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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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素堂の嫡孫、素安について 素堂号の行方

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素堂の嫡孫、素安について
嵐雪
九月十日素堂の亭にて(『廣野集』、所収)
かくれ家やよめ菜の中に残る菊          嵐雪
筆註
この句は素堂没後の素堂号や孫の存在など重要な役割を果たすことになる。
享保二十年(1735)の『毫の龝』(ふでのあき)寺町百庵著。
 
執文朝が愛子失しに、嘆き我もおなしかなしみの袂を湿すことや。往し年九月十日吾祖父素堂亭に一宴を催しける頃、
かくれ家やよめ菜の中に残る菊
といひしは嵐雪か句なり。猶此日亡日におなしき思ひをよせて
十日の菊よめ菜もとらず哀哉
かくて仏前に焼香するの序秋月素堂が位牌を拝す百庵素より素堂が一族にして俳道にして志厚し。我又俳にうとければ、祖父が名廃れむ事を惜み、此名を以て百庵に贈らむ思ふに、そかゝるうきか中にも道をよみするの風流みのかさの晴間なく、たゝちにうけかひぬによつて、素堂世の用る所の押印を添て享保乙卯の秋九月十一日に素堂の名を百庵にあたへぬ。
山口素安
その後素堂号は佐々木来雪に譲ることになる。(『連俳睦百韻』参考)
 
筆註…
…素堂の親族や周辺には、『甲斐国志』記載内容以外に重要な事項が目白押しである。
この嫡孫素安の存在もその一例である。この『毫の龝』が編まれた年は、享保二十年であり、「素堂亭」も健在であり、嫡孫素安の出現は新事実である。素安が素堂の実子であるかは定かではないが、寺町百庵や山口黒露、それに妻や妹など、素堂の家系の再調査が必要である。

甲斐遊侠講座 武居の吃安

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甲斐遊侠講座 武居の吃安

世紀の大脱走に成功した 甲斐侠客伝説の男 武居の吃安(どもやす)
   (詳細は下記の書で)

 吃安は久八の世話て20人ほどの子分を連れて、
  江川太郎左衛門の指揮下で反射炉をつくる作業
 をやっている。  (『東海遊侠伝』)

   参考資料 『流人の生活』 大隅三好氏著 雄山閣刊 『東海遊侠伝』 中沢正氏著  雄山閣刊

「ども安」の島抜け(『流人の生活』)

千に一つといわれる破島の数少ない成功を、見事にやってのけた、いま一つの例が新島にある。講談などでよく出てくる甲州の博徒「ども安」こと武居の安五郎の島抜けである。
 彼の新島流罪は嘉永4年(1851)で、同じ博徒小金井小次郎が三宅島に流されたのより5年早い、40歳のときであった。
 博徒の親分などという者には立派な人間なんかいない。全部よごれて汚い、国定忠冶にしても清水の次郎長にしても五十歩百歩だ。「ども安」などもその点決して人後に落ちる人物ではなかった。天保8年(1837)同じ甲州の博徒紬の文吉と身延山で喧嘩して、二人とも捕えられて中追放になり、天保12年(1841)、弘化2年(1845)と引き続き、お上の厄介になって、弘化2年の逮捕では重追放になっている。彼が遠島になる直接の罪科は、追放の身で、多くの子分を引つれ天城山を越えた、お上を恐れぬ不届な所業となっているが、つまるところは平素の積み重ねた悪業の結果といわねばならない。
 新島に流された安五郎が、いつごろから島枚けを計画したかはっきりしないが、流されてから2年目の嘉永6年(1853)6月、一味に引入れた6人の仲間と一しょに決行している。6人の仲間はいずれも博突渡世の無頼漢ばかりだった。
 その夜は島の年中行事「凧あげ」の前夜、島民はそれに気をとられていた。一味は、先ず三手に分れて、船を奪い、水先案内に漁師を捕え、名主宅を襲って鉄砲を奪う。安五郎は鉄砲の方を受持った。
 彼は名主宅を襲うと、病気で寝ている名主を殺し、子女を傷つけ、納屋に火を放つといった惨虐をあえてし、鉄砲を奪いとったが、急を知った島民にに騒ギ出され、弾丸は手に入れることが、できず、別組が奪った船に飛び乗って沖へ漕きだした。船には島民が二人拉致されていた。
 安五郎の悪運はまだついていた。普通ならこの辺で、舵をとられたり、追手においつかれたりして失敗に終るところだが、彼等は首尾よく海を乗りきって、伊豆半島の網代(あじろ)海岸に到着した。島の漁師を水先案内に拉してき周到さがものをいったのだ。
 一同は船をおり、朝飯の用意にかかった。終夜の重労働に腹も空いていただろう、流人共が食事に夢中になっている際に、二人の漁師は船に飛び乗り死に物狂いで沖へ漕ぎ出した。漁師はたまたま通りかかった回船にに救いを求め、韮山の代官所に訴え出る。
 海岸で地団駄を踏んだ悪党どもは、長居は危険と人目に立たないように散り散りに別れて姿を消した。まもなく一味の一人は捕えているが、悪運はまだ安五郎の背中から離れない、彼は再び甲州の地を踏んだ。
 安五郎が遠島後、彼のあとをうけて勢力を張っていたのは黒駒の勝蔵だった。勝蔵は黒駒村の名主の息子で、安五郎のもと子分であった。安五郎は勝蔵のもとに身をよせた。勝蔵には元の親分だ、かくまわないわけにはいかぬ、かくまった。このため勝蔵も島破りと同罪の身となり、流浪の身となるが、それはまだずっと後の事になる。
 安五郎が悪運つきて捕えられたのは文久2年(1862)だから、島を破ってから十年も経っている。その間彼は勝蔵のもとで息をひそめて隠れていたかといえば、必ずしもそうでないらしい、講談などによると彼が「武井のども安」としイ売り出すのはこの期間にになっている。島破りり大罪だけでなく、名主まで殺している凶悪犯が、十年問も堂々と闊歩しているのはおかしい。もともと甲州は甲府勤番支配地、役人そのものが山流人様同でやる気がなく、地理的には山ばかりでかくれ場には事欠かないかもしれないが、それだけでは説明はつかない。しかし、ども安は10年間捕えられないで、堂々と生きている。当時の警察制度の不備を見せつけられるような気がする。
 しかし悪運の尽きる日はまた、文久2年(1862)10月6日、用心棒に雇っていた浪人某の密告で捕えられ、再び娑婆の空気を吸う事ができず、拷門責めで責め殺されてしまった。安五郎が捕えられると、捕吏の手は黒駒の勝蔵にも迫る。彼は甲州を逃げ出し、安五郎を売った浪人を捜しだしてたたき斬り、ついでに目明しも殺し、甲、信、駿、遠の間を彷徨し時には山賊まがいの悪事まで働いている。
 当時、駿河では例の清水の次郎長が売出し中で、流浪の勝蔵と対立、やがてそれが荒神山の血闘などに発展するがこれは余談。


 『東海遊侠伝』 中沢正氏著 雄山閣刊
  134頁~
 (略)けれども博奕は天下の御法度、いつも目溢しがあるとは限らない。吃安が、賭博常習犯で捕えられたのは天保10年(1839)2年後の天保12年には、津向の文吉と喧嘩をやって、吃安は三宅島へ、文吉は八丈島へそれぞれ遠島の刑、つまり両成敗。文台はそのまま遠島20年、維新の大赦で甲州へ帰ったのだが、吃安は1年足らずで帰ってくる。
 文吉との喧嘩ては、石和の代官の支配てなく、韮山の江川代官の手の者だった。弟分になっていた伊豆の大場の久八が、韮山代官に働きかけたものたろう。記録によれば、この後、吃安は久八の世話て20人ほどの子分を連れて、江川太郎左衛門の指揮下で反射炉をつくる作業をやっている。この時、吃女32歳。この後の2、3年が吃安こと竹后の中村安五郎の全盛期てあったといえる。

二度目の遠島

 それより9年の後、吃安は2度目の遠島になる。この時は新島送りで、その原因というのが二つある。一つは、真偽の儀左衛門という者が、弟分の久八を縄張り上のことから背後から斬りつけて重傷を負わせた。これを知った吃安が、石橋山佐奈田神社の高市て儀左衛門を斬り殺して弟分の仇を計ったが、小田原て梯子攻めで捕えられたという、説。いまいま一つは、天城の山中を子分たちにおだてられて大名行列の真似をしたために捕えられたとの説、どちらが本当かわからないか、吃安は同年の4月10日に新島へ送られている。
   流人証文  新島
  覚
   新島江
無宿安五郎
亥四十歳
   その他省略して合計十一人
   名者新島江流罪被仰付
   御老中御文我等方江被下候間 右拾壱人此証文ニ引合セ
   御船手警護之方ヨリ党人取之其島江可差置候    以上

嘉江四亥年三月 江川太郎左衛門
   新島
地役人
神主
名主
年奇

自分の指揮下で武居一家を使役していたのに、新島へ遠島にした江川太郎左衛門という男もなかなかの食わせ物て、吃安が甲州一円は無論のこと、伊豆・三島・小田原などに縄張りを増やし、目の上の瘤の存在となったために、利用するだけすると、わずかなことを種に遠島にしてしまったものと思われる。江川太郎左衛門の文配下なら助けようと思えば助けられた筈だ。大名行列の真似をしたという説など全くの作り話して、弟分の仇を討つため真鶴の儀左衛門を殺した説のほうが本当でだろう。こんどは一年や二年の遠島ではない
、新島への遠島は終身刑だ。だから吃文は島抜けを決行するのだが、在島説も異説があり、磯部氏の『吃安親分島抜記」や子母沢説には在島三年説がある。けれども、黒駒勝蔵の捕えられた時の口述書にもあるように、安政3年税が正しいと思われる。
甲州八代郡上黒駒村百姓舟嘉兵衛伜 元第一遊撃隊 池田勝馬 申し口 四十歳
わたしは百姓嘉兵衛伜で先名は勝蔵といい、父の許におりましたが、安政3年7月   逃げ出し、竹居村甚兵衛の子分になりました。同人弟安五郎は賭博を専業としてい   た罪により流刑になっておりましたが、同王牛八月逃げ帰りかくれておりまする間、   同人と一緒に交り…。
 勝蔵が明治4年に描えられた時の口述書てある。前述したように、吃安遠島中の武居一家は、兄の甚兵衛と、後に二代目となった田家の惣太郎か代っって一家を守っていたわけだ。勝蔵が武居一家の子分になったのは二十五歳の時だったのは前記のとおり。そうして吃安はこの時46歳?度々触れるように、吃安の在島説も色々あり「また、島抜けするまての吃安の行動などは明らかでない。
 けれども勝戚の口述書は信頼出来ると思われ、彼は、安政5年(1858)と申し立ている。紀録によれば、安政正5年6月8日、仲間六人とともに島抜けを決行している。海を渡り甲州竹居村に帰りつくの2カ月をようしたわけだ。吃安らの島抜けについては、磯部氏の『吃安親分島抜記』に詳細に述べられているのて省略する。吃安は、仲間と別れ大石を越えて中芦川に至り、子分の孫兵衛の家て身体を休め、武居村の帰ったとも、伊豆に出て大場の久八の處に匿われれた後」下古田に入り、長兵衛に匿まわれ、一時ではあるけれども河口湖漁師小屋に隠れ住んだともいわれ、どちらも本当にように思える。
 吃安が竹古村に逃げ帰り、百姓屋に転々と移り替わって匿われていることを、石和の代官所は知っていたが、簡単に手が出せない。吃安が島送りになった頃より一家は大きなっていた。
八代郡はおろか、既に長兵衛も老境に達し、替って吃安の縄張り内となって吃安の身内が預かっていた。
甲府は無論大きくいえば甲州一円吃安の息のかからぬ博徒はいないといった調子、吃安を捕縛しようとした代官を驚かせた。驚いたのは吃安自身も同様で、隠れ住んでいるとはいえ、こそ泥が物置に潜んでいるのとはわけが違う。武居村内を大手を振って、歩き、女の許へ通うといった大胆不敵な生活を続けていたのである。
次郎長が、子分の掛川の政吉に様子を探らせようとして忍ばせたのも、大五郎(法印)が武居村(生まれも育ちも二ノ宮村・竹居村の北半里2キロ)から追い出されたのもこの頃のこである。
当時の吃安の身内は、先す伊豆大庭の久八を弟分に、上井手の態五郎・沢登の伴兵衛・一つ谷の浅五郎が四天王。黒駒の勝蔵・八代の綱五郎・塩田の大五郎・二階の弥太郎・鴬宿の武兵衛・上芦川の政五郎・岡野係左衛門・八代の伊之吉・八代の大亀(亀太郎)、それに女無宿おりは。これが十人衆。さらに、伊豆下田の安五郎・三州小中山のしめ造・伊豆本郷の金平(赤鬼の金平)・郡内では下吉田の進之助(長兵衛の火場所を吃安から預かる)・鬼神喜之助・八泙の角太郎・三河の亀吉(雲風の亀吉)などか火場所頭。後年勝蔵が平井を頼ったのも、亀吉が吃安の盃を貰ったいたからにほかならず、勝蔵と亀吉が兄弟分というのは双方上も」吃安の子分だったからである。その他の弟分、子分の持つ身内が甲州から伊豆一円に及び、三下まで加えればその勢力は實に三千人を越すとまでいわれた。
 島送り以前の吃安の侠気か、甚兵衛・惣太郎二人の人柄か、島抜けをやってのけ生まれ故郷で、堂々と生きている吃安の度量に惚れこん集まったのか、その辺のことはわからない。云々

山梨文学講座 山本周五郎の出生地と本籍地 2

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山梨文学講座 山本周五郎の出生地と本籍地 2
 前編に続いての資料、著作年月日がだいぶ経過しているが、
著者の資料収集が進んでいることがわかる。

                   <著書紹介>
資料……  『山本周五郎』
 「新潮日本文学アルバム」
昭和59年(1984)
編者 評伝 木村久邇典

 山本周五郎(本名 清水三十六しみずさとむ)は明治三十六年六月二十二日午後十一時、山梨県北都留郡初狩村八十二番戸(現、大月市初狩町下初狩二百二十一番地)で、父清水逸太郎、母「とく」の長男として出生しました。
 清水家はもともと北巨摩大草村若尾(現、韮崎市大草町若尾)の豪族で、先祖は武田家の御倉奉行をつとめた清水大隅守政秀という武将であったとの伝承があり、清水一統はかたくその言い伝えを信じ、誇りとしてきた。政秀は主家滅亡に際し、再興の軍資金を擁して武田発祥の地に近い若尾の里に帰農した……というのである。
 事実同家の土地台帳抹消簿によると、旧屋敷の面積は四百坪ちかく、邸内には苔むした四基の五輪の塔が現存している。甲州では、五輪塔はしかるべき身分の家でなければ建てることを許されなかったとの由だから、豪族の末裔であるとの山本周五郎のプライドは、必ずしも自己催眠的な架空の環境設定であったと否定し去るわけにはいかない。ただ郷党の一部では、清水政秀の名は武田二十四将のなかにも見当たらず、清水家そのものが、近隣に親類縁者の少ないことなどをあげて、生え抜きの若尾住人ではなく、他所からの「流れ者」ではあるまいかと、とする人々もある。
 明治十年代、三十六の祖父伊三郎のころから次第に家運が傾き、つぎつぎに土地を手放して、下初狩へ移住した。二十二年頃と推定されている。
移転の理由についてもいくつかの推測があるものの、伊三郎の姉の「まつ能」が当時、八田村(現南アルプス市)夫の周作とともに初狩に移り住み、土地の素封家奥脇賢造方の長屋を借り、なんとか生計を立てられる状態になっていたので、弟の伊三郎一家にも初狩移転をすすめたというのが、最も説得性に富んでいるように思われる。奥脇家も世話好きの人柄で、斎藤まつ能と同番地にある長屋への入居を伊三郎に許した。
 ここでも伊三郎は、若尾時代と同じく繭(まゆ)の仲買いや諸小売り、馬喰などを業とした。奥脇家が機織りを営んでいたのも、伊三郎には好都合なことであったろう。
 三十六の父逸太郎は、伊三郎の長男で明治十一年の生まれである。初狩小学校を卒業後、父とともに家業にしたがううち、兄嫁と折り合いが悪かったため、山梨県龍王町(現甲斐市)から奥脇家の機工場へ働きにきていた坂本とくと知り合い、たちまつ若い二人は恋に落ち、とは三十六を身籠もった。
逸太郎もとくも同年の二十五歳であった。しかし男女の恋愛がふしだらとされた時代だったためだろう。伊三郎は両人の結婚をかたくなに認めず「とく」を清水家に引き取ることも拒否した。 
 伊三郎の姉「斎藤まつ能(の)」も奥脇の機工場で働いていて「とく」の気立てがよくまたしっかり者である点を買い、かねて親切に面倒をみてやった。彼女は伊三郎夫婦に結婚を認めるようにとりなしたが、頑固に拒絶しつづけるので、「とく」を自宅に入れて出産させることにした。だが伊三郎らへの気兼ねもあり、自家の物置きを応急の産室に当てがったという。
 この事実を私が知ったのは三年前(昭和五十六年)龍王町(現甲斐市)居住斎藤三九馬(まつ能の孫で、三十六とも親交があった)の談話からであるが、山本周五郎の晩年におけるキリスト教への激しい傾斜などを思い合わせ、異様な感動にとらえられたものであった。
 いかに反対したとはいえ、血のつながる孫が生まれてみると可愛いのが人間である。伊三郎は直ちに赤児の入籍をみとめたし、家主の父奥脇愛五郎が、生年(明治三十六年)にちなんで、三十六(さとむ)と命名した。
 現在清水家には、伊三郎、さく夫婦、逸太郎、とく夫婦の面影を伝える写真は一葉も遺されていない。幕末から昭和初期までは、むやみに肖像を撮影すれば、かげが薄くなると、本当に信じ込む人のいた時代である。
 斎藤三九馬によれば、逸太郎の風貌は、晩年の周五郎によく似ており、周五郎の回想では、母のとくは現役時代の横綱佐田の山(現、出羽の海)にキリッとしたところが共通していたという。
 明治四十年八月二十五日御前八時、下初狩地域一帯は、数日来の大雨による、寒場沢からの鉄砲水に襲われ、土砂は国鉄中央線の軌道をこえて押し寄せた。
 このため、奥脇家や付属の長屋も倒壊し、清水家では一瞬のうちに、祖父伊三郎、祖母さく、叔父粂次郎、叔母せきを喪った。このとき逸太郎と「とく」三十六らは隣町の大月町(現大月市)駅前の運送店の二階に別居していたので、幸いにも災厄を免れることができた。
 だが伊三郎歿後、清水家には奥脇家その他から借財326円がのこり、長男の逸太郎は翌四十一年五月に完済している。当時の300円は大金で、三十歳の逸太郎にとっては大変な負担であったに違いない。
 かれはまた火炉辛うじて洪水から救助された七歳の異母菊蔵を養育しなければならなかった。逸太郎家の経済的な貧困はこれらの事情も重なってその死に至るまでつづき、三十六(周五郎)もまた貧困の中に生長することになる。
 山本周五郎の回想によると、山津波のとき、父は女をつくって東京に出ていったとの話だが、正確な時期は分明でない。
 山本周五郎の名前は、処女作『須磨寺付近』を投函するとき、居住・氏名を木挽町山本周五郎方清水三十六と認(したた)めたのだが、事務上の手違いからか、作者名を「山本周五郎」として公表されてしまったため、以後恩人の名をペンネ-ムとしたとの山本の直話である。 云々

富士浅間明神(上吉田村)詳細

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富士浅間明神(上吉田村)

○ 諏方ノ森ニアリテ除地六段八畝弐拾四歩

○ 例祭四月初申日社主小佐野伊勢、御師八十六家

  ○本殿(梁弐間五尺、桁間、高三丈六尺)

元和元年(1615)烏居土佐守、再建延宝六(戊午)年(1678)秋元摂津守、修造、後、藤原光清と云う者(江戸人)本願として再建、享保十八年(1733)造営、元文三年(1738)三月落成

○幣殿(梁三間弐尺桁弐丈八尺)

○拝殿(中央間梁三間弐尺桁弐丈七尺、両脇間梁桁各弐丈七尺。元和元年(1615)本殿と共に造営、慶安二年(1649)已丑秋元越中守富朝修造、後本殿と共に光清修造)

○本殿玉垣(三丈五尺左右同)

○神楽殿(方三問半拝殿の前にあり)

○闇神門(梁三丈壱尺五寸桁弐尺)

○石玉垣(左右各拾間)

○護摩堂(方三間闇神門の右にあり。鶴島村法性寺持。毎歳四月初中日護摩修法あり)○鐘楼(堅弐問弐尺壱寸横弐間四尺五寸五分、洪鐘寛文八年(1688)秋元摂津守寄附、銘別記古鐘あり。元和五年(1619)烏居土佐守成次寄附銘別記)

○水盤石(幅六尺弐寸長九尺六寸屋柱ノ問弐間半、三間神楽殿の東にあり。この水、富士山下「泉津」と云う地より湧出す。此二至テ弐里余引来る。銅龍盤上ヨリ水を吐く)○額殿(縦四丈五尺幅壱丈五尺鐘楼の東にあり)

○斎浄所(七間に六間、拝殿の東にあり)

○台所(六間三間)

○神馬屋(神楽殿の西にあり)

○外石玉垣(縦四拾壱間横三拾七間)

○富士登山門(玉垣の西隅にあり、額字富士山横額、天和二壬申年(1682)八月朝鮮人春斉書、前に銅烏居あり)

○神輿屋(登山門の西にあり、三間四面今廃せり)

○末社八祠、富士権現(本殿の東南隅にあり、梁壱間弐尺桁弐間五寸。社記云貞応二癸未年(1223)平義時建立、永禄四年(1561)武田信玄造営)

○紀州明神(本殿の東にあり、梁三尺五寸桁六尺壱寸)

○太神宮(本殿の西にあり、梁弐間五尺弐分桁三間、社記云、文禄三庚申年(1594)浅野左衛門佐造立)

○山王権現(本殿の西にあり、梁弐尺三寸桁五尺六寸以下三祠同地にあり)

○高宮(梁弐尺三寸桁五尺三寸寛永十三丙子年(1636)九月新造の棟札あり)

○愛宕祠(梁弐尺八寸桁四尺九寸)

○天神祠(梁三尺七寸桁弐尺弐寸)

○地神祠(梁三尺桁壱尺八寸)

○天満宮(梁弐尺八寸桁四尺九寸神楽殿の西にあり)

大烏居(高五丈八尺両柱ノ間六間。

◇ 「勝山記」云、文明十二庚子年(1480)三月廿日、富士山吉田鳥居立つとあり。此時初て造立するか。将再建のことか不詳、

◇ 又明応九庚申年(1477)再建あり、寛文六丙午年(1666)秋元氏本願として再建、貞享五年戊辰年(1688)五月修造)

◇ 額(竪七尺五寸幅四尺七寸五分)文字三国第一山(曼珠院宮無障金剛入道二品親王良恕書、寛永十三丙子年(1636)二月十七日、秋元但馬守寄進古額あり、筆者不詳)

○烏居外末社八幡宮(梁壱間弐尺桁弐間五寸)

○秋葉祠(梁弐尺弐寸桁三尺七寸八幡ノ北にあり)

○庖瘡神(梁三尺壱寸桁五尺三寸)

○山王廿一社十禅師祠(今廃、寛永十三年(1636)の棟札存するのみ)

○稲荷明神(梁三尺五寸桁六尺壱寸烏居の西にあり)石橋長壱丈弐尺幅壱丈 壱尺二枚石なり)

○御手洗川(是より西行すれば下向通なり。弐町四間にして横町の端に出)

○仁王門(梁壱丈八尺桁六間下吉田月江寺持)金灯籠八対、石灯籠八拾三対、 随神門より御手洗川迄廿間、御手洗川より大門前まで三町五間。

○正殿絵馬弐枚(方四尺椿筆画)元和四年(1618)戊午五月、鳥居土佐守寄進同壱枚(竪四尺余横六尺「古松猿画」狩野常信筆、元禄元戊辰年(1688)秋元但馬守寄附)

○ 同馬画(狩野洞元邦信筆、元禄十一戊寅年(1698)戸田能登守忠真寄附)

○ 銅灯籠弐基、左従五位下行谷村侍従但馬守藤原朝臣秋元喬朝元禄十四辛己年(1701)春三月庚申日、右従五位下伊賀守藤原朝臣秋元尚朝元禄十四辛己年(1701)九月十六日、末社両伺、鐘楼、随神門、御供所、並に延宝六戊午年(1678)秋元但馬守修造、富士山北面之画一幅(竪五尺五寸五分横四尺弐寸)狩野法眼永真筆寛文十二(壬子)年(1672)秋元氏寄進、太刀一振(長弐尺五寸)長船経家作延宝八(庚申)年(1680)秋元但馬守寄附(折紙副)

○ 社後瑞垣の外に大なる古塚あり。「大塚」と号す。土人相伝ふ、是古社殿なき以前富士浅間遥拝の地に築く。後神祠をヲ創造し、「小室浅間明神」を勧請すと。正殿の左「富士権現」の社は則ち初め建立の祠なり。後世盛に正殿造立ありて、古祠を脇に移し置とぞ。

○ 社記に貞応二癸未年(1223)平義時建立とあるは、始めて勧請のことにや、再建立このにや、詳にすべからず。今に至りて、小室を上浅間と云う。此祠を「下浅間」と称するは、「本小室」と、同社の謂なりとぞ。又下吉田に浅間あり、是をば「下ノ宮浅間」と称す。

○ 五丈八尺の大鳥居は、冨士山の烏居にして、此社建立なき前より、建来しなるべし。「勝山記」に文明十二年(1480)庚子三月廿日、富士山吉田烏居立明応九年(1500)庚申卯月廿日、同鳥居立とあるは是也。「三国大一山」のノ額は寛永十三年(1636)竹内宮良恕親王筆跡にして、秋元氏の寄附なり。

○ 正殿・幣殿等惣て代々の領主建立にして、秋元氏に至り、別盛に造営あり。因て古は別当社僧を置く。

○ 武運長久の祈念不絶こと、古文書、旧記に詳なり。今唯神主耳残て、社僧は退転せり。

○ 護摩堂に、毎年四月初中日、鶴島村法性寺が来て、護摩修法あるは、少し古のかた存せり。

○ 宝永中、秋元氏封を遷すの後は、殿舎修造もただ民間産子のはからひとなせりける。

○ 近世、富士信者、「村上光清」と云う者、願主となり其徒の信者をすすめて、殿宇美麗に造営せり。毎歳四月初申日には、神主七日の斎戒にて、捧幣御師相列して神式あり。参詣の老若群集する。六月中、神主禁足神式あり。富士登山の道者、庭前に充満し、太々神楽日々ありと云う。

○ 往古より、此社中を「諏方森」と称るは、「浅間明神」勧請せざる以前より、「諏方明神」鎮座ある故なりと云う。古文書に「諏方森浅間明神」とあるは是なり。「勝山記」に明応三庚(甲)寅年(1494)吉田諏方大明神の神鐘、武州より鋳て登り、翌年鐘楼堂を建つ。四月棟上とあるも「浅間明神」のことなるべし。今は其鐘なし。按ずるに、元和五年(1619)鐘銘日昔年於干文時為烏有、とあれば兵火にかかりて失せけるなるべし。

○ 天文以来古文書拾弐通、神主小佐野伊勢の家に蔵する七通は、安永四年十一村と争論の時奉行所へ上ると云う内、

☆ 「小山田信有文書三通」、

☆ 「加藤作内家士文書壱通」

☆ 「武田晴信文書壱通」を蔵する。

☆ 「内部信濃守書翰壱通」、

☆ 「佐野将監蔵武田信縄願書」、

☆ 「武田信玄朱印」、

☆ 「武田勝頼書翰三通」ハ小佐野壱岐蔵、

☆ 「加藤作内光吉文書」壱通、同人家士文書壱通、

☆ 「烏居久五郎成次文書」弐通、「同人家士文書」弐通は雁丸外記蔵する。

○烏居土佐守成次文書壱通は佐藤越申蔵す。

○武田信虎文書壱通は菊屋豊後蔵す。

○鳥居成次文書壱通は芹沢大隅蔵

○加藤作内文書壱通、鳥居彦右衙門尉元忠文書壱通、鳥居土佐守成次文書弐通、同家士鈴木五左衛門書翰壱通、篠本枝右衛門文書弐通は小林豊前所蔵

○加藤作内光吉文書弐通、同人.家士文書三通は友屋右近所蔵

○小山田信有文書壱通、加藤作内家士森村石見守文書壱通、鳥居土佐守文書壱通、外に職原抄弐冊紙数六拾三枚巻尾に正平二年(1347)十二月朔日、権左中弁兼左近衛少将、源顕統とあり大小沢丹波所蔵

○浅野左衛門佐氏重文書壱通(松平美濃守家士連署壱通、羽柴少将秀家(家士文書壱通)、同人家士、三輪五右衛門尉文書壱通、鳥居成次文書弐通は小沢主水所蔵

○森村石見守興沼文書壱通、鳥居土佐守家士四人連署壱通は大田辺右近助所蔵

○光明房宿願果記板一枚は林河内所蔵

○鳥居土佐守文書壱通、同人家士連署壱通ハ大黒屋大和所蔵

○浅野左衙門佐文書壱通は大橘屋勘解由所蔵

○小山田信有悪銭禁制提書壱通は小沢幸之進所蔵

○武田信玄願書壱通は小沢隠岐所蔵

●小山田信有文書壱通

○同信茂文書壱通

○板部岡江雪斎文書壱通

○台徳廟賜鳥居成次御書壱通

○三好義継書翰壱通

○正木左近太夫時茂書翰壱通

○多賀谷安芸守へ政勝より与る文書壱通、

○高木豊前守書翰壱通、同文書壱通

○秋葉弥四郎書翰壱通

○篠本枝右衛門文書壱通

○新清兵衛書翰壱通

○源光通奉納物目録壱通

○永享元年(1744)六月、結城上野守基氏奉納、兜前立鏡壱面、菅家神影壱幅(筆者未詳)又、讃岐守秦安澄所筆と云ひ伝ふ太刀、行光作長弐尺弐寸五分

○元亀三年(1572)壬申閨正月、古吉田より今の地に、一村移住屋敷割之帳壱冊、巻尾に盛国在判

●天正二十年(1584)三月伝馬引附帳壱冊、巻尾に加藤作内、家士西田幸之丞印あり、以上(●~●まで)刑部伊予所蔵

○鳥居成次文書壱通は鷹屋治部所蔵

○同文書壱通は皮屋九郎左衛門所蔵

○同文書弐通、小山田信茂文書壱通は塩屋弥兵衛所蔵

○信茂文書壱通は槙田八左衛門所蔵

○浅野左衛門佐文書壱通、烏居久五郎成次文書壱通は梅屋庄右衛門所蔵

○同文書壱通は浅間房右近蔵ス



○ 以上、古文書並に書翰類六拾四通、師職之者六蔵之此内数通は附録に出余は略す。

 元禄地震

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 元禄地震

『日本被害地震年表』
宇佐美瀧夫氏著 東京大学名誉教授 一部加筆
元禄一六年一一月二三日(一七〇三年一二月三一日)に発生。M805
震央は東経一三九・八度、北緯三四・七度の伊豆大島東方沖。とくに小田原で被害が大きく、城下は全滅、震後一二カ所から出火、死者二三〇〇人以上、潰家七七〇〇以上とみられる。
箱根の関所で石垣など崩れ、箱根山中で山崩れ、道を塞ぐ。厚木では家が大方崩れ、死者五九、死馬二。大山では山崩れあり死者一〇〇という。
川崎から小田原までほとんど全滅し、神奈川で三~四軒、川崎で一〇軒、藤沢で三~四軒、大磯で一〇軒ほど残っているだけであったという。
江戸では、大名屋敷の長屋、塀、本宅の破損、崩れも多く、とくに本所辺の被害が大きく、火災も起こった。また土蔵造りの被害が多かったという記事もある。房総南端の峯岡山の尾根続きに長さ約一二キロ㍍にわたり、ところどころに幅一~二㍍の割れ目ができた。
津波が犬吠岬から下田に至る沿岸を襲った。天津小湊・市川で五七〇軒流
失、死者一〇〇、御宿で潰家四四〇、死者二〇余。房総の津波被害は近年研究が進みつつあるが、死者は五〇〇〇人を上まわるであろう。大島で波浮池が決潰し海と連なり、岡田では津波のため家五八、船一八流没し、死者五六。この地震は一九二三年の関東大地震に似ている。
各地の隆起量は三崎一・六(一、四)㍍、洲崎四・二(一、六)、野島崎五・〇(一・八)、小湊三・〇(〇・五)、勝浦二・九(〇・四)㍍であった(カツコ内は一九二三年の隆起量)。

 宝永地震 山梨県

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 宝永地震

『日本被害地震年表』
宇佐美瀧夫氏著 東京大学名誉教授 一部加筆
 
宝永四年一〇月四日(一七〇七年一〇月二八日)に発生、M84
震央は東経一三五・九度、北緯三三二一度の紀伊半島沖。
安政元年(一八五四)に起こった安政東海・南海両地震の各地の震度の大きい方の分布と、震度分布が似ているので、この時の地震も東海沖と南海沖に同時に二つの地震が発生したと考えられている。
翌日には甲斐に大きな余震が発生し、同地方に大被害を与えた。
震害は伊豆以西の各地に、浪害は伊豆~九州の太平洋沿岸に発生した。被害
の最も大きかったのは遠江、三河、尾張、伊勢、志摩の沿岸の沖積地で、家屋被害は袋井では全滅、見付、浜桧、鳴海、宮、四日市で半ば潰れという。
大阪で崩家一〇〇〇ともいう。江戸は天水(当時の貯水槽)の水がこぼれる程度、また震源から遠く離れた出雲で倒家一三〇。津波被害の最大は土佐で、流失家屋一万一一七〇、潰家五六〇八、死者一八四四、行方不明者九二六に
上った。高知市の東部の地約二〇平方㌔㍍が最大二㍍沈下して、船で往来したという。
その他、紀伊、伊豆での津波被害も大きかった。また、室戸岬、串本、御前崎が一~二㍍隆起した。
この地震による全被害は死者五〇三八、潰家五万九二七二、流失家屋一万八〇二五、田畑損一万六三六〇町と一四万四七九八石、堤損四二万四〇五一間と五一八〇カ所、舟の流破損三九一五である。なお、この数字は最低のものと考えられる。また、この年の一一月二三日、富士山が大爆発し宝永火口をつくつた。
 
宝永4年富士山噴火資料
「隆砂記」富東一禿著 正徳六年(1716)
読み下し、永原慶二氏著「富士山宝永大爆発」
第一章  六二0年ぶりの大爆発(P34・35)
 
これ時に宝永四丁亥の年冬十一月二十三日昼辰の刻、大地俄かに動揺して、須臾(シユユ・しばらく)あって黒雲西方より出でて一天を蓋(オオ)う、雲中に声有り百千万の雷鳴の如し、巳の刻ばかりしきりに石砂を雨(フラ)す。大は蹴鞠の如し、地に落ちて破れ裂けて火烙を出す、草木を焦し民屋を焼く、時に雷声有って東西より中途に至りまた東西に別る、これを聞く者数十里のうち己が屋上にあるが如とし、火災なき所は日中猶暗夜の如し、燭を点じてこれを見れば黄色にして塩味有り、まさに憶え三災壊空(エクウ)の時至る、男女老少仏前に座し、高声に仏名を唱え、慇懃に聖経を誦し、唯□(祈カ)臨終速、夜半に至って雲間に星光を見る、識る、天未だ地に落ちず、然りと雖も世界一般石砂従(タトイ)天地有るとも生民何を以てか生命を存せん、なお速やかなる死を欲す。
二十四日に至って微明有り、燭を捨て始めて親子の面を見る、雨砂微少にして桃李の如く、
二十五日雲中日光を現す、雨砂なお微かにして豆麦の如く、間に桃李の如きあり、前日他方に行きし者帰り家人に告げていわく、これ士峰(富士山)火災なり、富東数郡に及びなお平安の土地有りと、生民これを聞きて蘇息す。資財を捨て重器を忘れ、老衰を扶け幼弱を負い、牛馬を牽き西南に走る、鳴呼悲しい哉禽獣は地無くして飛走(トビサ)るべきに打殺され斃れぬ、
二十六日に至って半晴辛暗、雨砂微塵の如く、まま豆麦の如き有り、
十二月初八日に至って雷鳴尽き雨砂なお止む、天気元の如し、国令命を下し、生民を弔い、石砂の深厚を計る、近村遠郷平地山沢おのずから浅深有り、富麓一村は平地一丈二尺、その山岸深沢は人カを以て計るべからず、我が村は富麓の村を去ることわずかに三里、士峰焼穴を去ること九里、なお平地三尺五寸、その山岸深沢は一丈二丈五丈七丈に及べり、士峰の火災それ希有哉、生民の辛苦大いなる哉、降砂の害を恐れ、一旦他方に走るといえども誰か食邑(ショクユウ)の地を与えん、再び砂石の中に帰り、虆梩(モッコ)を以て屋棟の降砂を山沢に除き、水カを仮りて田畠の砂石を川合に流す、累代の重器を売り老親の保養と為す、親愛の幼児を出して他郷の奴僕と為す、況や牛馬眷属に於てをや、ことごとく四方に散じ、砂を払う器具を求む、それ平世三尺の地を平げ一丈の井を掘る、人以て難事と為す、郷に食無く土地に旦夕飢渇の身あるのみ、深厚の石砂を膏腴(コウユ)の良田と為す、辛苦多少なり、余筆記して後世に伝うるものは海水の一滴、九牛の一毛なり、曲暢旁通に至って我れに孟軻子弁有り、班固子筆を与うるも未だ及ぶべからず。
 

宝永大噴火奇聞(泉昌彦氏著「伝説と怪談」より)

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宝永大噴火奇聞(泉昌彦氏著「伝説と怪談」より)

<昼日中提灯をつけた大噴火>

二十二日、朝から富の富士山は「腹の底」にこたえるような鳴動をはじめた。「ゴロゴロゴロ」と、山鳴りのはげしくなった午後二時頃からは、二十三日の朝までに家の倒れるような地震が相ついで三十数回もおこった。
この間にも軽震は絶えまなくおこり、ついにお山は火を吹き出し、樹海といわず、溶岩の隙問といわず、ボイラーのフタをとったようにはげしい白煙をふき出した。このため木の葉は爛れ(ただれ)、穴へもぐっていたヘビやカエルも、冬眠をやぶられてノロノロと這い出しては熱気で茹(ゆだ)ってしまった。
もうこの頃になると、翅のある鳥はとっくにとび去り、足のある野獣も御坂山脈の方へ姿をかくして、お山はもうからっぽだった。
<宝永年間諸覚>
十一月廿三日(新暦1216日)
未ノ日、終日曇リ。朝ヨリ昼迄地震間モナク、申ノ刻ニハ、暗ク成コト日暮ノ如ク、火ヲ燈シ候程ナリ。震動度々ナリ。雷ノ如ク鳴コト強シ。午刻ヨリ白キ灰ニナル。夜五ツ時迄ニ余程フル。後黒キ灰ニナル。夜戸障子ビリビリ動クコト、地震ノ如シ。雷不絶鳴。
 
 

<翁草>

廿三日四時ヨリ、富士郡中響キ渡リ、近里ノ男女絶死仕候者多ク候。然ル処、同山雪ノ流、木立ノ境ヨリ夥敷(おびただしき)煙リ巻出、猶以山大地吏ニ鳴渡、富士郡中一通ノ煙リニ時計ウヅ巻、暮時ヨリ火焔ト見候。焼口一ツ、在所ノ者共一人モ不残、木ノ枝二手足掛リ居候。

<翁草>

二十三日午の刻時分、いづくともなく震動し、雷鳴頻にて、西より南へ墨を塗りたる如き黒雲たなびき、雲間より夕陽移りて、物すさまじき気色なるが、程なく黒雲一面になり夜の如く、昼八つ時より鼠色なる灰を降らす。江府の諸人魂を消て惑ふところに、老人の申けるは、此の三十八九年以前、斯様の事あり、是は定て信州浅間の焼ける灰ならんと云、仍て諸人少しく心を直しけるに、段々晩景に至り、夜に入に随て、やゝ強く降しきり、後には黒き大夕立の如く降り来て、終夜震動して、戸障子も抔(など)繭益く峰㌻,.り後に値黒き大汐立の如く降來て、絡夜震働し、戸障子杯(など)も響き裂け、恐しさ譬(たと)へん方なし、総て昼八つ頃より、空くらき事夜の如し。物の相色も見えねば、悉く家に燈をとぼし、往来も絶えて、適々通行の人は、此の砂に触れて目くるめき、怪我などもせしも有とかや、諾人何所以を不知、是なん世の滅るにやと、女童な泣きさけぶところに、翌日富士山焼候よし注進有てこそ、さてはその砂を吹き出して、如此ならんと始めて人心地付けたりける。
砂降る事凡七八寸、所に寄り一尺余も積りしとぞ。事終わりて砂を掃除すると雖も、板屋などは、七八年過ぎ候までも、風立つ折には、砂を屋根より吹き落とし、難儀いたしける由。また翌月より春にいたり、感冒咳嗽一般にはやり、家々一人洩らさず是に悩まさる、その節の狂歌に
是やこの行も帰るも風ひきてしるもしらぬも大方は咳
奥秩父の山火事のとき、とび出してきた数百頭もの山うさぎをアミでとったという話もある。富士山の噴火ともなれば野獣の、のがれていく姿も多く見かけた。
二十三目の十時頃、大地震、山鳴りというすさまじいるつほのなかで、ついに富士山は、雲をつき破って大火焔を噴きあげた。「ド、ド、ド、ドヵーソ」「ド、ド、ド、ドカーソ」耳の障子は破れんばかり、大地はゆれる、山は鳴る。十二、三キロ四方に真赤の火山弾がとび散って、たちまち甲、駿、相模は夜昼灰の闇にとざされてしまった。
火山灰がまるきり太陽の光りをさえぎってしまったのだ。ものすごい降灰で、江戸も昼日中まっくらやみ、ましてや富士山のおひざもとはまっくらけで、鼻をつままれても分からないので、日中、提灯(ちょうちん)をつけて歩いた。
 
灰の降ること二十日間、この問富士山はただ暗やみの中で火を吹き続けた。ともかく、十二月中旬にいたるまで噴火は続いたのだ。
ようやく人の顔が見えるようになった頃、富士山麓はまさに灰色の底にすっぽりうもれていた。家はつぶれて灰にうずまり、田畠は溶岩でゴロゴロ、これに灰がニメートルも三メートルもつもって、まったく死の世界であった。
宝永の大噴火で、スマートだった富士山の胸のあたりには、デッカイたんこぶ宝永山ができ上っていた。
幕府は関東一円に灰を降らせた田畠の復旧と、住む家を失したった農民に対して、救済するために、一万石に対して二百両(いまの五百万円)当たりの金を拠出させた。十万石の大名は、いまの金で二千五百万円も出した勘定だ。石高百石取りの下級武土まで二両を拠出した。この金、〆て四十八万両にのぼったが、幕府は十六万両を出しただけで、三十六万両は将軍さまの台所へまわってしまった。(江戸時代史)

 宝永大噴火奇聞(泉昌彦氏著「伝説と怪談」より)

<宝永大噴火の日記(富士吉田師職田辺安豊記)
宝永四年十月四日、大地震おこる。二夜三日神事をおこなったところで神の告げあり。大火来ると…(以下分かりやすくして付記した)
●二十二日、暮六つより(いまの午後六時前後)地震数十回おこる。暁よりは地震の数はもうかぞえられないほど頻発する。
●二十四日、巳の刻(午前十時)頃、天よりまるい鐘ほどもある光がくだるとみるや、黒煙山のようにのぼり、富士山が鳴動し轟音を発すること、天上の百雷を一つに集めていちどに落ちたほど。稲妻もしきりにおこり、みな肝をつぶしたほどであった。酉(夕方六時)の刻より雷光はいっそうはげしく、火烙は火の玉が逆に天へ上るようで、このため夜が昼のように赤々と照らし出した。
●二十四日、巳の刻(午前九時~十一時)、煙が四方へ墨をふりまいたようにひろがり、須走は石と砂が降って八十六戸の家はすべて焼かれ土に埋もれてしまった。降灰の深さは約三メートル、このため村人は逃げ去って無人の村となった。女子はナベ、カブを頭にかぶって四方へにげたが、真赤にやけた火山弾が「ゴチーン」とぼかりナベをつき破って頭から腹へとびこみ、命をなくしたもの、重傷を負うもの数しれず、戌の刻(夕方六時~九時)には、又々家のつぶれる大地震でのこった家はすべてつぶれてしまった。音も光りもますます激しくまさにこの世の生地獄のようだった。
 
●二十五日、朝すこし陽が射したが又昼頃から曇った。
●二十六日、師職、神官たちが集って、各浅間神杜につめて、禁足のまま御山の安全といかりをしずめる御祈祷した。そのうち西風がでて黒煙もようやくはれ、鳴動も次第におさまって来たので大祝詞をあげた。近隣、遠村を問わず参拝の民衆は、稲麻竹葦(からだがくっついてもみくちゃ)のように雲集して祈りをささげた。
●二十七日、けむりはふたたび空高くのぼり午の刻九つ(十二時)頃に薄陽がさした。
●二十八日、鳴動、光りもやわらいで、大鳥居や富士の砂礫の上で貴賎群衆、悪人、善人のくべつなく一心にお山へいのりをささげた。
●三十日、みそかの戌の刻すぎ大地震がおこり、震動、煙も特別大きく、火の玉があがって溶岩がどっとおし出してきた。
●十二月一日、日の神を朝より拝む。
●二日もおなじ、
●三日の夜は曇ったまま四日をむかえて暁に雪が降って白くなる。又巳の刻(午前九時三十二時)大地震がおこって夜半までゆれる。火の玉はますます激しべ光りきらめいた。五日、ことに南風にて昼すぎまで天地鳴動した。しかし申の刻(午後三時~六時)の下刻より急に静かにたった。
●六日、七日朝から明るい太陽をのぞみそのありがたさに祈った。
●八日、地震はまたも度々おこり、子の刻(夜中の十二時)ばかりには特に大きくゆれた。火の玉も千たびも上った。さるほどに神風のせいか、寅の刻(午前三時~六時)ようやくおさまった。
駿東郡は、足柄より富土山頂まで、村里も草木も焼かれて砂だけの一望灰色にとざされた。鎌倉でも三十センチから九〇セソチの灰がつもった。
河の水も井戸水もたえて、のどを潤るおそうにも一滴の水もない。人々は江戸高井戸、八王子、谷村ときいて富士へ登るべく、新しい宝永山をみたくて集ってきた。このとき山中、長池、平野は灰の降って以来、草木は絶えて出でず。以上すさまじいさまがよく綴られている。

昭和初期 甲斐駒ヶ岳信仰圖


武田武将 一板垣駿河守信方

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武田武将 一板垣駿河守信方

『甲斐国志』巻之九十六 人物部第五 武田氏将師部 一部加筆
 
『甲陽軍鑑』諸記信形ニ作ル者多シ、『北越諸記』及『滋野世記』等ニ信春又信澄或為父子二人名皆非也、今武田八幡宮並ビ鎮目寺ノ棟札ヲ以テ訂定ス) 
其先ハ板垣三郎兼信ヨリ継ク、世々武田家ノ族臣ナリ。
一蓮寺過去帳ニ
延徳二年(1490)十二月十七日逆修(板垣善満)
永正三年(1506)二月廿九日弥阿(板垣備州)
永正三年十二年十月十七日合戦討死重阿(板垣備州)
天文十二年(1543)八月廿三日住一房(板垣駿河殿老母道修)
年月欠ケテ無一脱心大笑居士(板垣駿河)
塩山ニ大永五年乙酉(1525)二月廿五日板垣左兵衛佐ノ湯薬種田寄附状アリ、」何レカ信方ノ父ナルヤ未ダ詳ニ知レズ、信方ノ戦死ハ勝山記ニ天文十七年(1548)二月十四日信州塩田原卜申処ニテ合戦トアルヲ正トス、(軍鑑同十六年八月二十四日上田原ニ於テ討死トス非ナリ)軍鑑云、同十一年(1542)諏訪ノ桑原ニ壁ヲ築キ信万ニ衛ラシム、是ヨリ後諏訪郡ノ城代タリ、按ニ武田家ニ職トイウハ治国ノ主吏ナリ、此時代ハ板垣、甘利ヲ両職トス、弥次郎ノ代マテ役セリ、出テ諏訪方ニ在ルト云コトハ覚束ナシ、晴信ノ治世ノ初輔弼ノ良臣卜称スル者士隊将ニ六人、足軽隊将ニ四人ナリ、皆信虎ノ時ヨリ勇名アリ、所謂六人ハ甘利備前、板垣駿河、飯富真部、原加賀、小山田備中、室住豊後、是ナリ、又日向大和、小宮山丹後ヲ加へ八人ト云ウ(一ニ荻原常陸モ八人ノ内ナリト云ウ、是ハ時代先キナリ)四人ト云ウ、原美濃守、横田備中守、小畑山城森、多田三八ナリ、後ニ山本勘助ヲ添テ「旗本ノ五人衆」卜称シ、又米倉丹後(亡姓名)ヲ加ヘ「七人ノ足軽隊長」ト云エリ、後又七人ノ隊将卜呼ベルアリ、山県三郎兵衛、馬場美濃守、内藤修理、高坂弾正、秋山伯耆守、土屋右衛門、甘利左衛門ナリ、此廿二人ハ希代ノ英雄後人ノ亀鑑卜為ス所ナリ、(近時二十四将ノ象図ヲ造ル者アリ、又十八将トモ四臣トモ号称セリ、皆無稽偽り飾ル所謬妄採ニ足ラズ、二十二将伝ノ説一帯附録ニ載ス)

武田武将 板垣弥次郎信憲

『甲斐国志』巻之九十六 人物部第五 武田氏将師部 一部加筆
 
(軍鑑、信重ニ作ル諸記之ニ従フ、烈祖成積信惹憲卜為ス、蓋見ル所アリ、耳哉始信重ト云ウ、後之改ム)二ノ宮ノ社ニ蔵ム天文二十辛亥年(1551)七月十一日国中奉加ノ許状ニ板垣信憲、甘利昌忠ノ花押アリ、両職ノ許状上京伝へタ  リ塩山ニ蔵ム、丙辰(弘治二年 1556)九月十一日、信憲印書千野村自徳院ノ薮林中ニ有ル所ノ矢箆竹ヲ召ス趣キ皆主吏タル文面ナリ、軍鑑云、信方死シ其男弥次郎代リテ諏訪ノ郡代卜為ル、食禄旧ノ如シ、天文廿一子(1552)年罪ヲ蒙リ其秩ヲ収メ、僚属ヲ剥テ幽セラル、後本郷八郎左衛門ノ為ニ殺害サル、其家断絶ス(但シ前ニ所記弘治中ノ印書ニ拠レハ天文廿一年ノ専一スルハ誤ナルヘシ。

武田武将 板垣左京亮信女 

『甲斐国志』巻之九十六 人物部第五 武田氏将師部 一部加筆
 
始於曽氏ナリ永筒中板垣ノ家迩ヲ継キ氏ヲ改メシム下郷起請文、又於曽ノ菅田社、於屋敷ノ六所社等ニ寄附状アリ、板垣ヲモ兼領セシ趣キナリ、軍鑑ニ小曽ノ板垣殿、又田中ノ板垣殿トアルハ勝頼ノ時駿州田中城衛固ニ在リシ故ナリ。

武田武将 板垣修理亮

『甲斐国志』巻之九十六 人物部第五 武田氏将師部 一部加筆
 
 古戦録ニ信憲ノ子ナリ、真田ガ扶助ニ係リ、信州上田ニ在シト云ウ。

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武田武将 甘利備前守虎泰

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武田武将 甘利備前守虎泰

『甲斐国志』巻之九十六 人物部第五 武田氏将師部 一部加筆
 
一書信益ニ作ル非也。
窪八幡普貿寺天文九年(1540)ノ旧記ニ当郷ノ御代官甘利備前守虎泰云云卜見ユ、同十二年(1543)四月二日西郡鷹尾寺ノ禁制ニ虎泰ノ花押アリ、同人ナルベシ、但シ鎮目寺棟札ニハ虎康卜記セリ、甘利ハ一条次郎忠順ノ後ヨリ出ツ、世々武田羽翼ノ臣ナリ、虎泰天文中晴信ヲ輔佐ノ功アリ軍鑑云同十五年(1546)信州戸石攻撃ノ時村上義清後援ニ出ツ、怒気凛々タリ、虎泰先隊ニ在リテ之ニ当ル、検使ノ横田備中守軍難義ニ及ンデ、二人共ニ戦死ス次将米倉丹後等勇猶ホ震フ、隊伍乱レズ且ツ戦且退ク、山本勘助本陣ヨリ遥ニ望視テ大ニ感歎シテ云、将死シ敗ザル者ハ倭漢其例希ナリ、虎泰平生ノ采配観ルヘシト、世以テ美談トセリ、『勝山記』ニ虎泰ノ討死ハ十七年(1548)二月十四日塩田原合戦ナリ、戸石ノ戦ハ十九年(1550)九月朔日トアリ、諸録ノ事実ニ違ヘル事定ノミニ限ラス、一々挙ゲテ記シガタシ、一蓮寺過去帳ニ延徳二年(1490)正月廿七日、東一房(甘利下野内)永正十二年(1515)十月十富合戦討死重阿(甘利)天文三年正月十六日底阿(甘利)ト見ユ、虎泰ノ父末ダ詳ク知レズ

武田武将 甘利左衛門尉昌忠

『甲斐国志』巻之九十六 人物部第五 武田氏将師部 一部加筆
 
甘利左衛門尉昌忠
(諸記ニ晴吉ニ作ル今採ラズ)
虎泰ノ男ナリ、『軍艦』ニ天文十五年(1546)虎泰死シテ、玉千代立名藤蔵卜更ム、騎馬百五十ナリ、時二年十三当時ノ将帥ニ年少藤蔵ガ如キ者アル事ナシ、其年十月碓日峠ニ初陣シテ首級ヲ獲ル、同十九(1550)年九月左衛門尉卜為ル、永禄五年(1562)松山ノ役ニ米倉彦次郎ニ炮中テ病メリ医云ウ、血下リ腸ニ入ル宜シク、馬ノ糞尿飲ム之ヲ治スベシ、彦次郎云、汚物ヲ食イ看病治ザレバ則人我ヲ以テ徒ニ命ヲ愛ム者トセン、死シテ且ツ耻(恥)アリトテ敢テ飲マズ、昌忠聞テ彦次郎ノ営ニ到リ、病ニ候乃席ノ尿ヲ採リ親ラ半盞(さかづき)ヲ飲ミ、彦次郎ニ与テ云、良薬苦シト雖モ汝宜ク之ヲ飲ム思考卜為ス全命一彦次郎辞スルニ言バ無シ、遂之ヲ飲ム、悪血忽下リテ病愈ユ、其至厚人ヲ愛スルコト斯ノ如シ、故ニ士人用ラレテ死ナン事ヲ楽ム云々、同七年馬ヨリ墜ツ創ヲ憂リ死ス、年三十一、按ニ甘利氏職役ノ事前ニ記スル如シ、昌忠ノ名ハ窪八幡宮ノ社ニ、天文廿三甲寅(1554)八月十一日昌忠(花押)禁制ノ板記並ニ永禄八乙丑(1565)十月吉日旧記ニ当御代官甘利昌忠トアリ、『兵家茶話』ニ山村家伝ヲ引キ云、永禄三年(1560)山村三郎四郎良侯信玄ヨリ感状ヲ賜フ、甘利左衛門尉昌忠之ヲ奉ルノ添状アリ、ト記セリ今之ヲ訂定ス(軍鑑ニ妹二人安中左近、葛西左衛門ニ嫁ストアリ)

甘利郷左衛門尉信康

昌忠ノ子弟カ未ダ分明ナラズ、永禄十年(1567)下ノ郷起請文ニ名押アリ、西郡上ミ今諏村金丸某蔵ス、三月六日(年紀ナシ)信玄ノ手簡ニ一徳齊、甘利郷左衛門尉殿、金丸筑前守殿卜連署ノ文中ニ信玄白井不日ニ落去大慶候云云、猶沼田之是非急速注進待入候トアリ、上野国志ニ元亀三年(1572)九月、信玄白井城を攻メル、長尾景憲城ヲ棄テ発崎ノ不動山ニ保ムト見エタリ、軍艦ニハ此ノ年四月兼信信州ニ出ツ、信玄モ出テ越後ノ光明山マデ働ク、同十月ヨリ翌年ニ及ビ三州ノ陣ナリ、此ノ時参州・遠江・尾州・濃州ヲ攻略シテ直チニ京都ニ上リ、旗ヲ建ント欲シ、陣中ニテ卒去セリ、高坂弾正河中島ニ在テ越後関東ヲ圧へ箕輪ノ内藤以下ハ尽ク打立ツ趣ナレハ其以前方々ヘ奇兵ヲ出シ働ヲ懸シト見ユ、又云ウ左衛門ノ死後ハ百騎バカリナリ、米倉丹後守陣代ニテ小荷駄奉行ヲ役スト、其名ヲハ所記ニハナシ、長篠ニ於テ戦死ス、諸録三郎四郎信景ニ作ル(古戦録ニ三郎四郎後左衛門尉卜改ム、後風土記、四戦紀聞、信長記等ニハ左衛門晴吉、藤蔵吉利又利重トモ記ス、謬妄甚シ。

武田武将 甘利三郎次郎信恒 

鎮目寺ノ棟札ニ見ユ(年月刷落ス但シ長篠ノ後役ナリ)永禄八年(1565)栗原藤三郎後家ヲ甘利備前ノ息子ニ嫁スト、軍鑑ニ記シタルハ信康ニ相当ルナレドモ、同書ニ昌忠ノ息子幼年ノ間勝代トアル文ニ戻レリ(三代記ニ左衛門ノ嫡子三郎次郎卜記シタルヲ得タリトシ、信康ハ昌忠ノ弟、信恒ハ信康ノ男ニテ一家ニ二分レシナラン

武田武将 甘利次郎四郎 

大宮ノ神馬奉納記ニ馬三匹トアリ(是モ年月刷落、但シ長篠ノ役後ナリ)
此人家督卜見エタリ、昌忠ノ男子カ始末詳ナラス、壬午(天正十年)起請文ニモ甘利衆十五人ノ名ヲ載タリ、諸録天正三年(1575)遠州小山加勢ノ条ニ甘利次郎三郎ト云ウ者アリ(後風土記ニ云備前守ノ二男一方ノ隊将ヲ奉ル者ナリト)「続武家閑談」ニ佐橋甚五郎ニ甘利次郎三郎ヲ撃チテ来ラハ勘気御免アラント仰セケレハ、甚五郎姦細卜成リ、詐リテ小山ニ降ル、次郎三郎常ニ笛ヲ好ミケルニ甚五郎亦笛ニ堪能ナリ、遂ニ近ツキ狎(ナ)レ、次郎三郎ガ眠リタルヲ窺ヒ刺殺シテ首ヲ持来レリ、傍人弾指シテ甚五郎カ所為人情ニ非スト誹リケレバ、甚五郎モ自耻(ハジ)テ朝鮮へ迯走(トウソウ)リシカ、後年彼国ノ官僚トナリ来リシ事ヲ載ス、
(次郎三郎同人ナリヤ未ダ次郎三郎者証書ヲ見ズ)府中長谷寺過去帳二天正十年(1582)三月廿六日月山道因大禅定門(甘利乙吉時光)軍鑑聖道衆甘利三石衛門、小姓衆ニ甘利彦五郎アリ、(三国志ニハ采女一子彦五郎田野ニ於テ戦死)右未詳。

武田武将 飯富兵部少輔

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武田武将 飯富兵部少輔


(名虎昌、諸録異ル無シ、然レドモ未ダ適書ヲ見ズ、軍鑑末記信正ニ作ル非ナルヘシ)河内領飯富村ニ兵部平ト云ウ処ハアレドモ居址不詳、飯富ノ字「オフ」ト訓スベシ、飯富源四郎ヲ軍鑑ニ奥(オフ)ノ源四郎トモ喚トアルハ万葉集ニ「飯富乃海」卜詠ミタル、仮名ニ同ジク相通シ本一統ノ字ノ転ナリト云エドモ、既ニ飯ノ字ヲ用フ事亦久シ、上総国ノ郷名飯富(和名抄訓於布)「三代実録」ニ飯富ノ神社授位ノ事見ユ、今是ヲ飲富神社トモ唱ルニ泥ミ、「北越軍談」ニ筋富兵部卜記シタリ、他書又飯冨ニ「イヒトミ」ト仮名ヲ施ス者アリ、皆惑乱卜謂へキノミ、「東鑑」曰、元暦二年(1184)六月五日丙辰囚人前廷尉季貞ノ子息宗李ナル者有リ(宗季後日逸見冠者光長猶子卜為ル宗長卜改ム)季貞存望ヲ見ル為ニ密々下向ス是弓馬芸ヲ伝へ剰へ矢ヲ作ル達者也、矢野伝え口伝へ受ケ云云、上総国飯富庄者外戚伝領卜為ル之間其使有り、当国住人中禅寺奥次郎弘長知音卜為ル也(中略)可列御家人之由被仰出云々、之ヲ飯富源太宗季卜謂フ、建久元年(1190)九月十八日(上略)又飯富源太宗季(改宗長)作献簇同歴御覧之処重端革逆也令、問其由緒給宗季答申云、是故実也以赤革令重于表一者頗相似平家赤簱赤標也、重于下之条可然歟云云、又居蛇結文於腰充其風情殊珍重也、旁々御感之余向後重端可為此儀次蛇結丸可為宗季手文之由被仰含云々トアリ(延尉季貞ハ源満政ノ胤季遠ノ男也従五位下左衛門尉源太夫判官卜称ス、平氏ニ従ウ西海ニ於テ生虜卜被ル者也)


其男飯富源内長能(或源内左衛門尉)仁治・寛元(124046)ノ頃マデ射手随兵等ニ見ユ、逸見光長ノ猶子タルニ依テ本州采邑ヲ賜ハリ、地名ニモ称スルナルベシ、衣紋ニ蛇ノ目ヲ用ル事ハ此謂レナリ、「一蓮寺過去帳」ニ寛正・文明(146086)ノ間ニモ飯富民見工延徳四年(1492)十二月二十八日「間一房」(八幡ノ飯富内)永正十二年(1515)十月十七日合戦ニ二討死「宣阿」(飯富道悦)喜阿(飯富源四郎)亀沢村天沢寺ニ二月朔日(亡年号)「笑岳悦公居士」ト云ウ牌子アリ(寺記飯富兵部牌ト云ウ)亀沢ハ北山筋ニ在リ、天沢寺ハ飯富山県二氏ノ頃寺ナレトモ、往年火災ニ蒙リ牌子等モ錯乱セリ、疑フラクハ悦公ハ道悦ニ同カルベシ、即チ兵部兄弟ノ父是ナリヤ否、寺記ノ伝ル所必ス齟スヘシ、同筋西八幡村ニ山県ノ屋敷ト云ウ伝フル処、以前ハ飯富民之ニ居ル故ニ八幡ノ飯富下記スナルヘシ(古蹟部ニ詳ニス)


兵部少輔ハ智略抜群ノ驍将タリシ事諸録ニ載テ審ナリ、天文中(153254)ヨリ信州内山ノ城擁ス、軍鑑ニ永禄八年丑(1566)八月罪ヲ蒙ムリ剣ヲ賜リ自決セリ(佐保原ノ役年廿七八卜有リ此至六十一、二)伏誅ノ後ハ弟源四郎昌景氏ヲ山県卜改メ飯富民之ノ断シカバ、今ニ至ル、本州ニ由緒伝ル者ナシト云ウ、諸録ニ記スル所兵部ノ軍容ハ赤一色ナリ、其次ハ浅利小幡上総赤備ナリ、壬午十二月山県、土屋、原隼人、一条等ノ寄騎同心皆井伊直政ニ附属セラレ且ツ直政赤備ヘニ定メラルト云々、


赤備え


「家忠日記」ニ四隊ノ従士七十四人、関東浪人四十三人、都合百七十人ヲ井伊万千代ニ属シ四隊ノ士ノ領地四万石ヲ以テ一隊ノ長為卜兵器皆ナ赤色タルベキ由定メラル、又兵部ガ為人ヲ慕ヒ万千代ニ兵部少輔卜叙爵賜リ、又世ニ之ヲ「赤鬼」卜称シタルモ、本飯富ノ綽号ヲ取リテ如斯卜記セル書モアリ按スルニ今本州所在ニ蔵ムル、天正壬午(十年)八月御入国以後ノ御朱印ニ伊兵部少輔奉之卜記タル事多ケレバ、以前ヨリ此称有ルナリ十二月ニ至り万千代ヲ御取立アリ、兵部少輔一命セラレシニハ非ズ、又本州ニ慶長以前ニ石高ノ名目ハ之無ナリ、「家忠日記」等モ非、当時所筆記故ニ違ヘル事モアリ、況ヤ近世所記録ノ書ハ実ニ道従ナシ難シ。


武田武将 原隼人佐昌胤

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武田武将 原隼人佐昌胤


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『甲斐国志』巻之九十六 人物部第五 武田氏将師部 一部加筆




(諸記多作ニ昌勝又作胤長昌国)
信州下ノ郷起請文ニ名押アリ今之ヲ訂正ス昌胤ハ加賀守ノ男能ク父ノ業ヲ受ケ諸軍ヲ護セリ、軍鑑ニ百二十騎ノ隊長ナリ、外様近習五十騎ヲモ兼領ス(但加賀守ハ九十騎トアリ)天正三年(1575)五月二十一日、参州長篠ニ於テ昌胤戦死、法名ハ朝原(蓮朝寺ノ什物位牌、塵芥羅記ス所也以下同)参河国墳墓記ニ隼人佐ノ墓ハ長篠ノ竹広村ニ在リ、印ノ松梅ヲ植エルと、又山県三郎兵衛卜同ク職ヲ役スルガ後ニ跡部大炊助卜同勤セシハ、二代目ノ隼人カ、所在ニ連名ノ文書多ク見エタリ

原隼人佐

(一系名昌栄)蓮朝寺曼陀羅ニ隼人佐朝原ノ子息宗徹トアリ、即チ定ナルベシ、長篠役ノ後家督シテ其称ヲ冒ス(未考)軍艦ニ天正八年(1580)上州膳ノ城ノ条下ニ秘蔵ノ士隊将原隼人一番ニ乗入リ疵ヲ被ル、深手ナレバ甲府ニ遺リテ死ス(古戦線ニハ隼人昌勝長篠ニテハ不死、膳ノ城ニテ死スト云、三代記等ニ二代目隼人名ハ昌澄トス未考)按ニ羽尾系図ニ羽尾治部少輔景幸ノ三男海野能登守輝幸ニ一男二女有リ、長女ハ原隼人長男監物ニ嫁ス云々トアリ、前ノ監物ハ二代目ノ中務幸貞(矢沢薩摩守頼相綱也)女原監物禰津助右衛門ニ嫁ス、幸貞ニ二女一男有リ、長女ハ原隼人長男監物ニ嫁ス云云トアリ、前ノ監物ハ二代目ノ隼人、後ノ監物ハ三代目ノ隼人ニテ、従兄弟配遇ト見エタリ、以是三代目ノ隼人ハ真田左衛門卜再従兄弟ナル事明白ナリ。

武田武将 原隼人佐

(名貞胤諸録所記不異隔年集成天正十一年(1583)記作胤広)壬午起請文ニ隼人同心四十七人ノ名アリ、山県一条衆卜同シク井伊家ニ附属ス、難波戦記ニ隼人佐貞胤ハ無双ノ剛者クルヲ以テ武田亡後召抱ラレ、越前ノ軍使黒絖(ワタ)衆ニ加ヘラル(武隠草話ニ忠直卿ノ使番ハ金ノ九本馬茶席蘭ナリ皆諸国ニテ名フル兵共ナリ)貞胤甲州ニテ真田左衛門佐ト旧友ナレバ甲寅ノ冬御和談ノ持隼人ヲ左衛門佐ノ処へ招キシ事ヲ載ス、諸録所記皆同シ、同評註ニ論之云此時貞胤ハ年五十八、左衛門佐ハ四十六、壬午(天正十年)ヲ距三十三年也、少年ノ懐旧如何アラント、何ヲ以テ等貞胤年齢ヤラン覚束ナシ、大坂軍記ニ貞胤興  ノ頃幸村ハ父胤長ヨリノ旧友ナリト云ウニ拠レバ貞胤ハ年少且ツ初代隼人ノ次子卜聞エタリ、通考スルニ天文十九年(1550)昌胤家督ノ頃年二十ノ内外トシテ、長篠ノ時五十二超コベカラズ、五年過ギテ二代隼人膳ノ城ニ死スル時年三十二及ビ難ケレハ三代目ハ最モ幼稚ニシテ、陣代ナトニテヤ有ケン、壬午諸記ニ組同心ノ事ハアレト隼人ノ名ハ曽テ見エズ。

武田武将 原丹後守虎常 

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武田武将 原丹後守虎常 

信州下郷起請文(生島足神社)ニ名押アリ府中清運寺(甲府朝日町)過去帳ニ八日実性院浄蓮(原丹後守又寛永八未(1631)七月廿四日トモ有リ、追福ノ記ナルヘシ)
蓮朝寺(石和町)ニ丹後守浄蓮同人弟原朝トアリ、是ニテ虎常ハ輿左衛門ノ兄ナル事ヲ知ルベシ、身延過去帳ニ二月六日法誉(原丹後守ノ息与介)永禄十二年(1569)霜月廿五日法鏡(原丹後婦トアリ、丹後守諸記所見ナシ。

原与左衝門

軍鑑ニ足軽隊将騎馬拾足軽五拾人、天文中(153223)信州海津城ニノ郭ヲ衛ル、後ニ市川平左衛門卜共ニ長沼ニ在城シテ海津ニ羽巽ス、二人共ニ小畑山城ノ聟ナリ、子息惣五郎(文与九郎トモアリ)身延山過去帳ニ天正九年(1581)十月廿四日源朝(原与左衛門)四日(年号ナシ)蓮光(同人弟)四月廿八日妙日(原与左衛門母)トアリ、「関東古戦録箕輪軍記」及ビ「北越」ノ記ニ与左衛門名作勝重未適証ヲ知ラズ。

原三石衛門尉

天正(壬午)起請文ニ近習物頭諸役人ノ内トアリ、万力筋下岩下村浪人原才兵衛所蔵、天正中三石衛門ノ賜ル御朱印文書等数通アリ、士庶部ニ委シ

原大隅守虎吉

軍鑑ニ小人頭横目付十人ノ内ナリ、屡(シバシバ)武功アリ、十八度ノ場数御証文ヲ賜云云、中山広巌院所蔵天文十二年(1543)八月八日寄進状ニ原半右衛門虎告花押アリ(大隅姶ノ名ナリ)、身延過去帳ニ十四日妙大原大隅守虎吉逆修又朔日二日ニモ記之逝日未詳、又五日妙光原大隅ノ父トアリ、西郡筋田島村妙太寺即チ大隅ノ墳寺ナリ、妙太ノ掃人妙見ノ牌子並立セリ、寺宝ニ永録七甲子(1564)八月身延山日叙授与ノ本尊ニ原大隅入道武運長久云云トアレドモ天正十壬午(1582)二月同山日新ノ本尊及同村法受庵所蔵弘治四戊午(1558)正月同山日鏡ノ本尊ニモ皆大隅守虎告卜記シテ入道トハ不見龍王村慈照寺所蔵霜月五日(天正中ナリ年次知レズ)四奉行ノ文書ニ原半トアリ、壬午ノ後モ武田ノ国法通リ諸役人等其儘ニ用イラル小人中間ノ頭モ皆在住ナリ、原半ハ大隅ノ男起請文ニモ半左衛門卜見ユ、編年集成名ハ正元卜記ス、子孫武州八王子ニ在り

原豊

(豊前カ豊後カ未知詳)天正八年(1580)十一月廿八日中郡井口村棟別調書ニ原大同心(惣兵衛)原豊同心(善兵衛、弥三左衛門)ト見エクリ是モ物頭役ノ人ナルベシ。

原甚五郎、同おちこ 

軍鑑ニ小姓衆トアリ身延過去帳十四日法善(原善三郎)天正十午六月
  十三日了清(原藤十郎又九日二了清原彦十郎トモアリ)原新太郎(天正七年ノ文書二見エクリ蓋シ近習衆クル趣ナリ)以上詳ナラズ。

原出雲守 

身延過去帳二天正十三年(1585)七月十四日連生トアリ、府中要行寺過去帳ニ元和元卯(1615)四月廿六日乗柘(原出雲守子息甚次郎)甚次郎男権六上玉子胤ノ名多ク見エクレド今伝承ノ者不分明由ナリ。

武田武将 小山田備中守昌辰

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武田武将 小山田備中守昌辰

(諸録名昌辰ニ作ル未詳)其先武州秩父ノ平氏小山田別当有重ノ裔、世々都留都ヲ領ス、武田ノ幕下ニシテ族類甚夕多シ、家ノ紋ハ巻内ニ向ヒ沢潟ナリ、軍鑑ニ兵衛尉信茂ヲ郡内ノ小山田トシ、備中守ヲ石田ノ小山田卜称ス、蓋シ封邑
ヲ云、石田ハ北山筋ニ在リ、備中守勇略アリ、且ツ守備ノ術ニ勝レタルヲ以テ姶メテ属スル、城新築ノ塁ニハ先ツ備中守衛之令武田家ニ佳例トセシト云ウ、海尻・小諸城代ノ事アリ、天文二十一年(1552)三月八日常田ノ役ニ戦死ス、世ニ古備中ル称ナリ(郡内小山田ノ事ハ別ニ伝アリ。

小山田備中守昌行

(諸録名昌行ニ作ル者多シ編年集成昌重ニ作リ、一書ニ信常ニ作ル、共ニ明証
ナシ)軍鑑云後ノ備中守ナリ、属甲七十旗本ノ先衆ニテ組ナシ、始六左衛門ト云ウ、任侠ナルヲ以テ信玄常ニ受用セス、後其行改ム、勇功父ニ期劣ラサル故ニ世人多ク父子二人卜思ヘリ、始メ海津後ニ天飾城代ナリ、勝頼代ノ文書ニハ左衛門尉卜見エタルハ備中守ノ子ナリ、一蓮寺所蔵天正四丙子(1576)八月廿日ノ文書ニ六左衛昌盛花押アリ、備中守長篠ニテハ城将松平主殿助伊忠ヲ討取り堅固ニ引退タリ、天正壬午(十年)三月信州高遠援兵ニ将トシテ彼所ニ籠り、仁科五郎盛信卜共ニ大イニ戦テ死ス、「伊奈郡記」ニ高遠ノ五郎山卜云処ニ備中ノ墓モ今ニ存セリと云ウ。(「甲乱記」ニ此時御宿監物入道卜贈答ノ詩歌有リ附録ニ記ス)壬午起請文ニ備中衆廿二人ノ名アリ。

小山田大学助昌貞

(諸鐙名昌貞ニ作ル)備中守ノ弟ナリ、軍鑑ニ三十五騎ノ隊長ニテ組衆モアリ、壬午三月兄備中卜同ジク高遠ニ戦死ス、又田野殉死ノ牌ニ洞岩泉谷居士(小山田掃部丞)中源実宝居士(同平左衛門)明鹽道白居士(同弥助)久桂芳昌居士(同小児)トアリ、掃部ノ分脈未考(軍鑑ニハ郡内小山田相備へトス、三国志ニ同佐渡守ト二人同時於武州被誅ト云ウ。之誣ヒテ記英名者アリ、今不採)三人ハ皆掃部ノ子卜記ス者多シ(三国志ニ二平左衛門ハ信茂ノ従兄弟トアリ、八左衛門ニ相混セリ)

小山田弥助

軍鑑ニ億番十二人衆トアリ、武功ノ事往々見エタリ、同文次郎(伝解次六ニ作ル)同彦三郎モ同列ナリ後ニ近習衆ニナルカ、古文書ニ小山田彦五郎、同八左衛門、同六左衛門、同弥助、同左衛門治郎一連署セシ事モアリ、又箕輪ノ清水佐太夫所蔵壬午ノ時北条家ノ文書ニ箕輪ノ内弐拾質文小山田弥助分下記セリ

小山田弥五郎

軍鑑ニ弥五郎、同新之丞小姓衆トアリ、辻弥兵衛壬午ノ御朱印ニ岩崎ノ内小
山田弥五郎分五貫八百文卜見ユ、即是ナリ同五郎兵衛「信長記」ニ長篠討死トアリ、時人云、小山田氏ニ左兵衛尉備中守二人ハ其宗タリ、備中守守義故近族皆臨節不瞬未ニ見苦シキ者ナカリキ、左兵衛謀逆其類八左衛門・彦三郎ノ輩蒙汚名或ハ薮沢ニ逃亡シ多クハ織田氏ノ為ニ殺戮セラレタリ、宗タル人ノ一心ヨリ人ヲ不義ニ陥ラシム況ヤ慎ムベケンヤ。

武田武将 小宮山丹後守昌友 北杜市高根町

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武田武将 小宮山丹後守昌友

(諸録名昌友ニ作ル未詳)一系ニ鎌足ノ後、大夫将監氏長者守平親王ニ供奉シテ信州ニ来リ、数代ニシテ小宮山ニ住シ子孫因テ氏トス(小宮山ハ佐久郡岩村田ノ東ニ在リ、「東鑑」(アズマカガミ)建久三年()ノ記ニ信濃ノ国ノ住人龍山次郎アリ是カ)後年小宮山近江守氏継ト云ウ者二子アリ、長ハ和泉守氏元、少ハ六郎氏久、氏久ハ佐久郡河西目代ト為リ、故アリテ出奔シ武田刑部信昌ニ仕エル云々、「軍鑑」丹後守永禄中(155869)諏方城代トナリ、又松井田ノ城ヲ衝ル、元亀三年(1572)遠州二俣ノ城攻ノ時、先登シテ城内ニ奮死ストナリ、勢州幸福太夫所蔵小宮山弥八虎泰ノ手簡アリ、信虎代ノ人ナリ未知詳。
【武田の落日 小宮山丹後守の忠義】『甲陽軍鑑』
 武田のご譜代小宮山丹後守は上野国松枝の城代であったが、信玄公の御代に、遠州二俣の城を攻めた際、鉄砲にあたって討死をとげた。その嫡子小宮山内膳は、父の丹後に劣らぬ武士であったが、長坂長閑、跡部大炊介、秋山摂津守、この三人と仲が悪かったため、勝頼公は内膳を憎まれて、おことばもかけられなかった。とくにその当時は、小山田という侍と内膳の間にもめごとがあり、彦三郎はお気に入りの者どもと仲がよかったため勝頼公によく、これに反して小宮山内膳はお受けが悪かった。
 この内騰が十日の朝、田野にやってきて「もの申そう」と案内を乞い、土屋惣蔵にむかって、勝頼公のお耳にはいるように、
「三代にわたって互いに信じ合っていたご主君は、人を見当てられたのか、見誤られたのか。ご用には立たぬものと思われて押しこめられていた自分が、お供申しあげれば、お眼鏡違いを立証する結果となる。さりとて、お見当てになられたとおり、ここをはずして逃れれば、武士の義理にそむく。ままよ、ご恩にあずかったことはなくとも、お供申しあげよう」といわれた。土産惣蔵、秋山紀伊守をはじめ人びとが、涙を流して内膳をほめたのも、もっともなことであった。

小宮山内膳友晴

(諸録名友晴ニ作ル、妙亀譫語集ニ頼貞トス未詳)丹後守ノ男ナリ、軍鑑ニ億番十二人衆後為将忠烈父ニ劣ラズ、勝頼ノ時嬖人小山田彦三卜隙アリ、中讒貶斥セラル、天正壬午三月、勝頼父子敗走シテ、鶴瀬駒飼ニ保ス、嬖人逃ゲ近臣叛クト聞キ、内膳幽所ヨリ起テ剣ヲ杖キ乱戦ノ中ニ到リテ、終ニ殉死セリ、田野ノ牌ニ「忠叟受道節居士」、府中大泉寺ノ牌ニ「賢室院」卜加フ、同時ノ文書ニ小宮山平助トイウ者是モ近習ノ士卜見エタリ。

釈拈橋(ねんきょう)

 名ハ倀□丹後守ノ次男ナリ、為僧中山広厳院七世ノ住持ナリ、勝頼討死ノ翌日拈橋田野ノ戦場ニ到リ、勝頼夫婦、信勝及殉死ノ士女ノ遺骸ヲ索メテ吊祭ヲナス、今所伝ノ法名ハ即是ナリ、神祖(家康)新ニ景徳院ヲ建立アリ、田野ノ山中一円ニ寄附ナサレ拈橋ヲ住セシメシト云ウ。

小宮山亦七郎昌親

(壬午起請文近習衆トアリ編年集成ニ昌吉ニ作ル)
丹後守ノ三男ナリ、軍鑑ニ田野ニテ内膳ガ妻子等ヲ囲へトテ無理ニ進メテ押返ストアリ、後幕府ニ奉仕、小田原御陣ニ長柄奉行ヲ役ス、本州ノ士、穂坂金石衛門、内藤源助、永井善左衛門ト同列ナリ、「岩淵夜話」「遺老物語」等ニ見エル。

小宮山土佐守忠房 

逸見筋村山西割(現北杜市高根町)の泉龍寺ニ在リ、「古碑過去帳」ニ丹後守法名意清斎、名以前は小林道休、土佐ハ白西斉トアリ、土佐ハ丹後ノ弟ニテ長篠ニ戦死ス、其男四郎左衛門忠道(実ハ丹後ノ四男)法名ハ惟定、始メ土佐ハ逍遥軒(信玄弟)ニ属シ、中郡小河原ニ住セリ、忠道浪人シテ村山ニ移居村人大柴氏ニ倚ル子孫相続キテ今ニ村正タリ、同時小河原ノ証誠寺モ彼ニ移リ、今ハ昌照寺ト云ウ、当寺ニ所伝小宮山ハ逸見ノ支流ナリ、信州小宮山ニ居シテ氏号トセリ、小宮山民部少輔信安四世備前守昌清ニ二子アリ丹後守、土佐守是ナリ、土佐ノ名昌照卜為スト云ウ、松平美濃守吉保ノ臣柳沢里恭、所記碑銘ニ世系ヲ載スト雖モ、今徴トシ難キ事アリテ尽ク不挙、其文ハ附録ニアリ。

小宮山八左衛門昌久

「信玄全集」ニ小畑勘兵衛ニ甲州軍法ノ故実ヲ伝ヘタリ、遺老ノ内ニ英名ヲ載セタリ、軍鑑ニ八左衛門ハ三枝善石衛門ノ寄子御持弓ノ者ナリ、三日尻ニテ鑓脇ヲ能ク射テ感状ヲ下サルトアリ、天正壬午ノ起請文ニハ三枝平石衝門衆トセリ、又蔵前衆ニ小宮山民部、同源之盛上玄者アリ、皆幕府ニ奉仕スル。

元禄十六年 江戸地震 その時江戸城は

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元禄十六年 江戸地震 その時江戸城は

新井白石「折たくの記」

 『古典日本文学集35』「江戸随想集」古川哲史氏他著
筑摩書房 昭和42年発行 一部加筆
元禄十六年十一月二十二日 
 わたくしがはじめ湯島に住んだ頃、元禄十六年十一月二十二日の夜半すぎの頃、大地震がおこって、目がさめ、刀をとって起きあがると、ここかしこの戸障子が皆倒れた。妻子らの寝ているところへ行ってみると、皆もう起きている。家の後ろの方は、高い岸の下に近いので、皆を引きつれて東の大庭に出た。土地の裂けることもあろうかと、倒れた戸などを出して並べ、その上に座らせ、やがて新しい着物に着替え、裏打ちした上下の上に道服(袖広く、腰より下に襲のある僧衣に似た上衣)を着て、「自分は殿中に参上する。供の者二三人ほど来い。その他の者は家に残っておれ」と言って、走り出た。途中で息の切れることもあろうと思ったので、小船が大きな浪にもてあそばれて動くよ
うな家に入って、薬箱を探し出して、かたわらに置きながら、衣服を改める間に、かの薬のことは忘れてしまい、そのまま走り出たのは恥ずかしかった。
 こうして走って行くうち、神田明神の東門の下まで来た時分に、大地がまたひどく揺れた。この辺の商人の家は、皆家を空っぽにして、多くの人が小路に集まっていたが、家のうちに燈が見えたので、家が倒れたら火事になるだろう、燈を消せ、燈を消せと呼ばわって行く。
昌平橋のこちらで、景衛(かげひろ 時に朝倉余三といった)が自分の方へ走って来るのに行き合い、「あとのことは、よろしく頼む」と言い捨てて行く。橋を渡って南に行き、西に折れて、また南へ進もうとするところに、馬をとどめている人を月光にすかして見れば、藤枝若狭守である。これは、地面が裂けて、水が湧き出たので、その深さや広さがわからないままにそうしていたのであろう。「者ども続け」と言って、一丈余りになって流れる水の上を跳び越えると、供の者どもも同様に越えた。その水を越えたとき、足を濡らした。草履が重くなって、歩きにくくなったので、新しい草履にかえて、走って行くうちに、神田橋のこちらまで来ると、大地がまた酷く揺れた。たくさんの箸を折るような、また蚊の群れて鳴くような音の聞えるのは、家々が倒れて、人が悲鳴をあげるのであろう。石垣の石が飛び、土が崩れ、塵が舞いあがって空を覆う。これでは橋も落ちたと思ったところ、橋と台との問が、三、四尺ほど崩れたので、跳びこえて門に入ると、家々の腰板が離れて、大路に横たわっていて、長い布が、風にひるがえっているように見える。竜の口まで来て、遥かに望むと、藩邸に火災が起こっている。その光が高くないのは、御殿が倒れて、火災が起こったためかと非常に心配になり、心はさきへ走るが、足はただ一所にとどまっているような気がする。ここから四、五町ほど行ったと思う頃、馬の足音が後ろの方にするので振り返ると、藤枝が駆けて来るのであった。自分はここまでは来たが、これから先の事はどうなるかわからないので、「若狭守殿と見うけられます。あの火災の様子は、はなはだ心配です」と言うと、「おっしゃるとおりです。おいで下さい。馬上のままで失礼します」と言って、馬を走らして迫って行った。
 やがて日此谷の門まで来ると、番小屋は倒れ、圧されて死ぬ者の苦しそうな声が聞える。そこに、また馬からおりて立っている者を見ると、藤枝であった。これは、楼門の瓦が、南北の櫓から地面に落ち、それが重なって山のようになったので、越えることができなかったためである。「さあおいで」と言って、いっしょに、その上を越えて、小門を出て見ると、藩邸の北にある長屋が倒れて、火災を起こしている。御殿には、はるかに隔っているので、心の晴れる思いがした。藩邸の西の大門が開けて、番所が倒れているのが見える。藤枝はここから入ろうとする。わたくしはいつも西の小門から参内していたので、「小門から入りましょう」と言って、別れた。こうして小門から入って見ると、家々が皆倒れ傾いているので、屋外に避難している人のために、路がふさがって進むことができない。そこを過ぎて、いつも参上する所に着いたが、そこも倒れていて入ることができぬ。藤枝がまたその辺にたたずんでいたのを連れて、御納戸口といわれている所から入った。ここかしこの天井が落ちかかっている所々を過ぎて、わたくしはいつも祇候する所に参上すると、今の越前守、詮房(あきふさ)朝臣がこちらの方へ来るのに行きあって、御無事でおられる由を聞き、「こういう非常の時ですから、推参いたしました」と言い捨てて、常の御座所に参上したところ、その庇のうえに、東の建物が倒れかかりていた。
近習の人々は、南の庭上に立っていた。上様はあちらの庭においでになるという。戸田、小出、井上などの家老たちも、ここに入って来る時は、庭上に立ったので、五十嵐という人と相談して、御庇の間に敷かれた畳十枚ほどを庭上におろして、皆をその上に坐らせた。地面がしきりに揺れるので、坐っている背後の他の岸が次々に崩れて、平らかな地面も狭くなった。
 こうしているうちに、酒井左衛門尉忠真が仰せを受けたといって入って来て火を防ぐ。火の勢いが強いなら、御座所を移されるがよいなど申しあげると、御袴のみに、御道服をめされて、いつもの御所の南面に出てお立ちになり、わたくしの祇候しているのを御覧になってお召しになる。御縁のところに参上すると、地震のことを詳細に質問なさった後、奥へお入りになった。夜が明けそうな頃になって、将軍のところへ参上しょうとおっしゃる。自分は大久保長門守の耳に口を寄せ、「地案はなお頻繁につづいている。おいでになるのは、どうであろう」と言ったところ、「わたくしもそうは思うが、おとめするわけにもいかない」と言ううちに、出立なさった。こうしてかの火事の起こった場所へ行って見ると、倒れた家に圧されて死んだ者どもが、ここかしこに引き出されている。井戸も泉も、みな水がなくなってしまったので、火を消すすべもない。
 この時お庭の池水を汲むと言ったのに、今の曲淵下野守が、この水は使う時があると言って許さなかった。どう考えたのか、よくわからぬ。
 こうしているうちに、いまの隠岐守間部詮之が、わたくしを誘って、兄の詮房朝臣の家の庭に入って食膳をすすめた。昨夜、侍医の坂本という人が、庭に来て、わたくしだけを呼んで、袖から食物を出して与えた。湯にひたした飯を、茶碗に盛ったものであった。それを食べてのち、しばらく時間がたっていたので、飯を食べ、酒を飲んで出た。今の市正藤正直の家の前をすぎると、呼び入れて茶を与えた。こうしているうちに、お帰りになると聞いて、お入りになるべき場所に赴いて、お迎え申しあげる。そこから、家老たちと自分と四人連れだって、どこであったか、細い渡り廊下のある所を通って、常の御座所の方へ行くと、応急に造った場所に来た。人々は草履を袖に入れていたが、戸田にはその用意がないと見えた。自分は、こんなこともあろぅかと予測して、はじめ庭上にいた時、そこらにあった草履を左右の袖に入れておいたので、取りだして与えた。そのうちにふたたびさきの場所におでましになってわたくしを召し、「自分が幼時、上野の花見に人々が群集しているのを見たのに似ている」とおっしゃって、お笑いになった。そうこうするうち、火も消しとめた。 
昼の午後一時にもなろうとする頃、またおでましになって、わたくしを召された。参上すると、「妻子らのこと、その後の消息を聞いたか」と仰せがかった。「昨夜参上しましてからはここだけにおりますので、それらのことも聞いておりません」と申しあげる。「白分が谷中の別邸へ行く時に、人の教えたところによれば、居所は高い岸の下にあったと覚えているが」とおっしゃる。「そのとおりでございます」と申しあげる。「非常に心配なことだ。この様子では、地震は数日続くであろう。最初のときのように地震がない限り、来る必要はない。急いで家に帰れ」とおっしゃったので、退出して供の者を探し出して、「昨夜のままだったのか」と問うたところ、「今朝早く、家に留守番でいた者どもが来て代ってくれましたので、家に帰って、食事をして、また参りました」と言う。これによって、妻子に事故のなかったことをも知った。安心して家に帰ると、午後二時過ぎであった。
 翌日、藩邸に参上したところ、御殿は残らず傾いたので、東の馬場に仮屋をつくらせておいでになる。地震はなお頻繁につづき、きっと火災が起こるにちがいないと思われる。自分の塗籠は傾くまでではないが、壁のところどころ崩れおちた所が多いので、崩れた土を水にひたして、その毀れた所を繕い塗らせた。予測したとおり、同月二十九日の夜になって火事が起こった。資財はみな塗寵におさめたかと思うが、地震はやまない。塗籠が倒れるかも知れず、また塗って修理したところの土はまだ乾かず、火の勢は盛んで、新旧の土の間が開けたら、そこから内部へ火が入るかもしれないので、やがてその付近の地に穴を掘らせ、下賜された書物や、自分の手で抄録したものなどを塗籠から取りだして、かの坑の中に入れ、畳六、七畳をその上に並べて置き、土を厚くかぶせて、家を出た。ここかしこで、火のために道をふさがれ、火の勢の少し衰えたすきをねらって、その焼けすぎたあとの這を通って家に帰ってみたところ、かの書物を埋めた穴に近い岸の上にある家が焼けおちて、火がまだ消えないままであった。しきりに水をそそいで、火を打ち消し、焼けた家の柱などをとりのけてみたところ、その家の焼け落ちた際に、埋めた土をはね散らして、上にかさねた畳が焼け失せ、下の畳に火がすでに燃え移ったところへ帰って来たのであった。塗範は予測とはちがって、倒れもせず、焼け失せもしなかった。それでははじめ穴を掘り、書物をおさめたのは、徒労であった、と言って笑った。

《参考資料》『楽只堂年録』柳沢吉保・吉里

今暁八つ半時希有の大地震によって吉保と吉里急いで登城する、大手乃堀の水溢れて、橋の上を越すによって、供乃士背に負て過く、昼の八つ時過に退出する、夜に入って地震止されば四つ時吉保、登城して宿直する。

武田武将 日同大和守

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武田武将 日同大和守

 比志神社(現須玉町比志)ノ棟札ニ大永戊子年(1521)日向大和守是吉、同子息新助虎忠、弥四郎秀泰トアリ(諸録名昌時ニ作ル非ナルベシ入道宗英)
「大官神馬奉納記」ニ日向玄徳斉宗栄花押見エタリ、逸見筋村山北割(高根町)光村教寺ニ大和夫婦、藤九郎、二郎三郎ノ列牌ヲ置ク、大和ノ法名ハ「景照院光岳村公大居士」寺記ニ大和ノ名ヲ光村卜伝へクリ(同筋比志村徳泉寺逆修ノ碑ニ「徳泉寺殿花屋宗栄居士」日向大和守源朝臣兼繁トアリ、其名皆異ナリ、仏寺ノ記ハ誤ルモノ多シ)軍鑑ニ天文中信州深志ノ城代トナル、後大島ニ移ル、天正壬午ノ時、諸城自落スルニ及ビテ大和尚大島ニ在リ、甚老テ軍役ニ堪ベカラス、猶震テ馳ントス、家人透カシ以テ所領村山ニ帰ル、大和初メ不知之、以テ敵ニ向フト思ヘリ、大イニ怒リテ終ニ自殺スト云々

日向藤九郎

軍鑑ニ奥近習五人ノ一ナリ、永禄五年(1562)松山ノ役炮ニ中テ死ス、次郎三郎ハ村山ニ於テ大和卜同シク自殺スト、甲乱記、三国志等ニ見エタリ、光村寺ニ「覚等勇閑禅定門」(藤九郎)音宗空観禅定門(次郎三郎)

日向玄東斉宗立

(諸記作見桃、賢桃、源藤非也)大宮神馬奉納記ニ名押アリ、「兵家茶話」ニ日向家説ヲ引テ北越ノ臣新津右京ノ子某甲州ニ来リ、日向大和ニ倚リテ信玄ニ仕エル、源当斉是ナリト、一説ニ大和ノ妹婿と云ウ(「軍鑑」ニハ大和ノ親類御使者衆信州ノ人ナリトアリ)「身延祖師堂過去帳」ニ慶長十三戊申(1608)八月十四日宗五日明(日向玄東斉、「大野過去帳」ニ妙光院日明ニ作ル、年号ナシ)同年五月廿八日南清院妙五日陽(日向半兵衛悲母)寛永二丑(1625)四月廿七日現宝院妙祐(同人姉)トアリ、凡本州人除髪法名ヲ記ス時、又氏ヲ称ル者無カリシニ日向玄徳斉、同玄東斉、城ノ意庵三人氏ヲ記スヲ視ル、或人 云、彼三人ハ浮屠者流ニ非ラズシテ自ラ薙髪シテ雅名ヲ号卜為スノミ、法名ニハ非スト今尚此類多シ。

日向半兵衛正之

 系図ニ名正成ニ作ル、玄東斉ノ男ナリ詔禄同シト推モニノ宮、御岳等所蔵ノ寛永八年(1668)八月八日天野伝石衛門信方連名花押ノ書ヲ視ルニ政之トアリ今訂之、「軍鑑」ニ小姓衆日向伝次郎アリ玄東斉ノ男疑ウハ、半兵衛即チ同人ナルベシ、前年集成天正壬午(十年 1582)九月廿五日ノ記ニ横田甚五郎ノ妹聟日向伝治郎、又十一月十一日ノ記ニ日向半兵衛御家人ニ列ス云々、系図ニ同十一末年閏正月十四日本領駿州厚原甲州竹居ニテ御朱印ヲ給ヒ石水寺城番ヲ勤ム、慶長十八年(1613)足軽五十人預ル(按ニ此年ヨリ本州ノ奉行ナリ)元和四年(1618)加増甲州国分村、末木村、下産沢村、合千石(按ニ此年ヨリ忠長卿ニ附属)寛永二十未年(1643)五月二日逝ス、法名「慈恩院道慧日景」(身延会合所過去帳ニ見ユ)子孫幕府ニ在リ家紋丸ノ内ニ贋羽違ヒ日向ハ地名信州佐久郡ニ在リ。

日向平兵衛 

身延過去帳廿一日華光院殿日耀(日向半兵衛妻)ト見エタリ

日向五兵衛可加

 半兵衛本州ノ奉行タル時名代トシテ甲府ニ在リシ人ナリ蓋シ族人ナルベシ。

武田武将 小畑山城守虎盛

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武田武将 小畑山城守虎盛

『甲斐国志』巻之九十六 人物部第五 武田氏将師部 一部加筆
 
軍鑑云、父尾畑上総入道日浄ハ(勘兵衛景憲ノ家譜ニ名盛次、府中妙音寺ノ過去帳ニ二月吉日城小幡山城殿トアリ、以下名従ニ景憲家州軍記之)遠州勝間田ノ人、信虎十九歳ノ時来リ、足軽隊将トナル、虎盛八歳ニテ父ニ従テ来ル十四歳ノ時日浄逝ス(続武家閑談ニ明応九申年(1500)孫十郎上京八歳ニナル男子ヲ連レ甲府ニ来ルト云々、信虎ハ明応三寅年(1494)生ル申ニハ七歳十九歳ハ永正九申(1512)ニ当ル誤ナリ)始云、織部改ニ山城後入道シテ号日意、騎馬十五、歩卒七十五人采地千八百貰ニ至ル、場数三十八度ノ証文アリ、身ニ被四十一創、高坂弾正ノ副将トシテ海津二ノ曲輪ニ在リ、永禄四年(1561)六月病デ逝ス、景憲家譜ニ六月二日トセリ、年七十一(軍鑑所記ニテハ五十七歳ニ当レリ、同大仝ハ七十二トス、「武家閑談」ニハ六十九トアリ)軍鑑又云、日意臨終招子婿云、汝曹ニ二九ツノ文字遺言セシ「よくみのほとをしれ 能く身の程を知れ」云々、日浄四男三女ヲ生ム、山城ノ弟惣七郎ハ使番十二人衆ナリ、天文十九戊(1550)十月日戦死ス、次ハ女、一ハ育地与十郎室、一ハ小宰相トテ出頭ノ侍女、口才アリテ他国ノ使ナトヲモ勧ム後ニ大熊備前守ノ妻トナル、府中妙音寺ノ石碑ニ天正二甲戊年(1574)閏十一月廿九日逝ス、本証院妙寿靈トアリ(清運寺ニ作日寿)第六男ヲ弥三右衛門ト云ウ、馬場美濃守の副将ニテ山城ニ劣ラヌ人ナリ、次ハ左衛門尉光盛、便番十二人衆、虎盛死後知行同心三分ノニヲ給ハリ、襲称云山城守騎馬十二、足軽六十五人、即チ高坂ニ副ヒテ海津ニ居ル、壬午(天正十年)ノ後城陥リテ、合属ノ士女官越後ニ降リ、於是山城名下野守ト更メ、直江山城ノ称ヲ避ルナリ妙音寺ノ過去帳ニ三月十一日日善(小幡下野)トアル是ナリ。

小幡豊後守昌盛虎盛ノ男初名孫次郎

『甲斐国志』巻之九十六 人物部第五 武田氏将師部 一部加筆
 
(続武家閑談ニ孫十郎二作ル)女妹多シ、軍鑑ニ拠ルニ辻六郎兵衛市川平左衛門、原与左衛門、西条治郎、海野中務等ニ嫁ス、孫次郎又兵衛尉卜更ム、原美濃守ノ聟ナリ、父死シテ後海津ノ守衛ヲ辞シ旗本ノ足軽隊将トナル騎馬三、足軽十人(後又加十人)知行至七百貫(小倉百貫、鎮目弐拾貫、黒駒八拾貫、信州四百貫、後増駿州横間百貫)武功ノ事ハ諸録ニ顕然タリ、天正壬午三月三日病中ナガラ勝頼ニ暇乞ノ事アリ、同六日逝ス、年四十九、昌盛一男三女アリ、景憲ノ家譜ニ日元和元年(1615)(中略)景憲ノ母当年七十五、此ノ娘広瀬美濃ノ後家五十六歳、其弟孫次郎四十八歳、姉ノ娘ハ広頼左馬介女房、藤五郎ノ息子当年十七歳、此五人ヲ書付テ板倉へ渡ス云々トアリ広栢ノ事ハ別ニ伝アリ。

小幡藤五郎昌忠 

昌盛ノ男也、壬午起請文ニ近習物頭ノ内ニアリ、景忠家譜云、壬午七月十九歳ニシテ幕府ニ奉謁於信州蘆田小屋及長久手数々戦功アリ、後井伊家ニ附属セラル、慶長四年(1599)六月十七日病死ス、年三十六、此年三月一男子ヲ産ム、是ニ知行被下云々(大坂ノ時二十七歳卜云是ナリ、其名ハ未詳)

小幡孫次郎在直 

昌盛ノ男ナリ、壬午時十五歳ニシテ勢州ニ至リ、北畠内府ノ家人土方道由ノ養子トナリ同十四年(1586)断縁シテ井伊家ニ還リ、広瀬芙濃ノ猶子ニナリ、氏広瀬ト改メル云云有故浪人シテ慶長五年(1600)関東関原ノ後幕府ニ帰参ス、大坂両度ノ御陣ニモ功アリ、寛永五玉辰年(1628)於佐和山ニテ逝ス、年六十。

小幡勘兵衛景憲

昌盛ノ三男ナリ、幼名熊千代、改孫七郎、後称勘兵衛、天正壬午十歳ニシテ幕府ニ拝謁ス(景憲家譜ニ為ニ十一歳、諸記為九歳一考多今琴茲ニ景徳院所蔵景憲手書以十歳為正)「信玄全集」巻尾ノ記ニ云尾爛勘兵衛尚縄(後改景憲)トアリ、武者修業ノ志アリ、文禄四年(或為天正十七年者非ナリ)髺警遺書シテ出奔ス(大坂御陣御旗本ニ帰参ノ事、詳諸録者不贅之)武田ノ旧臣遺老今在他家者或ハ潜居草間者ニ諮問シ、其秘奥ヲ学ビ得テ遂ニ武田流ノ兵学ヲ興復セリ、「信玄全集」云天文十二年癸卯(1543)七月、武田晴信被足軍師之作法箇条云云伝授、一ハ広瀬郷左衛門景房、二ハ辻弥兵衛盛昌、三ハ小宮山八左衛門昌久、四ハ三科肥前入道形幸ノ物語ヲ聞伝フ、就中備ヲ早ク定ムル事ハ小宮山八左衝門、押太鼓ハ辻甚内盛次ニ伝授ス、慶長四己亥(1599)年三月也、又云景貴意伝授ノ師ハ益田民部少輔秀成ナリ、元和四戊午年(1618)正月廿四日如件秀成ハ上板景勝ノ軍配者也、又高坂弾正が遺稿を補填シテ甲陽軍鑑ニ十巻ト為ス、
(按ニ信玄全集ハ蓋シ甲陽具閑ノ原本カ、毎巻ニ尾畑勘俵兵衛書之トアリ、軍艦ニハ高坂弾正書之ス、其文略々同シテ全集ニハ末書二十巻ヲ添タリ、軍鑑中ニ有石水寺物語、公事巻等実ニ当時ノ所記ニヤ、高坂ノ遺稿者蓋シ謂之ナランカ、軍鑑ニ云、高坂弾正死後ハ春日惣次郎書続之又高坂ノ同心外記孫八、信州人西条治郎、小幡下野、三人在越後書之トモアリ、或人ノ云軍鑑ノ梓行甚夕多シ、甞テ校合十八種各々少異アリ、但シ明歴板ナル者ヲ為上古由ナレハ、後世兵学ノ盛ナルニ及ビテ、其書ノ行世事知ヌベシ、而シテ其書雖多違事実今容易ニ論可否ベキニ非ズ云々)、
景憲所著ノ兵書ハ龍虎豹ノ三品結要本末書等アリ、兵法海内ニ行ハレ従学ノ者挙ケテ計ルベカラス、北条安房守氏長(氏長ハ北条左衛門大夫氏重ノ弟新左衝門繁広ノ男ナリ、氏長ノ男ハ安房守氏平福島伝兵衛信景ナリ)山鹿甚五衛門義矩ノ輩傑出シテ遂ニ景憲ノ名ヲ唱揚セリ(山鹿氏ハ宇都宮ノ庶流ナリ、義矩初メ氏長ノ家人秀文学達兵琴後浪人一家世ニ云ウ山鹿流甞著聖教要録有罪諦播州赤穂於役地死凡排宋儒説唱古学者以義短為先鞭ト云々、世ニ山庶流十八部トイウ書名アリト聞ケリ、恵林寺ニ有景憲石塔銘云「倍叟院無角通年居士、寛文三年(1663)二月十五日孝子又兵衛正之(田野景徳院ニ立ツ牌此ニハ殊光院トアリ)

藤十郎昌重 (景憲弟)

 文禄元年(1592)被召出一同二年於肥州名古屋夭ス、年十六(景憲家譜ニ見エ而不云弟今推年齢記之)

伝五郎縄松

実ハ横田甚石衛門ノ末子ナリ、景憲無之故養之、云横田ハ景憲ノ従兄弟ナリ按ニ小幡氏ノ事古人ノ云本州一二種ノ小畑氏アリト、景憲ノ家譜、家家閑談等ニ所記ハ、上州ノ小幡氏来属セシ時信玄命シテ改小畑為小幡然レトモ軍鑑等始ヨリ小幡日浄、日意下記シテ無ニ一小畑字所在蔵ムル文書ニ小幡又右兵衛卜記シタル者問々見エタルニ、寛永中景憲ガ景徳院ヘ往復ノ手簡数通皆尾畑卜記シタリ、信玄全集ニ記スル所モ同之然シテ、子孫ハ即チ小幡ノ字ヲ用ヰルナレバ小畑、尾畑、小幡共ニ異儀ナシ、通訓ノ故ニシテ他ニ云ヘル例ノ如シ必ズ泥ムベキ事ニ非ズト見エタリ、小畑上総介等ノ事ハ先方部ニアリ。

武田武将 多田淡路守満頼

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武田武将 多田淡路守満頼

(諸録誌記名雪ノシ一本満撃存ル未詳)軍鑑ニ始メハ三八、生国美濃、足軽大将四人ノ一ニシテ、武篇ノ場数二十九度ノ証文身ニ二十七創アリ、嘗テ信州虚空像山ノ砦警固ノ時、火車鬼ヲ斬リタリト、豪傑ナリ、永禄六亥年(1563)十二月病テ逝ス。

多田三八信蔵

 「軍鑑」ニ淡路ノ男、又作ニ新蔵、父ニ劣ラヌ人ナリ、長篠ニテ討死(伝解作ニ新蔵岳記作久一)久蔵ハ田野郷殉死ノ牌ニ「円応寒光居士」トアリ、次子ナリヤ否(三国志ニハ長篠ヲ三八、田野ヲ新蔵ニ作ル)「武隠草話」ニ長篠ノ役ニ一虜アリ、面縛シテ信長ノ前ニ至ル、容貌非常人詰姓名ニ菱田久蔵ナリ、信長云、濃人ハ旧故アリ、自今我ニ仕エヨトテ、長谷川藤五郎ヲシテ解縛シム、久蔵忽チ傍人ノ長柄ヲ奪ヒトリ、擲倒十数人大ニ噪(サワ)ギテ終ニ殺戮セラレシト云云、「四戦紀聞」ニ長久手役ニ多田三八昌俊トイウ者ヲ記ス、系譜未聞。

多田冶部右衛門 

「軍鑑」ニ足軽隊将、騎馬□卒十人(伝解廿人)一見ユ蓋シ淡路ノ族人ナルベシ。
 

武田武将 高田備中守高松

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武田武将 高田備中守高松

家乗ニ江州佐々木ノ一流次郎兵衛義綱上ト云、始メテ横田氏トス、五世ニシテ高松本州ニ来奔ス、家紋四日結ノ割リタルナリ、釘抜ニ似タリ、又六本ノ箭車ヲ用イ、「軍鑑」ニ云本国伊勢人、足軽隊将、騎馬三十、卒百人ヲ統領ス、
場数三十四度、身二三十疵アリ、食邑三千貫ニ至ル、信州砥石ニテ戦死セリ、「勝山記」ニ天文十九年(1550)九月朔日、横田備中守始メ随分ノ衆千人計討死メサレ候トアリ(「軍鑑」ニ戸石ノ戦ヲ十五年三月十四日トスルハ非ナリ)

同十郎兵衛康景

(信州下ノ郷起請文ニ名押アリ、「家乗」綱松トセリ今従手書)軍鑑ニ実ハ原美濃守ノ長男ナリ、初名ハ彦十郎為ニ備中守嗣本部ノ兵将タリ、識量有リテ勇略超人、凡辺境ノ番手或ハ先鋒ノ土大将ニ差添ヘラルルハ、加勢ノ足軽隊将卜云、横田十郎兵衛、城意庵等、其右ニ出ツル者ナカリキトナリ、天正三年(1575)五月二十一日、長篠ニ戦死ス、年五十一、
(「四戦紀聞」備中守忠豊、信長記為備中守「編年集成」十郎兵長之、「異本徳川記」備中守、十郎兵衛二人討死トス、「古戦録」為守重、壬午記載ニ守豊者、「烈祖成積」作ニ重量汎々トシテ皆所レ徴ナシ)府中清運寺過去帳ニ二廿一日法入(横田於長篠討死)清運(同上)ト見ユ、寺記ニ清運ヲ十郎兵衛ナリト云伝へタリ、法人ハ末知何人或ハ二人為討死者蓋シ有所見カ、又後ノ書ニ横田次郎兵衛トアリ、始末ヲ知ラズ、北越ノ記録ニ永禄中横田源助ト云ウ者ヲ載ス末考。

横田甚右衛門尹松

(「三代記」光胤ニ作ル、「大坂軍記」尹植トモアリ未考)
十郎兵衛ノ男、始甚五郎名ハ勇謀父祖ニ相次ケリ、味方原ニテハ十九歳ナリ、天正壬午ノ時(天正十年 1582 武田滅亡)幕府ニ帰シテ御使番、「軍艦」ヲ勤ム、本州ノ人、初鹿野伝右衛門、城和泉守、真田隠岐守(「滋野世記」等云即チ加津野市衛門也)屋代越中守卜同列ナリ、清運寺ノ牌ニ「二覚誓院無言道本居士」、善光寺ニ建ニ石塔銘ニ「無言道本居士(天正十二年(1584)三月逆修)牌子ノ背ニ、本来の空にひとしき無縫塔これを名つけて無言道本寛永十二乙亥年(1635)七月五日卒ス、按ニ年八十、子孫幕府ニアリ。
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