似相申すの由、御詑なさる。さげさや、ひうち袋つけさせ、下され、御領中仰せつけられ候ひキ。松尾掃部大輔、御礼駮(まだら)の御馬進上。御意相、御秘蔵候なり。
今度忠節比類たきの旨、上意にて、本知安堵の御朱印、矢部善七郎、森乱、両人御使にて、下され、忝き次第なり。
三月廿一日
北条氏政より、端山と申す者、使者にて、御馬、拝びに、江川の御酒、白島、色次進上。滝川左近御取次。
 
滝川左近、上野国拝領の事
三月廿三日
滝川左近召し寄せられ、上野国、ならびに、信州の内二郡下され候。年罷り寄り、遠国へ遣はされ候事、痛くおぼしめされ候と雖も、関東八州の御警固を申しつけ、老後の覚えに上野に在国仕り、東国の儀御取次、彼れ是れしつくべきの間、上意、忝(かたじけな)くも御秘蔵のゑびか毛の御馬下さる。此の御馬に乗り候て、入国仕り候へと、御諚。都郡の面目、此の節なり。
 
諸卒に御扶持米下さるゝの事
三月廿四日
各在陣致し、兵糠など迷惑仕るべきの旨、仰せ出だされ、菅屋九郎右衛門、御奉行として御着到つけさせられ、諸卒の人数に随つて、御扶持米、信州ふかしにて渡し下され、忝なき次第なり。
 
諸勢帰陣の事
三月廿五日
上野国、小幡、甲府へ参り、三位中将信忠卿へ帰参の御礼申し上げ、滝川左近、同道申し、御暇下され、帰国候なり。
三月廿六日
北条氏政より御馬の飼料として八木(米)千俵、諏訪まで持ち届け、進上候なり。
三位中将信忠卿、今度、高遠の名城攻め落し、御手柄御褒美として、梨地蒔御腰物参られ候。
天下の儀も御与奪ならるべき旨、仰せらる。
三月二十八日
東国御隙入る儀も御座なきにつきて、右の御礼として、三月二十八目、三位中将信忠卿、甲府より諏訪まで御馬を納めらる。
今日以外に時雨、風ありて、寒じたる事、大形ならず。人余多寒死候ひキ。
信長公は諏訪より富士の根かたを御見物なされ、駿河・遠江へ御廻り候て、御帰洛なすべきの間、諸卒是れより帰し申し、頭々ばかり御伴仕り候へと仰せ出だされ、御人数、諏訪より御暇下さる。
三月二十九日
木曾口、伊奈口思ひ思ひ帰陣侯昔。
 
御国わりの事
三月廿九目、御知行割仰せ出だされ、次第。
     甲斐国、河尻与兵衛へ下さる。但し穴山本知分これを除く。
▽ 駿河国、家康卿へ、
▽ 上野国、滝川左近へ下さる。
▽ 信濃国 タカイ、ミノチ、サラシナ、ハジナ、四郡、林勝蔵へ下さる。
▽ 川中島表在城、今度励(はげしき)先陣粉骨につきて、御褒美として、仰せつけられ、而目の至りなり。
▽ 同キソ谷、二郡、木曾本知、
▽ アツミ、ツカマ、二郡、木曾新知に下され
▽ 同伊奈一郡、毛利河内へ下さる。
▽ 諏訪一郡、河尻、穴山替地に下さる。
▽ チイサカタ、サクニ郡、滝川左近へ下さる。
以下十二郡
 
    岩村、団平八、今度粉骨につきて、下さる。
    金山よなだ島、森乱へ下さる。是れは勝蔵、忝き次第なり。
 
国掟甲州、信州
一、関役所、同駒口、取るべからざるの事。
一、百姓前、本年貢外、非分の儀、申し懸くべからざる事。
一、忠節人立て置く外、廉(かど)がましき侍生害させ、或ひは追失すべき事。
一、公事等の儀・能々念を入れ、穿鑿せしめ落すべき事。
一、国諸侍に懇ろに扱ひ、さすが由断なき様、気遣ひすべき事。
一、第一慾を構ふにつきて書人不足たるの条、内儀相続にをひては、皆次に支配せしめ人数を拘ふべき事。
一、本国より奉公望の者これあるは相改たまへ拘へ候ものゝかたへ相届け、其の上において、扶持すべきの事。
一、城々晋請丈夫にすべきの事。
一、鉄炮・玉薬・兵糧蓄ふべきの事。
一、進退の郡内、請取道を作るべき事。
一、堺目入組、少々領中を論ずるの間、悪の儀、これあるべからざるの事。
 
右定めの外、悪き扱ひにおいては、罷り上り、直訴訟申し上ぐべく候なり。
天正十年三月 日
 
信長公、御帰陣
信長公、御帰陣の間は、信州諏訪に、三位中将信忠卿置き申され、甲州より、富士の根かたを仰覧じ、駿河・遠江へ御まはり候て、御帰洛あるべきの旨、上意候て、
四月二日
雨降り時雨候。兼日仰せ出ださるにつきて、諏訪より大ケ原(山梨県北杜市白州町台ケ原)に至りて御陣を移され、御座所の御普請、御間叶以下、滝川左近将監に申しつけ、上下数百人の御小屋懸けおき、御馳走斜ならず。
北条氏政、武蔵野にて追鳥狩仕り候て、雑の鳥数五百余進上候。
則ち、菅屋九右衛門、矢部善七郎、福富平左衛門、長谷川竹、堀久太郎、五人御奉行にて、御馬廻衆召し寄せら
れ、御着到つけさせられ、遠国の珍物拝領、御威光有りがたき次第なり。
 
四月三日
大ケ原(山梨県北杜市白州町台ケ原)御立ちなされ、五町ばかり御出で候へば、山あひより名山、是れぞと見えし富士の山、光々と雪つもり、誠に殊勝、面白き有様、各見物、耳星驚かし申すなり。
勝頼居城の甲州新府城跡を御覧じ、是れより古府に至りて御参陣。
武田信玄館に、三位中将信忠卿御普請大夫に仰せつけられ、仮の御殿美々しく相構へ、信長公御居陣候ひキ。
爰にて、惟住五郎左衛門、堀久太郎、多賀新左衛門、御暇下され、くさ津へ湯治仕り候なり。
 
恵林寺御成敗の事
さる程に、今度恵林寺において、佐女木次郎隠しおくにつきて、其の過怠として、三位中将信忠卿に仰せつけられ、恵林寺僧衆御成敗の御奉行人、織田九郎次郎、長谷川与次、関十郎衛門、赤座七郎右衛門、以上。右奉行衆罷り越し、寺中老若を残さず・山門へ呼びよせ、廊門より山門へ籠草をつませ、火をつけられ候。初めは黒煙立ちて見えわかず。次第次第に煙納まき上、人の形見ゆるところに、快川長老は、ちともさはがず、座に直りたる儘、動かず。其の外、老若、児、若衆、踊り上り、飛び上り、互ひに抱つき、もだへ焦がれ・焦熱・大焦熱の焔に咽び、火血刀の苦を悲しむ有様、目も当てられず。長老分十一人果たされ候。
其の中存知の分、宝泉寺の雪岑長老、東光寺の藍田長老、高山の長禅寺の長老、大覚和筒長老、長円寺長老、快川長老。中にも快川長老(紹喜)、是れは、隠れなき覚えの僧なり。これによつて、去年、内裡にて、忝くも、円常国姉と御補任頂戴申され、近代国師号を賜はる事、規模なり。都鄙の面目これに過ぐべからず。
 
四月三日
恵林寺破滅。老若上下百五十余人焼き殺されおわんぬ。所々にて御成敗の衆、諏訪刑.部、諏訪采女、だみね、長篠、是れ等は百姓どもとして、生害させ、頸を進上、則ち御褒美なされ、黄金下され候ひしなり。是れを見る者、先次まで名ある程の者尋ね捜して、頸を持ち参りキ。
 
信州川中島表、森勝蔵働ぎの事
天正10年4月
四月五日
森勝蔵、川中島、海津に在城致し、稲葉彦六、飯山に張陣候処、一揆蜂起せしめ飯山を取り巻くの由注進候。
則ち稲葉碧衛門、稲葉刑部、稲葉彦一、国枝、是等を御加勢として飯山へさし遣はされ、三位中将信忠卿より、団平八、是叉差し越さるに、御敵山中へ引籠り、大蔵の古城拵へ、いも川と云ふ者一揆致し、大将楯籠る。
四月七日
御敵長沼。一八千ばかりにて相働き候。則ち、森勝蔵懸けつけ、見合せ、どうと切り懸かり、七、八里の間、追討にて、千弐百余討ち捕り、大蔵の古城にて女童千余切り捨てつる。
 以上、頸数二千四百五十余あり。此の式に候間、飯山取り詰め候人数、勿論、引き払ひ、飯山請け取り、森勝蔵人数入れ置き、稲葉彦六、御本陣諏訪へ帰陣。稲葉勘右衛門、稲葉刑部、稲葉彦一、国枝、江州安土へ帰陣仕り、右の趣、言上なり。
森勝蔵山中へ日々、相働き、所々の人質取り固め、百姓ども還住申しつけられ、粉骨、是非なき様躰なり。
 

北杜市文学講座 山口素堂 門人とされる黒露・馬光・素丸

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馬光と素丸
  馬光は『葛飾正統系図』によれば、二世其日庵を名乗り初名を素丸といった。俗称は長谷川半左衛門・藤原直行。名を白芹と云い、素堂の門に入り絢堂素丸と改め、後に其日庵二世の主となり、『五色墨』や『百番句合』を著した。
 絢堂素丸は二代目で葛飾蕉門では三代目の総師になっているが、これは素堂を初代とするからである。初代素丸は始め誰に師事したかは判明しないが白芹と云い、素堂の社中となってから絢堂素丸と改め、後に馬光と称した。その門人二代目白芹が統を継いで二代目素丸となった。仮説を逞しくすれば、その素丸が馬光と同胞であった子光の追悼句を贈ったのではないだろうか。
 子光の『素堂句集』序文には素堂の性格や思惑態度が書かれている。
・素堂は聞き分ける力や記憶力が優れていて、
・数多く詠んだ詩歌和文らの作品はみ な己の胸中に秘めて全て覚えている。
・人が紙と硯を添えて句や文を請えば、すぐに筆書を与える。
・左のごとき草稿(『芭蕉庵再建勧化簿』)はここに写して高位高官の人は
・これを召し、好事者は最も鐘愛する。招かれるとそれに従い宿することは数日から~十日にも及ぶ。然るに人や待遇によって勿体振ったり別け隔てる考えはなく、誰彼とも話し合いしかもその内容については口を閉ざし、人に説く話は固く他言はしない……


黒露と馬光
 
 二人は一才違いで馬光が一才上である。二人とも素堂の周辺で活動し素堂の教えを受けながら俳諧修業に入ったのは宝永年間であると思われ、句の作風も同じような傾向を示している。ここに判る範囲で句集や入集句を比べてみる。

○宝永6年(1709)素堂68才。
黒露…『紫竹杖』無倫編。入集。(雁山)
馬光…『菊の塵』園女編。入集。(素堂序文)

○正徳4年(1714)素堂73才。
黒露…
馬光…『二の切れ』湖十編。入集。

○正徳5年(1715)素堂74才。
黒露…
馬光…『芋の子』玉全編。入集。

○享保1年(1716)素堂逝去。

○享保2年(1717)素堂没後。
黒露…(雁山)『通天橋』雁山編。
馬光…(素丸)『通天橋』入集。『百寿草』沾徳編。入集。

○享保3年(1718)
黒露…『成九十三回忌』朝叟編。入集。
馬光…

○享保4年(1719)
黒露…上洛する。『阿女』祇空編。『花月六百韻』入集。
馬光…(素丸)『花林燭』文露編。入集。

○享保5年(1720)
黒露…(雁山)『やすらい花』祇空編。入集。
馬光…(素丸)「沾徳点俳諧帖」椿子舎興行。入集

○享保7年(1722)
黒露…(雁山)『今の月日』潭北編。入集。
馬光…(素丸)『その影』(素堂七回忌追善)素丸編。

○享保8年(1723)
黒露…(雁山)『晋子(其角)十七回忌』淡々主催。『俳諧ふた昔』一漁編。入集。
   『ひろ葉』捨翠編。入集。『そのはしら』貞佐編。入集。『月の鶴』湖十編。入集。
   『野あかり』雨橘編。入集。『百千万』雁山編。『嵐雪十七回忌集』百里編。入集。

馬光…(素丸)『その影』素丸編。『晋子(其角)十七回忌』淡々主催。『俳諧ふた昔』
   一漁編。入集。『ひろ葉』捨翠編。入集。『そのはしら』貞佐編。入集。
   『秋風七回忌』文露編。入集。『百千万』雁山編。入集。

○享保9年(1724)
黒露…(雁山)『長水吟行百韻』長水編。入集。
馬光…(素丸 『ふたもとの花』露月編。入集。『五重軒月次』・『染ちらし』露月編。
   入集。

○享保10年(1725)
黒露…(雁山)『百千万』沾州編。
馬光…(素丸)

○享保11年(1726)
黒露…(雁山)『代々蚕』歌仙。貞佐編。入集。
馬光…(素丸)『俳諧春の水』千魚編。入集。『代々蚕』歌仙。貞佐編。入集。
   『白字録下』沾州編。

○享保12年(1727)
黒露…(雁山)『閏の梅』露月編。入集。
馬光…(素丸)『俳諧宮遷表』露月編。入集。
(『とくとくの句合』百里跋。素堂十三回忌追善集か。

○享保14年(1729)
黒露…(雁山)『花坦籠』歌仙、常陽編。入集。
馬光…(素丸)『花坦籠』歌仙、常陽編。入集。

○享保15年(1730)
黒露…六月駿河宇津山に雁山の墓(現存)を建てる。これ以後、黒露と称す。
馬光…

○享保16年(1731)
黒露…
馬光…(素丸)『五色墨』風葉(宗端)編。入集。

○享保18年(1733)
黒露…
馬光…(素丸)『百番句合』宗端編。敬雨跋。入集。

○享保19年(1734)
黒露…伊勢の乙由を尋ねる。
馬光…(素丸)『紀行俳諧二十歌仙』淡々編。入集。『俳諧二十集』露月編。入集。

○享保20年(1735)
黒露…(黒露)『とくとくの句合』祇空編。五人組歌仙二巻付。(歌仙は前年のもの)
馬光…(素丸)『とくとくの句合』祇空編。五人組歌仙二巻付。(歌仙は前年のもの)
   『次の月』歌仙。和橋編。入集。『大和記事』歌仙。講古編。入集。

○元文元年(1736)
黒露…(黒露)甲斐、稲中庵で宗端と興行。『燈火三吟』黒露編。
  …甲斐より江戸に戻る。
馬光…(素丸)甲斐、稲中庵で宗端と興行。『燈火三吟』黒露編。入集。
   『霜なし月』歌仙。桃里編。入集。

○元文2年(1737)
黒露…(黒露)『有渡日記』黒露編。
馬光…(馬光)『有渡日記』馬光跋。歳旦に立机する。『島山紀行』百韻。岑水編。入集。

○元文4年(1738)
黒露…(黒露)『するが百韻』黒露編。
馬光…(馬光)『跡の錦』歌仙。入集。

○元文5年(1739)
黒露…(黒露)『すずり沢紀行』黒露編。付興行。
馬光…(馬光・白芹)『すずり沢紀行』黒露編。付興行。入集。

○寛保3年(1743)
黒露…(黒露)『芭蕉林』朶雲編。馬光主催。黒露序。
馬光…(白芹)『芭蕉林』朶雲編。馬光主催。黒露序。

○延享元年(1744)
黒露…(黒露)『老山集』黒露編。宗端との両吟。
馬光…(白芹)『老山集』黒露編。発句の号に白芹・馬光。

○延享3年(1746)
黒露…(黒露)『寝言』黒露編。
馬光…(馬光)『寝言』黒露編。入集。『三十二番句合』柳里恭編。馬光判詞。

○延享4年(1747)
黒露…(黒露)『いつも正月』黒露編。
馬光…(馬光)

○寛延元年(1748)
黒露…(黒露)
馬光…(馬光)『戊辰試豪』馬光編。

○寛延2年(1749)
黒露…(黒露)『素堂三十三回忌』黒露編。『職人尽俳諧集』寥和編。入集。
馬光…(馬光)『素堂三十三回忌』黒露編。入集。

○寛延4年(1751)
黒露…(黒露)『つゆ六歌仙』大梅編。独吟歌仙。
馬光…(馬光)5月1日没。68才。

○宝暦2年(1752)
黒露…(黒露)『睦百韻』佐々木来雪編。黒露小序。馬光追善『松のひびき』黒露編。

 以上、大まかな対照表を作成してみたが、馬光を筆頭とする葛飾派の動きは黒露の動とほぼ一致することが理解できる。やはり葛飾派としては黒露が素堂社中の筆頭人との認識を持っていたようである。黒露や馬光にしても番年の素堂の影響を強く受けており、其角・嵐雪・沾徳など素堂の指導や影響を受けた俳人の周辺に在ったと考えられ、黒露は馬光の没する寛延4年までは付かず離れずの状態にあったと思われる。黒露の作風は享保期の十年(1725)近い間に、俗に云う支麦派という伊勢美濃系の影響を受けていることは、諸氏の指摘されているところであり、馬光も五色墨運動の後徐々に影響されていったように思われる。
 また宗端らと沾州の争いに馬光らが巻き込まれたかは不明であるが、享保19年(1735)の沾州編『俳諧友あぐら』に素丸名で取られていて、素丸は両派の争いの当て馬にされたようである。
 黒露は立机したのかは不明であるが、馬光は元文元年(1736)の桃里歌仙『雪なし月』では素丸であり、同年8月の黒露編『燈下三吟』の歌仙で麦阿と共に馬光が三吟を巻いているから、この年の辺りで立机しているのであろう。因に麦阿は長水の事で享保18年(1733)に麦林門に入った。馬光の『歳旦帖』は「元文二丁巳歳旦」が初出。次いで延享2年(1745)に門人の白芹に絢堂素丸名を譲り、同四年(1747)致任して剃髪し泥山と号した。ついでながら前掲の対照表に寛保2年(1742)の珪淋追善『蓮社燈』(晩牛編)、寛延元年(1741)の珪淋追善『万燈供』(番牛偏)・延享元年(1744)の宗端追善『翌(あした)たのむ』に出句しているが、寛保2年(1742)の柳居(麦阿)追善『扶桑三景集』には名が見えず、この頃から柳居門との交流が跡絶えたのではないだろうか。
 余談ではあるが、葛飾派には二つの秘書(伝書)があると云い、馬光に伝えられた『俳諧大意弁』(享保16年書写)と二世素丸の『乞食袋』(延享3年成)が存在していた。



北杜市文学講座 山口素堂『睦百韻』の小叙(二世来雪襲名披露記念集)

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『睦百韻』の小叙(二世来雪襲名披露記念集)

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人見竹洞子、素堂を謂ていはく、「素堂は誰ぞ、山口信章来雪なり」と。
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かゝる古めきし名は当世知る人あらず。来雪は前号也。ことし雅君忠久名あらため----給ふる。
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其旧号心つけて其高当乃価□(高蹈の価値)をしたひ行一歩にや。むさし野の草の----心かりよるとくりなきため山なりけり。そや、この名を為したまふ倶老が詠じ奉るに、----笹のつゆ何のさわりやさぶらはん。
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風雅を学ぶは風雅の徒、ただにつゝみし候して、長くこの有にあなひましませ。来雪----と聞へしは『長学集』によれる名とぞ。
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于時宝暦万年第二申歳孟春吉   江東草々斎 黒露(雁山)著

《解説》
 この小集はごく身近な人で構成され、七吟百韻は、黒露・来雪・寒我・竹酔などであり、その他の多くは黒露の津知友や門人であった。因に二世来雪は佐々木一徳で字は仲祐、名は忠久と云ったようであり、後に来雪庵三世素堂となる。二世素堂は誰なのかは、後述するが素堂の嫡孫とる山口素安が素堂没後素堂の親族である寺町百庵に譲ろうとしたが、百庵は固辞した為に空席のままであったと思われる。

北杜市文学講座 山口素堂と黒露

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素堂と黒露

 前にも触れたが黒露は素堂の一族に属する人であるが、これといった資料が見当たらないが、散見する諸書から推察を試みてみることにする。諸書の記載には、「甥」・「姪」『通天橋』の後文では「ふたたび舅氏にあふ…」、『摩訶十五夜』でも「舅氏・亜父」、との記述が在る。これらの用例からすると黒露は、素堂の姉妹の子、素堂の母方の「おじ」いうことになる。なお古文書に記述される血筋、血統での文字の用例は実に厳密である。
 

甥…(そう・おい)をひ、姉妹の子。或いはむこ(娘の夫)。

妻の兄弟姉妹の夫。外孫にもつかう。
 姪…(てつ・をひ)兄弟の生んだ男子。めひ…兄弟の生ん  

だ女子。妻の兄弟の子。
 舅…(をぢ・しゅうと)母の兄弟。
 舅氏…(きふし・をじ)伯父・叔父。
 舅甥…(きふさう)母方の「をぢ」と「をひ」。
 亜父…(あふ)尊敬語。おやじさん。父につぐとの義。
 

以上の用例から推察すると、黒露は素堂の妹の子として生まれたが、事情があって後に素堂の所に元禄の終わり頃に引き取られた。黒露の生年は没年から逆算して貞享3年(1686)である。素堂の親族については別に記してあるが、『甲斐国志』の素道の項に記載されている甲府府中魚町四丁目の山口屋は素堂とは関係が見出すことができない。
『連俳睦百韻』の寺町百庵の序に「雁山の親は友哲、家僕を取り立て山口氏を遣し、山口太郎右衛門、その子雁山なり。後に浅草蔵前米屋云々」とある。家僕とは身分制度の確立していた頃は、「一家をなしていない者」・「独立していない者」などは家僕と記される事もある。素堂親族の寺町百庵や山口黒露は放蕩生活も長く、素堂もその扱いには苦労したようである(この項は別述)


北杜市文学講座 山口素堂と寺町百庵

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寺町百庵

 寺町百庵は素堂の一族の出身であると『俳文学大辞典』などにも記載がある。百庵は元禄八年(1695)の生まれである。百庵の考証は中野三敏氏の「寺町百庵の前半生、享保の俳諧」に譲り、諸書に紹介されている略歴を記すと、姓は寺町、名は三知(智)また友三 、幕府御茶坊主で御坊主組頭を務め俸禄百俵二人扶持で、矢の倉に住んでいたが百庵の号のごとく住所を転々としたとする書もある。俳諧や和歌それに故実に精通して道阿・梅仁斎・不二山人・己百庵・新柳亭など号した。唇子言満の狂名や越智百庵とも称した。寛保元年(1741)冬、過ちがあって転役となり、翌春より時守を勤め後小普請入り、宝暦六年(1756)致任して買閑の身となった。俳諧は二世青峨門と云うが、一世青峨門とも素堂門とも云う。儒者の成島道筑と交わり、権門富豪の取り巻きも努めた。殊に紀伊国屋文左衛門の幇間俳人の一人として、吉原での小粒金の豆撒きをした折の。撒き手の一人だった話は有名であるが、年代が合わないとも思える。後の住処は石町の鐘楼に隣接していたとか伝わるが、浅草待乳山に草庵を構えて、不二山人と号した。
 御坊主組頭を努めただけあって故実考証に造詣が深く、連歌師、歌学者でもあったが、一説には転役の原因を幕府連歌方への運動工作にあったという。著書も多く『花葉集』・『梅花林叢漫談』・『林叢余談』・『楓考』・『蕨微考』・『花月弁』・『芭蕉考』などがある。その他の話題も多いがここでは省く。天明六年(1786)2月27日に没した92才の長寿であった。素堂の家系についても『連俳睦百韻』の序文中で『甲斐国志』とはかけ離れた記載内容を述べている。後世の研究者は都合よく両書を継ぎ合わせて素堂の生涯にして「素堂誤伝」を生み出しているが、両書の記載内容は全く異質であり、結びつかない内容である。
 ここで素堂の後継者についての記述のある、百庵の『毫の秋』を見る。この書は百庵の愛児一周忌の追善集で四十二才の時であり、序文中で自分の生い立ちを語っている。百庵の父は三貞といって、幕府に勤めていた。この『毫の秋』に寄せた素堂嫡孫山口素安の文がある。百庵にとっても素堂にとっても重要な文である。

北杜市文学講座 山口素堂 『毫の秋』 素堂嫡孫 山口素安の文

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『毫の秋』 素堂嫡孫 山口素安の文

 執文朝が愛子失にし歎き、我もおなじかなしみの袂を湿す。 

まことや往し年九月十日吾祖父素堂亭に一宴を催しける頃、
   よめ菜の中に残る菊

といひしは嵐雪の句なり。猶此亡日におなじきを、思ひよ

せて、
十日の菊よめ菜もとらず哀也

かくて仏前の焼香するの序、秋月素堂が位牌を拝す。百も
とより素堂が一族にして誹道に志厚し、我又誹にうとけれ
ば、祖父が名廃れなむ事を惜み、此名を以て百庵へ贈らむ
と思ふにぞ、かゝるうきが中にも、道をよみするの風流、
みのがさの晴間なくたゞちにうけがひぬ。よって素堂世に
用る所の押印を添えて、享保乙卯の秋九月十一日に、素堂
の名を己百庵へあたへぬ。    山口素安

 俳号百庵の初出は今のところ享保15年(1730)午寂編『太郎河』で其角系を主に沾徳・調和系の俳人十六人の独吟歌仙集で、 里村 家連歌師の丈裳も入っている。午寂は人見元治・又八郎といい、其角門である。儒学者で医師、幕府に出仕する。素堂と親しかった人見竹洞の一族の人見必大の子である。次いで享保19年の前出の『たつのうら』と同年4月刊行の百庵他編『今八百韻』で、百庵や青峨等との四吟ほか、江戸新風を目指したもの。元文元年の『毫の秋』に露月の『跡の錦』、寛保3年の二世湖十の『ふるすだれ』宝暦6年(1756)6月の栄峨編『心のしおり』などが知られている。『心のしおり』には松江。新発田諸侯や江戸座の俳家に柏筵ら役者が参加している。

北杜市文学講座 山口素堂 「山口黒露(雁山)と寺町百庵」

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黒露(雁山)と百庵

 其角と嵐雪が死んだ宝永4年(1707)、雁山は22才、百庵は13才。素堂はこの時期元禄16年末の地震火事で焼け出され、宝永元年に深川六間掘の続き地に家の建築願いを出して上洛の旅に出て、京都で越年して宝永2年5月末に江戸に帰った。江戸の家を守っていたのは子光か僕伝九郎、それに雁山であったのであろうか。
 宝永4年春、素堂は上京して『東海道記行』を著した。このために其角の病死に会えず、追善にも出席できなかった。その年の10月の嵐雪没には間に合って、雷堂百里の嵐雪追悼集『風の上』に序文を載せた。次いで九月末頃に雁山を伴って浅草へ、鈴木三左衛門の勧進興行を見物(『摩訶十五夜』)に出かけている。雁山は6月越後の人志村無倫編の『紫竹杖』(江戸俳友よりの送句)に入集している。
 雁山が俳諧に手を染めはじめたの頃の素堂の周辺には、其角・嵐雪・桃隣・沾徳らとその一門が大半を占めていた。雁山の言によれば、素堂は様々な指導をしていたが、雁山は嵐雪の生前に彼の所え出入りしていたらしい。後に其角門の人たちと親しく交流しているから、其角・嵐雪周辺の俳人と思える。
 百庵は素堂門とも言われるが、どの辺りにいたのであろうか。結婚するまでの30才頃まで放蕩生活に浸っていた。つまり享保12年(1727)くらいまで遊び呆けていた
という。『連俳睦百韻』の序文の中に、水間沾徳・佐久間長水の事が引き合いに出てくる。
沾徳は享保11年(1726)に没して、その追悼集『白字録』(沾州・長水等編)を撰した事が記されている。この年百庵32才、翌年は子供の安明が生まれ、享保15年には其角門の午寂による『太郎河』(8月刊)に百庵として登場する。この集は其角系統を主に沾徳、調和系の俳人で構成された集で、百庵36才の時である。各書に見られる俳号の由来は、これ以前に成されたものと考えられる。周辺では享保12年には高野百里や素堂の序文(『一字幽蘭集』)を写した書道家佐々木文山などが没している。享保19年には豪商紀伊国屋文左衛門が没して、馬場美濃守信房を祖という馬場存義が立机している。


紀伊国屋文左衛門と寺町百庵

 文左衛門は寛文9年(1669)の生まれ、姓は五十嵐、初めは文吉のち文平。紀伊熊野の産で、若くして江戸に出て商いを学び、材木商を営みながら、紀伊国の物産を江戸で捌いたという。元禄の初め頃、其角に俳諧を学び俳号千山と云う。(千山を号する同時代の俳人がいた)書は佐々木文山の兄玄龍に習った能書家でもある。江戸と云う土地での商売柄、幕府の要人に取り入るために、吉原と云う廓を舞台に派手な遊びを繰り広げ、特に奈良茂と云う豪商に張り合う為にはかなり苦労したらしい。その一つが吉原揚町での小粒蒔きの逸話があり、奈良茂の接待交渉を妨害したという。
 紀文が吉原を積極的に利用し、商売のための社交場とし始めたのは元禄の初期からで、殊に幕府勘定方萩原重秀や将軍側用人柳沢保明(後の吉保)など、幕府要人との接触にあった。為に二回の吉原惣仕廻しをしての豪遊が伝えられ、取り巻き連中は其角をはじめ、交際の広い其角から多賀朝湖(英一蝶)や佐々木文山らと知り合い、同業の栂屋善六などがいた。また元禄6年には其角の手引きで芭蕉にも紹介され、翌7年の難波畦止亭での芭蕉最後の句会にも一座した。
 紀文が吉原で豪遊したのは宝永五年(1708)頃までのようで、翌6年は店仕舞いと旅行に出ているところから年初くらいまでとみられる。後に享保年間の出来事として語られているのは後の人の仮託した噺である。百庵が紀文の豪遊に参加したり小粒蒔きを買って出たとする噺も、この年、百庵は数えのやっと14才である。紀文の豪遊と百庵の放蕩が結びついた噺でないだろうか。




北杜市文学講座 白州町古屋五郎氏「南十字星の下に」

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南十字星の下に」故古屋五郎氏著
まえがき
◇本書は、昭和二十七年七月未から、翌二十八年一月まで、約半歳にわたり、当時私の経営発行していた山梨毎日新聞に連載、異常の反響を呼んだ“南九陸軍病院事件の真相"である。驚くべきこの事件は、著者が発表を強く拒んできたため、その真相は、極く少数の人だけしか知らなかったのであるが、その頃、炎暑の中を県境菅原村(現白州町)に日参して〃大義をつらぬけ〃と説く私の執念と、経営難渋の山毎に対する著者の、深い友情から、事件発生後十年にして、やっと新聞発表となったものである。
 
著者の〃序に代えて〃にあるように、この〃悲涙の手記〃は、すでに銃殺刑を覚悟していた著者が、臨時軍法会議に臨むに先立ち、事件の顛未を克明に書き綴り、これをカポツク綿の枕に縫いこみ、内地後送の看護婦野沢久子に托し、当時東京都中野区江古田に住む姉、下茂よね子宛密送したものだが、下茂夫妻は間もなく甲府市百石町に疎開したため、二十年七月六日の空襲で、一切の荷物と共に灰燐に帰したと信じこまれていた。
著者は、脳裡にやきつけられた記憶と、二通の判決書を頼りに筆を執りはじめたところ、奇しくも空襲をまぬがれた江古田の下茂邸から、この運命の手記と、血で綴られた看護婦野沢久子の手記とが発見されたのである。(註・手記発見の詳細は本書末尾〃悲涙の手記"参照)従って、その記述は極めて正鵠を期し得たが、著者の希望に従い、氏名は一部匿者を用い、住所に伏字を使った。また記録の生々しさを保つため、新聞連載の形のまま採録し、且つ文意を害わないため、手記そのままに制限外漢字も用いた。ともに諒とされたい。
 
新聞発表時から、ざらに十年の歳月が流れた。著者の、上梓辞退の心境は今も変らぬようであるが、混濁の世情〃正気歌〃を求むる今より急なきを説き、ここに上梓の運びに至った。されば一切の責任は私にある。
 
軍という無情にして巨大な組織、統帥権という絶対の権力をほしいままにして、いわゆるやから軍幹部なるものが、いかに理不尽の限りをつくしたか、そうした輩の得手勝手な感情のままに幾多有為の日本人が死んでいったかそれは又、銃後国民の純真素朴な祈りを車靴で躁彌したものであったがそれらは本書の、いま問うところではない。そのような一指だに触れ得ない〃絶対の権力〃に立ち同って、道義一本を貫いた男の〃誠魂〃を写し、日本の地下水が漠々としてつきない実相を伝え、そしてこれによって、虚偽と卑法の充ち満ちた〃畜生道の地球〃に警世の一打が与えられれば、幸いである。
 
◇…昭和十六年六月三十日、身延山久遠寺で開かれた郡協力会議の席上に翼賛会部員として私も居た。欝蒼たる老杉の下を、独り、黙々と歩いてゆく著者の後姿をいまも覚えている。著者出征の後、刻々悪化する戦況の中で、壮年団活動もまた凄壮昧を加へ、観念右翼の一派と対決する場面も織りまぜて、悲壮な毎日を送った。その記録は、正しく本書の半面をなすものと思い〃銃後の祈り〃として一篇にまとめ、ざらに〃姉への手紙〃および〃戦犯釈放運動"の二篇とともに補遺を企てたが、最後に至ってそれは削除した。凡人の修飾が原文の美しさと昧を傷つけることを慎まれたからである。
 
〃南十字星の下に〃を連載した山毎は昭和三十一年労資不調の故に休刊となった。私は其の責任者として、顧みて、繊悦に誰えないのであるが、著者がこれに寄せられたあつき友情を今も忘れることはできない。あれほど悩み、発表を拒み続けた著者が、新聞連載に踏み切ったのは、白分の立場を殺して友人を援けようとした配慮のあったことを、私はよく知っている。本書編集にあたり、私は県立図書館に通い、十年前の山毎綴り込みをひろげ、原稿紙に写し乍らいく度か号泣した。それは容易ならぬ南九事件から受けた感動によるものだけ、同時にまたこの色あせた新聞綴り込みに、にじんでいる事のにおいに泣けたのである。不幸山毎は発行の歩みを止めたけれど、ざきに刊行した名取忠彦氏「」敗戦以後」と、中沢春雨氏著「人生横丁」とともに、三つの名著をのこし、復刊十年の足跡を飾った。謹んで師友の恩誼を謝するとともに、多数山毎関係者に報告する。
 
本書上梓にあたり御力添を頂いた安岡正篤、後藤文夫、名取忠彦、天野久、石井集貞諸先生に謹んで感謝の意を捧ぐるとともに、献身協力を賜った心友大村栄一、佐藤森三両兄に深甚の敬意を表する次第である。昭和三十九年七月山田扇三(氏)
 
本書に寄せて  名取忠彦
 
昭和十五年の秋・大政翼賛会の県支部が発足した時、支部長代行機関として常務委員会(十人一が置かれ・古屋五郎君はその一員であった。私も委員の一人であったので初めて同君と相識ることとなったが、当時無名の一青年が一躍新衛運動の先頭に立ったというので古屋君は全県下の注目浴びた。しかし御当人は晴れがましい場面を好まぬらしく、いつも慎み深く会議に列していた。ただそのがっちりした身体からは、いざとなればテコで動かぬ強靭さが感じ取れた。若いのに物静かな人で余計な口をきかない。相対していると何か大きな木の根っこと取組んでいるようで、その頃流行の新体制理論など此の人の前では歯が立たないといった感じであった。黙々郷土の魂となり桓国の人柱となることが古屋君の所属した壮年団の精神であり、同君はそのままの心で翼賛会の人となったのである。
やがて私と古屋君は翼賛会の部長として相たずさえて県下の運動をすすめることとなったが私はひそかにこの古屋君などを骨組みとした県下の青壮年の組織のことを構想しつつあった。
その頃の或る日、この手記にもあるように身延山での協力会議の席から古屋君は出征したのである。「召されました。行って参ります」と書いた紙片を古屋君は私の前にそっと置く。私も何か書いて渡す。うなずいた古屋君はなにげなく立ってそのまま議場から去って行った。静かなその姿がまざまざと思い出ざれる。極秘裡に大動員をかけていた軍部は沈黙の応召を求めていた。私たちは激情を押えてなにごとも無かったように別れねばならなかったのだ。
県下に翼賛壮年団を組織すべきときが来た。私は県下の同志三十人ほどに組織世話人となることを委嘱したが、その中に古屋五郎君の名前もあった。出征中とはいえ古屋君をのぞいた壮年団は物足りないと考えたからである。
翼壮はかくして組織され戦時中活発に行動したが、私は古屋君が常に口にした郷土の魂、橡の下の力持ちの精神を翼壮の運営の中に取入れることを忘れなかった。黙っていたが古屋君は立派な教えを残して戦地へ行ったのだ。
戦争もいよいよ最終段階に入った頃、古屋君について妙な噂が流れた。何かまずい事があって重営倉にいるというのである。激戦の最中で真相を探るすべもないままに、何となく割切れない、困り切った感じでこの噂を受取るより外はなかった。
まもなく惨たる敗戦、てんやわんやの二、三年が過ぎた。或る日、旭村に住む高田という青年が私の宅へ来て、「軍法会議判決」と書かれた文書を示し、「日本の軍部がこうした文献を残して呉れたのは不思議です。ゆっくりお読み下さい」と一言って去った。
この手記にも出て来る古屋兵長への判決文である。読んで、私はすべてに納得がいった。戦時中、古屋君についてチラと抱いた不安感は一瞬にして消えた。雲があると思ったのは嘘で、空は初めからカラリと晴れていたのだ。大きな感動と共に私はこの驚異の判決文を繰り返し、繰り返し読んだ。そして丁寧に机の引出しに納めたが、その後も時々それを取り出してじっと読みふける。あれから十五年、いく度繰り返して読んでも、その都度新しい感激が湧くのである。
事件の真相は今度の手記発表によって極めて明白となった。正義と真実を貫ぬこうとして生死を超越し、度胸を掘え切った男がどんなことをやるか、どんなに凄まじい事態がおこるか、が淡々として記述されている。この手記で古屋君は、俺はこんな入問だと語っているのではない。かくすれはかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂のようなものがまだ存在していることを身を以って示しただけである。軍は亡びたけれど、日本人はまだ生きていたのである。
或る時、私の息子が、古屋五郎さんに初めてお目にかかるのだけれど、どういう人ですかと問うた。私は、
手が白く且つ大なりき非凡なる 人といはるる男に会ひしに
という啄木の歌を示して、古屋さんとは斯ういう人だよ、と答えたことがある。
この書の序を乞われたとき、私は古屋君という人をどういう表現で紹介すればよいのか思いあぐねて、初対面以来の同君と私との関係を述べて昆た。しかし、この人と、この人のやったことは到底筆舌につくし得るようななまやさしいものではない。私はこの書が魂の底からの慟哭とともに読まれるであろうことを信じて疑わない。

南アルプスエコパーク歴史講座 甲斐駒ヶ岳

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《甲斐駒ケ嶽の大観》(「白州町誌」山寺仁太郎氏著)
甲斐駒ケ嶽は標高二九六五・五八メートル、南アルプスの北端に鎭座して、花崗岩の大三角錐を屹立させている。県内各地からそれと指呼することができ、中央道や国鉄中央線を通過する旅人を瞠目させる山岳景観である。特に七里岩台上から、釜無川の河谷の上に、二千数百メートルの高度差を持して一気に聳え立つ雄姿は格別に印象深いものがある。
駒ケ嶽山頂を最高点として、その東麓に展開する白州町の鳥瞰は、絵画の様に美しいと言わねばならぬ。「甲斐国志」いわく、「墟(小渕沢町篠尾塁跡)ノ上ヨリ西南二望メバ駒ケ嶽・鳳凰ノ諸山神秀霊区尾白川・濁川雲端ヨリ流レ下ル。白砂雪ノ如ク白須・鳥原ノ松林地ニ布キテ青ク駅路ハ蓮麗(連り続くさま)トシテ其ノ中ニ亘レリ。実ニ北辺ニ最タル佳境ナリ」と。
山岳の景観を説いて第一人者といわれた深田久弥は、昭和四十六年三月二十一日、韮崎市東方の茅ケ岳の山頂近くで、六十八才の生涯を閉じたが、彼が早春の茅ケ岳を目指したのは、第一に南アルプスの春雪の大観を一望の中に収めるためであった。
山頂から遠望する駒ケ嶽や鳳凰山、白根三山は圧倒的な山岳パノラマを展開する天下の絶景である。著名な山岳人深田久弥の終焉の目に映じたものは、甲斐駒グ嶽ではなかったか。
深田久弥は橘南難の「東遊記」や谷文晃の「日本名山図会」などの伝統にならって、目本の名山選定に着眼、「日本百名山」を残した。その百名山の選定に当って、彼は第一に山の品格、第二に山の歴史、第三に山の個性という基準を設けることを忘れなかった。彼の長年にわたる登山家としての山歴のしからしむるものであった。山梨県及び、その周辺の山々だけでも二十座近くが選ばれているが、その中で、特筆大書しているのが、この甲斐駒ケ嶽である。名山としての所以を縷々(るる)として説いて最後に、
「甲斐駒ケ嶽は名峰である。もし日本の十名山を選べと言われるとしても、私はこの山を落さないだろう」
と結ぶ。深田久弥の眼識によれば、その品格、歴史、個性という点で、駒ケ嶽は日本の山岳でベストテンに入る山と言えるのである。
 
《甲斐駒ケ岳 その山名の由来》(「白州町誌」山寺仁太郎氏著)
日本全国には「駒」という山名を冠する山が頗る多いこと、しかも本州の富山、長野、静岡の三県によって劃せられる地域から、東・北日本に偏在することは、興味深い地名現象として、つとに地理学者、民俗学者或いは、山岳研究家の注目するところであった。
「駒」を冠する叫名が、東・北目本に集中して、西、南目本に稀有であるところに、山名探究と、山岳信仰の特色を説く鍵が、秘められていると考えられる。有史以来馬の生産飼畜に関係深い関東・東北・北海道に多くその例を見るのであるが、それらの「駒ケ岳」の中で最高の海抜を誇るのが、白州町西境に聾える甲斐駒ケ嶽であって、その山頂には、二九六五・五八メートルの一等三角点標石が座っている。二番目に高い中央アルプスの木曽駒ケ岳は二九五六メートル、約一〇メートル低いのである。
各地に「駒ケ岳」という山名が多いために、それを区別する必要を生じ、複合した山名、つまり何々駒ケ岳と称したのは主として、明治以降のことであった。特に陸軍参謀本部陸地測量部(その仕事は現在、国土地理院に継承されている)の五万分一地彩図が一般化して、山名の混同を防ぐために生じたものと言えよう。
自州町の「駒ケ嶽」は、その西方、伊那盆地を隔てて対時する長野県の「駒ケ岳」とは特に混同されやすかった。そのために、甲州の「駒ケ嶽」を一般に「甲斐駒ケ嶽」木曽の「駒ケ嶽」を「木曽駒ケ岳」と呼称するようになり、さらに前者を東駒、後者を西駒などという呼び方も一般的になった。
余談ではあるが、甲斐駒ケ嶽を曽って白崩山(シロクズレヤマ)と称していた時期があった。信州側の呼び方で「駒ケ岳」を区別する必要から生じたとも想像される。山頂附近の花崗岩の崩壊した山名に由来した呼称であるが、明治末年までは、地元民も、登山者も実際に使用し、白崩神社という神社もあった。事実、明治四十年ころは、甲州で言う駒ケ岳と信州の白崩山とは別個の山岳と考えられたこともあった(鳥山悌成、梅沢親光、「白崩山に向ふの記」明治四十年山岳第二-第三号所収)。当時、現在の仙丈ケ岳なども前岳と呼ばれていて、駒ケ嶽(白崩山)を主峰とするその前山の意味であった。
「駒ケ岳」という山名を有する山々の由来を概観すると、
1、山容が馬の形をしている。
2、残雪の彩(雪形)が馬の姿に現われ、農事暦の目安とされたこと。
3、山中に清流があって神馬を生ずるという伝承があること。
4、山麓に高麗人が住み、牧馬と関係すること。
5、山頂に山神として駒形権現を祀ったこと。(甲斐国志)
などの諾説が考えられるのであるが、甲斐駒ケ嶽の場合は、1、2、には疑問があり、4、の高麗人と関係するという説は甚だ興味があるが、山名の起源由来を断定することは暫く避けねばならない。今後甲州の古代史の成果を期待したいからである。
 
《山岳信仰の発生》(「白州町誌」山寺仁太郎氏著)
甲斐駒ケ嶽の山岳信仰を考察するにあたり、再び深田久弥「日本百名山」を引く。彼は、日本アルプスのうち、もっとも綺麗な頂上を持つ山として黒雲母花崩岩でおおわれた駒ケ嶽山頂を次のように描写した。
「頂上に花庸岩の玉垣をめぐらした祠のほかに、幾つも石碑の立っているのをみても、古くから信仰のあつかった山であることが察せられる。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)で、昔は白衣の信者が登山道に続いていたのだという。その表参道ともいうべきコースは、甲州側の台ケ原あるいは柳沢から登るもので両登山口にはそれぞれ駒ケ嶽神杜がある。この二つの道は、山へ取りかかって間もなく一致するが、それから上、頂上までの道の途中に鳥居や仏像や石碑が点綴されている。」
と記して、現在の駒ケ嶽山頂の信仰的景観を叙述している。
この山頂、登山道の景観は、概ね明治以降現代に到る百年問の山岳信仰の片鱗を伝えているもので、富士山、木曽御嶽、木曽駒ケ嶽に近似するもので、やや希薄の形態では、鳳凰山や、金峰山などにも見られるものである。それ以前は如何なるものであったか。
韮崎市藤井町坂井遺跡は、縄文中後期を主とする著名な遺跡であるが、その住居趾に彷垂状の石が立つったまま出土した例がある。この遺跡から展望できる鳳凰山の地蔵仏岩を意識して、その尖塔に模した信仰的遺物であるといわれたことがあった。
昭和五十五年、北巨摩郡大泉村谷戸で発掘された金生遺跡は、縄文後晩期の一大祭祀遺構とされるものであるが、その石組の中に棒状の立石が幾つかあった。この立石は恐らく、周辺の高山、八ケ岳、金峰山、鳳風山、特に、真近かに屹立する駒ケ嶽の山容に対する信仰的な関連が十分にうかがわれるものであると言われる。これらの遺構は、考古学的な年代からすると、二、○○O年~四、○○○年以前のものと思われ、その頃から山岳に対する強烈な自然信仰が存在したことが想像されるのである。(筆註----この説の中で立石であるが、これは男性のシンボルに擬した物が多く、山岳信仰でも火山信仰に近いと考えられる)
恐らく、縄文時代の当時において、あるいは、当時であったからこそ、真西の方角に当って、厳然として餐える駒ケ嶽は、極めて深遠な精神的、信仰的な影響を、先史時代の人問に与えていたのであろう。特に、人間の生者病死の間題、山中原野における狩猟・採集の労苦、粗放原初的な農業の苦心、自然災害や疫病への恐怖、近隣杜会との闘争などへの深刻な対処の長い長い年代の中で、頼るべきものは、雲間に聳立して不動、優美たる大自然の姿であった。極めて徐々とした動きであったが、その信仰的態度は、少しずつ宗教的な心理を深めて行ったことであろう。
 
《修験道の起原》(「白州町誌」山寺仁太郎氏著)
 
山岳信仰の具体的な姿は、修験道であって、それが今日まで根源的には同じ意識の下に、今日まで続いていると考えられている。その修験道は従来、欽明天皇の十三年(五五二)の仏教公伝以後において、自然信仰の基盤の上に渡来してきた道教や仏教が習合して次第に成立したものと考えられていた。
しかし、最近は、修験道の中心思想が、既に弥生時代を通り越して縄文時代の山岳狩猟杜会に発生しているという説が有力である。上述した坂井、金生などの遺跡からうかがえる先史時代の信仰に根源があるというのである。
縄文時代の人々は川岳原野の狩猟を主業としたと考えられているが、この時代の人々は二つの住居を持っていたと考えられる。一つは、平地・海岸・湖岸に、一つは山間に住んで夏の間は山中に入って狩をしていた。山間に住んで狩猟採集に従事した生活環境の中に修験道の起源を見出す事はむしろ自然な考え方と言えるであろう。修験道における断食、水断ち、穀断ちなど山伏のタブーとするところは、多く狩猟民のものであり、服装、持物も甚だ狩人的である。
縄文時代の終りから弥生時代に入って、平地・海岸・湖岸に住む人々が、稲作文化に入るや、山はもう一つの意味、すなわち水の分配を司るもの、農業を支配する神の凄家という考え方が加わって来た。柳田民俗学における山の神の思想、すなわち冬は山に住み、春から夏にかけては田に下って田の神とたるという考え方はこの辺に起源があると考えられている。これが、氏神の祖型であって、そのため、山麓民が、山頂に本宮(山宮)を設け、山麓に里宮(前宮)を設け、春秋二回に祭事を行なう傾向になった。
駒ケ嶽の山頂の本宮に大已貴命を祭ったとするのは、この神が越中の立山の大汝(おおなんじ)峰の例に見られるようにそもそもは狩猟神であり、それが、大物主或いは大国主命と同一視されることにより農耕神、穀神の性格を加えたことと無関係ではないと考える。
修験道の始祖とされるのは白鳳時代に活動したという役ノ小角(えんおずの)である。役の小角なる人物の実体が何者であるかは、今問うところではないが、彼は密教の秘伝である孔雀王呪法を修して、七~八世紀のころ、大和の葛城山に籠って天災、怪異、祈雨、出産、病悩、庖瘡等に対して験力を現わした呪術師であった。その験力は異常に強大であった話は、色々の彩で伝えられ、全国名山の多くは、彼の力によって、開発されたと
する。従って当時の山岳信仰者にとっては、一つの理想像として考えられていた。それと共に、彼の代行をするような人物及びその行動が設定され、各山に役ノ小角的な仙翁、異人の物語が発生するにいたった。近い例をとるならば、韮崎市旭町の苗敷山の社記に登場する六度仙人の如きは、鳳凰山の神在丘に止住して、神通力を発揮したことにたっており、同じく、茅ケ岳とその近傍金ケ岳には、江草孫右衛門、金ケ岳新左衛門、さらには孫左衛門という三種の名前を持つ怪人が登場してしきりと怪異をなすのである。
 
《「峡中紀行」》(「白州町誌」山寺仁太郎氏著)
駒ケ嶽神杜の社伝によれば、甲斐駒ケ嶽も役ノ小角が仙術を修した山であったといわれ、その事に関連してか、山中に異人の棲む伝承が今に伝わっているのである。宝永三年(一七〇六)甲州を探訪した荻生徂徠はその「峡中紀行」に次の如く記している。
「駒嶽亦来りて、婚前に逼る。之を望めば、山の不毛なるもの三成り。焦石畳起する者に似たり。巌の稜角歴々として数ふべし。形勢獰然たり。此より前の芙蓉峯の笑容相迎へし老に似ず。相伝ふ豊聡王(聖徳太子)の畜う所の麗駒は、是の渓に飲んで生ずと。山上祠宇有る莫し。山□木客(山中の怪人)に往々にして逢ふ。故を以て土人敢て登らず。昔一人有り。愚かににして勇なる者、三回の糧をもたらし、もって絶頂を瞬む。一老翁を見るに相責めて曰く『此の上は仙福の地、若が曹の渉る所にあらず』と。其の髪をつかみて、巌下に放てば、則ち胱然已に已が家屋の山後に在り」(河村義昌訳)
徂徠は里人の談の中にこの伝説を聞いて、興味をもってこの文を綴ったものであろう。
 
《「甲斐国志」・「峡中紀行」・「甲斐叢記」》(「白州町誌」山寺仁太郎氏著)
 
約百年後文化十一年(一八一四)編纂された「甲斐国志」は、駒ケ嶽の山容をさらに具体的に記して、「峡中紀行」のこの部分を引用している。駒ケ嶽は文化年問のこの時代において、なお人問の撃登することの出来ない高山秘境であって、山中には仙翁の如き異形の住む処と認識されていたのである。幕末嘉永年間(一八四八~五三)になった大森快庵の「甲斐叢記」も亦、明らかに「甲斐国志」に擦って、駒ケ嶽を誌し、徂徠の伝えた老翁の仙術を特筆しているのは、少なくとも明治以前におけるこの山への認識の度合が奈辺にあったかを、うかがい知ることが出来るのである。
上述の如く、駒ケ嶽を一つの信仰の対象としての考え方は縄文時代まで遡ることができ、数千年間にわたって神聖なる山、祖霊の坐す山、近づき難き神秘な山という見方が連綿として続いて今日に至ったということが言えよう。こうした山岳への信仰帯態は日本全禺に略々通有するものであって、駒ケ嶽の場合は、比較的純粋に経過して来たと言えるのではなかろうか。
 
《駒ケ嶽神社》(「白州町誌」山寺仁太郎氏著)
駒ケ嶽頂上に、大己貴命(おおなむちのみこと)及び少彦名命(すくたひこなのみこと)を祀り、横手の東麓登山口にその前宮を創建したのは、社伝によれば、雄略天皇の二年六月のことで、出雲国宇迦山より遷祀したとされている。もとより信ずるに足りない悠遠の昔のことである
が、昭和五十九年、前宮の社地の北面の一隅、祈祷殿改修の場所より、縄文式の大型の土器が出土した。この社地に縄文時代より人間が住み、且つこの地が、駒ケ嶽蓬拝所であったとする推察も成り立つのである。
住民或いは、駒ケ嶽信仰をする他郷の人々が、主神を大己貴命(大国主命)と認識することは、一般的でなく、「甲斐国志」の言うように山頂には駒形権現、馬頭観世音、或いは摩利支天が祀られているのだという認識の方が強かった。神仏混淆した修験道の色彩が濃厚であった証左であろう。単に「駒ケ嶽さん」と愛称して山岳そのものを尊崇する気分があった。従って、駒ケ嶽神祉の性格は、明治以前、神仏分離が行なわれるまでは、極めて修験道的な祭祀の場であったと考えるのが自然であ
ろう。
駒ケ嶽神社の前宮は、もう一つ尾白川の渓谷に沿った千ケ尻にもある。不思議なことに、この前宮に関する社記の類が見当らず、「甲斐国志」もこれに触れていない。昭和三十七年刊行の「峡北神杜誌」なども書き落している。このことは同所に設けられた神道御嶽教、駒ケ嶽大教会所などが、便宜的に近い過去において山神を勤請した「前宮」であったことを想像させるのである。
 
《駒ケ嶽開山》(「白州町誌」山寺仁太郎氏著)
長野県諏訪郡上古田村に生れた小尾権三郎によって、この山が開山されたのは、文化十三年(一八ニハ)六月十五日(旧暦)のこととされる。小尾権三郎は幼時より、特異な信仰的才能を持つ人物で、十八歳の時自ら弘幡行老と名乗って、甲斐駒ケ嶽開山の大願を立てた。横手村山田孫四郎宅に逗留して、この山の峻瞼にいどみ、数十回の難行苦行の末に、漸く山頂に到達し得たのであった。
徳川時代の中期ころから、幕末にかけて、全国の山岳の開山がしきりに行なわれ、この時代の一つの流行となった。例えば、享保六年(一七二一)七月の有決による信州有明山の開山や、文政十一年(一八二八)の播隆による槍ケ岳の開山などは、その顕著な例である。
弘幡行者小尾権三郎の甲斐駒ケ嶽の開山も、その一連の流れと見ることが出来る。彼は開山後、京に上って、神道神祇管長白河殿より駒ケ嶽開闢延命行者五行菩薩という尊号を賜わったが、開山より僅かに三年後の文政二年(一八一九)正月十五目に二十五歳の若さで遷化する。彼の霊は、駒ケ嶽六合目の不動ケ岩に祭られ、今、大開山威力大聖不動明王として尊崇されている。弘幡行者の開山により、駒ケ嶽信仰は一層修験道的な色彩を濃くし、全国に及ぶ駒ケ嶽信仰登山者の競って登頂参拝するところとたった。
 
《駒ケ岳登拝路》(「白州町誌」山寺仁太郎氏著)
その登拝路は、横手前宮を基点とする黒戸登山道と、千ケ尻前宮を基点とする尾白川登山道の二つが一般的で、他に、千ケ尻前宮から直接黒戸尾根にとりついて、笹ノ平で横手口と合流するものもあった。
尾白川登山路は、源流にかかる千丈ノ瀧下流において、左方の急坂を直登して、五合目屏風岩に到り、黒戸登山道と合流するが、これらの登山道は、屏風岩の峻瞼を経て、七合目の七丈小屋に達し、八合目の鳥居場において、朝日を拝して、やがて山頂の本宮に到達するように開かれている。
信仰登山が衰退して、一般登山者が盛んにこの山に登山するようになっても、一般的登山道はこの何れかの道を利用する。従って、現在その登山道の両側には、曽ての信仰登山の痕跡を随所に見ることができ、稀には白衣の行者の行の実際を見ることもできるのである。屏風岩の下には、かって、二軒の山小屋があった。荒鷲(アラワシ)と自称した中山国重の経営する屏風小屋は先年廃絶したが、五合目小屋は今も現存し、昭和五十九年、小屋番の古屋義成が、日本山岳会有志の応援を得て、創業百年を祝った。古屋義成によれば、この小屋は、明治十七年(一八八四)修験者、植松嘉衛によって行者の祈祷所として開かれたものという。何れにしても、これらの白州町からの登山道はその峻瞼の度において、全国有数のものであって、それだけに開山当時の弘幡行者の苦辛が十分に想像され、男性的魅力に富む豪快な近代的登山の醍醐味を味うことか出来るのである。
ここに、明治十二年(一八七九)管原村井上良恭という人の出版になる「甲斐駒ケ嶽略図」と題する木版図がある。峻瞼雄大た駒ケ嶽の山容を一面に刻して、山中の地名、祭神などが詳細に誌してある。それによると、駒ケ岳山頂―大已貴命鎭座、摩利支天峰-手力男命鎭座、黒戸山―猿田彦命鎮座とあり、尾白川渓谷の不動ノ瀧附近には大勢利龍の名がある(この両爆が、同一のものか別個のものか不詳)。千ケ尻前宮のあるところには、遥拝所と書いた鳥居があって、「前宮」の名前は誌してない。横手の前宮は全く記載していない。思うにこの図面は、駒ケ岳の案内書の如く見えるが、神仏分離後の明治十年代の駒ケ嶽観を現わしていると考えられる。駒ケ嶽の、横手と竹宇(千ケ規)の両前宮が両立し、互いに表登山口を主張するようになるのは、このころからであって、管原村居住の井上良恭は、菅原口(竹宇、千ケ尻)こそ表参道であり、表登山口であることを主張したかったのではないかと推察できるのである。もっとも肝要と思われる横手前宮を無視し、竹宇前宮を遥拝所と誌したことは、一面、修験道的信仰登山から、近代的登山への脱皮を示しているとも考えられるのである。
参考までにもう一つ図面を紹介する。「甲斐駒ケ嶽登山明細案内図」と称する昭和二年(一九二七)の印刷物。発行老は管原村井上正雄である。井上良恭の子孫ではないかと想像されるが、明らかに明治十二年の木版図の改訂版であることが判かる。この図面では、横手と竹宇の両前官が大きく描かれている。登山道は、前者に比して逢かに具体的実用的に描かれているが、鎭座する神々の間に多くの変更があるのは注目されてよい。山頂には大已貴大神と共に駒室大神が祭られている。摩利支天峰には摩利支天、西峰には天照大神と馬頭観音、鳥帽予岳には薬師大神と大頭羅白神という神名が見える。黒戸山には刀利天と大日大神が祀られている。
明治十二年と昭和二年とは年を隔てること四十八年。この約五十年間に、案内図を作製しようとした二人の井上氏の間には、駒ケ嶽の山神について、その表現にかなりの相違があるのである。
 
《駒ケ岳、現在の信仰》(「白州町誌」山寺仁太郎氏著)
明治初年の神仏分離。によって、駒ケ嶽神杜は神道の神杜として、一応修験道的信仰とは分離された。弘幡行者によって開山された駒ケ嶽の修験道的信仰は、その後、明治十六年十二月に主務者の許可を経て、皇祖駒ケ嶽教会となり、多くの駒ケ嶽講の主流となって現在に至っている。
出羽三山、越中立山、相模大山など古くから修験道が発達した山では、先達の集団が中心となって宿坊を経営したり、参拝老の案内先達をつとめた。その伝統は講として今目色濃く残っている。一方木曽御岳のように、各地に散在する信者は、御岳教などをつくって、その中の先達が講を組織し、登拝する形をとった。概して言えば、甲斐駒ケ嶽の場合は後者の例であって、それだけに御岳講の影響が強いと考えられる。
甲斐駒ケ嶽に対する山岳信仰を縄文時代まで遡って考えると実に数千年の長い間、われわれの祖先はこの山を尊崇し続けたことになる。その問幾多の具体的信仰形態は変化し、時に山に対する信仰の深浅の繰り返しもあった。現今の山岳信仰は率直に言って、往時に比して甚だ薄弱なものと言えよう。しかし、相も変らず、人々は駒ケ嶽に大きな神性を感じ、愛着を持っている。人類の大自然に対する宿命的な心理であるかも知れない。その意味でこの山に対する信仰はさらに深く詳しく研究されねばならないと信ずる。(山寺仁太郎氏著)

北杜市歴史講座 白州町の誕生 昭和三十年七月一日 

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白州町の誕生 昭和三十年七月一日 旧三カ村(鳳来・菅原・駒城)合併の経過
 
昭和三十年七月一日、この日は新しい町「白州町」が誕生した歴史的な日である。旧村を合併して町制をしいた。「白州町」という名称は、地域住民からの公募によるものである。新町の地域が南アルプスの花崩岩を浸喰した各河川の扇状沖積州であり、白砂の地域を表現しているものとして、応募点数二一五点の中から審査のうえ決定された。
往時の公文書等を紐解いてその内容をのぞくと、「北巨摩郡鳳来村、菅原村、駒城村横手、大坊及び長坂町片颪をもって白州町を設置」、駒城村柳沢の区域は武川村に編入し、昭和三十年七月一日から施行する。と記されてあり、この文書の内容からしても白州町の誕生は無痛安産であったとは思われない。では一体この新しい町づくりはどのような経過で進められたのであろうか。また近隣の町村ではどのような進展をしていたであろうか。
既に長坂町においては、昭和三十年一月に秋田村、日野春村、清春村の三ケ村を合併し、同年三月小泉村を加えて新しい町づくりにはいっており、また小渕沢町は小渕沢村、篠尾村の二カ村が合併し同年三月に発足をみている。
戦後荒廃しきった日本の経済も、朝鮮動乱を契機に復興の槌音は次第に高まりつつあった。昭和二十二年四月十七日地方自治法が公布されて、地方自治体は制度的には確立したといっても、旧村の規模は小さく、効率的な行政運営は極めて困難であり、高まりつつある住民の福祉の増進や諾事業の遂行は、益々困難の度合を深めていた。国は昭和二十八年十月に、人口八千人未満の小規模町村の合併を促進するため「町村合併促進法」を施行した。県もまた町村合併促進審議会の合併試案を公表した。
こうしたことを契機として町村合併の気運は急速に醸成され、県内の町村はそれぞれ地理的要件や経済、文化、交通等の諸要件を勘案して合併のゴールに到達したり、促進の途上にあったりしたわけである。ではこの時期わが白州町にあっては、どのようた経過をたどっていたのであろうか。
合併のバートナーは、基本的には地域住民としても、県試案の中においても、鳳来村、菅原村、駒域村の三ヵ村合併がごく自然であり、また人情「風俗の点から見ても容易であると考えられていた。さらにまた、昭和二十八年十一月より将米を見越して組合立中学校を設立し、なお旧菅原村の授産所、医療施設、定時制高校等の諾施設を通じ地域の一体性をなしており、最もスムーズな縁組であると考えられていたわけである。しかし実際に町村合併を進めるに当たっては、少数意見ではあったが鳳来村、菅原村、駒城村、武川村、円野村の五ヵ村合併が望ましいという意見もあり、また三ヵ村合併を進める中で鳳来村の一部、下教来石区が強硬に小渕沢町への合併を主張し、駒城村にあっては、柳沢区が地理的条件や人情風俗からしても武川村の方が近いとして、最後まで四カ村合併を主張する等異論が噴出し、時の為政者を大いに悩ます結果となったわけである。
《その時、菅原村》
それではまず三ヵ村の地理的中心である菅原村においては、どんな動きがあったかみてみょう。
①町村合併に関する村内懇談会開催
一、日時昭和二十九年三月十九日午後一時より
二、場所菅原村役場
三、出席者村議会議員各種行政委員各種団体長前村長の経歴を有する者
この会合で出された基本的な確認事項は、次のようなものである。
一、適正規模という観点からして菅原、鳳来、駒城の三力村合併案が適切である。
二、清春村片颪(現在の名称「花水」)は既に長坂町と合併Lているが、地域住民の強い要望があるので、平和裡に手続を了するならば対等な合併を行なう。
こうした基本線が打ち出されたので、このことを踏まえ、鳳来、駒城の両村に具体的に呼びかけることとなった。もち論近隣の関係村においてもそれぞれ会合を開いて、この問題にどのように対応するか検討が加えられていたものと推測する。
 
②三ヵ村合併に関する第一回懇談会
一、日時昭和二十九年六月二十九日午後一時より
二、場所菅原村役場
三、出席老三ヵ村の三役及び書記村議会議員
最初の会合であったため、三ヵ村合併案と武川村・円野村を含めての五ヵ村合併案が検討されたが、推進の大勢は三カ村案が適切であるとして、各村住民の意向を取りまとめるべく申し合せ、次会に持ち寄ることとなった。
 
③三ヵ村合併に関する第二回懇談会
一、日時昭和二十九年九月十日午後三時四十分より
二、場所菅原村役場
三、出席者前回に同じ
前回の申し合せにより各村の状況をきいたところ、鳳来村においては八月二十八日に下教来石区が区民大会を開き、小渕沢町への合併を強く要望し、また駒城村においては、三ヵ村案では柳沢区に異論があり、武川村を含めた四ヵ村案を希望する旨の発言もあり、三ヵ村案の結論を出せるような状勢になかった。
このまままでは前に進むことが難しいということで、次回には各村とも促進法に基づく正式た協議会を設置し、その意向を持ち寄ることを申し合せ散会した。
 
④三ヵ村合併に関する第三回懇談会
一、日時昭和二十九年十二月十八日午後一時より
二、場所菅原村役場
三、出席老前回と同じ
各村の状況説明は次のようなものであった。
・鳳来村協議会を設置して十六日に初会合の予定であったが、不慮の災害が発生し開催することができたかった。したがって状況は進んでいない。
・菅原村いずれ合併することを期して、着々と諸般の整備を進めている。
・駒城村柳沢部落の状況から、武川村を含めた四ヵ村合併を希望し、武川村に働きかけているが、武川村から意志表示のない場合は、四ヵ村合併案は断念せざるをえない。
現段階はこのように依然として不透明な状況下にあり、前進がたいという判断であったが、このままだと本日の会合の意義はないということで一且休憩にはいり、再度意向を調整したところ、次のような結論を得た。
一、鳳来村、駒域村の状勢も考慮し、年内に議会の議決を経て町村合併促進法第五条に基づく三カ村合併促進協議会を設置し、具体的な進展を図る。
二、協議会の構成は各村の三役、書記及び各十五名ずつの委員で構成する。規約案については当事者間で起案する。
この目の申し合せにより、駒城村ではさっそく同月二十八日村議会を招集、鳳来村、菅原村、駒城村合併促進協議会設立並びに規約制定の件を付議し議決を経た。翌年一月十日菅原村においても議会の議決を了したが、鳳来村においては下教来石区の小渕沢町合併への要望はいよいよ高まり、容易に進展する様相がみられなかったため、またまた三カ村合併促進協議会の設立は大幅に遅れることとなった。
しかしながら、町村合併促進法の一部を改正する法律(町村長及び議会議員の任期延長の特例)の施行に伴い、にわかに調整の気運が起り、鳳来村においても昭和三十年四月十五日協議会設立の議決を了したので、しばらく停滞していた状勢は一気に動くことになった。
その進展の動きを、月日を追って記述すると次のようなものとたる。
①第一回三ヵ村合併促進協議会開催
一、日時昭和三十年四月十七日午前十時より
二、場所菅原村役場
三、出席老各村合併促進協議会委員
・各村の委員名簿
○鳳来村三役及び書記村長職務代理者助役中山資一、収入役渡辺正道、書記宮沢久
委員、名取敏、名取与志雄、中山権一、山田只一、各取重雄、小林益雄、各取岩光、中山宗寿、唯井清、中山元平、宮澤重則、各取保親、灰原敏文、渡辺郡時、渡辺源吾
◎菅原村三役及び書記村長古屋五郎、助役鈴木雅夫、書記山田利直
委員、古屋初秋、古屋直治、山田七朗、伏見薫治、埴原政已、伏見鮫男、入戸野作造、大輪瑛旭、原邦武、島口巌、成沢浪次郎、埴原はるえ、山田歌雄、山田宗直、細田三郎
●駒城村三役及び書記村長中山敏雄、収入役宮川義徳、書記中山優
委員、小澤喜憲、駒井昇、水石義言、山田田護棲、天野貴久雄、向井重万、鈴木和夫、駒井七郎、中山安義、牛田武友、牛田薫、鈴木文美、中込虎万鬼、宮沢幸治、中山栗男
 
《各村の状況》
・鳳来村三カ村合併の線で努力してきたが、一部に異論があって協議会の設立が遅れた。しかし、過日村議会の議決を了した。
・菅原村片颪部落との合併は、三ヵ村合併と同時に境界を確定して合併したい。たお武川村が四ヵ村合併を申入れた場合、菅際村としては原則的に賛成する。ただし、鳳来村の事情も考慮し対処してゆきたい。
・駒城村昨年末三ヵ村合併の基本線で協議会の設置を議決し、この方針に賛成ではあるが、村内の一部に四ヵ村合併の声があるので、できうれば四ヵ村合併案も促進願えれば、村内事情の調整が図れる。
 
《協議決定事項》
一、三ヵ村合併の基本線に沿って協議会を設立推進する。
二、武川村を含めての四ヵ村合併問題については各村の事情を調整し、ともども四カ村合併を可能ならしめるよう努力する。
《役員の選出》
会長、古屋五郎
副会長中山敏雄、中山資一、名取敏、伏見薫治、駒井七郎
《事務所の設置》
菅原村役場内に置く
設立年月日、昭和三十年四月十七日とする。
こうして三ヵ村合併促進協議会が正式に発足したので「あとは一気呵成かと思われたが、これがまたなかなか動かない。なぜかというと、駒城村の柳沢問題が容易に収らないからだ。このままの状態を放置すれば、合併協議はいつ進行するか見込みがたたないということで、急きょ鳳来、菅原のニカ村懇談会を開くごとにたった。
 
《町村合併に関する鳳来、菅原ニカ村懇談会》
一、日時昭和三十年五月二十三日午後四時より
二、場所鳳来村役場
三、出席老鳳来、菅原の促進協議会委員
 
◎菅原村長よりの経過説明
既に三ヵ村協議会が発足し、向う三ヵ月以内に合併を達成しようということで努力している。しかるに駒城村に柳沢間題があって進展しない。その後駒城村は武川村と交渉したところ、武川村は単村でゆくことを主張した。柳沢の間題は一集落の問題で、三ヵ村合併の基本方針になんら影響するものではないと思う。合併をするなら七月一日を目途としたいが、柳沢はあくまで四ヵ村合併を主張している。三ヵ村合併に見込みがないたら協議会は解散するしかないが、今後の協議会に臨む態度を二カ村でじっくり相談したい。
○鳳来地区委員より塞言
駒城村長より二十五日に村協議会を開催して緒論を出すので、二十七日まで待ってくれとの連絡があった。
鳳来村の立場からすれば、四ヵ村合併案には賛成できない。三ヵ村合併の線で進んできたのであるから、感情的になるわけではないが、見方からすれぱ最早猶予の段階ではない。三ヵ村がだめなら鳳来、菅原の二カ村合併をするという断固たる決意で臨みたい。
こうした膠着状態を打開する道をめぐって、各委員からそれぞれ意見が出されたが、強い意志の表明は、三ヵ村合併を推進する駒城村の立場を逆に応援することにもなるとして次のように決議した。
《決議文》
一、駒城村の返事は二十七日まで待つが、以後は遅延できない。遷延する場合は協議会を解散する。
二、三ヵ村合併が不可能の場合は、直ちに鳳来、菅原の二ヵ村合併を推進する。
《第二回三ヵ村合併促進協議会開催》
一、日時昭和三十年五月二十八日午後一時四十分より
二、場所菅原村役場
三、出席者合併促進協議会委員(ただし駒城村柳沢地区選出委員欠席)地方事務所係官(歌田主事)
●駒城村の状況説明(駒城村長)
三ヵ村合併に関する単村の会合を開いたところ、下部浸透が不充分ということで、再度会合を重ねて下部の意見をきいた。それによると横手、大坊地区は三ヵ村合併後において四ヵ村の合併を図るべしとしたが、柳沢地区はあくまでも四ヵ村合併を主張している。
こうした状況について、各委員から次カと左のような発言があった。
・駒城村長に対し、柳沢地区を除いても三ヵ村合併を推進するか。
・武川村議会の意向が当分単村でゆくときいている。相手が返事をしないのに、四カ村案を主張するのはおかしいではないか。
・駒城村としては、集落を割ってはならないと頑張ってきたが、今日のような状況にたって残念だ。今後もなお柳沢に呼びかけたい。
・鳳来村にも似た事情がある。しかし一部を捨てても三ヵ村合併を進める決意だ。
・村内にいささかの異論もないようにすることは理想だが、今やそのような段階ではない。当事者が腹を決めてかからなければ進展しない。
このような種々の論議の中にあっても、なお大勢は三カ村合併に賛意を表したことにより、本日の決議として次の項目を確認した。
一、合併の議会議決は来る六月二日の午前中に了すること。
二、合併後は「町制」をLき、早急に町名を公募する。
三、新町の発足日は来る七月一日とする。
四、今後の協議会の進め方は、六月二目に全員で大綱の審議をなし、而後は専門委員会を置いて審議する。
五、武川村との合併間題は門戸を開いて置く。
 
《第三回三ヵ村合併促進協議会開催》
一、日時昭和三十年六月二目午後二時五十分より
二、場所菅原村役場
三、出席者合併促進協議会委員(ただし駒城村選出委員は全員欠席)
会長より、目下駒城村においては議会を招集し審議中たる旨説明し、若し駒域村が脱落した場合はいかにすべきか諮った。結局はここへきて後退は許されたいので、「鳳来村、菅原村及び長坂町の一部と合併する」ことを確認して散会した。
《第四回三ヵ村合併促進協議会開催・事態急展開》
一、日時昭和三十年六月三目午後二時より
二、場所菅原村役場
三、出席者合併促進協議会委員片颪代表委員地方事務所係官
・会長より経過説明
五月二十八日の協議会決定事項として、六月二日に各村合併議決を了することとしたが、途中駒城村に故障があり、去る一日には駒城村長より残念だが三カ村合併の線から脱落する旨の連絡を受けた。しかし、二日には駒城村が脱落しても鳳来、菅原の二カ村と長坂町の一部との合併を実現するとの確認をえた次第である。ところが、駒城村からは、柳沢地区を分離して三ヵ村合併に加わるという連絡があったので、当初の基本線に戻って進むこととなった。
◎鳳来村選出委員より経過説明
鳳来村においては、六月二目村議会で三カ村と長坂町の一部との合併を了承した。しかし、昨日の駒域村柳沢地区脱落の事情により、本日なお単村の協議会を開催した次第である。下教来石の一部には依然として小渕沢町と合併を望む声があるが、三カ村合併の基本線は決定をみている。
 
●駒城村選出委員の経過説明
ご承知のとおりの村内事情があったが、これでさっぱりした。決議は横手、大坊と柳沢を分離し、横手、大坊は三ヶ村に、柳沢は武川村と合併することとなる。
○菅原村選出委員の経過説明
本村には両村のような事情はない。両村のことについてはその都度心配していた。本日の基本線に沿った合併を喜ぶものである。
・駒城村の分離について会長より次のように説明する。
合併決議の内容は柳沢の分離ということであるが、実質的には三カ村及び長坂町の一部との合併で、何等変更はなく決議文の統一を図ればよいと解する。全委員この説明を了承する。
・引き続き合併条件の協議にはいり、逐条審議のうえ大綱を決定した(別表合併条件鴇議書参照―省略)。なお、細部の点につき協議を進めるため専門委員を選出する。専門委員には各村の村長、議長、副議長を充てる。
 
《合併促進協議会委員の補充及び片颪地区選出委員の選任》
一、柳沢地区選出委員の補充は駒城村に一任する。
二、片颪地区選出委員として次の五者を選出する。
植松千秋、植松定七郎、小林栄良、小林完良、植松文雄
・三カ村合併促進協議会小委員会開催
一、日時昭和三十年六月五日午後一時より
二、場所菅原村役場
三、出席老各専門委員
合併条件の細部につき審議し、決定をみた。(別表合併条件協議書及び白州町建設計画参照―省略)
 
《第五回三カ村合併促進協議会開催》
一、日時昭和三十年六月十五日午後二時一五分より
二、場所菅原村役場
三、出席者合併促進協議会委員地方事務所係官
審議に先だち、会長より駒城村に駒城村の分割による財産処分の状況説明を求める。
●駒城村長財産処分については、財産処理委員会を設置し処理している。具体的に説明すると、山林の内保安林の関係は「財産区」としたい。小学校は一部事務組合で運営したい。公民館は小学校の付属建物として学校が管理する。小使室は小使に無償で支給したい。駐在所は保留する。田、畑、山林については所属地により分割する。ただし後日財産処理委員会において評価額を設定し、この評価額を戸数割で分割する。村有地の水田は小学校の実習地とする。村債、基本財産は戸数割等で分割する。白州中学校に通学している柳沢の生徒については、通学者の希望にまかせたい。
この駒城村長の説明のうち、小学校を一部事務組合としたいという意見には異議があり、論議のまととなった。しかし、財産分割問題があるので当日は結論に達しなかった。
 
《次に駒城村及び片颪(花水)の境界について質した》
駒城村長大武川をもって境とする。大武集落については測量したところ、七対七に世帯を分割した。
《片颪(花水)の境界については会長より説明》
会長片颪の境界は長坂町長と協議し、大字を境とすることとなった。明朝さらに話し合いを進める。
引き続いて「白州町建設計画」につき逐条審議をなし、原案どおり決定した(別表白州町建設計画参照―省略)。なお、補足事項についても審議決定した(別表協議附属壽等参照―省略)
かくして昨年から連綿として続いた合併促進協議会も、曲折を経ながらようやく総ての点で合意に達した。議会の合併議決は鳳来村、菅原村、駒城村は六月四日に、長坂町は六月三日、武川村は六月九目それぞれ議決を了した。
あとは七月一日の新町の発足を待つばかりとなったが、駒城村の財産処分のうち、武川村との共有財産となった小学校校舎や、財産区で管理するとした「一の出し」の保安林等、次のような後日談を残した。
一、共有財産となった駒城小学校は、合併後武川村と折衝、双方の見解がくいちがったが、結局は小学校校舎の一部を取り壊し分割した。
二、大武川ぞいにあった通称「一の出し」という保安林は、昭和三十四年の大災害によりその全部が流出した。

南アルプスエコパーク歴史講座 「白州・尾白川」日本名水百選に指定される。

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「白州・尾白川」日本名水百選に指定される。(その経緯「白州町誌」昭和61年より)
 
尾白川は、駒ケ岳に源を発し、釜無川に合流する。尾白川の由来は、古来白州の山中に白黒で尾が白い神馬が住み、その霊験は白黒(善悪)を明らかにし、人界を律すると伝えられてきた。その神馬が住む霊境を源とする川であることから尾白川と呼ばれている。
この川は古くから駒ヶ岳の山岳神道との結びつきから住民との係わり合いが強い。すなわち「尾白の水」は霊水として尊び、山に入る時の身心の清めとし、また下流への配慮として常に流末まで清い水を保つ「尾白思想」を生活の信条としてきた。また本地域の住民は、古くから尾白の水を生活文化、産業などに生かし、誇りと愛着をもって利用し、親しんできた。
本町では、地域のシソボルである美しい緑と清列な水の流れを次代に引き継ぐため「白然と緑の会」を発足させ、「自然と緑の感謝祭」等の各種行事を行なっている。保全活動として地域住民は、毎月の第三日曜日の早朝「住民一斉清掃日」と定め、「空きかん等散乱防止に関する条例」を制定し、河川の保護に努めている。
この尾白川が昭和六十年四月五日、日本名水百選に指定されたのである。環境庁が日本名水百選を指定した目的は、「全国に多くの形態で存在する清澄な水について、その再発見に努め、広く国民にそれらを紹介し、啓蒙普及を図るとともに、このことを通じて国民の水質保全への意識を深め、併せて優良な水環境を積極的に保護すること等、今後の水質保全行政に資する」ことである。「名水百選調査」に当っては、環境庁が都道府県から候補となるものの報告(合計七八四件)を受け、その中から判定条件に適合するものを「名水百選調査検討会」での検討を経て選定した。
その選定の条件は
(イ)水質、水量、周辺環境(景観)、親水性の観点からみて保全状況が良好なこと。
(ロ)地域住民等による保全活動があること。
を必須条件として、河川については、対象水域の水質が良好であり、水に係わる故事来歴や特別な行事等を有するなどの特徴があり、水質保全活動が優れていることなどを加えている。
名水百選調査は、環境庁水質保全局水質規制課が主体となって行ない、その調査検討委員は、伊藤和明(NHK解説委員)、宇野佐(国民休暇村協会常務理事)・榧根勇(筑波大学教授・地球科学系)、合田健(国立公害研究所水質土壌環境部長)、高橋裕(東京大学教授.工学部土木工学科)、富山和子(評論家)、西川治(東京大学教授.教養学部教養学科)、森下郁子(淡水生物研究所所長)、八木正一(岡山大学教授・農業生物研究所)である。
これらの調査検討委員と、環境庁水質保全局長、同水質規制課長及び担当官等十四~五名が、昭和六十年四月五日来町して、尾白川の調査をなし、検討委員会で検討の結果、日本名水百選に指定されたのである。
このとき山梨県内では、「八ケ岳南麓高原湧水郡」(長坂、小渕町にまたがる三分一湧水、女取湧水、大滝湧水)と「忍野八海」(南都留郡忍野村)、白州.尾白川の三件が指定されたのである。前二件はいずれも八ケ岳や宮士山の伏流湧水であるので、河川として指定されたのは白州.尾白川のみである。〈清水小太郎氏著〉

南アルプスエコパーク 資料 白州町の神社 天神宮社

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南アルプスエコパーク 資料 白州町の神社 天神宮社

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祭神名
 菅原道真公
鎮座地
 北巨摩郡白州町白須竹宇二七八六番地
例祭日
 四月十七日
御由緒
 万寿年中(102427)勧請したと伝えられる。所蔵版札に、大樹殿下内大臣正二位家斉公の御代、当社天満宮祭神菅原道真公を祭祀する。曰く文亀年中(150103)或る人北野聖廟より奉祀するという。奉造立御神殿為武運悠也久御再興者寛政四子(1792)霜月九日、大工始明年御棟上、同六年甲寅春二月二十四日夜御遷座、神主石田美濃守(白須若宮神社神主)藤原義実之代云々。
 古来より六月十四日夜から十五日に至り北野聖廟に倣い祇園祭を斎行する。
 
境内神社 
 八坂社、戸隠社、蚕玉社、外十二社
社殿及建造物
 本殿、拝殿、渡り廊下、鳥居、石燈籠、石狛犬
境内地面積 
 二百七十二坪、山林面積
氏子戸数 
 二六戸
菅原道具  
参議是善の第三子なり
 人皇六十代醍醐天皇立ち給うや、右大臣に任ぜられ
 藤原時平と翔並んで政務に与るに至れり。宇多法皇密に天皇と謀りて道真を関白とし給うや、道真固辞し奉る。是に於いて時平以下之を嫉み相結びて纔言すらく、道具異図を抱き、斎世親王を擁立せんと謀ると。是に於いて大宰権帥に左遷せらる。道真誠忠の志をかえず謫所に在ること三年門を閉じて出でず、文墨に自適し延喜三年(903)二月二十五日遂にに配所に崩ずる、年五十九なり。
其の著に三代実録、百家文章、類聚国史、新撰万葉集、菅家後集等あり。道真薨ずる後京都に度々異災ありたれば、世人その崇なりとなす、天皇大に悔い給いて延長元年(923)道真の本官を迫復し正二位を贈り、又左遷に関する文書を焚毀せしめ給えり。京都市元官幣中社北野神社の御祭神で、文学誠忠の神として全国至る処に天神社、北野天神社として国民哲仰の中心となっている。(編者記)
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