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【石田 梅岩】いしだ はいがん

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【石田 梅岩】いしだ はいがん

『別冊歴史読本』江戸人物ものしり事典<その5>学問・思想の指導者30
中野三敏氏著(昭和54年当時、九州大学助教授)
 
貞享二年(一六八五)、丹波の農家に生まれる。通称勘平。名は興長。梅岩は号。
十一歳で京の商家に奉公、いったん帰郷して二十三歳の時、京の黒柳宏に奉公、以来二十年を徒弟・番頭として過ごし、その間独学に励む。三十五、六歳の頃、隠者小栗了雲に会い一心に開悟する所があった。四十五歳の時、京の自宅に講席を開き、後年いわゆる「心学」と呼ばれる独特の思弁を講釈し、以来著述や出講釈に明け暮れた。その主張は、聖賢の心を知るにはまず自らの心を知れという所にあり、「心学」の名称もこれによる。中心は朱子学だが、それに偏らず、人は皆その個別の姿そのままで普遍的な天道に繋がるものとして、「天人合一の理」と称した。そこには、封建的身分制を肯定しながらも、職能的平等性を主張、ひいては封建の範囲内でぎりぎりまで人間中心主義をつらぬいた彼の考えが見られる。著書は『都鄙問答』『斉家論』等。延享元年(一七四四)、六十歳で没した。

【貝原 益軒】かいばら えきけん

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【貝原 益軒】かいばら えきけん

『別冊歴史読本』江戸人物ものしり事典<その5>学問・思想の指導者30
中野三敏氏著(昭和54年当時、九州大学助教授)
 
宝永七年(一六三〇)、筑前福岡藩祐筆役貝原寛斎の四男として生まれる。通称久兵衛。名は篤信。字は子誠。初号損
軒。最晩年に益軒と改めた。
十九歳で出仕後一時浪人し、再度出仕して三十歳代を殆ど京に留学。広く諸師を訪ねて朱子学の勉強に励み、帰薄して
『黒田家譜』等の編纂を主宰した。七十一歳で致仕後は、いわゆる益軒十訓等を執筆。最晩年に至って朱子学の理気二元論を疑い『大疑録』を書く等、没するまで学問に対する情熱を保ち続けた。益軒は朱子学者だったが、林羅山と違って特に気を重視する立場をとり、経験主義的にその考えを推し進めた。また、山崎闇斎とも違い決してリゴリスティックな発想を持たず、習俗と儒教道徳との一体化に腐心した仁者でもあった。
主著に『慎思録』『大疑録』『大和本草』『益軒十訓』等がある。正徳四年(一七一四)、八十五歳の高齢で没した。

甲府市の山口家墓所は素堂家の墓ではない

小淵沢町文化財 中原遺跡

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小淵沢町文化財 中原遺跡

『小淵沢町誌』小淵沢町及び北巨摩の遺跡報告書
 
 八ヶ岳南麓標高九二〇メートルの尾根上にあるこの遺跡は、国鉄中央線の小淵沢駅北西約一キロメートル、中央自動車道小淵沢インター出口に位置している。
 国鉄小海線が小淵沢駅を出て、清里方面に向うため西から東へ大きな半円を描いたその中心にあって、古来より八ヶ岳の代表的な縄文時代遺跡として知られていた。北側にある井詰湧水はこの遺跡に直接関係をもち、八ヶ岳山麓の遺跡はこうした遺跡の近くにある湧水を無視することはできない。
 昭和七年発行の北巨摩教育会郷土研究部編『郷土研究第一輯、先史原史時代調査』によれば、縄文時代の壺・要形土器・把手・土偶・耳飾り(滑車型)、石錐・石匙(いしさじ)、打製石斧・摩製石斧(いしおの)、石包丁・石棒・石剣・石皿などが発見され、それらの遺物は当時の小淵沢小学校や、地元の小尾森造・清水義邑らによって保管されていたことが当時の記録に残されている。
 現在その遺物は四散して行方がわからないが、その後有孔鍔付土器や大型深鉢土器が農耕中に発見され、井戸尻考古館に於いて復元展示されたことから、全国的にも中原遺跡の名はよく知られるところとなった。特に有孔鍔付土器は全国的にも最大規模のもので、胴を飾る文様はマジカルで特異のものである。
 昭和四十七年十一月より十二月の二か月間、中央自動車道建設用地内の発掘調査が県教育委員会によって実施された。調査区は遺跡北側の東西二〇〇メートル、南北五〇メートルの約一万平方メートルである。この中から縄文時代中期住居跡九軒、同後期住居跡一軒、平安時代住居跡三軒、縄文時代土墳、配石遺構などが検出された。縄文中期の住居群は東群と西群に分かれ、あたかも対略しているようであるが、分布調査の結果では、調査区南側の広い区域で両群は結びあって、大きな半円形をなした集落で奉ったと想像される。
 特に南側からは中期中頃の大きな土器片や石器が表面採取できることから、古い時期に南側に住んでいた人々が、住居を建て替えるたびに北側へ移り住んだとも考えられる。また、古い資料によれは後期晩期に多く使用された滑車形耳飾や石剣が出土していることからも当時の集落が想定される。これは八ヶ岳南麓の縄文時代集落跡として最も代表的な遺跡と言える。さらに、平安時代の住居群が発掘されたことによって、この時代に八ヶ岳山麓に住んでいた人々の足跡を知る上で重要な遺跡である。
 

神話伝説からみた八ヶ岳(「長坂町誌」より)

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神話伝説からみた八ヶ岳(「長坂町誌」より)
〔金生遺跡(大泉村)の祭祀遺構〕
八ヶ岳を見る二つの異なる視点八ケ岳南麓に住んでいた人々は、八ケ岳をどのように見ていたのだろうか。このことについて、金生遺跡(大泉村)の祭祀遺構に関連して、次のような二つの見解がみられる。
(1)『山梨の古代』(山日出版)
「かこう(花崗)岩製の立石があった。かこう岩は、このへんにはない。その性格は、もう一歩不明である。はるかに離れた釜無川あたりの石だが、いったい、ここまでどうやって運んできたのか、なんのためにこの地に立てたのか、わからないことだらけだ。
ただ、いえることは、金生遺跡の正面にツンとそびえ立つ地蔵ケ岳と、なんらの関連がありそうだ、ということぐらいである。大胆な推測だが、当時、地蔵ケ岳のウニストンピークを男性の象徴に見立てた子授け信仰があり、祭祀場である金生遺跡では石棒や立石を立てて、ここから地蔵ケ岳をよう拝していたのではなかだろうか。」

(2)山梨の考古学』(山日出版)
「配石遺構の南側には前期、中期、後期の堅穴住居止群があり、北側には晩期の敷石住居辻群がある。巨大な配石を「祭壇」と考えた場合、人々は雄大な八ケ岳を背景にした配石群の前で祈りをささげたのであろう。ところが、配石遣構が造られたのは晩期であり、その時期の住居は配石よりも北側、すなわち、祭壇よりも高い場所に営まれていると報告されている。祭壇を造った人々が、祭壇の内側、祭られるべき場所に住んでいたという矛盾がみられる。このため、祭壇は住居から見て甲斐駒ケ岳の方向にあることから、甲斐駒ケ岳を祭ったものだという説も生まれている。しかし祭壇は南側から祈るように造られているのは事実で、八ケ岳を神体山に見ていることは動かせない。
(1)の見解のように八ケ岳に背を向けて南アルプスに視点を置くのか、(2)の見解のように八ケ岳に正面から向かい合うのか、八ケ岳南麓の歴史を考える出発点において基本的理解に相違がみられる。
(1)からは縄文人や古代人の心の中には八ヶ岳への信仰の姿は消えてしまうか、または影は薄くなってしまう。当時の人々にとって生活のすべてを依存するのは、八ケ岳南麓の自然の恩恵や驚異なのであり、それへの感謝の祈りや畏敬の念をいだくのは八ケ岳の神にほかならず、(2)の説明が妥当な見解であろう。

〔八ヶ岳と富士山との対比〕
八ヶ岳と富士山との対比その八ケ岳について考えると、まず最初富土山との背くらべ伝説が思い出される。
「昔は八ケ岳は富士山より高かった。ある時富士山の女神の浅聞様と、八ケ岳の男神の権現様とが高さの争いを始め、阿弥陀如来に仲裁を頼んだ。如来は苦心して、八ケ岳の頂上から富士山の頂上に樋をかけて、水を流してみると富士山の方へ流れて行った。それで富士山の負けときまったが、女でこそあれ気の強い富士山は、くやしさに八ケ岳の頭を太棒で叩いた。すると頭が八つに割れて、現在のように八つの峰ができた。」『甲州の伝説』より(角川書店)。

(甲斐)禅宗憎の活躍

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(甲斐)禅宗憎の活躍
資料『山梨郷土史研究入門』山梨郷土研究会 山梨日日新聞社 平成4年(一部加筆)
【加賀美遠光】
 甲州の臨済宗寺院の初めは、遠光寺(甲府市伊勢町)縁起によれば建暦元年(1211)栄西の弟子の宗明を加賀美遠光が請じて創立したと伝える。
【蘭渓道隆】
 甲州に臨済宗を確実に布教したのは、これより六〇年後に人峡した宗の帰化僧蘭渓道隆である。蘭渓は北条時頼から厚い帰依を得て、建長五年に建長寺の開山に迎えられたが、旧仏教徒の迫害を受け文永九年(1272)と建治三年(一二七七)の二度甲州に流謫された。このおり甲府市板垣の東光寺、韮崎市の永岳寺を開き、建長寺派の礎となる。
【夢想国師】
 蘭渓によって甲斐国に点ぜられた臨済の法灯は、その寂後五〇余年、元徳二年(1330)夢窓が山梨郡牧荘
に恵林寺を創建するに及びその法流は甲斐国中に教練を拡大し、延いては全国を風扉するに至ったのである。
 夢窓は弘安元年(1278)四才のとき両親と共に甲斐に移住して以来、甲州は夢窓のふるさとであった。九才のとき市川大門平塩寺の空阿上人について出家、一八才まで東密を学び、その後諸刹を遍参して顕密画学を究め、更に建長寺の一山一寧に参究し、さらに万寿寺高峰頭日に就学して印可を受けた。のち洛中に天龍寺、相国 邱寺の中世を代表する二大本山を開き南北朝雨朝七代の天皇により国師号の特賜・追陽を受けた。禅僧として歴史上例のない活躍をみた夢窓が最初に開いたのが牧庄(牧丘町)の浄居寺であり、円熟した時代に開創をみたのが恵林寺である。それは夢窓のあと弟子の龍漱周沢、絶海中津など高僧が恵林寺の住持となると共に夢窓のあと京都五山文学双壁として輩出されるのをみても、五山文学は甲斐からと云っても過言でない。
【業海本浄】
 夢窓の禅に対して「夢窓門派の唱道と行蔵とは禅の本旨に非ず」と夢窓国師を批判したのが業海本浄である。
彼は文保二年(1218)明叟斉哲(御坂町正法寺開山)、古先印元(恵林寺住持)ら六人の青年憎が元に渡り、浙江省抗州府天目山において中味明本(普応国師)に参じ印可を受け帰国した。その後業海は武田氏の援助受け大和村木賊に天目山棲雲寺を創建し、師普応国師の峻厳な禅を広めた。
【抜隊得勝】
 塩山向嶽寺を開いた抜隊得勝は、康暦二年(1380)守護武田信成の外護を受け、塩山の南故に向嶽寺を開いた。これが後の臨済宗向嶽寺派の礎となった。抜隊の禅は厳しく、法灯派の僧房において厳格な生活を行ずるように「抜隊潰滅」を伝えている。一方、禅の教化にあっては庶民を対象に「塩山和泥合水」「語」など刻版してわかりやすく禅の世界を説いた。
【雪山玄呆】
 曹洞宗の当国に流布されるのは臨済宗よりおくれ、南北朝期から室町時代にかけてである。中でも西郡の領主大井春明によって請ぜられ来甲した雪山玄呆が正慶二年(1333)、師の明峰を開山として増穂町に南明寺を草創したのが甲州曹洞宗の始まりである。
【鶏岳永金】
 次いで法王派といわれる寒巌義尹の法流で鶏岳永金が都留市夏狩宝鏡寺を建て、郡内法王滝の拠点とした。
 道元と並んで曹洞宗の二祖と呼ばれる笹山の弟子峨山詔碩の一派、峨山脈が入甲し、後世最大の教団に発展した。
 関東方面の峨山滝の拠となった大雄山最乗寺を開いた了庵彗明の法嗣大綱明宗は甲斐の人であった。その法嗣吾宝宗燦の門弟の枯笑、雲岫、州庵の三僧は積極的に甲斐一円に布教をおこなった。
【雲岫一派】
ことに雲岫一派の甲州での活躍がめざましかった。雲岫は寛正元年(1460)に武田信昌の外護を受け一宮町中山広厳院を開創して中心道場とした。雲岫の門には山梨落合永昌院開山の一華文英、中道町上曽根の竜華院開山の佳節宗昌、都留市金井用津院開山の鷹岳宗俊の三傑がでて、それを俊英が引き継ぎ、更に歴代の守護や在地豪族の外護を受け雲岫派は甲州曹洞禅の最大の教団となった。枯笑宗英は文安四年(1447)に勝沼町小佐手の東林院の開基ととなり、ついで信濃滋野氏に招かれて祢津定津院を開いて布教の拠点とした。州庵は州安とも記す。永正九年(1512)に櫛形町伝嗣院を開創している。
 江戸時代にはいると徳川家康は武田関係の寺院を保護する政策をとり、武田家の菩提所である甲府市大泉寺とともに一宮町の広厳院を僧録所と定め、県内の曹洞寺院を統轄させた。享保年間(1716-36)の社寺取調帳によると曹洞宗は827ヵ寺あり、現在でも511ヵ寺あって甲州最大の教団である。〔清雲俊元氏著〕
 
 註
1)野沢公次郎「夢窓国師と恵林寺」『恵林寺略史』 一九八〇
2)柳田聖山「夢窓」『日本の禅語録』七 一九七七
3)『甲斐国社尼寺記』第二巻解説 山梨県立図書館 一九六八
4)関口貞通『向嶽寺史』向嶽寺 一九七二
5)古田紹欽「抜隊」『日本の禅語録』一一 一九七九
6)佐藤八郎「甲州曹洞宗解説」『甲斐国社尼寺記』第三巻 山梨県立図書館 一九六六

山梨県の歴史講座 鎌倉期の武田氏

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山梨県の歴史講座 鎌倉期の武田氏
資料『山梨郷土史研究入門』山梨郷土研究会 山梨日日新聞社 平成4年(一部加筆)

 治承・寿永の内乱とそれに続く初期の鎌倉幕府内の政争の過程で、鎌倉御家人としての武田氏の礎を築いた武田信光以降、南北朝内乱の過程で守護大名としての武田氏の礎を築いた武田信武に至る、鎌倉期の武田氏についての研究は、いわば武田氏研究における空白部分ともいえる。この期の武田氏研究の困難さは関係史料の絶対的な稀少性にあることは言うまでもないが、従来の諸研究が『吾妻鏡』や『甲斐国志』のみを利用してきたことは問題であり、また山梨県関係の史料に終始していたことも問題である。実際、広く鎌倉期の諸史料にあたってみると従来の諸研究では触れられていない人物の存在が確認されるのである。
また、信光から信武に至る世系を、暗黙のうちに武田氏の嫡流=甲斐武田氏の嫡流とみなしていた点も問題である。これは武田信玄に連なる世系が即武田氏の嫡流であり、同時に甲斐武田氏の嫡流であるという、いわば二重の信玄中心史観の表れといえる。
 鎌倉期の武田氏について述べているもののうち、以上の点からみて最も。通説〃的であるのは広瀬広一『武田信玄伝』(昭19、同43再)であるといえ、以後における研究はこの広瀬氏の成果をどの程度超えられるかという点てあるといえよう。
 その点において、まず挙げなければならないのは佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』(昭23、同46増訂版)である。佐藤氏はここにおいて、甲斐守護として武田石和政義を、安芸守護として武田信光・信時の二人を検出された。特に政義については、現在に至っても甲斐守護として確認しうる唯一の人物であり、また彼が信光から信武に至る世系に属さない信時の弟政綱に始まる武田石和氏の人物であることは重要であった。
次に河村昭一氏は『郷土資料安芸武田氏』(昭五九)において、安芸守護の武田氏についてさらに詳細な検討を加えられ、政義の甲斐守護在任と同時期に再び武田氏が安芸守護に在任していたことを明らかにされた。これらの守護研究によって、武田氏は甲斐・安芸両国の守護であったこと、そのうち甲斐守護としては武田石和氏の政義が、安芸守護としては信光から信武に至る世系が確認された。
 また、湯山学「『他阿上人法語』に見える武士(一)」(『時衆研究』六三号、昭50)において、鎌倉後期に武田石和総家(宗信)が伊豆守を受領し、北条得宗家の被官であったことが明らかにされ、その存在に注目された。これらを承けて黒田基樹「鎌倉期の武田氏」(『地方史研究』211号、昭63)は、甲斐・安芸守護、伊豆守の受領名の継承に着目し、鎌倉中期の信時の安芸下向以降、信時とその子孫は同国に在住して安芸守護職を相承する存在とみなし、これを、「安芸武田氏」と呼び、信時の弟政綱の家系(武田石和氏)は北条得宗家の被官として甲斐守護職に補任されこれを相承する存在とみなし、これを「甲斐武田氏」と呼び、両者の関係を惣領制規制から脱した同等のものとみなし、甲斐・安芸両武田氏の存在という設定を試み、また、伊豆守の受領者が武田氏の惣領を示すという推測をした。
 以上は、守護在任者を出した、信時から総武に至る世系と武田石和氏という二つの家系についてのものだが、この他『吾妻鏡』以外の史料によっても、甲斐甘利荘地頭信賢(武田岩崎信隆息)、安芸佐東郡地順奉継(同息)、和泉坂本郷地頭義奉(信時弟信奉孫)、等を始めとして多くの武田氏の一族が確認され、とりわけ武田一条氏と武田岩崎氏が注目され、今後はこれらをどう位置付けるかが課題となっているように思われる。
 また、室町期以降の守護大名武田氏の祖である信武の動向も重要で、これについては佐藤・河村両氏によって、信武は南北朝内乱の過程で武田石和氏と対立・抗争し、その結果甲斐守護に補任されていることが明らかにされ、黒田はさらに、信武は安芸武田氏の出身であり、そのことから信武の後安芸守護を継承した氏信を実名と伊豆守の受領名とから信武の嫡子であり、甲斐守護を継承した信或は庶子であること、すなわち信武の嫡流は氏信の系統(安芸、のち若狭武田氏)であることを指摘した。信武にはこの他に信明・公信・義武の諸子であったが、それぞれ甲斐守護代、幕府奉公衆、鎌倉府近習衆として確認され、そのこと自体、守護大名武田氏の成立を考える上で興味深いが、南北朝期には鎌倉期以上に多くの武田氏の一族が確認され、これらの位置付けによって、逆に鎌倉期の武田氏を照射することが可能といえる。鎌倉期及び南北朝期の武田氏についての研究は緒に就いたばかりといえよう。〔黒田基樹氏著〕

小淵沢町指定文化財、笹尾塁跡

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小淵沢町指定文化財、笹尾塁跡
所在地   北巨摩郡小淵沢町下笹尾七五四番地の一
所有者   下笹尾区
指定年月日 昭和四十一年六月十日
 
一、発掘調査による笹尾星跡
笹尾塁跡は、小淵沢町下笹尾字耕地久保に所在する。
本塁は釜無川左岸七里岩の急崖上にあり、東・西両側は釜無川に注ぐ深い浸食谷に、南側は七里岩の断崖になっており、自然の要害に恵まれたところである。
『甲斐国志』に
「…此處ハ七里岩上ニアリ、東西ハ深山峨々ト峙(そばだ)チ、南軍高岩壁立シ下ニ釜無川アリ此方僅ニ平地ニ接ス。湟(ほり)塁二三重ニシテ甚夕広カラス。左右ノ山腹ニモ塁形ヲ存ス」
とある。
 本塁は六つの郭からなり、東西八〇メートル、南北二六〇メートルほどの規模とみられ、周辺の地名、小
字名には、北に「馬場」「馬場の井戸」、東に「上屋敷」「東屋敷」「中屋敷」「御蔵屋敷」「掘の内」、さらに近接する上笹尾には「御所屋敷」「島屋敷」 福間田屋敷」「駒場」などがある。
 本塁の構築規模は、昭和五十三年八月『笹尾塁跡調査報告書』によると次のとおりである。
 本塁跡は北から三~四本の平行する堀、あるいは掘り切りを有し、それらによって四つの郭に大別される。第二の堀と第三の堀によって区切られる地区は、比高によってさらに二つに分れる。また、今回発掘調査を行なった土塁に囲まれた区域も土塁によって二つに分かれる。つまり、全体的には六つの郭と四本の堀から本塁跡は形成されていることになる。
 南の郭より北に向って順に一の郭~六の郭と仮称し、個々の郭について説明する。

(一・二の郭)

 今回調査した一・二の郭は、墨跡の南半で「く」の字状に曲がる一番目の堀以南の土塁に囲まれた郭である。この二つの郭は、位置や防備の状況から本遺跡の主部と考えられる。
 北・西・南に土塁を回した一の郭は、東西二〇メートル、南北四五メートルの規模で、南北に細長い。土塁の内側は平らで、土塁上とは二メートルまでどの差がある。東側には土塁は存在しないが、南側の土塁の東側を「L」字状に北へ曲げてあり、斜面には数段の滞郭を設置してあったようである。急崖に面した南側の土塁は上幅が広くなっており、この上に物見台があったと考えられる。
 二の郭は東西二四メートル、南北三二メートルの規模で、東側の一部(土橋寄り)から北側、西側に土塁が見られる。郭内は南側が若干低くなる二段構造で、この段差のところで東側の土塁は終わり、西側の土塁は屈折している。また、二の郭の北西隅の土塁の切れ間は虎口(入口)と考えられる。
 土塁が入れ違い構造をもっており、その内側には広場のような空間をつくっている。一の郭と二の郭の間の土塁にはさまれた虎口は幅三メートルで、一の郭側の土塁は特に高くなっている。二の郭側の土塁はまもなく終るが、一の郭と二の郭をつなぐ空間は非常にせまく、東側には土塁がなく不安定である。一の郭と二の郭の中心線はわずかに逆「く」の字に折れ曲っている。
(三郭~六郭)
 三の郭は第一の堀と第二の堀との中間にある東西六五メートル、南北一三メートルほどの区画で、現在は畑と一部水田になっている。東西に長く、西端が谷に突き出すような状況であるので、土塁の機能をもっていた このうち構築については文正年度(一四六六)小田切某が居城したとあるが、小田切某についての史料的根拠は不明であり、笹尾岩見守という人物も当誌以外にはみられない。さらに新羅三郎義光甲斐国司時代にさかのぼってみても、国司時代の抗争関係が明らかでない限り本塁を構築する必要性が明確でなく、いずれも伝承の域を脱しないものである。

(四の郭)

現在水田となっている。東西から深く台地に入りこむ小谷があるが、これが第二の堀と考えられ、三の郭の土塁の土で埋めて水田にしたと考えられ、東西五〇メートル、南北三〇メートルの地域である。

(五の郭)

四の郭の北で、四の郭より二~三メートル高い平坦地で現在は雑木林である。内部は緩傾斜をもつ自然地形と思われるが、中央部はやや平坦であり東西三〇メートル、南北五〇メートルである。また、東の崖へ突き出した尾根からは、一・二の郭や、谷底からの通がよく見える。

(六の郭)

「く」の字状に曲る長さ三二メートル、深さ三メートルの第三の堀と、直線状の長さ二〇メートル、深さ二メートルの第四の堀によって区切られた台形状をなし、東西二〇メートル、南北一六メートルであり、この郭が本塁跡の北限と考えられる。
 発掘調査によって明らかになったことは、土塁基底部に石積みがしてあり、出土遺物は雑器四三、土師質土器六三、溶融物付着土器二、磁器一、金属製品一、石製品一など一一一点である。

歴史と笹尾塁跡

本塁の成立年代についての資料としては、『北巨摩郡誌』には
「‥…天文二十一年蜂火を挙げたる場所にして、筑後守手勢を引連れて出張し笹尾砦手橋城柵を築きたりと云う、…武田の臣笹尾岩見守の居城なりと云う。文正年度武田家の臣小田切其の居城址なりと云う、武田家の祖先新羅三郎甲斐を領したりしとき他家より戦争防備のため臣下某の居城なりと云う…」とある。
 
笹尾塁跡が史実に登場するのは、上宮『当社神事記』の享禄四年(一五三一)の項の記述である。
享禄四年正月廿二日、甲州錯乱ニテ当方篠尾ニ要害ヲ立テ候テ、
下宮牢人衆ササヘラレ候、彼城モ廿二日夜自落、
此方本意ノ分ニテ、弥々武田万難儀
 
 武田・諏訪両氏の対立に享禄四年一月二十二日笹尾砦が使われたことを伝えている。
 武田家の信虎・晴信・勝頼三代の隆昌を築いたのは、信虎の国内統一であり、信虎は父信縄の死によって永正四年(一五〇七)一四歳で家督を相続したが、一族の中から反旗をひるがえす者がでるなど、国内外の諸情勢は多難であった。
 すなはち、叔父信恵父子・弟縄実それに郡内の小山田らとの対立があり、さらに一族の大井・栗原・今井・穴山などの反抗、それに北条・今川・信濃勢の侵入などがあったが、信虎はこれらの難局を打開して永正十六年(一五一九)居館を石和から躑躅ケ崎へ移し、国内の豪族諸将を城下へ集任させ城下町を形成するまでに権力を伸ばしていた。
 大永元年(一五二一)今川勢を飯田河原・上条河原で撃破し、
享禄元年(一五二八)には信濃へ侵攻して諏訪頼満・頼隆父子を攻撃、八月晦日に神戸・堺川の合戦で武田勢は敗走している。信虎の諏訪侵攻は、
永正元年(一五二一)甲府へ亡命した諏訪其の帰国をはかろうとしたものとみられるが、これによって信虎と頼満の関係は悪化していった。
 『勝山記』に
「学禄四辛卯、此年正月廿一日ニヲウ殿、栗原殿、屋形ヲサミシ奉テ府内ヲ引退リキ、ミタケニ馬ヲ御入候、去ル間、滴ノ信本モ御同心ニテ御座候、然レバ此人々、信州ノ諏訪殿ヲ憑ミ候テ府中ヘムカイメサレ候、河原辺ニテ軍サアリ、浦衆打劣テ栗原兵庫殿、諏訪殿打死ニメサレ候、打娘ル頭八百罰卜云々、其ノママ信州ノ勢ハ噂引申サレ候」
とあり、享禄四年一月二十一日重臣飯富・栗原の国人衆は、信虎を離れて同心の逸見今井信元を頼り、諏訪氏の援軍をうけて信虎を打つ計画であった。
 これよりさき信虎は永正十七年(一五二〇)六月、逸見・今井・栗原・大井の叛乱軍を破り、今川勢も撃退するまでに成長していたため、これに対抗するためには諏訪氏の援けを求めるよりほかなかったであろう。亨禄四年一月二十一日府中を退いた飯塚・栗原両氏は今井氏と合流し、西部の大井氏を加えて陣容を強化した。
 篠尾砦が当社神事記に出たのはこうした情勢下にあった時である。当時逸見今井氏は多麻庄を中心に勢力をもち、大八田庄地域は信虎の勢力下にあったとみられ、信虎は甲・信国境の守備を『当社神事記』にあるように、篠尾砦に諏訪下宮の牢人衆を詰めさせて、諏訪氏の侵攻に備えていたのである。
 諏訪氏は逸見今井氏と呼応して享禄四年一月二十二日甲州に入り、篠尾砦を攻撃したが、武田勢は夜闇に乗じて逃散して自落した。諏訪氏は「此方本意ノ分ニテ」と、この攻略は予定通り運んだとし、武田方は苦難に陥入ったとみている。
 しかし、武田勢は二月二日に大井信業・今井尾張守を破っており、四月十二日は前掲の『勝山記』のように、諏訪氏の援軍を得た国人勢に河原部(韮崎)の合戦で大勝し、栗原兵庫は打死し国人勢五百人、諏訪勢も三百人の戦死者を出した。さらに翌天文元年(一五三二)には、今井信元も信虎の軍門に降り国人衆の叛乱はあとを絶った
 篠尾砦の構築については、享禄四年の資料からこのとき築城したとみるのは早計で、それ以前からあり、たまたまこのとき使われたと考えられる。それは、谷戸城・深草城址を中心とした勢力の存在や、周辺に築かれていた中丸塁跡・若神子城跡・大坪城跡などとの一連の関係も充分考えられ、また、前掲の周辺の地名・屋敷などから在地土豪の砦としてもみることができる。
 こうして、武田信虎の国内統一のために篠尾砦はそれなりの役割を果しており、中世域舘跡として重要な意味をもっている。<山田清氏著>

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北杜市長坂町 菜の花畑 八ヶ岳

北巨摩郡武川村(むかわむら)現在は合併して北杜市武川町

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北杜市武川町の概要 歴史


(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)


【武川村の面積】


武川村 面積六〇・七八平方キロ


【武川村の位置】


郡西部の南端に位置し、西は南アルプスの鳳凰山を境に中巨摩郡芦安村、南は小武川を隔てて韮崎市、北東は釜無川をもって長坂町・須玉町尾白川をもって白州町に接する。


 村域内を釜無川・尾白川・大武川・石空川・黒沢川、北は中山・大武川・尾小武川が流れ、これらの河川の形成した河岸段丘や沖積扇状地は古代から中世初頭にかけて、甲斐三御牧の一つとして知られ、武川衆の根拠地となった。 


中世後期から近世以降開拓が進み、生産や居住の基盤になった。一方、水害にたびたび脅かされた。


近世初頭に甲府から中山道下諏訪宿を結ぶ目的で開かれた甲州道中(国道二〇号)が南東から北西に縦貫し、街村として宮脇・牧原・三吹がある。


 


【武川村の村名】


(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)


村名は昭和八年(一九三三)新富村と武里村が合併した時に、武川筋ということと大武川・小武川の流域に開けた村という意により命名された。


 


【武川村の遺跡】 


(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)


 大武川右岸の黒沢から山高を経て真原(さねはら)に至る高台地域には縄文時代の遺跡が多く、低位の釜無川右岸の段丘地帯では平安時代の集落が発達している。また小武川左岸の新奥には縄文・平安時代の遺跡が知られている。神代ザクラで知られる実相寺周辺には遺跡が多く、真原B遺跡からは草創期の有舌尖頭器が採集され、中期の土器も


広く散布している。隣接する真原A遺跡では部分的な調査ながら縄文中期五領ケ台式から新道式期を中心とした住居跡が十軒が発見されており、山高B遺跡や東原AB遺跡も含めこの一帯に集落が広がっていたことが推測される。


山高の再奥部には中期を主体とした真原遺跡群があり、真原A遺跡からは中期後半曾利Ⅱ式期の住居が発掘されている。黒沢から新奥にかけての地域にも縄文遺跡が所在する。とくに向原遺跡は前期から後期の遺跡である。弥生時代から古墳時代の遺跡は少ないものの、平安時代になると山高などの高台に加え、釜無川右岸の低位段丘面を中心に遺跡が多くなる。とくに三吹の宮間田遺跡では九四軒の住居跡、四五棟の掘立柱建物跡などが調査されている。同遺跡牧の経営にかかわる集落という見方もなされている。


 


【武川村、律令時代 真衣郷・真衣野牧】 


(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)


 律令時代には巨麻郡真衣郷(和名抄)に属した。真衣は牧に由来するとされ、古くから牧馬の成育地であったとみられる。平安時代には甲斐の三御牧の一つである真衣野牧が設置され、相前牧(現高根町)とともに朝廷に毎年三〇疋の貢馬が行われた。「吾妻鏡」建久五年(一一九四)三月一三日条に鎌倉の源頼朝のもとに駒八疋を送った甲斐国武川御牧がみえ、この牧を真衣野牧の後身とする説もある。


 


【鎌倉末期 武川衆】


(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)


鎌倉末期に甲斐守護となったと伝える武田(一条)時信は、武川筋の諸村に子を配したという。山高には信方が、牧原には貞家が入り、またのちに柳沢・知見寺・宮脇などにも支族が入ってそれぞれの地名を姓とし、近隣の教来石・白須・青木・山寺・折井・入戸野民らとともに武川衆とよばれる武士団を形成したという。その動向は明らかではないが、永享五年(一四三三)四月二九日、武田信長と結んだ日一揆と跡部氏についた輪宝一揆とが荒川で戦い、日一揆側が大敗するが(鎌倉大草紙)、同日付で「一蓮寺過去帳」に柳沢・牧原・山高氏らが載るから、この戦いに武川衆も参戦したことがわかる。


 


【戦国期時代の武川衆】


(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)


 戦国時代の武川衆は武田典厩信繋およびその子信豊を寄親としたといわれ、永禄一〇年(一五六七)八月七日の馬場信盈等連署起請文(生島足島神社文書)では、武川衆の馬場信盈・青木信秀・同重満・山寺昌吉・宮脇種友・横手満俊・柳沢信勝の七名が連名で六郎次郎(信豊)宛に誓紙を提出している。


しかし武田氏滅亡後に武田旧臣が徳川家康に提出した壬午起請文には、典厩衆のなかに武川衆は一人もみえない切で、武田勝頼の時代には信豊との寄親・寄子関係は解消されていたと思われる。


 


【武川衆、徳川へ臣属】


(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)


米倉主計助忠継・折井市左衛門次昌を介して家康に臣属した武川衆は(七月一五日「徳川家康判物写」寛永諸家系図伝)、天正一〇年(一五八二)六月織田信長が本能寺で討たれた後、徳川・北条氏が対決した天正壬午の乱で活躍し本領安堵された。


当村域にかかわるものは、


柳沢郷で柳沢信俊七二貫八〇〇文・小沢善大夫三貫文、


新奥郷で青木信時一六貫文・折井次昌二貫文、


宮脇村で米倉豊継一五二貫五〇〇文・同信継一〇貫文、


牧原で小沢善大夫に六貫文などである。


このほか山本忠房・同十左衛門尉・五味太郎左衛門・五味管十郎・折井次正・折井次忠・米倉定継・横手源七郎・曲淵彦助らの武川衆に与えられた所領は総計二千二四二貫文余に上る。


天正十二年の小牧・長久手の戦、翌年の上田城(現長野県上田市)攻めに参戦した武川衆は、伊奈熊蔵の検地によって天正十七年十二月十一日に七千三三五俵余の知行が認められるが(「伊奈忠次知行書立写」記録御用所本吉文書)、このうちには


宮脇郷四五八俵余


黒沢郷一八四俵余


柳沢郷一六〇俵


新奥郷二四五俵余


山高郷一八〇俵が含まれている。


さらに北条氏攻撃を目前に控えた翌年一月に加恩された二千九六〇俵のうちには、


山高郷四七八俵余


三吹郷二二四俵余


牧原郷一五一俵余


宮脇郷八四俵余


があり(「徳川家事行連署知行書立写」同古文書)、


折井次昌・米倉忠継に各四〇〇俵、


馬場信盈・曲淵吉景・青木信時・同満定に各二〇〇俵


のほか、一八名の武川衆に八〇俵ずつが加増された。北条氏滅亡後の同年七月家康は関東に移封され、それに伴い武川衆も多くが武蔵国に、一部が相模・下総国に移住していった。


 


【武川町、中世の遺跡】


(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)


中世の遺跡は非常に多く、地域的にも高台から低位段丘までほぼ全村にわたり、現在の集落と重なるかたちで分布する。山域では白州町と接して位置する煙火台としての性格の強い中山砦や、「甲斐国志」に星山古城と記載される


最奥部に位置する城郭も確認されている。いずれも武川衆とかかわりのある山城とみられる。


 


【徳川時代初期の武川衆】


(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)


 近世初期は徳川氏領で、知見寺越前(のち蔦木と改姓)、馬場民部・山高孫兵衛・青木与兵衛・米倉左大夫など武川衆は武蔵国鉢形(現埼玉県寄居町)から各旧領に復していた。慶長八年(一六〇三)徳川義直が甲斐国に封じられると、武川衆と津金衆二〇人が本領を給され家臣団に編入された。同一二年には武川衆・津金衆は武川十二騎と称


して城番を命じられ、二人ずつ交代勤番で付属した。


 


【徳川忠長と武川衆の動向】


(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)


元和二年(一六一六)徳川忠長が甲斐一円を支配すると、武川衆は大番・書院番などに組入れられて勤仕した。寛永九年(一六三二)忠長が改易されると、武川衆は一時処士となった。同一九年ようやく再出仕の恩命に浴し、もとのように旗本として復帰が許された。


山高信俊は山高本家信直の家督を継いで、万治二年(一六五九)二〇〇石加増、寛文元年(一六六一)采地を下総・常陸国の諸郡に移された。


一方、信俊の弟信保は父親重の跡目を相続しで山高村の高三一〇石余のうち二七五石余を知行した。万治三年土木技術に長じていたことを認められ駿河国の堤防工事を奉行し、寛文元年には石見代官を命じられ、石見銀山の支配にあたった。これまで支配した山高村の采地を、下総国相馬郡・葛飾郡のうちに移され、甲州とのつながりは絶えた(寛政重修諸家譜)。この時点で武川衆は本貫の地である武川筋の知行地を去った。


 


【江戸時代の武川村】


(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)


 江戸時代には七村があり、巨摩郡武川筋に属した。七村とも宝永元年(一七〇四)ないしは同二年に甲府藩領となり、享保九年(一七二四)から幕府領甲府代官支配となる。


牧原村と新奥村は延享三年(一七四六)から寛政六年(一七九四)まで一橋家穎であった。文久二年(一八六二)頃も七村とも甲府代官支配。河岸段丘の高地に位置する山高村・黒沢村・新奥村と、沖積低地に位置する三吹村・牧原村・宮脇村・柳沢村とに分けられる。河川は急流で平常は潅漑用水に利用されているが、豪雨時には大水害がしばしば起こった。


 


【武川村と河川の水害の歴史】


(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)


永禄年間大武川の氾濫により幸燈宮一帯が流失した。


享保十三年七月釜無川と大武川が氾濫し、三吹下組は集落のほとんどが流失、一二月高台の畑に屋敷割をし、四五軒が移住した。


寛政二年、文政一一年(一八二八)と大水害を被り各村では水災供養塔・九頭竜権現などを祀り安全を祈願した。


明治二年(一八六九)七月の水害も釜無川通り田畑流失二九町歩に及び、各河川周辺に被害をもたらした。


明治三一年九月の台風により上三吹七四戸が砂石に埋まった。


大正三年(一九一四)の大武川の氾濫も下三吹と牧原に被害を与えた。


昭和三四年(一九五九)八月に台風七号と九月に一五号(伊勢湾台風)により村域は大水害を被り、流失民家一二九戸、死者・行方不明二三人、流失農地一二〇ヘクタール、堤防橋梁のほとんどが換害を受けた。この災害復旧には四カ年の歳月と三五億円の巨費を要した。


 


【武川村生業、明治から大正~昭和時代】


素堂 1704 63才 しぼみても命長しや菊の底

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素堂甲申 1704 63才

『千句塚集』発句一入集。除風編。許六序。文章一編
 
吉備の中山の住除風子、ばせをの翁の風雅をしたひ、さざなみやあは津の原は遠き堺なれはとて、細谷川ちかきわたりに五十余里の地を縮て、あらたに塚を築て翁の句を礎となし、其里人千句のたくみを費しつくりたてて千句塚と申はべるとかや、そのまゝ埋ミはてなんも本意なしと、あづさにちりばめ、予をして一句をたむけよとすゝめられしに、吟魂は死してほろひさることを申をくりぬ。
 
 しぼみても命長しや菊の底   素堂
 
 
『千句塚集』…南瓜言卒)庵に芭蕉塚を築いた折の記念集。
除風…生年不詳~延享三年(1746)歿。年(十才前後。備中国倉敷の真言僧。素堂…『渡鳥集』発句二入集。卯七、去来編。
 
ちからなく菊につゝまるばせをかな 

芭蕉発句 蓬莱に聞かばや伊勢の初便り 元禄七年

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芭蕉発句 蓬莱に聞かばや伊勢の初便り 元禄七年

(『芭蕉句選年功』石河積翠園著 春の部 一部加筆)
 
発句集に元禄七年の句とする。
奥の細道に、春立てる霞の空に、関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂わせ、道祖神の招きあひて、取るもの手につかず、(下略)

 蓬莱に聞かばや伊勢の初便り

元禄七年の『炭俵集』に、前書、立春、とあり
○篇突に許六曰く、何れの春にや不覚、とあり
○『去来抄』に深川よりの文に、此の句さまざま評有り、汝いかが聞侍るやとなり、去来曰く、
「都古郷の便ともあらず、伊勢と侍るは、元日の式の今様ならぬに、神代を思ひ出でて、便り開かばや、と道祖神の胸中を騒がし給ふかとこそ承り侍れ」と申す。先師返事に、伊勢の知る人訪れて便り嬉しき、と慈鎮和尚の詠み侍る便りの一字の出所にて、脚音の心に頼らず、汝が聞く清浄のうるはしき、神祇の神々しきあたりを、蓬莱に対して結びたるなり、汝が聞く所珍重なり。
〇十論為辨抄に、支考曰く、誰しも元旦に置くべきを、蓬莱そのあたりに書通の姿を寄せたらん。例の意を破れども姿を破らず、という句法なり、
○慈鎮和尚の歌に、此のたびは伊勢の知る人音づれて便り嬉しき花かうしかな、『拾玉和歌集』にも出たり
○『説業大全』に、便り聞かば伊勢の便りにこそ、他所の便りは何かせん、となり
〇按ずるに芭蕉の親友諸国にあり、他の便りは何かせんと思うべきや、蓬莱に興じて、ただ伊勢を思いだせる

芭蕉発句 蓬莱に聞かばや伊勢の初便り

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芭蕉発句 蓬莱に聞かばや伊勢の初便り

元禄七年の『炭俵集』に、前書、立春、とあり
○篇突に許六曰く、何れの春にや不覚、とあり
○『去来抄』に深川よりの文に、此の句さまざま評有り、汝いかが聞侍るやとなり、去来曰く、
「都古郷の便ともあらず、伊勢と侍るは、元日の式の今様ならぬに、神代を思ひ出でて、便り開かばや、と道祖神の胸中を騒がし給ふかとこそ承り侍れ」と申す。先師返事に、伊勢の知る人訪れて便り嬉しき、と慈鎮和尚の詠み侍る便りの一字の出所にて、脚音の心に頼らず、汝が聞く清浄のうるはしき、神祇の神々しきあたりを、蓬莱に対して結びたるなり、汝が聞く所珍重なり。
〇十論為辨抄に、支考曰く、誰しも元旦に置くべきを、蓬莱そのあたりに書通の姿を寄せたらん。例の意を破れども姿を破らず、という句法なり、
○慈鎮和尚の歌に、此のたびは伊勢の知る人音づれて便り嬉しき花かうしかな、『拾玉和歌集』にも出たり
○『説業大全』に、便り聞かば伊勢の便りにこそ、他所の便りは何かせん、となり
〇按ずるに芭蕉の親友諸国にあり、他の便りは何かせんと思うべきや、蓬莱に興じて、ただ伊勢を思いだせるならん

 芭蕉発句 年々や猿に乗せたる猿の面

(『芭蕉句選年功』石河積翠園著 春の部 一部加筆)
 
元禄六年の『歳旦集』に此句あり、と『糸切歯』に見えたり
○許六が自得発明辨を考ふるに、是また元禄六年と見えたり
〇『古今妙』に、支考曰く、此句は五文字に迎年の意は偽りながら、掟てたる歳且の詞無ければ、是をも雑の體とや云はん、或は無季の格とやいはん
○去来抄に曰く、一歳先師歳且に「年々や猿に著せたる猿の面」と侍るを季如何侍るべき、と伺ひけるに、年々はいかに、と宣ふいしくも承るもの哉、と退きぬ
○『風俗文選』に.許六庶指博に、師日く、すべて他の人の句のたしかを好む、上手は危き所に居れり、されば上手の上には必仕損じ多し、愚老が督歳旦・年々や猿に著せたる猿の面、全く仕損じの句なりと。我問ふ、師の上にも仕損じ有りや、答へて曰く、句毎に有。仕損じたらん何の苦みかあらん。『類柑子』に元日やとあり。其角が詞書に、意の馬心の猿供に騒かしき事なりとあり
○古語に、心猿飛ンデ移ル五欲ノ枝・意馬荒迷フ六塵ノ境
○『説叢大全』に、黒露(素堂の甥)が秘伝ありとあれども、其角が注にて事済むべきか
○『句解』に曰く、芭蕉は正保元申年に生る、依りて此吟ありと、此説理窟にして取り難し、とあり
○按ずるに、如何にも理窟にして取り難からん、然れども元線五年申の年なり、其翌年の歳旦なれば、生れたるも申の年、去年も申なり、依りて此説あるか、真に心の附き侍るは延宝談林の余風ならん
○『翁草集』に、鶏且と題有り
〇三押紙に、此句歳旦、師曰く、人同心所に留りて、同じ所に年々陥る事を悔いて云捨てたるとなり
○『説叢大全』に、翁の十二月の書翰に、歳暮の句と書交ぜある故に、祇徳が方にては、歳暮の句と定まる由、書翰
の末には、季の跨ぎたる句も多く有るものなり、歳旦の吟早くなりし故、歳暮の句と書交ぜられしも知るべからず。近年偽書多し、信用難し。歳旦の句なる事必定なり
○句解に、六窓一猴の心なりと、叉或人曰く、此事『去来抄』に有りと、されど予が方の『去来抄』には見えず。

 

【素堂関連】

〔素堂消息、芭蕉句「年々や猿に着せたる猿の面」について〕元禄6年(五十二才)

俳壇 四月、雲鼓、初めて烏帽子付(笠付)を試みるという。

素堂「歳朝雪」            

晦朔循環同不同  蛤之始意雀之終

乾坤湧出新年雪  寒暖未分嚢籥風   素堂

又芭蕉老人

年々や猿に着せたる猿の面            芭蕉

 

芭蕉書簡

日はやぐと御慶に御出被下候。

我につれ御座候てせた馬風方へ同道にて参り候故不懸御目残念に存候。

さては歳旦之句御たづね置候。御書中拜見申候如此に候。

年々や猿に着せたる猿の面

をかしき句にて御座候、又々永日懸御目萬々可承候以上

五日             はせを

松風丈

(『芭蕉真蹟拾遺』による)

〔俳諧余話〕

「年々や猿に着せたる猿の面」の句について

と云句、全く仕損じの句也。與風歳旦よかるべしとおもふ心、一にして取合たれば、仕損じの句なり。云々

(『芭蕉一葉集』「遺語之部」)

師の云く、(略)上手の上には必ず仕損じ多し、愚老が當歳旦

年々や猿に着せたる猿の面

はまったくの仕損じの句なりと、我問ふ、師の上にも仕損じありや、

答へて云ふ、毎句あり、仕損じたるに何のくるしみかあらん、下手は仕損じを得せず、云々。

(『直指傳』許六著)

人同じ所に留りて、同じ所に年々陥ることを悔ひて

年々や猿に着せたる猿の面

《句評解》

猿回しが、年々歳々春を祝ひに連れて来る猿は、年々歳々の同じ面を冠って踊る。其猿の如くに人も亦、年々歳々愚の上に愚を重ねて平凡に暮らす。其の老い行く姿の感慨であろう。

芭蕉はこの句をかしき句にて御座候と誇っていたが、許六に対しては、仕損じの句だと語ったが、『直指傳』に見えて居た、仕損じといふのは、豫期以上に良く出来たことを言ったので、「猿の面」の五文字が仕損じの所であらう。

(『芭蕉全傳』山崎藤吉氏著)

又詞に季なしといへども、一句に季と見る所ありて、或は歳旦とも定るあり

年々や猿に着せたる猿の面

如レ斯の類なり。            

(『花實集』去来序。偽書と伝わる)

《筆註》…『類柑子』

元旦や狙にきせたる狙の面

芭蕉発句 叡慮(えいりょ)にて賑わう民の庭竈(にわかまど)

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芭蕉発句 叡慮(えいりょ)にて賑わう民の庭竈(にわかまど)

元緑二年 己巳(一六八九) 四六歳 (庭竈集)
 仁徳天皇 高き屋にのばりてみればとの御製の有がたさを今も猶
叡慮(えいりょ)にて賑わう民の庭竈(にわかまど)
『庭竃集』の越人の文によると、越人の芭蕉庵滞留中に集った其角・嵐雪その他の門弟たちと一緒に、本朝の聖君賢臣を題詠した時に詠んだ句という。句は初春の句であるが、題詠句であり、季節に関わらず詠んだ句である。元緑元年秋冬の作だが、便宜的にここに置く。
「庭竃」とは西鶴の『世間胸算用』(元緑五年正月刊)に「家々に庭いろりとて、釜かけて、焼火して、庭に敷ものして、その家内、旦那も下人もひとつに柴居して、不断の居間ほ明置て、所ならはしとて、輪に入たる丸餅を庭火にて焼食も、いやしからずふくさなり」とあり、この頃から新年の季題として作られた。奈良地方で、庭に竃を作り、蓮を敷いて一家の老が食事をする風習があった。仁徳天皇の御製として侍える「高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり」(新古今集)と、その庭竃とを引っかけて、天皇の聖君ぶりを讃えた句である。

素堂消息、元禄2年(己巳)1689(48歳)
◇芭蕉、『奥の細道』紀行へ。  素堂《松島の詩》贈。
◇素堂、『?野集』入集。荷兮編。
◇素堂、十三夜遊園 十三唱
 
◇芭蕉、『奥の細道』紀行へ。  素堂《松島の詩》贈。                                     
元禄2年(己巳)1689(48歳)
素堂送別松島の詞
夏初松島自清幽  雲外杜鵑声未聞
願望洗心都似水  可隣蒼翠対青眸
送芭蕉翁、
西上人のその如月は法けつたれば我願にあらず、
ねがはくば花のかげより松のかげ、
はるはいつの春にても我ともなふ時
松島の松かげに春死なん
 
☆幕府、季吟父子を召す。
 
◇素堂、『?野集』入集。荷兮編。
元禄2年(己巳)1689(48歳)
 
「あら野集」員外
誰か華を思はざらむ。
たれか市中にありて朝のけしきを見む。
我、東四明の麓有て、はなのこゝろはこれを心とす。
よつて佐川田喜六のよしの山あさなくといへる歌を実にかんず、
又、
麦喰し鴈と思へどわかれ哉 
此句尾陽の野水子の作とて、芭蕉翁の伝へしを、なをざりに聞しに、
さいつ比、田野に居をうつして、実に此句を感ず。
むかしあまた有ける人の中に、虎の物語せしに、
とらは追はれたる人ありて独色を変じたるよし。
誠のおふべからざる事左のごとし。
猿を聞て実に三声のなみだといへるも、
実の字、老杜のこゝろなるをや。
猶鴈の句をしたひて
麥をわすれ華におぼれぬ雁ならし         素堂
池に鵞なし假名書ならふ柳かな              素堂
綿の花たまたま蘭に似たかな            々
唐土に富士あらばけふの月も見よ          々
 
◇素堂、十三夜遊園 十三唱
元禄2年(己巳)1689(48歳)
 
己巳九月
十三夜遊園十三唱(別掲)
其一
 ことしの中秋の月は心よからず、此夕はきりのさはりもなく、
遠き山よもうしろの園に動き出ルやうにて、
さきの月のうらみもはれぬ
富士筑波二夜の月を一夜哉
其二
  寄菊
たのしさや二夜の月に菊そへて
其三     
寄茶
江を汲て唐茶に月の湧夜哉
其四
旨すぎぬこゝろや月の十三夜
其五     
寄蕎麦
月に蕎麦を占ことふるき文に見えたり、
我そばゝうらなふによしなし
月九分あれのゝ蕎麦よ花一つ
其六    
 畠中ニ霜を待瓜あり。誠に筆をたてゝ
冬瓜におもふ事かく月み哉
其七   
 同隠相求といふ心を
むくの木のむく鳥ならし月と我
其八     
寄薄
蘇鐵にはやどらぬ月の薄かな
其九     
寄蘿
遠とも月に這かゝれ野邊の蘿
其十     
一水一月千水千月といふ古ごとにすがりて、
我身ひとつの月を問
袖につまに露分衣月幾クつ
其十一   荅
月一ツ柳ちり残る木の間より
其十二   寄芭蕉翁
こぞのこよひは彼庵に月をもてあそびて、
こしの人あり、つくしの僧あり。
あるじもさらしなの月より帰て、
木曾の痩せもまだなをらぬになど詠じからし。
ことしも又月のためとて庵を出ぬ。
松しま、きさがたをはじめさるべき月の所々をつくして、
隠のおもひでにせんと成べし。
此たびは月に肥てやかへりなん
其十三 
 国より帰る
われをつれて我影帰る月夜かな
《註》素堂が永い人生の中で自ら「国」といったのは、其十三前書の「国より帰る」だけである。
《参考》素堂へまかりて
はすの実のぬけつくしたる蓮実か         越人


柳沢吉保と甲斐

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柳沢吉保と甲斐
幕府…… 柳沢保明、御用人となる(保明の祖は 山梨県北巨摩郡武川村柳沢 の出身)
万治元年(1658)  江戸市ヶ谷で生まれる。
延宝三年(1675)  家督を継ぐ。保明と名乗る。
延宝四年(1676)  甲斐の祖を持つ曽雌家の定子と結婚。
延宝八年(1680)  将軍家綱死去、綱吉五代将軍となる。保明、御納戸役に。
天和元年(1681)  吉保、八百石。綱吉の学問上の弟子となる。
貞享二年(1685)  吉保、二十七才、従五位下出羽守。御納戸役上席となる。
貞享四年(1687)  甲斐で町中の「犬改め」下府中102疋、古府中15疋。
元禄元年(1688)  吉保、三十一才。御用人。一万二千石三十石
元禄三年(1690)  吉保、三万二千三十石。
元禄四年(1691)  綱吉初めて吉保邸に臨む。以後五十八回に及ぶ。
                        林鳳岡、大学頭となる。
元禄七年(1694)  吉保、川越城主となる。七万二千石。
元禄八年(1695)  吉保、駒込松平加賀守の屋敷を拝領(六義園)
元禄十三年(1700)   北村 季吟から古今伝授を受ける。
宝永二年(1705)  甲斐三郡を賜る。禄二十二万八千石。
正徳四年(1714)  吉保、十一月二十四日死去。甲府永慶寺で葬儀。
 
(永慶寺は壊される。現在の山梨県甲府市護国神社の地)

柳沢美濃守吉保(「武川村誌」一部加筆)

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柳沢美濃守吉保(「武川村誌」一部加筆)
 
出生
柳沢家は、信俊以来、徳川家の信任を受け、信俊の次男安忠が父信俊に劣らない才能をもって徳川綱吉に重用され、家運を開くの端緒を開いた。しかし当時の俸禄は、采地一六〇石、廩米三七〇俵で、決して高禄ではない。
安忠の家督をついだ吉保は、安忠の側室佐瀬氏の所生である。万治元年(一六五八)十二月十八日に生まれた。安忠の正室は青木信生の息女で、安忠とはいとこの間柄であった。しかし、夫人青木氏は男児が恵まれなかった。
たまたま安忠の采地、上総国市袋村の浪土佐瀬氏の娘津那子が、領主柳沢氏の屋敷に行儀見習いのため奉公にあがったが、津那子は才色兼備、且つ温順であったので夫人青木氏に愛され、侍女として仕えるようになった。
実子に男のない安忠は、やむなく津那子を側室とし、その腹に吉保を儲けたものと思われるが、また夫人青木氏の立場を考えると、憚りもあり、旗本柳沢家を継ぐに足る壮健た男児を得た上は、津那子を側室として置くべきではないと考えたのであろう。津那子の産後の肥立ちが回復したと見た安忠は、これにいとまをとらせ、佐瀬家に帰らせたのである。
このようなわけで、吉保は生まれるとすぐに安忠室青木氏の嫡子として育てられて成人し、嫡母の没する延宝五年(時に吉保二十歳)まで、実母の存在を知らされなかったのである。
佐瀬家へ帰った津那子は、間もなく再婚して一子隼人を生んだが、夫に死別して大沼氏に嫁し、大蔵・玄章の二子を生んだ。これらの三人、いずれも吉保の異父弟である。隼人・大蔵は柳沢姓を許されて一族に列し、享保四年の御家中御役人付によれば、「御城代、高一千石、柳沢隼人」とある。玄章は臨済宗妙心寺派の僧で虎峰(琉芳)と号し、吉保開基の武蔵国入間郡三富山多福寺の二世となった。宏量の吉保は異父弟を贋してそれぞれ所を得させ、柳沢藩の強力な藩屏としたのである。
吉保の生母津那子は、青木氏の没後、二〇年ぶりに吉保と母、子の名のりをしたのであるが、当時まだ大沼家の人であった。それから三年後、津那子は夫の大沼氏と死別したので、吉保は父安忠と相談して生母を柳沢家に迎えとることにしたのであった。時に天和元年(一六八一)である。こうして吉保は、時に八十一歳ながら壮健で、露休と号していた父安忠、母佐瀬津那子(法名了本院)とに対し、存分に孝養を尽し、孝悌の道を全うした。
 
吉保、家督をつぐ(「武川村誌」一部加筆)
 
吉保は、前記のような事情から、生母とは乳児の時期に別れ、嫡母青木氏に育てられた。やがて七歳を迎えた寛文四年十二月十八日、通称を弥太郎、講を房安、また主税といった。
この日、父安忠は吉保を伴って神田の屋敷に参殿し、主君館林侯徳川綱吉に拝謁した。綱吉は三代将軍家光の四男、正保三丙戌年(一六四六)の生れで当年十九歳、官位は参議従三位右近衛中将、右馬頭、館林二五万石の城主であった。この面謁の時、綱吉はひどく吉保が気に入り、自ら立ってその手をとり、新築間もない館中を連れ歩いたといわれる。元禄文化史上の二立役者の運命的な出会いであった。
延宝元年(1673)十一月十五日元服、この。時に通称を保明と改めた。時に年十六歳。同三年七月、年七十四を迎えた安忠は、嫡男吉保が十八歳になったのを機に隠居を願い出て許され、家督を吉保に譲ることになった。
吉保は小性組番士を命ぜられ、中根正弘の組に編入された。小性は小姓とも書き、将軍側近に肩従して雑務を処理する臣をいった。
延宝元年十二月、吉保は武川衆出身の旗本、曽雌盛定の二女で、当年十五歳になる定子との間に婚約が整った。曽雌盛定の妻は吉保の胆父信俊の姪孫に当り、好都合であったらしい。
延宝四年二月十八日、十九歳の吉保と十六歳の定子との間に華燭の典が挙げられた。
延宝五年、吉保の嫡母青木氏が病床に臥する身となった。吉保は誕生以来二〇年、青木氏を実母と信じて孝養の限りを尽して来たが、いよいよ病い篤しと聞くと、病室を離れずに着病し、安んじて重病人の看護を托せるというので、吉保の襁褓の頃よりの乳母を、わざわざ呼び寄せて看護に遺憾なきを期した。しかし、吉保の尽力もその甲斐なく、六月十六日に没した。吉保の悲歎はたとえんかたなく、市ケ谷の月桂寺において丁重な葬儀を執行した。法名は恵光院殿歓秋妙喜大禅定尼という。
 

吉保の信仰(「武川村誌」一部加筆)

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吉保の信仰(「武川村誌」一部加筆)
 
延宝五年、嫡母青木氏を喪った吉保は、人生、生死ということを深刻に考えるに至った。そこで、江戸小日向の臨済宗妙心寺派竜興寺の住持、竺道祖梵に参禅したのである。竺道は、妙心寺二百三十七世を董した名僧で、竜興寺は吉保の妻定子の生家曽雌家の菩提所であったから、機縁が契ったのであろう。竺道は吉保に授くるに「雲門須弥山」の公案を以てした。「僧、雲門ニ間フ、不起一念、還ツテ過アリヤ也無シヤ。門云ク、須弥山」というもので、以来吉保は参禅弁道、工夫を用うること十余年に及んだが、悟得することができなかった。繁雑な公務の中に
あって間断なく工夫を用うる真面目な吉保の人柄は、軽佻浮華と評され勝ちな元禄時代文化人の印象とは、似てもつかぬものである。
元禄五年(1692)四月、吉保は、はじめて黄葉山万福寺の第五世、高泉性激和尚に参禅した。こうして、吉保は機会さえ得られれば名僧の門を叩く求道者となっていたのである。
越えて元禄七年、吉保は一書を江戸の東北寺住持、洞天恵水(妙心寺二三八世)に送り、須弥山の公案について多年工夫した上での彼の所見を述べた。
 
僧問雲門、不起一念、還有過也無、門云、須弥山。
工夫スルニ、不起一念ト間ウ意ハ則チ須弥山、須弥山ト答ウル意ハ則チ是レ不起一念、問ヒ答フルトコロ、警バ鐘ヲ打テ響クガ如シ。鐘ニ響アルコトハ打ザル前ヨリ備ハレリ。
然レバ不生不減ニシテ、言ヲ出ス前ヨリ不起一念ノ問アリ。須弥山ト言ウニ出ス。前ヨリ須弥山ノ答アリ。問ヒ答フル心ヨリ思慮ニ移ル時ハ是レ凡心、然レバ即心是祖意、ココニ於テ疑ナキコト文字言語ニ及ブベカラズ と。 
この時吉保三十七歳、さきに竺道より公案を授かって以来、ここに至る十八年である。
洞天は、吉保の見解に対し答話を送り、
 
平常一箇ノ須弥山、双肩ニ担フコトニ十年、一且機ニ当ツテ猛省シ、直チニ雲門大師ト相見工、胸襟酒カ、快活々々、起居動静、善悪邪正、公私勿忙ノ上、都テ須弥山ノ当体、更ニ二無ク別無シ。
 
と称讃してこれを許可し、衣鉢を授けたのであった。一公案に工夫二〇年、世人は、このような吉保の人間性の一面を見落してはいないか。
吉保は「多年にわたる禅の工夫ならびに竺道・洞天・高泉ら多くの禅僧との往復書簡、法語等を編んで三三巻の書冊とし、宝永二年(1705)霊元上皇の叡覧を仰ぎ、勅題をお願いした。上皇は嘉納されて題を『護法常応録』と賜わり、その上、勅序を賜わった。
上皇は、まず次のように仰せられている。
 
朕聞ク、河ヲ過ルニハ須ラク筏ヲ用ユベク、道ヲ学ブニハ須ラク志ヲ立ツべシ、ト。ココニ甲府少将源吉保ハ、武門ノ柱礎、法界ノ船橋、多年志ヲ禅門ニ篤クシ、立ツ処眼ヲ須弥ニ掛ク、アル時ハ字字相投ジ、アル時ハ面面相呈シ、コレヲ善知識ノ毒気ニ触レ、当機猛省ノ証明ヲ蒙ル 
と、吉保の求道の態度を賞讃、激励し給うた。さらに上皇は、勅序の末尾において、
 
其ノ大要ヲ概見スルニ、内ニハ国家ヲ護リ、外ニハ法門ヲ護リ、永ク子孫ニ伝へ、広ク無窮ニ施シ、繙閲スル者ヲシテ霊山ノ付嘱ヲ忘レザラシム。則チ豈ニ小補ナラソヤ。故ニ序ス。宝永二年十一月日
 
と仰せられた。上皇は、よく吉保の意中を付度し、この書の庶幾するところが、永く国家と法門を護るにあると結び給うたのである。
 
側室飯塚染子の参禅記録、『故紙録』(「武川村誌」一部加筆)
 
吉保の『護法常応録』を述べるに際し、ぜひ紹介しなければならないのが、その側室飯塚染子の参禅記録、『故紙録』についてである。
吉保の側室飯塚染子は、柳沢氏の采地上総国市袋村の郷士飯塚正次の三女で、天和元年吉保がその生母佐瀬津那子を柳沢家に迎えた時、その侍女として伴って来た女性である。
吉保は正室の曽雌氏を要って以来、六年を経過したがまだ子がないので、曽雌氏とはかって染子を側室に入れたのであった。染子は才色兼備で、しかも心を禅道に潜め、吉保が師僧に参禅する際には、自身も参禅につとめ、問答や垂示の記録をもとった。それらに自分の思索工夫の跡を加え二巻の書冊としたのが、前記の『故紙録』である。その冒頭にいわく、
 
我レ、七八歳ノコロ、タマタマ醍醐帝ノ泥梨(地獄)ニ堕チ給フ双紙ヲ見テ、フト怪シミテ爺(ちち)ニ問ヒシハ、帝王ノ、何ノ故ニカク畏ロシキ呵責ニ逢ヒ給フゾ。ト尋ネケレバ、爺細ヤカニソノイハレヲ物語リシ給フ。(中略)九歳ノトキ不幸ニ母ヲ喪ヒテ、年長ケタル兄弟ノ、嘆キ悲シムヲ見テ、爺二問ハク、ソレ人、イカナル善ヲ修シテ、泥梨ノ苦シミヲ免レソヤト。爺、教へ給フハ、タダ一心ニ弥陀ノ名号ヲ唱ヘヨ。如来ノ誓願、ナド空シカルべキヤ(下略)と。
条理整然、その内容を窺うことを得よう。その威文も味わいのあるもので、いわく、
 
一大蔵経ハ悉ク反故紙トカヤ、古徳ノイヒケル。我レ今、ソコバクノ閑言語ヲ集メテ、一部ノ故紙録トス。或ルハイフ、牆壁ニハリ、醤(ひし)ヲ覆ハソト、或ルハイフ、蔵中二納メ、蠧(しみ)ノ糧トナサソト。彼モ好シ是モヨシ。好シ、他ノ処分スルニ一任ス。橘染子威
 
まことに、徹底の境地というべきであろう。

吉保の念仏行(「武川村誌」一部加筆)

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吉保の念仏行(「武川村誌」一部加筆)
 
吉保の信仰について、特記したいことがある。それは、吉保の念仏行についてである。韮崎市清哲町青木の常光寺に、吉保の嫡男吉里が亡父の遺命によって寄進した「勧修作福念仏図説」と名づける紙本彩色の掛軸がある。
その由来は、軸の裏に吉保の自筆と伝える次のような裏書のあることによって知られる。
 
念仏百万、図式によりその数を填む。装して一煩と為し、以て武隆山常光寺に寄す。
正徳甲午の秋
甲斐の前藩主羽林次将源吉保
 
正徳甲午は同四年(1714)の干支で、羽林は近衛府の唐名、次将は少将。吉保の当時の官名は左近衛権少将であった。「勧修作福念仏図説」というものは、辻善之助博士の論文、「柳沢吉保の一面」によれば、黄粟宗本山京都市宇治の万福寺塔頭、真蔵院に、吉保と夫人曽雌氏の寄進に在るもの各一幅、計二幅が所蔵されているという。したがって、常光寺所蔵の一幅と合わせて計三幅が現存しているのであるが、他にその存在を聞かないので、これら三幅の価値は貴重である。
この「図説」というのは、版画で、その中央に阿弥陀三尊を描き、その周囲に念仏の図説と、念仏の功徳に関する偉大士の説を記している。
偉大士は、六世紀ごろの中国の高僧で、転輪蔵の発明者である。図説の周囲に、五色をもって圏を連ねて幾段にも画してあり、圏の総数は一、○○○箇である。その下段に、
 
此ノ図、震旦ニ於テ世ニ行ハルルコト、スデニ久シ。大清ノ康煕年中ニ至リ、旨ヲ奉ジテ天下ニ頒チ行ヒ、普ネク念仏ヲ勧化ス。日(本)国ニ未ダ此ノ図有ラザルヲ以テ、今、錆刻シテ流通シ、天下ノ人ヲシテ念仏修福シ、同ニ浄土ニ生レシメバ、則ハチ利益量リ無ケン。念仏千声ニシテ一圏ヲ填メ、白黄紅青黒、五次ニ填ムベシ。
宝永甲申 重陽 支那 独湛螢識ス
 
とある。宝永甲申は元年(1704)である。重陽は陰暦九月九日、支那は当時清朝、独湛螢は黄葉山万福寺の第四世、独湛性螢である。
この図説の用紙は、はじめ唐紙であったが、当時、唐紙は輸入品として高価なので、吉保は甲府の菩提所、永慶寺に依頼して丈夫な和紙に複刻させ、自身が施主となって費用を寄進し、普ねく念仏行老に頒布して勧修した。
常光寺所蔵の「図説」の中央、阿弥陀三尊の下に蓮座があり、蓮座と三尊との間の空き間に、「念仏弟子保山」と自署し、また右側の偉大士の説の末句、回向浄土求願往生、の下に「善人保山受持」とあり、その下に長方形の印が押捺されている。
印文に「竜華山永慶寺蔵板印施」とある。つまり永慶寺蔵版で、念仏者には無料で印刷、施与したものであろう。「勧修作福念仏図説」を、念仏者はどのようにして完成するか、用紙の中央阿弥陀三尊を囲んで長方形に連ねられた一、○○○箇の白圏に、一、○○O遍の念仏ごとに白・黄・紅・青・黒の色の順に、一箇ずつ白圏を填めて行くのである。こうして一、○○○箇の白圏を残らず填め尽した時、念仏百万遍を成し遂げたことになるのである。
吉保は、元禄から宝永にかけて徳川幕閣の大黒柱のような地位を占め、身辺は多事を極めた人である。それにもかかわらず、常に禅の修行につとめ、一つの公案に二〇年近くも工夫を凝らし、遂に大悟して師の印可を得た。そして晩年に至っては念仏行に励み、「念仏図説」を二偵完成したのである。吉保の純粋熾烈な求道の態度こそ、仰がるべきではないか。
 
また、正室曽雌氏が念仏行を全うして、菩提所である萬幅寺塔頭真光院に納めた「念仏図説」の裏書には、
 
称名百万遍、図説に遵ひてその数を満たし、却ち真光禅院に鎮む。
正徳癸巳の仲秋
前の甲斐藩主松平吉保の室人曽雌氏
とある。正徳癸巳は同三年の干支で、仲秋は八月をいう。ちなみに、曽雌氏は同年九月五日に没しているから、この「図説」寄進ののち僅々一か月ほどで世を去ったわけである。曽雌氏を喪った吉保の悲歎は譬えんにものなく、その夜から五日間を費やして亡妻のために長編の挽歌を草し、葬送の日、自身でこれを詠じ、会葬の大名旗本ら、泣かぬはなかった。
その吉保も、正徳三年春、曽雌氏より先に一幅を完成し、真光院に寄進した。裏書に、
 
念仏百万、専ら図式に依り、其の数を填め畢んぬ。今装して一偵と成し、
以て真光院中に寄するのみ。
正徳癸巳の春
前の甲斐藩主羽林次将源吉保
吉保の菩提寺 韮崎市 常行光寺
吉保は、曽雌氏生前の正徳三年癸巳の春、すでに念仏百万遍を成就し、その一幅を真光院に寄進し、その秋、曽雌氏に先き立たれたのであるが、ますます勇往精進して翌四年甲午の秋、さらに一幅を成就し、遺命して常光寺に寄進させたことは、既述の通りである。
吉保が、常光寺を崇敬するのは、この寺が青木家の菩提所だからである。というのは、吉保の祖父柳沢兵部丞信俊は、武川衆の旗頭青木尾張守信立(信親)の三男であるが、主命により柳沢家を継いだため、柳沢家にとって青木家は宗家である。しかも柳沢家本来の菩提所である柳沢村竜華山柳沢寺が、水害など不幸続きのため寺運は衰徴の極に陥ったため、当時江戸に邸を賜わっていて、先祖の地とはいえ甲州柳沢村の柳沢寺を再興するに及ばずと考えたものであろう。それに柳沢氏はしばしば青木氏から嗣を迎え、最近では吉保の曽祖父信俊が青木氏の出身であるから、祖先といえば青木氏につながるので、青木氏の菩提所常光寺をもって柳沢氏の菩提所を兼ねしめたらしい。
というのは、常光寺位牌堂には、吉保寄進にたる青木家の系図が安置されていて、鼻祖新羅三郎義光より第十七世青木尾張守信立までを整然と記しているのである。このように常光寺を菩提寺同前に崇敬した吉保は、宝永元年に甲府一五万石に封ぜられると、翌三年儒臣荻生狙株を新封の地甲斐に派し、領内の地形産業、世態、人情を見聞させ、これが復命を命じた。その結果が『峡中紀行』『風流使者記』である。いま、『峡中紀行』によって青木村常光寺の状況を瞥見しよう。
 
『峡中紀行』(「武川村誌」一部加筆)
常光寺に至る。門前皆田なり。田を隔てて人家数十、簇をなす。却ち青城村なり。堂に登り藩主先公の神主に謁して後、方丈に往て話し、遺事三条を得。機山の時の旧封券を観るに、人名門の字皆間に作る。蓋し古時は爾りと為す。花押亦時様の者に非ず。古撲頗る趣有り。寺憎を拉し先公の墳墓を覧る、碑の制、諸(これ)を今世都下士庶所用の考に比するに極めて短小なり。其の時俗想うべし、字皆剥落して、復た辞を存せず。寺を出づれば則ち先公の荘在り。
徂徠の誤解
というもので、先公とは青木信立をいう。徂徠の一文は、当時の常光寺を叙して彷彿たらしめるものである。神主とは儒教式葬儀の際、死者の官位・姓名を書いて祠堂に安置する霊牌で、仏教でいう位牌である。人名門の字、皆問に作る、蓋し古時は爾りと為す、とは徂徠の千慮の一失で、人名の問は、問答の問でなく門尉の合字、闘の草体、問であることを知らなかったのである。関ケ原以後、僅か100年を経たばかりなのに、徂徠はどの学者すら武人の官名を誤解するに至ったのである。
 

『柳沢吉保 元禄太平記』その一

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『柳沢吉保 元禄太平記』
 
 ここに提示した資料は、私の最も尊敬する八切止夫先生の手による、『柳沢吉保 元禄太平記』のはじめの部分から転載しました。
 先生は多くの歴史書を著されていて、私の手元にも数冊あります。先生は孤高の研究者で、その独特の歴史観と調査範囲の広さは他の追随を許さないものが感じられます。先生はその時代の歴史学者と一線を引いて活動しておられ。ある意味では異端児扱いを受けていたとも聞いています。
 また先生の本は現在でも高価で、人気の程が伺われます。先生の書いた柳沢吉保関係の本は多数あると思われますが、出会った折にまた紹介します。
 歴史は創られる場合が多々あります。山口素堂それにこの柳沢吉保それに
 この講座は柳沢吉保を悪者に仕立て上げた人々の資料とその真意を探っていきたいと思います。
 
1974(昭和49年)刊。
なる実録本がある。これが種本になってまず上方では、
なる芝居が、寛政五年(1793)正月に大坂角座で上演されたし、江戸では文政二年(1862)五月に鶴屋南北作るところの、
「梅柳若葉加賀染」が玉川座で大当りをとった。明治に入ってからは、
「裏表柳のうちわ絵」を、河竹黙阿禰が書下ろし、
中村座で、柳沢吉保役の九代目団十郎と、おさめの役の岩井半四郎のからみで、江都の人気をさらった。
 だから芝居を史実と思い誤る人や、実録本とあるのを売らんが為の能書きとは思わず、文字通りに受けとった人々によって、今でも、すっかり間違えられて、
(柳沢弥太郎というのは、百五十石どりの小姓組番頭の身分から立身しようというので、悪事を働いた侫臣)といったことにされてしまい、
「元禄年間の悪政は将軍綱吉が悪いのではなく、そそのかした柳沢が私欲を計って政治を勝手にしたからである」とするのが定説になっている。
 そして柳沢が軽い小姓番の身分から甲府十五万石までに、天下泰平の世なのに異常な大出世をする蔭には、
「さめ」とよぶ妻女があったからだと実録本ではしている。
 つまり柳沢弥太郎なる男は、
「なんとか立身したいものだ……」と日夜その心をくだいていたが、これといって出世できるような手蔓がない。
 そこであせっていたが或る夜のこと。はっとヒラめくものがあった。そこで、その時は何も口にせずだったが、次の日から非番の節には、
「所用がある…」と外出して、明暦の大火から移転し建物も立派に並ぶ新吉原へ通いだし、散茶女郎、梅茶女郎、格子女郎、太夫の区別もなく片っ端から揚げてみた。
「わが妻女さめは、あれぞこの廓言葉で申す『みみず千匹』……つまり古原でさえその持主は居ない稀代の名器の持主でありしょな」と、ようやく臨床実験の他流試合を重ね、その結果、おおいに納得するところがあった。そこで弥太郎は、
「これさ……わしの頼みをきいてくれぬか」と、さめにきりだしてみた。
「はい嫁しては夫に従うが妻の道……なんなりと仰せなされて下さりませ」と、答えるのに、
「其方の万人に一人……持つかどうかとされている稀代の秘所を、わしの出世のため役立ててくれぬか」といった。そこで、さめは天性の美貌をそなえた色白な顔を紅潮させ、
「……と仰せなされますのは?」恥ずかしそうに低い声で尋ねたところ、
「何も間かんともよい。唯、はいと承知してくれたら、それでよいのじや」
 弥太郎はいい聞かせるごとく口にした。しかし女人の身ゆえ、およその見当はついたものの、さて、己が身にそなわる(みみず千匹の具合)など、自分では判ろう筈はなく、
「……して、この身に何を」と、またくり返して聞きだした。そこで、弥太郎が叱りつけるごとく、きっとして、
「なにも妻とは申せ、いつもわしに抱かれて居るわけではあるまい……空いている時に何んせいと申すだけではないか」と、すこし声を荒々しくさせた。そこまで口にされては、
「まあ…おまえさまは…」と、さめも、仰天してしまい、おろおろしながら、
「他の事ならば何なりと、お云いつけは守りもしますが、そればっかりは……」びっくりして拒もうとした。しかし弥太郎は泣き崩れる妻へ
「聞きわけのない……取り乱して何とした。用いて使うても減ずるものではないのに、なんで下惜しみ致すのか」烈しい口調で怒鳴りつけてからが、
「そちやわしの出世を邪魔せんとするのか」とまで口にした。それゆえ、
「滅相もない…」と、怨めしげに、さめが顔をあげたところ、
「わが立身に協力せぬ、できぬというは邪魔致すも同断ではないか」きつい声で難詰した。
「いくら云わしやっても、おまえさまという夫のある身が、なんでそないな…」と、さめは困りまた泣き伏してしまうのへ、
「えい、めそめそ致すでない……夫がそうせいと申すに、それを聞かぬ妻があってよいものか。其方は己が身のことゆえ存じよらぬが、備え居るは稀代の秘宝。もし上さまに御賞玩して頂ければ如何ぱかりお喜びなされようかと、忠義のために申して居るのだ」
 と将軍綱吉へ伽をするよういいつけたが、それでも、さめは首をふり、
「でも、あまりといえば余りな仰せ。お許しなされて下さりませ」と泣きくずれた。
「そちや、わしが上さまへ忠を尽くしたいというのを拒むのか」と責められても、唯しくしく鳴咽するのみたった。それでも弥太郎は諦めようとはせず次の夜もやはりかきくどいた。
「いくら仰せられましても…,それは女として操を破ることになります」
あくまで厭がるのへ、弥太郎は、これではならじと言葉を柔らげ、「源平の昔に源ノ義朝の妻の常盤御前が、その操を敵の平ノ清盛に許し、やがては亡夫の仇をとり平家を滅ぼした故事を、そちや知らぬのか…操とは破っても棄てても、それが夫の為にさえなりや良しとするものじや」
 かんで含めるごとくいって聞かせ、
「……なにも妻とは申せ、わしが四六時中そもじを用いて居るわけではなかろ。な
あ、わしが何んせぬ折りに将軍さまへ、お裾分けをしたらよいのではないか」そっと声を落とし、
「そうじや裾を分けひろげて何するのじや…唯それだけのことだ」
 と、いってのけた。
「お、お裾分けなどとまあ、そないにお手軽な…」
「なにも其方を千代田城へ差し出してしまうのではない…・茶菓を出すごとくおすすめし摘んで頂くだけではないか」
 と、泣いて厭がるさめを脅かしすかし、ようやく納得させると弥太郎は、
「恐れながら…」と将軍綱吉へ、
「実はてまえ屋敷には門外不出の、世にも稀なる名器がござりまする」秘かに訴えでた。
「如何なるそれは、珍器財宝なのか」
 そこで綱吉が、興味深く尋ねたが、弥太郎は、
「ここへ持参できるようなものではなく、又それは世に類のないもの…」
 とのみ申しあげ、
「なにとぞ手前の屋致へ…」いくら間かれても、一点ばりで押し通した。そこで綱吉も、(こりや余程の珍奇な物であるらしい)と好奇心を抱くようになり、ついに「では、ものは試し一度いって見ることにするか」と、元禄四年三月。初めて柳沢の屋敷へゆき、そこで、
「これが、この世の無二の宝か…」
すすめられて、さめを抱くと、千余の蛆矧がのたうち廻るような口にもいえぬ法楽に、さすがの将軍も夢みる心地にさせられてしまい、それから五十余度も柳沢家へ通うようになった。
そこで小姓の身分にすぎなかった弥太郎も、やがて甲府十五万石の柳沢吉保とまで立身、
「持つべきものは良き妻である」と、おおいにさめをねぎらったが、妻の方は唯さめざめと泣いたというのが伝わるのが、「護国女太平記」の話の筋である。
柳沢は、明治維新まで続き、そして子爵になっている。別に御家断絶したわけではい。
 そこで、
『福寿堂年録』とよばれる公用記録が、享保九年三月に甲府から郡山へ国替してからよりの、柳沢家の記録として伝えられていて、「戊辰戦争に際し郡山の柳沢の兵のニ小隊百二十人が、鎮撫使四条降謌に従って奥州追討」
「明治四年十一月に奈良県に統合される迄、柳沢保申が百四十七年間にわたって統いた藩主の地位はおりたが、郡山知藩事であった」のも明記されている。だから、いくら柳沢騒動が世に喧伝されたにしても、そう異説があってよいわけはなかろうと思われる。
 ところが実際は岩手十万石南部家に伝わっていた『福寿堂年録』などには、まったく変わった話がでている。そこで、盛岡市上目黒石野平の小笠原徳公邸に、保存されていろそれを引用してみることとすると…
 南部盛岡に普耳える岩鷲山は、別名を岩手山ともよぶが、そこの麓に柳沢村というのが今もあるが、江戸時代にもあった。そこに生まれたのが、弥太郎で、「変わりのごとしとの噂がありまする」と言上をした。
「よし、では、まずその者をよべ」と、鶴の一声。そこで呼び出しをうけた弥太郎は、翌朝、平川口より中の口へ上り、御当番の成田舎人、本田喜内、脇坂勘平、大久保伝五右らへ、
「われらの組頭伊奈半左衛門よりの差紙にて、かく出頭を仕りました」
 と登城のおもむきをのべたところ、差違いなきかを照合して調べた結果、「よお候……」と保科八郎左が同伴して、月番老中土屋相模守の許へ出頭。
しかし御老中井伊掃部頭、酒井雅楽頭らは、この件を間こし召されて、「前代末間なり、と不承知であった。しかし将軍綱吉は、あくまでも、「柳沢の妻をこそ召せ」といいはるので、やむなく高家衆品川豊前守が代わって、すすきの間にて弥太郎に面接。というのは、弥太郎の身分では目見得できぬ仕来たりだったからである。
「恐れながら七十俵どりの小普請の身分にては、妻女と交換でも登城さえもままなりませぬ」
 そこで御老中阿部豊後守が、諌めようと申し上げた。すると綱吉は、「では苦しゅうない、柳沢とやらに役をつけてつかわせ」と御納戸奉行を命じ、下総佐倉三万石の御加増を仰せ出され、しめて三万石七十俵となった。
 その内訳は、臼井、成田、安庭、海川、銚子、新川、屋多ら八部で、弥太郎は即日任官し、出羽守従五位下になった。そして二年後には、また綱吉の命令で、若年寄役にまで抜擢され、新たに下総古河にて二万石御加増で計五万石七十俵にまで、妻さめのおかげで累進した。
(……というのが『南部史料』である)しかし下総佐倉に元禄七年に入府したのは戸田忠昌六万一千石、元禄十四年に戸田が越後高田へ移り、代わりに入ってきたのは稲葉正徳八万七千石。下総古河は大和郡山より移った九万石の松平信之で、元禄年間はその子の忠之がつぎ、他へ転封されてはいない。もっともらしくてもこうみてくるとまったくの嘘っぱちである。
 ついでにいえば、その時代の大老は堀田筑前。老中は戸田忠昌、松平信之、つまり前記の連中はまれな誤りなのである。高家衆の名前も同じく相違している。
 では、どうしてこうしたものが、南部十万石の御城の中で、重要な御文書として取り扱われたり、現代に至っても、「史料」とされて居るかといえぱ、
(元禄初年までは八戸藩へ二万石の分地をしたが、新田開発分を加えて前に上廻り順調だった南部藩の財政が、鹿角鉱山の産金が減ったことと、元禄年代の未曾有の冷水害で大飢饉が続いた際公儀に対し何度も救済万を申し出たのに対し、江戸参勤交代を免せられたくらいに止まり、いくら願い出ても御貸付金や米が来ず餓死者四万をだした)
 という怨念が、藩主南部行信以下家臣一同に、これも側近柳沢めの取扱いの悪さからであると恨まれ、たまたま盛岡のはずれに同じ地名があるのを奇貨とし、儒臣か筆の立つ者が、
「……柳沢とはかかる卑賎な輩である」と昔は、各藩がまったく別々でそれぞれの国だったからして、お構いなしに憎悪で作ったものを、勝手に御文書として門外不出で蔵って居たのだろう。
つまり、昔の大名は自藩本位ゆえ、気儘にこうしたものをこしらえさせて、「史料である」としまいこみ、今になって郷土史家を誤まらせている、困ったものだが仕万がない。がおおっぴらに柳沢の悪口が一般にいわれるようになったのは明治に入ってから柳沢子爵が旧幕時代に比べして没落したからで、当時の人気役者九代目市川団十郎が鳥越の中村座で演じた芝居からであろう。
 それゆえ明治十二年六月三日脚届本の、東京日本橋松島町一の大西庄之助刊の木版刷り、「柳沢女太平記」「柳佐和実伝」の上下二巻を原文のままで紹介しておく。文献というわけではないが俗説柳沢騒動の最後のもので、大西が当時の芝居の筋書をそのまま、さももっともらしくまとめたものゆえ、珍しいものでおおかたの参考にもなろうと考えたからである。
 

『柳沢吉保 元禄太平記』その二

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『柳沢吉保 元禄太平記』
                                               
 さても綱吉公には脚気欝を散ずるため各所へならせ給いしが、柳佐和の邸にて御覧ありし舞妓が深く御心に叶いしより日夜とも御酒宜宴あらせられ、かの舞妓を相手に婬酒に耽り給うようなった。そこで、
「このほど君の御行状は、美女を召し抱え婬酒にふけり給うのみ、なんとか御改正あってしかるべし」
 井伊掃部頭登城なし牧野備後守へ申されたるゆえ、牧野は君へ御諫言申上げたるがかえって御不興を蒙り側役御免となりたれば御側御用人は柳佐和一人とあいなった。
 そこでその後の柳佐和は万事心のままに綱吉公へ媚を献じるのにあくせくした。
 さてその頃、新吉原三浦屋次郎左衛門の抱えの遊女で、当時全盛の聞え高き大町清浦らを大金にて身請し、妻おさめにも遊女の粧いをさせた柳佐和は、頃も弥生の中旬にて庭前の桜盛りなれば、綱吉公へお成りを願いして、殊に仰喜悦の脚気色なされるようにと、その用意をなした。
 時に三月十九日、綱吉公が成らせられ庭の景色をうつし、暫くあって柳佐和の妻「おさめ」が遊女の粧いにて新造やかぶろを連れ八文字にて徐々と姿をみせ、やがて綱吉公の御側へ参ると、色眼をつくって長きせるの吸いつけ煙草をさしだした。
 そこで「おさめ」が容色に迷いたまいし将軍家は酒興に乗じ怪しくなられ、とうとう泊ってゆく旨を仰せ出された。ゆかしき移り香は還御後も消えやらず、その後も将軍はしばしば成らせ給うほどに、「おさめ」やがて懐妊をなした。
「もし御男子出生ありたれば四海の王」と喜びあっていたところ、月みちて御男子出生ありたれば柳佐和夫婦は天へ昇る心地にてその由、君へ言上に及ひたるに、将軍は御祝儀として二万石を下しおかれ、よって合計十五万二千石となり、美濃守と改め、松平の称号を賜り柳佐和の威勢十よ他に並ぶものなきようになりしとぞ。これより将軍家には御治世二十五年に至りたれども、さて御世継なく、よって老臣評議のうえ甲府宰相綱童公の御子息家宣公と定め大納言に任じ西ノ丸へ御入りありたり。
 さてこの君聡明にますます御孝心深く、きわめて至仁の聞え高く衆人その徳を賞されていた。
 しかるに綱吉公には柳佐和の家に仰男子出生につき、なにとぞ我が血統を以て相続させんと思えど、一旦家宣公卿養君となしたる上は、もはやせん方なし、いかがせんと思い煩い仏給いたまえていたり。
 ある日護持院僧正を召され何か御相談ありたるが、程なく将軍家には怪しい御病気を発したるゆえ、護持院を召され西ノ丸に於て御病気を平癒を修したるが、何の修法であったのか御病悩は逆にいやますばかり、ついに御発狂のていなれば、井伊掃部は深く怪しみ、ある夜白身で西ノ丸へ当直を養目(ひきめ)の法を修したに不思議なるかな将軍家の御病気が速やかに御平癒ありたり。
 掃部頭はさてこそとそれより護持院僧正に面談の上、修法の件を詰問あり以後は登城無用ときびしく言渡された。そこで護持院僧正は戸も出せず赤面なして、そのまま御城を下っていった。
 さてもおさめは或る日、綱吉公の御酒宴の席にでて、そっと御機嫌をうかがっていた上で、
「私こと賤しき身にて度々君の御惰をばいただき、ついには御胤をやどし今の越前守殿を生みました。しかし可哀そうなのは、あの子でございます。この身に表向きの夫が居るばっかりに、越前守どのは正しく君の御胤であっても何ともなりませぬ。先年御養君が甲府より西ノ丸へ入らせられ御世継ぎとして定まりましたゆえ、越前守どのぱ御城にて御誕生ましまさば、正しく御世継になり給うべきに、賎しきこの身にやどり給いしゆえ果報ったなきこととなり申し、生みし身としては辛うございます」
 涙ながらに袖をひき訴えたゆえ、綱吉公もさらに心を乱し給い、「なる程、越前守は我子に相違なき故に世継となさん、と思えど一旦家宣を養子となしたれば今更せんすべなし、よりてこれまで種々に手だてをめぐらせど事ならず。されどここにひとつの手段あり。来る正月十一日は具足開きの式日なれば当日は老臣を遠ざけ、家宣を千討ちになしてしまい、そして、「さめ」の生みたる高子をば次の将軍にしてやらん」と仰せられ、
「万が一にも事ならざる時は、やむを得ぬから其方の生んだ兄をば百万石に取立て、甲斐の国主となすべし」
 と仰せあり、料紙や硯を取よせ給い、甲斐信濃二ケ国にて百万石を迫て沙汰すべきものなり松平美濃守へ、と御白筆にてしるしたまい、「おさめ」へ御渡しあそばされた。
 おさめはこれを頂戴なしありがたく御礼申し上げ、なおも御心を慰さめ奉まつり御酒宴も終りたれぱ、いつものごとく御寝所へ伴い将軍家もその夜は柳佐和御殿へ泊りたり。
さて翌朝、綱吉公は改めて松平美濃守吉里を召され、其方の数年来の忠勤は類がなきよりこのたび甲斐の国主となし百万石をあてがうべしと、御墨附を給わりたれば、吉里謹んで御請け申した。
 お伴してきた柳佐和へ将軍家は声を落し思う仔細もあれば、当分はこの事を他へ披露すべからず、との上意にて、承知した美濃守も有がたく御礼を申上げ御前をまかり出たり。
 さても光陰は休むこともなく、その年もくれて明ければ宝永六年の春を迎え、あら玉の正月となった。
 御祝いの元旦の儀式も七種の年賀の膳もおわり、正月の十日とぞなりにける。よって明十一日は具足開きの当日なれば将軍もおわせまし、それゆえ明日は西丸家宜公と御跡目に正式に決める儀式をとり行なう。そのため水入らずにつき掃部頭始め老中も出席に及ばざるむねが将軍自身より仰せ出された。
 掃部頭これを聞きふしぎに思い、万一家宣公に凶事あっては国家の人事で大乱のもとはこの上へ有るべきはなしと、すぐさま御前へまかり出て御機嫌を伺い言上なしたるは、
「明日は仰具足開きの御祝いにて、当日は親子御二方のみにて行い給い、愚老を始め老中の者は出席に及ばざるよしのお達しですが、さりながら私めは老年に及び候て、明をも知れぬ命に思えば今生の思い出になにとぞ出席をお許しなされたく、この段願い奉まつる」
 と、心配して申し上げた。
 が、将軍家にあっては御許しこれなく再三しいて願いたるに、御不興に思いめされ、
「以後は出仕に及ばず早々に国元へ立戻り隠居住るべし。しかしこれ迄の勤めを思し召され」
 と貞宗の御刀を拝領仰せられ、それで御前を伺候下りはしたが忠義一途の掃部頭そのまま大奥に到り御台所へ御目通りを願いでて御前へ伺候すると、今日の始末を言上に及び御暇乞いの為参上仕ると落涙に及んだ。
 かねて賢明の御台所は掃部頭の意中をすぐ推察なさり万事みずから心をくばり、どうか国許へ戻っても、息災で居れよと仰せられ掃部頭に別れを告げ給えり。
 そして君御不例の由なればと御台所は御見舞を出された。そのためその夜は当直の者を休息させ、引き退らせて待っておられると、
「わしは元気である」と将軍家は心配させまいと、大奥へおもむかれた。そこで奥女中にて御寝所を出められ御台所は直接に将軍家へ御談判の様子であった。
 やがて夜中であったが諸役人総登城して具足開きに参列せよと叩令がでた。
 家宣公はこのため無難に御家督と定り、松平美濃守は御役御免遠慮仰せ付られる結果となったのである。
 その後百万石の墨付を取戻さんとして井伊掃部頭は、柳佐和中家へ到り美濃守吉保を説き伏せ難なく御墨付取戻しに成功。よって美濃守は隠居しで子息の吉里が家督相続をなし、甲斐守と改めて大和の郡山において十五万千二百石余を賜った。吉保はやがて入道して保山と号したが、妻のさめと仲良く安堵のおもいをなしてすごした。
 これひとえに御台所の貞烈によるものと掃祁頭の誠忠のなす所なりという。かくてこの後は事故もなく相すみたのである。間もなく御台所にあっては御逝去あそばされたが、御自害のよしも風聞せり。
 時に宝永六年五月朔日、家宣将軍宣下あり徳川六代の君と仰がれけるとぞめでたかれ…
……適当というか、でたらめというか飛んでもない話である。綱吉が、おさめにかきくどかれて世つぎときめた家宣を手討ちにして殺してしまおうとしたとか。御台所(原文では御産所)が談判して取りやめにさせたが、妻としては婦徳に反するのではあるまいかと反省して自殺というのは可笑しい。
 また幕末有名だったが桜出門外の変で、殺された井伊掃部頭がでてきて大活躍するけれど、元禄十三年まではたしか井伊直興が大老だったが、その後はずっと柳沢吉保が大老なのである。
 江戸時代の幕閣にあって、大奥の御台所の許へ、井伊が別れを告げに行くあたりは「南部坂、雪の別れ」 の忠臣蔵の模倣である。男子禁制の所ゆえ大老でもゆけはしない筈である。また、夫と共にいるおさめが妊娠したからといって、綱吉の子であるというのも変である。
 それに初めは舞妓が気に入って通ったのが、途中から人妻のおさめに転向もおかしい。
 少女趣味の男が成熟したおとなの女へ、好みが変ることなど常識ではありはしない。
 また護持院が祈祷して病状を悪化させたのを、井伊が拝み直して治したというのもひどい。
 今でいえば劇画のように挿絵を主にしたものゆえ、とやかくいっても始まらぬが、宝塚で大正時代にレビユーを始めたとき、衣裳代の関係で袖の短かいものをきせ、これに和洋大合奏の賑やかな曲をつけたのが、「元禄花見踊」のタイトルであったため、「元禄時代」といえば何か派手な連想を台え、天下泰平だったようなイメージをもたされてしまい、それが今では常識のごとく固まっているが、とんでもない狂乱な大弾圧と大冷害の時代だったのは、これから書く柳沢吉保の実際によって判ってほしい。
 真の元禄時代を解明してゆくには、彼を通して書くしかないから、これまでの俗説を打破するために、次々とここまで愚にもつかぬものを羅列してきたのを御侘びする次第である。    
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