↧
甲斐の奇岩 七里岩
↧
山県大弐という人 山縣神社
山県大弐という人
『甲州街道』中西慶爾氏著 昭和47年 木耳社 一部加筆
甲府めぐりをひとまず切りあげて、甲州街道の残る部分を踏破しようと旅立つと、まず浮んでくるのは柳荘山県大弐のことである。
いわゆる明和事件という騒擾事件で、大弐の立場はかなり微妙であったようだ。この事件の審判者は町奉行依田豊前守であったが、その判決は極めて慎重で、大弐に関する罪状は六ケ条をあげているが、みな微罪で間痩になりそうなものはほとんどない。ただ総論で
「大弐には一味同志のものを連判にて相募りたる証拠なし。されど王政復古の策を以って幕府を外さんと非常の大望を抱く事実は相違なし」
と、いうを重く見て、討幕運動の事実はないが、討幕思想はあるとして、そ
の思想の故に、つまり思想犯として死罪に処されたのである。今日だったら大いに問題になるところであろう。
しかし彼は、取り調べに際しては、何らわるびれるところなく、進んで所信を表明し、少しも隠すところがなかったといわれる。これは法律無視の観があり、この態度がすこぶるおもしろい。我はかく信ずる、それは正しい、故に、これを妨ぐるは悪である、という自信過剰は爽快である。こういう一途さはなかなかよろしい。
彼は享保十年(一七二五)、甲斐国丘摩郡北山筋篠原村に生まれた。長じて甲府勤番与力六年、大岡忠光に仕えて五年、前後十一年間サラリーマン生活をおくったが、これは彼の四十三年という短い生涯にとってかなりの比重を占める年月であるが、この十一年間は全く閑職でこれという目立った仕事はせず、ほとんど家居して読書と思索に努めたのだから強い。こうして作りあげた「柳子新論」という核に、武田二十四将の一人山県三郎兵衛昌景をもってきて、その後裔という鎧を着せ、典型的な甲州魂を作りあげてみせたのは素晴らしい。誰も歯がたつまい。歯がたたないままに葬り去られた感が深い。
今、この霊は山県神社に祀られている。出生地竜王町篠原にある。枚後百六十二年、昭和三年(一九二八)に竣工したものである。
甲府駅からのバスにて榎停留所で下車すると、十五分ぐらいは歩かねばならぬが、田舎道の十五分は、時には菜の花盛りなどで、さして苦にならない。
社殿は簡素でささやかなものであるが、かえって何となく森厳な趣があって、大弐の気塊がじかに迫ってくる思いがする。
境内の片隅、雑木を背にして三井甲之の歌碑がある。
ますらをのかなしきいのち積み 重ねつみかさねまもるやまと島根を
自筆を拡大入石したもので、文字も悪くはない。
三井甲之はこの国の松島村の産、伊藤左千夫などと親交あり、歌人として知られたが、また詩も作り小説も書き、さらに一大論客でもあった。そのかたくなにまで凝りかたまった日本精神は、一時華々しく四方八方に当り散らして盛観をきわめた。この歌碑の歌、大弐を謳ったものか、自分を歌ったものか、どちらともとれるところに彼の真骨頂がある。大弐とは一味通ずるものがあり、まさにまた甲州人であった。
かたわらに金剛寺があり、大弐の墓もあるが、ここに遺骨は納まっていない。
柳荘の墓は常陸国新治郡霊石山泰寧寺・江戸四谷全勝寺などにもある。泰寧寺のものをもって本墓とすべきであろう。
↧
↧
信玄堤 神々の逃走、神明社
信玄堤 神々の逃走、神明社
『甲州街道』中西慶爾氏著 昭和47年 木耳社 一部加筆
信玄堤の長いながい雑木林が、信玄橋のたもとあたりで平野と接する境目に神明社がある。一宮浅間神社のお輿がやってくる由緒ある古社で、神宝にも珍らしいものがあるはずだが、社宝はいつの間にか何処かへ流散し。かんじんの
御神様がこれまた何処かへ逃走してしまった。
白日のもとにさらされて拝殿が杖にすがりながら辛うじて佇っているみたいで、その荒廃ぶりはすさまじい。屋根は痛々しく破れ落ち、壁はあらかたくずれ飛んで、みるも無惨である。
「平家物語」にある
「甍やぶれては霧不断の香をたき、枢(トボソ)おちては月常住の燈をかゝぐ」
という寂光院を引きあいに出したいところだが、そんななまやさしいものではない。
さすがの神々も、雨風は防ぎがたく、空腹をかかえて、一夜ひそかに逃亡してしまったそうである。一応は出雲の大社へ行って相談したであろうが、そうは長居もできず、流浪の旅に出て幾年月、今でも杳(ヨウ)としてその行方がわからない。社宝も全く消息不明である。
武田信玄によって安住を保証されたこの土地は、神様にとっても恰好な定住地であったろうが、星移り歳変ると、世間というものは、次第に住みにくくなるものらしい。それはここの神様だけといってはいられないようだ。
↧
韮崎の津渡 川舟 岩屋観音
韮崎の津渡
『甲州街道』中西慶爾氏著 昭和47年 木耳社 一部加筆
たびたび訪ねていると、ある時には、山県神社の神主さまが、韮崎まで車で運んでくれたりした。下今井などの旧街道を通らず、国道二十号線を突っ走ったのは遺憾であったが、そう勝手なことはいえない。
川舟、「下げ米、上げ塩」
韮崎は塩川が釜無川に交会する三角地点の北にある古い町で、甲斐西北部での枢要な都市だった。塩や雑貨を積んだ曳き舟は、富士川を溯って鰍沢を通り、はるばるここまで漕ぎ上って来た。
積み出すものは主に米穀で、武川筋から遠く南信一帯の御城米までが馬の背によってここに集中してきた。いわゆる「下げ米、上げ塩」である。この積み下ろし場の船山橋あたりは、これらの伝馬・中馬や旅人たちで大雑踏をきわめ、近所の人々は馬の腹の下をくぐって向う側と往き来したという話もある。
この韮崎というは、甲州街道が設定されてからの宿場名で、その前は河原部といったそうだ。
文字通り釜無川の河原に過ぎぬI寒村だったであろう。それが宿場となると急速に発展したわけで。今でも地下三、四尺掘ると、その下は河原砂ばかりだという。
山梨日日新聞社の「甲州街道」によると、小林観寿郎という表札のある旅寵の清水屋、小林一三の生家布屋など古い豪壮な建物があるということで、楽しみにして通ってみたか、今はない。
前者は取払って洋式建物を建造中、後者は移転して今は空地となっている。小林家の入口に「馬繋ぎ石」があると同書は珍らしい図板をのせているが、これもついでに移転したものとみえてお目にかかれなかった。この珍石は是非一見したいものだが、残念である。
陽かげの観世音
延々と続いた七里岩も、韮崎にきてようやく姿を消す。その最後の断崖の中腹をくって大士洞という。洞中に龕(ずし)を築いて観世音を安置している。雲岸寺の境内であるが、今はこの窟観音だけが名高い。
洞下の広場は子供の遊び場となっていて、やたらに乱雑をきわめている。左の方の石段をのぼって寵中に入ろうとすると、有刺鉄線がさえぎっている。子供が悪さをするので、塞いであるという。この辺の子供は、甲州人らしく勇猛であるらしい。こう隔離されてしまって、気の毒なのは観音様であるが、そこは仏様だけあって、みごとに悟りきって平気で孤寂に堪えている。
甲府に招かれていい気持になり、四方を遊び廻った物但抹は、ここにもやって来て次の詩を残
している。
韮崎大士洞
伝言千年寺 香火大悲尊 石壁鬼神劈 苔庭日月昏
巌懸迷有路 洞曲訝無門 忽得豁然出 方知近尚邨
別に変哲もない詩であるが、この寺の状景が一応は描かれている。特に洞門に重点を置いているのは同感である。すなわち右下に墜道があって東側へ出られるのだ。
東側へ出て、七里岩が終焉を告げるあたりから背に登ってみると、一段と小高いところにでっかい観音様が聳えておわす。その下に市役所など公共建築物が建ち、その中に教育委員会もある。入って行くと誰もいない。何やらかにやらいそがしくって、みんな出払っているという。何かそんなに忙しいかと聞くと、それはわからんという。結局、要領を得なかったが、どうもこういう訪問者は相手にするなという憲法のあることだけは事実らしい。
ここの韮崎駅は、迷路の奥みたいなところにあるが、何度も通っているうちに、スイッチバックもなくなって、便利がよくなり、急行も時には停車するようになった。将来の発展が期待される。観音様も冥加をたれたもうように……。
↧
武田氏始祖の寺 願成寺
武田氏始祖の寺 願成寺
『甲州街道』中西慶爾氏著 昭和47年 木耳社 一部加筆
甲州街道は韮崎を串刺しにして、相変らず釜無川の左岸を北上するが、一応ここで武田橋を渡って、右岸へ出てみることにする。其処にはやや広い平野が続いていて、武田氏関係の数々の遺跡が多い。
ちょっとした丘へ登るような気持で、ゆるい段々畑の道を行くと、例の葷酒山門に入る事を禁ずる石標があって、願成寺である。
大黒夫人が丁寧に応対してくれたが、和尚は急ぎの要事があるらしく、「一寸失礼」といったなり出て来ず、時々障子越しに話に口を挾む。これもまた一興だ。
鳳凰山願成寺は、武田家の始祖信義の開基と寺といわれる古刹で、武田氏にとっては大事なお寺であるが、たびたび回禄の厄にあって、古文書什器などの多くをとどめない。しかしさすがに御本尊さまだけは無事息災で、今は別棟の鉄筋コンクリート建築の阿弥陀堂に、もう安心といった顔で納まっておられる。
この中尊阿弥陀如来は、藤原末期鎌倉初期の制作と推定されるもので、木彫漆箔像、上品下生印を結び、二重敷茄子八角九重の台座に坐っている。定朝系に属するものだという。重文に指定されている。
大きな鍵をガチャガチャいわせて、扉を締める大黒夫人の後姿には風情があった。本堂前にはリヤカーがあって農具を積み重ね、いつでも畑へ出動できるような構えである。このあたりには田畑が多い。
その近くの畑中に武田信義の墓がある。これについては先に書いた。それからややうんざりするほど野良路をたどって、徳島堰を横切って行くと、武田八幡宮の前へ出る。これについても先に書いた。参道左手の矢崎鎌次郎家に寄って、勝頼夫人の願文を拝見したり、古いお話を承ったりする。同家は今改築の真ッ最中で、数日後のお祭りをひかえて戦場のようないそがしさだ。郷土史に明るい内藤大丈夫氏を二度訪ねたが、二度とも留守。
ここの領主の武田信義の館跡は、武田部落の東のはて、釜無川に臨んだ台地の上にあったという。今は何の跡形もないが、お屋敷・お旗部屋・神酒部屋・お庭・的場・お堀・金精水・具足沢などという地名は今に残っている。台地下の道は西街道といって、駿河から信濃へ通ずる古い道である。
このほか、わに塚・白山城跡などというもある。日永の春の一日、このあたりを悠々とほっつき歩いたら、さぞ愉しいことだろう。古い農家の土蔵の白壁に、春の陽が一ばい酒色に澱んで、そこに梅の古木の影が描き出されて、その上の方に武田菱の紋がついていたりする。
↧
↧
牧原と柳沢 現北杜市 柳沢吉保
牧原と柳沢
『甲州街道』中西慶爾氏著 昭和47年 木耳社 一部加筆
牧の原といえば、直ちに思い出されるのは、昭和三十四年(一九六一)八月の台風七号である。十四日の朝富士川河口にまともに上陸した台風七号は、釜無川に沿って荒れ、信州へと抜けたが、通過したあとが大変で、大武川の上流で崩壊した土砂が一時に崩れて、まるで五間ほどの褐色の壁のような濁流が、一時にドッと押しかぶさって来たのだからたまらない。牧の原は一挙に呑み込まれて、一瞬にして川底のようになってしまった。無惨酸鼻などというも、とうてい言い及ばない情景だった。死者九十余人、重軽傷者九百人余りに達したという。
しかし、まだ十年そこそこなのに、みごとに復興した。道路も橋も堤防もすべて新しく頑丈なものと代り、人々もかつての表情をかなぐり捨て、元気いっぱいの笑顔である。
この大武川を少し遡って行くと、柳沢という山村がある。柳沢吉保家のふるさとだという。しかしその屋敷跡というあたりは田になっていて、何ものも残っていない。
柳沢吉保は微賤から身を起して、大老職にまでよじのぼり、天下の政権を左右した実力者であるが、何にしても成り上りもので、犬公方徳川綱吉を牛耳ってああいう馬鹿々々しい脱線振りを演じさせ、かたがたして失政も少なくなく、今の映画や小説ではすっかり悪者に仕立てられているが、しかし甲州にとっては数うべき善政が多く、なかなかの評判だった。
宝永元年(一七〇四)甲府城十五万一千二百石余の譜代大名としてふるさとに錦を飾ったのだから、勢いこんで大いに張りきったわけである。
彼はいろいろと新政策を打ち出し、特に江戸風の文化を導入して、甲州人に大いに満足感を与えた。だが勢いのおもむくところ、人々はえてして享楽面に走りがちで、やがて類廃の淵へと転落して行く素因ともなった。吉保の招きで入峡した荻生徂徠は、藩政のあり方について何かと諮問に応えていたが、他面では艶名を流した。葛飾北斎や初代広重をはじめ多数の浮世絵師、市川団十郎などの歌舞伎役者がぞくぞく入峡して華やかな雰囲気をふりまく。各町では競って浮世絵師をよんで、町を飾る幔幕を描かせた。宝暦二年(一七五二)の序ある「裏見寒話」は当時の甲府の類唐たる有様をことこまかに伝えているし、広重の「卯月日日の記」は如何に華々しく
歓待されたかを詳しく書きとめている。だがこれが一時のあだ花であったことは、ことの成り行き上いたし方ないことであった。
荻生徂徠は、招いてくれた殿様のふる里だとあっては訪ねないわけにもゆかず、はるばる柳沢へもやって来て、次のように誌している。
行至柳沢村、口有星山故城、左側麦田中、挿竹表識処、謂是使君田庄、其西十歩許、
昔時有大柳樹、是邑所名者、已枯矣。
まあまあ適当に書いている、といった感じである。しかしこういった風景も今は見られない。
大柳も柳沢もすでに枯れ果てて久しい。
縁で添うとも、縁で添うとも、
柳沢は嫌だよ。
おな(女)が木をきる
おなか木をきる。
萱を刈るションガイネ。
この縁古節は、柳沢といっても柳沢吉保とは関係ない。日がな一日労働においかけられた山村辺地の女の哀調である。溜め息を聞くようだ。
このへんでとれる米は非常に良質だった。「武川米」といえば、今でも江戸の鮨屋などはよく知っている。
↧
台ヶ原の古い酒造家 白州町 山梨銘醸七賢
台ヶ原の古い酒造家
『甲州街道』中西慶爾氏著 昭和47年 木耳社 一部加筆
台ヶ原は古い家並の続くゆるい坂の町だ。大分傷んでいるが、梅並木がところどころかたえにあって、風情をそえている。古い家並のうちに、一際目だった大きな構えの、寛延三年(一七五〇)創業という古い酒造家かおる。誰しも一応は目をそばだてる豪壮な佇まいである。店の前に例の四角柱碑が立っていて、明治十三年(一八八〇)六月二十二目、明治天皇巡幸の際、ここに一泊したことを示している。当時の店主は北原延世といった。御付きの文学御用掛池原香穉は別に山田伝右衛門の家に泊ったが、蚊帳をつらないでも蚊の出なかったことを嬉しがっている。天皇は北原家で「七賢」という甜酒をたんまり賞美して、のびのびと熟睡したに相違ない。その部屋は今も大事に保存されている。
玩籍・嵆康など造反派酒徒のことを思えば大伴旅人の
「……ななのかしこき人達も欲りせしものは酒にしあるらし」
の歌を引き合いに出すまでもなく、「七賢」とはいみじくも名付けたものと感嘆する。これはこの酒造家の看板娘である。
軒下にでっかい杉玉が掲げてある。俗称は杉玉だが、正式には酒林という。しかし。余り使用例が少なく、単に「杉」といった方が昔は通用したらしい。
十二月末ごろに新酒が熟れると、天下の酒徒はぞくぞくとこの酒林のもとに集まって来る。この場合の杉の香は如何にも魅惑的で、酒徒の気持はいやが上にも弾んだことであろう。徳川時代の戯作などに「杉を訪ねて酒を飲む」などと時々見掛ける。
天井のがっしり組んだ木組の一本の柱に「火之用心」とある文字は立派である。うまいというではないが、筆太の堂々たる恰幅で、貫禄十分、武将の風格がある。板目がほどよく現れて、さらに趣きを加えているのは年功というものである。
↧
井戸掘り名人「ユズ」やん 北杜市明野町
井戸掘り名人「ユズ」やん 北杜市明野町
『水と先人の知恵』ふるさと明野をつづるシリーズ 「第一巻暮らしと水」平成10年刊 一部加筆
明野村原地内に、いつ頃から住みついたのかはっきりと覚えている人はいないが、「ユズ」やんという井戸掘りの名人がいた。
その「ユズ」やんの長男が第二次世界大戦で戦死し、当時は名誉の戦死であるということで、葬儀を小笠原村で行った。村葬という形式で、小学校の校庭で行われた。このことは現在でも覚えている人は大勢いる。
この井戸掘一筋に生きた通称ユズやんの正式の名前や、どこで生まれ、どうして原に借家住まいをするようになったのか、子どもは戦死した長男一人なのか、いろいろ調べたが知っている人はいない。
住居は現在の原簡易郵便局の敷地の中にあった。粗末な木造の物置を改造したもので、奥行が二間、間口が四間くらいで、人口も板戸で開きになっており、鍵などは勿論無いが、中から針金で板戸を柱の釘に巻きつけるようになっていた。土間の奥にはカマドがあった。カマドは石で三方を囲み、火気が外へ逃げないように、泥で全体を塗り固めたものであり、天井からは自在鈎が釣り下がって、真っ黒いヤカンが懸かっていた。そのカマドの側には、仕事からの帰りに拾ったり、山から採ってきた薪らしいものが置いてあった。また本人がいつも居るところは板の間となっていて、茣蓙を敷いてその上に薄い座布団が一枚あり、その周囲には飯喰い茶碗や酒の一升瓶などが無造作に置かれていた。物置なので天井は張ってなかったし、窓らしきものも無かった。
電気はなくランプ生活であったが、昼間も雨の降ったときはたいへん暗かったことが印象に残っている。
さて井戸掘りの仕事であるが、道具を担いでゆくのを見ると、先ず夏は紺の股引に、上半身は素肌の上に直接腹掛けをつけて、頭には萱笠を被り、素足に草鞋履き、そして首には、俗にいう醤油で煮染めたような、いつ洗濯をしたのかも判らないような手拭を巻いていたのを覚えている。小真面目で余り口をきかない性格で、一生
懸命仕事をしたので、飲用水の尊い小笠原地区では井戸掘りは勿論、井戸替えなども引っ張りダコであった。
冬は余り仕事をしなかったようで、井戸掘り用の道具の手入れなどをしたり、山仕事の手伝いとか、「ユズ」やん専用の特殊の鍬を使って、人力で桑の根をこぐ仕事などで生活費を稼いでいた。
「ユズ」やんは、おとなしいので、人と話をすることもなく、孤独な生活で好きな酒を飲めば、ゴロリとどこででも寝てしまうという風なこともあり、年をとってのヤモメ暮らしは大変だったと思う。
井戸掘りの仕事に熱中していた頃の「ユズ」やんは、五〇歳から六〇歳台の前半ではなかったかと思う。そのユズやんの頭の真ん中に盃くらいのへこんだ傷跡があり、これを見つけた子ども達は「ユズやんの頭には盃がある…」と仕事帰りの「ユズ」やんをよく囃し立てたのであったが、知らん顔の「ユズ」やんだった。
晩年の「ユズ」やんは、簡易水道の普及などにより井戸掘の仕事もなくなり、外に出る機会も減り、家に閉じこもり、酒ばかり飲むようになったようである。
昭和二〇年の終戦の年には元気だったユズやんも、まもなく体調を崩し、入院することもなく、長年住み慣れた家で息を引き取ったという。
その後いろいろ調べたり、人の話を聞いたところ、ユズやんの生家は上手地内の小袖地域であったらしいということが判った。
↧
北杜市明野町昔の話 浅尾の湯の話
北杜市明野町 浅尾の湯の話
『水と先人の知恵』ふるさと明野をつづるシリーズ 「第一巻暮らしと水」平成10年刊 一部加筆
昭和四一年発行の国土地理院の五万分の一地図の「韮崎」を広げると、浅尾と表示されている五ミリくらい下に、温泉マークがあった。当時の地図は、横書き文字は右から左へと表示されていた。
大正年代の地図には全く表示されていないので、昭和になって温泉が湧き出したか、と思われがちであるが、ここには明治以前から鉱泉がけ湧出していた。
戦中・終戦直後の地図に表れているということは、かつてその地で営業をしていたということから、当時の海軍省で、将来の保養地として指定したので、地図上に表された。海軍省が解体されるということがなければ、或いは今ごろは、観光地として賑わっていたかもしれない、夢のはなしである。
大正四年に発刊され、昭和五一年に再刊された「北巨摩郡誌」の朝神村の欄に、次のように掲載されている。
温泉
湯澤の湯 浅尾に在り、温度七一度、反應中性にして炭酸、格魯兒、硫酸、石灰、苦土、加里那篤倫、硫化水素を含有し、慢性皮膚病、慢性湿疹、疥廨等に特効あり、数年前迄は浴場の設ありしも、今は廃絶して、只薮中に自然の湧出に任せ、村人の汲取るに任せつゝあり。
源泉はその南へ約三〇メートル上ると、一平方メートルの湯壷がある。石で囲い西面の平たい石の上には何時も茶碗が伏せて置いてある。
所在地は浅尾字湯沢三、三九四番地である。湯沢川を朝穂堰が跨ぐ箱樋の上、約百米の左岸に川番地-二の敷地跡がある。現在は砂防の堰堤が築かれているが、一〇四平方メートルの平地がある。湯沢の地名もこの湯に起因しているのかも知れない。
昭和三〇年代は杓が置いてあることもあった。郡誌には温度七一度とあるが、当時は華氏で表示したので、摂氏二三度くらいとなるが、そんなに暖かくはなく、年中一〇度くらいで温度は変わらず、冬でも凍ることはなかった。
山の手入れにいったときは、薬水だと母にいわれ、家から水を持っていかなくて、その水をよく飲んだことを憶えている。今は山の手入れもしないので、跡地も湯壷も篠笹が密山果し、冬季以外は踏み入るのも困難である。
鉱泉は湯壷から下の方に沌み出し、湯沢川に入っている。昭和三五年にこの地に山火事があり、源泉が防火の働きをして、西側への延焼を免れたことがあった。
郡誌にも記載のとおり明治のいつ頃か定かではないが、湯宿を行なっていた。周囲にあまり施設がなかったので、宿泊としてだけでなく、飲食の場として結構繁盛していたらしい。それが近所から、風紀を乱すと非難され、廃業した一因である。さらに、宿の経営は上神取に実家があった人に任せていたが、家主は教育者でもあったので、非難が増幅されたようである。
当時では珍しい徽典館(山楽師範の前身)第一期卒業生で、卒業と同時に、若輩ながら穂足小学校長に赴任した。教育者と風俗営業者ということで、非難と、当人のジレンマとが重なり、一気に廃業へと進み、一方教師の方も退職した。その後、朝神村の村長をしているので、廃業したのは明治二〇年代と思われる。
旅館の建物は二階建で、その後、浅尾の中久保地区に移築され建っていた。木賃宿を思わせる風情の建物であった。昭和五〇年頃、その家は同じ場所に新築をするために取り壊された。
取り壊すと伝え聞いたので、当日の朝、写真を撮りに行ったが、既に外観の殆どが壊されていて、写真に残すことが出来なかった。
源泉はその後も近在の人に利用され、特に戦中・戦後の医薬品の欠乏しているときは、腫物に効能があると評判になり、多くの人が汲みに来た。当時は虫に刺されて化膿する人が多かったので、手桶を背負子につけて汲み、風呂をたてたということも聞いた。
当時を知っていた古老が、再興をと幾度となく相談にきたが、いつの間にか話題にものぼらなくなった。しかし、隠れた愛用者は今も居るらしく、昭和六〇年に炭を焼くため、宿の跡地に炭窯を作り、ブルドーザーで材料を運んだので、湯壷も壊されたが、その後、その利用者たちがきれいに整備したのであろう、湯壷は石に囲われ、今も源泉を貯えている。
平成八年春、村営の新しい温泉施設・太陽館が開業したので、浅尾の湯のことは語り種としても消えていくことと思っていた。ところが、かえって話題となり、その後「浅尾に湯があったのだってネ。どの辺~」とよく尋ねられるようになった。
↧
↧
真田丸の戦略価値
真田丸の戦略価値
日本放送出版協会 NHK『歴史への招待』7 桑田忠親氏著 一部加筆
真田丸構築の動機
東西が手切れとなり、大坂冬の陣が起きると、大坂方では軍議を開いて龍城作戦に決定し、城内にはさらに塁砦が築かれ、堀が掘削された。浪人組の真田幸村や後藤基次は、京都を占拠して宇治・瀬田に居陣し、遠征疲れの東軍を迎え撃つといった積極的な作戦を主張したけれど、大野治長を始め、大坂城の要害に絶対的信頼をおく豊臣家の首脳部は、籠城作戦を主張して譲らない。そこで、籠城作戦となると、真田や後藤も、城内に活躍の舞台を求めざるをえない。しかも、敵軍との遭遇の最も華々しい舞台を求めた。ところが、二人が共に、城南の平野口が手薄だから、敵軍は必ずこの方面に主力を寄せてくるに相違あるまいと、見きわめ、ここに出城を構築するようにと、大野に進言して、許された。
真田と後藤は、当然のことながら、平野口に築く出城を持ち場にしたいと主張して、たがいに一歩も譲らず、そのために両傑の間に葛藤が起こり、城内に流言さえ飛び始めた。真田幸村が城南にこだわるのは、東軍に加わっている兄真田信之と連絡を取って、敵兵を城内に導き入れるためだ、というのである。すると、後藤基次は、幸村が、城内にあるのを潔くとせず、一人、出丸に移って戦いを挑もうとするのは、そのような風評をたてる愚か者がいるためだ、と言って、平野口に出丸を構築することを、幸村に譲ってしまった。つまり、有名な大坂城の真田丸は、後藤基次の友誼的な雅量によって出来上がったのであった。
真田丸の規模と機能
幸村の構築した真田出丸の位置と規模については、『武徳編年集成』に次のように説明している。真田幸村は、おのれの武名を後代に遺そうと考えて、天王寺表に一郭を構えた。その形は新月に似ている。大坂城の総(惣)構えの外に出ること四十間、周囲に空堀をめぐらし、東西に長く、南北に短い。真田丸と自称して、他の軍勢を交じえず、真田隊だけで、ここを守備した、というのである。なお、『山口休庵咄』には、真田幸村は、どう思ったものか、玉造口御門(二之丸の西南の門)の南、東八町目の御門の東に、一段と高い畑があったのを、三方に空堀を掘り、塀を一重かけ、塀の向こうと、空堀の中と、堀ぎわとに、冊を三重に付け、所々に矢倉、井楼(せいろう)をあげ、塀の腕木の通りに、幅七尺の武者走り(通路)を作り、父子の人数五、六千ほどで固めた、と記している。これらの記述によって、由具田丸の規模が、だいたい想像できる。
この真田丸に拠る真田幸村への軍監としては、豊臣家から、伊木遠雄が派遣された。伊木は、かつて秀吉の黄母衣衆(使番)をつとめた人物であるから、関ケ原浪人ではあるが、年齢も五十歳くらいだし、軍監に選ばれたものとみえる。
なお、真田丸の図は、現在、大阪城天守閣に所蔵されているが、以上の諸記録の説明と合致する。今日の大阪市天王寺区南玉造町にある真田山公園が、幸村の築いた真田丸の遺蹟である。
真田丸による攻防戦
さて、東軍の総大将徳川家康は、慶長十九年(一六一四)の十一月十七日、摂津の住吉に到着し、ここを本営と定め、十八日、天王寺の南東にあたる茶臼山に登り、将軍秀忠と軍議を練った。そして、茶臼山を戦闘の指導するときの
本陣としている。
大坂城南の真田丸の前面には、加賀の前田利常が陣取った。そして、それから西へ続いて、井伊直孝、松平忠直(家康の孫)、伊達政宗の諸隊が、城の南側を包囲していた。
真田丸の前方に、小橋の篠山という小さな丘があり、そこへ、真田の軍兵が出てきて、前田隊に銃撃を加えた。そのため、毎日、数十人の死傷者が出た。そこで、前田の部将、奥村摂津守が、十一月三日のこと、兵を率い、秘かに篠山に押しよせ、鬨(とき)の声をあげたけれど、敵が一人もいる様子がない。驚き、あきれていると、真田丸の塀の上に一人の武士が上がり、
「いまの鬨の声は、鳥追いにでも来られたのか。今までは、雉子や兎も少しはいたが、寄せ手の大軍が余り騒々しいので、みなどこかへ逃げ去り、いまは一匹一羽もいない。だから、引き取られるがよかろう。が、このままでは、余りにも退屈だろうから、気慰みに、この出丸を攻めてみなされ。この出丸を固めているのは、信州上田の住人真田安芸守の次男左衡門佐幸村と申す浪人者である。大袈裟な備えもないが、田舎の斧鍛冶に鍛えさせた矢の根を少々用意しているから、各々の重代の物具の実を試してみられては、いかが……」
と、呼びかけて、寄せ手を散々に愚弄したのである。
これを聞いた奥村隊は、大いに怒り、真田丸の前の空堀にとびこみ、柵を破ろうとした。すると、城内からは、弓矢や銃弾を雨露と撃ち出し、奥村の兵士がうろたえ騒ぐのを見て、
「信濃山家の狩人が、維子狩にて、かくこそ撃て、猪狩にて、とうこそ撃て」と、はやしたてた。東軍の他の部隊の寄せ手も、これを聞いて、どっと、打ち笑った。奥村摂津守心、くやしさに歯ぎしりしたが、進むに進めず、いのちからがら自分の陣屋に引きあげた。そこで、立腹した前田利常は、奥村を処罰したという。この話は、真田旧子爵家に伝わる『列祖成蹟』や『幸村君伝記』にも見えているが、『真田幸村』の著者、小林計一郎氏によれば、幸村の功名談として、のちに作り加えられた話かもしれない、とのことである。
奥村隊の失敗を知った前田利常の先鋒隊長の本多政重・富正たちは、なんとしてでも力づくで篠山を奪取しようと決意し、十一月三日の夜半に起き、四日の早朝、篠山に攻めのぼったが、やはり、敵兵が一人もいない。そこで、そのまま真田丸の堀際へ押し寄せた。これを眺めた前田の諸隊は、
「さては本多隊に先駆されたか」
と、われ先にと、城際へ押し寄せていった。すると、真田丸からは、弓矢や銃弾で一斉に反撃してきた。ところが、このとき、はからずも、真田丸の西後方の城壁を守備する石川康勝の兵が、間違って、火薬桶の中に火縄を落したため、爆発を起こし、矢倉が焼け落ち、康勝も負傷してしまった。かねてから大坂城内に反応者が出る筈になっているのを知っていた寄せ手の東軍部隊は、
「さては、反応者が城に放火したぞ」
と、勘ちがえし、松平息直、井伊、藤堂諸隊が、われ先にと、城ぎわに押しよせ、楯や竹束の用意もせずに、ひしめき、混乱しているところを、城壁から真田隊に一斉に射撃されたから、死傷者が続出した。そこへ、真田丸の東の木戸を開いて、真田大助(幸村の子)と伊木達雄が、五百の軍兵を引き連れ、鬨の声をあげて出撃してきた。そのため、寄せ手は散々な損害を受けた。そのうち、城内からの合図と同時に、真田隊は一斉に真田丸に引きあげてしまったのである。その駆け引きの見事さには、さすがの東軍も舌を巻いたと、『幸村君伝記』に書いている。
徳川秀忠は、十一月四日の朝、摂津の平野から岡山に陣を進めたが、そこで、松平忠直隊が苦戦しているという報告を受け、ただちに撤退を命じた。しかし空堀の間へはいった松平の兵士は、堀を這い上がって逃げようとするところを撃たれるので、たがいに隣の隊の動きを見ながら容易に退却しようとしない。が、撤退を命ずる上使が、なんども来るので、仕方がなく、撃たれながらも退却したと、『大坂御陣之事』に記述している。
家康は、その日の昼すぎ、茶臼山に進み、そこで、本多富正らから、本日(十一月四日)の戦況について報告を受けた。若武者たちがはやりすぎたのと、自分らの指揮のあやまちで、不覚をとったというのである。家康は、本多らの軽挙を叱責したが、それから、藤堂隊の陣所を視察して、住吉に帰ったと、『駿府記』にある。
この日の戦いについては、『孝亮宿称日次記 たかすけのすくねひなみのき』に、
「去る十一月四日、大坂表で城攻めがあった。越前少将(松平忠直)の軍勢四百八十騎、松平筑前(前田利常)の兵士三吉騎が討死した。そのほか、雑兵の死者はその数を知らない」
と、記している。京都の公家たちの間でも、東軍が真田丸に攻めかけて、敗北したことが、評判となっていたことがわかる。
この戦いは、大坂方の勝利であった。そして、その功名の第一人者は、真田丸の主将、真田幸村であった。
幸村の戦術の特徴
真田は、徳川の軍勢を二度までも、その居城で破っている。天正十三年(一五八五)八月の家康の上田攻めのときは、幸村の父昌幸の働きであったが、幸村自身が奮戦した慶長五年(一六〇〇)九月の戦いでも、徳川秀忠の大軍を上田城の壁際へ誘いこんで、銃撃を加えたのである。このときは、敗戦の責任を負わされた大久保隊の旗奉行が、切腹させられている。軍令を犯して、城際に殺到して、大損害をこうむったという点では、上田城攻めと、大坂城の真田丸攻めとは、実によく似ている。幸村の戦術としては、自ら進んで、最も攻撃を受けやすい地点に、出丸を築き、自らこれを守り、敵兵を城際近く引きつけておいて、これを銃撃した。だから、慶長十九年十二月四日の大坂冬の陣当初の幸村の勝利は、計画どおりの会心の戦勝といってよかったのである。なお、そのうえ、城方の石川康勝隊が火薬箱を爆発させるといった大事故を起こしたことが、かえって、怪我の功名となったのである。
また、『鉄砲茶話』によると、真田丸の兵士が射撃が上手だったのは、真田昌幸・幸村父子が紀州の九度山へ移ったときから、大坂と徳川との戦いのあることを予期し、吉野川の釣りだとか、山狩だとかいって、近くの猟師数十人と懇意になり、それらを引き連れて大坂に入城したからであるという。
真田出丸の戦略的価値
真田幸村は、難攻不落といわれた秀吉自慢の名城大坂にも、南側の防衛に重大な弱点があることを見抜いていた。つまり、東北西の三面は海や川などが自然の障碍物となっていたため、大坂城を攻め落とすためには、徳川方の大軍が自由に活動できる南の一面しかない。したがって、この南面に出丸を築いて寄せ手の攻撃を防ぐことは、最も危険ではあるが、それだけに、最も派手な決戦ができることであり、華々しい戦功をあげるには、これにまさる持ち場はない。幸村は、そうした戦略的な価値を認めて、ここに女臭田の出丸を構築したのであった。(国学院大学名誉教授)
↧
甲斐に流された後陽成帝の皇子
甲斐に流された後陽成帝の皇子
資料『街道物語16 甲州街道』三昧社 ほか
門跡と島原遊女の恋
第百七代後陽成天皇の第八皇子に生まれ、京都智恩院の門跡となった二品宮長純親王くらい、自由に生きられた皇族はめずらしい。京で浮名を流し、ために甲府に配流されたのであった。
門跡の栄誉を投げ打って
この宮を俗に「八の宮」と申し上げる。後陽成天皇第八皇子という意味だが、四歳のとき、浄土宗総本山智恩院に入れられ、元和元年(一六一五)二十歳で家康の猶子(養子)となって、門跡領一千四十五石を領した。
浄土宗は家康の保護をうけ、江戸上野に建てた寛永寺が徳川家の廟となってからは、両寺の門跡は皇族から迎えることになっていた。家康の対朝廷政策の一つだが、当の門跡になった宮家の中には、その捨扶持扱いを不満とし、幕府につよい不満を持つ方も少なくはなかったが、八の宮のようにそのあらわれが遊興、しかも遊女相手にはしったというのは例がない。
最初に八の宮の目にとまったのは、紀州生まれの阿海(おうみ)という女であった。育ちがよかっただけに、宮は下賤の無学文盲、あるいは肉体だけといってよいこの遊女に、自分自身盲目となって通いつめ、いつしか一千余石の収入でも賄いきれないほど入れあげてしまった。
地に堕ちたりといえども、かたやれっきとした天朝様の御子であり、かたや九州の海辺育ちの養女とは、どう見ても釣り合いがとれないが、そのあたりに恋路の不思議さがある。端の目にどう映ろうと、宮はほとんど寺院に姿をとどめていなかった。
そうしたことは、すぐ京童の噂にのぼり、関係者の眉をひそめさせたが、宮の遊びは一向に収まるどころか、つぎには近頃評判の立ちはじめた、島原の太夫三芳野に心移りがしたのである。なお拙いことに、阿海とちがって三芳野は、武家の出だけに教養がある。それも生噛りのものではない。しつかり素養を積んだ、確かなものであった。
宮もまた、将来なんの希望も持てない境涯も手伝って、文学、とくに歌道にすぐれた才能をお持ちだった。宮の興味が、ただ遊興だけのものから、心をともなった遊女へと移ったのは自然であった。宮は三芳野に言い寄った。だが天下の島原で太夫を張るほどの三芳野には、彼女なりの立場がある。このころの遊里の仁義では、馴染み遊女が明らかになっている殿御とは交わらない。
とはいうものの三芳野の心も乱れた。いまさら相手の身分格式に傾く島原の太夫ではなかったが、皇室、智恩院御門跡という高貴の血をさし引いても、宮のもつ歌才、人となりはそれまで三芳野の知らなかった、心を酔わせるに充分なものがあったのである。
相寄る魂という言葉のとおり、二人はいつか人目を忍ぶ仲になっていた。
甲斐国へ配流、そして脱走
その噂を耳にして穏やかではないのが阿海である。恋に破れたと冷静に事態をうけとめる知性もない女なのであろうことか、宮と三芳野の語らいの場に乗り込み、恨みの限りをぶちまけたのである。
騒ぎは町中に広まったが、相手が宮家とあっては町方も手が出せず、ついに京都所司代板倉周防守宗重が自身出馬し、やっとその場は静めたが、ここまで事を大きくしてしまっては、もう取繕うすべはない。いままでの行跡が行跡だし、幕府は思いきった処分に出た。領地没収の上、甲斐の秋元越中守方へ配流と処断された。
寛永二十年(一六四三)十一月、宮は天目山に幽閉されたが、たっての望みで甲府の湯村への転居が許された。
都育ちの宮にとって甲斐はあまりにも辺境の地であった。
流されてすぐ迎えた冬は、とくに宮の身心をさいなんだにちがいない。そうした現実が厳しいだけに、宮の心は日ましに三芳野の上を彷徨うのであった。
その三芳野はいま、一時町方預けになっていた身を解かれ、ふたたび島原に戻ったものの、心はまだ見たこともない甲斐国に飛んでいた。
やがて百里をへだてた二人の上に、三年の歳月が流れていた。
宮の日常は、湯村からさらに北に入った、武田信玄にゆかりの積翠寺に近い輿円寺に移されていた。
山国甲斐では、都で演じたほどのご乱行もあるまいとみてか、宮を預かる秋元家も、形ばかりの監視はつけているものの、その行動は比較的自由であり、富もまた、湯村では近在の身分を選ばれた者にだけ、歌の道などを指導し、ともすれば、三芳野への思いを断ち切ったかに見えるほどであった。
だがふたたび宮の心が煩悩に悶える日がきたのである。それは、宮を慕う一人の村娘の出現であった。娘は山国の乙女らしく、明るく美しく、その上名のある家の子女とあって、三芳野とまではいかないが、宮の会話にうなずくだけの教養もあった。
宮の心に、三芳野の面影が鮮烈によみがえったのは、この娘を知ってからであった。その心の動きが通じたかのように、ある日、三芳野の便りが宮のもとに届けられた。
宮の心は躍った。若さが身心に充実した。宮は参籠と称し、京へ向けて道をたどった。
三芳野との再会に宮は酔った。三芳野もまたひとりの女性にかえって宮をとらえて離そうとはしない。それは宮に真の生きがいをあたえる喜びではあったが、状況は門跡時代のそれとはまったくちがうのである。いまの宮の行動は、公儀の提を破るものであり、危険ですらあった。
幕府は怒った。その怒りはまず、流配人を甘やかした秋元家を叱責する形であらわれ、ついで宮自身に対しては、幕府の前にすっかり面目を失った秋元越中守のそれまででは想像できなかった強硬な態度となってふりそそいだ。
宮は、秋元家から派遣された使者、とは名ばかり、そのじつ逮捕のための役人にともなわれ、差しまわしの駕籠に押し込められてふたたび甲斐に連れ戻された。形こそちがえ、意味は公儀犯罪人の押送そのものであった。
宮を司直の手に奪われた三芳野は、その罪のすべてはわが身にある、と自害して果てた。
《良純法親王と和歌》
(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆)
良純親王は父御陽成天皇の第八皇子、母は典侍具子といい、庭田大納言源重貞の女である。
慶長八年十二月十七日の御生まれで八の官と称された方である。仏門に入られてから法親王と称した。京都知恩院の初代門跡になられた。その後知恩院門跡は七人の天皇の皇子が継がれたが今は廃されている。
親王は母より小さい暗から深遠の教義を究めさせられ、識見も高き仏教篤信の父と、兄君を持たれたため、自らの修養深く学徳兼ね備った御方であったことは、窺い知り得るのである。
親王が知恩院の門主でありながらどうして甲斐の山里に謫居しなければならなかったのであろうか、当初は天目山に遷居なされ、寛永二十年十一月、さらに志摩の庄湯村の里に御遷りなった。湯村の御居所は、明治温泉側の天神を祀ってあるところが仮屋址である。此処から相川村積翠寺興国寺内に御遷りなって、十三か年の久しい歳月侘びしく過ごされ、時には詠歌に思いを遣っておられたが、懐京の情に堪えずして、
鳴けばきく きけば都の恋しさに この里過ぎよ 山ほとゝぎす
なけばきく きけば昔のなつかしき 此里過ぎよ 山ほととぎす この歌については、参考資料として末尾に下記に掲げてある。 近世宮門跡の文事 ─知恩院宮良純法親王を中心に 文化科学研究科・日本文学研究専攻 大内瑞恵氏著 |
とうたわれたので、爾来、この地にでは郭公が鳴かないようになったと伝えられている。
山高の高龍寺にも御来遊になり
昔思ふ草の魔の夜の雨になみだなそへそ山時鳥
この和歌は高龍寺(武川町山高)に所蔵されている御染筆で藤原俊成の和歌を書かれたものであるという、沈痛な親王の心境をよく代弁している。
積翠寺に残る親王の和歌を次に記す。
多年翫梅
色も香も いつしか春の永き日に いくとせ見はや 梅のさかりを
聞鶯
馴てしる をのがやとりとうぐいすの あかすもきな く軒のくれ竹
我願既満
伝きて さらに心もたのもしな ねがひにかなふ 法のしるしを
なお高龍寺には親王の乗って来られた馬のくらと「天神地祇八百萬神」の御真筆が伝わっている。
また石原常山が書いた「鳳凰梅碑」と題する幅によると、親王の御手植えの梅が枝葉繁茂し芬香(こうばしい)異他であるといっている。
親王は万治二年六月勅勘が解けて目出度く御帰洛が叶ったとき、
降る雪も 此山里は心せよ 竹の園生の またたわむ世に
と詠じた歌が上聞に達し、勅免があって京都に還られたともいわれている。
【参考資料】
遊女八千代が噂 羇旅漫録(瀧沢馬琴)(甲斐の伝説と民話『日本随筆』より抜粋)
八の宮は、遊女八千代にふかく契りたまへり。日夜をかきらず、放蕩その度に過ぎたれば。その頃の所司台板倉侯。屡々諫言すといへども。もちひたわず。板倉止むことを得ず。若干金を以て八千代を身請けし。この八の宮の献じ。しかし後八の宮を配流せらる。則ち八千代もともに配所に至らしむ。こゝをもて八千代が名。吉野より高し。
【註】直輔親王は、後陽成帝第八皇子、幼くして智恩院に入らせたまひ、元和元年、徳川家康猶子として、同き五年剃髪、名を貞純と改め給ふ。寛永二十年、甲州天目山に配流せられしとき、
ふるゆきも この山里はこゝろせよ 竹の園生の すゑたわむ世に
万治二年帰洛し給ひ、帰属して以心庵と號し、北野に住わび給ひ、寛文九年八月御年六十六にして、薨し給ふ。(橋本肥後守経亮話)
【追考】甲州一円は夏ほとゝぎす啼ず。かの国の人の説に。八宮甲州にましましけるとき。
なけばきく ばきけは都のなつかしき 此里すぎよ 山ほとゝぎす
これより杜鵑なかずといふ。(実兄羅文の話)程へて八の宮帰洛したまひぬ。
近世宮門跡の文事
─知恩院宮良純法親王を中心に
文化科学研究科・日本文学研究専攻 大内瑞恵氏著
初代知恩院宮として知られる良純親王は、後陽成天皇の第8皇子として慶長8(1603)年に生まれ、寛文9(1669)年に没した。母は庭田氏の典侍具子。八宮と称され、親王宣下ののち徳川家康の猶子となり、得度して良純入道親王となった。
この良純親王の生きた時代である江戸初期は、京の朝廷では兄である後水尾天皇を中心とした寛永文化が花開いた。いっぽう江戸では家康・家忠・家光らを中心とする徳川幕府による政権が確立されていった。武家諸法度のみならず、公家諸法度などが制定され、江戸と京との間では政治的かけひきが常に行
われていったが、その最中、良純親王は甲斐に配流される。その理由については諸説あるが、当時の公家日記などによると島原の遊郭通いが原因であったかと考えられる。京都所司代、板倉重宗により決定されたようである。
この顛末は後に、曲亭馬琴の紀行文『羇旅漫録』に記される。後陽成天皇の八宮である良純親王が、遊女八千代に馴染み、放蕩が過ぎたため所司代板倉侯が八千代を身請け、八宮に献上した上で甲州に配流したということで、烏丸光広の遊郭通いと並んで江戸初期の公家の風俗について記した条とともに語
られる。
ただし、八宮良純の場合は、甲州における和歌伝承がともなうという特徴がある。
なけばきく きけば昔のなつかしき 此里過ぎよ 山ほととぎす
この歌を良純親王が詠み、そのために甲州では山ほととぎすが鳴かないという伝承である。
しかし、この歌の作者として伝承されるのは良純親王だけではない。そもそも、この伝承歌は世阿弥の『金島書』では京極為兼が佐渡で詠んだ歌とされている。それだけではない。『佐渡国風土記』などの佐渡の地誌では順徳院の歌とされている。この歌は和歌集などにはいっさい採集されないまま、中世の説話・近世の随筆などに歌徳説話として記されている。結果として、讃岐の崇徳院・隠岐の後鳥羽院・佐渡の順徳院・佐渡の京極為兼・土佐の尊良親王が詠んだ歌として広まっていたことになる。
そして、近世に入って甲斐の良純親王の詠んだ歌として荻生徂徠から馬琴に至るまでさまざまな人々が書き記していった。やがて、昭和13年には朝廷と幕府との軋轢の結果の配流としてその母が顕彰されるという解釈にまで変化する。こういう伝承の存在の一方で、良純親王の書は各地に散在している。屋代弘賢、石野広道など江戸期の国学者たちは積極的に書物を集めているが、その際に「佐渡の良純親王の書」という書物を手に入れている。これらの誤解は前述の伝承を知っていなければ理解できないことであろう。
では、このような伝承をもつ良純親王の実像はいかなるものであり、文化史的にはどのような存在であったか。良純親王の歌は少ないが朝廷で行われる御会には参加している。現在整理中の高松宮家伝来禁裏本の御会集によってようやくそれらを見付けえた。
また、良純親王は生白堂行風編『古今夷曲集』を宮中に紹介したとされ『後撰夷曲集』には八宮御方としてその狂歌が巻頭におかれている。この狂歌集は出版された江戸期上方狂歌の嚆矢であり、その後の狂歌の流行に多大な影響を与えている。
↧
不幸な誤解をされる篤学の文治官僚 柳沢出羽守吉保
不幸な誤解をされる篤学の文治官僚 柳沢出羽守吉保
『街道物語16 甲州街道』三昧社
江戸時代の出世頭は五代将軍綱吉の側用人柳沢吉保であろう。史上でも巷間でも悪評高い人だが、その実像は忠臣蔵の吉良上野介同様、ゆがめられ、作られた点が多いのである。
驚くべき出世ぶり
世襲制度が確立した、しかも太平の世で武士が昇進するのは並大抵のことではなかった。現代のサラリーマンが、努力によっては役員社長の座に坐れるほどの可能性もなかったのが江戸時代である。そうしたなかで、五百石から身を
おこし、甲府十五万石の大名にまでなった柳沢吉保は、異色の出世ぶりであり、そこに色眼鏡で見られる余地が生じるのである。その点、有名芸能人が、有名税という妙な鞭で叩きのめされるのに似ているが、それにしても吉保について回った悪評は根が深く、忠臣蔵の悪役、吉良上野介義央が、ぼつぼつ名君だったと取沙汰されはじめているのをよそに、あいかわらず、吉保より後の田沼意次と二人、悪者の代表のように言われるのは酷に過ぎよう。
吉保の評価がゆがめられてしまった理由は二つある。
その一つは、本人の才能手段は別にして、昇進速度があまりにも早いところから起きた嫉妬半分のもの。またそれを生んだ制度も無視できない。
第二は、意外なことだが第一級の学者新井白石の、この件に関してだけ大ゲサに言えば〝曲学阿世〟ぶりにある。
吉保の昇進速度はたしかに異常なほど早い。
簡単明瞭に年齢、加増高(カツコ内)、合計だけを列記してみよう。
18歳(家督相続)五三〇石
24歳(三百増)八三〇石
26歳(二百増)一、〇三〇石
29歳(二千増)三、〇三〇石
31歳(一万増)一三、〇三〇石
33歳(二万増)三三、〇三〇石
35歳(三万増)六三、〇三〇石
37歳(一万増)七三、〇三〇石
40歳(二万増)九三、〇三〇石
45歳(二万増)一一三、〇三〇石
47歳(三万九千増)一五二、二〇〇余石。
と、こうなる。数字だけ見た限りでは、二十六歳から三十五歳までの九年間で、倍増三回で六万一千石の大加増をうけている。このあたりに同僚や世の嫉妬を買う理由がひそんでいそうなので、つぎに加増理由をさぐってみよう。
まず二十六歳のときの二百石は、前年正月におこなった「大学」の講義が、学問好きの綱吉の目にかなったのではないか。「大学」は帝王学の一つであり、おなじ講義するにしても、そのあたりに吉保の眼の確かさが感じられる。吉保
の講義はそのまま恒例となり、二十六歳の正月十一日に加増をうけているのである。
二十九歳の二千石は、前年十二月十日、二十四歳からなっていた小納戸役の、上席に昇進したためと思われる。このとき〝中奥休息の間〟新造の事務主任を命じられ、十一月に完成して褒賞された。三十一歳の一万石は、十一月の側用人登用対して十二月に行なわれたもの。
側用人は将軍と閣老の間の事務連絡をする役目で、いまの内閣官房と似ており、大名から選ばれた。設けられたのは、吉保がなった四年前の貞享元年(一六八四)に、大老の堀田正俊が若年寄の稲葉正休に、将軍出座室の近くで刺殺されるという、江戸城内刃傷事件第一号が起きたため、閣老の詰め所を離す代わりにおかれたもの。
一万石の加増は大増額だが、側用人は大名がなる規定だからこうなろう。ここで吉保ははじめて諸侯の仲間入りし、若年寄の上席、つまり閣僚格となった点は、いまの官房長官が国務大臣であるのと似ている。だがおなじ諸侯、大名ではあっても吉保には持城がない。
三十三歳の二万石は、この当時首席側用人には牧野成貞、先に任に喜多見重政がいたが、前年九月に重政が解任されているので、牧野との釣合い上加増したものと思われる。
三十五歳の三万石は、政治上の理由としては見当らないが、元禄五年(一六九二)のこのころの綱吉と吉保は、ぴったり呼吸の合った主従であった。
綱吉は歴代徳川将軍家にあって、ずば抜けた学才のある人で、すべてにそれが優先した。
牧野成貞や吉保邸を頻繁に訪れたのも、単に寵臣だからというのではなく、趣味としての学論を交わすためと思われるフシがある。
屋敷をおとずれた綱吉は、当の成員や吉保はもとより、その家の儒者に進講させたが、驚くべきことは、第一番目の講義は綱吉自身が行なうのが常であった。
牧野邸へ三十二回、吉保邸へは五十八回におよぶ〝お成り〟は、じつは学問好き同士の集会的性格がつよかったのである。
諸侯から、
「学問においては、古今無二の将軍……」
と評価され、まったくの下戸だった綱吉と吉保は、学問上も師弟であり、師が信頼する愛弟子に目をかけるのは当然であったろう。
ついで三十七歳のとき、吉保は武州川越城主となり、はじめて城持大名の一人となった。
なお一説によれば、吉保が綱吉にみとめられたきっかけは、先に触れた、吉保二十七歳のときの殿中刃傷事件のとき、側用人の牧野成貞が帯刀のまま、将軍に言上のため奥へ通ろうとしたのを、吉保が注意して刀をはずさせたことこよるというが、翌年小網戸上席に昇進、以後のスピードをみても、あるいはあたっているかもしれない。
甲斐の在地武士柳沢氏
吉保は土着の甲斐人である。
柳沢氏の古くは甲斐源氏の支族武川衆の出である。本拠を巨摩郡の一角武川地境に置く武士団で、一族からは信玄時代の勇将馬場氏でているが、十三氏からなる血族的結束はきわめて固く、それにともなう強力な戦闘力を信玄から評価され、信玄の実弟左馬助信繁(川中島で戦死)・信豊に所属してはなばなしい武功を立てている。
(註、この武田時代の武川衆の結束は歴史資料にはあまり見られず、徳川時代になってからの事績が多い)
柳沢氏は武川衆の一つ青木氏からの分流で、巨摩郡武川筋柳沢が発祥地である。武田氏滅亡ののち、武川衆の武勇を知っていた家康は一族を招くことにしたが、柳沢の当主信俊が一族をまとめてそれに応じた。(註、これは間違い)信俊らはそのころ家康と甲斐をめぐって争っていた、北条氏直の大軍を激戦のすえに撃破、その功績によって旧領安堵の上、新たな恩恵をうけた。
信俊の子安忠は徳川忠長につかえたが、一時浪人したあと館林藩主だった徳川綱吉に百六十石、ほかに役料三百七十俵、勘定頭としてつかえた。
吉保はこの安息の五男(?)に生まれたのだが、父の持っていた算勘の血をうけつぎ、綱吉の小姓をつとめたあと、会計担当である小納戸役についた。これが吉保の官僚としてのスタートであると同時に、悪評を浴びるスタートでもあったのである。
小納戸役、つまりいまでいえば大蔵官僚的立場は、とかく非難の的になりやすい。まして、まだ後世のように、幕府そのものが官僚体制をもっていなかった時期だったから、数理に明るい若手官僚は噂のタネになったろうし、財政経済に暗い僚吏たちからは、意味もなく白眼視されたことであろう。そのことは、同じ時代、赤穂藩の財務担当家老の大野九郎兵衛が、番方、つまり軍政担当の大石良雄の引立て役にされてしまっているのと同様、まだまだ、金銭をいじる武士、というよりはいじれる武士が珍しかっただけに、誤解されやすかったのである。
吉保の官僚としての本質は、おそらく幕閣最初の経済閣僚だったと思われる。上にいただく将軍綱吉が、先にも触れたとおり、武人である以前に文人、ないしは学究人であったため、体制上吉保の才能はきわめて重要であり、加えて吉保は綱吉の好む学徒でもあってみれば、そこには自然に、師弟愛とは別に、官僚吉保への信頼が生まれたであろう。
側用人の役目は、
将軍のほとんど全生活にわたるものであり、とても普通の才能ではつとまるものではない。純粋の官僚では、とくに綱吉のような、学識も一家言もある将軍が相手ではおそらく一年はおろか、半年とはつづかないであろう。
すぐれた行政能力と、絶対的封建君主将軍の意にそう能力、この場合、綱吉には単なる阿訣、おべっかだけではおそらく通用しまい。その至難の職務を、側用人になってからでも、通算三十二年間仕えられたというのは、吉保が恵林寺境内にある柳沢吉保廟いかに非凡の人であったかを物語っている。
後世はもちろん、当時の人たちも吉保を指弾した行政に元禄改鋳がある。これによって、慶長大判に代表される金貨の金含有率八四パーセント以上だったものが、五七パーセント台に下落しはしたが、家康時代、全国保有金の三分の一近くを占めていた幕府財産も、家光、四代家綱の二代によって天文学的数字の流出がおこなわれ、幕府経済は早くも破綻寸前の状況にあったのである。
当時の経済機構からいえば、幕府経済の破壊はそのまま武士社会に一大恐慌をおこし、ひいては町人経済を巻き込み、いまでは想像もつかない社会混乱を招いたことであろう。消費経済が先行し、生産経済はあいかわらず米産を基幹とした機構にあっては、生産力を高めて国内需要を広めるなどといった、今日的な発想は行なうべくもなく、消極策といわれようとも、通貨の改鋳にまさるカンフル剤はなかったといっていいのである。
この政策は吉保と、吉保以上に悪評高いパートナー萩原重秀によって断行された。その結果はインフレを呼び、庶民は物価高に泣かされたが、日本経済を破綻から救ったことも事実であり、この時代の経済動向を、今日の経済理論を尺度に回答を求めることは無理である。
もう一つ吉保が非難されるものに、綱吉が強力に推進、というより個人的発想から独走してしまった、例の「生類憐み令」がある。たしかに徳川治制下にあって、これほどバカげた悪法はほかにない。学問と信仰が不可分な関係におかれつつあった当時、綱吉の信念がここに到達してしまったのは、閣老はもとより、日本国民全体の不幸であった。
文治政治の先覚者として、かなりの評価をうける綱吉だが、それらに優先してこの悪法が論議され、ついにはコンマ以下の採点になりかねないとすれば、それが信念であっただけに、同情的にいえば、この法令下の日本人は、綱吉も含めて不幸のどん底にあったといえよう。
不幸といえば、吉備と綱吉の不幸は、ほぼ同時代に新井白石という、まことに生一本な、それでいてズバ抜けた学才をもつ学者を持ったことである。
綱吉と吉保が重用した学者に荻生徂徠がいたように、白石は次期六代将軍家宣のブレーンの一人である。
この時代、学者も医者も、さらに僧侶も、それぞれの地方(国)で、そこの最高権力者の保護を受けようとするのが普通であった。それを受けようとしない、いさぎよい伝記もあるが、それらのほとんどは稗史の伝えるところであって、第二 そうでなくては経済的に成り立たなかったのである。
白石の業績にはすぐれたものが数多くある。だが家宣のブレーンとしての第一の仕事は、いかに新将軍が名君であるかを一般にいかにアピールするかにあった。
その作業をするには、前将軍綱吉と、その側近吉保、萩原重秀、それに綱吉の生母桂昌院らは、嬉しくなるほどの素材を提供してくれていたのである。
白石ほどの論理性をもってすれば、この作業は至極簡単であったろう。
白石は、家宣がまだ甲府宰相綱豊と呼ばれていた時代から近侍し、将軍になってからは、従五位下筑後守に叙任され、政治顧問になった。ちなみに従五位下は武士の最下位で、いわゆる諸大夫である。
白石は、おりから増大してきた町人の経済力が政治的にも無視できないと考え、彼らから発すると予想される政治批判から、家宣政権を守るために、当時巷間でささやかれていた綱吉に対する〝犬公方〟の蔑称を逆用、それを公式に認める論説を発表、側近の吉保を痛撃したのである。この戦法は効を奏し、あわせて、家宣政権は、前将軍といえども、理非を率直に正すという印象を一般にあたえることにもなったのである。その意味では、白石は硬骨、清廉高邁な人格者の評価をうけたが、いまこうしてみると、それは白石のために、惜しむべきたった一つの汚点であった。
歴史とは、長い年月の間に、真実を掘りおこす凄まじいエネルギーをもつものなのである。
↧
幻想 冬のタンポポ
↧
↧
真田幸村
↧
武川衆文書
↧
山梨県指定遺跡 笛吹市 岡・銚子塚古墳パンフレット
↧
甲州方言 レッスン1 あんねんあだあだしてえ
おごっそうのつもりだったかもしれんけんど、あじもそっぺもなかった。
ご馳走のつもりだったのかも知れないけれど、余りおいしくなかった
あんねんあだあだしてえて、しごとになるずらか、しゅうとめがつええから、よめさんもあだじやねえなあ
あんなに真剣みがなくて、仕事が出来るだろうか、姑が強情だから、嫁さんも大変だなあ
えれえあっても、あたまっぱりにしてみりやあこれっぽっちか
沢山あっても、それぞれに分けてみればこんなに少ないのか
やなあさってまでにはまにあわんぐれえ、あつらさあったね
明明後日までに間に合わない位、注文がありましたね
あのええから、あのくにもらったけんどぶちやあるか
あの家から、あんなに沢山もらったけれど捨ててしまうか
あのしやあ、まいんちぶっそろってどけえいくずらか
あの人達は、毎日みんあ揃ってどこへ行くのだろうか
うちんなかであばけてばっかいねえで、たまにやあそとでしろ
家の中で暴れてばかりいないで、時には外でやれ
きゅうのおきやくだからって、がとうあばちやばするこたあねえ
急にお客が来たからといって、あまりあわてることはない
まじめにきいてりやあ、このひたああほうもねえこんばっかこいてるね
真面目に聞いていれば、この人はばかげた事ばかり言ってるね
うちのおばあ、まごをあめえらかすから、ろくだらこたあねえ
うちのおばあさんは、孫を廿やかすから、良い事はない
めえねえのあんちゃん、あらけねえことうしたもんだ
前の家の兄さん、乱暴なことをしたものだ
ほんなことがあらすか、なんかのまちげえずら
そのような事があるものか、何かの間違いででしょう
あのひとにかぎって、ぜったいほんなこたああらに
あの人に限って、ぜったいその様な事はあるものか
今日はありええのもんで、腹をふさげていってくんねえ
今日はありあわせの物ですが、食べて行ってください。
あすこにあるありょう、こっちへはこんでくりよう
あそこにあるあれを、こちらへ運んでくれ
こんねえによごしてきて、はやくあれえ
こんなに汚してきて、早く洗え
↧
↧
甲州方言レッスン2 さあ、ぼっぼついけっちゃでよばあれてけえるか
あわてまくってこんなあめんなか、どけえいくだい
ひどくあわててこの様な雨の中、どこへゆくのかね
わけえうちからためてえたから、いまじやああんきごしょうらくだ
若い時から貯めておいたので、今では死ぬまで安心して楽ができるよ
おばやんがえれえあんべえがわりいそうで、しんぺえでごいすね
おばあさんが大変具合が悪いそうで、心配ですね
こんやもよっちゃばって、だりようおすかであんもんけえてるずら
今夜も寄り集って、誰を推すかでいろいろな策を練ってるな
あんやん、うらっかたでおとっちゃんがよばあってるからはやくはやく
兄さん、裏の方でお父さんが呼んでいるから早く早く
しょっちゅう嘘ばっかこいてるから、いいきびだ
いつも嘘ばかり言っているから、ざまあみろだ
なまけてばっかいるから、こんこんといいくめてやった
真面目に仕事をしないから、こんこんと言い含めてやった
となりねえのがきどもは、よくでけえこえでいいっこしてるな
隣の家ので等は、よく大声で口げんかしてるな
へえいいに、こんねんえらくもらつたからりやあいいだから
もう良いですよ、こんなにたくさん貰つたから
あのやろう、いつもいいもんばっかりなりやあがって
あいつは、いつも要領をつかって良いものばかりになって
このええのこどもは、ちょっくらのまにえれえいかくなったもんだ
この家の子供は、ちょっとの間にずい分大きくなったものだ
おそくなるから、ええかげんじやあいかざあ
遅くなるから、いいかげんにして行きましょう
よりええにやあ、おとっちゃんをでったいいかすから、たのむよ
寄合いには、お父さんを必ず行かせるから、いろいろたのむよ
たてめえによばあれているずら、いっしよにいかずよ
建前(上棟式)に招待されているだろう、一緒に行こうよ
みんながいってほんねえよかったちゅうじやあ、おれもいかっかな
皆さんが行ってそんなに良かったというであれば、俺も行こうかな
ばかにいがらっぽいけんど、なにかえぶってやしんか
いやに鼻や喉がひりひりするけれど、何か燻ってはいないか
ほんねんしょっちゅう、おめえのうちばかいけんじゃんか
そんなに頻りに、お前の家ばかり行けないよ
いいにもなんにも、またてんだってくれせえすすりゃいいだから
良いとも良いとも、又手伝ってくれさえすればいいんだから
えいがあみい、みんなよばあって、いっしよにいくずらね
映画見物に、みんなを誘って、.緒に行くでしょうね
てんでにいぐっちぐのこんばかこいてりやあ、はなしやあすすまんぞ
各自がちぐはぐの事ばかり言っていれば、話は進まないぞ
さあ、ぼっぼついけっちゃでよばあれてけえるか
さあ、そろそろ帰れというお茶をいただいて帰るか
こんやはつごうがつかんで、よりええにやあどうしてもいけねえ
今夜は都合が悪く、会合にはどうしてもいけない
ここらであすぶはいいけんど、いけねえこんしちやあいけんぞ
ここで遊ぶのは良いけれど、悪い事をしては駄目だぞ
せなかをなんかがむずむずいのいているようだ、みてくりょう
背中を何かがむずむず動いている様だ、見てくれ
あいつのはなしやあ、まわりくでえからいじいじするだ
あの人の話は、同じ様な事ばっかり言っているからじれったい
↧
甲州方言レッスン3
しやらっくやしいから、もらったもんはいじっくいにぶちゃあった
本当に口惜しいから、貰った物はむりやり捨ててしまった
もろこしょういしようすでひいて、おやきのおやつをこせえたよ
もろこしを石臼で挽いて、おやきのおやつをつくったよ
いじれってえだ、せっかくきただに、るすでようがたらん
気が落着かないた、せっかく来たのに、留守で用が果たせない
しょっちゅうどっかえでかけてるけんど、きょうはいる(いた)かい
しょっちゅう何処かへ出掛けているけれど、今日はいましたかね
あめがむるとけえ、いたびっこでもおっかさんでくりょう
雨が漏る所へ、板の切れ端しでも差しこんでおいてくれ
おれがあとでやるから、ほのいちらにしてえてくんねえ
俺が後でするから、そのままにしておいて下さい
きょうはいっかだったかわすれたなあ、しんぶんをみるか
今日は何日だったのか忘れたな、新聞をみるか
あとからくるひとがいちゃあいけんから、おれがここにいっかね
遅れてくる人がいてはいけないので、俺がここに居ようかね
こりよう、このちいきいっけんなしくばってもれえてえ
これを、この地域一軒のこらず全部配ってもらいたい
ほんつれえのこたあ、いっさらくにゃならなあ
その位の事は、少しも心配する事はない
おめえは、いっしょうまっしようおやのすねかじるつもりか
お前は、生涯親のすねをかじりつづけるつもりか
なつとふゆにきるもん、いっしょくたあにしとくもんだから、きるときゃあほんこにこまっちまうだ
夏と冬に着る物を、一緒にしておくものだから、着る時は本当に困ってしまうだ
おめえもええからかんじやあ、あっちへいっちめえ
お前もいいかげんには、向うえ行ってしまえ
ほんねんもってえぶらなんて、はやくいっちめえな
そんなに勿体がらなくて、はやくご言っててしまいな
さっきからなんだかんだいってるけんど、いってえなにをいいてえだ
先程からあれこれこ言っているけれど、一体何を言いたいのかな
いっぴょうしにほんなことういわれたって、へんじにこまるだ
いきなりそのような事を言われても、返事に困るよ
めずらしいもん、いっぺえもらってありがとうごした
珍しい物を、たくさん貰ってありがとうございました
おめえがここにいてえて、なんてだまってみてたあだ
お前がその場に居ながら、何故だまって見ていたのだ
えらくせわになったけんど、このへんでいとまげえをするか
大変世話になりましたけど、このあたりで暇乞いをしようか
このへんがいなようでしょうがねえから、びょういんにでもいくか
このあたりがどうもへんで仕方がないから、病院にでも行くか
くびすじのとけえいぬごがはったから、ちっともんでくんねえ
首筋の所のリンパ線が腫れたから、少し揉んで下さい
やくやくきただに、きょうもこのええじやだれもいねえのか
わざわざ来だのに、今日もこの家には誰もいないのか
おとっちゃんのでえじなもんだで、やたらいびっちょし
お父さんの大切な物だから、むやみにいじらないで
こたつがさっきからばかにいぶいからまくってみろ
炉燧が先程からいやに煙っているので布団をまくってみなさい
むすこもでっかくなりやあ、いぼくれておやのいうこたあきかん
息子は大きくなれば、反抗期で親の言うことなど聞かない
いまかじぶんせかせかときたようだけんど、なんのようだい
こんな時間に急いで来た様だけれど、何んの用だね
いいもんをいまっとみせるから、こっちへよってくんねえ
良い物をもっとたくさん見せるから、こちらへ寄って卜さい
↧
新白州名所案内 七里岩猿岩石 国道からも見える
↧