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『甲陽軍艦』などに見る武田信玄と勘助

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『甲陽軍艦』などに見る武田信玄と勘助
『甲陽軍艦』 「品第三」(訳)
 
甲斐源氏の国主武田信虎のご秘蔵の鹿毛の馬は、身の丈四尺八寸八分(1m48cm)その性といい姿といい、かの頼朝公の「生食」「摺墨」にも劣るまいと近国までも評判の名馬であったので、「鬼鹿毛」と名付けられた。嫡男の勝千代殿(信玄・晴信)はこの馬を望みになったが、信虎公はなみはずれた非道の大将だったので、たとえわが子の望みであっても、この馬を与えるつもりは少しもなかった。そうはいっても、嫡男からの要望を無視するわけにもいかず、最初は、「勝千代はまだ若年のため、あの馬は好ましくない。明年は十四歳になり、元服するので、武田家に伝わる郷義弘の太刀、左文字の刀、脇差、二十七代伝わる御旗と楯無の鎧ともども、あの馬を贈ろう。 とのご返事であった。
 これに対して勝千代殿が重ねてお願いするには、「楯無は、そのかみ新羅三郎義光公の御具足、なおもって御旗は八幡太郎義家公より伝わるものであります。また太刀・刀・脇差はお家代々の品々、それらにつきましては、御家督を下さるときにこそ頂戴すべきもので、来年元服であるからといって、部屋住みの身の私にとってどうしてお受けすることができましょうか。 しかし馬のことは今からこれを乗りこなして、一年後には父上がいずれご出陣の折には、お後ろにつきまして警護申し上げるつもりで、所望申し上げました。それなのに、父上があのように言われるのは承服できません」
 これを聞いた信虎公は、並外れた短気な方であったから、大いに怒られ、怒鳴り散らしたと言うには、「家督をお前に譲ろうが譲るまいが、私の考えが誰にわかるものか。代々家に伝わるものを譲ってやるというのに、それがいやだというのなら、次郎(信繁)を惣領として父の命令を聞かぬものは追い出してくれるぞ。そうなった時に諸国を流浪して、その果てに頭を下げて許しを請うても決して許さんぞ」と。備前兼光の三尺三寸(1m)の太刀を抜き放ち、勝千代の使いの者を主殿の方に追い払われた。しかしながら、その場に居られた禅宗曹洞宗の高僧「春巴」が、信虎と勝代の仲を取り持ち、それ以上の揉め事にはならなかった。 しかし以後もお互いに心が通わずに、信虎公は事あるごとに勝千代殿を冷遇したので、ご家中の人々も身分にかかわらずみんな軽んじるようになってきた。 勝千代殿は、こうした様子を見られて、なおさら愚かな振りをなされ、一例を申せば、馬に乗れば落馬し、背中に泥を着けたまま信虎公の御前に座っていたりした。また字を書けばわざと下手に書き、泳ぎすれば溺れて人に救われ、大きな石や材木で力比べをすれば、弟の次郎殿が二度持つものを勝代殿はようやく一度しか持たなかった。 何をさせても弟に劣った者であると、信虎公が不満を申し上げるので家中の人々も勝代の悪口を申していたという。
  にもかかわらず、駿河今川義元公のお世話によって、勝千代殿は十六歳の吉日、元服なされて、信濃守大膳太夫と晴信となられる。任官のためにかたじけなくも宮中より、転法輪三条左大臣公頼卿が甲府に下向された。
 また勅命によって、三条殿のご息女を晴信公に娶わせられ、その年の7月に興し入れになられた。また同年十一月は、晴信公の初陣となった。その時の相手とは、信州海野口の城に籠もっていて、信虎公はそこのご出馬、直ぐに城を囲まれたが、城中には多くの軍勢がいて、しかも平賀源心入道という勇猛の者が加勢に来て籠もっていた。その上大雪も降りはじめて城が落ちる様子はない。
 そこで甲州勢は集まり相談し、その結果を信虎公に報告した。「城の中には三千人もの軍勢が立て籠もっており、急いで攻めても城が落ちる見込みはありません。攻める味方の人数も七、八千人を超えぬ状態であります。今日は十二月二十六日で、年も押し詰まっています。ここは一度甲斐に帰陣して、来春に攻撃を再開することが賢明と思われます。敵方も大雪でしかも歳末のこ、追いかけてくることは決して有りません」 と申し上げた。この考えに信虎公も賛成され、それならば、明日早々に軍勢を引くことに軍議が決まる。
 その時、晴信公が出てこられ、
「それならば、私に殿(しんがり・後備)を仰せつけられたい」 と、お望みになった。これを聞かれた信虎公は、大いに笑い、「武田の家の恥辱になるような事を申すものだ。老巧の者たちは、敵が追撃してくることはあるまいと申してあるのだから、例え殿を申しつけられても、いや、次郎に仰せつけられよなどといってこそ、惣領というものではないか。次郎であれば、まさかそのような事は申すまい」 とお叱りになった。だが晴信公がさらに殿を希望なされたので、それならば好きなようにせよと、仰せられ、二十七日の晩、信虎公はご出発なさって陣を引かれた。 さて晴信公は、東の道三十里ほどの所に残り、ようよう三百人程の軍を率いて用心深く陣をはった。その夜は食糧を一人当たり三食分づつそろえ、何時でも出立てできるように、皮足袋・脛(すね)あて・甲冑も着たままで、馬には十分に飼葉を与え、鞍も着けたまま明日は早朝から出発という仕度をさせた。そして、「寒空なれば、上戸下戸にかかわらず酒を呑んで体を冷やさぬようにせよ。夜七つ時(午前4時)頃には出発する。心積もりを万全にしておけ」とご自身で触れて歩かれた。
 しかし自軍の人々は、晴信公の思慮深い考えが理解できないで、「なるほど、信虎公が晴信公のことを悪く言われるのは当然のことだ。この寒空にどうして敵が追撃して来るのものか」などとお互いにつぶやきあった。 ところが殿を務めるはずの晴信公は七つ頃陣立てして出発、甲府には帰らず、もと来たほうに戻り、城にいっきに攻めかかった。軍勢3百人ほどで二十八日の早朝、難なく城を占拠してしまわれた。
 当時、城の中には主な武将は平賀源心だけで、その部下の者も二十七日には、すでに帰ってしまっていた。源心も一日の休養とって、寒さも厳しい折から二八日の日中には城を出ようとゆったりしていた。また土地の武士たちも正月の意をするからといって、皆、里に戻っており、城中には七、八十人の武士が居ただけであった。したがって、源心をはじめ城を警備していた者たちは討ち取られた。晴信公は「首級をあげることは無用だ。平賀源心の首だけをここに持ってまいれ」と命じられ、首を御前に置かせた。そして城付近の家々を焼き払い、不意をつかれた侍どもを、そこここで二十人、三十人と討って捨てる。(略)敵の中には武勇に優れた者たちも多く居たのであるが、既に城は取られてうえに、まさか晴信公の部隊だけとは気づかず、信虎公が引き返して戦っておられるものと思い込む、一万にも及ぶ軍勢が攻めかかってきたのでは、とてもかなうまい、女子供をつれて逃げるのが第一------と逃げ散り、崖や谷に落ちて死んでしまった。まことに晴信公のお手柄は、古今まれなものであると、他国の家中の人々までも賞賛したことがあった。(略)これは信玄公が十六歳のときのことであった。 
《筆註》さてここからが信虎、駿河退隠に関する直接的な話となる。
  ところが信虎公は、これについても、「その城にそのままいて、使いをよこすということもせず、城を捨ててきたとは臆病な振る舞いだ」 と悪くいわれたため、ご家中の者も、十人の内八人までは晴信公を褒めずに、「たまたま運がよかっただけだ。加勢の者も散り、地元の侍も里へ下りていたのだから、城は空き城だったのだ」 などという者もあって、なみなみならぬお手柄と感じる者はなかった。 そして、信虎公のご機嫌をとるためには、弟の次郎殿を褒めるのが第一と考え、心では晴信公に感心しても、表面では悪く言う者ばかりであった。弟の次郎というのは、後に典厩信繁と呼ばれた人である。
ところで晴信公は、まことに珍しい大人物であられた。これほどの手柄を立てながら、奢る様子もなく、なおさら愚かなふりをしておられた。そして、度々駿河の今川義元公に手紙を送られ、「信虎公は次郎殿を惣領に立て、自分を庶子にしようといっておられますが、このことについては、義元公のお考え次第できまることであります」などと、いろいろと頼みこまれた。そこでまた、義元公も欲を起こされた。「信虎公は自分の舅にあたり、年長の、しかも勇猛な人であるから、領地は甲州一国ではあっても、自分の家来になることはよもやあるまい。あの晴信を引き立てておけば、間違いなく家来となり、息子の氏真までも武田を従えておくことができよう」 と考えられたのである。かくして、義元公は、信虎公を駿河に呼び寄せておき、その留守に晴信公を駿河に呼び寄せておき、その留守に晴信公に謀判を起こさえ、信虎公を追い出されたのである。これはひとえに、今川義元公の計画によるものであった。以上
 だがこれについても、信玄公の深い考えがあったのである。信虎公が次郎殿を惣領にとお考えになったことは、もっての外のお誤りであったが為に、ご先祖の新羅三郎義光公のお憎しみを受け、あのようなご浪人の身分となられたものと思われる。
 
≪真相はいずこ≫
1、 『武田信玄』上巻 上野晴朗氏著 「命がけのクーデター計画」 (略)若き晴信が、信虎からさまざまにうとんぜられ、冷たくされ、疎外されていよいよその危機がせまったとき、思い悩んだすえにその苦悩を譜代の重臣、板垣信方・甘利備前・飯富(おぶ)兵部らに相談してみると、日ごろ信虎の武政治に危機感をいだいていた重臣たちは、たちまちに秘密裏に晴信のもとに結して、逆に信虎を追放しょうと企てたのである。(略)いずれにしても、晴信にとって命がけのクーデターは、さいわい見事に成功した。云々

2、『風林火山』 無生庵宗良(山瀧功)氏著「武田信玄の和歌物語」
  夏の嵐ほむらたつ 栄華を今に 偲びつつ 夜来の雨に  枝の落ちゆき
 信玄は父信虎を駿河へ追放し、政権の交代を計った。信玄はなぜ実の父に対してクーデターを企てたのか。父信虎は戦いは強かったが、粗暴で評判が悪く、家督を弟の信繁に譲ろうとしていた事にも因があり、更に経済的問題があった。当時天候不順で農作物がとれず大飢饉の状態にかかわらず大軍を催して信濃攻めをした事で国中の人々の怨みを受けた。信玄は重臣と謀り、甲斐の国のためにあえて父を追放した。云々

3、『甲州・武田一族滅亡記』 高野賢彦氏著
 (略)廃嫡されようとしていた信玄は、おそらくこの苦衷を指南役の板垣信方に打ち明け、父を追放する謀略を慎重に練ったものと思われる。   (略)信玄は「今川義元にとって父は恩人であり舅でもある。しかし義元は猛将の父に北方から睨まれていては不安であり、若年の自分に恩を売る方が将来のために得策と考えるであろう」と思い、熟慮の末、今川家へ追放することにした。(略)「甲陽軍艦伝解」によれば、信玄の謀略を知らない信虎は、次郎の信繁を居館の留守居とし、廃嫡する信玄を甘利虎康に預けたうえで、「一左右次第(いつそうしだい)、駿府へ参れ」と言い残して甲府を発った。しかし後からやってきたのは国境を閉鎖する板垣信方らの軍勢があった。信玄は易筮(えきぜい)により自分の運を信じた。そして事が成就すると喜悦し、信虎を悪人に仕立て上げることに腐心したのではなかろうか。
 4、『武田三代』 新田次郎氏著 (略)信虎のあまりにも非常識なやり方に、武田の家臣団が結束して反抗し、信虎を追放して信玄を領主に戴いたのである。この無血革命には駿河の今川義元も一枚加わり、追放されて来た信虎を引き受けて軟禁し、その保護に当たったのである。云々 
5、混乱する『甲斐国志』の記述
 さて、ここまでさまざまな資料や歴史家の考えを見てきたが、信虎の駿河退隠の真相は一向にわからない。つい数ヶ月前までは信虎の治世であり、家臣団のほとんどが信虎の配下であり、信玄が用意周到のクーデター計画をしている隙間さえ見当たらないのである。 その信憑性は兎も角『甲陽軍艦』には、この件についての記述が散乱している。ここでは、こうした記載を羅列してみたい。(一部改編)  
品第十八(引用、『甲陽軍艦』訳、腰原哲朗氏著)
1、       父信虎が28歳のときに、駿河の福島という武将が、主君の今川義忠を  亡命させた上、甲斐に侵入したが、討ち取られた。この日に信玄は生まれた。
  天文5年の項 信玄16歳
1、       信虎、天文5年11月21日から信州海ノ口を34日間攻めたが、条件が悪く攻め落せなかった。
2、 信玄、(16歳)がこれを攻め落とした。信濃大膳大夫と称していた。ただし、戦場での名乗りは晴信公と言われた。云々 
  天文7年の項 信玄18歳
1、       天文7年、正月元日に、信虎公は子息の晴信公へ御盃をつかわされずに、次男の次郎殿へ盃をつかわす。それで板垣信方を通じて、信虎公より嫡子晴信公へ仰せがあった。その趣旨は、太郎殿のことは、駿河の義元公の肝いりで、信濃守大膳大夫晴信と名乗っている間に、今後とも義元の元で、さまざまな教示を受け、思慮深くなるための作法を身につけるようにとの事である。晴信公はお答えして、ともかくも信虎公の御意に従う旨申しあげる。かさねて飯富兵部のつかいで信虎公が申された。その趣旨は、「この三月より駿河へ行って、一、二年は駿河ですべてにわたって、学んできなさい」というもので、その間にも次郎殿を惣領にして、嫡子晴信公を長く甲府へ戻らせないおつもりが信虎公の真意らしい。それが晴信公十八歳の時のことである。
6、『甲州韮崎合戦』の項
    天文7年、信州の大将の諏訪頼重と同国深志(松本)の小笠原長時が談合した。近国甲州の太郎晴信を、信虎が見限って、次男を惣領にしようとしたことから親子の仲が悪くなった。それで晴信は知略をめぐらして、姉婿にあたる今川義元を頼み、信虎を駿河に追放したしたと聞いている。そのため甲州の勢力は信虎と晴信の二つになっている。その上、信虎が信州の領地を少し治めていたけれども、今は甲州さえも晴信の手の負えずに混乱している。云々
(略)甲州勢は、ことし信虎を公を追い出した折だったから、勢力も分散しがちで、六千ばかりであった。云々
 7、『品第十九』 信玄公十九歳、その一年は無行儀、御詩作並びに板垣信形の諌言。
          天文18年正月元日
    右の一年中晴信公は無行儀でよろしくなかった。このことについては、当時の人々が残らず語ることはできないほどであったと伝え聞く。(略)家老の人々も、諌め忠告申し上げることができなかった。というのは、近国からも鬼神のようにいわれていた父信虎公を、晴信公はなんの造作もなく追い出してしまわれた上、その年のうちに晴信公より老巧な信濃の大将衆が、見方に倍する兵力をもって四度も甲州の中へ乱入した。それを四度まで自分で軍を率いて勝利を得られたほどであるから、誰一人として諌言するものがいなかったのである。武田の家は二十七代に、もはや滅亡するのではないかと、うわさされるのももっともなほどであった。
(略)板垣は申し上げる。
「晴信公、御詩作はいい加減になさってください。国持ちなさる大将は、国内を治め、家来を嗜め、他国を攻め取って父と信虎の十倍もの功績を挙げられてこそ、はじめて信虎公と対等になります。その訳は、信虎公は無行儀で乱れ。無軌道淫乱であられ、重い罪人も大した罪も無い者も同じように成敗なされた。ご自分が腹が立つと、善人も悪人も区別無し成敗なさる一方で出、気に入った者には、一度謀反を起こした者でもただちに所領を下さり、反対に忠節忠孝の武士で罪も無いのに、お引き立てになされぬようになされ、万事に逆の御処置をなされました。このような信虎公のなさり方を道にはずれたものと見なされ、父上でしたけれども追放なされました。その晴信公がそれから三年と経たないのに、ご自分がお好きなことにふけり、意のままになさるとは、信虎公にに百倍もまさった悪大将でございます。そうお諌め申し上げるわけですが、それでご立腹なされ、この板垣をご成敗なさるなら、私は御馬前において、討ち死にさせていただきます。
筆註、この諌言により、晴信は涙を流して反省されたという) これは天文八年十一月一日、晴信公十九歳の御時こことである。 
 8、品第二十二 甲信境の瀬沢合戦の項
    天文十一年二月中旬、信州勢の晴信の退治について談合する。晴信も板垣信形・諸角豊後・原加賀・日向大和や多くの武将が集まり、談合して晴信公に申し入れた。
 
・今川義元に加勢を頼む。                     
 ・五年まえに父信虎を追い出した。
・一旦、甲斐の兵を引いて甲府で戦う。
 これに対して晴信公は、 今川義元に加勢を頼む必要は無い。 五年まえに父信虎を義元に頼んで駿河に出し・   信虎が駿河に留め置かれたのは、義元の働きである。これは義元公が、信虎を引き受けることで、自分が甲斐を支配できる・   と、考えていた。 また信虎は舅にあたり、自分の配下に置くことは出来ないが、私晴信は義元より二歳年下であるから、なんとしても配下に置きたいと考えている。(この話はさらに続く)
   9、品二十三 信州平沢の項
(略)さて二十一日には、穴山・典厩・板垣をはじめ到着し、家老衆は書面をもって諫言した。信虎公の御代にご被官にしてもらった信濃侍大将どもは、今度はおおかた帰参いたすと存じます。  五年まえに信虎公を追い出しなされ成されたときは、危うくあって、それぞれ居城に引き篭り、このごろは村上殿の勢力が危ういといって、それなりに村上殿を崇めない侍どももおります。そういう侍どもを支配し、前代のように召抱えるご分別が大切と考えます。
(略)また一方では鬼人のような信虎を追放し、その後信州衆にたびたび勝ち、加えて若いにも似合わず、勝てば兜の緒をしめるように手堅いのは、どうみても普通の人間ではないと思われる。その上晴信の父の信虎にあっては、信州の平賀城を滅亡させ、村上殿も数度に痛い目にあっておられる。  そういう辛い目にあわせた父信虎の老功にもかかわらず、謀略とはいいながら何の造作もなく駿河に追い出し、即座に国の治守を静めた。家老一人たりとも頭をあげさせず支配に服させ、五年この方、幾度かの合戦に勝利しても思慮深く慎重に統率されている。そういう点では明日はどうなるかはともかく、今や晴信は日本国の若手の大将と考える。云々

信虎退隠についての甲斐諸書の記述

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信虎退隠についての甲斐諸書の記述
 
1、『王代記』(窪八幡神社記)
 
武田信虎六月十四日駿州へ御出、十七日巳刻晴信屋形へ御移、一国平均安全ニ成。
  『勝山記』
此年六月十四日ニ武田大夫殿様、親父信虎を駿河へ推越申候、余リ悪行ヲ被成ヲ候間、加様被食候、去程ニ地下・侍・出家・男女共、喜致満足候事無限、信虎出家被成候而、駿河ニ御座候。 
2、『妙法寺記』
 
此年六月十四日武田大夫殿様(晴信)親の信虎を駿河の国へ押し越え御申候。余に悪行を被成候間かように被食候。去る程に地家侍出家男女共に喜満足致し候事無限。
  《読み下し》
六月十四日に信玄が親の信虎を駿河へ押しこした。あまり悪行をしたのでこのようになった。されば、民・百姓・僧侶男女とも喜び満足すること限りない。
 
3、『高白斎記』(一部略)
 
 六月十四日、信虎公甲府御立、駿府へ御越、至今年、無御帰国候、於甲府十六日各存候。                
  《読み下し》
六月十四日に信虎が甲府を御立ちになり駿府御越しになった。甲府では十六日になって皆がそのことを知った。
 
4、『塩山向嶽禅庵小年代記』
 
信虎平生悪逆無道也。国中人民牛馬畜類共愁悩、然駿州太守義元娶信虎之女、依之辛丑六月中旬行駿府、晴信欲済万民愁、足軽出河内境断其帰道、即位保国々人民悉含快楽咲
  《訳》
 信虎は平生、悪行無道であった。国中の人民牛馬畜類ともに愁い悩んでいた。しかるに義元は信虎の婿なので、信虎は六月中旬に駿府に行った。信玄が万民の愁いを救うために足軽を駿河境に出して帰ってこれないように道を断った。人民はことごとく快楽の笑いを浮かべた。
  
5、『快川和尚法語(天正玄公仏事法語)』
 
 祖父大泉寺殿(信虎)三十三年已然出奔、三十三年巳後、不速來 合浦珠遷、雲山改奮 
≪(前記の)総解説 『甲府死市』中世 第4節 武田時代≫
 武田家の当主交代を示すもので、六月十四日、信虎は甲府を出立して駿府に向かったが、嫡男晴信は甲州と駿河の国境に兵を出し、信虎を強制的に駿河へ追い落とした。駿河の今川義元は信虎の娘を妻に迎えており、その関係によって信虎を引き取ることにした。これによって甲斐の領主交代が実現され、信虎の圧制に苦しんでいた領民は大変喜んだとしている。
 
 6、『今川義元書状』(静岡県韮山市、堀江家文書) 
 
内々以使者可令申之処、惣印軒参候由候際、令啓候、信虎女中衆之事、入十月之節勘易筮可有御越由尤候。於此方も可申候、旁以天道被相定候者本望候、就中信虎隠居分事、去六月雪斎並岡部美濃守進候刻、御合点之儀候、漸向寒候毎事御不・心痛候、一日も早被仰付員数等具承候者彼御方へ可有心得候旨可申届候、猶惣印軒口上申候 恐々謹言 九月廿三日  義元(花押) 甲府江参
《読み下し  『甲府市 史』資料編第一巻 中世 戦国時代》
内々使者以って申さしむべきところ、惣印軒が参るべきの由を承り候の際、せしめ候。信虎女中衆の事、十月の節に入り、易筮を勘せられ御越あるべきの由尤候。此方に於いても申付くべく候。旁(かた)がた以って天道を相い定められ候はば、本望に候。なかんずく信虎隠居分の事、去六月雪斎並びに岡部美濃守進らせ候刻、御合点の儀に候。漸く寒気に向い候。毎事御不便心痛に候、一日も早く仰せ付られ、員数など具に承り候はば、彼御方へ御心得あるべきの旨、申し届くべく候、猶、惣印軒が口上に申し候。恐々謹言
 九月廿三日 義元(花押)甲府江参
 
《訳  『甲府市 史』資料編第一巻 中世 戦国時代》
 内々使者をもって申し入れるつもりであったが、惣印軒(由比安里、冷泉為和の門人)が甲府へ参る由などで、かれから言上させることにする。信虎女中衆のことは、十月に入り好日を選んでお越しなさるとの事もっともに存せる。当方も受け入れ準備を申し付けておこう。どちらにしても道理のように、定めて貰えれば、当方としては満足である。とりわけ信虎の御隠居分としての手当ての件は、去る六月に雪斎と岡部美濃守とも甲府へ遣わした際に貴殿の諒解を得ていた。だんだん寒気に向かい、信虎は万事不足がちで心配している。一日も早く信虎のために送ってくれる人数や員数を詳しく承りたい。そうすれば信虎方に納得してくれるように申し伝えるつもりである。なお詳細は惣印軒が口上で申し上げることにしたい云々。
 ≪筆註≫  甲府市 史は、本書上からは、信虎が晴信と合意の上で駿河に赴いたという解釈は生まれてこない。と結んでいる。そうであろうか。合意の上で実現したからこそこうした交渉も成り立つとの解釈も十分できる内容である。
 
7、『裏見寒話』 宝暦4年(1754)野田成方著
 
義元晴信と組して、信虎を駿河へ呼参らせ、晴信思ふ儘に、策略 をめぐらせしは、偏に今川義元の分別なりと云う。
 
『静岡県の歴史』
 
氏親依頼勢力下に治めていた遠江や三河の情勢が流動的になり(略)遠江や三河の情勢安定の施策を展開していた。(略)その一つの施策として天文十年、義元は信玄と合意の上で、信玄の父信虎を駿府に幽閉したと伝えられている。
        
 ≪年表の再開≫
 
1542 天文11年
 義元、江尻の商人宿の諸役を免じる。8月、義元、織田信秀と三河小豆坂で戦う。9月、信玄、諏訪攻略、全領土を掌握する。
1543 天文12年 6月27日。
 信虎、京都・近畿を遊歴して本願寺門主光教、これに好を通じ、歓迎の使者森長門を信虎の宿舎に遣わす。(天文日記)
 1544 天文13年
 三河刈屋の水野信元、今川義元に背き織田信秀に属する。
 1545 天文14年 5月22日
 三者同盟により北条・今川の援兵、信玄の信濃箕輪城の攻めに参加する。北条氏康、駿河に侵入して義元と戦う。8月、義元、北条氏康
と駿河狐橋で戦い、武田晴信これを援ける。この時、北条も信玄に援軍を求めている。10月、今川義元と北条氏康が信玄の尽力で和睦。
 1546 天文15年
 三河今橋城の戸田宣成を攻める。
1547 天文16年
 田原城の戸田宗光・父子を攻める。
1549 天文18年
 安祥城を攻め、織田信秀の子信広を生け捕りにする。
1550 天文19年 6月2日。
 義元の正室、信玄の姉が死去する。
1552 天文21年
 義元の長女、信玄の長男義信に嫁ぐ。
1553 天文22年
 今川義元、仮名目録追加を定める。
1560 永禄 3年 5月4日。
 義元、三河守に任ぜられる。織田信長、義元を桶狭間の戦いで敗死さ           
 信玄の命を受けて穴山氏を駿府に派遣、義元死後の甲駿関係を議す。
このあたりの様子について『甲陽軍艦』の記載事項の確認をする。その後で多くの著者の見解も添えてみたい。この事件に山本勘助が関与したような記載のあるものもあるが、確実な史料から生まれた説ではないかも知れない。 
またこのあたりについては、やはり『甲陽軍艦』を紐解く必要がある。この著はあくまでも山本勘助の事績の確認の為であり、この辺の今川・武田両家の状況に勘助がどう関与していたのかを探ってみたが、不明であるとしか言えない結果となった。この経緯について書いてあるのは、『甲斐国志』のみで、他はその著者の推論が大半である。これについては後述する。

山本勘助の生みの親、「甲陽軍艦」 勘助関連文書には偽書が多い

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勘助の生みの親、「甲陽軍艦」
 
「甲陽軍艦」は書いたのは春日惣二郎
勘助の人気は既に江戸時代にできていた。それが明確になるのは浮世絵や武者絵に錦絵に描かれた勘助像が信玄や他の大物戦国武将より群を抜いて多い。インターネットで調べてみてもその数は50点をこえる画像が確認できる。特に歌舞伎役者が演じた勘助は戦国絵巻の形相はなく、信玄を慕う男妾の風体さえ感じる。
 数多ある勘助の著述や刊行物もある中で、今回は勘助と甲陽軍艦の関係を所載記事より探ってみる。 
 
  私は歴史に親しんで20年くらいになるが、歴史の中には「思い込み歴史」と、言葉は悪いが「洗脳歴史」が存在していることに気がついた。最近特にその傾向が顕著になってきている。洗脳歴史とは間違ったことでも基礎的知識のない人々は、重ねて見たり聞いたりすることにより、そこで展開される内容が史実と信じてしまう。特に歴史小説が題材の場合はその感が強く、公的なイベントや報道の行為はそれに拍車をかけている。
 山本勘助についてもまったく同じであり、長時間のドラマなどが終了すると、始まる前より認識新たな勘助像が生まれる。言葉を強くすれば、最近の歴史界はNEKが歴史の源で、圧倒的な権威と価値観が生まれている。勘助が甲斐に来たのはリタイアしてからで、現在では看護を受けるくらいの年齢であり、頭脳はともかく体力的には、ほとんど戦闘能力は失っていた。
山梨県や勘助ゆかりの地は勘助協奏曲に襲われ、それを先導する刊行行政には歴史確認の必要はなく、人集めに奔走して物が売れればよいのであって、NHKの朝ドラや歴史大河ドラマへの地域参入が観光の起爆剤として珍重される。これまで勘助と甲斐の関係など書いた歴史書は少なく。歴史家も相手にしていなかった。また彼らの習性で、国書や仲間書以外には見向かないもので、都合のよい時だけ「信じられない」・「間違いの多い箇所を持つ書だが」といいながら引用に明け暮れる。信玄が有名になったのもこの「甲陽軍艦」があったればこそで、これがなかったら武田三代もつまらない歴史参考書の中でしか生きることしかできなかった。

甲斐国志が描く助助
 
甲斐国志・山本勘助記載事項
 
山本勘助(諸録名晴幸に作ル未考)
軍鑑に天文十二年三月板垣借方ノ挙二由リテ、勘助ヲ駿州ヨリ招ク。
勘助ガ為人垣黒抄眼手足不具ナリ。
晴信見テ大二悦ヒテ云容貌如是ニシテ盛名アリ。其能可知トテ百貢ノ契約ナレドモ加倍之属卒二十五人、足軽隊将ト為ス。又、増五百貨卒五十人、旗本ノ足軽隊将原・小幡等ト列シ、五人衆ト称ス。
後信玄ト同シク除髪シテ号、道鬼斎。
知略絶倫兵法ノ微妙二達ス凡ソ後世武田家ノ兵法ヲ言フ者必ス勘助ヲ宗トス事ハ載諸録テ詳ナリ。
永録四酉年九月十日河中島二戦死ス。
年六十九。身千八十六創アリ。知行八百貰二至ル。
参州牛窪ノ人ナリト云。
按二勘助ノ死所ハ河中島八幡原トテ、八幡ノ小祠アル処ナリ。碑高畑村二在シガ、千曲河ノ涯崩レテ、今ハ芝村大宝寺二移シ、弥陀堂ノ傍二建ツ。旧物ニハ非ズ。山本入道鬼居士ト刻ス。銘文ハ略之。又、杵淵村輿厩寺ノ牌子ニハ神山道鬼居士トアリ。
 
 一本系図二ニ勘助ノ先験州源氏吉野冠者ノ後胤(鎮守将軍源満政ノ裔、本田重賢ノ男太郎重季号吉野冠者承久ノ乱二京方二在り。蓋シ是力。
 
今富士郡山本村吉野茂兵衛ト云者ノ所蔵天文永禄ノ間、今川家文書数通其外吉野氏ノ事間々見エクリ)
 
吉野浄雲入道貞倫累世山本村二住ス。八幡宮ノ祝戸ナリ。貞倫ノ二男弾正貞久、今川家二仕へ功アリ。更氏云、山本料ノ前立二八幡ノ神号ヲ彫ル家堅三巴ナリ。所領ハ山本ノ内三沢、石宮、参州加茂ノ内合三百貫、文明十戌年七月十二日戦死干参州「法名鉄関直入禅定門」、其男図書某(名亡)後改禅正妻庵原安房守妹也。
(異本ニ山本弾正ノ女庵原ノ妻トアルハ二代ノ安房守ナルヤ)
弾正ノ男数人アリ第四云源助貞幸年十二参州牛窪牧野看馬允ノ家令大林勘左衛門ノ養子トナリ改名勘助年二十二シテ、有故養家ヲ辞ス。諸州二偏歴スル事三十余年、後武田家=仕へ賜、諱字義晴幸時年五十二(戦死ノ事同前)
法名鉄岩道一禅定門、
駿州富士郡山本村宗持禅院二牌アリ。
 
北越軍談二勘助ノ父ハ牛窪ノ牧野新二郎成定ノ被官勘右衛門某也(又云半九郎)伯父山本帯刀左衝門成氏ニ従ヒ学兵法、又同州寺部ノ鈴木日向守重辰ニ兵法ノ奥秘ヲ伝へ参州加
茂都二帰り、今川ノ家老庵原安房守忠胤ニ倚ルトアリ。軍鑑ニモ庵原二倚居ス云。上京(但シ今川家二奉公ヲ望ミ庵原二頼ミ九年間駿州二在り云云。ト記シタルハ非ナリ。勘介原駿州ノ人庵原ノ近族ナル事ヲ知ラス。歯莽上玉へキ耳)
 
山本某
  勘助ノ男ナリ名未詳。一本系図作二勘蔵信供。天正壬午ノ後云ノ事アリ。軍鑑云子息両度場数モ有リシカト長篠ニテ討死ナリ(伝解源蔵二作ル)
源三郎ハ三国志ニモ見ユ幕府二奉仕壬午ノ起請文二同主殿助卜二人武田ノ近習衆トアリ、未夕勘助ノ男子ナリヤ否ヲ知ラス。又一系二饗場越前剰長ノ次男十左衛門頼元云者勘助ノ娘ヲ妻トシ山本氏ト改メ其男権平仕二永井信濃守森二山本勘助一上玉府中妙音寺過去帳二寛文十一亥正月二日
 
本覚院智証日意(山本勘助母)トアリ
 
○山本土佐守 
 
所祖未詳。羞シ本州二旧ク伝ハル氏ナルへシ土佐ハ武河南営二住セシト言ウ。彼士庶部ニモ記セリ。軍鑑ニ小人頭十人ノ列、横目付衆ナリ場数十一度ノ証文アリ一本系図二土佐ノ男弥右衛門、弥三左衛門、三看衛門
(壬午ノ起請文二小人頭山本孫看衛門昼屏アリ大坂軍記等二千本槍甲陽ノ旧臣云云山本弥五右衛門ト記セリ何レカ誤写ナラン)
弥右衛門ノ女嫁石坂金左衛門其子為山本嗣云、弥鵜衛門子孫武州八王子二在り。又一本二土佐守政道ノ男山本与次左衝門政法ヨリ系スル者アリ
 
○山本大琳 
軍鑑二伽衆トアリ医師ナリ幕府二奉仕ノ子孫有り
 
○山本帯刀成行
  始ヨリ幕府二仕フ烈祖成績云、永禄十一年辰三月命帯刀修築城郭改引間日浜松 (徳川歴代云帯刀甲州人勘介弟名重頼今従二松栄記事一)
参河風土記二帯刀ノ事載ス。始名ハ新四郎在越後、即チ勘助ノ弟ニテ兵学二達セシ由ナリ。後二幕府二奉仕シ賜五千石、但シ名頼重二作ル本州ニハ曽テ所聞ナシ。
 
「山梨姓氏録」山寺和夫氏著
山本姓
全国の各地に山本という地名があり、この地から数多い流派の山本氏が発祥した。全国の山本姓は、大別すると賀茂姓・藤原姓・清和源氏流・泉族・菅原姓・平姓・三枝姓の七流派に分類される。
 
「誠忠旧家録」
  中巨摩那 田富町 花輪の山本氏について、「誠忠旧家録」は次のように、その由緒を記している。
「左大臣藤原魚名の末孫山本勘助晴幸の裔にして九代後胤、山本式右衛門尚良、同八郎右衛門長建・同伊左衛門幸建」。さらに誠忠旧家録は「相州津久井境鶴川上野原通警備役、山本土佐守忠玄後胤山本金右衛門篤敬」と載せている。
「姓氏家系大辞典」
  「姓氏家系大辞典」によると、山梨県下の山本氏は、巨摩郡(北巨摩・中巨摩・南巨摩の三郡)の豪族で、山本土佐守は甲州武河( 韮崎市 大草町)の南宮に住んでいたという。
 
また昭和町西条の山本氏は、
  山本土佐守の妻の実家で、清和源氏新羅三郎義光の後孫であるという。
寛政重修諸家譜に「山本冠者義重の十七代の後孫右衛門忠恒(九郎左衛門、武田信玄の家臣〉-弥右衛門忠玄(土佐、徳川家康に仕えた)-弥右衛門忠房(千人頭)」と載せている。松本次郎三郎の子七左衛門(法名了存といい、府中の検断役を勤めたが、故あって松木.の姓を山本に改めた。また五郎兵衛は甲金極印を賜ったと甲斐国志は載せている。尚前記山本金左衛門についての記事は、一部重複の点がある。
 
山本勘助「甲陽軍艦」
 甲陽軍鑑によると、
・天文十二年三月、板垣信方の推挙で、駿河から勘助を武田家臣に招いたところ、武田信玄は非常に喜び、最初は知行百貫の契約だったが、倍に加増のうえ、二十五人の足軽隊将に取り立てた。
・その後五百貫の知行を与え、五十人の足軽隊将に格を上げた。これは武田家の宿埠である原・小幡氏と同列で、五人衆といった。
・後除髪して入遺し道鬼斉といったが、永禄四年九月十日川中島の戦に戦死した。行年六十九歳で身体に八十六を数える創傷があったといわれている。結局知行は八百貫にのぼる大身であった。
・愛知県牛窪の人で勘助の墓碑は芝村大宝寺の弥陀堂の傍に建てられ、法名を山本人道道鬼居士という。
・また山本一本系図によると次のように記している。勘助の先祖、駿州源氏吉野冠者の後胤吉野浄雲入道貞倫は、累世山本村に住み、八幡宮の神官であった。
・貞倫の二男弾正貞久は今川家に仕えて武功をたて、氏を山本に改めた。兜の前立に八幡の神号を彫り、家紋に三巴を用いた。
・その頃の所領は山本村の内、三沢・看官・三河国(愛知県)加茂の内等合せて三百貫だったが、文明十年七月十二日、三河での戦に戦死した。
・法名を鉄開直入禅定門という。
・醸正貞久の子図書某は後に弾正と名を改めた。弾正に数人の男子があったが、
○四男源助貞幸は十二歳の時、三河国牛窪の牧野右馬允の家令大林勘左衛門の養子となり、名を勘助に改めたが、二十歳の時、故あって養子先の大林家を去りへ諸国を遍暦した。
○そして遍遊三十余年後、武田家に仕え、武田晴信の晴の字を賜り、時事に改めた。この時五十二歳で、法名を鉄若造一禅定門といい、静岡県富士郡山本村の宗持禅院に位碑が安置されている。しかし、勘助の経歴については別説もある。
 
山本某
山本勘助晴幸の子で、名は詳らかにされていないが、一本系図によると勘蔵信供といい、長篠の戦に戦死した。また饗場越前利長の次男で十左衛門頼元という者は、勘助の娘を妻に迎えて姓を山本に改めたという。
その子権平は永井信濃守に仕、え、山本勘助といった。 甲府市 の妙音寺の過去帳に、寛文十一亥正月二日本覚院智鐙日意(山本勘助母)とある。
 
山本土佐守
祖先の事については詳らかにされていないが、山梨県に昔から伝わる家柄と思われ、 韮崎市 大草町の南宮神社に住んでいたという。甲陽軍鑑は土佐守は小人頭十人のうちの一人で、横目付衆であると甲斐凰志は載せている。戦場へ出陣の回数十一度という武篇の勇士で、山本氏一本系図によると、土佐守の子に弥右衛門・弥三左衛門二二右衛門の三男子がある。長男弥右衛門の娘は、石坂金左衛門の妻になり、その子が山本家の継脱になったという。この後孫は東京都の八王子に居住している。また土佐守政道の子山本与次左衛門政法の後孫も系を伝えており、今も栄えていると甲斐国志は記している。
 
山本帯刀成行
 永禄十二年三月、帯刀は城郭の修築をしたと甲斐国志は載せ、三河風土記は帯刀の初名は新四郎といい、越後国に住居していたと記し、山本勘助の弟にあたる人で、兵学に達し、その後徳川幕府に仕えて、五千石を領知し、名を頼重といったという。
 
山本大琳
 甲陽軍鑑は武田信玄の侍医で、その後徳川幕府に勤任した事が編年集成等に載せてある。
 
山本金左衛門( 甲府市 柳町)
 町年寄の役を坂田という者と二人で勤めた。五人扶持を支給され、侍屋敷の明地六百坪宛預けられたという。金左衛門の家記によると、祖先は松木次郎三郎という。
 
山梨市・ 塩山市 ・北都留郡・南都留郡・東山梨郡・西八代郡の調査対象中に山本姓は含まれていない。
 
山本内蔵助正秀・同新八郎昌書・同左近丞秀次
 宝暦年中二七五一~六三)、山本宮内丞という人が浪人して、 韮崎市 大草町の地に住んだが、後孫は 東京都八王子市 にあると甲斐国志は載せている。
  
山本姓と中村姓(北巨摩高根蔵原を探る)
《註》この高根町蔵原「勘助屋敷」存在は著名の先生方と報道が無理やり創作したもの。
 
「山梨県姓氏歴史人物大辞典」
 
 山元・山下・山元都・山茂都・山許とも書く。全国人口110万。上賀茂姓山本氏、伊勢内宮に奉仕する荒木田姓山本氏、近江国山本発祥の清和源氏流のほか、武蔵・三河・駿河などのも族があり、甲斐には巨摩郡の清和源氏義定流の氏がある
(姓氏家系)。
『甲斐国志』に、
武田家臣山本土佐守(忠玄)
巨摩郡武川南官(韮崎市)に住むとある。土佐守は『甲陽軍鑑』に小人頭十人衆・横目付衆とみえる。
その子忠房(弥右衛門尉)は武田氏滅亡後徳川家に仕える。
天正10年8月2日の徳川家印判状で巨摩郡甘利上条(韮崎市)などで42貫余が与えられ(韮崎市誌)、
同年9月5日の同家印判状では同郡若尾(韮崎市)・甘利上条などで45貫余、
さらに同17年11月23日の伊奈忠次知行書立では同郡長塚郷(敷島町・竜王町)・長松寺郷(甲府市)・上条東割(韮崎市)・上条北割(韮崎市)などで七四九俵余を与えられている(甲州古文書)。
関東入国後、忠玄・忠房は八王子千人頭となり、忠房の子忠告(弥右衛門)も同職をつとめた。
天正10年12月2日の武川衆定置注文に山本内蔵助がみえる。
 
天正起請文には、
近習衆に山本源三・山本主殿助、
小人頭衆に山本孫右衛門(弥右衛門)、
原隼人衆に山本源三、
一条衆に山本源三、
直参之衆に山本十左衛門の名がみえる。
 
また『甲陽軍鑑』は御伽衆に山本大琳を載せる。大琳は信玄の侍医であった。
 
山本十左衛門尉は
天正10年9月5日の徳川家印判状で巨摩郡下河原( 甲府市 )などで80貰余、
同2年間正月14日の同家印判状では下河原などで36貫余を与えられている(甲州古文書)。
 
天正7年6月1日の小山田信茂あて所に山本宗左衛門(義氏)が、
同10年7月9日の小池筑前守あての徳川家康書状に山本帯刀成氏の名がみえる(同前)。
 
また信玄の軍師と伝えられる山本勘助は、俗説では三河牛窪(牛久保)の出身で天文12年ごろ板垣信方の推挙で武田氏に仕え、足軽大将となって信玄の諸戦の軍議にあずかり、永禄4年の川中島の戦で戦死したという。
従来、勘助は『甲陽軍鑑』によって創出された人物といわれることが多かったが、
近年発見された市河家文書で実在が確認されている。
ただし、その活躍や役割については、『甲陽軍鑑』による脚色が多いとみられる。
 
『甲斐国志』には、巨摩郡蔵原村(高根町)の諏訪明神の江戸期の神主山本和泉、
八代郡内船村(南部町)の八幡峯神社の江戸期の神主山本修理の名がみえる。
 
慶応4年の書上では
蔵原村諏訪明神の神主は山本敬之介、
八幡峯神社の神主は山本肥後とある(甲斐国社記・寺記)。
 
『一蓮寺過去帳』には、
文明16年に山本とみえるほか、
慶長10年山本江雲ムスメ、
15年山本右近丞江雲斎、
同4年山本三郎右内主、
同21「年河尻町(甲府市)山本市衛門母とみえる。
 
「井伊家家臣」
山本元叙の曾祖父山本閑斎は山本勘助の末流で、武田氏滅亡後は医者として井伊家に仕えた(伊井家家士由緒書抄)。
八代郡内船村(南部町)の八幡神社本殿の文政六年の棟札に、大工源姓山本政兵衛森久の名がみえる(山梨県の近世社寺建築)。
『峡中家歴鑑』に載る西八代郡栄村船組の山本儀陸家は、本姓が藤原で、藤原鎌足の後裔藤原丹波之接を祖とし、嘉祥2年山城より甲斐に来て河合(河内)郷内船に住んだと伝える。
二四代与右衛門実賢は伊勢の北畠氏に仕えていたが、のちに浪人して同地に戻り、藤原を改め山本と称したとあり、同村八幡峯神主の山本家は同家より分家した藤原定光を祖とするという。
 
同書に載る北巨摩郡熱見村蔵原(高根町)の山本久稔家は、
武田義光の後胤山本七郎左衛門尉某氏を祖と伝え、
業氏は三河牛久保の郷士で、甲斐に来て武田晴信に仕え、武道兼勤の祝となり、神官職を継いだという。
慶応4年の書上にみえる内船村諏訪明神の神主山本敏之介は山本久稔のことで、明治7年解職ののち同村で帰農し、今の名に改めたという。
また同書に載る同郡大草村上条東割( 韮崎市 )の山本伊之作家は、
慶長年間同村に来て丸山(韮崎市大草町上条東割丸山東か)を拠点とした山本蔵之介に始まり、その子与三郎は帰農したという。
なお同家は三河牛久保の浪人で甲斐に来て晴信に仕えた山本土佐守を元祖と伝える。
さらに同書に載る中巨摩郡今諏訪村(白根町)の山本重太郎家の本姓は塚原で、永徳年間巨摩・山梨両郡に領地を有していた塚原讃岐守を祖とする。
その子弥六右衛門高雄は天正年間武田家に仕えたが、その子五郎市は故あって信濃諏訪に転居し、同地に帰来したときに諏訪明神の名をとって諏訪村と命名し、数代を経て巨摩郡一之瀬村(市之瀬村、櫛形町)の山本又兵衛の子五左衛門が養子となって同家を継ぎ姓を山本と改めたという。
 
『続峡中家歴鑑』
中巨摩郡睦沢村獅子平(敷島町)の山本文兵衛家は、豊臣秀吉の家臣で浪士となり、同地に来て寺院などを設立した山本某を祖と伝える。同書に載る北巨摩郡中田村中条上野(韮崎市)の山本又左衛門家は、三河牛窪郷士山本又左衛門の子で天文年間より武田家に仕え永禄四年川中島の戦で戦死した山本某を祖とし、その子帯刀は武田氏滅亡後同村にて帰農したという。
また同書にみえる東八代郡黒駒村(御坂町)の山本幸左衛門家の本姓は高野で、諸国を遍歴して真影流の達人となった高野雅楽之介を祖とする。その子幸左衛門は開墾事業に専念し名主をつとめたが、男子なく山本家より智を迎え姓を山本に改めたという。  
巨摩郡西条村(昭和町)の若宮八幡・義清神社の江戸期の神官山本忠告は山県大弐と親交があり『月鳴集』などを著した。
義清神社の神官山本高城の次男として生まれた山本節(元治元年~昭和13年)は早くから自由民権論を唱え、明治19年の『甲陽日報』創刊に参与し、『山梨日日新聞』主筆をはじめ新聞界で活躍、のち甲府商業学校教諭をつとめ、また峡雨と号して詩文に優れ、昭和14年『山本峡雨遺稿』が発行された。
なお作家の山本周五郎(明治36年~昭和42年)は本名を清水三十六といい北都留郡初狩村( 大月市 ) に生まれた。
『山梨鑑』には西八代郡市川大門村( 市川大門町 )の製紙業山本松書が載る。県内に山本は2039戸、山元は2戸。 甲府市 に多い。
【三つ巴・割菱・丸に三つ柏・丸に違い鷹の羽・丸に桔梗】
県内四三戸。 甲府市 に多い。【丸に違い矢】
 
北巨摩郡高根町蔵原 中村姓
 
『武田家過去帳』に弘治二年逸見蔵原( 高根町 )の中村右近丞がみえる。
『誠忠旧家録』によれば、孝安天皇の時代に山城国の砥仙太老司が甲斐に来て耕作を教えたといい、その子孫が巨摩王と号し、その後胤という巨摩郡小池村( 高根町 ) の中村治兵衛正俊。
また同書によれば、北巨摩郡熱見村( 高根町 )の中村与平の祖先は尾張の人といい、江戸期には長百姓をつとめたとある。
  
 北越軍談《勘助の項のみ抜粋、詳細は本分を熟読してください》
 
 天文十六年(1547)
 
 十月廿二日、景虎公年を越府へ班玉(かえしたまう)を、後殿(しんがり)は定の如く、長尾政景たりし。敵兵是を慕ふ事なし。其後甲信に入置るる諜者、春日山へ帰来て話けるは、…今度の逮口、甲州勢咬留(くいとめ)て分捕すべき評議たりしを、小幡山城守・山本勘助守の老武者頭を悼(ふっ)て、「景虎手合の一戦而巳(のみ)にて、何となく引入らるる事、深き慮有とこそ見へたれ。是を遂(おわ)んは不可也」と申けるを、晴信允容して諸軍を制止せらる、と云へり。
 
 又勘介晴信に耳語(ささやき)けるは、
「景虎は微弱と云へども、大丈夫の志気あり、天性弓矢の道を得られたる乎(か)。兵の捌き大奇の格たり。是陽中の陰にして大正変じて大奇と成れり。良将は克すれども、愚将は克し難きの格なリ。景虎内に物有て、純(もっぱ)ら偏強の体粧(ていたら)を示し、底に陽中陰の縮(しま)りを含蓄せらると見へたり。形の如くの敵には容易に戦を好まず、只不敗の備を設け、陰中腸の格を用て、彼変隙を待れん事至要なり」
 と諌めければ、晴信及腹心の族甘心すと云々。
 
件の勘助晴幸は背矮(ひき)て色黒く、関鴻(かしだ/スガメ)にて越跛(びっこ)なるが、築城栄法天官までも頤(おとがい)を探て練磨の士たり。父は東参河牛窪の領主牧野新三郎成定が被官にして勘右衛門某(又云半九郎と云り。勘助若年より武道に志厚く、京都将軍家以来間西に流布する中条流の剣術を伝えて、刺撃の法に達す。然ども「一劔の術一人の敵に対する而巳(のみ)にて万夫の雄を成し難く、主将の用に足らず」 と謂て、楚項羽の廢弛せられし芳躅(ちょく)に心を着、其伯父山本帯刀左衛門成氏に従ひ、士法を日夜に学び、同国寺部の鈴木日向守重辰に懇望して、兵権の微妙の味漸く佳境に入、管領上杉家に仕えて小禄を食めり。中年の比辞して遊客となり、関八州奥羽を始め畿内・中国の辺まで武者修行し、然して本国三州賀茂郡に帰り、今川家の宿老庵原安房守忠胤に椅て、義元の直参を願ふと云えども、種姓素より陪臣にして、五体不合期(ふごうこ)なるを陋(いやし)められ、其望達せず。空しく光陰を送る処に板垣駿河守信形が推挙に過(よっ)て、五年以前晴信是を甲府に招き、弓矢の師範とし、数貫文の所知を与えて、軽卒の隊長とせられる。其翌年年信州戸倉合戦の時、破軍建返(すがえし)の軍配を以て、甲兵の狼狽を救たる奇策、近国唱へて佳色を発す。
 
 是より武田家麾下の輩、勘介を称して「軍神の変化也」と申すと云々。
 或は云、彼勘介、軍術伝統の次第では、醍醐天皇の朝文博士中納言大江維時、勅命を蒙て、延長元年(923)癸羊五月(一本延喜五年乙丑三月十一日)葦航して入唐し、荘宗皇帝に聘礼を遂げ、明州の竜頌将軍に黄金若干斤を奉て、兵道軍符悉く附属得たり。凡そ在唐十余年、其間呉越の王元権、□(びん)の恵宗延にも謁見し、朱雀天皇の御宇承平四年甲午に本朝に帰帆、則携へ来る処の「陸韜三略勝図説四十二ケ条」、「天文取捨伝」等の兵書を桝}妊へ献納し、奏覧を歴(へ)るの後、辱も製解を賜り、維時参互考訂して、「訓閲集」を輯録し、日城軍誅の根元となす。天暦九年乙卯源満仲三日三夜斎戒して雄徳山八幡宮の宝前に會し、江家の伝規を受け、夫より「訓閲集」は小笠原家之相続と云り、紺時六世権中納吉匡房は、源義家に軍旅の指南有し。又中比洛の七条朱雀(一本今出川に住す)に鬼一坊義圓と云る宿曜師あり。張子房が虎之巻と号する。一軸を秘蔵す(伝来未詳)九郎冠者義経是を侍て熟読し、軍配戦代に発明して、規(のり)を大抵尉遼子の格執れり。件の一軸は故右て奥州曾津藤倉の邑難波(むらなんば)寺に遺れりとぞ。
 
 多聞丸(楠木)正成河州(内)に産して、八歳の時錦部郡檜尾山観心寺に入、学問の業を終し。十五歳に至て同郡加賀田の領主毛利修理助亮時親(維時の後胤、廣元之四世経光の男、老後芸州に移り郡山に住)に従ひ、彼家数代伝統の妙要を綿密に受継ぎ、武智計の道に長じ、用る処~六韜を専として良将の誉れ天下に震へり。此時日向の伊東六郎左衛門祐持在京して、公務の余暇、正成に會談を遂げ、其秘術口授を聴て、簡冊に記し留め、永く子孫へ伝へたりしを、
 
 勘介武者修行として鎮西へ下向の砌、伊東大膳大夫義祐(叙従三位)より授与せられ、是より軍道に徹底すと云々。
 又勘助城築の法に鍛錬の子細は、関東に於て、太田金吾入道道灌の流儀を習ひ、粗(あらあら)按排(あんばい)して甲府に来り、晴信の家臣大隅守虎吉、天狗山伏教誨を受し、榎(ちきり)の曲尺と云を伝授し、縄張の大綱を決得せり。晩年其要法を馬場美濃守信房に相伝ふと云々。
 

江戸時代に語られていた武田信玄と甲斐武将江戸の人々に話しつがれた甲斐武将

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江戸時代に語られていた武田信玄と甲斐武将江戸の人々に話しつがれた甲斐武将
『日本随筆大系』四十三巻より    ○内は巻数
 
一、兼信秘蔵の太刀 煙霞綺談(西村白鳥)
 兼信秘蔵の太刀三腰あり。赤小豆粥といふは三尺壹寸、鎌倉行光が作なり。川中島にて信玄と太刀打の時の太刀なりとかや。(中略)二度目の川中島夜戦に、甲州方の輪形月とかやいふ者を二太刀切付たるに、鎧かけて切先はづれに切付、あまり太刀にて輪形が持たる鉄砲に見当の上をはすに切落したるも、竹股兼光なりしとかや。云々
 
一、武田信玄 煙霞綺談(西村白鳥)
(前略)往前元亀三年春、甲州武田信玄遠州に出張し所々を攻撃し、それより三州に打越、吉田の城を襲、此時吉田の城には酒井左衛門尉忠次守り居たるが、無勢にして 難レ拒城殆危 。ときに地士林十右衛門景政といふ者あり。此者射術に達し、遠三の間に弓の弟子大勢あり。城危きによって彼弟子共大勢引き連れ、飽海口に出てふせぎ 放矢如雨脚(あめのごとし)依之甲兵隕命者居多(こうへいめいをおとすものそこぼこ)にして辟易し、信玄遂に振旅して皈甲州、(こうしゅうにかえる)次甚感喜あり。此由来を以て射術を励むと云ふ。云々
 
一、六郷の橋 柳亭筆記(柳亭種彦)
(前略)『小田原記』永禄九年武田信玄小田原に人数少なき隙をうかゞひおもひよらざる方より小田原へ押し寄せるといふ條に、「橋を焼き落として甲州勢を通さず。信玄品川の宇多河石見守鈴木等を追散して六郷の橋落ちければ池上へかゝり」とあり、この時橋を焼き捨てし事のあれば、北条家の盛りなりし頃そめしにや。云々
 
一、誰やらのはなし 八水随筆 著者未詳
予がしれる大井佐太夫殿の申せし御方、甲州の族にて、花菱を紋とす。此家に勝頼の備前徳あり。先祖の器とては是ばかりなれども、用なしとてわらはれぬ。
 
一、四家由緒 半日閑話(大田覃)
 秤師守随は武田義信後也。
 
一、曲淵勝左衛門由緒書 半日閑話(大田覃)
○高祖父勝左衛門吉景、武田信虎より勝頼迄奉公仕、甲州武川と申す谷へ住居す。天正十年勝頼生害後、先方侍扶助信長停止に候共、神君武川之者共一同に御扶助被下、忍て遠州相良辺に罷座候處、同年六月信長生害有之、甲州之国主無之、北条家より種々計策有候得共、武川之 共同心不仕、神君御進発に依て馳参、新府中御着陣之刻一同に被召出候。御出馬以前信州境小沼之小屋迄落し走廻仕候。
○北条御対陣の時、若神子口にて敵を物見可レ仕旨被仰出 、吉景並び彦助差物にて相圖仕、物見首尾能甚預 御感より、武辺之模様無比類、彦助父に不劣との蒙上意候。
 
○曾父勝左衛門正吉(始め名彦助)、父一同ニ被召出、甲州御発向之節、諏訪安芸守籠城に付、大久保七郎右衛門、柴田七九郎、武川者ども為案内被差向、即時に城際に取詰候時、安芸守使を出し、城内掃除致し明度可申旨に付、両将人数引上可申様之時正吉申候は、場所難所え城より喰留候事可有之申候得ども、武川衆を可存候哉、殊に小敵何事かあらんかと村々に引取候、案の如く城兵突出急に喰留候。武川の者取っ返し、城下音骨と申す處にて、何も敵を討取、城兵を追込、惣勢も備直し申候。
 
○天正十三年真田安房守御敵に成候節、武川の面々不レ残高名仕、一紙に御証文被レ下候。此御証文は曲淵一類折井市郎兵衛所持仕候。
  関東御入国の刻、吉景相州中村筋にて千五百拝領仕、吉景死後正吉跡式相繼可レ仕處、某事少々知行候得ども、武辺走廻に付格別に被下置 、萬貫文にも難レ替候父の武功に弟三人え分知奉レ願候處、願之通三人の弟え分知被 成下 、候。
 
正吉武州鉢形にて百五十石被レ下、関ヶ原之節走廻候仕、慶長九辰年三月御加増八十石被 下置 、都合貳百参拾石拝領仕候。大坂両御陣寄合並にて御供仕候。
昨日六日敵少々引出刻、父子別て被入精之旨令祝着候。 
彌此節走廻候専一に候。速に聞及に無相違候。
高々才覚尤候。恐々謹言。
八月七日 御諱御判 曲淵勝左衛門殿
  右之外本多彌八郎山本帯刀連盟状壹通、成瀬彦右衛門書状壹通略之。曲淵市兵衛・入戸野又兵衛
  神君武川の者共一紙に御証文被下、御納戸折井市郎兵衛所持仕書上可申候。(『萬世家譜』)
 
一、武田晴信書状  半日閑話(大田覃)    
十一月十七日        武田晴信判
天野安芸守殿 同 小四郎殿 今度宛行知行之事
 
一、
惣領御番入書付 半日閑話(大田覃)
安永五年十二月十九日
町奉行  曲淵勝次郎 甲斐守惣領
 
一、
飯富兵部、信玄へ目安を捧ぐ 半日閑話(大田覃)
飯富兵部少輔信縄は武田信玄に仕へて恩顧を蒙りしが、後に命を背て殺害せらる。飯富が信玄に捧る所の目安とて、今に相傳ふ。左に載て好古の士に示す。
 
一、
謹て申上候。山羅利源太左衛門義、去々年以来、馬場、内藤、高坂を以て御訴訟申上候通、彼源太左衛門義不届之義兎角可 申上 様も無 御座 、雖レ然者祖父より信虎様へ御奉公申上、度々盡粉骨一命も不可在 勝計 候。源太左衛門御救知の前、芦沢韮崎諏訪にても忠功為レ仕者の事に候間、一度は御免被成被下候様に、去々年より申上候。其上彼者親々某にも御対し御赦免候はゞ、忝可公存候趣申上候共御承引無 御座候。従 先祖 持来候八代郡の内早澤村、山梨郡の内岡村を被 召上 林田に被レ下候。不及是非 御意□に奉存候。
八カ年が間に某申上候事は御取揚も無御座失面目申義度々御座候、いか様の御悪みにて御座候も覚悟不レ仕、五三年は某一門の者共小過之義にも御取消被成候。御恨可 申上 義には無 御座   候得共、某数年御奉公申上候筋目にも御対し被レ成可被下儀と奉レ存候事。
 
一、
可申上儀には無 御座 候得共、信虎様駿州へ御越被成候儀も、皆拙者覚悟を以てと奉レ存候。其刻信虎様御恩賞之者共一身仕御願可申上と申候節、某晝夜到工夫 、或は遂 成敗 、或は遂追放 、或は御救官に異議なく申なし、一圓に平均仕候義、恐くは某奉公の専一にて候。其段思召忘被成まじと奉レ存候事。
 
一、
信虎様駿州へ御越被レ成候様子に付、弟惣一郎を以、色々御懇意の御書類下候。すこしは其忠をも被 思召 可被候事。
 
一、
近年老の仕合共に候間、御願被成候與力同心差上申度旨馬場以申上候得共、戦国之内御免被成間敷と御内意之旨に候間、申上候事無用と達て申に付、今に御奉公申上候事。
 一、
隣国御働之節、御先を仕り強敵と数度防戦仕候得共
、一度も総角を見せたる義無 御座 候に付士之覚悟
命を塵芥よりもて御奉公を遂申も、五度に三度は御
眼前に候間、御失念も被成間敷と奉存候。某愚案短
才之義は御存の前に候間、是非を御免被成御奉公仕
候様御下知奉仰候。是等の趣可然様に御披露頼入候
。恐惺謹言。
九月二十一日 飯富兵部信縄
進上 土屋右衛門尉殿 御披露
 
 信玄より返簡、曰
 
一、
由羅利身上之儀難申段聞届候。源太左衛門も三代の
奉公、其身こゝろばせ遠廻り無失念候。永禄元年之
秋、荻田大膳企逆意北条氏繁と申合、其信州へ働き
候跡へ氏繁を會坂口より引入、既に甲州へ可押入企
候を聞出し、右之荻田が在所井尻村へ原美濃守、多
田淡路守両人を遣し夜込に紛討果候き。荻田弟恵林
寺は近辺に隠置き、源太左衛門夜中に連出し、関東
に落し申段。目付横目之者共某に申聞候間、即時に
可遂成成敗候處、其方如レ申親より代々忠節の者たる
によって、一言之沙汰無之立置候。
去々年信濃和田を成敗の刻、依為 知音 成敗仕義を
心得、其子に早く知せ越後へ落し候事不及是非候。
重々の誤りに在レ之候間、成敗可申付 事に候得共、
其方眼前の者といひ、祖父親の忠節に対し命を助け
、坂を越させ候事、信玄裁許誤有之間敷候。
一、
信虎駿州へ遣申義、我等若輩より其方信形両人を指
図を得候事少しも無 失念 候。但し、其形対 信玄
奉公之節には、東郡にて五千貫、逸見郡にて三千貫
、都合八千貫領地を遣し、信州手に入る刻、諏訪に
も五千貫づゝ其方と信形と令 扶助候。年来奉公之一
筋は無 失念 所可被存候事。
一、
其方婿南部壹岐守、信玄にも従弟にて武道さして悪
敷仁にても無レ之といへども、分別もなく思案もな戯
者にて、其小姓の内悪口者共と同意致し、山本勘を
悪敷沙汰仕、何の役にも不立者を信玄尊敬致す様に
申なし候事。万一信玄に面目を失せ申す道理なり。
南部如レ申に小幡山城、原美濃などより勘助場数は抜
群内の者あり。雖然敵の形備上用捨善悪を知り、其
上他国の軍立万事武士道暗き事なし。是を弓箭をの
道を知る士といふ由、山城美濃も勘助を□申も道を
能知故なり。武士道の是非を知たる士を悪口仕、武
士道無穿鑿にしてまかせ過言を吐事非 武士道、左様
の国賊を家に不可レ置とおもひ追放するものなり。彼
が非は其方も能可レ存事。
 
一、
其方信州關木にて我等先を仕強働候段、慥に信玄見
届候所なり。然といへども方便強弱の心なくしては
、強敵には不勝者なりといふ事名将の掟なり。其方
先年芦沢奥の山家へ働候節□番を以て深く不可引取
かへ敵□形如是、其後は二目の合戦仕、物のよし常
に彼らによって□番の者を三度迄遣、引取り候へと
下知なすといへども、例の勘助流の臆病方便候と□
番に悪口し、指図に応ぜず深入し、喰留められ退く
事難レ成、其方備に付置候態引、鹽塚、木田、八代、
唐柏等の者共迄にて、其方も深手三カ所を負ひ、引
退候得共敵際迄したひ、半途にして身体究り候刻、
信玄が方便を以て多田淡路守、原隼人、すこやかな
る若者差添遣し脇箭を射させ、無レ恙引取候事、定て
忘有間敷事。
 
一、上之諏訪、下之諏訪と海辺にて頼重と戦ふと、
□番を以強ふ可戦、地形廣し二之手を以可勝場所な
り、軽々と会釈し、右之方へ引上候へと度々申遣候
得共、其指図にも応ぜず、強きを以て第一として、
敵の方便に乗り、追掛切崩し押行候所に、頼重思圖
に引入れ、かくし置たる二の新手を以切掛り、其方
備を急に切崩し、追討に板垣横筋違におめいて懸る
を見て、諏訪衆足並を乱し敗軍する所を、板垣が先
駆の者追懸り敵を二三百討取候。
其方は手之者七十三人、歩の者五百餘討せ、敵を六
十五人討取負軍して帰たる義失念在間敷候。右之様
子身に取ながら、信玄が方便工夫一圖に弱きと申候
よし聞候といへども、先忠に対し其上強き計りを能
と知、勝取る道を知ざる者と兼て思ひ、脇の者に諷
せて色々申聞候得共無 同心 候。依レ之信玄が軍法と
其方軍立とは格別なり。談合といふは大形似たりた
りの心にてこそ首尾する者なり。其上皆其方を一騎
合の葉武者と存るとは、何事に付ても我等同心無之
者なり。雖然上は今迄の覚悟を捨、信玄が采配を守
り、指図に応じ一命を、戦功を励まれ候はゞ、全く
非疎意候。能く可在分別者なり。委細、右衛門尉口
上申含候者なり。
      飯富兵部少輔殿
 
一、下御霊社司板垣民部談 遠碧軒記(黒川道祐)
(前略)さて社家は代々春原なり(中略)これが中絶の時に甲斐の板垣信方の子、(信方は病死、子の彌次郎者為 信玄 被レ害て跡絶ゆ)同彌次郎が遣腹の子が、母とも京に流れ落て後は丹波に閑居す。この子成長して南禅寺の少林寺へ遣し、出家して正寅と云。これを室町より肝煎してをとして社司とす。これが中比の社僧寿閑の親なり。云々
 
一、馬場三郎兵衛  閑憲瑣談(佐々木高貞)
(前略)實は本国は三州、生国は甲斐にて、即ち物奉行馬場美濃守が妾腹の末子、幼名三郎次と申す者にて候、領主(信玄)逝去の後、世継ぎ(勝頼)は強勇の無道人、其上、大炒、長閑の両奸人、国の政道を乱し、諸氏一統疎み果候始末は、甲陽軍艦に書記したる十双倍に御座候。
されば□(長篠)の合戦の節も、先主以来の侍大将ども、彼是の諫言を一向用られず、美濃守を始めとして覚えの者ども大勢討死。夫より段々備えも違ひ、終には世継も滅亡致され、其頃私は十歳未満の幼少故に、兄にかゝり罷在候へども、甲州の住居も難叶、信州に母方の由緒有之故、玉本翫助が末子、八幡上総が甥等申合 、三人ともに、信州に引込、往々は中国へ罷出、似合敷奉公をも仕らんと、年月を送り候所へに不慮難波鎌倉鉾楯にて、難波籠城是天の与えと手筋を以て間も無く城中へ召出され、千邑繁成が組与力となり、云々
 
一、武野紹鴎 鳴呼矣草(田宮仲宜) 
武田印旛守仲村は、武田信光の裔なり。退隠して武野紹鴎と云へり。家宅は戎の社に隣し故、大黒庵と自称す。其滑藝見つべし。
 
一、奇人(かたわ)齋諧俗談(大朏東華)
相傳へて云、甲斐の武田信玄の家臣山形三郎兵衛は兎唇なり。山本勘助といふ人は眇なり。云々
 
一、孫子旗 昆陽漫談(青木昆陽) 
甲州萩原村雲峯寺に、武田信玄の孫子の旗あり。その旗左の如し。孫子の旗長さ壹丈壹尺六寸、幅二尺三寸。疾如風。徐如林。侵掠如火。不動如山。と云ふ文字ありて、紺地文字金銀なり。                    
諏訪法性の旗、長さ壹丈三尺五寸、幅尺五寸、南無諏訪南宮法性上下大明神の文字あり。赤地文金銀なり。日丸花菱の旗もあり。赤地。紋黒。
 
一、賜一字  昆陽漫談(青木昆陽)
先年甲州よ出だせる書に、一字を賜ふときの書あり。
其文左の如く。
   實名          君好 
  天正四年丙子七月六日 信君 判
 これは武田信君と云へり。
 
一、武田番匠 秉穂録(岡田挺之)
通志に、今之庸俗以ク船輸善揄材。凡古屋壮麗ナル者、皆曰魯船造ルト殊不知、船為 何代之人 と、此士にも、飛騨の工、武田番匠が建たるといふ事多し。似たる事なり。
 
一、悪瘡解  嘉良喜随筆(山口幸充)
 (前略)
右論弁甲斐国小笠原住人大醫法眼柿本之述作也、門弟親聴謹書 諸冊後 。
 
 
一、近衛殿姫甲府へ御祝言の道具の内、嘉良喜随筆(山口幸充) 
衣架、机帳、鏡、二階棚、二階、火取、□(ハンサウ)、香辛、硯、料紙箱、筆持セ、亂箱モ木地、見臺(各説明、図有り)近衛殿姫君、甲府ヘ婚礼ノ時、品川ヘ御着ト、公方ヨリ乗物並傘ヲ遣サル。江戸入ノ時、右ノ傘ヲ乗物ノ上ニサシカクル。云々
 
一、穴山梅雪 嘉良喜随筆(山口幸充)
(前略)扨穴山梅雪ハ、勝頼ヲ叛テ家康公ヘ與シ、甲府ヘノ手引ヲセント云、夫ヨヲ信長御聞、穴山ガ分ニテ無 覚束 トテ承引ナシ。モハヤ甲府ヘハ不レ被レ帰シテ、家康公ヲタノミツキ従ヒ、堺ヨリ牧方迄御出、横ニ御キレ、八幡ノ南海道ヘ御通ノ時、穴山コト家康公ヲ疑ヒ殺サンカト思ヒ、跡ニ下ル時ニ、庄屋モ子ヲ案内ニツルル。此子銀ツバヲサス。関東者ニテムゴキ者ドモニテ、穴山ガ下人是ヲ殺シテ鍔ヲトレリ。此子供ノデツチアリテ、主ヲ殺タヲミテ、イバラグロヲクゝリテ家ニ帰リ是ヲ告グ。一在所一揆ヲ起シテ穴山ヲ殺ス。此内ニ家康公ハ、ハヤ草内ノ渡ヲ御越也。此渡ヲ御越ナクバ、家康公モ危カラント也。
 
一、甲州判  嘉良喜随筆(山口幸充) 
扨甲州判ト云ハ、関東ハ古ヨリ金子ノトリカヒナリ、上古ハスナガネニテ、交易、コレヲ砂金ト云、信玄ノ時領内ニハ甲州判ト云ヲ拵ユ。云、是ハ金ヲ銀子ノ豆板ノ如ニシテ、二部三分一匁二匁マデ段々アリ。其後家康公駿河州判ニ御座ノ時、今ノ一歩出来テ、甲州判は止ヌ。
 
一、覚、南部先祖 嘉良喜随筆(山口幸充)
南部先祖ハ皇孫にて人王五十六代清和天皇より始まり、其苗裔新羅三郎義光、其子刑部三郎義清、甲州に居住仕、家名武田與申候。其子清光、其次男加々美次郎遠光、其子三郎光行、或は信濃三郎共申候。是当家之先祖に御座候。
一光行事、甲州巨摩郡知行仕。同郡南部に居住仕候故、家名を南部と申候。一文治年中奥州合戦之時、光行軍功御座候に付、従 右大将頼朝 、奥州之内糠部以下之数郡恩賞に被レ行、依レ之甲州より下向仕候。当年迄五百五十餘年代々領知仕候。一家幕紋割菱に御座候。其後鶴之吉端之故有之、双鶴之紋用申候。
一光行より当時修理大夫迄三十三代にて、代々血脈を以系統相続仕候。右の通御座候。先祖より代々持傳候系図、数百年之事に御座候得ば、殊之外虫ばみ、文章難 見合 御座候に付、今度書替仕度奉レ座候。云々
 
一、新羅義光 烹雑の記(滝沢馬琴)
鳥羽天皇の天仁元年戊子春二月、源ノ朝臣義綱を、佐渡国へ流す。舎弟義光に誣(しひ)られ、無実の罪を得たればなり。
 
 
一、信玄碁石金 茅窓漫録(茅原定)
(前略)甲州には信玄碁石金といふあり。一分金は碁石金に傚にやあるべし云々。〔割注〕碁石金は甲陽軍艦に出たり。圖録に露金を出し、此ノ類なるべしといへり。圓形なり。
 
一、いぐち  一話一言(大田南畝) 
缺唇に勇士ありといふ事をかたる人の曰、(中略)武田信玄に山懸三郎兵衛昌景(中略)いぐちなり、いつれも大剛の士也。
 
 一、三駿河 一話一言(大田南畝)
越後上杉謙信家老宇佐美駿河守定行、武田信玄内加藤駿河守、安芸毛利輝光臣吉井駿河守元春是三人也。
 
一、仁科五郎 一話一言(大田南畝)
天正十年二月穴山梅雪逆心に付勝頼も諏訪を引取織田城介信忠卿は仁科五郎信盛の籠候高遠の城へ御取詰奥沼原に御馬を取立使僧を以て仁科五郎降参仕候へ其子細は武田家人大半逆心仕候間勝頼滅亡近日に候各誰が為に城を持候はん哉早々降参尤と被仰遣仁科五郎小山田備中則御使僧の耳鼻をそぎ追返し一戦可仕旨返事也城介殿御せき候て高遠城を一時攻に攻取玉ふ小山田備中切て出城介殿を目がけ討取んと数度仕候へども不叶引て仁科五郎と備中守渡辺金太夫春日河内守原隼人金福又左衛門諏訪庄右衛門以下十八人大広間に取籠り死狂に相戦中にも年頃三十五六なる女房緋威の具足に長刀を抜て水車に廻し諏訪庄左衛門が妻と名乗て七八人なぎたほし其後自害する大広間は七間に十二間の家なり是に取籠り候故寄手も攻あぐむ城介信忠は浅黄金襴の母衣かけ玉ひ広間の前の塀に御上り候塀に沿て桐の木あるに取付ざいをふり身をもんで御下知被成遂に仁科五郎小山田備中せい盡て自害する高遠落城の四日目に見物せし人は被語候は彼大広間天井も柱も鑓跡太刀跡さては血に染り明所なし庭に残雪ありしが血かゝり紫雪になりたり地下人ども掃除に来りて居る其者ども申候は是なる塀の上に城介殿御上り左の御手にて此木とらへざいを御取被成候小山田備中も仁科五郎殿も城介殿を見しり七八度も切てかゝり候其時太刀跡鑓跡にて候いふ城介殿御取付候桐の木にひしと疵あり扨広間に二間の大床あり張付のから紙あり血腸なげ付指の跡四筋血にて一尺計も引て見ゆる地下人に尋候へば大将仁科五郎殿此床に上り自害腸を抓んてから紙へ打付手を御拭候其指の跡と申候仁科殿は年十九にていまだ前髪ある勝たる御若衆にて候と語る扨天井をみれば鉄砲の玉の跡いくらといふ事なし是を尋れば答て曰仁科五郎さすが信玄公の御子なればつよく御働小山田備中をはじめ十八人狂廻り討かね候故森勝蔵殿の衆屋根へ上り板をまくりて上より鉄砲ずくめに仕候と語りたり後勝蔵一手の衆を高遠の屋根ふき士と異名に付て笑ひしと也。
 
一、天明四年十二月廿六日火事 一話一言(大田南畝)
夜四半時頃八代州河岸より出火候處西北風烈数左之通焼失翌廿七日暮六時過火鎮り申候。《甲斐関係のみ抜粋》
 町奉行 曲淵甲斐守   
同六年正月廿二日火事、同廿三日火事
御小姓組 白須甲斐守組 松平典膳

信虎と信玄 『甲陽軍艦』 「品第三」

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『甲陽軍艦』 「品第三」(訳)
 
甲斐源氏の国主武田信虎のご秘蔵の鹿毛の馬は、身の丈四尺八寸八分(1m48cm)その性といい姿といい、かの頼朝公の「生食」「摺墨」にも劣るまいと近国までも評判の名馬であったので、「鬼鹿毛」と名付けられた。嫡男の勝千代殿(信玄・晴信)はこの馬を望みになったが、信虎公はなみはずれた非道の大将だったので、たとえわが子の望みであっても、この馬を与えるつもりは少しもなかった。そうはいっても、嫡男からの要望を無視するわけにもいかず、最初は、「勝千代はまだ若年のため、あの馬は好ましくない。明年は十四歳になり、元服するので、武田家に伝わる郷義弘の太刀、左文字の刀、脇差、二十七代伝わる御旗と楯無の鎧ともども、あの馬を贈ろう。 とのご返事であった。
 これに対して勝千代殿が重ねてお願いするには、「楯無は、そのかみ新羅三郎義光公の御具足、なおもって御旗は八幡太郎義家公より伝わるものであります。また太刀・刀・脇差はお家代々の品々、それらにつきましては、御家督を下さるときにこそ頂戴すべきもので、来年元服であるからといって、部屋住みの身の私にとってどうしてお受けすることができましょうか。 しかし馬のことは今からこれを乗りこなして、一年後には父上がいずれご出陣の折には、お後ろにつきまして警護申し上げるつもりで、所望申し上げました。それなのに、父上があのように言われるのは承服できません」
 これを聞いた信虎公は、並外れた短気な方であったから、大いに怒られ、怒鳴り散らしたと言うには、「家督をお前に譲ろうが譲るまいが、私の考えが誰にわかるものか。代々家に伝わるものを譲ってやるというのに、それがいやだというのなら、次郎(信繁)を惣領として父の命令を聞かぬものは追い出してくれるぞ。そうなった時に諸国を流浪して、その果てに頭を下げて許しを請うても決して許さんぞ」と。備前兼光の三尺三寸(1m)の太刀を抜き放ち、勝千代の使いの者を主殿の方に追い払われた。しかしながら、その場に居られた禅宗曹洞宗の高僧「春巴」が、信虎と勝代の仲を取り持ち、それ以上の揉め事にはならなかった。 しかし以後もお互いに心が通わずに、信虎公は事あるごとに勝千代殿を冷遇したので、ご家中の人々も身分にかかわらずみんな軽んじるようになってきた。 勝千代殿は、こうした様子を見られて、なおさら愚かな振りをなされ、一例を申せば、馬に乗れば落馬し、背中に泥を着けたまま信虎公の御前に座っていたりした。また字を書けばわざと下手に書き、泳ぎすれば溺れて人に救われ、大きな石や材木で力比べをすれば、弟の次郎殿が二度持つものを勝代殿はようやく一度しか持たなかった。 何をさせても弟に劣った者であると、信虎公が不満を申し上げるので家中の人々も勝代の悪口を申していたという。
  にもかかわらず、駿河今川義元公のお世話によって、勝千代殿は十六歳の吉日、元服なされて、信濃守大膳太夫と晴信となられる。任官のためにかたじけなくも宮中より、転法輪三条左大臣公頼卿が甲府に下向された。
 また勅命によって、三条殿のご息女を晴信公に娶わせられ、その年の7月に興し入れになられた。また同年十一月は、晴信公の初陣となった。その時の相手とは、信州海野口の城に籠もっていて、信虎公はそこのご出馬、直ぐに城を囲まれたが、城中には多くの軍勢がいて、しかも平賀源心入道という勇猛の者が加勢に来て籠もっていた。その上大雪も降りはじめて城が落ちる様子はない。
 そこで甲州勢は集まり相談し、その結果を信虎公に報告した。「城の中には三千人もの軍勢が立て籠もっており、急いで攻めても城が落ちる見込みはありません。攻める味方の人数も七、八千人を超えぬ状態であります。今日は十二月二十六日で、年も押し詰まっています。ここは一度甲斐に帰陣して、来春に攻撃を再開することが賢明と思われます。敵方も大雪でしかも歳末のこ、追いかけてくることは決して有りません」 と申し上げた。この考えに信虎公も賛成され、それならば、明日早々に軍勢を引くことに軍議が決まる。
 その時、晴信公が出てこられ、
「それならば、私に殿(しんがり・後備)を仰せつけられたい」 と、お望みになった。これを聞かれた信虎公は、大いに笑い、「武田の家の恥辱になるような事を申すものだ。老巧の者たちは、敵が追撃してくることはあるまいと申してあるのだから、例え殿を申しつけられても、いや、次郎に仰せつけられよなどといってこそ、惣領というものではないか。次郎であれば、まさかそのような事は申すまい」 とお叱りになった。だが晴信公がさらに殿を希望なされたので、それならば好きなようにせよと、仰せられ、二十七日の晩、信虎公はご出発なさって陣を引かれた。 さて晴信公は、東の道三十里ほどの所に残り、ようよう三百人程の軍を率いて用心深く陣をはった。その夜は食糧を一人当たり三食分づつそろえ、何時でも出立てできるように、皮足袋・脛(すね)あて・甲冑も着たままで、馬には十分に飼葉を与え、鞍も着けたまま明日は早朝から出発という仕度をさせた。そして、「寒空なれば、上戸下戸にかかわらず酒を呑んで体を冷やさぬようにせよ。夜七つ時(午前4時)頃には出発する。心積もりを万全にしておけ」とご自身で触れて歩かれた。
 しかし自軍の人々は、晴信公の思慮深い考えが理解できないで、「なるほど、信虎公が晴信公のことを悪く言われるのは当然のことだ。この寒空にどうして敵が追撃して来るのものか」などとお互いにつぶやきあった。 ところが殿を務めるはずの晴信公は七つ頃陣立てして出発、甲府には帰らず、もと来たほうに戻り、城にいっきに攻めかかった。軍勢3百人ほどで二十八日の早朝、難なく城を占拠してしまわれた。
 当時、城の中には主な武将は平賀源心だけで、その部下の者も二十七日には、すでに帰ってしまっていた。源心も一日の休養とって、寒さも厳しい折から二八日の日中には城を出ようとゆったりしていた。また土地の武士たちも正月の意をするからといって、皆、里に戻っており、城中には七、八十人の武士が居ただけであった。したがって、源心をはじめ城を警備していた者たちは討ち取られた。晴信公は「首級をあげることは無用だ。平賀源心の首だけをここに持ってまいれ」と命じられ、首を御前に置かせた。そして城付近の家々を焼き払い、不意をつかれた侍どもを、そこここで二十人、三十人と討って捨てる。(略)敵の中には武勇に優れた者たちも多く居たのであるが、既に城は取られてうえに、まさか晴信公の部隊だけとは気づかず、信虎公が引き返して戦っておられるものと思い込む、一万にも及ぶ軍勢が攻めかかってきたのでは、とてもかなうまい、女子供をつれて逃げるのが第一------と逃げ散り、崖や谷に落ちて死んでしまった。まことに晴信公のお手柄は、古今まれなものであると、他国の家中の人々までも賞賛したことがあった。(略)これは信玄公が十六歳のときのことであった。 
《筆註》さてここからが信虎、駿河退隠に関する直接的な話となる。
  ところが信虎公は、これについても、「その城にそのままいて、使いをよこすということもせず、城を捨ててきたとは臆病な振る舞いだ」 と悪くいわれたため、ご家中の者も、十人の内八人までは晴信公を褒めずに、「たまたま運がよかっただけだ。加勢の者も散り、地元の侍も里へ下りていたのだから、城は空き城だったのだ」 などという者もあって、なみなみならぬお手柄と感じる者はなかった。 そして、信虎公のご機嫌をとるためには、弟の次郎殿を褒めるのが第一と考え、心では晴信公に感心しても、表面では悪く言う者ばかりであった。弟の次郎というのは、後に典厩信繁と呼ばれた人である。
ところで晴信公は、まことに珍しい大人物であられた。これほどの手柄を立てながら、奢る様子もなく、なおさら愚かなふりをしておられた。そして、度々駿河の今川義元公に手紙を送られ、「信虎公は次郎殿を惣領に立て、自分を庶子にしようといっておられますが、このことについては、義元公のお考え次第できまることであります」などと、いろいろと頼みこまれた。そこでまた、義元公も欲を起こされた。「信虎公は自分の舅にあたり、年長の、しかも勇猛な人であるから、領地は甲州一国ではあっても、自分の家来になることはよもやあるまい。あの晴信を引き立てておけば、間違いなく家来となり、息子の氏真までも武田を従えておくことができよう」 と考えられたのである。かくして、義元公は、信虎公を駿河に呼び寄せておき、その留守に晴信公を駿河に呼び寄せておき、その留守に晴信公に謀判を起こさえ、信虎公を追い出されたのである。これはひとえに、今川義元公の計画によるものであった。以上
 だがこれについても、信玄公の深い考えがあったのである。信虎公が次郎殿を惣領にとお考えになったことは、もっての外のお誤りであったが為に、ご先祖の新羅三郎義光公のお憎しみを受け、あのようなご浪人の身分となられたものと思われる。
 
≪真相はいずこ≫
1、 『武田信玄』上巻 上野晴朗氏著 「命がけのクーデター計画」 (略)若き晴信が、信虎からさまざまにうとんぜられ、冷たくされ、疎外されていよいよその危機がせまったとき、思い悩んだすえにその苦悩を譜代の重臣、板垣信方・甘利備前・飯富(おぶ)兵部らに相談してみると、日ごろ信虎の武政治に危機感をいだいていた重臣たちは、たちまちに秘密裏に晴信のもとに結して、逆に信虎を追放しょうと企てたのである。(略)いずれにしても、晴信にとって命がけのクーデターは、さいわい見事に成功した。云々
 2、『風林火山』 無生庵宗良(山瀧功)氏著「武田信玄の和歌物語」
  夏の嵐ほむらたつ 栄華を今に 偲びつつ 夜来の雨に  枝の落ちゆき
 信玄は父信虎を駿河へ追放し、政権の交代を計った。信玄はなぜ実の父に対してクーデターを企てたのか。父信虎は戦いは強かったが、粗暴で評判が悪く、家督を弟の信繁に譲ろうとしていた事にも因があり、更に経済的問題があった。当時天候不順で農作物がとれず大飢饉の状態にかかわらず大軍を催して信濃攻めをした事で国中の人々の怨みを受けた。信玄は重臣と謀り、甲斐の国のためにあえて父を追放した。云々
3、『甲州・武田一族滅亡記』 高野賢彦氏著
 (略)廃嫡されようとしていた信玄は、おそらくこの苦衷を指南役の板垣信方に打ち明け、父を追放する謀略を慎重に練ったものと思われる。(略)信玄は「今川義元にとって父は恩人であり舅でもある。しかし義元は猛将の父に北方から睨まれていては不安であり、若年の自分に恩を売る方が将来のために得策と考えるであろう」と思い、熟慮の末、今川家へ追放することにした。(略)「甲陽軍艦伝解」によれば、信玄の謀略を知らない信虎は、次郎の信繁を居館の留守居とし、廃嫡する信玄を甘利虎康に預けたうえで、「一左右次第(いつそうしだい)、駿府へ参れ」と言い残して甲府を発った。しかし後からやってきたのは国境を閉鎖する板垣信方らの軍勢があった。信玄は易筮(えきぜい)により自分の運を信じた。そして事が成就すると喜悦し、信虎を悪人に仕立て上げることに腐心したのではなかろうか。
 4、『武田三代』 新田次郎氏著 (略)信虎のあまりにも非常識なやり方に、武田の家臣団が結束して反抗し、信虎を追放して信玄を領主に戴いたのである。この無血革命には駿河の今川義元も一枚加わり、追放されて来た信虎を引き受けて軟禁し、その保護に当たったのである。云々 
5、混乱する『甲斐国志』の記述
 さて、ここまでさまざまな資料や歴史家の考えを見てきたが、信虎の駿河退隠の真相は一向にわからない。つい数ヶ月前までは信虎の治世であり、家臣団のほとんどが信虎の配下であり、信玄が用意周到のクーデター計画をしている隙間さえ見当たらないのである。 その信憑性は兎も角『甲陽軍艦』には、この件についての記述が散乱している。ここでは、こうした記載を羅列してみたい。(一部改編)  
品第十八(引用、『甲陽軍艦』訳、腰原哲朗氏著)
1、父信虎が28歳のときに、駿河の福島という武将が、主君の今川義忠を  亡命させた上、甲斐に侵入したが、討ち取られた。この日に信玄は生まれた。
天文5年の項 信玄16歳
1、信虎、天文5年11月21日から信州海ノ口を34日間攻めたが、条件が悪く攻め落せなかった。
2、 信玄、(16歳)がこれを攻め落とした。信濃大膳大夫と称していた。ただし、戦場での名乗りは晴信公と言われた。云々 
天文7年の項 信玄18歳
1、天文7年、正月元日に、信虎公は子息の晴信公へ御盃をつかわされずに、次男の次郎殿へ盃をつかわす。それで板垣信方を通じて、信虎公より嫡子晴信公へ仰せがあった。その趣旨は、太郎殿のことは、駿河の義元公の肝いりで、信濃守大膳大夫晴信と名乗っている間に、今後とも義元の元で、さまざまな教示を受け、思慮深くなるための作法を身につけるようにとの事である。晴信公はお答えして、ともかくも信虎公の御意に従う旨申しあげる。かさねて飯富兵部のつかいで信虎公が申された。その趣旨は、「この三月より駿河へ行って、一、二年は駿河ですべてにわたって、学んできなさい」というもので、その間にも次郎殿を惣領にして、嫡子晴信公を長く甲府へ戻らせないおつもりが信虎公の真意らしい。それが晴信公十八歳の時のことである。

『甲州韮崎合戦』の項
 天文7年、信州の大将の諏訪頼重と同国深志(松本)の小笠原長時が談合した。近国甲州の太郎晴信を、信虎が見限って、次男を惣領にしようとしたことから親子の仲が悪くなった。それで晴信は知略をめぐらして、姉婿にあたる今川義元を頼み、信虎を駿河に追放したしたと聞いている。そのため甲州の勢力は信虎と晴信の二つになっている。その上、信虎が信州の領地を少し治めていたけれども、今は甲州さえも晴信の手の負えずに混乱している。云々(略)甲州勢は、ことし信虎を公を追い出した折だったから、勢力も分散しがちで、六千ばかりであった。云々

『品第十九』 信玄公十九歳、その一年は無行儀、御詩作並びに板垣信形の諌言。
天文18年正月元日
 右の一年中晴信公は無行儀でよろしくなかった。このことについては、当時の人々が残らず語ることはできないほどであったと伝え聞く。(略)家老の人々も、諌め忠告申し上げることができなかった。というのは、近国からも鬼神のようにいわれていた父信虎公を、晴信公はなんの造作もなく追い出してしまわれた上、その年のうちに晴信公より老巧な信濃の大将衆が、見方に倍する兵力をもって四度も甲州の中へ乱入した。それを四度まで自分で軍を率いて勝利を得られたほどであるから、誰一人として諌言するものがいなかったのである。武田の家は二十七代に、もはや滅亡するのではないかと、うわさされるのももっともなほどであった。
(略)板垣は申し上げる。
「晴信公、御詩作はいい加減になさってください。国持ちなさる大将は、国内を治め、家来を嗜め、他国を攻め取って父と信虎の十倍もの功績を挙げられてこそ、はじめて信虎公と対等になります。その訳は、信虎公は無行儀で乱れ。無軌道淫乱であられ、重い罪人も大した罪も無い者も同じように成敗なされた。ご自分が腹が立つと、善人も悪人も区別無し成敗なさる一方で出、気に入った者には、一度謀反を起こした者でもただちに所領を下さり、反対に忠節忠孝の武士で罪も無いのに、お引き立てになされぬようになされ、万事に逆の御処置をなされました。このような信虎公のなさり方を道にはずれたものと見なされ、父上でしたけれども追放なされました。その晴信公がそれから三年と経たないのに、ご自分がお好きなことにふけり、意のままになさるとは、信虎公にに百倍もまさった悪大将でございます。そうお諌め申し上げるわけですが、それでご立腹なされ、この板垣をご成敗なさるなら、私は御馬前において、討ち死にさせていただきます。
筆註、この諌言により、晴信は涙を流して反省されたという) これは天文八年十一月一日、晴信公十九歳の御時こことである。 

、品第二十二 甲信境の瀬沢合戦の項
 天文十一年二月中旬、信州勢の晴信の退治について談合する。晴信も板垣信形・諸角豊後・原加賀・日向大和や多くの武将が集まり、談合して晴信公に申し入れた。
 
・今川義元に加勢を頼む。                     
・五年まえに父信虎を追い出した。
・一旦、甲斐の兵を引いて甲府で戦う。

 これに対して晴信公は、今川義元に加勢を頼む必要は無い。 五年まえに父信虎を義元に頼んで駿河に出し・   信虎が駿河に留め置かれたのは、義元の働きである。これは義元公が、信虎を引き受けることで、自分が甲斐を支配できる・   と、考えていた。 また信虎は舅にあたり、自分の配下に置くことは出来ないが、私晴信は義元より二歳年下であるから、なんとしても配下に置きたいと考えている。(この話はさらに続く)

品二十三 信州平沢の項
(略)さて二十一日には、穴山・典厩・板垣をはじめ到着し、家老衆は書面をもって諫言した。信虎公の御代にご被官にしてもらった信濃侍大将どもは、今度はおおかた帰参いたすと存じます。  五年まえに信虎公を追い出しなされ成されたときは、危うくあって、それぞれ居城に引き篭り、このごろは村上殿の勢力が危ういといって、それなりに村上殿を崇めない侍どももおります。そういう侍どもを支配し、前代のように召抱えるご分別が大切と考えます。
(略)また一方では鬼人のような信虎を追放し、その後信州衆にたびたび勝ち、加えて若いにも似合わず、勝てば兜の緒をしめるように手堅いのは、どうみても普通の人間ではないと思われる。その上晴信の父の信虎にあっては、信州の平賀城を滅亡させ、村上殿も数度に痛い目にあっておられる。  そういう辛い目にあわせた父信虎の老功にもかかわらず、謀略とはいいながら何の造作もなく駿河に追い出し、即座に国の治守を静めた。家老一人たりとも頭をあげさせず支配に服させ、五年この方、幾度かの合戦に勝利しても思慮深く慎重に統率されている。そういう点では明日はどうなるかはともかく、今や晴信は日本国の若手の大将と考える。云々
 

武田武将 山県三郎右兵衛尉昌景

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山県三郎右兵衛尉昌景
『甲斐国志』巻之九十六 人物部第五 武田氏将師部 一部加筆
 
(諸記録名無異、板垣・甘利両職ノ次ニ昌景一人役之後ハ原資人卜二人ニテ勤ムルカ、文書存スル者多シ、今以手書数本校ニ其名)
「甲陽軍鑑」ニ初メ飯富源四郎トイウ、虎昌ノ弟ナリ、近習小姓ヨリ登庸シテ使番ヲ歴テ、天文廿一年(1552)士隊将トナシ、百五十騎ヲ属シ、三郎兵衛卜更ムトイウ、按スルニ北山筋西小松村(甲府市)石宮ノ棟札ニ永禄六亥年(1563)八月三日、地頭飯富源四郎昌景ト誌ス、同年十一月吉日、小屋敷村窓林寺(甲州市)領背表紙日記帳ニ飯冨三郎石兵衛尉トアリ、此間ニ改メシ事  明ナリ、天文中ニハ非ズ(「北条盛衰記」、同五年(1562)松山陣ノ条下ニ甲州ノ軍奉行飯富源四郎景仲卜記セリ、却テ其実ヲ得ルト謂ベシ)同八年(1565)兄虎昌伏誅ノ後、更ニ山県氏賜、家禄帯甲三百、信州ノ松尾、相木等数人合属トス、旗ハ黒地ニ白桔梗(羞シ山県ノ先、土岐ノ桔梗一揆ヨリ出ツ)駿州江尻ノ城代ナリ、其性能ク僚属ヲ愛養スルヲ以テ、麾下多ク饒勇ノ士ヲ蓄フトイウ、攻城野戦ノ功常ニ諸将ニ勝レタリ事ハ史録ニ詳ナリ、天正三年(1575)五月廿一日参州長篠ニ戦死ス、(「大平夜話」ニ大坂新介卜云モノ鉄胞ニテ撃得タリトアリ)亀沢村天沢寺ノ牌子ニ「好雲喜公禅定門」トアリ昌景ノ年齢記スル者ナシト維モ兄丘部並ニ、馬場、秋山等ニ視合スルニ大聖ハ十有余ナルヘシ、「武隠草話」ニ鈌唇(イグチ)ニ勇士アリ、山県三郎兵衛、(上杉家ノ)川田監物、(徳川家ノ)本多百介、(福島正則内)長尾隼人、皆鈌唇(イグチ)ナリトアリ。

山県源四郎昌満

(昌満ノ名ハ天沢寺ニ所蔵ノ鋲目村鋲目寺ノ棟札ニ拠リテ訂之)、昌景ノ男ナリ、長篠ノ役後昌満尚幼シ、小菅五郎兵衛ヲ陣代トス、後小菅ハ旗本ノ足軽隊将ニナリ、昌満本部ノ兵ヲ統領スト見エタリ、軍鑑ニ源四郎ハ壬午三月殺サルトアリ、未ダ其巨細ヲ記スル者ヲ見ズ。

山県源八郎

「大宮神馬奉納ノ記」ニ源四郎二人ノ名ヲ載ス、又所在ニ蔵ムル文書ニ其名往々見エタリ、按ニ「軍鑑伝解」ニ所載昌景ノ書債瀆(上略)将又御恩源八殿能々奉公被申候条可祝着候涯分悪キ儀候者異見可申候云云、四月十一日山三兵(花押)荻豊御返報卜有之ニ由り視レハ荻原豊前守ノ男源八郎ナリ、昌景ニ従属シテ襲氏卜見エタリ、後本氏ニ役シ、荻原弥右衛門トイウ、孫八王子ニ在リ、「軍鑑」ニ荻原常陸ハ飯冨丘部ノ伯母聟トアレバ、豊前卜昌景ハ従兄弟ナリ、三枝勘解由左衛門ガ初メ山県善右衛門卜称セシ事ハ彼ノ伝中ニ詳ニス、又三枝虎吉ノ妻ハ昌景ノ娘トイウ牌子年月モ同ジク併セテ記セリ

山県三郎右衛門

 「甲乱記」ニ壬午三月郡内ニ於テ殺サルトアリ、慶長十九年(1614)大坂御陸ノ時、伴団右衛門ノ内ニ同名ノ士アリ、妙心寺ノ僧佐蔵主ガ三郎石衛門ニ旧故アルニヨリ、小畑勘兵衛ハ関東ノ反間グル事ヲ城内へ告知ス、三月十七日ノ書牘ヲ「景憲家譜」ニ載セタリ、「武家閑談」五月六日樫井ノ戦ニ塙団右衛門家老山形三郎石衛門引返シ、上田主水卜槍ヲ合ワセ引組テ主水ヲ押伏ケル、横関新三郎山形ヲ引倒サントシ候エハ、是ヲモ押臥、主水同前ニ組鋪候横江平左衛門馳付山形ガ高股切テ落シ、引退ケレハ主水起上其首ハ新三郎ニ取ラセタリト云云(諸録ニ樫井ノ説一ナラズ、多クハ山県三郎右衛門ノ事ヲ脱セリ)豆州走湯山ノ大過去帳ニ「露心草珠居士」甲州山県三郎右衛門尉正重(武田信乃守信玄家老駿州江尻城代甲州山県也明、暦三丁酉年(1657))以是按スレハ、三郎右衛門ハ昌景ノ庶子ナル事炳然タリ、不遇ニ因リテ伴ガ手ニ属セシナラン、明暦中ニ至リ、由緒ノ人アリテ於走湯山ニ忌辰ヲ弔祭セシト見ユ、「甲乱記」ニ所云ハ蓋シ伝聞ノ失ナラン、山県氏ハ本州ニ旧ク家名アリ、一道寺過去帳ニ応永以前問々見エタルハ其名全カラス、永亨五年(1433)四月十九日「徳阿山県主計、長禄元年(1457)十二月廿八日討死、遍阿山県出雲守、又府中長谷寺過去帳ニ元亀二年(1571)二月廿六日「法室寿大徳山県昌忠トアリ、未考「系譜武田三代記」云山県河内守虎清ナル者ノ事ハ他書所校ナシ、「甲陽軍鑑末書」ニ飯富兄弟ハ元来美濃国土岐殿ノ小姓衆ナルカ、浪人シテ本州ニ来リ云云トアリ、山県ハ濃州ノ部名也、土岐ノ一族ニ氏卜為ス者アルヲ視テ推シテ如斯卜云ヒケルニヤ、本州ノ山県氏其姶由テ出ル所ヲハ知ラス、旧家迩ノ絶エクルニ昌景ヲシテ氏ヲ興サシムル事卜聞エタリ、「軍鑑」ニ参州陣ノ頃ニ土岐頼  芸寓客トナリ、信玄ノ陣中ニ在リテ山県カ先手ノ働ヲ感賞セシカバ、信玄彼手ノ物頭等ヲ招キ土岐殿へ引合セラルト記シタルニ、昌景ハ土岐ノ旧臣タリシ沙汰モナシ、一事両様ノ趣固ヨリ採聞ニ足ラサル事ナリ。
 

井上靖と風林火山 「風林火山」は井上靖の小説から生まれた。

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井上靖と風林火山 「風林火山」は井上靖の小説から生まれた。

 余りにも寂しい。現在NHKで放映されている「風林火山」の原作者は井上靖である。そして彼の生誕100年を記念して、採り上げたと聞き及んでいた。しかしその周辺は主人公の山本勘助や、大型観光の展開で明け暮れ、肝心の井上靖について触れたり、紹介してものが少ない。井上文学を紐解いてみるのもいい機会だと思われるのに、残念でならない。各地で小説を離れ勘助が一人歩きを始めた。何処へ行くのであろうか。どこへ行かせるのであろうか。
ここで井上靖が甲斐を訪れた時の文章を「井上靖全集より」紹介したい。

早春の甲斐・信濃

 東京に初めて早春らしい陽の射した日、『周と雲と砦』の舞台である甲斐信濃地方に出掛けた。
 甲府に下車し、現在は武田神社の社域になっている武田信玄の居館の跡をみる。ここはいまは 甲府市 に編入され、古 府中町 となっているが、併し、市の中心地帯からは半里程隔たっている。信玄が城を築かなかったことは有名な話である。軍鑑に「信玄公御一代甲州四郡の内に城郭をかまへず、堀一重の御館に御座候」とある。信玄の居館跡は、なるほど城とは呼べないこぢんまりした地域でその四周の垣と、更にそれをめぐる内濠だけが残っている。樫、樺の老木が多い。当時の住居の正門は、現在の神社の正門とは違って東方の門がそれである。外濠の周囲には勿論近年植えたものだが、桜樹が多く、四月はさぞ見事であろうと思われる。
 信玄はここに住み、一朝有事の際のために、半里程北方の丘陵に山城を作っている。これも軍艦に、「居館より二十町ばかりの地に、石水寺の要害とて山城あり、-塀もかけず候へ共先づ本城の様なるもの也」とある。さして大きい山ではないが、急峻な山である。この山には十二の段階ができて居り、各々百坪位の広さを持ち、現在、所々に石畳が残っている。国志には「本丸の長三治七間、広拾九間二ノ丸、三ノ丸と言ふあり」とあるから、城の樟構だけは備えていたらしい。山頂には井戸があり、馬場の跡も見られる。
 甲府を出て列車で一時間程行くと、韮崎に新府城の址がある。車窓から、信玄の死後勝頼が築いた城址が見える。ここは見るからに要害堅固な山であり、その城址のある山の向うに、雪を戴いた大きい山脈がのしかかるように見えている。武田勝頼は天正九年この城を築いて間もなく翌十年織田軍に攻められ、この城にも拠れなくなり、所謂天目山の悲劇へと逆おとしに突入している。
 併し『風と雲と砦』は、信玄の穀後から長篠の合戦までの三年間に物語を想定している。従って小説の世界では、まだ新府の城が出来ていない頃である。
 現在、小説の中では、俵三蔵がひめ及びその配下と共に天竜川を遡っている。三蔵は天竜川の源まで、遡って行く考えらしい三蔵は天竜川の流れが、甲斐へ入るか、信濃へ入るか、あるいは三河の方へ折れ曲っているか知らないので、ただやたらに流れに沿って上って行きつつあるが、勿論作者はその水が信濃の諏訪湖から流れ出していることを知っている。尤も天竜川の源は大昔は甲斐に発していたらしいが、戦国時代には今と同じように既に諏訪湖から流れ出していた。その天竜川の流出口を見たいので、諏訪湖の周囲を自動車で一巡する。湖は、例年より少し早く氷が解けたと言うことで、周囲五里の湖面のどこも氷結していない。水ぬるむと言った色ではなく、まだ黒っぽい冬の水の色ではあるが、どこかに氷の解けた許りの表情を持っている。岸辺にわかさぎを釣る人の姿が見える。
 天竜川の流出口のある地点は、丁度上諏訪の対岸に当るところで現在は勿論自然に流れ出すことを許さず、水門が造られてあり、釜石水門管理所が、その流出量を調節している。この管理所に於けるただ一人の所員は、午前八時と午後四時の二回、諏訪湖の水位を調べ、水門の鉄の門扉に依って流出量を加減する仕事を受け持っている。訊いてみると、現在の水位は標高(海抜)七五九メートル前後とのこと。その管理所の小さい事務所の窓から見ると、対岸に雪を戴いた八ヶ岳の連峰が見える。
 伊那電鉄で、天竜川に沿って下る。天竜峡までは川に沿っていないが、そこから中部天竜駅までの二時間程は、曲りくねった天竜川の流れが電車の窓から見降ろせる。風景はまさに絶佳である。その間川の両岸は切り立った絶壁をなし、その中腹のところどころに、十軒二十軒の小さい家が危っかしく建てられている。
 伊那の渓谷は、その山の色も、天竜の青黒い流れも、まだ深々と冬の中に睡り込んでいる感じだが、点々と見える梅の白い花だけが、僅かに早春を告げている。 戦国の頃、甲斐から東海地方に出るには、富士川に沿って下るか、でなければ、信濃へ出て、この天竜の渓谷を下ったわけである。野田城の攻撃中、病を発した信玄が、西上の企画を変更し、甲斐に軍を返したのも今頃である。伊那渓谷に点々と嘆いている梅の花は、雄図を翻した武人の眼に、どのように映っていたことであろうか。 (昭和二十八年三月)

私の夢

 風林火山」は昭和二十八年から二十九年にかけて『小説新潮』に連載した小説です・第一回の原稿を渡した時、担当記者のM君が1風林火山」という題名に首をひねりました。いかなることを意味しているか、よく解らないので、小説の題名としては損ではないかということでした。そう言われると、作者の私も自信はありませんでした。しかし、他に適当な題も思いつかないままに二日ほど考えてみようということになりました。
 結局のところ、「風林火山」で押し切ることになりました。風林火山」が新国劇によって最初に上演されたのは、昭和三十二年のことでした。それまで「風林火山」という題名は多少奮く落着がない印象を人に与えていたのではないかと思いますが、これが舞台に取り上げられたことで、すっかり安定したものになり、堂々と世間に通るようになったかと思います。この最初の上演からいつか今日までに十七年の歳月が経過しています。作者の私も十七の年齢を加え、新国劇も亦、劇団として十七の年齢を加えたわけであります。その間に「風林火山」は何回か上演され、その度に、より完全なものとして好評名漬しものの一つになったことは・原作者として何より嬉しいことであります。お陰で風林火山」もすっかり有名になり、その題名に首をひねるような人はなくなってしまいました。こんど何回目かの上演を前にして、それこれ思い合せると、まことに感慨深いものがあります。
「風林火山」の主人公は武田信玄の軍師山本勘助であります。山本勘助が史上実在の人物であったかどうかは甚だ怪しいとされていますが、そうしたことは作者にとってはどうでもいいことであります。その存在に対してさえも甚だ懐疑的である一人の軍師に、私は自分の青春の夢を託しています。勘助は短躯で,指は欠け、眼はすがめで、頗る異相の人物であります。私はこうした山本勘助に生命をかけて高貴なものへ奉仕する精神を注入してみたかったのです。夢と言えば、信玄も作者の夢であり、由布姫も作者の夢であり、作中人物のすべてが作者の夢と言えましょう。それぞれに、まだ若かった私の夢がはいっています。(昭和四十九年五月)

「風林火山」について

 私は昭和二十五年二月に「闘牛」という作品で芥川賞を受け、翌二十六年五月に、それまで勤めていた毎日新聞社を退き、以後小説家として立っております。芥川賞を受けた二十五年から二十八、九年までの四、五年が、私の生涯で一番たくさん仕事を発表した時期であります。
 私はその頃、いわゆる純文学作品なるものも、中間小説も、娯楽小説も、さして区別することなしに書いていました。娯楽雑誌には娯楽小説を、文学雑誌には文学作品をと、需めに応じて小説を書いていたようなところがあります。折角、芥川賞作家として出発したのだから、純文学一本にしぼって仕事をして行くべきだと言ってくれる人もありましたが、しかし、中間小説は中間小説として、読物は読物として書いていて面白く、純文学の仕事とはまた異った魅力がありました。そういう点、私は余り窮屈には考えていませんでした。仕事への没入の仕方も同じであり、読物は読物で夢中になって取組んだものです。
 長篇時代小説だけ拾っても、この時期に「戦国無頼」、「風と薯と砦」、「戦国城砦群」、「風林火山」などを書いております。今考えてみると、さして無理をしないでも、次から次へと作品最近この時期の作品を読み返す機会を持ちましたが、面白いことには概して読物雑誌や中間雑誌に発表したものの方が生き生きとしていて、作品として纏まっているものが多く、肩を張って書いた文学雑誌掲載作晶の方に失敗作が多いようです。三十年ほど経ってみると、文学作品にも、読物にもさして区別は感じられません。慌しく締切に迫られて書いたものでも生命あるものは生きており、正面から取組んで推敲に推敲を加えたものでも、生命ないものは、正直なものでむざんな屍を曝して横たわっていると思いました。
 ただ現在の私は、読物の形で小説を善くより、読者へのサービスをぬきにした形で小説を書く方に気持が向かっています。これは言うまでもなく年齢のためであって、私が老いたということでありましょうか。そういう意味では「戦国無頼」や「風林火山」などは、私の若かった日の作品であり、もう再び書くことのない、あるいは書くことのできない作品と言えましょう。読み返してみると、そうした眩しさを感じます。
 「風林火山」は二十八年から二十九年にかけて「小説新潮」に発表した作品で、いま読み返してみると、読者を楽しませると言うより、書いている作者自身がまず楽しんでいる作品と言えるかと思います。歴史を舞台にして、登場人物たちを物語の中に投げ込んで、それぞれの人生行路を歩ませています。主人公山本勘助に関する伝承や記述(「武田三代記」)はありますが果して山本勘助なる人物が実在したかどうかとなると、甚だ怪しいとしなければなりません。おそらく山本勘助という名を持った人物は武田の家臣の中にあったかもしれませんが、その性格や特異な風貌は「武田三代記」の作者の創作ではないかと、一般に見られています。
 私はその伝承の山本勘助を借りて、それを生きた歴史の中に投げ入れて、彼を自由に歩かせてみました。すると、彼をめぐって、到るところで歴史はざわざわと波立って来ました。その波立ちを一つ一つ拾って書いたのが、「風林火山」ということになろうかと思います。 
(昭和六十一年七月三日)
 

「戦国城砦群」作者のことば

 私は戦国時代の地図を見るのが好きです。全国の、凡そ要害と呼び得る要害には必ず城が築かれるか、砦が設けられてありました。幾十幾百とも知れぬ城と砦の群れ! そしてその城砦の一つ一つには、悲惨と残虐、夢と野心と冒険1-そんな、いいものも悪いものもいっぱい詰まっていたわけです。私はこの時代をせいいっぱい生きた一人の若い武士を描いてみたいと思います。彼の持った烈しい性格は、彼に幾つかの城砦を経廻らせ、彼を幾つかの合戦に登場させます。作者は、いま、この戦国の若者に、いかなる場合も、怯者でないことを希うのみです。                     (昭和二十八年九月)

「風林火山」の劇化

 こんど私の小説「風林火山」が新国劇で劇化されることになった。小説「風林火山」は一種の騎士道物語であり、戦国女性の持つ運命の哀歓を主題にしたものである。しかし、これをいろいろの約束を持つ芝居の形にうつすことは、正直に言って、まず望めないのではないかと思っている。私は平生、小説は小説、映画は映画、演劇は演劇と考えている。殊に小説と演劇との関係は複雑である。こんどの新国劇の「風林火山」も恐らく私の小説とはかなり昇ったものになるであろうし・またなって当然である。
 原作者として、私は私の作品をどのようにでも料理して下さいと脚色者池波正太郎氏にお任せした。私は、小説「風林火山」がいかに新国劇調ゆたかな名演し物として、あざやかに変貌するかに寧ろ期待している。(昭和三十二年十月)
「風林火山」は書いていて楽しかった。作家にとって、小説を書くことは、大抵苦しい作業であり、私も亦、自作のどれを取り上げても、それを書いている時の苦しさだけが思い出されて来るが、「風林火山」の場合は少し違っている。楽しい思い出だけが蘇って来る。勘助、由布姫が自分から勝手に動いてくれて、うっかりすると筆が走り過ぎ、書き過ぎた箇処をあとから削るようなことが多かった。そのくらいだから、私自身、勘助も由布姫も信玄も好きである。取材のために何回か甲斐から信州へ旅行をした。勘助が馬を駈けさせたところは、どこへでも行った。自動車をとばしたり、自分の足で歩いたりした。このように、作者の私にとってこの作品が楽しかったのは、山本勘助が実在の人物ではなかったためであろうと思う。と言って、全く架空な人物かと言うと、そうとも言えない。だれでも山本勘助という名を知っているように伝承の中に生きていた人物である。実在の人物ではないが、人々の心の中に生きている人物である。
「風林火山」は前に新国劇で上演されているので、舞台にのるのは今度で二度目である。その意味では幸運な作品である。新派の方達の演ずる「風林火山」がどのようなものになるか、それを見るのが楽しみである。(昭和三十八年九月)
 

「風林火山」の映画化
私の作品の中で「風林火山」ほど映画化の申込みを受けたものはない。併し、何回映画化の話はあっても、そのいずれもが何となく立ち消えになる運命を持った。それがこんど稲垣さんと三船さんの手で、本当に映画化されるという幸運に見舞われた。しかも堂々と正面から組んだ本格的な映画化である・1風林火山」は今日まで待った甲斐があって、漸くにしてゆたかな大きな春に廻り会えたのである。

 稲垣さんと三船さんには以前1戦国無頼」を映画にして戴いたことがある。私の作品の最初の映画化であった。それから十何年経っている。最近稲垣さんと三船さんにお目にかかって感慨深いものがあった。「風林火山」は長い間稲垣さんと三船さんが手を差し出してくるのを待っていたのだと思った。それに違いないのである。(昭和四十四年二月)
 

「風林火山」と新国劇
 「風林火山」は昭和二十八年から二十九年にかけて『小説新潮』に連載した小説です。発表当時、多少の反響はありましたが、現在のように.風林火山″という四字は一般的なものではありませんでした。時代というものは面白いもので、いかなる風の吹き回しか一昨年あたりから、「風林火山」という作品が再び多勢の人に読まれ始め、テレビに劇化されたり、映画化されたりする機運にめぐりあいました。作者の私も驚いていますが、一番驚いたのは主人公山本勘助であろうと思います。彼の作戦家としての慧眼を以てしても、自分がいまになって脚光を浴びようと予想はできなかったことであろうと思います。次に驚いたのは劇団「新国劇」の首脳部の方々ではなかろうかと思います。新国劇によって「風林火山」が最初に拾い上げられたのは昭和三十二年のことですから、十二年ほど前のことです。脚色、演出の池波正太郎氏も、島田、辰巳両氏も、「風林火山」の名が今日一般化したことで、すっかり驚いておられるのではないかと思います。

 併し、作者の私は多少異った考え方を持っています。風林火山」の名が多勢の人に知られるようになったそもそものきっせて下さったためであります。十二年前上演していただいたお蔭で、「風林火山」は今日のように有名になることができたとお礼を申し上げたい気特です。こんどその新国劇の「風林火山」が再び舞台にのることになりました。作者としては懐かしさでいっぱいです。(昭和四十四年九月)

「甲陽軍艦」品第一 甲州法度(ほっと)の次第

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「甲陽軍艦」品第一
 
甲州法度(ほっと)の次第
 
一、
甲州国中の地頭人(領主)がくわしい理由も上申せずに、勝手に犯罪者の知行する財産だからといって没収したりするのは、いわれのないいきすぎである。
・もし罪人が晴信の被官(直接の部下)だったならば、地頭が干渉してはならない。
・没収した田畠については命令により別人に書き替えること。
・年貢、諸労役はすみやかに地頭へ弁償すること。
・祖先の論功によって得た恩賞地の場合にいたっては、記載するまでもない。
・次に在郷の農民の住居、園宅地、ならびに妻子、財産のことは当然慣例にならって各筋の機関に引き渡すこと。
 
二、
訴訟については、裁きの場、白州に出たのちは、奉行以外の人に披露してはならないこと。ましてや判決が下った模様などは公表してはならない。
もしまだ訴訟にいたる以前ならば、奉行人以外の者に対しても禁ずるにはおよばない。
 
三、
詐可、承諾もなしに他国へ通信、文通することはすべて禁止する。ただし信州在国の者で、謀略のために甲斐国内を通行し得る者はやむをえない。
・もし国境の人が、常日ごろ手紙をやりとりしているのであれば、これをまでも禁ずることはない。
 
四、
他国と縁組を結んだり、あるいは領地の所有や官職に就く件で契約をするのは、はなはだしく違法の因になる。だから堅く禁ずる。
・もしこれにそむく者がいたら厳しく誡(いまし)めるべきである。
 
五、
土地所有権をめぐる紛糾、すなわち所有不明の田畠は、税のかかる年貢地においては地頭がとりはからうこと。恩地ならば命令でもって定める。
・ただし借金などの事についてはその程度多少に応じて、相応の処置がなされる。
 
六、
農民が年貢を滞納することは、重罪だ。百姓地では地頭の判断に任せてとりたてをすること。
・もし本来の責任がなく特別の事情であるなら、検使を通して改めて調べること。
 
七、
年貢、公事を名田単位で賦課する所有明らかな名田地を、正当な理由もなく地頭が没収するのは違法の極みだ。
・ただし年貢の滞納がひどくかさなり、その上それが二年以上にわたる場合は特別やむをえない。没収権の行使を認める。
 
八、
山野の地の境界線の紛糾が激化したために、その土地の四方に立札の標をたててとりしきる者は、もとの境界をよく追調査して定めること。
・もし旧境界によって、決定できぬときは、境界の真中をとり、それぞれ一円的に所有し干渉しないことにすること。
・それでも紛糾する者同士がいる場合は別人の所有にする。
 
九、
地頭の申し渡しによって、訴訟物件である田を凍結のため田札を立てると、作物の刈取りをやめてしまうといった場合は、翌年からその田地は地頭の判断に任すべきこと。
・けれども紛糾のため耕作していなくても、年貢を弁済していればどうこうということはない。
・次に地頭赤定年貢以外の理にあわぬ課役をした時は、俸禄の半分をとりあげること。
 
十、
恩地が自然の水害、旱魃にあっても、替地を望んではいけない。獲れる分量に応じて奉納すること。
・特に忠勤の者へはそれ相当の替地を充補すること。
 
十一、
恩地を所有する人で、天文十年(一五四一)以前から十カ年間、地頭へ命じた賦課、夫役、知行を勤めることがないならば、改替はしない。時効が成立する。
・ただし九年におよんだ場合のものは事情によって指図を加えるがよい。
 
十二、
本来の私領の名田のほか恩地領は、事情もなしに売ることは禁止すること。
・本条のような次第だが、やむをえない時は、その理由を書類にて上申し、売却の年限をつけて売買させること。
 
十三、
百姓を人夫として障中で働かした折に殺されたりした場合、その一族は人夫を出すことを三十目間は免除すること。
・そのあと前と同じように労役を課すこと。
・荷物を失ったりした場合は配慮する必要もない。
・それから人夫が逃亡して、それを報告もせずにすませて数年経っていたとしても、罪科を免れ難い。
・人夫にそれほどの咎(とが)なくて主人赤殺害したりした時は、地頭への勤めは十カ年間、右の夫役・陣夫・詰夫等の労役を勤めることはない。
 
十四、
親類となり、被官となるための誓約を詐可なく自分勝手にするのは謀叛と同様である。
・ただし戦場にあって、忠節を深めるため盟約するのは別である。
 
十五、
先祖からの功により代序仕える古参の家臣然、他人の下人を召しかかえたおり、元の主人が見つけて捕えることは禁ずる。
理由を説明してから受けとること。
・さらに元の主人が伝え聞いて訴訟にもちこんだ際に、訴訟期間中に抱えていた主人が下人を逃がしてしまったときは、他の者を一人弁償としてさし出すべきである。
・奴稗、雑人の場合は所有権を主張する訴訟もなくて十年たったならば、「御成敗式目」(四十一条)にそって時効が成立し、そのまま所有してよい。
 
十六、
奴稗が失踪したあと、たまたま路上で見つけ、現在の主人に糺す前に、自分の家に連行していってしまうのは不法である。
この場合まず当の主人に返し置くこと。
・但し遠隔地での場合は処置が遅れるのも当然で、三日や五目くらいまで遅れてもさしつかえない。
 
十七、
喧嘩は理由の如何を問わず両成敗すること。
・ただし喧嘩をしかけたといっても、堪忍した者に対しては処罪すべきでない。
・そこでひいきにして不公平な助勢をする共犯者がいたら、文句なしに同様に処罪すること。
・もし犯意がなく、思わぬ事の成り行きで誤って殺傷におよんだ場合の成敗は、妻子、家族が連座するまでにおよんではいけない。
・ただし喧嘩人が逃亡してしまったりした場合は、たとえ不慮の場合であったとしても、まず妻子を当府に拘置し、事情をただすこと。
 
十八、
直属の家来の喧嘩や盗賊等の狙罪でも主人に直接関係しないのは当然だ。
・しかし、事実関係をただしている最中に、当の主人が無実をしきりに陳上し、かばっている途中で喧嘩した家来が逃亡したりした時は、その主人の資産の三分の一を没収すること。
・資産がない場合は流罪とすること。
 
十九、
特に恨むべき理由もなくて、義理で結ばれ、武功をたてて奉仕すべき将である寄親(よりおや)をきらう事は身勝手で不当なことだ。そういう者にはこれからのちに理不尽なことがきっと出てくるはずだ。
・ただし寄親が権限をこえて際隈なく無理をいう時は、理由書をもって訴え出ること。
 
二十、
乱舞(能の舞)・遊宴・狩猟・川猟などにふけり、武道を忘れてはならぬ。
・天下は戦国であるから、すべてをなげうち武具の用意に全力を尽くすことが肝要である。
 
二十一、
水害などのおりの流木材木は慣習としてひろい所有してよい。橋材は本の所に返えすこと、
 
二十二、
浄土宗と目蓮宗の信徒とは国内で論争しないこと。
・もし仲介するような者があれば僧侶も檀家もともに罰する。
 
二十三、
被官が出仕したおりの座席順序のことでは、あらかじめ決められてあったならあれこむ言わないこと。
・およそ、戦場でない場面で恨み言めいて意見するのは卑怯なことだ。
 
二十四、
裁定を申し出た者は、裁決が下されるまで待つこと。
・審理の途中の仮処分の段階では、訴えの正当性のいかんにかかわらず、乱暴狼籍など禁を破れば敗訴とすること。
・したがって当然この訴訟の対象物権は勝訴した相手側に引き渡すこと。
 
二十五、
子供の口論は特に問題にすることはない。
・ただし両者の親が止めにはいらなげればならないのに、かえって激昂するならば、その親こそ世のために誠めなげればならない。
 
二十六、
子供が誤って友を殺害した場合は、成敗するにおよばない。
・ただし、十三歳未満の子供は刑事責任はない。
・それ以上の者は、罪をまぬがれがたい。
 
二十七、
訴訟に関係する寄親、指南をさげて、別の筋を通して訴訟におよんだり、寄親の方で他の寄子をのぞむのは極めて悪いことだ。
これは今から禁止すること。
このことは前条に定めたことである。
 
二十八、
訴訟は直接、信玄公に上申しないこと。直訴しないこと。寄子の訴訟については、当然寄親を奏者(訴訟の取りつぎ)として介すること。
・しかしその場合でも先令をみはからって考慮するのがよい。
・裁定の日のことは、先にも記したように、寄子、親類、縁者が上申することはいっさい禁止すること。
 
二十九、
たとえその職務者に任せてあるといっても、分国の諸法度、それぞれに違反してはならぬ。細かい事でも、報告せずに勝手な執行をする者については、ただちに停職解任すること。
 
三十、
主君に近く奉仕する役の者は、番所においてはたとい留守のおりであっても、世間を論評したり、声高に話すことは禁止する。
 
三十一、
他人を養子にする場合は、諸事を取りつぐ寄親の奏者に届け、跡目相続する遺跡帳に押す印章許可証をうけること。
・こうした後であれば、養父が死去したときは、たとえ実子があった場合でも、その者に相続させなくとも違反にならない。
・ただし継母に対して不孝ならば、継母はいったん養子に譲与した諸権利を女性であってもとり返すことにしてよい。
・次に恩地のほか田畠・動産についての処置は、亡父の遺言状に任すこと。
 
三十二、
棟別家屋一棟ごとに課す棟別銭の税法のことは、書類(棟役帳)を作り部落中へ申渡した上は、逃亡したり死亡したりしても、その郷中ですみやかに弁済すること。
・そのために、本屋のほかの新屋、までは弁済の対象としない。
・本屋二百文、新屋五十文が基本という。
 
三十三、
他郷へ家を移す者があれば、追って棟別銭を徴収すること。
 
三十四、
家を捨て、あるいは家を売って国中を流浪する場合も、どこまでも追って棟別銭を徴収すること。
・そうはいっても本人にすこしも支払い能力のない場合は、その屋敷を貸している者がかわって弁済すること。
・ただし屋敷主について二十疋(十文の称)以内は棟別の規模に応じて命じられた分を弁償する。
・そのほかは郷中が一体となって連帯で償うこと。
・たとえ他人の屋敷や家であっても、同じく家屋敷を貸している場合は、当然弁償する責を負う。
 
三十五、
棟別に関する訴訟事はすべて禁止すること。
・しかし逃亡、あるいは死去の者も数多く出て、棟別銭が元の二倍に及んだなら、申し出ること。
・事実関係をただし、赦すかどうかを程度に応じて配慮する。
 
三十六、
謀叛的な衆だったため成敗断絶した家の場合は、棟別銭の件はやむをえない。
・連帯の弁償もしなくてよい。
 
三十七、
洪水によって流された家の場合は、新屋を建てて棟別銭を償うようにすること。
・新屋というわけにいかなければ、郷中で協力して弁済すること。
・十軒に達する水流れの場合は、特別に考慮し、調べるにおよばない。
・死去のため断絶した家の場合は右に準ずる。
 
三十八、
利息をともなう借金法度について。
・訴訟にまでしないで、返済のない借主が所有する田地を一札によって各面からさし押えられた場合、先札の債権をもって有効とする。
・ただし借用証書の貸付月目等が紛らわしい場合は、正確な証書を優先して先札とみなし、田地はその方の債権に帰属する。
 
三十九、
同じく田畠などの質権設定を書き入れた借状は先札が優先するけれども、謀略的な偽文書は罪科に処する。
 
四十、
親の負物(債務)借金をその子が弁済するのは当然だ。
・しかし、子の負物を親の方へ請求してはいけない。
・ただし親が借用証書に加筆したら、子の負物も親が責任をとること。
・もしまた子が早世し、親があとの遺産を引継いでいる場合は異例ではあるが、子の債務を親が弁済すること。
 
四十一、
債務者が合法的な根拠を求められるあまり、遁世したといい、あるいは失院者だと称して分国を流浪させるのは罪が重い。
だからそれを許容した一族は、その借金を弁済すること。
ただし身を売る奴碑等の場合は先例にならうこと。
 
四十二、
悪銭は、市場で流通する場合は精銭を選り分けられるが、町中以外の場面では撰銭してはならない。
・皇朝銭、渡来銭、甲州銭など一文銭が何十種もあって、商取引きを阻害するので。
 
四十三、
恩地を借状に記載して借地のかたにすることを、許可も求めずにしてはいけない。その上、印判(信玄公の認可)を求めていて決裁にならぬうちに、もしその借金した領主が失院したりしたら、事の次第によっては取りたての訴えを認める。
・借状の年限がすぎた場合は、先の印判状に記してあった通りにせよ。
・もし年期が過ぎて質流れとなり、金を都合した当の者がその土地を欲したら認める。その場合も恩給地を支給されたのに応じて恩役など勤仕しなげればならぬ。
 
四十四、

河中島五箇度合戦記  

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河中島五箇度合戦記 第一回合戦                   
 信州五郡の領主村上左衛門尉義清は、清和源氏伊予守頼義の弟で、陸奥守頼清の子、白河院蔵人顕清が初めて信州に住むようになり、それから四代目の孫に当たる為国、その子基国の後胤である。高梨摂津守政頼も、伊予守頼義の弟井上掃部頭頼季三代の孫に当たる高梨七肺盛光の子孫である。井上河内守清政も高梨の一族。須田相模守親政も一家。島津左京進親久は、頼朝の子島津忠久の子孫に当たって、いずれも信州の名家である。これらの人々が甲州武田信玄に負けてみな越後に落ちのび、長尾景虎(謙信)を頼って来たのでぁる。中でも村上義清は、多年武田と戦っていたが、とうとう負けて、天文二十二年五には月に越後に落ちのび、謙信の力を頼って、自分の領地坂本の城に帰ることができるのを心から望んでいた。
 
 謙信はこの年間二月初めて京都に上った。二十四歳の時である。これは、前の年の天文二十一年五月に、勅使、将軍の使があって、謙信は弾正少弼従五位下(だんじようひようひつじゆごいのげ)に任ぜられた。このお礼のため京都に上ったのである。謙信は京都御所に参り昇殿をゆるされ、後奈良天皇に拝謁し、天盃をいただいた心また将軍義輝公にお目見えして、いろいろねんごろなお言葉を受けて、五月に帰国したところ、六月村上義清が落ちのび、謙信を頼りにした。その上高梨政頼、井上清政、須田親政、島津親久、栗田、清野などがそろって越後を頼り、その助力を願った。それで同年十月十二日、田浜で勢ぞろいをして信州に向かって出発した。
途中、武田についている者どもの領分には火をかけて焼き払い、自分の館にひっこんで手向かいをしない者の領分はそのままかまわずに通り、十一月一日に川中島に陣を取った。
晴信(信玄)も二万の兵をひきいて出陣した。同十九日から二軍の間は四キロ足らずで毎日小競り合いとなった。二十七日に謙信から平賀宗助を使者にして、明日決戦をすることを申し送り、その備えを定め、夜のうちに人数を出した。先手は長尾平八郎、安田掃部、(かもん)それに長尾包四郎、元井日向守((ひゆうがのかみ)清光、同修理進(しゆりのしん)弘景、青河十郎を左右に備えた。左の横槍は諏訪部次郎右衛門行朝、水間掃部頭利宣とし、奇兵は、長尾七郎景宗、臼杵包兵衛、田原左衛門尉(さえもんのじよう)盛頼。二番手は小田切治部(じぷしようゆう)少輔勝貞、荒川伊豆守義遠、山本寺宮千代丸(後の庄蔵行長)、吉江松之助定俊、直江新五郎実綱と定めた。後陣は長尾兵衛尉景盛、北条丹後守長国、斎藤八郎利朝、柿崎和泉守景家、宇佐美駿河守走行、大国修理亮などの面々を七手に分け、四十九備えとしてそれを一手のように組んで円陣を作り、二十八日の夜明けごろから一戦を始めた。武田方も十四段の構えに備え防戦し、敵味方ともに多くの負傷者、戦死者を出した。下米宮橋を中心として、追いつめ、押し返して、昼近くまで合戦の勝負はつかなかった。しかし、越後方は千曲川の橋から上流を乗り越え、武田勢の後方にまわったので、武田方は敗れ、横田源介、武田大坊、板垣三郎など戦死、また駿河から応援に来た朝比奈左京進、武田飛騨守、穴山相模守、半菅善四郎、栗田讃岐、染田三郎左衛門、
帯兼刑部少輔など名のある人々を含んで甲州方の戦死者は五千余りにのぼった。それで十二月三日、京都公方に戦の経過を注進する。大館伊予守が披露する。これが謙信と信玄との戦いの始めである。
そのころ、謙信は長尾弾正少弼( だんじようしようひつ)と号していた。関東管領の上杉憲政は北条氏康に圧迫され、越後に内通し、管領職と上杉の姓、憲政の一字を下されたが、管領職は辞退し、謙信は景虎を改め政虎と名乗るようになった。これは天文二十三年(一五五四)春のことであった。
 
河中島五箇度合戦記 第二回合戦
 天文二十三年八月初め
謙信は越後を発ち川中島に着き、丹波島に陣を取った。越後の留守居として、謙信の姉婿に当たる上条の城主の上条入道、山浦主水入道、山本寺伊予守、大国主水入道、黒金上野介、色部修理、片貝式部の七人にその勢八千を残した。謙信は川中島に陣を張り、先手は村上義清、二番手は川田対馬守、石川備後守房明、本庄弥次郎繁長、高梨源五郎頼治の四人である。後詰(応援)は柿崎和泉守景家、北条安芸守長朝、毛利上総介広俊、大関阿波守規益の四人である。それに遊軍として、本庄美作守慶秀、斎藤下野守朝信、松川大隅守元長、中条越前守藤資、黒川備前為盛、新発田長敦、杉原壱岐守憲家、上条薩摩守、加地但馬守、鬼小島弥太郎、鬼山吉孫次郎、黒金治部、直江入道、山岸宮内、柏崎日向守、大崎筑前守高清、桃井讃岐守直近、唐崎左馬介、甘糟近江守、神藤出羽介、親光安田伯音守、長井丹後守尚光、烏山因幡守信貞、平賀志摩守頼経、飯盛摂津守、竹股筑後守春満など二十八備え、侍大将が二行に陣を張り、旗を進めた。宇佐美駿河守定行二千余、松本大学、松本内匠介千余は旗本脇備えである。総軍の弓矢奉行をつとめるのは、謙信の姉婿に当たる上田政貴で、飯野景久、古志景信、刈和実景の四人は、みな長尾という同名で謙信の一門である。これで越後勢は合わせて八千である。犀川を越え、綱島丹波島原の町に鶴翼の陣を取った。
 
 武田晴信も同十五日に川中島を通って、海津城に入り、十六日に人数を繰り出して、東向きに雁行に陣取った。先手は高坂弾正、布施大和守、落合伊勢守、小田切刑部、日向大蔵、室賀出羽介、馬場民部の七組で、七百の勢が先手に旗を立てて進んだ。二番手には真田弾正忠幸隆、保科弾正、市川和泉守、清野常陸介の四人が二千の兵をひきいて続き、後詰は海野常陸介、望月石見守、栗田淡路守、矢代安芸守の四人で二千七百。遊軍は仁科上野介、須田相模守、根津山城守、井上伯音守の五人、四千の軍勢である。これを二行に立てて陣を張り、総弓矢奉行は武田左馬介信繁、小笠原若狭守長詮、板垣駿河守信澄の三人の備えとなった。旗本の先頭は、飯事二郎兵衛昌景、阿止部大炊介信春、七宮将監、大久保内膳、下島内匠、小山田主計、山本勘介、駒沢主祝の八人で、信玄の本陣の左右には、名家の侍の一条信濃守義宗と逸見山城守秀親(信玄の姉婿)が万事を取りしきり、そのほかには下山河内守、南部入道喜雲、飯尾入道浄賀、和賀尾入道、土屋伊勢、浜川入道の六人が二千の兵と陣を敷いた。そして日夜お互いに足軽を出して戦いの誘いをかけたが、なかなか合戦にはならなかった。
 
 天文二十三年八月十八日 
朝はやく、越後方から草刈りの者二、三十人出し、まだうす暗いうちから駆けまわり、それを見て、甲州の先手の高坂陣から足軽が百人ばかり出て、その草刈りを追いまわした。かねての計略であったので、越後方から村上義清と高梨政頼の足軽大将である小室平九郎、安藤八郎兵衛ら二、三百人の者が夜のうちから道に隠れていて、高坂の足軽ども全部を討ち取った。これを見て、高坂弾正、落合伊勢守、布施山城守、室賀出羽介の陣から百騎あまりの者が大声を上げて足軽勢を追いたてた。そして、上杉方の先手の陣のそばまで押し寄せて来たところを、義清、政頬の両方の軍兵一度にどっと出て、追い討ちをかけ、武田勢百騎を一騎も残さず討ち取ってしまった。そのため、高坂、落合、小田切、布施、室賀などの守りが破れ、元の陣まで退いていった。武田方は先手が負けて退いたてられるのを見て、真田幸隆、保科弾正、清野常陸、市川和泉などが第二陣から出て、勝に乗って追いたてていった上杉勢を追い返して、陣所の木戸口まで迫り、義清、政頼も危なく見えた。この時、二番手から越後方の川田対馬守、石川備後守、高梨源五郎の三隊、そのほか遊軍の中から、新発田尾張守その子因幡守、杉原壱岐守の五隊が二千ばかりの兵と、ときの声をあげて駆け出て、武田勢を追い散らして戦った。そのうち、真田幸隆が傷を受けて退くところを、「上杉方の高梨頼治」と名乗って、真田にむんずと組んで押しふせ、鎧の脇のすきまを二太刀刺した。保科弾正はそれを見て、「真田を討たすな、者どもかかれ」と戦った。真田の家人細谷彦助が、高梨源五郎の草ずりの下をひざの上から打ち落した。つまり主人の仇を取った。これから保科を槍弾正と言うようになったという。保科もその時、越後方の大勢に取りこめられて、危なく見えたが、後詰の海野、望月、矢代、須田、井上、根津、河田、仁科の九人がこれを見て、保科を討たすな、と一度にときの声をあげて、追い散らした。越後の本陣に近いところまで切りかかってきたところ、越後の後詰斎藤下野守朝信、柿崎和泉守景家、北条安芸守、毛利上総介、大関阿波守など三千あまりが切って出て追い返し、押しもどして戦った。この戦いで、敵も味方も、負傷者、戦死者を多く出し、その数は数えきれぬほどであった。
 謙信は紺地に日の丸、白地に「毘」の字を書いた旗を二本立て、原の町に備えをとの川中島古戦場跡にたつ謙信と信玄の像え、その合戦が続いた。そのうちに信玄は下知して、犀川に太い綱を幾本も張り渡して、武田の旗本大勢がその綱にすがって向こう岸に上り、芦や雑草の茂った中の細道から、旗差物を伏せしのばせて出て、謙信の旗本にときの声を上げて、にわかに切り込んで来た。
 
そのため、謙信の旗本はいっぺんに敗れ、武田方は勝に乗じて追い討ちをかけて来た。信玄は勇んで旗を進めたところに、大塚村に備えを立てていた越後方の宇佐美駿河守定行のひきいる二千ばかりの軍が、横槍に突きかかり、信玄を御幣川に追い入れた。そこに越後方の渡辺越中守が五百余騎で駆けつけ、信玄の旗本に切ってかかり、宇佐美の軍とはさみ義清、政頬も危なく見えた。この時、二番手から越後方の川田対馬守、石川備後守、高梨源五郎の三隊、そのほか遊軍の中から、新発田尾張守その子因幡守、杉原壱岐守の五隊が二千ばかりの兵と、ときの声をあげて駆け出て、武田勢を追い散らして戦った。そのうち、真田幸隆が傷を受けて退くところを、「上杉方の高梨頼治」と名乗って、真田にむんずと組んで押しふせ、鎧の脇のすきまを二太刀刺した。保科弾正はそれを見て、「真田を討たすな、者どもかかれ」と戦った。真田の家人細谷彦助が、高梨源五郎の草ずりの下をひざの上から打ち落した。つまり主人の仇を取った。これから保科を槍弾正と言うようになったという。保科もその時、越後方の大勢に取りこめられて、危なく見えたが、後詰の海野、望月、矢代、須田、井上、根津、河田、仁科の九人がこれを見て、保科を討たすな、と一度にときの声をあげて、追い散らした。越後の本陣に近いところまで切りかかってきたところ、越後の後詰斎藤下野守朝信、柿崎和泉守景家、北条安芸守、毛利上総介、大関阿波守など三千あまりが切って出て追い返し、押しもどして戦った。この戦いで、敵も味方も、負傷者、戦死者を多く出し、その数は数えきれぬほどであった。
 
 謙信は紺地に日の丸、白地に「毘」の字を書いた旗を二本立て、原の町に備えをととのえ、その合戦が続いた。そのうちに信玄は下知して、犀川に太い綱を幾本も張り渡して、武田の旗本大勢がその綱にすがって向こう岸に上り、芦や雑草の茂った中の細道から、旗差物を伏せしのばせて出て、謙信の旗本にときの声を上げて、にわかに切り込んで来た。そのため、謙信の旗本はいっぺんに敗れ、武田方は勝に乗じて追い討ちをかけて来た。信玄は勇んで旗を進めたところに、大塚村に備えを立てていた越後方の宇佐美駿河守定行のひきいる二千ばかりの軍が、横槍に突きかかり、信玄を御幣川に追い入れた。そこに越後方の渡辺越中守が五百余騎で駆けつけ、信玄の旗本に切ってかかり、宇佐美の軍とはさみうちに討ち取った。武田勢は人も馬も川の水に流されたり、また討ち取られた者も数知れなかった。そのうちに謙信の旗本も戻り、越後方上条弥五郎義清、長尾七郎、元井日向守、沼野掃部、小田切治部、北条丹後守などが信玄の旗本を討ち取った。その他、青川十郎、安田掃部などは御幣川に乗り込み、槍を合わせ太刀で戦い名を上げた。手柄の士も多かった。しかし討ち死にした者も数多かった。
 信玄も三十ばかりの人数で川を渡って引き1げるところを、謙信は川の中に乗り込んで二太刀切りつけた。信玄も太刀を抜いて戦う時、武田の近習の侍が謙信を取り囲んだが、それを切り払った。しかし、なかなか近づけず、信玄も謙信も間が遠くへだてられた。その時、謙信に向かった武田の近習の士を十九人切った謙信の業は、とても人間の振る舞いとは思われず、ただ鬼神のようであったといわれる。謙信とはわからず、甲州方では越後の士荒川伊豆守であろうと噂されていた。後でそれが謙信とわかって、あの時討ち取るベきであったのに残念なことをした、とみなが言ったという。
 
信玄は御幣川を渡って、生萱山土口の方に向かい、先陣、後陣が一つになって負け戦であった。甲州勢は塩崎の方に逃れる者もあり、海津城に逃げ入った者もあった。
 中条越前が兵糧などを警護していたところ、塩崎の百姓数千がそれを盗みに来たため、中条がこれを切り払った。このためまた、武田、上杉の両軍が入り乱れてさんざんに戦った。両軍に負傷者、死者が多く出た。信玄は戦に敗れて、戸口という山に退いた。上杉勢がこれを追いつめ、そこで甲州方数百を討ち取った。
 信玄の弟、左馬介信繁が七十騎ばかりで、後詰の陣から来て、信玄が負傷したことを聞き、その仇を取ると言って戻って来た。その時、謙信は川の向こうにいた。左馬介は大声で、「そこに引き取り申されたのは、大将謙信と見える。自分は武田左馬介である。兄の仇ゆえ、引き返して勝負されたい」と呼びかけた。謙信は乗り戻って、「自分は謙信の家来の甘糟近江守という者である。貴殿の敵には不足である」と言って、川岸に馬を寄せていた。
待っていた左馬介主従十一人が左右を見ると敵はただ一騎である。信繁も、「一騎で勝負をする、みな後に下っているよう」と真っ先に川に入るところを、謙信は川に馬を乗り入れ、左馬介と切り結んだ。左馬介は運が尽きて打ち落され、川に逆さまに落ち込んだ。謙信は向こうの岸に乗り上げ、宇佐美駿河守が七百余で備えている陣の中に駆け入った。一説には武田左馬介信繁を討ち取った者は村上義清であるともいう。上杉家では、左馬介を討ち取ったのは、謙信自身であったと言い伝えている。甲州では信玄は二か所も深手を負い、信繁は討ち死にしたのである。板垣駿河守、小笠原若狭守も二か所、三か所の負傷で敗軍であった。
 越後勢も旗本を切り崩されて敗軍したが、宇佐美駿河守、渡辺越中守が横槍に入り、信玄の旗本を崩したのに力を得て、甲州勢を追い返して、もとの陣に旗を立て、鶴翼の陣を張ることができた。
 
 この時の戦
天文二十三年甲寅八月十八日。
夜明けから一日中十七度の合戦があった。
武田方二万六千のうち、負傷者千八百五十九人。戦死者三千二百十六人。越後方は負傷者千九百七十九人、戦死者三千百十七人であった。
十七度の合戦のうち、十一度は謙信の勝、六度は信玄の勝であった。
謙信は旗本を破られたが追い返して、もとの場所に陣を張ることができた。
武田方は信玄が深手を負い、弟の左馬介戦死、板垣、小笠原なども負傷したため、陣を保てず、夜になって陣を解いて引き上げた。
 
謙信も翌日陣を解き、
十九日には善光寺に逗留して、負傷者を先に帰し、手柄を立て名を上げた軍兵に感状証文を出して、
二十日に善光寺を引き払い、越後に帰陣した。
これが天文二十三年八月十八日の川中島合戦。
 
第二回川中島合戦< 甲府市 史>
天文二十四年(一五五五)
晴信、信濃川中島で長尾景虎と対戦する(「 甲府市 史」)
 
 
    (上略)去程此年七月廿三目、武田晴信公信州へ御馬ヲ被出侯、
    村上殿・高梨殿、越後守護長尾景虎ヲ奉頼、同景虎モ廿三目
    二御馬被出侯而、善光寺二御陣ヲ張被食候、武田殿ハ三十町
    此方成リ、大塚二御陣ヲ被成侯、善光寺ノ堂主栗田殿ハ旭ノ
    域二御座候、旭ノ要害へそ武田晴信公人数三千人、サケハリ
    ヲイル程ノ弓ヲ八百張、鉄胞三百挺入候、去程二長尾景虎、
    再次責侯へ共不叶、後ニハ駿河今川義元御扱ニテ和談被成侯、
    閏十月十五目、隻方御馬ヲ入被食候、以上二百日ニテ御馬入
    申侯、去程二人馬ノ労レ無申計侯、(下略)(「勝山記」)
 
〔解説〕(「 甲府市 史」)第二回川中島の戦い
 
 天文二十二年(一五五三)四月、晴信は念願の村上義溝の葛尾城を攻め落し、信濃の大半を掌中にした。
 村上氏は越後へ逃れ、長尾景虎を頼って、その援助によって、再度、小県郡に復帰していた。
 これによって長尾景虎との川中島をめぐる争いが始まる。
 天文二十四年七月には、両老が川中島へ出陣し、晴信は大塚に陣を敷いた。景虎も善光寺へ着陣し、十九目には両軍が川中島で対戦した。
 その後、善光寺の堂主であった栗田氏は旭城に籠って景虎を牽制し、晴信は旭城に兵三千人と弓八百張、鉄砲三百挺とを送り込んでいる。両者対陣のまま閏十月に及び、晴信は今川義元に幹旋を頼んで景虎と和睦し、ようやく両者は川中島から兵を引いた。
 これを第二回川中島の戦いという。
 
 <筆註>武田方の鉄砲三百挺の記事は注目される。
 
河中島五箇度合戦記 第三回合戦
 弘治二年丙辰(一五五六) 
三月、謙信川中島に出陣、信玄も大軍で出向し陣を張った。日々物見の者を追いたて、草刈りを追い散らし、足軽の小競り合いがあった。
 信玄のはかりごとでは、戸神山の中に信濃勢を忍び込ませて謙信の陣所の後にまわり、夜駆けにしてときの声を上げて、どっと切りかかれば、謙信は勝ち負けはともかくとして千曲川を越えて引き取るであろう。そこを川中島で待ち受けて討ち取ろうとして、保科弾正、市川和泉守、栗田淡路守、清野常陸介、海野常陸介、小田切刑部、布施大和守、川田伊賀守の十一人の、総勢六千余を戸神山の谷の際に押しまわし、
信玄は二万八千の備えを立てて、先手合戦の始まるのを待った。先手十一隊は戸神山の谷際の道を通って、上杉陣の後にまわろうと急いだが、三月の二十五日の夜のことである。道は険しく、春霞は深く、目の前もわからぬ程の闇夜で、山中に道に迷い、あちこちとさまよううちに、夜も明け方になってきた。
 
 謙信は二十五日の夜に入って、信玄の陣中で兵糧を作る煙やかがり火が多く見られ、人馬の音の騒がしいのを知り、明朝合戦のことを察し、その夜の十時ごろに謙信はすっかり武装をととのえて八千あまりの軍兵で、千曲川を越えた。先陣は宇佐見駿河守定行、村上義清、高梨摂津守政頼、長尾越前守政景、甘糟備後守清長、金津新兵衛、色部修理、斎藤下野守朝信、長尾遠江守藤景九組の四千五百。二番手に謙信の旗本が続いて、二十五日夜のうちに、信玄の本陣に一直線に切り込み、合戦を始めた。
 
 信玄は思いもよらぬ油断をしていた時で、先手がどうしたかと首尾を待っていたところに越後の兵が切りかかった。
 武田方の飯富兵部、内藤修理、武田刑部信賢、小笠原若狭守、一条六郎など防戦につとめた。しかし、越後方の斎藤、宇佐美、柿崎、山本寺、甘敷、色部などが一度にどっと突きかかったので、信玄の本陣は破れ、敗軍となった。その時板垣駿河守、飯富、一条など強者ぞろいが百騎ばかり引き返して、高梨政頼、長尾遠江守、直江大和守などの陣を追い散らし、逃げるのを追って進んで来るところを、村上義清、色部、柿崎などが、横から突きかかって板垣、一条などを追い討ちにした。小笠原若狭守、武田左衛門、穴山伊豆守など三百騎が、「味方を討たすな、者どもかかれ」 と大声で駆け入って来た。
 
 越後方でも杉原壱岐守、片貝式部、中条越前、宇佐美、斎藤などが左右からこの武田勢を包囲して、大声で叫んで切りたてた。この乱戦で信玄方の大将分、板垣駿河守、小笠原若狭、一条など戦死、足軽大将の山本勘介、初鹿野源五郎、諸角豊後守も討ち死にした。二十五日の夜四時ごろから翌二十六日の明け方まで、押し返し、押し戻し、三度の合戦で信玄は負けて敗軍となり、十二の備えも追いたてられ討たれた者は数知れなかった。
 謙信が勝利を得られたところに、戸神山よりまわった武田の先手十一組、六千余が、川中島の鉄砲の音を聞き、謙信に出し抜かれたかと我先に千曲川を越え、ひとかたまりになって押し寄せた。信玄はこれに力を得て引き返し、越後勢をはさみうちに前後から攻め込んだ。前後に敵を受けた越後勢は、総敗軍と見えたが、新発田尾張守、本庄弥次郎が三百余で、高坂弾正の守る本陣めがけて一直線に討ちかかり、四方に追い散らし、切り崩した。
上杉勢は一手になって犀川をめざして退いた。
 
 武田勢は、これを見て、「越後の総軍が、この川を渡るところを逃さず討ち取れ」と命じ、われもわれもと甲州勢は追いかけて来た。上杉勢は、退くふりをして、車返しという法で、先手から、くるりと引きめぐらし、一度に引き返し、甲州勢の保科、川田、布施、小田切の軍を中に取りこめて、一人残らず討ち取ろうと攻めたてた。
 信玄方の大将、河田伊賀、布施大和守を討ち取り、残りも大体討ち尽くすころ、後詰の栗田淡路、清野常陸介、根津山城守などが横から突いて出て、保科、小田切の軍を助けだした。越後の諸軍は先手を先頭にして隊をととのえて、静かに引きまとめ犀川を渡ろうとした。そこへ、信玄の先手、飯富三郎兵衛、内藤修理、七宮将監、跡部大炊、下島内匠、小山田主計などが追って来た。本庄美作、柿崎和泉、唐崎孫之丞、柏崎弥七郎などが、引き返して戦っているところに、新発田尾張守、斎藤下野守、本庄弥次郎、黒川備前守、中条越前守、竹股筑後守、その子右衛門など八百あまりが柳原の木陰からまわって来て、それぞれに名乗り、何某ここにあり、そこをひくなと大声で叫び、一文字に突いてかかった。
 
そのため甲州勢はもとの陣をさして退いた。越後勢は勝って、その足で川を越え、向こうの岸に上がった。甲州勢はなおも追いかけようとひしめいたが、越後方の宇佐美駿河守が千あまりで市川の渡り口に旗を立て、一戦を待つ様子に恐れ、その上、甲州方は夜前から難所を歩きまわり、疲れているのに休む間もなく四度も合戦になったため、力も精も尽き果てて、重ねて戦うだけの気力をなくした。
 甲州本陣にいた軍兵が代わりに追討軍を組もうとしたのを信玄は厳しく止めたので、一人も追っ手は来なかった。越後勢はゆっくり川を越して、はじめの陣所に引き上げた。
 この日の合戦は夜明けの前に三度、夜が明けてから四度、合わせて七度の戦いで、越後方戦死三百六十五人、負傷者千二十四人。甲州方の戦死者は四百九十一人、負傷者千二百七十一人と記した。中でも、大将分小笠原若狭守、板垣駿河守、一条六郎、諸角豊後、初鹿野源五郎、山本勘介をはじめ、信玄の士の有名な人びとが討ち死にしたので翌二十七日に信玄は引き上げた。謙信も手負いの者、死人など片づけ、軍をまとめて引き上げた。
弘治二年三月二十五日の夜から、二十六日まで、川中島の第三度の合戦であった。
 
第三回川中島合戦
 晴信感状(天文二十四年(一五五五)七月十九日(「 甲府市 史」)
 
 晴信、遠光寺の土橋氏に感状を与える
    今十九、於信刀朋更科郡川中嶋遂一戦之時、頚壱討掩之条神
    妙之至感入侯、弥可抽忠信者也、仍如件
   天文廿四年乙郊、
  七月十九日晴信(「晴信」朱印)
      土橋対馬守との(「甲州古文書」)
 
 
晴信、川中島への出陣を報ずる
弘治三年(一五五七)
 
    十一日之注進状今十四目戊刻着府、如披見老越国衆出張之由
    侯哉、自元存知之前候条不図出馬候、委曲於陣前可遂直談候
    趣具承候、飯富兵部少輔所可申趣候、恐々謹言
 
     (弘治三年)三月十四目    晴信(花押)
        木島出雲守殿原左京亮殿(「丸山史料」)
 
〔解説〕(「 甲府市 史」)
 第三回川中島合戦
 葛山城を攻落した後、武田軍は川中島一帯の長尾方の一掃を続行していた。景虎は雪のために出陣することができず、晴信も三月十四日にはまだ甲府にいた。
 そこへ川中島より注進状が届き、越国衆が出障するとの鞍に接し、自らも出馬すると伝えている。
 四月十八日、景虎が川申島に出陣し、晴信は決戦をさげて安曇郡小谷城を攻め、
 八月に入ってやっと両軍が川中島で対戦した。これを第三回川中島の戦いという。
 
河中島五箇度合戦記 第四回合戦
弘治二年八月二十三日
謙信は川中島に出て、先年の陣所より進んで川を越えて、鶴翼に陣を張った。両度の陣と同じ陣形である。村上義清、高梨政頼を中心として、丸い月の形に十二行の陣立てである。信玄は二万五千の兵で出陣した。
 今度の越後の陣取りは、長期戦とみえて、薪を山のように積んでおいたと、甲州の見張りの者が報告するのを、聞いて信玄は、「一日二日の間に、越後の陣に夜中に火事があるだろう。その時、一人でも進んで出て行く者があったら、その子孫までも罰するだろう」 と下知した。
 すると、二十三日の晩方、越後の陣所より荷物を積んだ馬や、荷を持った人夫が出て、諸軍旗を立てて陣を解き、引き上げるようにみえた。甲州方の軍兵が、謙信が引き上げるのを逃さず追い討ちにしようとした。信玄は一の木戸の高みに上ってその様子をながめて、「謙信ほどの大将が、日暮れになって陣を払って退くようなことがあるはずがない。これを追ってゆけば必ず失敗である。一人も出てはならぬ」 と止められた。思ったとおり、その夜二時ごろ、越後の陣から火事があり、たいへんな騒ぎとなった。だが、信玄が厳しく命令して一人も出なかった。間もなく夜が明けて、越後の陣地を見渡すと、通り道をあけて、きちんと武装した武士が、槍、長刀を持って、六千ばかりが二行に進んで、敵が近寄るのを待ち受けていた。朝霧が晴れるにしたがって見わたすと、二行になった備えの左側の先手は長尾政貴、右側は宇佐美駿河守走行、松本大学、中条越前を頭として十備え、杉原壱岐守、山本寺伊予守、鬼小島弥太郎、安田伯者守などを頭として十二備えが続いている。
 中筋は、紺地に日の丸の大旗、「毘」の字を書いた旗の下に、謙信が床凡に腰をかけて、一万あまりの軍勢がそれを取り囲み、敵を待ち受けていた。甲州勢はこれを見て、ここに攻め込めば一人として生きては帰れまい。この備えのあることを見破った信玄の智は計り知れない、ただ名将というだけでなく、鬼神の生まれ代わりともいうべきものだと、みな感じ入ったという。
 その翌日、信玄は戦いの手立てを考えて言った。「夜中に甲州方一万の人数を山の木の陰にひそかに隠し、馬をつないである綱を切り越後の陣に放してやる、そして馬を追って人を出す。敵陣から足軽がこの放した馬に目をつけて必ず出て来るだろう。その時、足軽を討ち取るように見せかけて、侍百騎を出して越後の足軽を追いたてれば、謙信は、気性の強い武士であるから、百騎の勢を全滅しようと出て来るだろう。その時、足並みを乱して敗軍のようにして谷に引き入れ、後陣を突ききり、高いところから、矢先をそろえ、鉄砲を並べて、目の下の敵を撃て」 と命じた。
 そこで、馬二、三頭の綱を切って越後の陣に追い放し、足軽五、六十人が出て、あちこちと馬を追い、かけ声をかけたが、越後の陣では、これを笑って取り合わず、一人も出なかった。
 信玄はこれを見て、「謙信は名将である。このはかりごとに乗らない武士である」と言い、「しかし、大河を越えて陣を張るのは不思議である。信州の中に謙信に内通している者がいるようだ。大事にならぬうちに引き上げることにしよう」 と内談して、信玄は夜中に陣を引き払い、上田が原まで引き上げた。謙信は総軍で信玄と一戦、朝六時ごろから、午後二時すぎまでに五度の合戦があり、初めは武田が負け退いたが、新手が駆けつけて激しく戦い、越後勢は押したてられた。長尾越前守政景、斎藤下野守朝信などが盛り返し、下平弥七郎、大橋弥次郎、宮島三河守などが槍を振るって、武田勢を突き崩した。
また、上杉方の雨雲治部左衛門が横合いに突きかかり、道筋を突き崩した。宇佐美駿河守走行は手勢で、山の方から信玄の陣に切ってかかったため、甲州方はついに敗北した。翌日信玄は引き上げ、謙信も戻った。
この戦いで、甲州方千十三人の死者、越後方八百九十七人の戦死者。
弘治三年
3月10日
 晴信感状(「甲州古文書」)
去る二月十五日、信州水内郡葛山の地において、頸壱つ討捕り候。戦功の至り感じ入り候。
いよいよ忠信抽んずべきものなり。よってくだんのごとし。云々 
 三月十日 晴信
   土橋対馬守との
 
《『長野県史』》
 
弘治3年1・20《『長野県史』》
長尾景虎、更級郡八幡宮に、武田晴信の討滅を祈願する。願文に晴信の信濃征服の暴虐を記す。
弘治3年215《『長野県史』》
武田の将馬場信房、長尾方落合氏らの本拠水内郡葛山城を攻略する。
同郡長沼城の島津月下斎、大倉城に退く。
葛山衆は多く武田方に属し存続する。
弘治3年217《『長野県史』》
武田晴信、内応した高井郡山田左京亮に、本領^同郡山田を安堵し、大熊郷を宛行う。
弘治3年225《『長野県史』》
後奈良天皇、伊那郡文永寺再興を山城醍醐寺理性院に令する。
ついで文永寺厳謁、信濃に下り、武田晴信に文永寺再興を訴える。
弘治3年225《『長野県史』》
武田晴信、越後軍の高井郡中野への移動を報じた原左京亮・木島出雲守に答え、域を堅めさせる。
ついで原・木島、越後軍の出陣を晴信に報じる。
弘治3年323《『長野県史』》
武田軍、高梨政頼を飯山城に攻める。政頼、落域の危機を訴え長尾景虎に救援を請う。
この日景虎、越後長尾政景に出兵の決意を告げ出陣を促す。
弘治3年328《『長野県史』》
武田晴信、水内郡飯縄権現の仁科千日に、同社支配を安堵し、武運長久を祈念させる。
弘治3年413《『長野県史』》

苗字の発祥 (あの部)

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苗字の発祥 青木氏(甲斐青木氏)

地名としては和名抄に筑前国下座郡、筑後国三瀦郡に青木郷あり、そのほか全国に多い。清和源氏武田氏の一族で甲斐国巨摩郡青木村から起った青木氏と武蔵七党丹党の武蔵国入間郡青木村の青木氏、美濃国安八郡青木村より起った藤原氏の流れでは摂津麻田藩主の青木氏が有名である。ほか藤原秀郷の流れで下野国佐野流の青木氏、岩代・磐城・下総・三河・越後・豊前・因幡の青木氏が見られる。

苗字の発祥 青山氏

 藤原北家花山院流が有名、花山院堀川師賢の子信賢を祖とし江戸時代丹波笹山藩主青山氏はその裔で東京都内の青山という地名は青山常陸介忠成の屋敷にちなんだもの。そのほか蒲生氏の一撃、藤原北家斉藤氏の分れ、武蔵国豊島郡の青山氏、豊原氏や本間氏から分れた青山氏など数は多い。

苗字の発祥 赤木氏

 中国に多い苗字で村上源氏赤松氏の一族。赤木越中守直家が始祖で家実の時に伯耆に移る。ほか美作・但馬に赤木氏あり。

苗字の発祥 赤川氏 

安芸の名族で桓武平氏土肥氏から出た小早川流が著名で信濃赤川氏も土肥氏の分れ、ほか越中に赤川氏がいる。
苗字の発祥 赤塚氏  
藤原北家利仁流で吉原氏の一族。はか武蔵国北豊島郡赤塚村、伊豆国賀茂郡赤塚村から発祥した氏も見られる。

苗字の発祥 赤松氏 

 播磨国赤穂郡赤松より起る播磨赤松氏の一族が多い。村上源氏(村上天皇の皇子倶平親王を祖)一から出、支流は備前・美作・和泉・摂津・伊勢・志摩・丹波・但馬・阿汐・三河・磐城・上野などに居住した。

苗字の発祥 秋田氏

 奥州安倍貞任の末子高星(安東太郎)の後裔で出羽秋田の地名をふし数代後鹿季の時に秋田城主と夜力兄盛季は津軽に移って下国家をおこす。

苗字の発祥 秋津氏

 大和の秋津氏は吉野郡の名族で秋津山城を根拠とし紀伊の秋津氏もこの分れか。

苗字の発祥 秋山氏(甲斐 秋山村)

 清和源氏加賀美氏流。甲斐国巨摩郡秋山村を発祥とし武田一族加賀美遠光の長男光朝を祖とする。讃岐の秋山氏も甲州秋山氏の分れでほか武蔵・下総・安芸・備後・美作・丹波・伊豆等に秋山氏あり。

苗字の発祥 秋元氏(甲斐 谷村藩主)

 秀郷流藤原氏。宇都宮頼綱の子泰業が上総国周准郡秋元庄を領したのがはじまり。陸中津軽郡鹿角の秋元氏も名族である。

苗字の発祥 秋葉氏

 武蔵発祥は藤原北家成田氏流、相模は三浦氏流、備中は清和源氏土岐氏流。

苗字の発祥 芥川氏

 摂津国上郡芥川村よりおこる。桓武平氏流と清和源氏小笠原三好流とがある。ほか近江甲賀、羽後国由利郡等にも芥川氏あり。

苗字の発祥 明智氏

 美濃国可児郡明智村を発祥とし清和源氏土岐氏族(明智光秀はこの末)と木田氏族の二流が見られる。

苗字の発祥 阿久津氏

 常陸国発祥は桓武平氏大按氏流、磐城より起ったのは坂上氏の末、ほか下野の丹治氏流、藤原秀郷流あり。

苗字の発祥 浅井氏

 近江、尾張のはか全国に地名多い。浅井直、浅井宿礪など上代の名族の未で戦国大名浅井長政が有名。このはか字多源氏佐々木氏流、桓武平氏千葉氏流、藤原姓小堀氏族の浅井氏などがある。

苗字の発祥 浅野氏

 清和源氏土岐氏流で美濃国士岐郡浅野村が発祥で安芸広島の大名浅野家はこの末と言われる。ほかに秀郷流藤原氏佐野氏の裔。

苗字の発祥 浅見氏

 武蔵七党の一児玉党の阿佐美氏より出、児玉郡浅見村が発祥地だが近江の浅見氏も児玉党の末。

苗字の発祥 浅原氏(甲斐)

 甲斐巨摩郡浅原村発祥は武田氏族、ほか石見の豪族益田氏族ある。

苗字の発祥 麻生氏

清和源氏頼親流、桓武平氏大嫁氏流(常陸国行方郡麻生郷)、宇都宮氏流(豊前国麻生郷)ほか清和源氏土岐流、甲斐・三河・安芸に麻生氏が見られる。

苗字の発祥 足利氏

 下野国足利郡より起こる。一流は藤原秀郷の未(足利又太郎行綱)、一流は清和源氏(足利尊氏)の二流がある。

苗字の発祥 芦田氏

 茸田も同じ○芦田臣、芦田首の古代氏族から出たもので、このはか信州発祥では清和源氏井上氏流と伊紀国造族滋野氏流あり、備後発祥では佐々木氏流、幡磨では赤松氏流ほか信州芦田氏から上野国、丹波国の芦田氏支流に分れる。

苗字の発祥 芦名氏

 相模国三浦郡声名村より起こり三浦氏族。会津声名氏はこの流れで、ほかに為清流、佐原流からも出ている。

苗字の発祥 安宅氏

 紀伊国牟宴郡安宅庄より発祥したのは橘氏族で阿波・淡路の安宅氏はその支流。

苗字の発祥 東氏

 上野国吾妻郡からは東国造の末、桓武平氏千葉氏流、清和源氏佐竹氏流、秀郷流藤原氏など数流がある。

苗字の発祥 安曇氏

 海積(アマツミ)を略したもので海部の長。筑前国糟屋郡安曇郷が発祥で阿曇・厚見・厚海・渥美・阿積等も同じ。

苗字の発祥 足立氏

 武蔵国足立郡発祥、武蔵国造武蔵宿爾の末。丹波国水上郡には足立氏の子孫多く藤原氏流と言われ常陸の足立氏は江戸氏の一族。

苗字の発祥 安達氏 

後世足立と混同されているが元来は奥州安達郡より起ったもので、高麗帰化族、坂上流のほか藤原北家奥名流があり、この流れが足立・安達を称して混同したものと考えられる。

苗字の発祥 阿部氏  

阿倍、安倍、安部とも苗代は同じ。
古くは孝元天皇の皇子大彦命の末で大和国葛下郡阿倍から起った名族。阿部氏としては阿倍朝臣の末、安倍氏では陰陽家安倍晴明のほか安倍貞任を出した奥州安倍氏、出羽・津軽の安倍氏、安部氏では孝昭天皇の末和安部朝臣、阿部氏は藤原北家とも言われ、備後福山藩主、上総佐貫藩主、磐城棚倉藩主あり、その他全国にきわめて多い。

苗字の発祥 甘糟氏

武蔵国都珂郡甘槽より起こる。武蔵七党の猪股党。

苗字の発祥 相田氏

藤原北家秀郷流藤原氏で佐野一族。常陸国多珂郡相田村発祥は桓武平氏。

苗字の発祥 会田氏(甲斐)

信濃国東筑摩郡会田村より起ったのは滋野海野氏流、ほか陸奥・甲州にあり。

苗字の発祥 尼子氏

近江国犬上郡尼子郷発祥は佐々木京極氏の流れ。出雲、石見、紀伊はその支流。

苗字の発祥 天野氏(甲斐)

伊豆国田方郡発祥。三河・相模・遠江など東海地方を中心に甲斐・伊勢・出雲・豊前・武蔵・上野等広く分布。紀伊国造族の末。藤原商家工藤氏族。清和源氏武田氏族、秀郷流藤原氏首藤流など数流あり。

苗字の発祥 雨宮氏

 信濃国境科郡雨宮村から起った清和源氏村上氏のほか同秋山流も見られる。

苗字の発祥 網野氏(甲斐)

 丹波の網野氏は依網氏と関係奉るものと考えられ、甲斐の網野氏は清和源氏武田氏族で信濃にもこの流れがある。

苗字の発祥 安西氏(甲斐)

 安房国安房郡安西から起力平郡壬生朝臣の末。駿河国安倍郡安西村の安西氏は三浦流、ほか岩代・越後・甲斐に見える。
苗字の発祥 安藤氏
 安倍氏から出て藤原氏に結びついた氏族。津軽安東氏は安倍貞任の子孫が藤原清衡一族の養子となり安藤氏を称した。ほか岩代国安積の国造、武蔵七党、清和源氏村上氏流などの諸流あり。
苗字の発祥 荒木氏
 摂津発祥は中臣氏の一族。武蔵の荒木氏は衡勢新九郎と共に関東に下った荒木兵庫頭が始祖、その他伊賀・大和と筑前・筑後に荒木氏が多い。
苗字の発祥 荒川氏
 磐城国磐城郡荒川郷より発祥したのは桓武平氏磐城氏流で、三河国幡豆郡荒川より起ったのは清和源氏足利氏流で、足利氏流の吉良氏・渋川氏から荒川を称した流れもあり、秀郷流藤原氏の白河氏、河村氏流のほか小野姓猪股党、近江佐々木氏など各流がある。

苗字の発祥 新井氏  

新居・荒井・荒屈もほぼ共通で新しい集落という命名語源の通力全国に多い。有名なのは上野国新田郡新井より起った清和源氏新田氏流で、ほか丹党秩父氏、秀郷流藤原氏、桓武平氏千葉国分氏流の荒井氏も見られる。

苗字の発祥 有沢氏

天武天皇の後裔有沢真人の後。藤原商家、信濃諏訪の有沢氏など数流あり。
 

柳沢吉保、日本経済事情 総理の月給四億円

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柳沢吉保、日本経済事情 総理の月給四億円

大老柳沢吉保の場合

山口博氏著(富山大学教授)一部加筆
 

金力による占いと禊(みそぎ)

 昭和が平成になっても、80年代から90年代に変わっても、動かなかった山が動いても、日本人の政治感覚はあんまり変わらないらしい。
一カ月前の総選挙の候補者の言動は、近代以前そのものだ。曰く「90年代を
占う選挙」、曰く「みそぎの選挙」。そして土下座。
 古代では、天の声を聞くということで亀の甲や鹿の骨を焼き、できたひび割れの文様から政治を占った。
「易」という字は、トカゲの象形文字化である。トカゲの体色は変化する。つまり、「カメレオン」であるが、その体色の変化と、天下の千変万化をドッキングさせて、「易」の文字はできた。なるほど、それで分った。
「九〇年代を占う選挙」と言っていた諸公の、選挙前と選挙後の言動の変化することが。「みそぎ」も神話の時代からの政治感覚。罪汚れを洗い清めて、神に近づくにふさわしい体となる行事である。
 太平洋戦争中は、現人(あらひと)神天皇に奉仕する体となるためみそぎをした。今「みそぎ」を言う諸公は、罪汚れを払って、何の神に近づこうというのか。占うのも、亀の甲や鹿の骨ではなく、金の力。「みぞぎ」も金を湯水の如く使って流す。金ある者が巧みに占い、「みそぎ」を果たす。
 派閥の領袖の問われるのは、政治能力よりは金集めの能力だ。領袖と子分は個人的な結び付き。迎合と賄賂の横行の果てが、ロッキードやリクル-トの事件を生む。

柳沢保明初任給二十六万円

 政治家の個人的な結び付きの制度化したのが、江戸幕閣の側用人制度。この個人的結合の制度を作った将軍綱吉の側用人柳沢吉保は、館林藩時代からの親分子分だ。館林藩士保明は、藩主綱吉の小姓からスタート。綱吉が将軍になったので、保明はそのまま幕臣となる。
 小納戸役で、サラリーは年俸禄高160石と役職手当として蔵米370俵。23歳の時である。
 小納戸役というのは君側の職で、将軍の身辺雑務を担当する。定員は100
程。保明は、小姓・小納戸役と初めから綱吉の側近だったのだ。
 23歳の幕臣としての初任給は、現在の貨幣価値に換算すると、どのくらいだ
ろうか。分かり安いように、1石当りの換算をまずしておこう。
1石=100升=140キロ
 現在の自主流通米を1キロ400円とすると、
400円×14056,000
四公六民で税率は60パーセントだから、
 5600円×0422,400
1石が22400円である。160石では、
 22,400円×1603,584,000
 これに役職手当370俵が付く。
 370俵=480斗=14,800升=2072キロ
 400円×2072828,800
 この手当は課税されずまるまる貰える。
 3,584,000円+828,800円=4,412,800
年俸4,412,800円となる。
 ボ-ナスを年間五カ月としで月給に直すと、
 4,412,800÷17259,576
 23歳で259,576円とは、我々に比して驚くべき高額だ。
 翌年天和元年(1681)に300石加増されて460石。蔵米も禄高に改めら
れて、計830石になる。小納戸は500石、納戸頭は700石の職だから、役職
相当以上の厚遇を得ていたことになる。
 460石を換算すると月給606,019円。部長クラスというところか。

七年間で給料20倍アップ

 保明のその後の加増は著しい。
 元禄元年(168822,000石。そして側用人になる。従来、将軍の側近の最高の職は、側衆である。その地位は若年寄よりも下で、役高は5,000石。綱吉が将軍に就任して、新たに設置した側用人の石高は老中に準じる。この個人関係的色彩の濃い職の設置により、側近の地位は、幕閣公的官職のトップである老中と、肩を並べるに至ったわけだ。
 保明の石高を換算すると、1石が22,400万円だから、12,000石なら、
 22,400円×12,000268,800,000
268,800,000÷1715,811,764円(この月、「17」の単位が理解で無い)
実収が15,811,764円。年俸ではない、月給である。
前職の月給が60万円だから、7年間で20倍強のアップだ。抜擢されたもの
はこたえられない。
 親分にさらに迎合し土下座して忠誠を誓う。個人的繁りの政治の醍醐味はここにある。側衆は旗本の職だった。そのエリート職を奪われた旗本の恨みは深かったに違いない。
 元禄3年(169022,000
 元禄5年(169252,000石.
元禄7年(169462,000
 川越城主、老中格
 同年92,000石。武蔵・和泉・摂津の地を領す。
 元禄7年、92,000

 大老吉保月給2億円

 元禄14年(1701)には家門に准じられて、松平の家名と将軍の名の一字を賜わり、松平吉保と称した。
 元禄15年(170294,000
 宝永元年(1704151,200余石 甲斐駿河の地を領す。甲府城主。
 甲府は徳川家の一族や親藩が置かれるか、幕領であったところである。松平吉保と称したとはいえ、所詮徳川家以外の人物である。このような人の甲府城主となる事とは、全く異例である。だから、辞令には、
 甲斐国は枢要の地にして満と我が宗室の国と為す。是を以て、臣下に之を封ぜらるるを得ず。惟り吉保は勉励三十年にして、忠貞古今に冠絶す。故を以って、巨摩・八代:山梨の三郡を以て、全く之を封ず。
 というのだ。
 石高の15万石を換象すると驚く程の高額になると思うが試みてみよう。
 1石は22,400円である。
 22,400石×15,000336,000,000
 336,000,000÷17197,647,000
 吉保の月給実に2億円であった。
 
慶安2年(1649)制定の幕府軍役規定は、10万石で2,155人の部下を養
う事を義務づけている。この月給には、部下の賃金・生活費を含むとはいえ、高給取りであることには違いない。
一般に、吉保の昇り詰めた石高は、15万石というが、『藩翰譜続編』は奇妙なことを記す。
翌年(宝永2年)駿河の地を返し奉りて、甲斐国を給ふ。この時額定は33万石ばかりなりといヘども、御朱印には記されず。

武田武将 春日弾正忠 附「甲陽軍鑑」は佐渡で書かれた。

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春日弾正忠

(諸記録名為ニ昌信者多シ、又作ニ昌宣晴昌編年集成ニ晴久トス、紀州高野成慶院所蔵元亀二年(1571)三月九日山県三郎兵衛昌景、高坂弾正忠虎綱連署ノ花押書アリ、荻生茂卿(荻生徂徠)ガ可成談ニモ載之、烈祖成績等従作虎綱今以使僧所ニ写準訂之、文中殊不穏再閲ニ原本非ズンバ難採其余末見的書故ニク姑闕名記ズ)軍鑑ニ云、初メ春日源五郎トテ伊沢(石和)ノ大百姓春日大隅ノ子也、十六歳ノ時ヨリ召仕ハル(時ニ晴信廿二歳卜云、天文十一寅年カ、伊沢ハ石和ナリ、今有春日屋敷トイウ)三十日ノ内ニ近習ニナリ使番ヲ歴天文廿一年(1552)士隊将ニ抜擢シ、百騎ヲ領シ、弾正卜改称ス、又五十騎ヲ増シ明年出信州小室城代為ル(「勝山記」ニハ同廿三寅年八月小室自落トアリ)弘治二年(1556)海津城ニ遷ル、三百騎ヲ加へ河中島ノ諸士ヲ合属シテ、北越ニ備フ旗ハ朽葉ノ四方、食邑九千貫至ル、永禄四年(1561)高坂某誅シ、弾正ニ其家蹟ヲ賜フ、因高坂氏卜為ルトアリ、爰ニ上杉輝虎数度川中島ニ侵入ルト雌モ終ニ海津ヲ攻ルコトナシ、弾正モ不敢動揺、晴信出対輝虎ニ及ヒテ弾正ハ常ニ持奇兵戦ヲ専ニセス、或ハ引私属北越ノ地ヲ掠略スルニ、輝虎亦迎へ戦フ事ヲ為サス、良将用兵ノ進退後人ノ所得評ニ非スト云云、天正三年(1575)勝頼大敗長篠遍ル時ニ弾正往伊奈駒場迎之、勝浦ノ旌旗亀甲持鎚藍幖矢服等ノ諸具ニ至  ルマデ、弾正カ多年私調儲テ所備不曲筆不虞悉補欠於是カ、勝頼軍ヲ整エテ凱旋セリ、弾正ノ為人温順ニシテ智略アル事此類ナリトイウ、按ニ春日ハ「軍鑑伝解」ニ信州ノ先方ニ春日播磨アリ、春日部ハ本信州ニ出ツ春日部氏、為ニ甲斐守ノ事、「東鑑」ニ見エタリ、高坂地名在佐久郡光明寺残篇元弘中、高坂出羽権守、「浪合記」応永中高坂四郎高信トイウ者アリ、「横雲記」、「李花集」ニハ、作香坂・香坂モ地名ナリ、埴科郡又高遠大草ノ北村ニ光坂源五郎トイウ者アリ、家ノ紋十六葉ノ重菊下ニ一文字有リ、即チ弾正ノ胤ナリト聞ク、然レハ高・香・光ノ三字無異因普通用ヰルナリ、永禄中誅高坂・仁科・高梨等卜云ハ、旧記ニ高坂安房守トモ見エタレド、仁科ノ条ニモ云フ如ク可否未詳、弾正ニ高坂ノ家蹟ヲ賜フニ因リテ、人喚ヒテ高坂卜云フカ未見、書ニ高坂弾正証文、東新居村某所蔵永禄十丁卯(1567)十一月廿三日、授禰津氏、信玄ノ朱印ニ就箕輪在城云々、猶春日弾正忠可申候、今諏万村某所蔵三月六日信玄ノ書簡(甘利氏ノ譜中所訂元亀三年ナリ)ニ白井不日ニ落云大慶ニ候云云、仕置ノ儀ハ箕輪在番ニ候条、春日弾正忠談合尤候トアリ、駿州大宮神馬奉納記ニモ神馬弐匹春日弾正忠、同壱匹春日中務少輔卜見ユ、是ハ長篠役後ノ記ナリ、右三章ヲ校スルニ、皆春日ト書シテ、高坂トハ無シ、非改氏コト可訂定カ、因テ姑ク書本氏ノミ、又箕輪在番ノ事モ諸録ニ記スルコトナシ、弾正ノ墓ハ海津 (今云松代)東地蔵嶺ノ下関屋村明徳禅寺ニ弾正夫婦ノ石塔アリ無銘、塔前ノ石花瓶ニ十六葉ノ重菊ヲ彫リタル定紋ナル事訂スヘシ、元文中(173640)再建ノ碑ニ「憲徳院玄蕃香道忠大居士、天正六戊寅(1578)五月初七日逝ス、高坂弾正昌信一刻アリ、銘文略之拠「軍鑑」年五十二。

高坂源五郎正澄

(高坂氏ノ事ハ雖明拠雖モ無シ、諸録ニ従イ之ニ記ス、其名昌澄、昌宣、信秀作ル者アリ未詳)
弾正ノ長男ナリ、長篠ノ攻手ニ在リ、後ニ分軍圧城兵ノ備アリ、源五郎其部ニ将トシテ此ニ戦死ス。

高坂源五郎

 全集伝解、三国志等ニ皆云長子源五郎死シ次子又源五郎卜称ス(末書ニ云高坂弾正父子三人又三男勝五郎トイウ者ヲ載ス)弾正死後之ニ代リ、海津城ヲ衛ル、天正七年(1579)駿州沼津城ヲ築キ、源五郎本部兵ヲ分チ(五分一ノ役)之ヲ護ル、小田原ニ相対ス、壬午ノ時開城還ル(此頃ノ童謡ナリトテ今モ駿州ノ俗間ニ讃歌アリ)
  沼津の城が落たやら弓と箭と小旗の竿が流るゝ
 源五郎来謁スルニ、勝頼卿カ怪色アリ、故ニ引丘ハ海津ニ至リ後ニ真田安房守昌幸卜通謀恢復オヲ企ツト雖モ其事不就終ニ上杉景勝ノ為ニ誅セラレ部下ノ士ハ尽ク景勝ニ降リシニヤ、按ニ三月織田右府勝国諸将ヲ分封シ、河中島四部ハ森庄蔵長ニ授ク(今所在長一ノ文書存ス)此時源五郎ハ景勝ニ降リシニヤ、不詳六月信長横死シテ諸将皆捨封邑敗走リシカバ、景勝河中島ニ出張シテ海津ニ拠ル、「隔年集成」ニ七月廿三日北条氏直信州ニ入ル、真田昌幸、高坂源五郎一合謀属之(中略)廿五日、景勝於海津城内、源五郎妻子共ニ磔ニ掛トアリ(「烈祖成績」ノ注ニ引「松栄紀事」十一年三月、大久忠世入佐久郡景勝之兵高坂弾正雖奮戦不剰(アマツサエ)按ニ弾正虎網長子源五郎戦ニ死、長篠以弟某襲称源五郎、虎網死統ニ領部曲、勝頼滅後降ル、于景勝乃改称弾正、乎然無明拠故取ズト、一年ノ事トスルハ最モ非ナルヘシ。

高坂又九郎

(記録ニ長篠討死ノ内ニ見ユ、或ハ名助宣ニ作ル、「信長記」ニ番坂ニ作ル弾正ノ族ノ人カ末考)
 

春日惣次郎

軍鑑ニ弾正ヲ父方ノ甥也、壬午ノ後(天正十年)神保家中ニ便リ、越中ニ居リテ弾正ノ所記「甲陽軍鑑」ヲ修補セシト云々、「古戦録」ニ高坂弾正昌信ノ養子春日宗次郎昌元、ニ弐百余騎添へテ沼津ノ城ヲ守ルトアルハ源五郎ノ事ヲ謬リ記シタルナリ。
《筆註》
 
<「燕石雑誌」滝沢馬琴著>にある「甲陽軍艦」の記載者
 佐渡と甲斐の関係の深さについては、別号で簡単に述べたが、それより山梨を代表する武田信玄をはじめ、信虎・信玄・勝頼の三代の戦跡や事案を詳細に書いてある。「甲陽軍艦」は最近では一部の間違いを除けば誰もが認める歴史書として通用している。言い換えればこの本がなければ武田信玄や山本勘助の事績も不詳となる。
 しかしこの記載者についてはさまざまな説があって定まっていない。ところが江戸随筆集の中に、それに関する記述があり、早速佐渡に跳んだ。そして実証される春日惣二郎の墓を詣でて、さらに佐渡と甲斐の関係の深さに感銘した。
 甲府市に佐渡町・相川町もあり、それらも関係があることが諸書によって確認できる。これについては別記する。
なお文中の石井夏海について確たる資料がある。

両巖図説并春日宗二郎傳(「燕石雑志」)

この書稿じたる頃、佐渡国雑太(さはた)郡相川人石井文吉(平夏海)江戸に来て、わが草履を訪われしかば、彼の二ツ岩なる老狸弾三郎が事、医師(くすし)の奇談など、その虚実を問えば、みな是古老の言伝えたる処にして虚談にあらず、かかる著述あるべしと思いかけねど、コダミ夏海が東都へ参るによりて、都人語りつがばやとて、九月十八日の朝まだきより、かの二ツ岩へ行きて、自ら図したる一張りをもって来たれり。もしその巻の終わりに追加し給わらば、幸い甚だしからんと云う。ここにはからずもその図を見ることの喜ばしければ、模写してこれを載す。この日「多門筆記・さはとひっき」全五巻二冊を得たり。その書に順徳院の山稜苔梅及び二見の老梅、真野山の古松、船形の化石等種々の異聞多かり。また高坂弾正の甥惣次郎当国へ漂泊し、竹田村太運寺において、甲陽軍鑑を書き継ぎ、四十歳の春三月歿す。墳墓は太運寺羅漢堂の側にあり、叔父の弾正も渡海して新穂村に居住し、軍艦を著述せしが備えずして死(みまか)れり、その後高坂喜平治(弾正猶子)も相川山の内に漂泊して山稼ぎをする。是を高坂間歩と云う云々、因に此処に抄録する。

【注記】燕石雑志(えんせきざっし)

江戸後期の随筆。56冊。曲亭馬琴著。文化 8年(1811)刊。多岐にわたる古今の事物を、和漢の書物から引用しつつ考証したもの。

佐渡の洋学者 石井夏海(「図説佐渡島歴史散歩」による)

絵図師石井夏海は、相川町下京町郷宿を職業とする石井善兵街の長男として天明3年(1783)に生まれた。静蔵といい、夏海は号である。
幼少のころから絵が好きで、のち紀南嶺や谷文晃について学んだ。また、司馬江漢について、測量術や天文学、さらに西洋画の技法を学んだ。
夏海は、文化12年(1815)、33歳のとき、佐渡奉行所地方御役所絵図師に採用され、郷宿の稼業を弟に譲り分家する。御手当は御歳払米一カ年五斗であった。奉行所にて『佐渡地誌』の絵図の取り調べや、奉行の巡村に同行して、佐渡の各地方の絵図製作をする一方、異国船の図や横文字の写し、また、小木湊内外「両喘御普請計画書」の作成、「孔子廟御普請御取掛り」の仕事などをする。この間、夏海の子息文海は、文政7年(1824)に地方役所絵図師兄習として一カ月給銭500文にて雇われている。天保元年(1830)には、夏海、文海が「相川年中行事」を極彩色豊かに描いて鈴木奉行に献上するが、相川の町並みを描くにも西洋画の技法である遠近法が用いられている。
天保7年(1836)、51歳の夏海は文海とともに、享和3年(1830)の伊能忠敬の測量をもとにして、元禄7年(1894)の測図を改正した「佐渡国絵地図」を作製し、江戸幕府の勘定所に納めた。
夏海は佐渡奉行所絵図師としてのみならず、文人として俳諧歌は北川真顔の門人として判者を許され、また、纂刻にもすぐれ、滝沢馬琴、菊地三馬、近藤守重などとも交遊があった。自らも、「弥彦弥三郎姨双岩弾三郎狙小萬畠双生種蒔 全六冊 作者佐渡国人安潤堂夏海著」という戯作の引札を残している。しかし、夏海が佐渡奉行所の絵図師の官職についたためか、刊本にはならず、稿本として残されている。
また、馬琴の『南総里見八犬伝』第九輯の巻頭に、夏海のこととして
「こがねなす君がことの葉なほ見まくあなめでたしとほりす佐渡人」
の歌を掲載している。夏海が、『南総里兄八犬伝』の犬士を佐渡に来させてほしいと申し入れたためか、馬琴の書簡に、「犬田小文吾は越後から引き返したので佐渡のことは、いずれ工夫したい」とあったといわれる。
なお夏海には、俳諧歌でも相川において十数人の社中を率いてつくった「藻潮集」という集があり、「鴬はいくらの歌をよみぬれどいづれ古くは聞えざりけり」などの歌がある。
夏海は、書斎のほかに、絵画、纂刻、雑技の部屋をもっていたという。嘉永元年(1846)没、享年65であった。
 
苔むした墓の中で、惣二郎はどんな想い出山梨の歴史界を見ているのであろうか。どの墓石が誰かわからない。しかし甲陽軍艦は佐渡で書かれたとの確信を得た。

武田軍の戦力分析

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武田軍の戦力分析
●寄親と同心
寄親には同心と称する隊員が配属される。寄親―同心(侍・足軽)
生島足島神社起請文
起請文の分類
○単独署名―五十九通
○連署名
<衆>
・武河衆(甲斐)・南牧衆・高山衆(上野)・海野衆・野沢衆・北方衆・山中衆(信濃)
○親類・被官
・小山田被官(甲斐)・小幡親類中(上野)・仁科親類被官・小笠原下総守被官・海野被官・青柳被官・浦野被官(信濃)
--解説--
*「信玄家法」に、「故なくして寄親を厭ってはいけない」とあるように、寄親は武田氏によって指定される。
*寄親・同心の関係は、主従の関係ではない。
*寄親にとって同心は武田氏から預かったもので、家臣ではない。
*同心は、侍か、足軽級の者が圧倒的に多かったので、同心=足軽にも使われた。
*当時の武士はほとんど農村に住み、農業を営んでいた。兵農未分離である。
*武士と農民とは、身分的にかなりはっきりわけられていた。
<軍役衆>
*在郷の同心を軍役衆といった。軍役衆は普請役(道路や城などを作る労役)を免除され、恩地を与えられることもあるが戦
 争になれば出陣。
*軍役衆=歩兵と騎兵
<例>永禄六年、諏訪上社の神官山田若狭守等は、お祭奉仕で騎兵を免除、歩兵に。
<例>永禄十年、高遠新衆(高遠城守兵・新武田軍役衆)は騎兵が十五貫、歩兵が七貫の恩地を与えられた。騎兵の負担は約歩兵の倍。
 
●武田の総兵カと寄親
<参考資料>『甲陽軍鑑』(品第十七)「武田法性院信玄公御代惣人数之事」(永禄10年頃)
 
武田氏
①御親類衆.
②御譜代家老衆
③先方衆
④足軽大将(旗本)
⑤その他諸役人
*惣計930騎(非戦闘員を引くと9122騎・9122人)
<参考>
天正三年(1575)の上杉氏軍役帳の人数、5504(馬上566)であるから、武田氏のこの
●おもな部将とその騎数(部下の数)
*御親類衆
武田典厩(てんきゅう)(信豊、信玄の弟の子)―200 
逍遥軒(武田信廉、信玄の弟)――――――――― 80
勝頼(信玄の嗣子)――――――――――――――200
一条右衛門大夫(信竜、信玄の弟)―――――――200
武田兵庫(河窪信実、信玄の弟)―――――――― 15
武田左衛門(信玄の庶子? )――――――――――100
仁科(盛信、信玄の五男)―――――――――――100(信濃)
望月(昌頼、信豊の弟)―――――――――――― 60(信濃)
葛山(信貞、信玄の末子)―――――――――――120(駿河)
板垣(信安)―――――――――――――――――120
木曾(義昌、信玄の婿)――――――――――――200(信濃・信玄の女を娶る)
穴山(梅雪信君、信玄の婿)――――――――――200(信玄の甥で婿)
 
●武田氏の家臣団構成
*御譜代家老衆(武田のおもな部将・部隊長)
馬場美濃守     210(信春とも信房ともいう)
内藤修理正(昌豊)  250
山県三郎兵衛(昌景) 300
高坂弾正(春日虎綱) 450?
甘利左衛門丞(昌忠) 100
栗原左兵衛(詮冬)  100
今福浄閑       70
土屋右衛門丞(昌次) 100
秋山伯書守(信友)   50
原隼人佑      210
小山田備中守(昌行)  70
跡部大炊助(勝資)  300
浅利(信種)     210
駒井右京(昌直)    55
跡部美作(勝忠)    30
これらが、である
*先方衆(占領地の武士)
信州  61
西上野 14
駿河   8
遠江   4
三河   4
 
●滅亡直後の武田軍の部隊
武田氏滅亡=武田遺臣の大部分は徳川家康に服属
*各隊名称・所属人員
武田親族衆         14
信玄近習衆         71
遠山衆           36
御嶽衆           20
津金衆            5
栗原衆           26
一条衆           70
小山田備中衆        24
信玄直参衆          7
小十人頭           8
山県衆           56
小十人子供衆        11
典厩(武田信豊)衆      28
駒井右京進(昌直)同心衆   12
城織部(昌茂)同心衆     49
井伊兵部少輔前土屋衆    70
今福筑前守同心衆      24
今福新右衛門(昌常)同心衆  48
青沼助兵衛同心処      18
跡部大炊佐(勝資)同心衆   18
跡部九郎右衛門(昌忠)同心衆 23
曾根下野守(昌世)同心衆   34
三枝平右衛(昌吉)同心衆   42
甘利同心衆         16
寄合衆           42
御蔵前薬           8
二十人衆          16
 
「衆」
○甲州関係
津金衆
御嶽衆
武河衆
*信州
山中衆
北方衆
野沢衆
海野衆
葛山衆
 
○先方衆(信濃・西上野など新占領地の武士)
 
●武田軍の装備
*永禄五年、大井高政宛軍役状
の軍役人数は45人で、乗馬5、長柄31、鉄砲1、弓5、小旗1、その他2の割合
*諸軍役状から統計
軍勢100人(騎士12人、槍58人、鉄砲7人、弓10人、旗持6人、手明その他7人)
*天正三年「上杉軍役帳」
軍勢100(騎士10人、槍65人、鉄砲6人、旗持7人、手明12人)
 
●武田軍法
永禄十二年、武田軍法
1、乗馬・歩兵ともに甲を着けること。見苦しい甲でもよいから早く用意せよ。
2、槍は三間柄の槍を用いること。槍の様式は一統の衆(回し部隊)は同じように作ること。
3、長柄十本の衆は、そのうち三本は持槍、七本は長柄とせよ。長柄九本、八本、七本の衆は、二本は持槍、そのほかは長柄
 とせよ。長柄六本以下二本までの衆は、一本は持槍、そのほかは長柄、また一本の衆はすべて長柄とする。
弓・鉄砲は大切だから、長柄・持槍は略しても(弓、鉄砲を)持参すべきである。くわしくは口頭で示す。
4、鉄砲については、しかるべき放手(射手)を召し連れること。
5、乗馬の者は、貴賎ともに甲・咽輸・手蓋・両頬当・歴楯・差物を用意せよ。このうち一物も除いてはならぬ。歩兵も手蓋
・咽輸など相当に申し付けよ。
6、歩兵も差物を着けること。
7、魚行役の被官のうち、物持ちとか武勇の人を除いて、百姓・職人・神主・幼弱の者などをつれて参陣するのは、もってのほかである。
8、定納二万疋(二百貫)を領しているものは、乗馬のほか、引馬二匹を必ず用意すること。
<資料>
*武田勝頼は天正三、四年のころ(長篠敗戦の直後)「新軍法」を部下の将士に与えている。
*天正四年九月六日、勝頼、牧之島城(信濃更級郡)の守将馬場民部少輔同心衆宛て軍法
1、定法のように、陣屋を出発する時から武具を着けること。
2、今後、新軍法として、敵陣近くに陣を取る時は、軍勢の半分ずつ武具をつけ、備えを厳重に申し付けること。
3、今後、陣中での振舞はいっさい禁止する。よけいな道具・家具を持ってきてはいけない。
4、陣屋まわりの柵の木、夜番、かがり火などを厳重に申し付けよ。
5、小旗一本の旗持ちには、ホラ貝一つずつ持参させ、番ホラ・暁のホラを吹かせよ。合い言葉をよく聞き覚え、徹底させよ。
6、陣所の前後左右で用便をしてはいけない。
7、陣中で火事があったり、敵の夜襲があったりしても、いっさい取りあわず、自分の陣地を堅く守り、旗本の指揮を受けよ。
8、勝手に陣払いをしてはいけない。陣払いの時は、自分の陣に数人を残しておき、大将の陣払いを見届け、いっせいに火を
つけよ。
9、陣寄せ(攻撃)のとき、小荷駄(輸送隊)や武具荷物が、攻撃軍にまじっていてはいけない。小荷駄奉行をきめて管理させよ。
10、ケンカ・口論のさい、たとえ親類・縁者・親友でも、加勢をしてはいけない。
11、先の法度のように、貴賎ともに合い験(しるし)を付けよ。
12、軍事行動のさい、夕方になり、人数を納める時、小者などを勝手に陣屋にかえしてはいけない。
 
<参考資料>
勝頼は天正3年12月16日付で、信濃小県郡の小泉総三郎に下した条目
・ちかごろ諸軍の弓うつぼ(矢をいれて背負う道具)があまり見苦しいから、今後は実用にかなうのはもちろん、人に見ら
れてもあまり見苦しくないのを持ってくること。
・小旗・指物を新調すること、乗馬歩兵とも、指物(背中につける旗)をつけさせ、戦場で剛臆がはっきりわかるようにせよ。
  • いまは鉄砲が重要だから、槍を省略しても鉄砲を持ってこい。鉄砲の玉薬をたくさん用意した者は忠節と認める。
     
    ●武田軍と徳川軍(徳川軍には武田遺臣が大量に流入・徳川軍戦法に武田軍の戦法が大きな影響)
    *徳川家康・秀忠の軍合=武田の軍令(類似)
    <例>
    *井伊直政の慶長20(1615)46日軍令
  • 諸道具(武器)を持っていく者は、小荷駄にまじってはいけない。
    :徳川秀忠の慶長191016日付軍令
  • 小荷駄押の時、軍勢にまじってはいけない。
    *『信長記』によれば武田軍は長篠役時の武田軍軍装が黒装束・赤装束などに統一されていたことが記されている。
    ・武田の遺臣で井伊家に属した土屋隊は武田時代のままの赤装束で、「井伊の赤備え」と呼ばれて恐れられた。

甲陽軍艦「品第二」信玄公の舎弟典厩が子息へ異見

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甲陽軍艦「品第二」
信玄公の舎弟典厩が子息へ異見「九十九ケ条の事」
 
天地の間は万物でうまる。その中に霊長である人がいる。名づけてそれを人倫という。その人のなすべき業がある。五常がそれであり、六芸がそれである。これは習わずにはすまない。父がよく伝えれば子もよく記録するものだ。
ここに武田信繁(信玄の弟)は、文武ともにすぐれ、礼も義もわきまえており世継ぎにあやかって長老と称する。俊敏にして学問を好むこと、玉が盤を走るごとくあざやかに、錐が嚢中から脱するように凡庸な人をしりめに英才をあらわさる。怠らずに倦まず努力なさる。
よってここに九十九ケ条の項目をもって教示する。
まことに民間にひそむ有能な人物の多いということ、孟子の母の断機の戒めもどうして遠い昔のことか。
学問はただ身をうるおす実利だけでなく、国家を興隆し、子孫を繁栄させる本である。この学問の本があってこそ、天地を認識でき、歴史を認知できるのだ。これがどうして真の道でないことがあろうか。
ああ一巻の書なくしていかにして天地の真理がわかろうか。この一書によって大きくその道はひらかれるというものだ。すばらしいことではないか。
 
時に永禄元年戊年(1558)陰暦五月中旬
竜山子謹んで誌す。
甲陽軍艦「品第二」
信玄公の舎弟典厩が子息へ異見「九十九ケ条の事」
一、
主君に対しては謀反の心を抱いてはいけない。『論語』では、急ぎのあわただしい時でも仁に違わず、倒れんとする危急の場合でも仁を忘れないことが君子だ、という。またいう、君に仕えるには、一身をささげ全力を尽くして勤めること。
二、
戦場においては、いささかも未練をもたず、全力で戦うこと。『呉子・ごし』にいう、死を覚悟して戦えば生きることもある、生きようとばかり願う心で戦えば死ぬ。
三、
油断なく言動を慎重にすること。『史記』にいう、自分が正しげれば、命令しなくても動くが、自分の行いが正しくなげれば命令しても従わない。
四、
武勇をもっぱら心がけるべきこと。『三略』には、強き将の下に弱兵なしとある。
五、
いつでも虚言をしてはいけない。
神のお告げによれば、正直は一時は損することもあろうが、ついにはそのうち恵みとなってかえってくる。
・ただし武略の時は適宜、嘘も方便で駆使すべきか。『孫子』にいう、兵力が充実していても攻撃を避け、時には敵の予想もしないことをして勝つ。
六、
父母に対してはいささかも不孝をしてはいけない。「論語」にいう、父母に仕えては全力で孝養に尽くすこと。
七、
兄弟に対してはいささかもぞんざいな態度をとらないこと。『後漢書』には、兄弟は左右の手なり、とある。
八、
自分の力量に達しないことは発言すべきではない。
・人の気根に応じて説くのに、人は一言を出して、その長短を知る。
九、
諸人に対してすこしも不作法をしてはいけない。
・補足していう。僧・童女・貧者にも、ますますその人に応じて丁重に接すること。
・『礼記』にいう、人は礼がきちんと行われている間も同時に危い状態にある。
十、
武芸の嗜みで肝要のこと
・ 『論語』では異端、つまり本筋をはなれた事を学ぶのは益がなく、むしろ弊害がある、とある。
十一、
学文において油断してはいけないこと。
  • 『論語』にいう、学ぶだけで自分で思考しなげれば深まらない。
  • 逆に乏しい知識で考えているだけで、学ばなければ不確かで独断になる危険がある。
    十二、
    歌道に精通すること。
  • 歌にいう「かすならぬ心のとかになしはてし、しらせてこそは身をもうらみめ」
  • (思いのとげられぬのは、物の数にも入らない、つまらぬ我が身のせいにはしてしまうまい。相手に我が心をうち明けて、それでうけ入れられない時、初めて我が身のつたなさを嘆こう。)
    十三、
    諸礼、油断なく嗜むべきこと。
    ・ 『論語』には、孔子が周公の廟(霊を祭る堂)に入って祭に関与したおり、儀式について先達にくわしく質問した、とある。
    十四、
    風流過ぎてはいけないこと。
  • 『史記』にいう、酒は度をこすとすなわち乱れ、楽しみも極限に達すると逆に悲しみとなる。
  • 『左伝云』にいう、遊び暮らすことは鵜の羽にあるという猛毒と同じで、必ず身を滅ぼすもの。
  • また語にいう、善いことは善いこととし、賢徳を重んじて情欲をおさえること。
    十五、
    ものをたずねた人に対して、失礼な応答をしてはいけない。
    ・『論語』にいう。友と交際して信用を失うような非礼なことは言わなかったか反省する。
    十六、
    いつでも堪忍の二字を心がげるべきこと。
  • 古語にいう、若い時、韓信が股をくぐらされて恥をかかされたが、よく忍んで後年漢の功臣になった故事のように、忍ぶ心が大切だ。
    十七、
    小さなことにつけ大きなことにつげ命令に違反してはいけない。
    ・水は容器に応じてどうにでもなる。人も周囲の状況によって善くも悪くもなる。
     
    十八、
    知行ならびに助勢を望んではいけない。・伝にはいう、功績がないのに受ける賞は不正による富みであり、禍の遠因となる。
    十九、
    侘び言や雑談すべからざること。『論語』には、貧しうして諂(へつら)うなく、富みて騒ることなし、とある。
    二十、
    家中の郎従に対しては、慈悲肝要のこと。『三略』にいう、民は両手両足のようなものであるから。
    二十一、
    家来の者が病気の時は、たとえ手数がかかっても見舞うこと。『軍識』には、臣下の身を、自分の、のどの渇きのように思うこと、とある。
    二十二、
    忠節臣を忘れてはいけないこと。『三略』にいう、善悪を混同して評価していると功臣は離れる、と。
    二十三
    一人をおとし入れるために悪く告げ口する者は許容できない。
  • ただし隠密の場合は別で、内容についてはひそかに調べ確認すること。
  • 語にいう、真直な板をとりあげて、曲がった材木の上にのせておくと、いつの間にか材が真直になるように民も服する、と。
    二十四、
    正しい諌言にはそむかないこと。
    ・古語にいう、良薬は口に苦く、病に利あり。諌言は耳に逆うて行うに利あり。
    ・また『尚書』にいう、忠告はその時は耳が痛く苦痛だが、実際の場面で利益になる。曲がった木も墨なわを当てて削ればまっすぐにいく。
  • 同様に人の忠告を快く受けいれれば政治を誤ることがない。
    二十五、
    家臣たちが奉公の意志はもっているが、何らかの事情で困窮しているものに対しては、ひとまず援助する。
    ・一年の計は五穀を種るにしかず、十年の計は木を種(うう)るにしかず、
    ・一期の計は人をたつるに如かず、とい二言葉がある。
    二十六、
    自分の用事のために、屋形の裏門を出入りしてはならない。
  • 礼記にいう、父子席を同じうせず、男女席を同じくせず、とあるように、もの事のけじめをはっきりさせる。
    二十七、
    友人から仲間にされないような者は、仁の道に励まなげればならない。『論語』にいう、食終える隙も仁に違わず。
    二十八、
    毎日の出仕、懈怠(けたい)してはいけない。
  • 『論語』にいう、畢竟(ひっきょう)、出仕の時は同僚と同じ所に居て、それから奥へ行くべきである。自分のいるべき場の判断が大切である。
  • 語にいう、三日も会わずにいた後では、相手を今まで通りと思ってはならない。
  • まして修業している君子のような立派な人物の場合にはなおさらで、ずっと向上しているものだ。
    二十九、
    深き知己たりといえども、人前においては雑談すべきではない。論語にいう、十分思案してから発言もし行動せよ。
    三十、
    禅の修行に励むこと。参禅別に秘訣なし。生死切なることを思え。という言葉がある。
    三十一、
    帰る時は前もって使者を出すこと。
  • 突然の帰館では留守の衆の不行儀が目につき叱責ということになる。細かい事まで糾問していては際限がない。
  • 『論語』にいう、教育しておかずに法に背いたと処罰するのは、残虐である。
    三十二、
    主君からいかなる、つれない遇されかたをされても不平不満をもたぬこと。主君が主君らしくなくとも臣下として勤めること。
  • またいう、鹿をおう者山を見ず。またいう、下の者が長上の者の意をやたらにさぐらないこと。
    三十三、
    召使う者の小さな過失は叱責しなければならない。
  • 大きた罪を犯した者はその体を破滅にみちびく。大公はいう、双葉のうちに悪はつみとらなければ、そのうち斧を用いなげればならない。
  • ただし小さな罪に対し度々罰すればかえって畏縮するおそれがあろう。『呂氏春秋』にいう、命令が厳しくなげれば聴かないし、そこに禁ずることが多げればすなわち実行しなく恋る。
    三十四、
    褒美のこと、大細によらず則ち感ずべきこと。『三略』にいう、論功行賞はすみやかに機を失わずすること。
    三十五、
    自国、他国の動静、政治の善し悪しにつきくわしく確認しておく。『書経』にいう、古人の教えを手本にしないと永続したい。
    三十六、
    百姓には定めた役務のほかは、むやみにそれを上まわって課してはならない。
    ・『軍識』にいう、統治者が残虐な政治をすれば人女の生活は破滅し、搾取を重くすれば、犯罪が際隈もなくおこり、人々は道義を破り荒れる。
    三十七、
    他家の人に対して、家中の悪事を決して語ってはいけない。
    ・いう、よい行いは、なかなか世間に伝わりにくい。『碧巖』にいう、家醜を外に向いて揚ぐることなかれ、と。
    三十八、
    人を召使う様、その適性によって用所を考え命ずべきこと。古語にいう、良匠は材を捨てず、上将は士をすてず。
    三十九、
    武具は怠りなく用意しておくこと、『老子』にいう、九階ほどもあるようた高い展望台も、積み重ねた、すこしの土台から築かれる。
    四十、
    出陣の際は、一日も大将の後に残ってはいけないこと。『論語』にいう戦場で退却の鐘に心痛め、進軍の太鼓に勇む。
    四十一、
    馬に精を入れるべきこと。『論語』にいう、犬は守禦をもってし、馬は労に代わるを以てす。よく人に養われるものなり。
    四十二、
    敵味方打ち向う時、未だ備えを定めないうちに撃つべきこと。
  • 語にいう、よく敵に勝つ者は、敵の形の定まらないうちに勝つ。またいう、まっしぐらに進撃する家風で躊躇しない。
    四十三、
    軍の時、敵を遠くまで深追いしないこと。『司馬法』にいう、逃げる敵を追うあまり、隊列をくずし、人馬の力を空費しない。
    四十四、
    勝軍に至っては、踏み止まらず一気にかかって圧倒せよ。
  • 但し敵が陣容をたて直すときは、留意すること。『三略』にいう、戦は風の発するが如く攻勢は迅速に一気にせよ。
    四十五、
    軍が近づく陣は兵を荒く扱うべし。その訳は、兵の怒りが戦いにつながり、激しく懸命に戦うものだ。
  • 『司馬法』にいう、威力なく柔かならば水のように弱く、人はこれをもてあそび、威力あり剛なれば火の熱するようで、人は恐れてこれをみる。
    四十六、
    敵勢の強力さを人前で語らないこと。『三略』にいう、敵の素晴らしさを人に語らせることを許さないこと。
    四十七、
    諸卒は敵方に対し、悪口を言ってはいけない。『論語』にいう、蜂を怒らせれば、竜のような勢いで猛り狂い襲いかかってくる。
    四十八、
    たとえ心安い親類、被官といえども柔弱の姿勢を見せるべきでない。『三略』にいう、勇猛さを失っていると、配下の役人も兵士を畏敬しなくなる。
    四十九、
    あまり進退に過ぎる行為に走らず、挙動の面で慎しむこと。『論語』にいう、本筋からはずれた事を多く望み好むと結局得られない。
    ・またいう、過ぎたるはなお及ばざるが如し。
    五十、
    敵陣において不意を撃つときは、正面の道路をさけて別の間道から攻めること。
    ・『論語』にいう、昼は桟道を修理して、そこを渡ると思わせ、夜になると別の暗道を渡る。
    五十一、
    大方のことは、人に尋ねられても知らないふりをするのが無難というものか。
    ・『論語』にいう、たとえよい事であっても、あれば煩わしいからむしろ何もないのが平穏でよい。
    五十二、
    家来が勝手に離反して他者に仕えても、反省したなら、事情に応じて許し再び家来とすること。
  • 『論語』にいう、決意あらたに進む者にはその意気をかい、過去をとがめない。
    五十三、
    父は道理をさとらないから処罰しても、父親の処罰と別に、子が忠功に秀でていれば子供には怒りの念を抱かないこと。
    ・ 『論語』にいう、まだら毛の牛の子でも、赤毛で角の形がよければ、祭のいけにえに用いまいとしても、山川の神女が捨てておかない。
    五十四、
    軍勢を扱う場合、和敵・破敵・随敵の分別肝要のこと。『三略』にいう、敵によって戦略を変える。
    五十五、
    毎事争うことは、敢えてしてはいけない。『論語』にいう、君子は人と得失を争い、勝負を競うことを決してしないが、もしするとすれば、まず弓の競射であろうか。
    五十六、
    善悪をよく正すべきこと。『三略』にいう、善を廃すれば則ち衆善衰う。
  • 一悪を賞すれば則ち衆悪帰すで、どんな小さな善行でもゆるがせにしないこと。
    五十七、
    食物到来の時は、眼前に仕える諸兵に少しずつ配分すべきこと。
    ・『三略』にいう、昔良将は、兵を用いるのに、濁酒を贈る者があると、曲水の宴のように、諸兵と同じように飲んで心を一つにした。
    五十八、
    常に功を作ることなくて、立身は為しがたいこと。千里の行も一歩より始まる、という言葉がある。
    五十九、
    貴人に対しては、たとえ自分に一理あっても忍耐すること。
    ・『老子』にいう、口数が多いと無用なことを言ったり、言いそこないをしたりするから、窮地におちいる結果になる場合が多い。
    六十、
    過を争ってはいげない。それ以後の嗜み肝要のこと。『論語』にいう、過ちを犯したら、それを潔く改めるべきだ。過ちを犯してそれを改めないのが、ほんとうの過ちというものだ。
    六十一、
    深く思い立つことがあっても、そうせざるを得ない意見は受け入れること。論語にいう、約束して言った信が、道理にあっている場合は、言った通り実践してよい。
    六十二、
    貴賎ともに老者を慢(あなど)ってはいけない。古語にいう、老を敬すは父母の如くす。
    六十三、
    出動の時は食物を夜中に服し、陣屋からただいま敵に合う様に出立し、帰り着くまで、少しも油断してはいけない。
  • 云く、無為を城とたし油断を敵となす、という言葉がある。
    六十四、
    行儀の悪い人に近づかないこと。

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馬場美濃守信房 謎の出生と名前 多くの書は信春とするが?

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馬場美濃守信房

 (信州下郷起請文永禄十年(1567)名押アリ、野州小野寺修験江田松本坊蔵系作ニ「信武」ニ「箕輪軍記」同之宜従焉「信玄全集」、「三国志」、「軍鑑大全」、「伝解」等皆為ニ「信房」一或改名カ未詳、「異本徳川記」作「信政」衰余作ニ「氏勝」者多シ。「烈祖成績」云、今従播州班鳩寺過去帳為氏勝、按ニ播州ハ遠境ナリ、有所縁人偶修追福ニヤ、寺僧ノ所記豈足徴乎最難信也、「北越軍談」ニ云信房後ニ改信里、未知所証疑フアラバ空言ノミ)    軍鑑云、天文十五年武河衆教来石民部都ヲ擢テ五十騎士隊将トシ、馬場氏ニ改メ民部少輔卜称ス(「三代記」云、馬場伊豆守虎貞卜云者直諌信虎所殺戮、無嗣晴信立令教来石民部景政為紹馬場氏之杷□云々、虎貞之事未知明拠故不采、教来石ハ武河筋ノ村名ナリ、彼ノ地ハ馬場氏ノ本領ナレハ時ノ人称之カ為氏族者本州ニ所見ナシ)永禄二年(1559)加騎馬七拾合為ニ百弐拾騎、此内ニ小幡弥三右衛門(小幡山城庶男)、金丸弥左衛門、早河弥三左衛、門平林藤右衛門、鳴牧伊勢守、鵄(トビ)大弐(本卜根来法師也、長篠ニテ飯崎勘兵衛卜名乗リ討死ストイウ、其弟ハ二位)是等皆既勇ノ稗将ナリ、同八年(1565)授美濃守、武田家ニ原美濃ノ英名アルヲ以テ令外人避ケシム最モ規模トスル所ナリ、明年十月信州牧島城代トナル、信玄ヨリ七歳長セル人ニテ信虎ノ代ヨリ功名アリ道鬼日意力兵法ヲ伝へ得タリ、場数二十一度ノ証文其方一身ノ走リ回リ諸手ニ勝レタリト、褒賞セラルルコト九度ニ及ベリ、戦世四十余年ヲ歴テ身ニ一創痕ヲ被ル無シ。智勇常ニ諸将ニ冠タリトイウ、旗ハ白地二黒ノ山道、黒キ神幣ノ差物ハ日意ヨリ所乞受ナリ、天正三年(1582)五月廿一日長篠役軍ニ散シテ、勝頼ノ馬印遥ニ靡キ走ルヲ目送シテ立還リ、傍ニ小岡ニ坐シ、大ニ喚テ云、馬場美濃守ナリ、今将就死卜終ニ刀柄ヲ握ラス、安然トシテ首級ヲ授ク(諸記ニ深沢谷ニテ塙九郎左衛門内、河合三十郎討之「参河国墳墓記」ニ馬場募濃守信政ノ墓ハ長篠橋場近所ニ在シテ、元禄中毀シテ為畠馬場ハ須沢トイウ所ニテ討死信長ノ幕下岡三郎左衛門獲首賜感状三河国政績集ニハ須沢出沢ニ作ル)法名乾叟白元居士(武川筋白須村白元寺ノ牌子ナリ)
白州町の歴史・史跡 馬場美濃守信房の事績(白州町誌)
・馬場美濃守の事績については甲斐国志に「天文十五年武河衆教来石民部ヲ擢デ五十騎ノ士隊将トシ馬場ニ改メ民部少輔卜称ス、
・永禄二年騎馬七十ヲ加へ合テ百二十騎卜為ス、
・同八年美濃守ヲ授ク、武田家ニ原美濃ノ英名アルヲ以テ外人其ノ称ヲ避ケシム、最モ規模トスル所ナリ。
・明年十月信州牧ノ島城代トナル、信玄ヨリ七歳前ノ人ニシテ信虎ノ代ヨリ功名アリ、道鬼(山本勘助)日意(小幡)ガ兵法ヲ伝へ得タリ、
・場数二十一度ノ証文ニ其方一身ノ走り回り諸手ニ勝レタリト褒賞セラルゝ事九度ニ及ブ、
・戦世四十余年ヲ歴テ身ニ一創ヲ被ルコト無シ、
・智勇常ニ諸将ニ冠タリト云フ、
・旗ハ白地ニ黒ノ山道、
・黒キ神幣ノ差物ハ日意より迄受ケシ所ナリ、
・天正三年五月廿一目長篠ノ役軍己ニ散ジテ勝頼ノ馬印シ遥ニ靡キ走ルヲ目送シテ立還り小岡ニ傍フテ座シ大ニ喚デ云フ、
馬場美濃守ナリ、今将ニ死ニ就カントスト、終ニ刀柄ヲ握ラズ安然トシテ首級ヲ授ケリ、法名ハ乾叟自元居士」とある。
【註】
 智勇兼備、戦略にたけ、築城の縄張りにもくわしく、主要なる合戦には必ず参加して功を挙げ、四十余年の歴戦に身に一創もこうむらないという。
〔教来石景政、初陣〕
 享禄四年(1531)四月、武田信虎、国人層の叛将今井、栗原、飯富らとこれを援けた信州の諏訪頼満、小笠原長時の軍と、塩川河原部(韮崎)で決戦しこれを破る。諏訪衆三〇〇人、国人衆五〇〇人討死し、栗原兵庫も斬られた。この戦いにおいて板垣駿河守信形、馬場伊豆守虎貞とともに出陣した教来石景政は、十七歳にして殊勲の功をなした。
 それ以来駿河出兵、信州佐久攻略などに参加し、出陣のたびに教来石民部景政の軍功が高まり敵軍にもおそれられる若武者に成長していった。
景政を大器に育てた指導者は、文武の道に秀でた小幡山城守虎盛のち出家した道鬼日意入道である。虎盛は景政の非凡な才能を見込んで兵法を授け、実践に必要な武器の操典を仕込んだという。
 大永元年十一月、武田信虎、駿河今川の将福島正成の大軍を飯田ケ原、上条ケ原の合戦で破り、敵将福島正成を討ちとり大勝して、甲斐に覇権を確立した。
その勇に誇り悪行募ったので、これを憂い馬場伊豆守虎貞、山県河内守虎清が諌言したが、信虎の怒りふれ諌死となる。
 天文十年(一五四一)六月、晴信、父信虎を駿河に退隠させて自立、家督を相続し甲斐の守護職となる。教来石民部景政も武川衆の一隊長(?)としてその幕下に加わった。
 天文十一年瀬沢の合戦、諏訪頼重の上原城・桑原城攻略、高遠の諏訪頼継との安国寺の合戦などに真先に立って諏訪軍や高遠軍と戦った。
〔馬場民部景政〕
 天文十二年晴信の伊那攻略に従軍、天文十五年馬場伊豆守の名跡を継いで馬場の姓を拝命、馬場民部景政と改称し、五十騎の士隊将となる。
 天文十七年二月上田原の合戦、七月塩尻峠(勝弦峠)の合戦に参加、
〔馬場民部少輔〕
十八年四月には馬場民部少輔、浅利式部を両将として伊奈を攻略、さらに十九年七月、林城(松本)を陥れ小笠原長時は村上義晴を頼って逃げのびた。
 天文二十三年六月、上杉謙信善光寺の東山に陣し、信玄茶碓山に陣す(第一回川中島の戦)、この時謙信一万三千余人、景政三千五百人。謙信は、「山本道鬼が相伝うる必勝微妙の」馬場の陣備えを見渡して早々に軍を引揚げたという。「互に智勇の挙動なりと諸人之を感じる」(武田三代軍記)。
〔馬場美濃守信春〕
 この年八月甘利左衛門、馬場民部、内藤修理、原隼人、春日弾正の五士大将をもつて木曾を攻略し義昌を降す。
永禄二年、名を得る勇士七十騎を選び出させ馬場民部少輔景政に預けられる。景政手前の五十騎と合わせ百二十騎の士大将となる。そして晴信の一字を賜わり馬場美濃守信春と称した。部下の中には虎盛の子小幡弥三右衛門、金丸弥左衛門、鳴
牧伊勢守、平林藤右衛門、鵄(とび)大弐(根来法師)ら一騎当千のつわものがいた。
 翌永禄三年十月、信春は牧島城の城代となる。
 永禄四年(一五六一)九月十日、第四回川中島の戦の前日、信玄は馬場信春と飯富兵部虎昌を別々に呼んで意見を聞いた。その時兵部は「妻女山に籠る越軍は一万三千、味方は二万、このまま城を攻撃し、包囲すれば必ず勝てると確信する」と進言した。馬場信春は「数の上からは必ず勝てる戦いであるが、なるべく味方の犠牲を少くするために慎重な作戦をたてるべきである」と慎重論を提言した。そこで信玄は山本勘助を招き改めて意見を聞いた。勘助は「味方は二万の軍、これを二手に分け、一万二千の兵をもって妻女山を攻撃すれば越軍は勝敗に関わりなく千曲川を渡って撤退する。
そこで本隊は八幡原で待ち伏せ予備隊合わせ八千の兵をもって取り囲み、退路を断てば犠牲を少なくして勝つこと疑いなしと存じます」と進言した。いわゆる〝きつつき戦法″である。信玄はこれを採用した。妻女山攻撃隊の総指揮は高坂弾正、副将に馬場信春、飯富兵部をすえ騎馬軍団一万二千。八幡原に布陣する旗本隊には信繁・信廉兄弟と山県昌景、穴山信君、内藤修理など十二隊に分かれて八千の兵で固めた。
 馬場信春ら妻女山攻撃隊は深夜に出発、翌十日未明妻女山の麓に到着、朝霧にまぎれて妻女山へ一気に攻め込む手はずだった。しかし甲軍の裏をかいた謙信は、武田の攻撃隊が妻女山のふもとに到着する前に全域を抜け出して千曲川を渡り、武田の本陣をついて大激戦となった。妻女山攻撃隊は、越軍にだし抜かれたことを知って急いで八幡原に向った。
 卯の刻(午前六時) から始まった甲・越両軍の戦いは越軍の車懸かりの戦法に圧倒されて、信玄自身に危機が迫ったがやがて妻女山攻撃隊が駆けつけて形勢を挽回した。
甲軍は武田信繁、山本勘助、諸角豊後守などを失い大きな犠牲をこうむったが、午後四時ごろ謙信の退去命令で越軍は退去し、武田軍は勝ちどきの儀式をあげた。そのときの太刀持ちをしたのが馬場信春であったと「甲越川中島戦史」などで伝えている。このとき信春は四十七歳であった。
 その後上州松井田城、倉賀野城、武州松山城などを攻略し、永禄十二年六月に伊豆に侵攻し、十月には小田原城を包囲した。その帰路、追撃する北条軍と三増峠で戦い、馬場美濃などの奮戦によってこれを破る。
信玄の駿河進攻作戦は永禄十一年十二月にはじまり、十三日には今川氏其の居城(駿河城)に乱入した。信玄には城攻めに際し、もう一つの目的があった。氏真の父義元は「伊勢物語」の原本を入手していたように書画・骨董・美術工芸品の蒐集家で知られていた。信玄もその道にかけては造詣が深かったので、その文化遺産を甲州に持ち帰り保存したいという下心があった。そこで城攻めにあたり「書画・骨董・美術品は何にもまして宝物だ、決して燃やさず全部奪い取れ」と命令した。
城攻めの先達をうけたまわった馬場美濃守は「たとえお屋形の命令とはいえ、敵の宝物を奪い取るなどもってのほか、野盗か貧欲な田舎武士のやることだ、後世物笑いのたねになる。構わぬ焼やしてしまえ」と曲輪内に大挙して踏み込み、片っ端から焼やしてしまった。これを聞いた信玄は苦笑し「さすが七歳年上の軍将じゃ、一理ある、甲斐の国主が奪つたとあれば末代まで傷がつくからなあ」とつぶやいたという。
 田中城は馬場信春の縄張りによったものである。信玄上洛に際しその座城として、清水の縄張りのごとく馬場信房に縄張り致さすべしといったという(武田三代軍記)。馬場美濃守は築城の名手でもあった。
 元亀三年(1572)十月、馬場、山県隊の甲軍徳川方の中根平左衛門正照、青木又四郎広次らが籠る二俣城(天竜市)を包囲した。この城は天然の要害で防備も固く容易に城内に踏み込めなかつた。馬場信春は、尋常な手段では城は落とせない、城で使っている天竜川の取り入れ口を破壊し城内を枯渇させる作戦にでた。水の手を止められた二俣城は忽にして混乱が起きた。それでも一カ月以上も堪えたがついに十二月十九日夜、城将中根正照は城門を開けて武田軍に降伏した。
 この時、浜松城にいた徳川家康は二俣城を援けようとして自ら数千の兵を率いて城に向ったが、武田の包囲陣の現状に、とても勝ち目はないとみて神増村まで来て滞陣していた。武田勝頼、馬場信春、山県昌景ら武田の部将は、「天下に旗を揚ぐるの手初めなれは信玄の大事是にすぐべからず」と(武田三代軍記)三方ケ原において徳川軍と戦う。家康破れて敗走する。武田軍は家康と鳥居元忠ら旗本衆のあとを追撃し、浜松城が間近に迫る犀ケ崖を下って城門近くまで追跡したが、家康はやっとの思いで城内へ逃げきつた。
家康は「武田随一の馬場美濃に切崩された」と、馬場美濃守の武勇を称讃している(武田三代軍記)
 翌元亀四年(天正元年・1573)二月、野田城を陥れるが、既に信玄の病重く、四月十二日信州駒場の宿陣で逝去する。時に馬場信春五十八歳、不死身の信春にも〝老″いが迫っていた。信春は部下の若者たちに次の戦陣五つの信条を語って聞かせた。
一つ 敵より味方のほうが勇ましく見える日は先を争って働くべし、味方が臆して見える日は独走して犬死するか、敵の術中にはまるか、抜けがけの科を負うことになる。
 二つ 場数を踏んだ味方の士を頼り忙する。その人と親しみ、その人を手本としてその人に劣らない働きをする。
 三つ 敵の胃の吹き返しがうつ向き、旗指しもの動かなければ剛勇と知るべし。逆に吹き返し仰向き、旗指しもの動くときは弱敵と思うべし。弱敵はためらわず突くべし。
 四つ 敵の穂先が上っている時は弱断と知るべし、穂先が下っている時は剛敵。心を緊めよ。長柄の槍そろう時は劣兵、長短不揃いの時は士卒合体、功名を遂げるなら不揃いの隊列をねらうべし。
 五つ 敵慌心盛んな時は、ためらうことなく一拍子に突きかかるべし。
 
 信春が示したこの五つの信条は、信玄の「敵を知り、己れを知らば百戦百勝」の遺訓にかなっている。信春が「一国太守の器量人」といわれたのもこの辺に由縁するのであろう。
 天正二年一月、勝頼岩村城付城一入城を陥れ、明知城にも迫り、二月七日これを抜く、信長なすところなく二十四日岐阜に帰る。この戦いで馬場美濃守は手勢を牧島城に備えおいたので僅か八百余人をもつて信長一万二千の兵に向った。この戦いの状況を武田三代記は「唯今打出でられしは当代天下の武将識田信長とこそ覚ゆれ、天下泰平の物初に信房が手並を見せ申さん、という侭に一万余の大敵に八百余人を魚鱗に立て蛇籠の馬印を真先に押立て、少しも猶豫ふ気色なく真一文字に突懸れば信長取る物も取会敢ず、捨鞭を打って引返さる」と記している。
 天正三年五月、武田軍は、山家三方衆奥平貞昌が兵五百をもって固める長篠城を包囲して攻めたが、容易に城内に侵入することができなかった。しかし城内は極度に食糧不足を来し危機にひんした。鳥居強右衛門の豪気な働きによって識田・徳川の援軍が来着し、ここに識田・徳川連合軍と武田軍との長篠の合戦が始まった。
 武田勢は長篠城を挟み、勝頼は医王山に本陣を構え、山林をバックに六隊一万五千で「鶴翼」の陣を敷いて連合軍と相対した。勝頼は本陣で軍議を開いて合戦の方策を練った。馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、高坂昌信らの重臣は「われに倍する敵、それに三重の柵を構えて籠城の体、これに向えば不利を招くは必定、無謀なることこの上なし。この度は甲州に帰って再検を図るよう」と進言した。このとき跡部勝資は「一戦も交えずに引き退けば武田の武威地に墜つ、決戦するに若(し)かず」とし、勝頼側近の軍師長坂長閑もこれに賛同した。勝頼もこの主戦論に同意したので老臣たちは軍議の席を蹴って「御旗・楯無鎧、ご照覧あれ」と退去した。
これらの重臣は、信春の陣地大通寺山に集まり「この合戦が武田家への最後になるだろう」と討死の覚悟で別れの水盃をした。
 五月十八日、徳川家康は長篠城西方設楽原高松山に、識田信長は極楽寺山に布陣、勝頼は医王寺山の本陣より寒狭川を渡ってこれと対陣した。徳川・識田連合軍は連吾川の上流に沿って二キロメートルにわたり三重に木柵を構え、人馬の突撃を避け、これに三千挺の堅固な鉄砲陣地を築いた。
 五月二十二日未明、鳶巣山で戦端が開かれ、武田軍と識田・徳川連合軍との大激戦が設楽ケ原で展開された。
馬場隊は二上山を駆け下りて右翼の佐久間信盛隊と激突、またたく間に佐久間隊を追い散らして敵方が築いた柵内に追い込んで引揚げた。さらに内藤・山県隊も徳川勢を敵方の柵内に追い込んで敗走させた。
馬場美濃守は、味方の先鋒隊は勝ったと見て使者を勝頼のもとへ送り「わが軍一度が、願わくば本陣はこれをもつて退去せられたし、あとはわれわれが必勝ち弓矢の面目既に立ったず守り抜きます」と進言した。ところが長坂長閑が傍にいて「勝って退くものはどこにもおらんぞ」と使者を叱りつけて帰した。数刻後、識田方の三千挺の鉄砲の威力が発揮され、武田軍は三段構えに撃ってくる敵の砲火を浴びて総崩れとなった。
 真田信綱、土屋昌次、内藤昌豊、原昌胤、山県昌景、甘利信康、武田信実、三枝守友など武田の重臣多く討死し、馬場美濃・土屋惣蔵らが旗本の兵とともに奮戦し、ようやく勝頼を退去せしめた。
馬場美濃守は屋形に二町計り引下り、敵兵の慕ふを待ち請け、勝頼の御無事を見届け、長篠の橋場にて取って返し、高き所に馬を乗上げ、是は六孫王経基の嫡孫摂津守頼光より四代の孫、源三位頼政の後練馬場美濃守信房という者なり、討って高名にせよと、如何にも尋常に断りけるに、その時敵兵十騎計り四方より鎗付くるに、終に刀に手をも懸けず、六十二歳にて討死(武田三代軍記)。
 長篠の小字「西」という部落を通り抜けて左に寒狭川の流れを見下ろす段丘上に「馬場美濃守信房殿戦忠死の碑」が建てられている。これは明治中期に建てられたもので、それ以前は素朴な自然石の碑で「美濃守さまの墓」といわれていたという。設楽原の一角新城市生沢谷の銭亀にも信房の墓がある。
        

馬場民部少輔

 美濃守男ナリ、「大宮神馬奉納記(武田勝頼が浅間大社の造営を行った際に、多数の武田家臣が神馬奉納を行ったことに関する記録)」ニ神馬五匹(同心共ニ)トアリ、天正壬午ノ持氏部信州深志城ヲ衝ル(「三国志」ニ倍春ニ作ル、一書ニ「氏員」又「信頼」ニモ作ル、或云、信頼ハ信房ノ甥ナリ、戦死ノ後家督セリト皆無明証)「縮年集成」天正七年(1579)(九月沼津ノ条ニ馬場民部昌行卜云者アリ、天正壬午七月記ニ北条氏直信州ニ入ル、馬場右馬助房勝(美濃氏勝二子)其外国人ヲ郷導トシ、碓日峠ヲ越ユトイウ、女婿ハ「軍鑑」ニ信州丸子(「大全」作、三右衛門)、「伝解」ニ初鹿伝右衛門(「岩淵夜話」ニ所記初鹿ノ伝ニアリ、可互照)鳥居彦右衛門(「関原記大全」所記ナリ、家系ニハ形原ノ家広女ハ鳥居ノ妻ナリ、即チ、左京売忠政、土佐守成次ノ母卜云)按ニ馬場民本州ニ旧ク之アリ、
一蓮寺過去帳ニ、長禄四年(1460)十二月廿七日臨阿(馬場参州)文明ノ頃(146986)(年月日無記)来阿(馬場中書)浄阿(馬場民部)金阿(馬場小太郎)下ノ郷信州起請文六河衆ノ列ニ馬場小太郎信盈花押アリ(是ハ永禄中ナリ 155869)後年マデ彼筋ニ二土著セル馬場氏ノ事ハ士庶部ニ詳ニス、教来石、白須、台ガ原、三吹、逸見ノ小淵沢等伝領セリ、民部信春トイウ者ヲ擢出シ、軍将ニ而己命ス、元来ノ馬場氏卜見エタリ、木曽千次郎義就ノ家老ニ馬場半左衛門昌次トイウ者アリ、後ニ幕府ニ仕へ尾州義宣郷ニ附属セラル、彼先祖ハ木曽義仲ノ裔讃岐守家教ノ男家村讃岐ノ守卜称ス、家村ノ第三男ヲ常陸介家景トイウ、始メ馬場ヲ以テ氏卜為シ、数世ニシテ半左衝門ニ至ルト云ウ。

白州町花水 清泰寺(せいたいじ)曲淵勝左衛門(まがりぶちしょうざえもん)

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白州町花水 清泰寺(せいたいじ)
曲淵勝左衛門(まがりぶちしょうざえもん)
 清泰寺を開いたのは、甲斐源氏の祖新羅三郎義光が大治元年に開いたと「社寺記」に記してある。
 さらに同記によると開山は、当時の山梨郡積翠寺村輿因寺三世雲鷹玄俊和尚文明六年四月先宗天台退転に付き禅曹洞宗に改めた。
 また、文禄年中当村に住居する武田家の家臣、曲淵勝左衛門、同縫殿左衛門、同助之丞三代ともに当寺に葬られ、その墓がある。曲淵の末裔は当時江戸牛込御門内に住居していた。
 徳川家に仕えた曲淵氏は道中奉行や江戸奉行を歴任している。初代の勝左衛門の逸話は多く、剛勇ぶりが偲ばれる。(別記)
現在の花水は、合併までは長坂町に所属し、合併により白州町となった集落で、由緒書では「甲斐国巨摩郡逸見筋片颪村霊長山清泰寺」
とある。
 この寺には「曲淵」地名に関する伝説がある。
 開山当事、この村落内に「座禅石」があり、釜無川に面した場所に曲淵と云淵に大蛇住み此里の人に害を与えていて、付近には人が住めなかった。こうした話しを聞いた雲鷹和尚は曲淵を尋ね淵に向かって「毒蛇降伏禅定」に座禅を行った。雲鷹和尚の読経は続きそれは夜半に及んだ。すると淵から大蛇が飛び出した。そのさまは凄まじく嵐の様相を呈して、大蛇は裂けた口からは炎を吹き上げて怒りを露わにした。雲鷹和尚は大蛇に向かって
「声色不干眼耳」・「天地本自同根」・「時節因縁現成」・「須転身鎮仏門」
 と、一偶を下し杖を以て一棒に打却すると大蛇は、たちまち大蛇は天に向かって消えていった。
 雲鷹和尚「不退禅定三昧」に座して同五日夜半に至った。すると淵の一帯が白昼のようになり、香花を捧げ持って二十才くらいの美目麗しい女性が二人来た。和尚は、「大慈大悲の教化に依って五すい三熟の苦を免れる願いは血脉(けちみゃく)を授け、われ形体を、解脱し給ふ」と。
 雲鷹和尚が二人の女性に諭すように、
 「あなた方は元の姿にて来るべし
 と話した。この女性たちは、先ごろの大蛇の化身であった。女性はたちまち大蛇が揃ってきて、心改めたお礼を述べた。
 「三皈戒」を唱へ「清脱泰脱」と両蛇へ血脉を授け礼として直に天上にのぼり、空中にて「天上遂仏果」と呼び蛇の握捧である雲板という法器を落し、梢雲中にてこの寺「金千倍朱千倍漆千倍三千倍」「朝日さす夕日輝くその樹の基へ吾誓い此寺の守護の神とならん」と、大蛇は去って行った。
 この雲鷹和尚は「座禅石」と「雲板蛇」は寺宝として代々大切にしていた。
 また、毒蛇降伏の時用いた。「青地金?(らん)」の袈裟打蛇の柱杖水晶の珠数は、今(江戸末期)に至っても寺代々の宝物なりとしている。(これが現存するかは定かではない)
 気になるには、「清脱泰脱」の言葉で、「(清)----(泰)-脱」の()内を寺号としたともとれるし、清泰の由来を大蛇の話に託したともとれる。
 
 この曲淵氏の発祥については異説もある。それは中巨摩郡昭和町押越に関する話である。
 押越村は枝村の名で、「甲斐国志」には
 此辺ハ慶長年間、承応年間の頃までは釜無川の河涯にて、(略)域内に大なる淵ありて地名となす。曲淵荘左衛門は彼の淵に住む蛇の子なりと記す。妄談なりとてとるには足らず。
 
 (略) 一条ノ過去帳に「明応四年七月習妙欽禅尼曲淵母逆修とあり、曲淵圧左衛門は逸見筋片颪村に於テ慶長中(徳川)采地を賜り、彼所ニモ地名(曲淵)ありて本領なりという。
  本村本妙寺に古碑あり。享保中曲淵下野守本州勤番支配なりし時、ここに詣でて先祖の祀りをなすという。
  一書には、本妙寺は曲淵庄左衛門吉虎が建立したもので、母をここに葬るという。
  また清泰寺と曲淵氏について
 曹洞宗正覚寺末黒印五百四扮四坪・本尊薬師
・ 寺記云黒源太清光ノ子逸見四郎清泰開基、(略)地顕曲淵荘左衛門吉景(略)文禄三年十一月二十二日没ス、同縫左衛門吉清、元和五年九月朔日没ス、同助圭丞吉重、寛文十七年七月八日没ス、、同助之丞、寛文八年十二月十四日没ス、各牌子アリ。云々
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