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「芭蕉と中国文学」 素堂の関与

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「芭蕉と中国文学」〔五山の遺産と平安朝の遺産〕 神田秀夫氏著
 
(前略)芭蕉の読んだ漢漢籍には二つの系統がある。一つは「白氏文集」の蒙求のような、平安朝の昔から読まれて来たもので、この方は多分、北村季吟から承け継いだものであろう。他の一つは杜詩のような、五山文学の時代から読まれだしたもので、この方は多分、山口素堂から啓蒙されたものであろう。
(中略)
そこで想像ではあるが、芭蕉に杜詩や東坡・山谷を読ませたり、荘子の思想を滲透させたりした源流は山口素堂にあるのでなかろうか。もちろん素堂だって信章の時代は、桃青時代の芭蕉とともに『江戸両吟』『江戸三吟』と談林風に遊んだわけで、当時は彼も「古文眞寶氣のつまる秋」と附けていた(『両吟』)のだが、芭蕉が深川に移って以後、彼のために、あの四山の瓢銘を作ったり、蓑蟲の説をなしたりした「隠士素翁」は、わずか二歳の年長であるが、芭蕉より早く唐宋詩文の世界に深入りしていたらしく見えるからである。その意味では、この稿の主題「芭蕉と唐宋詩文との交渉」も、「芭蕉と素堂の交渉」と改めるべきかもしれない。
(『日本古典鑑賞講座』井本農一氏編)
 

【高田屋 嘉兵衛】たかだや かへえ

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【高田屋 嘉兵衛】たかだや かへえ

  『別冊歴史読本』江戸人物ものしり事典 伝記シリーズ 昭和54年 一部加筆
 
明和六年(一七六九)、淡路国津名都志村に生まれる。寛政四年(一七九二)、兵庫に出て、工楽松右衛門の御影屋に働き、その手腕と度胸をみこまれ、千七百石積みの大船辰悦丸の船頭に抜擢されて、蝦夷地との通商にのりだし、やがて独立して西国から北国の海運業に携った。
幕府が蝦夷地の開拓を進めると、享和元年(一八〇一)蝦夷地雇船頭を命ぜられ、択捉島の調査開発を進め、千島沿岸に漁業権をにぎり、兵庫を本拠として、海運業、漁業、造船などにわたって活躍して莫大な富を積んだ。文化九年(一八一二)、国後島沖でロシア船に揃えられたが、カムチャツカ長官ゴロウニンと外交交渉を行ない、日露両国の紛争を解決した。
文政七年(一八二四)、弟金兵衛に家業を譲り、この年病没した。

【中井左衛門】なかいげんざえもん

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【中井左衛門】なかいげんざえもん

『別冊歴史読本』江戸人物ものしり事典 伝記シリーズ 昭和54年 一部加筆
  
享保元年(一七一六)に生まれる。市左衛門光治の長男。名は光武、隠居して良祐と称した。中井家は近江の日野の商家で、日野椀や薬種の販売を営んでいた。
享保十年、父が没し家運が一時衰えた。十九歳のとき売薬一駄をもって関東から奥羽に行商にでかけ、各地の商品を転売し、二十四歳のとき下野の大田原に質店をひらき、ついで仙台に呉服店をもうけ屋号を日野屋と称した。奥羽の生糸・紅花を上方や江戸に送り、京坂の古着・繰綿を奥羽に売り捌いて、巨利を占め、日野を本拠に、奥羽各地、京都・大坂・名古屋・豊後杵築に支店をもうけ、一代にして三十万両の資産をつくり、豪商中井家の基をひらいた。
安永五年(一七七六)、次子光昌に家業を譲り、文化二年(一八〇五)に没した。

【中村 内蔵助】なかむら くらのすけ

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【中村 内蔵助】なかむら くらのすけ

  『別冊歴史読本』江戸人物ものしり事典 伝記シリーズ 昭和54年 一部加筆
 
寛文九年(一六六九)、京都の銀座商人の家に生まれる。九郎右衛門と称し、みずから藤原信盈と名のった。
銀座役人は、幕府の通貨の銀を鋳造するたびに歩一という手数料を入手したが、この利得が大きかった。内蔵助は、とくに元禄八年(一六九五)から行なわれた金銀改鋳によって、急速に巨利をおさめた。元禄十二年には銀座年寄役に進み、さらに江戸在番もつとめた。下立売室町に方一町の豪邸をもうけ、その豪著な生活をうたわれた。元禄の後期、東山の衣裳くらべで彼の妻女が雪のような白無垢の上に黒羽二重の打掛姿で人々を圧倒した話は多くの人を驚かせた。
正徳四年(一七一四)、銀座役人の不正が咎められ関所追放となり享保十五年(一七三〇)に没した。享年六十三歳。

【奈良屋 茂左衛門】ならや もざえもん

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【奈良屋 茂左衛門】ならや もざえもん

『別冊歴史読本』江戸人物ものしり事典 伝記シリーズ 昭和54年 一部加筆
 
生年不詳。江戸に生まれる。姓は神田氏、名は勝豊、法名を安休という。
父茂左衛門は江戸の下町で車力をしていたというから貧家の出であった。材木屋に勤め二十八歳のとき独立して材木商をはじめた。日光東照官の修復工事にあたり、工事を安く落札し、不正を働いた小矛場町の木曽檜問屋の柏木伝右衛門を陥れてその木材を手に入れ、巨額の資産を積んだといわれる。
元禄年間(一六八八~一七〇四)材木商神戸彦七郎とともに飛騨の寺領山林の伐り出し工事を請負、幕府の御用商人としての地位を得、その後木曾山林の木材仕入れなどに手をひろげ、一代にして江戸有数の豪商となっ
た。
正徳五年(一七一五)病没したときの資産は十三万両という。この遺産は子の茂左衛門広璘(こうりん)が放蕩し奈良屋は没落した。

【西 類子】にし るいす ルソン貿易

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【西 類子】にし るいす ルソン貿易

『別冊歴史読本』江戸人物ものしり事典 伝記シリーズ 昭和54年 一部加筆
 
生年不詳。七百石の武士、西宗源の子として肥前大村に生まれる。名は九郎兵衛。
文禄末年ごろ、海外通商を志してルソン島に渡り、貿易の利便のためキリスト教に入信し、数名をルイスと名のる。
慶長年間(一五九六~一六一五)マニラを本拠として、日本とルソンとの貿易に携り、ルソンにおける日本人貿易商の巨頭となった。慶長十二年、大村藩主大村喜前(よしさき)の推挙で徳川家康に謁し、ルソンの情勢を報告し、幕府から朱印状を与えられ、しきりにルソン貿易を行ない、スペイン語に長じたため、幕府の外交使節
の役割を果たした。慶氏十七年、帰国して長崎に根拠を移した。
元和三年(一六一七)、海外貿易をやめ、日連宗に改宗し宗真と号した。同六年堺に引退し、正保三年(一六四六)に没した。

【浜口 儀兵衛】はまぐち ぎへえ ヤマサ醤油

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【浜口 儀兵衛】はまぐち ぎへえ ヤマサ醤油

 『別冊歴史読本』江戸人物ものしり事典 伝記シリーズ 昭和54年 一部加筆
 
文政三年(一八二一)紀州有田郡広村の浜口家の分家に生まれる。名は成則、字は公輿(こうよ)栰陵(ごりょう)と号した。
浜口宏は下総銚子で醤油醸造を営み、ヤマサ醤油で名高い。十三歳のとき、銚子の本家をつぎ七代目儀兵衛となった。いらい銚子と紀州を往反して、幕末の変動のなかでよく家業を守った。彼は一介の商人でなく三宅艮斎(こんさい「)に師事し、学問や槍術にすぐれ、佐久間象山・勝海舟らと交友した。安政年間(一八五四~六〇)、コレラの大流行のさい防疫につとめて銚子市民を救い、七百両を投じて江戸市民の種痘普及につとめ、故郷広村の海岸に大築堤をつくるなど社会事業に貢献した。
和歌山藩の勘定奉行、明治政府の駅遁頭(えきていのかみ)、和歌山県会議長を歴任した後、明治十七年(一八八四)、外遊中アメリカで客死した。

【藤村 庸軒】 ふじむら ようけん

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【藤村 庸軒】ふじむら ようけん

『別冊歴史読本』江戸人物ものしり事典 伝記シリーズ 昭和54年 一部加筆  
 
慶長十八年(一六一三)、京都の茶人久田家に生まれた。京都西洞院下立売の藤村家をつぐ。通称は十二屋源兵衛、名は政直、徹翁と号し、反古庵と称した。
藤村屋は十二屋と称する富裕な呉服商であり、伊勢の津および伊賀の上野の大名藤堂家の御用商人をつとめた。膚軒は家業のかたわら三宅亡羊、山崎闇斎について儒学をおさめ、とくに茶事にすぐれた。はじめ薮内相智・小堀遠州・金森宗和らにつき、ついで千宗旦の門に入り、宗旦四天王のひとりに数えられ、庸軒流の一派をひらいた。津の藤堂家の茶頭をつとめた。詩文にも秀で、近世前期の京都上層町衆のサロン文化を代表するひとりであった。
元禄十二年(一六九九)没。京都の金戒(こんかい)光明寺の澱看(よどみ)席、江州堅田の天然図画(てんねんづえ)亭は庸軒好みの茶室として知られる。

【淀屋 三郎右衛門】 よどや さぶろうえもん

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【淀屋 三郎右衛門】 よどや さぶろうえもん

『別冊歴史読本』江戸人物ものしり事典 伝記シリーズ 昭和54年 一部加筆   
 
天正五年(一五七七)に生まれる。常安の二男。姓は岡本氏、名を言当(よしまさ)玄个(げんこ)庵と号し、略して个庵という。
尊父の常安は大坂開発の町人で惣年寄をつとめ、材木商を営み、幕府の御用商人であった。言当は材木の家業をひろめるとともに、天山摘町の塩・魚の商業に手をのばし、津村の葭烏を開発し、海部堀川を開き、新靭町・新天満町・海部堀町の三町をつくり、ここに雑喉場魚市場を創設した。またその所有地にある天満に青物市場を育成した。さらに大川町の店舗で米の取引をはじめ、諸大名の蔵元となり、諸藩が大坂に廻漕する蔵米の販売
を一手に引きうけた。門前に市をなす米商人のため、自費で土佐堀川に架橋したものが、後に淀屋橋とよばれるようになる。その店は盛大を極め、手代三十余人、惣家内百七十人といわれた。このように後に大坂の三大市場と称される雑喉場・天満・堂島の市場の基襟をつくった。
海道にも関係し北国米の大坂廻漕をすすめ、長崎の海外貿易にものりだし、生糸輸入のいわゆる糸割符に大坂商人を参加させるように力をつくした。
彼はまた文人であり、連歌・絵画に長じ、茶湯を好み、風流を解した。寛、冬一十年(一六四三)没。享年六十七歳。

天下の台所「大坂」

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天下の台所「大坂」

江戸期日本一の商業部市大坂にみる経済発展の条件

『別冊歴史読本』江戸人物ものしり事典 伝記シリーズ 昭和54年 一部加筆 
原田伴彦氏著(当時、大阪市立大学教授)
 
 大坂は豊臣秀吉が建設してから政治都市=城下町として発展するが、大坂の陣で豊臣氏が亡び、幕府の直轄領となってからは商業都市に転身する。十七世紀の中ごろすぎ、寛文のころからの大坂の経済的成長は目ざましい。
 ところで上方とは京・大坂のことを示す通称であり、一般に江戸時代の上方経済というと大坂が中心であったと考えられやすいが、十七世紀は、経済的には京都の方が大坂より進んでいたのである。京都は中世いらい文化都市であり、宗教都市であったばかりでなく十七世紀の後期までは、畿内だけでなく、わが国での商業・貿易・金融の中枢だった。それにわが国で最大の産業都市だった。
 この第一の産業都市という性格は江戸時代を通じて変りがない。要するに、京都は経済的には「天下の台所」だったのである。上方というのも、もともとは京都をさす言葉だった。その形勢が逆転して、大坂がその富力において京都を凌いでくるのが、十七世紀末の元禄期なのであった。
 大坂が京都にかわって「天下の台所」といわれるようになった、その経済的発展の条件をあげてみよう。
 第一に、「水の都」といわれるように、水上交通の立地条件に恵まれたことである。その前方に日本の経済動脈である瀬戸内海をひかえ、背後には先進地帯である京都や大和を結ぶ淀川や大和川の水運を擁していた。
 第二に、いわゆる西廻り海運が啓かれ、日本海から下関を経て瀬戸内海を大坂に達する航路ができ、さらに大坂と江戸間の海運がさかんになって、大坂が全国的市場の安の位置に立ったことである。当時、西日本の諸藩では農民から年貢として取り立てた米穀の多くを金にかえて、その貨幣支出をまかなわねばならなかった。西廻り海運の発展は、米穀の換金市場を京から大坂に移すことになった。諸藩は大坂に蔵屋敷をもうけて貢租米を大坂市場で売った。大坂の市場は諸国の米の集散によって栄えるに至った。
 第三に、大坂に回漕される商品には、米のほかに諸国の特産物が多かったことである。阿波の藍玉、備後の畳表、土佐・長州の木材や紙、姫路の皮革、筑後の蝋、讃岐の砂、安芸の塩といったたぐいである。近世中期をすぎるとそれはいっそうふえ、北陸、東北、蝦夷地の地域の特産物、たとえば紅花、海産物にまで及んだ。これらの物資は大坂から各地に送られた。さらに畿内の特産物の木綿、油、嗣・鉄などの金属製品も、大坂から、西日本はじめ、東北の各地にまで移出された。これらの大量の物資を扱う問屋・仲買ら商業資本家は肥大していったのである。
 第四に、近世中期をすぎると、幕府はその財政補強のために、町人たちに多額の運上金などの租税を賦課する代償として、彼らに商工業各種にわたる組合をつくらせ、仕入れ・販売の両面で独占的な特権を与えた。いわゆる株仲間の結成であるが、このことが大坂町人をますます富ませるに至った。
 第五に大坂が商業の中枢になれは、当然に金融の活発化が進んだ。これを担当したのが両替商で、その資金を利貸し資本として活用した。その中心は大名に対する貸付けであった。大坂の豪商は多くこの両替商を兼ねた。
 こうして大坂は、十八世紀には、天下の金権都市に躍進したのである。
 ところで、大坂の商菜、金融の繁栄が、ひとつには江戸という巨大都市の消費生活に支えられていた点を注目しなければならない。江戸は武士五十万人、町人五十万人、あわせて百万人を越すとみられる、当時は世界でも屈指の大都市であった。江戸で消費する大量の物資は、江戸とその周辺の関八州では供給しきれなかった。江戸への物資の供給条件は、大量にそれを調達しうる資力と運輸力をもつということであり、その条件をみたしたのが上方の商人だったのである。すなわち江戸の消費物資を賄って利益をあげたのが、上方とくに大坂の商人である。大坂にとって江戸は最大の顧客であり、江戸の繁栄はとりもなおさず大坂の繁栄であった。
 大坂商人は、諸藩が参勤交代で江戸にて使うための巨額の金を上方市場で調達してやった。つまり諸藩の年貢米や国産物を換金して手数料などの利得をおさめた。さらに諸藩がその金で購入する物資を江戸に輸送して、ここでまた多大の差額の利得をえた。諸藩は自分の米や特産物品を大坂でいったん安く売り払って、それを江戸でより高く買いもどしている勘定になる。その差額の分は大坂町人の懐に入った。そして諸藩が財政の赤字で苦しむと大坂町人から高利で金を借りた。諸藩が財政で苦しんだ分だけ大坂町人は肥大していったわけである。この経済的メカニズムは「産物廻し」とよばれているが、大坂が「天下の台所」になり、大坂町人が天下の経済的実権を担ったのは、このためであった。
 さて十九世紀に入って、幕末ちかくなると、大坂の経済的発展が停滞し、市況が相対的に沈滞してくる。それは江戸時代の後期が、経済的低成長の段階になったこととも関係するが、大坂の経済的地盤沈下の理由としてつぎの三点があげられる。
 第一は、諸藩が大坂に送る蔵物の減少である。財政窮迫に苦しんだ諸藩は、いわゆる専売制度をしき、薄みずからが商業をはじめた。この藩領国経済の自立化政策のあおりで、大坂商人の地方経済への介入が減った。つまり大坂経由の商品が減ったのであって、このことが大坂市場の相対的な狭隆化を生んだのである。
 つぎに、大坂周辺の農村で、いわゆる在郷商人が勢力をえて、大坂の問屋や株仲間の特権がゆらいだ点である。大坂商人の周辺の農村市場への独占はくずれはじめた。締や油などは、大坂の市場を経由しないで、在方の生産者や商人が各地に勝手に商品を自由販売する傾向が著しくなった。大坂商人は、特権の上にあぐらをかいて、仕入れを独占したり、独占価格で高く売りつけることができなくなったのである。
 第三に、大坂にとって最大の顧客市場であった江戸の経済力が低下した点である。幕府をはじめ諸藩の財政逼迫は江戸の購買力を低下させた。さらに江戸周辺から関東にかけてのいわゆる地廻り経済物資がふえた。その分だけ大坂から江戸へ送る商品が減り、利得が減少したのである。「産物廻し」のメカニズムが崩れはじめたわけである。もちろん腐っても鯛のたとえのごとく、大坂の「天下の台所」としての地位が崩壊したわけではないが、幕末期には、大坂経済の斜陽化は年をおって進んだ。

武田武将 秋山伯耆守信友

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武田武将 秋山伯耆守信友

50騎。旗色は白地に丸の黒橘。秋山家は第3代当主の逸見清光の子加賀美遠光の嫡子秋山太郎光朝が始札新左衛門信任(のぶとう)を父とする信友は、一時は善右衛門尉と称する。天文15年に箒守となる。
弘治2年初代の高遠城主兼伊那郡代に就任。勝頼が高遠城へ入ると、下伊那の飯田城代へ転ずる。これは信友が鎌倉時代に信濃守として下伊賀良庄に縁が深い加賀美遠光の後裔であることを考慮しての配転か。のちに美濃岩村城主となる。
 信友は嗣子がなく、金丸虎義の3男源蔵昌詮を養子に迎えたが、昌詮が29歳で病死すると弟の7男源蔵親久(天正10年勝頼に殉死)を再び養子に迎えた。信玄の娘お松が織田信忠と婚約すると、膨大な結納品を信長・信忠に届けた。元亀3年に美濃恵那郡の岩村霧城(きりがじょう)を攻め落し、信長の叔母(城主遠山景任の未亡人)を側室とする。天正3年長篠敗戦後、信長勢に放れ、側室や相備えの座光寺民らとともに長良川の河原で逆さ磔にされたという。享年49。法名浄国。小笠原家、南部家、於曽家などは同族。秋山は南アルブス市甲西町の地名。
 

武田武将 浅利右馬助信種

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武田武将 浅利右馬助信種

 120騎。名を信音ともいう。旗色不明。第3代当主逸見清光の子浅利冠者義成の後裔浅利虎在の子。式部少輔。一説に信玄の従弟という。天文15年侍大将になる。軍容は赤一色。永禄4年の川中島戦のとき八幡原布陣。永禄10年吉田左近助信生らとともに起請文をとりまとめて下之郷大明神(上田市 生島足神社)へ納める。初代の上州箕輪城代。永禄1210月相模の三増峠の合戦で北条勢の鉄砲に打たれて戦死。法名泰公。名将の戦死を惜しんで地元の人々が浅利明神を造ったという。子の彦次郎は天正10年に家康に降る。浅利は豊富村の地名。

武田武将 跡部大炊助勝資 あとべおおいのすけ かつすけ

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武田武将 跡部大炊助勝資 あとべおおいのすけ かつすけ

300騎。放色白地に朱の丸。信玄・勝頼の側近。伊賀守信秋の子又八郎。天正7年に尾張守を称する。跡部家は小笠原家の分家伴野氏より派生。大炊助は信玄のお守役跡部尾張守の甥で信玄の遊び友達。信玄が尾張守の死を哀れみ、300騎の将に抜擢したという。
 跡部家が甲州へ入国したのは武田信元(武田信満の弟。空山。穴山修理大夫)とその甥の武田信重(信満の子)が高野山へ流浪していたとき、足利幕府が信濃国守護の小笠原政康(母は武田信春の女。信元の甥)に信元の入国を支援するよう要請、その結果として武田家の守護代となる。権力をほしいままにした跡部駿河守明海・  上野介景家父子は武田家の家宝御放・楯無を奪い取り、下剋上を果たそうとした。しかし明海の死後、貴家が武田信昌に敗れて牧丘町西保小田野城外で殺害される。
 永禄4年の川中島戦のとき八幡原で信玄の後ろ備えを務め、また駿河攻めのとき 北条民政の軍勢と下手な合戦をして「紅丸拠旗(こき)」と渾名(あだな)を付けられる。合戦は苦手だったが、他国の客人の接待や文書の扱いは得意だったという。『甲斐国志』によれば、長篠戦後は原隼人佑とともに行政の最高機関である「職」を務める。天正103月勝頼に殉死したとも、また諏訪で殺されたともいう。穀蔵寺殿といわれ、父が造った攀桂(はんけい)寺(甲府市千塚)に葬られる。法名は天祐恵長居士。跡部は佐久市の地名。

長坂町 深沢川の断層

熊本県の人、富岡敬明-山梨県北杜市日野春開拓の恩人-

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富岡敬明-日野原開拓の恩人-
『郷土史にかがやく人々』青少年のための山梨県民会議編 第11集 昭和56年刊 
《一部加筆》

「富岡敬明」執筆者 手塚寿男 略歴

 大正六年東山梨郡大和村に生まれる。中央大学経済学部卒業。県立高等学校勤務を経て、現在山梨県教育委員会文化課嘱託、山梨大学講師、山梨
郷土研究会常任理事。編著『郷土史事典山梨県』(昌平社)、共著『山梨県の歴史散歩』(山川出版社)・『郷土史読本』(県教委)、
部分執筆『山梨県政百年史』『中道町史』『八代町誌』『境川村誌』『牧丘町誌』『三珠町誌』『山梨百科事典』など。

富岡敬明略歴

文政五年(八一)十月八日、肥前国佐智藩の小城(おぎ)支藩士神代利温(くましろとしはる)の二男に生まれ、天保三年(八三一)富岡孫明の撃となる。元治元年(八六四)の小城騒動では、警誓ため御蔵方の太田蔵人を暗殺しようとして果たさず、死刑の判決を受けたが、本藩主鍋島直正(閑曳)の特命によって、あやうく死を免れることができた。
明治二年(一八六九)からは本藩に仕えるが、四年の廃置県によって伊万里県権参事(ごんさんじ)に任命され、明治五年五年三月には山梨県権参事転じた。その直後起こった大小切騒動乗り切り、六年からは新任の県権令(のち県令)藤村紫朗を補佐して殖産興業策を推進するが、とりわけ日野原(北杜市長坂町日野春)の開拓については、敬明の力によるところが大きい。七竿月参事に昇任、日野原に県勧業試験場を設置し、個人的には、里垣村(甲府市善光寺町)を本拠の地と定めていしたが、八年九月名東県(現徳島県)権令に昇任転出した。九年十月には神風連(じんぷうれん)の乱後の熊本県権令に任命され、翌年の西南戦争では、県庁のある熊本城を西郷軍に包囲され、五〇日余りにわたって籠城した。十年七月県令に進み、十九年には制度の改正によって知事となった。敬明の熊本県在任は六年間にわたるが、戦禍の復興をはじめ諸産業の発達や文教の振興に力をつくし、とくに三角(みすみ)港の築港は最大の功績であって、のちに頒徳碑を建てられるもととなった。
 明治十四年四月退官、貴族院議員に勅選されて里垣村へ帰った。議員は年だけで辞し、至年五月には男爵を授けられて華族の列に入ったが、四十年月十七日、八八歳の天寿を全うした。
 

富岡家へ

 敬明は文政五年(一八二二)十一月八日、肥前国小城郡桜岡北小路に小城藩士神代利温(くましろとしはる)の二男として生まれ、幼名を左次郎といった。肥前国は現在の壱岐・対馬を除く長崎県と佐賀県の地で、江戸時代には佐嘉(さが)郡に鍋島氏五万七〇〇〇石の佐賀藩(肥前藩ともいう)が置かれ、その中から小城(七万三二五〇石)蓮池(五万六〇〇〇石)、鹿島(二万石)の支藩が分かれ出てした。
 実父神代利温は、藩主鍋島直堯(なおたか)に『甲陽軍鑑』を講ずる職にあり、母ソミは家老園田善左衛門の娘である。左次郎は生まれつき体が大きく、なかなかの腕白で、柿の木から落ちて気絶したり、小魚をとろうとして田の用水をせきとめ、農民からねじこまれたり、年長の子を川につき落すようなことがたびたびあったが、あるとき友だちと二人で門番の目を盗んで藩邸へ入ったところ、空を覆って聳え立つ巨大なクスノキに驚嘆し、「俺も今にあの木のようになってやろう」と幼な心にひそかに誓ったといわれる。  
八歳になると、父の命により留守憲兵衛について四書(大学・中庸・論語・孟子)の素読を習いはじめ、十歳からは藩校の興譲館へ通学するようになった。
天保三年(一八三二)三月、十歳の左次郎は富岡孫明(通称惣八)の養子に迎えられた。富岡家は藤原氏の末流で、はじめ後藤氏を称して竜造寺氏に仕えたが、鍋島氏が竜造寺氏を圧倒するとこれに仕えて富岡と改姓した。代々侍組・足軽組の数十名を率いる家柄で、「富岡氏系譜」によると、孫明の前の陳明の代には、知行地〇五石五斗と切米七〇石を雲りていた。左次郎が養子入り後はじめて藩主にお目見得したのは、同じ年の六月であった。
 天保六年には、輿譲館の寮生となり、漢学や歴史を学ぶかたわら、弓馬・槍術・砲射術などのわざを修めたが、とくに槍と馬が得意であった。しかし、当時の興譲館は衰退期にあって、校舎も古く、教授陣も充実していなかったので、これにあきたらない左次郎は、やがて山鹿素水に入門して山鹿流の軍学を修め、更に佐賀藩教授の草場珮川(はいせん)の塾に入って、経史・詩文などを学んだ。十五歳になった天保七年、左次郎は元服して名を九郎左衛門耿介(こうすけ)と攻め、九年の暮には、養父孫明の長女で彼より一つ年上の津和と結婚した。九郎左衛門は通称であり、本名の耿介はのちに敬明と変え、号を耿介(こうかい)と称するようになった。

小城藩騒動

小城藩士としての敬明の所動は、二一歳の天保十三年、藩主の若殿三平(のち直亮)の御側役として仕官したのにはじまり、以来十年間に、留取次役、神田橋番頭、旧記、西丸聞番、文武方兼指南役、目付役山内目代などを歴任したが、とく嘉永四年(一八五一)本藩の財政上から鹿島支藩が廃藩されようとしたときには、小城・蓮地両藩も共同して反対に立ちあがり、敏明は小城藩主から江戸に特派された。数年間江戸に滞在して支藩存続のためにはたらき、結局廃藩はまぬがれることができたので、藩主からあつく賞された。
これよりさき嘉永三年(一八五〇)には小城藩主鍋島直蕘が隠居し、嫡男の直亮が相続したが、元治元年(一八六四)二月、嗣子がないまま三六歳で病死した。そこで本望鍋島直正の男で八歳の欽八郎(のちの直虎)が小城藩主となり、直堯が実権をふるうようになった。直亮の死は、彼を中心に藩政を改革し、幕末の難局に処して行こうとする敬明ら側近者には大きな打撃であった。これに対して御蔵方として財政担当の太田蔵人は、江戸在勤中に非行があって、目付役の敏明に咎められたこともあり、直堯の葬式のときには不敬な振舞があるような人物であったが、自分の娘と妹を直堯のそばに入れて歓心を買い、事実上藩政を左右するにいたった。敏明らは蔵人を倒して藩を守ろうとし、機会をうかがったが、決行の日がついにきた。
 元治元年五月七日の夜、蔵人が知人宅から帰宅しようとしたのを城下の橋で待ちうけていた藤山相右衛門(二四歳)、岡田半十郎(二九歳)、持永伝弥(二三歳)、武藤主馬助(二八歳)、村崎六郎(三二歳)、京島郎(八歳)らが襲い、相右衛門の刀はたしかに手ごたえがあったが、闇夜のために討ちとることができなかった。敬明(四三歳)はそのとき家にいたが、当時小城藩は長州征伐に出動する重大な時期に当たっていたので、再挙をあきらめ、「騒動の頭取は自分であるからどんな刑をも受けるが、蔵人も死刑にしてもらしたし」と自首して出た。藩による取り調べはながびき、この間に敬明らの行動は正義であるとの世論がわきあがった反面、蔵人に対する同情はまったくなかった。しかし藩の秩序維持されなければならいので、年後に敬明は死刑を、二年後には他の者もそれぞれ重罪を言い渡された。
これに対して慶応年(一八六七)十月一十七日、佐賀本藩主鍋島直正は、敬明の死等をずる特命を出し、松浦郡山代郷久原村において終身禁錮に服せることにした。直正は号の閑叟の方が有名で、天保元年(一八三〇)に襲封以来、人材登用と殖産興業を中心に藩政の改革に成功した人である。彼によって見出され、維新後中央政府の要職についた者には、江藤新平・大隈重信・島義勇(よしたけ)・副島(そえじま)種臣・大木喬任(たかとう)などがある。小城支藩の富岡敬明の人物・才能をもよく知っていたからこそ「敬明を殺すな」の声となったのである。
殖産興業策では名産の伊万里焼や石炭の専売制をしき、内外に輸出して得た資金をもって洋式軍備の充実にあてた。戊辰戦争のとき、上野の山にこもった彰義隊をアームストロング砲で撃破し、佐賀艦隊の活動によって函館の榎本武揚(たけあき)を降伏させるなど、薩・長・土・肥と並び称されるもとを築いたのは閑叟の力によるものであった。
 敏明の刑が確定するとともに家名は断絶となり、家禄・家屋敷・田地 武器などはすべて没収された。久原村の獄舎での敏明の境涯も惨めであったが、それにもまして禄を離れた家族たちの生活は痛ましかった。田圃の中の掘立小屋に住み、時には野菜くずを拾い集めて飢えをしのぎ、草履やわらじをつくつて収入をはかったという。

敬明赦免・家名再興

 敏明が下獄している問に、時代は大きく転換した。明治二年(一八六九)三月四日、敬明は無事に赦免された。当時政府の要路に鍋島閑受をはじめ、江藤新平その他がいたことが幸いしたものであろう。四月になると佐賀藩の弁務(書記)に取り立てられ、つづいて諌早郡・山田郡・上佐賀郡の郡令などに次々と任命された。明治三年六月には、小城藩富岡家の家名再興が許されたので、敬
明の長男重明が当主となり、二五石の家禄を給されることになった。そして同年九月十五日には、敏明自身も佐賀藩の永代藩士として禄一三石六斗を与えられ、十月五日には佐賀藩大属に任用された。
 
 明治四年七月の廃藩置県によって、全国の二六一藩は三府三〇二県となった。元肥前国に佐賀県・小城県・蓮池県・鹿島県・厳原(いずはら)県・唐津県などができたのはこのときである。同年九月には佐賀・厳原両県が合併して伊万里県となり、十一月には小城など四県もこれに統合され、同時に敬明は、太政官から伊万里県権参事に任命された。伊里万県は五年に佐賀県と改称するが、その後 時廃県となり、十六年に再置されて現在にいたっている。
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敬明、山梨県権参事・大小切税法と騒動
 敬明は明治五年三月五日付で山梨県権参事に転任を命ぜられ、二十二日に入県した。当時の県令は土肥実匡(さねまさ)で、彼がもっとも苦慮してしたのは、大小切税法の廃止問題であった。大小切税法は、甲斐国のうち都留郡を除き山梨・八代・巨摩三郡だけに、江戸時代を通じて適用された年式の納入法である。そのととのった形は、年間年貢額の三分の一を小切(しょうぎり)といって、金一両両につき米四石一斗四升の割合(安石代)で金納する。残る三分の二を大切(だいぎり)と称して、そのうちの三分の一(全体の九分の四)は御張紙直段(ねだん)といわれる公定価格で換算して金納、残余(全体の九分の四)を米納するものであった。とくに小切の換算率は一定不変だったため、米価が上昇するにつれて農民の負担は相対的に軽くなったので、このように有利な税法は、武田信玄公が定めたものだとの考えが一郡に広まってした。
 甲斐国の大小切に似た米金両納の税法は全国各地にめずらしくなく、税率もところによってまちまちだったので、中央集権の確立をめざす維新政府は、その裏づけとなる地租を全国一律に改定することとし、その前提として安石代の全廃をはかった。政府からたびたび発せられる大小切廃止の通達に対し、県当局では不測の暴動をおそれて、廃止はしばらく延期してほしいと上申してしたが、明治五年六月、大蔵省は強行廃止を命じてきたので、六月十九日、県ではその旨を郡中惣代に達した。すぐる慶応三年に幕府が廃止しょうとしたときには、三郡の反対運動が大暴動寸前にまでもりあがったが、幕府の倒壊によってようやく事なきを得た経緯がある。

大小切騒動

このたびの政府の方針を平和のうちに達成するために、県では願いごとはすべて書面によることを定める一方、着任まもない権参事冨岡敬明をはじめ、県官たちが村々をまわって説諭につとめたが、村役人らから県庁に対富岡敬明する歎麒は無視され、ついに八月八日には、巨摩郡北山筋の第五・六・七区(現敷島町・双葉町を中心とする地域)の農民八〇〇人が、甲府岩窪の信玄墓所に集まって気勢をあげ、以後各郡の各所に同様の動きが続いた。
 八月二十三日には、東郡の栗原筋・万力筋九七か村の農民らが、むしろ旗をおし立て、竹槍や鉄砲で武装して蜂起した。中心人物は小屋敷村(塩山市)の長官姓小沢留兵衛、松本村(石和町)の名主島田富十郎、隼村(牧丘町)の長官姓倉田利作の三人で、各村の村役人らに呼びかけて組織化を進めたので、立ちあがりには多少時間がかかったが、騒動の中で最も強力な集団であった。一行が甲府へ向かったとの情報が県に入り、富岡権参事らが善光寺まで出向いて説諭をこころみたが、その間に一揆の人数は六〇〇〇人ほどにふくれあがり、宵闇がせまるころには県庁手前の八日町郭門まで突入した。これを見た県令土肥実匡は一揆を欺くため、障子に「願ノ趣聞届候間書面可差出一事」と大書して示した。そこで指導者が路上で願書を書いて差し出すと、県令は「顕ノ趣聞屈候事」と認めた黒印状を渡したので、さしもの騒ぎもいちおう静まった。土肥県令の欺瞞策に対して、富岡権参事は武力弾圧の上で責任をとることを主張し、庁内の意見が対立したといわれるが、史
料の上からはさだかでない。勝利を信じた群衆の多くは村へ帰ったが、残った者のうち約三〇〇人は、翌二十四日の朝、山田町の富豪若尾逸平方を襲い、生糸などの商品を投げだして火をつけ、家財をうちこわすなどの乱暴をはたらいた。
 土肥県令から政府への要請によって、八月一十八日には静岡の軍隊二〇〇人が、九月一日には東京鎮台の一個小隊九六人が着県した。県令はこの兵力を背景に、九月三日、一揆に参加した村の代表者を恵林寺(塩山市)に呼び集め、さきの聞き届けは一時の方便にすぎなしとし
て黒印状をとりあげてしまった。騒動に対する断罪はきびしく、首謀者の小沢留兵衛と島田富十郎は絞首刑に処せられ、徒刑年の者四名、罰金刑の者は名主・長石姓・百姓代ら七六四名と小前約一〇〇〇名におよんだ。病気のため行動に参加できなかった倉田利作は、自首して準流(じゅんる)一○年に処せられたが、服役中に獄舎の改善を叫ぶなどしたため死刑となった。
明治二十二年月十日、憲法発布を祝す大赦によって大小切騒動連累者もすべて罪を許された。これを磯として騒動指導者の慰霊碑を建設しょうとの気運がもりあがり、二十五年の四月、恵林寺の境内に「小沢島田弐氏之碑」が除幕された。篆額は富岡敏明(熊本県知事在任中)、撰文は甲府裁判所書記の望月信(まこと)(青洲)、~書は市川大門の渡辺信(青洲)である。東郡の人々が、騒動時には敵方であった敏明に簑額を依頼し、彼がそれを引きうけた事情は明らかでないが、かつて小城藩騒動のとき、鍋島閑叟によってようやく一命を助けられた敏明の心中には、二人の指導者の非命な死に、悔恨の念があったのかも知れない。
富岡敬明の日野原開拓
 大小切騒動の責任によって、明治六年一月二十日県令土肥実匡は免官となり、代って権令(のち県令、知事)に大阪府参事藤村紫朗が発令された。藤村の人物と業績については、『郷土史にかがやく人々』第六集にくわししが、その下にあって約二年間補佐したのが富岡敬明であり、彼は六年十一月参事に昇任した。
 藤村権令は六年四月二十日「物産富殖ノ告諭」を発し、県の主導による殖産興業策を発足させるが、その原資には、大小切の廃止による国庫増収分の一部の下げ渡し金をあてることをもくろんだ。『山梨県史』によると、下げ渡し見込額は次のとおりである。
 高拾壱万七千弐百九拾六円六拾六銭三厘 旧格収入高卜改正増加高トノ間金ノ分
 金弐方 千四百円         弐分通御下ケ金可相成分
 この二万円余りを日野原の開拓、甲府への器械製糸場建設、甲府元組屋敷跡の開発、信州桑苗の購入による養蚕業の促進などにあてようとの計画であるが、そのうち日野原の開拓は告諭より前から敏明が計画していたものである。
 日野村地内(中央線日野春駅付近)には昔から日野原と呼ばれる広大な荒地があったが、わずかに日野村・塚川村・若神子新町・長坂下条村入会の株刈り場として利用されるにすぎなかった。敬明は地味・気候などを視察の結果、ここを開拓して農桑牧畜の利をおこし、農民の移住定着をはかるとともに、徒刑懲役場を建設しょうと考えた。明治六年一月、敬明は土肥県令と連名の政府宛上申書に右の趣旨を述べ、増税分の二割、概算二万円の下げ渡しを申請した。しかし、これはまだ精密な計算を欠いていたので、文書の往復をくりかえすうちに県令の交代となった。後任の藤村権令(県令)による絢爛たる近代化諸政策のうち殖産興業策の基礎は、敏明のアイディアにもとづくところが大きい。藤村・富岡連名による精密化した計画は、政府によって認められ、下げ渡し金二万 四〇〇円のうち、日野原一五万坪(五〇ヘクタ-ル)の開拓費の内訳は次のとおりであった。
   六〇〇円  桑苗木六万本代(一万五〇〇〇坪分)
    一七円  茶実一石二斗代(一五〇〇坪分)
    二○円  葡萄苗五〇本代(三〇〇坪分)
    三○円  右一品搬入費
   二一五円  開墾費および植付費
   二四五円  肥料代                             -
一〇〇円  番人住居・肥料小屋建築費
    四五円  農具代
計 一二七二円  
 
 これを見て明らかなように、開拓の中心は桑苗の植えつけにおかれていた。養蚕がひじように有利であるにもかかわらず、山梨県四郡のうち巨摩郡はひとりこれを行っていない。地味や気候が適しないからではなく「氏神様がきらうから」などといって、昔からの仕来りに馴染んでいるにすぎない。そこで日野原にまず養蚕のパイロット村をつくり、巨摩郡の人々に目撃させることによって、郡下全般へ押し広めて行こうというのが、藤村・富岡両者の考えであった。明治六年五月政府から認可が下りて、直ちに開墾と桑苗の植えつけをはじめたところ、果たして桑はよく繁茂し、翌年からは養蚕ができる見込みが立った。
 政府の方針としては、家禄を奉還した士族たちを開拓にあたらせ、これに地所を払い下げようとしたが、永年一国天領下にあった山梨県には該当者がなかった。説によると、敬明が九州の士族を呼んで開拓させたので、そのとき持ち込まれたのが「島原の子守唄」で、峡北地方の民謡「縁故節」はその替歌だという。しかし、縁故節は昔からの「えぐえぐ節」を、昭和のはじめころ整理編曲したものであり、九州士族の大量入植を示すたしかな史料もない。
まず今の日野春駅前に番人住居と肥料小屋が定められ、付近の農民たちの労働力によって開拓が進められたのであるが、事業開始早々
に払い下げを受け、県庁の手を離れて自立することには問題があったので、明治七年県から政府に上申して日野原を官用地に編入するとともに、県下初の勧業試験場を設置して蚕業指導の中枢とした。
 同年七月制定された移住希望者に対する規則によると、桑園は町一反四畝二九歩(約五二〇・五ア-ル)三万四七七八株が払い下げ可能であり、移住者はかならず家屋を建設し養蚕を本業とすること、公費消却金は一反歩につき品等により三六~四〇円上納であるが無利子延納を許すこと、払い下げは一戸につき桑園一反歩以上四反歩内外、家屋地・荒蕪地は一反歩以上四反歩まで、計八反歩を限度とすること、桑園地税は六か年間に限り株場税でよしことその他が定められてした。葡萄園は六反六畝七歩(約三六アール)二六株にすぎなかったが、『山梨県市郡村誌』によると一万五五六坪(約三五〇アール)の牧場があり、明治十三年には和牝牛八六頭、和牡牛七頭、生牝牛一○頭、生牡牛九頭、計一一二頭が飼育されていた。

敬明は明治八年九月山梨県を離任

 敬明は明治八年九月山梨県を離任するが、それまでの間、退庁後馬を日野原に乗りつけ、開拓民を激励することがたびたびあった。この日野原をかかえる日野村は、維新後の行政区画としては、五年に巨摩郡第一六区に編入され、七年十二月には渋沢・塚川・長坂上条・長坂下条の四か村と合して日野春村となり、日野春村は九年十月には山梨県第一○区に入ったが、十一年十二月の郡制によって北巨摩郡の一村となった。官有地である日野原の民間への払い下げについては、国・県への陳情をくりかえした結果、二十年十二月許可されて、翌年からは一七町余りが民有となった。二十二年の町村制施行を機に、開拓民たちは恩人敬明を記念するため、その住居地を日野春村の富岡区と定めた。このころから敬明を祭神とする富岡神社の建立が計画されたが、生存者を神に祀ることには問題があるため、結局社名は開拓神社とし、伊勢外宮から豊受姫命を勧請することになって、翌二十三年九月六日、創建の儀式が盛大にとり行われた。
この事業とともに記念碑の建設運動が進められ、二十三年五月の日付による「日原碑」が開拓神社の本殿裏に建てられた。篆額は山梨県知事中嶋錫胤(しゃくいん)、撰文は北巨摩郡長横枕覚助、書は秀嶋醇三(じゅんぞう)である。表面には日野原の開拓につくした富岡敬明をたたえる文と漢詩が記され、裏面には建碑賛成人の名が、山坂弥吉を中心に七十数名ほりこまれてしる。碑は日野春駅のすぐ西の小高い丘の上に、森にかこまれていまも立っている。七十数名が当時の富岡区全員であるかいなか不明であるが、山梨県に多い姓の者がほとんどである。しかし『北巨摩郡誌』によると、区はその後衰微して、明治二十六年には戸数わずかに十戸だったという。これがふたたび繁栄をとりもどしたのは、三十七年十月に中央線日野春駅が開設されてからである。
 

敬明の熊本県時代

 明治八年九月二十日、敬明は名東(みょうとう)県権令兼五等判事の辞令を受けた。名東県は徳島県の前身で、旧阿波・淡路の両落と西讃岐とからなる大県であった。兼官は間もなく辞すが、当時の名東県では、自由民権論者小室信夫を中心とする自助社が県当局をなやませてした。しかし八年末には幹部の逮捕により、自助社は解散に追い込まれた。翌九年八月には名東県が解消し、阿波は高知県へ、淡路は兵庫県へ 西讃岐は香川県へそれぞれ吸収されたので敏明は一時非職となった。

西南戦争

 このころの日本には、自由民権運動のほかに、不平士族の反乱が各地に起こっていた。七年には敬明の故郷に江藤新平による佐賀の乱があり、九年になると廃刀令を契機として、十月に熊本神風連(じんぷうれん)の乱と福岡の秋月の乱、十一月には萩の乱が続して起こり、鹿児島の西郷隆盛の決起も時間の問題と見られるにいたった。このような十一月に、神風連の乱の余波なお収らない熊本県の権令に任命されたのが富岡敏明である。かつて大小切騒動の直前に山梨県へ赴任したのと思い合わせると、敏明の行く手にはいつも難局が待ちかまえていた。
 明治十年二月十五日、私学校生徒に擁された西郷隆盛は、鹿児島県一万五〇〇〇人の士族をひきいて東上の軍を起こし、ここに西南戦争の幕が切って落された。熊本へ向かう途中、各地からの士族が続々加わり、たちまち二万人以上にふくれあがった。熊本県庁は鎮台とともに熊本城内にあり、富岡権令はここにいたが、西郷軍の通過要請に対しては
 一、国法を守るべきこと
 一、官への訴えは手続をふむべきこと
 一、武装通過により県政をみだすことは絶対に認められないことを書き送って断乎拒絶した。これは二月十八日であって、中央政府が討伐令を出す前日に当たっていた。
二月十八日、鎮台軍の斥候兵と西郷軍との最初の衝突が行われ、翌二十二日には西郷軍が熊本城を完全に包囲した。彼らが士官姓とあなどってした鎮台兵は、優秀な武器にささえられてなかなか強く、何日かかっても落すことができなかった。この間に本州からの征討軍は続々九州に入って熊本に向かし、各地に激戦がくり広げられた。なかでも三月二十日の田原坂の戦いは有名である。権令富岡敬明や鎮台司令官谷干城らの熊本城龍城は約五〇日におよび、深刻な食糧欠乏におちいった。四月十四日、征討軍は囲みを破って熊本城に入り、一方海軍は二十七日鹿児島に入港して要所をおさえた。以後戦線は熊本・鹿児島・大分の三県に拡大するが、西郷軍は兵員や食糧・弾薬の補充が続かず、征討軍の兵力はますます増強された。それでも西郷軍の抵抗はなお続いたが、ついに九月二十四日にいたり、西郷隆盛が城山で自刃して西南戦争は終わった。

三角(みすみ)港の開設

 西郷軍による熊本城包囲直前の二月十九日、本丸二ノ天守閣が火災にかかり、城下に延施して大半を焼いていたので、富岡権令はその復興にあたって道路の直線化と拡幅を行った。西郷軍に加担した者の取り調べや処罰には反感もあったが、県下の再建は次第に進んだ。十年十二月状況報告のため上京した敬明は、天皇から勲四等と年金一八〇円の恩賞を受け、さらに翌年七月には県令に昇任した。
 敏明の熊本県在任は足かけ一六年におよび、西南戦争後第五高等中学校(現熊本大学)の誘致をはじめとする文教の振興や、諸産業の発達につくした業績は大きいが、最大の仕事は三角港の築港であった。熊本県に大型船の出入できる港をつくるため、十三年秋には飽田郡の官貫港を再構築することとし、翌年政府の雇いであるオランダ人ムルドルによる実地調査となった。しかしその結果は、この港は遠浅すぎて不適当であり、やや遠隔ではあるが宇土郡一角こそ最適の地と判明した。
そこで富岡県令は県会を説得して計画を変更し、総工費三○万二〇六八円、うち国庫補助一○万円の予算をもって、十七年五月三角築港工事に着手した。山を切り海を埋める難作業ののち、十年六月にはみごと完工し、特別外国輸出港の指定を受けることにも成功した。
敬明は二十四年四月熊本県知事を辞して、山梨県に帰り、勅選の貴族院議員となるが、熊本県の人々は敬明の全業績を顕彰するため、北白川宮能久(よしひさ)親王篆額の「前熊本県知事従三位勲三等富岡敬明君頌徳碑」を二十七年十二月付で三角港に建設した。敬明がかねてから計画してした熊本-宇土-三角の鉄道線は、三十二年九月に開通し、三角港は日本有数の重要港となった。

山梨県人 富岡敬明

 敏明が行政官として山梨県に在任したのはわずか三年であるが、この間に日野原の開拓にはなみなみならぬ情熱をそそぎ、個人としては山梨郡里垣村(甲府市善光寺町)に広大な土地を取得して後妻のコトと住む家を建てている。このころすでに山梨県への定住を意図していたであろうことは、明治十七年八月に本籍をここに移した事実からもうかがうことができる。禄だけで暮らす者がいったん禄を離れたときのみじめさを、小城藩騒動のときつぶさに体験している彼は、大地こそ生活のよりどころと考えたのであろうか。
 熊本から里垣村へ帰った翌年の二十五年三月、貴族院議員を在任わずか一年で辞職した。議会で反対派の起案に賛成したことが与党の非難をまねいたので、自分の信念が通らないような議員生活に愛想がつきたのが理由といわれる。そういう生一本なところのある彼であった。三十三年五月には、主として熊本県時代の功績によって男爵を授けられ、六月には正三位に叙せられた。
 華族であることを誇るようなところが、彼にはすこしもなかった。村人たちと気軽につきあい、名誉村会議員に推されると、すぐさまひきうけて村のために走りまわった。付近を流れる濁川の氾濫になやまされると、その改修に尻をからげて出動し、的確な判断によって排水の方法を教えたこともあった。またあるとき、土地の有力者たちを昼食に招いたが、人々の期待をよそにいつまでも何も出さず、午後四時ころになってから出したのは栗飯に梅干だけであった。箸をとるにあたって、敬明は熊本城に龍城したときの苦しさをしみじみ語り、空腹がひどければどんなものでもおいしく食べられることを説いて、村人たちがぜいたくな生活に走らないようにいましめたという。
日野原開拓村の人々もときどき敏明の家を訪問したが、敏明も開拓神社へ、かつて小城藩主鍋島直堯から拝領した名刀「不動丸」をみずから奉納しており、三十七年の日野春駅開業式には、甲府から馬車でかけつけて祝っている。

双松山房

里垣村の敏明の家を双松山房という。裏山に立派な松が二本あって、樵(きこり)夫がそれを切りかけたのを押しとどめ、その前に家を建てて名づけたものである。この家へ出入りした人は、県内外にわたって数多いが、その中に市大門村の漢詩人渡辺青洲がある。敏明が折々に書きためた作品に『双松山房詩史』と題したのが青洲である。この書物は明治三十二年に第一巻が発行され、巻の予定のところ第四巻まで続いた。「自序」や「富岡氏略系」はもちろん、おびただしく収められた漢詩には、敏明の波瀾に富んだ足どりがよく表わされている。彼は少年時代からの漢学の素養によって詩文に長じており、書は従弟で書聖としわれた中林梧竹の影響もあって能筆だった。
明治四十一年十二月はじめのある日、敏明はふと思いついて汽車で日野春駅に降りたった。これが開拓村の見おさめとなり、村人たちとかわしたことばが永訣の辞となった。このときひいた風邪は年が改まっても全快せず、四十二年月十八日の夕刻、双松山房で八八歳の天寿を全うした。彼が晩年受けたかずかずの栄誉は、おもに在任期間の長かった熊本県時代の功によるが、彼の心は常に山梨を離れたことはなかった。彼が愛してやまなかった山梨県、そこで結ばれた愛妻コトにみとられながらの大往生であった。
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参考文献

 富岡敬明『双松山房詩史』・中央公論社『日本の歴史』20・島田駒男『甲州大小切騒動と富岡敬明』・河村秀明
『小説富岡敬明』・城島正祥外『佐賀県の歴史』一・『山梨県史』・『山梨県政百年史』・『山梨県市郡村誌』・『北巨摩郡誌』・『山梨百科事典』等。なお韮崎市の歌田昌収氏と県立図書館郷土資料室にたいそうお世話になりました。

甲府勤番物語

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甲府勤番物語

『甲州街道』高城宗一郎 一部加筆
 
人口が多ければ、必ず失業者がでる。これは社会の冷酷なメカニズムだが、江戸時代、八万騎とうたわれた旗本の大半ちかくが、無役、つまり固定給だけの失職者であった。
その中から、常時四百人が赴任させられるのが天領・甲斐の甲府勤番だが、江戸中期から末期には、任期なしの、人によっては親代々の勤番士まで生まれ、行かされたら二度と江戸へは帰れない〝山流し〟と旗本に恐れられていた。
 

家康が築いた甲府城-やがて天領

 歴史の転換はまったく思いがけない形で訪れるものである。 天正十年(一五八二)六月一日夜半、京都本能寺で織田信長が明智光秀の反逆にあって急死したとたん、情勢は奔流のように急変した。
 このとき徳川家康は、本多忠勝、石川数正、酒井忠次といった、大名梧の者二十八名、井伊万千代らの小姓、といっても親衛隊だが、彼ら、つまり選り抜きの家臣数十名を連れただけで、信長の招きで安土訪問のあと、京都、奈良を見物ののち、堺にいた。
 おりから信長は、中国地方平定戦のさなかであり、秀吉を野戦司令官とする、対毛利戦の結着をつけるべく安土を出発した途中の出来事であった。
 この変報に家康一行は愕然とし、紀伊半島北部を、途中土匪に悩まされながら横断、すばやく岡崎に帰り、盟友信長の弔い合戦の軍を起こしたものの、いちはやく毛利側と和睦した秀吉が、六月十三日、早くも光秀を討滅したためむなしく引返した。その後しばらくは、歴史の歯車は秀吉を中心に急速度で回転する。 情勢判断にすぐれる家康は、秀吉をめぐっての信長遺臣団の争いの圏外に立ち、同年三月、信長と連合して亡ぼした武田の旧領甲斐の経営に意をそそぎはじめていた。
 甲斐国は、周知のとおり、戦国期を通じてその強豪ぶりを恐れられた、信虎・信玄の本拠地であり、他国の侵略をうけたことがなかっただけに、国中すべてが武田色一色に染まっているところである。
 そこへはじめての勝利者を迎えた甲斐の人びとの心情は、きわめて複雑であった。だが、卓抜な野戟上手であると同時に、稀代の政治家でもある家康は、そのへんの機微をよく捉、え、たくみな政策をほどこした。
 家康と武田氏の関係は、地理的にいって抗争を避けられない位置にあった。その激突の最初が、元亀三年(一五七二)十二月の、浜松北郊三方ケ原の合戦だが、一敗地にまみれた家康は、武将としての雪辱の意気を燃やす反面、信玄に深く魅かれたのであった。
 甲斐に入国した家康の方針は、基本にこの考えが置かれており、滅亡のあと、四散しかけていた武田の旧臣を多数召しかかえるいっぽう、信玄が尊崇していた塩山の恵林寺を修復、さらに勝頼が自刃した田野に、その菩提を弔って景徳院を建てたりした。

赤備え

 政策とはいえ、そうした家康の肌目こまかい施策によって、徳川家に入った武士団は九百人ちかくにのぼり、それぞれ譜代の武将に付けられたが、それがのちに徳川氏の戦力に大きくプラスしたことはいうまでもなく、とくに井伊家では、これを機会に武田二十四将の一人、山県三郎兵衛昌景のそれにならい、軍装一式をすべて朱色で統一し徳川家先鋒・井伊の赤備えとして知られるようになった。
 だが甲斐に対する家康の狙いは、帯状の東海地方に加えて内陸方面の版図の拡大にあり、その拠点として城郭の整備に着手した。
 よく言われるように、信虎・信玄の方針が攻めることにあったのと、四方を山にかこまれた地形上、甲斐にはそれまで城がなかった。いまの甲府城址を訪れた人が、ここが信玄のいたところか- と述懐しているが、信玄の居所は甲府市北はずれの躑躅ケ館である。
幕府直轄領のシンボルとして甲府盆地を陣睨(へいげい)する甲府城は天正十三年(一五八五)、古くは一条小山城、小山城、府中城などと呼ばれた現在地に工を起こしたものの、五年後の天正十八年、秀吉の発動した小田原北条氏討滅戦のあと、家康は関東に移されたため、城は秀吉のものとなり、文禄三年(一五九四)に、十一万石の領主として浅野幸長が入城した。
 だがそれも束の間のこと、慶長五年の関ケ原合戟のあとで、城はふたたび徳川氏のものとなり、小田原城と並ぶ、関東防衛の重要前線基地になった。
 その性格を反映し、慶長八年(一六〇三)には家康の九男義直が入り、そのあとたびたび天領扱いとなったが、元和二年(一六一六)から九年までは、三代将軍家光の弟忠長、慶安四年(一六五一)からは家光の二男綱重、綱豊父子が城
主であった。宝永二年(一七〇五)以後は、五代将軍綱吉(甲府宰相綱豊)のもとで、一大勢力を誇った柳沢吉保が封ぜられたが、吉保失脚後の享保九年(一七二四)からはふたたび天領として江戸期を終えている。

小普請入りの宿命

 天領となった甲斐国の支配は、勤番支配によっておこなわれた。いわゆる甲府〝勤番〟とは、主持ちの武士全体に課せられた、〝軍役〟を内容とする義務で、その統轄者を〝支配〟という。
甲府城の支配は四、五千石級の旗本から選出され、三千石のほかに御役知(役料)一千石が甲府城の歳末から支給され、定員は二名であった。職務は甲府城の守護、城米や武器武具の準備のほか、許された範囲内での訴えも聴断した。 その配下の勤番士は、大手、山ノ手の二組に属し、役職および人数は、それぞれの組に組頭二人、勤番士百人、与力十騎、同心五十人、仮目付五人、武具奉行一人、破損奉行一人、歳立合人一人、以上は勤番士が兼任、組頭には三百俵の役料が支給された。さらにその下には、手代、小人、町年寄、問屋、牢番人などが組み込まれていた。
 勤番士のつとめは、享保二年から同十五年まで老中だった、水野和泉守忠之の出した『甲府ニ於ケル勤行之書』によれば、
一、御城内、楽屋曲輪勤番所昼五人、泊り六人、(内目付一人)、組頭一人組切り勤番のこと。
  昼番は朝五ツ(八時)より夕七ツ(四時)まで、
  泊りは同七ツより翌朝五ツまで相勤むべし。
一、年始元日は残らず罷り出で、登城御礼申し上げ、七種までは、昼夜当番熨斗目麻裃で五節句、夜五ツまで麻上下。
一、両支配は、隔日当番の節、勤番所見回り。
  出火の節は、両支配追手、山の手両御門へ罷り出で、御番方も出火の向きに依って、右御 南門へ相詰める。
(以下略)
 などとあって、かなり厳しいものであったことがわかる。
 さて、この一般の勤番士が、初期のころはそれほどではなかったものが、しだいに幕府の小普請者に対する懲罰的意味が含まれるように、番士の質的低下をまぬがれなかった。
 世間では、甲府勤番を命ぜられることを、「山流し」とか、「甲府勝手」といって哀れんだものであった。
 小普請とは、巌密にいえば役名の一つだが、実態は〝御役〟に出られない者をいう。本来の小普請は、字のとおり屋根や垣根の補修といった小規模な普請作業を行なう役だが、のちには持高(収入)に見合った小普請金を出させ、作業に
従事することに代えるようになった。
 小普請になることを小普請入りというが、そうなった者の生活は苦しい。百石なら百石の持高の支給はあるが、無役だからそれ以上の収入はなく、しかも七月に三分の一、十一月に三分の二の小普請金を納めなければならない。納金
額は、二十俵(石)から五十俵までが金二分、百俵以内は一両、百俵から五百俵までは、百俵ごとに一両二分、それ以上は百俵につき二両で、ただし二十俵以下の者は免除されていた。
 甲府に勤務させられた者も、もちろん例外ではなく、前出の『水野老中』の文書でも、それについてとくに一条を設けて規定している。
 小普請入りの旗本の実例としては、幕末の勝海舟の父小吉の話(本書第1巻末海道篇参照)が有名だが、生涯御役に出られないばかりか、相続小普請といって、親代々無役の者もかなりいたのである。
 江戸における彼らの生活は、小録の者ほど悲惨であり、そこから勝小吉に見られるような、武士とも無頼漢ともつかない者が生まれるのは当然であった
 甲府勤番士は、そうした者のうち、犯罪者すれすれの、いわば札付き者を搔き集めて送ると噂され、脛に疵を持つ者を恐れさせた。
 たしかに、享保ごろは別として、時代が下るにつれて甲府勤番士は終身江戸へ戻れない場合が多く、半分ちかい勤番士が、甲府で退職したり、病死しているのである。
 天保年間、甲府勤番を命じられたある旗本が出した嘆額書には、
「自分には老父母のほか、厄介者(手のかかる縁者の意味)が多く、平素の面倒をみるのに追われ、思うままにならなかったが、なんとかして自分相応のご奉公をし、父母にも孝養をつくしたいと願っていた矢先、甲府勤番を命じられ、親類一同、愁嘆つくし難く、さりながら、どのようにも致すべき術もなく、ただただ嘆額申し上げるほかない」
といった意味のことがしたためられ、当時の彼らが、まだ見たこともない甲斐盆地を、まるで地獄かなにかのように恐れている様が目に見えるようである。
 幕臣でありながら、山東京伝に私淑し、画家の歌川国貞と組んで読本の第一人者になった戯作者、柳亭種彦も、その文筆活動ぶりが幕臣にふさわしくないと、おりからの天保の改革の取締りにあってあやうく甲府へ飛ばされかけたことがあった。
 この一件に見られるように、甲府勤番すなわち山流しとされるようになったのは、老中水野忠邦によって断行された、とくに風紀粛正を狙いとする天保の改革が契機の一つであった。
一方、そうした江戸での札付きに近い者たちを送り込まれる甲府としては、たまったものではないが、彼らの甲府での生活は、生きる望みも失ったように、うつろな目で、ただ機械的につとめるか、ヤケになってなお脱線するかであったがったが、江戸者としての、あわれな見栄だけは捨てきれず、江戸風の風俗や習慣のいくつかを、甲府盆地に残すことになった。そのことは、華美な服装とか美食といった面で、弊害となるものも少なくはなかった反面、周囲を山また山でかこまれ、他国と隔絶された甲府盆地で、それまで外からの文化の影響をほとんど受けずに、ややもすると孤立しがちであった甲州人に、直接江戸文化が移入されることにもなったのである。
 甲府勤番士のほとんどが、末期では厄介払いされた者で占められたような印象だが、なかには学者や文人としてかなりの教養を積んだ者も含まれており、彼らの残した事蹟は、それなりに評価されてもいるのである。

勤番支配の功績―そして幕末

まずその一つ、甲府学問所「徽典館」設立と振興事業がある。同館は寛政八年(一七九六)ごろに、追手勤番支配の近藤淡路守政明と、山ノ手勤番支配永見伊予守為員の二人によって設立されたが、そのあとの迫手勤番支配の滝川長門守利雍(としやす)の力で拡充され、与力の富田武陵らが教授になって、勤番士の子弟を教えたが、のちには一般人にも門戸をひらき、好学の人びとによろこばれ、甲斐の文教程度の向上に大いに役立っているのである。
 また滝川の後任者の松平伊予守定能は、幕府の命で勝手小普請の富田富五郎を中心に、内藤清右衛門、森島弥十郎などに補佐させて『甲斐国志』の編さんをはじめた。仕事は、村々から調査報告を出させたり、旧家の古文書をあつめたりするうちに大規模になり、百二十三巻の大冊を完成するのに九年を要し、文化十一年(一八一四)にようやく日の目を見た。江戸時代の地誌としては、もっともすぐれたものの一つとして、いまも高く評価されている。
 さらに与力の吉川新助は篤学をもって知られたが、勤番士だけではなく、一般人にもどしどし陽明学や垂加神道の講義をしたという。
 また享保九年(一七二四)に赴任した野田成方は、甲斐の歴史、地誌、民俗、言語などの貴重資料である『裏見寒話』を著作したし、宮本定正の著わした『甲斐廼手振』は、幕末の甲斐の風俗習慣を見聞するままにつづった、やはり貴重な資料である。
 以上は文教面での業績だが、一般勤番士とちがい、勤番支配の中には行政面でも目立つ業績をつたえられる者もいる。
 享和三年(一八〇三)四月三日、甲府市街は約七十五年前の享保十二年十二月九日のそれにつぐ大火に見舞われた。柳町二丁目鳥羽屋庄右衛門方から出た火は、またたくまに市街地の大半を焼きつくし、多くの市民を路頭に迷わせたが、
鎮火後は物資不足からくる恐ろしいまでの物価騰貴と、思惑買いや買占めがひろまり、一般の生活をひどく圧迫した。ときの追手勤番支配牧野忠義は、ただちに同役の追手勤番支配滝川長門守と相談し、とりあえず商人に対し、米穀類をはじめ、すべての商品を相場価格で販売するよう触れ出すと同時に、取締りを強化した。そのため、一時は恐慌状態になりかけた市況もやや安定したが、その心労がたたり、同年七月、忠義は任地で病死した。
 こうした悲喜交々、功罪を残した甲府勤番が廃止されたのは慶応二年(一八六六)八月のことであったが、ほとんどの者が甲府に住みつき、いまや甲斐一国人と変わらなくなってしまっている勤番士たちは、勤番支配に代わり、城代が赴
任してくることになっても、そのまま甲府にとどまるしか道はなかった。ところが、時勢を反映して、容易に城代が決まらないのである。
『甲府略志』はその模様を、
「…甲府城代を置くに当り、松平右京亮之に任じ、公用方服部団右衛門、作事方島崎儀兵衛両人代り撤す…机謂十二月右京亮辞任し、大久保加賀守交任せしが、翌四年正月罷免せるを以て榊原式部大輔任ぜられ、尋で又堀田相模守任ぜられしが、共に辞して任に就かず」
 とつたえている。
 結局、この翌々年の慶応四年(九月から明治元年)三月、甲府城は最高責任者のいないまま東征軍のものになってしまうのだが、そのときは大混乱であった。
 二月十五日、錦旗を先頭に京都を出発した五万の東征軍のうち、中仙道へは土佐の乾退助、のちの板垣退助を参謀とする、東山道部隊が進軍してきた。
 民衆を味方にし、そのエネルギーの活用を狙う東征軍は、途中の宣撫活動を重視し、未納分も含めた年貢半減令を出したり、恥部にはフリ仮名をつけるなど、肌目こまかい策を講じてきたのである。
 その報をうけた甲府城は、城代がいないままに、上を下への大騒ぎとなった。一応の最高責任者である佐藤駿河守は、必死になって鎮静しようとしたが、城内は異論百出で手のつけられぬ状況であった。
 番士たちの意見は、幕府直轄領の面目上からの抗戦派と、時流に従って開城もやむなしとする穏健派、というより観念派に分かれ、意見は容易にまとまらない。
 そのうち、抗戦派の番士柴田堅物、保々忠太郎などが、甲陽鎮撫隊と呼称する浪士隊をひきいて江戸を出発した、近藤勇と呼応して戦おうとしたりで、ほとんど収拾のつかない状態であった。
 甲府城のそうした空気はすぐ東征軍に知れ、三月一日、下諏訪に入った乾退肋は、すぐに支隊を割き、すでに恭順した諏訪藩兵を先頭に、早くも三月四日には甲府に入ってしまった。
 東征軍はただちに甲府城に対し、
「明朝までに城を明け渡すこと」
 と通告した。
 城内には勤番士のほとんどが詰めていたが、はっきりとわかる軍備や士気の違いを見て、抗戦論は影をひそめ、大半の者はその夜のうちに家族を連れて青梅街道へ逃げたり、変装して民家にひそんだりした。責任者格の佐藤駿河守もまた、江戸へ行くと言いのこして姿をくらませてしまった。
 翌朝、東征軍は甲府城に無血入城したが、兵たちは床板をはぎ、天井板を銃剣で突き刺したりしてきびしい検分を行なったが、仝番士が退去したあとからは何も出てこなかった。
 その一方で東征等は、城内の見物を許す、と町に触れ、物珍しげに集まってきた町人たちを自由に歩かせたが、これは地雷が埋めてあるかどうかを試させたという説がある。
 参謀の乾退助は、そのあと本隊をひきいて甲府入りしたが、さすがに長年にわたって天領であったためか、中仙道沿道の住民感情とはちがうものを感じ、人心把握のための一計を案じ、「俺はかつての信玄公二十四将の一人、板垣信形の子孫である」
 と触れさせ、同時に乾から板垣に姓を変えたという。
 直轄支配者として君臨した徳川氏を越え、甲斐国人の誰もが家康以上に尊崇する、信玄の名参謀といわれた板垣の名を持ち出した乾退助の、ぬけぬけとした工作は功を奏し、人心がようやく東征軍になびいたというつたえ話がある。
 このあと東征軍は、甲府開城も知らずに笹子峠をこえてきた、近藤勇の甲陽鎮撫隊を粉砕するのだが、この時期から二百六、七十年前、家康が関東の西の守りとして布石したはずの甲府城は、家康が予測したとおりの事態を迎えながら、八王子千人同心と同様、ついに幕府の守りたりえずに終わってしまったのは、なんとも皮肉な結果といえよう。

小淵沢町指定文化財、笹尾塁跡 『小淵沢町誌』

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小淵沢町指定文化財、笹尾塁跡
所在地   北巨摩郡小淵沢町下笹尾七五四番地の一
所有者   下笹尾区
指定年月日 昭和四十一年六月十日
 
一、発掘調査による笹尾星跡
笹尾塁跡は、小淵沢町下笹尾字耕地久保に所在する。
本塁は釜無川左岸七里岩の急崖上にあり、東・西両側は釜無川に注ぐ深い浸食谷に、南側は七里岩の断崖になっており、自然の要害に恵まれたところである。
『甲斐国志』に
「…此處ハ七里岩上ニアリ、東西ハ深山峨々ト峙(そばだ)チ、南軍高岩壁立シ下ニ釜無川アリ此方僅ニ平地ニ接ス。湟(ほり)塁二三重ニシテ甚夕広カラス。左右ノ山腹ニモ塁形ヲ存ス」
とある。
 本塁は六つの郭からなり、東西八〇メートル、南北二六〇メートルほどの規模とみられ、周辺の地名、小
字名には、北に「馬場」「馬場の井戸」、東に「上屋敷」「東屋敷」「中屋敷」「御蔵屋敷」「掘の内」、さらに近接する上笹尾には「御所屋敷」「島屋敷」 福間田屋敷」「駒場」などがある。
 本塁の構築規模は、昭和五十三年八月『笹尾塁跡調査報告書』によると次のとおりである。
 本塁跡は北から三~四本の平行する堀、あるいは掘り切りを有し、それらによって四つの郭に大別される。第二の堀と第三の堀によって区切られる地区は、比高によってさらに二つに分れる。また、今回発掘調査を行なった土塁に囲まれた区域も土塁によって二つに分かれる。つまり、全体的には六つの郭と四本の堀から本塁跡は形成されていることになる。
 南の郭より北に向って順に一の郭~六の郭と仮称し、個々の郭について説明する。

(一・二の郭)

 今回調査した一・二の郭は、墨跡の南半で「く」の字状に曲がる一番目の堀以南の土塁に囲まれた郭である。この二つの郭は、位置や防備の状況から本遺跡の主部と考えられる。
 北・西・南に土塁を回した一の郭は、東西二〇メートル、南北四五メートルの規模で、南北に細長い。土塁の内側は平らで、土塁上とは二メートルまでどの差がある。東側には土塁は存在しないが、南側の土塁の東側を「L」字状に北へ曲げてあり、斜面には数段の滞郭を設置してあったようである。急崖に面した南側の土塁は上幅が広くなっており、この上に物見台があったと考えられる。
 二の郭は東西二四メートル、南北三二メートルの規模で、東側の一部(土橋寄り)から北側、西側に土塁が見られる。郭内は南側が若干低くなる二段構造で、この段差のところで東側の土塁は終わり、西側の土塁は屈折している。また、二の郭の北西隅の土塁の切れ間は虎口(入口)と考えられる。
 土塁が入れ違い構造をもっており、その内側には広場のような空間をつくっている。一の郭と二の郭の間の土塁にはさまれた虎口は幅三メートルで、一の郭側の土塁は特に高くなっている。二の郭側の土塁はまもなく終るが、一の郭と二の郭をつなぐ空間は非常にせまく、東側には土塁がなく不安定である。一の郭と二の郭の中心線はわずかに逆「く」の字に折れ曲っている。
(三郭~六郭)
 三の郭は第一の堀と第二の堀との中間にある東西六五メートル、南北一三メートルほどの区画で、現在は畑と一部水田になっている。東西に長く、西端が谷に突き出すような状況であるので、土塁の機能をもっていた このうち構築については文正年度(一四六六)小田切某が居城したとあるが、小田切某についての史料的根拠は不明であり、笹尾岩見守という人物も当誌以外にはみられない。さらに新羅三郎義光甲斐国司時代にさかのぼってみても、国司時代の抗争関係が明らかでない限り本塁を構築する必要性が明確でなく、いずれも伝承の域を脱しないものである。

(四の郭)

現在水田となっている。東西から深く台地に入りこむ小谷があるが、これが第二の堀と考えられ、三の郭の土塁の土で埋めて水田にしたと考えられ、東西五〇メートル、南北三〇メートルの地域である。

(五の郭)

四の郭の北で、四の郭より二~三メートル高い平坦地で現在は雑木林である。内部は緩傾斜をもつ自然地形と思われるが、中央部はやや平坦であり東西三〇メートル、南北五〇メートルである。また、東の崖へ突き出した尾根からは、一・二の郭や、谷底からの通がよく見える。

(六の郭)

「く」の字状に曲る長さ三二メートル、深さ三メートルの第三の堀と、直線状の長さ二〇メートル、深さ二メートルの第四の堀によって区切られた台形状をなし、東西二〇メートル、南北一六メートルであり、この郭が本塁跡の北限と考えられる。
 発掘調査によって明らかになったことは、土塁基底部に石積みがしてあり、出土遺物は雑器四三、土師質土器六三、溶融物付着土器二、磁器一、金属製品一、石製品一など一一一点である。
 
 
笹尾塁跡が史実に登場するのは、上官『当社神事記』の享禄四年(一五
一) の項の記述である。
事禄四年正月廿二日、甲州錯乱ニテ当方篠尾二要害ヲ立テ候テ、下宮牢人衆サ
サヘラレ候、彼城モ廿二日夜自落、此方本意ノ分ニテ、弥々武田万難儀

歴史と笹尾塁跡

 
本塁の成立年代についての資料としては、『北巨摩郡誌』には
「‥…天文二十一年蜂火を挙げたる場所にして、筑後守手勢を引連れて出張し笹尾砦手橋城柵を築きたりと云う、…武田の臣笹尾岩見守の居城なりと云う。文正年度武田家の臣小田切其の居城址なりと云う、武田家の祖先新羅三郎甲斐を領したりしとき他家より戦争防備のため臣下某の居城なりと云う…」とある。
 武田・諏訪両氏の対立に享禄四年一月二十二日笹尾砦が使われたことを伝えている。
 武田家の信虎・晴信・勝頼三代の隆昌を築いたのは、信虎の国内統一であり、信虎は父信縄の死によって永正四年(一五〇七)一四歳で家督を相続したが、一族の中から反旗をひるがえす者がでるなど、国内外の諸情勢は多難であった。
 すなはち、叔父信恵父子・弟縄実それに郡内の小山田らとの対立があり、さらに一族の大井・栗原・今井・穴山などの反抗、それに北条・今川・信濃勢の侵入などがあったが、信虎はこれらの難局を打開して永正十六年(一五一九)居館を石和から躑躅ケ崎へ移し、国内の豪族諸将を城下へ集任させ城下町を形成するまでに権力を伸ばしていた。
 大永元年(一五二一)今川勢を飯田河原・上条河原で撃破し、
享禄元年(一五二八)には信濃へ侵攻して諏訪頼満・頼隆父子を攻撃、八月晦日に神戸・堺川の合戦で武田勢は敗走している。信虎の諏訪侵攻は、
永正元年(一五二一)甲府へ亡命した諏訪其の帰国をはかろうとしたものとみられるが、これによって信虎と頼満の関係は悪化していった。
 『勝山記』に
「学禄四辛卯、此年正月廿一日ニヲウ殿、栗原殿、屋形ヲサミシ奉テ府内ヲ引退リキ、ミタケニ馬ヲ御入候、去ル間、滴ノ信本モ御同心ニテ御座候、然レバ此人々、信州ノ諏訪殿ヲ憑ミ候テ府中ヘムカイメサレ候、河原辺ニテ軍サアリ、浦衆打劣テ栗原兵庫殿、諏訪殿打死ニメサレ候、打娘ル頭八百罰卜云々、其ノママ信州ノ勢ハ噂引申サレ候」
とあり、享禄四年一月二十一日重臣飯富・栗原の国人衆は、信虎を離れて同心の逸見今井信元を頼り、諏訪氏の援軍をうけて信虎を打つ計画であった。
 これよりさき信虎は永正十七年(一五二〇)六月、逸見・今井・栗原・大井の叛乱軍を破り、今川勢も撃退するまでに成長していたため、これに対抗するためには諏訪氏の援けを求めるよりほかなかったであろう。亨禄四年一月二十一日府中を退いた飯塚・栗原両氏は今井氏と合流し、西部の大井氏を加えて陣容を強化した。
 篠尾砦が当社神事記に出たのはこうした情勢下にあった時である。当時逸見今井氏は多麻庄を中心に勢力をもち、大八田庄地域は信虎の勢力下にあったとみられ、信虎は甲・信国境の守備を『当社神事記』にあるように、篠尾砦に諏訪下宮の牢人衆を詰めさせて、諏訪氏の侵攻に備えていたのである。
 諏訪氏は逸見今井氏と呼応して享禄四年一月二十二日甲州に入り、篠尾砦を攻撃したが、武田勢は夜闇に乗じて逃散して自落した。諏訪氏は「此方本意ノ分ニテ」と、この攻略は予定通り運んだとし、武田方は苦難に陥入ったとみている。
 しかし、武田勢は二月二日に大井信業・今井尾張守を破っており、四月十二日は前掲の『勝山記』のように、諏訪氏の援軍を得た国人勢に河原部(韮崎)の合戦で大勝し、栗原兵庫は打死し国人勢五百人、諏訪勢も三百人の戦死者を出した。さらに翌天文元年(一五三二)には、今井信元も信虎の軍門に降り国人衆の叛乱はあとを絶った
 篠尾砦の構築については、享禄四年の資料からこのとき築城したとみるのは早計で、それ以前からあり、たまたまこのとき使われたと考えられる。それは、谷戸城・深草城址を中心とした勢力の存在や、周辺に築かれていた中丸塁跡・若神子城跡・大坪城跡などとの一連の関係も充分考えられ、また、前掲の周辺の地名・屋敷などから在地土豪の砦としてもみることができる。
 こうして、武田信虎の国内統一のために篠尾砦はそれなりの役割を果しており、中世域舘跡として重要な意味をもっている。<山田清氏著>

昭和9年 海女 杉山寧氏著

【新井 白石】あらい はくせき

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【新井 白石】あらい はくせき

『別冊歴史読本』江戸人物ものしり事典<その5>学問・思想の指導者30
中野三敏氏著(昭和54年当時、九州大学助教授)
 
⑳明暦三年(一六五七)、江戸で久留里藩士新井正済の家に生まれる。通称勘解由。名は君美。白石はその号。別号に紫
陽等。幼少から神童の名をとる。十九歳で父と共に主家を辞し浪居。二十六歳の時大老堀田正俊に仕えて九年。その間朱子学老木下順庵に入門、順庵の推挙により徳川綱豊の儒員となる。綱豊が将軍家宣となるに及んで幕政に直接参与、従五位下、筑後守となる等、近世の儒学者としては最高の栄達を見た。その学は博治、歴史・地理・言語の諸学において時代の水準を遥かに抜き、しかも詩文においても近世第一と称される。白石において朱子学の持つ経験合理主義は最大限に発揮されたといえよう。
主著に『藩翰譜』『古史通』『読史余論』『宋覧異言』等々あり、著書の数は近世儒者中の随一という。
将軍吉宗となるに及んで失脚、以後退隠して享保十年(一七二五)、六十九歳で没した。

【安藤 昌益】あんどう しようえき

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【安藤 昌益】あんどう しようえき

『別冊歴史読本』江戸人物ものしり事典<その5>学問・思想の指導者30
中野三敏氏著(昭和54年当時、九州大学助教授)
 
その生涯は未だに明確ではない。元禄十六年(一七〇三)頃の生まれで、延享元年(一七四五)から二年間の八戸在住が確認され、宝暦初年ごろの五年間にその著述活動が集中している。通称孫左衛門。確竜堂良中とも称した。
農業を基本として万人直耕する一切平等の生産社会の実現を理想とする。上下尊卑といった価値観を徹底的に否定した
のは確かに幕藩体制に対する強烈な批判となり、その主著『自然真営道』百一巻が稿本のまま秘し隠されたため、同時代
における他への影響力は皆無に等しかった。このような思弁が、既成思想の中からいかにして纏めあげられたかを解くのが、今後の問題であろう。
主著に刊本『自然真営道』がある。また、著者の真価を示す稿本『自然真営道』百一巻は、関東大震災に殆んど焼失し、現存するのは十五冊にすぎない。宝暦十二年(一七六二)、秋田大館の二井田村に没する。
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