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甲州勝手小普請のこと(抜粋) 蜑の焼藻の記(森山孝盛)

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甲州勝手小普請のこと(抜粋) 蜑の焼藻の記(森山孝盛)

 寛政三年五月十八日、御目見になりて後は、様々の下問に預りたり。定信(『甲斐国志』編纂者)朝臣の下げられたる封書のうちに、医師減祿のことありけり。又近来甲州勝手小普請と云事始められて、於 江戸 心を不レ改やからは、甲州へ貶流せらるゝことになりたり。然れば血気のやからは、わざと悦びて、江戸の大借の金子を其儘打やりて、重荷おろしたる心地にて、しかもしかも事々敷引つくろひて、甲州に趣山聞えたれば、是又御教戒にも当らず、詮なきことなるべし。所詮減祿せらるべきや否、愚案を申べき由尋問れければ謹で案るに、諸医元祖は名医なりしに付て、高禄を給りしより、其子は親に不レ及、其後は代々祿に飽みちて、家業うとき者も飢ずこゞへず、妻子を養ひて罷過候より、自然と下手にのみ成行候。此頃家業にいとく御用に不レ立者は、減祿有べき由被 仰出 候へ共、其證を見せられず候間、疲馬むちに驚き候ごとくにて、痛の止候へば、又元の如く怠りを生じ候。ひとり二人も現に其證を被レ示候はゞ、一般にひゞきて、自然と眞實に業をみがき候様可 罷成 候。
又甲州へ被レ遺候者共、御厳戒を物共思はざる趣聞え候に付、諸士減祿せらるべき趣のことは、暫御勘弁あるべきにや。何程不敵なる物にもせよ、夫は上部の血気、俗諺に申候負おしみと申物にて、一旦はわざとかさをとり、何とも思はぬふりを仕候得共、舊里を離れ邊鄙へ罷在べきこと、其身は血気くるひ候共、妻子の嘆き行末の成行、彼是以て内存には甲州勝手に進みて罷るべきは、一人も有間敷候はんか、又医師は家業に疎く候ては、實に不益の祿にこそ候へ、諸士は弓引すべをしらず、太刀を取る作法も辨へず候共、何事あらん時、何れ驅出して役に立ずしては候べき。殊に先祖は並びなき手柄をも顕し、二つなき忠をも奉レ存候者に候へばこそ、代々祿をも賜り候ことに候へば、医師とはいさゝか差別も候様に存候なれ、先ず医師減祿の證を見せられて、其後諸士減祿を被 仰出 ても、遅かるべからずと書たり。(後略)

松平定信・曲淵景露  蜑の焼藻の記(森山孝盛)

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松平定信・曲淵景露  蜑の焼藻の記(森山孝盛)

 寛政三年五月、(定信が)御目付になりて、其年のことになりけり。曲淵景露朝臣(出羽守・初勝次郎、于レ時御目付)御作事奉行になりて、西丸吹上御門の升形の塀を修造するに、其比は定信朝臣の計ひにて、御城郭といへ共、故なき堀圍なんどは廃し捨られ、又は御模様替とて、昔より板塀なりしを、此度は損益を考へて、練塀に作りかへて、長き所も直に短くして、無レ害は改め作られて、専に費用を省かるゝことになりにしに彼吹上御門の升形の時(俗に高石垣とて、外桜田御門よりは高くそびへて見ゆる肝要な塀なり)練塀にすべき由沙汰あるにより、定信朝臣に逢てかゝる事承り候ひぬ。彼所は御郭外より見付第一の所と云、彼所は御城外より塀は元来矢狭間筒狭間を切候こと勿論に候得共、御治世の御在城左迄には不レ及ゆへか、御外郭の塀何処にも狭間の事に見当たり候はね共、既に筋違浅草両御門の升形には、于レ今隠し狭間を切て候なり。云々

甲陽軍艦の著者、高坂弾正  卯花園漫録(石上宜續)

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甲陽軍艦の著者、高坂弾正  卯花園漫録(石上宜續)

 甲陽軍艦を高坂弾正書たると、世に傳ふる事久し。勝頼に仕へし反町大膳武功の人にて、甲州滅て後引籠り隠れ居たる物には、香坂としるせり。姓も違ひ、偽妄多き書なりといへども、軍国の事情を能書たる故、其虚妄を人は疑はず。控弦の家専読むべき物と、古人も云しなり。然れども其事実を按じ、其真意を考へずば、大に惑はれなん事必然なり。川中島九月十日の合戦の事、記せしに依て是を論ずる内、信玄の敗北たる事疑ふべからず。卯の刻に初りたるは越後の方勝、巳の刻に始りたるは甲州の勝なりと記せり。軍は芝居を踏へたる方をもって勝とする事を、甲陽軍艦に論ず、明白なり。然れば其日戦、信玄芝居を踏へられしとは云べからず。既に山本勘助が其軍を豫め云たりしにも、二萬の兵を一萬二千、謙信の陣西条山へさし向、合戦を始めなば、越後の軍勝つとも負るとも、川を越退ん所を、旗本組二陣を以て、首尾を撃んと謀しなり。然れば謙信客戦なる故に、思ふ勝利を得たりとも、越後へ引返すは極りたる事なり。是主戦の敵に勝たればとて、宜しく其地に在るべきに非るを以てなり。是を以ていへば、信玄芝居を踏たればとて、勝とは云べからず。是一つ。又信玄芝居を踏へたりとも云がたきは、甘糟近江守犀川を渋りて三日止りたるを、甲斐より押寄て軍する事能はざりき。是越後の軍芝居を踏へたるに非ずや。是二つ。昔老人の物語に云傳へし事あり。信玄嫡子義信を殺されしは、継母の讒言ありしといへども、其實は川中島にて、信玄、義信将□に換らして、信玄は廣瀬の方へ引退く、敗軍とは云ながら、義信を捨殺すべき勢なりし故義信深く恨めるを以て、終に不和に及て殺されしに至れるとなり。信玄其場を踏む事能はずして、迯たるを以て、芝居を踏へたると云べきや。是三つ。謙信もとより甘糟を以て、川を渉るの後殿と定められしが、三日止りたるを以て見れば、甲陽軍艦に、甘糟が兵散亂せしと記せるも、虚妄なる時論を待ず。甘糟三日芝居を踏へたるに、謙信何事に狼狽して、主従二人高梨山に還りて走るべきや。謙信既に其前夜軍評定ありしに、謀しごとくなる旨、甲陽軍艦に記せし所明らかなり。初の合戦に打勝て、巳の時まで徒に敵の帰り来るを待敗走すべきや。謙信の弓箭を取れる越中の戦は、父の弔合戦なり。信濃に師を出すは村上義清に頼れて、其求めに應じて是を救ふなり。相模の軍は上杉憲政の来るを容て、巳む事を得ざるなり。故に其詞にも、強て勝敗を見るに非ず。當る所のなぎて叶はざるの戦をなさんとのべり。信義を守るを大将の慎むべき事にせり。爰を以て深く頼みたるには終始約をただへず、又其兵を用るに信玄の及ぶべきに非ず。山の根の城を攻落せしに。信玄氏康両旗にて後援する事能はず。遙々と敵の中を旅行して京都に赴きたるも、勝れたる事ならずや。信玄は謙信小田原へ攻め入たる跡に、討てなしたるはなし易きに非ずや。甲陽軍艦に、長沼を城を築れし時、判兵庫に信州水内郡にて百貫の地を與へ、信州戸隠にて、密供を修す。爰に北越の輝虎世に讒臣を企つと、〔割註〕此次切れて見えずと記せり。」永禄十一年謙信戸隠山にて、謙信を信玄呪咀する直筆の書を見て打笑ひ、弓箭とる身の恥なり。末代の寳物にせよと、神職に云れし由語り傳ふ。今其書紀州高野山にありと云。事詳に書記せる物あり。實は謙信を恐るゝ事、虎のごとしとも云べきにや。村上義清信州に再帰り入し事、甲陽軍艦に載せずといへども、永禄年中信州の中四郡謙信に属し、義清を信州へ入られし事を記する物あり。甲陽軍艦に長坂調(長)閑、跡部大炊助二人を、姦曲の臣として勝頼寵せられし事を深く憤れり。實にさる事なれども、二人權を取ることに勝頼に始れるに非ず。信玄の時分寵せられし故、勝頼に至りて深く威權ありき、信玄の時北条の兵に跡部敗れ走りしを、皆寵愛を憎しみ由を、甲陽軍艦に載たるをもって知べきなり。又云傳へしに説に、甲陽軍艦を著せし本意は弾正にて、筆執りは猿楽彦十郎と云ものなり。彦十郎は甲州滅て後、大久保忠隣の所にありて、東照宮の御事を書加へて、一書となしたるとなり。又或人の云しは、川中島の合戦の事を前夜に論じて、謙信強敵たる對々の人数にてさへ危きに、まして信玄の兵八千、輝虎は一萬二千なり。勝といふとも打死数多あるべきと、武田の名存は埋りなりと云ふ事を、甲陽軍艦に載たれば、勝は謙信にある事、分明なりと論ぜし人もありき。亦同じ書に載たる持氏生害、両上杉ほこり恣にて、武州川越にて北条に負たるは、天の罸なりと云へり。持氏の滅せしは永享十一年にて、氏康とは遙に百八年を隔たるを、同じ時に記せり。北条早雲は延徳二年に相模に打入たり。其頃上杉顕定は越後にあり。顕定は越後信濃の境長森原には、高梨に討れぬ。早雲さへ両上杉と如レ斯を、氏康いまだ生れざる以前の事共を、甲陽軍艦に記せし事誤りなり。天正六年七月十五日、管領朝定と北条氏綱と、武州川越の館にて夜軍あり、朝定討死なり。此合戦を両上杉と氏康、夜軍となして記せるにや。同十五年四月廿日、持氏の五代の後、古河の晴氏と、管領上杉憲政と共に、川越にて氏康と合戦ありて、晴氏憲政敗北なり。是を甲陽軍艦に、両上杉と氏康と記せり。されば五代以前の持氏を公方と記し、五代以後の管領を両上杉となすなり。持氏四男成氏の長兄公方政氏なり。同人の長男に高基、高基の長男晴氏なりといへり。甲陽軍艦に載る功名の事、其虚妄多し。中に就て采配を手にかけてありし敵を討とりて首を得し事、いくばくと云事を知らず。すべて甲州の敵せし士八人がた、采配を手にかけしと見ゆ。寔に笑ふべきの書の記しさまなり。其儘虚妄勝て計べからず。然れ共其時に居て、戦国の勢を能知り、且士の事情に達せし者の書たる書なるゆゑ、弓箭とる者の翫ぶべき書にて、虚妄をもって棄べきにはあらず。又上杉義春入道入庵、京都に閑居してありしが、徒然のあまり甲陽軍艦を讀せて聞かれしが、事實謬れる事多く、又なき人の名を作りこしらへたるものあり。謙信の世の事は、予能く知りたるに、如レ斯誤れるなれば、此書更に信ずる足らずとて、復讀する事なかりしと云へり。今をもって是を見るに甲陽軍艦過半は贋物なり。又按ずるに、今世の専ら行はるゝ書に、川中島五戦記と云へる書あり。此書は川中島の戦五度なりと記せり。然れども其中に疑ふべき事なきにしもあらず。是又正しき書とも信ぜられず。謙信鶴ヶ岡に詣で、忍の成田を打たりしかば、関東の諸将人々心々に離散し、小荷駄を敵に奪はれ、僅に謙信遁得て越後へ帰りしと、甲陽軍艦に記したるも心得られず。関東の諸将なびき従ずば、いかでか其年京に上る事あるべき。是年の情時勢の顕然たる事にして、甲陽軍艦の虚妄論を待ず。御上の説常山紀談に見えたり。

甲陽軍艦 須磨寺の桜    南畝莠言(大田南畝) 

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陽軍艦 須磨寺の桜    南畝莠言(大田南畝) 
(前略)須磨寺に若木の桜制札とて紙に書しものあり。われは此制札の文を疑ふ事久し。(中略)因に云、甲陽軍艦〔第四十品〕関東上杉管領の制札に、此桜花一枝も折取候はゞ、あたり八間流罪死罪にん仰付らるべき者也。仍如レ件。とたてられたるなり。扨又、信玄公、甲府穴山小路眞立寺と申し法花寺に、紅梅の甲斐一国の事は申に及ばず、近国にもさのみ多なし。さるにつき右の眞立寺より花の制札を申請につき、則禁制の札に、此花一枝一葉たりといふともたおりとる輩これあるにおいて、げんかうかうようの例にまかせ申付べき者也。云々

古き謎   嬉遊笑覧(喜多村信節)馬場美濃守 内藤修理

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古き謎   嬉遊笑覧(喜多村信節)
 永禄十二年甲州より小田原を責る條に内藤修理といふ者手から有ければ馬場美濃守より便を遣はし謎をかくるといとけの具足敵をきる内藤即小太刀とゝく美濃聞て本手よりは増なりとほむる是は美濃も修理も日来なそずきにてかくのことし。又味増峠の條内藤方より馬場方へ謎をかくるまつよひに更行かの聲きけはあかぬ罰の鳥は物かは美濃守則くるま車はなれうしとゝくとありはげしきとありはげしき戦いの中に好むことこそおかしけれ。

曲 馬(甲陽軍艦)  嬉遊笑覧(喜多村信節)

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曲 馬(甲陽軍艦)  嬉遊笑覧(喜多村信節)
 關口とて馬のりの上手あり曲乗は本の事にあらずといへども是は一入重寶なり。一丈二尺あるがけを飛おろし横一尺五寸の土居のうへをも早道或はいつさんをのる貫の木通又は板屋の上を早道に乗る其外あら馬強馬を乗て馬の藥飼まで上手なれは關東奥にも此關口ほどなるはなし俗説に小栗判官といふ者鬼かげといふ馬に騎て棋盤をものりたりといへり。小栗がことは鎌倉大草紙にも出たれ共鬼鹿毛といふ馬のことは見えず是も甲陽軍艦 武田信虎公秘蔵の鹿毛の馬のたけ(四尺)八寸八分にしてかんかたち譬へば昔の生食摺すみにも劣るまじと近国迄申ならはせば鬼鹿毛と名付と見えたり。俗説は是をとりて彼名としたりとみゆ。

武田軍の戦力分析

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武田軍の戦力分析
●寄親と同心
寄親には同心と称する隊員が配属される。寄親―同心(侍・足軽)
生島足島神社起請文
起請文の分類
○単独署名―五十九通
○連署名
<衆>
・武河衆(甲斐)・南牧衆・高山衆(上野)・海野衆・野沢衆・北方衆・山中衆(信濃)
○親類・被官
・小山田被官(甲斐)・小幡親類中(上野)・仁科親類被官・小笠原下総守被官・海野被官・青柳被官・浦野被官(信濃)
--解説--
*「信玄家法」に、「故なくして寄親を厭ってはいけない」とあるように、寄親は武田氏によって指定される。
*寄親・同心の関係は、主従の関係ではない。
*寄親にとって同心は武田氏から預かったもので、家臣ではない。
*同心は、侍か、足軽級の者が圧倒的に多かったので、同心=足軽にも使われた。
*当時の武士はほとんど農村に住み、農業を営んでいた。兵農未分離である。
*武士と農民とは、身分的にかなりはっきりわけられていた。
<軍役衆>
*在郷の同心を軍役衆といった。軍役衆は普請役(道路や城などを作る労役)を免除され、恩地を与えられることもあるが戦
 争になれば出陣。
*軍役衆=歩兵と騎兵
<例>永禄六年、諏訪上社の神官山田若狭守等は、お祭奉仕で騎兵を免除、歩兵に。
<例>永禄十年、高遠新衆(高遠城守兵・新武田軍役衆)は騎兵が十五貫、歩兵が七貫の恩地を与えられた。騎兵の負担は約歩兵の倍。

●武田の総兵カと寄親
<参考資料>『甲陽軍鑑』(品第十七)「武田法性院信玄公御代惣人数之事」(永禄10年頃)

武田氏
①御親類衆.
②御譜代家老衆
③先方衆
④足軽大将(旗本)
⑤その他諸役人
*惣計9310騎(非戦闘員を引くと9122騎・9122人)
<参考>
天正三年(1575)の上杉氏軍役帳の人数、5504人(馬上566騎)であるから、武田氏のこの
●おもな部将とその騎数(部下の数)
*御親類衆
武田典厩(てんきゅう)(信豊、信玄の弟の子)―200 
逍遥軒(武田信廉、信玄の弟)――――――――― 80
勝頼(信玄の嗣子)――――――――――――――200
一条右衛門大夫(信竜、信玄の弟)―――――――200
武田兵庫(河窪信実、信玄の弟)―――――――― 15
武田左衛門(信玄の庶子? )――――――――――100
仁科(盛信、信玄の五男)―――――――――――100(信濃)
望月(昌頼、信豊の弟)―――――――――――― 60(信濃)
葛山(信貞、信玄の末子)―――――――――――120(駿河)
板垣(信安)―――――――――――――――――120
木曾(義昌、信玄の婿)――――――――――――200(信濃・信玄の女を娶る)
穴山(梅雪信君、信玄の婿)――――――――――200(信玄の甥で婿)

●武田氏の家臣団構成
*御譜代家老衆(武田のおもな部将・部隊長)
馬場美濃守     210(信春とも信房ともいう)
内藤修理正(昌豊)  250
山県三郎兵衛(昌景) 300
高坂弾正(春日虎綱) 450?
甘利左衛門丞(昌忠) 100
栗原左兵衛(詮冬)  100
今福浄閑       70
土屋右衛門丞(昌次) 100
秋山伯書守(信友)   50
原隼人佑      210
小山田備中守(昌行)  70
跡部大炊助(勝資)  300
浅利(信種)     210
駒井右京(昌直)    55
跡部美作(勝忠)    30
これらが、である
*先方衆(占領地の武士)
信州  61
西上野 14
駿河   8
遠江   4
三河   4

●滅亡直後の武田軍の部隊
武田氏滅亡=武田遺臣の大部分は徳川家康に服属
*各隊名称・所属人員
武田親族衆         14
信玄近習衆         71
遠山衆           36
御嶽衆           20
津金衆            5
栗原衆           26
一条衆           70
小山田備中衆        24
信玄直参衆          7
小十人頭           8
山県衆           56
小十人子供衆        11
典厩(武田信豊)衆      28
駒井右京進(昌直)同心衆   12
城織部(昌茂)同心衆     49
井伊兵部少輔前土屋衆    70
今福筑前守同心衆      24
今福新右衛門(昌常)同心衆  48
青沼助兵衛同心処      18
跡部大炊佐(勝資)同心衆   18
跡部九郎右衛門(昌忠)同心衆 23
曾根下野守(昌世)同心衆   34
三枝平右衛(昌吉)同心衆   42
甘利同心衆         16
寄合衆           42
御蔵前薬           8
二十人衆          16

「衆」
○甲州関係
津金衆
御嶽衆
武河衆
*信州
山中衆
北方衆
野沢衆
海野衆
葛山衆

○先方衆(信濃・西上野など新占領地の武士)

●武田軍の装備

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●武田軍の装備
*永禄五年、大井高政宛軍役状の軍役人数は45人
乗馬5、
長柄31、
鉄砲1、
弓5、
小旗1、
その他2の割合

*諸軍役状から統計
軍勢100人
騎士12人、
槍58人、
鉄砲7人、
弓10人、
旗持6人、
手明
その他7人)

<参考資料>
*天正三年「上杉軍役帳」
軍勢100
騎士10人、
槍65人、
鉄砲6人、
旗持7人、
手明12人

●武田軍法

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●武田軍法
永禄十二年、武田軍法
1、乗馬・歩兵ともに甲を着けること。見苦しい甲でもよいから早く用意せよ。
2、槍は三間柄の槍を用いること。槍の様式は一統の衆(回し部隊)は同じように作ること。
3、長柄十本の衆は、そのうち三本は持槍、七本は長柄とせよ。長柄九本、八本、七本の衆は、二本は持槍、そのほかは長柄
 とせよ。長柄六本以下二本までの衆は、一本は持槍、そのほかは長柄、また一本の衆はすべて長柄とする。
弓・鉄砲は大切だから、長柄・持槍は略しても(弓、鉄砲を)持参すべきである。くわしくは口頭で示す。
4、鉄砲については、しかるべき放手(射手)を召し連れること。
5、乗馬の者は、貴賎ともに甲・咽輸・手蓋・両頬当・歴楯・差物を用意せよ。このうち一物も除いてはならぬ。歩兵も手蓋
・咽輸など相当に申し付けよ。
6、歩兵も差物を着けること。
7、魚行役の被官のうち、物持ちとか武勇の人を除いて、百姓・職人・神主・幼弱の者などをつれて参陣するのは、もってのほかである。
8、定納二万疋(二百貫)を領しているものは、乗馬のほか、引馬二匹を必ず用意すること。
<資料>
*武田勝頼は天正三、四年のころ(長篠敗戦の直後)「新軍法」を部下の将士に与えている。
*天正四年九月六日、勝頼、牧之島城(信濃更級郡)の守将馬場民部少輔同心衆宛て軍法
1、定法のように、陣屋を出発する時から武具を着けること。
2、今後、新軍法として、敵陣近くに陣を取る時は、軍勢の半分ずつ武具をつけ、備えを厳重に申し付けること。
3、今後、陣中での振舞はいっさい禁止する。よけいな道具・家具を持ってきてはいけない。
4、陣屋まわりの柵の木、夜番、かがり火などを厳重に申し付けよ。
5、小旗一本の旗持ちには、ホラ貝一つずつ持参させ、番ホラ・暁のホラを吹かせよ。合い言葉をよく聞き覚え、徹底させよ。
6、陣所の前後左右で用便をしてはいけない。
7、陣中で火事があったり、敵の夜襲があったりしても、いっさい取りあわず、自分の陣地を堅く守り、旗本の指揮を受けよ。
8、勝手に陣払いをしてはいけない。陣払いの時は、自分の陣に数人を残しておき、大将の陣払いを見届け、いっせいに火を
つけよ。
9、陣寄せ(攻撃)のとき、小荷駄(輸送隊)や武具荷物が、攻撃軍にまじっていてはいけない。小荷駄奉行をきめて管理させよ。
10、ケンカ・口論のさい、たとえ親類・縁者・親友でも、加勢をしてはいけない。
11、先の法度のように、貴賎ともに合い験(しるし)を付けよ。
12、軍事行動のさい、夕方になり、人数を納める時、小者などを勝手に陣屋にかえしてはいけない。

<参考資料>
勝頼は天正3年12月16日付で、信濃小県郡の小泉総三郎に下した条目
・ちかごろ諸軍の弓うつぼ(矢をいれて背負う道具)があまり見苦しいから、今後は実用にかなうのはもちろん、人に見ら
れてもあまり見苦しくないのを持ってくること。
・小旗・指物を新調すること、乗馬歩兵とも、指物(背中につける旗)をつけさせ、戦場で剛臆がはっきりわかるようにせよ。
・いまは鉄砲が重要だから、槍を省略しても鉄砲を持ってこい。鉄砲の玉薬をたくさん用意した者は忠節と認める。

●武田軍と徳川軍(徳川軍には武田遺臣が大量に流入・徳川軍戦法に武田軍の戦法が大きな影響)

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●武田軍と徳川軍(徳川軍には武田遺臣が大量に流入・徳川軍戦法に武田軍の戦法が大きな影響)
*徳川家康・秀忠の軍合=武田の軍令(類似)
<例>
*井伊直政の慶長20年(1615)4月6日軍令
・ 諸道具(武器)を持っていく者は、小荷駄にまじってはいけない。
:徳川秀忠の慶長19年10月16日付軍令
・ 小荷駄押の時、軍勢にまじってはいけない。
*『信長記』によれば武田軍は長篠役時の武田軍軍装が黒装束・赤装束などに統一されていたことが記されている。
・武田の遺臣で井伊家に属した土屋隊は武田時代のままの赤装束で、「井伊の赤備え」と呼ばれて恐れられた。

<参考資料>いち早く徳川についた武川衆
●武川衆中
 武川衆御重恩之覚
  一、百拾石          柳沢兵部丞
  一、八拾石          曲淵庄左衛門
  一、八十六石         曽雌民部丞
  一、九拾貳石         折井長治郎
  一、五十石          有泉忠蔵
  一、八拾石          青木與兵衛
  一、百石           馬場右衛門丞
  一、百拾八石八斗       伊藤三右衛門
  一、五拾六石四斗貳升     曽根孫作
  一、六拾石          折井九郎三郎
  一、百拾石          曽雌新蔵
  一、七拾五石          山高宮内少輔
  一、貳拾石          山高清左衛門
  一、貳百石          折井市左衛門

 合千貳百五拾石貳斗貳升

 御重恩之地
  一、仁百俵  馬場勘五郎
  一、仁百俵  青木尾張
  一、仁百俵  曲淵玄長
  一、仁百俵  青木彌三左衛門
  一、八十俵  馬場小太郎
  一、八十俵  横田源八郎
  一、八十俵  米倉左太夫
  一、八十俵  米倉彦次郎
  一、八十俵  米倉加左衛門
  一、八十俵  米倉彦太夫
  一、八十俵  曲淵庄左衛門
  一、八十俵  曲淵助之丞
  一、八十俵  折井九郎二郎
  一、八十俵  青木彌三郎
  一、八十俵  伊藤新五郎
  一、八十俵  青木勘四郎
  一、八十俵  曽雌民部助
  一、八十俵  入戸野又兵衛
  一、六十俵  柳沢兵部少輔
  一、六十俵  米倉六郎右衛門
  一、六十俵  山寺甚左衛門
  一、四百俵  折井市左衛門
 合貳千九百六十俵
  右野分可有宛行候
寅正月廿七日  成澤吉右衛門
          大久保十郎兵衛
          日下部兵右衛門
 右米倉家貞享書上之写天正十八年寅としの事跡なるべし

<参考資料>
御朱印
 ●武川次衆事
  曽雌藤助・米倉加左衛門尉入戸野又兵衛・秋山但馬守・秋山内匠助秋山織部佐・秋山宮内助・功刀彌右衛門尉
戸島藤十郎・小澤善太夫・小澤甚五兵衛・小澤縫右衛門・小尾與左衛門・金丸善右衛門・金丸新三・伊藤新五
海瀬覚兵衛・樋口佐太夫・若尾木工佐衛門・山本内蔵助・石原善九郎・名取刑部右衛門・志村惣兵衛・鹽屋佐右衛門
  山主民部丞・青木勘次郎
 右各武川衆所定置也仍如件
   天正十一年十二月十一日
右米倉家貞書上

〔素堂余話〕 芭蕉の漢詩 、「芭蕉と素堂の交渉」

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〔素堂余話〕
「芭蕉と中国文学」〔五山の遺産と平安朝の遺産〕 神田秀夫氏著
(前略)芭蕉の読んだ漢漢籍には二つの系統がある。一つは「白氏文集」の蒙求のような、平安朝の昔から読まれて来たもので、この方は多分、北村季吟から承け継いだものであろう。他の一つは杜詩のような、五山文学の時代から読まれだしたもので、この方は多分、山口素堂から啓蒙されたものであろう。
〔素堂余話〕
「芭蕉と中国文学」〔五山の遺産と平安朝の遺産〕 神田秀夫氏著
(前略)芭蕉の読んだ漢漢籍には二つの系統がある。一つは「白氏文集」の蒙求のような、平安朝の昔から読まれて来たもので、この方は多分、北村季吟から承け継いだものであろう。他の一つは杜詩のような、五山文学の時代から読まれだしたもので、この方は多分、山口素堂から啓蒙されたものであろう。
(中略)
そこで想像ではあるが、芭蕉に杜詩や東坡・山谷を読ませたり、荘子の思想を滲透させたりした源流は山口素堂にあるのでなかろうか。もちろん素堂だって信章の時代は、桃青時代の芭蕉とともに『江戸両吟』『江戸三吟』と談林風に遊んだわけで、当時は彼も「古文眞寶氣のつまる秋」と附けていた(『両吟』)のだが、芭蕉が深川に移って以後、彼のために、あの四山の瓢銘を作ったり、蓑蟲の説をなしたりした「隠士素翁」は、わずか二歳の年長であるが、芭蕉より早く唐宋詩文の世界に深入りしていたらしく見えるからである。その意味では、この稿の主題「芭蕉と唐宋詩文との交渉」も、「芭蕉と素堂の交渉」
と改めるべきかもしれない。(『日本古典鑑賞講座』井本農一氏編)
 

「芭蕉靈神記」 『金午獨語』所収。      鶯雅著

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「芭蕉靈神記」 『金午獨語』所収。     鶯雅著

筑紫高良山國□神社のかたへに祠れるは、寛政辛亥(三年/1791)神祇伯従二位白河資延王に、何某がねき乞ひて、桃青靈神と號を申下したりしに、又天保癸卯(十四年)百五十年の周辰忌によりて、忝も二条殿より奉上なし給ひ、大明神の贈號を宇宙に普く及ぼし給ひ、益々和光いやましぬ。かくて維新の際、其靈を祀るに、恭も色の服を身にまとひ、烏帽子かびりぬかづくも、俳諧正風を起立せし其功績を深く敬ふのあまりあり。

 
『俳諧龍雀』雙雀氷壺(下総の人)著。
祖翁を何靈神と、近き頃いみじきことの如く思ひて、筆にものせ侍るを見たり。
祖翁は禅居士にてましくしかば、御心にはさらに嬉しとおもほし給はじ。同盟の人はゆめく申すまじきことになむ。
 
『舌切雀』下総国堺町、文哉著。
靈神は神靈なり。此神靈まつればかならず来格するなり。俳席にも、祖翁の像をかけ、香を捻りて、敬をいたす。若神なしと云はゞ、尊像をかくるに及ばず。…禅寺に達磨尊者又は梁の武帝をかくることは如何に。渠は頑なる神靈佛之道の神のごとのみ思ふや。云々 芭蕉の尊崇も至れり盡せりである。(萩原蘿月氏談)
 

素堂、芭蕉追善句文(刊行年による)

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素堂、芭蕉追善句文(刊行年による)
 
『枯尾花』元禄七年(1694)
深草のおきな宗祇居士を讃していはずや、友風月家旅泊芭蕉翁のおもむきに似たり。
旅の旅つゐに宗祇の時雨哉
雲水の身はいづちを死所
 
『翁草』元禄九年(1696)
頭巾着て世のうさ知らぬ翁草
 
『陸奥鵆』元禄十年(1697)
亡友芭蕉居士、近来山家集の風体をしたはれければ追悼に此集を読誦するものならし。
あはれさやしぐるる比の山家集
 
『柱暦』
茶の羽織おもへば主に穐もなし
 
『続有磯海』元禄十一年(1698)
ばせを墓にまうでて手向草二葉
秋むかし菊水仙とちぎりしが
苔の底泪の露やとどくべし
 
『芭蕉庵六物』元禄十二年(1699)
予が家に菊と水仙の畫を久しく翫びけるが、ある時ばせををまねきて、此ふた草の百草におくれて霜にほこるごとく、友あまたある中にひさしくあひかたらはんとたはぶれ、菊の繪をはなして贈る時、
菊にはなれかたはら寒し水仙花
 
『はだか麦』元禄十三年(1700)
芭蕉庵三回忌
歎とて□ぞ残る垣の霜  
 
『冬かつら』元禄十四年(1701)
ことしかみな月中の二日、芭蕉の翁七回忌とて、翁の住捨ける庵にむつまじきかぎりしたひ入て、堂あれども人は昔にあらずといへるふるごとの、先思ひ出られて涙下りぬ。空蝉のもぬけしあとの宿ながらも、猶人がらのなつかしくて、人々句をつらね、筆を染て、志をあらはされけり。予も又、ふるき世の友とて、七唱をそなへさえりぬ。
其 一
くだら野や無なるところを手向草
其 二
像にむかひて
紙ぎぬに侘しをまゝの佛かな
其 三
像に声あれくち葉の中に帰り花
其 四
翁の生涯、風月をともなひ旅泊を家とせし宗祇法師にさも似たりとて、身まかりしころもさらぬ時雨のやどり哉とふるめきて悼申侍りしが、今猶いひやまず。
時雨の身いはゞ髭なき宗祇かな
其 五
菊遅し此供養にと梅はやき
其 六
形見に残せる葛の葉の繪墨いまだかはかぬがごとし。
生てあるおもて見せけり葛のしも
其 七
予が母君七そじあまり七とせに成給ふころ、文月七日の夕翁をはじめ七人を催し、万葉集の秋の七草を一草づゝ詠じけるに、翁も母君もほどなく泉下の人となり給へば、ことし彼七つをかぞへてなげく事になりぬ。
七草よ根さへかれめや冬ごもり
といふものはたそや武陽城外葛村之隠素堂子也
 
『そこの花』元禄十四年(1701)
芭蕉の塚に詣して
志賀の花湖の水それながら
 
『きれぎれ』
芭蕉塚にて
志賀の花湖の水それながら
 
『渡鳥集』
芭蕉居士の舊跡を訪
志賀の花湖の水それながら
 
『追鳥狩』
此句粟津翁塚に手むけぐさとなん
夢なれや梅水仙とちぎりしに
 
『三河小町』元禄十五年(1702)
ちからなく菊につゝまるばせをかな
 
『木曾の谷』宝永 元年(1704)
あはづ芭蕉塚にて
志賀の花湖の水それながら
 
『千句塚』
しぼミても命長しや菊の底 (前書、本文参照)
 
『誰身の袖』
去来丈追善の集編せらるゝのよし傳へ聞侍りて、風雅のゆかりなれば、此句をあつめて牌前に備ふ。元察子執達給へ。
枯にけり芭蕉を学ぶ葉廣草
 
『東山萬句』宝永 三年(1706)
前のとしの春ならん湖南の廟前に手向つる句をふたゝびこゝに備るならし。
志賀の花湖の水それながら
 

初桜 『図説 俳句大歳時記』春 角川書店

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初桜 『図説俳句大歳時記』春 角川書店
解説>
初花と同じ意味で、その春に初めて咲くサクラの花のことである。サクラの咲く時期は、品種や土地の気候によってずれがある。毎年桜だよりとして新聞にのる待別に早く咲き始めたサクラを調べてみると、その多くはヒガソザクラで、巻頭以西では三月中旬に咲き始め、北の地方にいくにしたがってしだいに遅れる。東北地方のような寒い地方では、ヒガソザクラとソメイョシノなどの咲き始めは、わずかしか違わないので、初桜は必ずしもヒガンザクラとは限らないわけである。したがって初桜は、土地々々で初めて見るサクラと解釈してよい。このように咲き始めに遅速はあるが、サクラが咲げば寒い冬も終わりを告げて、待ちに待った春を迎え気分もおのずと明るくなるのである。↓  
  
はつ桜足駄ながらの立見かな    伊東信徳 「前後園」
顔に似ぬ発句も出でよ初桜     松尾芭蕉 「続猿蓑」
咲乱す桃の中より初桜       松尾芭蕉 「芳里岱」
初桜折しも今日はよい日なり    松尾芭蕉 「土芳筆全伝」
供ぶれも折にこそよれ初桜     向井去来 「菊の香」
  初桜足軽町のはづれから      北枝   「北枝句集」    
けふまでの日はけふ捨てて初桜   千代女  「松の聲」
わき道の夜半や明るく初桜     千代女  「千代尼尺牘」   
旅人の鼻まだ寒し初ざくら     蕪村   「蕪村句集」      
雨風のあらきひまより初桜     樗良   「花七日」    
きのふ見しあれが禿か初桜     蓼太   「蓼太句集」    
初ざくら御守の御門ひらきけり   蝶夢   「草根発句集」    
自箸に蕨のあくやはつざくら    大江丸  「俳懺悔」    
谷底に塩売る声や初ざくら     蒼虬   「蒼虬翁句集」 
徐ろに眼を移しつつ初桜      高浜虚子 「虚子句集」    
咲きたれてそよりともせず初ざくら 清原拐童 「改造文学全集」    
明星はいつもの初星初ざくら    中村草田男 (万縁)  
夕空に片あかりせり初桜      田中冬二 「行人」    
山がかる路のうす日の初ざくら   大田鴻村 「群青」    
初桜男同志も恋に似て       目追秩父 (浜) 
 
白州町横手 関の桜

イメージ 1


イメージ 2

北杜市 古桜 古民家


田植え前

映える景色

水映景 八ヶ岳

白州町 日向山

素堂翁の紹介『國文學』 解釈と鑑賞昭和三十年発行。(松本義一氏著)

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素堂翁の紹介『國文學』 解釈と鑑賞昭和三十年発行。(松本義一氏著)

  素    堂  
 山口素堂は寛永十九年五月五日(一説に正月四日)甲斐北巨摩郡教來石字山口に、郷士山口市右衛門の長子として生まれた。名は信章、字は子晋また公商、通称は勘(官)兵衛といった。初め來雪と號し(延寶六年初見)、後素堂と改めたが、(同八年)それは堂號素仙堂の略で、隠棲後の呼名素道と音の通ずるところから俳號に用ゐたものといはれてゐる。別に信章斎、松子、蓮池翁とも號し、且つ茶道の庵號として今日庵、其日庵等があつた。享保元年八月十五日、武蔵葛飾に於て病歿。享年七十五歳、法名廣山院秋厳素堂居士、遺骸は上野谷中感応寺中瑞院に葬られたが、別に小石川指ケ谷厳淨院に山口黒露の建立の墓があり、元禄九年故郷甲斐濁河の治水に、代官櫻井孫兵衛政能の懇願によって助力したので、里人その恩に感じ、後年蓬澤に祠を營んで山口靈神と稱してゐるのである。
山口家は彼の少青年の頃、甲府に移り、魚町西側に居を構へ、酒造業を營む富商として、時の人から山口殿と稱せられゐた。
 彼はかゝる境遇に恵まれつつ好學の若き日を送つたが、寛文の初年頃であったらうか、遊學のため江戸へと志した。家督を弟に譲ったいふのもこの頃であったと推定される。
 江戸では林羅山の第三子春斎より經學を授けられ、京へ赴いて和歌を清水谷家に(或は持明院家ともいふ)書道を持明院家に學んだといはれる。かくて延寶年間、何かの公職に就いてゐたらしいが、同七年の頃、職を辞して上野不忍池畔に退隠した。その剃髪も改號(素堂)も、この時にかかはりを持つものであったらしい。
 ともあれ、ここに隠士素堂の生活が開始された。彼は更に閑居を葛飾の阿武(あたけ)に移した。不忍退隠後は、漢詩・和歌・俳諧・書道・茶道(宗旦流)・香道・猿樂(寶生流)・等に瓦つて廣く樂しみ、葛飾へ移住後は、葛飾隠子、又は江上隠士として悠々隠逸の境に徹し、庭池に蓮を植ゑ、菊園を造り、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」といつた、京都東山隠士木下長嘯子の言葉をあはれみ(芭蕉『嵯峨日記』)ひたすら簡素・静閑の世界に端然と起居したのであつた。
 けれど、至孝を捧げた母を失ひ、且つは小名木川を上下して親しく交渉したる芭蕉をも引續いて失つてからは、とかくこの閑居を出ることが多くなつた。即ち、元禄八年には父母の展墓のため甲府に歸り、身延に詣で、その翌年も甲府に赴いて濁河の治水に努め、爾後、東海道を西へ、京都を中心として、山城・近江・伊勢・尾張等への旅を屡々試みてゐるのである。而も千年の古都京の風光を酷愛し、その地に居を移さうとする心持さへ抱いてゐた。
 その老後には、瘧を煩つて危篤に瀕し(寶永七年か)、正徳三年の師走には火災にあつて翌年の新春を他郷で迎へ、また山口本家が零落するなどと、人生の不幸を味つたが、それやこれやでその生活は不如意であつた。だが彼は清貧のうちに身を高く持してゐたもののやうであつた。
 素堂の俳壇への登場は寛文七年(時に廿六歳)、加友撰の『伊勢踊』で「江戸山口信章」として五句入集してゐる。もとよりその句振りは          
   かへすこそ名残おしさは山々田  
といつて具合に、貞門風そのものであつた。かくて延宝二年十一月には上洛して季吟以下の歓迎百韻の席に臨んでゐる(『廿日會集』)。けれど翌年五月には、大阪より東下して談林風を鼓舞してゐた總師宗因を中心に、桃青(芭蕉)らと百韻興行に参加し、新風への關心と接近を示したのであつた。時に彼の周囲には桃青あり信徳あり幽山ありで、「江戸両吟集」(同四年)・「江戸三吟」(同六年)・「江戸八百韻」(同年)と、談林讃美の心から、談林風の俳諧をものし、甚だ熟情的に活躍した。
 當時の彼の俳句、「江戸新道」(同六年)所収。
かまくらにて    目には青葉郭公はつ鰹   
 は諸書にも採録されて、彼の作品中最も有名であるが、古歌以来の初夏の風物として青葉と郭公に更に鎌倉名物の初鰹を添へたものである。
 最初の「目には」・で、以下「耳には」・「口には」を類推させるあたり、談林作家としての彼の得意の程が思はれる。その軽快の調べと、江戸っ子の愛好した初鰹のあしらひとが、初夏の清新さを表現して、大衆の人気を獲得したのであつた。延宝に於て芭蕉と交渉を持った素堂は、天和に入ると愈々その親交の度を加へて行つた。當時は所謂虚栗(みなしぐり)調流行時代で、それは芭蕉の新風開發の劃期的まものであつたが、その漢詩や和歌を取り入れた佶屈な句作りは、漢學や古典の教養深き素堂の得意とするところで、ここに再び彼の制作熱が燃え上り、新調のよき支持者となつたのである。
荷興十唱(中一句)    浮葉巻葉此蓮風情過たらん (虚 栗)
 この句の「蓮」はレンと音讀せねば一句の趣きがないと芭蕉は評したが(『草刈笛』)、それはこの句全體の格調が破れてしまふからである。一句としてよりも生硬を免れ得ぬものの、彼一流の高致の気概が内在する。 貞享から元禄にかけて、その閑居葛飾が深川の芭蕉庵に程近い關係からか、芭蕉一門との交渉が益々繁くなつた。
 貞享度はもとより『冬の日』・『春の日』が公にされて蕉風の確立を見たが、これに續く其角編の『續虚栗』(同四年)の序に於て、素堂は、景情の融合を望み、更に『時の花』・『終の花』の論に及び、時の花は一時的興味的美であり、終の花は永遠的生命的詩情であると、蕉門の不易流行説の先驅説を述べてゐるが、當時の彼は自然を凝視し静観する制度に立って氣高き幾つかの作品をうたひ上げた。      
  • 雨の蛙聲高になるも哀也 (貞享三年・『蛙合』)   
  • 春もはや山吹しろく苣苦し (同四年・『續虚栗』)   
 かくて世の聲望を得つつ元禄期に入り、その三四年に至るまで、相當數の作品を制作したものの同五年の沾徳撰の『一字幽蘭集』の序文に於て、彼は、自己を絶對視して他の排撃することを避け、是非・新古は畢意鑑別しがたく、俳諧の風體は推移に任すべきであると、主義主張にかかはらぬ自由の態度を示すに至つた。これは、一門の總師として、この一筋に繁がり、ひたぶるに新味を追求し、新風を宣揚したやまぬ芭蕉の生命を賭しての俳諧態度とは全く對蹠的で、清閑の世界にその多趣味を樂しみつつある隠逸者の性格と生活の自づからなる歸結であつたのであらう。この態度はその命終に至るまで變る事が無かつたが(『とくとくの句會』自跋参照)、かくて彼自身の制作熱が微温的となり、而も俳諧の良友たる芭蕉を失つてからは、愈々それが低下の一路を辿つて行くのであつた。
 だが彼は寛文以来長きに瓦る作家であり、且つは高潔の人格と和漢の深き學識の故に、人々の尊信を得つつ、依然として俳壇の高き位置を占めてゐたのであつた。
 彼と芭蕉との交渉に就いては記すべき多くの事柄もあるであらうが、ともあれ彼は芭蕉より二歳の年長とはいへ、彼の及び難い芭蕉の俳諧的力倆を畏敬したことであつたし、芭蕉も素堂の學識と人格を尊重しつつ、彼の俳諧を推進するに當り、素堂の心からなる支持に多分の喜び力と得たことであつたに相違ない。
 真実二人はこよなき俳友であり心友であった。
 素堂の俳系は門下の長谷川馬光(素丸)に継承され、彼は葛飾正風の開祖と稱された。もとより彼はさうした意識はなかつたのだが、かく開祖と仰がれるところに彼の徳望の自づかからなる現はれであり、のみならず、葛飾蕉門がその後長く栄えて行つたことはまことに慶祝であつた。彼の句集には、
 荻野清氏の好著「元禄名家句集」中の素堂篇がある。    (大分大学教授)
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