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明野村の伝説 子守地蔵

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明野村の伝説 子守地蔵

ふるさと明野をつづるシリーズ『わが里のむかしことば』
第五巻 方言・伝説・民話
 
 茅ヶ岳の裾に「女沢」という窪地があります。「女沢」なんて何となく変った地名ですが、そこに、室町時代の後期(一五〇〇年代)、武田信玄の時代栄えていたお寺がありました。この場所は大変山奥のため、戦乱の心配もなく立派な僧の人達が物静かに毎日修業に励んでおりました。
 しかし、やがて年月もすぎるとこの寺も日毎に衰滅して、ただ石の地蔵さんばかりが物淋しく建っておりました。
 この事を知った小笠原の村人達は、何とかして石の地蔵さんを里まで運んでこようという事に決めましたが、運搬には大勢の人々の汗と努力で一ケ月もかかって、漸く小笠原の福性院まで運びました。
 その後、お地蔵さんは、この村人達の並々ならぬ苦心を大変お喜びになって、夜泣きして困る子供のある人が、この地蔵さんに参詣すれば、直ぐに泣き止む様にしてくれました。村人達は誰いうとなく「子守地蔵」と名づけ、現在でも福性院の前に建っているこの地蔵さんに参詣すれば、子供の夜泣きはただちに止んだという事である。(明野村誌より)

明野村の伝説 子守地蔵

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明野村の伝説 子守地蔵

ふるさと明野をつづるシリーズ『わが里のむかしことば』
第五巻 方言・伝説・民話
 
 茅ヶ岳の裾に「女沢」という窪地があります。「女沢」なんて何となく変った地名ですが、そこに、室町時代の後期(一五〇〇年代)、武田信玄の時代栄えていたお寺がありました。この場所は大変山奥のため、戦乱の心配もなく立派な僧の人達が物静かに毎日修業に励んでおりました。
 しかし、やがて年月もすぎるとこの寺も日毎に衰滅して、ただ石の地蔵さんばかりが物淋しく建っておりました。
 この事を知った小笠原の村人達は、何とかして石の地蔵さんを里まで運んでこようという事に決めましたが、運搬には大勢の人々の汗と努力で一ケ月もかかって、漸く小笠原の福性院まで運びました。
 その後、お地蔵さんは、この村人達の並々ならぬ苦心を大変お喜びになって、夜泣きして困る子供のある人が、この地蔵さんに参詣すれば、直ぐに泣き止む様にしてくれました。村人達は誰いうとなく「子守地蔵」と名づけ、現在でも福性院の前に建っているこの地蔵さんに参詣すれば、子供の夜泣きはただちに止んだという事である。(明野村誌より)

明野町の伝説 相田渕

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明野町の伝説 相田渕

ふるさと明野をつづるシリーズ『わが里のむかしことば』
第五巻 方言・伝説・民話
 
 桐の木川は、須玉町大豆生田の南端で、橋をすぎると塩川と合流し水勢を増して、茅ヶ岳台地の岩を噛み深渕をつくる。
 明応(約五百年前)年間にはこの辺りの川原は、一面莉の木や茅などが生い茂って、ところどころには大小の流石が累々としていた。
この水のよどみを「相田渕」といった。台上の相田部落(現北組部落)に隣接しているからである。渕は深さ十丈(約三十三米)にも達して、紺碧の水をたたえていた。近郷では魔の渕といわれて誰も寄りつく者はなかった。もしこ
れを犯せば二度と娑婆には帰れぬという物騒な渕である。
 ある時、穴山郷久保組の住人弥左衛門は、夜中に厠(かわや、その頃の殆どが外便所)に起きて、ふと東方相田渕の方を見ると、茅の茂みからぬっと大入道が現われて、無気味な声で笑いながら手招きをしている。これを眺めた弥左
衛門の顔は、血の気も失せて夢中で家の中にとび込んだ。
 彼はろくろく寝もやらず夜明けを持って、隣家の主人を尋ね次第を話したが、納得させるには容易なことではなかった。
「とにかく今夜、俺の目で確かめてから村衆に知らせるとしらざあ」
ということになった。
 隣の亭主は夜中を待った。果せるかな「相田渕」からかねて話題の魔物が、竿の茂みを越えてあばれまわり、それに賢様な呻き声まで聞こえてくる。「うへえこわい、こわい」
今度は、人がそれに尾ひれをつけて、吹聴したから村中煮えくりかえるような騒ぎになった。
その頃、法印がこの村にやってきて、辻に立って法螺貝を吹き鳴らし祈祷をしていた。村人はこの出来事を法印様に相談してみようと、つぶさにいきさつを語ったところ、法印は。
「わしも日本四百余州行脚しているが珍らしい話じゃ。ともかく魔物とやらの正体を見届けてやろう」と、
夜中に丈なす茅の茂みを押し分けて渕辺に立った。どす黒い水面は何の異変もなかったが、時を移さず水面に大粒の泡立ちがすると、大竜が躍り出て襲いかかろうとしてきた。常人なら胆を冷やすところだがこの事を芦期しでか、法印は右手に香炉をさし伸べてもうもうたる煙を対敵に放っていた(蛇類は香煙を忌む)。これによって大竜は目をしばたいて渕に沈んでしまった。
 翌朝村人は、法印の宿舎に当てられた辻堂に集まってきた。法印は
「みなの衆、あれは魔物ではなく大蛇(おろち)じゃ。かくかくの次第………わしも修験者、一刀のもとに切り捨てる自信はあるが、殺生してはならぬ身の上。あとはお主だちよき思案なされよ」
と言って立ち去った。
 久保組では相談の結果、これの解決は国守武田信昌(信玄より三代前)公に嘆願するが至当だとして、村役人から書状を提出したところ、信昌は
「この種のことは武力で征すべきものではなく、法力で治むるべきだ」
として、満福寺住職に命じて、仏徳で済度(煩悩を除いて悟りを開かせる)せよと命じた。
 これを受けて住職は相田渕に寄って、一心に祈祷を続けたが、大竜の荒れ狂いは治まりをみせなかった。住職はその由を国主に報告した。
 それならばと、文亀二年(一五〇一)、亀沢天沢七寸二世明江(めようこう)徳舜和尚に命じた。徳舜は弟子達十人を従え、この渕辺に祭壇をしつらえ大祈祷を行った。
 そのうち村人も恐る恐る近寄ってきた。竜のあばれも少なくなると莉や茅はきれいに刈りとられ、渕辺は明るくなった。そして村人もその座に立ち合い坊さん達の勤行に協力した。
 ある晩、竜女が徳舜に。
「われ三年前の大地震に、妊娠の身で河岩の間にはさまれ苫悶した。今徳舜の功徳によって安らぎを覚えた。これから満福時の裏山へこもり、子どものない者には授け、出産にも安きを与えて労に報いよう」
 これを聞いた徳舜は、安堵の胸を撫でて直ちに国主に報告した。信昌は非常に喜び、満福寺を曹洞宗に改め、徳舜を開祖として竜のゆかりをもって大竜山と名づけた。
 時は移り武田信虎(信玄の父)は、大井夫人と結婚したが八年間も子供がなかったので、夫人は心配して満福寺の竜神に祈ったところ、間もなく受胎し信玄が誕生した。信虎は大いに喜んで土地若干と、詩文などを寄贈感謝したと
いわれる。この寺はそれ以東、お産の神として名をなした。
 相田渕のあたりも幾星霜その間、河川の氾濫で流れの変化はあったが、不思議にも渕の原形はとどめて魚族の住処となっている。(峡北新報より)

甲斐国酒折宮碑 山縣昌貞撰

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甲斐国酒折宮碑 山縣昌貞撰

日本武尊既に東夷を平げ、還りて甲斐国酒折宮に次(やど)る。此れ其の旧址たり。祠有りて享祀懈らざる、今に千六百有余年なり。昌貞等、景仰の至りに勝へず。石を廟庭に樹て、謹んで之が銘を為る。嗚乎 尊の霊徳、千載の下
八挺の外、其の化を被らざる扉し。夫の庭績の著しきが若きは、則ち史籍に歴然たり。此に復序せず。銘に曰く、威徳の及長所、披撰せざるなし。施して新墾の章を作詠す。鏗鏘たる遺響、千載に芳を流す。允に文允に武、盛化洋々たり。緜々たる洪趾、寰宇以て康し。
  宝暦十二年壬午夏四月 山県昌貞謹撰
             加藤 翼拝書

武田の女性たち

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武田の女性たち

大井夫人 信玄の母

 信虎の正室で明応七年(1498)生まれ。父大井信達(さと)は信虎の領国統一に対抗したが、武田に降り、女を信虎に送り和を結ぶ。夫人と信虎の間に、晴信・信繁・信廉の男三人、女二人がいた。子供の教育には厳しく、また慈悲深い母でもあった。天文十年(1542)、夫・八の身に思わぬことが起きた。
わが子晴信「父を駿河へ追放」という事件であった。夫人は思い悩み、長禅寺の岐秀元伯にすがり読経三味、夫とわが子の無事を念じた。天文二十年(1552)五月七日、再び夫信虎と合うこともなく、五十五歳で世を去った。
法名は 瑞雲院殿心月珠泉大姉」である。

信玄の正室 都の名門三条家の姫君

夫人は京の公家で天皇に仕えた清華(せいげ)七家の一つ、極官(ごうかん)は太政大臣という名門三条家に生まれた。父は三条公頼(きみより)で、姉は細川晴元に嫁し、妹は本願寺顕如の裏方となった。
 信玄との間に義信・信親・信之の三人と、女子二人がいた。男子三人とも薄幸で、嫡子義信は父とのいさかいで自殺。信親は盲人、信之は早世した。女子は北条氏政と、穴山信君に嫁した。夫に先立つこと三年、元亀元年七月二十八日、五十歳で波乱の一生を終わった。
法名は「円光院殿梅岑宗大禅定尼」で、墓は甲府市岩窪町の円光院である。
                                      

戦国の悲運のヒロイン 諏訪御科人 信玄側室 勝頼の母

 夫人は諏訪頼重の側室小見氏(麻績)の生んだ子であり、天文十一年(1542)、十二、三歳で甲府に迎えられ父頼重を殺した信玄の側室となった。まさに戦国の悲運を一身に背負った女性である。しかし信玄の寵愛をうけ、やがてその胤を宿し、同十五年(1548)、武田勝頼を生んだ。夫人は後世、絶世の美人とうたわれ、小説などでは、由布姫・湖衣姫などの名まえで知られる。
 夫人は勝頼が十歳の弘治元年(1555)、二十四、五歳という若さでこの世を去った。・項墓は長野県・高遠町の臨済宗・建福寺にあり、法名は「乾福寺殿梅巌妙香大禅定尼」である。
 

武田勝頼正室 北條夫人 情感あふれる額文

 相模北条民政の妹で、天正五年(1577)一月、武田勝頼のもとへ嫁いだ。北条・武田の縁組みは劣勢の武田家に活力を与えた。しかしそれもつかの間。義弟木曽義昌が信長に通じ戦局は一変。夫人は武田家の行く末を案じ、武田八幡に願文を捧げ、勝頼に加護あれと念じた。同十年(1582)三月織田・徳川軍は大挙して甲斐に侵入。三日勝頼は新府城に火を放ち、小山田信茂の岩殿城をめざした。信茂も途中で離反。勝頼はもはやこれまでと、十一日、大和村棲雲寺を死地に求めたが敵襲にあい、田野の里で一族は命を断った。勝頼三十七歳、夫人十九歳、信勝十六歳であった。
 
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武田信玄、三女 見性院 穴山信君室

 生年は不明である。母は三条氏といわれ、信玄の二女。武田親族の穴山信君に嫁ぐ。夫の母は信玄の姉。信君とはいとこ同志の結婚である。信君は武田滅亡の前、勝頼を離れ、武田の家名存続を願い家康に従い、京都に上り本能寺の急変で帰国途中、土民の一揆で横死。天正十五年(1587)わが子勝千代も病死。夫人は二重の不幸にあい仏 門に入る。家康は隠居料を与え見性院を保護した。二代将軍秀忠の四男幸松丸(のちの保科正之)を七歳までわが子同様に育てた。見性院は元和八年(1622)五月九日、波 乱の一生を閉じた。墓は清泰寺(浦和市)・平林寺(新座市)にある。

武田信玄長女 黄梅院

 天文十二年(1542)の仕十まれ。母は三条氏で、信玄の長女である。天文二十三年(1554)十二月、十二歳で相模、北条氏政のもとへ、甲・相のきずなとして嫁いだ。氏政は十五歳であった。
 信玄は息女黄梅院の安産を祈念して、弘治三年・永禄九年の二度にわたり、富士浅間社に願文を捧げている。信玄の親心を知る資料である。氏政との間に嫡子氏直ら四人の男子を生んだが、武田・北条両家の破綻で、永禄十二年、黄梅院は甲斐へ帰された。そして同年六月十七日、二十七歳でこの世を去った。法号は「黄梅院殿春林宗芳大禅定尼」である。

信玄の三女 真理姫 木曽儀昌室

 信玄の三女で生年は明確でない。弘治元年(1555)木曽義康は武田の軍門に降った。信玄はその子義昌に真理姫を嫁がせ、武田親族衆に加え木曽谷の守衛を命じた。信玄没後義昌は勝頼をきらい織田信長に通じた。真理姫は実家に対する離反と武士に有るまじき夫の行為を怒り、義昌の末子義通を連れ、木曽御岳に身を隠した。信長は義昌を先導に甲州に侵攻。勝頼は義昌の母、嫡子千太郎・長女三人の人質を斬った。義昌はやがて信長・秀吉にきらわれ領地を没収された。真理姫は御岳黒沢に隠棲すること六十余年。正保四年七月病没した。

信玄の四女 上杉景勝室菊姫

 永禄元年の生まれといわれる。母は油川氏で、信玄の第四女。織田信長対抗策として、信玄が結んだ長島顕証寺佐尭との婚約があったが、信長のために佐尭は滅び婚約は解消。松姫とともに信長によって心の傷を負わされた。兄勝頼の長篠敗戦で、甲・越同盟の政略として上杉景勝に嫁ぐ。上杉家では、甲斐御前・御寮人様と領民の親しみをうけ、家中に諸費倹約を奨励するなど、戦国女性の鑑といわれた賢夫人であった。慶長九年(1624)、京都伏見の上杉別邸で死去。四十七歳。法名は「大儀院殿梅岩周香大姉」

信玄の六女 松姫 信玄の六女

 没年から逆算すると永禄四年(1561)生まれ。母は油川氏で信玄の六女(一説には五女)。於松・新館御科人。仏門に入り信松尼とよぶ。七歳ころ織田信長の嫡男奇妙丸(信忠)と婚約。信長は信玄四男勝頼と、養女遠山氏を結ばせたが、夫人は信勝を生み死去。信長は武田との緑切れを恐れ、松姫との婚約を信玄に懇請した。元亀三年(1571)、三方ケ原合戦で信長は徳川方を救援。信玄は信長の行為責め断交。松姫の婚約も破談となった。武田滅亡後、八王子にのがれる。八王子に織物を広めた。元和二年(1616)、五十六歳で死去。墓は八王子市の信松院にある。
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武田二十四将 

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武田神社編 図説武田信玄
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武将の文書 真田昌幸の手紙

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武将の文書 真田昌幸の手紙

 二木謙一氏著(国学院大学助教授)
 
慶長五年(一六〇〇)の関ケ原合戦に際して、信濃の大名真田氏では、父子・兄弟がそれぞれ敵味方に分かれて戦った。すなわち、昌幸とその次男信繁(幸村)は西軍に、長男信幸(信之)は東軍徳川方に従った。
そして昌幸・信繁父子は、石田三成の挙兵を知って東山道を西上する徳川秀忠の率いる六万の大軍を、わずか二千の兵をもって上田城にひきつけ、九月十五日の美濃関ケ原の決戦に遅刻させたことは、史上によく知られている。しかし、天下分け目の決戦が西車の惨取に終わったため、昌幸は死罪に問われた。が、東軍に従った信幸が自己の恩賞と引き換えに父昌幸と弟信繁の助命を嘆願したため、父子は死を免がれ、紀州高野山に逃れた。
 高野山に登った真田父子は、蓮華定院に入ったが、やがてその山麓の九度山に屋敷を作って移り、昌幸はここで慶長十六年(一六一一)六月四日、六十五歳で没するまで十年余の間、流人としての日々を過ごした。
 次の手紙は、安房守昌幸が、長男伊豆守信幸に宛てて書いた自筆の書状セある。日付の「卯月廿七日」は慶長十六年の四月二十七日、その死の約ひと月ほど前のものである。
 
尚々、其の後知気相如何に候哉、承り候ひて飛脚を以て申し入れ供。我等命の儀、分別致さざる病に、候間、迷惑御察しあるべく候。何様使者を以て申し入るべく候。以上
 
態と飛脚を以て申し入れ候。春中は、御煩ひ様に承り候間、案じ入り候へ共、筆に尽し難く存じ候処、御煩ひ御平癒の由、御報に預り候ひつる間、満足これに過ぎず候。弥御気相能く候由、目出此の事に候。申すに及ばず候へども、御油断なく御養生専一に候。終らば我等儀、去年病気の如く当年も煩ひ横間、迷惑御推量あるべく候。十余年存じ候儀も一度面上を遂げ候かと存じ候処に、只今の分は望み成り難く候。但し着生の儀油断なく致し候間、目出たく平癒致し、一度面談を遂ぐべく存じ候間、御心安かるべく候。恐々謹言。
 
慶長十六年)卯月二十七日 安房昌幸(花押)
 豆州(伊豆守信幸)参
 

文意は

わざわぎ飛脚をもって申し入れる。春のうちは、そなたの病気が重かったことを聞き及び、気にかけながらも、わが気持を筆に表わせないでいたところ、御病気が平癒されたという便りに接し、喜んでいる。いよいよ快方に向かっているとのこと何よりである。
申すまでもないことではあるが、注意を怠らず着生に心掛けられたい。然らば私も、去年病気で過ごしたように、当年も病が抜けず、苦悩している気持は御推量いただけよう。十余年以来抱き続けている心中を、一度お目にかかって陳述したいと思っているが、いまやその望みも適しがたい。但し養生にはつとめ、めでたく平癒し、一度面談したいと考えているから御安心下され。なお、そなたのその後の病状はいかがですか。私の病気は生死の判断もわからぬような難病、この苦しみの胸中を察して下され。いろいろのことは使者が申すであろう。
というのである。
 
 この手紙は、昌幸が蟄居していた高野の山里から、信幸の病気を心配し、自分の病状のよくないことを報じたものであるが、文中で「十余年以来抱き続けていた心中を、一度会って陳述したい」といっているのは、あの関ヶ原合戦における真田父子・兄弟のとった奇妙な行動について語っているようで、いささか興味をひく。
 ところで慶長五年の七月、徳川家康の会津遠征に従い、下野の犬伏で石田三成挙兵の報を受けた昌幸は、信幸・信繋兄弟に向背の道を自由に選ばせ、その結果、家康の寵臣本多忠勝の娘をめとっていた信幸は東軍に属し、豊臣家の奉行大谷吉継の娘を妻とし、かつ三成とも親しかった信繁は、昌幸とともに西軍に味方することになったといわれている。
 しかし、この関ケ原における真田父子・兄弟の訣別について、いっぽうには、家を守るために意識的に敵味方に分かれたとみる考え方もある。
「東西に見ごろをわける真田縞」
「たね銭(真田氏家紋)が関東方に残るなり」
「銭づかひ上手にしたは安房守(昌幸)」
これらの狂句も、同様の考え方から作られたものである。
 たしかに昌幸の立場からみれば、こうした、考え方にも納得がいく。もともと昌幸は、豊臣にも徳川にも、それほど恩顧を受けていたわけではなかった。真田氏は信濃佐久郡の小豪族であり、はじめ村上氏に属し、武田信玄の信濃侵入とともにこれに従い、さらに武田滅亡と同時に信長に通じ、その後も北条に就き、家康になびくといった狡猾なまでの保身術をもって、戦国の世をたくみに生き抜いたのだ。
 こうした昌幸の処世ぶりは、秀吉に「表裏比興」、とまでいわせている。「表裏」は謀叛、「比興」は「卑怯」という意味である。昌幸はまさに表裏比興に徹して、時勢の流れを的確にとらえ、その間隙をぬって、自家の発展拡大に成功してきたのであった。だから昌幸が東西いずれに勝敗が決しようとも、わが手で築いてきた真田家を滅ぼすことだけはしたくないと考えたのも当然であろう。そして結果として、真田の家名は松代十万石に封ぜられた信幸によって存続されたのであるから、昌幸の筋書きどおりになったといえる。しかしこの思惑も、昌幸の胸の中だけに納めていたことであったらしい。真田家で編纂した家史によると、犬伏における父子三人の余談では、西軍参加を主張する信繋と、東軍従属を一歩も譲らぬ信幸との間で、論策が激昂したことを記している。あれから十年余、昌幸は重い病の床にあって、信幸に対して、胸に秘めてき真意を吐露したかったであろう。
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甲州街道無印文化財 民家 蔵 塀


饅頭峠、饅頭石の山来 明野町

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饅頭峠、饅頭石の山来

ふるさと明野をつづるシリーズ『わが里のむかしことば』
第五巻 方言・伝説・民話
 
 昔の話に「御岳三里」という。言葉を思い出したが、それは、甲府からも今の明野からも、御岳迄は二里あると当時の人達は言い伝えた。
 御岳は昔も今も山の中ではあるが、往来の人達は大勢であったように思われる。神仏に信仰があり、御岳に向って地方の人々が特に雨乞いなどのため、団体をくんで出掛けていったという。多くの人達が何処からともなく集まって、
御岳へ行くのには茅ヶ岳の東南で穂坂寄りの方、つまり、饅頭峠を越した方が最短距離であったのかと思われる。
 今でもその道の傍らに石仏が点々と残り、旅路への道標として仏様の教えを受け、石の鳥居までも現存している。この様に昔の神仏の信仰は想像以上のものがあった事が推測できるのである。
御岳に弥勒寺という寺があったが、明治元年(一八六八)に廃寺となったが、その寺の住職に村岡融仙という偉い坊さんがいた。その坊さんは錫杖を突いて一枚歯の下駄を履き、御岳の弥勒に寸から小笠原の末寺である「福性院」まで日毎通ってこられた。
 時代はすぎて、私は大正十四年に小笠原小学校の教員を拝命していたので、時々副性院に参詣した。そんな折、京都から廻って来られたという坊さんに逢い、昔話をいろいろ聞くことができた。その中で、饅頭峠と饅頭石のいわれに
ついては、これは福性院を兼務していたあの村岡融仙師のいい伝えであると言う。
 今から千二、参百年前の遠い昔、弘法大師(空海)が全国を巡教の際、御岳へ行く途中この峠の辻に着いた。当時は旅人のために休みする茶店があり、饅頭を作って売っている一人のお婆さんがいた。大師はその店を眺め並べてある饅頭を見て「私にその饅頭を売ってくれないか」とお婆さんに声をかけると、お婆さんは大師の姿が余りにもみすぼらしいので、「お前さんの様な乞食坊主に売る饅頭はないよ」と言って売ってくれなかった。
 大師はお婆さんの心を見抜いて、如何なる大に売るにも穴心のある饅頭を作って貰うために戒めねばならないと、人師は懇々と諭したが中々お婆さんは間いてくれなかった。大師はやむなしと秘密の法によって、饅頭を食べられな
いよう石と化してしまった。
 お婆さんはいつものように饅頭を作って店に並べていると、旅人がその饅頭を買って食べようとしたが、石饅頭で固くて食べられない。その後もお婆さんは饅頭を作り続けたが、石饅頭のため売れなくなり、最後には生活に困り峠の
店を閉めて山を下り、何処かへ姿を消したと言う。
 このようにお婆さんが毎日毎日作っては捨てたという石饅頭が、今でも峠の中から出てきているのである。ある時、小学校の児童を連れて饅頭峠へ遠足に行った事があるが、何人かの児童が、「先生!饅頭石があった」と私の所へ持って来て割って見せた。私も二、三個拾って学校へ持ち帰った記憶がある。
 弘法大師と言うお坊さんは、全国いたる所へ衆生済度の旅をなし、地を指しで池となし、岩を叩いて火をおこし、人の病を癒したりなど千差万化の遺業は、今の世にも遺徳として見受けられている。饅頭峠の饅頭石もその一つであると思うのである。北杜巾明野町に伝わる民話。現在は饅頭峠として残されている。(明野寿大学 上野)

北杜市の俳人 輿石南嶺 巨摩郡辺見大八田(北杜市長坂町)

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輿石南嶺 巨摩郡辺見大八田(北杜市長坂町)

 号白仙城。通称勘解由。源森郷。建岡宮神主 (輿石守郷か)
  折すくめられた侭咲く野梅哉
  時鳥どちらの国ぞ隅田川
  啄木鳥や楠は石にもなるべきに
  松山は日頃に青し初しぐれ

北杜市明野町の伝説

甲州の方言数え歌

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甲州の方言数え歌

一つとやアア  

人にあくてえこきゃあがってこきゃあがって
 ひでえ目に合わせるからおべえてろオオ おべえてろ

二つとやアア 

 二言目にゃあ銭くりょうと 銭くりようと
 しょうがねえ餓鬼だよこのぼこはアア このぼこは

三つとやアア 

 みぐせえ格好するもんじゃねえ するもんじゃねえ
 シャレル歳でもねえずらにイイ ねえずらに

四つとやアア 

 寄ってお茶でも飲んでけし 飲んでけし
 おこうこ茶でもいいじゃんけエエ いいじゃんけ

五つとやアア  

いつになったらむかあさるだ むかあさるだ
 いかず後家じゃあ困りもん 困りもん

六つとやアア 

 無理を承知のごもしんだ ごもしんだ
 おもっせにゃけえすから貸しとくれエエ 貸しとくれ

七つとやアア 

 なんぼう待ってても来んじゃんけ 来んじゃんけ
 なんで来んずらおかしいなアア おかしいな

八つとやアア 

 やたらくたらの甲州弁 甲州弁
 ほうけほんじゃほうずらよオオ ほうずらよ

九つとやアア 

 今年もなんちょうにか年よう越した 年よう越した
 うち中達者でおめでたやアア おめでたや

十とやアア

とばけた歌だけんど面白れえら 面白れえら
おまんとうもおべえて歌ええしィィ 歌ええし

◆甲州方言短歌◆

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◆甲州方言短歌◆

『わが里のむかしことば』第5巻 方言・伝説・民話「ふるさと明野をつづるシリーズ」
 
山あいの こさにかくれし 草屋根の 朽ちてかしがる おかんのええ
わが里は いいとこずらと 言われしも けけろやこばで 会話苦しむ
おさがりの 足袋をはかせりや あっくいは ぶりをかいてか へえる気もなし

◆甲州方言俳句◆

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◆甲州方言俳句◆

『わが里のむかしことば』第5巻 方言・伝説・民話「ふるさと明野をつづるシリーズ」
 
忍ぶ恋 びった(びしょ濡れ)も楽し 春の雨
ごうやくの あとは雛酒 ごくろうめ(酒盛り 懇親会)
おまあして しゃあざに咳し あばけを子
着ぶくれて うっこだっこの うちっきり
ののこ着て えんさにたむろす ええじのし
 

◆甲州方言川柳◆

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◆甲州方言川柳◆

『わが里のむかしことば』第5巻 方言・伝説・民話「ふるさと明野をつづるシリーズ」
 
四十路坂 ねこぎのおてこで 春迎え 
よしゃあいい せえたらこいて よまあれる

げえろ鳴く 畔(くろ)をまくらに 夜水ひく 
こええさは 恋の出逢いの ひみつ跡

てぴれえが つづく野良での おようだけ 
よばあれた えんさのお茶が 縁むすぶ

けったりい 言えず親爺の 背中を追う
みためより うまいもんだよ くってみろ

もってえねえ だたらぶちゃある 悪いくせ 
よたっくら 聞けば聞くほど ごうがわく

真田弾正忠幸隆 さなだだんじょうのじょうゆきたか

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真田弾正忠幸隆 さなだだんじょうのじょうゆきたか

『武田二十四将伝』坂本徳一氏著 新人物往来社 一部加筆
 
 真田弾正忠幸隆のふるさとは現在の長野県小県(ちいさがた)郡真田町。往時、長村(おさむら)と呼んだ。
 永正十年(1513)、真田郷の松尾城の領主真田右馬允頼昌の二男に生まれた。長男は早死にしたらしい。母親は海野信濃入道棟網の娘で頼昌の正室である。
 幸隆の幼名を二郎三郎といい、元服して幸綱、のちに源太左衝門と名乗った。
幸隆が生まれたころの真田一族は小さな武士団であった。その時代に、小県郡を支配していたのは滋野一族であった。滋野の名族は三家に分かれて北信沸全域に勢力を延ばしていた。滋野の筆頭が幸隆の母方の祖父、海野棟綱である。したがって真田頼昌・幸隆父子は海野の属将の身分であった。
幸隆十二歳の時、父頼昌が他界した。大永三年(1523)である。忠隆(当時、幸綱)が喪主を務めている。

武田信虎

天文十年(1541)五月十三日、武田信虎は取訪頼重、北信濃の吉尾城主村上義治と同盟を結んで、真田家の築いた上田城址(長野県上田市)突如、小県郡を襲った。海野一族の属城の尾ノ山城(丸子町)を攻め落とし、さらに海野一党の集落海野平の砦を破って侵入、民家に火を放ち、逃げ惑う女、子供、老人にいたるまで虐殺した。その死者二百を超えたという。
武田・諏訪・村上の連合軍の奇襲のまえに海野信濃入道棟綱は、滋野一党の海野・禰津・真田・矢沢らの武士団と共によく戦ったが、抗しきれず、棟綱は若輩の真田幸降ら身内の者たちをひき連れて鳥居峠を越え、上州(群馬県)吾妻郡羽尾の羽尾道雲入道学会のもとに逃げのびた。羽尾一族は海野と同族の間柄で関東管領の上杉憲政の庇護の下にあった。

真田幸隆

 幸隆は羽尾を出て上州の箕輪城(北群馬郡箕輪町)の領主長野信濃守業政を頼って身を寄せた。
そのころ甲斐の国で内乱が起きた。信虎が駿河へ追放され、武田晴信が甲斐守護職に就いたという知らせが、箕輪城にいた幸隆の耳にはいったのは六月二十日ごろであり、幸隆が真田郷へ戻れる絶好の機会だった。だが信濃の佐久地方の豪族のほとんどが武田軍に恭順し、武田方の先方衆として働き、反武田勢力の掃討が行われていた。
 幸隆が真田郷に戻る前、信虎に随臣した爾津元直(神平)の使者が幸隆のもとを訪ねている。武田方への随臣をすすめるためであった。元直が信虎の娘を嫁にし、武田方と親族の間柄になっていたことを幸隆は知った。つまり元直は晴信と義弟の契りを結んでいたのである。禰津一党の仲立ちで真田郷へ帰国し、武田へ随臣したのは天文十一年小一月十五日、と『高自斎記』に記述されている。

幸隆の妻河鹿夫人は、

武田の家臣河原丹波守隆正の妹だった。帰国と同時に要ったらしい。翌十二年に二男昌輝が出生している。

幸隆、武田へ

嫡男信網については別の項で触れるとして、幸隆は武田方へ随臣してからにわかに頭角をあらわした。
 甲斐守護職の武田晴信の幕下で先方衆筆頭の地位を占めた戦い町天文十二年(1543)九月の長経城(長門町)の攻略である。反武田の勢力を盛り返してきた信濃・小県郡の長窪城の城主大井貞隆は、関東管領の上杉意政を後ろ楯にして、武田へ随臣した真田・矢野一族の出城を攻撃してきた。同時に吉尾城の村上義清も武田とタモトを分ち、上杉方に寝返って叛乱を企てていた。幸隆の報告を聞き、晴信は五千の騎馬隊を編成して真田郷へ援軍を送った。
武田・真田の連合軍で大井貞隆の居城長窪城を襲ったのは九月九日、城はあっけなく落ちて貞隆は捕えられた。また貞隆を煽動した望月一派も捕えられてその場で処刑された。貞隆も甲府へ護送されて要害山のふもとで断罪に処せられた。
 晴信は、この戦いで忠隆の忠誠心を見抜き、小県郡および佐久一帯の支配をまかせ、甲府から援軍を送って真田軍を補佐している。それから三年後の天文十五年五月、大井貞隆の遺児大井左衛門尉貞治が再び反武田の勢力を結集して、幸隆が守備する前山城(佐久市前山)などを襲った。幸隆はただちに貞治軍に反撃を加え、貞漕が拠る内山城(同市内山)を包囲して城攻めをし、本丸を除いて全域を占拠した。さらに六日間、本丸を囲んで兵糧攻めの長期戦に持ち込んだため、さすがの貞清もいたたまれず降参した。幸隆は貞清の気骨に惚れ込み、晴信に助命嘆願し、大井一族を武田の家臣に取り立ててもらった。
貞清はその恩義に感じて真田一族との朋友を約束、村上義治との対戦でも大活躍する。

「真田幸隆は、尋常な武人ではない」と武田の諸将をうならせたのは戸石城の攻防戦だった。

のちに〝戸石崩れ″といわれたこの攻防戦は武田軍が上田原合戦に次いで惨敗を記録した壮絶な戦いである。
 天文十九年(1550)、筑摩、安曇、佐久、瓢訪、伊部、木曾と信州の大半を抑圧した武田軍は、倍 州で唯一人、徹底抗戦を標模し、周辺の土豪を煽動して決起する村上義治を戸石城に封じ込める作戦をたてた。戦いは八月二十八日から始まったが、二カ月余の攻防戦でも決着がつかず、最後には村上軍に まんまと裏をかかれて武田軍は千人以上の戦死者を残して始退却した。
 ところが真田隊は、翌年の五月二十六日、わずか一日で難攻不落の戸石城を占領した。幸隆は武力で戦ったのではなく、謀略で勝利を収めたのである。幸隆の戦法は村上軍を支えている組織を分裂させる買収作戦であった。まず黒幕と目される高井郡の高梨政頼と村上軍の関係を断ち切るため、甲州金を積みあげてひそかに交渉した。武田方に寝返ったあとの処遇にいたるまで話し合った。
同じ戦法で村上軍の属将の埴科郡の清野・寺尾一党の当主とひそかに会って金を渡し、武田への随臣を奨めた。軍資金がなければ戦さにはならない。地獄の沙汰も金次第……と言われる通り、戦国期に生き存らえることは奇蹟に近い離れ業だが、真田一族はその裏側で敵味方を問わず賄賂をふんだんに使った形跡がある。だから四面楚歌の中にあってたくましく生き続けたのかもしれない。
  真田方の切り崩しで村上義治は手痛い打撃を受けた。いくさの上では武田晴信に勝ったが謀略の上で幸隆と晴信に負けた。殊に越後の長尾景虎(謙信)と縁続きの高梨政頼が手を引いてしまったことから、義清は孤立した。戦闘機能を喪失したのである。戸石城を落とされた村上軍は全く戦意を失い、さらに本拠である高尾城までを放棄して越後の春日山城の景虎を頼って出国した。
 

 天文二十年(1551)、幸隆は剃髪して一徳斎と称した。三十八歳の折である。

  武田軍の攻勢はまさに旭日の如く、といわれた時代である。川中島の合戦では妻女山城の攻略の案内を兼ねて出撃した。四回目の永禄四年九月十日の大激戦で数カ所の手傷を負いながら奮戦し、越軍を退却させた軍功の一人である。
 川中島の合戦後、上州進攻作戦が始まった。上州の地理に明るい真田隊は先陣を承った。永禄四年十一月二日、上杉謙信に攻撃された相模の北条軍援護のため、上州に侵入した武田軍は西牧・高田・諏訪三城を攻め落として倉賀野城(高崎市倉賀野町)に迫った。北条氏康も武田軍と合流して倉賀野城へ急行、倉賀野直行を城将とする約一千の上杉軍を被って城を攻撃し、さらに武蔵松山城(埼玉県比企郡吉見町)を攻めた。二つの城は落城には到らなかったが、翌年の九月、武田軍は再び上州へ第二次進攻作戦を敢行して、北条軍と手を結んで陽動作戦を重ね、謙信を大いに悩ませた。
 倉賀野、武蔵松山城、上杉方の斎藤越前入道が死守する岩棍城を落としたのは永禄六年十月、さらに西上野一帯の掃討戦を繰り広げ翌年三月末、岩棍城代として吾妻郡長野原一帯を治めて上杉方の動向を監視した。信玄は京都へ攻めのぼる酉上作戦を前に上越信の三国の治安を維持しておかなければならなかった。
 そこで信州の土豪を優遇し、領地を与えて上杉方の攻撃に対応できる武力を導入させた。幸隆を岩根城代に命じたのもそのためであり、信州の先方衆の禰津、清野、海野らの武士団をそれぞれ上州の松山城、倉賀野城などに配備して万全の策を整えたのである。
 永禄九年(1566)九月二十九日から始まった箕輪城政略は、上州攻めのなかでも最大の攻防戦だったが、西上野七郡を完全に掌握した武田軍は随所の結城に信州の先方衆を配匿し、一方では北条と組み、今川民兵(義元の嫡男)を敵として駿河攻めをも敢行している。ただし信玄指揮の酉上作戦に草陰は参加せず、嫡男の信綱が出兵した。
 幸隆は上州に踏みとどまって上杉方の攻撃に備えた。

武田信玄の死

 だが武田軍は三方ケ原の合戦、野田城攻略を最後に信玄の病重く、西上作戦はひそかに中止され、帰国の途中、信玄は逝去した。上借地方を守備する幸隆には〝信玄の死″の打撃は大きかった。
 信玄逝去から一年余の天正二年(1574)五月十九日、幸隆もまた六十一歳で病没した。幸隆夫妻の墓は真田町の長谷寺にある。法名は「笑倣院殿月峯艮心大庵主。遺体には二十五カ所の刀、槍、弾の傷跡があったと伝えられる。

 真田隊の旗じるしの六文銭は、

さきに述べたように〝地獄の沙汰も金次第″で亡者が三途の川を渡るとき支払う金だが、真田一党は常に死を覚悟して戦場を駆けめぐり、もしその場で地獄へ堕ちたとして も、旗じるしの六文銭があれば三途の川を渡してくれるだろうと、幸隆が考案したといわれている。この六文銭の旗じるしは真田三代にかけて活躍することになる。
 

真田源太左衛門尉信綱 さなだげんたざえもんのじようのぶつな

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真田源太左衛門尉信綱 さなだげんたざえもんのじようのぶつな

『武田二十四将伝』坂本徳一氏著 新人物往来社

 鬼弾正といわれた真田幸隆の長男。成人して真田源太左衛門尉信綱と名乗る。

父に劣らぬ剛勇の士であった。母親は海野家ゆかりのある名門の家であることは確かだが、信綱を産み、まもなく早死したら
しい。弟の昌輝、昌幸とは異母兄弟である。
 天文六年(1537)、信州の小県郡の英田郷の松尾城で生まれている。幼年を源太郎と呼んだ。真田家では代々「源」の字を頭につけている。坂東源氏の末裔であるというプライドを誇示したものと推定される。
 源太郎は生まれながらにして戦乱を肌で感じ、陰媒と牧歌の渦の中で成長した。父幸隆が長男の源太郎に大きな期待を抱いたのは当然であろう。
 先方衆というハンデを担っていながら幸隆同様、父子二代が武田二十四将に加えられているのは真田父子だけである。信綱も父と共に信玄・勝頼の二代に仕え、川中島合戦、上野国進攻、駿河攻めなど第一線で活躍し、長篠の役で壮烈な戦死を遂げている。中世武士の亀鑑ともいうべき信綱の生きざまが高く評価されているからだろう。
 六文銭を旗じるしとする真田一族の始祖は、海野長氏の七男、七郎幸春。分家して小県郡真田郷に移り、真田の姓を名乗った、という説と、海野幸氏の第四子幸寿が始祖という二つの家系に分かれている。
  海野幸氏は『吾妻鏡』に登場する源漑朝の家臣で騎射の名手とある。その子の幸春が真田郷に移り、 真田の氏祖となったといわれるが、率春以降四百年の空間を経て幸隆が忽然とあらわれてくるので、その間十数代、真田を名乗っていたかどうか不明である。
 ただし応永七年(1400)、篠ノ井付近の横田河原で信濃守護の小笠原長秀の軍と北信濃の豪族との間で抗争した「大塔合戦」の陣番張に「実田」の姓で村上頼清の配下に源太・源五・源六の三人がいることが立証されている。
 いずれにしても真田一族は、幸隆の名がクローズアップされる前は、菅平山麓の山家郷で民兵のような暮らしをしていたことだけは確かなようだ。しかし幸隆・信綱父子は単なる猛将ではなく、学問を深く極めた智将の風格を兼ね備えている。
 信綱が愛用した大刀は国の重要文化財に指定され、上田市の真田宝物館に所蔵されている。刀匠名は「備中国住人□□ 延文六年二月日」とあり、備中育江派の傑作といわれている。その大刀の長さは百三センチ。『真田家譜』に「肯江貞次が鍛えたる三尺三寸余の陣刀」と記されている。ずっしり重いこの大刀をふるった信綱という武将は、かなり背丈があり、剛力があったと伝えられている。
  信綱の緒戦は天文二十一年(1552)八月一日から始まった信州南安曇郡の小岩岳城(穂高町)の攻略である。城を守る者は小岩岳図書守、村上義清の属囁で城兵約五首人。それに女、子供を加えて武田に抵抗した。小岩岳城の攻撃は前年十月と今度で二回目であった。武田晴信は二回目の攻略で小岩岳一族を完全に滅ぼす計画で先方衆へも出撃を要請した。
 信網が父幸隆に従い、初陣を飾ったのは十五歳。武田軍と合流して小岩岳城に迫った。天然の要害を生かした山城へ攻め込めば犠牲者を出すばかりである。晴信は敵を城外から一歩も出さない包囲陣を敷き、山城の背後から城内に流れ込む水路を完全に遮断した。晴信が得意とする〝封じ込め作戦〟である。
 城兵はこれに耐えること十二日間。いよいよ水が欠乏して枯渇状態に陥り、ついに耐えきれず、水を求めて城内から数十人がカラの水桶を携え大手門を開けて城外へ飛び出してきた。武田軍は「得たり」とばかり、数十人を蹴散らして城内になだれ込んだ。激闘の末、城兵五首人余りを討ち取り、城主図専守は自刃した。この光景をまのあたりに目撃した信網は、いくさの残酷さを痛感した。水を絶たれた城兵たちは刃向かう気力すらなく武田方の槍と太刀に突き刺されて息絶えた。
「戦いに勝つというのは弓矢や武具の相違ではない。敵の盲点を衝くこと。味方に損害あらば勝ったとは言えない」
 のちに信綱はこう括っている。信綱が初陣で体験した小岩岳城攻略の〝封じ込め″の武田戦法は、少年の心に強い衝撃となっていつまでも消えなかったようである。
 翌年は信州の川中島で越後の長尾景虎(謙信)の軍と対戦した。第一回の川中島の合戦である。この戦いは前半、越後軍に佐久郡の内山城、長窪城などを奪い取られたが、武田軍の本隊が救援に駆けつけ川中島をはさんで対陣、真田幸隆・信綱父子をはじめ親武田派の室賀、小泉、浦野、禰津ら先方衆の活躍で越軍の内部を撹乱して、ついに九月二十日、遊軍は退却した。
 この軍功に際し、晴信は宰隆・信綱父子に小県郡の領地を与えるなど先方衆に論功行貨を与えている。晴信は上田原、戸石城と続いた惨敗以来、「勝てる」と確信が持てる戦い以外に戦いを挑むような無課なことは一切しなくなった。その代わり戦闘へ持ち込むまでの事前の調査を徹底して行った。その頭脳作戦を理解し、晴信の手足になって勇躍したのが真田一族である。信綱は二百騎の大将として父に代わり駿河攻め、西上作戦など重大な、そして緻密な戦法を要する時には必ず出馬している。
  特に駿河攻めには父の代わりに信州の先方衆の騎馬軍団をひき連れて参加している。永禄十二年(1569)九月、信玄の幕臣として関東に攻め込み、鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)を包囲して南下し、十月一日未明、相模川を渡って小田原城外(神奈川県小田原市)になだれ込んだ。甲軍の騎馬の数的五千騎。信綱もー番手に突進して小田原城包囲作戦は無血のままで行われた。
  武田軍は四日間、城を囲んで動かなかったが、北条方の増援隊が帰って気配を察知して後退した。関東及び小田原城包囲作戦は、北条民政に対する威圧行動で、できるだけ衝突を避けて武田の威信を相模に示す命がけのデモンストレーションだった。
 だが帰国寸前、三増(みませ)峠で待ち構えていた北条軍の鉄砲隊に狙撃された。一瞬、馬上から倒れる騎士もいたが、山岳戦では自信のある武田の将卒である。北条方の火縄銃で第二弾を放つころは山林をかき分けて北条軍の陣地へ躍り込んでいた。
 信綱も摩ってくる矢弾を避けて、側面の山林に潜む北条軍と戦いながら峠を越した。「深追いせず、前進せよ」
 信玄の命令通り、武田の将兵は側面の敵だけをなぎ払う形で速度を早めて峠を越えた。後方からついてきた小荷駄隊が北条軍に拿捕されるなど武田軍の損害は予想をほるかに上回った。信綱も信州から連れてきた先方衆の同士を数多く失った。偶発的な戦いは、得てして犠牲が大きい。それが中世の合戦の宿命とも言える。
元亀三年(1572)十月から始まった信玄の西上作戦。名目は延暦寺復興のため京へのぼる、とある。この作戦は一年を限度として信州、相模、駿河の先方衆全員に出動を要請し、約二万の大軍団を編成した。
 この時、信綱は前線へ、父幸隆は上杉方の乱入に備えて信州・上州の警備に当たった。西上作戦では山県三郎兵衛尉昌崇隊と行動を共にした。同年十二月二十二日夕暮れどき、遠州の三方ケ原で徳川の主力と織田の援軍合わせて一万四千と武田全軍と衝突した。信網はその時、先衆七手の一人で二百騎をあとに従え、小県昌景、内藤修理、小山田信茂、小幡貞信、高坂弾正、馬場美濃の先衆七手の一番槍を果たそうと、真正面から徳川家康の本隊めがけて爆走した。武田先衆の猛進撃に圧倒されて家康を援護する旗本隊は隊列を乱して敗走した。
 真田隊は、夕闇にまぎれて敗走する徳川軍を迫って南下し、浜松城近くの布橋まで追い詰めたが、信玄の号令で深追いを避けて引き返した。騎馬隊にかけては武田譜代の甲州武士に一歩もひけを取らない

〝六文銭″の旗じるしの真田隊の三方ケ原の合戦での戦功はめざましかった。

 その翌年の元亀四年四月十二日、信玄の死を迎えるが、辛隆・信綱父子は、信玄の遺言を守り、武田四郎勝頼に忠誠を尽くすことを誓った。だが信玄の死から一年経った天正二年(1574)五月十九日、父幸隆は六十二歳で病没した。
  信玄、そして父の死の二重の悲しみを乗り越えて源太左衝門尉信綱は、四郎勝頼の下で殉死する覚悟を決めて駿河、三河の戦場へ赴いた。父亡きあと弟の真田兵部昌輝も兄信綱と共に出陣している。やがて大詰めの長篠の合戦に身をさらす結果となる。時に信綱、三十九歳。弟の昌輝、三十五歳であった。

長篠の戦い

 天正三年(1575)五月二十二日白昼、長篠城外の設楽ケ原は炎暑下であった。西南に布陣する徳川・織田の連合軍は、武田軍の騎馬攻めに備えて丸太の柵を三重に構え、さらに堀切を三ツ構えとしての防御陣をこしらえて対陣した。
 武田軍の攻めは、馬場美濃隊・真田信綱隊・真田昌輝隊・土屋昌次隊・一条信龍隊・穴山信君隊の六隊約三千騎が一斉に突撃したが、木柵の向こうから撃ってくる織田方の銃火に前方を走る武田軍の騎馬衆が将棋倒しに転倒した。これでは味方の犠牲を大きくするばかりだ、と見極めた武田の大隊は再び引き返して作戦を練り直した。

 そのとき馬場美濃守は、敵情をよく洞察し、真田兄弟、土屋昌次を呼んで、

「おれには今、思う所あって、しばらくここに留まって次の作戦を考える。おぬしらは、このまま前進して功を立てられよ」
 と引導をわたした。真田兄弟には馬場美濃の前進の意味は苛酷に受け取れたが、そのすぐあと
「一度に死んでは口惜しい。おれはおぬしらの死骸を乗り越えて敵陣に突っ込む」
という言葉を聞いて感動した。つまり少しでも戦う時刻を長引かせて敵のひるむのを待って柵を被ろうとする馬場の作戦を見抜い
たからである。
 そこで真田兄弟は二手に分かれ、土屋昌次隊はこのあとを引き継いで、まず真田信綱が一番手に回って、二百余騎の決死の覚悟の真田隊が西軍の柴田勝家隊・羽柴秀吉隊が防衛する柵めがけて突進した。まさに孫子の兵法「疾きこと風の如し」であった。三列縦隊にならんだ真田隊は疾風のような速さで約一キロの織田方の陣地へ突っ込み、柵の内側から撃ちまくりていた鉄砲隊も、次の弾丸を詰め込む余裕もなく、直前に迫った真田隊の折り込みに圧倒されて思わず後退した。
 鉄砲隊の後方に控えていた柴田隊と羽柴隊は、このままでは柵が被られてしまうと、柵の外の側面に迂回して迎え撃った。先頭を切って柵の間近に迫った信綱は側面に回って撃ってきた柴田隊の銃火を浴びて戦死した。一旦、その場から引き返した弟の昌輝も三度目の総攻撃で土屋昌次と目と鼻の先で銃弾を浴びて戦死した。このあと馬場美濃守信春(正しくは信房)も戦死した。真田兄弟の戦死する状況は『日本戦史-長篠役』で委しく伝えている。
『甲陽軍鑑』は、僧綱の首を徳川の臣、渡辺半十郎正綱が討ち取ったと伝えている。
 真田兄弟の墓は設楽ケ属官脇の丘の中腹、辞しくは愛知県新城市八束穂の墓地に一基、二人の名が刻まれて建っている。信網夫妻の墓は郷里の小県郡英田町の信綱寺にある。首のない信綱公の遺体は、英田家ゆかりの田代官兵衛がひそかに郷里へ運び、この寺に埋葬したという伝説もあり、信綱公の遺体を運んだのは北沢最蔵・白川勘解由の両人で、この寺に埋葬したあと殉死したという説もある。門前には両人の殉死の碑が建っていることから後者の二人のほうに信憑性がある。
 なお、真田兄弟と共に設楽ケ原で戦死した真田の家臣は、欄津甚平月直、望月甚八郎(武田信繁の子で望月を継ぐ)、鎌原筑前守重澄、常田図書助永則、河原宮内助正良、河野多兵衛連秀、石井右京進重正、河原新十郎正忠などがいる、と『真田一族と家臣団』(田中誠三郎著)が書き加えている。
 信網の妻キクは、中野箱山城主高梨摂津守政頼の息女で、井上左衛門尉の養女として信綱のもとに嫁ぎ、二人の間に女三人がいた。その女性は成人して従兄の真田信之の室となり、早逝した、と「真田軍功記付記」に記述されている。
 キクの方は倍綱死後、小県郡本原村(真田町)の信綱の館に住み、天正八年(1580)二月八日に没した。同地広山寺に「御北之塚」(寛政七年建立)がある。

 幸隆の三男安房守昌幸は武田勝頼の要請で新府城築城の設計をしている。

だが長篠役で二人の兄を一度に失い、悲嘆に暮れる前に、真田の命脈を保つには己れ白身どう処すべきか……と惧悩した。凋落する武田と運命を共にすべきか。それとも旭日の勢いの西軍につくべきかを迫られた。しかし西軍もまた、織田、羽柴、柴田、徳川と群雄割拠し、相互に勢力を拡大しょうと内面では血みどろな闘争を繰り返していることもよく見極めていた。
 天文十六年(1574)に生まれた昌幸は永禄四年(1561)九月、十五歳で川中島の合戦で初陣を飾り、信玄から戦功賞「昇梯子の鎧」を授けられ、武田氏の家臣武藤左衝門尉信尭(信明)の名跡を嗣いで武藤喜兵衛と名乗った。位は足軽大将であった。だが長篠の役で兄信綱・昌輝が戦死したため生家に戻り真田家を嗣いだ。時に二十九歳。当時の真田氏の領地は一万五千貫。小県・佐久両郡をまたぐ戦国の中大名の地位にあった。
 昌幸には四男五女がいたという。長男は信之、二男が信繁、のちの真田幸村である。
 信之は永禄九年(1566)の生まれ。幼名・源三郎、成人して徳川家康に陪臣、家康の養女(本多中務大輔忠勝の娘)を要る。
 幸村は永禄十年(1567)に生まれる。母は今出川時季の娘。信之は同腹の実兄。幼名・源次郎、のち信繁(昌幸が敬愛する武田典慨信繁の名にあやかってつけた)、成人して左街門僻事村。名君と謳われた大谷刑部吉継の娘を妻に迎え、関白豊臣秀頼に仕えた。
 幸村の最期はナゾに包まれているが、大坂夏の陣で戦死という説と、父昌幸と共に配流され、紀州高野山麓の九度山村で数奇の運命を閉じたという説がある。が、夏の陣で戦死したという説が正しい。
「真田十勇士」の中に根津甚八、穴山小助、寛十蔵などの名が出てくるが、猿飛佐助や霧隠才蔵、三好清海入道といった名前は架空として片付けられる。だが根津、穴山、寛などという姓は現に武田、真田の家中にザラにいた姓名であることから全く架空だったとは言い切れない根拠が潜んでいるように思える。
 武田滅亡を機に真田昌幸父子は、徳川、豊臣、北条など強力な戦国大名を手玉にとって華麗なる転身ぶりを発揮して〝不即不離〟 の立場を堅持する。やがて徳川幕府樹立と同時に幕閣に加わった信之は、父の遺領上田城を経て松代十万石の藩主として返り咲いた。八代目の藩主真田幸貫(雪面)は老中に昇進した出世頭。その配下から佐久間象山のような傑物が巣立っている。

甲州方言レッスン5 このさいだから、あれえざれえぶちまけろ

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甲州方言レッスン5

 
まじめにきいてりやあ、このひたああほうもねえこんばっかこいてるね
真面目に聞いていれば、この人はばかげた事ばかり言ってるね
 
うちのおばあ、まごをあめえらかすから、ろくだらこたあねえ 
うちのおばあさんは、孫を廿やかすから、良い事はない
 
めえねえのあんちゃん、あらけねえことうしたもんだ 
前の家の兄さん、乱暴なことをしたものだ
 
ほんなことがあらすか、なんかのまちげえずら
そのような事があるものか、何かの間違いでしょ
 
あのひとにかぎって、ぜったいほんなこたああらに
あの人に限って、ぜったいその様な事はあるものか
 
きょうはありええのもんで、はらをふさげてっとくんねえ
今日はありあわせの物ですが、食べていって下さい
 
あすこにあるありょう、こっちへはこんでくりょう
あそこにあるあれを、こちらへ運んでくれ
 
こんねえによごしてきて、はやくあれえ
こんなに汚してきて、早く洗え
 
このさいだから、あれえざれえぶちまけろ
この時だから、今までの事全部うちあけろ
 
あわてまくってこんなあめんなか、どけえいくだい
ひどくあわててこの様な雨の中、どこへゆくのかね
 
わけえうちからためてえたから、いまじゃああんきごしょうらくだ
若い時から貯めておいたので、今では死ぬまで楽ができるよ
 
おばやんがえれえあんべえがわりいそうで、しんぺえでごいすね
おばあさんが大変具合が悪いそうで、心配ですね
 
こんやもよっちゃばって、だりようおすかであんもんけえてるずら
今夜も寄り集って、誰を推すかでいろいろ策略を練ってるな
 
あんやん、うらっかたでおとつちゃんがよばあってるからはやくはやく
兄さん、裏の方でお父さんが呼んでいるから早く早く

甲州方言レッスン6 たてめえによばあれているずら、いっしよにいかずよ

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甲州方言レッスン6

しょっちゅううそばっかこいてるから、いいきびだ
なまけてばっかいるから、こんこんといいくめてやった
 
となりねえのがきどもは、よくでけえこえでいいっこしてるな
隣の家ので子供等は、よく大声で口げんかしてるな
 
へえいいに、こんねんえらくもらつたからりやあいいだから
もう良いですよ、こんなにたくさん貰つたから
 
あのやろう、いつもいいもんばっかりなりやあかって
あいつは、いつも要領をつかって良いものばかりになって
 
このええのこどもは、ちょっくらのまにえれえいかくなったもんだ
この家の子どもは、ちょっとの間にずい分大きくなったものだ
 
おそくなるから、ええかげんじやあいかざあ
遅くなるから、いいかげんにして行きましょう
 
よりええにやあ、おとっちゃんをでったいいかすから、たのむよ
寄合いには、お父さんを必ず行かせるから、いろいろたのむよ
 
たてめえによばあれているずら、いっしよにいかずよ
建前(上棟式)に招待されているだろう、一緒に行こうよ
 
みんながいってほんねえよかったちゅうじやあ、おれもいかっかな
皆さんが行ってそんなに良かったというであれば、俺も行こうかな
 
ばかにいがらっぽいけんど、なにかえぶってやしんか
いやに鼻やのどかひりひりするけれど、何かこげついてはいないか
 
ほんねんしょっちゅう、おめえのうちばかいけんじゃんか
そんなにしよっちゅう、お前の家ばかり行けなんじやんか
 
いいにもなんにも、またてんだってくれせえす
良いとも良いとも、又手伝ってくれさえすればいいんだから
 
えいがあみい、みんなよばあって、いっしよにいくずらね 
映画見物に、みんなを誘って、一緒に行くでしょうね
 
てんでにいぐっちぐのこんばかこいてりやあはなしやあすすまんぞ 
各自がちぐはぐの事ばかり言っていれば、話は進まないぞ
 
さあ、ぼっぼついけっちゃで ちゃをよぼあれてけえるか
さあ、そろそろ帰れというお茶をいただいて帰るか
 
こんやはつごうがつかんで、よりええにやあどうしてもいけねえ
今夜は都「日が悪く、会介にはどうしてもいけない
 
ここであすぶはいいけんど、いけねえこんしちやあいけんぞ
ここで遊ぶのは良いけれど、悪い事をしては駄目だぞ
 
せなかをなんかがむずむずいのいているようだ、みてくりょう
背中を何かがむずむず勤いている様だ、見てくれ
 
あいつのはなしやあ、まわりくでえからいじいじするだ
あの人の話は、同じ様な事ばかり言っているからじれったいだ
 

甲州方言レッスン7 うっこだっこで、まいんちのめしょうくれるのもえれえこんだ 

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甲州方言レッスン7

 
しやらっくやしいから、もらったもんはいじっくいにぶちゃあった
口惜しいから、貰った物はむりやり捨ててしまった
 
もろこしょういしようすでひいて、おやきのおやつをこせえたよ
もろこしを石臼で挽いて、おやきのおやつをつくったよ
 
いじれってえだ、せっかくきただに、るすでようがたらん 
気が落着かないた、せっかく来だのに、留守で用事が果たせない
 
しょっちゅうどっかえでかけてるけんど、きょうはいる(いた)かい  
しょっちゅう何処かへ出掛けているけれど、今日はいましたかね
 
あめがむるとけえ、いたびっこでもおっかさんでくりょう 
雨が漏る所へ、板の切れ端しでも差しこんでおいてくれ
 
おれがあとでやるから、ほのいちらにしてえてくんね
俺が後でするから、そのままにしておいてください
 
きょうはいっかだったかわすれたなあ、しんぶんをみるか
今目は何日だったのか忘れたな、新聞を見るか
 
あとからくるひとがいちゃあいけんから、おれがここにいっかね
遅れてくる人がいてはいけないので、俺がここに居るかね
 
こりよう、このちいきいっけんなしくばってもれえてえ
これを、この地域一軒のこらず全部配ってもらいたい
 
ほんつれえのこたあ、いっさらくにゃならなあ
その位の事は、少しも心配する事ではない
 
おめえは、いっしょうまっしようおやのすにょうかじるつもりか 
お前は、生涯親のすねをかじりつづけるつもりか
 
なつとふゆにきるもん、いっしょくたあにしとくもんだから、きるときゃあほんこにこまっちもうだ
夏と冬に着る物を、一緒にしておくものだから、着る時は本当に困ってしまうだ
 
おめえもええからかんじやあ、あっちへいっちめえ
お前もいいかげんには、向うえ行ってしまえ
 
ほんねんもってえぶらなんて、はやくいっちめえな
そんなに勿体がらなくて、はやく言ってしまいなさい
 
さっきからなんだかんだいってるけんど、いってえなにをいいてえだ 
先程からあれこれ言っているけれど、一体何を言いたいんだ
 
いっぴょうしにほんなことういわれたって、へんじにこまるだ
いきなりそのような事を言われても、返事に困るよ
 
めずらしいもん、いっぺえもらってありがとうごした
珍しい物を、たくさん貰ってありがとうございました
 
おめえがはこにいてえて、なんてだまってみてたあだ
お前がその場に居ながら、何故だまって見ていたのだ
 
えらくせわになったけんど、このへんでいとまげえをするか 
大変世話になりましたけど、このあたりで暇乞いをしようか
 
このへんがいなようでしょうがねえから、びょういんにでもいくか
このあたりがどうもへんで仕方がないから、病院にでも行くか
 
くびすじのとけえいぬごがはったから、ちっともんでくんねえ  
首筋の所のリンパ線がはれたから、少し揉んで下さい
 
やくやくきただに、きょうもこのええじやだれもいねえのか
わざわざ来だのに、今日もこの家には誰もいないのか
 
おとっちゃんのでえじなもんだで、やたらいびっちょ
お父さんの大切な物だから、むやみにいじるな
 
こたつがさっきからばかにいぶいからまくってみろ
炉燧が先程からいやに煙っているので布団をまくってみなさい
 
むすこもでっかくなりやあ、いぼくれておやのいうこたあきかん
息子は大きくなれば、反抗期で親の言うことなど聞かない
 
いまかじぶんせかせかときだようだけんど、なんのようだい 
こんな時間に急いで来た様だけれど、何んの用だね
 
いいもんをいまっとみせるから、こっちへよってくんねえ
良い物をもっとたくさん見せるから、こちらへ寄って下さい
 
くってみたらうめえもんだ、いもすこしもれえてえけんど
喰ってみたらおいしいものだ、もう少し貰いたいけれど
 
たまにやあ、いやじいこんもいわなきゃあだめになるぞ
時々は、嫌な事も言わないと人間駄目になるぞ
 
へえいらんよといったって、まっともってけもってけっていうだよ
もういらないよと言っても、もっと持って行け持って行けと言うだよ
 
おしうりがきたら、だたらうちんなけえいれんようにな
押売りが来たなら、やたら家の中に入れない様にな
 
そんなこたあ、おらあいわんよ、いったあだれだ
その様な事は、俺は言わないよ、言ったのは誰だ
 
あねえのしやあ、どけえいっただかけさっからいんよ
あの家の人達は、何処へ行ったのか今朝から居ないよ
 
あのひともいんきょめえもらって、べつのところにすんでるちゅうよ
あの人も隠居する持分をもらって、別の所に住んでいるというよ
 
おんにもいんめえくりょう、あじをちょっとみてえから
俺にも少し下さい、味をちょっと見たいので
 
あのぼうはううしんぼだちゅう、かええそうだなあ
あの子どもは言葉が言えないのだという、可哀想だなあ
 
さっきまでここにいたけんど、へえどっかへうさあっちまった
先程までここに居だけれど、もう何処かに行ってしまった
 
このごろあ、としのせえかみんなうちあすれて困りもんだ 
この頃は、年の為かみんな忘れてしまって困りものだ
 
こんだあうちっきりだ、あんきしてゆっくりのまざあ  
今度は家族だけになった、安気してゆっくり飲みましょう
 
うっこだっこで、まいんちのめしょうくれるのもえれえこんだ 
子沢山だから、毎日の食事を与えるも大変の事だ
 
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