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甲斐甲府 八の宮と遊女三芳野の悲恋

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甲斐甲府 八の宮と遊女三芳野の悲恋

「八の宮、おうみ(河海)に契り深きゆえ、その行先も、甲斐の国なり。」
いまから三二〇年前、京洛の町々にこんな歌が流行していた。二品良純親王が、京の遊廓で遊興にふけり遊女阿海と浮き名を流し、ついにご乱行のすえ甲州の天目山(知恩院史)に配流されたところから生まれた俗謡である。
 頃は寛永一九年の秋、そろそろ京の東山を紅葉がいろどりはじめようとするある宵の口一、島原遊廓の裏町に、立派な駕籠が一挺おろされた。中から、恰幅のよい四〇がらみ、いかにも身分ありげの男が頭巾に顔を隠して出てくると、すぐさま駕籠を返して急ぎ足で立ち去った。
「あれは八の宮、もはやこの島原で隠れもない放埓な浮名、名じまぬおいらんはないと言うが、ご身分柄いかがなものか」
「島原通いの門跡さまは、通りすがりにつまみ食い。」
「あばたはあれど阿海の桃は熟れりや御前のお気に召す。
 通りすがりの浪人体の者が二人、そんなザレうたを流して肩を叩きあった。

二品の宮は後陽成天皇の第八皇子で、

京都の浄土宗総本山知恩院の初代門主として第二九世満誉尊照僧正の時、四歳で知恩院に入ったのが慶長九年十一月のことで、元和元年(一六一五)には家康の猶子となって門跡領一千四十五石を食(は)んでいた身分だ。
 浄土宗は家康がその一派白旗流を信仰し、上野に寛永寺を建てて、代々徳川家の墓所となっていらい、双方の門跡は皇族から迎えられた。八の宮は、博学で歌ごころもあったが、天皇親政の世なおしを志しつつも、その志むなしく、自然門跡という捨てぶちのような身を儚んで酒と遊女にそみ、京の町中へ浮き名を流してしまった。
そなたは人間のもつ肉欲の煩悩を罪咎とも汚れたものとも考えずに素直に、人間に与えられた歓喜と受けとめて幸せに浸る。そして日に何遍か口の中で念仏さえ唱えていれば、日々に男を欺き、産を傾けて首をくくる者があっても罪障はいっさい消滅したと信じて迷わぬところがおもしろい」
「はい、わちきは門徒もの知らずといわれようと、生まれたままの心を偽らず自分に与えられた定めに従うて、肉も食べまする、男から喜ばせただけは銭も頂きまする」
 さきほど駕籠を捨てた門跡は、遊女阿海のもとに現れると、無知な阿海を相手に、肩の荷を下したように寛いだ気特ちで盃を乾した。このようにげすの女から、ありのままの姿で生きる法然思想を学びとることができるような気がして、ズルズルと深田に足を取られる様な遊里がよい。この噂はとうに天朝にも達し、厳しい戒めの使者が頻繁に到来した。最も心を痛めていたのは当然母君大典侍具子(庭田大納言重通の女)であった。
四歳にして母の元を離れて門跡となって以来、まだ一度も対面をしたことのない二品の宮は、十八歳で満誉尊照僧正を師として得度。寛永四年には本願寺光円に伴われて江戸城にゆき、将軍家光にも閲している。だが門跡とは申せ三十五ケ条の掟というのに縛られて、二品の宮は息の詰る思いの明け暮れだった。いつか一〇四五石の門跡領でもまかなえぬ避里通いに、知恩院においても僧正はじめ役僧たちも心の休まらぬ辛い思いを重ねていたのだ。
 伝説では、門跡が遊里に足を染めていらい、通りすがりに目をひく遊女を相方としたことに対し「つまみぐい」と評し、
「そばかす女は紀州の育ち、櫓舟こぐのも荒磯じこみ」と謳われた。紀州生まれの遊女阿海とはいまいう超グラマーで、相手にする男どもは完全にダウンさせずにおかぬという根っからの男好きで遊女になったような女だ。島原で指折りの遊女だけに、なるほど目鼻立ちも整っていて、漁夫の子とは思えない色白の肌をしていたが、その顔にソバカスが多かった。ところがそのソバカスがかえって他の女では味わえない阿海のセックス・アピールを倍加したのだ。「タデ食う虫も好き不好き」の贔屓筋として、門跡は熊野灘の荒磯のように激しく燃える阿海の野性に惹かれていく夜となく枕を交わしていた。

あらわれた才女三芳野

阿海との情事は、世間のうわさとはうらはらに、血の通っていない味気ないものだと門跡が思いはじめたころ、当時の島原で急に評判の高まった大夫三芳野が門跡の目にとまった。阿海の知呆性美女に対し、三芳野は才智をかねた柳腰の王朝的美女であった。
 相手が誰あろうと、身分の高低など詮索せずに、ただ肉体だけの遊びに没頭せしめた阿海には、事の済んだあとの虚しさがあったが、三芳野には人をみる目と、あとあとまで浮き心を包む温かさがあった。
 当時の貴族社会にとって最も教養の有無を示すのが三十一文字の短歌であったことは、古代社会からかわらぬ自己顧示の手段だった。ことに遊女たる三芳野が、歌に長じていたことは、門跡の心を強く捉えたのは当然で
あろう。門跡には不満が多すぎた。徳川によって天皇親政の座を明け渡していた朝廷にとっても、もはや権力に寄生する公卿たちによって、中宮、摂、関の奪い合いからおこる戦乱も絶えて天下太平の世であれば、うつぼつとして王政復古への念にかられながらも、門跡は三十五ケ条の知恩院のご法度に従っていなければならない。坐っていればすむ権威の偶像である。
 ある夜、「恐れながらこれを大夫より」と、三芳野の使いをうけた門跡は、差し出された一句に目をひきつけられた。
「仮寝とぞおもいて寄せしかながきも、一夜明くればしがらみの里」
 かながきとは宿り木のことである。一句の意は、当時の遊女間には一旦馴染んだ殿御を奪い合わない義があった。三芳野は、いまを時めく知恩院門跡といえども、噂に高い阿海との情事を知っていては、阿海に義理を立てねばナンバーワンの大夫としてこの里で羽ぶりをきかせられなくなる。この歌心にますます心をひかれた門跡は、もう「三芳野なくてなんでこの世がさくらかな」と、せっせと足を運び、その都度強い幕情を歌に託して三芳野の心をとらえた。
「貴き御前にあれはいかようにもお相手仕るが、ただし.こよい夜限りの密事ゆえ、その御志ならば」
 と、ようやく島原一の花魁と一夜の交わりを遂げた。えてして一夜限りいう約束は、毎晩に転化しやすい。
いつしか二人の情事は、これまではしたない花魁と転々交わっていたのと事が違い、ライバルである阿海の耳に届いたので、
「わらわのいとしい殿御を、三芳野大夫に奪いとられたとあらば、わらわの顔がつぶれまする。これからかけ合いに参じまする。」
遊女に面子(メソツ)が有ったか無かったか知らぬが、とにかく阿海はさっそく待機していた駕籠に打ちのってまっしぐら。急げや、急げ、せの君を奪いたるにっくき三芳野のもとに馳せ参じ、散々になぶりになぶらでお
かばやと一散走り。駕籠より、転げいでんばかりにして三芳野の廓にかけ入った阿海は、「サッ」とばかり押し開いた襖の前で思わず息をのんだ。とても自分がこれまで振舞っていたと同じ行ないとは思えない濡れ場であった。さすがな阿海も暫し戸惑ったが、やっと怒りを呼び覚ますと、あとはもうメチャクチャな悪口雑言を浴びせた。廓の前は黒山の人だかり、宮と聞いては町方同心では手がつかず京都所可代板倉周防守重宗のご出張と相成って取り鎮められた。この有様はただちに禁裏に届いたので、後光明天皇(寛永20~承応2)は重ね重ねの宮の不行跡にたいそう御腹立ちあらせられたのである。
京都守護職はただちに将軍家光の御裁可を仰いだ結果、天皇の御意にしたがって、流罪と決定した。八の宮四十歳のことである。
 寛永二〇年(一六四三)十一月十一日、十一という厄日に当たって捕われの身となった八の宮は、門跡領没収、不行跡をもって甲州流罪、甲斐の郡内藩秋元越中守預かりとなった。冬ざれの東海道をめしうどとなった八の宮は、甲斐の天目山(山梨県大和村)へ配流され、のち八の宮の願いでいまの甲府市湯村町(県史蹟指定)へ移された、白木町清運院記によると、竪町の竹内又右衛門入道蓮栖という者が近侍を勤めた。もちろん郡内藩から監視の役人が常に目を配っていたのは当然である。
 そのころの湯村は一面の草深い田舎で「湯島」といわれていた。甲州特有の空っ風と吹雪く夜など、キツネが鳴くという寂しさ、ましてや人里離れた天目山にあった三年あまり八の宮にとって死を宣告されたのも同様の日々であった。流罪となって考えることは、過ぎし日の、華の都で交わったあまたの遊女の面影。憎いはずの阿海の甘さえも愛しく懐かしく思い出された。
 かたや京に残された三芳野はしばらく町役の預かりとなって島原に戻ったが、日夜居ても立ってもいられない慕情にかられて深い憂いに沈んでいたあたり、思い思われながら引き裂かれた絵島、生島のようだった。
 やがてその思い出に嘆く身の八の宮にとって、幾ばくでも心の憂さを救ってくれる女が現れた。
 八の宮の遺した墨書短歌の類は多いが、いずれも
「鳴くばきく、きけば都の恋しきに、この里すぎよ山ほととぎす」
といった模歌や既製の御歌集からぬいたものが多いといわれている。だが甲斐配流の身となったつれづれに、
八の宮は甲府湯村近郊の身分賤しからぬ者たちに請われて、短歌の手引きをしていた一人に、湯屋の娘がある。当時甲州の女からみれば、歳こそ四十過ぎになっていようとも、京の都育ち、遊芸をこととして育ち、教養もあった御門跡だった八の宮の美貌は、決して若い女の心をそらすほど衰えをみせてはいなかった。娘カナエは宮の身のまわりの世話を承け賜わるために差し出されたので、これも見目美しい器量であった。
「御前さま、カツコウがしきりに鳴いておりまする。心憂きことはござりませぬか」
 麦を刈りとった田岡のおちこちに茂るアシの薫かげでは、気ぜわしくヨシキリも鳴いている。手習いの手を休めたカナエが、うるんだ目で色白の宮をみつめる。
「鳴くはきくきけば都の恋しきに、この里過ぎよ山ほととぎす。」
さらさらとしたためた一句を渡された。カナエは、又ぞろ宮が京に残してきた三芳野を慕うているかと思い煩って顔を雲らせた。宮がこの一句を認めてより甲府では以来ホトトギスが鳴かなくなったという伝説がある。
 流罪であるから秋元家中の警備がついてはいたが、八の宮はまったく自由に振る舞っていた。いまの積翠寺に.も「八の宮仮屋」跡があるが、大火で焼け御堂も潰れた。八の宮配流の地は今の下積翠寺興円寺である。この地にもいろいろ口伝がある。
この湯島は裏山で陽をかえして夏は暑くるしく、冬は風当たりが強いからと、天目山から湯村へ、湯村から積翠寺へと転居している。この間八の宮の元には武家や豊かな商家から沢山の遣い物が届いた。つれづれならば、娘をトギに出し、あわよくば高貴の人のおとし胤をさずけてもらいたいという野心もあったのだ。これは別にのべる「芝平、荊口女の夜這い…」で知られる、信州御所平峠の北条時行、早良、宗良両親王に纏わる口碑とおなじケースである。いまだ三芳野を忘れえず、京へ文を托してその返信に二吾一憂心を悩ませていた八の宮も、とうてい、帝のお怒りの醒めぬことをしると、心の憂さはこのカナエにも向けられるようになった。八の宮を慰めようとするいじらしいカナエの心根に八の宮は時にやさしく肩を抱くときもあったが、やはり京において責任のないあそび女(め)と同様には賤女に手をつけるようなはしたないことはしなかった。
「この古府中は、太古大きな湖水だったと聞いておる。東南は国府、国分寺のあった西の万上平井よりねとり(笛吹)川に沿うて富士川をはかる東海の海まで一望湖沼であったさまが目に浮かぶ、玉諸と申す当たりにはことにアシが繁く、ヨシキリの多いのもそのせいであろう。あのヨシキリと、ホトトギスの声を聞けばなにやらひどい郷愁にかられる思いよ」
 八の宮はそっとカナエの白い手をとった。このように常に八の宮の身近にあったカナエは、いつしか八の官の寝所前に人目を偲ぶ姿が見られるようになった。去りがたい三芳野の面影を打ち消そうとする八の宮の苦しさ
がついに美しいカナエと三芳野の面影をダブらせて手を引き寄せたのである。そんなある日、京の町から宮に音信があつた。懐かしい三芳野の音信であった。矢もたてもたまらなくなった八の宮は、積翠寺の深草観音において数十日の参寵を行うということで、京の町へ一山に駕籠を乗り継ぎ走らせた。

三芳野と再会

 三芳野と再会したのは数年後だ。二人はさらに強く結ばれ、八の宮を配所へ返そうとはしない三芳野に惹かれ、八の宮は島原にこもって三芳野の元にとう留を続けた。この宮の大胆な振舞いも、もとはといえば大まかに自由を認めていた秋元越中守に責任があった。ことの次第は京都守護から郡内藩に非難となってハネ返ってきた。
「八の宮は参籠と偽り、京の遊廓にて登楼を続けていると、京都所司代よりご注進があり申した。当藩の手ぬるい監視はかえって朝廷のご不快を招き申した。早々に召されい。」
秋元越中守は好意と威敬が仇となったのに腹を立てて、八の宮引もどしの使者を京にむけた。
 八の宮は郡内藩差し回しの籠に乗せられると、有無をいわせず迎の配所へ引き戻されたが、それに先立って三方野は前途を悲観して自害して果てた。
「もはや、生きて二度とおめもじできるとは思いませぬ、せめて宮のお体の温もりが、涙に空しく凍らぬ間に、三方野は世を終わりとうございまする。」
「のぞみは捨て去るものではない。いずれは罪も許される日がこよう。たとえそのとき、いずれも髪に霜をおこうとも、それはそれでよいではないか。」
 その慰める八の宮は、本心から老いさらばえても三芳野を忘れ去ることはできなかった。
「八の宮さまに、このような辛い御旅を続けさせるわらわはおそろしい罪人にござりまする。」
 その夜が明けるまでに三芳野は喉を突いて自害して果てた。八の宮の嘆きはここに書き記すまでもあるまい。
そのとき切々の胸を歌った一句がある。
「都おば花なき里となしにけり、芳野を死出の山に移して(八の宮)」
 あくる日、甲斐より到着した郡内藩の藩士によって、八の宮は放心して蝉の抜け殻のような体を駕籠に押し込められるように配所へ連行された。帰りしな、いまの愛知川の渡しにかかり、
「愛知川、渡れと千鳥鳴かぬなり、誰かいつわりの名にや立つらん(八の宮)」
 と按に自分と三芳野との間は誠の愛に結ばれている純粋なものであると、いささか棄て八で、なかば配流を命じた帝に対しても怒をぶちまけたような歌をのこして去っていった。この歌はたちまち上聞に達したので、後光明天皇は大いに怒りをましく、「勅勘」と称して終生配所にて短歌をつくることを禁じてしまった。

八宮帰京

 こうして前後十七年、八の宮は、積翠寺と湯村の御所で五十八歳をむかえた年の冬、万治二年(一六五九)配所にて                     
「へふる雪もこの山里は心せよ、竹の園生のすえたわむ世に(八の宮)」                
という勤王の一句が上聞に達し、その年四月二十八日京へ帰ることを許された。八の宮は六月二十七日京の泉涌寺内新善光寺にわらじをぬいだ。寛文四年四月十三日新居を北野に移し「以心庵」と号して、同年八月一月没。三日、泉涌寺に葬られた。六六歳。明和五年八月百回忌にはじめて罪をゆるされて本位に復した。
法名 礙光院専蓮社行譽心阿自在良純大和尚。
法名は生前の行いを表現するものであるが、自在という二字が目をひく。甲斐で十三年間奉仕したカナエは八の宮の京へ帰ったあと尼僧となって旅へ出たきりとなったという。天皇四代配所にあった八の宮はよほど危険視された宮である。しかし今の湯村に宮の学問普及を徳として天満社を祀ってながく記念とした。又湯村の「花月レストラン」には八の宮の真筆の和歌がある。
 宮の筆あとはうるわしく、
人ならば思ふこころをいひてまし、よしやさくらは賤のをだ巻
 花月には袈裟と衣があったが、この二品は衣の糸をぬいてのませると、子供の虫封じにきくと、すこしずつひきぬいて与えているうちにとうとう二つながらかたちを失しない、いまはわずか五センチ四方の端をのこすのみだ。何万という子供が宮の衣と袈裟の糸で「テンカン」がおさまったものだろう。

八の宮のお供をした長百姓の記録

 写真は、湯村に残っている八の官の真筆に対する説明で、寛永七(一六三〇)正月に、内藤七左衛門が書いたものだ。内容は「この御歌は永年長百姓にて所々御案内をつかまつり候に付万治二(一八五九)に湯之嶋村内藤七左衛門へ御真筆を給った」ものとある。
 また八の宮因縁善一通で分かりやすくすると次のようになる。
「八の宮良純親王様は当国湯之嶋へ御左遷は寛永二十年二月に松平伊豆守様が供奉って、当村松元寺へ御越し、
松平越中守様御預り御番を仕っていた。正保元(一六四六)正月、湯嶋天神宮社へ御所を建立致し、正保三年三月松平越中守様が供致し、積翠寺村興円寺へ御座をうつし、明暦二(一六五六)九月まで四ケ年興円寺に御本宿、是より当村天神社へ御帰り、万治二年二月まで、御同二月御京へ御帰り、其節当村へ壱尺五寸弐分の劔を給わり、ついては御感を御神体に致し、八の宮天神宮と称し奉る。
 その後は毎年三月廿五日を祭り日に定めた。その後の安永三(一七〇六)丙成年七月朔日に松元寺焼失致し、八宮天神宮も御殿共社中のこらず焼失仕り、其節劔も紛失に相成候に付、天神宮御殿は小さい石祠を作りそのままに候え共、宝永六(一七〇九)乙丑七月十三日松元寺を相建て致す。後年のためここに記し置くもの」とある。この因縁書は百四十年前の正確な古文書である。なお静岡市格ケ島の三社権現の縁起だと、八の宮は悪瘡を病み霊夢の導きで日蔭沢へ来たところ三匹の蛇が温泉へ案内してカサを治したとある。三蛇を祀ったのが三社権現(駿河記による)だ。

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「甲斐路」の始まり」かりそめのゆき甲斐路とを思ひしに今はかぎりの門出なりけり

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899年 昌泰二年
在平業平の二子滋春、和戸村(甲府市)で病に倒れ、使者に託し母に歌をおくる「かりそめのゆき甲斐路とを思ひしに今はかぎりの門出なりけり」
文献上「甲斐路」と初めて使われたもの

男色好きの犬公方 徳川綱吉&柳沢吉保

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男色好きの犬公方 徳川綱吉&柳沢吉保

『話のタネ本 日本史』村松駿吉氏著 日本文芸社 一部加筆

男色は当時の〝人づくり〟だった

 寛永十六年(1639)公家の六条有純の娘のお梅が尼となって、伊勢の内宮慶光院の住職となり、その挨拶のために江戸城へやってきた。このお梅についてきた下脾に、お玉という十三歳の少女があった。
 当時、将軍家光の乳母から出世して大奥取り締まりとなっていた春日局は、美貌のお梅をみる、尼にしておくのは勿体ないというので、還俗させて家光の側女にした。その下姫のお玉は引き取って自分の部屋子(召使い)にしておいたのを家光がみて、「婆アよ、あれもよこせ」少し渋皮のむ芝娘とみれば開へ引っぱりこまずにはおれない家光だったので、十三歳のお玉も家光の側室になることになった。
お玉は京の堀川通り酉薮屋町の八百屋仁左衛門の娘で、六条家の女中になっていて、お梅が慶光院の尼になるとき、ついていったのが、思いがけず将軍の側室となるにいたったのである。
正保三年(1646)正月八日、お玉の方に男子出生、徳松と呼んだ。徳松六歳にして十五万石、十六歳にして二十六万石、上州館林城主となった。家光が死んで、四代将軍にすわった範が子なくして死んだので、徳松がそのあとを継ぎ、五代将軍綱吉となった。これが三十五歳の時、                                                                                                           
幼少の頃より学問を好み・・・というが、世は平和となり将軍の息子では公儀に気を使う事もないので、本でも読むしか仕事がなかった。そのかたわら美童を愛することも仕事の一つだった。
「女色に溺るるは怯懦(きょうだ)に陥る。男色造臣を作るに利あり」と、称した。綱吉〝人づくり〟のために衆道(男色)を行なったことになっている。
綱吉にとって随一の忠臣・柳沢吉保がまだ館林時代に十七歳にして小姓組番衆となり、綱吉の閏のトギを勤めたが、その技が抜群であったところから江戸城中へついていき、小納戸役から累進して松平姓まで許され、大老にまで昇っている。
 綱吉は将軍職につくとお茶の水の昌平橋の際へ湯島聖堂を造った。後の帝国大学といったようなもので、幕府の学問所だ。
 綱吉は大学教授にでもなったつもりで、正月には御講釈始め、毎月一、二回は、みずから論語の講義をした。
 諸藩の若侍を、命令を以て集めるのだが、あくびをするわけにもいかず、若侍たちは緊張してご講義を拝聴。落語の「寝床」そのままだった。
 それだけならよいが、若侍たちは、いつ自分に白羽の矢が立つかわからないので、戦々兢々の思いで講義などはまるで耳にも入らなかった。
「あの前席の右から二つめの机におった若者を、こんやのトギにつれて参れ」
と、侍臣に命じると、いやでもつれていかれる。中にはゲイボーイ的素質の若侍もあって、出世の糸口ともなるので勇躍して伺候する者もいたが、大抵は痒くもない後門をねらわれ閉口したようだ。
 

人間より大事にされた〝お大様〟

綱吉には、公家の鷹司房嗣の娘、おさめの方という妻があったが、その寝所へは一度もいかない。
 わきから当てがわれた側室のお伝の方ほか四、五人はあったが、替り番に時々いくだけだでった。綱吉が四十に近くなって、お伝の方が生んだ子供が一人だけ。それが五歳で死んだので後嗣がない。それを心配したのは母の桂昌院(お玉)だった。
 桂昌院はもともと八百屋の娘から成り上がった身だから教養少なく、家光の死後は脂の乗り盛りだったので、多分にヒステリー気味。やむなく愛玩用の牡大の大きなやつを数匹、手元に飼っていたが、それで満たされるものではなく、後家がインチキ宗教に引っかかるのは今も昔もかわりはなく、真言宗の坊主・隆光に帰依していた。そこで、綱吉に子供を恵まれるようにと、その祈願を隆光に頼んだ。隆光は三七、二十一日の祈祷のあとで、
「これは一大事でありますぞ! 将軍にお子の恵まれないのは、前世に殺生を行なわれたがためでありまする。とくに将軍は戌年のお生まれでありまするによって、お犬様は絶対ご大事にあそばされて、いやしくもお汚しなされるようなことのなきように!」
 桂昌院の腰のまわりを、クンタンと大きな牡犬が喚ぎまわっているのをジロリと見ていったので、桂昌院はドキッとした。
 隆光は、この姥桜の豊満な肉体を、夜な夜な牡犬どもにまかせておくのは勿体ないと思ったのだ。
 桂昌院が、こわごわと、
「それでは、どうしたらよろしいかの?」
「天下のお大様を解放し、生類憐愍(しょうるいれんびん)の令を発せられるほかありますまい。お犬様を解放なされてお寂しゅうなられるお方があったら、拙僧が代わってお慰めもうしましょう」
 ニヤリと笑って隆光はいったものだった。
 桂昌院はバッと頼を染めたが、しかし男らしい力にあふれている隆光をみて、さらにドキンドキンと胸を高鳴らせた。それからは犬に代わって隆光に、加持や祈祷よりも、もっと有難い法悦境に夜な夜な酔わされることになった。
 同時に綱吉にすすめて、〝生類憐愍生禁断の令″を、発することとなる。お犬様を第一とし、猫も牛馬も魚類も鳥類も、あらゆる動物の殺生を全国にわたって厳禁してしまった。市中の犬は一切殺してはならないと、中野に十万坪の〝お大様アパート″を建て、十一万二千匹の犬をゼイタクな食料で飼った。
一方、隆光のために神田構外に知足院を建立し、柳沢吉保を総奉行として七堂伽藍を造らせ、後これを新義真言宗大本山と定め、元禄山護持院と改めて隆光を大僧正に、寺領千五百石を与えるにいたった。
 ところが、それほどにしても綱吉の妻妾に子供ができないのは、相もかわらず男色のほうにツツを抜かしているからだった。これでは、いくらお大様を大事にしても、信仰を厚くしても、子供のできるはずがない。
 お側にある柳沢吉保が、桂昌院とともに心配しだした。柳沢は、もう年をとったので男色のお相手は勤めていなかった。
「わたくしに、よい考えがありますから」
 と、柳沢は、ある日、綱吉の論語の講義のとき、一計を案じてそれを実行することとした。
 見台へすわって、五十人ばかり居並んだ若侍たちを見まわした綱吉の眼に、ふと止まったのは前髪立ちの美しい少年だった。
「あれは、あの若者はいずれの範の者じゃ。はじめての顔じゃの。あれを呼べ」
 と、そわそわして言ったのは、よほど綱吉の気に入ったものらしかった。この日の講義は、そのせいか早々に終えて、その少年をひきつれて城内へもどってきた。
「近うよれ。そちは、どこの藩中じゃ?」
 なよなよした女のような手をついた少年は、おそるおそる白い顔をあげて、
「あの……武州川越藩の……」
「なんじゃ。柳沢の藩士か。よしよし、そんならなおのことよろしい」
柳沢吉保は、すでに川越藩七万二千石の大名となり老中格になっていた。
「さア、わしの寝所へ来い。早うこい」
真っ昼間から、若侍をしたがえて寝所へはいっていった。が、ここで綱吉は、あわてた。後向きにさせようとすると、若侍は前向きになって、
「はい、上様どうぞ…:」とはいわなかったが、よく言い含められていたとみえて、オズオズと開いた薄紅の牡丹の花は、まだ開ききらない蕾ではあったが、正しく女。
「そちゃ女! 予を欺きおったな……」
 と、綱吉は、言うかと思ったら言わなかった。
「うっふっふっふっ……これは珍趣好!男のよそおいをしておって、じつは女か。これは雑作がなくてよいわ」
 この男装の美女が大変気に入ったらしかった。しばらくは男装のままで、小姓として身辺において可愛がった。
綱吉は、まんまと柳沢吉保の手にひっかかったのだが、実はこの男装の麗人こそは柳沢の娘で、お柳の方と称して愛妾となった。
 これから綱吉は、女にも興味を持つようになった。

女体攻撃戦法で出世した柳沢吉保

綱吉のかげには、いつも柳沢吉保がいた。
綱吉が学問に熱中すれば柳沢も、そのまねをし、能楽をやれば自分も柄にもなく能楽をやった。男色において然り、女色においてもそうだった。全国にわたって姜狩りをやったというのは、家来を数人ずつ諸国へ密行させ、町娘や下級武士の娘、百姓娘のたぐいまで、磨けば光ると思える娘を、わずかな金をやっては連れて来て拒む者があると、
「将軍家御用なるぞー」
と、脅かせば一も二もない。綱吉の側近で最大の権力者であることは諸国大名でも知らないものはなかった。集めて来た娘を、まず自分で味見して、これならという娘を、
「上様、またよき品が手に入りましたが、ご上覧に入れまする」
 娘は一個の物品に過ぎなかった。それを使用してみて綱吉は、
「そちの手に入れる品は、いつも上物じゃのう。うっふっふっふっ」
と、綱吉はゴキゲンだった。
柳沢の身辺には、いつもー一十数人の女が侍っていて、その道に馴れないのは、柳沢がとくと仕込んでから綱吉に献上する。
 綱吉にしてみれば柳沢のお古を、いつももらっていることとなるが、そこはお人好しで万事に鷹揚にできている将軍ともなれば、生娘の面倒臭いのよりも、初めっから、たとえ作り声にしても、すすり泣きをし、身悶えてくれる娘のほうがよかったのだろう。
 柳沢はまた美童も常に二、三十人邸内へ集めておいた。これは、普通では、すぐには使用に堪えないので、衆道(男色道)の教育をほどこした。
柳沢がどんな方法でやったかは詳かではないが。こうして綱吉の機嫌をとって、おのれの昇進の道をはかった。
 前述のごとく父親の代には僅か百六十石の小身だったのが、江戸城へあがったとき六百七十石、ほどなく上総国を与えられて千石に。ついで一万石の大名となり若年寄。三年目に三万石。二年を経て七万二千石川越藩主。それから七年たつと甲州十五万石の大名となり、まもなく大老といえば、いまの総理大臣のような地位についた。トントンびょうしといっても例のないことだった。
 元禄四年三月にはいると、
「上様、わたくしの邸へ一度お成りくださいませ。いろんなものをご上覧に供しまする」
 と、誘ったので、綱吉が柳沢邸へいくことになる。
 その日は、若い美女ばかり二十数人を着飾らせて、ずらりと並べておいた。
「ほうほう・・・大へんな女たちじゃな・・・」
 綱吉は眼をみはったが、ふと柳沢のところをみると、柳沢にくっつくようにして坐っている少し年増の女がいた。
「これ。あれを、わしのそばへ寄こせ」
 これには柳沢も少々弱った。ほかの女のすべてに手をつけてはいるが、その女は染子といって柳沢の一ばん可愛がっている女。つまり他の女は綱吉の気に入るために集めておいたものだが、染子は自分の愛妾だった。
「これは上様。わたくしが使い古しておりまするもので……」
「だいじない。それでもよい」 
「これだけは、ごかんべんを……」 
「左様か。いたしかたがない」
  綱吉は大へん不機嫌になった。しかしストリップがでてくる、酒や珍味佳肴が運ばれるして、どうやら夜がふけてきた。
「上様、どの女がお気に入りましたでしょうか?」
 と、柳沢がたずねると、綱吉はプンとふくれて、
「こんな女ども、わしは欲しくない。大奥へかえれば何百人でもいるわ」
「まアまア、左様おおせられず……」
「いやじゃ、わしは帰る。帰るぞー⊥
 と、ヤンチャのように喚く綱吉を、柳沢は女たちにささやいて取りかこんで一室へつれていかせた。そこには金屏風でかこまれた中に赤い布団がしいてあり、その上に寝そべっていたのは、染子だった。
「おうー……そちゃ、さっきの女」いっぺんに綱吉の機嫌がなおった。
 染子のサービスは、柳沢の仕込みで無類のものだったので、綱吉は有頂天になり、狂喜の叫びをあげた。
 それから記録に残るところによると、十八年間に実に五十三回にわたって綱吉は柳沢邸へ通っている。将軍が臣下の屋敷へお成りということは滅多にあることではなかった。
 染子が生んだ柳沢吉里は、綱吉の胤か吉保の胤かわからないといわれている。
 

大の病気で死んだ犬公方

 元禄六年(1693)十二月、水戸から光圀がやってきた。徳川ご三家の一つで、隠居してから黄門と号しヤカマシ屋で通っている。
 これは綱吉にも苦手だった。
「ご健勝にて祝着にぞんじまするな」
表面はおだやかだが、何か歯にものの挟まったような言い方で、ニヤニヤと口のまわり皺をよせている。
「ご老公もお達者で…・・」
幸せだとは綱吉はいわなかったが、向こうから、
「まず、しあわせに暮らしておりますわい。江戸へでてきて、庶民のしあわせげな生活をみて安堵つかまつりました。なかんずく、お大様どもの、おしあわせ振りは、まことにもって祝着千万!」
 来たな……と、綱吉は思った。
 そのとき黄門は、かたえに運ばせた木箱のフタをとって、中から取り出したものを、
「ご無沙汰のおわびに粗略なものでございまするが……」
「あっ……こ、これは犬の皮ではないか!」
 白、黒、まだら、ぶちの犬の皮をきれいにナメして揃え、前へおかれて綱吉は青くなった。
 ガクガクとふるえ出した。
「なんの。人間の皮でござる」
「人間は、そのような毛が生えておるものかー」
「さればでございまする。この頃の人間どもで性の悪いやつは、おのれが横着で食うに困ると、犬の皮着た人間めに化けおりましての……わっはっはっはっ。そのようなやつを、わしは手討ちにいたしてこの通り皮をはいでやりまする」
「む、むごたらしいことをー」 
 犬を手討ちにしたといえば、黄門とても天下の法律に照らして裁かれねばならない。
 そうはいかないので綱吉は困ってしまった。
「このごろは人間でおるよりも、お大様に化けたほうが安全に生きていけますのでのう」
 黄門は、また、「わっはっはっはっ」
と笑った。
「これなる悪人の皮二十枚、みせしめのために、おン座へ敷いてくださるよう」
 綱吉が歯がみしてふるえているところへ、美しい小姓が茶をはこんできた。
 それが下がっていくうしろ姿をみて黄門は、
「あっ、あれはまた、人間の皮を着たお大様でござったな」
「なんと申されるー」
「いや。あの腰の振り方をみると、夜になればお大様にかえって四ツン這いになることでござい
ましょう。わっはっはっはっはっ」
 相手が黄門では、綱吉もどうするわけにもいかなかった-。
 柵青も少し考えてきたので、母の桂昌院へ、
「生類憐愍も、ほどほどにしようではございませぬか」
 と、いうと桂昌院は、
「なにを、そなたはー護持院さまの申されることと、お大様の鳴き声をきいては、そのような恐れ多いことができるものですかー」
 桂昌院は、お大様と護持院隆光から自分の喜びを得ているものだから、これほど有難いものはなかった。
 老来の桂昌院は腰がまがって、

小野金六(おのきんろく)韮崎市

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小野金六(おのきんろく)韮崎市

1852(嘉永5)・818生れ-1923(大正12).311歿。
甲斐国巨摩郡河原部村(韮崎市)の名主で酒造業を営む富屋(小野家)の2男として生まれた。幼名金六郎、初め家業に従事、1873(明治6)年上京して、小野組にはいったときから実業に志を立て、1880(明治13)年第十5銀行へ入社、間 もなく支配人となった。
1885(明治18)年甲信鉄道創立の企画に加わり、以後第九十五銀行副頭取、東京 割引銀行頭取、また富士製紙会社の創立に参画し社長となったが、当時、小野の事業は殖産興業、輸入防止を目標に経営された。両毛鉄道、日本煉炭、東京電灯、東京市街鉄道、東京鉄道などの取締役となったほか、各地の鉄道、鉱山事業の経営にあたった。
 山梨県内産業との関係においては、桂川水力発電を早くから雨宮敬次郎らと発起して、1911(明治44)年起工。富士身延鉄道は1912(大正1)年創立当初から終始社長として尽力、また1918(大正7)年、小野を中心とする富士山ろく開発計画は没後、堀内良平らによって進められた。1927(昭和2)年建碑の小野の頌徳碑が韮崎市にある。<飯田文弥氏著>

小野里平(おのさとへい)南アルプス市

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小野里平(おのさとへい)南アルプス市

『山梨百科事典』山梨日日新聞社 一部加筆
 
1882(明治15)・115生れ-1955(昭和30).629歿。
山梨県若草町鏡中条の土木建築請負業小野丑松の2男として生まれた。
 家業を継ぎ、後に鏡中条製糸工場を創業、常務取締役に就任。1925(大正14)年映画興行に手を染めるとともに、家業は実弟に譲った。太平洋戦争にはいり、鏡中条製糸工場は郡是製糸と合併。それを機に映画 興行一筋に生きた。中央館、富士館、電気館、甲府文化映画劇場などを運営。<今川徳三氏著>

小野晴五郎(おのせいごろう)

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小野晴五郎(おのせいごろう)

『山梨百科事典』山梨日日新聞社 一部加筆
 
1836(天保7).512生れ-1869(明治2).1011歿。
甲斐国岡部村松本(石和町)に三英作の長男として生まれる。幼名を慶造と称した。7歳にして甲府徽典館に学び、平岩学頭によって、江戸へ出て湯島の聖堂に学ぶ。漢学のかたわら洋学を修め、和漢洋学に精通して東都学界に光彩を放った。1866(慶応2)年、小野政智の養子となる。25歳の時、幕府によって英国公使館属員となり、館員に邦学を教授するなど功績があった。
1869(明治2)年、公議所の書記官、修史館で編さんに務め、行政官史官、集義院を設直した際「大主典」に任ぜられるなど公職につき、提案の諸問題を明確にした。1889(明治22)年、甲府市大田町公園(遊亀公園)に記念碑が建てられた。東京都戸塚法輪寺に葬られている。               <斉木高明氏著>

小野善太郎(おのぜんたろう)日本メソヂスト教会の重鎮

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小野善太郎(おのぜんたろう)

『山梨百科事典』山梨日日新聞社 一部加筆
 
1875(明治8).85生れ-1965年(昭和40).719歿。
日本メソヂスト教会の重鎮。武士的風格をもつ最後の牧師といってよい。福島県二本松藩士の長男、日蓮宗の影響下に育つ。長野県の市塾に学び、そこで1891(明治24)年、平岩愃栄から受洗。麻布の東洋英和学校で牧師の修業を終え、35年有朋義塾の塾長として甲何守に赴任、以後日下部教会(1903・明治6年)甲府教会(1920・大正9年)などの牧師。この間、カナダの大学に3年間学ぶ。山梨県内の伝道60年、海外にもメソヂスト日本代表としてしばしば渡る。甲府市宕窪町の甲府教会墓地に献碑がある。く保坂忠信氏著>

小野田元煕(おのだもとひろ)

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小野田元煕(おのだもとひろ)

『山梨百科事典』山梨日日新聞社 一部加筆
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1848(秦永1)・211生れ1919(大正8).612歿。
 
群馬県館林町番外430番地(館林市)生まれ。士族三五郎義子。
1871(明治4)年東京府第5大区13小区取締小頭、同5月通称貞治を元煕と称す。
1875(明治8)年浅草町署長、1877(明治10)年、西南役に田原坂に戦い熊本入城、川路旅団長配下陸軍歩兵中尉として薩摩、大隅、日向に転戦、勲6等旭日章。1879(明治12)年1月、川路大警視に随行、欧米の警察監獄消防制度を研究、帰朝後一等警視。1885(明治20)年、小笠原島司などを経て内務省警察局長、同年7月オーストリアハンガリー皇太子の護衛長、1897(明治30)年4月、茨城県知事を経て翌年625日、第12代山梨と県知事となる。知事職13カ月で1899(明治32)年8月静岡県知事に転出。
山梨県在任中の18989月の大水害による峡北大泉、新富(武川村)、韮崎の復旧に尽くした。後、香川県などの知事を歴任、日露戦の功績で勲一等旭日大綬章をたまわる。1910(明治43)年、老齢で退官するまで知事在職13年に及び、貴族院勅撰議員、正3位、翌年錦鶏間祇候、日本赤十字社評議員並びに理事。「館林市史」に登載された伝記などがある。<鈴木喜太郎氏著>


小野通仙(おのつうせん)北杜市明野町

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小野通仙(おのつうせん)北杜市明野町

『山梨百科事典』山梨日日新聞社 一部加筆
 
 生まれ?-1888(明治21).119歿。
甲斐国巨摩郡浅尾新田村(北杜市明野町)出身。
漢方医。名を秀秋といい、通仙と号す。小野野泉(医者)の父である。甲府勤番医家宇佐美通義の門人で、医業ながら旧法を捨て蘭方を修め、山梨県内に於ける漢蘭折衷の名医であり、通仙弟の三枝雲岱(画家)の関係もある広瀬元恭と医業を通して交友があった。
のちに浅尾新田から甲府市太田町に移り、県病院開設直後医師団の1人として尽力した。また詩文と絵をよくし、九岳、倦または月峡と号した。甲府市太田町の自宅で、86歳で没した。<斎木高明氏著>

小野徹(おのてつ)南アルプス市

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小野徹(おのてつ)南アルプス市

『山梨百科事典』山梨日日新聞社 一部加筆
 
1875(明治8).918生れ-1971(昭和46).316歿。
山梨県若草町の医師。1893(明治26)年、東京慈恵医院医学専門学校を卒業、1899(明治32)年開業、のち私立洗心堂病院を開設した。日本住三血吸虫病(地方病)撲滅事業その他の保健衛生、児童生徒の(建康管理をはじめとする学校保健などに尽くした功績は大きく、また長期間山梨県医師会会長を勤めた。叙勲、各種表彰のほか、1966(昭和41)年、若草町名誉町民となった。第3回山日生清文化賞(1954年)も受賞している。
<飯田文弥氏著>

小野永雄(おのながお)南アルプス市

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小野永雄(おのながお)南アルプス市

『山梨百科事典』山梨日日新聞社 一部加筆
 
1899(明治32).79生れ-1958(昭和331014歿。
山梨県若草町鏡中条字下村に生まれる。1918(大正7)年、全国的に起こった米騒動を契機に農民運動が盛んとなり、本県でも中巨摩、東山梨で特にめだった。早稲田大学在学中、農民運動に身を投じ、その指導者として活躍。鏡中条農民組合長を経て1939(昭和14)年10月、県議会議員に当選、1946(昭和21)年12月まで2期勤める。同時期,鏡中条村長。太平洋戦争後、山梨時事新聞を創刊、県肢体不自由児協会会長として社会福祉の向上に力を注いだ。<山田陽一氏著>

小野元兵衛(おのもとべえ)山梨市

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小野元兵衛(おのもとべえ)山梨市

『山梨百科事典』山梨日日新聞社 一部加筆
 
1857(安政4).57生れ-1919(大正8)・618歿。
甲斐国山梨郡一町田中村(山梨市)の人。蚕種製造業を営んだ。改良魯(ろ)桑や風穴蚕種の改良などの考案で著名。1891(明治24)年には、蚕種検査法案廃案同志1万人余の総代となって活躍した。県会議員2期在任、日川村村長になったが、そのほか山梨県農会副会長、蚕種同業組会長、第十銀行監査役などを勤めた。
 <飯田文弥氏著>

 小野要三郎(おのようさぶろう)南アルプス市

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 小野要三郎(おのようさぶろう)南アルプス市

『山梨百科事典』山梨日日新聞社 一部加筆
 
1854(安政1).1025生れ-1941(昭和16).26歿。
山梨県西野村(白根町)に生まれる。少年時代、西野手習所「松声堂」に学ぶ。1891(明治4)年、西野村外ニケ村組合議員に当選、以後改選ごとに当選。1893(明治26)年、ボタンキョウの試作手始めナシを栽培したが失敗に終わり、その後、西野で初めてサクランボを栽培、やがて西野を中心とした一帯が果実を積極的に栽培をはじめ、彼の研究熱心と努力で今日の果実郷の第一歩を踏み出すことになった。<斎木高明氏著>

 お万の方(おまんのかた)身延山信仰

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 お万の方(おまんのかた)身延山靈屋

『山梨百科事典』山梨日日新聞社 一部加筆
 
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1548(天文17)生-1619(元和5)・126歿。
将軍徳川家康側室、越前守秀康(越前家の祖)の生母。
遠州引佐郡産女村三石衛門の孫娘(永見志摩守の娘)で、初名をお万といい、のちに小督局という。
家康浜松城に在城のとき、城中に奉公、はじめは家康の側室、築山殿関口氏に従い、城中奥勤の間で家康の 
寵愛を手早で懐妊し、1574(天正2)年、双子を産み、1人は死に、助かった1人は朝日丸のちの松平越前守秀康である。
秀康に従い越前に赴き、1607(慶長12)年、秀康の没後、除髪して長勝院と合し福井にて没す。
身延山(山梨県身延山)を信仰し、身延山大野に立派なアオイ(葵)の紋の付いた霊屋があり、これがお万の方の霊屋といわれている。 <斎木高明氏著>

日本一の小男と大女

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日本一の小男と大女

 『歴史と旅』「特集日本史の謎50選」昭和53年6月号
 
延宝年間(167380江戸、大坂で見世物になった「頭大甫春」という大坂生れの小男がいた。年齢は三十歳ぐらいで、頭面は常人より肥大していたが、身長はわずか二尺二寸(約45cm)だが、なかなかの能筆で「鳩花心易」という易者をそらんじて吉凶をよく占ったというこの甫春と同じ見世物に、近江国堅田の生れの「およめ」という大女がいた。年齢は詳かではないが身長は七尺二寸(約2、64cm)あった。この二人についての文献は二、三あるので、多少の誇張があっても全くの虚説とはいえない。ちなみに、天和四年(1684)『好色古今男』の江戸堺町見世物評判の一条を紹介してみる。
「甫寿が背の高さ一尺二寸、およめが大きさ八尺、天井にとどく程に高くて色白ければ、鹿子まだら富士の如し。甫春は加僧にて、土人形の西行に似たり」この後も見世扮として小人や大女は何人となく出現しているが、この二人の大小記録を超えるものはなかった。(綬無名抄)
 

日本一の健脚

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日本一の健脚

『歴史と旅』「特集日本史の謎50選」昭和53年6月号
 
健脚を誇った江戸時代の飛脚と窺在の陸上競技のトラック選手とはちょっと比較できないが、当時、三度飛脚というのは、京・江戸間(約百二十四里附=四百八十五キロ)を十日間で往来した。
種々あるその飛脚の中でも「時附け」という最至急便は、京・江戸間を昼夜兼行で、66~68時間で駈けたから、一時間に二里弱(七・八㌔)走行したことになる。『周遊奇談』に、尾張国中島部高野島村の百姓平蔵という九十歳の老爺が、寛政元年(1798)在所から京まで、往復にふつう七日かかるところを四日から五日で往来したとある。ところがおもしろいのは、この老爺は、五日の旅程なら、一日平均五合の飯を食べるとして、いちどに五日分の二升五合をたべ、不眠不休で五日間歩きつづけたという。この老爺は最高十日間、不眠不休で歩きつづけることができるといい、この距離は約百里に及ぶというが、これはいかに健脚の時附けの飛脚といえども、かなわないにちがいない。(近世風俗志)

高齢で妊娠させた記録と絶倫家

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高齢で妊娠させた記録と絶倫家

 『歴史と旅』「特集日本史の謎50選」昭和53年6月号
 
本願寺第八世の蓮如(141599)は、本願寺再興のため生涯を、弾圧や戦乱といった流れの中に送っている。『本願専由緒記』によると、蓮如には二十六人の子があったといい、一説ではその二十六人目の子をつくったのが七十四歳のときというから、往年の大スターである上原謙の高齢子づくりの記録をしのぐ日本一ということになりそうである。
また、精力絶倫のほうでは、十一代将軍徳川家斉が四十人の側室をかかえ、五十六人の子供を産ませた話はつとに有名だが、おそらくこの記録はいまだに破られていないはずである。(本朝高僧伝・幕府祚胤伝)

転封(国替え)の記録保持者

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転封の記録保持者

『歴史と旅』「特集日本史の謎50選」昭和53年6月号
 
 大名の転封(国替え)は、生涯のうち多くともせいぜい二、三回というのがふつうだが、白河十五万石の松平直矩は前後五回という記録の保持者である。
寛永18年(1641)に松平大和守直基の長子として越前大野城に生れた直矩は、慶安元年(1648)父の遺領姫路十五万石の家督を継ぐ。だが、姫路は要害の地ということで、同26月、越後村上へ転封。その後、江戸城の修複などを勤め、幕閣の要路に懇請して、寛文7年六6月、再び姫路に戻ったところが、天和元年(1681)宗家越後高田藩に起こった継嗣問題(越後騒動)に連坐して開門を申付けられ、同22月、赦免されたものの半知の豊後日田藩(7万石)に転封された。その後、出羽山形藩(10万石)を経て、元禄5年(1692)ようやく陸奥白河藩主として15万石に復したものの、同84月、55歳でめまぐるしかった生涯を閉じた。(続藩翰譜)

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