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武田武将 飯富兵部少輔虎昌

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飯富兵部少輔虎昌

『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著 
臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆
 
飯富氏は甲斐源氏の一門逸見氏の別れの末裔で、虎昌檀信虎、信玄と二代にわたって仕えた。
 天文六年(1536)二月、今川義元と信玄の姉の結婚にからんで不和となった北条氏綱が駿河に進攻、義元の救援に信虎は兵を率いて富士郡愛鷹山の東麓の原野に出張って合戦、氏綱を敗走させたが、虎昌は目覚ましい働きぶりを見せた。
その時点で二十七、八歳であったと伝えるから、信玄より十歳ばかり年長ということになる。
 『甲陽軍鑑』によると、天文八年(1539)六月、信虎と北条が虚々実々にいがみ合う間隙をねらい、村上義清と諏訪頼重が呼応して甲斐に軍団を進めた時、虎昌は八百余騎を率いて八ケ岳山麓の念場ケ原(北巨摩郡高根町)から野辺山(信州南佐久郡南牧村)にかけて布陣、村上軍を迎え撃って大暴れの末に敗走させ、首級九十七を挙げたという。
 鎧甲はもとより武具一切を赤一色に統一した騎馬兵団が、原野から忽然と出現してまっしぐらに攻撃を仕かけてくるのを見れば、たいがいの雑兵は度胆を抜かれて戦意を喪失したことであろう。
 敵方から「飯富の赤備え」、と恐れられたように、戦法も強引で、大敵強敵といえども頭から相手を呑んで攻撃をしかけたが、天文十一年(1542)七月の諏訪攻めでは不覚を取って負傷し、甲府に後送された。疵が完治しないのに十月の伊那攻撃には出陣するといったタフぶりであった。
 前年の信虎追放劇を仕組んだ一人であり、何食わぬ顔で板垣と共に信虎を駿府の義元の許に送って行った。信虎も虎昌を心から信じきっていたのだが、信玄もまた虎昌に信頼を寄せていた。
 度重なる軍功で、佐久郡の内山城(佐久市)、ついで小諸城(小諸市)の城代をつとめ、永禄四年(1561)九月十日の川中島の決戦では、妻女山攻撃の主力となって働いた。
 川中島の決戦には信玄の長男義信も出陣、信玄と同様に二カ所の薄手を負い、陣容立て直しのため、筑摩川の広瀬の渡しを渡るについて、父子の間で先に渡れ、渡らぬ、で言い争いがあったが、兼信勢が寄せてくる気配に、信玄はいち早く川を渡ってしまった。
 若い義信は、敵にうしろを見せることはなかったのだ、と信玄のとった行動に対して強い不満を示した。
 父子の間に深い溝をつくることになるのだが、永禄五年(1562)六月、信玄は勝頼を諏訪頼重の跡目とし、伊那の郡
代にしたうえで高遠の城詰めを命じ、信玄麾下の将、跡部右衛門尉重政ら八人を付け、甲府を出立させた。
 それまで妾腹だと差別していたものを、義信に一言の相談もなく起用、しかも洋々たる家臣を八人までも添えるという偏愛に近い措置に、義信は川中島以来のつもる不満を爆発させた。
 一つに父信玄は二十一歳の年、信虎を追い出し、強引に国主に納まったのに、義信が二十五にもなろうというのに、城一つ与えぬばかりか、ないがしにする風さえある。それでは手前勝手ではないか、という不満もあったともいう。
信玄と義信の不仲説は諸説があるが、決定的にしたのは、永禄三年(1560)五月、義元が桶狭間で信長に討たれたことから信玄が、駿河を奪い取ろうとし、これに義信が強く反対したことである。‐
 義信の夫人は義元の娘である。従兄弟同士の結婚で義元の跡を継いだのは義弟の氏直であるから、反対し続けたのだ。
 『甲陽軍艦』、『甲越軍記』によると、永禄七年(1564)、義信は長坂長閑の子源五郎、曾根周防らとひそかに反逆を企てた。そして飯富兵部に協力を申し入れた。虎昌も容易ならぬ企てに驚いたが、打ち明けられた以上、義信に味方するよりないことになった。
 弟の飯富源四郎はいち早くこれを察し、信玄に告げた。義信以下の逮捕によりクーデターは未然に防ぎ得たのである
が、虎昌は、
一、信玄公お若き時分より、兵部お呼びある時、ご返事すぐに申し上げず候こと。
 この他四つの罪を問われて翌八年(1565)、切腹させられた。時に五十五、六であったが、この時勘定奉行の古屋惣二郎以下二十数名もクーデターに参画したとして斬首され、義信の家臣は一人残らず甲州から追放された。
 表向きはそうであるが、義信から信玄追放の計画を打ち明けられた虎昌は弟の源四郎に言いふくめて内通させ、自ら犠牲になる道を選んだのだという。
 信玄は虎昌の死後、源四郎を山県三郎兵衛と改めさせ、虎昌の手勢三百騎のうち五十騎を与えて取り立て、虎昌同様に厚遇したが、「飯富・山県の赤備え」はのちに井伊家の手で復活され、虎昌の勇名もよみがえるのである。

武田武将 秋山伯耆守信友

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秋山伯耆守信友

『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著 
臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆
 
信友の祖は信義の次男加賀美次郎遠光の長男太郎光朝が、秋山村(甲西町)に拠って秋山氏を称したもので、要害城(拠城)は地続きの中野村(櫛形町)にあった。
 光朝は平家に厚遇されて、平重盛の娘を妻にめとったばかりに、のちに源頼朝に冷遇され、不運な生涯を送る羽目に追い込まれた。            
 光朝に三人の子があり、三男の常葉二郎光季の末裔が伯者守信友である。
 父は新左衛門信任。伯耆守信友は晴親、晴近とも言われたが、信玄に見出され重用された。
 大永七年(1527)生まれと伝えられるので、信玄より七歳ばかり年少であった。
 天文十六年(1547)の二月、馬場・小畠と共に伊那に攻め入り、頭角をあらわし、その年二十一歳の若さで、伊那郡代となった。
 永禄五年(1562)六月、勝頼が高遠城代に決まり信友は飯田に城替えになった。
 永禄十一年(1568)六月には、その前年、信長の子城之介(信忠)と、信玄の娘で七歳になった松姫との婚約話が成立したので、祝言の品を届けに秋山が信玄の名代として岐阜へ赴いた。信長の喜びようは異常なほどで、自ら信友の盃に酌をしたり、梅若太夫の能を特別に演じさせたうえに、長良川で鵜飼の実演を披露してもてなすなど、下にもおかぬ歓待ぶりであった。信友も気を良くして、信長に二心のないことを信玄に報告し、大任を果して面目をほどこすのだが、その年十二月、家康相手の遠州攻略では深追いし過ぎて逆襲され、命からがら高遠へ逃げ帰るという失態をやった。
 しかし中一年おいた十三年には三百五十余騎を率いて奥三河へ討って出て、山家三方衆の作手の奥平、菅沼、長篠の菅沼らを攻略、投降させて武名をあげ、先年の雪辱を果した。
 信友には子供がなく、土屋右衛門尉昌次の弟源蔵を養子にもらった。左衛門尉昌義と称させていたが、元亀二年(1571)、二十九歳の若さで病死してしまった。
 不吉の影はそのあたりから兆しはじめていたようである。翌三年になって、信玄から美濃の国遠山の大円寺の僧希庵和尚を消せ、という指令を受けた。身延山の移転問題にからんで入甲をうながしたが、希庵が従わなかったからといわれている。これに異説もあるが、信友は部下の素波(しのびの者)、伊那の松沢源五郎、小田切与助、林甚助の三人に希庵暗殺を命じ、十一月二十六日に首尾よく果して三人は戻って来たが、三人共発狂したり落馬したりなどで、次々に死んでいった。
 信友が信玄の命で岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)の遠山景任を攻めたのは、元亀元年。(1570)で信友は高遠城主であった。
 遠山は織田信長に救援を求めた。景任の夫人は信長の叔母のおつやの方である。
 信長は明智光秀を救援に向かわせた。秋山信友は岩村城を落とすことができず、高遠へ引きあげた。
 元亀三年(1572)、景任が病死したので、信長は六男の御坊丸(勝長)を養子として家督を相続させ、おつやの方が城主となった。これを知った信玄は再び信友に東美濃の攻略を命じた。岩村城の織田掃部は信友との合戦をかわすため、おつやの方と信友を結びつけ、御坊丸の養育を条件に和睦を申し入れた。
 前年、養子を失ったばかりの信友は承座元寺以下の将卒三百五十騎と共に岩村城に入った。
 御坊丸は人質として甲府へ送られた。信玄は養子にするつもりであったという。
 天正元年(1573)信長は二万の兵を率いて岩村城を攻めたが、勝敗はつかなかった。同三年(1575)五月、長篠の合戦で勝頼が敗走すると、信恵が攻めた。
 信恵と松姫の婚約には、祝言の品を届けるために信玄の名代として岐阜へ行った信友だが、立場は逆転して信忠に攻め落とされる羽目になり、信友は信長の命で逆さ傑にされ、おつやの方ものちに信長の手で斬首された。
 平気盛の娘を妻に選んだばかりに不遇の運命を強いられた先祖の元朝と、奇しくも似通った末路をたどることになったの事は皮肉としかいいようがない。

白州町日向山の全貌 宿は藪の湯みはらし 

甲府市土屋華章製作所(土屋穣社長)甲府水晶業界の草分け

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甲府市土屋華章製作所(土屋穣社長)甲府水晶業界の草分け

『甲陽重家録』山寺和夫氏著 昭和49年刊 一部加筆
 

水晶磨き、初代宗助

 甲府市湯村一丁目十三番十一号、土屋華章製作所(土屋穣社長《現隆氏》・水晶美術彫刻置物製造・輸出) は、文政-天保年間 (181843)(仁孝天皇・徳川家慶将軍)に創業した山梨県甲府水晶業界の草分けという老舗である。土屋家所蔵の古文書によれば、今から一五〇年ほど前、土屋家当主、亀之助の四代前の同家始祖、土屋宗助が、甲州青嶋庄市川(現西八代郡三珠町上野一八五番地、通称川浦)に住んでいたとき、御岳の山奥で採掘したという水晶を手に入れた。宗助はこれを芦川の川原の石でこすり磨くことを覚えた。そして磨き上げた水晶を御岳・金桜神社へ奉納したという。その後宗助は(江戸末期)甲府市柳町三丁目に移り住み水晶細工所をはじめた。これが本県水晶業界の草分けとなったのである。

二代目、宗助

宗助の子宗八のときに水晶磨きが本業となり、はじめはおもに丸い水晶玉などをつくっていたことが、同家所蔵の古文書「大福帳」・「万注文帳」で実証されている。

三代目、松次郎 号「華章」

三代目、松次郎は「松華」と称し、印鑑
彫刻をはじめ、東滴道筋一帯にかけて印彫の技術を教えてまわった。松次郎の子、孝は明治十九年(1886)の生まれで、十七歳のときから水晶彫刻をはじめ、それより五十年間をその道一筋に専念し、今日の山梨の水晶彫刻技術の基礎を築きあげた名人である。号を「華章」といい、その功績を認められ業者としては初めての黄綬褒章を授与されている。現在の商号は先代土屋華章から得て名づけられたものである。
 ところでこの時代の甲府における水晶関係の商人の数ははっきりつかむ資料に乏しいが、嘉永七年(1854)三月発行の 「甲府買物独案内」によると、
▽根本元祖、玉根附緒しめ、御数珠眼鏡、御跳御望次第、丸玉水晶細工所、柳町三丁目、土屋宗助
▽当国銘産、玉根附緒しめ、諸国銘石類、御数珠眼鏡、御挑御望次第、やまど水晶細工所、柳町二丁目、深輪屋甚兵衛
▽御数珠眼鏡、玉根附緒しめ、やましょう水晶細工所、金手町、亀屋彦右衛門と三軒の水晶細工業者が掲載されている。この三軒のうち深輪屋は甲府市の戦災直後廃業して県外に去り、金手町の亀屋彦右衛門についてはその後消息が明らかでない。したがって現在残るは土屋華章製作所だけである。
 水晶関係の古記録がきわめて乏しい中に、土屋華章製作所に、初代宗助、二代宗八が使用した「大福帳」と「万注文帳」が保存されていることは歴史上から貴重な文献である。これは戦前柳町から、魚町に移りさらに今の湯村一丁目に移転し戦災を免れた同家が、数年前屋根裏から発見したものである。
この古記録は、初代宗助名儀のものは安政七年~文久三年(186063)にわたる大福帳と万注文帳各一個それに二代宗八名儀の明治五年~同十三年(187280)に至る大福帳一冊である。

祖先は武田家重臣伊賀守昌義

 土屋家は初代宗助が今の西八代郡三珠町上野から甲府市柳町へ移り住んだのがその始まりとなっているが、宗助は長男ではなく土屋本家(土屋義郎家、三珠町上野)から分かれたものである。三珠町上野の土屋家所蔵、の系図そのほか古文書による、と同家の遠祖は青嶋庄市川に居を構えるまで武田家の側近家臣であったが武田二十四将の一人土屋右衛門尉昌次の後裔で、武田家滅亡により昌次の妻子は知縁あって青嶋庄市川(三珠町上野川浦)に任した。それより幾代か後江戸末期に、宗助甲府市柳町に移り、水晶細工所を開業し、宗八、松次郎(松華)、孝(華章)と続き当主亀之助に至っている。                     
 当主亀之助は祖先に劣らない意欲的な実業家で、創案工夫し製作したものは数えきれないほどあり、広く海外に販路を開拓し、本県の水晶美術彫刻の第一人者として知られている。同人は昭和六年水晶業界入りして以来四十余年間、水晶美術彫刻の品質向上と販路拡張につとめ、昭和三十四年には山梨県宝石工職業訓練所長として技術者養成に当たった。また、中小商工業の育成についても常に陣頭にたって業界を指導し業界の長老としてなお活躍している。
 しかし当主亀之助が業界に重きをなすに至ったのも同家の始祖宗助から先代孝(華章)の残した偉大な足跡が土屋華章製作所を今日のように隆盛、安泰に導いたものである。
先代孝(華章)は明治十九年甲府市魚町に生まれ、十七歳のときから祖父の水晶業をつぎ、それまで首飾り、文鎮、めがね程度の加工しかしなかった水晶細工を輸出できる彫刻品にまで高めようと、五十余年間を彫刻一筋に打ち込み、みずからの創意工夫と数種の機械を考案し、水晶彫刻に画期的な改善を加えた。一方輸出の伸長にも大きく尽力し、この間現在山梨水晶彫刻界の中堅として活躍している技術者百数十名を養成、また瑪瑙(めのう)細工を導入し原石の焼き入れ法を完成するなどの功績を残している。このため昭和三十一年四月二十日、水晶業者としては初めての黄綬褒章を授与された。なお当時山梨県水晶美術彫刻協同組合理事長の要職にあったが、昭和三十三年二月、七十二歳で残した孝(華章)は、昭和八年一月商工省が行なった全国の隠れた名工調査の際、本県から水晶彫刻の名工として推薦されている。
 今から一五〇年前の文政年間(光格天皇、徳川家斎将軍)土屋亀之助家の初代宗助が三珠町上野から甲府市柳町へ移住し後、八日町へ移りさらに魚町へ移転したが、ここで甲府戦災にあった。現在地は戦災後移転したもので、水晶彫刻の置物を主として輸出用装身具類の製作、輸出をしている。輸出先はアメリカ九〇%と圧倒的に多く、イタリア、香港などで、敷地一五〇〇平方メートルに建てられている鉄筋コンクリート造り三棟のうち、第一工場、第二工場で働く従業員により生産される製品は、年産およそ一億二千万円に達している。同工場で使われる水晶原石はブラジル・アメリカ・インドから輸入している。社長の椅子を長男・穣に譲り今は取締役会長として第一線から退いた当主、亀之助は齢六十八をかぞえながらも、水晶細工技術の後継者養成に努力して、その功績は高く評価されており、このため現在のように技術者が増え一昔の徒弟制度廃止に大きく役立った。将来の水晶業界は縦の系列化か横のブロック化を推進し、お互いに団結して行くことが肝要だと説き、こうした体制をつくることにより外国の大資本に対抗しなければならないと土屋会長はいっている。また自主的のお得意を持ち、適切な相手業者を見つけて営業する方策は絶対に必要だと強い信念に燃えているファイトマンでもある。
 当主亀之助は韮崎市韮崎町の旧家、故岩下弥市郎の三男として生まれ、先代孝(華章)の長女「いよ子」の許へ養子入りした。「いよ子」は昭和十五年歿している。先代の妻、「ことじ」は四十七年八月、八十八歳で没したが、四十一年十一月十日、県水晶彫刻業界に努力した功績が認められ、婦人としては初めての表彰を甲府市長と甲府市工業協会長からうけている。当主には男一女二の三人の子供がある。
亀之助の長男穣は東京芸術大学卒業後、家業に従事し現在、土屋華章製作所の取締役社長として父亀之助のあとを継いでいる。穣社長の妻、寿々江は塩山市上於骨の名家石川孝重の娘である。同家は水晶彫刻業界の重鎮であり県水晶業界に大きく寄与している優秀企業のため、各方面の人たちが視察に訪れているが、元宮家の東久廼盛厚氏、島津貴子さん、皇太子妃殿下・美智子様、美智子妃殿下の御父母、正田氏夫妻、マッカーサー元駐日米国大使など内外の貴人、名士が同工場を視察に訪れている。土屋家は代々群を抜く賢人を輩出してきたが、祖先代々に於ても輝く実績と不滅の歴史を作った。そしていずれ第六代目の当主となる穣社長も父に負けず家運主企業の発展をさらに伸張させることだろう。

連綿伝わる粳(うるち)粉の餅

同家の家紋は本家と同じく「立三ツ石」である。土屋姓とこの家紋は武功あった同家の祖先に武田氏から贈られたものである。同家には初代というより土屋本家から連綿として現在まで伝わる珍らしい「しきたり」が伝えられている。それは別項で詳述するが、同家の祖先で武田信政の重臣だった金丸飛弾守光政は、主君信政に従い北国に攻め入った。しかし十二月二十八日になっても敵を攻略することができなかった。目の前に正月元旦を控えていたので正月用の餅つきを陣中で行なったが餅米がなかったのでウルチ米を粉にしてふかし、これをウスに入れて餅つきをして四角のノシ餅にした。これを小さく切札餅とし神に供えた。これが神仏に通じたためか、すぐ勝敗はついて武田勢の勝となった。これが金丸飛弾守の提案で行なわれたので、同家では以後正月用の餅はこのようにすることを慣習とし、信玄公より土屋姓を賜わった後もこれを継ぎ現在もウルチ米で餅つきをしている。実に尊い伝統の習慣である。
 土屋家先祖代々の墓所は、甲府市岩窪町の大泉寺にある。この寺は大永元年、鏡島宗純の開山による曹洞宗の名刺で、武田信虎の墓所がある。墓石は正面中央に、家業にふさわしく、水晶を形づくった石碑をしつらえ優雅な感じのする厳粛なものである。

土屋義郎家系

土屋右衛門尉昌次が始祖(後三方原軍功により信近と改む)
 西八代郡三珠町上野一八五番地に住む山梨県が生んだ名画家・土屋義郎は、武田信玄が信州川中島に出陣した永禄四辛酉(1561)九月九日、歳わずか十七歳で戦いに参加し大きな武功をたてたことにより、信玄から土屋の苗字を賜わった金丸筑前守の次男、右衛門尉昌次から数えて十四代目の後胤に当る。土屋家では土屋の姓を名乗るよう信玄からいわれた右衛門尉昌次を始祖としているが、同家の祖先は土屋姓を名乗る前までは金丸獲で、同家にいま所蔵されている家系図によると、同家の由緒は清和源氏義朝の家臣、鎌田兵衛政清である。政清の孫、鎌田藤治光政が武田家に仕えて金丸飛弾守光政といった。これより八代経て金丸伊賀守源昌義は武田信昌の第一の側近家臣となった。武田信昌公御下知にて安正三年(?)十二月二日に北国に立越合戦、勝敗決らず伊賀守源昌義は部下に命じて粳粉で切餅をこしらえて神にそなえた。神慮にかないしや勝をえて帰陣した。吉事なりとして家例として現在まで実行している。金丸伊賀守の嫡子は金丸若狭守で武田信縄の中老職をつとめたほどの人物だった。その子金丸筑前守はわずか十八歳で家督を相続したが、この時は武田信虎そして信玄と主家の主君は変わっていた。筑前守は主家が他国に出陣し勝ったときの儀式に際しては「南天御手水入持役」をつとめ、弓手に座を与えられたと土屋義郎家の古文書に書いてある。また筑前守は勇将で信玄より手勢二〇〇騎を与えられ一方の大将だった。筑前守の長男平三郎は二十一歳で討死したが次男平八郎は十七歳で川中島の合戦に参加し武功をたて、信玄より「土屋」の苗字を賜わったのである。平八郎昌次は二十二歳で侍大将となり、二十八歳のとき右衛門尉を仰せつけられた。元亀三壬申(1572)十二月二十二日、遠州「三方原の合戦」 のせき、徳川
家康の重臣、鳥井四郎左衛門と太刀打ちし、右衛門尉は自分の「明珍星」の甲を切り割られたが首に太刀があたらず奮戦の結果、四郎左衛門をみごと討ち取った。このことはよく講談に読まれたものである。
この戦功により信玄の一字をとり初めて信近の名を賜わったのである。天正三年(1575)五月二十一目、長篠の戦いで織田信長の先峰の「滝川の備え」の柵木を独りで破り敵陣に攻め入ったが鉄砲にあたり討死した。信近このとき三十一歳。信近の一子直治郎はまだ六歳だったと記録にある。
 さて筑前守の七男、源蔵は秋山伯耆守の養子となり、四男助六郎は信玄の奥近習をつとめた。五男金丸惣蔵は勝頼の小姓頭となり、その後駿河に備えて武田家の海軍(信玄時代からあった)の将といわれる岡部忠兵衛(後の土屋備前守)に忠節をつくし、認められて惣蔵は備前守の養子となった。また六男惣八は勝頼の小姓頭をつとめるなど兄弟そろって武田家の重臣として忠節をつくしたわけである。
 土屋惣蔵は二十歳のとき早くも士大将(さむらい大将)となり勇名をはせたが、天正十年(1582)三月十一日、勝頼天目山で自害のとき惣蔵は討死した。惣蔵はこの戦いで片手切りの名人として敵陣をおびやかしたものだった。惣蔵の妻子は小宮山内膳の弟、又七郎と共に三河の国に落ちのびたが、信近の妻子は知緑をたどって青嶋荘市川(土屋義郎家の現在地)に居住するようになったのである。信近の嫡子は成人して土屋小太夫と改め信尚と名乗った。この信尚が現在の土屋義郎家の先祖で六十五歳にて残した。信尚には嫡子平五郎、次男岩次郎、三男儀十郎のほか四人の女子があった。平五郎は成人して土屋弥兵衛信之と改めた。信之の一子平吉は後三左衛門信久と改めている。また信久の二男惣五郎は関東の御郡代、伊奈半左衛門の手代頭となったが後、土屋忠治郎の養子となった。この忠治郎は御公儀御書院御番組頭役をつとめた。信久の嫡子亀次郎改め三右衛門信通の嫡子亀三郎には二人の女子があった。三右衛門信通から百姓となり、名主・長百姓となったと土屋養郎家所蔵の古文書に書いてあり、そのときは元禄二己申(1689)年正月吉日で土屋三右衛門源信通と署名されている。
 当主義郎はこの右衛門尉日日次から数えて十四代目に当たる。
 土屋姓の創始については諸説あり、清和源氏源義朝の家臣鎌田兵衛政清を祖とし、その後裔源昌義は武田信光に仕え金丸伊賀守を称した後孫であるとするもの、源姓足利右馬頭泰氏の勇、一色宮内法印公深を初祖とし、その後一色藤直の男藤次が金丸氏の祀を興し金丸伊賀守光信と称した。その男は若狭守虎嗣で、虎嗣の男筑前守虎義(士隊将)に数男一女あり、長男平三郎昌直、次男右衛門尉昌次、五男惣蔵昌忠、六男惣八正直の四人は土屋氏を冒し、三男左衛門佐昌詮、七男源蔵親久の二人は秋山氏を嗣いだ。四男助六郎定光は父虎義の後を承けて金丸氏を称し士隊将になったとするもの、さらに甲斐国の土屋氏は鎌倉幕府頼朝の重臣土屋三郎宗遠を祖とし平姓であるとしているものなどである。虎義の男平三郎と平八郎は、土屋氏の本家に後嗣なく絶えたのでこれを相続したもので、平八郎昌次(右衛門尉)から源姓になったと解釈すべきではないか。伝承によると、金丸氏は本家だけが金丸氏を称する慣習であるという。

郷土が誇る偉大な画家

 さて当主義郎の父玉之助(五十一歳で没す)は、医者になろうとして静岡県の大宮へ行き医術を修得して医師の代診などしていたが、その後南都留郡鳴沢村に伝染病発生した時医師として活躍(明治三十二、三年頃)し喜ばれた。後製薬に専念し、保寿館の薬として庶民に親しまれた。その手腕を買われ、土地の郡会議員渡辺綱吉の長女をめとり、鳴沢村に永住し一男二女をもうけたが五十一歳で逝去した。
義郎は祖父母に育てられ、山梨県立師範学校(現山梨大学教育学部)を卒業後、教員生活を三年ほどしたが、絵画に専念するため大正十一年退職して上京。岸田劉生、木村荘八、中川一政等の主宰する草土社展に出品、十七点入選、同人となり画壇への第一歩をふみ出した。大正十二年春陽会展第一回展に入選、大正十五年無鑑査出品に推せんさる。昭和二十二年会員に推薦され現在、五十回展を数えるに至った。聖徳太子奉賛展委員、文展無鑑査委員となり、赤蓼会、麓人社、九夏会等を結成、友人後輩を指導啓蒙する。昭和十一年山梨美術協会を発足させて郷土の文化向上に力を注ぎ、昭和二十二年より四十四年まで委員長をつとめたが健康上から辞退して名誉会長となった。昭和三十四年三珠町文化財審議委員長、文化協会顧門のほか、山人会、山梨県芸術祭委員として活躍、昭和四十六牛山梨県文化功労者賞、勲五等瑞宝章を受章の栄誉に輝いた。
 義郎の妻、里子は塩山市赤尾の旧家、保坂和一の次女で、夫婦の間には子供三人ある。長女享子は市川大門町の大木泰男(県庁職員)に嫁し、次女曜子は京都大学大学院出身で、市川大門町の名家、現県議会議員有泉亨の弟、有泉貞夫(県議会誌編纂委員、県教育史編纂委員)に嫁している。長男の昌也は早稲田大学建築科卒業後、現在東京の三井建設㈱設計企画開発部長をしている。
 土屋家には門外不出の家宝がある。御陽成天皇の第八皇子(八の宮という)法親王良澄は勅勘を蒙り甲州湯村に流された。ときは徳川家光将軍、寛永二十年十一月十一目(一六四三) のことだったが、万治元年二月(1659)許されてかえった。このとき親王は五十六歳で足かけ十七年間甲州におり、和歌や筆蹟を残している。この間土屋家の菩提寺である薬王寺に親王が留まったことがあるが、たまたま時の住職と親しくなり、京都伝通院の庭の風景を思いうかべて絵に書いた巻物一巻が(長さ三メートル)土屋家に所蔵されている。これは当時の作品としては逸品であり、法親王の筆になる品だけに貴重なものである。このほか名主時代の宗門改め帳や同家の先祖が京都へ行き勉強したとき持ちかえったといわれる人の道(心学)を説く教科書「やしない草」それに連綿と伝わる家系図など古文書が多く所蔵されており、家系のいかに永いものかを物語っている。

白州町白須 春の風物詩 田園 甲斐駒ヶ岳 八ヶ岳

芭蕉 三木露風

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芭蕉 三木露風

芭蕉の象徴は内に在って醸酵して居る。此点は僕をして想はず渇仰の念を起さすのだ。初期の作品にはまだまだ斯ういふところは見えぬ。ただ注意を牽くのは、匠工する力が案外なく、徹頭徹尾、行情の心を押進めてゐる点である。後にあゝいふ最善の詩境にまで往ったのは、此匠工(ウワーク)する力を捨てて抒情の力に依ったためである。芭蕉はそこから、生命の秘想を奪ひ取ったのである。
芭蕉は次に、形式を破壊しかかった。なるべく自由にして、自由な形で歌はうとした。是は今目まで経て来た現代の詩の傾向によく似て居る。しかし一旦破れた句の形は又だんだん旧へ戻ってった。旧へもどって往ったのではない。さう考へるのは謬りで、実は全く含蓄のある、別種の、澤然とした作風に入つたのである。この時の翁の句は、表はれた形式が直ちに内容とまで進んでゐた。
芭蕉のとったこの面白い過程を、現代の多くの詩人は如何に見るであらうか。我々は実によく爆発もする。大胆で白由である。さうして動かない韻律を動かすのである。
形式が直ちに内容の暗示、或は内容その物とまで押上げたのは芭蕉である。芭蕉一人である。(勿論黄では日本画の或物、其他モダーンは含まれて居ない)詩形は、印象を散漫ならしめぬために、至醇な言語を造るために、必ず短小なるべきものだとポー以来繰返した。しかし其事は我々に心配はない。目本の詩形は、短小のうちの最も短小なもので、又至醇なる言語を造ったと云へば芭蕉に如(シ)くは無い。
名所の翁は終始、言葉を消さうと務めた。言葉を消してその上に、白分の気分を雕(え)り付けようとした。言葉を駆使しようとせず圧殺した。夫故、芭蕉は、初めから言葉で自然をたたき潰す暴挙は企てなかったものと見てよい。
言葉を純粋にし、豊富にするといふことは、語彙(ボキャビュラリー)がどうといふことではない。寧ろ言葉を失ふことである。失践さすことである。
写実を重んずる側から、彼があまり部分に偏すると云はれるのは是れがためだ。併し、消えゆく言葉の上に漠然と顕はれる写象は、たとへ写象そのものが部分のやうに見えても、実は全体を最もよく示した内容でなければならない。
俳諧七部集の外に、その青年期の作なぞを併せて見ると、如何に同じ事柄に就てもさまざまな変化をしてゐるかといふことが興味深く感ぜられる。芭蕉の生涯を通じて最も関係の深いものは白然だ。
そして、その白然が最初は芭蕉にとつてもただ一つの対照者であった。対照としてた表面の自然のみが単純に取扱はれたむ厭世的、仏教思想を以て彩ったといふことはあつても、それは一つのボカシであって徹したものではなかった。此時分の旬には、華美な、或は瀟洒(ショウシャ)な、談林の風が染みこんで居る。併しこの自然をただ対照者としてながめ、それに喜怒哀楽を感じ、それを表面から扱ってゐるといふことに、漸く不満を感じだしたのは流石に翁だ。そして、自然と自分との表面の接触でなく、もって確かな、もっと深い物をと渇望してゐる。
即ち談林を去って、自然の奥秘に忍びこまうとして、次第に熱誠となり、真筆となり、洞察観照する気分が起って来た。
この洞察がなければ、詩は遂に最善の境を踏むことは出来なからう。併し洞察そのものは直ちに詩ではない。洞察し観照するといふことは表現の必須条件であっても詩の流動する生きた気分にはならない。芭蕉はただ知性に基いて、覚めた眼を以て自然を眺めたばかりであつたならば、ただ彼は達人の心を持ったばかりであらう。さうして名僧智織と同じく、哲学者の班にも入ったかも知れぬ。
併し芭蕉を冷かな如性からすくったものは、白然に対する彼の願望だ。彼はこの願望を以て、僅に批判から遁がれて、世にも懐しい象徴の詩人となることを得た。
芭蕉には勿論、入禅(エクスタシー)がある。しかし此事は古来から解されて居るやうな気難かしい浅薄な禅意ではない。覚めながらに夢を見る、さうして自然の生命に忍びこむ、深切な象徴である。雪舟の絵と利休の茶とは同じく共通するところはあるであらう。併し雪舟の胆力や寒さとは相違するし、又利休のやうに茶室にをさまることは出来なかった人だ。彼は実に彼自身の大きなところを持って居る。
実際我々が、創意を凝す詩とは何であらうか、科学といふ熔炉(るつぼ)で燻しきって、たとへ新しく鍛へ上げるにしても、一度は生命の鞴輔(ふいご)に翳さなければならぬ。たとへぱ芭蕉の其れのやうに何の思慮も費さず渋滞なく、一個の霊の不思議をやすやす彷彿さすことでなけれぱならぬ。(講談杜刊『目本現代文学全集38』所収)

素堂と芭蕉の「蓑虫」の遣り取り>

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素堂と芭蕉の「蓑虫」の遣り取り>
素堂、芭蕉「蓑虫」の遣り取り

芭蕉……帰庵する。
素堂…… 秋、芭蕉の帰庵の月、素堂亭に招く。

  此月、予が園にともなひけるに、
  又竹の小枝にさがりけるを
 みの虫にふたゝびあひぬ何の日ぞ 素堂

  しばらくして芭蕉の方より
  草の戸ぼそに住みわびて秋風のかなしげなる夕暮、
  友達のかたへ言ひ遣はし侍る
みの虫の音を聞きに来よ草の庵 芭蕉

素堂、「蓑虫説」
  子光編『素堂家集』……
  はせを老人行脚かへりの頃    
 簑むしやおもひし程の庇より    

  この日予が園へともなひけるに
 蓑虫の音ぞきこへぬ露の底
 
  また竹の小枝にさがりけるを

 みの虫にふたゝび逢ぬ何の日ぞ
  しばらくして芭蕉の方より
 みの虫の音を聞きに来よ草の庵  

素堂……これに答え『蓑虫説』を草す。
嵐雪……「蓑虫を聞きに行く辞」を綴り、一句を送る。

 何も音もなし稲うち喰うて螽哉

芭蕉……『蓑虫説』跋を書す。
素堂……さらに『蓑虫賛』を著す。
素堂、『蓑虫説』(◎印、俳文学館蔵素堂自筆による)
  まねきに應じて、むしのねをたつねしころ
  素堂主人

みのむしみのむし、聲のおぼつかなきをあはれぶ。
ちゝよちゝよとなくは孝にもつはらなるものか。
いかに傳へて鬼の子なるらん。

清女が筆のさがなしや。
よし鬼の子なりとも、瞽叟を父として舜あり。
なむじはむしの舜ならんか。

みのむしみのむし、聲のおぼつかなくて、かつ無能なるをあはれぶ。
松むしは聲の美なるがために籠中に花野をしたひ、
桑子はいとをはくにより、からうじて賎の手に死す。

みのむしみのむし、静なるをあはれぶ。
胡蝶ハ花にいそがしく、蜂はみつをいとなむにより、往来をだやかならず。
誰が為にこれをあまくするや。

みのむしみのむし、かたちのすこし奇なるをあはれぶ。
わずか一葉をうれば、其身をかくし、一滴をうれば、其身をうるほす。
龍蛇のいきほひあるも、おほくは人のために身をそこなふ。
しかじ汝はすこしきなるには。

みのむしみのむし、漁父のいとをたれたるに似たり。
漁父は魚をわすれず。
太公すら文王を釣そしりをまぬかれず。
白頭の冠はむかし一蓑の風流に及ばじ。


みのむしみのむし、たま虫ゆへに袖ぬらしけむ。
田蓑のゝ島の名にかくれずや。
いけるもの、たれか此まどひなからん。
遍昭が簑をしぼりも、ふる妻を猶わすれぬ成べし。

みのむしみのむし、春は柳につきそめしより、桜が枝にうつり、
秋は荻ふく風に音をそへて、寂家の心を起し。
寂蓮をなかしむ。
木枯の後はうつ蝉に身を習ふや。
からも身もともにすつるや。

 又 、
蓑虫々々 偶逢園中 従容侵雨 瓢然乗風 笑蟷斧怒
無蛛糸工 白露甘口 青苔粧躬 天許作隠
我隣称翁 栖鴉莫啄 家童禁叢 脱蓑衣去 誰知其終
   葛村隠士  素堂 書

簑虫説跋(芭蕉)

草の戸さしこめて、ものゝ侘しき折しも、偶簑蟲の一句をいふ、我友素翁、は
なはだ哀がりて、詩を題し文をつらぬ。其詩や綿をぬひ物にし、其文や玉をま
ろばすがごとし。つらくみれバ、離騒のたくみ有にゝたり。又、蘇新黄奇あり。
はじめに虞舜・曾参の孝をいへるは、人におしへをとれと也。
 其無能不才を感る事ハ、ふたゝび南花の心を見よとなり終に玉むしのたはれ
ハ、色をいさむとならし。
 翁にあらずば誰か此むしの心をしらん。静にみれば物皆自得すといへり。此
人によりてこの句をしるむかしより筆をもてあそぶ人の、おほくは花にふけり
て實をそこなひ、みを好て風流をしる。此文やはた其花を愛すべし、其實、猶
くらひつべし。こゝに何がし朝湖と云有。この事を傳へきゝてこれを畫。まこ
とに丹青淡して情こまやか也。こゝろをとゞむれバ蟲うごくがとごとく、黄葉
落るかとうたがふ。みゞをたれて是を聴けば、其むし聲をなして、秋のかぜそ
よそよと寒し。猶閑窓に閑を得て、両士の幸に預る事、簑むしのめいぼくある
にゝたり。  
 芭蕉庵桃青

【語訳】
草庵の戸をとざして、ひとりこもっていて、ものわびしい折ふし、ふと、
  蓑虫の音を聞に来よ草の庵
と一句を詠んだ。わが友山口素堂翁は、この句をたいへん興がって、詩を作り、
文章を書いてくれた。
その詩は、錦を刺繍したように美しく、その文章は玉をころがすような響き
がする。しかも、よくよく味わってみると、屈原の悲痛な詩編「離騒」のよう
なうまさがある。
また蘇東坡の新しさ、黄山谷の奇抜さもある。文のはじめに、父に憎まれて
も、かえって孝を尽くした虞の舜のことや、孔子の弟子で親に孝行して有名な
曾子のことをいっているのは、人々にこのような虫からでも教訓をくみとれと
いうのであろう。また、蓑虫がなんの能もなく才もないところに感心している
のは、人知の小を説き、無為自然を尊ぶ荘子の心を、も一度よく考えてみよと
人々にいうのであろう。最後に、蓑虫が玉虫に恋したことをいうのは、人々に
色欲を戒めようとするのであろう。素堂翁でなかったならば、だれがこれほど
までに、この虫の心を知ることができようか、できはすまい。
「万物静観すれば皆自得す」
という句がある。万物は、心を静めてよく見れば、みな天理を内に蔵し、悟りを得ているという、この句の真意を、自分はいま、素堂翁によって、はじめ
て知ることができた。昔から詩や文を書く人   の多くは、言葉の花を飾っ
て内容の実が貧弱であったり、あるいは内容にのみとらわれて言葉の詩的な美
しさを失ったりする。しかるに、この素堂翁の文章は、言葉の花も、また美し
く、内容である実もまた、十分食べ得るほど充実している。ここに朝湖という
絵師があって、この蓑虫の句や、素堂の文章の事を伝え聞いて、蓑虫を絵に描
いてくれた。実に、色彩はあっさりとしていて、心持は深くこまやかである。
心をとどめて見ていると、なんだか蓑虫が動くようであり、枝の黄色い葉は、
いまに   も落ちるのではないかと思われる。耳を傾けて聞いていると、画
中の蓑虫が声を出して鳴いており、秋風が絵の中からそよそよと吹き出して肌
に寒く感じる。この静かな窓辺で、静かな時を得て、こうして、文人素堂と画
家朝湖の二人の好意をこうむることは、蓑虫の面目この上もないことと感謝す
る次第である。
(語訳は全て小学館『松尾芭蕉集 』村松友次氏による)

簑虫賛(素堂)

延喜のみこ兼明親王、小倉におはせし頃、ある人雨に逢いて簑をかけられけ
るに、山吹の枝をたおりてあたへ玉ふ。
 七重八重花は咲ども山吹のみのひとつだになきぞかなしき
 との御こゝろぞへにて、かし給はざりしとかや。又、小泉式部いなり山にて
雨に逢ひ、田夫に簑をかりけるに、あをといふものをかしてよめるとなん。
 時雨するいなりの山のもみぢ葉はあをかりしより思ひそめてき
 あをは簑のたぐひなるよし。客濡るに簑をからん時、山吹の心をとらんや、
いなり山の歌によらんや。

 服部嵐雪

 簑虫をきゝにゆく辭……

いで聞きにまからん。行程二十町をぞや、かの虫なきやすべき、よしや虫まつ
ともあらじ、またるべきに身にもあらず、面白や橋はふた國にまたがり、入江
の釣舟は、まさ横さまに打こぞりぬ。鷺眠り鴎流れつ、駿河の山はいつこゝら
来つらん。川隈におほふ程ちかし、致景興をふるひ、あかむともなきに、柴門
の雫、衣の襟にひやこく、草の露わら履につめたし。あるじなくてやありけん、
とがめもたまはず、さし入て見れば簑虫の聲鳴すましてつくりと居給ふ、おと
ろへくらべれは、霜にいまだ壯( ) なりしが如く、力を論ずれば風流猶ゆよ
し、ふむ所座する所音なし、かみ子のふるければなり、ゆえによりこの聲は聞
   きしか、性のさはがしきにはなに戀しともきこえず、聞く事にもあらじ、
見ることにもなけん、かれが情と人間の閑と、猶閑人のすぐれたるなるべし虫
よ翁のかしましからむ、鳴きぞ。

何の音もなし稲うち喰ふて螽かな  嵐雪

(『俳諧三十六歌選』所収 津田房之助著)
<蓑虫説の諸解説>

「蓑虫説」

……略)芭蕉が自ら『荘子』を読んで「無才」「無能」の意味を晩年に悟った
可能性も考えられるが、「無才」「無能」を早くも貞享四年に唱えたのは、「蓑
虫説」をめぐる交流を通した素堂であった。その素堂の提唱を通して、芭蕉は
『荘子』の「無才」「無能」思想を学び始めたのである。それは、芭蕉自ら「蓑
虫説」にて、(略)「翁(素堂)にあらずは此むしの心をしらん」(略)
「蓑虫説」が詠まれる以前には、芭蕉が「無才」「無能」の『荘子』思想を悟
らなかったとしか考えられないのである。(略)芭蕉は「蓑虫説」をめぐる素
堂との交流を通して、『荘子』の核心思想であると言える「無才」「無能」で
あるゆえに「造化」に順応することを素堂から学んだのであった。
(筑波大学、黄東遠氏「山口素堂の研究」より)

《註》
…『春鳥集』序文、蒲原有明著。
 思ふに俳文の上乗なるものうちには却てこの散文詩に値するものありて、か
の素堂の蓑蟲の説の体、葢しこれなるべし。云々

  筆者註……この素堂の『簑虫説』の主要本は全部で十一本あるという。
  一、 「簑虫記」 天理図書館蔵本   素堂自筆本
  二、 「簑虫辞」 国文学資料館蔵本   素堂自筆本
  三、 『素堂家集』所収本の一(旧松宇文庫本、
『俳諧集覧』六所収子光編 享保六年序 
四、 『素堂家集』所収本の二(旧松宇文庫本、
『俳諧集覧』六所収  
子光編 享保六年序 
  五、 『風俗文選犬注解』所収の「簑虫説」
(介我著、嘉永三年/1850成)
  六、 『浜田岡堂蕉門俳諧資料』(鈴木勝忠編、昭和51年刊。明治書院)
  七、 『蕉影餘韻』所収の「みのむし巻」 素堂自筆、巻子本。
  八、 『素堂家集』(写本、国立国会図書館蔵本)
  九、 『蕉影餘韻』所収の「簑虫説」(蚊足清書、貞享四年/1687秋)
  十、 『風俗文選』所収の「簑虫説」(許六編、宝永三年/1707)
  十一、『芭蕉文考』(板坂元氏蔵本、享和元年/1801跋)
  ◎  『蓑虫説』 素堂自筆 俳句文学館蔵

(筑波大学、黄東遠氏「山口素堂の研究」より)

《筆註》

……私には素堂や芭蕉の深層の流れる思想や俳諧理論は理解できないが、素堂
が芭蕉に与えた大きな影響については理解できる。素堂と芭蕉の交遊関係は、
  一、素堂が芭蕉を指導する。
  二、素堂と芭蕉が対等の立場。
  三、お互いに独立。
 のようになると思われる。芭蕉優位の書ではそれ以外に、
  四、芭蕉に従属する素堂。
 の立場に捉える書も見える。無理もない話で「俳聖芭蕉」にとって師や強い
影響を与えた人物は抹消することが「俳聖芭蕉」を創作する近道である。
 当時の俳壇で芭蕉個人が全ての俳論に先行したのではなく、多くの人々の努
力が芭蕉俳諧を作り上げたとする顕著な姿勢も必要だと思われる

 蓑虫…… 詠まれた句

 蓑むしの角やゆづりし蝸牛      素堂
 蓑虫にそむきも果てずけふの菊  支考
 みのむしとしれつる梅のさかりかな   蕉笠
 蓑虫の出方にひらく桜かな  卓袋
 みのむしや常のなりにて涅槃像  野水
 みの蟲や形に似合ひし声悲し  杜若
 蓑むしを聞かぬぞけふの命かな  桃隣
 みのむしの茶の花ゆゑに折られける  猿雖
 みのむしのさがりはじめつ藤の花  去来
 蓑むしも木に離れたる落葉哉  残香

芭蕉、『野ざらし紀行』素堂、『野ざらし讃唱 』

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芭蕉、『野ざらし紀行』素堂、『野ざらし讃唱
 
 千里に旅立てみち粮をつゝまず、三更月下無何に入と云けむ、むかしの人の 杖にすがりて、貞享きのえね秋八月江上の破屋を出るほど、風のこゑそゞろ寒げなり。
   野ざらしをこゞろに風のしむみかな        
   秋十とせ却てゑとをさす故郷
關こゆる日は終日雨降て、山はみな雲にかくれたり。霧しぐれふじをみぬ日 ぞおもしろき何某千りと云けるは、此たび路とのたすけとなりて、萬いたはり心を盡し侍る。常に莫逆の交深く、朋友に信あらかな此人。
   ふかゝやはせをふじに預ゆく     ちり
ふじかわのほとりをゆくに、三ツばかりなる捨子の哀げに泣あり。此川の早 瀬にかけて、浮世の波をしのぎにたへず、露ばかりの命まつ間と捨置けむ、小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、猿をきく人すて子にあきのかぜいかにいかにぞや、汝ちゝににくまれたるか、母にうちまれたるか。父はなんぢを悪ムにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯是天にして、汝が性のつたなきをなけ。大井川越る日は、終日雨降ければ、秋の日の雨江戸に指折ん大井川眼前、
   道のべの木槿は馬にくはれ鳧
二十日餘りの月かすかに見えて、山の根ぎはいとくらきに、馬上にむちをたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りてたちまち驚く。
   馬に寝て残夢月遠しちやのけぶり
松葉や風瀑が伊勢に有けるを尋音信て、十日ばかり足をとゞむ。暮て外宮に 詣侍りけるに、一の鳥井の陰ほのくらく、御燈處々に見えて、また上もなき峯の松風身にしむばかり、ふかき心を起して、
   みそか月なし千とせの杉を抱あらし
腰間に寸鐵を不レ帯、襟に一嚢を懸て、手に十八の珠を携ふ。僧に似て塵あり、俗に似て髪なし。我僧にあらずといへども、髻なきものは俘屠の属にたぐへて、神前に入をゆるさず。西行谷のふもとに流あり。をんなどもの芋あらふをみるに、
   いもあらふ女西行ならば歌よまん
 其日のかへさ、ある茶店に立よりけるに、てうといひけるをんな、あが名に 発句せよと云て、白き絹出しけるに書付侍る。
   蘭の香や蝶の翅にたきものす
閑人の茅舎をとひて
   蔦植て竹四五本のあらしかな
長月の初故郷に帰りて、北堂の萱草も霜枯果て、今は跡だになし。何事もむかしに替りて、はらからの鬢白く、眉皺寄て、只命有てのみ云て言葉はなきに、このかみの守り袋をほどきて、母の白髪おがめよ、浦島の子が玉手箱なんぢが眉もやゝ老たり、と、しばらくなきて、
   手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜
 大和国に行脚して、葛下の郡竹の内と云所にいたる。此處はれいのちりが旧郷なれば、日比とゞまりて足を休む。藪よりおくに家有わた弓や琵琶に慰む竹のおく二上山当麻寺に詣て、庭上の松をみるに、凡千とせもへたるならん。大いさ牛をかくすともいふべけん。かれ非情といへども、仏縁にひかれて、斧斤
の罪をまぬがれたるぞ幸にしてたっとし。      
   僧朝顔幾死かへる法の松
獨よし野のおくにたどりけるに、まことに山深く、白雲峯に重なり、烟雨谷を埋ンで、山賤の家處々にちいさく、西に木を伐ル音東にひびき、院々の聲の心の底にこたふ。むかしより此山に入て世をわすれたる人の、おほくは詩にのがれ歌にかくる。いでや、唐土の廬山といはむもまたむべならずや。
ある坊に一夜をかりて
   碪打てわれにきかせよ坊が妻
 西上人の草のいをりのあとは、奥の院より右の方二町ばかりわけ入程、柴人
のかよふ道のみわずかに有て、さがしき谷をへだてる。いとたふとし。彼とく
とくの清水はむかしにかはらずと見えて、今もとくくと雫落ける。
   露とくとく心見にうき世すゝがばや
 若是扶桑に伯夷あらばかならず口をすゝがん。もしこれ許由に告ば耳をあら

はむ。山を登り坂を下るに、秋の日既ニ斜になれば、名のある處々見残して、 先ず、後醍醐帝の美陵を拜む。

   御廟年を経てしのぶは何をしのぶ草
 大和より山城を経て、近江路に入て、美濃にいたるに、います・山中を過ぎて、いひしへの常盤の塚あり。伊勢の守武がいへるに、よしとも殿に似たる秋風とは、いづれの處かにたりけん。我もまた、
   義朝の心に似たりあきの風
 不破
   秋風や藪も畠も不破の関
 大垣に泊りけるに夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野出し時、野ざらしを心におもひて旅立ければ、
   死にもせぬ旅ねの果よあきのくれ
 桑名本當寺にて
   冬牡丹千鳥よ雪のほとゝぎす
 草のまくらに寝あきて、まだほの暗き中に濱のかたへ出て、
   あけぼのやしら魚白き事一寸
熱田の詣ヅ。社頭大イニ破れ、築地たはふれて草村にかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすえて其神と名のる。よもぎ・しのぶ心のまゝに生たるぞ、なかくに目出度よりも心とまりける。
   しのぶさへ枯て餅かふやどり哉
 名護屋に入ル道の程諷吟ス
   狂句凩の身は竹斎に似たるかな
   草まくら犬もしぐるゝか夜の聲
 ゆき見ありきて
   市人よこの笠うらう雪の傘
 旅人を見る
   馬をさへながむる雪の旦かな
 海邊に日暮して
   海くれて鴨の聲ほのかに白し
 爰にわらぢをとき、かしこに杖をすてゝ旅寝ながらに年の暮ければ、年くれぬ笠きてわらぢはきながらといひいひも山家にとしを越て
誰が壻ぞ齒朶に餅おふ牛の年
 奈良に出る道のほど
   春になれや名もなき山の朝霧
 二月堂に籠りて
   水取リや氷の僧の沓の音
 京に登りて、三井秋風が鳴滝の山家をとふ。
 梅林
   梅白し昨日や鶴をぬすまれし
   樫の木花にかまはぬすがたかな
 伏見西岸寺任口上人にあふて
   我衣にふしみの桃の雫せよ
 大津に出る道、山路を越て
   やま路来てなにやらゆかしすみれ草
 湖水眺望
   辛崎の松は花よりおぼろにて
 晝の休らひとて旅店に腰を懸て
   つゝじいけて其陰に干鱈さく女
 吟行
   菜畑に花見皃なる雀哉
 水口にて廿年を経て故人あふ
   命二ツ中に活きたるさくらかな
 伊豆の國蛭が小島の桑門、これも去年の秋より行脚しけるに、我名をきゝて、 草の枕の道づれにもと、尾張の國まで跡をしたふ来たりければ、
   いざともに穂麥くらはんくさまくら
 此僧われに告て曰、圓覺寺大顛和尚、ことしむ月のはじめ、遷化したまふよし。まことや夢のこゝちせらるゝに、先道より其角が方へ申つかはしける。         
梅戀て卯の花拜むなみだかな
 贈杜國子
   白げしにはねもぐ蝶のかたみかな
 二たび桐葉子がもとに有て、今やあづまにくだらんとするに、
牡丹蘂ふかく分ケ出る蜂の名残かな
 甲斐の國山家にたちよりて (一本、山中に立ちよりて)
   ゆく駒の麥に慰むやどりかな
 卯月の末いほりにかへり、旅のつかれをはらす。
   なつ衣いまだ虱をとりつくさず
  酬和の句江戸をたつ日
  ばせを野分其句に草鞋けへよし                  李下
   月ともみぢを酒の乞食                             蕉

  自烏巾を持きたりて

   頭巾きて君見よふじの初颪                     コ斎
  伊勢やまだにて、いも洗ふと云句えを和す
   宿まいらせむさいぎやうなれば秋の暮    雪枝
   ばせをとこたふ風の破がさ                      蕉
    花の咲みながら草の翁かな                  勝延
   秋にしほるゝ蝶のくづれを                      蕉
    師のむかし拾ンこの葉かな                  塔山
   薄に霜の髭四十一                                   蕉

芭蕉、『野ざらし紀行』

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芭蕉、『野ざらし紀行』 
 千里に旅立てみち粮をつゝまず、三更月下無何に入と云けむ、むかしの人の 杖にすがりて、貞享きのえね秋八月江上の破屋を出るほど、風のこゑそゞろ寒げなり。
   野ざらしをこゞろに風のしむみかな        
   秋十とせ却てゑとをさす故郷
關こゆる日は終日雨降て、山はみな雲にかくれたり。霧しぐれふじをみぬ日 ぞおもしろき何某千りと云けるは、此たび路とのたすけとなりて、萬いたはり心を盡し侍る。常に莫逆の交深く、朋友に信あらかな此人。
   ふかゝやはせをふじに預ゆく     ちり
ふじかわのほとりをゆくに、三ツばかりなる捨子の哀げに泣あり。此川の早 瀬にかけて、浮世の波をしのぎにたへず、露ばかりの命まつ間と捨置けむ、小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、猿をきく人すて子にあきのかぜいかにいかにぞや、汝ちゝににくまれたるか、母にうちまれたるか。父はなんぢを悪ムにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯是天にして、汝が性のつたなきをなけ。大井川越る日は、終日雨降ければ、秋の日の雨江戸に指折ん大井川眼前、
   道のべの木槿は馬にくはれ鳧
二十日餘りの月かすかに見えて、山の根ぎはいとくらきに、馬上にむちをたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りてたちまち驚く。
   馬に寝て残夢月遠しちやのけぶり
松葉や風瀑が伊勢に有けるを尋音信て、十日ばかり足をとゞむ。暮て外宮に 詣侍りけるに、一の鳥井の陰ほのくらく、御燈處々に見えて、また上もなき峯の松風身にしむばかり、ふかき心を起して、
   みそか月なし千とせの杉を抱あらし
腰間に寸鐵を不レ帯、襟に一嚢を懸て、手に十八の珠を携ふ。僧に似て塵あり、俗に似て髪なし。我僧にあらずといへども、髻なきものは俘屠の属にたぐへて、神前に入をゆるさず。西行谷のふもとに流あり。をんなどもの芋あらふをみるに、
   いもあらふ女西行ならば歌よまん
 其日のかへさ、ある茶店に立よりけるに、てうといひけるをんな、あが名に 発句せよと云て、白き絹出しけるに書付侍る。
   蘭の香や蝶の翅にたきものす
閑人の茅舎をとひて
   蔦植て竹四五本のあらしかな
長月の初故郷に帰りて、北堂の萱草も霜枯果て、今は跡だになし。何事もむかしに替りて、はらからの鬢白く、眉皺寄て、只命有てのみ云て言葉はなきに、このかみの守り袋をほどきて、母の白髪おがめよ、浦島の子が玉手箱なんぢが眉もやゝ老たり、と、しばらくなきて、
   手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜
 大和国に行脚して、葛下の郡竹の内と云所にいたる。此處はれいのちりが旧郷なれば、日比とゞまりて足を休む。藪よりおくに家有わた弓や琵琶に慰む竹のおく二上山当麻寺に詣て、庭上の松をみるに、凡千とせもへたるならん。大いさ牛をかくすともいふべけん。かれ非情といへども、仏縁にひかれて、斧斤
の罪をまぬがれたるぞ幸にしてたっとし。      
   僧朝顔幾死かへる法の松
獨よし野のおくにたどりけるに、まことに山深く、白雲峯に重なり、烟雨谷を埋ンで、山賤の家處々にちいさく、西に木を伐ル音東にひびき、院々の聲の心の底にこたふ。むかしより此山に入て世をわすれたる人の、おほくは詩にのがれ歌にかくる。いでや、唐土の廬山といはむもまたむべならずや。
ある坊に一夜をかりて
   碪打てわれにきかせよ坊が妻
 西上人の草のいをりのあとは、奥の院より右の方二町ばかりわけ入程、柴人
のかよふ道のみわずかに有て、さがしき谷をへだてる。いとたふとし。彼とく
とくの清水はむかしにかはらずと見えて、今もとくくと雫落ける。
   露とくとく心見にうき世すゝがばや
 若是扶桑に伯夷あらばかならず口をすゝがん。もしこれ許由に告ば耳をあら

はむ。山を登り坂を下るに、秋の日既ニ斜になれば、名のある處々見残して、 先ず、後醍醐帝の美陵を拜む。

   御廟年を経てしのぶは何をしのぶ草
 大和より山城を経て、近江路に入て、美濃にいたるに、います・山中を過ぎて、いひしへの常盤の塚あり。伊勢の守武がいへるに、よしとも殿に似たる秋風とは、いづれの處かにたりけん。我もまた、
   義朝の心に似たりあきの風
 不破
   秋風や藪も畠も不破の関
 大垣に泊りけるに夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野出し時、野ざらしを心におもひて旅立ければ、
   死にもせぬ旅ねの果よあきのくれ
 桑名本當寺にて
   冬牡丹千鳥よ雪のほとゝぎす
 草のまくらに寝あきて、まだほの暗き中に濱のかたへ出て、
   あけぼのやしら魚白き事一寸
熱田の詣ヅ。社頭大イニ破れ、築地たはふれて草村にかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすえて其神と名のる。よもぎ・しのぶ心のまゝに生たるぞ、なかくに目出度よりも心とまりける。
   しのぶさへ枯て餅かふやどり哉
 名護屋に入ル道の程諷吟ス
   狂句凩の身は竹斎に似たるかな
   草まくら犬もしぐるゝか夜の聲
 ゆき見ありきて
   市人よこの笠うらう雪の傘
 旅人を見る
   馬をさへながむる雪の旦かな
 海邊に日暮して
   海くれて鴨の聲ほのかに白し
 爰にわらぢをとき、かしこに杖をすてゝ旅寝ながらに年の暮ければ、年くれぬ笠きてわらぢはきながらといひいひも山家にとしを越て
誰が壻ぞ齒朶に餅おふ牛の年
 奈良に出る道のほど
   春になれや名もなき山の朝霧
 二月堂に籠りて
   水取リや氷の僧の沓の音
 京に登りて、三井秋風が鳴滝の山家をとふ。
 梅林
   梅白し昨日や鶴をぬすまれし
   樫の木花にかまはぬすがたかな
 伏見西岸寺任口上人にあふて
   我衣にふしみの桃の雫せよ
 大津に出る道、山路を越て
   やま路来てなにやらゆかしすみれ草
 湖水眺望
   辛崎の松は花よりおぼろにて
 晝の休らひとて旅店に腰を懸て
   つゝじいけて其陰に干鱈さく女
 吟行
   菜畑に花見皃なる雀哉
 水口にて廿年を経て故人あふ
   命二ツ中に活きたるさくらかな
 伊豆の國蛭が小島の桑門、これも去年の秋より行脚しけるに、我名をきゝて、 草の枕の道づれにもと、尾張の國まで跡をしたふ来たりければ、
   いざともに穂麥くらはんくさまくら
 此僧われに告て曰、圓覺寺大顛和尚、ことしむ月のはじめ、遷化したまふよし。まことや夢のこゝちせらるゝに、先道より其角が方へ申つかはしける。         
梅戀て卯の花拜むなみだかな
 贈杜國子
   白げしにはねもぐ蝶のかたみかな
 二たび桐葉子がもとに有て、今やあづまにくだらんとするに、
牡丹蘂ふかく分ケ出る蜂の名残かな
 甲斐の國山家にたちよりて (一本、山中に立ちよりて)
   ゆく駒の麥に慰むやどりかな
 卯月の末いほりにかへり、旅のつかれをはらす。
   なつ衣いまだ虱をとりつくさず
  酬和の句江戸をたつ日
  ばせを野分其句に草鞋けへよし                  李下
   月ともみぢを酒の乞食                             蕉

  自烏巾を持きたりて

   頭巾きて君見よふじの初颪                     コ斎
  伊勢やまだにて、いも洗ふと云句えを和す
   宿まいらせむさいぎやうなれば秋の暮    雪枝
   ばせをとこたふ風の破がさ                      蕉
    花の咲みながら草の翁かな                  勝延
   秋にしほるゝ蝶のくづれを                      蕉
    師のむかし拾ンこの葉かな                  塔山
   薄に霜の髭四十一                                   蕉
    霜の宿の旅寐に蚊帳をきせ申            

素堂、『野ざらし讃唱 』

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素堂、『野ざらし讃唱

素堂跋山素堂
 こがねは人の求めなれど、求むれハ心静ならず。色は人のこのむ物から、このめば身をあやまつ。たゞ、心の友とかたりなぐさむよりたのしきハなし。こゝに隠士あり、其名を芭蕉とよぶ。はせをはをのれをしるの友にして、十暑市中に風月をかたり、三霜江上の幽居を訪ふ。いにし秋のころ、ふるさとのふるきをたづねんと、草庵を出ぬ。したしきかぎりハ、これを送り猶葎をとふ人もありけり。
      何となく芝ふく風も哀なり          杉 風
 他ハもらしつ。此句秋なるや冬なるや。作者もしらず、唯おもふ事のふかきならん。予も又朝かほのあした、夕露のゆふべまたずしもあらず。霜結び雲とれて、年もうつりぬ。いつか花に茶の羽織見ん。閑人の市をなさん物を、林間の小車久してまたずと温公の心をおもひ出しや。五月待ころに帰りぬ。かへれば先吟行のふくろをたゝく。たゝけば一つのたまものを得たり。
 そも野ざらしの風は一歩百里のおもひをいだくや。富士川の捨子ハ其親にあらずして天をなくや。なく子は獨リなるを往来いくはく人の仁の端をかみるを聞人に一等の悲しミをくはえて今猶三聲のなミだだりぬ。次のさよの中山
夢は千歳の松枝とゞまれる哉。西行の命こゝにあらん。           
 猶ふるさとのあはれは身にせまりて、他はいはゞあさからん。誠や伯牙のこゝろざし流水にあれば、其曲流るゝごとしと、我に鐘期が耳なしといへども、翁の心、とくくの水うつせば句もまた、とくとくしたゝる。翁の心きぬたにあれば、うたぬ砧のひゞきを傳ふ。昔白氏をなかせしは茶賣が妻のしらべならずや。
坊が妻の砧ハいかにて打てなぐさめしぞや。それは江のほとり、これはふもとの坊、地をかゆともまたしからん。
美濃や尾張のや伊勢のや、狂句木枯の竹斎、よく鞁うつて人の心を舞しむ。其吟を聞て其さかひに坐するに同じ。詞皆蘭とかうばしく、山吹と清し。しかなる趣は秋しべの花に似たり。其牡丹ならざるハ、隠士の句なれば也。風の芭蕉、我荷葉ともにやぶれに近し、しばらくとゞまるものゝ形見草にも、よしなし草にも、ならばなりぬべきのミにして書ぬ。                                                                                                
 
『芭蕉文集』
この跋は濁子本『野晒紀行畫巻』素堂跋と殆ど同様である
 (発行、岩波書店。杉浦正一郎氏・宮本三郎氏・荻野清氏共著)
 『野晒紀行畫巻』
 中川濁子が畫を加え、素堂の跋と芭蕉の奥書がある。         
                         
 甲子吟行 素堂序
 我友ばせをの老人故郷のふるきをたぐねむついでに、行脚の心つきて、それの秋、江上の庵を出、またの年のさ月ごろに帰りぬ。見れば先頭陀のふくろをたゝく、たゝけばひとつのたま物を得たり。
 そも野ざらしの風ハ出たつあしもとに千里のおもひをいだくや、きくひとさえぞ、そぞろ寒け也。次に不二の見ぬ日そ面白きと詠じけるは、見るに猶風興まされるものをや。富士川の捨子ハ憶隠の心を見えける。
 かゝるはやき瀬を枕としてすて置けん、さすが流れよとハおもハざらまし。身にかふる物ぞなかりき。みどり子はやらむかたなくかなしけれどもと、むかしの人のすて心までおもひよせてあはれな らずや。又さよの中山の馬上の吟、茶の烟の朝げしき、梺に夢をおびて、葉の落る時驚きけん詩人の心をうつせるや。桑名の海辺にて白魚白きの吟ハ、水を切て梨花となすいさぎよきに似たり。
 天然二寸の魚といひけんも此魚にやあらむ。ゆきゆきて、山田が原の神杉をいだき、また上もなきおもひをのべ、何事のおはしますとハしらぬ身すらなみだ下りぬ。同じく西行谷のほとりにて、いも洗ふ女にことよせけるに、江口の君ならねバ、答もあらぬぞ口をしき。
 それより古郷に至りて、はらからの守袋より、たらちねの白髪を出して拝ませけるハ、まことにあはれさハ其身にせまりて、他はいはゞあさかるべし。しばらく故園にとゞまりて、大和廻りすとて、わたゆみを琵琶になぐさみ、竹四五本の嵐かなと隠家によせける。此両句をとりわけ世人もてはやしけるとなり。
しかれ共、山路きてのすみれ、道ばたのむくげこそ、此吟行の秀逸なるべし。
 それよりみよしのゝよしのゝおくにわけいり、南帝の御廟にしのぶ草の生たるに、そのよの花やかなるを忍び、またとくくの水にのぞみて、洗にちりもなからましを、こゝろにすゝぎけん。此翁年ごろ山家集をしたひて、をのずから粉骨のさも似たるをもつて、とりわき心とまりぬ。おもふに伯牙の琴の音、こゝろざし高山にあれば、峨々ときこへ、こゝろざし流水にあるときハ流るゝごとしとかや。我に鐘子期がみゝなしといへども、翁のとくくの句をきけば、
眼前岩間を伝ふしたゝりを見るがごとし。同じくふもとの坊にやどりて坊が妻に砧をこのミけん。むかし、潯陽の江のほとりにて楽天をなかしむるハ、あき人の妻のしらべならずや。坊が妻の砧は、いかに打ちて翁をなぐさめしぞや。
ともにきかまほしけれ。それハ江のほとり、これハふもとの坊、地をかふるとも又しからん。いづれの浦にてか笠着てぞうりはきながらの歳暮のことぐさ、これなん皆人うきよの旅なることをしりがほにして、しらざるを諷したるにや。
 洛陽に至り、三井氏秋風子の梅林をたずね、きのふや鶴をぬすまれしと、西湖にすむ人の鶴を子とし、梅を妻とせしことをおもひよせしこそ、すみれ・むくげの句のしもにたゝんことかたかるべし。
 美濃や、尾張や、大津のや、から崎の松、ふし見の桃、狂句こがらしの竹斎、よく鞁うつて人のこゝろをまなバしむ。こと葉皆蘭とかうばしく、やまぶきと清し。静なるおもひ、ふきハ秋しべの花に似たり。その牡丹ならざるハ、隠士の句なれば也。
風のはせを、霜の荷葉、やぶれに近し。しばらくあとにとゞまるものゝ、形見草にも、よしなし草にも、ならバなるべきのミ、のミにして 書ぬ。  
かつしかの隠士     素堂
 

 甲子吟行

  この紀行は芭蕉の真蹟に素堂自筆の跋の附いたものが、門人曾良の手から贄川某に傳へられ、寄山といふ人が之を模写して同門の波静に與へ、安永九年(1780)に星運堂から発刊された。云々
 (『俳聖芭蕉』野田別天樓氏著。昭和十九年刊)

 野晒紀行畫巻

 野晒紀行畫巻は芭蕉の門人中川濁子が畫を加へ、素堂の跋と芭蕉の奥書のあるもので、本分の筆者は芭蕉でなく、素堂との説もあるが、確実ではない。原畫巻は東京の大橋家に珍蔵されている。云々
  (『俳聖芭蕉』野田別天樓氏著。昭和十九年刊)
芭蕉…
 貞享元年八月、四十一才の芭蕉は、門人千里を伴い、江戸深川を出発。東海道を伊勢国まで直行し、郷里の伊賀国に着いたのは九月の初め、母の白髪に慟哭、千里と別れ、ひとり吉野の奥に西行を訪ねた。美濃国大垣の木因に寄舎し、次いで尾張国では『冬の日』五歌仙を巻く。越年を故郷で過ごし、奈良-京都-伏見-大津を経て再び尾張国を訪ね、甲斐国に立ちより、貞享二年四月末日に深川に帰庵する。
 書名は「草枕」「のざらしの集」「芭蕉翁野佐らし紀行」「野晒紀行」「芭蕉甲子吟行」などと呼ばれた。その後次第に整理されて「野ざらし紀行」・「甲子吟行」と整理されてきた。
素堂、野ざらし讃唱
素堂の和詩「野ざらし讃唱」(高橋庄次氏紹介)によれば、

江戸に戻った芭蕉は「野ざらし」と「草枕」をそのまま生かして、間に木因との小旅行で得た三句を挿入し、「草枕」の末尾に尾張から江戸に戻る帰路の六句を付け加えて、全体の題号を「野ざらし」として、一巻にまとめ上げた。

 こうして貞享四年。野ざらしの段、草枕の段、名残りの段の三段構成の『野ざらし絵巻』となって完成した。その時芭蕉は素堂の跋詩文「野ざらし讃唱」を加え、これが大きな役割を演じ、芭蕉の本文と素堂の讃唱が大きな唱和形態を素堂讃唱の効果は見事な詩文を構成し、本文とのハ-モニ-を作り出した。 
素堂跋文『旅路の画巻』
 素堂の跋によると、琴風の家にあった立圃と其角の画を見た芭蕉が自ら旅路の風景を描き、大垣の中川濁子加彩させたという)   
風流とやせん、名印あらざれば、炎天の梅花雪中の芭蕉のたぐひにや沙汰せん。されば彼翁の友にいきのこりて、証人たらんものは我ならずしてまたたそや。           
  しもつさの国かつしかの散人素堂 花押  
 

参考『国文学』「俳諧紀行文の誕生」、もう一つの表現。米谷巌氏著。         

 昭和54年10月号
 「かへれば先ず吟行のふくろをたたく、たゝけば一つのたまものを得たり」
と、素堂が語っているように、野ざらしの旅土産は、貞享二年四月の帰庵後直ちにつづられて、待ち受ける素堂・其角ら周囲の門友に披露されたものと推測される。(中略)なお、泊船本の原点に付されていたという素堂の跋文は、狐屋本および濁子本に書写されている素堂跋文(短文型)とおそらく同種のものであろう。(略)ちなみに素堂の跋文には、他に長文の類似のものがあり、  
素堂の自筆が芭蕉真蹟画巻の巻初に、序文の形で貼付けされている。その長文型の序文の作者及び執筆年次についても議論がある。(略)素堂の自筆と認められる序文(岡田利兵衛『図説芭蕉』34頁)が出現した現在、偽作説はもはや問題にならない。
(略)素堂は、やはり落款のない芭蕉の遺稿『旅路の画巻』(三巻一軸)にも
跋文を寄せて、
 「名印あらざれば、炎天の梅花・雪中の芭蕉のたぐひにや沙汰せん。されば
彼翁の友にいきのこりて、証人たらんものは我ならずしてまたたそや」と述べている。芭蕉没後の素堂にこのような気持ちがあったことを参酌すれば、ましてかって跋文を贈った因縁のある野ざらし紀行の、無署名の自筆画巻のために快く懐かしく筆を執ったであろうと想像される。(以下略)
                                                           

『野ざらし紀行翠園抄』 (序跋付録を省き本文のみ翻刻) 積翠編。

(『国語国文学研究史大成』12)
 此紀行は貞享元年にして、桃青四十一歳なり。今世に行はるゝ甲子吟行と題せるもの也。云々
  
猿を聞人捨子秋の風いかに

素堂評 

富士川の捨子は憶測の心ぞみえける。かゝる早瀬を枕として捨置けん、さすがに流にはとおもはざるまじ。身にかふる物ぞなかりき。みどり子はやらんかたなくかなしけれども、と昔の人の捨心まで思よせて哀れならずや。
 
 馬上吟道のべの木槿は馬にくはれけり
素堂評
山路来ての菫、道ばたのむくげこそ、此吟行の秀逸なるべけれ。
 
 みそか月なし千とせの杉を抱あらし
素堂評
ゆきゆきて山田が原の神杉をいだき、又うへもなきおもひをのべ、何事のおはしますとは知らぬ身すがらもなみだ下りぬ。
 
芋あらふ女西行ならば歌よまん
素堂評
西行谷のほとりにて芋洗ふ女にことよせけるに、江口の君ならねば答もあらぬぞ口おしき。其日のかへさ、ある茶店に立寄りけるに、てふといひける女、あが名に発句せよといふて白きを出しけるに書付侍る。
 
わた弓や琵琶になぐさむ竹の奥
素堂評
わた弓に琵琶なぐさみ、竹四五本の嵐哉と隠家によせける。此両句をとりわけ世人もてはやしけると也。しかれども山路来ての菫、道ばたのむくげこそ此吟行の秀逸なるべけれ。
 
砧打て秋にきかせよ坊が妻
素堂評
麓の坊にやどりて坊が妻に砧このみけん。昔潯陽の江のほとりにて楽天を泣しるはあき人の妻のしらべならずや。坊がつまの砧はいかに打て翁をなぐさめしにや。
 
明ぼのや白魚しろき事一寸
素堂評
桑名の海辺にて魚の白き吟は、水を切て梨花となすいさぎよさに似たり。天然二寸の魚といひけんも此魚にやあらん。
 
年くれぬ笠着て草鞋はきながら
素堂評
笠着てぞうりはきながらの歳暮のごとき、是なん浮世の旅なる事を知らざるを諷したるにや。

横田備中守高松(よこたびっちゆうのかみたかとし)

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横田備中守高松(よこたびっちゆうのかみたかとし)

『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著 
臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆


 横田備中守高松は近江佐々本の一流、次郎兵衛義網が初めて横田を称し、その五世の孫であるという。‐
 鬼美濃(原虎胤)より十歳の年長というから、長享二年(1488)生まれあたりらしい。信虎に仕えた足軽大将であった。信虎は歴戦の屋下の将二百二十騎の中から七十五人を選りすぐり、さらに三十三人にしぼった。一騎当千の荒武者ぞろいであったが、戦死あり病死ありで、外様衆で信玄の代まで生き残ったのは、この横田の他に、多田、小畠山城、鬼美濃の四人しかいなかった。
 信玄にとって信虎ゆずりの得がたい武将の一人であったが、高松は合戦に臨むと、敵の動きを敏感に読み取る術に長じ、敵の虚を突くのが得意でおった。
 ところが後続の駆けつけるのが遅れたりすると、しばしば危機におち入りやすいもろさがあった。そこで信虎は高松隊には兵を多くつけるように気を配ったという。
 子供が無かったので、子沢山の鬼美濃の長男彦十郎を強引にもらい受けた。のちの横田十郎兵衛康景である。
 合戦の際は甘願隊に所属したが、戦場に臨むこと三十四度、刀疵槍疵合わせて三十一創あり、食禄三千貫をもらった。
天文十九年九月一日から始まった戸五絃(長野県上田市)の合戦で死亡した。時に六十六識の老将であったが、戦場で死ねたことは、高松として本懐であったに相違ない。
 戦国時代の侍の仕官は「命を売る」ことであって、扶持を頂くことは「君恩」として受けとめられてきた。したがって 恩を返すには、戦場でいさぎよく死んでいくよりしかたなかったのである。
 十郎兵衛康景は高松の跡を継ぎ、三十騎に足軽百人を預けられた。鬼美濃の子だけあって、十六歳で初陣を果してから二十七年の間、諸合戦に出て手柄を立て、感状を十九もらっている。
 早くから鉄砲の威力に目をつけ、甲州に鉄砲の指南にやって来た伊予の浪人河野流の佐勝一甫斎について、みっちり修行を重ねて腕をみがいた。
 鉄砲が甲州に待ち込まれたのは信虎の代であらたが、普及するまでにはいたらなかった。
 信玄の若い頃、加治良大膳父子が鉄砲を持ち込み家臣に教えたこともあったのだが、合戦の武功とは自分の手で敵の首級をあげてみせることであったから、鉄砲で撃ち取る首は邪道と考えられ、本気で習得しようとはしなかったのだ。永禄五年(1562)の武州松山城攻めで鉄砲による苦杯をなめさせられた教訓から、康景はとれからの合戦は鉄砲に限ると考えを新たにし、本気で打ち込んだものである。
 永禄九年(1566)七月、謙信が一万三千の兵を率いて上州和田の城(群馬県高崎市)を囲んだ。
 甲州から援軍として康景が駆けつけ、流域態勢に入り、城内の総指揮に当って謙信としてはひと押しに攻め取るつもりでいたところ、本陣目がけて鉄砲玉が飛び込んでくる。そのつど必ず誰か殺られる。
 偵察させると康景が櫓に上り、鉄砲をかまえて、一人で狙い撃ちしていることがわかった。たった一挺の鉄砲のために攻めあぐねる結果になったばかりか、日を重ねるごとに謙信眼下の侍大将が次々に撃ち殺され、そのうちに謙信自身まで撃ち殺されかねない情勢になったので、和田攻めをあきらめ包囲を解いて越後へ引きあげてしまった。
 これを知って康景を賞めたたえぬ者はなかったが、康景は手柄顔一つ見せなかったし、信玄も賞め言葉一つ与えなかった。賞められて喜ぶ康景でないことを知りぬいていたからである。
 康景と共に鉄砲の名人といわれた一人に日向藤九郎がいたが、皮肉なことに永禄五年の松山城攻めの際、鉄砲玉に当って戦死した。康景は子供のころから本に親しみ、武田家臣団きっての物識であった。
 満座の中で物真似をしてみせ、合いの手に風刺の利いた洒落を言って、皆を笑わせるのも得意であったが、その面で勝るとも劣らなかったのは内藤修理であったという。長篠の合戦では足軽大将の本領を充分に発揮して奮戦、討死した。五十一歳。
 その子甚五郎も祖父・父に劣らぬ・猛将であった。天正八年(1580)、竺州高天神城(静岡県小笠郡大東町)に立籠っていた甚五郎は、勝頼から交替せよと命じられたが、踏みとどまって家康軍を食いとめる、と返事を出して戻らなかった。のち脱出する羽目になり、甲州に戻り、勝頼から褒美として刀一振りを与えられたが、祖父・父にも例のないこととして返上するという「さむらい」であった。その年二十七歳。のち家康に仕え横田鶴右衛門尹松と名乗り、寛永十二年(1635)、八十歳で没した。

武田24将 多田淡路守満頼(ただあわじのかみみつより)

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武田24将 多田淡路守満頼(ただあわじのかみみつより)

『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著 
臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆
 
 多田三八は美濃牢人である。
 牢人の字が使われるのは室町時代以後で、それ以前は浪人と当てられたが、仕官の口を求め他国を流浪する侍のことである。
 信虎に仕官、足軽大将に取り立てられ、淡路守満願となり、信玄にも仕え、合戦に臨むこと二十九度、身に二十七創を負い、感状を受けること二十九度というから、合戦に出るたびにもらっていたのである。
 板垣信形隊に属し、夜襲を得意とした。夜襲は少数精鋭で敵の虚を衝かなければならぬので、数多くの兵卒の中から、特に身体が屈強で身のこなしの軽い者を選んだ。
 で、信虎は三八には足軽、雑兵を一番少なく割り当てていた。
 『甲陽軍艦』によると、天文九年(1540)の二月、村上義清方の侍大将清野ら四隊三千五百人ばかりが、八ヶ岳山麓の甲州小荒間(北杜市長坂町)まで雪を踏み分けて攻め入り、附近の村落を手当り次第に焼き払って気勢をあげる、という事態が起こった。
 注進を受けた信玄はすぐさま甲府を発ち、小荒間に向かった。ところが地理不案内と残雪のため村上軍も進みあぐねているふうである。
 前線を偵察して回った三八は、「今夜、夜襲をかけぬと敵は明朝朝早く引きあげるでありましょう」、という。
 信玄が何故に、と反問すると、「清野らは前年の海の口の合戦で城を攻め落とされ、義清に不首尾となったので、その面目を回復するための出動で、中州を焼打ちして回ったといえば大義名分も立ち、深入りすれば不利なことが分っているので引きあげるのです」、と答えた。
 信玄は三八の意見に従い、その夜八時を期して夜戦を挑んだ。首級百七十二をあげて敗走に追い込み、午前零時には勝間の声をあげたが、地理は心得ているので、雪が少なければもっと首が討ち取れたものを、と三八は豪快に笑い飛ばしたという。
 天文十七年(1589)二月、上田原で板垣、甘利が戦死すると板垣隊を離れ、甘利の遺児の藤蔵につくことを命じられた。藤蔵は十五歳であった。
 当時、木曾義康と小笠原長時の動きが警戒されていることから、押さえとして下諏訪に甘利藤蔵を、上諏訪には十九歳になる板垣の遺児弥二郎を配置した。
 案の如く松本の小笠原勢が動き出したので、三八は藤蔵を先頭に夜襲をかけ、首級九十三をあげるという大手柄を立てた。藤蔵の初陣であり、すべて藤蔵の采配宜しきを得た手柄ということになる。この時、板垣弥二郎にも出陣をうながしたのだが、事態を楽観して腰をあげようとはしなかった。
 多田は亡き信形の旧恩に報いるために、弥二郎にも手柄を立てさせてやろうと思っていただけに、失望を禁じ得ず、板垣家の先が案じられると暗い顔をしたという。その通りになってしまったが、三八の豪勇ぶりを伝える話の一つに、虚空蔵山の鬼退治がある。
 信玄が上田方面の砦を次々と落とした際、虚空蔵山(上田市上塩尻)の守りを三八に命じた。
 すると夜な夜な火車鬼が出現して兵を悩まし、士気が疎漏するという事態になった。
 そこである夜、三八が見張っていると、火車鬼が現われたので素早く斬りつけると、「ぎやっ」と悲鳴をあげて闇に消えたが、それ以来ぷっつりと現われなくなった。
 火車とは生前悪事を働いた亡者をのせて地獄に運ぶ火焔を放って走る車で、誘導する鬼のことを火車鬼といった。火車鬼と書くと鬼婆のことである。これで三八の勇名は、一躍天下にとどろき渡ったが、傷ついた鬼の方は虚空蔵山から甲州に逃れて来た。そして湯邑(甲府湯村温泉郷)の野天風呂につかって傷の治療に専念したが、鬼が入っている間は濃い霧が覆いかくして、人目にふれさせなかった。傷が癒えて立ち去る際、「われは多田三八に傷つけられし鬼なり」と、言い残したと伝える。
 天正三年(1575)五月の長篠の合戦の折、真っ裸で緋緞子の下帯一本で生け捕られた武田武士がいた。一目見た信長があの者は只者ならずと見て、名を名乗らせよ、と命じた。
 すると赤裸の武者は傲然と胸を張り、
「美濃の国の住人、多田久蔵なり」と答えた。信長は思わず膝を叩き、伯父が死んだ時、葬式の場で火車鬼を斬ったと評判の豪の者であったか、美濃尾張の者といえばわが家来も同じ、わしに仕えるが良い、と言って、長谷藤五郎に命じ繩を解かせた。すると久蔵は長柄の槍を奪って暴れ出すので、やむなく長谷は斬って捨てた。
 三八は永禄六年(1563)十二月、病没しているので、三八と久蔵を同一人物としたのは信長の早とちりだが、久蔵は信蔵が正しく、三八の実子と言われている。

俳人百家撰 心敬僧都(しんけいそうづ)

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俳人百家撰 心敬僧都(しんけいそうづ)

  散る花の 音聞く程の 深山かな
連歌師。紀伊国に生まれ、三歳で上洛して僧となった。正徹に和歌を学び、やがて心意の名で連歌合に顔を見せるようになった。四十六歳の時に名を心敬に改め、土一揆で荒廃した寺を去り紀伊に下った。その後、一度帰洛したが、応仁の乱前夜に江戸に向かい関東を転々としてその生涯を終えた。宗祇や兼載の師にあたる。
代表作に『心玉集』『ささめごと』等がある。
一四七五年(文明七年)没。七十歳。
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武田24将 土屋右衛門尉昌次

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武田24将 土屋右衛門尉昌次

 『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著 
臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆
 
昌次(続)は武田の老臣金丸筑前守虎義の次男で、はじめ平八郎と言った。天文十四年(1545)の生まれなので、信玄より二十四ばかり年少である。
 虎義は子沢山で男の子が七人あった。長男の金丸平三郎が二十一歳の時、信玄の弟の信廉(逍遥軒)の被官落合彦助に殺害されたため昌次が嗣子となったもので、信玄の奥近習として仕えた。
 永禄四年(1561)、十七歳で信玄に従って川中島合戦に出陣、こまめに立ち働いたのが認められ、土屋と改姓するよう命じられた。右衛門尉昌次となるのは、ずっとのちの永禄十三年(1570)になってからだが、侍大将に抜擢されたのは二十二歳という若さであった。
 その前年の十二月、小幡又兵衛昌盛が信玄の命に背いて海津城詰めを断り、多分切腹ものであろうと一人決めして、菩
提寺である妙音寺にさっさと行ってしまった。小幡の気質を知っている昌次は、後を追い、思いとどまらせようとした。
勝頼も心配して側近の阿部を走らせるなどして、昌次と勝頼のとりなしで叔父の小畠光盛を行かせることで納まったが、昌次が気を利かさなければ又兵衛は切腹して果てるところであった。
 昌次の旗印は黒地に白の鳥居で、百騎を預けられた。
 元亀三年(1572)十二月の三方ケ原の合戦では、家康の家臣鳥井四郎右衛門と一騎討ちの勝負になったが、鳥井は豪の者として知られているだけに、一刀の下に昌次の甲(かぶと)を打ち割った。幸い明珍の星甲であったので、甲は割れたが頭はかすり傷一つなく、組打ちとなり、結局昌次が鳥井の首を討ち取った。
 この合戦は敵味方入れ乱れての激戦になり、双方手助けすることの出来ぬ最中、豪の者を昌次一人の手で仕留めたとあって、武名は一段と上がった。
 その四ヵ月後に信玄の陣没という由々しい事態を迎え、昌次は悲嘆の余り追い腹を切ろうとした。が、高坂弾正と馬場美濃守に、合戦があるまで生きよ、と諌められて思いとどまった。
 中一年おいた天正三年(1575)五月の長篠の合戦では初めから死ぬ覚悟であったので、三重の柵を張り鉄砲を撃ちかけてくるのをものともせず、一条・穴山隊と力を併せて織田軍の佐久間信盛の守備する柵を二重迄打ち破り、三の柵本に肉迫した。
 ここは滝川一益隊が守っていたが、昌次が名乗りをあげたが応答がない。では「俺が破る」と突進すると、いきなり鉄砲を浴びせかけられ、壮烈な戦死を遂げた。時に三十一歳。
 三男源蔵は秋山伯誉守信友の養子となった。四男は金丸助六郎。信玄の奥近習頭で定光、別に昌義とも称した。五男が金丸惣蔵。十三の年に初陣をかざり、首級をあげるという目覚ましい働きを見て、武田水軍の将岡部忠兵衛定綱が一目惚れして、「養子にもらいたい」、と信玄に申し入れた。
 岡部は今川氏真の家来で、舶十二、同心五十を預かる大将だったが、信玄の家臣となったもので、養子縁組を機に信玄の命で土屋と改姓した。
 永禄十三年(1570)、惣蔵十五歳の時、正式に話がまとまって土屋惣蔵昌恒となった。
 長篠の合戦で養父忠兵衛も討死。惣蔵は勝頼の近習であったので落ちのびる勝頼のお供をして甲府に戻り、のち兄昌次と忠兵衛の二人の家禄を併せてもらうことになった。
 天正十年(1582)の天目山(山梨県東山梨郡大和村)の武田滅亡の合戦では、山中の杣道の岩陰に拠り、単身で押し寄せる兵を次次と斬って捨て、西の谷川に蹴落としたので、谷川は三日間鮮血に染まり、三日血川といわれた。
 のちに、なまって日川となったのだと伝えられ、今もその場所が「土屋惣蔵片手斬り跡」として、現存している。二十七歳で勝頼に殉死した。
 七男の源蔵も田野で殉死したが、秋山信女の養子になった兄が病死したので、その跡継ぎに信次にもらわれ、秋山源蔵親久となったもので、源蔵は二十一歳であった。土屋兄弟がいずれも短命であったのに、六男の土屋惣八郎ただ一人、勝頼の子の信勝(大和村田野で自害)の小姓頭ながら天目山合戦に加わらず逃げのび、元和五年(1619)、六十三歳まで生きた。
 惣蔵にはその時点で二歳になる男の子があったが、惣蔵の家来の清水某がその子を連れて鴨河に逃げ、惣蔵と名付け駿州興津の清見寺に預けた。
 惣蔵が九歳になった天正十七年(1589)、家康が鷹狩の帰り清見寺で見かけ、言葉をかけたことから土屋の遺児と分り、自分の駕能に乗せて駿府に戻り、秀忠に会わせたうえで茶阿の局に養わせ、成人すると平八郎忠直と名乗らせて三百石を与えた。
 のち三千石から、王総久留里で二万一千石の大名にとり立てられたが、三十五歳で没した。常陸土浦九万五千石の藩主
土屋政直はその末孫である。

武田24将 小幡豊後守昌盛

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武田24将 小幡豊後守昌盛

 『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著 
臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆
 
 又兵衛昌盛は天文三年(1534)生まれで、小畠山城四十四の時の子であった。
 天文十八年(1547)、十六歳で初陣をかざり、父山城に及びもつかぬとはいえ、敵将丸山筑前を仕留め、首に筑前の軍配を添えて信玄の首実検に供して賞め言葉をもらうなど、十七の感状をもらっている。
 川中島の合戦では、父山城の分まで働き、信玄から山城のごとくせよ、といわれ、采配を許された。
 ところが海津城詰めを命じられると、父子二代ということになり、高坂の家来扱いにされかねないのでいやだと言い出した。切腹を覚悟のうえで断ったのだが、実際は高坂を毛嫌いしての主命返上であったという。
 結局、信玄麾下の武者奉行として騎馬三、足軽二十人の大将となった。のち小幡上総守の養子となり、小畠を小幡に改めた。
 西上野(群馬県)の総横目となり、箕輪(群馬県箕郷町)の城代内藤修理の差し添えとなった。
 一剛勇無双の武将として横田十郎兵衛康景と並び称されたが、長篠の合戦では総崩れのため足助(愛知県加茂郡足助町)に後退をよぎなくされ、甲州に飛脚を立て勝頼の指示を受けて甲州に引きあげた。
 天正九年(1581)十一月病を得、翌十年(1582)三月六日(十五日とも)に病没した。四十九歳。
 折しも勝頼は織田徳川連合軍の攻撃をうけ、三月三日には新府城を捨て、郡内に向かうというドサクサの最中であって、昌盛も体さえ丈夫であってくれれば、と歯咬みして口惜しがったことであろう。
 政盛には女一人、男三人の子があり、長男昌忠十九、次男在直十五、三男景憲は十一の少年であった。この子供たちは昌盛が生死の間をさまよっていたため勝頼には従わなかった。
 武田滅亡後、次男在直は伊勢にのがれたが、昌忠は七月、景憲は十二月、それぞれ家康に召し抱えの身となった。
 景憲はのちの小幡勘兵衛であり、甲州流兵法を編み出したほどの頭脳明敏であった。兵法の原典である『甲陽軍艦』は、景憲が編纂し、弟子らの筆写によって流布本になったと伝えられているが、弟子には山鹿素行などずぐれた人材が多かった。景憲は寛文三年(1663)九十二歳で大往生を遂げている。
 

武田24将 真田源太左衛門信綱

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武田24将 真田源太左衛門信綱

 『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著 
臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆
 
信綱は天文六年(1537)幸隆の長子として生まれた。母は河原隆正の妹である。父と共に武田信玄に仕えた。妻は北信濃の井上氏とも、高梨政頼の妹ともいわれ、はっきりしない。
 早くから父に従って転戦、永禄四年(1561)九月の川中島合戦にも父と共に出陣した。
 信玄が上野に兵を入れると、信綱も参陣した。永禄十一、二年から元亀元年頃にかけて信綱は父とは離れ、対上杉の備えとして上田を守っていた。
 天正二年(1574)五月、父の死によって家督を嗣いだ。真田町木原の真田館は、信綱の居館といわれている。館というより城である。
 真田の家督を嗣いで一年。翌天正三年(1575)五月三十一日の長篠の合戦で、弟の兵部昌輝と共に戦死した。三十九歳。遺体は家臣の手で真田へ運ばれ、横尾の山中に葬られた。菩提寺の信綱寺の裏山である。

武田24将 小山田兵衛尉信茂 

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武田24将 小山田兵衛尉信茂 

  『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著 
臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆
 
信茂は出羽守信有の嫡男として、天文七年(1538)に生まれた。母は信虎の妹であるから信玄とは従兄弟である。
 川中島の合戦で目覚ましい働きをみせて信玄の信頼を受け「弓矢の御談合七人衆」の一人に加えられた。最年少ながら馬場・山県・高坂・原美濃などと肩を並べて軍評定の席で、堂々と意見をのべた。
 学識も深く文才にも恵まれ、『甲陽軍艦』にも「(信玄は)文のいることは弥三郎(信茂)を召して、七言五経を言わせて聞き給う」とあり、山県も「若手には小山田弥三郎、毎事も相調いたる人なり、また文字の事は常に弥三郎に読ませて聞き給う」と、高く評価している。
 信茂は書状、感状の代筆や難解な文書の解読までやった。
 甲府石田に小山田備中守昌行(常行とも)がいる。「甲斐二十二将」にあげられている小山田備中とは父の昌辰のことである。紛らわしいので昌行は「石田の小山田」、信茂は「郡内の小山田」と言われた。
 拠城は岩殿山(大月市)の要害であった。 天正十年(1582)三月、織田・徳川の連合軍に攻められた勝頼は、真田昌幸に上野岩櫃城(群馬県吾妻郡吾妻町)に拠って再起を図るように勧められた。
 昌幸は勝頼を迎え入れるため、岩櫃山南麓に居館の工事を始めた。ところが勝頼は長坂らに反対され、岩殿山に立て龍ることにした。新府城(韮崎市中田町)を、出て郡内を目指したが、信茂は家臣や領民の行く末を考えて、郡内に入ることを拒んだ。
 勝頼は夫人、子の信勝、従う家臣らと天目山で自決に追いやられた。
 三月十三日、信茂は母と子、家臣と共に甲府善光寺の織田信長の本陣へ出頭を命じられ、そのまま宿坊に留め置かれた。二十四日の朝、信長は足軽大将の堀尾茂助に全員の謀殺を命じた。
 信茂はそれを察知して、自ら首を差し出した。時に信茂四十三歳。母は七十余歳。男の子は八歳。女の子は三歳。首級は初狩(大月市)の隨龍庵に埋め、胴は善光寺の裏に埋められた。

 

武田武将 土屋右衛門尉昌次

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武田武将 土屋右衛門尉昌次

『甲斐国志』巻之九十六 人物部第五 武田氏将師部 一部加筆
 
(諸録ニ名直村ニ作ル者多シ、今金丸系図並ニ大泉寺牌子ニ従イ昌次卜為ス、一系晴網ニ作ル)
金丸筑前守虎義ノ二男、始平八郎トイフ、奥近習六人ノ一ナリ、「軍鑑」ニ永禄四年(1561)河中島ノ功ニ因り、氏ヲ土屋卜改ム、時ニ十八歳、廿一歳ニテ士隊将ニ擢ンテラル、同十三年(1570)加倍シテ属百騎、信州ノ粕備七組ヲ統領シ、右衛門尉卜名乗ラシム、旗ハ黒地二白キ鳥居、家ノ紋九曜ナリ、按ニ永禄十年丁卯(1567)八月七日、信州下ノ郷起請文奉行金丸平八郎殿卜名宛数通アリ、同十一辰(1568)年以後ノ文書ニハ土屋平八郎奉之卜記セル者所在ニ見エタレハ、此時氏ヲ更シケン、四年ノ事ニハ非ラジ、天正三年(1575)戦死   ス年三十一(算軍鑑所記当三十二)府中大泉寺ニ牌子アリ、昌次院殿忠屋知真大居士、本州ノ土屋氏ハ鎌倉ノ土屋三郎宗達ヨリ出ズ、平姓ナリ、金丸ノ子男始ヨリ平三郎、平八郎卜名ニ喚フ時ハ数世ノ間如何ナル縁カ有ケン、土屋ノ本家絶エタレバ、相続ナスヘキ約束ハ疾ニ足リシ事カト覚ユ、而昌沃土屋氏ヲ冒シテ後猶本姓ヲ改メザリシニヤ、土屋氏源姓為ルコトハ、蓋シ昌次ヨリ始ル昌次ノ兄弟多シト雖モ本家一人ヲ金丸トシ、余ハ皆土屋氏ヲ称スル例ナリシト云金丸氏ノ伝ニ委記セリ

土屋惣三昌忠

(諸記多昌恒ニ作ル、今景徳院旧牌ニ従フ、一系昌雅ニト為ス即是也)
金丸虎義ノ五男即チ昌次ニハ弟ナリ、勝頼ノ小姓幼ヨリ英名アリ、「軍鑑」ニ永禄十三年(1570)十五歳ニシテ駿州先方ノ士、土屋備前ノ養子トナル、長篠ニテ備前並ニ兄昌次死ニタレバ二人ノ家禄ヲ併テ賜ハリ、両部ノ兵将タリ、田野ニテ殉死年廿七法名忠庵存孝居士、旧牌ニ昌忠院卜記セリ、今昌恒院ニ作ル、大泉寺牌同之按ニ「大宮神馬奉納記」ニ神馬五匹(土屋石衛門尉)同一匹(土屋石衛門尉同心共)所在ノ所蔵文書ニモ天正三年(1575)ノ後土屋右衛門尉卜記ス者数多見エタレハ、長篠ノ役後ハ称ヲ改シ趣キ明ラカナレド名ノ顕レタル人ニテ、世ニハ惣三トノミ覚エ記録セシナラン、当時ノ実ニハ脊ケリ。

土屋民部少輔忠直 

昌忠ノ遺子ナリ、諸録ニ土屋宗蔵、妻ハ駿州ノ士岡部丹波守女也、壬午後宗蔵ノ児二歳ナルヲ抱キ岡田竹石衛門ニ再嫁ス(松平周防守ノ家臣ナリ)、「編年集成」云、天正十六年(1588)十二月宗蔵男平八郎幼少ニシテ岡部忠兵衛真規ニ倚(ヨ)リテ清見寺ニ於テ拝謁ス、阿茶局ニ養育ヲ命セラル、後任民部少輔常州土浦城主ナリ(阿茶局ハ本州人飯田氏女神尾某ニ嫁シテ一男ヲ生ム又養岡田氏ノ子忠直同母弟以テ子卜為ス、今幕府神尾氏数家アリ、委曲小石和筋士庶部ニ記ス)附、云越後少将忠輝卿ノ母公ニ忠直ノ養育ヲ命シ、後忠輝卿ノ女忠直ニ媛スト記ス者アリ誤レリ、忠直ハ惣三ノ遺胤壬午ノ産ナリ、同十六年(1588)七歳ニテ幕府ニ謁シ、十九年(1591)羽州禰宜村ニ於テ、千石土屋平三郎卜称ス、御小姓ニ出ツ、慶長五年(1600)叙従五位下住民部少輔、同七年(1602)賜上総久留剰二万千石、森川金石衛門女ヲ娶ル時年廿一、同十七子年(1612)四月九日逝、三十一歳ナリ、忠輝脚ハ文禄元年(1592)元辰ノ誕生ナレハ、恩恵ヨリ少事十歳成長ノ女子アルベケンヤ、母公ノ名於茶ノ方卜称スル故ニ、諸記ニ往々阿茶局ニ混同セリ、局ハ従一位ニ叙シ、神尾一位局卜云、謚(おくりな)雲光院殿、於茶方ハ朝覚院殿卜謚セラル。
 

土屋忠兵衛知貞

 初メ左門卜云、大坂ノ諸録ニモ見ユ、子孫幕府ニ奉仕(五百石ナリ)忠兵衛ヲ以テ家名トセリ、其先ハ鎌倉ノ功臣土屋一郎平宗遠十二世ノ裔豊前守氏遠(始云ウ、平三郎父平左衛門宗貞明徳中死)其女武田石馬助信長ニ嫁ス(即伊豆千代丸ノ母ナリ)、氏遠ハ武田氏ニ属シ、其男ハ忠兵衛景遠備前守ハ称シ、景遠ノ男伝左衛門勝景、武田信昌婿卜為ル、大永二年(1522)逝ス、法名正円(「一蓮寺過去帳」ニ、永亨十一年(1439)八月廿日善阿、土屋氏、文明頃(146986)年月ナシカ阿土屋備前ト見エタリ)勝景ノ男伝助信遠、大永四年(1524)信州ニ於テ戦死、其子昌遠幼弱ナリ、豆州太平ニ退テ(今属駿州)蟄居、是モ云ウ、伝助病不仕其男ハ盲人名円都、神祖ニ拝謁、後ニ京都ノ職トナリ、伊豆検校卜称シ元和七年(1621)十月廿五日逝ス、年八十一、忠兵衛知貞ハ即チ検校ノ男子ナリ、右衛門尉昌次ニハ此家蹟ヲ興サシムルナリ。

岡部忠兵衛 

「軍鑑」ニ云、船二十艇同心五十騎、本今川ノ十八人衆ナリ、武功ニ依リ氏ヲ更メ土屋備前卜為ス、男子無シ故ニ宗蔵ヲ贅トス、備前ハ長篠ニ戦死スト云云(「四戦紀聞」、「隔年集成」等備前直規ニ作ル、或忠兵衛裔備前為二人記モアリ、「禁秘録」云、土屋右衛門尉直村討死ニヨリ、金丸平八郎ヲ土屋右衛門尉卜為シ、岡部忠兵衛晴綱ヲ以テ直村名蹟卜為シ、土屋豊前守卜改ム、二人共討死故宗蔵昌恒ヲ晴綱ノ名蹟ニ申付ラルトアリ、諸説錯雑シテ所取采次ナシ)土屋ハ旧家ニテ一族ノ人猶本州ニ在シヤラン、夫レヲ唱へ違へシカ、岡部ヲ土屋ニ改ムトイウ事ハ覚束ナシ、岡部丹後卜記ス事ハ殊ニ誤ナリ、丹後ハ天正九年(1581)ニ死セリ、「理慶尼記」(全文附録ニ載セタリ)ニ土屋兄弟三人戦死ノ事ヲ記シテ、兄土屋(惣三ノ事)五歳になる男子を自ら刺殺けるに御たい所のうた
のこりなく ちるべきはるの くれなれど こすゑの花の さきだつはうき
 つちや女房かへし
かひあらし つぼめる花は さきたちて むなしきえたの ははのこるとも
 三歳ナル女子ヲ母ニ抱カセ、馬ニ昇ノセ、駒飼宿ヨリ追戻シタル事ヲ記セリ、忠直ハ此年ノ出生ナレハ、遺腹ナル事明ケシ。

土屋二郎石衛門昌吉、同源左衛門昌久、同惣八郎

 三人ハ壬午起請文ニ近習物頭衆トアリ、同次郎右衛門ハ土屋同心ナリ、府中白山神主ノ所蔵土屋図書蔵ム、三月十日勝頼朱印ニ見ユ、同原五衛門ハ「軍鑑」ニ小姓衆ナリ、田野ニテ殉死、法名実山全性居士(寺記ニ小原氏トス非ナリ、一書ニ曰、津川玄蕃ノ家人佐々木半右衛門先登シ、土屋源五右衛門ヲ討ツ、今日ノ一番首ナリト)惣八ハ金丸ノ記中ニアリ

大蔵新蔵 

軍鑑ニ小姓衆ナリ、末書ニ云、大蔵大夫ノ子新蔵ナリ、土屋右衝門尉名字ヲユルサセ、近ク召仕ハル信玄ノ殉死セントイウシヲ抑留セシカバ、長篠ニテ討死ストアリ。

土屋右兵衛尉 

天正十年(1582)十一月廿七日甲州上石田内七拾質文本給ノ御朱印一通アリ

土屋与三 

千野郷拾壱質文ノ御朱印一通ハ恵林寺領与次右衛門卜云者蔵之土屋氏ノ類族繁多ニシテ、今尽ク校考ナシ難シトイウ。
 

その他の武田二十四将

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その他の武田二十四将

 『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著 
臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆
 
その他画像に描かれた二十四将には、栗原信盛、曾彌昌世、初鹿野忠次、真田昌幸、小幡信貞(定)、小原広勝などがいる。
 栗原信盛は左衛門佐昌清であり、信玄に仕えた二百騎の侍大将であった。栗原氏は信玄より九代前の武田信成の子、栗原七郎武統を始祖として、栗原筋(山梨市)五十余カ村を支配したその末裔と称している。信虎の甲斐統一の際に従ったもので、合戦のたびに戦功をあげたが、天文二十一年(一五五二)信州常田合戦で重傷を負い、四十五日目に陣没した。
その子左兵衛尉詮冬に継がせたが、詮冬は二百騎の侍大将の器にあらずとして辞退、百騎だけを預けられた。 
曾偏昌世は孫次郎のち内匠、さらに勝頼の代になって下野守と改めたが、三枝・真田と共に信玄の眼といわれた。信
玄の小姓をふり出しに足軽大将、さらに駿州興国城代(駿東郡原町)となったが、武田家の滅亡により信長・家康に下り、のち会津の蒲生氏郷に仕えた。
 初鹿野忠次は信玄の御使衆の一人で、川中島で討死。
 小幡信貞(定)は父憲重と共に信玄に降り、赤備え予防のうち五百騎を預けられた上総之介重貞のことである。
 小原丹後守広勝は武田信満の子倉科氏の末孫で、弟の下総守と共に勝頼に仕え、田野で討死した。
 真田幸隆の三男昌幸は、人質として十一歳の時甲府へ送られ、のちに大井夫人の生家とゆかりのある武藤家を継いだが、長篠の合戦で長兄信鋼・次兄昌輝が相ついで討死したため、元の真田昌幸に戻り、安房守となって上田城を築いた。
長男は信幸、次男は幸村である。慶長十六年(1611)配流先の九度山村で没。六十五識。(了)

織田信長と勝頼・秋山伯耆守の確執

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織田信長と勝頼・秋山伯耆守の確執
◇ この秋山伯耆守は、居城下の美濃の侍、岩村殿(遠山左衛門尉景任)の後家を妻としていた。その後家は織田弾正ノ忠(織田信秀)の妹で、信長にとっては叔母に当るので、内密のうちにいろいろと信長から伯耆守の方へ和睦が申し入れられた。だが、伯耆守は少しも受けないので、信長から配下の美濃先方の侍衆で、小城をかまえている人々にむけて、信長衆を十騎ばかりづつ、警備に廻して補強し、ほかに砦も造り、全部で十八カ所とした。秋山伯耆守を押えこむためのそうした策は、そのころは美濃に岐阜、信長の居城があるから、用心のために多くの城を領有しようとしたのだ。
けれども岐阜へ上道(京都までの里程)七八里近くまで武田勢が浸透し、秋山耆着守が焼き払う働きを続けた。ことに勝頼公が、出馬されるにおよんで、二月半から四月上旬までの間に、信長が築いた砦、あるいは美濃先方衆、信長に降参した人々の城十八すべてを、勝頼公の御代に攻め落したのだった。
◆ その城は苗木・神箆・武節・今見・明照・馬籠・大井・中津川・鶴居・幸田・瀬戸崎・振田・串原・明智、これらの城を占拠して遠山与助(勘右衛門)を攻めにかかったが、このとき信長は六万あまりの軍で後陣をしいた。
◇ 明智(恵那)の向かいの鶴岡というところへ、信長軍の先鋒が陣を張った。山県三郎兵衝の軍は与力や予備軍も合わせて六千の兵力で、予定通りの戦力で道すじを制圧していった。
◆ 信長勢はそれを見て、山県勢の左の方へ廻りかげて攻めるとみせて、信長勢は早次退却した。
◇ 山県衆はかさにかかってその退却をくいとめようと追跡する。上道四里を、山県衆は六千の軍で、信長勢六万あまりを追ったことになる。けれどもそれ以降は山県が命令を発して追わなかった。
◆ そのあとまた信長は上道の里程で四里程後退して陣をしいた。信長勢は山県三郎兵衝をおそれて都合八里におよぶ後退をしたわけで、明智の城を簡単に勝頼公に明け渡した。信長を警備していた十六騎のうち九騎を討ちとった。残り七騎は逃がれた。その後、飯羽間(いいばざま)の城へ、信長川中島衆のうち三軍勢をもって攻めた。
◇ 馬場美濃、内藤修理をはじめ家老衆がそれぞれ申し上げた。
この飯羽間の攻めはこの度はとりやめて次に廻し、早々に引き上げた方がよい、と勝頼公に諌め申し上げた。あまり完全に攻めるのはどうかというのである。
◇ そこでまた長坂長閑、跡部大炊助が申し上げる。各家老衆の提案はいかがなものであろうか、やはり飯羽間の城一つばかり押えてみてもしかたのたいことです、と申す。
◇ 勝頼公も長閑・大炊助の言うことも、もっともだと裁定を下す。そこで牢人衆の名和無理介・井伊弥四右衛門・五味与三兵衛の三人をはじめ諸浪人が訴え願い出て、御代が替わったのを機に浪人衆に御奉公として飯羽間の城を攻めとらせていただきたい、と進言におよんだ。
これを聞いて、御旗本近習衆・外様近習衆のそれぞれが、御代替わりに、我ら旗本勢がこの城を落したいという。そもそも御家老衆が、攻めはこれで十分とお考えになるのはいったいどういうことか。遠慮する態度は内々のことでよい。数カ所の要害を皆落した後で、この飯羽間だけを攻めないでそのままにして置くというのでは、敵勢の情報の拠点となる。
それを浪人衆が攻め落そうと婆言するについては、統治に関する重要な所も浪人衆にさせるといった評判が諸国におよんでは、勝頼公の御ためにどんなものかと案じ申す。だから是非ともその城は御旗本勢に命ずべきだという。
これももっともだと長坂長閑・跡部大炊助も合点し、すぐに申し上げる。
勝頼公、熟慮されて御判断なされよという。
旗本の意向を聞いて城を攻め、とりまいた先鋒勢は、あの城は御工夫なされて攻めるべきだと言っていたが、牢人衆・近習衆がきそって攻めたいと願い出ているので、先鋒方衆はおくれては恥とばかりにすばやく攻勢に出て、瞬時のうちに飯羽間を落してしまった。
信長より派遣された警備衆十四騎の武者も一人残らず討ちとり、飯羽間右衝門を本城の蔵へと追いこんで生捕ってさしあげたので、勝頼公は上機嫌であられた。
各々大小上下とも武田勢は言い合ったものだ。御代替わって飛ぶ鳥を落す勢いの勝頼公、その御威勢は勇ましいものだと。 
そして足軽・かせ悴者(かせもの)・小者ども下級侍たちは歌をつくって唄ったものだ。
その歌とは
信長は いまみあてらや いひはざま 城をあけちとつげのくし原
(信長は今見・明照・飯羽間・明智といった城を明け渡すまいと浅はかにも告げたが、串原の砦も落ちて、黄楊櫛のようだ)
こう謡ったが、甲州・信濃の下劣な言葉で、〃あてら"は浅はかなことをいうので、今見・明照といった城にかけて言ったのである。四月上旬に御帰陣となった。
 
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