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甲斐年表2(700~803)
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聖徳太子と甲斐の黒駒
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江戸幕府 甲斐御三家 柳沢 米倉 秋元
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柳沢吉保の故郷を訪ねて 韮崎市常光寺
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山梨 古代歴史講座 北巨摩の古代御牧 総論
山梨 古代歴史講座 北巨摩の古代御牧 総論
1、甲斐古代牧の謎
山梨県の歴史は古代から語り継がれていたものは少なく、後に中央に残された断片的な資料を基にした研究によるものである。歴史資料はその研究者の生きた時代背景や政治体制によって大きく内容が異なっている。戦時中などは国や主君の為に自らの命を捧げる人物がもてはやされた。近代の戦時中には甲斐の名将武田信玄などは親を離反した者として逆賊として扱っている書物もある。逆に主君の為に命を捧げた馬場美濃守信房は戦うもの手本として扱われている。
私の住む峡北地方は古代からの歴史豊かな地であり、それは縄文、弥生、古墳、古代、中世と大地に刻まれている。しかしそれを伝える歴史資料や遺跡それに遺構は少なく、発見や発掘されても確かな資料にはなっていない。また不明の時代も長く後世の研究者が私説を交えて定説としている事項についても不確かな部分を多く抱えている。
一般の人々の歴史観は研究者の伝える書よりテレビドラマや小説などに大きく影響を受け、それを歴史事実と捉えてしまうものである。歴史小説などは書く人が主人公を誰にするかで善人も悪人になる。逆の場合も多く見られるものである。
甲斐の国と深い関わりも持ち、祖先が武川村の出身の柳沢吉保などは時の徳川家光将軍の中核をなした人物なのに講談や小説などで悪役として扱われて以来、現在でも評価が低く、龍王町篠原出身とされる国学者山懸大弐なども国に背いた人物として地域の懸命な継承努力にも関わらず県内全般に於てはこれまた評価が低い。市川団十郎などは父親が今の千葉県市川の出身とも言われている中で、「団十郎の祖先は武田家の家臣堀越重蔵で後に江戸に出て団十郎が生まれ、故郷の市川を名乗るとなる。団十郎の出身地とする三珠町には歌舞伎記念館が建ち地域案内書や報道は史実の様に伝える。
あの松尾芭蕉が師と仰ぐ山口素堂などは甲斐国志編纂者の説を後生大事に守り、歪めた素堂像を今も伝える。筆者は素堂に関する新たな史実を次から次へと提示してきたが、研究者は見向きもしない。一度できあがった定説は覆す事は難しいもので、真実は明確に違っているにも関わらずである。中高年になると歴史が身近になり、研究に手を染めたり色々な勉強会や見学会に参加する人々が増えてくる。しかし『国志』や研究者の歴史書から出発すると本当の歴史は見えてこないものである。何事も探究しようと志したら自らの足で稼ぐことが肝要である。歴史学者の書した文献はあくまでも参考資料として扱うべきであり、市町村の歴史の部や遺跡報告などは難しすぎてほとんどの家庭で開かれずに眠っている。
歴史は広角度の調査が必要なのである。山梨県郡内地方の宮下家に残存する『宮下文書』などは歴史学者は偽書扱いで見向きもしない傾向にある。一方同様(?)な書に『甲陽軍艦』がある。こちらは研究者はその内容を部分的には否定しながら結局は引用して展開している。偽書扱いの書にも真実が見え隠れするもので全面否定は戴けない。『宮下文書』は甲斐の古代それも富士周辺の古代には研究資料として欠かせない内容で一読に値する。歴史を志す者は歴史書を色分けすることなく読んでみることが大切なのである。
さて今回は北巨摩地域の古代歴史の中で最も文献資料が充実している-北巨摩の古代勅使御牧(官牧)-の存在について資料を基にした調査結果を述べてみたい。これまでの定説が正しいかどうかは読者に判断を委ねたい。(諸著参考)
2、甲斐の黒駒
古代巨麻郡は現在北巨摩、南巨摩、中巨摩に継承され、古代の巨麻郡は甲府地域の一部を含む広大な地域であった。この巨麻(巨摩)地域に古代の天皇の直轄の御牧があり、全国では甲斐(3カ所)
信濃(17カ所)
武蔵(4カ所)
上野(9カ所)
毎年献上する貢馬(くめ)数は、
甲斐国60匹(柏前牧・真衣野牧30、穂坂牧30)、
信濃国(80匹)
武蔵国(50匹)
上野国(50匹)
である。単純に一御牧の貢馬数は、信濃1牧あたり4、7匹。武蔵は12、5匹。上野は五、六匹。甲斐は20匹と1御牧あたりの貢馬数は他を圧倒する多さである。それだけ1御牧の飼育地域も広大で養育の技術も充実していたことになる。後に述べるが勅使牧の運営が如何に膨大な人力と財力それに広大な適地を要したかは歴史書は紹介していない。 甲斐の駒はその始め「甲斐の黒駒」と呼ばれ、中央に於ても特に有名でそれを示す資料もある。日本書紀の雄略天皇13年(469)の項に《罪に問わた猪名部真根が処刑される寸前に赦免の勅命が下り死者が駿馬に乗り駆けつけ、あやうく命を救われた》との記載があり、その駿馬こそ甲斐の黒駒であったのである。
ぬば玉の甲斐の黒駒鞍きせば命しまなし甲斐の黒駒
古記が正しければ、雄略天皇13年(469)に既に甲斐の黒駒の知名度は中央に於て高かったことは、5世紀前半頃から他国を圧倒して甲斐に優秀な駒が産出されていたことを物語るものである。
雄略天皇9年(465)には河内国のにおいて換馬の伝説として「赤駿(あかこま)の騎れる者に逢う云々」とあり、この時代には既に中央に於て乗馬の習慣があったことが推察できる。
駒(馬)のことは神話にも登場していて『古事記』に須佐之男命(スサノウノミコト)が天照大御神(アマテラスオオミカミ)に対して「天の斑駒(ふちこま)を逆剥ぎに剥ぎて云々」とあるが、『魏志倭人伝』には「その地(倭)には牛馬虎豹羊鵲はいない」とあり、馬種については信濃国望月の大伴神社注進状に「須佐之男命が龍馬に乗り諸国を巡行して信濃国に到り、蒼生の往々住むべき処をご覧になって、これを経営し給いて乗り給える駒を遺置きて天下の駒の種とする云々」と見える。また牛馬は生け贄として神前に捧げるられる習慣もあった。月夜見尊は馬関係者の神として祀られていたり、主人に対して殉死の習慣もあり、後に埴馬として墳墓に供えられた。人が馬に乗る習慣は『古事記』に大国主命が手を鞍にかけ足を鐙にかけたとの記述が見え、『日本馬政史』には『筑後風土記』を引いて「天津神の時既に馬に乗りたることありにしや」とある。
山梨県内各地の古墳遺跡から埴馬や馬具などの副葬物が出土されている。古墳中には高価な副葬品も発見されているが、有数な古墳のほとんどが盗掘にあっている。また破壊され畑や宅地になってしまった古墳も数知れない。
古墳に祀られていた人物については史料がなく判明しない状況であるが、古墳の副葬品からは飼馬や乗馬の習慣があったことが理解できる。東八代郡中道町下曽根字石清水のかんかん塚(前期円墳)からは本県最古の馬具轡(くつわ)・鐙(あぶみ)が出土している。また山梨県最古の古墳東八代郡豊富村大鳥居の王塚古墳(前方後円墳)からは馬形埴輪が出土している。また『甲斐国志』には米倉山の土居原の塚から異常なる馬具を得たとある。
甲府市地塚町三丁目の加牟那塚古墳(円墳)からは馬形埴輪が出土している。甲斐の三御牧があったとされる北巨摩地方の古墳は少なく、従って馬具などの出土も少ない。五世紀に於ては北巨摩地方より、古墳が築かれた甲府盆地を中心とした周囲の丘陵地を含む地域周辺に於て牧場があり飼育されていたと考えるのが妥当である。
3、甲斐の勅使牧(御牧)
甲斐、信濃、武蔵、上野に設けられた御牧は朝廷直轄の勅使牧である。延喜式によると牧には勅使牧の他に近都牧、諸国牛馬牧の三種に区別され、勅使牧は近都牧と同様左右馬寮の所管である。
『延喜式』…醍醐天皇の勅を受けた藤原時平(時平死後弟忠平が任を得る、紀長谷雄、三浦清行らが延喜5年(905)年に着手して32年後の延長5年(927)に完成して康保四年(967)に施行となる
甲斐の三御牧とは穂坂牧-現在の韮崎市穂坂周辺、柏前牧-現在の高根町念場ケ原周辺、真衣野牧-現在の武川村周辺とするのが定説になっている比定地になっているが、長野県の望月牧ような牧柵(土を盛り上げた柵)などの遺構は見られず、残された字地名も少ない。こうした比定は『国志』が基で、後世の歴史学者は未だにこの説から抜け出せないでいる。
雄略天皇13年に見られるように、甲斐の馬は当時既に良馬として認識されていたが、甲斐三御牧のうち穂坂牧から天皇に献上する御馬の文献に見える初見は天長6年(829)のことなので、既に360年経過している。真衣野と柏前牧は一緒の貢馬が多く見られるがそれに言及する研究者はいない。一般的には牧が近接していることが考えられるが、定説の武川村牧ノ原の真衣野牧と高根町の樫山、念場ケ原に否定される柏前牧は相当の距離がある。比定地定説のうち穂坂牧(一部?)は現在の韮崎市穂坂で間違いないと思われ、これは数多くの歌に詠まれている。しかし柏前牧と真衣野牧についてはその所在は不詳であり、高根町と武川村に比定する資料は見えない。『国志』の説明も中央文献以外抽象的でしかも真衣野牧の歌は間違って掲載されている。真衣野牧と柏前牧の貢馬の文献初見は承平6年(936)で穂坂牧から遅れること170年経過してのことである。
貢馬される馬は毎年国司か牧監が牧に赴き牧馬に検印して牧帳に記し、満四才以上の貢上用の上質のものを選び。10ケ月間調教して明年8月に貢上する。貢上される馬以外は駅馬や伝馬に充てる。貢上のために京に進めることを駒牽といい、駒牽の日時は穂坂牧は8月17日、真衣野。柏前両牧は8月7日と定められた。
貢馬された御馬は天皇が出席して駒牽の行事が行なわれる。御牧で飼育養育された御馬は天皇と多くの役人の前で駒牽され、その後それぞれの部署や官人に分け与えられる。
貢馬に関連して興味深い記事がある。それは『日本書紀』の推古天皇6年4月に甲斐国より「黒身ニシテ白髭尾ナリ云々」とあり、『聖徳太子伝略』には推古天皇6年(597)4月に「甲斐国より馬が貢上された。黒身で四脚は白毛であった。太子はこの馬を舎人調子麿に命じて飼育させ秋9月に太子はその黒駒に乗り富士山の頂上に登り、それより信濃のに到った云々」とある。この話は後世に於て黒駒の牧場の所在地の根拠や地名比定及び神社仏閣の由緒に利用されている。『聖徳太子伝略』の真偽はともかく甲斐の黒駒のその速さは中央では有名であったことである。
天武天皇元年(672)には壬申の乱が起きた。この時将軍大伴連吹負の配下甲斐の勇者(名称不詳)が大海人皇子軍に参戦し、活躍している。大伴連吹負は『古代豪族系図集覧』によれば大伴武日-武持-佐彦-山前-金村の子で、金村には甲斐国山梨評山前邑出身の磐や任那救援将軍の狭手彦それに新羅征討将軍の昨などがいて、吹負はこの昨の子とある。
また金村を祖とする磐の一族には山梨郡少領、主帳、八代郡大領など輩出している名門である。
天平9年(737)には甲斐国御馬部領使、山梨郡散事小長谷部麻佐が駿河国六郡で食料の官給を受けた旨が記されている。 (『正倉院文書、天平10年駿河正税帳』による』)(『古代豪族系図集覧』によれば小長谷部麻佐は甲斐国造の塩海宿禰を祖とする壬生倉毘古の子) 天長4年(827)には太政官符に「甲斐国ニ牧監ヲ置クノ事」の事としてこの当時甲斐の御牧の馬の数は千余匹であると記している。
さてここまで甲斐の駒や御牧と北巨摩地域との関連はみえない。武川村の牧ノ原(牧野原)と真衣野の語句類似と真衣郷(比定地不明)結びつけてあたかも古代御牧の一つが現在の武川村牧ノ原に所在したと言う定説はうなづけない。牧ノ原の地名は古代ではなく中世以降の可能性もあり、真衣郷を武川村周辺に比定しているがこれさえ何等根拠のあるものではない。
こうした説は『国志』から始まる。それは
「真衣、萬木乃と訓す。又用真木野字古牧馬所今有牧ノ原、又伴余戸惣名武川は淳川なり。云々」。
『国志』の記載内容は当時としてはよく調べてある。しかし盲信することは危険である。『国志』以前や以後の文献資料を照らし合わせてその結果『国志』の記載と附合符合すれば概ね正しいと思われるが、『国志』一書の記載を持って真実とは言えない。甲斐の歴史を探究する者が『国志』から抜け出せないのは情けない話である。
「まき」「まきの」「まき」の地名は甲斐の他地域にも存在した。同じ『国志』に栗原筋の馬木荘、現在の牧丘町に残る牧の地名、櫛形町の残る地名牧野、甲斐に近接した神奈川県の牧野(『国志』-相模古郷皆云有牛馬之牧)もある。その他にも御坂町に見られる黒駒地名や「駒」に関連する地名も多い。
甲斐には間違いなく三御牧は存在した。中央側に残された資料から解かれたもので資料はその所在地域を限定していない。御牧跡地を示す遺跡の少なさが地名比定の困難を生む要因である。これは山梨県だけではなく全国的な様相である。隣の長野県には有名で最後まで貢馬をした望月の牧がある。長野県には十七御牧があったがその所在地にとなると不明の牧も多い。古墳から出土する馬具などから四世紀後半には乗馬の風習があったと推察できる。
1、甲斐古代牧の謎
山梨県の歴史は古代から語り継がれていたものは少なく、後に中央に残された断片的な資料を基にした研究によるものである。歴史資料はその研究者の生きた時代背景や政治体制によって大きく内容が異なっている。戦時中などは国や主君の為に自らの命を捧げる人物がもてはやされた。近代の戦時中には甲斐の名将武田信玄などは親を離反した者として逆賊として扱っている書物もある。逆に主君の為に命を捧げた馬場美濃守信房は戦うもの手本として扱われている。
私の住む峡北地方は古代からの歴史豊かな地であり、それは縄文、弥生、古墳、古代、中世と大地に刻まれている。しかしそれを伝える歴史資料や遺跡それに遺構は少なく、発見や発掘されても確かな資料にはなっていない。また不明の時代も長く後世の研究者が私説を交えて定説としている事項についても不確かな部分を多く抱えている。
一般の人々の歴史観は研究者の伝える書よりテレビドラマや小説などに大きく影響を受け、それを歴史事実と捉えてしまうものである。歴史小説などは書く人が主人公を誰にするかで善人も悪人になる。逆の場合も多く見られるものである。
甲斐の国と深い関わりも持ち、祖先が武川村の出身の柳沢吉保などは時の徳川家光将軍の中核をなした人物なのに講談や小説などで悪役として扱われて以来、現在でも評価が低く、龍王町篠原出身とされる国学者山懸大弐なども国に背いた人物として地域の懸命な継承努力にも関わらず県内全般に於てはこれまた評価が低い。市川団十郎などは父親が今の千葉県市川の出身とも言われている中で、「団十郎の祖先は武田家の家臣堀越重蔵で後に江戸に出て団十郎が生まれ、故郷の市川を名乗るとなる。団十郎の出身地とする三珠町には歌舞伎記念館が建ち地域案内書や報道は史実の様に伝える。
あの松尾芭蕉が師と仰ぐ山口素堂などは甲斐国志編纂者の説を後生大事に守り、歪めた素堂像を今も伝える。筆者は素堂に関する新たな史実を次から次へと提示してきたが、研究者は見向きもしない。一度できあがった定説は覆す事は難しいもので、真実は明確に違っているにも関わらずである。中高年になると歴史が身近になり、研究に手を染めたり色々な勉強会や見学会に参加する人々が増えてくる。しかし『国志』や研究者の歴史書から出発すると本当の歴史は見えてこないものである。何事も探究しようと志したら自らの足で稼ぐことが肝要である。歴史学者の書した文献はあくまでも参考資料として扱うべきであり、市町村の歴史の部や遺跡報告などは難しすぎてほとんどの家庭で開かれずに眠っている。
歴史は広角度の調査が必要なのである。山梨県郡内地方の宮下家に残存する『宮下文書』などは歴史学者は偽書扱いで見向きもしない傾向にある。一方同様(?)な書に『甲陽軍艦』がある。こちらは研究者はその内容を部分的には否定しながら結局は引用して展開している。偽書扱いの書にも真実が見え隠れするもので全面否定は戴けない。『宮下文書』は甲斐の古代それも富士周辺の古代には研究資料として欠かせない内容で一読に値する。歴史を志す者は歴史書を色分けすることなく読んでみることが大切なのである。
さて今回は北巨摩地域の古代歴史の中で最も文献資料が充実している-北巨摩の古代勅使御牧(官牧)-の存在について資料を基にした調査結果を述べてみたい。これまでの定説が正しいかどうかは読者に判断を委ねたい。(諸著参考)
2、甲斐の黒駒
古代巨麻郡は現在北巨摩、南巨摩、中巨摩に継承され、古代の巨麻郡は甲府地域の一部を含む広大な地域であった。この巨麻(巨摩)地域に古代の天皇の直轄の御牧があり、全国では甲斐(3カ所)
信濃(17カ所)
武蔵(4カ所)
上野(9カ所)
毎年献上する貢馬(くめ)数は、
甲斐国60匹(柏前牧・真衣野牧30、穂坂牧30)、
信濃国(80匹)
武蔵国(50匹)
上野国(50匹)
である。単純に一御牧の貢馬数は、信濃1牧あたり4、7匹。武蔵は12、5匹。上野は五、六匹。甲斐は20匹と1御牧あたりの貢馬数は他を圧倒する多さである。それだけ1御牧の飼育地域も広大で養育の技術も充実していたことになる。後に述べるが勅使牧の運営が如何に膨大な人力と財力それに広大な適地を要したかは歴史書は紹介していない。 甲斐の駒はその始め「甲斐の黒駒」と呼ばれ、中央に於ても特に有名でそれを示す資料もある。日本書紀の雄略天皇13年(469)の項に《罪に問わた猪名部真根が処刑される寸前に赦免の勅命が下り死者が駿馬に乗り駆けつけ、あやうく命を救われた》との記載があり、その駿馬こそ甲斐の黒駒であったのである。
ぬば玉の甲斐の黒駒鞍きせば命しまなし甲斐の黒駒
古記が正しければ、雄略天皇13年(469)に既に甲斐の黒駒の知名度は中央に於て高かったことは、5世紀前半頃から他国を圧倒して甲斐に優秀な駒が産出されていたことを物語るものである。
雄略天皇9年(465)には河内国のにおいて換馬の伝説として「赤駿(あかこま)の騎れる者に逢う云々」とあり、この時代には既に中央に於て乗馬の習慣があったことが推察できる。
駒(馬)のことは神話にも登場していて『古事記』に須佐之男命(スサノウノミコト)が天照大御神(アマテラスオオミカミ)に対して「天の斑駒(ふちこま)を逆剥ぎに剥ぎて云々」とあるが、『魏志倭人伝』には「その地(倭)には牛馬虎豹羊鵲はいない」とあり、馬種については信濃国望月の大伴神社注進状に「須佐之男命が龍馬に乗り諸国を巡行して信濃国に到り、蒼生の往々住むべき処をご覧になって、これを経営し給いて乗り給える駒を遺置きて天下の駒の種とする云々」と見える。また牛馬は生け贄として神前に捧げるられる習慣もあった。月夜見尊は馬関係者の神として祀られていたり、主人に対して殉死の習慣もあり、後に埴馬として墳墓に供えられた。人が馬に乗る習慣は『古事記』に大国主命が手を鞍にかけ足を鐙にかけたとの記述が見え、『日本馬政史』には『筑後風土記』を引いて「天津神の時既に馬に乗りたることありにしや」とある。
山梨県内各地の古墳遺跡から埴馬や馬具などの副葬物が出土されている。古墳中には高価な副葬品も発見されているが、有数な古墳のほとんどが盗掘にあっている。また破壊され畑や宅地になってしまった古墳も数知れない。
古墳に祀られていた人物については史料がなく判明しない状況であるが、古墳の副葬品からは飼馬や乗馬の習慣があったことが理解できる。東八代郡中道町下曽根字石清水のかんかん塚(前期円墳)からは本県最古の馬具轡(くつわ)・鐙(あぶみ)が出土している。また山梨県最古の古墳東八代郡豊富村大鳥居の王塚古墳(前方後円墳)からは馬形埴輪が出土している。また『甲斐国志』には米倉山の土居原の塚から異常なる馬具を得たとある。
甲府市地塚町三丁目の加牟那塚古墳(円墳)からは馬形埴輪が出土している。甲斐の三御牧があったとされる北巨摩地方の古墳は少なく、従って馬具などの出土も少ない。五世紀に於ては北巨摩地方より、古墳が築かれた甲府盆地を中心とした周囲の丘陵地を含む地域周辺に於て牧場があり飼育されていたと考えるのが妥当である。
3、甲斐の勅使牧(御牧)
甲斐、信濃、武蔵、上野に設けられた御牧は朝廷直轄の勅使牧である。延喜式によると牧には勅使牧の他に近都牧、諸国牛馬牧の三種に区別され、勅使牧は近都牧と同様左右馬寮の所管である。
『延喜式』…醍醐天皇の勅を受けた藤原時平(時平死後弟忠平が任を得る、紀長谷雄、三浦清行らが延喜5年(905)年に着手して32年後の延長5年(927)に完成して康保四年(967)に施行となる
甲斐の三御牧とは穂坂牧-現在の韮崎市穂坂周辺、柏前牧-現在の高根町念場ケ原周辺、真衣野牧-現在の武川村周辺とするのが定説になっている比定地になっているが、長野県の望月牧ような牧柵(土を盛り上げた柵)などの遺構は見られず、残された字地名も少ない。こうした比定は『国志』が基で、後世の歴史学者は未だにこの説から抜け出せないでいる。
雄略天皇13年に見られるように、甲斐の馬は当時既に良馬として認識されていたが、甲斐三御牧のうち穂坂牧から天皇に献上する御馬の文献に見える初見は天長6年(829)のことなので、既に360年経過している。真衣野と柏前牧は一緒の貢馬が多く見られるがそれに言及する研究者はいない。一般的には牧が近接していることが考えられるが、定説の武川村牧ノ原の真衣野牧と高根町の樫山、念場ケ原に否定される柏前牧は相当の距離がある。比定地定説のうち穂坂牧(一部?)は現在の韮崎市穂坂で間違いないと思われ、これは数多くの歌に詠まれている。しかし柏前牧と真衣野牧についてはその所在は不詳であり、高根町と武川村に比定する資料は見えない。『国志』の説明も中央文献以外抽象的でしかも真衣野牧の歌は間違って掲載されている。真衣野牧と柏前牧の貢馬の文献初見は承平6年(936)で穂坂牧から遅れること170年経過してのことである。
貢馬される馬は毎年国司か牧監が牧に赴き牧馬に検印して牧帳に記し、満四才以上の貢上用の上質のものを選び。10ケ月間調教して明年8月に貢上する。貢上される馬以外は駅馬や伝馬に充てる。貢上のために京に進めることを駒牽といい、駒牽の日時は穂坂牧は8月17日、真衣野。柏前両牧は8月7日と定められた。
貢馬された御馬は天皇が出席して駒牽の行事が行なわれる。御牧で飼育養育された御馬は天皇と多くの役人の前で駒牽され、その後それぞれの部署や官人に分け与えられる。
貢馬に関連して興味深い記事がある。それは『日本書紀』の推古天皇6年4月に甲斐国より「黒身ニシテ白髭尾ナリ云々」とあり、『聖徳太子伝略』には推古天皇6年(597)4月に「甲斐国より馬が貢上された。黒身で四脚は白毛であった。太子はこの馬を舎人調子麿に命じて飼育させ秋9月に太子はその黒駒に乗り富士山の頂上に登り、それより信濃のに到った云々」とある。この話は後世に於て黒駒の牧場の所在地の根拠や地名比定及び神社仏閣の由緒に利用されている。『聖徳太子伝略』の真偽はともかく甲斐の黒駒のその速さは中央では有名であったことである。
天武天皇元年(672)には壬申の乱が起きた。この時将軍大伴連吹負の配下甲斐の勇者(名称不詳)が大海人皇子軍に参戦し、活躍している。大伴連吹負は『古代豪族系図集覧』によれば大伴武日-武持-佐彦-山前-金村の子で、金村には甲斐国山梨評山前邑出身の磐や任那救援将軍の狭手彦それに新羅征討将軍の昨などがいて、吹負はこの昨の子とある。
また金村を祖とする磐の一族には山梨郡少領、主帳、八代郡大領など輩出している名門である。
天平9年(737)には甲斐国御馬部領使、山梨郡散事小長谷部麻佐が駿河国六郡で食料の官給を受けた旨が記されている。 (『正倉院文書、天平10年駿河正税帳』による』)(『古代豪族系図集覧』によれば小長谷部麻佐は甲斐国造の塩海宿禰を祖とする壬生倉毘古の子) 天長4年(827)には太政官符に「甲斐国ニ牧監ヲ置クノ事」の事としてこの当時甲斐の御牧の馬の数は千余匹であると記している。
さてここまで甲斐の駒や御牧と北巨摩地域との関連はみえない。武川村の牧ノ原(牧野原)と真衣野の語句類似と真衣郷(比定地不明)結びつけてあたかも古代御牧の一つが現在の武川村牧ノ原に所在したと言う定説はうなづけない。牧ノ原の地名は古代ではなく中世以降の可能性もあり、真衣郷を武川村周辺に比定しているがこれさえ何等根拠のあるものではない。
こうした説は『国志』から始まる。それは
「真衣、萬木乃と訓す。又用真木野字古牧馬所今有牧ノ原、又伴余戸惣名武川は淳川なり。云々」。
『国志』の記載内容は当時としてはよく調べてある。しかし盲信することは危険である。『国志』以前や以後の文献資料を照らし合わせてその結果『国志』の記載と附合符合すれば概ね正しいと思われるが、『国志』一書の記載を持って真実とは言えない。甲斐の歴史を探究する者が『国志』から抜け出せないのは情けない話である。
「まき」「まきの」「まき」の地名は甲斐の他地域にも存在した。同じ『国志』に栗原筋の馬木荘、現在の牧丘町に残る牧の地名、櫛形町の残る地名牧野、甲斐に近接した神奈川県の牧野(『国志』-相模古郷皆云有牛馬之牧)もある。その他にも御坂町に見られる黒駒地名や「駒」に関連する地名も多い。
甲斐には間違いなく三御牧は存在した。中央側に残された資料から解かれたもので資料はその所在地域を限定していない。御牧跡地を示す遺跡の少なさが地名比定の困難を生む要因である。これは山梨県だけではなく全国的な様相である。隣の長野県には有名で最後まで貢馬をした望月の牧がある。長野県には十七御牧があったがその所在地にとなると不明の牧も多い。古墳から出土する馬具などから四世紀後半には乗馬の風習があったと推察できる。
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山梨 古代歴史講座 北巨摩の古代御牧 総論
山梨 古代歴史講座 北巨摩の古代御牧 総論
1、甲斐古代牧の謎
山梨県の歴史は古代から語り継がれていたものは少なく、後に中央に残された断片的な資料を基にした研究によるものである。歴史資料はその研究者の生きた時代背景や政治体制によって大きく内容が異なっている。戦時中などは国や主君の為に自らの命を捧げる人物がもてはやされた。近代の戦時中には甲斐の名将武田信玄などは親を離反した者として逆賊として扱っている書物もある。逆に主君の為に命を捧げた馬場美濃守信房は戦うもの手本として扱われている。
私の住む峡北地方は古代からの歴史豊かな地であり、それは縄文、弥生、古墳、古代、中世と大地に刻まれている。しかしそれを伝える歴史資料や遺跡それに遺構は少なく、発見や発掘されても確かな資料にはなっていない。また不明の時代も長く後世の研究者が私説を交えて定説としている事項についても不確かな部分を多く抱えている。
一般の人々の歴史観は研究者の伝える書よりテレビドラマや小説などに大きく影響を受け、それを歴史事実と捉えてしまうものである。歴史小説などは書く人が主人公を誰にするかで善人も悪人になる。逆の場合も多く見られるものである。
甲斐の国と深い関わりも持ち、祖先が武川村の出身の柳沢吉保などは時の徳川綱吉将軍の中核をなした人物なのに講談や小説などで悪役として扱われて以来、現在でも評価が低く、龍王町篠原出身とされる国学者山懸大弐なども国に背いた人物として地域の懸命な継承努力にも関わらず県内全般に於てはこれまた評価が低い。市川団十郎などは父親が今の千葉県市川の出身とも言われている中で、「団十郎の祖先は武田家の家臣堀越重蔵で後に江戸に出て団十郎が生まれ、故郷の市川を名乗るとなる。団十郎の出身地とする三珠町には歌舞伎記念館が建ち地域案内書や報道は史実の様に伝える。
あの松尾芭蕉が師と仰ぐ山口素堂などは甲斐国志編纂者の説を後生大事に守り、歪めた素堂像を今も伝える。筆者は素堂に関する新たな史実を次から次へと提示してきたが、研究者は見向きもしない。一度できあがった定説は覆す事は難しいもので、真実は明確に違っているにも関わらずである。中高年になると歴史が身近になり、研究に手を染めたり色々な勉強会や見学会に参加する人々が増えてくる。しかし『国志』や研究者の歴史書から出発すると本当の歴史は見えてこないものである。何事も探究しようと志したら自らの足で稼ぐことが肝要である。歴史学者の書した文献はあくまでも参考資料として扱うべきであり、市町村の歴史の部や遺跡報告などは難しすぎてほとんどの家庭で開かれずに眠っている。
歴史は広角度の調査が必要なのである。山梨県郡内地方の宮下家に残存する『宮下文書』などは歴史学者は偽書扱いで見向きもしない傾向にある。一方同様(?)な書に『甲陽軍艦』がある。こちらは研究者はその内容を部分的には否定しながら結局は引用して展開している。偽書扱いの書にも真実が見え隠れするもので全面否定は戴けない。『宮下文書』は甲斐の古代それも富士周辺の古代には研究資料として欠かせない内容で一読に値する。歴史を志す者は歴史書を色分けすることなく読んでみることが大切なのである。
さて今回は北巨摩地域の古代歴史の中で最も文献資料が充実している-北巨摩の古代勅使御牧(官牧)-の存在について資料を基にした調査結果を述べてみたい。これまでの定説が正しいかどうかは読者に判断を委ねたい。(諸著参考)
2、甲斐の黒駒
古代巨麻郡は現在北巨摩、南巨摩、中巨摩に継承され、古代の巨麻郡は甲府地域の一部を含む広大な地域であった。この巨麻(巨摩)地域に古代の天皇の直轄の御牧があり、全国では甲斐(3カ所)
信濃(17カ所)
武蔵(4カ所)
上野(9カ所)
毎年献上する貢馬(くめ)数は、
甲斐国60匹(柏前牧・真衣野牧30、穂坂牧30)、
信濃国(80匹)
武蔵国(50匹)
上野国(50匹)
である。単純に一御牧の貢馬数は、信濃1牧あたり4、7匹。武蔵は12、5匹。上野は五、六匹。甲斐は20匹と1御牧あたりの貢馬数は他を圧倒する多さである。それだけ1御牧の飼育地域も広大で養育の技術も充実していたことになる。後に述べるが勅使牧の運営が如何に膨大な人力と財力それに広大な適地を要したかは歴史書は紹介していない。 甲斐の駒はその始め「甲斐の黒駒」と呼ばれ、中央に於ても特に有名でそれを示す資料もある。日本書紀の雄略天皇13年(469)の項に《罪に問わた猪名部真根が処刑される寸前に赦免の勅命が下り死者が駿馬に乗り駆けつけ、あやうく命を救われた》との記載があり、その駿馬こそ甲斐の黒駒であったのである。
ぬば玉の甲斐の黒駒鞍きせば命しまなし甲斐の黒駒
古記が正しければ、雄略天皇13年(469)に既に甲斐の黒駒の知名度は中央に於て高かったことは、5世紀前半頃から他国を圧倒して甲斐に優秀な駒が産出されていたことを物語るものである。
雄略天皇9年(465)には河内国のにおいて換馬の伝説として「赤駿(あかこま)の騎れる者に逢う云々」とあり、この時代には既に中央に於て乗馬の習慣があったことが推察できる。
駒(馬)のことは神話にも登場していて『古事記』に須佐之男命(スサノウノミコト)が天照大御神(アマテラスオオミカミ)に対して「天の斑駒(ふちこま)を逆剥ぎに剥ぎて云々」とあるが、『魏志倭人伝』には「その地(倭)には牛馬虎豹羊鵲はいない」とあり、馬種については信濃国望月の大伴神社注進状に「須佐之男命が龍馬に乗り諸国を巡行して信濃国に到り、蒼生の往々住むべき処をご覧になって、これを経営し給いて乗り給える駒を遺置きて天下の駒の種とする云々」と見える。また牛馬は生け贄として神前に捧げるられる習慣もあった。月夜見尊は馬関係者の神として祀られていたり、主人に対して殉死の習慣もあり、後に埴馬として墳墓に供えられた。人が馬に乗る習慣は『古事記』に大国主命が手を鞍にかけ足を鐙にかけたとの記述が見え、『日本馬政史』には『筑後風土記』を引いて「天津神の時既に馬に乗りたることありにしや」とある。
山梨県内各地の古墳遺跡から埴馬や馬具などの副葬物が出土されている。古墳中には高価な副葬品も発見されているが、有数な古墳のほとんどが盗掘にあっている。また破壊され畑や宅地になってしまった古墳も数知れない。
古墳に祀られていた人物については史料がなく判明しない状況であるが、古墳の副葬品からは飼馬や乗馬の習慣があったことが理解できる。東八代郡中道町下曽根字石清水のかんかん塚(前期円墳)からは本県最古の馬具轡(くつわ)・鐙(あぶみ)が出土している。また山梨県最古の古墳東八代郡豊富村大鳥居の王塚古墳(前方後円墳)からは馬形埴輪が出土している。また『甲斐国志』には米倉山の土居原の塚から異常なる馬具を得たとある。
甲府市地塚町三丁目の加牟那塚古墳(円墳)からは馬形埴輪が出土している。甲斐の三御牧があったとされる北巨摩地方の古墳は少なく、従って馬具などの出土も少ない。五世紀に於ては北巨摩地方より、古墳が築かれた甲府盆地を中心とした周囲の丘陵地を含む地域周辺に於て牧場があり飼育されていたと考えるのが妥当である。
3、甲斐の勅使牧(御牧)
甲斐、信濃、武蔵、上野に設けられた御牧は朝廷直轄の勅使牧である。延喜式によると牧には勅使牧の他に近都牧、諸国牛馬牧の三種に区別され、勅使牧は近都牧と同様左右馬寮の所管である。
『延喜式』…醍醐天皇の勅を受けた藤原時平(時平死後弟忠平が任を得る、紀長谷雄、三浦清行らが延喜5年(905)年に着手して32年後の延長5年(927)に完成して康保四年(967)に施行となる
甲斐の三御牧とは穂坂牧-現在の韮崎市穂坂周辺、柏前牧-現在の高根町念場ケ原周辺、真衣野牧-現在の武川村周辺とするのが定説になっている比定地になっているが、長野県の望月牧ような牧柵(土を盛り上げた柵)などの遺構は見られず、残された字地名も少ない。こうした比定は『国志』が基で、後世の歴史学者は未だにこの説から抜け出せないでいる。
雄略天皇13年に見られるように、甲斐の馬は当時既に良馬として認識されていたが、甲斐三御牧のうち穂坂牧から天皇に献上する御馬の文献に見える初見は天長6年(829)のことなので、既に360年経過している。真衣野と柏前牧は一緒の貢馬が多く見られるがそれに言及する研究者はいない。一般的には牧が近接していることが考えられるが、定説の武川村牧ノ原の真衣野牧と高根町の樫山、念場ケ原に否定される柏前牧は相当の距離がある。比定地定説のうち穂坂牧(一部?)は現在の韮崎市穂坂で間違いないと思われ、これは数多くの歌に詠まれている。しかし柏前牧と真衣野牧についてはその所在は不詳であり、高根町と武川村に比定する資料は見えない。『国志』の説明も中央文献以外抽象的でしかも真衣野牧の歌は間違って掲載されている。真衣野牧と柏前牧の貢馬の文献初見は承平6年(936)で穂坂牧から遅れること170年経過してのことである。
貢馬される馬は毎年国司か牧監が牧に赴き牧馬に検印して牧帳に記し、満四才以上の貢上用の上質のものを選び。10ケ月間調教して明年8月に貢上する。貢上される馬以外は駅馬や伝馬に充てる。貢上のために京に進めることを駒牽といい、駒牽の日時は穂坂牧は8月17日、真衣野。柏前両牧は8月7日と定められた。
貢馬された御馬は天皇が出席して駒牽の行事が行なわれる。御牧で飼育養育された御馬は天皇と多くの役人の前で駒牽され、その後それぞれの部署や官人に分け与えられる。
貢馬に関連して興味深い記事がある。それは『日本書紀』の推古天皇6年4月に甲斐国より「黒身ニシテ白髭尾ナリ云々」とあり、『聖徳太子伝略』には推古天皇6年(597)4月に「甲斐国より馬が貢上された。黒身で四脚は白毛であった。太子はこの馬を舎人調子麿に命じて飼育させ秋9月に太子はその黒駒に乗り富士山の頂上に登り、それより信濃のに到った云々」とある。この話は後世に於て黒駒の牧場の所在地の根拠や地名比定及び神社仏閣の由緒に利用されている。『聖徳太子伝略』の真偽はともかく甲斐の黒駒のその速さは中央では有名であったことである。
天武天皇元年(672)には壬申の乱が起きた。この時将軍大伴連吹負の配下甲斐の勇者(名称不詳)が大海人皇子軍に参戦し、活躍している。大伴連吹負は『古代豪族系図集覧』によれば大伴武日-武持-佐彦-山前-金村の子で、金村には甲斐国山梨評山前邑出身の磐や任那救援将軍の狭手彦それに新羅征討将軍の昨などがいて、吹負はこの昨の子とある。
また金村を祖とする磐の一族には山梨郡少領、主帳、八代郡大領など輩出している名門である。
天平9年(737)には甲斐国御馬部領使、山梨郡散事小長谷部麻佐が駿河国六郡で食料の官給を受けた旨が記されている。 (『正倉院文書、天平10年駿河正税帳』による』)(『古代豪族系図集覧』によれば小長谷部麻佐は甲斐国造の塩海宿禰を祖とする壬生倉毘古の子) 天長4年(827)には太政官符に「甲斐国ニ牧監ヲ置クノ事」の事としてこの当時甲斐の御牧の馬の数は千余匹であると記している。
さてここまで甲斐の駒や御牧と北巨摩地域との関連はみえない。武川村の牧ノ原(牧野原)と真衣野の語句類似と真衣郷(比定地不明)結びつけてあたかも古代御牧の一つが現在の武川村牧ノ原に所在したと言う定説はうなづけない。牧ノ原の地名は古代ではなく中世以降の可能性もあり、真衣郷を武川村周辺に比定しているがこれさえ何等根拠のあるものではない。
こうした説は『国志』から始まる。それは
「真衣、萬木乃と訓す。又用真木野字古牧馬所今有牧ノ原、又伴余戸惣名武川は淳川なり。云々」。
『国志』の記載内容は当時としてはよく調べてある。しかし盲信することは危険である。『国志』以前や以後の文献資料を照らし合わせてその結果『国志』の記載と附合符合すれば概ね正しいと思われるが、『国志』一書の記載を持って真実とは言えない。甲斐の歴史を探究する者が『国志』から抜け出せないのは情けない話である。
「まき」「まきの」「まき」の地名は甲斐の他地域にも存在した。同じ『国志』に栗原筋の馬木荘、現在の牧丘町に残る牧の地名、櫛形町の残る地名牧野、甲斐に近接した神奈川県の牧野(『国志』-相模古郷皆云有牛馬之牧)もある。その他にも御坂町に見られる黒駒地名や「駒」に関連する地名も多い。
甲斐には間違いなく三御牧は存在した。中央側に残された資料から解かれたもので資料はその所在地域を限定していない。御牧跡地を示す遺跡の少なさが地名比定の困難を生む要因である。これは山梨県だけではなく全国的な様相である。隣の長野県には有名で最後まで貢馬をした望月の牧がある。長野県には十七御牧があったがその所在地にとなると不明の牧も多い。古墳から出土する馬具などから四世紀後半には乗馬の風習があったと推察できる。
1、甲斐古代牧の謎
山梨県の歴史は古代から語り継がれていたものは少なく、後に中央に残された断片的な資料を基にした研究によるものである。歴史資料はその研究者の生きた時代背景や政治体制によって大きく内容が異なっている。戦時中などは国や主君の為に自らの命を捧げる人物がもてはやされた。近代の戦時中には甲斐の名将武田信玄などは親を離反した者として逆賊として扱っている書物もある。逆に主君の為に命を捧げた馬場美濃守信房は戦うもの手本として扱われている。
私の住む峡北地方は古代からの歴史豊かな地であり、それは縄文、弥生、古墳、古代、中世と大地に刻まれている。しかしそれを伝える歴史資料や遺跡それに遺構は少なく、発見や発掘されても確かな資料にはなっていない。また不明の時代も長く後世の研究者が私説を交えて定説としている事項についても不確かな部分を多く抱えている。
一般の人々の歴史観は研究者の伝える書よりテレビドラマや小説などに大きく影響を受け、それを歴史事実と捉えてしまうものである。歴史小説などは書く人が主人公を誰にするかで善人も悪人になる。逆の場合も多く見られるものである。
甲斐の国と深い関わりも持ち、祖先が武川村の出身の柳沢吉保などは時の徳川綱吉将軍の中核をなした人物なのに講談や小説などで悪役として扱われて以来、現在でも評価が低く、龍王町篠原出身とされる国学者山懸大弐なども国に背いた人物として地域の懸命な継承努力にも関わらず県内全般に於てはこれまた評価が低い。市川団十郎などは父親が今の千葉県市川の出身とも言われている中で、「団十郎の祖先は武田家の家臣堀越重蔵で後に江戸に出て団十郎が生まれ、故郷の市川を名乗るとなる。団十郎の出身地とする三珠町には歌舞伎記念館が建ち地域案内書や報道は史実の様に伝える。
あの松尾芭蕉が師と仰ぐ山口素堂などは甲斐国志編纂者の説を後生大事に守り、歪めた素堂像を今も伝える。筆者は素堂に関する新たな史実を次から次へと提示してきたが、研究者は見向きもしない。一度できあがった定説は覆す事は難しいもので、真実は明確に違っているにも関わらずである。中高年になると歴史が身近になり、研究に手を染めたり色々な勉強会や見学会に参加する人々が増えてくる。しかし『国志』や研究者の歴史書から出発すると本当の歴史は見えてこないものである。何事も探究しようと志したら自らの足で稼ぐことが肝要である。歴史学者の書した文献はあくまでも参考資料として扱うべきであり、市町村の歴史の部や遺跡報告などは難しすぎてほとんどの家庭で開かれずに眠っている。
歴史は広角度の調査が必要なのである。山梨県郡内地方の宮下家に残存する『宮下文書』などは歴史学者は偽書扱いで見向きもしない傾向にある。一方同様(?)な書に『甲陽軍艦』がある。こちらは研究者はその内容を部分的には否定しながら結局は引用して展開している。偽書扱いの書にも真実が見え隠れするもので全面否定は戴けない。『宮下文書』は甲斐の古代それも富士周辺の古代には研究資料として欠かせない内容で一読に値する。歴史を志す者は歴史書を色分けすることなく読んでみることが大切なのである。
さて今回は北巨摩地域の古代歴史の中で最も文献資料が充実している-北巨摩の古代勅使御牧(官牧)-の存在について資料を基にした調査結果を述べてみたい。これまでの定説が正しいかどうかは読者に判断を委ねたい。(諸著参考)
2、甲斐の黒駒
古代巨麻郡は現在北巨摩、南巨摩、中巨摩に継承され、古代の巨麻郡は甲府地域の一部を含む広大な地域であった。この巨麻(巨摩)地域に古代の天皇の直轄の御牧があり、全国では甲斐(3カ所)
信濃(17カ所)
武蔵(4カ所)
上野(9カ所)
毎年献上する貢馬(くめ)数は、
甲斐国60匹(柏前牧・真衣野牧30、穂坂牧30)、
信濃国(80匹)
武蔵国(50匹)
上野国(50匹)
である。単純に一御牧の貢馬数は、信濃1牧あたり4、7匹。武蔵は12、5匹。上野は五、六匹。甲斐は20匹と1御牧あたりの貢馬数は他を圧倒する多さである。それだけ1御牧の飼育地域も広大で養育の技術も充実していたことになる。後に述べるが勅使牧の運営が如何に膨大な人力と財力それに広大な適地を要したかは歴史書は紹介していない。 甲斐の駒はその始め「甲斐の黒駒」と呼ばれ、中央に於ても特に有名でそれを示す資料もある。日本書紀の雄略天皇13年(469)の項に《罪に問わた猪名部真根が処刑される寸前に赦免の勅命が下り死者が駿馬に乗り駆けつけ、あやうく命を救われた》との記載があり、その駿馬こそ甲斐の黒駒であったのである。
ぬば玉の甲斐の黒駒鞍きせば命しまなし甲斐の黒駒
古記が正しければ、雄略天皇13年(469)に既に甲斐の黒駒の知名度は中央に於て高かったことは、5世紀前半頃から他国を圧倒して甲斐に優秀な駒が産出されていたことを物語るものである。
雄略天皇9年(465)には河内国のにおいて換馬の伝説として「赤駿(あかこま)の騎れる者に逢う云々」とあり、この時代には既に中央に於て乗馬の習慣があったことが推察できる。
駒(馬)のことは神話にも登場していて『古事記』に須佐之男命(スサノウノミコト)が天照大御神(アマテラスオオミカミ)に対して「天の斑駒(ふちこま)を逆剥ぎに剥ぎて云々」とあるが、『魏志倭人伝』には「その地(倭)には牛馬虎豹羊鵲はいない」とあり、馬種については信濃国望月の大伴神社注進状に「須佐之男命が龍馬に乗り諸国を巡行して信濃国に到り、蒼生の往々住むべき処をご覧になって、これを経営し給いて乗り給える駒を遺置きて天下の駒の種とする云々」と見える。また牛馬は生け贄として神前に捧げるられる習慣もあった。月夜見尊は馬関係者の神として祀られていたり、主人に対して殉死の習慣もあり、後に埴馬として墳墓に供えられた。人が馬に乗る習慣は『古事記』に大国主命が手を鞍にかけ足を鐙にかけたとの記述が見え、『日本馬政史』には『筑後風土記』を引いて「天津神の時既に馬に乗りたることありにしや」とある。
山梨県内各地の古墳遺跡から埴馬や馬具などの副葬物が出土されている。古墳中には高価な副葬品も発見されているが、有数な古墳のほとんどが盗掘にあっている。また破壊され畑や宅地になってしまった古墳も数知れない。
古墳に祀られていた人物については史料がなく判明しない状況であるが、古墳の副葬品からは飼馬や乗馬の習慣があったことが理解できる。東八代郡中道町下曽根字石清水のかんかん塚(前期円墳)からは本県最古の馬具轡(くつわ)・鐙(あぶみ)が出土している。また山梨県最古の古墳東八代郡豊富村大鳥居の王塚古墳(前方後円墳)からは馬形埴輪が出土している。また『甲斐国志』には米倉山の土居原の塚から異常なる馬具を得たとある。
甲府市地塚町三丁目の加牟那塚古墳(円墳)からは馬形埴輪が出土している。甲斐の三御牧があったとされる北巨摩地方の古墳は少なく、従って馬具などの出土も少ない。五世紀に於ては北巨摩地方より、古墳が築かれた甲府盆地を中心とした周囲の丘陵地を含む地域周辺に於て牧場があり飼育されていたと考えるのが妥当である。
3、甲斐の勅使牧(御牧)
甲斐、信濃、武蔵、上野に設けられた御牧は朝廷直轄の勅使牧である。延喜式によると牧には勅使牧の他に近都牧、諸国牛馬牧の三種に区別され、勅使牧は近都牧と同様左右馬寮の所管である。
『延喜式』…醍醐天皇の勅を受けた藤原時平(時平死後弟忠平が任を得る、紀長谷雄、三浦清行らが延喜5年(905)年に着手して32年後の延長5年(927)に完成して康保四年(967)に施行となる
甲斐の三御牧とは穂坂牧-現在の韮崎市穂坂周辺、柏前牧-現在の高根町念場ケ原周辺、真衣野牧-現在の武川村周辺とするのが定説になっている比定地になっているが、長野県の望月牧ような牧柵(土を盛り上げた柵)などの遺構は見られず、残された字地名も少ない。こうした比定は『国志』が基で、後世の歴史学者は未だにこの説から抜け出せないでいる。
雄略天皇13年に見られるように、甲斐の馬は当時既に良馬として認識されていたが、甲斐三御牧のうち穂坂牧から天皇に献上する御馬の文献に見える初見は天長6年(829)のことなので、既に360年経過している。真衣野と柏前牧は一緒の貢馬が多く見られるがそれに言及する研究者はいない。一般的には牧が近接していることが考えられるが、定説の武川村牧ノ原の真衣野牧と高根町の樫山、念場ケ原に否定される柏前牧は相当の距離がある。比定地定説のうち穂坂牧(一部?)は現在の韮崎市穂坂で間違いないと思われ、これは数多くの歌に詠まれている。しかし柏前牧と真衣野牧についてはその所在は不詳であり、高根町と武川村に比定する資料は見えない。『国志』の説明も中央文献以外抽象的でしかも真衣野牧の歌は間違って掲載されている。真衣野牧と柏前牧の貢馬の文献初見は承平6年(936)で穂坂牧から遅れること170年経過してのことである。
貢馬される馬は毎年国司か牧監が牧に赴き牧馬に検印して牧帳に記し、満四才以上の貢上用の上質のものを選び。10ケ月間調教して明年8月に貢上する。貢上される馬以外は駅馬や伝馬に充てる。貢上のために京に進めることを駒牽といい、駒牽の日時は穂坂牧は8月17日、真衣野。柏前両牧は8月7日と定められた。
貢馬された御馬は天皇が出席して駒牽の行事が行なわれる。御牧で飼育養育された御馬は天皇と多くの役人の前で駒牽され、その後それぞれの部署や官人に分け与えられる。
貢馬に関連して興味深い記事がある。それは『日本書紀』の推古天皇6年4月に甲斐国より「黒身ニシテ白髭尾ナリ云々」とあり、『聖徳太子伝略』には推古天皇6年(597)4月に「甲斐国より馬が貢上された。黒身で四脚は白毛であった。太子はこの馬を舎人調子麿に命じて飼育させ秋9月に太子はその黒駒に乗り富士山の頂上に登り、それより信濃のに到った云々」とある。この話は後世に於て黒駒の牧場の所在地の根拠や地名比定及び神社仏閣の由緒に利用されている。『聖徳太子伝略』の真偽はともかく甲斐の黒駒のその速さは中央では有名であったことである。
天武天皇元年(672)には壬申の乱が起きた。この時将軍大伴連吹負の配下甲斐の勇者(名称不詳)が大海人皇子軍に参戦し、活躍している。大伴連吹負は『古代豪族系図集覧』によれば大伴武日-武持-佐彦-山前-金村の子で、金村には甲斐国山梨評山前邑出身の磐や任那救援将軍の狭手彦それに新羅征討将軍の昨などがいて、吹負はこの昨の子とある。
また金村を祖とする磐の一族には山梨郡少領、主帳、八代郡大領など輩出している名門である。
天平9年(737)には甲斐国御馬部領使、山梨郡散事小長谷部麻佐が駿河国六郡で食料の官給を受けた旨が記されている。 (『正倉院文書、天平10年駿河正税帳』による』)(『古代豪族系図集覧』によれば小長谷部麻佐は甲斐国造の塩海宿禰を祖とする壬生倉毘古の子) 天長4年(827)には太政官符に「甲斐国ニ牧監ヲ置クノ事」の事としてこの当時甲斐の御牧の馬の数は千余匹であると記している。
さてここまで甲斐の駒や御牧と北巨摩地域との関連はみえない。武川村の牧ノ原(牧野原)と真衣野の語句類似と真衣郷(比定地不明)結びつけてあたかも古代御牧の一つが現在の武川村牧ノ原に所在したと言う定説はうなづけない。牧ノ原の地名は古代ではなく中世以降の可能性もあり、真衣郷を武川村周辺に比定しているがこれさえ何等根拠のあるものではない。
こうした説は『国志』から始まる。それは
「真衣、萬木乃と訓す。又用真木野字古牧馬所今有牧ノ原、又伴余戸惣名武川は淳川なり。云々」。
『国志』の記載内容は当時としてはよく調べてある。しかし盲信することは危険である。『国志』以前や以後の文献資料を照らし合わせてその結果『国志』の記載と附合符合すれば概ね正しいと思われるが、『国志』一書の記載を持って真実とは言えない。甲斐の歴史を探究する者が『国志』から抜け出せないのは情けない話である。
「まき」「まきの」「まき」の地名は甲斐の他地域にも存在した。同じ『国志』に栗原筋の馬木荘、現在の牧丘町に残る牧の地名、櫛形町の残る地名牧野、甲斐に近接した神奈川県の牧野(『国志』-相模古郷皆云有牛馬之牧)もある。その他にも御坂町に見られる黒駒地名や「駒」に関連する地名も多い。
甲斐には間違いなく三御牧は存在した。中央側に残された資料から解かれたもので資料はその所在地域を限定していない。御牧跡地を示す遺跡の少なさが地名比定の困難を生む要因である。これは山梨県だけではなく全国的な様相である。隣の長野県には有名で最後まで貢馬をした望月の牧がある。長野県には十七御牧があったがその所在地にとなると不明の牧も多い。古墳から出土する馬具などから四世紀後半には乗馬の風習があったと推察できる。
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鵡川衆 米倉氏 江戸で大活躍
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常陸からやってきた甲斐源氏
歴史はただしく伝えることが大切である。
北杜歴史講座 常陸からやってきた甲斐源氏
甲斐源氏及び武田の発祥地は茨城武田郷だった。
はじめに
茨城県ひたちなか市の武田郷の調査に赴くこと4回を数える。最初は認識不足
や地理不知もあり、空回りして帰ってきた。昨年と今年は少量ではあるが旧勝田
市図書館で資料を得ることができた。昨年の時は結構資料があったように思われ
たが、合併のせいか本年は昨年の資料を見つけることができなかった。
完全なものではないが、資料優先で「甲斐源氏発祥の地」を綴ってみる。
また2回訪れた武田氏館には管理人のおばさんがいて、親切に案内してくれ、
「遠くからたいへんでしたね。どうぞ自由に見てください」とのこと。周囲は新
興住宅地で、行き着くまでの時間を浪費したがこの言葉で解消、山梨県の磯貝正
義氏の甲斐源氏資料が置いてあった。
余談ではあれるが、あの日本武尊もたしかに茨城県から忽然と甲斐の酒折に姿
をあらわしている。……新治筑波をすぎて……
1、資料名『常陸舊地考全二巻』
【武(竹)田】
甲斐の武田氏が著名、『新編常陸国誌』に…那珂郡武田郷に起こる。新羅三郎
義光の三子義清、刑部三郎と称し、はじめ那珂郡武田郷に居住して、武田冠者と
称し父義光の嗣たり…『佐竹系図』とみえ、次いで…子清光、大治5年(113
0)罪あり、その父子を甲斐に配し市川庄に置く。これによりて子孫永く甲斐の
人たり…そして多くの古文書、家伝書、家系図により天正19年に滅された行方
の武田氏に継げている。
義光-義清-伊沢五郎信光……岩崎五郎七郎信隆-信直(八代郡一宮)-
-信久(逃げて常陸に奔り行方武井に隠れる。-威信(結城七郎など五人
斬る。武井を武田に改める)
2、『新編常陸国誌』巻五 村落
【武田 多祁多】
東南は勝倉村、西は堀口村、北は大島外石川二村に接し、東西七町、南北十八
町余ありて、久保、猫山、の二組、中原の二坪を有す。
即倭名鈔、那珂郡武田の本郷にて、吉田社仁平元年(1151)文書に、吉田
郡云々武田荒野とあるもの是なり。中世大掾氏吉田の一族、此地に住して、武田
氏となる。或いは云、甲斐武田氏も亦この村より出つ、元禄十五年(1702)
の石高三百五十六石七斗九升九合。
【沼尾神社】
神体は衣冠の木像にて長一尺一寸六分あり、社領五斗九升九合。
3、『勝田市史』常陸国の成立
那珂郡の諸郷
『和名抄』
入野、朝妻、吉田、岡田、幡田、安賀、大井、河内、川辺、常石(ときは)
全隈(またくま)、日下部、志万(しま)、阿波、芳賀、石上、鹿島、茨城
洗井、那珂、八部、武田。
4、『勝田市史』のよる『新編常陸国誌』 武田郷の解説
倭名鈔云、武田按ずるに、今の武田村これなり、この村の北に菅谷村あり、其
地に不動院と云ふ密寺あり、武田山と号す。この辺凡武田郷なること押して知る
べし。倭名鈔及地図を按ずるに、この郷東は岡田郷に接し、西は河内郡に隣り、
南は那賀川の涯りて、志万郡に対し、北は久慈郡木前、美和両郡に堺を接して、
武田、勝倉、堀口、枝川、津田、市毛、菅谷、田彦、稲田等の九村、七千石ばか
りの地、皆古の武田郷なり。
古代の武田郷が、菅谷まで広がっていたとは思われない。『新編常陸国誌』が
菅谷の地を武田郷に入れたのは、菅谷に武田山不動院という真言宗の寺院がある
ので、武田山と武田 結びつけたのである。
しかし武田山不動院は最初から菅谷の建立さたのではない。『願行流血脈』
(がんぎょうりゅうけつみやく)によると、武田不動院は初め高場に建立され
のちに菅谷に移され、武田山不動院の名を嗣いだのである。
武田郷の中心は、現在家武田にあった。平安時代の仁平元年(1151)4月
8日の吉田郡倉員(くらかず)に宛てた「常陸国留守所下文」(くだしぶん)に
「早く御庁宣旨に任せ、武田荒野を領地せしむべき事」とある。「荒野;とすれ
ば現在の高野にあたる。また高場不動院が武田不動院とも呼ばれたのは、高場の
地が武田郷に属していたからである。
3、武田氏館(HP)
平安時代末に、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光は、常陸国へ進出を図ったが、
那賀川以南の地がすでに常陸平氏の支配下にあったため、長男の義業を久慈郡佐
竹郷(常陸太田市)に三男義清を那珂郡武田郷に配置し那賀川以北に勢力の扶植
をはかった。
義清は、眼下に那賀川を望む武田台地の突端に居館を構え、武田の郷名をとっ
て初めて武田氏と称し、武田冠者の名のった、この義清が甲斐国に配流となり、
甲斐源氏の祖となるのである。(看板資料より)
武田氏館案内
12世紀の初め、甲斐武田氏の先祖である源義清、清光父子がこの武田に館を
構え、初めて武田氏を称したことが、志田諄一茨城キリスト教大学教授の研究、
(勝田市史編纂事業)によって明らかになりました。市では私たちの郷土勝田市
が甲斐武田の発祥の地であることを記念し。市民の方々が郷土の歴史に対する理
解を深めるとともに、新しいふるさとづくりの拠りどころとなるよう「ふるさと
創生事」の一つとして武田氏館を建設しました。(看板資料より)
常陸の国司が申すには、清光という住人がでたらめで、乱暴をはたらき、争い
ごとなどを起こして困っているなどと訴えてきた。詳しいことは別紙「目録」に
記されている。
住人清光は、いうまでもなく武田冠者義清の子清光のことである。12世紀の
初めごろの武田郷周辺の地は、常陸平氏の吉田清幹・盛幹父子をはじめ、鹿島神
宮の中臣字などの在地勢力と、そこへ新たに武田の地へ居を構えた武田義清・清
光らの勢力が張り合っていた。勢力拡張をあせった義清・清光らの行為が、在地
勢力の反発を受け、清光「濫行」のゆえをもって告発された。とくに大治2年
(1127)年に、義光が去ってからは、義清・清光父子に対する抵抗が 一層
強まったことが考えられる。
義光没後の大治5年(1130)12月、常陸国司藤原朝臣盛輔らによって朝
廷に訴えられたのである。しかい清光濫行事件の子細を記した目録がないため、
その詳細を知ることができない。(看板資料より)
参考
源師時(みなもとのもろとき)の日記『長秋記』
大治五年十二月三十日の条
(略)常陸国住人 清光濫行事等也 子細目録見
参考
湫尾神社(ぬまおじんじゃ)
ひたちなか市武田に鎮座する旧郷社。
創建時は不明であるが、慶安元年(1648)再建されたと記録にあり、武田
郷の鎮守として武田大明神と尊称された。その後江戸時代に徳川光圀が神鏡を奉
納している。
『勝田市史』中世
1、鎌倉幕府の成立と吉田郷
一、 源義清と武田郷
佐竹氏の性格 常陸進出の野望
(略)佐竹氏の始祖である源義光は後三年の役のとき左兵衛尉という官職を捨
てて陸奥に下り、兄の義家を助けた。義光のそうした振舞いが、京都の当局者に
嫌悪されるところとなった。また京都においては兄の義家や義綱の勢威におさ
れ、みずからの力量を発揮することができず、そのために東国に勢力を扶植しよ
うとしたちいわれている。(略)
『今昔物語集』と「十訓抄」には、義光が院の近臣として権勢のあった六条顕
季と、東国の荘をめぐって所領争いをしたことが書かれている。その所領は「十
訓抄」によれば、常陸国多珂郡の国境に近い菊田庄であったといわれる。ここは
もともと顕季の領地であった。従って顕季に理があり、義光に非があることは明
らであったらしい。しかし、一向に白河法皇の裁定がないので、顕季は内心ひそ
かに法皇をうらめしく思っていたのである。ところがある日、顕季が御前に伺候
していると、法皇は顕季に対し、「この問題の理非はよくわかっているが、義光
はあの庄一か所に命をかけている。もし道理のままに裁定したら、無法者の武士
がなにをするかわからない。だからあの庄は義光に譲ってはどうか」と仰せられ
た。顕季は涙をのんで仰せにしたがい、義光を招いて事の次第を告げ、譲状を書
いて与えた。義光は大いに喜び、ただちに顕季に名簿を捧げて臣従を誓った。
それからしばらくたったある夜、顕季が伏見の鳥羽殿から、二、三人の雑色を
つれ京に向かったころ、鳥羽の作道のあたりから甲冑を帯びた武者五、六騎が車
の前後についてきたので、顕季はおそろしくなって、供の雑色に尋ねさせたころ
が、夜に供の人もなく退出されるので、刑部丞殿(義光)の命によって警衛して
いると答えた。顕季はいまさらながら、法皇の深いはからいに感謝したというの
である。
この説話の信憑性については、問題のあるところだが、義光やその子孫の常陸
進出については、常陸の豪族平重幹の子、常陸大掾致幹がかって義光らとともに
後三年の役に際して、義家の軍に参加したことや、義光が常陸介となって常陸国
に赴任したことお関係が深い。
『永昌記』によると嘉承元年(1106)六月、源義家の子の義国と義光が常
陸国で合戦をしたので、朝廷では、義光および平重幹らの党に対して東国の国司
に命じて、これを召進めさせたとあるので、義光は早くも常陸大掾氏と結ぶこと
によって、常陸の地に進出する野望を実現しようとしていたのである
北杜歴史講座 常陸からやってきた甲斐源氏
甲斐源氏及び武田の発祥地は茨城武田郷だった。
はじめに
茨城県ひたちなか市の武田郷の調査に赴くこと4回を数える。最初は認識不足
や地理不知もあり、空回りして帰ってきた。昨年と今年は少量ではあるが旧勝田
市図書館で資料を得ることができた。昨年の時は結構資料があったように思われ
たが、合併のせいか本年は昨年の資料を見つけることができなかった。
完全なものではないが、資料優先で「甲斐源氏発祥の地」を綴ってみる。
また2回訪れた武田氏館には管理人のおばさんがいて、親切に案内してくれ、
「遠くからたいへんでしたね。どうぞ自由に見てください」とのこと。周囲は新
興住宅地で、行き着くまでの時間を浪費したがこの言葉で解消、山梨県の磯貝正
義氏の甲斐源氏資料が置いてあった。
余談ではあれるが、あの日本武尊もたしかに茨城県から忽然と甲斐の酒折に姿
をあらわしている。……新治筑波をすぎて……
1、資料名『常陸舊地考全二巻』
【武(竹)田】
甲斐の武田氏が著名、『新編常陸国誌』に…那珂郡武田郷に起こる。新羅三郎
義光の三子義清、刑部三郎と称し、はじめ那珂郡武田郷に居住して、武田冠者と
称し父義光の嗣たり…『佐竹系図』とみえ、次いで…子清光、大治5年(113
0)罪あり、その父子を甲斐に配し市川庄に置く。これによりて子孫永く甲斐の
人たり…そして多くの古文書、家伝書、家系図により天正19年に滅された行方
の武田氏に継げている。
義光-義清-伊沢五郎信光……岩崎五郎七郎信隆-信直(八代郡一宮)-
-信久(逃げて常陸に奔り行方武井に隠れる。-威信(結城七郎など五人
斬る。武井を武田に改める)
2、『新編常陸国誌』巻五 村落
【武田 多祁多】
東南は勝倉村、西は堀口村、北は大島外石川二村に接し、東西七町、南北十八
町余ありて、久保、猫山、の二組、中原の二坪を有す。
即倭名鈔、那珂郡武田の本郷にて、吉田社仁平元年(1151)文書に、吉田
郡云々武田荒野とあるもの是なり。中世大掾氏吉田の一族、此地に住して、武田
氏となる。或いは云、甲斐武田氏も亦この村より出つ、元禄十五年(1702)
の石高三百五十六石七斗九升九合。
【沼尾神社】
神体は衣冠の木像にて長一尺一寸六分あり、社領五斗九升九合。
3、『勝田市史』常陸国の成立
那珂郡の諸郷
『和名抄』
入野、朝妻、吉田、岡田、幡田、安賀、大井、河内、川辺、常石(ときは)
全隈(またくま)、日下部、志万(しま)、阿波、芳賀、石上、鹿島、茨城
洗井、那珂、八部、武田。
4、『勝田市史』のよる『新編常陸国誌』 武田郷の解説
倭名鈔云、武田按ずるに、今の武田村これなり、この村の北に菅谷村あり、其
地に不動院と云ふ密寺あり、武田山と号す。この辺凡武田郷なること押して知る
べし。倭名鈔及地図を按ずるに、この郷東は岡田郷に接し、西は河内郡に隣り、
南は那賀川の涯りて、志万郡に対し、北は久慈郡木前、美和両郡に堺を接して、
武田、勝倉、堀口、枝川、津田、市毛、菅谷、田彦、稲田等の九村、七千石ばか
りの地、皆古の武田郷なり。
古代の武田郷が、菅谷まで広がっていたとは思われない。『新編常陸国誌』が
菅谷の地を武田郷に入れたのは、菅谷に武田山不動院という真言宗の寺院がある
ので、武田山と武田 結びつけたのである。
しかし武田山不動院は最初から菅谷の建立さたのではない。『願行流血脈』
(がんぎょうりゅうけつみやく)によると、武田不動院は初め高場に建立され
のちに菅谷に移され、武田山不動院の名を嗣いだのである。
武田郷の中心は、現在家武田にあった。平安時代の仁平元年(1151)4月
8日の吉田郡倉員(くらかず)に宛てた「常陸国留守所下文」(くだしぶん)に
「早く御庁宣旨に任せ、武田荒野を領地せしむべき事」とある。「荒野;とすれ
ば現在の高野にあたる。また高場不動院が武田不動院とも呼ばれたのは、高場の
地が武田郷に属していたからである。
3、武田氏館(HP)
平安時代末に、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光は、常陸国へ進出を図ったが、
那賀川以南の地がすでに常陸平氏の支配下にあったため、長男の義業を久慈郡佐
竹郷(常陸太田市)に三男義清を那珂郡武田郷に配置し那賀川以北に勢力の扶植
をはかった。
義清は、眼下に那賀川を望む武田台地の突端に居館を構え、武田の郷名をとっ
て初めて武田氏と称し、武田冠者の名のった、この義清が甲斐国に配流となり、
甲斐源氏の祖となるのである。(看板資料より)
武田氏館案内
12世紀の初め、甲斐武田氏の先祖である源義清、清光父子がこの武田に館を
構え、初めて武田氏を称したことが、志田諄一茨城キリスト教大学教授の研究、
(勝田市史編纂事業)によって明らかになりました。市では私たちの郷土勝田市
が甲斐武田の発祥の地であることを記念し。市民の方々が郷土の歴史に対する理
解を深めるとともに、新しいふるさとづくりの拠りどころとなるよう「ふるさと
創生事」の一つとして武田氏館を建設しました。(看板資料より)
常陸の国司が申すには、清光という住人がでたらめで、乱暴をはたらき、争い
ごとなどを起こして困っているなどと訴えてきた。詳しいことは別紙「目録」に
記されている。
住人清光は、いうまでもなく武田冠者義清の子清光のことである。12世紀の
初めごろの武田郷周辺の地は、常陸平氏の吉田清幹・盛幹父子をはじめ、鹿島神
宮の中臣字などの在地勢力と、そこへ新たに武田の地へ居を構えた武田義清・清
光らの勢力が張り合っていた。勢力拡張をあせった義清・清光らの行為が、在地
勢力の反発を受け、清光「濫行」のゆえをもって告発された。とくに大治2年
(1127)年に、義光が去ってからは、義清・清光父子に対する抵抗が 一層
強まったことが考えられる。
義光没後の大治5年(1130)12月、常陸国司藤原朝臣盛輔らによって朝
廷に訴えられたのである。しかい清光濫行事件の子細を記した目録がないため、
その詳細を知ることができない。(看板資料より)
参考
源師時(みなもとのもろとき)の日記『長秋記』
大治五年十二月三十日の条
(略)常陸国住人 清光濫行事等也 子細目録見
参考
湫尾神社(ぬまおじんじゃ)
ひたちなか市武田に鎮座する旧郷社。
創建時は不明であるが、慶安元年(1648)再建されたと記録にあり、武田
郷の鎮守として武田大明神と尊称された。その後江戸時代に徳川光圀が神鏡を奉
納している。
『勝田市史』中世
1、鎌倉幕府の成立と吉田郷
一、 源義清と武田郷
佐竹氏の性格 常陸進出の野望
(略)佐竹氏の始祖である源義光は後三年の役のとき左兵衛尉という官職を捨
てて陸奥に下り、兄の義家を助けた。義光のそうした振舞いが、京都の当局者に
嫌悪されるところとなった。また京都においては兄の義家や義綱の勢威におさ
れ、みずからの力量を発揮することができず、そのために東国に勢力を扶植しよ
うとしたちいわれている。(略)
『今昔物語集』と「十訓抄」には、義光が院の近臣として権勢のあった六条顕
季と、東国の荘をめぐって所領争いをしたことが書かれている。その所領は「十
訓抄」によれば、常陸国多珂郡の国境に近い菊田庄であったといわれる。ここは
もともと顕季の領地であった。従って顕季に理があり、義光に非があることは明
らであったらしい。しかし、一向に白河法皇の裁定がないので、顕季は内心ひそ
かに法皇をうらめしく思っていたのである。ところがある日、顕季が御前に伺候
していると、法皇は顕季に対し、「この問題の理非はよくわかっているが、義光
はあの庄一か所に命をかけている。もし道理のままに裁定したら、無法者の武士
がなにをするかわからない。だからあの庄は義光に譲ってはどうか」と仰せられ
た。顕季は涙をのんで仰せにしたがい、義光を招いて事の次第を告げ、譲状を書
いて与えた。義光は大いに喜び、ただちに顕季に名簿を捧げて臣従を誓った。
それからしばらくたったある夜、顕季が伏見の鳥羽殿から、二、三人の雑色を
つれ京に向かったころ、鳥羽の作道のあたりから甲冑を帯びた武者五、六騎が車
の前後についてきたので、顕季はおそろしくなって、供の雑色に尋ねさせたころ
が、夜に供の人もなく退出されるので、刑部丞殿(義光)の命によって警衛して
いると答えた。顕季はいまさらながら、法皇の深いはからいに感謝したというの
である。
この説話の信憑性については、問題のあるところだが、義光やその子孫の常陸
進出については、常陸の豪族平重幹の子、常陸大掾致幹がかって義光らとともに
後三年の役に際して、義家の軍に参加したことや、義光が常陸介となって常陸国
に赴任したことお関係が深い。
『永昌記』によると嘉承元年(1106)六月、源義家の子の義国と義光が常
陸国で合戦をしたので、朝廷では、義光および平重幹らの党に対して東国の国司
に命じて、これを召進めさせたとあるので、義光は早くも常陸大掾氏と結ぶこと
によって、常陸の地に進出する野望を実現しようとしていたのである
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北杜の歴史講座 甲斐源氏の実体
北杜の歴史講座甲斐源氏
北杜市や韮崎市は旧北巨摩に属し、数多い甲斐源氏の史蹟や伝承が多く存在する。
しかし確実な資料に裏づけされたものというと数少ないものしか確認できない。この
講座では旧説に惑わされずに確かな資料によって甲斐源氏の実体を綴ってみる。
氏 名 和 暦 出 典
藤原公季(甲斐公)
長元 2年 10月17日 1029 故太政大臣藤原公季を甲斐に封じ、甲斐
に封甲斐公となし仁義公とする。正一位。
(日本記略 後編14)
源頼信
安和 1年 968
源頼信生まれる。
長元 3年 9月 2日 1030
甲斐守源頼信及び坂東諸国司に命じて平忠常を討たせ、追討平直方を召還する。
(日本記略 後編14)
長元 4年 2月23日 1031
甲斐守源頼信、調庸使が流人藤原光清の使者を射殺した状を奉上する。
(日本記略 後編14)
長元 4年 4月28日 1031
平忠常、甲斐守源頼信に投降し、伴われて上京の途次美濃国で病没、頼信その首級を携えて入京する。(左経記)
長元 4年 6月27日 1031
朝廷、頼信の行賞と忠常の子常昌・常近の処分のことを議する。(左経記)
長元 4年 7月 1日 1031
頼信、忠常追討の賞として丹波守を望む。(小右記)
長元 4年 7月13日1031
頼信、右大臣藤原実資に物を贈る。(小右記)
長元 5年 2月 8日1031
平忠常の賞により甲斐守源頼信を美濃守に任する。(類聚符宣抄 第8)
永承 1年1046
河内守源頼信、石清水八幡宮に告文を捧げ、祖先並びに自己の勲功を述べて、子孫の繁栄を祈る。(類聚符宣抄 第8)
永承 3年1048 源頼義没。
源義光
寛徳 2年1045 歿。年八十二才。 諸説あり。
天喜 4年1056 歿。年七十一才。 諸説あり。 (甲斐国志)
永保 3年1083 義光、左兵衛尉。年三十九才。
(奥羽戦乱と東国源氏)
長兄の義家が後三年の役が陸奥国で苦戦、義光、援軍として上奉して暇乞をするが認められず、許可なく馳せる。
義光、時秋に足柄山にて笙を伝授する。
義光、陸奥国菊田荘(いわき市内)を押領を図る(修理太夫藤原顕季の所領)
明簿奉呈(家臣になる意思表示)をする。
義光受領、常陸介となる。現地に赴任し、大豪族大掾家の娘を嫡男義業の妻に迎え、佐竹郷に居を構える。
義光の勢力、佐竹郷を中心として、国内北東部一帯に定着する。
(奥羽戦乱と東国源氏)
康和 4年 2月 3日1102
刑部丞源義光、馬二疋を右大臣忠実に贈る。この時義光五十八才。
(殿暦……忠実の子忠通の日記) (殿暦・武川村誌)
新羅三郎。常陸・甲斐守。左衛門。刑部丞。平日住三井寺。
義光の子義業…吉田太郎清幹の娘を娶り、佐竹冠者昌義を設ける。
義光、義業を久慈川流域の佐竹郷に配置。
甲斐源氏の発祥
義光の子義清…常陸国吉田郡武田郷に住して武田冠者と呼ばれる。
義光、義清を那珂川北岸の武田郷に配置。
嘉承 1年 6月1106
源義家の子の義国と義光が常陸国で合戦。(永昌記)
大治 2年10月20日1127
源義光死去。(尊卑分脈・大聖寺過去帳)
義光の所領は常陸国多可郡の国境に近い菊田庄であったといわれる。
(十訓抄)
…『新編相模風土記稿』巻之八十七 鎌倉郡巻之十九には次の記事が見える。
大寳寺佐竹山にあり、多福山一乗院と号す。此地に新羅三郎義光の霊廟あるが故、其法名多福院と云ふを執て山号とす云へり。されども義光の法名を多福院と云ふもの信用し難し、恐らくは訛なるべし。佐竹常陸介秀義以後敷世居住の地にて今猶当所を佐竹屋敷と字するは此故なりと云ふ。『諸家系図纂』に秀義の後裔右馬頭義盛応永六年(1399)鎌倉に多福寺を建とあり。
…多福明神社…
新羅三郎の霊廟と云ふ、明応八年(1500)権大僧都日證一社に勧請しその法号を神号とすと伝ふ、恐らくは佐竹義盛の霊廟を義光と訛り伝ふるなるべし。云々
…鎌倉長勝寺、寺宝、寳陀観音像一体(新羅三郎義光の守本尊と云ふ)
…鎌倉市大町大宝寺…大宝寺浦野墓地にある変形の宝篋印塔で、後裔の佐竹氏が建てたという。義光は頼義の子で新羅三郎あるいは館三郎と称し、兄義家を授けて清原武衡・家衡を討った。(歴史と旅、鎌倉興亡史)
…大宝寺…多福山一乗院といい、承暦年間の創建で、当時は真言宗で、俗に佐竹屋敷といわれる所で後三年の役後、新羅三郎義光がここに館を構え、その後佐竹秀義が住んだと伝えられる。(歴史と旅、鎌倉興亡史)
…常陸国を去った義光は京都に戻る。除目待つ間近江園城寺に住む。近江国義光所領の地は柏木、山村の両郷など近江国に多く見られる。
義光は補任として甲斐守となる。その所領は加賀美郷・逸見郷・甘利郷・塩部郷・石和御厨・原小笠原郷・一宮郷・一条郷・条郷・下条郷・板垣郷・吉田郷・二宮郷・岩崎郷など。義光は嫡男義業を常陸、次男義業の次男義定を配置する。
没年 大治2年10月 2日 1227歿。 年八十二才。
大治2年10月20日 1227歿。 年七十一才。(甲斐国志。)
☆武田義清・源清光
<一書>
承保 1年 1074 清光生まれる。義清、二十九才の時の子。
没年久安5年 7月23日 1149年七十五才。
<一書>
清光
※ 生年 天永 1年1110 義清、三十六才の時の子。
没年 仁安 3年 7月8日1168 年五十九才。
康和 4年 2月3日1102
義光の子義清…常陸国吉田郡武田郷に住して武田冠者と呼ばれる。
天永 1年 6月7日1110
義清の子、清光が生まれる。
々 6月19日
清光が市川平塩岡の居館で生まれている 大泉村誌(?)
保安 4年1123 義清出家。 武川村誌
大治 2年
清光十八才。
大治 3年1128
清光は当時居住先の常陸国武田郷に於て嫡男光長と次男信義をもうける。 長坂町誌
大治 5年12月30日1130
源義清の子清光、濫行を以て告発される。 長秋記
甲斐国市河庄に配流される。
常陸国司、住人清光濫行の事などを申すなり。子細目録に見ゆ。 長秋記
義清は武田冠者を名乗る(常陸武田郷)
保延 6年1140
清光の子、十三才元服の儀式。 長坂町誌
小倉太郎光長…逸見庄小倉八幡宮 (この記事の出典は不明)
武田太郎信義…武田庄武田八幡宮
源義清
久安 1年 7月23日1145
義清死去。 武田系図
久安 5年 7月23日1149
義清死去。 大聖寺過去帳
刑部三郎甲斐守。配流甲斐国市河荘。 武田系図
保安四年(1123)
出家。
治承 4年1180 平家物語
平家追討に決起する諸国源氏の甲斐武将
逸見冠者義清・その子太郎清光()・武田太郎信義・加賀美二郎遠光・加賀美小次郎長清
・一条次郎忠頼・板垣三郎兼信・逸見兵衛有義・武田五郎信光・安田三郎義定
源清光
仁安 3年 7月8日1168
清光没(年59)甲州卒。天永2年生。
<新編常陸国誌 甲斐武田の発祥>
茨城県那珂郡武田郷に起こる。
新羅三郎義光の三子義清、刑部三郎と称し、はじめ那珂郡武田郷に居住し武田冠者と称し、 <佐竹系図」>義光の嗣たり……
子清光大治五年罪あり、その父子を甲斐に配し市川庄に置く。是にて子孫永く甲斐の人たり。云々 若神子の居館で死す。 武川村誌(?)資料無。
<(武田郷)の地名初見…和名抄>新編常陸国誌
東西は七町、南北十八、町余ありて、久保、猫山の二組、中、原の二坪を有す。
即和名抄、那珂郡武田の本郷にて、吉田社仁平元年(1151)文書に「吉田郡云々、
武田荒野とあるもの是なり。中世大掾氏吉田の一族、此地に住して、武田氏となる。
或いは云う、甲斐武田氏も亦此村より出ツ、云々
◇武田信義
諸説
※生年
大治 2年1127 義清五十三才、清光十七才の時の子。
大治 3年1128
長承 2年1133 義清五十九才、清光二十三才の時の子。
没年
文治 2年 3月9日1186 年五十三才。
3月19日1186 年五十九才。
源信義
治承 4年 9月7日1180
武田太郎信義、甲斐国を領す。 山槐記
平井冠者 々 平氏方甲斐国平井冠者、被討取。 山槐記
大太郎 々 烏帽子商人大太郎、頼朝を助け石和に百町の名田と在家三宇を与えられる。 源平盛衰記
々 9月24日
武田信義らの甲斐源氏、逸見山から石和御厨へ移動する。 吾妻鏡
禄高(鎌倉右大臣の時)
四万五千石。北条四郎時政(・ ・) 武家時代分限帳( )
五万石。武田太郎信義(甲州の内) 々
一万八千町逸見三郎 (山城の内) 々
三千町一条次郎槇義(甲州の内) 々
五千町板垣四郎高房(甲州の内) 々
千町成田小兵衛房次( ) 々( )(足利尊氏時代)
五千貫武田伊豆前司信氏 々
?二万貫安田民部大輔仲景 々
甲斐源氏、北条父子と駿河国に赴く。
々10月13日
石和御厨をたって、若彦路の大石駅に宿泊する。 吾妻鏡
武田太郎信義・次郎忠頼・兵衛尉有義・安田三郎義定・逸見冠者光長
河内五郎義長・伊澤五郎信光
々10月14日 甲斐源氏、武田・安田の人々神野並びに春田路をへて鉢田に入り、駿河目代軍を破る。
々10月20日 武田信義兵略を廻らし、敵の後面を襲う所、水鳥群立てし軍勢の装いをなす。追討使軍敗走する。 平家物語
々10月21日 武田信義…駿河守護、 吾妻鏡
(治承4年1180~元暦1年1184) 日本史辞典角川書店板
々11月5日
甲斐源氏、富士川西岸に布陣した追討使軍を夜襲、追討使軍戦わず退却する。 玉葉
養和 1年 3月7日1181
武田信義、御白河法皇から頼朝の追討使に任じられたいう風聞を否定し、誓書を提出する。 吾妻鏡
寿永 2年1183
義仲追討使として、甲斐源氏も出兵する。
武田太郎信義・加賀美次郎遠光・一条二郎忠頼・小笠原次郎長清・井澤五郎信光
板垣三郎兼信・逸見冠者義清(有義の誤りか)
元暦 1年1184
近江国粟津の戦いで甲斐源氏が活躍する。 源平盛衰記
一条忠頼・板垣三郎兼信…先陣、七千余騎
武田太郎信義・加賀美次郎遠光…二千余騎
逸見四郎有義・伊澤五郎信光 三千余騎
小笠原小次郎長清
範頼・義経群、摂津国に入り、一ノ谷に陣を構える平氏軍と対峙する。 平家物語
武田太郎信義・加賀美次郎遠光・一条二郎忠頼・小笠原次郎長清
井澤五郎信光・板垣三郎兼信
武田信義
文治 2年 3月9日1185
武田信義死去(『吾妻鏡』には建久元年十一月七日の項に、武田太郎とある)
卒年…59才。
◇伊澤信景
平治 1年12月9日1159
井沢信景、平治の乱に源義朝の軍に加わって奮戦、負傷して帰国する。 平治物語 上
甲斐の国には井澤四郎信景を始めとして宗との兵二百人、以下軍兵二千余騎云々
井澤信景は(中略)遠江に知りたる人ありしかば、それにおちつき、傷を療治して弓うちきりて杖につき、山伝いに甲斐国井澤に落ちけり 平治物語 中
《多くの所伝は石澤信光は、武田清光の子の信義の五男としているが、石澤信景の存在が気になる。信景の生年・没年は不詳であり、 正確なことはいえないが、石澤信景の家系にあった人物ともとれる。》
※『甲斐国志』
武田清光 生年天永元年(1110)没年 仁安三年(1168) 年、五十九才。
※(長坂清光寺)生年 元永元年(1116) 没年 仁安元年(1166) 年、五十才。
《紹介、山梨県の武田氏伝説》
武田信義
生年大治二年(1127)没年 文治二年(1186) 年、五十九才。清光、十七才時の子。
逸見光長
生年大治二年(1127)
安田義定
生年長承二年(1133)没年 建久五年(1194) 年、六十一才。
清光、二十三才の時の子。
加々美遠光
生年康治元年(1142)没年 寛喜二年(1230) 年、八十八才。
清光、三十二才の時の子。
石和信光
生年応保二年(1162)没年 宝治二年(1248) 年、八十七才。
信義、三十五才の時の子。
『続群書類従』
清光、五十二才の時の子。
小笠原長清
生年応保二年(1162)没年 仁治三年(1242) 年、八十一才。遠光、二十才の時の子。
《武田系図について》
武田系図の内、二説を取り上げて見た。大きな違いは義清から清光の段、即ち ・ ・ の項について『綜覧』では、清光の兄弟は師光だけだが、『群書』では、清光・光長・信義・遠光・義定が兄弟となっている。
石和五郎信光については、信義の五男とするには無理があるような気がする。『綜覧』の方が自然である。又、石和五郎信光の家系は石和信景に見られる様に信義とは別家である可能性も強い。それは行動や頼朝以下鎌倉幕府の対応の違いからも読み取れる。
これは山梨県でも広瀬広一氏が「石和氏は、清光と系統を異にして頼信・頼義の胤にて早く国府の附近にに居り、御厨領を掠めて勃興した氏族である」との見解を示している。系図は後世の所作によるもので、系図にバラツキが見られるのは致し方ない。
また甲斐源氏が峡北地方を中心に展開していたとの見解も一考を要する問題で、逸見氏を名乗った光長の動向が不詳であり、逸見氏の中には現在の甲府近辺に居住した者もいて、神社や仏閣それに伝説をもって判断することは危険である。文書に見える甲斐の地名は逸見山・石和御厨くらいで、その他は寺院の由緒が先行している。
◇安田義定
※生年 長承 2年1133 清光、二十三才の時の子。
没年 建久 5年 8月15日1194 年六十一才。
養和 1年 8月12日
源頼朝、安田義定を討つとの風聞、京都に伝わる。 玉葉集。
治承 4年10月21日
安田義定…遠江守護 吾妻鏡。
(治承4年1180~建久4年1193) 日本史辞典角川書店板
寿永 2年 安田遠江守義定も義仲の負死を報告する。 吾妻鏡。
安田義定
建久 5年 8月 幕府軍、梶原景時甲斐に攻め込み安田軍と戦い、安田義定菩提寺放光寺で自刃。 「武田信玄の全て」
◇一条忠頼
没年 元暦 1年1184 年不詳。
《四月十六日改元》
寿永 3年 1月27日1184 一条次郎忠頼等飛脚参 義仲の負死を報告する。
着鎌倉云々 吾妻鏡
一条忠頼
元暦 1年 6月16日1184
武田信義の後継者と目されていた一条忠頼、鎌倉で頼朝に謀殺される。 吾妻鏡
◇板垣兼信
々 3月17日
板垣兼信、西国より使者を遣わし、土肥実平の専権を訴えるも、頼朝、退ける。 吾妻鏡
文治 4年 2月2日1188 板垣兼信、尾張国津島社領の所当年貢を修理大夫に不納の為、訴えられる。 吾妻鏡
建久 1年 7月30日1190
板垣兼信、違勅の罪により隠岐国への流罪に処せられる。 吾妻鏡
々 8月19日
板垣兼信の所領、遠江国質侶荘の地頭職 吾妻鏡
を解くこと約束する。
々 9月13日 板垣兼信、配流の官符の後在京している 吾妻鏡
との風聞が流れる。
々 9月27日 御白河上皇、板垣兼信の配流を頼朝の上 玉葉
洛以前に完了するように強く命ずる。
々11月7日
頼朝入洛。随臣者、
武田太郎(信義?)武田兵衛尉(有義) ・浅利冠者・奈胡蔵人・加々美次郎
安田義資越後守・河内五郎 吾妻鏡
文治 5年 5月22日1189
頼朝、院宣を受けて、板垣兼信の駿河国地頭職を解く。 吾妻鏡
◇武田有義
没年 正治 2年 8月25日1200 年不詳。
治承 4年12月24日1180
平清盛、京にいた武田有義の妻子を殺し、門前に梟首にする。 山槐記
寿永 2年 2月5日1183 範頼・義経軍、摂津国へ入り平資盛・有盛らとの戦いに、武田兵衛尉有義・板垣三郎兼信・遠江守義定の名が見える。 吾妻鏡
々 8月6日
武田有義ら、平家追討のため西国下向にあたり、御所で饗され、餞別として馬一疋を与えられる。 吾妻鏡
々 8月8日
武田有義、頼朝に従い平氏追討のために鎌倉を出立する。
吾妻鏡
々10月
政所造営、安芸廣元を別当として(中略)甲斐四郎秋家らを寄人として吉書あり。
元暦 2年 1月26日1185
範頼の豊後国に上陸に際し、武田有義ら随行する。 吾妻鏡
々 3年 1月3日1186
頼朝、鶴岡八幡宮に参詣する。武田有義、板垣兼信ら随兵として従う。 吾妻鏡
文治 3年 3月15日
武田有義、頼朝の鶴岡八幡宮での大般若供養に際し、御剣役として供養するを壓い遂電する。 吾妻鏡
々 5年 6月9日
武田兵衛尉有義・武田五郎信光、鶴岡八幡宮どの御塔供養に、頼朝の先陣の随兵として参加する。 吾妻鏡
々 6月9日
武田兵衛尉有義・武田五郎信光、鶴岡八 吾妻鏡
々 7月19日 浅利冠者遠義・武田兵衛尉有義 吾妻鏡
伊澤五郎信光・加々美次郎長清
加々美太郎長綱・加々美信濃守遠光
安田遠江守義定
頼朝の奥州征伐に従軍する。
建久 2年 2月4日1191 吾妻鏡
頼朝の二所参詣の随臣、
伊澤五郎(信光)・加々美二郎(長清)・武田兵衛尉(有義)・浅利冠者長義
安田義資越後守・奈胡蔵人義行
建久 5年10月9日 1194
頼朝、流鏑馬以下の弓馬の道を武田有義らの堪能の者に評議させる。 吾妻鏡
射手、武田兵衛尉有時・小笠原次郎長清 新編相模国風土記稿
々11月21日 武田信光、鶴岡八幡宮で射手を努める。
武田信義の名が見える。
武田兵衛尉有義・小笠原次郎長清・武田信光・加々美遠光・安田義定
武田兵衛尉有義・小笠原次郎長清・奈胡義行・安田義資
建久 6年 3月10日1195 吾妻鏡
頼朝、東大寺供養、随臣
武田兵衛尉有義・小笠原次郎長清・伊澤五郎(信光)・奈胡蔵人・浅利冠者
南部三郎・加々美三郎・河内義長。
々 5月20日
頼朝、四天王寺に参詣、随臣
武田兵衛尉有義・伊澤五郎信光・奈胡蔵人義行・浅利冠者長義
南部三郎光行・加々美二郎長清
建久 8年 3月23日
頼朝、信濃善光寺への参詣、
随臣武田兵衛尉有義・伊澤五郎信光・加々美二郎長清・浅利冠者長義
南部三郎光行 吾妻鏡
正治 2年 1月28日1200
伊澤信光、甲斐国より参上、武田有義が 吾妻鏡
梶原景時に通じて逃亡した由を報告する。
◇武田五郎信光
《石和五郎信光の行動は不可解の部分が多い。信義の家系だとすると無理が生じる。それは鎌倉幕府の頼朝以下の処遇を見ても昭か である。一書によれば兄弟(?)への裏切りを始め 、実朝の暗殺にも関わっていたと示唆している。》
※生年 応保 2年1162 信義、三十五才の時の子。
没年 宝治 2年1248 年八十七才。
寿永 2年1183 武田信光の讒言により、頼朝、木曾義仲 源平盛衰記
攻撃の為に信濃へ出兵する。
信光は甲斐武田の住人云々。
信光は三郎(義光)末、頼義より又五代。
文治 1年10月24日1185 武田信光、勝長寿院落慶供養に際し、先 随兵として頼朝の行列に加わる。 吾妻鏡
々 3年 8月15日1187 武田信光、鶴岡八幡宮の流鏑馬に射手として参加する。 吾妻鏡
々 4年 1月20日1188
頼朝の二所詣に、武田信光・加々美次郎・奈胡蔵人。
6月9日 武田兵衛尉有義・武田五郎信光、鶴岡八幡宮どの御塔供養に、頼朝の先陣の随兵として参加する。 吾妻鏡
々 5年1189 幡宮どの御塔供養に、頼朝の先陣の随兵として参加する。
信光、安芸守となる。
北杜市や韮崎市は旧北巨摩に属し、数多い甲斐源氏の史蹟や伝承が多く存在する。
しかし確実な資料に裏づけされたものというと数少ないものしか確認できない。この
講座では旧説に惑わされずに確かな資料によって甲斐源氏の実体を綴ってみる。
氏 名 和 暦 出 典
藤原公季(甲斐公)
長元 2年 10月17日 1029 故太政大臣藤原公季を甲斐に封じ、甲斐
に封甲斐公となし仁義公とする。正一位。
(日本記略 後編14)
源頼信
安和 1年 968
源頼信生まれる。
長元 3年 9月 2日 1030
甲斐守源頼信及び坂東諸国司に命じて平忠常を討たせ、追討平直方を召還する。
(日本記略 後編14)
長元 4年 2月23日 1031
甲斐守源頼信、調庸使が流人藤原光清の使者を射殺した状を奉上する。
(日本記略 後編14)
長元 4年 4月28日 1031
平忠常、甲斐守源頼信に投降し、伴われて上京の途次美濃国で病没、頼信その首級を携えて入京する。(左経記)
長元 4年 6月27日 1031
朝廷、頼信の行賞と忠常の子常昌・常近の処分のことを議する。(左経記)
長元 4年 7月 1日 1031
頼信、忠常追討の賞として丹波守を望む。(小右記)
長元 4年 7月13日1031
頼信、右大臣藤原実資に物を贈る。(小右記)
長元 5年 2月 8日1031
平忠常の賞により甲斐守源頼信を美濃守に任する。(類聚符宣抄 第8)
永承 1年1046
河内守源頼信、石清水八幡宮に告文を捧げ、祖先並びに自己の勲功を述べて、子孫の繁栄を祈る。(類聚符宣抄 第8)
永承 3年1048 源頼義没。
源義光
寛徳 2年1045 歿。年八十二才。 諸説あり。
天喜 4年1056 歿。年七十一才。 諸説あり。 (甲斐国志)
永保 3年1083 義光、左兵衛尉。年三十九才。
(奥羽戦乱と東国源氏)
長兄の義家が後三年の役が陸奥国で苦戦、義光、援軍として上奉して暇乞をするが認められず、許可なく馳せる。
義光、時秋に足柄山にて笙を伝授する。
義光、陸奥国菊田荘(いわき市内)を押領を図る(修理太夫藤原顕季の所領)
明簿奉呈(家臣になる意思表示)をする。
義光受領、常陸介となる。現地に赴任し、大豪族大掾家の娘を嫡男義業の妻に迎え、佐竹郷に居を構える。
義光の勢力、佐竹郷を中心として、国内北東部一帯に定着する。
(奥羽戦乱と東国源氏)
康和 4年 2月 3日1102
刑部丞源義光、馬二疋を右大臣忠実に贈る。この時義光五十八才。
(殿暦……忠実の子忠通の日記) (殿暦・武川村誌)
新羅三郎。常陸・甲斐守。左衛門。刑部丞。平日住三井寺。
義光の子義業…吉田太郎清幹の娘を娶り、佐竹冠者昌義を設ける。
義光、義業を久慈川流域の佐竹郷に配置。
甲斐源氏の発祥
義光の子義清…常陸国吉田郡武田郷に住して武田冠者と呼ばれる。
義光、義清を那珂川北岸の武田郷に配置。
嘉承 1年 6月1106
源義家の子の義国と義光が常陸国で合戦。(永昌記)
大治 2年10月20日1127
源義光死去。(尊卑分脈・大聖寺過去帳)
義光の所領は常陸国多可郡の国境に近い菊田庄であったといわれる。
(十訓抄)
…『新編相模風土記稿』巻之八十七 鎌倉郡巻之十九には次の記事が見える。
大寳寺佐竹山にあり、多福山一乗院と号す。此地に新羅三郎義光の霊廟あるが故、其法名多福院と云ふを執て山号とす云へり。されども義光の法名を多福院と云ふもの信用し難し、恐らくは訛なるべし。佐竹常陸介秀義以後敷世居住の地にて今猶当所を佐竹屋敷と字するは此故なりと云ふ。『諸家系図纂』に秀義の後裔右馬頭義盛応永六年(1399)鎌倉に多福寺を建とあり。
…多福明神社…
新羅三郎の霊廟と云ふ、明応八年(1500)権大僧都日證一社に勧請しその法号を神号とすと伝ふ、恐らくは佐竹義盛の霊廟を義光と訛り伝ふるなるべし。云々
…鎌倉長勝寺、寺宝、寳陀観音像一体(新羅三郎義光の守本尊と云ふ)
…鎌倉市大町大宝寺…大宝寺浦野墓地にある変形の宝篋印塔で、後裔の佐竹氏が建てたという。義光は頼義の子で新羅三郎あるいは館三郎と称し、兄義家を授けて清原武衡・家衡を討った。(歴史と旅、鎌倉興亡史)
…大宝寺…多福山一乗院といい、承暦年間の創建で、当時は真言宗で、俗に佐竹屋敷といわれる所で後三年の役後、新羅三郎義光がここに館を構え、その後佐竹秀義が住んだと伝えられる。(歴史と旅、鎌倉興亡史)
…常陸国を去った義光は京都に戻る。除目待つ間近江園城寺に住む。近江国義光所領の地は柏木、山村の両郷など近江国に多く見られる。
義光は補任として甲斐守となる。その所領は加賀美郷・逸見郷・甘利郷・塩部郷・石和御厨・原小笠原郷・一宮郷・一条郷・条郷・下条郷・板垣郷・吉田郷・二宮郷・岩崎郷など。義光は嫡男義業を常陸、次男義業の次男義定を配置する。
没年 大治2年10月 2日 1227歿。 年八十二才。
大治2年10月20日 1227歿。 年七十一才。(甲斐国志。)
☆武田義清・源清光
<一書>
承保 1年 1074 清光生まれる。義清、二十九才の時の子。
没年久安5年 7月23日 1149年七十五才。
<一書>
清光
※ 生年 天永 1年1110 義清、三十六才の時の子。
没年 仁安 3年 7月8日1168 年五十九才。
康和 4年 2月3日1102
義光の子義清…常陸国吉田郡武田郷に住して武田冠者と呼ばれる。
天永 1年 6月7日1110
義清の子、清光が生まれる。
々 6月19日
清光が市川平塩岡の居館で生まれている 大泉村誌(?)
保安 4年1123 義清出家。 武川村誌
大治 2年
清光十八才。
大治 3年1128
清光は当時居住先の常陸国武田郷に於て嫡男光長と次男信義をもうける。 長坂町誌
大治 5年12月30日1130
源義清の子清光、濫行を以て告発される。 長秋記
甲斐国市河庄に配流される。
常陸国司、住人清光濫行の事などを申すなり。子細目録に見ゆ。 長秋記
義清は武田冠者を名乗る(常陸武田郷)
保延 6年1140
清光の子、十三才元服の儀式。 長坂町誌
小倉太郎光長…逸見庄小倉八幡宮 (この記事の出典は不明)
武田太郎信義…武田庄武田八幡宮
源義清
久安 1年 7月23日1145
義清死去。 武田系図
久安 5年 7月23日1149
義清死去。 大聖寺過去帳
刑部三郎甲斐守。配流甲斐国市河荘。 武田系図
保安四年(1123)
出家。
治承 4年1180 平家物語
平家追討に決起する諸国源氏の甲斐武将
逸見冠者義清・その子太郎清光()・武田太郎信義・加賀美二郎遠光・加賀美小次郎長清
・一条次郎忠頼・板垣三郎兼信・逸見兵衛有義・武田五郎信光・安田三郎義定
源清光
仁安 3年 7月8日1168
清光没(年59)甲州卒。天永2年生。
<新編常陸国誌 甲斐武田の発祥>
茨城県那珂郡武田郷に起こる。
新羅三郎義光の三子義清、刑部三郎と称し、はじめ那珂郡武田郷に居住し武田冠者と称し、 <佐竹系図」>義光の嗣たり……
子清光大治五年罪あり、その父子を甲斐に配し市川庄に置く。是にて子孫永く甲斐の人たり。云々 若神子の居館で死す。 武川村誌(?)資料無。
<(武田郷)の地名初見…和名抄>新編常陸国誌
東西は七町、南北十八、町余ありて、久保、猫山の二組、中、原の二坪を有す。
即和名抄、那珂郡武田の本郷にて、吉田社仁平元年(1151)文書に「吉田郡云々、
武田荒野とあるもの是なり。中世大掾氏吉田の一族、此地に住して、武田氏となる。
或いは云う、甲斐武田氏も亦此村より出ツ、云々
◇武田信義
諸説
※生年
大治 2年1127 義清五十三才、清光十七才の時の子。
大治 3年1128
長承 2年1133 義清五十九才、清光二十三才の時の子。
没年
文治 2年 3月9日1186 年五十三才。
3月19日1186 年五十九才。
源信義
治承 4年 9月7日1180
武田太郎信義、甲斐国を領す。 山槐記
平井冠者 々 平氏方甲斐国平井冠者、被討取。 山槐記
大太郎 々 烏帽子商人大太郎、頼朝を助け石和に百町の名田と在家三宇を与えられる。 源平盛衰記
々 9月24日
武田信義らの甲斐源氏、逸見山から石和御厨へ移動する。 吾妻鏡
禄高(鎌倉右大臣の時)
四万五千石。北条四郎時政(・ ・) 武家時代分限帳( )
五万石。武田太郎信義(甲州の内) 々
一万八千町逸見三郎 (山城の内) 々
三千町一条次郎槇義(甲州の内) 々
五千町板垣四郎高房(甲州の内) 々
千町成田小兵衛房次( ) 々( )(足利尊氏時代)
五千貫武田伊豆前司信氏 々
?二万貫安田民部大輔仲景 々
甲斐源氏、北条父子と駿河国に赴く。
々10月13日
石和御厨をたって、若彦路の大石駅に宿泊する。 吾妻鏡
武田太郎信義・次郎忠頼・兵衛尉有義・安田三郎義定・逸見冠者光長
河内五郎義長・伊澤五郎信光
々10月14日 甲斐源氏、武田・安田の人々神野並びに春田路をへて鉢田に入り、駿河目代軍を破る。
々10月20日 武田信義兵略を廻らし、敵の後面を襲う所、水鳥群立てし軍勢の装いをなす。追討使軍敗走する。 平家物語
々10月21日 武田信義…駿河守護、 吾妻鏡
(治承4年1180~元暦1年1184) 日本史辞典角川書店板
々11月5日
甲斐源氏、富士川西岸に布陣した追討使軍を夜襲、追討使軍戦わず退却する。 玉葉
養和 1年 3月7日1181
武田信義、御白河法皇から頼朝の追討使に任じられたいう風聞を否定し、誓書を提出する。 吾妻鏡
寿永 2年1183
義仲追討使として、甲斐源氏も出兵する。
武田太郎信義・加賀美次郎遠光・一条二郎忠頼・小笠原次郎長清・井澤五郎信光
板垣三郎兼信・逸見冠者義清(有義の誤りか)
元暦 1年1184
近江国粟津の戦いで甲斐源氏が活躍する。 源平盛衰記
一条忠頼・板垣三郎兼信…先陣、七千余騎
武田太郎信義・加賀美次郎遠光…二千余騎
逸見四郎有義・伊澤五郎信光 三千余騎
小笠原小次郎長清
範頼・義経群、摂津国に入り、一ノ谷に陣を構える平氏軍と対峙する。 平家物語
武田太郎信義・加賀美次郎遠光・一条二郎忠頼・小笠原次郎長清
井澤五郎信光・板垣三郎兼信
武田信義
文治 2年 3月9日1185
武田信義死去(『吾妻鏡』には建久元年十一月七日の項に、武田太郎とある)
卒年…59才。
◇伊澤信景
平治 1年12月9日1159
井沢信景、平治の乱に源義朝の軍に加わって奮戦、負傷して帰国する。 平治物語 上
甲斐の国には井澤四郎信景を始めとして宗との兵二百人、以下軍兵二千余騎云々
井澤信景は(中略)遠江に知りたる人ありしかば、それにおちつき、傷を療治して弓うちきりて杖につき、山伝いに甲斐国井澤に落ちけり 平治物語 中
《多くの所伝は石澤信光は、武田清光の子の信義の五男としているが、石澤信景の存在が気になる。信景の生年・没年は不詳であり、 正確なことはいえないが、石澤信景の家系にあった人物ともとれる。》
※『甲斐国志』
武田清光 生年天永元年(1110)没年 仁安三年(1168) 年、五十九才。
※(長坂清光寺)生年 元永元年(1116) 没年 仁安元年(1166) 年、五十才。
《紹介、山梨県の武田氏伝説》
武田信義
生年大治二年(1127)没年 文治二年(1186) 年、五十九才。清光、十七才時の子。
逸見光長
生年大治二年(1127)
安田義定
生年長承二年(1133)没年 建久五年(1194) 年、六十一才。
清光、二十三才の時の子。
加々美遠光
生年康治元年(1142)没年 寛喜二年(1230) 年、八十八才。
清光、三十二才の時の子。
石和信光
生年応保二年(1162)没年 宝治二年(1248) 年、八十七才。
信義、三十五才の時の子。
『続群書類従』
清光、五十二才の時の子。
小笠原長清
生年応保二年(1162)没年 仁治三年(1242) 年、八十一才。遠光、二十才の時の子。
《武田系図について》
武田系図の内、二説を取り上げて見た。大きな違いは義清から清光の段、即ち ・ ・ の項について『綜覧』では、清光の兄弟は師光だけだが、『群書』では、清光・光長・信義・遠光・義定が兄弟となっている。
石和五郎信光については、信義の五男とするには無理があるような気がする。『綜覧』の方が自然である。又、石和五郎信光の家系は石和信景に見られる様に信義とは別家である可能性も強い。それは行動や頼朝以下鎌倉幕府の対応の違いからも読み取れる。
これは山梨県でも広瀬広一氏が「石和氏は、清光と系統を異にして頼信・頼義の胤にて早く国府の附近にに居り、御厨領を掠めて勃興した氏族である」との見解を示している。系図は後世の所作によるもので、系図にバラツキが見られるのは致し方ない。
また甲斐源氏が峡北地方を中心に展開していたとの見解も一考を要する問題で、逸見氏を名乗った光長の動向が不詳であり、逸見氏の中には現在の甲府近辺に居住した者もいて、神社や仏閣それに伝説をもって判断することは危険である。文書に見える甲斐の地名は逸見山・石和御厨くらいで、その他は寺院の由緒が先行している。
◇安田義定
※生年 長承 2年1133 清光、二十三才の時の子。
没年 建久 5年 8月15日1194 年六十一才。
養和 1年 8月12日
源頼朝、安田義定を討つとの風聞、京都に伝わる。 玉葉集。
治承 4年10月21日
安田義定…遠江守護 吾妻鏡。
(治承4年1180~建久4年1193) 日本史辞典角川書店板
寿永 2年 安田遠江守義定も義仲の負死を報告する。 吾妻鏡。
安田義定
建久 5年 8月 幕府軍、梶原景時甲斐に攻め込み安田軍と戦い、安田義定菩提寺放光寺で自刃。 「武田信玄の全て」
◇一条忠頼
没年 元暦 1年1184 年不詳。
《四月十六日改元》
寿永 3年 1月27日1184 一条次郎忠頼等飛脚参 義仲の負死を報告する。
着鎌倉云々 吾妻鏡
一条忠頼
元暦 1年 6月16日1184
武田信義の後継者と目されていた一条忠頼、鎌倉で頼朝に謀殺される。 吾妻鏡
◇板垣兼信
々 3月17日
板垣兼信、西国より使者を遣わし、土肥実平の専権を訴えるも、頼朝、退ける。 吾妻鏡
文治 4年 2月2日1188 板垣兼信、尾張国津島社領の所当年貢を修理大夫に不納の為、訴えられる。 吾妻鏡
建久 1年 7月30日1190
板垣兼信、違勅の罪により隠岐国への流罪に処せられる。 吾妻鏡
々 8月19日
板垣兼信の所領、遠江国質侶荘の地頭職 吾妻鏡
を解くこと約束する。
々 9月13日 板垣兼信、配流の官符の後在京している 吾妻鏡
との風聞が流れる。
々 9月27日 御白河上皇、板垣兼信の配流を頼朝の上 玉葉
洛以前に完了するように強く命ずる。
々11月7日
頼朝入洛。随臣者、
武田太郎(信義?)武田兵衛尉(有義) ・浅利冠者・奈胡蔵人・加々美次郎
安田義資越後守・河内五郎 吾妻鏡
文治 5年 5月22日1189
頼朝、院宣を受けて、板垣兼信の駿河国地頭職を解く。 吾妻鏡
◇武田有義
没年 正治 2年 8月25日1200 年不詳。
治承 4年12月24日1180
平清盛、京にいた武田有義の妻子を殺し、門前に梟首にする。 山槐記
寿永 2年 2月5日1183 範頼・義経軍、摂津国へ入り平資盛・有盛らとの戦いに、武田兵衛尉有義・板垣三郎兼信・遠江守義定の名が見える。 吾妻鏡
々 8月6日
武田有義ら、平家追討のため西国下向にあたり、御所で饗され、餞別として馬一疋を与えられる。 吾妻鏡
々 8月8日
武田有義、頼朝に従い平氏追討のために鎌倉を出立する。
吾妻鏡
々10月
政所造営、安芸廣元を別当として(中略)甲斐四郎秋家らを寄人として吉書あり。
元暦 2年 1月26日1185
範頼の豊後国に上陸に際し、武田有義ら随行する。 吾妻鏡
々 3年 1月3日1186
頼朝、鶴岡八幡宮に参詣する。武田有義、板垣兼信ら随兵として従う。 吾妻鏡
文治 3年 3月15日
武田有義、頼朝の鶴岡八幡宮での大般若供養に際し、御剣役として供養するを壓い遂電する。 吾妻鏡
々 5年 6月9日
武田兵衛尉有義・武田五郎信光、鶴岡八幡宮どの御塔供養に、頼朝の先陣の随兵として参加する。 吾妻鏡
々 6月9日
武田兵衛尉有義・武田五郎信光、鶴岡八 吾妻鏡
々 7月19日 浅利冠者遠義・武田兵衛尉有義 吾妻鏡
伊澤五郎信光・加々美次郎長清
加々美太郎長綱・加々美信濃守遠光
安田遠江守義定
頼朝の奥州征伐に従軍する。
建久 2年 2月4日1191 吾妻鏡
頼朝の二所参詣の随臣、
伊澤五郎(信光)・加々美二郎(長清)・武田兵衛尉(有義)・浅利冠者長義
安田義資越後守・奈胡蔵人義行
建久 5年10月9日 1194
頼朝、流鏑馬以下の弓馬の道を武田有義らの堪能の者に評議させる。 吾妻鏡
射手、武田兵衛尉有時・小笠原次郎長清 新編相模国風土記稿
々11月21日 武田信光、鶴岡八幡宮で射手を努める。
武田信義の名が見える。
武田兵衛尉有義・小笠原次郎長清・武田信光・加々美遠光・安田義定
武田兵衛尉有義・小笠原次郎長清・奈胡義行・安田義資
建久 6年 3月10日1195 吾妻鏡
頼朝、東大寺供養、随臣
武田兵衛尉有義・小笠原次郎長清・伊澤五郎(信光)・奈胡蔵人・浅利冠者
南部三郎・加々美三郎・河内義長。
々 5月20日
頼朝、四天王寺に参詣、随臣
武田兵衛尉有義・伊澤五郎信光・奈胡蔵人義行・浅利冠者長義
南部三郎光行・加々美二郎長清
建久 8年 3月23日
頼朝、信濃善光寺への参詣、
随臣武田兵衛尉有義・伊澤五郎信光・加々美二郎長清・浅利冠者長義
南部三郎光行 吾妻鏡
正治 2年 1月28日1200
伊澤信光、甲斐国より参上、武田有義が 吾妻鏡
梶原景時に通じて逃亡した由を報告する。
◇武田五郎信光
《石和五郎信光の行動は不可解の部分が多い。信義の家系だとすると無理が生じる。それは鎌倉幕府の頼朝以下の処遇を見ても昭か である。一書によれば兄弟(?)への裏切りを始め 、実朝の暗殺にも関わっていたと示唆している。》
※生年 応保 2年1162 信義、三十五才の時の子。
没年 宝治 2年1248 年八十七才。
寿永 2年1183 武田信光の讒言により、頼朝、木曾義仲 源平盛衰記
攻撃の為に信濃へ出兵する。
信光は甲斐武田の住人云々。
信光は三郎(義光)末、頼義より又五代。
文治 1年10月24日1185 武田信光、勝長寿院落慶供養に際し、先 随兵として頼朝の行列に加わる。 吾妻鏡
々 3年 8月15日1187 武田信光、鶴岡八幡宮の流鏑馬に射手として参加する。 吾妻鏡
々 4年 1月20日1188
頼朝の二所詣に、武田信光・加々美次郎・奈胡蔵人。
6月9日 武田兵衛尉有義・武田五郎信光、鶴岡八幡宮どの御塔供養に、頼朝の先陣の随兵として参加する。 吾妻鏡
々 5年1189 幡宮どの御塔供養に、頼朝の先陣の随兵として参加する。
信光、安芸守となる。
↧
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参考資料 素堂と芭蕉の関係
参考資料 素堂と芭蕉の関係
和 暦 西 暦 年 齢
素堂 芭蕉
延宝 3年(1675) 34 32 素堂・芭蕉、宗因歓迎百韻の興行。
延宝 4年(1676) 35 33 天神天満宮奉納両吟『江戸両吟集』
延宝 5年(1677) 36 34 風流大名内藤風虎の『六百番俳諧句合』参加。
延宝 6年(1678) 37 35 前年から信徳を交えて『江戸三吟集』
延宝 8年(1680) 39 37 素堂、幽山『俳枕』に序文。
天和 1年(1681) 40 38 真筆 枯枝に烏とまりけり秋の声 芭蕉
鍬かたげ行霧の遠里 素堂
天和 2年(1682) 41 39 高山麋塒主催「錦どる」同席。
桃青八吟歌仙「月と泣く夜」同 席。
芭蕉と木因、素堂訪問の打ち合わせ後訪問。
三者の三物。
素堂、芭蕉火災に遭う。甲斐流遇か。
天和 3年(1683) 42 40 素堂、芭蕉庵再建勧化文を作成。
貞享 1年(1685) 43 41 芭蕉、「野ざらし紀行」の旅に出る。
貞享 2年(1686) 44 42 芭蕉、旅から帰る。
素堂、芭蕉の帰庵を待って、
「いつか花に茶の羽織檜笠みん」
芭蕉『野ざらし紀行』
素堂『野ざらし讃唱』
『古式百韻』に同席。
素堂、風瀑『一楼賦』に跋を与える。
貞享 3年(1687) 45 43 素堂・芭蕉、芭蕉庵蛙句合衆議判同席。
素堂、芭蕉の瓢に四山の銘を与える。
貞享 4年(1688) 46 44 『続の原』素堂、芭蕉判者。
芭蕉、『鹿島紀行』の旅立ち。素堂句餞別。
素堂、「帰郷餞別吟」
素堂、芭蕉「蓑虫」の遣り取り
元禄 1年(1689) 47 45 素堂・芭蕉、素堂亭十日菊
素堂・芭蕉、芭蕉庵十三夜
元禄 2年(1690) 48 46 芭蕉、「奥の細道」へ旅立。素堂餞別句。
元禄 3年(1691) 49 47 芭蕉、曾良宛書簡、素堂への伝言など。
素堂へ御伝へ下さるべく候。大津尚白 大望の間、 菊の句芳意にかけられべくと。御頼み申すべく
候。云々
素堂なつかしく候。かねさねてひそかに清書御
目に懸くべく候間、素堂へ内談承るべく候。
素堂文章、此近き頃のは御座無く候也。
なつかしく候。
元禄 4年(1692) 50 48 芭蕉曾良宛書簡、素堂の事。
「素堂なつかしく候」云々
素堂亭忘年会。
元禄 5年(1693) 51 49 素堂母喜寿の賀宴。
素堂・芭蕉和漢百韻。
元禄 6年(1694) 52 50 芭蕉許六宛書簡、
素堂に面会できずに名残りを惜しむ。
元禄 7年(1695) 53 51 芭蕉、十月十二日、大阪にて死去。
素堂、妻の喪中につき大阪へ不行。
和 暦 西 暦 年 齢
素堂 芭蕉
延宝 3年(1675) 34 32 素堂・芭蕉、宗因歓迎百韻の興行。
延宝 4年(1676) 35 33 天神天満宮奉納両吟『江戸両吟集』
延宝 5年(1677) 36 34 風流大名内藤風虎の『六百番俳諧句合』参加。
延宝 6年(1678) 37 35 前年から信徳を交えて『江戸三吟集』
延宝 8年(1680) 39 37 素堂、幽山『俳枕』に序文。
天和 1年(1681) 40 38 真筆 枯枝に烏とまりけり秋の声 芭蕉
鍬かたげ行霧の遠里 素堂
天和 2年(1682) 41 39 高山麋塒主催「錦どる」同席。
桃青八吟歌仙「月と泣く夜」同 席。
芭蕉と木因、素堂訪問の打ち合わせ後訪問。
三者の三物。
素堂、芭蕉火災に遭う。甲斐流遇か。
天和 3年(1683) 42 40 素堂、芭蕉庵再建勧化文を作成。
貞享 1年(1685) 43 41 芭蕉、「野ざらし紀行」の旅に出る。
貞享 2年(1686) 44 42 芭蕉、旅から帰る。
素堂、芭蕉の帰庵を待って、
「いつか花に茶の羽織檜笠みん」
芭蕉『野ざらし紀行』
素堂『野ざらし讃唱』
『古式百韻』に同席。
素堂、風瀑『一楼賦』に跋を与える。
貞享 3年(1687) 45 43 素堂・芭蕉、芭蕉庵蛙句合衆議判同席。
素堂、芭蕉の瓢に四山の銘を与える。
貞享 4年(1688) 46 44 『続の原』素堂、芭蕉判者。
芭蕉、『鹿島紀行』の旅立ち。素堂句餞別。
素堂、「帰郷餞別吟」
素堂、芭蕉「蓑虫」の遣り取り
元禄 1年(1689) 47 45 素堂・芭蕉、素堂亭十日菊
素堂・芭蕉、芭蕉庵十三夜
元禄 2年(1690) 48 46 芭蕉、「奥の細道」へ旅立。素堂餞別句。
元禄 3年(1691) 49 47 芭蕉、曾良宛書簡、素堂への伝言など。
素堂へ御伝へ下さるべく候。大津尚白 大望の間、 菊の句芳意にかけられべくと。御頼み申すべく
候。云々
素堂なつかしく候。かねさねてひそかに清書御
目に懸くべく候間、素堂へ内談承るべく候。
素堂文章、此近き頃のは御座無く候也。
なつかしく候。
元禄 4年(1692) 50 48 芭蕉曾良宛書簡、素堂の事。
「素堂なつかしく候」云々
素堂亭忘年会。
元禄 5年(1693) 51 49 素堂母喜寿の賀宴。
素堂・芭蕉和漢百韻。
元禄 6年(1694) 52 50 芭蕉許六宛書簡、
素堂に面会できずに名残りを惜しむ。
元禄 7年(1695) 53 51 芭蕉、十月十二日、大阪にて死去。
素堂、妻の喪中につき大阪へ不行。
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山梨文学講座 芭蕉の甲斐落ち
山梨文学講座 芭蕉
芭蕉の甲斐訪問の諸文献の紹介
- ……芭蕉の甲斐落ち……
- 引用資料『俳聖芭蕉』 野田要吉先生(野田別天楼)
- 昭和十九年発行
- 天和時代の芭蕉
- 《前文略》
- 其角の枯尾花に芭蕉庵急火に依り、芭蕉は潮にひたり苫をかつぎて煙のうちを逃げ延び「是ぞ玉の緒のはかなぎ初也。爰に猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発して」と云ってみるが、芭蕉はこれより前に、俳頂禅師に参じて悟道の修行をしていたのだから。世蕉庵の焼失に遇ひて、始めて「猶火宅モの変を悟り、無所住の心を発して」といふ譯でもあるまい。しかし芭蕪庵の焼失は芭蕉に「無常迅速生死事大」の念を一層深からしめたに違いなかろう。芭蕉庵焼失を十二月廿八日の大火の時とすれば、やがて年も暮れ果てゝ佗しいうちに天和三年を迎へた事であろう。杉風、卜尺など物質的に芭蕉を援護していた門人達の家も多く類焼したのだろうから、芭蕉は真に身を措くに処なき思いであったろう。されば焼野の原となった江戸を逃れて、甲州落となったのである。
- 芭蕉庵の甲州落
- 後年のことであるが、金沢の北枝が火災に遭った見舞状の中にも、
- ……池魚の災承り、我も甲斐の山里に引うつり、さまざまの苦労いたし候へば、御難儀の程察し申候……
- と芭蕉がいっている。
- 『枯尾華』に
- ……其次の年夏の半に、甲斐が根にくらして、富士の雪のみつれなければ……
- といっているが、其角は芭蕉庵焼失を天和三年としているから、その次の年は貞享元年となるわけだが、これも誤りであって、芭蕉の甲州行は天和二年(?)の事である。
- 成美の『随斎諧話』
- ……芭蕉深川の庵池魚の災いにかゝりし後、しばらく甲斐の国に掛錫して、六祖五平というものをあるじとす。六祖は彼ものゝあだ名なり。五平かって禅法をふかく信じて、仏頂和尚に参学す。彼もの一文字だに知らず、故に人呼んで六祖と名づけたり。ばせをも又かの禅師の居士なれば、そのちなみによりて宿られしと見えたり。……
- とあり、湖中の『略伝』には
- ……深川の草庵急火に、かこまれ殆あやぶかりしが(中略)その次の年佛頂和尚(江戸臨川寺住職)の奴六祖五平と云(甲州の産にして、仏頂和尚竹に仕へ大悟したるものものゝ情にて甲斐に至り、かの六祖が家に冬より翌年の夏まで遊されしと
- ぞ……
- といひ、
- ……一説に、甲州の郡内谷村と初雁村とに久敷足をととゞめられし事あり。初雁村の等力村萬福寺と云う寺に、翁の書れし物多くあり。又初雁村に杉風が姉ありしといへば、深川の庵焼失の後かの姉の許へ杉風より添書など持れて行れしなるべし
- と、云う。……
- とも云っている。これ等の説悉くは信ぜられないが、芭蕉が参禅の師仏頂和尚の奴六祖五兵衛といふもの甲斐に国に居り、彼をたよりて甲斐の国に暫く杖を曳かれたといふ事は信じてよいようだ。五兵衛のことはよく分らぬが、眠に一字なきにも拘はらず、禅道の悟深かりし故六祖といふあだ名を得ていたものらしい。
- 六祖はいふまでなく、慧能大鑑禅師のことで、眼に文字無かりしも、
- 菩提本非樹、明鏡亦非臺、本来無一物、何処惹塵埃。の一偈によりて五祖弘忍禅師嗣法の大徳となった。六祖の渾名を得ていた五兵衛と同門の囚みに依って、芭蕉は甲斐の国に暫く衣食の念を救われたのであった。
- 甲斐の国には芭蕉門下の杉風の姉が住んでいたといふ『略伝』の説が事実とすれば、一層好都合であったろう。なお甲斐の国は芭蕉の俳友素堂の郷国であるら、素堂が何ら後援をして、芭蕉を甲斐の国に一時安住の地を得しめたのではないかと、私は臆測を逞うするのであるが、単に臆測に止りて、之を実証するに足る文献の発見されないのは遺憾とする所である。
- 甲斐の国に芭蕉の居ったのは約半年位のことゝ思はれる。その間芭蕪は高山麋塒、芳賀一唱等と三吟歌仙二巻を残して桐雨の『蓑虫庵小集』に採録している。
- 夏馬の遅行我を絵に見る心かな 芭蕉
- 変手ぬるゝ瀧凋む瀧 麋塒
- 蕗のに葉に酒灑の宿黴て 一唱
- 弦なき琵琶にとまる黄鳥
- 洗ふ瀧の鏡などゝては
- さくらは二十八計けん
- 芭蕉庵再建
- 甲斐に佗しい日々を迭っていた芭蕉は、天和三年の夏五月に江戸に帰った。江戸にいた門人等の懇請に依ったものであろう。大火後の江戸の跡始末も一片付した頃である。芭蕉は江戸に帰りはしたが、芭蕉庵は焼失していたし、門人の家などで厄介になっていたかも知れぬ。芭蕉の境遇に門人達はけ大いに同情したであろう。そこで有志の物が協力して芭蕉庵を再興することになった。その勧進帳の趣旨書は山口素堂(信章)が筆を執った。
- 成美の『随斎諧話』に
- ………上野館林松倉九皐が家に、芭蕉庵再建勧化簿の序、素堂老人の真蹟を蔵す。所々虫ばめるまゝをこゝにうつす。九皐は松倉嵐蘭が姪係なりとぞとして次の文を載せている。
- 芭蕉庵庵烈れて蕉俺を求ム。(力)を二三子にたのまんや、めぐみを数十生に侍らんや。廣くもとむるはかへつて其おもひやすからんと也。甲をこのます、乙を恥ル事なかれ。各志の有所に任スとしかいふ。これを清貧とせんや、はた狂貧とせんや。翁みづからいふ、たゞ貧也と、貧のまたひん、許子之貧、それすら一瓢一軒のもとめ有。
- 雨をさゝへ風をふせぐ備えなくば、鳥にだも及ばす。誰かしのびざるの心なからむ。是草堂建立のより出る所也。
- 天和三年秋九月竊汲願主之旨
- 濺筆於敗荷之下 山 素 堂
- 「素堂文集」の文とは多少の異同がある。 かやうにして芭蕉庵再建の奉加帳が廻されたので、知己門葉々分に応じて志を寄せた。
- その巨細が『随斎諧話』に載っている。やゝ煩わしいことではあるが、転載して当時を偲ぶよすがとする
- 五匁 柳興 三匁 四郎次 捨五匁 楓興
- 四匁 長叮 四匁 伊勢 勝延 四匁 茂右衛門
- 三匁 傳四郎 四匁 以貞 赤土 壹匁 小兵衛
- 五分 七之助 二匁 永原 愚心 五分 弥三郎
- 五匁 ゆき 五匁 五兵衛 二匁 九兵衛
- 四匁 六兵衛 三匁 八兵衛 五分 伊兵衛
- 二匁 不嵐 一匁 秋少
- 二匁 不外 一匁 泉興 一匁 不卜
- 一匁 升直 五匁 洗口 五分 中楽
- 五分 川村半右衛門 一銀一両 鳥居文隣 五匁 挙白
- 五分 川村田市郎兵衛 三匁 羽生 調鶴 五分 暮雨
- 次叙不等
- 二朱 嵐雪 一銀一両 嵐調 一銭め 雪叢
- 三匁 源之進 一銭め 重延 よし簀一把 嵐虎
- 一銭め 正安 五分 疑門 一銭め 幽竹
- 五分 武良 二匁 嵐柯 一匁 親信
- (不明) 嵐竹 五匁 (不明)
- 破扇一柄 嵐蘭 大瓠一壺 北鯤之
- かやうな喜捨によって、芭蕉庵は元の位置に再建された。再建の落 成は冬に入ってからのことであったらう。『枯尾華』に、
- ……それより、三月下人ル無我 といひけん昔の跡に立帰りおはしばし、人々うれしくて、焼原の舊艸にに庵をむすび、しばしも心とゞまる詠にもとて、一かぶの芭蕉を植たり。
- 雨中吟
- 芭蕉野分してに盥を雨を聞夜哉 (盥=たらい)
- と佗られしに堪閑の友しげくかよひて、をのづから芭蕉翁とよぶことになむ成ぬ。……
- と云っている。再建の芭蕉庵にも芭蕉を植えたことは当然と思はれるが、「芭蕉野分して」の句は焼失前の作であること既に述べた通りであり芭蕉翁と呼んだのも焼失前であった。
- 『続深川』によれば、
- ……ふたゝび芭蕉庵を造りいとなみて
- あられきくやこの身はもとのふる柏
- といふ芭蕉の句がある。再建入庵後程なき頃の吟であろう句意は解すみまでも無かろう。
- 芭蕉は約半歳ほど甲斐の山家に起臥していたのだが、その間の句が余り聞えていない。芭蕉庵俵鏡失といふ非常事件に遭遇し「猶火宅の変を悟り、無所住の心を発して」とまで云はれているのだから、悟発の句といふやうな優れた作があるべきだと思はれるのだが、それらしいものが傳っていない。前に奉げた麋塒、一唱と三吟歌仙の立向
- 夏馬の遅行我を絵に見る心かな 芭蕉
- は甲斐に行く途中吟と云はれている。夏の馬に乗って徐行してみる自分を畫中の趣と感じたので、旅路を楽しむゆとりの見える作ではあるが「夏馬の遅行」はふつゝかな言葉である。この句は風国の『泊船集』に「枯野哉」と誤っている。叉松慧の『水の友』に「画賛」として、
- ……かさ着て馬に乗たる坊主は、いづれの境より出て、何をむさぼりありくにや。このぬしのいへる、是は予が旅のすがたを写せりとかや。さればこそ、三界流浪のもゝ尻、おちてあやまちすることなかれ。……
- 馬ほくほく我をゑに見る夏野哉
- となっている。これは後年に至りて芭蕉が自ら改作したものであるろう。
- 土方の『赤双紙』に
- ……はじめは
- 夏馬ほくほく我を絵に見る心かな
- といっている。兎に角改作したもので、
- 馬ほくほく我は絵に見る夏野哉
- は蕉風の句である。
- 勢ひあり氷えては瀧津魚 芭蕉
- この句は麦水の『新虚栗』に出ている。何丸の『句解参考』には
- 「甲斐郡内といふ瀧にて」と前書があり
- 勢ひありや氷杜化しては瀧の魚
- 勢ひある山部も春の瀧つ魚
- を挙げて、初案であろうといっている。瀧が涸れて氷柱になり瀧壺も氷に閉ざされていたが、春暖の候になりて氷も消え、瀧登りする魚も勢ひづいたといふのであろう。語勢の緊張した、豪宕な句ではあるが、どことなく談林の調子の脱けきらない、寂撓りの整はない句である。
- 『虚栗集』
- 芭蕉が甲斐の山家から江戸に帰ったのは、天和三年五月であったが、程もなく其角撰著の『虚栗』が板行された。
- 芭蕪の政の終りに「天和三癸亥仲夏日」とあるから、五月の筆である。六七月頃に板行したのであろう。其角二十三歳の時である。その早熟驚くべきである。云々
- 引用資料『俳聖芭蕉』 野田要吉先生(野田別天楼)
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甲斐国志 仏寺の部 巨摩郡北谷筋
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甲斐 恵林寺山門 重要文化財
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甲斐 清白寺仏殿 国宝
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甲斐 武田勝頼 夫人願文 家臣の裏切り続出
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佐久の名松
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倒れない
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塀
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山梨県の歴史講座 鎌倉期の武田氏 資料『山梨郷土史研究入門』山梨郷土研究会 山梨日日新聞社 平成4年(一部加筆) 治承・寿永の内乱とそれに続く初期の鎌倉幕府内の政争の過程で、鎌倉御家人としての武
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山梨県 民家百選
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