↧
結城市の民家
↧
南アルプスエコパーク 歴史資料 馬場美濃守信房(信春は✕)
白州町の歴史・史跡 武川衆の動向「甲斐国志」(『白州町誌』)一部加筆
武田石和五郎信光ノ末男六郎信長卜云フ者忠頼ノ家迹ヲ継ギテ一条氏卜号ス、
其子八郎信継「東鑑」ニモ見ユタリ、
信継ノ男時信、一条源八卜称ス、甲斐ノ守護職ニ任ゼラル。
男子十数輩ナリ、武河筋ノ村里ニ分封シテ各々其ノ地名ヲ氏号トス、
子孫繁栄シテ世ニ武川衆卜号セリ(中略)。
「(甲陽)軍鑑」ニ天文十一年桑原ノ城普請アリ、
板垣信形ニ武川衆ヲ添へ御預ケナサルト云。
後ニ典厩信繁ニ付ケラル、
「甲陽軍鑑伝解」ニ武河衆卜云フハ先ヅ十二騎ナリ、
曾雌、米蔵、折井、小尾、跡部、知見寺、権田、入戸野、曲淵此等合テ二十六騎アリ(中略)。
壬午七年(天正十年)神祖御入国の時折井市左衛門、米倉主計助首領トシテ御判物、御感状ヲ賜ハリ武川の士各々本領安堵セシ趣諸録ニ記セリ、
「編年集成」ニ武川の士六十余人拝謁ストアレバ必ズ二十六騎ニハ限ルベカラズ、
世ニ武川十二騎卜云フ、ソレモ数年ノ問ニ往々他姓ノ人入り交リタレド、始メ武川衆過半其列ニアリシ故ニ斯ク称セント見ユ」とある。
白州町の歴史・史跡 武川衆の動向 一条源時信が武川衆の祖
一条忠頼が頼朝に謀殺されたあと、甥の武田六郎信長が一条氏の名跡をついで一条氏を再興する。信長は弓馬の道にたけ、質実勇武な典型的武人であったのみでなく、神仏に信仰厚く晩年大般若経六〇〇巻を書写して、氏神武田八幡宮に奉納した (現在加賀実の法善寺所蔵の国指定重要文化財)。
その子信経、その子一条源時信が武川衆の祖といわれている。時信は父祖信長に勝る人物で甲斐守護職に補せられ、よく宗家武田家を補佐した。時信には系譜で示すようにすぐれた男子が多かった。
なお「南葵文庫本武田系図」によると、一条忠頼五代の末裔一条時信は南北朝ころ、子息たちを白須、鳥原、牧原、青木などの諸村に分封し、これが武川衆となるとある。横手氏は青木に分封された一条時光の分家といわれる(韮崎市誌)。
時信(一条源八)
-信重(一条与一)
-義行(一条与二)
-信方(山高太郎)
-頼行(弥三郎)
-行貞(又三郎)
-貞信(白須三郎)
-貞連(慶良吉六郎左衛門尉)
-宗景(鳥原七郎)
-貞家(牧原八郎)
-時光(青木十郎)
-信奉(両境九郎)
-源光(青木別当蔵人)
-信源(横板寺別当)
このうち、一連寺過去帳に法名性阿、貞治二年(1363)三月十六日(没)とあるのが慶良吉(毛浦吉)で、後の教来石民部少輔景政(馬場美濃守信房春)の祖である。
前記応永年間の「禅秀の乱」で甲斐守護武田信満自害のあと、信満の子信長は、幼主伊豆千代丸とこれに味方する日一揆を助けて、守護代跡部父子・輪宝一揆と戦ったが敗れた。このとき武川衆は信長に味方し、柳沢、山寺、牧原などの武将が戦死している(一蓮寺過去帳)。
武川衆のうち中心的な存在は青木氏で歴代白山城を守衛している。そして青木尾張守満懸は武田晴信が武田八幡宮本殿造営の折にはその奉行の一人であった。
武川衆 信州小県郡塩田下之郷の信濃国二之宮生島足島神社社前において、 武田信玄に誓詞
永禄四年(1561)九月の川中島合戦に武川衆は副将武田左馬助信繁の陣に加わって激烈な戦いをして越軍を防いだ。
永禄十年(1567)八月、武田氏に属する甲・信・西上野の将兵が、信州小県郡塩田下之郷の信濃国二之宮生島足島神社社前において、 武田信玄に誓詞を提出した。その中に武川衆の連署したものが一通ある。
敬白 起請文
一 此れ己前に捧げ奉り候数通の誓詞、いよいよ相違致すべからざる事
一 信玄様に対し奉り、逆心謀叛等相企つべからざる事
一 長尾輝虎を始めとなし、敵方より如何様の所得を以て申す旨候とも、同意致すべからざる事
一 甲・信・西上野三ケ国の諸卒、逆心を企つと錐も、それがしにおいては無二に信玄様の御前を守り奉り、忠節を抽んず
べき事
一 今度別して人数を催し、表裏なく二途に捗らず、戦功を抽んずべきの旨存じ定むべき事
一 家中の者或は甲州御前悪しき儀、或は臆病の異見申候共一切に同心致すべからざる事
右の条々違犯せしめば、上は梵天・帝釈・四天王・炎魔法王・五道の冥官、殊ニハ甲州一・二・三明神、国建・橋立両大明神、御嶽権現・富士浅間大菩薩、当国諏万上下大明神、飯縄・戸隠別しては熊野三所権現・伊豆箱根三嶋大明神・正大幡大菩薩・天満自在天神の御罰を蒙り、今生においては癲病を享け、来世に到っては阿鼻無間に堕在致すべきものなり、仍って起請文、件の如し
丁卯 馬場小太郎信盈 (花押・血判)
八月七日 青木右兵衛尉信秀(花押・血判)
山寺源三昌吉 (花押)
宮脇清三種友 (花押・血判)
横手監物満俊 (花押)
青木兵部少輔重満(花押)
柳沢壱岐守信勝 (花押・血判)
六郎次郎殿(武田左馬助信豊)
〔六郎次郎殿(武田左馬助信豊)〕
六郎次郎は川中島の激戦で討死した信繁の子で、武田左馬助信豊である。信繁の後を嗣いだが当時はまだ官途なく六郎次
馬場小太郎信盈は美濃守信春の一族である。馬場信春は武田の重臣で侍大将として単独で起請文を出している。横手監物満俊は青木家から横手村に分封されたもので、寛政系図には監物信国と見えるが同人と思われ、駿河花沢城攻めに討死している。
白州町の歴史・史跡〔武田没後の武川衆 家康家臣へ〕
天正十年三月武田氏が滅亡し、六月本能寺の変によって織田信長が最後を遂げて天下の形勢は一変する。そして甲州は北条と徳川の争奪の地となる。徳川家康は武田の遺臣を抱えようと、かねてから武川衆にも注目しており、部下の将成瀬正に命じて武川衆の有力者折井市左衛門次昌と米倉主計助忠長を説得していた。それで折井・米倉は武川の諸士を説いて団結を強化し、七月九日、中道より右左口峠を経て甲斐に入国した家康を迎えたのである。
相模の北条氏政は、その子氏直を大将として信州に侵入し、佐久郡より甲州逸見筋に南下し、その兵四万三千と称し意気があがっていた。
八月十日、家康は甲府から新府城に移った。
八月十二日には栗駒の合戦があり、北条軍は鳥居元忠・武川衆らの徳川勢のため大敗した。この合戦の結果北条方の士気は喪失し、北条軍が拠っていた大豆生田砦も陥り、津金衆の奇襲によって江草砦(獅子吼城)も陥って北条軍は退いた。
白州町の歴史・史跡〔武川衆、武蔵国(埼玉県)へ移封〕
武川衆は天正二十年(1592)、家康関東移封とともに旗本衆として武蔵国に知行地を与えられて移った。
慶長八年(1603)家康は征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開いて、第九子徳川義直を甲斐二四万石の領主に任じた。
甲斐は親藩領となり、平岩親吉が城代となった。
〔武川衆再び甲斐へ〕
それで慶長九年(1604)二月、武川筋を本領としていた武川衆がふたたび甲斐にもどってくるのである。
そして「武川衆御重思之覚」として、武川の地に所領替と加増の意味を含めて領知された。そのときの武川衆十四人は次のようである。
〔「武川衆御重思之覚」〕
柳沢兵部丞信俊
伊藤三右衛門垂次
曲淵庄左衛門正吉
曾根孫作
骨雌民部丞定政
折井九郎三郎次善
曾雌新蔵定清
有泉忠蔵政信
山高宮内少輔信直
青木与兵衛信安
青木清左衛門信政
馬場右街門丞信光
折居市左衛門次忠
徳川義直の甲斐領主は僅か四年で、尾坂清洲城主として移封となり、城代平岩親吉も義直の後見役として犬山城主となったので、甲府城は城番をおいて守護することになった。
その慶長十二年(1607)四月より元和二年(1616)九月までの十年間を「甲府城番時代」というが、その城番を担当したのが、次の武川十二騎である。
山高孫兵衛親吉
青木与兵衛信安
入戸野又兵衛門光
折井仁左衛門次吉
柳沢三左衛門
小尾彦左衛門重近
馬場民部信成
米倉丹後信継
山寺仁左衛門信光
曲淵筑後吉清
跡部十郎左衛門胤信
知見寺越前盛之
このうち跡部氏と小尾氏は津金衆であるが、一般に武川十二騎と呼び、二人ずつ十日交替で甲府城を守護したのである。
白州町・武川町の歴史・史跡〔柳沢氏と横手氏〕
柳沢氏については武田時信の子時光が青木氏を称し、その五代安遠のあと、長男義虎が青木氏を継ぎ、次男信興が柳沢に任して柳沢氏の祖となった。その三代信兼が武田勝頼に仕えて、天正八年十月、上州膳之城攻めのとき軍令にそむいて先駆をしたという科で切腹を命ぜられたが、勝頼は柳沢の名跡が絶えるのを惜しんで、横手信俊に柳沢姓を嗣がせ兵部丞を名乗らせた。横手氏は青木信時の弟信国が名のっていたが、信国の討死により信玄の命により弟信俊が横手氏を嗣いでいたのである。横手氏はそのあと信俊の養子源七郎が継いでいる。
―信国(横手氏)戦死
―信俊―安吉
―安忠-柳沢吉保
―信興(柳沢氏の祖)
白州町・武川町の歴史・史跡〔柳沢安忠が柳沢の父 柳沢信俊、吉保の祖父〕
この柳沢信俊が吉保の祖父である。柳沢兵部丞信俊は小牧の戦、信州真田との戦などに戦績をあげ、ついで小田原の陣にも参加している。のち家康の関東移封にともなって、他の武川衆とともに関東に移り、武蔵鉢形の地を領した。信俊のあと安吉が嗣ぎ、二代将軍秀忠に仕え、後三代将軍家光付となり、安吉は下総国原方村に二三〇石、弟安忠は上総国市袋村に一六〇石の知行を与えられた。この安忠が柳沢吉保の父である。
白州町の歴史・史跡 馬場美濃守信春(信房が正しい)(『白州町誌』)
馬場氏の系譜
「寛政重修諸家譜」に清和源氏義光流武田支流とあり、「姓氏家系大辞典」(太田亮著、角川書店)にも清和源氏の後裔としている。前書によれば、次郎兵衛信周がとき罪ありて家たゆ、庶流吉之助通喬(馬場氏の庶流で信州下ノ郷生島足島神社武田将士起請文六河衆の列に見ゆ)が呈譜に、桑祖下野守仲政(按ずるに仲政は源三位煩政が父にて頼光の流なり)はじめて馬場と号す。其の裔甲斐教来石にうつり在し地名をもって家号とし代々武田家につかえ、駿河守信明のとき、武田信重の婿となり馬場にあらたむ。その男遠江守信保、英男美濃守信房にいたり武田の一族につらなり花菱の紋をうくという。
同書の説明によると、遠江守信保は武田信虎につかえ、甲斐国武川谷大賀原根小屋の城に住すとあり、
美濃守信房については
通喬が呈譜に信保が長男を美濃守信房
はじめ民部氏勝とし
武田の老臣馬場伊豆守虎貞が家名を継ぎ、信虎、信玄、勝頼に歴任し
はじめ信濃国高遠、後に同国槙嶋の城に任す、三百騎の士をあづかり士大将に列し
武田一族につらなり花菱の紋をうく
天正三年五月二十一
↧
↧
南アルプスエコパーク 歴史資料 武川衆について
白州町の歴史・史跡 武川衆の動向「甲斐国志」(『白州町誌』)一部加筆
武田石和五郎信光ノ末男六郎信長卜云フ者忠頼ノ家迹ヲ継ギテ一条氏卜号ス、
其子八郎信継「東鑑」ニモ見ユタリ、
信継ノ男時信、一条源八卜称ス、甲斐ノ守護職ニ任ゼラル。
男子十数輩ナリ、武河筋ノ村里ニ分封シテ各々其ノ地名ヲ氏号トス、
子孫繁栄シテ世ニ武川衆卜号セリ(中略)。
「(甲陽)軍鑑」ニ天文十一年桑原ノ城普請アリ、
板垣信形ニ武川衆ヲ添へ御預ケナサルト云。
後ニ典厩信繁ニ付ケラル、
「甲陽軍鑑伝解」ニ武河衆卜云フハ先ヅ十二騎ナリ、
曾雌、米蔵、折井、小尾、跡部、知見寺、権田、入戸野、曲淵此等合テ二十六騎アリ(中略)。
壬午七年(天正十年)神祖御入国の時折井市左衛門、米倉主計助首領トシテ御判物、御感状ヲ賜ハリ武川の士各々本領安堵セシ趣諸録ニ記セリ、
「編年集成」ニ武川の士六十余人拝謁ストアレバ必ズ二十六騎ニハ限ルベカラズ、
世ニ武川十二騎卜云フ、ソレモ数年ノ問ニ往々他姓ノ人入り交リタレド、始メ武川衆過半其列ニアリシ故ニ斯ク称セント見ユ」とある。
白州町の歴史・史跡 武川衆の動向 一条源時信が武川衆の祖
一条忠頼が頼朝に謀殺されたあと、甥の武田六郎信長が一条氏の名跡をついで一条氏を再興する。信長は弓馬の道にたけ、質実勇武な典型的武人であったのみでなく、神仏に信仰厚く晩年大般若経六〇〇巻を書写して、氏神武田八幡宮に奉納した (現在加賀実の法善寺所蔵の国指定重要文化財)。
その子信経、その子一条源時信が武川衆の祖といわれている。時信は父祖信長に勝る人物で甲斐守護職に補せられ、よく宗家武田家を補佐した。時信には系譜で示すようにすぐれた男子が多かった。
なお「南葵文庫本武田系図」によると、一条忠頼五代の末裔一条時信は南北朝ころ、子息たちを白須、鳥原、牧原、青木などの諸村に分封し、これが武川衆となるとある。横手氏は青木に分封された一条時光の分家といわれる(韮崎市誌)。
時信(一条源八)
-信重(一条与一)
-義行(一条与二)
-信方(山高太郎)
-頼行(弥三郎)
-行貞(又三郎)
-貞信(白須三郎)
-貞連(慶良吉六郎左衛門尉)
-宗景(鳥原七郎)
-貞家(牧原八郎)
-時光(青木十郎)
-信奉(両境九郎)
-源光(青木別当蔵人)
-信源(横板寺別当)
このうち、一連寺過去帳に法名性阿、貞治二年(1363)三月十六日(没)とあるのが慶良吉(毛浦吉)で、後の教来石民部少輔景政(馬場美濃守信房春)の祖である。
前記応永年間の「禅秀の乱」で甲斐守護武田信満自害のあと、信満の子信長は、幼主伊豆千代丸とこれに味方する日一揆を助けて、守護代跡部父子・輪宝一揆と戦ったが敗れた。このとき武川衆は信長に味方し、柳沢、山寺、牧原などの武将が戦死している(一蓮寺過去帳)。
武川衆のうち中心的な存在は青木氏で歴代白山城を守衛している。そして青木尾張守満懸は武田晴信が武田八幡宮本殿造営の折にはその奉行の一人であった。
武川衆 信州小県郡塩田下之郷の信濃国二之宮生島足島神社社前において、 武田信玄に誓詞
永禄四年(1561)九月の川中島合戦に武川衆は副将武田左馬助信繁の陣に加わって激烈な戦いをして越軍を防いだ。
永禄十年(1567)八月、武田氏に属する甲・信・西上野の将兵が、信州小県郡塩田下之郷の信濃国二之宮生島足島神社社前において、 武田信玄に誓詞を提出した。その中に武川衆の連署したものが一通ある。
敬白 起請文
一 此れ己前に捧げ奉り候数通の誓詞、いよいよ相違致すべからざる事
一 信玄様に対し奉り、逆心謀叛等相企つべからざる事
一 長尾輝虎を始めとなし、敵方より如何様の所得を以て申す旨候とも、同意致すべからざる事
一 甲・信・西上野三ケ国の諸卒、逆心を企つと錐も、それがしにおいては無二に信玄様の御前を守り奉り、忠節を抽んず
べき事
一 今度別して人数を催し、表裏なく二途に捗らず、戦功を抽んずべきの旨存じ定むべき事
一 家中の者或は甲州御前悪しき儀、或は臆病の異見申候共一切に同心致すべからざる事
右の条々違犯せしめば、上は梵天・帝釈・四天王・炎魔法王・五道の冥官、殊ニハ甲州一・二・三明神、国建・橋立両大明神、御嶽権現・富士浅間大菩薩、当国諏万上下大明神、飯縄・戸隠別しては熊野三所権現・伊豆箱根三嶋大明神・正大幡大菩薩・天満自在天神の御罰を蒙り、今生においては癲病を享け、来世に到っては阿鼻無間に堕在致すべきものなり、仍って起請文、件の如し
丁卯 馬場小太郎信盈 (花押・血判)
八月七日 青木右兵衛尉信秀(花押・血判)
山寺源三昌吉 (花押)
宮脇清三種友 (花押・血判)
横手監物満俊 (花押)
青木兵部少輔重満(花押)
柳沢壱岐守信勝 (花押・血判)
六郎次郎殿(武田左馬助信豊)
〔六郎次郎殿(武田左馬助信豊)〕
六郎次郎は川中島の激戦で討死した信繁の子で、武田左馬助信豊である。信繁の後を嗣いだが当時はまだ官途なく六郎次
馬場小太郎信盈は美濃守信春の一族である。馬場信春は武田の重臣で侍大将として単独で起請文を出している。横手監物満俊は青木家から横手村に分封されたもので、寛政系図には監物信国と見えるが同人と思われ、駿河花沢城攻めに討死している。
白州町の歴史・史跡〔武田没後の武川衆 家康家臣へ〕
天正十年三月武田氏が滅亡し、六月本能寺の変によって織田信長が最後を遂げて天下の形勢は一変する。そして甲州は北条と徳川の争奪の地となる。徳川家康は武田の遺臣を抱えようと、かねてから武川衆にも注目しており、部下の将成瀬正に命じて武川衆の有力者折井市左衛門次昌と米倉主計助忠長を説得していた。それで折井・米倉は武川の諸士を説いて団結を強化し、七月九日、中道より右左口峠を経て甲斐に入国した家康を迎えたのである。
相模の北条氏政は、その子氏直を大将として信州に侵入し、佐久郡より甲州逸見筋に南下し、その兵四万三千と称し意気があがっていた。
八月十日、家康は甲府から新府城に移った。
八月十二日には栗駒の合戦があり、北条軍は鳥居元忠・武川衆らの徳川勢のため大敗した。この合戦の結果北条方の士気は喪失し、北条軍が拠っていた大豆生田砦も陥り、津金衆の奇襲によって江草砦(獅子吼城)も陥って北条軍は退いた。
白州町の歴史・史跡〔武川衆、武蔵国(埼玉県)へ移封〕
武川衆は天正二十年(1592)、家康関東移封とともに旗本衆として武蔵国に知行地を与えられて移った。
慶長八年(1603)家康は征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開いて、第九子徳川義直を甲斐二四万石の領主に任じた。
甲斐は親藩領となり、平岩親吉が城代となった。
〔武川衆再び甲斐へ〕
それで慶長九年(1604)二月、武川筋を本領としていた武川衆がふたたび甲斐にもどってくるのである。
そして「武川衆御重思之覚」として、武川の地に所領替と加増の意味を含めて領知された。そのときの武川衆十四人は次のようである。
〔「武川衆御重思之覚」〕
柳沢兵部丞信俊
伊藤三右衛門垂次
曲淵庄左衛門正吉
曾根孫作
骨雌民部丞定政
折井九郎三郎次善
曾雌新蔵定清
有泉忠蔵政信
山高宮内少輔信直
青木与兵衛信安
青木清左衛門信政
馬場右街門丞信光
折居市左衛門次忠
徳川義直の甲斐領主は僅か四年で、尾坂清洲城主として移封となり、城代平岩親吉も義直の後見役として犬山城主となったので、甲府城は城番をおいて守護することになった。
その慶長十二年(1607)四月より元和二年(1616)九月までの十年間を「甲府城番時代」というが、その城番を担当したのが、次の武川十二騎である。
山高孫兵衛親吉
青木与兵衛信安
入戸野又兵衛門光
折井仁左衛門次吉
柳沢三左衛門
小尾彦左衛門重近
馬場民部信成
米倉丹後信継
山寺仁左衛門信光
曲淵筑後吉清
跡部十郎左衛門胤信
知見寺越前盛之
このうち跡部氏と小尾氏は津金衆であるが、一般に武川十二騎と呼び、二人ずつ十日交替で甲府城を守護したのである。
↧
南アルプスエコパーク 歴史資料 柳沢氏・青木氏
白州町・武川町の歴史・史跡〔柳沢氏と横手氏〕
柳沢氏については武田時信の子時光が青木氏を称し、その五代安遠のあと、長男義虎が青木氏を継ぎ、次男信興が柳沢に任して柳沢氏の祖となった。その三代信兼が武田勝頼に仕えて、天正八年十月、上州膳之城攻めのとき軍令にそむいて先駆をしたという科で切腹を命ぜられたが、勝頼は柳沢の名跡が絶えるのを惜しんで、横手信俊に柳沢姓を嗣がせ兵部丞を名乗らせた。横手氏は青木信時の弟信国が名のっていたが、信国の討死により信玄の命により弟信俊が横手氏を嗣いでいたのである。横手氏はそのあと信俊の養子源七郎が継いでいる。
青木五代 安遠―義虎(青木氏)―信定―信立―信時(青木氏)
―信国(横手氏)戦死
―信俊―安吉
―安忠-柳沢吉保
―信興(柳沢氏の祖)
白州町・武川町の歴史・史跡〔柳沢安忠が柳沢の父 柳沢信俊、吉保の祖父〕
この柳沢信俊が吉保の祖父である。柳沢兵部丞信俊は小牧の戦、信州真田との戦などに戦績をあげ、ついで小田原の陣にも参加している。のち家康の関東移封にともなって、他の武川衆とともに関東に移り、武蔵鉢形の地を領した。信俊のあと安吉が嗣ぎ、二代将軍秀忠に仕え、後三代将軍家光付となり、安吉は下総国原方村に二三〇石、弟安忠は上総国市袋村に一六〇石の知行を与えられた。この安忠が柳沢吉保の父である。
↧
白州町の歴史・史跡 馬場美濃守信春(信房が正しい)
白州町の歴史・史跡 馬場美濃守信春(信房が正しい)(『白州町誌』)
馬場氏の系譜
「寛政重修諸家譜」に清和源氏義光流武田支流とあり、「姓氏家系大辞典」(太田亮著、角川書店)にも清和源氏の後裔としている。前書によれば、次郎兵衛信周がとき罪ありて家たゆ、庶流吉之助通喬(馬場氏の庶流で信州下ノ郷生島足島神社武田将士起請文六河衆の列に見ゆ)が呈譜に、桑祖下野守仲政(按ずるに仲政は源三位煩政が父にて頼光の流なり)はじめて馬場と号す。其の裔甲斐教来石にうつり在し地名をもって家号とし代々武田家につかえ、駿河守信明のとき、武田信重の婿となり馬場にあらたむ。その男遠江守信保、英男美濃守信房にいたり武田の一族につらなり花菱の紋をうくという。
同書の説明によると、遠江守信保は武田信虎につかえ、甲斐国武川谷大賀原根小屋の城に住すとあり、
美濃守信房については
通喬が呈譜に信保が長男を美濃守信房
はじめ民部氏勝とし
武田の老臣馬場伊豆守虎貞が家名を継ぎ、信虎、信玄、勝頼に歴任し
はじめ信濃国高遠、後に同国槙嶋の城に任す、三百騎の士をあづかり士大将に列し
武田一族につらなり花菱の紋をうく
天正三年五月二十一日長篠の役に戦死す。
法名乾忠、甲斐国東林寺に葬る。
と記している。
・信保の二男(信房の弟)善兵衛、はじめ隼人信頼とし、兄信房が家摘となり、
・後故ありて甲斐国を退去し和泉国淡輪に蟄居す。
・その男を信久なりという、根小屋城に任す、慶長十五年十月死、年八十、法名浄心。
信保 遠江守
―信房(美濃守信春)―昌房(信春)(「武田三代記」に)見ゆる馬場民部少輔か)
―信頼(善五兵衛)―信久―信成(武川衆十二騎に見ゆ馬場民部)
馬場美濃守の系譜〔馬場信成(民部右衛門尉)〕「寛政重修諸家譜」
武田勝頼に仕え根小屋(現在の台ケ原)に任す。
天正十年勝板没落ののち東照宮甲斐国にいらせたまふ時、武川の諸士とともに御磨下に
属し、
北条氏直若神子に出張するとき相謀りて小沼の小屋を攻おとし、
のち新府に渡御ありて北条氏と御対陣のときしばしば軍功を励みしにより、
諸士とおなじく本領の地をたまひ、
天正十二年小牧陣のときも亦ともに信濃国勝馬の砦をまもり、
のちまた尾張国一宮城を守衛す、
天正十三年九月真田昌幸が居城を攻めらるるときは、大久保七郎右衛門忠世が手に属し、
また人質として妻子を駿河国興国寺に献ぜしかば、諸士一紙の御書をたまはり、
天正十八年正月二十七日釆地をくはへられ、この年小田原陣に供奉し、
八月関東御入国のとき甲斐国の釆地を武蔵国鉢形のうちにうつされ、番をゆるされて釆地に任す。
天正十九年九戸一揆のときも忠世に属し岩手沢にいたる。
慶長五年台徳院殿(秀忠)に附属せられ、
大久保相模守忠隣が手にありて信濃国上田城を攻め、
慶長九年三月二日武蔵国のうちに新恩の地百石を賜い、
慶長十五年十月死す。年八十、法名浄繁。
馬場美濃守の系譜〔信成の子、馬場信正 「寛政重修家譜」〕
信正は次郎兵衛 (また八郎左衛門)といい
家忠・家光に仕え下総国宮川村に百六十俵の釆地を賜う。
信正-信政(廷宝~元禄)―信通(元禄~享保)―信周(享保~宝暦)-信方(宝暦)
馬場美濃守の系譜〔馬場美濃守信房「姓代家系大辞典」〕
清和源氏の後裔甲甲斐国教釆石に移りて教来石(敬禅寺)氏を称す、
駿河守信明に至り武田信重の婿となり馬場に改む。
その男遠江守信保、其の男美濃守信房なり。
信房は初名景政また氏勝、民部少輔と称す。
その族馬場虎貞武田信虎を諌めて殺される。
信玄に至りその後無きを燐み氏勝に追跡を襲がしめ、
信の字を賜いて芙濃守信房と名乗らしめ、又信春と云ひ、後に信勝という。
信濃国更級郡牧野島城は一に牧島城とも云う、
牧野島邑(牧郷村)にあり、永禄五年八月廿八日、信玄、馬場民部景故に築かしめ百五
十騎にて守らしむ。
又三河国設楽郡市場村古宮城は馬場氏の縄張、
又遠江国榛原郡諏訪原城は天正元年秋築く馬場美濃守の縄張也と、その他多し。
天正三年五月二十一日長篠役に戦死す。
馬場美濃守の系譜〔信房の子 馬場美濃守信春 昌房「姓代家系大辞典」〕
その子民部信春は一に昌房と称す、
天正の初めより深志城(松本城)を守り、
天正十年三月織田の兵に攻められ甲斐に帰りて死せし如し。
一族江戸幕臣となり、寛改系譜此の流五家を収む。家紋割菱。
馬場美濃守の系譜〔信房の二男、善五兵衛信頼(隼人)「姓代家系大辞典」〕
二男善五兵衛信頼(隼人)信房の嗣となり、甲斐を去り和泉国淡輪に任す。
その子が駿河信久也、又巨摩、山梨、八代の諸郡に任し、甲府朝気村の馬場氏は美濃守後
裔と称す。
馬場美濃守の系譜〔「甲斐国志」士庶の部〕
馬場美濃守ノ孫、同民部ノ末男丑之介、壬午ノ乱(天正10年)ヲ避ケ
其ノ母卜倶ニ北山筋平瀬村(大寧寺)ニ匿ル、
後朝気村ニ移居シテ与三兵衛卜更ム、
其ノ男四郎右衛門、
其ノ男善兵衛元禄中ノ人、今ノ彦左衛門五世ノ祖ナリ
馬場美濃守の系譜〔馬場半左衛門「甲斐国志」〕
馬場半左衛門ナル者アリ、後ニ幕府ニ仕へ尾州義直卿ニ附属セラル、
彼ガ先祖へ木骨義仲ノ裔讃岐守家教ノ男家村又讃岐守卜称ス、
家村ノ三男ヲ常陸介家景卜云フ、始メ馬場ヲ以テ氏卜為ス、
数世ニシテ半左衛門ニ至ルト云フ、
本州ノ馬場氏モ蓋シ是卜同祖ナランヤ、其ノ系中絶シテ未ダ詳ナラズ」
馬場美濃守の系譜〔馬場氏 清和源氏木曾系図〕
兵庫頭家教-讃岐守家村(太郎)―常陸介家景(六郎、馬場の元祖)―越中守家佐(木曾ヲ馬場ニ改ム)。
馬場美濃守の系譜〔「甲斐国志」人物の部馬場美濃守信春〕
「武田三代記」ニ云フ、馬場伊豆守虎貞ナル者直諌シテ信虎ノ戮スル所卜為ル、
嗣ナク武田晴信教来石民部景政ヲ立テ馬場氏之跡ヲ紹シム云々、
虎貞ノ事未ダ明拠ヲ知ラズ、
教来石ハ武河筋ノ村名ナリ、
彼ノ地ハ馬場氏ノ本領ナレバ時ノ人之ヲ称シテ氏族卜為ス
馬場美濃守の系譜〔「甲斐国志」人物の部馬場民部少輔〕
美濃守ノ男ナリ‥・天正壬午ノ時信州深志ノ城ヲ衛ル、
三国志ニ「信春」ニ作ル、
一書ニ「氏員」又「信頼」ニモ作ル、
或ハ云、「信頼」ハ「信房」ノ甥ナリ戦死ノ後家督セリト、
皆明カニ証スルモノ無シ
馬場美濃守の系譜『甲斐国志』「士庶の部」教来石氏の項
「甲陽軍鑑」ニ教来石民部ヲ馬場氏ノ名跡トスル由見ユタリ、
其ノ余教釆石氏ノ事所見ナシ、
民部氏ヲ改ム時一族皆馬場ニ変姓ナシケルナランカ、
或ハ云フ馬場ハ本氏ナリ、教来石ニ住スルヲ以テ軍鑑ニ是ノ如ク記スルノミ、
教来石氏ニアラズト、最モ然モアリシニヤ」と記し、
「下ノ郷起請文ニ六河衆馬場小太郎信盈ノ花押アリ、
「甲陽軍鑑伝解」ニ膳ノ城ノ条下ニ馬場右衛門卜記ス、
「編年集成」慶長六年ノ記ニモ右衛門尉百石トアリ、
城番ノ記ニハ馬場民部四百石ノ高ナリ、郷村帳二百六十一石九斗八升、台ケ原村、百三十八石五斗五升柳沢村ノ内卜見エタリ
民部ハ即チ右衛門尉ノ男カ(馬場美濃守ノ男馬場民部少輔トハ別人ナリ)」
馬場美濃守の系譜〔「甲斐国志」庶流 三郎兵衛信盈の呈譜〕
武田信光の五男一条六郎信長、
その二男頼長はじめて馬場を称す。
其の男小四郎長広、
其の二男権三郎はじめ民部、広政敬礼師を称す。
其の男権大郎はじめ民部、政次
其の男権太郎はじめ民部、政久
其の男権太郎はじめ民部、政長、
其の男権大輔はじめ民部、政房、
其の男権太輔はじめ民部、
其の男権大輔はじめ玄審、民部、房政、
其の男信房、これよりまた馬場を称するという。
いま按ずるに家系詳しきごとしといへども、尊卑分脈を考えるに頼長一条を称すれども馬場を称する事所見なく、かつ寛永第一の馬場系図に支流吉之助通喬がささぐるところの譜に信房が祖をいふものと異にして、いまだいづれが是なることを詳にせず。
〔信盈が呈譜〕
美濃守信房、氏勝はじめ玄蕃、民部棒大輔政光、後美濃守信房につくる。
武田信玄・勝頼につかえ、天正三年五月二十一日長篠合戦で討死。
その子信忠、玄蕃、民部少輔、信濃国深師(深志)にて討死、法名慈源。
信忠の女は、青木与兵衛信安の妻、
次女は米倉佐大夫其の妻、
三女は曲淵仁左衛門の妻
↧
↧
南アルプスエコパーク 歴史資料 馬場美濃守信房の事績
白州町の歴史・史跡 馬場美濃守信房の事績(白州町誌)
・馬場美濃守の事績については甲斐国志に「天文十五年武河衆教来石民部ヲ擢デ五十騎ノ士隊将トシ馬場ニ改メ民部少輔卜称ス、
・永禄二年騎馬七十ヲ加へ合テ百二十騎卜為ス、
・同八年美濃守ヲ授ク、武田家ニ原美濃ノ英名アルヲ以テ外人其ノ称ヲ避ケシム、最モ規模トスル所ナリ。
・明年十月信州牧ノ島城代トナル、信玄ヨリ七歳前ノ人ニシテ信虎ノ代ヨリ功名アリ、道鬼(山本勘助)日意(小幡)ガ兵法ヲ伝へ得タリ、
・場数二十一度ノ証文ニ其方一身ノ走り回り諸手ニ勝レタリト褒賞セラルゝ事九度二及ブ、
・戦世四十余年ヲ歴テ身ニ一創ヲ被ルコト無シ、
・智勇常ニ諸将ニ冠タリト云フ、
・旗ハ白地ニ黒ノ山道、
・黒キ神幣ノ差物ハ日意より迄受ケシ所ナリ、
・天正三年五月廿一目長篠ノ役軍己ニ散ジテ勝頼ノ馬印シ遥ニ靡キ走ルヲ目送シテ立還り小岡ニ傍フテ座シ大ニ喚デ云フ、
馬場美濃守ナリ、今将ニ死ニ就カントスト、終ニ刀柄ヲ握ラズ安然トシテ首級ヲ授ケリ、法名ハ乾叟自元居士」とある。
【註】
智勇兼備、戦略にたけ、築城の縄張りにもくわしく、主要なる合戦には必ず参加して功を挙げ、四十余年の歴戦に身に一創もこうむらないという。
〔教来石景政、初陣〕
享禄四年(1531)四月、武田信虎、国人層の叛将今井、栗原、飯富らとこれを援けた信州の諏訪頼満、小笠原長時の軍と、塩川河原部(韮崎)で決戦しこれを破る。諏訪衆三〇〇人、国人衆五〇〇人討死し、栗原兵庫も斬られた。この戦いにおいて板垣駿河守信形、馬場伊豆守虎貞とともに出陣した教来石景政は、十七歳にして殊勲の功をなした。
それ以来駿河出兵、信州佐久攻略などに参加し、出陣のたびに教来石民部景政の軍功が高まり敵軍にもおそれられる若武者に成長していった。
景政を大器に育てた指導者は、文武の道に秀でた小幡山城守虎盛のち出家した道鬼日意入道である。虎盛は景政の非凡な才能を見込んで兵法を授け、実践に必要な武器の操典を仕込んだという。
大永元年十一月、武田信虎、駿河今川の将福島正成の大軍を飯田ケ原、上条ケ原の合戦で破り、敵将福島正成を討ちとり大勝して、甲斐に覇権を確立した。
その勇に誇り悪行つのったので、これを憂い馬場伊豆守虎貞、山県河内守虎清が諌言したが、信虎の怒りふれ諌死となる。
天文十年(一五四一)六月、晴信、父信虎を駿河に退隠させて自立、家督を相続し甲斐の守護職となる。教来石民部景政も武川衆の一隊長(?)としてその幕下に加わった。
天文十一年瀬沢の合戦、諏訪頼重の上原城・桑原城攻略、高遠の諏訪頼継との安国寺の合戦などに真先に立って諏訪軍や高遠軍と戦った。
〔馬場民部景政〕
天文十二年晴信の伊那攻略に従軍、天文十五年馬場伊豆守の名跡を継いで馬場の姓を拝命、馬場民部景政と改称し、五十騎の士隊将となる。
天文十七年二月上田原の合戦、七月塩尻峠(勝弦峠)の合戦に参加、
〔馬場民部少輔〕
十八年四月には馬場民部少輔、浅利式部を両将として伊奈を攻略、さらに十九年七月、林城(松本)を陥れ小笠原長時は村上義晴を頼って逃げのびた。
天文二十三年六月、上杉謙信善光寺の東山に陣し、信玄茶碓山に陣す(第一回川中島の戦)、この時謙信一万三千余人、景政三千五百人。謙信は、「山本道鬼が相伝うる必勝微妙の」馬場の陣備えを見渡して早々に軍を引揚げたという。「互に智勇の挙動なりと諸人之を感じる」(武田三代軍記)。
〔馬場美濃守信春〕
この年八月甘利左衛門、馬場民部、内藤修理、原隼人、春日弾正の五士大将をもつて木曾を攻略し義昌を降す。
永禄二年、名を得る勇士七十騎を選び出させ馬場民部少輔景政に預けられる。景政手前の五十騎と合わせ百二十騎の士大将となる。そして晴信の一字を賜わり馬場美濃守信春と称した。部下の中には虎盛の子小幡弥三右衛門、金丸弥左衛門、鳴
牧伊勢守、平林藤右衛門、鵄(とび)大弐(根来法師)ら一騎当千のつわものがいた。
翌永禄三年十月、信春は牧島城の城代となる。
永禄四年(一五六一)九月十日、第四回川中島の戦の前日、信玄は馬場信春と飯富兵部虎昌を別々に呼んで意見を聞いた。その時兵部は「妻女山に籠る越軍は一万三千、味方は二万、このまま城を攻撃し、包囲すれば必ず勝てると確信する」と進言した。馬場信春は「数の上からは必ず勝てる戦いであるが、なるべく味方の犠牲を少くするために慎重な作戦をたてるべきである」と慎重論を提言した。そこで信玄は山本勘助を招き改めて意見を聞いた。勘助は「味方は二万の軍、これを二手に分け、一万二千の兵をもって妻女山を攻撃すれば越軍は勝敗に関わりなく千曲川を渡って撤退する。
そこで本隊は八幡原で待ち伏せ予備隊合わせ八千の兵をもって取り囲み、退路を断てば犠牲を少なくして勝つこと疑いなしと存じます」と進言した。いわゆる〝きつつき戦法″である。信玄はこれを採用した。妻女山攻撃隊の総指揮は高坂弾正、副将に馬場信春、飯富兵部をすえ騎馬軍団一万二千。八幡原に布陣する旗本隊には信繁・信廉兄弟と山県昌景、穴山信君、内藤修理など十二隊に分かれて八千の兵で固めた。
馬場信春ら妻女山攻撃隊は深夜に出発、翌十日未明妻女山の麓に到着、朝霧にまぎれて妻女山へ一気に攻め込む手はずだった。しかし甲軍の裏をかいた謙信は、武田の攻撃隊が妻女山のふもとに到着する前に全域を抜け出して千曲川を渡り、武田の本陣をついて大激戦となった。妻女山攻撃隊は、越軍にだし抜かれたことを知って急いで八幡原に向った。
卯の刻(午前六時) から始まった甲・越両軍の戦いは越軍の車懸かりの戦法に圧倒されて、信玄自身に危機が迫ったがやがて妻女山攻撃隊が駆けつけて形勢を挽回した。
甲軍は武田信繁、山本勘助、諸角豊後守などを失い大きな犠牲をこうむったが、午後四時ごろ謙信の退去命令で越軍は退去し、武田軍は勝ちどきの儀式をあげた。そのときの太刀持ちをしたのが馬場信春であったと「甲越川中島戦史」などで伝えている。このとき信春は四十七歳であった。
その後上州松井田城、倉賀野城、武州松山城などを攻略し、永禄十二年六月に伊豆に侵攻し、十月には小田原城を包囲した。その帰路、追撃する北条軍と三増峠で戦い、馬場美濃などの奮戦によってこれを破る。
信玄の駿河進攻作戦は永禄十一年十二月にはじまり、十三日には今川氏其の居城(駿河城)に乱入した。信玄には城攻めにさいし、もう一つの目的があった。氏真の父義元は「伊勢物語」の原本を入手していたように書画・骨董・美術工芸品の蒐集家で知られていた。信玄もその道にかけては造詣が深かったので、その文化遺産を甲州に持ち帰り保存したいという下心があった。そこで城攻めにあたり「書画・骨董・美術品は何にもまして宝物だ、決して燃やさず全部奪い取れ」と命令した。
城攻めの先達をうけたまわった馬場美濃守は「たとえお屋形の命令とはいえ、敵の宝物を奪い取るなどもってのほか、野盗か貧欲な田舎武士のやることだ、後世物笑いのたねになる。構わぬ焼やしてしまえ」と曲輪内に大挙して踏み込み、片つ端から焼やしてしまった。これを聞いた信玄は苦笑し「さすが七歳年上の軍将じゃ、一理ある、甲斐の国主が奪つたとあれば末代まで傷がつくからなあ」とつぶやいたという。
田中城は馬場信春の縄張りによったものである。信玄上洛に際しその座城として、清水の縄張りのごとく馬場信房に縄張り致さすべしといったという(武田三代軍記)。馬場美濃守は築城の名手でもあった。
元亀三年(1572)十月、馬場、山県隊の甲軍徳川方の中根平左衛門正照、青木又四郎広次らが寵る二俣城(天竜市)を包囲した。この城は天然の要害で防備も固く容易に城内に踏み込めなかつた。馬場信春は、尋常な手段では城は落とせない、城で使っている天竜川の取り入れ口を破壊し城内を枯渇させる作戦にでた。水の手を止められた二俣城は忽ちにして混乱が起きた。それでも一カ月以上も堪えたがついに十二月十九日夜、城将中根正照は城門を開けて武田軍に降伏した。
この時、浜松城にいた徳川家康は二俣城を援けようとして自ら数千の兵を率いて城に向ったが、武田の包囲陣の現状に、とても勝ち目はないとみて神増村まで来て滞陣していた。武田勝頼、馬場信春、山県昌景ら武田の部将は、「天下に旗を揚ぐるの手初めなれは信玄の大事是にすぐべからず」と(武田三代軍記)三方ケ原において徳川軍と戦う。家康破れて敗走する。武田軍は家康と鳥居元忠ら旗本衆のあとを追撃し、浜松城が間近に迫る犀ケ崖を下って城門近くまで追跡したが、家康はやっとの思いで城内へ逃げきつた。
家康は「武田随一の馬場美濃に切崩された」と、馬場美濃守の武勇を称讃している(武田三代軍記)
翌元亀四年(天正元年・1573)二月、野田城を陥れるが、既に信玄の病重く、四月十二日信州駒場の宿陣で逝去する。時に馬場信春五十八歳、不死身の信春にも〝老″いが迫っていた。信春は部下の若者たちに次の戦陣五つの信条を語って聞かせた。
一つ 敵より味方のほうが勇ましく見える日は先を争って働くべし、味方が臆して見える日は独走して犬死するか、敵の術中にはまるか、抜けがけの科を負うことになる。
二つ 場数を踏んだ味方の士を頼り忙する。その人と親しみ、その人を手本としてその人に劣らない働きをする。
三つ 敵の胃の吹き返しがうつ向き、旗指しもの動かなければ剛勇と知るべし。逆に吹き返し仰向き、旗指しもの動くときは弱敵と思うべし。弱敵はためらわず突くべし。
四つ 敵の穂先が上っている時は弱断と知るべし、穂先が下っている時は剛敵。心を緊めよ。長柄の槍そろう時は劣兵、長短不揃いの時は士卒合体、功名を遂げるなら不揃いの隊列をねらうべし。
五つ 敵慌心盛んな時は、ためらうことなく一拍子に突きかかるべし。
信春が示したこの五つの信条は、信玄の「敵を知り、己れを知らば百戦百勝」の遺訓にかなっている。信春が「一国太守の器量人」といわれたのもこの辺に由縁するのであろう。
天正二年一月、勝頼岩村城付城一入城を陥れ、明知城にも迫り、二月七日これを抜く、信長なすところなく二十四日岐阜に帰る。この戦いで馬場美濃守は手勢を牧島城に備えおいたので僅か八百余人をもつて信長一万二千の兵に向った。この戦いの状況を武田三代記は「唯今打出でられしは当代天下の武将識田信長とこそ覚ゆれ、天下泰平の物初に信房が手並を見せ申せ申さん、という侭に一万余の大敵に八百余人を魚鱗に立て蛇籠の馬印を真先に押立て、少しも猶豫ふ気色なく真一文字に突懸れば信長取る物も取会敢ず捨鞭を打って引返さる」と記している。
天正三年五月、武田軍は、山家三方衆奥平貞昌が兵五百をもって固める長篠城を包囲して攻めたが容易に城内に侵入することができなかった。しかし城内は極度に食糧不足を来し危機にひんした。鳥居強右衛門の豪気な働きによって識田・徳川の援軍が来着し、ここに識田・徳川連合軍と武田軍との長篠の合戦が始まった。
武田勢は長篠城を挟み、勝頼は医王山に本陣を構え、山林をバックに六隊一万五千で「鶴翼」の陣を敷いて連合軍と相対した。勝頼は本陣で軍議を開いて合戦の方策を練った。馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、高坂昌信らの重臣は「われに倍する敵、それに三重の柵を構えて籠城の体、これに向えば不利を招くは必定、無謀なることこの上なし。この度は甲州に帰って再検を図るよう」と進言した。このとき跡部勝資は「一戦も交えずに引き退けば武田の武威地に墜つ、決戦するに若(し)かず」とし、勝頼側近の軍師長坂長閑もこれに賛同した。勝頼もこの主戦論に同意したので老臣たちは軍議の席を蹴って「御旗・楯無鎧、ご照覧あれ」と退去した。
これらの重臣は、信春の陣地大通寺山に集まり「この合戦が武田家への最後になるだろう」と討死の覚悟で別れの水盃をした。
五月十八日、徳川家康は長篠城西方設楽原高松山に、識田信長は極楽寺山に布陣、勝頼は医王寺山の本陣より寒狭川を渡ってこれと対陣した。徳川・識田連合軍は連吾川の上流に沿って二キロメートルにわたり三重に木柵を構え、人馬の突撃を避け、これに三千挺の堅固な鉄砲陣地を築いた。
五月二十二日未明、鳶巣山で戦端が開かれ、武田軍と識田・徳川連合軍との大激戦が設楽ケ原で展開された。
馬場隊は二上山を駆け下りて右翼の佐久間信盛隊と激突、またたく間に佐久間隊を追い散らして敵方が築いた柵内に追い込んで引揚げた。さらに内藤・山県隊も徳川勢を敵方の柵内に追い込んで敗走させた。
馬場美濃守は、味方の先鋒隊は勝ったと見て使者を勝頼のもとへ送り「わが軍一度が、願わくば本陣はこれをもつて退去せられたし、あとはわれわれが必勝ち弓矢の面目既に立ったず守り抜きます」と進言した。ところが長坂長閑が傍にいて「勝って退くものはどこにもおらんぞ」と使者を叱りつけて帰した。数刻後、識田方の三千挺の鉄砲の威力が発揮され、武田軍は三段構えに撃ってくる敵の砲火を浴びて総崩れとなった。
真田信綱、土屋昌次、内藤昌豊、原昌胤、山県昌景、甘利信康、武田信実、三枝守友など武田の重臣多く討死し、馬場美濃・土屋惣蔵らが旗本の兵とともに奮戦し、ようやく勝頼を退去せしめた。
馬場美濃守は屋形に二町計り引下り、敵兵の慕ふを待請け、勝頼の御無事を見届け、長篠の橋場にて取って返し、高き所に馬を乗上げ、是は六孫王経基の嫡孫摂津守頼光より四代の孫、源三位頼政の後練馬場美濃守信房という者なり、討って高名にせよと、如何にも尋常に断りけるに、その時敵兵十騎計り四方より鎗付くるに、終に刀に手をも懸けず、六十二歳にて討死(武田三代軍記)。
長篠の小字「西」という部落を通り抜けて左に寒狭川の流れを見下ろす段丘上に「馬場美濃守信房殿戦忠死の碑」が建てられている。これは明治中期に建てられたもので、それ以前は素朴な自然石の碑で「美濃守さまの墓」といわれていたという。設楽原の一角新城市生沢谷の銭亀にも信房の墓がある。
↧
南アルプスエコパーク 歴史資料 白州町曲淵氏
白州町の歴史・史跡 曲淵氏(白州町誌)
甲斐国志士庶部に「軍鑑ニ云フ曲淵壮左衛門(勝左衛門吉景・庄左衛門)ハ初メ鳥若卜云フ、板垣信方ノ僕ナリ、挙テ同心トナシ後山県氏ニ属シ勇功世ニ顕ハレタリ。天正十壬午年(1582)幕府ニ謁シ武川衆並ビニ召出サル、
編年集成ニ云フ天正十八年(1590)相州中村筋ニテ荘左衛門吉景ニ五百石賜ハル。片嵐村(現在は白州町花水)清泰寺ニ位牌ヲ置ク、広略院良臣玄張居士、文禄三午年(1594)十一月廿三日没ス」とある。
寛政重修諸家譜に「庶流曲淵叔五郎英敦が捧るところの旧記を按ずるに、頼親の流にして朝日左衛門尉頼時が後胤、縫殿助頼定より曲淵を家号とし、其の子を若狭吉高とす、吉景はその男なりという」とある。
寛政垂修諸家譜によって、その系譜をみると次のようである。
吉景勝左衛門
-吉清 助之丞 縫殿左衛門(筑後)別家となる。曲淵叔五郎英敦が祖―吉重 助之丞
「甲斐国志」に
「慶長四亥年(1599)十二月、縫殿左衛門吉清始メテ拝シ、平岩主計頭ニ属シ、同六年本州ニテ釆地八拾石給フト云フ、吉清ハ清泰寺ノ位牌ニ風仙宗徹居士、元和五末九月朔日没ス」
とあり、
「また曲淵市郎右衛門ノ由緒書ニ吉清後筑後卜称ス、助之丞吉重ノ父ナリ、父子慶長中甲府勤番ヲ勤ム」とある。
-吉時 勝三郎 武田信玄に仕へ、永禄六年(1563)二月二十六日上野国蓑輪にて討死、年十九
-正吉 彦助 勝左衛門―正次 彦助 勝左衛門―正長 彦助 勝左衛門
-吉資 七左衛門
文禄二年書景が遺跡のうち相模国の内において三百石を分与せらる
-吉房 助左衛門
文禄二年吉景が遺跡相模国の内において百石の地をたまう
-正行 勘右衛門
実は下津某が男、吉景の養子となる多病にて終身仕えず
-信次 甚右衛門
実は青木尾張守信親が五男、吉景に養われて、その女を妻とす
曲淵吉景、勝左衛門(庄左衛門)
「武田三代軍記」に、天文十七年(1548)二月上田原の合戦には板垣信形(信方)の軍に属し
「甲府勢には曲淵正左衛門、三科肥前守、広瀬郷左衛門など一騎当千の勇士一番に鎗を入れて戦えば」とあり、
元亀四年(天正元年・1573)二月野田城を陥れ、吉田城を攻略する項に
「味方には曲淵圧左衛、長坂十左衛門、辻弥兵衛、三科肥前守…我も我もと馬を乗り放って鎗追取り取り人に先を越されじと塀際に近づく」
とあって余程の勇者であったようである。
武田信虎および信玄・勝頼につかえ、甲斐国武川谷に住し、天正十年(1582)三月勝掠没落ののち剃髪して玄長と号す。
ときに織田右府(信長)より武田家の士を扶助することを禁ぜらるるといへども、東照宮ひそかに武川の者どもに月俸をたまひ遠江国桐山の辺に居らしめらる。吉景もその列にあり。
六月、右府ことあるののち北条氏政氏直等計策を設け武川のものを味方に招くといへどもみなこれに応ぜず、
七月、東照宮甲斐国に御発向のとき御麾下に列し、武川のものと共に御先手に加はり、信濃国の境小沼の小屋を攻め破る。
やがて新府に御着陣のとき吉景・正吉父子ともに拝謁し本領をたまふ。
八月六日北条家と若神子において御対陣のとき敵近くよせきたるを御覧ありて、誰にても斥候して鋏抱をうちかけよと仰ありしかどみな猶予して進まず、よりて吉景参れとの台命により、三男彦助正吉とともに軽卒を率いて馳せむかい、敵の様をうかがひ山上強右衛門某と詞をかわし、相戦うさまを台覧ありて、武功の老の振舞みなみよと仰あり、このときの上意に、吉景老たりといへども武辺のありさますこやかなること比瑛なし、正吉も父に劣らぬ若者なりと御感をこうむり御判物をたまう。
天正十七年(1589)重恩の地をたまひ、天正十八年(1590)八月関東にいらせたまうとき相模国の内において釆地五百石をたまう。
文禄三年(1594)十一月二十三日死す、年七十六、法名玄長、相模国足柄郡増色村の玄長寺に葬る。(寛政垂修諸家譜による)。
このことについては甲斐国志に
「家忠日記ニ北条氏直若神子ニ張陣ス、曲淵勝左衛門父子斥候ニ出テ功アリ御感状賜ハル」
とあり、また
「吉景死スル時願いニヨリテ遺領五百石ヲバ次男七左衛門、助左衛門、勘左衛門三人ニ分ケ賜ハル」と記している。
曲淵吉清(縫殿左衛門、筑後)・吉重
甲斐国志に
「慶長四亥年(1599)十二月、縫殿左衛門吉清始メテ拝シ、平岩主計頭ニ属シ、同六年本州ニテ釆地八拾石給フト云フ、吉清ハ清泰寺ノ位牌ニ風仙宗徹居士、元和五末九月朔日没ス」
とあり、
「また曲淵市郎右衛門ノ由緒書ニ吉清後筑後卜称ス、助之丞吉重ノ父ナリ、父子慶長中甲府勤番ヲ勤ム」とある。
〔吉重〕
吉重については甲斐国志に
「助之丞ハ本州ノ御代官ヲ役ス、文書等今伝ル所アリ、慶長郷村帳ニ二百二拾六石七斗四升片颪村曲淵助之丞とあり、清泰寺ニ嘉嶽宗英居士、寛文八申(1668)十二月十四日没ス」とある。
青木
尾張守の女を妻とし、清蔵、助之丞、雨宮権兵衛(雨宮勘兵衛の姉を妻とす)の三男子があった。
「寛政垂修諸家譜」
「吉景の長男、父とともに甲斐国武川谷にあり、天正十年(1592)より東照宮につかえたてまつり月俸をたまい、天正十七年釆地をたまう。のち相模国において釆地二百二十石余をたまう。慶長五年(1600)信濃国
上田城を攻めたまうとき台徳院(秀忠)殿にしたがいたてまつり、大久保相模守忠隣が手に属し、のち相模国の釆地を旧領たる甲斐国にうつされ、武川津金の者とともに甲府城を守衛す。其の後駿河大言納忠長卿に附属せらる。
元和五年(1619)九月朔日死す、年七十五、法名宗徹、片颪村清泰寺に葬る」とある。曲淵筑後書清、助之丞吉重父子は甲府城番時代武川十二騎として城番に勤務したのである。
曲淵正吉、彦助、勝左衛門
武田勝頼につかえ、天正十年(1592)父書景とともに東照宮の御麾下に属し月俸をたまい、八月六日甲斐国若神子において父書景とともに斥候におもむきて戦功あり、この月諏訪安芸守頼重したがいたてまつらずして龍城せしかば、大久保七郎右衛門忠世、柴田七九郎康忠仰をうけてかの地にむかう、このとき正吉武川の士とともに嚮導となりてかの城を攻む、城主頼忠偽りて城を渡さんと乞う。両将信じてすみやかに軍を収めんとす、
正吉とどめていはく、城中の旗色を察するに戦いをふくむに似たり味方くりひきにしてこれにそなへんといさめしかども、敵の小勢をあなどりおもい思いにひきとりしかば、案のごとく城中より兵を出してこれを追うこと急なり、正吉武川のものとかへしあわせ乙骨(長野県富士見町)において城兵をうちやぶる。これによりて惣軍もとのごとく備を整う。十二月七日、平井名取において本領及び加恩の地をあわせ五十貫文の地宛行はるべき旨の御朱印を下さる。
天正十三年(1585)八月、大久保忠世、鳥居元忠、平岩親書等に属し真田昌幸がこもる信濃国上田城を攻め、すでに囲をとかんとせしとき城兵跡を追い討ちて出しかば、正吉武川のものとおなじく殿して功ありしにより一紙の御書をたまい、十七年釆地を加へ賜はり、関東御入国のとき武蔵国鉢形領において釆地百五十石をたまう。文禄二年(1593)父吉景病篤きにのぞみ、遺跡を正吉に譲らんとすれど、正吉は別に釆地をたまうにより辞してうけず、弟七左衛門吉資に三百石、助左衛門書房、甚右衛門信次に各百石をわかち与える。
慶長五年(1600)関ケ原の役にしたがいたてまつり、慶長九年(1604)三月三日武蔵国のうちにおいて釆地八十石を加へられ、すべて二百三十石を知行す。のち大飯両役に本多正信が手に属してしたがいたてまつり、元和二年(1616)致任し、寛永十二年(1635)十一月二十八日死す、年七十六、法名宗樊樊、要は折井淡路守次昌が女(寛政重修諸家譜による)。
甲斐国志にも、武川衆にして天正二十年(文禄元年・1592)家康関東移封に際し、武蔵国鉢形にいたる。慶長八年(1603)家康征夷大将軍となり江戸幕府を開くにあたり、第九子徳川義直が甲府城主となり平岩親吉が城代となった。武川衆はそれとともに慶長九年(1604)旧地武川に復帰し「武川衆御重恩之覚」として、それぞれ釆地を賜わった。その武川衆十四人の一人が曲淵勝左衛門(庄左衛門)正吉であると記している。
曲淵書房 助左衛門
曲淵勝左衛門吉景の五男、はじめ書房のち吉次に作る、文禄二年吉景が遺跡相模国の内において百石の地をたまう。時に四歳。のち台徳院殿(秀忠)につかえ、元和九年(1623)駿河大納言忠長卿に附属せらる。寛永元年(1624)正月十七日死す、年三十五、法名日心、四谷の西迎寺に葬る。その子行明(小十郎)大猷院殿(家光)に仕う
曲淵信次 源次郎 甚右衛門
曲淵勝左衛門吉景の養子、実は青木尾張守信親が五男、天正十九年(1591)めされて相模国足柄郡の内において釆地百十石余をたまい、仰によって武川の者とおなじく東照宮に仕え、文禄二年(1593)吉景が追跡相模国の内において百石の地を分与せらる。
のち関ケ原の役に台徳院殿(秀忠)中山道より御発向のとき従軍し、真田昌幸がこもれる上田城を攻む。十九年大阪の陣にしたがい、元和九年(1623)駿河大納言忠長卿に附属せられ、寛永四年(1627)三月十日死す。年五十七、法名芳春、妻は曲淵勝左衛門書景が女、その子信貞、源二郎、源五左衛門、元和元年(1615)めされて台徳院殿(秀忠)に仕え、小十人をつとめ廩(くら)米百五十俵をたまい、寛永三年(1626)の上洛に際して付き従い、のち百俵を加増せらる。其の後御納戸の番士にうつり、承応元年(1652)二月十三日組頭にすすみ、寛文元年(1661)十一月二十一日務を辞し、小普請となり、三年(1663)正月六日死す。年六十六。法名良心、四谷勝興寺に葬る。
押越村(昭和町)に曲淵という小字がある。甲斐国志古跡部に「本村本妙寺:古碑存セリ、享保中曲淵下野守勤番支配タリシ時、此ニ詣シテ祭奠ヲナスト云フ」とあり、曲淵下野守景衡は享保十年(1725)十月十八日より同十二年(1727)七月六日まで甲府勤番支配であったので、その時のことであろう。
↧
南アルプスエコパーク 歴史資料 白須氏
白州町の歴史・史跡 白須氏(白州町誌)
一条源入時信が武川衆の祖にして、その第三子貞信が白須三郎を称したと記しておいたが、「寛政重修諸家譜」では次のように述べている。
家伝に其の先、新羅三郎義光の庶流にして一条上野介貞信がとき白須を称すという、「官本尊卑分脈」に武田太郎信義が男一条次郎忠頼あり、また武田大膳大夫信光が男に一条六郎信長みゆ、その子孫上野介貞信なるもの所見なし、としてこれを否定し、
按ずるに信光が子武田小五郎信政が四代の孫甲斐守貞信、その二男を上野介貞政という、家伝に上野介貞信というは、もしくは貞信・貞政父子の名を混ぜしかといい、しかれども貞信父子に一条の称号見えざることはうたがうべきもなきが故に、しばらくこれをしるして武田庶流の下に記す」として、一条時信を祖とする武川衆でなく、信長の兄信政の裔であるとしている。
「姓氏家系大辞典」では「清和源氏武田氏族、甲斐国北巨摩郡白須より起りしなるべし。
「武田系図」に甲斐守信長―八郎信綱―甲斐守時信―貞信(白須次郎)と見ゆ、
「一蓮寺過去帳」長禄元年に白須蔵人、
「太平記巻」三十一に(観応三年・文和元年 1352)白須上野守あり、此の族か。寛政系譜に白須氏二家を載せたり、其の家伝に一条上野介貞信の後なりという、家紋亀甲の内輪違」と述べている。
「甲斐国志士庶部」白須蔵人の項
府中一蓮寺ノ過去帳ニ法名ハ老阿、長禄元年(1457)十二月廿八日小河原合戦討死ノ内二見ユタリ、余ハ名ヲ全ク記セザレバ挙ゲス」と言っている。誠に不明な点が多いわけである。
しかし国志は他の資料によって、その事績を次のように述べている。
「太平記」観応三年ノ条二甲斐諸将ノ中白洲上野守アリ、軍鑑長篠ノ役典厩信豊モ馬乗ハ只三騎、慕フ敵ヲ追払ヒ追払退キ玉フ、「甲陽伝解」ニ白須又市、青木主計、横手源七郎三騎ナリ、始メノ返シニ主計ハ討死トアリ。
白須平次ハ又市ノ男、竹重信勝ノ小姓也。武家盛衰記ニ壬午ノ(天正10年)後幕府ニ召出サレシガ小姓衆卜口論アリテ御旗本ヲ立退キ、稲葉蔵人道通ニ依頼シ名ヲ又兵衛卜更メ後ニ家老トナル。関ケ原ノ時勢州岩手ニ於テ九鬼方堤荘蔵卜戦ヒテ功アリ、同藩種田喜左衛門ノ二男金三郎ヲ婿養子ニシテ白須十郎兵衛ト云ヒ、食禄五百石ヲ譲レリ。慶安中稲葉紀通ノ家断絶シテ白須ノ子孫ハ豊州(大分県)臼杵藩ニアリト云
↧
南アルプスエコパーク 資料 白州町歴史・史跡
白州町の歴史・史跡 中山砦(白州町誌)
「甲斐国志古跡部」
三吹・台力原二村ノ西ニ在り其ノ裏ハ横手村ナリ。北ニ尾白川、南ニ大武川ヲ帯タル孤山ノ嶺二万四、五十歩ノ塁形存セリ。半腹ニ陣ガ平卜云フ平地、又水汲場上空ノ処モアリ。麓ヨリ凡ソ三十町計リノ阪路ナリ…天正壬午御対陣ノ時ハ武川衆之ヲ警固ス。
「家忠日記」
八月廿九日ノ条、武川ノ士花水阪ニ戦ヒ北条ノ間者中沢某ヲ討取ル、山高宮内、柳沢兵部首級ヲ得ル。
「寛政重修諸家譜」
馬場美濃守信房の父「遠江守信保は武田信虎につかえ、甲斐国武川谷大賀原板小屋の城に任す」
信保の二男信頼(隼人)の子信久根小屋に任す・
その子信成(馬場民部)武田勝頼に仕え板小屋に任す。
戦国時代武川衆の拠点となり、武田勝頼の新府城の前衛として、また徳川家康にとっても北条氏直との戦いのため軍事上重要な位置にあった。この砦は中山の南北に延びる尾根状の山頂部南北七〇メートル、東西二〇メートルを利用して構築し、尾根の南と北側を掘り切り、その範囲を削平して四つの小郭を形成している。
山頂部には土塁に囲まれた二つの郭が南北に並んでいる。南端にある郭は一段下がって設けられており弧状を呈している。さらに下がって弧状の郭に沿って空濠と低い土塁をめぐらしている。東側には郭の下に二段から三段の帯郭がある。
この山麓の台ケ原寄りの尾白川段丘上を根古屋といい、中山砦に対する城下の住居地で、住時は集落をなし鎮守「荒尾神社」があつたが、のち人家は台ケ原(現在の集落)に移って、荒尾神社も大正三年台ケ原の田中神社境内に遷座された。
白州町の歴史・史跡 教来石民部址と鳥原屋敷跡(白州町誌)
「甲斐国志古跡部」
下教来石村ニ上屋敷、中屋敷、裏門ナドノ名存セリ、其ノ地ニ智井(枯井戸)モアリ、上教教石村ニモ同氏ノ居述トシテ内杭根、外杭根、裏門卜云フ地名アリ、又古碑アリ、明応三年庚寅ノ字ヲ見ル、古事ヲ知ラズ。
この地域では釜無川側を表と呼んでおり、下教来石の教来石氏居跡は、小字下木戸と屋敷裏との間、今の国道二〇号線付近にあつたのではないかと推定する。土地の人は教来石民部の生れたところと言っている。
その西鳥原にかけて、浦門、後林、三蔵(みぞう)矢ノ下、内屋敷などの小字や俗称馬飯場、殿畑、お城坂などの地名がある。教来石氏の鳥原屋敷は、下教来石から鳥原部落に行く道、鳥原部落北東の小高い所、殿畑にあったという。およそ一〇〇メートル四方の畑の南側と東側・西側に掘跡があるが、北側は確認できない。
白州町の歴史・史跡 城山(万燈火)(白州町誌)
鳥原の西、松山沢川の渓口に石尊神社がある。その南の山を万燈火といい、蜂火台があつたところといわれている。甲斐国志に鳥原ノ塁として「蓋シ煙火台ナリ、逸見筋笹尾ノ塁ニ抗衡シテ国境ニ備フト云フ」とあり、また笹尾塁跡の項 に「小渕沢・小荒間両道ノ番所へ各モ一里、上笹尾村ニ遠観番所アリ大井ガ森卜抗衡ス、西ノ方ハ武川筋鳥原ノ亭候ニ相並ンデ教来石ノ番所へモ一里余、皆諏訪ロ、大門嶺ロノ警衛ニアタル…塁二三重ニシテ甚ダ広カラズ、左右ノ山腹ニモ塁形存ス、本城高キ処五六十歩、南ニ下ルコト十五歩ニシテ洞穴アリ数十人ヲ容ルベシ、鐘ツリ穴卜名ヅク、此ニテ鐘ヲ鳴セバ鳥原ニテ太鼓ヲ打テ相応ズト云ヒ伝フ」とある。
甲信国境に近く、北方警備のためのみでなく武田の信濃侵攻のための警備や連絡の重要な拠点であつたといえる。笹尾の塁(標高七五九m)に対し鳥原の万燈火(城山、標高九四八m)は直線的に至近距離で相互に鳴り物で合図することは可能であつた。
この煙火台は、南は神官川、北は松山沢川の谷で、西は峰つづきで、東方が開けて笹尾と相対している。炉跡などはなく、城山の山頂から一段下った万燈火という辺りが番人小屋のあつたところと目されている。数年前まで木洞があり、往時は
提灯を点じて祭りが行われたと古老が語っていた。
白州町の歴史・史跡 馬場氏屋敷跡(白州町誌)
甲斐国志古跡部には「白須ノ字ヲ大庭卜云フ、其ノ下ニ殿町卜云フ処アリ、梨柏ノ老樹アルヲ園樹ナリト云ヒ伝フ」とある。白須に上屋敷という字があり、その西、国道より西が大庭、その南に俗称殿町という部落がある。今の若宮八幡神社の南に梨の大樹があったと古老が言うが、これが国志にある「梨柏ノ老樹、園樹」即ち屋敷内の大樹ではないか。その付近から古井戸と思われる大きな穴が発見されたり、その南に濠跡と思われる窪地があるという。そのあたり馬場氏が鳥原屋敷から移ってきて、この辺一帯を釆地としたころの館跡であると思われる。
白州町の歴史・史跡 横手氏居跡(白州町誌)
甲斐国志古跡部に「横手村芝地東西七町、南北十六町許り、又殿屋敷、故御所、馬場ト云フ石アリ、皆古事ヲ伝へズ、横手氏ノ居跡ナルベシ」とある。寛文十二年の検地帳に古御所、御殿原の小字がみえ、今も古御所、御殿の小字名があり、古御所の中に馬場ノ原と称する地名もある。
白州町の歴史・史跡 曲淵氏屋敷跡(白州町誌)
甲斐国志古跡部に「曲淵氏ノ古跡片嵐ニアリ、竪百間、横六十問許り、東ヲ端門トス。西南ハ釜無川ノ峻ニ臨ミ北ニ小深沢卜云フ河 アリ、コレ会スル所湾曲シテ深将トナル、曲淵ノ名此ニ出ズト云フ」とある。清泰寺の南、小深沢川が釜無 川に合流する左岸、花水部落の西村と称する辺が屋敷のあつたところと思われる。屋敷跡北隅の若宮八幡社は曲渕氏の屋敷神といわれている。
白州町の歴史・史跡 自元寺(白州町誌)
曹洞宗白砂山自元寺は清泰寺末、本尊阿弥陀如来。寺記に「馬場美濃守信房、天正三乙亥年開廟」とあり、由諸書に「信房法名乾里自元居士、天正乙亥年五月二十一日於三州長篠討死、生年六十三歳。日馬場二代民部少輔信忠法名信翁乾忠居士、信房嫡子信忠或は信春と云う、天正拾年三月於深志之城討死、自元寺過去帳に記す墓所有之。馬場三代民部少輔信義是は信忠の嫡子、此の人始めて家康に仕へ、法名等相見不申」。とある。
武川村三吹の長松山万休院も国志に「寺記ニ云フ、開基ハ馬場民部、万松院困岳埋円居士」とあり、寺記にも「開基之儀は武田之臣馬場民部に御座候事」とある。
白州町の歴史・史跡清泰寺(白州町誌)
霊長山清春寺は曹洞宗正覚寺末、本尊は薬師如来。
甲斐国志に「寺記ニ云フ黒源太清光ノ子逸見四郎清春ノ開基、始メ天台宗ナリ、文明六年心受英種中興シテ当宗トナル。
地頭曲淵荘左衛門吉景、広略院良屋玄張居士、文禄三年十一月二十三日没ス。
同縫殿左衛門吉清、元和五年九月朔日没ス、風仙宗徹居士。
同助之丞吉重、寛文十七年七月八日没ス、嘉岳宗英居士。
同助之丞某、寛文八年十二月十四日没ス、江西院旨山宗玄居士ト云フ、各々牌子アリ」と記している。
寺記には、
開基甲斐源氏之祖新羅三郎義光大治元丙午年開廟、只今境内ニ五輪之石塔有之供。開山山梨郡積翠寺村興困寺三世雲鷹玄俊和尚文明六甲午四月先宗天台退転ニ付禅曹洞宗起立。文禄年中当村住居武田家之臣曲淵勝左衛門、同縫殿左衛門、同助之丞三代共当寺ニ葬、只今二墓所有之。とある。
永禄弐年五月二日信玄の禁制、天正三年三月朔日勝頼禁制、慶長八年三月朔日徳川四奉行の禁制等があったが、宝暦元年十一月十一日火災のため講堂とともに焼失した。
清春寺の東の山を城山と呼んでいる。曲淵氏の砦があつたといわれている。
↧
↧
雪の白川郷
・
↧
南アルプスエコパーク 資料 南アルプスの山々
南アルプスエコパーク 資料 南アルプスの山々
『北巨摩郡誌』第十三編 史蹟・名勝・天然物 一部加筆
駒ヶ岳附 鋸岳、浅夜岳
牝瓦摩郡及長野鄙上伊那郡に跨る。『甲斐国志』には横手、台ケ原、白須諸村の西に在り、樵蘇する者山租若干を貢する。山上を甲信の界とす、大武川に沿って南の方山中に入ること若干里にして石室ニケ所あり、下を「勘五郎の石小屋」と呼び、上を「二條の石小屋」と呼ぶ。此れより上は絶壁数十丈にして攀授すべから、樵夫の山伐の者と雖も至らざる所なり。遠く望めば山頂巌窟の中に駒形権現を安置せる所あり、尾白川は山上より発し瀑布となり懸崖を下り級を拾ひ潭となる。是を千箇淵と名づく奇勝殊絶なり。釜無川、大武川、皆此山に発源する。又荻生徂徠の『峡中紀行』に、山之不毛者三成、似焦石畳起者、厳稜角歴々可数、形勢獰然、不似前此芙蓉峰笑容相迓者、相傳豊聰王所蓄駒、飲是渓而生、山上莫有祠宇、山□木客、往々而逢、以故土人不敢登、昔有一人、戇而勇、齎齎三月糧、以躡絶頂、有一老翁、相責曰、此上仙福地、非若曹所渉處、捽其髪、放厳下、則恍然巳在己家屋山後矣、云々と其の嶮峻想ふ可しである。其の標高駒ヶ岳は二、九六六米(九千七百八十七尺余)鋸岳二、六〇七米、浅夜岳二、七九九米、鞍掛山二、〇四七米、大岩山二、三一九米泉、烏帽子岳二、五九三米で、その地質は駒ケ岳は花崗岩其他は秩父成層である。
登山口
登山口の日野春駅よりするものは、猿帰坂(野猿)を降り武里村(武川町)牧原より駒城村横手(白州町)の前宮に到る。是れより森林中を登攀すること約二時間にして、路は「竹宇前宮」(駒ヶ岳神社)よりするものと合し、尚一時間半にして「笹の平」に出で黒戸山を越え、屏風岩に出づれば路は愈々峻嶮、鉄鎖に頼り梯を攀じ登って奇岩軽石の間を踏み、七丈小屋に達して宿す。翌日歴々たる厳稜を攀じて山嶺を極め、「摩利支天」を経て帰来する事を通例とする。
日野春駅より花水坂を下り、台ケ原に出ずるものは、竹宇前宮に到る二時間半にして笹の平に至り、前者と同一の道を取るのである。別に竹宇前宮より尾白川渓谷を溯る道が、菅原村山岳会によって開かれた此の道は飛瀑、激淵、奇巌、哨壁、実に其の奇勝天下に誇るべきものである。鼓瀧、旭瀧、葛葉岩、葛瀧、神蛇瀧、石室、不動瀧、不二岩、地獄瀧、天狗岩、長潭、瓢箪瀧、養老瀧、女夫瀧、梯子瀧、遠見瀧、噴水淵、三斜瀧、花岩、獅子岩、千丈瀧、雪渓等奇勝應接に遑なく、行程の進まざるを憂うのである。屏風岩に出で七丈の小屋に達す。前宮より七時間乃至九時間を要する。
小淵沢駅よりするものは、鳳来村松原の白砂青松山中の画中の人となり、前澤より竹宇に至る。
韮崎駅より自動車にて、武里村牧原より横手に出ずる路に依るも可である。
下山にあたり、赤河原に下り戸臺に出で美和村より高遠に一泊し、翌日伊那より辰野に出るか、或は金沢峠を越えて青柳駅に出ずる道を取ることも出来る。
鋸岳は、跋渉することは能はざる秘峰として知られているが、近年一級の通路が開かれた。之れに登學せんとするならば小淵沢駅より蔦木(長野県富士見町)に出で、鳳来村大武川より釜無川の渓谷を溯り、横岳峠より山稜を鋸岳に走るのである。南に有名の大裂罅がある、必ず案内者を雇はなければならぬ。
大岩山は、小引渫騨より鳳来村に出で、日向山、鞍掛山を越え大岩山に至る。それより烏帽子岳を経て駒ヶ岳を極め七丈の小屋に泊す。
浅夜岳は七丈小屋より駒ケ岳を極め、仙水峠へ下り浅夜に登るのである。これに登りたるものは早川尾根に露営するがよい。早川尾根には水ありて露営に適する。翌日同所を出で立ち赤薙澤を下りて駒域村に下る、赤薙繹の道は通行するもの殆んど無く険悪甚だしい。必ず案内を要するのである。
此等の山々の動植物の重なるものは、雷鳥、コヒオドシ、クモマベニヒカゲ、特に駒岳のハクロバイは奇品である。チングルマ、黒百合の大群落は珍とすべきである。
鳳凰山 地蔵岳 観音岳 薬師岳
北巨摩、中巨摩郡(北杜市・甲斐市・韮崎市・南アルプス市)に跨る。甲斐国志に、駒ヶ岳の東南に在って芦倉山の北稍々西に在り、東面を御座石山と称する。西は能呂川を隔てゝ白峰に対する、絶頂に高教丈の巌あり、遠く望めば人の状の如し、州人多くは誤認して是を地蔵ケ岳なりと云うことは非なり。鳳凰山権現の石祠あり、祭日は九月九日なり、神主の小池氏は柳繹村に住む。この山柳沢より西南に当る、是より山里にして一里にして雄山社に至り、また一里にして三本木の石祠に至り、又二里にして精進が滝に至る。此より峻嶺を攀じ登る事一里にして絶頂なり(中略)是より東南方に対峠する山を地蔵ケ岳という。相距ること一里弱、山脊少し低く、其の次を観音岳と云う。其の次を薬師岳と云う。地蔵よりここに至る一里に近し、皆東南に連りたる一脈の山なり云々。
参謀本部の地図
鳳風山を三山の総称とし、前掲の鳳凰山を地蔵として順次其の名稲を異にるする。
本県の統計書
鳳凰山及び地蔵岳は別峰で地域の方鳳凰より高い。此の名稲の錯雑は地方によって呼び方の異なりしより生じたのである。今此の名称を正さんには古地図の判決を待つを至当とする。幸いに柳澤、山高、黒澤の旧三村秘蔵の、寛延二年(1749)山論に関し、甲府代官の裁断を仰ぎたる大きさ六畳の替地踏査を経たる見取図がある。これによれば甲斐国志の説が正しく、参謀本部の地図が誤りで、左の通りである。
高嶺 2779m
鳳凰山 2770m
地蔵岳 2841m
観音岳 2762m
薬師岳 (乗鞍)(観音岳より低し)
地質は花崗岩で、この山々の絶頂二里余の間砂白く偃松群生し奇石怪巌崢立し海濱の景色がある。
登山口の韮崎駅より登る者は、清哲村青木より鷹の田、鳥居峠を越え青木鉱泉を寝所とするが便である。翌日早朝ドンドコ沢を登り、燕岩、南精進瀧、白糸瀧、一ノ木戸、五色瀧などをぎ、北御室に出で、鳳凰山に登り、南へ三山を縦走し、砂払いより小武川の渓に下り、青木鏡泉に泊まり、翌日韮崎に帰るのである。
日野春駅よりするものは、猿帰坂を降り武里村牧原より新富村黒坂、山高、を過ぎ、鳳凰山前宮より栃平に出で、精進瀧を質し、燕頭山に攀じ登り、北御室に露営するか、若くは賽の河原まで登りて露営し、鳳凰、地蔵、観音、薬師と縦走して青木鉱泉に泊まるか、若くは韮崎駅に出ることもできる。
鳳凰より高嶺に、更に北走して早川尾根に露営し浅夜岳を越え、仙水峠より駒岳七丈小屋に泊るも亦興味あるコースである。
此の山の動植物は略駒ヶ岳に似たもので、鉱物に銅鉄がある。
此の山の奇観は、鳳凰山嶺の相擁立せる二大巨石で其の高二百尺、実に北アルプスの槍岳尖峰と共に本邦の二大奇巌である。精進瀧は直下七十丈、鞳々(トウトウ)と洛下する光景仰ぎ見るべからず。納涼の夏、紅楓の秋、海内無双と称せられている。
千丈岳
中巨摩郡と長野県上伊那郡に跨る。標高小千丈、二、八五〇米、千丈岳、三、〇三〇米(一万八尺余)前千丈二、九三○米、地質は秩父古生層である。
登山口、日野春よりするものは、駒ヶ岳七丈小屋に宿し仙水峠北澤小屋野営、それより千丈を極め下山して帯び北澤小屋に宿し掃来する。更に横川岳を経て白峰三山を縦達するも妙である。
韮崎より登山するものは、鳳凰登山の如く北御室に野営し、地蔵岳を越えて野呂川広河原に出て両股に野営し、北繹尾根より千丈を極め下山北澤小屋に宿し、杖突峠を越え芦安村に泊り、韮崎に掃来する事を得る。
更に信州方面戸臺に下り美和村に出るのも可である。
動物には雷鳥、高山蝶の類多し。柄物の豊富なる事曰馬の如し。
タカネマンテマ、クロハナヘウタンボク、タカネシタ、ヒメハナワラビ、チシマヘウタンボク、殊に黒百合、タウヤクリンドウは著しく多く、植物の数約五目種と云う。
山頂に頗範的のカールあり、最も著名である。その展望の雄大なる南に塩見岳、荒川岳の雄姿を望み、東南には白峰三山雄大なる山岳美を遺憾なく発揮し、呼べば應ふる風情あり。東には鳳凰、地蔵の諸峰連亘し、駒ヶ岳、浅夜岳は東北より揖し、西方雲烟模糊の間に西駒を望み、更に御嶽より北アルプスの諸山は烟霞漂渺の間に綿亘するを見、脚下に絢爛崇高の花を躇み、口に満古の雪噛む時、実に登高家の、特権を遺憾なく接待せるを感ずるのである。
白峰三山
中巨摩郡及静岡県安倍郡に跨る。甲斐国志に曰く、この山本州第一の高山にして西方の地鎮たり。国風に朗詠の甲斐が根是にして白根の夕照は勅許八景の一なり、南北に連りて三峰あり、其の北方に最も高きものを指して専ら白峰と称す。中間嶺を隔てゝ武川筋芦倉村に属せり、奈良田村より絶頂に至る凡そ十里許り、正しく西に当れり、若し其絶頂に攣登せんと欲するものは必ず盛暑の時を以て候とす再宿して應に帰るべし。相伝う山上に日ノ神を祀る、其の像黄金を以て鋳る、長さ七寸許り、容れるに銅室を以てす。高さ二尺二寸、広さ方八寸、其の四隅に鈴を掛く風吹けば声あり、峰下一里半許りに瓢池と云うあり、長さ百五十歩、広さ八十歩許り、云々。
標高
北岳 3192m
間ノ岳 3189m
農島岳 3026m
小太郎山 2725m
地質はすべて秩父古成岩である。
登山口
日野春駅及韮崎駅り登山するものは、千丈岳登山の如く鳳凰山北御室に宿泊し、地域を越えて広河原に下り大樺池にて野営、北岳より間ノ岳小舎に野営、農鳥岳を越え下山して広河内より奈良田、西山温泉に泊り、あしならし峠(朝香宮殿下命名)山頂の茶屋より増穂柑青柳に出で甲府に至るのである。此のコースを逆に取るも可である。
白峰連峰は、田代川の渓谷其の西の大半を劃し、野呂川、早川、北西東を限り、赤石山脈の主脈と並行して北より南に走る偉大なる山塊で、千丈岳に立っての展望同様実に羽化登仙の感をなす。
動物
千丈岳と同じ、その植物に至つては随所に大群落を見る。而してあらゆる種類を網羅すると云っても過言ではない。殊にタカネマンテマ、ヒメクスユキサウ、ウラジロキンバイ、ミヤマダルマ、チンダルマ、シコタンサウ、タカネキンバイ、ヤマウバノクロガミ、シナノキンバイ等、奇品珍類に満ちている。
七里岩
七里岩は八ヶ岳の噴出した熔岩を釜無川が浸蝕して為し、七里に亘る峻壁が、諏訪郡下蔦木村の界より東南に延びて韮崎に至る高さ十数丈、其釜無川に対する所は巌骨を露し、上田は平地で田野村落がある。東方は又塩川に洗はれ藤井諸村では片山と云う。除損の簸ける新府も此の奇勝地にある道路の重なるものは、蓬莱村教来石より小淵駅に通ずるもの、台ケ原より清春村を経て長坂駅に至るもの、台ケ原より花水坂を経て日野春駅に至るもの、牧ノ原より猿帰坂を経て日野春駅に至るもの、円野村より穴山駅に至るもの、祖母石村より中田村上野に至るもの、韮崎町より逸見台地に通ずる青坂あり、いずれも嶮しい。「女落とし岩」は七里岩中最も高き巌壁で牧ノ原の東にあり、其の北に烏帽子岩あり、其の下に
方三四間の巌窟あり、道士穴と云う。昔一禅僧、この窟に座禅し其の附近の沢に身を投じて滅を取りしと伝う。礬石洞は穴山村の西の中腹にあり。祖母石(ウバイシ)は其の名の如く祖母石村にあり、高さ一丈余り、周り十二間、其の形老姫の願いを支て座するに似たる奇石である。大士洞は韮崎町即ち此の岩の末端にあわ、別にこれを記載せり。
『北巨摩郡誌』第十三編 史蹟・名勝・天然物 一部加筆
駒ヶ岳附 鋸岳、浅夜岳
牝瓦摩郡及長野鄙上伊那郡に跨る。『甲斐国志』には横手、台ケ原、白須諸村の西に在り、樵蘇する者山租若干を貢する。山上を甲信の界とす、大武川に沿って南の方山中に入ること若干里にして石室ニケ所あり、下を「勘五郎の石小屋」と呼び、上を「二條の石小屋」と呼ぶ。此れより上は絶壁数十丈にして攀授すべから、樵夫の山伐の者と雖も至らざる所なり。遠く望めば山頂巌窟の中に駒形権現を安置せる所あり、尾白川は山上より発し瀑布となり懸崖を下り級を拾ひ潭となる。是を千箇淵と名づく奇勝殊絶なり。釜無川、大武川、皆此山に発源する。又荻生徂徠の『峡中紀行』に、山之不毛者三成、似焦石畳起者、厳稜角歴々可数、形勢獰然、不似前此芙蓉峰笑容相迓者、相傳豊聰王所蓄駒、飲是渓而生、山上莫有祠宇、山□木客、往々而逢、以故土人不敢登、昔有一人、戇而勇、齎齎三月糧、以躡絶頂、有一老翁、相責曰、此上仙福地、非若曹所渉處、捽其髪、放厳下、則恍然巳在己家屋山後矣、云々と其の嶮峻想ふ可しである。其の標高駒ヶ岳は二、九六六米(九千七百八十七尺余)鋸岳二、六〇七米、浅夜岳二、七九九米、鞍掛山二、〇四七米、大岩山二、三一九米泉、烏帽子岳二、五九三米で、その地質は駒ケ岳は花崗岩其他は秩父成層である。
登山口
登山口の日野春駅よりするものは、猿帰坂(野猿)を降り武里村(武川町)牧原より駒城村横手(白州町)の前宮に到る。是れより森林中を登攀すること約二時間にして、路は「竹宇前宮」(駒ヶ岳神社)よりするものと合し、尚一時間半にして「笹の平」に出で黒戸山を越え、屏風岩に出づれば路は愈々峻嶮、鉄鎖に頼り梯を攀じ登って奇岩軽石の間を踏み、七丈小屋に達して宿す。翌日歴々たる厳稜を攀じて山嶺を極め、「摩利支天」を経て帰来する事を通例とする。
日野春駅より花水坂を下り、台ケ原に出ずるものは、竹宇前宮に到る二時間半にして笹の平に至り、前者と同一の道を取るのである。別に竹宇前宮より尾白川渓谷を溯る道が、菅原村山岳会によって開かれた此の道は飛瀑、激淵、奇巌、哨壁、実に其の奇勝天下に誇るべきものである。鼓瀧、旭瀧、葛葉岩、葛瀧、神蛇瀧、石室、不動瀧、不二岩、地獄瀧、天狗岩、長潭、瓢箪瀧、養老瀧、女夫瀧、梯子瀧、遠見瀧、噴水淵、三斜瀧、花岩、獅子岩、千丈瀧、雪渓等奇勝應接に遑なく、行程の進まざるを憂うのである。屏風岩に出で七丈の小屋に達す。前宮より七時間乃至九時間を要する。
小淵沢駅よりするものは、鳳来村松原の白砂青松山中の画中の人となり、前澤より竹宇に至る。
韮崎駅より自動車にて、武里村牧原より横手に出ずる路に依るも可である。
下山にあたり、赤河原に下り戸臺に出で美和村より高遠に一泊し、翌日伊那より辰野に出るか、或は金沢峠を越えて青柳駅に出ずる道を取ることも出来る。
鋸岳は、跋渉することは能はざる秘峰として知られているが、近年一級の通路が開かれた。之れに登學せんとするならば小淵沢駅より蔦木(長野県富士見町)に出で、鳳来村大武川より釜無川の渓谷を溯り、横岳峠より山稜を鋸岳に走るのである。南に有名の大裂罅がある、必ず案内者を雇はなければならぬ。
大岩山は、小引渫騨より鳳来村に出で、日向山、鞍掛山を越え大岩山に至る。それより烏帽子岳を経て駒ヶ岳を極め七丈の小屋に泊す。
浅夜岳は七丈小屋より駒ケ岳を極め、仙水峠へ下り浅夜に登るのである。これに登りたるものは早川尾根に露営するがよい。早川尾根には水ありて露営に適する。翌日同所を出で立ち赤薙澤を下りて駒域村に下る、赤薙繹の道は通行するもの殆んど無く険悪甚だしい。必ず案内を要するのである。
此等の山々の動植物の重なるものは、雷鳥、コヒオドシ、クモマベニヒカゲ、特に駒岳のハクロバイは奇品である。チングルマ、黒百合の大群落は珍とすべきである。
鳳凰山 地蔵岳 観音岳 薬師岳
北巨摩、中巨摩郡(北杜市・甲斐市・韮崎市・南アルプス市)に跨る。甲斐国志に、駒ヶ岳の東南に在って芦倉山の北稍々西に在り、東面を御座石山と称する。西は能呂川を隔てゝ白峰に対する、絶頂に高教丈の巌あり、遠く望めば人の状の如し、州人多くは誤認して是を地蔵ケ岳なりと云うことは非なり。鳳凰山権現の石祠あり、祭日は九月九日なり、神主の小池氏は柳繹村に住む。この山柳沢より西南に当る、是より山里にして一里にして雄山社に至り、また一里にして三本木の石祠に至り、又二里にして精進が滝に至る。此より峻嶺を攀じ登る事一里にして絶頂なり(中略)是より東南方に対峠する山を地蔵ケ岳という。相距ること一里弱、山脊少し低く、其の次を観音岳と云う。其の次を薬師岳と云う。地蔵よりここに至る一里に近し、皆東南に連りたる一脈の山なり云々。
参謀本部の地図
鳳風山を三山の総称とし、前掲の鳳凰山を地蔵として順次其の名稲を異にるする。
本県の統計書
鳳凰山及び地蔵岳は別峰で地域の方鳳凰より高い。此の名稲の錯雑は地方によって呼び方の異なりしより生じたのである。今此の名称を正さんには古地図の判決を待つを至当とする。幸いに柳澤、山高、黒澤の旧三村秘蔵の、寛延二年(1749)山論に関し、甲府代官の裁断を仰ぎたる大きさ六畳の替地踏査を経たる見取図がある。これによれば甲斐国志の説が正しく、参謀本部の地図が誤りで、左の通りである。
高嶺 2779m
鳳凰山 2770m
地蔵岳 2841m
観音岳 2762m
薬師岳 (乗鞍)(観音岳より低し)
地質は花崗岩で、この山々の絶頂二里余の間砂白く偃松群生し奇石怪巌崢立し海濱の景色がある。
登山口の韮崎駅より登る者は、清哲村青木より鷹の田、鳥居峠を越え青木鉱泉を寝所とするが便である。翌日早朝ドンドコ沢を登り、燕岩、南精進瀧、白糸瀧、一ノ木戸、五色瀧などをぎ、北御室に出で、鳳凰山に登り、南へ三山を縦走し、砂払いより小武川の渓に下り、青木鏡泉に泊まり、翌日韮崎に帰るのである。
日野春駅よりするものは、猿帰坂を降り武里村牧原より新富村黒坂、山高、を過ぎ、鳳凰山前宮より栃平に出で、精進瀧を質し、燕頭山に攀じ登り、北御室に露営するか、若くは賽の河原まで登りて露営し、鳳凰、地蔵、観音、薬師と縦走して青木鉱泉に泊まるか、若くは韮崎駅に出ることもできる。
鳳凰より高嶺に、更に北走して早川尾根に露営し浅夜岳を越え、仙水峠より駒岳七丈小屋に泊るも亦興味あるコースである。
此の山の動植物は略駒ヶ岳に似たもので、鉱物に銅鉄がある。
此の山の奇観は、鳳凰山嶺の相擁立せる二大巨石で其の高二百尺、実に北アルプスの槍岳尖峰と共に本邦の二大奇巌である。精進瀧は直下七十丈、鞳々(トウトウ)と洛下する光景仰ぎ見るべからず。納涼の夏、紅楓の秋、海内無双と称せられている。
千丈岳
中巨摩郡と長野県上伊那郡に跨る。標高小千丈、二、八五〇米、千丈岳、三、〇三〇米(一万八尺余)前千丈二、九三○米、地質は秩父古生層である。
登山口、日野春よりするものは、駒ヶ岳七丈小屋に宿し仙水峠北澤小屋野営、それより千丈を極め下山して帯び北澤小屋に宿し掃来する。更に横川岳を経て白峰三山を縦達するも妙である。
韮崎より登山するものは、鳳凰登山の如く北御室に野営し、地蔵岳を越えて野呂川広河原に出て両股に野営し、北繹尾根より千丈を極め下山北澤小屋に宿し、杖突峠を越え芦安村に泊り、韮崎に掃来する事を得る。
更に信州方面戸臺に下り美和村に出るのも可である。
動物には雷鳥、高山蝶の類多し。柄物の豊富なる事曰馬の如し。
タカネマンテマ、クロハナヘウタンボク、タカネシタ、ヒメハナワラビ、チシマヘウタンボク、殊に黒百合、タウヤクリンドウは著しく多く、植物の数約五目種と云う。
山頂に頗範的のカールあり、最も著名である。その展望の雄大なる南に塩見岳、荒川岳の雄姿を望み、東南には白峰三山雄大なる山岳美を遺憾なく発揮し、呼べば應ふる風情あり。東には鳳凰、地蔵の諸峰連亘し、駒ヶ岳、浅夜岳は東北より揖し、西方雲烟模糊の間に西駒を望み、更に御嶽より北アルプスの諸山は烟霞漂渺の間に綿亘するを見、脚下に絢爛崇高の花を躇み、口に満古の雪噛む時、実に登高家の、特権を遺憾なく接待せるを感ずるのである。
白峰三山
中巨摩郡及静岡県安倍郡に跨る。甲斐国志に曰く、この山本州第一の高山にして西方の地鎮たり。国風に朗詠の甲斐が根是にして白根の夕照は勅許八景の一なり、南北に連りて三峰あり、其の北方に最も高きものを指して専ら白峰と称す。中間嶺を隔てゝ武川筋芦倉村に属せり、奈良田村より絶頂に至る凡そ十里許り、正しく西に当れり、若し其絶頂に攣登せんと欲するものは必ず盛暑の時を以て候とす再宿して應に帰るべし。相伝う山上に日ノ神を祀る、其の像黄金を以て鋳る、長さ七寸許り、容れるに銅室を以てす。高さ二尺二寸、広さ方八寸、其の四隅に鈴を掛く風吹けば声あり、峰下一里半許りに瓢池と云うあり、長さ百五十歩、広さ八十歩許り、云々。
標高
北岳 3192m
間ノ岳 3189m
農島岳 3026m
小太郎山 2725m
地質はすべて秩父古成岩である。
登山口
日野春駅及韮崎駅り登山するものは、千丈岳登山の如く鳳凰山北御室に宿泊し、地域を越えて広河原に下り大樺池にて野営、北岳より間ノ岳小舎に野営、農鳥岳を越え下山して広河内より奈良田、西山温泉に泊り、あしならし峠(朝香宮殿下命名)山頂の茶屋より増穂柑青柳に出で甲府に至るのである。此のコースを逆に取るも可である。
白峰連峰は、田代川の渓谷其の西の大半を劃し、野呂川、早川、北西東を限り、赤石山脈の主脈と並行して北より南に走る偉大なる山塊で、千丈岳に立っての展望同様実に羽化登仙の感をなす。
動物
千丈岳と同じ、その植物に至つては随所に大群落を見る。而してあらゆる種類を網羅すると云っても過言ではない。殊にタカネマンテマ、ヒメクスユキサウ、ウラジロキンバイ、ミヤマダルマ、チンダルマ、シコタンサウ、タカネキンバイ、ヤマウバノクロガミ、シナノキンバイ等、奇品珍類に満ちている。
七里岩
七里岩は八ヶ岳の噴出した熔岩を釜無川が浸蝕して為し、七里に亘る峻壁が、諏訪郡下蔦木村の界より東南に延びて韮崎に至る高さ十数丈、其釜無川に対する所は巌骨を露し、上田は平地で田野村落がある。東方は又塩川に洗はれ藤井諸村では片山と云う。除損の簸ける新府も此の奇勝地にある道路の重なるものは、蓬莱村教来石より小淵駅に通ずるもの、台ケ原より清春村を経て長坂駅に至るもの、台ケ原より花水坂を経て日野春駅に至るもの、牧ノ原より猿帰坂を経て日野春駅に至るもの、円野村より穴山駅に至るもの、祖母石村より中田村上野に至るもの、韮崎町より逸見台地に通ずる青坂あり、いずれも嶮しい。「女落とし岩」は七里岩中最も高き巌壁で牧ノ原の東にあり、其の北に烏帽子岩あり、其の下に
方三四間の巌窟あり、道士穴と云う。昔一禅僧、この窟に座禅し其の附近の沢に身を投じて滅を取りしと伝う。礬石洞は穴山村の西の中腹にあり。祖母石(ウバイシ)は其の名の如く祖母石村にあり、高さ一丈余り、周り十二間、其の形老姫の願いを支て座するに似たる奇石である。大士洞は韮崎町即ち此の岩の末端にあわ、別にこれを記載せり。
↧
甲斐俳人・北原台眠は北原市之光久(白州町台ケ原)
甲斐俳人・北原台眠は北原市之光久(白州町台ケ原)
池原錬昌氏著『甲斐俳壇と芭蕉の研究』一部加筆
昭和四十二年、甲府市、橋田家(よう、当主登氏)に格差してあった芭蕉のソラ宛手紙(元禄七年五月十六日付)が新出したが、その折、蘭更の曽良庵文輔宛(上諏訪の俳人)の手紙もみつかった。この間更の手紙は芭蕉の遺髪について述べてあり、資料価値の高い内容であった。その内容については当書、第一章「芭蕉の遺髪と落歯」で述べた通りである。
この稿は、この手紙の末尾に登場してくる〈台眠〉という地方俳人について述べたい。
手紙の走り書の文中、(台眠〉の「台」の字がひどく崩してあり、どうしても私には解読できなかった。困りはてた私は、いつも解読のご指導を仰いでいる森川昭先生に手紙の写真をお送りし教示を乞うた。折返し、返信をいただき〈台眠〉なる人名であることを知らせていただいた。手紙の台眠についての個所を示すと左の通りである。
堂藁ふき間もなきに朽中候まゝ、かゝるものにて葺替可致慎まゝ、台眠なともそのかたへ集被遣可被下このかたへは一向ととき不中候
この台眠は如何なる俳人か? 何処の俳人か? 如何なる句をのこしているか? そのあらましを知りたい、と私はった。次いで、私は閣更関係の京都の芭蕉堂主、岩井博美氏に台眠について教示を求めた。しばらくして、岩井氏から返信が届き、台眠は花供養』に寛政五年と同七年に一句ずつ、入集していることを教えてくださった。左記すると、
折さしと火のとはれけり夜の花 台ケ原 台眠
日つもりや見尽しかたき雨の花 台ケ原 台眠
下段(台ケ原 台眠)の文字をみたとたん、私はひどく嬉しかった。台ケ原は甲斐、北巨摩郡(北杜市)白州町に所在する「字名」だからだ。台ケ原は素堂の生地、教来石(正しくは山口)にも近い。屹立した甲斐駒ケ嶽を前面に望み、信州と甲斐の県境にも遠くない。又、台ケ原は甲州の銘酒『七賢』の酒醸元、北原新次氏の居宅と工場あることでも知られている。私は十年程まえ、辻嵐外の手紙や遺墨を拝見のため、市川文蔵氏(甲州十五人衆の一人で北原家とは姻戚関係)に同伴、北原家を訪れたことがある。
で、まず、北原家に電話、台眠をご存じや否や、お尋ねした。と、当主、新次氏は
「台眠はわが家の四代目の当主にあたり、墓碑の裏面には発句も彫りつけてある」
との回答を得た。私の自坊から台ケ原迄は車七約四十分余の距離がある。私はさっそく、春雷誌友、栗原康浩氏の串を煩わし、北原家を再度訪れた。北原家玄関左脇正面には「文部省」と筆太に銘記した木札が建っている。
説明
明治十三年六月、山梨、三重、京都御巡幸の際、同月二十二日、行在所となりたる処にして、
主要部分はよく旧規を存せり。
注意
一、火気に注意する事
一、工作物樹木等を損傷せぎる事
昭和十年二月 文部省
この日、私達は当主、北原新次氏のご案内で北原家墓地を調査、主要墓碑の拓本をとり、また、家系図をみせてもらった。次で当家収蔵の俳諧資料のあれこれを拝見した。この折、当主、北原新次氏は台眠が北原家四代の祖、北原伊兵衛、諒、延辰なる人物と言われた。墓碑の法号は「昌壽院永屋良全居士」文政十三年(1830)正月中七日卒、北原伊兵衛延辰行年四十一歳)ときざまれている。裏面の辞世句は
盃の□りかけんやふしの山 (□=不明)
としるしてある。
当主北原新次氏が伊兵衛延辰は〈台眠〉であると言われたのは、それはそれで拠りどころがあってのことである。というのは『峡中俳家列伝』(明治三十九年八月十三日刊行、著者、佐藤二葉)や「北原家家系図」の書入れ(この書入れは後人の筆による)に「台眠は伊兵衛詩延辰」と記載されているからである。
さて、以後の推論は森川先生のご指導を得ながら追跡した台眠のありようである。ところで、『甲州文庫俳諧目録』 には台眠撰の『にふなひ鳥』の一冊(十八丁)がある。この刊行は、寛政十一年(1779)末八月で書林は京四条通河原町西へ入丁 勝田喜右衛門」とあり(瀧亭臺撰)と銘記してある。但し、(台眠)の眠を王篇の()としてあり異同がある。この点はなお追跡の余地があるがそのことは暫く置く。ここに、台梶が寛政十一年八月に『にふなひ鳥』を刊行したのだから、この年次を起点として時代推定を進めると次のような結果となる。
台は文政十三年(1830)一月七日卒で行年、四十一歳だから逆算すると寛政二年(1790)生れとなる。とすると、
『にふなひ鳥』刊行の寛政十一年(1799)は伊兵衛延辰はわずか九歳の年齢である。九歳で俳書刊行は不自然で考えられない。『にふなひ鳥』の序文は可部里で格調ある文章を寄せ、成美、道彦、巣兆、士朗などその頃の著名俳人が入集している。これだけの撰集を九歳の若輩がなしえられる筈がない。
次に、北原家墓域群の中にそのものズバリの(台眠院鳳翁光明居士)(万延二年(1861)二月二十一日歿、行年六十二歳)の墓がある。逆算すると、この台眠は寛政十一年(1799)生れとなる。『にふなひ鳥』刊行の当年となる。これ又、該当しない。玄に北原台眠を追跡するため、北原家家系図を図示すると左の通りである。
初代 北原伊兵衛光義
寛延三庚午年(1750)甲州台ケ原へ酒造ヲ姶メテ分家ヲ出該家ヲ見継ク。
明和九辰年(1772)十月三十日当家ニ於テ卒年五十三、法名、道本院卜号ス。
✕二代 北原久蔵延貞
寛政七乙卯年(1795)七月二十七日卒、法名、良壽院
〇 北原市之光久
北原光義嫡男
延辰、幼少ナルヲ以テ後見セシム。
文化十二乙亥(1815)七月二日卒。享年六十八歳。法名、徳寺院
×四代 北原伊兵衛延辰
二代延貞嫡男
文政十三年庚寅(1830)正月中七日卒。行年四十歳ニシテ卒。法名昌壽院卜号ス。
松平丹波守、諏訪因幡守、御用相勤テ功アリ。
文化九申(1812)八月信州高遠殿垣外北原正太夫ノ弟ヲ当地ニ迎、当家ヨリ分家セシム。(俳号ヲ台眠)ト云。
【註】(池原曰、誤記ナラン)×印は否定 ○印は該当者ならんか。
右、系図を年次割出しで検討すると、北原家三代の久蔵延貞も、四代伊兵衛延辰も、分家元祖八兵衛(台眠院)も『にふなひ鳥』撰者の北原台ではないこととなる。ただ、四代延辰を後見した、北原市之光久(台ケ原、初代、北原伊兵衛光義の嫡男)が逆算すると寛延元年(一七四八)生れとなり『にふなひ鳥』刊行の折は五十二歳に当り不自然ではない。とすると、北原市之光久が台ではなかろうか。
森川先生も市之光久を注目された。
闌更の没年は寛政十年(1798)五月三日である。闌更は文輔宛の手紙で台眠にふれていることは前述した通りだが、この状は晩年の筆と思われる。文中「近年は横身がちにて」 の表現はそのようにうけとれる。没年にちかいとすれば寛政十年よりいくばくか前の手紙とみていいだろう。従って台眠()四十七、八歳ごろにあたるのではないだろうか。
茲に『峡中俳家伝』の誤記は訂正せねばならぬ、と思う。
終りに『甲斐文庫史料 第八巻 甲斐俳諧編』に該当、『にふなひ鳥 滝亭台撰』が翻刻されているので可都里の序文、台発句、盛徳(脇)、可都里(第三)と次で台眠、可都里の歌仙を示しておく。
にふなひ鳥 滝亭台眠撰(十八丁)
それ俳諧は、こころの色なり。たとへは月草のものに移ろひやすく、かゝみの影のよくものをうつすかことし。それか中に、不易あり流行あり、且しはらくもとゝまらす、さたむるともさためかたきは、かの造物者の無尽蔵なれはなるへし。かくて目にさへきり、みゝにとゝろき、こゝろに感する事あれは、おふけなくも、天骨なくも、ことの葉の色に染出るわさなりけり。されは尾張の士朗はなたねの花に、小すゝめの背をそめて、其よしはひとく鳥に見えたり、流行の色をあらはし、これの台はほとゝきすの音にむら雨をそゝきて、不易の心を染出せり。さてその雨そゝきの、あさらなる色をはしめとして、遠き近き人々の、花紅葉のめてたきいろいろ、蝶鳥のあはれなる風情まて、おのかこゝろのまにまに、やをらかいあつめて、ひといろの巻となしつ、そもやこのはいかいの色をこのまさらん人は、たまのさかつきのそこなきかことくならむかしと、わらふてふと手をそむるのみ。
さねかつらの可都里しるす
にふなひ鳥
霍公鳥むら雨かゝる遠音哉 台
月ともいはぬ山あいの夏 盛徳
笠縫かゆふけの莚冷ぬらむ 可都里
以下略
歌仙
大かたの月夜にあへりうめのはな 可都里
* うくいすの身はしつかなりけり 台
四つ五器をそろゆる春に住つきて 里
* 行ともとると橋の二すち
* かきつはた市の中よりひらきかけ 〃
手のひらに降むら雨をみる 里
旅人をあすは隔てん伊駒山 〃
* 楠のはつれに鳴は何鐘
くれくれと下手に出来たる張火桶 里
* 連歌の恋にせめられるゝ身は
翠簾の香の右へ除れは左より 里
* 月の夕霧ほかほかとたつ
引板鳴子静に里をさわかせて 里
* 地蔵ほさつの眼もあかぬ秋
又六に損をかけたる雨のくれ 里
* 琵琶もつ足のたゆむ舟はた
一重山ふたつの中のたゆむ舟はた 里
* ひはりの啼ぬ曙はなし
* 我庵はちいさけれとも春かすみ
盗人後世の縁にひかるゝ 里
* 玉川の水をいくつも飲くらへ
炬のあかりに卯の花かちる 里
* 惚くと夏にすゝめる菅蓑や
信夫の氏をつゝむかなしさ 里
* 念仏を聞く鷺の眠るらむ
浪を相手に生のひる人 里
* 朝顔のことさらはやき志賀の京
早稲の餅つくさかり也けり 里
* 澄きって五夜も六夜も秋の月
こゝろかよれは鉢たゝく僧 里
土器を踏つふしたる這入口 里
* 馬を負せし花の大枝
* 長閑なるおとゝの姿おかみけり
宇治の朝日に夏かちかつく 里
声は駒鳥ならす鶯ならす 〃
* にふなひ鳥といふは渡鳥
滝亭台 撰 寛政十一年未八月
京四条通河原町西へ八丁 書林 勝田喜右衛門
〔北原臺眠〕
臺眠は現在の白州町の台ケ原集落(合併により北杜市白州町台ケ原となる)の生んだ俳人であり、当時の著名俳人とも交流が深く、それは伝えられる以上のものがある。北原家は江戸時代の寛延二年(1749)頃、信濃の高遠から移住して造酒屋を営んだのにはじまり、(「家譜」/村役人連署「差上申済御証文之事」)現在山梨名醸として現在に至っている。
家の作りも抜きん出ていて、切妻中二階式の大型町屋で山梨県教育委員会で発行してい
る『山梨県の民家』に詳しく報告されている。幕末には信濃諏訪高島藩の御用商人となり、窮乏する高島藩の為に千六百二十五両を用立てた証文を蔵して居られる。
また長野県の『富士見町誌』には産米を北原伊兵衛宅に納めた記録が残っている。
天保十二年の家の古図によれば醤油の醸造、明治には北原銀行も開設している。また中の間と書院境の彫刻欄間の主題は「竹林七賢」で立川流の名工立川富種の作で諏訪高島
主より贈られたと伝えられている。先の『山梨県の民家』では、「全国的に見ても第一級の幕末大型町屋といってよい」と絶賛している。
また山梨名醸の造酒「七賢」は山梨県を代表する銘柄であり、蔵出し始め多くの愛好者が訪れていて、休息や食事もできる「台眠」も人気がある。今回はこの「臺眠」についての調査報告である。
〔塚原甫秋〕
一方の塚原圃秋については断片的な資料しかなく、いずれ本格的に調査を開始するつもりである。今回はこれまでの少ない調査資料から提示する。
〔諸書に伝えられる台(臺)眠・臺(たいみん・だいみん)〕
1、『峡中俳家列傳』(『甲斐史料集成』第十一巻所収 明治三十八年刊)
北巨摩郡菅原村の臺ケ原と云ふ處に北原仁と云ふ酒造家がある。其の七代前の遠祖に通稱伊兵衛、諱は延辰と云ふ人があった。
嵐外(辻氏)に就て俳諧を學び號を臺眠と稱へた。師弟の情が最も濃やかであったから嵐外は閑暇があれば常に臺眠の下に遊びに行って居た。
夫れで嵐外が常に携へて居た如意を記念の為に此家へ留めて置たが、其れが臺眠手より他の手へ、他の手よりまた他の手へ幾変転した末に、當時峡中詩壇の飛将軍たる狩穂の舎主人小澤眼石翁に傳はったのである。
文政十三年(1830・天保元年十二月十日改元)不惑を超ふる事僅に一歳(41才)にして逝かれた。龍福寺畔荘嚴なる碑石が此の人の永眠の地に建てられてあるが、此の碑石は実に永遠に此の人の俳名と其の富豪とを語るべき不文の歴史であらふ。それで此の人の作として傳はれるものは実に左の數句に過ないのである。
目の及ぶだけを櫻の曇り哉
時鳥引返そふか筑波山
暮るゝほど心こもるぞ菫草
山里や包むもの無き冬の月
《筆註》
一部記載違いがあるがここでは省く。(通稱伊兵衛、諱は延辰は年齢的に台眠ではない)
2、『甲州俳人傳』 (昭和七年四月刊。功刀亀内著)
北原臺眠
北巨摩郡菅原村臺ケ原の人。通称伊兵衛延辰。雪亭葛里の教で俳諧を学び、その門下高弟の一人なり。又辻嵐外と交遊浅からず、峡北の□匠なり。瀧亭臺眠と号す。文政十三年正月七日歿す。同村龍福寺に葬る。著書 「にふなふ鳥」一冊。寛政十一年八月刊行。五味可都里序文
《筆註》この亀内の『甲州俳人伝』は現在も『甲州文庫』と共に引用される書であるが、多少の間違いもある。
池原錬昌氏著『甲斐俳壇と芭蕉の研究』一部加筆
昭和四十二年、甲府市、橋田家(よう、当主登氏)に格差してあった芭蕉のソラ宛手紙(元禄七年五月十六日付)が新出したが、その折、蘭更の曽良庵文輔宛(上諏訪の俳人)の手紙もみつかった。この間更の手紙は芭蕉の遺髪について述べてあり、資料価値の高い内容であった。その内容については当書、第一章「芭蕉の遺髪と落歯」で述べた通りである。
この稿は、この手紙の末尾に登場してくる〈台眠〉という地方俳人について述べたい。
手紙の走り書の文中、(台眠〉の「台」の字がひどく崩してあり、どうしても私には解読できなかった。困りはてた私は、いつも解読のご指導を仰いでいる森川昭先生に手紙の写真をお送りし教示を乞うた。折返し、返信をいただき〈台眠〉なる人名であることを知らせていただいた。手紙の台眠についての個所を示すと左の通りである。
堂藁ふき間もなきに朽中候まゝ、かゝるものにて葺替可致慎まゝ、台眠なともそのかたへ集被遣可被下このかたへは一向ととき不中候
この台眠は如何なる俳人か? 何処の俳人か? 如何なる句をのこしているか? そのあらましを知りたい、と私はった。次いで、私は閣更関係の京都の芭蕉堂主、岩井博美氏に台眠について教示を求めた。しばらくして、岩井氏から返信が届き、台眠は花供養』に寛政五年と同七年に一句ずつ、入集していることを教えてくださった。左記すると、
折さしと火のとはれけり夜の花 台ケ原 台眠
日つもりや見尽しかたき雨の花 台ケ原 台眠
下段(台ケ原 台眠)の文字をみたとたん、私はひどく嬉しかった。台ケ原は甲斐、北巨摩郡(北杜市)白州町に所在する「字名」だからだ。台ケ原は素堂の生地、教来石(正しくは山口)にも近い。屹立した甲斐駒ケ嶽を前面に望み、信州と甲斐の県境にも遠くない。又、台ケ原は甲州の銘酒『七賢』の酒醸元、北原新次氏の居宅と工場あることでも知られている。私は十年程まえ、辻嵐外の手紙や遺墨を拝見のため、市川文蔵氏(甲州十五人衆の一人で北原家とは姻戚関係)に同伴、北原家を訪れたことがある。
で、まず、北原家に電話、台眠をご存じや否や、お尋ねした。と、当主、新次氏は
「台眠はわが家の四代目の当主にあたり、墓碑の裏面には発句も彫りつけてある」
との回答を得た。私の自坊から台ケ原迄は車七約四十分余の距離がある。私はさっそく、春雷誌友、栗原康浩氏の串を煩わし、北原家を再度訪れた。北原家玄関左脇正面には「文部省」と筆太に銘記した木札が建っている。
説明
明治十三年六月、山梨、三重、京都御巡幸の際、同月二十二日、行在所となりたる処にして、
主要部分はよく旧規を存せり。
注意
一、火気に注意する事
一、工作物樹木等を損傷せぎる事
昭和十年二月 文部省
この日、私達は当主、北原新次氏のご案内で北原家墓地を調査、主要墓碑の拓本をとり、また、家系図をみせてもらった。次で当家収蔵の俳諧資料のあれこれを拝見した。この折、当主、北原新次氏は台眠が北原家四代の祖、北原伊兵衛、諒、延辰なる人物と言われた。墓碑の法号は「昌壽院永屋良全居士」文政十三年(1830)正月中七日卒、北原伊兵衛延辰行年四十一歳)ときざまれている。裏面の辞世句は
盃の□りかけんやふしの山 (□=不明)
としるしてある。
当主北原新次氏が伊兵衛延辰は〈台眠〉であると言われたのは、それはそれで拠りどころがあってのことである。というのは『峡中俳家列伝』(明治三十九年八月十三日刊行、著者、佐藤二葉)や「北原家家系図」の書入れ(この書入れは後人の筆による)に「台眠は伊兵衛詩延辰」と記載されているからである。
さて、以後の推論は森川先生のご指導を得ながら追跡した台眠のありようである。ところで、『甲州文庫俳諧目録』 には台眠撰の『にふなひ鳥』の一冊(十八丁)がある。この刊行は、寛政十一年(1779)末八月で書林は京四条通河原町西へ入丁 勝田喜右衛門」とあり(瀧亭臺撰)と銘記してある。但し、(台眠)の眠を王篇の()としてあり異同がある。この点はなお追跡の余地があるがそのことは暫く置く。ここに、台梶が寛政十一年八月に『にふなひ鳥』を刊行したのだから、この年次を起点として時代推定を進めると次のような結果となる。
台は文政十三年(1830)一月七日卒で行年、四十一歳だから逆算すると寛政二年(1790)生れとなる。とすると、
『にふなひ鳥』刊行の寛政十一年(1799)は伊兵衛延辰はわずか九歳の年齢である。九歳で俳書刊行は不自然で考えられない。『にふなひ鳥』の序文は可部里で格調ある文章を寄せ、成美、道彦、巣兆、士朗などその頃の著名俳人が入集している。これだけの撰集を九歳の若輩がなしえられる筈がない。
次に、北原家墓域群の中にそのものズバリの(台眠院鳳翁光明居士)(万延二年(1861)二月二十一日歿、行年六十二歳)の墓がある。逆算すると、この台眠は寛政十一年(1799)生れとなる。『にふなひ鳥』刊行の当年となる。これ又、該当しない。玄に北原台眠を追跡するため、北原家家系図を図示すると左の通りである。
初代 北原伊兵衛光義
寛延三庚午年(1750)甲州台ケ原へ酒造ヲ姶メテ分家ヲ出該家ヲ見継ク。
明和九辰年(1772)十月三十日当家ニ於テ卒年五十三、法名、道本院卜号ス。
✕二代 北原久蔵延貞
寛政七乙卯年(1795)七月二十七日卒、法名、良壽院
〇 北原市之光久
北原光義嫡男
延辰、幼少ナルヲ以テ後見セシム。
文化十二乙亥(1815)七月二日卒。享年六十八歳。法名、徳寺院
×四代 北原伊兵衛延辰
二代延貞嫡男
文政十三年庚寅(1830)正月中七日卒。行年四十歳ニシテ卒。法名昌壽院卜号ス。
松平丹波守、諏訪因幡守、御用相勤テ功アリ。
文化九申(1812)八月信州高遠殿垣外北原正太夫ノ弟ヲ当地ニ迎、当家ヨリ分家セシム。(俳号ヲ台眠)ト云。
【註】(池原曰、誤記ナラン)×印は否定 ○印は該当者ならんか。
右、系図を年次割出しで検討すると、北原家三代の久蔵延貞も、四代伊兵衛延辰も、分家元祖八兵衛(台眠院)も『にふなひ鳥』撰者の北原台ではないこととなる。ただ、四代延辰を後見した、北原市之光久(台ケ原、初代、北原伊兵衛光義の嫡男)が逆算すると寛延元年(一七四八)生れとなり『にふなひ鳥』刊行の折は五十二歳に当り不自然ではない。とすると、北原市之光久が台ではなかろうか。
森川先生も市之光久を注目された。
闌更の没年は寛政十年(1798)五月三日である。闌更は文輔宛の手紙で台眠にふれていることは前述した通りだが、この状は晩年の筆と思われる。文中「近年は横身がちにて」 の表現はそのようにうけとれる。没年にちかいとすれば寛政十年よりいくばくか前の手紙とみていいだろう。従って台眠()四十七、八歳ごろにあたるのではないだろうか。
茲に『峡中俳家伝』の誤記は訂正せねばならぬ、と思う。
終りに『甲斐文庫史料 第八巻 甲斐俳諧編』に該当、『にふなひ鳥 滝亭台撰』が翻刻されているので可都里の序文、台発句、盛徳(脇)、可都里(第三)と次で台眠、可都里の歌仙を示しておく。
にふなひ鳥 滝亭台眠撰(十八丁)
それ俳諧は、こころの色なり。たとへは月草のものに移ろひやすく、かゝみの影のよくものをうつすかことし。それか中に、不易あり流行あり、且しはらくもとゝまらす、さたむるともさためかたきは、かの造物者の無尽蔵なれはなるへし。かくて目にさへきり、みゝにとゝろき、こゝろに感する事あれは、おふけなくも、天骨なくも、ことの葉の色に染出るわさなりけり。されは尾張の士朗はなたねの花に、小すゝめの背をそめて、其よしはひとく鳥に見えたり、流行の色をあらはし、これの台はほとゝきすの音にむら雨をそゝきて、不易の心を染出せり。さてその雨そゝきの、あさらなる色をはしめとして、遠き近き人々の、花紅葉のめてたきいろいろ、蝶鳥のあはれなる風情まて、おのかこゝろのまにまに、やをらかいあつめて、ひといろの巻となしつ、そもやこのはいかいの色をこのまさらん人は、たまのさかつきのそこなきかことくならむかしと、わらふてふと手をそむるのみ。
さねかつらの可都里しるす
にふなひ鳥
霍公鳥むら雨かゝる遠音哉 台
月ともいはぬ山あいの夏 盛徳
笠縫かゆふけの莚冷ぬらむ 可都里
以下略
歌仙
大かたの月夜にあへりうめのはな 可都里
* うくいすの身はしつかなりけり 台
四つ五器をそろゆる春に住つきて 里
* 行ともとると橋の二すち
* かきつはた市の中よりひらきかけ 〃
手のひらに降むら雨をみる 里
旅人をあすは隔てん伊駒山 〃
* 楠のはつれに鳴は何鐘
くれくれと下手に出来たる張火桶 里
* 連歌の恋にせめられるゝ身は
翠簾の香の右へ除れは左より 里
* 月の夕霧ほかほかとたつ
引板鳴子静に里をさわかせて 里
* 地蔵ほさつの眼もあかぬ秋
又六に損をかけたる雨のくれ 里
* 琵琶もつ足のたゆむ舟はた
一重山ふたつの中のたゆむ舟はた 里
* ひはりの啼ぬ曙はなし
* 我庵はちいさけれとも春かすみ
盗人後世の縁にひかるゝ 里
* 玉川の水をいくつも飲くらへ
炬のあかりに卯の花かちる 里
* 惚くと夏にすゝめる菅蓑や
信夫の氏をつゝむかなしさ 里
* 念仏を聞く鷺の眠るらむ
浪を相手に生のひる人 里
* 朝顔のことさらはやき志賀の京
早稲の餅つくさかり也けり 里
* 澄きって五夜も六夜も秋の月
こゝろかよれは鉢たゝく僧 里
土器を踏つふしたる這入口 里
* 馬を負せし花の大枝
* 長閑なるおとゝの姿おかみけり
宇治の朝日に夏かちかつく 里
声は駒鳥ならす鶯ならす 〃
* にふなひ鳥といふは渡鳥
滝亭台 撰 寛政十一年未八月
京四条通河原町西へ八丁 書林 勝田喜右衛門
〔北原臺眠〕
臺眠は現在の白州町の台ケ原集落(合併により北杜市白州町台ケ原となる)の生んだ俳人であり、当時の著名俳人とも交流が深く、それは伝えられる以上のものがある。北原家は江戸時代の寛延二年(1749)頃、信濃の高遠から移住して造酒屋を営んだのにはじまり、(「家譜」/村役人連署「差上申済御証文之事」)現在山梨名醸として現在に至っている。
家の作りも抜きん出ていて、切妻中二階式の大型町屋で山梨県教育委員会で発行してい
る『山梨県の民家』に詳しく報告されている。幕末には信濃諏訪高島藩の御用商人となり、窮乏する高島藩の為に千六百二十五両を用立てた証文を蔵して居られる。
また長野県の『富士見町誌』には産米を北原伊兵衛宅に納めた記録が残っている。
天保十二年の家の古図によれば醤油の醸造、明治には北原銀行も開設している。また中の間と書院境の彫刻欄間の主題は「竹林七賢」で立川流の名工立川富種の作で諏訪高島
主より贈られたと伝えられている。先の『山梨県の民家』では、「全国的に見ても第一級の幕末大型町屋といってよい」と絶賛している。
また山梨名醸の造酒「七賢」は山梨県を代表する銘柄であり、蔵出し始め多くの愛好者が訪れていて、休息や食事もできる「台眠」も人気がある。今回はこの「臺眠」についての調査報告である。
〔塚原甫秋〕
一方の塚原圃秋については断片的な資料しかなく、いずれ本格的に調査を開始するつもりである。今回はこれまでの少ない調査資料から提示する。
〔諸書に伝えられる台(臺)眠・臺(たいみん・だいみん)〕
1、『峡中俳家列傳』(『甲斐史料集成』第十一巻所収 明治三十八年刊)
北巨摩郡菅原村の臺ケ原と云ふ處に北原仁と云ふ酒造家がある。其の七代前の遠祖に通稱伊兵衛、諱は延辰と云ふ人があった。
嵐外(辻氏)に就て俳諧を學び號を臺眠と稱へた。師弟の情が最も濃やかであったから嵐外は閑暇があれば常に臺眠の下に遊びに行って居た。
夫れで嵐外が常に携へて居た如意を記念の為に此家へ留めて置たが、其れが臺眠手より他の手へ、他の手よりまた他の手へ幾変転した末に、當時峡中詩壇の飛将軍たる狩穂の舎主人小澤眼石翁に傳はったのである。
文政十三年(1830・天保元年十二月十日改元)不惑を超ふる事僅に一歳(41才)にして逝かれた。龍福寺畔荘嚴なる碑石が此の人の永眠の地に建てられてあるが、此の碑石は実に永遠に此の人の俳名と其の富豪とを語るべき不文の歴史であらふ。それで此の人の作として傳はれるものは実に左の數句に過ないのである。
目の及ぶだけを櫻の曇り哉
時鳥引返そふか筑波山
暮るゝほど心こもるぞ菫草
山里や包むもの無き冬の月
《筆註》
一部記載違いがあるがここでは省く。(通稱伊兵衛、諱は延辰は年齢的に台眠ではない)
2、『甲州俳人傳』 (昭和七年四月刊。功刀亀内著)
北原臺眠
北巨摩郡菅原村臺ケ原の人。通称伊兵衛延辰。雪亭葛里の教で俳諧を学び、その門下高弟の一人なり。又辻嵐外と交遊浅からず、峡北の□匠なり。瀧亭臺眠と号す。文政十三年正月七日歿す。同村龍福寺に葬る。著書 「にふなふ鳥」一冊。寛政十一年八月刊行。五味可都里序文
《筆註》この亀内の『甲州俳人伝』は現在も『甲州文庫』と共に引用される書であるが、多少の間違いもある。
↧
小淵沢静岡北端部縦ズレ構造
↧
↧
安政2年 群馬県地図
↧
天正13年 足利小屋城 長尾但馬守分限帳
↧
豊臣秀吉32か条の掟
↧
武田家臣 飯富兵部目安を捧げる 信玄の返信
↧
↧
白州町花水清泰寺 曲淵氏正左衛門由緒
↧
武田信玄・信虎・穴山古文書
・
↧
相撲、大関と関脇 三代実録
↧