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誤った歴史 馬場美濃守と教来石氏

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教来石氏について「甲斐国志」(教来石氏と馬場美濃守信房公との関連)(訳)
 長い間歴史の間違いは訂正されること無く伝承されあるいは史実と伝わる場合が多い。白州町の教来石地名と馬場美濃守の教来石民部からの移行は史実からは読み取れない。教来石氏は後に土屋氏を継承している。馬場美濃守は現在の下部町常葉次郎が同町の馬場氏の名跡を継いで馬場伊豆守のあとを継ぎ武田三代に仕えた。したがって馬場美濃は武川衆の一員でもない。これは彼の家臣が現在の南巨摩郡や山梨県の東地域に多いことでも理解できる。白州町でも台ケ原荒尾神社の馬場八幡社など現在全く無視されているが、古文献には明記してある。(別記)

○「甲斐国志」教来石氏の項
「甲陽軍艦」に教来石民部を馬場氏の名跡とする由見えたり。(馬場美濃守のことは人物部に詳しく説明してある。
牌子は自須村(現白州町白須上)自元寺にあり。その他には教来石氏の事見るところ無し。
民部を改め馬場氏となした時に一族みな馬場氏になったと思われる。あるいは馬場は本氏であって教来石氏ではない。最もこうしたことも考えられる。下ノ郷起請文には「六河衆馬場小太郎信盈」花押あり。
「甲陽軍艦伝解」に「膳ノ城」の条下に「馬場右衛門尉」と記してある。「編年集成」慶長6年の記にも「馬場右衛門尉」百石とあり、甲府城番の記には「馬場民部」400石の高なり。「郷村帳」に261石9斗8升。台ケ原村138石5斗5升。柳沢村の内と見えたり。(一書に馬場駒場に作る、是も西郡筋にある地名とあるが伝写の誤りなるべし)南宮元和四年()の文書に「馬作介」とあるは民部の男なりや。「民部」は即ち「右衛門尉」の男か。
馬場美濃守の男(子供)「民部少輔」とは別人なり。民部の牌子は三吹村万休院にあり。民部の女(妻)は青木与兵衛信安の妻慶長四丑年歿するとあり。

馬場美濃守信房はどうして信春や四天王と称されたか?

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<検証記事>
山梨日日新聞の記事(20083月29日付け)

勘助の築城技術を受け継ぎ功績

 武田四天王の一人に数えられる馬場信春は、春日虎綱と志もに、その出旨が異例であることで知られる。
信春は、もと「教来石民部」といい、甲信国境の教来石郷を支配した豪族の出身で、この地域一帯を警固する武川衆の一員であった。

 そのため、板垣信方、原昌胤、内藤昌秀、飯富虎昌らのような上級家臣を構成する名門の家柄ではなかった。

 しかし、教来石民部の才能を見抜いた信玄は、いきなり旗本を警固する侍大将に抜擢(ばってき)し、五十騎を預けたという。その際に、武田家の譜代馬場氏の名跡を継がせ、馬場民部少輔畳春と名乗らせた。

 また、彼の才能郁戦陣での用兵だけではないことを看破した信玄は、一計を案じた。信玄は、山本勘助から、城造りの技術と思想についての講釈を受ける際に、馬場信春を必ず傍らに控えさせ、その内容を聞かせたのである。

 それは、勘助が長年会得した築城術の奥義を、信春に継承させ、武田家を支えるための家伝の技法にまで高めたいと願ったからにほかならない。

 信春は信玄の期待に見事に応え、勘助の築城術を自家薬籠中(じかやくろうちゅう)のものとし、勘助の戦死後、武田氏の占領地での築城をほぼ一手に引き受けたのである。

 信春は信濃侵攻作戦で数多くの功績を挙げ、小笠原長時を追放した後に武田氏が築いた深志城(現在の国宝松本城).の城主に任ぜられ、小笠原・村上義清の反攻に備えた。

 その後、信春は、牧之島城主(信州新町)となり、海津城主春日虎綱とともに、上杉謙信の南下に備え、また越中の反上杉勢力である椎各・神保氏らと運携を図る重要な役割を与えられた。

 また信春は、武田信玄、勝頼が実施したほとんどの作戦に従軍した。特に、永禄十二(一五六九)年に信玄が北条氏を攻めるべく、小田原まで遠征した際に、主君を案じた信春は、信濃に残留して上杉謙信に備えよとの命令を破り、「こちらの戦の方が面自そうだ」と独断で従軍した。信春の心情を知っていた信玄はこれを罰せず、軍旅に加わることを許した。

 信春は、小田原攻めの帰途、北条軍との遭遇戦となった三増峠の合戦で、比類なき働きをし、武田軍の危機を救ったという。

馬場美濃守信房公の生涯

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馬場美濃守信房公の生涯


享禄四年(一五三一)四月、武田信虎、国人層の叛将今井、栗原、飯富らとこれを援けた信州の諏訪頼満、小笠原長時の軍と、塩川河原部(韮崎市)で決戦しこれを破る。諏訪衆三〇〇人、国人衆五〇〇人討死し、栗原兵庫も斬られた。この戦いにおいて板垣駿河守信形、馬場伊豆守虎貞とともに出陣した教来石景政(信房公)は、十七歳にして殊勲の功をなした。それ以来駿河出兵、信州佐久攻略などに参加し、出陣のたびに教来石民部景政の軍功が高まり敵軍にもおそれられる若武者に成長していった。

景政を大器に育てた指導者は、文武の道に秀でた小幡山城守虎盛のち出家した道鬼日意入道である。虎盛は景政の非凡な才能を見込んで兵法を授け、実践に必要な武器の操作を仕込んだという。

<馬場伊豆守虎貞>

大永元年十一月、武田信虎、駿河今川の将福島正成の大軍を飯田ケ原、上条ケ原の合戦で破り、敵将福島正成を討ちとり大勝して、甲斐に覇権を確立した。その勇に誇り悪行つのったので、これを憂い馬場伊豆守虎貞、山県河内守虎清などが諌言したが、信虎の怒りふれ諌死となる。

天文十年(一五四一)六月、晴信、父信虎を駿河に退隠させて自立、家督を相続し甲斐の守護職とたる。教来石民部景政も武川衆の一隊長としてその幕下に加わった。(筆者註―これは間違いで、信房公は武川衆の一員ではない<別記>)

天文十一年瀬沢(長野県富士見町)の合戦、諏訪頼重の上原城・桑原域攻略、高遠の諏訪頼継との安国寺の合戦などに真先に立って諏訪軍や高遠軍と戦った。

天文十二年晴信の伊那攻略に従軍、

天文十五年馬場伊豆守の名跡を継いで馬場の姓を拝命、馬場民部景政と改称し、五十騎の士隊将とたる。

天文十七年二月上田原の合戦、七月塩尻峠(勝弦峠)の合戦に参加、天文十八年四月には馬場民部少輔、浅利式部を両将として伊奈を攻略、

天文十九年七月、林城(松本)を陥れ小笠原長時は村上義晴を頼って逃げのびた。

天文二十三年六月、上杉謙信善光寺の東山に陣し、信玄茶臼山に陣する(第一回川中島の戦)、この時謙信一万三千余人、景政三千五百人。謙信は、「山本道鬼が相伝うる必勝微妙の」馬場の陣備えを見渡して早々に軍を引揚げたという。「互に智勇の挙動たりと諸人之を感じる」(武田三代軍記)

天文二十三年八月、甘利左衛門、馬場民部、内藤修理、原隼人、春目弾正の五士大将をもつて木曾を攻略し義昌を降す。

永禄二年、名を得る勇士七十騎を選び出させ馬場民部少輔景政に預けられる。景政手前の五十騎と合わせ百二十騎の士大将となる。そして晴信の一字を賜わり馬場美濃守信房と称した。部下の中には虎盛の子小幡弥三右衛門、金丸弥左衛門、鳴牧伊勢守、平林藤右衛門、ねごろ鶏大弐(根来法師)ら一騎当千のつわものがいた。

永禄三年十月、信春は牧島域の城代とたる。
川中島大合戦
永禄四年(一五六一)九月十日、第四回川中島の戦の前日、信玄は馬場信春と飯富兵部虎昌を別々に呼んで意見を聞いた。その時兵部は「妻女山に籠る越軍は一万三千、味方は二万、このまま城を攻撃し、包囲すれば必ず勝てる」と進言した。

信房公は、「数の上からは必ず勝てる戦いであるが、なるべき味方の犠牲を少なくするために慎重な作戦をたてるべきである」と進言した。

そこで信玄は山本勘助を招き改めて意見を聞いた。勘助は「味方は二万の軍勢、これを二手に分け、一万二千の兵をもって妻女山を攻撃すれば越軍は勝敗に関わりなく千曲川を渡って撤退する。そこで本隊は、八幡原で待ち伏せ予備隊合わせ八千の兵をもって取り囲み、退路を断てば犠牲を少なくして勝つこと疑いたしと存じます」と進言した。いわゆる「きつつき戦法」である。信玄はこれを採用した。


筆註―これは後世の創作歴史で「きつつき戦法」は信房公が仲間と戦い方について討議している中で「けらつつき」と題して『甲陽軍艦』書かれている。>


妻女山攻撃隊の総指揮は高坂弾正、副将に馬場信春、飯富兵部をすえ騎馬軍団一万二千。八幡原に布陣する旗本隊には信繁・信廉兄弟と山縣昌景、穴山信君、内藤修理など十二隊に分かれて八千の兵で固めた。馬場信房ら妻女山攻撃隊は深夜に出発。

翌十日未明妻女山の麓に到着、朝霧にまぎれて妻女山へ一気に攻め込む手はずだった。

しかし甲軍(武田)の裏をかいた謙信は、武田の攻撃隊が妻女山のふもとに到着する前に全城を抜け出して千曲川を渡り、武田の本陣をついて大激戦とたった。

妻女山攻撃隊は、越軍にだし抜かれたことを知って急いで八幡原に向った。卯の刻(午前六時)から始まった甲・越両軍の戦いは越軍の車懸かりの戦法に圧倒されて、信玄自身に危機が迫ったがやがて妻女山攻撃隊が駆けつけて形勢を挽回した。

甲軍は武田信繁、山本勘助、諸角豊後守などを失い大きな犠牲をこうむった。

午後四時ごろ謙信の退去命令で越軍は退去し、武田軍は勝ちどきの儀式をあげた。そのときの太刀持ちをしたのが馬場信房であったと『甲越川中島戦史』などで伝えている。

このとき信房公は四十七歳であった。その後上州松井田城、倉賀野城、武州松山城などを攻略し、

永禄十二年六月に伊豆に侵攻し、十月には小田原城を包囲した。その帰路、退撃する北条軍と三増峠で戦い、馬場美濃守信房公などの奮戦によってこれを破る。

信玄の駿河進攻作戦は永禄十一年十二月にはじまり、十三日には今川氏真の居城(駿河城)に乱入した。信玄には城攻めに際し、もう一つの目的があった。氏真の父義元は「伊勢物語」の原本を入手していたように書画.骨董・美術工芸品の蒐集家で知られていた。信玄もその道にかげては造詣が深かったので、その文化遺産を甲州に持ち帰り保存したいという下心があった。

そこで城攻めにあたり「書画・骨董・美術品は何にもまして宝物だ、決して燃やさず全部奪い取れ」と命令した。

城攻めの先達をうけたまわった馬場美濃守は

「たとえお屋形の命令とはいえ、敵の宝物を奪い取るなどもってのほか、野盗か貧欲な田舎武士のやることだ、後世物笑いの種になる。構わぬ焼やしてしまえ」

と、曲輪内に大挙して踏み込み、片端から焼やしてしまった。これを聞いた信玄は苦笑し

「さすが七歳年上の軍将じゃ、一理ある、甲斐の国主が奪つたとあれば末代まで傷がつくからなあ」

とつぶやいたという。

田中城は馬場信房公の縄張りによったものである。

信玄上洛に際しその座城として、清水の縄張りのごとく馬場信房公に縄張り

致さすべしといったという(「武田三代軍記」)

馬場美濃守は築城の名手でもあった。

元亀三年(一五七二)十月、馬場、山県隊の武田軍は徳川方の中根平左衛門正

照、青木又四郎広次らが籠る二俣域(天竜市)を包囲した。この城は天然の要害で防備も固く容易に城内に踏み込めなかつた。

馬場信房公は、普通の手段では城は落とせない、城飲用水に使っている天竜

川の取り入れ口を破壊し、城内を枯渇させる作戦にでた。水の手を止められた二俣域は忽ち混乱が起きた。

それでも一カ月以上も堪えたがついに十二月十九日夜、域将中根正照は城門

開けて武田軍に降伏した。

この時、浜松城にいた徳川家康は二俣域を援けようとして自ら数千の兵を率

いて城に向ったが、武田の包囲陣の現状に、とても勝ち目はないとみて神増村まで来て滞陣していた。

武田勝頼、馬場信房公、山県昌景ら武田の部将は、「天下に旗を揚げる手初めなれば、信玄の大事是にすぐべからず」(「武田三代軍記」)と三方ケ原において徳川軍と戦う。

家康破れて敗走する。武田軍は家康と鳥居元忠ら旗本衆のあとを追撃し、浜松城が問近に迫る犀ケ崖を下って城門近くまで追跡Lたが、家康はやっとの思いで城内へ逃げきった。
家康は「武田随一の馬場美濃に切崩された」と、馬場美濃守の武勇を称讃している(「武田三代軍記」)

翌元亀四年(天正元年)(一五七三)二月、野田城を陥れるが、既に信玄の病重く、四月十二日信州駒場の宿陣で逝去する。時に馬場信春五十八歳、不死身の信房にも老いが迫っていた。信房は部下の若老たちに次の戦陣五つの信条を語って聞かせた。

一つ敵より味方のほうが勇ましく見える日は先を争って働くべし、味方が臆とかして見える目は独走して犬死するか、敵の術中にはまるか、抜けがけの科を負うことになる。

二つ場数を踏んだ味方の士を頼りにする。その人と親しみ、その人を手本としてその人に劣らない働きをする。

三つ敵の胃の吹き返しがうつ向き、旗指Lもの動かなければ剛勇と知るべし。逆に吹き返L仰向き、旗指しもの動くときは弱敵と思うべし。弱敵はためらわず突くべし。

四つ敵の穂先が上っている時は弱漱と知るべし、穂先が下っている時は剛敵。心を緊めよ。長柄の槍そろう時は劣兵、長短不揃いの時は士卒合体、功名を遂げるなら不揃いの隊列をねらうべし。

五つ敵悔心盛んな時は、ためらうことなく一拍子に突きかかるべし。

信房が示したこの五つの信条は、信玄の「敵を知り、己れを知らば百戦百勝」の遺訓にかたっている。「信房が二国太守の器量人」、といわれたのもこの辺に由縁するのであろう。

天正二年一月、勝頼岩村城付城を陥れ、明知城にも迫り、

二月七日これを抜く、信長なすところなく二十四日岐阜に帰る。この戦いで馬場美濃守は手勢を牧島城に備えおいたので僅か八百余人をもつて信長一万二千の兵に向った。この戦いの状況を「武田三代記」は、

「唯今打出でられしは当代天下の武将識田信長とこそ覚ゆれ、天下泰平の物初に信房が手並を見せ申さん」、という侭に一万余の大敵に八百余人を魚麟に立て蛇籠の馬印を真先に押立て、真一文字に突懸れば、信長取る物も取敢ず捨鞭を打って引返さる」、と記している。

天正三年五月、武田軍は、山家三方衆奥平貞昌が兵五百をもつて固める長篠域を包囲して攻めたが容場に城内に侵入することができたかつた。しかし城内は極度に食糧不足を来し危機にひんした。鳥居強右衛門の豪気な働きによって識田・徳川の援軍が来着し、ここに識田・徳川連合軍と武田軍との長篠の合戦が始まった。

武田勢は長篠城を挾み、勝頼は医王山に本陣を構え、山林を後ろ楯に六隊一万五千で「鶴翼」の陣を敷いて連合軍と相対した。勝頼は本陣で軍議を開いて合戦の方策を練った。馬場信房、山県昌景、内藤昌豊、高坂昌信らの重臣は「われに倍する敵、それに三重の柵を構えて籠城の体、」(これに向かうことは不利を招くは必定、無謀なることこの上なし。この度は甲州に帰って再機を図るようしと進言した。このとき跡部勝資は「一戦も」交えずに引き退けば武田の武威地に墜つ、決戦するに同意して、勝頼側近の軍師長坂長閑もこれに賛同した。勝頼もこの主戦論に同意する。「(武田三代軍記)

この戦いで馬場美濃守信房公は敵に命を与え、輝かしい戦歴の幕を閉じる。

長篠の小字「西」という部落を通り抜けて左に寒狭川の流れを見下ろす段丘上に「馬場美濃守信房殿戦忠死の碑」が建てられている。これは明治中期に建てられたもので、以前は素朴な自然石の碑で「美濃守さまの墓」といわれていたという。設楽原の一角新城市生沢谷の銭亀にも信房の墓がある。


 馬場美濃守の真実 諸話

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由緒書  北巨摩郡高根町某家  家系書


一、馬場美濃守信房ハ教来石民部少輔景政と号す。然ニ一族馬場伊豆守虎貞、武田家 の長臣なるが信虎公大悪無道の人なる故に虎貞を誅せられる。これに依って馬場の家断絶に及けるを其後信玄の代に至り此事を歎き一家なれハ教来石民部少輔を以て伊豆守が名跡を続しめ美濃守になされ信の字を賜って信房と改め武田菱の紋を賜りける。子息をハ民部少輔と云て嫡子なり。然に勝頼の代に至り其諫を用ひ給はず長坂・跡部等の侫人奸曲の語を而其巳誠と思はれけれハ、信房是を怒り今度三州長篠の合戦の時(天正三年なり)生年六拾弐才にて討死せらる。長篠の橋場より只一騎取て返し深澤谷の小高き処に駆上り馬場美濃守行年六拾弐歳首取て武門の眉目にせよと呼ハれハ敵兵四五騎駆寄って四方より鑓を付る。信房太刀に手をも掛す二王(仁王)立に成って討れしハ前代未聞の最期なり。
 首ハ塙九郎左衛門直政が郎党河合三十郎討取たり。惜哉信房ハ信虎より勝頼ニ至って三代に仕へ、武田家爪牙の重臣にて享禄四年十八歳にて初陣に立しより十度の高名を顕すと雖とも一生疵を蒙らず此の合戦勝頼大に敗北し武田家伝の指物諏訪法性の兜孜金等を捨て逃けら れける。此の時町人の落書に
 信玄の跡をやふやふ四郎殿敵の勝より名をハ流しの










下部町常葉馬場家家系由来書

其祖ハ清和天皇後裔丹後守忠次ト稱スル者元弘建武の乱ヲ避ケ甲州都留郡朝日馬場村北東ノ億ニ隠住ス。武田氏ニ仕ヘ地名ヲ取リ馬場姓トス。妙圓寺ヲ開基シ黒印五石
ヲ寄付シ殿堂ヲ建立ス。清和天皇ヲ祀リ後相州鎌倉八幡宮ヲ氏神ニ祀リ之始祖也(中略)

信房

伊豆守虎貞信虎ノ暴虐ヲ憂ヒ直諫ス。信虎容レス。虎貞之カ為メニ遂ニ殺サル。
馬場系血是ニ於テ手絶エントス而時常葉次郎ナル者馬場家ヲ継グ。馬場美濃守信房ト稱ス。(中略)  

下部町馬場家関係記述 抜粋『甲斐国志』志庶部 第百十七巻代十六

○ 常葉院の牌子に昌厳院笑岩道快居士 天正拾午年六月廿一日(一ノ瀬妙圓寺ニ丹後守忠次、法名日瀬トアリ。北川ノ

妙立寺ニ丹後守ノ女法名ハ妙来ト云アリ。其状ニ記セ)

◉ 妻ハ繁宝妙昌大姉天正十一年四月 七日

○ 同但島守(丹後守ノ名ナリト)仙岳宗椿上座 同八辰年正月 一日

◉ 妻ハ雲岳理庵大姉 同年八月五日

○ 同五郎左衛門 東前院傑翁良英庵主同十八寅年八月十五日

◉ 妻ハ昌英院玉瀬清昌珍大姉文禄元辰年十一月十五日

  (此二牌子ハ当村東前院ニアリ。五郎左衛門ノ位牌ハ早川法明院ニモアリ) 

○ 同八八郎左衛門 清雲院宗岸宗茂上座文禄四未年七月十五日

○ 同彦之丞 恕山道思禅定門 右ニ載スル所原記ノ支干錯乱シシヲハ今繕写スト雖
  モ亦其実ヲ得タリト云フベカラズ
○ 里人別ニ馬場弥五郎、弥次郎ナド云人ヲモ云伝ヘタリ
○ 本村諏訪明神ノ社記ニ元禄九丙子年(馬場八郎左衛門忠次、渡辺十郎右衛門正次)神殿再興云々是モ元禄ノ字ノ誤リアルヘシ又丹後守源信ト記セリ皆ナ後世ノ為飾信用シ難シ
○ 按ニ軍艦ニ穴山衆 馬場八左衛門見エタリ云々
加賀美遠光―秋山光朝―常葉光季……常葉次郎

馬場与三兵衛家系 朝気村(現甲府市朝気)

『甲斐国志』第百八巻士庶部第七浪人馬場彦左衛門ノ家記ニ云、馬場美濃守ノ孫同民部ノ末男丑之介壬午(天正拾年)ノ乱ヲ避ケ其母ト倶ニ北山筋平瀬村ニ匿ル、後本村(朝気)ニ移居シテ与三兵衛ト更ム、其男四郎右衛門、其男善兵衛(元禄中ノ人)今ノ彦左衛門五世ノ祖ナリ善兵衛ノ子弟分流ノ者アリ皆小田切氏ヲ稱セリ元禄十一年戊寅年ノ村記ニ依ル、苗字帯刀ノ浪人馬場惣左衛門ノ妻ハ江戸牛込馬場一斎ノ女トアリ善兵衛(六十歳)総左衛門(三十八歳)新五兵衛(三十三歳)三人兄弟ナリト云 

自元寺 二十六世大仙秀雄大和尚談  

 馬場信房の石塔は始め寺僧の墓と並んでいた。区画整理の都合で馬場祖三郎家に接して建てられた。

 馬場ほのさんの夫、祖三郎氏(北杜市高根町)は養子で、白須から甲府市に移り開狭楼(かいこうろう)という料亭を営んで居られたが、今はその子孫が東京の武蔵野市に住んで居られる。

同家の白須の屋敷は広大で、当時の菅原村が買い取ったこの屋敷に大欅と大きな石祠とがあって、その前に五輪塔があった。馬場家から、大欅と五輪塔は動かさずに保存してほしいと申し込んであったが、祖三郎氏・ほのさんが他界された後は、五輪塔は郷社八幡神社の裏に写された。このままでは馬場祖三郎家の五輪塔かわからなくなるので、当主に説いて、自元寺の現在位置に移した。


山梨県 下部町の馬場氏

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下部町常葉馬場家家系由来書

其祖ハ清和天皇後裔丹後守忠次ト稱スル者元弘建武の乱ヲ避ケ甲州都留郡朝日馬場村北東ノ億ニ隠住ス。武田氏ニ仕ヘ地名ヲ取リ馬場姓トス。妙圓寺ヲ開基シ黒印五石
ヲ寄付シ殿堂ヲ建立ス。清和天皇ヲ祀リ後相州鎌倉八幡宮ヲ氏神ニ祀リ之始祖也(中略)

信房

伊豆守虎貞信虎ノ暴虐ヲ憂ヒ直諫ス。信虎容レス。虎貞之カ為メニ遂ニ殺サル。
馬場系血是ニ於テ手絶エントス而時常葉次郎ナル者馬場家ヲ継グ。馬場美濃守信房ト稱ス。(中略)  

下部町馬場家関係記述 抜粋『甲斐国志』志庶部 第百十七巻代十六

○ 常葉院の牌子に昌厳院笑岩道快居士 天正拾午年六月廿一日(一ノ瀬妙圓寺ニ丹後守忠次、法名日瀬トアリ。北川ノ

妙立寺ニ丹後守ノ女法名ハ妙来ト云アリ。其状ニ記セ)

◉ 妻ハ繁宝妙昌大姉天正十一年四月 七日

○ 同但島守(丹後守ノ名ナリト)仙岳宗椿上座 同八辰年正月 一日

◉ 妻ハ雲岳理庵大姉 同年八月五日

○ 同五郎左衛門 東前院傑翁良英庵主同十八寅年八月十五日

◉ 妻ハ昌英院玉瀬清昌珍大姉文禄元辰年十一月十五日

  (此二牌子ハ当村東前院ニアリ。五郎左衛門ノ位牌ハ早川法明院ニモアリ) 

○ 同八八郎左衛門 清雲院宗岸宗茂上座文禄四未年七月十五日

○ 同彦之丞 恕山道思禅定門 右ニ載スル所原記ノ支干錯乱シシヲハ今繕写スト雖
  モ亦其実ヲ得タリト云フベカラズ
○ 里人別ニ馬場弥五郎、弥次郎ナド云人ヲモ云伝ヘタリ

【徳川忠長と武川衆の動向】 石見銀山代官支配 山高信俊

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【徳川忠長と武川衆の動向】 石見銀山代官支配 山高信俊
 
(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19平凡社一部加筆)
 石見代官支配 山高信俊
元和二年(一六一六)徳川忠長が甲斐一円を支配すると、武川衆は大番・書院番などに組入れられて勤仕した。寛永九年(一六三二)忠長が改易されると、武川衆は一時処士となった。同一九年ようやく再出仕の恩命に浴し、もとのように旗本として復帰が許された。
山高信俊は山高本家信直の家督を継いで、万治二年(一六五九)二〇〇石加
山高信俊は山高本家信直の家督を継いで、万治二年(一六五九)二〇〇石加増、寛文元年(一六六一)采地を下総・常陸国の諸郡に移された。
一方、信俊の弟信保は父親重の跡目を相続しで山高村の高三一〇石余のうち二七五石余を知行した。万治三年土木技術に長じていたことを認められ駿河国の堤防工事を奉行し、寛文元年には石見代官を命じられ、石見銀山の支配にあたった。これまで支配した山高村の采地を、下総国相馬郡・葛飾郡のうちに移され、甲州とのつながりは絶えた(寛政重修諸家譜)。この時点で武川衆は本貫の地である武川筋の知行地を去った。

郡内地方の天和元年 芭蕉どころではなかった??

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郡内地方の天和元年
 
 何時の時代でも、幕閣に参加する藩主を持つとその地域の農民や地域の住民の生活は困窮の一途を辿る事が多いといわれる。
山梨県郡内地方を治めた秋元家にしても同じである。秋元治世が寛永十年()より始まり、寛文七年には大明見の庄屋想右衛門と朝日村の惣左衛門の二人が、年貢が九公一民となり、支払い不能を谷村城内の役所に訴訟を提出するも、聞き入れられずに入獄となり、翌八年には、金井河原に斬首となり両家ともお家断絶となる。この後大騒動となり、密かに相談して四十四人の惣代が集まり七人の代表総代を選ぶ。その後も取り立ては厳しくなり、延宝八年には再度の訴訟を惣代七名と外五十六人が秋元摂津守の江戸屋敷を訪れ提訴する。江戸屋敷家老岡村庄太夫が応対する。提訴は聞き入れられずに、七人は谷村に入獄延宝九年(天和元年)二月十四日秋山村惣代関戸左近は磔刑、他の六人は斬首となる。しかし仕置はこれではすまずに、騒動に参加した者百十七人は一命を失う。屋敷の裏にて抜き打ちにされている。当時高山傳右衛門は国家老か江戸詰家老なのかは定かではないが、芭蕉の世話どころの話では無い。芭蕉が訪れたのは翌々年の天和三年であり、騒動が一段落した時期にあたるのであろうか。郡内の困窮はこれに終わらず、甲斐を揺るがす天保の大騒動に続くのである。これは郡内に留まらずに甲斐全域を巻き込んだものであるが、甲斐国内の庶民の生活の困窮振りが目に浮かぶ様である。
 文学関係の人物を扱う場合に当時の歴史背景を視野に入れない場合が多く見られる。高山麋塒の師匠であり、現在では俳聖と崇め奉る芭蕉についても、幾多の研究にも関わらずその出生や家系及び生涯は正しく伝わってはいない。俳諧などその日その日を精一杯生きる人々にとっては関係のない世界であったのである。
 高山麋塒にしても、秋元家に於いての事蹟も明確にはなってはいない。国家老となり谷村に勤めた年次や、芭蕉との関係もより追求する必要がある。当時の時代背景からすれば、芭蕉が安心して麋塒の別荘「桃林軒」に仮寓していられる環境は無かった、そこで、参考(一)の説が歴史的にはより信憑性を持つのである。それによる芭蕉が貞享二年に甲斐山中に再度訪問することも可能になり、自然に受け入れられるのである。
 初狩村についても、すべて抹消する必要もなく芭蕉流寓の可能性は残して置く事が大切である。
 山梨県内には芭蕉の句碑も多く見られ、芭蕉の詠んだとされる句も刻されているが、芭蕉が本当にその場所で詠んだ句は少ないのである。多くは後の俳諧宗匠や愛好家が建立したものである。
 都留郡には未だ多くの史跡なども残っていて、ある意味では歴史の宝庫でもある。甲斐と言えば甲府を中心に歴史を展開しやすいが、古代から富士五湖地方には豊かな歴史があり、富士山の噴火で途切れる事はあっても、東海道側から見れば甲斐の一中心地で有ったことは間違いない。古代から平安時代の甲斐を詠んだ歌には都留地方に関連した歌が詠まれていて、これは甲斐の行政が都留を中心に行なわれていた様な錯覚さえ覚えてしまう。国中から見れば甲府盆地が中心地と考えられるが、都から見れば東海道から近い都留地方が軍事的にも政治的にも要所であり、多くの書に逸話が掲載されている。郡内地方こそが、古代甲斐の歴史を紐解く鍵を握っていると言っても決して過言ではない。
 甲斐谷村の秋元家の治世についても、正面から見直して欲しい。秋元家の華々しい活躍や繁栄の一方地域住民の疲弊の生活や、圧政と戦い多くの農民の犠牲となった人達を理解しながら、一揆が何故相次ぎ郡内に度々起きたのかも視野にいれて、その中を懸命に生き抜き現在に続く繁栄をもたらした住民の思いこそ後世に残されるべきあると思われる。
 芭蕉の甲斐流寓は今後も資料を積み重ね、一部の資料を偏重することなく、後世に伝える事が大切だと思われる。また芭蕉の親しい弟子とされる曾良もその出会いが谷村とする書もみえる。
 芭蕉の甲斐逗留について、素堂を甲斐出身とする研究者は何故素堂を外して話を展開しているのであろうか。 当時は素堂と芭蕉は兄弟以上であり、その関係は他に類しない程のものである。今回天和二年前後の素堂と芭蕉関係を資料をもとに提示してみた。全てを出してはいないが詳細は後日発刊される拙著『素堂の全貌』を参照していただきたい。素堂の序跋文や芭蕉の書簡から、芭蕉が如何に素堂の影響を受けていたかが読み取れると思う。芭蕉が甲斐に来たことも立ち寄ったことも事実である。しかしそれは『古事記』の日本武尊の記述のように唐突の記述である。今後新たな資料が出た段階で後筆する機会を得たい。
 尚、この機会に山梨県の歴史展開に苦言を呈したい。「甲斐御牧」や「甲斐源氏」・「信玄の動向」それに「市川団十郎」・「山口素堂」など、有効な資料が無いまま定説化が進んでいる。中には真説を唱えるのに十分な資料があるのに黙認し、真説擬きを史実として繰り返し筆著している。多くの研究者は山口素堂を甲斐出身として扱っている。だったら芭蕉の甲斐入りについも素堂の関与を探るべきではないのだろうか。

芭蕉の甲斐訪問の諸文献の紹介

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芭蕉の甲斐訪問の諸文献の紹介
……芭蕉の甲斐落ち……
引用資料『俳聖芭蕉』 野田要吉先生(野田別天楼) 昭和十九年発行
  天和時代の芭蕉
 《前文略》
 其角の枯尾花に芭蕉庵急火に依り、芭蕉は潮にひたり苫をかつぎて煙のうちを逃げ延び「是ぞ玉の緒のはかなぎ初也。爰に猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発して」と云ってみるが、芭蕉はこれより前に、俳頂禅師に参じて悟道の修行をしていたのだから。世蕉庵の焼失に遇ひて、始めて「猶火宅モの変を悟り、無所住の心を発して」といふ譯でもあるまい。しかし芭蕪庵の焼失は芭蕉に「無常迅速生死事大」の念を一層深からしめたに違いなかろう。芭蕉庵焼失を十二月廿八日の大火の時とすれば、やがて年も暮れ果てゝ佗しいうちに天和三年を迎へた事であろう。杉風、卜尺など物質的に芭蕉を援護していた門人達の家も多く類焼したのだろうから、芭蕉は真に身を措くに処なき思いであったろう。されば焼野の原となった江戸を逃れて、甲州落となったのである。
 芭蕉庵の甲州落
 後年のことであるが、金沢の北枝が火災に遭った見舞状の中にも、
「池魚の災承り、我も甲斐の山里に引うつり、さまざまの苦労いたし候へば、御難儀の程察し申候……」
 と芭蕉がいっている。
 『枯尾華』に
「其次の年夏の半に、甲斐が根にくらして、富士の雪のみつれなければ……」
 といっているが、其角は芭蕉庵焼失を天和三年としているから、その次の年は貞享元年となるわけだが、これも誤りであって、芭蕉の甲州行は天和二年(?)の事である。
 
 成美の『随斎諧話』
「芭蕉深川の庵池魚の災いにかゝりし後、しばらく甲斐の国に掛錫して、六祖五平というものをあるじとす。六祖は彼ものゝあだ名なり。五平かって禅法をふかく信じて、仏頂和尚に参学す。彼もの一文字だに知らず、故に人呼んで六祖と名づけたり。ばせをも又かの禅師の居士なれば、そのちなみによりて宿られしと見えたり。……
 とあり、
湖中の『略伝』には
「深川の草庵急火に、かこまれ殆あやぶかりしが(中略)その次の年佛頂和尚(江戸臨川寺住職)の奴六祖五平と云(甲州の産にして、仏頂和尚竹に仕へ大悟したるものものゝ情にて甲斐に至り、かの六祖が家に冬より翌年の夏まで遊されしとぞ……)といひ、
「一説に、甲州の郡内谷村と初雁村とに久敷足をととゞめられし事あり。初雁村の等力村萬福寺と云う寺に、翁の書れし物多くあり。又初雁村に杉風が姉ありしといへば、深川の庵焼失の後かの姉の許へ杉風より添書など持れて行れしなるべしと、云う。」
 とも云っている。
六祖五兵衛
これ等の説悉くは信ぜられないが、芭蕉が参禅の師仏頂和尚の奴六祖五兵衛といふもの甲斐に国に居り、彼をたよりて甲斐の国に暫く杖を曳かれたといふ事は信じてよいようだ。五兵衛のことはよく分らぬが、眠に一字なきにも拘はらず、禅道の悟深かりし故六祖といふあだ名を得ていたものらしい。
 六祖はいふまでなく、慧能大鑑禅師のことで、眼に文字無かりしも、
 菩提本非樹、明鏡亦非臺、本来無一物、何処惹塵埃。の一偈によりて五祖弘忍禅師嗣法の大徳となった。六祖の渾名を得ていた五兵衛と同門の囚みに依って、芭蕉は甲斐の国に暫く衣食の念を救われたのであった。
 甲斐の国には芭蕉門下の杉風の姉が住んでいたといふ『略伝』の説が事実とすれば、一層好都合であったろう。なお甲斐の国は芭蕉の俳友素堂の郷国であるら、素堂が何ら後援をして、芭蕉を甲斐の国に一時安住の地を得しめたのではないかと、私は臆測を逞うするのであるが、単に臆測に止りて、之を実証するに足る文献の発見されないのは遺憾とする所である。
 甲斐の国に芭蕉の居ったのは約半年位のことゝ思はれる。その間芭蕪は高山麋塒、芳賀一唱等と三吟歌仙二巻を残して桐雨の『蓑虫庵小集』に採録している。

夏馬の遅行我を絵に見る心かな 芭蕉

  変手ぬるゝ瀧凋む瀧       麋塒

蕗のに葉に酒灑の宿黴て    一唱    

  
 芭蕉庵再建
甲斐に佗しい日々を迭っていた芭蕉は、天和三年の夏五月に江戸に帰った。江戸にいた門人等の懇請に依ったものであろう。大火後の江戸の跡始末も一片付した頃である。芭蕉は江戸に帰りはしたが、芭蕉庵は焼失していたし、門人の家などで厄介になっていたかも知れぬ。芭蕉の境遇に門人達はけ大いに同情したであろう。そこで有志の物が協力して芭蕉庵を再興することになった。その勧進帳の趣旨書は山口素堂(信章)が筆を執った。
 成美の『随斎諧話』に
上野館林松倉九皐が家に、芭蕉庵再建勧化簿の序、素堂老人の真蹟を蔵す。所々虫ばめるまゝをこゝにうつす。
九皐は松倉嵐蘭が姪係なりとぞとして次の文を載せている。
「芭蕉庵庵烈れて蕉俺を求ム。(力)を二三子にたのまんや、めぐみを数十生に侍らんや。廣くもとむるはかへつて其おもひやすからんと也。甲をこのます、乙を恥ル事なかれ。各志の有所に任スとしかいふ。これを清貧とせんや、はた狂貧とせんや。翁みづからいふ、たゞ貧也と、貧のまたひん、許子之貧、それすら一瓢一軒のもとめ有。雨をさゝへ風をふせぐ備えなくば、鳥にだも及ばす。誰かしのびざるの心なからむ。是草堂建立のより出る所也。
  天和三年秋九月竊汲願主之旨
     濺筆於敗荷之下 山 素 堂
 「素堂文集」の文とは多少の異同がある。 
かやうにして芭蕉庵再建の奉加帳が廻されたので、知己門葉々分に応じて志を寄せた。その仔細が『随斎諧話』に載っている。やゝ煩わしいことではあるが、転載して当時を偲ぶよすがとする。
   五匁 柳興 三匁  四郎次  捨五匁 楓興
   四匁 長叮 四匁  伊勢 勝延  四匁  茂右衛門
   三匁 傳四郎 四匁  以貞 赤土  壹匁  小兵衛
   五分 七之助 二匁  永原 愚心  五分  弥三郎
   五匁 ゆき 五匁  五兵衛  二匁  九兵衛
   四匁 六兵衛 三匁  八兵衛  五分  伊兵衛
   二匁 不嵐 一匁  秋少
   二匁 不外 一匁  泉興  一匁  不卜
   一匁 升直 五匁  洗口  五分  中楽
   五分 川村半右衛門 一銀一両 鳥居文隣  五匁  挙白
   五分 川村田市郎兵衛 三匁  羽生 調鶴  五分  暮雨
 次叙不等
   二朱 嵐雪 一銀一両 嵐調  一銭め 雪叢
   三匁 源之進 一銭め  重延  よし簀一把 嵐虎
   一銭め 正安 五分  疑門  一銭め 幽竹
   五分 武良 二匁  嵐柯  一匁  親信
  (不明) 嵐竹 五匁 (不明)  
   破扇一柄 嵐蘭 大瓠一壺 北鯤之
 かやうな喜捨によって、芭蕉庵は元の位置に再建された。再建の落 成は冬に入ってからのことであたろう。『枯尾華』に、
「それより、三月下人ル無我 といひけん昔の跡に立帰りおはしばし、人々うれしくて、焼原の舊艸にに庵をむすび、しばしも心とゞまる詠にもとて、一かぶの芭蕉を植たり。
   雨中吟
  芭蕉野分してに盥を雨を聞夜哉   (盥=たらい)
と佗られしに堪閑の友しげくかよひて、をのづから芭蕉翁とよぶことになむ成ぬ。
と云っている。再建の芭蕉庵にも芭蕉を植えたことは当然と思はれるが、「芭蕉野分して」の句は焼失前の作であること既に述べた通りであり、芭蕉翁と呼んだのも焼失前であった。
 『続深川』によれば、
  ……ふたゝび芭蕉庵を造りいとなみて
 あられきくやこの身はもとのふる柏
 といふ芭蕉の句がある。再建入庵後程なき頃の吟であろう句意は解すみまでも無かろう。
 芭蕉は約半歳ほど甲斐の山家に起臥していたのだが、その間の句が余り聞えていない。芭蕉庵焼失といふ非常事件に遭遇し「猶火宅の変を悟り、無所住の心を発して」とまで云はれているのだから、悟発の句といふやうな優れた作があるべきだと思はれるのだが、それらしいものが傳っていない。前に奉げた麋塒、一唱と三吟歌仙の立向
  夏馬の遅行我を絵に見る心かな    芭蕉 
 は甲斐に行く途中吟と云はれている。夏の馬に乗って徐行してみる自分を畫中の趣と感じたので、旅路を楽しむゆとりの見える作ではあるが「夏馬の遅行」はふつゝかな言葉である。この句は風国の『泊船集』に「枯野哉」と誤っている。叉松慧の『水の友』に「画賛」として、
……かさ着て馬に乗たる坊主は、いづれの境より出て、何をむさぼりありくにや。このぬしのいへる、是は予が旅のすがたを写せりとかや。さればこそ、三界流浪のもゝ尻、おちてあやまちすることなかれ。……
  馬ほくほく我をゑに見る夏野哉
 となっている。これは後年に至りて芭蕉が自ら改作したものであるろう。
 土方の『赤双紙』に
  ……はじめは
  夏馬ほくほく我を絵に見る心かな
 といっている。兎に角改作したもので、
  馬ほくほく我は絵に見る夏野哉
 は蕉風の句である。
  勢ひあり氷えては瀧津魚   芭蕉
この句は麦水の『新虚栗』に出ている。何丸の『句解参考』には
 「甲斐郡内といふ瀧にて」と前書があり
  勢ひありや氷杜化しては瀧の魚
  勢ひある山部も春の瀧つ魚
 を挙げて、初案であろうといっている。瀧が涸れて氷柱になり瀧壺も氷に閉ざされていたが、春暖の候になりて氷も消え、瀧登りする魚も勢ひづいたといふのであろう。語勢の緊張した、豪宕な句ではあるが、どことなく談林の調子の脱けきらない、寂撓りの整はない句である。
 『虚栗集』
 芭蕉が甲斐の山家から江戸に帰ったのは、天和三年五月であったが、程もなく其角撰著の『虚栗』が板行された。
 芭蕪の政の終りに「天和三癸亥仲夏日」とあるから、五月の筆である。六七月頃に板行したのであろう。其角二十三歳の時である。その早熟驚くべきである。云々

芭蕉の谷村流寓と高山糜塒(ビジ) 

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芭蕉の谷村流寓と高山糜塒(ビジ) 

『都留市史』通史編5節「人々の教養と遊芸」による・一部加筆
 
市内宝鏡寺の参道には
「目にかゝる時には殊さらに五月富士」(目にかゝる時やことさら五月富士)また円通院には
「旅人と我名よばれんはつ時雨」(旅人とわが名呼ばれん初しぐれ)
という二基の芭蕉句碑がある。いずれも文化年間(180617)に建立されたものであり、当時の市域に暮らした人びとの俳聖芭蕉への熱い思い、そして俳諧熱のほどがうかがえる(詳しくは後述)。
 芭蕉および俳諧にたいするこうした思いは、現在の都留市民にも受け継がれており、昭和五十八年(1983)一九八三(昭和五八)年には都留市俳句連盟主催の「芭蕉来峡三百年祭」を記章する句碑が楽山公簿に、また富士女性センター前には「芭蕉流寓之跡」を示す碑が、それぞれ建てられた。さらに平成四年(1992)年度の全攘健康福祉祭(ねんりんピック)が山梨県で開かれた時、日頃から俳句創作活動の盛んな当市においては「ふれあい俳句大会」が催されている。このように都留市が「芭蕉の里」らしい街づくりを進め、市民が熱心に俳句創作活動に取り組む、その背景のひとつに「芭蕉の郡内流寓説」がある。
 芭蕉のいわゆる「郡内流寓」は、天和三年(1683)と貞享二年(1685)の二回が想定されている。天和三年の「流寓」とは、前年末の江戸大火(世にいう八百屋お七の振袖火事)で焼け出された芭蕉が、弟子である秋元家の重臣高山伝右衛門こと糜塒や高山五兵衛と推測される白豚(はくとん)を頼り、都留に滞在したというもの、貞享二年の場合は、「野ざらし紀行」の旅の帰途に立ち寄ったというものである。郡内での潜在端には、谷村税と初狩(大月市)説があり、さらに潜在期間についても、三~五か月に及ぶ長期「流寓」説と、谷村を拠点に甲州国地域や信州(長野県)へと足を伸ばす「甲州紀行」だったするさまざまな見方がある。また芭蕉は、「野ざらし紀行」において蕉風俳諧を確立したとされることから、紀行の直前の「郡内流寓」は「芭蕉が芭蕉らしい句を作るスタート、助走になっている」という評価もみられる(松本武秀「芭蕉俳諧の展開と郡内流寓」、「蕉風の漂流と芭蕉のさと都留」所収)。
 以上のように芭蕉の「郡内流寓」にかんする資料は少なく、さまざまな角度からの推測はなされているが、確実なことはほとんどわからないというのが実情である。―(中略)―
 

芭蕉の谷村流寓と高山糜塒 『都留市史』通史編5節

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芭蕉の谷村流寓と高山糜塒
芭蕉庵類焼と谷村への流寓
『都留市史』通史編5節「人々の教養と遊芸」による*一部加筆*
 
 天和二年(1682)十二月二十八日、江戸駒込の大円寺から出火した火事は、本郷、下谷、神田、日本橋、浅草、本所、深川まで類焼し、江戸の七分どおりを灰燼と化した。俗にいう八百屋お七で名を残した大火である。
 火はついに江東に及んで、深川の芭蕉庵も急火にかこまれ、芭蕉は潮に浸って危うく難をまぬがれたという。
 この時の状況を宝井其角は「枯尾華」の芭蕉翁終焉記の中で次のように述べている。
天和三年(正しくは二年)の冬、瀕川の草庵急火にかこまれ、潮にひたり苫をかづきて、煙のうちに生きのびけん、是ぞ玉の緒のはかなき初め也。爰に猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発して、其次の年、夏の半に甲斐が根にくらして、富士の雪のみつれなければと、昔の跡に立帰りおはしければ、人々うれしくて、白豚の旧草に庵をむすび、しばしも心とどまる(ながめ)もとてかぶの芭蕉を植えたり。」
この時、焼け出された芭蕉を谷村の自宅に引き取り、五ヶ月の間世話をしたのが、当時谷村城主秋元喬朝(喬知)の国家老高山傅右衛門繁文(俳名、糜塒)であった。
 芭蕉が甲州郡内に流寓したことは「枯尾花」をはじめ諸書に伝えられているが、甲州へどうした関係から行ったか、また、いかに生活したかについては、これを確かに語るものがなく、要するにいずれも「説」というべきものに過ぎなかった。
 これまでの谷村流寓説の研究とその疑問点については、樋口功氏が『芭蕉研究』の中で次のように誌されている。
「甲州で誰を頼ったかに就いては、『隋斉諧話』や湖中の『芭蕉伝』等には、佛頂和尚の下僕で、日に一丁字は無かったが、得悟が甚だ優れて、六祖と渾名されていた五兵衛という者を、同門の練りで甲州の山棲に訪ねたのであるとある。是等は他に徴すべき材料が無いので、確かとも謂い兼ねるが、亦疑うべき理由も無いようである。初狩村に杉風の姉がいたので、其所を頼ったのであろうともいう。是もありそうな事であるが確かかどうか。又此の旅行の途中の吟とて『馬ぼくぼく我を絵に見る夏野哉』が伝はっている。是を立句として、脇は滝の句で糜塒(高山氏)一晶との三吟歌仙がある。又『胡草垣穂に木瓜も無家かな』の糜塒の発句に「笠面白や卯の実むら雨」の一晶の脇で、芭蕉との三吟歌仙もあるが、後者の句意から察すると、糜塒が一晶及び芭蕉を我が家に宿しての挨拶の句らしい。そこで慶埼は当時甲州の住人であったとすると、事実がよく練通するのであるが、又疑問もある。『真澄鏡』に、糜塒の子某の語として
「亡父幻世(糜塒、晩年の号)懇(芭蕉と)にて、甲州郡内谷村へも度々参られ、三十日或は五十日逗留す。又ある時は一晶など同道す」
とある語気から察すると、当時糜塒が此の谷村に居たものとしか想はれぬが、又同書に芭蕉の真蹟を掲げて「上野国館林高山氏蔵」と記した処から見ると、少なくとも子某の代には館林に家のあった事だけは判る。すると其の父の糜塒を甲州住と一寸考えられなくなる。けれども右の文は、芭蕉が甲州へ行く序でも、館林の高山氏宅に立寄った意味とはどうしても取れぬようであるが如何であるか。或は当時糜塒が甲州に居住していたのではないかと想うが、固より確かでない。』と考究されている。
 文中の谷村での吟と言われる歌仙については後記するとして、この『真澄鏡』は、安政六年(1859)に守轍白亥(ハクガイ)が出版したもので、その中に糜塒の男が軸箱の裏に書いた文言の写しと、芭蕉や杉風が糜塒に送った書簡その他のものが誌されている。
 軸箱の裏書というのは、次の文言である。
 
『○傅右衛門子息の認しもの也、今用なきに似たれど、いさゝか証とすべき事のあれば此処に出す。
俳諧の宗匠芭蕉桃青翁は、伊賀の国上野の士なり(中略)亡父幻世懇にて、甲州郡内谷村へも度々参られ、二十日或は五十日逗留す。又ある時は一晶など同道す。但し鯉屋手代伊兵衛は桃青翁の甥なり、幻世世話して小普請手代になし、松村吉左衛門と名乗、本郷春木町に住す、其終る処をしらず。
  • 高山傅右衛門繁文俳名廉珊、後に幻世と改む。」
 
 右の内○印の条は、著者白亥の記したものであり、軸箱裏書のほか、所収の尺牘(セキトク 文字を書きつけた短い木の札)に『上野国館林高山氏蔵する処の真蹟なり』と附記してある。編者白亥が親切心で記したものである。
 高山慶埼のことについては、昭和初期頃の一外、鳳二共編の『新選俳諧年表』に「高山氏、名繁文、豚傅右衛門、幻世と号す、芭蕉門ヽ甲州人、上州館林住」とあるのみで、廉珊の身分、職業等もわからず、また、館林の住人か、谷村の住人であったのか芭蕉研究家を大いに惑わしたのである。
 
 高木蒼悟氏は、伊藤松宇(Wikipedia)氏(古俳書の回収家として松宇文庫がある)が在世中(昭和十八年没)松宇氏所蔵の大虫(池永氏 ダイチュウ 明治三年没)の稿本「芭蕉年譜稿本」に糜塒のことがあり、したがって芭蕉の甲州流寓のことが明らかになることの示唆をうけて研究を始め、昭和二十三年頃から雑誌「小太刀」に発表し、芭蕉と糜塒の関係を明らかにしている。
『芭蕉翁年譜稿本』には、江戸を焼け出された芭蕉が、甲州谷村に半年ほど流寓したのは、誰を頼ったかわからなかったのに、佛頂会下の六祖王平を頼ったという旧説を打破して、谷村藩家老高山傅右衛門繁文(慶埼)を頼ったこと、また、芭蕉参禅の師佛頂の伝記も誌し、天和三年の条の冒頭に、当時の芭蕉と糜塒の関係を次のように記述している。
「世は元旦も元旦の心ならず、焚址の煙だにおさまらざる中なりけり、翁は浜島氏におはして、歳旦の吟だもおもひよせ玉はず、おりおり訪らう門子親友に対話し玉うばかりなり。爰に又秋元家の臣たる彼高山糜塒は、佛頂禅師会下のちなみといい、俳諧に師弟の因といい、ひとかたならぬ情ありて、翁焼庵の時もいちはやく此寓居を訪らい申し、其恙きをよろこびけり。さるに此頃帰国すべき事となりければ、翁に其よしを申て、焚後の乱雑なるを見玉はむより、しばらく甲斐の山中に遊び玉はんは如何おはすべき、事に物に不自由なるは山家のつねなれども、還閑寂の幽趣もありて、此粉々をわすれ玉はむ、幸い帰国の日も近づけば、御供申候はんとすすめけるに、翁大に喜びて、主浜島氏にも其事をかたり、糜塒の勧めにしたがひ玉ふ。
 此事を杉風にも物語るに、幸なるかな姉甲斐の国郡内初雁村に稼してあり、秋元の城下谷村にはほど遠からねば、折々は其許へもおはして滞留したまへとぞ申ける。かくて約束の日にもなりければ、翁は糜塒に伴はれて甲斐の谷村へ趣き玉ふ。此高山慶埼は谷村の重臣にして、其居宅も広やかに、男女多く仕ひければ、ねんごろに翁をもてなし、官事のひまには禅を対話し、又俳を研究して倦む事なければ、翁もしたしく導き玉へり。糜塒が別荘を桃林軒と号せり。翁はつねに其別荘を寓居と定め、心のままに城外にも逍蓬し玉ふ。ある時庸埓に伴はれて山川のほとりに漫遊し玉ふに句あり。
  いきほひあり氷消ては滝津魚     芭蕉
此魚は俗にヤマメといふ、魚のわざを見玉ひての作なりとぞ。
 又初狩村もほど近ければ、彼杉風が姉の嫁したる許を訪らひ玉ふに、かねてより翁の徳は承りたる事にあれば、 懇ろにもてなし申て、其里なる等力山萬福寺といふ寺にも伴ひけるに、主僧の需に屡々筆をとり玉へり。其真蹟今なほ万福寺に多く蔵すといへり。」
 
 大虫はまた、六祖五平を高山五平としている。元和元年に芭蕉が佛頂に参禅した事を記述して、その終りに
  「秋元家の藩士に高山五平といふ人ありけり、佛頂禅師に参じて禅機よのつねならず、頗る恵 能の風ありければ、師これを渾号して六祖五平とぞ呼れける。桃青もをりく会下に面話して 其交日々に厚く、五平も俳諧にこゝろざして桃青の門に入、表徳を慶埼と称す」
  註に「後年幻世と改む。又俗称の五平をも後傅右衛門と改めたり。詩抄此五平を佛頂の僕に して、一文不知の者也とす。そは恵能の事に引当て設たる妄説なるべし」とある。
 大虫が何の資料によったかわからないが、多分に大虫の主観が入っていると思われ、今後の研究にまたねばならない問題が残されている。
  『勢いあり』の句、縻塒邸宅については後記するが、初狩村に杉風の姉が嫁し、芭蕉は杉風の紹介でそこえも往来したらしく伝えられるが、いまだ確証されていない。
 高木蒼悟氏も、かって杉山杉風伝を雑誌『石楠』に発表しているが、初原村に姉が居たという記述は見出し得ないと誌している。

松尾芭蕉 甲斐入り 史実の見えない大虫説

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高木蒼悟氏は、伊藤松宇(Wikipedia)氏(古俳書の回収家として松宇文庫がある)が在世中(昭和十八年没)松宇氏所蔵の大虫(池永氏 ダイチュウ 明治三年没)の稿本「芭蕉年譜稿本」に糜塒のことがあり、したがって芭蕉の甲州流寓のことが明らかになることの示唆をうけて研究を始め、昭和二十三年頃から雑誌「小太刀」に発表し、芭蕉と糜塒の関係を明らかにしている。
『芭蕉翁年譜稿本』には、江戸を焼け出された芭蕉が、甲州谷村に半年ほど流寓したのは、誰を頼ったかわからなかったのに、佛頂会下の六祖王平を頼ったという旧説を打破して、谷村藩家老高山傅右衛門繁文(慶埼)を頼ったこと、また、芭蕉参禅の師佛頂の伝記も誌し、天和三年の条の冒頭に、当時の芭蕉と糜塒の関係を次のように記述している。
「世は元旦も元旦の心ならず、焚址の煙だにおさまらざる中なりけり、翁は浜島氏におはして、歳旦の吟だもおもひよせ玉はず、おりおり訪らう門子親友に対話し玉うばかりなり。爰に又秋元家の臣たる彼高山糜塒は、佛頂禅師会下のちなみといい、俳諧に師弟の因といい、ひとかたならぬ情ありて、翁焼庵の時もいちはやく此寓居を訪らい申し、其恙きをよろこびけり。さるに此頃帰国すべき事となりければ、翁に其よしを申て、焚後の乱雑なるを見玉はむより、しばらく甲斐の山中に遊び玉はんは如何おはすべき、事に物に不自由なるは山家のつねなれども、還閑寂の幽趣もありて、此粉々をわすれ玉はむ、幸い帰国の日も近づけば、御供申候はんとすすめけるに、翁大に喜びて、主浜島氏にも其事をかたり、糜塒の勧めにしたがひ玉ふ。
 此事を杉風にも物語るに、幸なるかな姉甲斐の国郡内初雁村に稼してあり、秋元の城下谷村にはほど遠からねば、折々は其許へもおはして滞留したまへとぞ申ける。かくて約束の日にもなりければ、翁は糜塒に伴はれて甲斐の谷村へ趣き玉ふ。此高山慶埼は谷村の重臣にして、其居宅も広やかに、男女多く仕ひければ、ねんごろに翁をもてなし、官事のひまには禅を対話し、又俳を研究して倦む事なければ、翁もしたしく導き玉へり。糜塒が別荘を桃林軒と号せり。翁はつねに其別荘を寓居と定め、心のままに城外にも逍蓬し玉ふ。ある時庸埓に伴はれて山川のほとりに漫遊し玉ふに句あり。
  いきほひあり氷消ては滝津魚     芭蕉
此魚は俗にヤマメといふ、魚のわざを見玉ひての作なりとぞ。
 又初狩村もほど近ければ、彼杉風が姉の嫁したる許を訪らひ玉ふに、かねてより翁の徳は承りたる事にあれば、 懇ろにもてなし申て、其里なる等力山萬福寺といふ寺にも伴ひけるに、主僧の需に屡々筆をとり玉へり。其真蹟今なほ万福寺に多く蔵すといへり。」
 
 大虫はまた、六祖五平を高山五平としている。元和元年に芭蕉が佛頂に参禅した事を記述して、その終りに
  「秋元家の藩士に高山五平といふ人ありけり、佛頂禅師に参じて禅機よのつねならず、頗る恵 能の風ありければ、師これを渾号して六祖五平とぞ呼れける。桃青もをりく会下に面話して 其交日々に厚く、五平も俳諧にこゝろざして桃青の門に入、表徳を慶埼と称す」
  註に「後年幻世と改む。又俗称の五平をも後傅右衛門と改めたり。詩抄此五平を佛頂の僕に して、一文不知の者也とす。そは恵能の事に引当て設たる妄説なるべし」とある。
 大虫が何の資料によったかわからないが、多分に大虫の主観が入っていると思われ、今後の研究にまたねばならない問題が残されている。
  『勢いあり』の句、縻塒邸宅については後記するが、初狩村に杉風の姉が嫁し、芭蕉は杉風の紹介でそこえも往来したらしく伝えられるが、いまだ確証されていない。
 

鵡川衆の謎 鵡川衆の武士名

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武川衆下之郷起請文(長野県上田市 生島足島神社)
 
永禄10年 丁卯(156787
 六河衆(武川衆)の馬場信盈らが六郎次郎(武田信豊)を介し、武田信玄に起請文を捧げる。
〔懸紙〕
(ゥハ書)
「 青木 山寺 柳沢 六河衆
丁卯 八月七日
六郎次郎殿」(武田信豊)
馬場小太郎信盈 (花押) (血判有り)
青木与兵衛尉信秀(花押) (血判有り)
山寺源三昌吉  (花押)
宮脇清三種友  (花押) (血判有り)
横手監物満俊  (花押)
青木兵部少輔重満(花押)
柳沢壱岐守信勝 (花押) (血判有り)
        (上田市生島足島神社所蔵文書)
読み下し
    敬白 起請文
一 この己前捧げ奉り仮数通の誓詞、いよいよ相違致すべからざるの事
一 信玄様に対し奉り、逆謀叛等相企つべからざるの事
一 長尾輝虎を始めとし、御敵方より如何様の所得を以って申す旨慎とも、同意致すべからざるの事
一 甲・信・西上野三箇国の諸卒、逆心を企つと雖も、某(それがし)に於いては無二に信玄様御前を守り奉り、忠節を抽んずべきの事
一 今度別して人数を催し、表裏なく、二途に捗らず、戦功を抽んずべきの旨存じ定むべきの事
一 家中の者、或は甲州御前悪しき儀、或は臆病の異見申し候とも、一切に同心致すべからざるの事
右の条々違犯せしめば上は梵天・帝釈・四大天王・閣魔法王・五道の冥官、殊には甲州一二三大明神・国建・橋立の両大明神・御岳権現・富士浅間大菩薩・当国諏訪上下大明神・飯縄・戸隠、別しては熊野三所権現、伊豆・箱根・三島大明神・正八幡大菩薩・天満大自在天神の御罰を蒙り、今生に於ては癩病を享け、来世に到りては阿鼻無間に堕在致すべきものなり。仇って起請文件の如し。

解説(武川村誌 佐藤八郎氏著)
 六河衆連署のこの起請文を含む八三通の武田将士起請文は、これら以外に生島足島神社に所蔵される一一通の文書と共に、昭和六二年六月六日、国の重要文化財に指定され、その重要性を国により証明された。六河衆は武川衆の当時における別称である。巨摩郡北部の釜無川上流一帯に勢力を待った在地武士団で、地名を苗字としている者が多い。
 六河衆の起請文は、本紙と包み紙とから成る。本紙を折りたたみ、大型の良質の和紙(これを懸紙という)で包み、その上下を折り曲げ、
「上
  青木
  山寺  六河衆」
  柳沢
というように記す。これをウハ書という。本紙は紀州熊野三社からもたらされる牛王宝印を捺した牛王統である。牛王紙の裏に起請文が書かれる。その書き出しには、「敬白 起請文」とあり、行を変えて誓約事項を箇条書きに記している。その内容は、
  1. これ以前に捧げ奉った数通の誓詞について、これからもますます相背くことはしないこと。
  2. 信玄様に対し奉り、道心をいだき、また謀叛を企てることはしない。
  3. 長尾輝虎をはじめ敵方より、どんな所得(利益)をもって誘われても、同意はしないこと。
  4. 甲・信・西上野三か国の諸卒が逆心を企てても、私は無二に信玄様をお守り申し上げて、忠節を尽すこと。
  5. この度は、ことに多くの部下を動員し、かげ日なたなく、二途に迷わず、ただひたすら戦功に励む決心でいること。
  6. 家臣の者が、甲州のために悪いようなことや、臆病な意見を申しても、それらに一切同意するようなことは致さないこと。
と、いうもので、どんな場合でも信玄様に忠節を尽して励み抜く、と誓った六か条の誓約事項である。
 次に神文の形式であるが、「上梵天・帝釈・四大天王…」と書き出し、冥界支配の閻魔・五道冥官(五道の衆生の罪を裁く冥府の役人)、それに甲州で一宮・二宮・三宮、国建・橋立両神、御岳・富士浅間社、信州で諏訪上下大明神・飯縄・戸隠、熊野・伊豆・箱根・三島、八幡・天満天神など、二〇社に近い著名な神社を挙げ、前記の誓約事項に違背したときは、これら仏神の罰を蒙るべきことを記したものである。
 次に署名者七名の在所であるが、
馬場小太郎信盈が白須村、(白州)
青木与兵衛尉信秀・同兵部少輔重満が青木村、(韮崎市)
山寺源三昌吉が山寺村、(韮崎市)
宮脇清三種友が宮脇村、(武川町)
横手監物満俊が横手村、(白州町)
柳沢壱岐守信勝が柳沢村とみてよいであろう。
(山寺昌吉は、のち武田郷鍋山村に移った)。
 六河衆起請文に連署した七人の名は、江戸初期に編纂されるそれぞれの家譜(系図)には全くあらわれない。たとえば、柳沢吉保の家譜に壱岐守信勝の名は見えない。柳沢家譜において、永禄10年前後の当主は靭負信房で柳沢斎と号するが、格別の事績も記されていない。
 また青木氏の場合も兵部少輔重満・与兵衛尉信秀、ともに同氏の家譜に見えない。同氏は武川衆中での名門で、天文1012月、青木尾張守満懸は、武田八幡宮本殿造営に際し、板垣信方・浅利虎在らと小檀那を奉仕した(同官別当加賀美山法善寺旧蔵本殿棟札写)。この事件は、武田晴信が父信虎に代って甲斐守護になった年のことで、名誉ある本殿造営の大檀那は信自身であった。
青木満懸はその小檀那で、青木氏一門にとり、この上ない名誉の出来事であった。それにもかかわらず、同家譜には満懸・重満・信秀の名は全く記されていない。
 以上のことから考えて、武川衆諸氏が江戸期に幕府に提出したそれぞれの家譜は、武田時代の事績を忠実に記載したものではなく、同族で合議のうえ、無難な記事だけを記して提出したものと考えられる。

小笠原牧は北杜市明野町ではない

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小笠原牧は甲斐にあったが、それは現在の山梨県南アルプス市(旧櫛形町)小笠原(現在の小笠原小学校)付近である。

 小笠原家は名門で、旧櫛形町の隣、旧甲西町秋山出身の秋山氏とともに早くから朝廷にに勤め活躍、源氏と平家時代には平家に属したこともあった。この地域には歴史で誤られた数多くの牧場があり、それはやがて南部氏により東北の名馬に移り変わっていく。

 それを現在の歴史学者諸氏が無理して、真衣野牧・柏前牧・穂坂牧を強引に韮崎市と北杜市内に決定した結果、その後の歴史展開が史実が伴わないものになり、「小笠原牧」のような間違った解釈をする考古研究者が現れてしまう。

   <和歌の世界と歴史>
 和歌を正面に据えて歴史を展開することは出来ない。歌に読み込まれた地名や名称を鵜呑みにするとんでもない歴史展開となる。

 このことは甲斐の地誌「甲斐国志」や「甲斐名勝誌」それに「裏見寒話」さえも詠み間違いをしている。

 甲斐の御牧を論じるときに和歌を中心にすることはできない。あくまでも参考資料として取り扱うべきである。甲斐の御牧の存在は中央の歴史書の記録から窺い知ることができるが、御牧の所在地を限定することは無理で、これは甲斐に限ったことでなく、信濃の望月の牧以外は後世の地名比定が先んじ不確かである。

 都に居て甲斐などに来たことのない宮廷官人たちの歌に振り回されて、そこに詠まれた歌地名を根拠に論を展開することは空しい作業である。また詠まれた年次も明確でなく更に混乱する。

  小笠原地名と小笠原御牧

 小笠原地名も櫛形町と明野村に在り現在でも何方が本家か決着がついていない。地域の拓け方それに古墳や甲斐源氏の発祥及び後の牧場の存在地それに小笠原氏の存在からみても小笠原地名及び小笠原牧は櫛形町小笠原が発祥であり、所在地である。
 明野村の小笠原は小笠原氏族が知行した時から始まるとした方が自然である。
 もし櫛形町小笠原地名が先んじていれば和歌に詠まれた小笠原牧も再考を要することとなる。


 明野村には小笠原の他にも「辺見」の地名がある。
 
 歴史資料の乏しい時代に、紀貫之が最初に和歌に詠んだ。その中の地名が明野村にもあるからして、

「をかさわらへみ御牧」
 
 の所在が明野村中心に在ったとの結論は早急で、「思い込み歴史」の典型である。
 それは文献資料に表れる以前のことで穂坂牧、真衣野牧、柏前牧も資料に表れ軌道にのりはじめて間もない年次に詠まれたものであり、紀貫之の詠んだ年次はその後の治績から晩年ではなく、『西宮記』などに記載された年次より数十年以前に遡る可能性が大きい。

 不思議なことに駒牽の行事は八月に行なわれ真っ先に行なわれるのは通年八月七日の真衣野・柏前である。一年間待った駒牽行事の始まりである。その真衣野・柏前牧を詠んだ歌は皆無である。

 隣の長野県望月の牧はもっとも長い期間駒牽行事に貢馬していた。歌の詠まれた件数も他を圧倒するが、次に詠まれたのは穂坂牧であり、小笠原牧である。

 山城の近都牧、美豆の御牧と「三つの御牧」の混同も資料研究の浅さから来たもので、それは甲斐国志以来の甲斐の地誌にあらわれている。

 さて甲斐の小笠原や穂坂はたくさん歌が詠まれている。


  『日本書紀歌謡』 
 ぬばたまの甲斐の黒駒鞍着せば命死なまし甲斐の黒駒   
   
  『日本書紀』
  小笠原、逸見牧
   駒 引  紀貫之  貫之-貞観十年(868)~天慶八年(945)
  
  都まてなつけてひくはをかさ原へみの御牧の駒にや有らん  
 
     『紀貫之集』  『類従群集』第三巻第二百四十七
   

  逸見の御牧(六帖夫木集云家集題駒牽甲斐或伊豆)    

 みやこまてなつけてひくは小笠原へみの御牧駒にや有らん  
   
    『夫木集』【成立-延慶三年(1310)。
    正慶元年(1332)までに補訂】

   顕仲朝臣

  小笠原へみのみまきのはなれ駒いとゝ気色そ春はあれます

     『堀川院百首和歌』春 『類集群従』巻第百六十
     堀川天皇-承暦三年(1079)~嘉承二年(1107)

   春 駒 俊成卿
 
  小笠はらやけのゝ薄つのくめはすゝろにまかふかひの黒駒  
     
     『俊成卿五社百首』 
     『類集群従』巻第百七十六文治六年(1190)

   春 駒  仲 實

  小笠原すくろにやくる下草になつますあるゝ鶴のふちのこま 
 
     『堀川院百首和歌』春 『類集群従』巻第百六十七

   題しらす  僧都覚雅

  もえ出る草葉のみかは小笠原駒のけしきも春めきにけり

     『詞花和歌集』  【成立-兼輔撰。仁平元年(1151)奉覧】
 
   甲斐の黒駒
  八月相坂の国の関に駒むかふる人あり          

  むさしのゝ駒迎にや関山かひよりこへてけさをきつらん

     『源順集』 『類従群集』巻第二百四十九
     源順(したがう)-延喜十一年(911)~永観元年(983)  

   信濃路のかたへ里馬引たかへたるを  

  さもこそは其名もしらね信濃ちょ引たかへたるかひの黒駒  

     『明日香井和歌集』  『類従群集』巻第二百四十二
     藤原雅経家集 【成立-永仁二年(1209)完成】

   春 駒   

  小笠はらやけのゝ薄つのくめはすゝろにまかふかひの黒駒  

     『俊成卿五社百首』  文治六年
     『類集群従』巻第百七十六 俊成-永久二年(1114)~元久元年(1204)

   駒 迎

  相坂の関の杉村木くらきにまきれやすらんかひの黒駒  
   
     『夫木集』

   春 駒

  小笠原すくろにやくる下草になつまつあるゝ鶴のふちのこま 

     『堀川院百首和歌』    『類従群集』巻第百六十七
  
   秋  

  あふ坂の杉間もりくる月ゆへにおふちに見ゆるかひの黒駒 

     『正治二年院御百首』

   題しらず  不知読人

  とし毎にかひの黒駒ひきつれてのりていさむる春日野の原

     『南都名所記』

   日本名所千句  宗祇法師  

  浜松の里は下葉に埋もれてしはしひかふるくろ駒のやま  

     『宗祇法師連歌百韻』  
     宗祇-応永二十八年(1421)~文亀二年(1502)

   題しらず  不知読人

  わかゞへる道の黒駒あらばきみは来すともおのれいなゝけ   

     『拾遺集』  【成立-寛弘三年(1006)頃】

  引かへてなつけむ駒の綱たえにいかゝのかひの人はみるへき  

     『相模集』  相模-生没不詳、康平四年(1061)頃没か。

   甲斐の国河口といふ所にとまりて曙ふかく御坂を
   こえて甲府につくその道に黒駒といふ所あり
   細川玄旨
   
  ときのとき出へきさいをまつ一首あへてふるまふかひの黒駒
    
     『東国陣道記』 七月十六日の項

  

   駒 迎

  相坂の関路にけふや秋の田の穂坂のこまをつむつむとひく  

     『夫木集』  (「つむつむ」が「むつむつ」の書もあり)

  関の戸に尾花葦毛のみゆる哉穂坂の駒を引にやあるらん   

     『夫木集』  藤原長家    『新葉集』 

  秋の田のほさかの駒を引つれてをさまれる代のかひもありけり  
 
     長家-寛弘二年(1005)~康平七年(1064)
   
   駒 迎  隆源法師    

  関の戸におなしあしけのみゆる哉ほさかの駒をひくにや有らん

     『夫木集』  隆源法師-生没不詳。活躍年(1086~1100)

   駒 迎

  関の戸に尾花葦毛のみゆる哉穂坂の駒を引にやあるらん

     『堀川院御時百首和歌』  堀河院-堀河天皇。
     承暦三年(1079)~嘉承二年(1107)

   橋本社に讀て奉り侍し秋十五首の歌

  花すゝきほさかの駒やまかふらん玉しく庭の月の光に

     『藤原光經集』 『類集群従』巻第二百五十九 
     【完成-藤原顕輔著。仁平元年(1151)初度本】
     光経-生没不詳。
     所収和歌-建保六年(1218)~嘉禄二年(1226)

   駒 迎

  しろたへになひく眞袖や花薄ほさかのこまにあふ坂の山
 
     『明日香井和歌集』
      藤原雅有撰。 藤原雅経家集 【成立-永仁二年(1209)完成】
      雅経-嘉応二年(1170)~承久三年(1221)
 


   穂坂小野  入道大納言

  時来ぬと民もにきはふ秋の田の穂坂の駒をけふそ引ける

      『年中行事歌合』

   ほさかのをの(甲斐春駒を)権中納言師俊卿

  春くさの保坂をのゝはなれ駒秋は宮こへひかんとすらん
 
       『夫木集』

   ほさかのをの  前中納言匡房卿(大江氏)

  はなすゝきほさかのこまにあらね共人おちやすきをみなへし哉

       『夫木集』
      匡房(まさふさ)-長久二年(1041)~天永二年(1111)

   ほさかのをの  衣笠大納言

  打なひき秋はきにけりはなすゝきほさかの駒をいまやひくらん
 
      『夫木集』

   穂坂小野  隆源法師

  関の戸におなしあしけのみゆる哉ほさかの駒をひくにや有らん

      『夫木集』

  
 
  新名所歌合   荒木田長言

  春深き御牧の小野の朝茅原に松原こめてかゝる藤浪

      『伊勢名勝志』
      伊勢宮内黙蔵著
    
   日本名所千句  宗祇法師   『宗祇法師連歌百韻』

  ほのかなる穂坂の小野の月更けて秋風のなる山梨の岡

   美豆御牧    よみ人しらす
 
 小笠原みつのみまきにあるゝ駒もとれはそ馴るこらが袖かも
 
      『六帖集』

 
 小笠原へみのみまきにあるゝ駒もとれはそなつくなりきてそとる
 
      『夫木集』

 ここまで読めば「小笠原」の地名など歌人に弄ばれた地名であることは間違いなく。
 牧場跡と称する古代遺跡など、「小笠原牧」とする遺物や遺稿は皆無であり、従って大きな誤り「山梨の歴史誤伝」と断定する。

甲斐駒ヶ岳開山の真実と誤伝

『文昭公記』 柳沢吉保

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『文昭公記』     柳沢吉保



 『文昭公記』(徳川六代将軍家宣) 「柳沢吉保公一代記」(仮称) 
 
一部加筆


宝永六年六月三日、甲府の城主松平美濃守吉保隠居する、子吉里継ぐ(十五万千二百八十八石、二男経隆、三男時睦に、各一万石の地を分ける)。
 柳沢吉保は、甲斐の武田の支流にて、柳沢兵部丞信俊が孫なり。信俊が二男を、刑部左衛門安忠と云う。元和元年より駿河大納言殿に仕え、寛永十六年にめし返されて、上総国市葉村にて采地を賜い広敷番となり、又館林殿につけられて、延宝三年に致任し、貞享四年に死す。

吉保初名は弥太郎房忠という、後保明に改める。寛文四年に初めて常憲公に見え奉り、父の後を継いで百五十石を領し、三百七十俵を加える。同(延宝)八年に本丸の小納戸となり、貞享二年の冬叙爵して出羽守に任ず。是より先に、頻りに加恩あり、元禄元年十一月地加へられ、始めて万石の列となる(和泉上総にて万石加へられ、合せて一万二千三十石)。この比、公(綱吉)盛んに文学を好みて、吉保を以て弟子とし、学問怠らざるを賞して、曾子の像を画きて之を賜わる。

 天和二年の正月元旦、読書始の式を行はれしに、吉保をして、大学三綱領の章を講ぜしめ、永例として年々之を仕ること怠らず。此の時松平忠周、喜多見重政の列に同じく、内外の事承るべしと命ぜられる、御用御取次と云。(元禄)三年三月二十六日、二万石を増し、十二月廿五日、年比の勤労を賞して、四品にのぼり、二本道具もたすべき旨を命じ、(元禄)四年三月はじめて其の邸に臨む。これよりさき、邸内新たに殿舎を経営する、結構宏麗、臨駕の日、母妻子及び一族等に至るまで、皆拝謁して物賜うこと、あげて数へがたし。吉保も亦数々の宝貨をささげ、山河の珍味をつくして之を饗する。
 これより後、しばしば臨邸あり、凡そ五十余度に及ぶ。先親から経を講じ又は武芸を試み、家臣等をして経を講じ、義を論ぜしめ、又猿楽を催し、宴楽を開くこと、いつもかはらず。(元禄)五年十一月、三万石まして六万二千余石になり、(元禄)七年正月には、又一万石を加へて、川越の城主になさる。十一月二十五日、老中に同じく評定所に着座し、侍従に昇る。(元禄)十年七月、東叡山に根本中堂を営まれし時に、惣奉行となり、二万石を加え、(元禄)十一年七月、其の落成の功により、左近衛少将に昇り、中萱長時(ぢやうじ)不断の燈を掲げる。これ延暦中比叡山の常燈を、忠仁公勅使として掲げられし例に倣ほれし所也。九月八日、紅葉山拝礼の先立を勤める。これより三山の拝礼に、父子代る代る先立を勤める。
(元禄)十四年十一月二十六日、臨邸の時、父安息より以来、忠貞をつくすこと、凡そ臣たる者の模範たるべしとの旨を以て、松平の称号をゆるされ、詩の字賜わり、松平美濃守吉保と改める。子三人も同じく称号をゆるし、長子安暉は諱の字賜わり、吉里と改める。十二月二十一日、吉保を少将の輩に列し、官位年順たるべしと命ぜられ、(元禄)十五年三月九日、桂昌院尼を一位にすすめられしこと、吉保が申し行う所なればといって、又二万石をまし、合せて十一万二千三十石になる。
 (元禄)十六年正月三日謡初の式に、吉保父子に大広間にて盃賜はるべしとありしが、吉保切に辞して、子吉里にのみ賜わる。(宝永元年)十二月二十一日、将軍の儲嗣に定まりしこと、偏に吉保が執り行う所にして、何事も整備一事の欠漏なきを賞し、殊に甲斐の国府の城を賜う。其の税額は二十万石に余りとなり、猶十五万千二百八十八石余と称す。これより後は、甲斐国主と称すべしと命ぜられ、宝永三年七月二十九日、甲府に於いて私に金貨を造ることをゆるされ、九月四日に打物を持たすことをゆるし、此の日隠居して保山入道と号し、此の後も時々の恩遇、在職の時に異ならず。歳毎の正月七日には、羽織著して登営し、大奥までも罷り、御冶所を拝すること年々かはらず。正徳四年十一月二日卒、年五十七。
 此の人の一代、殊に恩寵を蒙り、身の栄耀を極めしことは、徳川氏勲旧、前後諸臣のなき所にして、威福を弄し奢侈に耽りしこと、亦世の類なき所なり。但し性質佞才あり、能く迎令に巧みに、陽に忠実を以て君の信を得、希代の寵遇を蒙りしは、偏に便嬖(べんぺい)の致す所なり。されど性亦謹慎にして、敢、虐悪を肆(ほしい)ままにするような心があるにあらず、是其の始終君寵を失わない所以なるべし


(保山行実に、日々御登城被遊候へ共、暁六半時比、御城詰御小姓衆迄、御手紙にて毎夜の御機嫌被遊候、又常に常憲公(綱吉)の為に、男子誕生あらんことを祈られし由見へ、又蔵人は、権現様の御名故、後々迄も、遠慮可仕旨被遊御意候とあり、是等の事、以て其の小心なることを推知すべし、又()鳩巣の手簡に、瑞春院(綱吉の側室)御前へ、保山事被罷在、御仕置之改り候事共、色々被申上候て、近年御徒之内何某、深川にて魚を釣、生類御憐みの御法を侵候に付、流刑に御付置候、然る所、其の者を被召返、御赦免被成候迄にても無之、此の間上野へ御供も無構相勤候様被仰出候、是は余りなる事に御座候旨、被申上候所、瑞春院様屹度御詞を被改、扨は常憲院様近年の御政道、御尤なる事と被存候や、すきと箇様の事共、其の方など被致候事に候、此の度段々御改め被成候を、却て左様に被存候儀は、相聞不申儀と被仰候所、保山一言も不申、退出に候、云々とあるが如きも亦保山が心のほどを推測るべきものなり)。

其の身文学に志し、又倭歌を好み、己が詠草に、かしこくも東山院の勅点を乞い奉り、傍ら禅学を嗜み、みずから著す所の書を、「護法応録抄」と題して、院の御製序を賜はり、名山におさめ、又共の比堂上の中に識者と聞えし、正親町一位公通公の妹を迎へて妾となし、松蔭日記とて、わが身の栄華を筆記せしめ、駒込の別邸に十二景を設け、これをも院より名を賜はらんこと請い奉り、公卿の詠歌を集めて清翫となす。其の邸中の異樹珍石は、皆諸大名の贈る所にして、仮山泉水、悉く風致を極め、奢麗尽したりと云。世には此の人の栄華を憎む心の甚しきより、草々の訛謗伝えて、淫褻僣乱のことありなど伝えれども、其は皆信ずるに足らざる也。


  
【広敷番】ひろしきばん 大奥の広敷に交代で勤務し、警戒や出入りの人々の監視にあたった。
【上総国】かずさのくに 現在の千葉県中部

【曾子】そうし (紀元前506年-没年不詳)は、孔子および左丘明の弟子で、儒教黎明期の重要人物。

【儲嗣】ちょし 天子または貴人の世継ぎ。

【便嬖】べんぺい こびへつらって人の機嫌をとること。主君などに 寵愛されること。

【君寵】くんちょう 主君から特に目をかけられること。主君から受ける寵愛。
【肆】 ほしい やりたいままに振る舞うこと。自分の思いどおりに事を行うこと。

西木山東光寺 図版資料

武田勝頼 画像 夫人 子供 信勝

三戸南部氏の態度 南部氏は山梨県ゆかりの人

馬場民部の開基寺 武川町 萬休院

甲斐関係の木簡

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…奈良文化財研究所の「木簡デ-タベ-ス」によれば、甲斐関係の木簡として次の物を挙
げている。

●本文……………………………………………………………形式番号 出展
 □「甲斐国」山梨郡……………………………………039……平城宮1-14
 「甲斐国」山梨郡雑役胡桃子-天平寶宇六年十月………031……木研1-56頁
 「甲斐」山梨郡雑役胡桃子-天平寶宇六年十月…………031……平城宮1-20
 大井里人………………………………………………………6039…飛5
  依私改度不破関往本土甲斐国戸人麻呂=………………081……木研10-91頁
  泉伊勢参河近江甲斐下総常陸【「」小野朝臣人公】…081……平城宮4-4199
  斐国山梨郡加美郷丈部宇万呂六百天平寶宇八年十月…019……木研9-118頁
 表…御馬司信濃…口甲斐…口上野二口右…………………011……城21-21上
…裏…四米四升五月二日「受板部黒万呂」
 表…馬司帳内甲斐常石…廣末呂…右四人米………………081……平城宮2-1916
…裏…〈〉受赤人十一月九日…稲虫書吏
 表…馬司甲斐二人*上*野四人六人………………………081……平城宮1-295
…裏…米一斗二升十月十二日「大島」
 表…馬司帳内甲斐四口米四升………………………………019……平城宮2-1917
…裏…受勝麻呂十月廿四日石嶋書吏…………………………081
 表…馬司上野二口甲斐四口…右六口米六升受 …………6011…平城宮1-297
…裏…「馬馬郡馬馬馬分…右京馬…」(全体に重書)
 甲斐国山梨郡…………………………………………………081……城31-27上
 国都……………………………………………………………091……城33-22上
 国都……………………………………………………………091………33-22上
 大乃年料米五斗………………………………………………011……長岡京2-783
 大乃……………………………………………………………019……長岡京2-784
 大野郷小田村里舎人部石足…………………………………033……城24-31上
 加美里物部色布知簀一枚……………………………………031……城31-32上
 大乃……………………………………………………………091……長岡京2-785
 茂郷五斗………………………………………………………030……城34-10下
 甲斐……………………………………………………………6091…平城宮5-6703
 甲斐……………………………………………………………6091…平城宮5-6704
 大乃白米………………………………………………………011…木研22-35頁-2
 大井里委文部鳥〈〉米五升…………………………………032……白37-26下
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