素堂の嫡孫、素安について 素堂号の行方
甲斐遊侠講座 武居の吃安
世紀の大脱走に成功した 甲斐侠客伝説の男 武居の吃安(どもやす)
(詳細は下記の書で)
吃安は久八の世話て20人ほどの子分を連れて、
江川太郎左衛門の指揮下で反射炉をつくる作業
をやっている。 (『東海遊侠伝』)
参考資料 『流人の生活』 大隅三好氏著 雄山閣刊 『東海遊侠伝』 中沢正氏著 雄山閣刊
「ども安」の島抜け(『流人の生活』)
千に一つといわれる破島の数少ない成功を、見事にやってのけた、いま一つの例が新島にある。講談などでよく出てくる甲州の博徒「ども安」こと武居の安五郎の島抜けである。
彼の新島流罪は嘉永4年(1851)で、同じ博徒小金井小次郎が三宅島に流されたのより5年早い、40歳のときであった。
博徒の親分などという者には立派な人間なんかいない。全部よごれて汚い、国定忠冶にしても清水の次郎長にしても五十歩百歩だ。「ども安」などもその点決して人後に落ちる人物ではなかった。天保8年(1837)同じ甲州の博徒紬の文吉と身延山で喧嘩して、二人とも捕えられて中追放になり、天保12年(1841)、弘化2年(1845)と引き続き、お上の厄介になって、弘化2年の逮捕では重追放になっている。彼が遠島になる直接の罪科は、追放の身で、多くの子分を引つれ天城山を越えた、お上を恐れぬ不届な所業となっているが、つまるところは平素の積み重ねた悪業の結果といわねばならない。
新島に流された安五郎が、いつごろから島枚けを計画したかはっきりしないが、流されてから2年目の嘉永6年(1853)6月、一味に引入れた6人の仲間と一しょに決行している。6人の仲間はいずれも博突渡世の無頼漢ばかりだった。
その夜は島の年中行事「凧あげ」の前夜、島民はそれに気をとられていた。一味は、先ず三手に分れて、船を奪い、水先案内に漁師を捕え、名主宅を襲って鉄砲を奪う。安五郎は鉄砲の方を受持った。
彼は名主宅を襲うと、病気で寝ている名主を殺し、子女を傷つけ、納屋に火を放つといった惨虐をあえてし、鉄砲を奪いとったが、急を知った島民にに騒ギ出され、弾丸は手に入れることが、できず、別組が奪った船に飛び乗って沖へ漕きだした。船には島民が二人拉致されていた。
安五郎の悪運はまだついていた。普通ならこの辺で、舵をとられたり、追手においつかれたりして失敗に終るところだが、彼等は首尾よく海を乗りきって、伊豆半島の網代(あじろ)海岸に到着した。島の漁師を水先案内に拉してき周到さがものをいったのだ。
一同は船をおり、朝飯の用意にかかった。終夜の重労働に腹も空いていただろう、流人共が食事に夢中になっている際に、二人の漁師は船に飛び乗り死に物狂いで沖へ漕ぎ出した。漁師はたまたま通りかかった回船にに救いを求め、韮山の代官所に訴え出る。
海岸で地団駄を踏んだ悪党どもは、長居は危険と人目に立たないように散り散りに別れて姿を消した。まもなく一味の一人は捕えているが、悪運はまだ安五郎の背中から離れない、彼は再び甲州の地を踏んだ。
安五郎が遠島後、彼のあとをうけて勢力を張っていたのは黒駒の勝蔵だった。勝蔵は黒駒村の名主の息子で、安五郎のもと子分であった。安五郎は勝蔵のもとに身をよせた。勝蔵には元の親分だ、かくまわないわけにはいかぬ、かくまった。このため勝蔵も島破りと同罪の身となり、流浪の身となるが、それはまだずっと後の事になる。
安五郎が悪運つきて捕えられたのは文久2年(1862)だから、島を破ってから十年も経っている。その間彼は勝蔵のもとで息をひそめて隠れていたかといえば、必ずしもそうでないらしい、講談などによると彼が「武井のども安」としイ売り出すのはこの期間にになっている。島破りり大罪だけでなく、名主まで殺している凶悪犯が、十年問も堂々と闊歩しているのはおかしい。もともと甲州は甲府勤番支配地、役人そのものが山流人様同でやる気がなく、地理的には山ばかりでかくれ場には事欠かないかもしれないが、それだけでは説明はつかない。しかし、ども安は10年間捕えられないで、堂々と生きている。当時の警察制度の不備を見せつけられるような気がする。
しかし悪運の尽きる日はまた、文久2年(1862)10月6日、用心棒に雇っていた浪人某の密告で捕えられ、再び娑婆の空気を吸う事ができず、拷門責めで責め殺されてしまった。安五郎が捕えられると、捕吏の手は黒駒の勝蔵にも迫る。彼は甲州を逃げ出し、安五郎を売った浪人を捜しだしてたたき斬り、ついでに目明しも殺し、甲、信、駿、遠の間を彷徨し時には山賊まがいの悪事まで働いている。
当時、駿河では例の清水の次郎長が売出し中で、流浪の勝蔵と対立、やがてそれが荒神山の血闘などに発展するがこれは余談。
『東海遊侠伝』 中沢正氏著 雄山閣刊
134頁~
(略)けれども博奕は天下の御法度、いつも目溢しがあるとは限らない。吃安が、賭博常習犯で捕えられたのは天保10年(1839)2年後の天保12年には、津向の文吉と喧嘩をやって、吃安は三宅島へ、文吉は八丈島へそれぞれ遠島の刑、つまり両成敗。文台はそのまま遠島20年、維新の大赦で甲州へ帰ったのだが、吃安は1年足らずで帰ってくる。
文吉との喧嘩ては、石和の代官の支配てなく、韮山の江川代官の手の者だった。弟分になっていた伊豆の大場の久八が、韮山代官に働きかけたものたろう。記録によれば、この後、吃安は久八の世話て20人ほどの子分を連れて、江川太郎左衛門の指揮下で反射炉をつくる作業をやっている。この時、吃女32歳。この後の2、3年が吃安こと竹后の中村安五郎の全盛期てあったといえる。
二度目の遠島
それより9年の後、吃安は2度目の遠島になる。この時は新島送りで、その原因というのが二つある。一つは、真偽の儀左衛門という者が、弟分の久八を縄張り上のことから背後から斬りつけて重傷を負わせた。これを知った吃安が、石橋山佐奈田神社の高市て儀左衛門を斬り殺して弟分の仇を計ったが、小田原て梯子攻めで捕えられたという、説。いまいま一つは、天城の山中を子分たちにおだてられて大名行列の真似をしたために捕えられたとの説、どちらが本当かわからないか、吃安は同年の4月10日に新島へ送られている。
流人証文 新島
覚
新島江
無宿安五郎
亥四十歳
その他省略して合計十一人
名者新島江流罪被仰付
御老中御文我等方江被下候間 右拾壱人此証文ニ引合セ
御船手警護之方ヨリ党人取之其島江可差置候 以上
嘉江四亥年三月 江川太郎左衛門
新島
地役人
神主
名主
年奇
自分の指揮下で武居一家を使役していたのに、新島へ遠島にした江川太郎左衛門という男もなかなかの食わせ物て、吃安が甲州一円は無論のこと、伊豆・三島・小田原などに縄張りを増やし、目の上の瘤の存在となったために、利用するだけすると、わずかなことを種に遠島にしてしまったものと思われる。江川太郎左衛門の文配下なら助けようと思えば助けられた筈だ。大名行列の真似をしたという説など全くの作り話して、弟分の仇を討つため真鶴の儀左衛門を殺した説のほうが本当でだろう。こんどは一年や二年の遠島ではない
、新島への遠島は終身刑だ。だから吃文は島抜けを決行するのだが、在島説も異説があり、磯部氏の『吃安親分島抜記」や子母沢説には在島三年説がある。けれども、黒駒勝蔵の捕えられた時の口述書にもあるように、安政3年税が正しいと思われる。
甲州八代郡上黒駒村百姓舟嘉兵衛伜 元第一遊撃隊 池田勝馬 申し口 四十歳
わたしは百姓嘉兵衛伜で先名は勝蔵といい、父の許におりましたが、安政3年7月 逃げ出し、竹居村甚兵衛の子分になりました。同人弟安五郎は賭博を専業としてい た罪により流刑になっておりましたが、同王牛八月逃げ帰りかくれておりまする間、 同人と一緒に交り…。
勝蔵が明治4年に描えられた時の口述書てある。前述したように、吃安遠島中の武居一家は、兄の甚兵衛と、後に二代目となった田家の惣太郎か代っって一家を守っていたわけだ。勝蔵が武居一家の子分になったのは二十五歳の時だったのは前記のとおり。そうして吃安はこの時46歳?度々触れるように、吃安の在島説も色々あり「また、島抜けするまての吃安の行動などは明らかでない。
けれども勝戚の口述書は信頼出来ると思われ、彼は、安政5年(1858)と申し立ている。紀録によれば、安政正5年6月8日、仲間六人とともに島抜けを決行している。海を渡り甲州竹居村に帰りつくの2カ月をようしたわけだ。吃安らの島抜けについては、磯部氏の『吃安親分島抜記』に詳細に述べられているのて省略する。吃安は、仲間と別れ大石を越えて中芦川に至り、子分の孫兵衛の家て身体を休め、武居村の帰ったとも、伊豆に出て大場の久八の處に匿われれた後」下古田に入り、長兵衛に匿まわれ、一時ではあるけれども河口湖漁師小屋に隠れ住んだともいわれ、どちらも本当にように思える。
吃安が竹古村に逃げ帰り、百姓屋に転々と移り替わって匿われていることを、石和の代官所は知っていたが、簡単に手が出せない。吃安が島送りになった頃より一家は大きなっていた。
八代郡はおろか、既に長兵衛も老境に達し、替って吃安の縄張り内となって吃安の身内が預かっていた。
甲府は無論大きくいえば甲州一円吃安の息のかからぬ博徒はいないといった調子、吃安を捕縛しようとした代官を驚かせた。驚いたのは吃安自身も同様で、隠れ住んでいるとはいえ、こそ泥が物置に潜んでいるのとはわけが違う。武居村内を大手を振って、歩き、女の許へ通うといった大胆不敵な生活を続けていたのである。
次郎長が、子分の掛川の政吉に様子を探らせようとして忍ばせたのも、大五郎(法印)が武居村(生まれも育ちも二ノ宮村・竹居村の北半里2キロ)から追い出されたのもこの頃のこである。
当時の吃安の身内は、先す伊豆大庭の久八を弟分に、上井手の態五郎・沢登の伴兵衛・一つ谷の浅五郎が四天王。黒駒の勝蔵・八代の綱五郎・塩田の大五郎・二階の弥太郎・鴬宿の武兵衛・上芦川の政五郎・岡野係左衛門・八代の伊之吉・八代の大亀(亀太郎)、それに女無宿おりは。これが十人衆。さらに、伊豆下田の安五郎・三州小中山のしめ造・伊豆本郷の金平(赤鬼の金平)・郡内では下吉田の進之助(長兵衛の火場所を吃安から預かる)・鬼神喜之助・八泙の角太郎・三河の亀吉(雲風の亀吉)などか火場所頭。後年勝蔵が平井を頼ったのも、亀吉が吃安の盃を貰ったいたからにほかならず、勝蔵と亀吉が兄弟分というのは双方上も」吃安の子分だったからである。その他の弟分、子分の持つ身内が甲州から伊豆一円に及び、三下まで加えればその勢力は實に三千人を越すとまでいわれた。
島送り以前の吃安の侠気か、甚兵衛・惣太郎二人の人柄か、島抜けをやってのけ生まれ故郷で、堂々と生きている吃安の度量に惚れこん集まったのか、その辺のことはわからない。云々
山梨文学講座 山本周五郎の出生地と本籍地 2
前編に続いての資料、著作年月日がだいぶ経過しているが、
著者の資料収集が進んでいることがわかる。
<著書紹介>
資料…… 『山本周五郎』
「新潮日本文学アルバム」
昭和59年(1984)
編者 評伝 木村久邇典
山本周五郎(本名 清水三十六しみずさとむ)は明治三十六年六月二十二日午後十一時、山梨県北都留郡初狩村八十二番戸(現、大月市初狩町下初狩二百二十一番地)で、父清水逸太郎、母「とく」の長男として出生しました。
清水家はもともと北巨摩大草村若尾(現、韮崎市大草町若尾)の豪族で、先祖は武田家の御倉奉行をつとめた清水大隅守政秀という武将であったとの伝承があり、清水一統はかたくその言い伝えを信じ、誇りとしてきた。政秀は主家滅亡に際し、再興の軍資金を擁して武田発祥の地に近い若尾の里に帰農した……というのである。
事実同家の土地台帳抹消簿によると、旧屋敷の面積は四百坪ちかく、邸内には苔むした四基の五輪の塔が現存している。甲州では、五輪塔はしかるべき身分の家でなければ建てることを許されなかったとの由だから、豪族の末裔であるとの山本周五郎のプライドは、必ずしも自己催眠的な架空の環境設定であったと否定し去るわけにはいかない。ただ郷党の一部では、清水政秀の名は武田二十四将のなかにも見当たらず、清水家そのものが、近隣に親類縁者の少ないことなどをあげて、生え抜きの若尾住人ではなく、他所からの「流れ者」ではあるまいかと、とする人々もある。
明治十年代、三十六の祖父伊三郎のころから次第に家運が傾き、つぎつぎに土地を手放して、下初狩へ移住した。二十二年頃と推定されている。
移転の理由についてもいくつかの推測があるものの、伊三郎の姉の「まつ能」が当時、八田村(現南アルプス市)夫の周作とともに初狩に移り住み、土地の素封家奥脇賢造方の長屋を借り、なんとか生計を立てられる状態になっていたので、弟の伊三郎一家にも初狩移転をすすめたというのが、最も説得性に富んでいるように思われる。奥脇家も世話好きの人柄で、斎藤まつ能と同番地にある長屋への入居を伊三郎に許した。
ここでも伊三郎は、若尾時代と同じく繭(まゆ)の仲買いや諸小売り、馬喰などを業とした。奥脇家が機織りを営んでいたのも、伊三郎には好都合なことであったろう。
三十六の父逸太郎は、伊三郎の長男で明治十一年の生まれである。初狩小学校を卒業後、父とともに家業にしたがううち、兄嫁と折り合いが悪かったため、山梨県龍王町(現甲斐市)から奥脇家の機工場へ働きにきていた坂本とくと知り合い、たちまつ若い二人は恋に落ち、とは三十六を身籠もった。
逸太郎もとくも同年の二十五歳であった。しかし男女の恋愛がふしだらとされた時代だったためだろう。伊三郎は両人の結婚をかたくなに認めず「とく」を清水家に引き取ることも拒否した。
伊三郎の姉「斎藤まつ能(の)」も奥脇の機工場で働いていて「とく」の気立てがよくまたしっかり者である点を買い、かねて親切に面倒をみてやった。彼女は伊三郎夫婦に結婚を認めるようにとりなしたが、頑固に拒絶しつづけるので、「とく」を自宅に入れて出産させることにした。だが伊三郎らへの気兼ねもあり、自家の物置きを応急の産室に当てがったという。
この事実を私が知ったのは三年前(昭和五十六年)龍王町(現甲斐市)居住斎藤三九馬(まつ能の孫で、三十六とも親交があった)の談話からであるが、山本周五郎の晩年におけるキリスト教への激しい傾斜などを思い合わせ、異様な感動にとらえられたものであった。
いかに反対したとはいえ、血のつながる孫が生まれてみると可愛いのが人間である。伊三郎は直ちに赤児の入籍をみとめたし、家主の父奥脇愛五郎が、生年(明治三十六年)にちなんで、三十六(さとむ)と命名した。
現在清水家には、伊三郎、さく夫婦、逸太郎、とく夫婦の面影を伝える写真は一葉も遺されていない。幕末から昭和初期までは、むやみに肖像を撮影すれば、かげが薄くなると、本当に信じ込む人のいた時代である。
斎藤三九馬によれば、逸太郎の風貌は、晩年の周五郎によく似ており、周五郎の回想では、母のとくは現役時代の横綱佐田の山(現、出羽の海)にキリッとしたところが共通していたという。
明治四十年八月二十五日御前八時、下初狩地域一帯は、数日来の大雨による、寒場沢からの鉄砲水に襲われ、土砂は国鉄中央線の軌道をこえて押し寄せた。
このため、奥脇家や付属の長屋も倒壊し、清水家では一瞬のうちに、祖父伊三郎、祖母さく、叔父粂次郎、叔母せきを喪った。このとき逸太郎と「とく」三十六らは隣町の大月町(現大月市)駅前の運送店の二階に別居していたので、幸いにも災厄を免れることができた。
だが伊三郎歿後、清水家には奥脇家その他から借財326円がのこり、長男の逸太郎は翌四十一年五月に完済している。当時の300円は大金で、三十歳の逸太郎にとっては大変な負担であったに違いない。
かれはまた火炉辛うじて洪水から救助された七歳の異母菊蔵を養育しなければならなかった。逸太郎家の経済的な貧困はこれらの事情も重なってその死に至るまでつづき、三十六(周五郎)もまた貧困の中に生長することになる。
山本周五郎の回想によると、山津波のとき、父は女をつくって東京に出ていったとの話だが、正確な時期は分明でない。
山本周五郎の名前は、処女作『須磨寺付近』を投函するとき、居住・氏名を木挽町山本周五郎方清水三十六と認(したた)めたのだが、事務上の手違いからか、作者名を「山本周五郎」として公表されてしまったため、以後恩人の名をペンネ-ムとしたとの山本の直話である。 云々
富士浅間明神(上吉田村)詳細
富士浅間明神(上吉田村)
○ 諏方ノ森ニアリテ除地六段八畝弐拾四歩
○ 例祭四月初申日社主小佐野伊勢、御師八十六家
○本殿(梁弐間五尺、桁間、高三丈六尺)
元和元年(1615)烏居土佐守、再建延宝六(戊午)年(1678)秋元摂津守、修造、後、藤原光清と云う者(江戸人)本願として再建、享保十八年(1733)造営、元文三年(1738)三月落成
○幣殿(梁三間弐尺桁弐丈八尺)
○拝殿(中央間梁三間弐尺桁弐丈七尺、両脇間梁桁各弐丈七尺。元和元年(1615)本殿と共に造営、慶安二年(1649)已丑秋元越中守富朝修造、後本殿と共に光清修造)
○本殿玉垣(三丈五尺左右同)
○神楽殿(方三問半拝殿の前にあり)
○闇神門(梁三丈壱尺五寸桁弐尺)
○石玉垣(左右各拾間)
○護摩堂(方三間闇神門の右にあり。鶴島村法性寺持。毎歳四月初中日護摩修法あり)○鐘楼(堅弐問弐尺壱寸横弐間四尺五寸五分、洪鐘寛文八年(1688)秋元摂津守寄附、銘別記古鐘あり。元和五年(1619)烏居土佐守成次寄附銘別記)
○水盤石(幅六尺弐寸長九尺六寸屋柱ノ問弐間半、三間神楽殿の東にあり。この水、富士山下「泉津」と云う地より湧出す。此二至テ弐里余引来る。銅龍盤上ヨリ水を吐く)○額殿(縦四丈五尺幅壱丈五尺鐘楼の東にあり)
○斎浄所(七間に六間、拝殿の東にあり)
○台所(六間三間)
○神馬屋(神楽殿の西にあり)
○外石玉垣(縦四拾壱間横三拾七間)
○富士登山門(玉垣の西隅にあり、額字富士山横額、天和二壬申年(1682)八月朝鮮人春斉書、前に銅烏居あり)
○神輿屋(登山門の西にあり、三間四面今廃せり)
○末社八祠、富士権現(本殿の東南隅にあり、梁壱間弐尺桁弐間五寸。社記云貞応二癸未年(1223)平義時建立、永禄四年(1561)武田信玄造営)
○紀州明神(本殿の東にあり、梁三尺五寸桁六尺壱寸)
○太神宮(本殿の西にあり、梁弐間五尺弐分桁三間、社記云、文禄三庚申年(1594)浅野左衛門佐造立)
○山王権現(本殿の西にあり、梁弐尺三寸桁五尺六寸以下三祠同地にあり)
○高宮(梁弐尺三寸桁五尺三寸寛永十三丙子年(1636)九月新造の棟札あり)
○愛宕祠(梁弐尺八寸桁四尺九寸)
○天神祠(梁三尺七寸桁弐尺弐寸)
○地神祠(梁三尺桁壱尺八寸)
○天満宮(梁弐尺八寸桁四尺九寸神楽殿の西にあり)
大烏居(高五丈八尺両柱ノ間六間。
◇ 「勝山記」云、文明十二庚子年(1480)三月廿日、富士山吉田鳥居立つとあり。此時初て造立するか。将再建のことか不詳、
◇ 又明応九庚申年(1477)再建あり、寛文六丙午年(1666)秋元氏本願として再建、貞享五年戊辰年(1688)五月修造)
◇ 額(竪七尺五寸幅四尺七寸五分)文字三国第一山(曼珠院宮無障金剛入道二品親王良恕書、寛永十三丙子年(1636)二月十七日、秋元但馬守寄進古額あり、筆者不詳)
○烏居外末社八幡宮(梁壱間弐尺桁弐間五寸)
○秋葉祠(梁弐尺弐寸桁三尺七寸八幡ノ北にあり)
○庖瘡神(梁三尺壱寸桁五尺三寸)
○山王廿一社十禅師祠(今廃、寛永十三年(1636)の棟札存するのみ)
○稲荷明神(梁三尺五寸桁六尺壱寸烏居の西にあり)石橋長壱丈弐尺幅壱丈 壱尺二枚石なり)
○御手洗川(是より西行すれば下向通なり。弐町四間にして横町の端に出)
○仁王門(梁壱丈八尺桁六間下吉田月江寺持)金灯籠八対、石灯籠八拾三対、 随神門より御手洗川迄廿間、御手洗川より大門前まで三町五間。
○正殿絵馬弐枚(方四尺椿筆画)元和四年(1618)戊午五月、鳥居土佐守寄進同壱枚(竪四尺余横六尺「古松猿画」狩野常信筆、元禄元戊辰年(1688)秋元但馬守寄附)
○ 同馬画(狩野洞元邦信筆、元禄十一戊寅年(1698)戸田能登守忠真寄附)
○ 銅灯籠弐基、左従五位下行谷村侍従但馬守藤原朝臣秋元喬朝元禄十四辛己年(1701)春三月庚申日、右従五位下伊賀守藤原朝臣秋元尚朝元禄十四辛己年(1701)九月十六日、末社両伺、鐘楼、随神門、御供所、並に延宝六戊午年(1678)秋元但馬守修造、富士山北面之画一幅(竪五尺五寸五分横四尺弐寸)狩野法眼永真筆寛文十二(壬子)年(1672)秋元氏寄進、太刀一振(長弐尺五寸)長船経家作延宝八(庚申)年(1680)秋元但馬守寄附(折紙副)
○ 社後瑞垣の外に大なる古塚あり。「大塚」と号す。土人相伝ふ、是古社殿なき以前富士浅間遥拝の地に築く。後神祠をヲ創造し、「小室浅間明神」を勧請すと。正殿の左「富士権現」の社は則ち初め建立の祠なり。後世盛に正殿造立ありて、古祠を脇に移し置とぞ。
○ 社記に貞応二癸未年(1223)平義時建立とあるは、始めて勧請のことにや、再建立このにや、詳にすべからず。今に至りて、小室を上浅間と云う。此祠を「下浅間」と称するは、「本小室」と、同社の謂なりとぞ。又下吉田に浅間あり、是をば「下ノ宮浅間」と称す。
○ 五丈八尺の大鳥居は、冨士山の烏居にして、此社建立なき前より、建来しなるべし。「勝山記」に文明十二年(1480)庚子三月廿日、富士山吉田烏居立明応九年(1500)庚申卯月廿日、同鳥居立とあるは是也。「三国大一山」のノ額は寛永十三年(1636)竹内宮良恕親王筆跡にして、秋元氏の寄附なり。
○ 正殿・幣殿等惣て代々の領主建立にして、秋元氏に至り、別盛に造営あり。因て古は別当社僧を置く。
○ 武運長久の祈念不絶こと、古文書、旧記に詳なり。今唯神主耳残て、社僧は退転せり。
○ 護摩堂に、毎年四月初中日、鶴島村法性寺が来て、護摩修法あるは、少し古のかた存せり。
○ 宝永中、秋元氏封を遷すの後は、殿舎修造もただ民間産子のはからひとなせりける。
○ 近世、富士信者、「村上光清」と云う者、願主となり其徒の信者をすすめて、殿宇美麗に造営せり。毎歳四月初申日には、神主七日の斎戒にて、捧幣御師相列して神式あり。参詣の老若群集する。六月中、神主禁足神式あり。富士登山の道者、庭前に充満し、太々神楽日々ありと云う。
○ 往古より、此社中を「諏方森」と称るは、「浅間明神」勧請せざる以前より、「諏方明神」鎮座ある故なりと云う。古文書に「諏方森浅間明神」とあるは是なり。「勝山記」に明応三庚(甲)寅年(1494)吉田諏方大明神の神鐘、武州より鋳て登り、翌年鐘楼堂を建つ。四月棟上とあるも「浅間明神」のことなるべし。今は其鐘なし。按ずるに、元和五年(1619)鐘銘日昔年於干文時為烏有、とあれば兵火にかかりて失せけるなるべし。
○ 天文以来古文書拾弐通、神主小佐野伊勢の家に蔵する七通は、安永四年十一村と争論の時奉行所へ上ると云う内、
☆ 「小山田信有文書三通」、
☆ 「加藤作内家士文書壱通」
☆ 「武田晴信文書壱通」を蔵する。
☆ 「内部信濃守書翰壱通」、
☆ 「佐野将監蔵武田信縄願書」、
☆ 「武田信玄朱印」、
☆ 「武田勝頼書翰三通」ハ小佐野壱岐蔵、
☆ 「加藤作内光吉文書」壱通、同人家士文書壱通、
☆ 「烏居久五郎成次文書」弐通、「同人家士文書」弐通は雁丸外記蔵する。
○烏居土佐守成次文書壱通は佐藤越申蔵す。
○武田信虎文書壱通は菊屋豊後蔵す。
○鳥居成次文書壱通は芹沢大隅蔵
○加藤作内文書壱通、鳥居彦右衙門尉元忠文書壱通、鳥居土佐守成次文書弐通、同家士鈴木五左衛門書翰壱通、篠本枝右衛門文書弐通は小林豊前所蔵
○加藤作内光吉文書弐通、同人.家士文書三通は友屋右近所蔵
○小山田信有文書壱通、加藤作内家士森村石見守文書壱通、鳥居土佐守文書壱通、外に職原抄弐冊紙数六拾三枚巻尾に正平二年(1347)十二月朔日、権左中弁兼左近衛少将、源顕統とあり大小沢丹波所蔵
○浅野左衛門佐氏重文書壱通(松平美濃守家士連署壱通、羽柴少将秀家(家士文書壱通)、同人家士、三輪五右衛門尉文書壱通、鳥居成次文書弐通は小沢主水所蔵
○森村石見守興沼文書壱通、鳥居土佐守家士四人連署壱通は大田辺右近助所蔵
○光明房宿願果記板一枚は林河内所蔵
○鳥居土佐守文書壱通、同人家士連署壱通ハ大黒屋大和所蔵
○浅野左衙門佐文書壱通は大橘屋勘解由所蔵
○小山田信有悪銭禁制提書壱通は小沢幸之進所蔵
○武田信玄願書壱通は小沢隠岐所蔵
●小山田信有文書壱通
○同信茂文書壱通
○板部岡江雪斎文書壱通
○台徳廟賜鳥居成次御書壱通
○三好義継書翰壱通
○正木左近太夫時茂書翰壱通
○多賀谷安芸守へ政勝より与る文書壱通、
○高木豊前守書翰壱通、同文書壱通
○秋葉弥四郎書翰壱通
○篠本枝右衛門文書壱通
○新清兵衛書翰壱通
○源光通奉納物目録壱通
○永享元年(1744)六月、結城上野守基氏奉納、兜前立鏡壱面、菅家神影壱幅(筆者未詳)又、讃岐守秦安澄所筆と云ひ伝ふ太刀、行光作長弐尺弐寸五分
○元亀三年(1572)壬申閨正月、古吉田より今の地に、一村移住屋敷割之帳壱冊、巻尾に盛国在判
●天正二十年(1584)三月伝馬引附帳壱冊、巻尾に加藤作内、家士西田幸之丞印あり、以上(●~●まで)刑部伊予所蔵
○鳥居成次文書壱通は鷹屋治部所蔵
○同文書壱通は皮屋九郎左衛門所蔵
○同文書弐通、小山田信茂文書壱通は塩屋弥兵衛所蔵
○信茂文書壱通は槙田八左衛門所蔵
○浅野左衛門佐文書壱通、烏居久五郎成次文書壱通は梅屋庄右衛門所蔵
○同文書壱通は浅間房右近蔵ス
○ 以上、古文書並に書翰類六拾四通、師職之者六蔵之此内数通は附録に出余は略す。