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山梨県 民家巡礼


民家と松

芭蕉の甲斐訪問の諸文献の紹介 その時山口素堂は

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芭蕉の甲斐訪問の諸文献の紹介
……芭蕉の甲斐落ち……
引用資料『俳聖芭蕉』 野田要吉先生(野田別天楼) 昭和十九年発行
  天和時代の芭蕉
 《前文略》
 其角の枯尾花に芭蕉庵急火に依り、芭蕉は潮にひたり苫をかつぎて煙のうちを逃げ延び「是ぞ玉の緒のはかなぎ初也。爰に猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発して」と云ってみるが、芭蕉はこれより前に、俳頂禅師に参じて悟道の修行をしていたのだから。世蕉庵の焼失に遇ひて、始めて「猶火宅モの変を悟り、無所住の心を発して」といふ譯でもあるまい。しかし芭蕪庵の焼失は芭蕉に「無常迅速生死事大」の念を一層深からしめたに違いなかろう。芭蕉庵焼失を十二月廿八日の大火の時とすれば、やがて年も暮れ果てゝ佗しいうちに天和三年を迎へた事であろう。杉風、卜尺など物質的に芭蕉を援護していた門人達の家も多く類焼したのだろうから、芭蕉は真に身を措くに処なき思いであったろう。されば焼野の原となった江戸を逃れて、甲州落となったのである。
 芭蕉庵の甲州落
 後年のことであるが、金沢の北枝が火災に遭った見舞状の中にも、
「池魚の災承り、我も甲斐の山里に引うつり、さまざまの苦労いたし候へば、御難儀の程察し申候……」
 と芭蕉がいっている。
 『枯尾華』に
「其次の年夏の半に、甲斐が根にくらして、富士の雪のみつれなければ……」
 といっているが、其角は芭蕉庵焼失を天和三年としているから、その次の年は貞享元年となるわけだが、これも誤りであって、芭蕉の甲州行は天和二年(?)の事である。
 
 成美の『随斎諧話』
「芭蕉深川の庵池魚の災いにかゝりし後、しばらく甲斐の国に掛錫して、六祖五平というものをあるじとす。六祖は彼ものゝあだ名なり。五平かって禅法をふかく信じて、仏頂和尚に参学す。彼もの一文字だに知らず、故に人呼んで六祖と名づけたり。ばせをも又かの禅師の居士なれば、そのちなみによりて宿られしと見えたり。……
 とあり、
湖中の『略伝』には
「深川の草庵急火に、かこまれ殆あやぶかりしが(中略)その次の年佛頂和尚(江戸臨川寺住職)の奴六祖五平と云(甲州の産にして、仏頂和尚竹に仕へ大悟したるものものゝ情にて甲斐に至り、かの六祖が家に冬より翌年の夏まで遊されしとぞ……)といひ、
「一説に、甲州の郡内谷村と初雁村とに久敷足をととゞめられし事あり。初雁村の等力村萬福寺と云う寺に、翁の書れし物多くあり。又初雁村に杉風が姉ありしといへば、深川の庵焼失の後かの姉の許へ杉風より添書など持れて行れしなるべしと、云う。」
 とも云っている。
六祖五兵衛
これ等の説悉くは信ぜられないが、芭蕉が参禅の師仏頂和尚の奴六祖五兵衛といふもの甲斐に国に居り、彼をたよりて甲斐の国に暫く杖を曳かれたといふ事は信じてよいようだ。五兵衛のことはよく分らぬが、眠に一字なきにも拘はらず、禅道の悟深かりし故六祖といふあだ名を得ていたものらしい。
 六祖はいふまでなく、慧能大鑑禅師のことで、眼に文字無かりしも、
 菩提本非樹、明鏡亦非臺、本来無一物、何処惹塵埃。の一偈によりて五祖弘忍禅師嗣法の大徳となった。六祖の渾名を得ていた五兵衛と同門の囚みに依って、芭蕉は甲斐の国に暫く衣食の念を救われたのであった。
 甲斐の国には芭蕉門下の杉風の姉が住んでいたといふ『略伝』の説が事実とすれば、一層好都合であったろう。なお甲斐の国は芭蕉の俳友素堂の郷国であるら、素堂が何ら後援をして、芭蕉を甲斐の国に一時安住の地を得しめたのではないかと、私は臆測を逞うするのであるが、単に臆測に止りて、之を実証するに足る文献の発見されないのは遺憾とする所である。
 甲斐の国に芭蕉の居ったのは約半年位のことゝ思はれる。その間芭蕪は高山麋塒、芳賀一唱等と三吟歌仙二巻を残して桐雨の『蓑虫庵小集』に採録している。

夏馬の遅行我を絵に見る心かな 芭蕉

  変手ぬるゝ瀧凋む瀧       麋塒

蕗のに葉に酒灑の宿黴て    一唱    

  
 芭蕉庵再建
甲斐に佗しい日々を迭っていた芭蕉は、天和三年の夏五月に江戸に帰った。江戸にいた門人等の懇請に依ったものであろう。大火後の江戸の跡始末も一片付した頃である。芭蕉は江戸に帰りはしたが、芭蕉庵は焼失していたし、門人の家などで厄介になっていたかも知れぬ。芭蕉の境遇に門人達はけ大いに同情したであろう。そこで有志の物が協力して芭蕉庵を再興することになった。その勧進帳の趣旨書は山口素堂(信章)が筆を執った。
 成美の『随斎諧話』に
上野館林松倉九皐が家に、芭蕉庵再建勧化簿の序、素堂老人の真蹟を蔵す。所々虫ばめるまゝをこゝにうつす。
九皐は松倉嵐蘭が姪係なりとぞとして次の文を載せている。
「芭蕉庵庵烈れて蕉俺を求ム。(力)を二三子にたのまんや、めぐみを数十生に侍らんや。廣くもとむるはかへつて其おもひやすからんと也。甲をこのます、乙を恥ル事なかれ。各志の有所に任スとしかいふ。これを清貧とせんや、はた狂貧とせんや。翁みづからいふ、たゞ貧也と、貧のまたひん、許子之貧、それすら一瓢一軒のもとめ有。雨をさゝへ風をふせぐ備えなくば、鳥にだも及ばす。誰かしのびざるの心なからむ。是草堂建立のより出る所也。
  天和三年秋九月竊汲願主之旨
     濺筆於敗荷之下 山 素 堂
 「素堂文集」の文とは多少の異同がある。 
かやうにして芭蕉庵再建の奉加帳が廻されたので、知己門葉々分に応じて志を寄せた。その仔細が『随斎諧話』に載っている。やゝ煩わしいことではあるが、転載して当時を偲ぶよすがとする。
   五匁 柳興 三匁  四郎次  捨五匁 楓興
   四匁 長叮 四匁  伊勢 勝延  四匁  茂右衛門
   三匁 傳四郎 四匁  以貞 赤土  壹匁  小兵衛
   五分 七之助 二匁  永原 愚心  五分  弥三郎
   五匁 ゆき 五匁  五兵衛  二匁  九兵衛
   四匁 六兵衛 三匁  八兵衛  五分  伊兵衛
   二匁 不嵐 一匁  秋少
   二匁 不外 一匁  泉興  一匁  不卜
   一匁 升直 五匁  洗口  五分  中楽
   五分 川村半右衛門 一銀一両 鳥居文隣  五匁  挙白
   五分 川村田市郎兵衛 三匁  羽生 調鶴  五分  暮雨
 次叙不等
   二朱 嵐雪 一銀一両 嵐調  一銭め 雪叢
   三匁 源之進 一銭め  重延  よし簀一把 嵐虎
   一銭め 正安 五分  疑門  一銭め 幽竹
   五分 武良 二匁  嵐柯  一匁  親信
  (不明) 嵐竹 五匁 (不明)  
   破扇一柄 嵐蘭 大瓠一壺 北鯤之
 かやうな喜捨によって、芭蕉庵は元の位置に再建された。再建の落 成は冬に入ってからのことであたろう。『枯尾華』に、
「それより、三月下人ル無我 といひけん昔の跡に立帰りおはしばし、人々うれしくて、焼原の舊艸にに庵をむすび、しばしも心とゞまる詠にもとて、一かぶの芭蕉を植たり。
   雨中吟
  芭蕉野分してに盥を雨を聞夜哉   (盥=たらい)
と佗られしに堪閑の友しげくかよひて、をのづから芭蕉翁とよぶことになむ成ぬ。
と云っている。再建の芭蕉庵にも芭蕉を植えたことは当然と思はれるが、「芭蕉野分して」の句は焼失前の作であること既に述べた通りであり、芭蕉翁と呼んだのも焼失前であった。
 『続深川』によれば、
  ……ふたゝび芭蕉庵を造りいとなみて
 あられきくやこの身はもとのふる柏
 といふ芭蕉の句がある。再建入庵後程なき頃の吟であろう句意は解すみまでも無かろう。
 芭蕉は約半歳ほど甲斐の山家に起臥していたのだが、その間の句が余り聞えていない。芭蕉庵焼失といふ非常事件に遭遇し「猶火宅の変を悟り、無所住の心を発して」とまで云はれているのだから、悟発の句といふやうな優れた作があるべきだと思はれるのだが、それらしいものが傳っていない。前に奉げた麋塒、一唱と三吟歌仙の立向
  夏馬の遅行我を絵に見る心かな    芭蕉 
 は甲斐に行く途中吟と云はれている。夏の馬に乗って徐行してみる自分を畫中の趣と感じたので、旅路を楽しむゆとりの見える作ではあるが「夏馬の遅行」はふつゝかな言葉である。この句は風国の『泊船集』に「枯野哉」と誤っている。叉松慧の『水の友』に「画賛」として、
……かさ着て馬に乗たる坊主は、いづれの境より出て、何をむさぼりありくにや。このぬしのいへる、是は予が旅のすがたを写せりとかや。さればこそ、三界流浪のもゝ尻、おちてあやまちすることなかれ。……
  馬ほくほく我をゑに見る夏野哉
 となっている。これは後年に至りて芭蕉が自ら改作したものであるろう。
 土方の『赤双紙』に
  ……はじめは
  夏馬ほくほく我を絵に見る心かな
 といっている。兎に角改作したもので、
  馬ほくほく我は絵に見る夏野哉
 は蕉風の句である。
  勢ひあり氷えては瀧津魚   芭蕉
この句は麦水の『新虚栗』に出ている。何丸の『句解参考』には
 「甲斐郡内といふ瀧にて」と前書があり
  勢ひありや氷杜化しては瀧の魚
  勢ひある山部も春の瀧つ魚
 を挙げて、初案であろうといっている。瀧が涸れて氷柱になり瀧壺も氷に閉ざされていたが、春暖の候になりて氷も消え、瀧登りする魚も勢ひづいたといふのであろう。語勢の緊張した、豪宕な句ではあるが、どことなく談林の調子の脱けきらない、寂撓りの整はない句である。
 『虚栗集』
 芭蕉が甲斐の山家から江戸に帰ったのは、天和三年五月であったが、程もなく其角撰著の『虚栗』が板行された。
 芭蕪の政の終りに「天和三癸亥仲夏日」とあるから、五月の筆である。六七月頃に板行したのであろう。其角二十三歳の時である。その早熟驚くべきである。云々

素堂 天和1年(1681)40才 付句 鍬かたげ行霧の遠里

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素堂 天和1年(1681)40才 鍬かたげ行霧の遠里 

素堂附句……三月、『ほのぼの立』高政編。
芭蕉入集句と素堂の附句について。
枯枝に烏のとまりたけり秋のくれ はせを
鍬かたげ行霧の遠里              素堂
 
関連記事……新編『芭蕉一代集』昭和六年刊。勝峯晋風氏著より(P431)
『二弟準縄』の脇五體の證句打添
「枯枝に霧のとまりけり秋の暮」
「鍬かたけ行く霧の遠里」
口傳茶話の事ありとあるが、此脇句附は尾張鳴海の蝶羅が『千鳥掛』に洩れたものを『冬のうちわ』に拾遺した其の一つである。加賀山代永井壽氏の許に真蹟を存する。
 
関連記事……「枯枝に」の句について(『俳聖芭蕉』野田別天氏著明柑十九年刊)
嵐雪門の櫻井吏登の『或問答』に或人の問いに答えて、
今は六十年も巳前、世の俳風こはぐしく、桃青と中せし頃は
「大内雛人形天皇かよ」
或は
「あやめ生り軒の鰯のされこうべ」
斯る姿の句も致され候。梅翁(宗団)なんど檀休の棟梁として、枝になまきず絶えなんだの最中に侍りしを、季吟も難かしがられ、桃青素堂と閑談有りて、今の俳風和ぐる方もやと、三叟神丹を煉て、桃青その器にあたる人と推して進められしにより、然らば斯くに趣にもやと
「枯枝に鳥のとまりたるや秋の暮」
の一句を定められし、是を茶話の傳と申すなり。云々
 
……葛飾素丸『蕉翁発句説叢大全』
云ふ所の季吟、芭蕉、素堂新立の茶話口偉と云事いぶかし。
素堂と季吟の対面はなき事なり。黒露に聞しが、是も右のごとく答へし。云々
筆註…季吟は延宝三年に京都で信章(素堂)歓迎百韻の歌仙を興行している。(『二十会集』)

山口素堂7 天和1年 辛酉 1681 40才

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天和1年 辛酉 1681 40才
 
世相
二月、堀田正俊に五万石を加増とし、安中から古河に移封。五月酒井忠清死去。綱吉はこれを疑い、棺を改めさせようとしたといわれる。
六月、綱吉みずから越後騒動を再審し、前判決を破棄する。
十一月、上野沼田城主真田信利を悪政の故をもって改易した。いわゆる磔茂左衛門事件の結果である。
十二月、堀田正俊を大老に任命。堀田は就任にあたり牧野成貞を将軍側用人に登用した。
 
俳壇
一月、信徳ら『七百五十韻』に呼応して、七月、芭蕉ら『俳諧次韻』刊。十一月、来山『八百五十韻』刊。以後来山、大阪俳壇で確固たる地位を築く。
 
素堂 天和1年(1681)40才 鍬かたげ行霧の遠里 素堂
素堂附句……三月、『ほのぼの立』高政編。
芭蕉入集句と素堂の附句について。
枯枝に烏のとまりたけり秋のくれ はせを
鍬かたげ行霧の遠里              素堂
 
関連記事……新編『芭蕉一代集』昭和六年刊。勝峯晋風氏著より(P431)
『二弟準縄』の脇五體の證句打添
「枯枝に霧のとまりけり秋の暮」
「鍬かたけ行く霧の遠里」
口傳茶話の事ありとあるが、此脇句附は尾張鳴海の蝶羅が『千鳥掛』に洩れたものを『冬のうちわ』に拾遺した其の一つである。加賀山代永井壽氏の許に真蹟を存する。
 
関連記事……「枯枝に」の句について(『俳聖芭蕉』野田別天氏著明柑十九年刊)
嵐雪門の櫻井吏登の『或問答』に或人の問いに答えて、
今は六十年も巳前、世の俳風こはぐしく、桃青と中せし頃は
「大内雛人形天皇かよ」
或は
「あやめ生り軒の鰯のされこうべ」
斯る姿の句も致され候。梅翁(宗団)なんど檀休の棟梁として、枝になまきず絶えなんだの最中に侍りしを、季吟も難かしがられ、桃青素堂と閑談有りて、今の俳風和ぐる方もやと、三叟神丹を煉て、桃青その器にあたる人と推して進められしにより、然らば斯くに趣にもやと
「枯枝に鳥のとまりたるや秋の暮」
の一句を定められし、是を茶話の傳と申すなり。云々
 
……葛飾素丸『蕉翁発句説叢大全』
云ふ所の季吟、芭蕉、素堂新立の茶話口偉と云事いぶかし。
素堂と季吟の対面はなき事なり。黒露に聞しが、是も右のごとく答へし。云々
筆註…季吟は延宝三年に京都で信章(素堂)歓迎百韻の歌仙を興行している。(『二十会集』)
 
素堂……夏、『東日記』言水編。発句二入集。
 
法師又立リ芹やき比の澤の暮             言水
餅を夢に折結ふしだの草枕               桃青
いつ弥生山伏籠の雲をきそ初             露沾
狭布子のひとへ夢の時雨の五月庵     杉風
住べくはすまば深川ノ夜ノ雨五月     其角
王子啼て卅日の月の明ぬらん             素堂
宮殿爐也女御更衣も猫の聲                々
 
言水……慶安三年(1650)生、~享保七年(1722)没。年七十三才。
本名、池西則好、通称八郎兵衛。大和奈良の人。十六才で法体して俳諧に専念する。祖父、父とも俳諧に親しんだ。言水は延宝四年(1676)頃、江戸に出て、素堂等と交流した。天和二年(1682)京都に移る。
 
芭蕉書簡……「木因宛芭蕉書簡」の木因添状の中所収。
山口素堂隠士をとふに、あるじ発句あり、芭蕉見て第三あり、是を桃青清書して贈れり、其の一簡なり。
秋訪ハゞよ詞ハなくて江戸の隠           素堂
(ハゼ)釣の賦に筆を棹(サオサス)            木因

(コチ)の子ハ酒乞ヒ蟹ハ月を見て     芭蕉

 
木因……木因、正保三年(1646)生、~享保十年(1725)没。年八十才。
本名、谷九太夫可信。美濃国大垣の舟問屋。江戸舟二艘、川舟七艘所有。西鶴との交流が深く、芭蕉との交渉は尾張国鳴海の知足主催の「空樽や」の百韻に芭蕉の「点」を請い、翌年、天和元年に東下して素堂・芭蕉と同席する。

素堂 天和2年(1682)41才

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素堂 天和2年(1682)41才
 
世相
……一月、大老堀田正俊さらに加増して十三万石となる。
二月、病人病馬を捨てることを禁じ、「生類憐みの令」の発端となる。
三月、孝行者を表彰。
五月、人身売買を禁止。キリスト教禁令などの高札を諸国に立てる。
七月、木下順庵を幕府儒官に起用。十二月、江戸で大火、八百やお七の火事である。
 
俳壇
……西山宗因歿(78才)。前述の火災で芭蕉庵焼失する。西鶴『好色一代男』。
桃青八吟歌仙……「歌仙 月と泣夜」
白魚露命
月と泣夜生雪魚の朧闇                   其角 雪魚=いつまで
蓑にたまらぬ蝦醤の淡雪                 桃青 蝦醤=あみ
孤村苔の若木の岩長て                   麋塒
徳利の魂の雨を諷ふか                   暁雲
山童風に茶臼ヲ敲キ待                   集和
猫ふく賤の声の旦方                     峡水 旦方=たそがれ
秋通ふいつしか荻の竈原                 自準 竈原=かまどはら
かきあげの城骨露に白し                 素堂
かげらふの法師眼に有明て               桃青
蛍火のもとにとうふ断ラン               曉雲 断=キル
水暗き芦葉に銭をつなぎてよ             峡水
蜑の捨子の雨を啼声                     自準
朝わたる荒洲の鵺の毒を吐               其角 鵺=ヌエ
猿猴腸のくさる悲しび                桃青 猿猴=エンコウ
南に風芳しき鬼醤                    麋塒 醤=ビシホ
蘇鉄に刻む髭の毛薑                     峡水 薑=ハジカミ
寒ヲ治ス貧斉坊が陽花論              曉雲
○娃将軍艦考レ之                      麋塒
春嵐時の不正の危しきに              自準
米屋が塚の雨枯にけり                桃青
折掛の行燈もえてちょろくと             曉雲
夕顔くらふ鼠おもかげ                麋塒
比し得て賎が餅花 せよ              峡水
年玉は揃尽ス秋風                    其角

只月のみ而巳にして月詠ても       素堂 詠=ナガメ

夜ルの鰹をかつを問るゝ              峡水
歌の客かげまのもとにざれいねて     桃青
泪畳をうつ私閑に                    麋塒 私閑=ササメシズカ
頭地ヲ穿ツ疼焉トおもひ              其角
髭塵を掃侍んとすらん                素堂
 
(『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』小林佐多夫氏著所収)
 
素堂……三月、『武蔵曲』千春撰。発句四、付句十入集。季吟序。
千春が天和元年冬から翌年春まで江戸に滞在した際の俳交記念集。
 春
梅柳さぞ若衆哉おんなかな              桃青
梅咲リ松は時雨に茶を立ル比               杉風
白魚露命
月と泣夜。生雪魚の朧闇              其角生雪-イツマデ
池上偶成
池はしらず亀甲や汐ヲ干ス心               素堂
けふ汐干餌切し舟の刻をとふ             千春 餌=エバ 刻=キザ
舟あり川の隅ニ夕凉む少年哥うたふ       素堂
夕皃の白ク夜ルの後架に帋燭とりて       芭蕉
夜ル國の夢ね寝覚や郭公              麋塒
   秋
侘テすめ月侘齋がなた茶哥               芭蕉
芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉              々
鰹の時宿は雨夜のとうふ哉               素堂
花桃丈人の身しりぞかれしは、いづれの江のほとりぞや。
俤は教し宿に先立て、こたえぬ松と聞えしは、誰を問ひし心ぞや。
閑人閑をとはまくすれど、きのふはけふをたのみけふまたくれぬ。
行ずして見五湖煎蠣(イリガキ)の音を聞      素堂
 
「錦どる」(一百韻一巻)高山麋塒(ビジ)主催の月見の宴。素堂付句十入集。
 
錦どる都に売らん百つゝじ               麋塒
壱 花ざくら 二番山吹               千春
風の愛三線の記を和らげて               卜尺  三線=しゃみせん
雨双六に雷を忘るゝ          暁雲  雨双六=すごろく
宵うつり盃の陣を退りける               其角  退り=まかり  
せんじ所の茶を月に汲む               芭蕉
霧軽く寒や温やの語を尽ス               素堂
梧桐の夕孺子を抱イて              似春
狐村遙に悲風夫を恨ムかと               昨雲
媒酒旗に咲みを進ムル              言水
別るゝ馬手は山崎小銭寺              執筆
猶ほれ塚を廻向して過グ                麋塒
袖桶に忘れぬ草の哀折ル              千春
小海老母を慰む                卜尺
悴たる鷺の鬘ヲ黒やかに              曉雲  悴=カジケ(やつれ)
捨杭の精かいとり立り              素堂
行脚坊卒塔婆を夢の草枕              芭蕉
八聲の月に笠を揮                     其角 揮=ハタゝク
味噌樽にもる露深き夜の戸は             言水
泣ておのゝく萩の少女              昨雲
妻戀る花馴駒の見入タル              似春
柱杖に地を切ル心春                千春
陽炎の形をさして神なしと               麋塒
帋鳶に乗て仙界に飛                曉雲 帋鳶=シエン
秦の代は隣の町と戦ひし                 其角
ねり物高く五歩に一樓                 芭蕉
露淡く瑠璃の真瓜に錫寒し               素堂 真瓜=まくわ
蚊の聲氈に血を含むらん               言水
夜ヲ離レ蟻の漏より旅立て               卜尺 漏=ウロ
槐のかくるゝ迄に帰リ見しはや           似春
匂落ツ杏に酒を買ところ                 芭蕉
強盗春の雨をひそめく                 昨雲
嵐更ケ破魔矢つまよる音すごく             千春
鎧の櫃に餅荷ひける                   麋塒
末の瓦器頭巾に帯て夕月夜               曉雲
猫口ばしる萩のさはさは                素堂
あさがほに齋まつりし鼬姫               言水  齋=イツキ
蔵守の叟霜を身に着ル                  芭蕉
此所難波の北の濱なれや                 似春
紀の舟伊勢の舟尾張船                 麋塒
波は白波さゝ波も又おかし               素堂

素堂 天和2年(1682)41才

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素堂 天和2年(1682)41才
 
世相
……一月、大老堀田正俊さらに加増して十三万石となる。
二月、病人病馬を捨てることを禁じ、「生類憐みの令」の発端となる。
三月、孝行者を表彰。
五月、人身売買を禁止。キリスト教禁令などの高札を諸国に立てる。
七月、木下順庵を幕府儒官に起用。十二月、江戸で大火、八百やお七の火事である。
 
俳壇
……西山宗因歿(78才)。前述の火災で芭蕉庵焼失する。西鶴『好色一代男』。
桃青八吟歌仙……「歌仙 月と泣夜」
白魚露命
月と泣夜生雪魚の朧闇                   其角 雪魚=いつまで
蓑にたまらぬ蝦醤の淡雪                 桃青 蝦醤=あみ
孤村苔の若木の岩長て                   麋塒
徳利の魂の雨を諷ふか                   暁雲
山童風に茶臼ヲ敲キ待                   集和
猫ふく賤の声の旦方                     峡水 旦方=たそがれ
秋通ふいつしか荻の竈原                 自準 竈原=かまどはら
かきあげの城骨露に白し                 素堂
かげらふの法師眼に有明て               桃青
蛍火のもとにとうふ断ラン               曉雲 断=キル
水暗き芦葉に銭をつなぎてよ             峡水
蜑の捨子の雨を啼声                     自準
朝わたる荒洲の鵺の毒を吐               其角 鵺=ヌエ
猿猴腸のくさる悲しび                桃青 猿猴=エンコウ
南に風芳しき鬼醤                    麋塒 醤=ビシホ
蘇鉄に刻む髭の毛薑                     峡水 薑=ハジカミ
寒ヲ治ス貧斉坊が陽花論              曉雲
○娃将軍艦考レ之                      麋塒
春嵐時の不正の危しきに              自準
米屋が塚の雨枯にけり                桃青
折掛の行燈もえてちょろくと             曉雲
夕顔くらふ鼠おもかげ                麋塒
比し得て賎が餅花 せよ              峡水
年玉は揃尽ス秋風                    其角

只月のみ而巳にして月詠ても       素堂 詠=ナガメ

夜ルの鰹をかつを問るゝ              峡水
歌の客かげまのもとにざれいねて     桃青
泪畳をうつ私閑に                    麋塒 私閑=ササメシズカ
頭地ヲ穿ツ疼焉トおもひ              其角
髭塵を掃侍んとすらん                素堂
 
(『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』小林佐多夫氏著所収)
 
素堂……三月、『武蔵曲』千春撰。発句四、付句十入集。季吟序。
千春が天和元年冬から翌年春まで江戸に滞在した際の俳交記念集。
 春
梅柳さぞ若衆哉おんなかな              桃青
梅咲リ松は時雨に茶を立ル比               杉風
白魚露命
月と泣夜。生雪魚の朧闇              其角生雪-イツマデ
池上偶成
池はしらず亀甲や汐ヲ干ス心               素堂
けふ汐干餌切し舟の刻をとふ             千春 餌=エバ 刻=キザ
舟あり川の隅ニ夕凉む少年哥うたふ       素堂
夕皃の白ク夜ルの後架に帋燭とりて       芭蕉
夜ル國の夢ね寝覚や郭公              麋塒
   秋
侘テすめ月侘齋がなた茶哥               芭蕉
芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉              々
鰹の時宿は雨夜のとうふ哉               素堂
花桃丈人の身しりぞかれしは、いづれの江のほとりぞや。
俤は教し宿に先立て、こたえぬ松と聞えしは、誰を問ひし心ぞや。
閑人閑をとはまくすれど、きのふはけふをたのみけふまたくれぬ。
行ずして見五湖煎蠣(イリガキ)の音を聞      素堂
 
「錦どる」(一百韻一巻)高山麋塒(ビジ)主催の月見の宴。素堂付句十入集。
 
錦どる都に売らん百つゝじ               麋塒
壱 花ざくら 二番山吹               千春
風の愛三線の記を和らげて               卜尺  三線=しゃみせん
雨双六に雷を忘るゝ          暁雲  雨双六=すごろく
宵うつり盃の陣を退りける               其角  退り=まかり  
せんじ所の茶を月に汲む               芭蕉
霧軽く寒や温やの語を尽ス               素堂
梧桐の夕孺子を抱イて              似春
狐村遙に悲風夫を恨ムかと               昨雲
媒酒旗に咲みを進ムル              言水
別るゝ馬手は山崎小銭寺              執筆
猶ほれ塚を廻向して過グ                麋塒
袖桶に忘れぬ草の哀折ル              千春
小海老母を慰む                卜尺
悴たる鷺の鬘ヲ黒やかに              曉雲  悴=カジケ(やつれ)
捨杭の精かいとり立り              素堂
行脚坊卒塔婆を夢の草枕              芭蕉
八聲の月に笠を揮                     其角 揮=ハタゝク
味噌樽にもる露深き夜の戸は             言水
泣ておのゝく萩の少女              昨雲
妻戀る花馴駒の見入タル              似春
柱杖に地を切ル心春                千春
陽炎の形をさして神なしと               麋塒
帋鳶に乗て仙界に飛                曉雲 帋鳶=シエン
秦の代は隣の町と戦ひし                 其角
ねり物高く五歩に一樓                 芭蕉
露淡く瑠璃の真瓜に錫寒し               素堂 真瓜=まくわ
蚊の聲氈に血を含むらん               言水
夜ヲ離レ蟻の漏より旅立て               卜尺 漏=ウロ
槐のかくるゝ迄に帰リ見しはや           似春
匂落ツ杏に酒を買ところ                 芭蕉
強盗春の雨をひそめく                 昨雲
嵐更ケ破魔矢つまよる音すごく             千春
鎧の櫃に餅荷ひける                   麋塒
末の瓦器頭巾に帯て夕月夜               曉雲
猫口ばしる萩のさはさは                素堂
あさがほに齋まつりし鼬姫               言水  齋=イツキ
蔵守の叟霜を身に着ル                  芭蕉
此所難波の北の濱なれや                 似春
紀の舟伊勢の舟尾張船                 麋塒
波は白波さゝ波も又おかし               素堂

素堂の句及び記載のある書籍・研究書一覧表  敬称略

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素堂の句及び記載のある書籍・研究書一覧表  敬称略
(掲載は年代順ではありません)

  1、 素 堂 昭和30年 「全俳人」    松本義一著
 『国文学、解釈と観賞』224

  2、 素堂資料採訪失敗記  『俳諧古跡考』  荻野清著

  3、 素堂の句と謡  『懸 葵』24の5  重雅著

  4、 素堂の俳句  『懸 蒼』24の6・7  蒼梧著

  5、 素堂の和歌  『瀬 祭』5の4  蒼梧著

  6、 素 堂 伝  『にひはり』10の12  勝峰晋風著

  7、 素堂伝 法眼能悦の文  『にひはり』12の7  勝峰晋風註

  8、 とくとくの句合  『にひはり』大正12の
 3・4・5
  9、 素堂家集の二句  『ひむろ』7の5  荻野清著

 10、 素堂研究  『小太刀』30の2  荻野清著

 11、 素堂資料  『懸 葵』29の3  紫影著

 12、 素堂句評  『俳句研究』3の10  紫影著

 13、 素堂の芭蕉観  『石 楠』昭和2年8  蒼梧著

 14、 素堂の葛飾移居  『筑 波』昭和5年11  荻野清著

 15、 素堂・知足  『筑 波』昭和7年の8  荻野清著

 16、 素堂像・芭蕉堂歌仙図  素堂・可都里・蛇骨 『雲母』
 『雲母』昭和14年の2以下

 17、 素堂の甲山紀行  『にひはり』昭和2年8  蒼梧著

 18、 素堂の漢詩文  『石楠』昭和3年4  蒼梧著

 19、 素堂の詩境凡ならず  『石楠』昭和3年4  国分犀東著

 20、 素堂野晒紀行の跋  『筑波』昭和5年の2  水哉著

 21、 素堂研究  『国語・国文』昭和7年の  荻野清著
 1・2
 《素堂の伝承に大きく影響》   

 22、 素堂年譜補正  『筑波』昭和7年の1・2  荻野清著

 23、 素堂きれぎれ  『蕉風』昭和8年の4  荻野清著

 24、  素堂の家  『俳句』昭和43年の1 
 江戸深川の素堂の抱え屋敷  朝倉治彦著

 25、 元禄名家句集  昭和29年 発行  荻野清著

 26、 素堂の俳諧  『山梨大学研究紀要』他  清水茂夫著

 27、 甲州俳人伝  『甲州文庫資料』  功刀亀内著
 《素堂の伝承に大きく影響》
 28、 甲州の和算家  弦間耕一著
 ・山口勘兵衛  『文学と歴史』昭和51年6

 29、 俳諧史上の人々  〔素堂の学才我門に絶すと師
  の春斎も語られき〕

 30、 俳人評伝・素堂   『俳句講座』  小高敏郎著

 31、※ 素堂句集  享保6年(1721)  子光著

 32、※ 素堂家集  文化元年(1804)  夏目成美著

 33、※ 素堂家集  『俳諧集覧』第6冊所集
   大正15年  
《成美著 素堂家集 に和歌
  ・漢句、詞文追加》    久蔵著

 34、※ 素堂鬼貫集  『素堂家集』  大野酒竹編
 『素堂序文・跋文』など

 35、※ 素堂伝  《学才我門に絶すと師の春斎  蟹守著
  も語られき》   

 36、※ 含英随記  《子晋(素堂)の才は檎ふべ  伯毅著
  からず、ケダシ林門三才の
  随一たるべし》

 37、 俳諧五子稿   安永4年刊行  与謝蕪村編
  素堂の句137所集

 38、 春泥集   安永6年刊(1777) 与謝蕪村著
  《素堂・其角・嵐雪
   ・鬼貫を4老と称す》

 39、※ 素丸追善集    素堂真跡遺稿所集  白芹編
  文化8年(1881)刊

 40、※ 秋七草    素堂、続虚栗序文掲載  黒露編
  宝暦12年(1762)刊
 41、 素堂の事蹟   『甲州風土記』  上野晴朗著

 42、※ 素堂の俳諧系図   『葛飾蕉門文脈系図』  馬場錦江著
  嘉永期(1845~54)
 
 43、※ 素堂の肖像 『かなあぶら』     米仲編
  享保20年(1735)

 44、 和歌・俳諧逸話集   『歌選百人選』
  安永4年(1775)素堂

 45、 関東俳諧史   素堂の事蹟『俳文学大辞典』 角川書店

 46、 甲信越俳諧史   『俳文学大辞典』  角川書店

 47、※ 俳諧小ばなし 素堂と和田蚊足について     風律著
  (秋元但馬守の家臣)
  宝暦頃(1751~64)    
 
 48、 四国俳諧史   『俳文学大辞典』  角川書店

 49、 素堂と江戸の儒者   『俳文学の研究』  掘信夫著
  昭和58年

 50、 山口素堂   『明治俳句講座』2  小高敏郎著
 
 51、 山口素堂の研究   『芭蕉論考』  
  昭和24年

 52、 山口素堂の研究   『俳文学叢説』   
  昭和29年

 53、 山梨県下に於ける生祀   『甲斐叢話』  村松志考著
  昭和11年

 54、 山口素堂の伝統   『山梨大学公開講座』  清水茂夫著
  昭和55年
 
 55、 素 道   『甲斐国志』巻之101  松平定能編
  「士庶部第一

 56、 濁河 素堂の関与   山川部第八 巻之27 『甲斐国志』

 57、 庄塚の碑   古跡之部 第7巻之44 『甲斐国志』
  
 58、 斎藤正辰、    『甲斐国志』附録 碑文
濁河改浚事蹟碑    

 59、 素堂の句碑   『甲州文学碑』昭和60年  奥山正典著
  甲府尊躰寺
  白州町役場前庭
  飯田蛇骨宅
  白州町山口素堂生誕碑

 60、  山口素堂の伝統   『甲斐路第29号』  清水茂夫著
   
 61、  素堂の紹介と肖像画  昭和30年 好古社編纂部
  『好古類纂二編
   第五編輯奥附』

 62、  俳諧七部集   素堂の句掲載 鳥酔編
宝暦7年頃(1757)

 63、  俳諧水滸伝   素堂の伝記 袖珍名著文庫蔵
 寛政元年頃(1789) 空阿著

 64、  俳諧七部集   『俳諧七部集』 素堂句多数  蘭更編
  享和3年(1803)

 65、  俳諧奇人談 素堂の肖像と伝記     玄々編
  文化13年(1816)

 66、  俳諧芭蕉談   素堂の掲載あり 文暁編
  享和2年(1802)

 67、  ばせをだらひ   素堂の句掲載 有隣編
  享保9年(1724)  
   
 68、  春と龝 はるとあき   素堂の句掲載  桃鏡編
  宝暦12年(1762)

 69、※ 毫の龝 ふでのあき   素堂号の継承 
  享保20年(1735)  寺町百庵編
  《素堂の嫡孫山口素安》   

 70、  冬のうちわ   素堂の掲載あり 鉄世編
  宝暦13年(1763)
  芭蕉・蝶羽追善集 

 71、※ 摩可十五夜   素堂50回忌追善集 山口黒露編
まかはんや   明和2年(1765)
 
 72、  藻塩袋  素堂の掲載あり 沾涼編
  寛保3年(1743)

 73、※ 連俳睦百韻   《素堂の家系について》  佐々木来雪編
  三世素堂号襲名記念集
  寺町百庵序安永8年
 
 75、※『日本文学大辞典』   素堂の掲載あり 藤村作編
  但し『甲斐国志』の転載
  昭和25年
 76、  芭蕉の軌跡 昭和54年  『国語・国文学』所集
  芭蕉と信章の風交 絶

妙の二人三脚 広田二郎著

77、  芭蕉の軌跡 昭和54年  『国語・国文学』 談林体験の意味 素堂の記載
あり 平井照俊著

78、  芭蕉の軌跡 昭和54年  『国語・国文学』 桃青三百韻(芭蕉・信徳・素
堂) 阿倍正美著
79、  芭蕉の軌跡 昭和54年  『国語・国文学』 俳諧紀行文の誕生 素堂の記
載あり 米谷 巌著
80、  芭蕉の軌跡 昭和54年  『国語・国文学』 不易流行の成立  素堂の記
載あり 大内初夫著
81、 『甲斐俳壇と芭蕉の研究』   素堂の妻の死 素堂と一峰(瓢の銘)   
池原錬昌著
82、 『芭蕉全集』   素堂の句 書簡 俳文多数掲載   
  日本名著全集刊行会著編
83、 『芭蕉年譜大成』   素堂の記載の芭蕉書簡など 平成6年刊    
  今 栄蔵著
84、 『芭蕉の手紙』   素堂曾良宛書簡(素堂の妻の死)1985刊 
  村松友次著
85、 『芭蕉句選年考』   華雀が編んだ芭蕉句選を考察したもの 元文4年(1739) 石河積翠著
  素堂の妹の死(元禄七年)の記載あり   
  藤村作・他編
86、 『日本俳書大系』 素堂の句 俳文 書簡 大正15年    
神田豊穂編
87、 『芭蕉の書簡』   「芭蕉三画一軸中の素堂の奥書 昭和46年    岡田利兵衛編
88、 『芭蕉の真跡集』   画賛三幅對 素堂(太鼓)芭蕉(琴)其角(笙)探雪画    岡田利兵衛編
89、 『山梨の文学』   開館記念冊子 素堂 蛍見句・文 素堂 蓑虫説 平成元年 
  素堂 四山の銘 蚊足画素堂賛石刷芭蕉像    山梨文学館編
90、 『俳人の書画美術3』   素堂 芭蕉庵十三夜 素堂 歳旦雪 昭和55年
91、  素堂・芭蕉和漢聯句   『芭蕉の全貌』知幾について 昭和4年    
    萩原羅月著
92、 『俳句観賞』「芭蕉七部集」 素堂の琴 《素堂と幕府儒官人見竹洞の関係》
   川島つゆ著
93、  芭蕉 俳諧小ばなし   『芭蕉全集』『国語国文学研究史大成12』  
    芭蕉翁桃青伝 
素堂の伝記 野晒紀行翠園抄 素堂跋文     俳論 三段切り(目には青葉 山ほととぎす 初鰹)   井本農一・
他著
94、 『甲府市史』「資料編第4巻」第10章 甲府の文芸  
  素堂「とくとくの句合」「蓑虫説」「甲山記行」「通天橋」
  「葛飾正統系図」「素堂の漢詩」
95、 『甲斐史』    濁川の治水  昭和50年    
    土屋 操著
96、  山口関と山口素堂   『甲州街道』 素堂は山口の生まれではない。昭和47年刊   中西慶爾著
97、 『甲斐叢記』    庄塚の碑・濁川改浚工事 嘉永元年(1848) 素堂堤と記載など
  大森快庵著
98、  山口姓   『日本姓氏大辞典19山梨』
  素堂は甲府魚町の生まれ 山口孫兵衛について 99、 『新雑談集』   蝶夢は素堂門人  素堂と蕪村    蝶 夢 編
100、 不易流行の事   『蕉門俳諧語録』 天明5年刊    蝶 夢 編
101、『芭蕉葉ぶね』    素堂は芭蕉を左右する人なり  文化14年(1817)刊    
102、『枇杷園句集』    素堂は芭蕉の善友なり  文化7年(1810)刊   士 朗 編
103、『蕪村発句集』   蕪村は素堂の句を模倣して句作した。
104、『俳文学大系』   素堂の句・俳文・遺蹟など 昭和4年刊  
105、『芭蕉俳句定本』   素堂の句 素堂母の喜寿の賀句所集 大正12年     勝峰晋風著
106、『新潮日本人名辞典』   素堂の項あり
107、『甲府城と城下町の歴史探訪』 素堂濁川工事について 昭和58年刊 古代の山梨を知る会
108、『芭蕉の全貌』   「素堂の庵」「俳諧七部通旨」「素堂馬光口伝」昭和10年刊
  「知幾は桐山正哲」「芭蕉庵六物」「素堂十三夜の行方」    萩原羅月著
109、『林藪餘談』   明和9年(1772)刊   
  百庵は素堂の親族 安適・沾徳・支考同時にして予よく知れり 寺町百庵著
110、『芭蕉葉ぶね』   「葛飾社中は素堂の門裔成り」 文化14年刊
  一茶稿 鶯 笠 述
111、『蕪村連句選集』   素堂の句を巻頭にして連句 安永3年(1774)
112、 點印論   取句法   「素堂が洒落云々」 天明6年前(1780)     与謝蕪村著
113、『井華集』   「倣、素堂口質、雁がねも春の夕暮れとなりけり」 天明7年(1787)
  凡 薫 編
114、『蕪村書簡集』   蕪村、大魯宛書簡 「わたの花たまたま蘭に似たる哉」 武藤山治蔵
115、『鬼貫句選』   「五子(素堂・鬼貫・其角・去来・嵐雪)」の風韻云々    明和6年(17
69)刊    与謝蕪村著
117、 曾良、芭蕉宛書簡   『俳句』所集 昭和34年 素堂の近況報告 
  今井黙夫著
118、 芭蕉260回忌記念展覧会・目録  昭和28年
  * 素堂・芭蕉『江戸両吟集』    
早稲田大学図書館蔵
  * 信徳・素堂・芭蕉『桃青三百韻』    
   天理図書館蔵
119、   * 素堂「西瓜と南瓜の画賛」
120、『藝淵海溺』   素堂の画賛「西瓜と南瓜」所集 昭和11年刊 
   高野辰之著
121、『芭蕉の研究』   素堂の記載あり 昭和8年刊   小宮豊隆著
122、 芭蕉、四山銘の瓢(素堂筆) 昭和30年展示会    
 俳文学会
  現物は福岡、内本紅蓼蔵「瓢は芭蕉没後二代目市川団十郎の手
  に入り歴代市川宗家に伝えられたが、関東大震災で焼失
  展示されたものは弘化2年(1845)柴田是真の作になるもの
123、 乞食画賛 其角著   素堂の奥書あり 伊丹市 柿衛文庫蔵    
昭和28年展示会 俳文学会
124、『俳諧寂栞』 字余りの事  素堂・芭蕉・其角三画一軸 所集 寛政以前(1789)刊 白 雄編
125、『麥林集』  素道号の俳人 が見える 素堂は素道の号は使
用してはいない
  『甲斐国志』は素道  元文
4年(1739)刊 麥浪編
126、『日本文学大辞典』    八十村路通  「素堂は漢学者で云々」
127、『五元集』 延享4年(1747)刊 「鑑素堂秋池」「素堂母喜寿賀」 其角
著 旨原著
128、『俳文学の系譜』   芭蕉自画自賛に対して 昭和53年刊
  素堂・露川・推柳の直筆の歌文あり    
  「津山の住推柳子のもとへ赤井氏より我友芭蕉の翁絵書きて    みつから賛せるを送らせたまふ云々」 木下壺山翁蔵
129、『国文学史新講』    俳諧の勃興・山口素堂 昭和11年刊    次田 潤著
130、『芭蕉俳諧の根本問題』   素堂の記載あり 大正15年刊   
大田水穂著
131、『大芭蕉全集・第七集紀行編』素堂記載あり昭和10年刊   
川合勘七編
132、『日本古典文学全集』    松尾芭蕉集  近世俳句集
   連歌俳諧集  素堂の句 掲載  
133、『俳句人名辞典』   素堂の項 既説のみ    
    堂石英明著
134、『江戸文学史』    芭蕉堂歌仙図 素堂像あり 昭和10年刊    高野辰之著
135、『芭 蕉』    素堂と芭蕉ら  昭和38年刊    井本農一著
136、『国文学解釈と観賞』   「第41巻3号」 蚊足筆芭蕉吉野行脚像
  蚊足画の芭蕉行脚に素堂の賛あり 
   許六の画に素堂の賛 を見たと蕪村の書簡に掲載あり
137、『芭蕉と蕉門俳人』   平成9年刊
  「素堂亭十日菊」「素堂 宗長庵記・長休庵記のこと」
  「芭蕉、蕉笠・落梧宛書簡 素堂餞別の事 
  著作「素堂菊園の遊」…『ひこばえ』昭和17年刊
138、『芭蕉俳諧の精神』   1994刊
  「素堂家集」「素堂菊園の遊」「素堂、野晒紀行跋」「素堂の署名」
  「句餞別・素堂詩」「素堂・芭蕉両吟集」「四山の銘」「蓑虫記」
  「宗長庵記」の宿主に関する記載あり     赤羽 学著
139、『校本・芭蕉全集』   素堂の記載あり     
   阿倍喜美雄著
140、『俳諧奇人談』    素堂の項 文化13年(1816)刊     青 青 著
141、『俳諧歳時記』    素堂の句 掲載 昭和22年刊   
    山本俊太著
142、『俳諧一萬集』   素堂「蓑虫」句数首掲載 明治24年刊   
   野口武次郎著
143、 山梨県立図書館蔵・素堂関係書籍 
  『峡中俳家列伝』 明治39年     
   守 拙 著
  『連俳睦百韻』    安永7年(1778) 浅草百庵著   『摩詞十五夜』 
 明和2年(1765) 山口黒露著   
 『葛飾正統系図』   年不詳   馬場錦江著
  『葛飾文脈系図』    年不詳 々  
  『松の奥・上、下』    文政2年(1819)素堂著は元禄3年  
  『俳諧素翁(素堂)口伝』 安政2年(1855)   其日庵著
  『芭蕉庵桃青伝』    安政6年(1859)    其日庵錦江著   『甲州俳人伝』 
 昭和7年    功刀亀内著  
   『甲斐俳家人名録』 慶応3年(1867)   空 羅

  『甲斐俳人伝』   小沢柳涯著     『山口素堂像』
  明治32年   山田藍々著    
『山口素堂句並肖像』   南瓜の句 模写像   々
  『とくとくの句合』    延享3年(1746)   江戸辻村五兵衛著   『とくとくの句合』
大正3年 活版    東京珍書会   
『千鳥掛』  正徳2年(1713) 知足・蝶雨著
   『甲子吟行・野さらし紀行』安永9年(1780)    芭蕉著・波静編
  『深川夜遊』    年不詳 酒 堂 編
  『野分集』    文久2年(1862) 今日庵泰登編
    素堂150回忌追善集 明治32年「俳諧文庫1
4編」
  『素堂家集』 大野酒竹編
  『連俳睦百韻』写    安永7年(1778)    三世来雪庵素堂編
  『俳諧職人尽』    延享2年(1745)   廖 和 編
『睦百韻』  宝暦2年(1752)
   山口黒露編
  『みをつくし』    明和6年(1769)    『留守の琴』      安永4年(1775)  均 戸 編
  ※ 山口黒露関係の俳書 多数あり
144、 濁川改修工事について  『地歴の甲斐』 昭和21年   武井左京著 

145、 甲斐俳諧年代記上・下  『地歴の甲斐』 
146、 元禄年間濁川改修工事  『甲斐』  昭和5年   武井左京著
147、『甲斐の歴史と文化』 1981年   甲府市教育委
員会    
148、 神奈川県俳句地誌 『俳句』素堂 句、目には青葉所集 昭和55年刊
149、 山梨県俳句地誌 『俳句』素堂の紹介  々 
150、『俳句』 昭和55年刊  蕪村の言葉 《日々四老、素堂云々》  
151、『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』 素堂の記載あり
152、 芭蕉260年回忌 記念展覧会解説目録  昭和28年刊
 其角筆「乞食画賛・素堂奥書」「素堂筆・西瓜と南瓜の画賛」  西瓜の句…『西の雲』『色杉原』『勧進帳』『翁草』『千鳥掛』所集  南瓜の句…『猫筑波』所集   東京紫羊文庫蔵
153、『日本系譜総覧』 山口素堂の系譜  1990刊 日置昌一著
154、『芭蕉庵桃青』 素堂の記載あり   中山義秀著
155、『芭蕉門古人真蹟』「素堂漢詩」…『義仲寺と蝶夢』所集
《素堂の号…素堂主人来雪号(素堂の漢文詩あり)》   高木蒼梧著
156、『裏見寒話』 素堂一句 掲載。吟行場所の間違い 野田成方著
157、『国文学・解釈と観賞』「俳文の本質」 素堂の記載あり   小高敏郎著
158 「俳詩とその鑑賞」素堂の記載あり 清水孝之著
159、『俳文学大系』「作法編」「註解編」「俳論編」「紀行編」    
 素堂の記載多数あり。昭和5年刊
160、『山梨人物博物館』 素堂の記載あり   江宮隆之著
161、『甲州叢話』 桜井孫兵衛・素堂の生祀について 村松蘆洲著
162、『芭蕉物語』 素堂「四山の銘」 四方山徑著
163、『連歌俳諧書目録』 素堂俳書 蔵   東京大学図書

164、 山口素堂  『甲斐史学』  弘田文範著
165、『日本俳諧史』  素堂の掲載あり  池田秋旻著
166、『甲斐の歴史』 「生き神様になった素堂』  坂本徳一著
167、『好古類纂二編』「第五集」 素堂の肖像と紹介 甲府の産  宮崎幸麿編
168、『白州町誌』 素堂の項掲載あり  清水茂夫著
169、『北巨摩郡誌』素堂の項掲載あり 山口市左(右)衛門
170、『北巨摩郡勢一斑』素堂の項掲載あり 山口市左(右)衛門
171、『諏訪史料叢書』「素堂晩年の書簡』曽良宛。「送る辞 詩」
172、『日本随筆大系』「杉風の画、素堂賛」「杉風の書簡」素堂の名
 素堂の句の掲載あり。

 素堂の句や関係する事蹟を載せる書は散在し、未だ未見のものも多い。特に素堂の俳文や書簡は散逸していてその収集は並大抵のものではない。しかし素堂の事蹟を正確に記するには今後も収集活動を続けていく必要がある。
 素堂の事蹟で特徴的なのは、甲斐に於ては河川改修工事の指揮官として有名で、諸書は『甲斐国志』をさらに誇大にその改修工事を取り上げている。これが甲斐に於ける素堂の評価を大きく歪めている。
 『甲斐国志』以来、山梨県では素堂を研究をする人はいなかった。素堂は『甲斐国志』の記述に従い、真実とはかけ離れた人物として、独り歩きをするようになった。私は力の続く限り素堂を真実の歴史の中に戻してやりたい。
 素堂に関する資料をお持ちの方、またはその存在をご存じの方は是非ご連絡下さい。

素堂の事 『説業大全』明和八年(1771)  絢堂素丸編

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『説業大全』明和八年(1771)  絢堂素丸編
 
   ……葛飾の隠翁素堂は我先師なり、芭蕉友とし善俗名山口太郎兵衛、名は信章俳號は素仙堂来雪なり、本系割符の町屋にして、世々敖富の家なり、
   常に洛陽に往来して、信徳・言水か従と奮識たり。性、詩歌連俳をこのみ、又琴曲を學ひ又謡舞に長ず、一朝世の常なきを觀相して、家産を投ち第は山口胡庵に譲り、母を共して忍か岡の梺、蓮池の邊りに、隠栖をいとなみ、孝養を遂けたる事は、其行牒並に發句等にも世の知る所也、老母歿して後芭蕉・其角か従進めに應じて本所、今六間掘、鯉屋敷といふに草庵を営、住めり。
  家集に
 
 忍か岡麓よりかつしかの里へ居を移すとて
   長明が車に梅を上荷哉 
 

   素堂是より芭蕉庵と隣也。けれは猶はた芭蕉も心をよせて、莫逆の交をなせり。三日月日記・後菊の園其外人の知る所、風流の交り今将タ言に及はす。集物にあり原安適松か浦島の和歌求め得す。 云々

素堂 元禄 5年(1692)51才  腹中の反古見はけん年の暮れ     素堂

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素堂 元禄 5年(1692)51才

素堂、 『深川集』発句一入集。酒堂編。(刊行は翌六年)
  壬申九月に江戸へくだり芭蕉庵に越年して、
  ことしきさらぎのはじめ洛にのぼりて、ふろしきをとく。
   深川夜遊

青くても有べきものを唐辛子      芭蕉
   堤ておもたき秋の新ヲ鍬       酒堂
  暮の月槻のこつぱかたよせて      嵐蘭
   坊主がしらの先にたゝるゝ      岱水 (以下略)
 

素堂―忘年書懐、素堂亭    
    節季候
   節季候を雀の笑ふ出立かな      芭蕉
    餅春
   餅つきやあがりかねたる鶏の泊屋   嵐蘭
    歳昏
   腹中の反古見はけん年の暮れ     素堂    

三物 余興
   年忘れ盃の桃の花書かん       酒堂
   膝に載せたる琵琶の木枯し      素堂
   宵の月よく寝る客に宿貸して     芭蕉

 酒堂、寛文中期生、~元文二年(1737)歿。年七十才前後か。近江国膳所の医者。はじめ尚白に従い、元禄二年(1689)に来遊した芭  蕉に入門して指導を受ける。その後蕉門から遠ざかる。
 岱水、生没年不詳。貞享~宝永(1684~1711)頃。芭蕉庵近隣に住む。
『深川集』 刊行は元禄六年、記事は五年九月~六年二月の深川芭蕉庵に滞在中の風交記念集。

延宝6年(1678) 37才 目には青葉山郭公はつ鰹

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延宝6年 戊午 1678 37
 
 世相             
……家計困窮の為、甲府・館林二藩主に五万俵づつ賜与。
八王子千人同心
……幕府が武田遺臣や浪人を集めて八王子と周辺に土着させ、甲州口を防衛させた。役千人。百人一組。高持百姓だが身分は武士である。
 
 素堂の動向
……前年の冬からこの年の春にかけて、芭蕉・信徳と共に『江戸三吟』興行する。                   
この年始めて来雪の号を使う。夏頃江戸を出発し長崎に向かう。
清水茂夫氏によれば、唐津で詠んだ「二万の里…」の句は主君との別れの吟であるという。                        
長崎は去来や卯七など素堂周辺の人々が居る。素堂が長崎を訪れた理由は定かではないが、単なる旅行ではないことだけは推察できる。
素堂……『江戸三吟』に参加。(『江戸三吟』は六年の暮春に終わる)(前掲)
 
素堂……『江戸廣小路』発句七入集。不卜編。        
                         遠目鑑我をおらせけり八重霞            来雪
                        季白いかに樽次はなにと花の瀧           々
                        おもへば人雪折竹もなかりけり           々    (以下略)
素堂句評
……信章素堂が句に「季白いかに樽次はなにと花の瀧」、是は瀧の花にあらず。                        
花を瀧の比喩ながら、瀧をいへるより、李白が事を句にせしにや。
……延宝に素堂がけやけき、貞享に芭蕉の穏なる句作を察すべし。(『句選年功』積翆著)
 
 素堂……九月、『新附合物種集』付句五入集。西鶴編。未見。
 
号、来雪         
素堂……八月、『江戸新道』発句六入集。言水編。          
                        焼飯や上戸の笑ひ下戸の花              言水
                         春 
                        夕哉月を咲分花の雲                    来雪                     
                         上 
                        小僧来たり上野は谷中の初櫻            来雪                    
                         夏  部 鎌倉にて
                        目には青葉山郭公はつ鰹                来雪                   
                        峠凉し興ノ小島の見ゆ泊り               来雪    
                         秋 
                        鬼灯や入日をひたす水の物              来雪                    
                         冬 
                        世中や分別者やふぐもどき              来雪                    
目には青葉の句、評
……『俳諧古今抄』支考著。
 「目には……」は武江の素隠士が鎌倉の吟行なり。されば此句の称する所は、目にと語勢をいひ残して、目に口と心をふくめたる、さるは影略互見の法にして、これを三段の地としるべし。
 
目には青葉の句、評
……『俳論』土田竹童著。
 「切字の弁」はいかいの項。
  「目には青葉」「耳には山ほとゝぎす」「口にはつ鰹」といづれも珍しきをならべて、これよくとこたへたるにその語分明なるものなり。
 
同、幸田露伴評
……素堂は山口氏、葛飾風の祖なり。芭蕉これを兄事せるが如し。故を以てこゝは芭蕉が師事した季吟の次に置けるなるべし。句は眼、耳、舌の三根に對して同季の三物を挙げて列し、以て初夏の心よきところを言へり。一句中に同季のもの挙げて其主題の明らかならぬは忌むところなれど、それらの些事を超越して豪放に言放てるが中に微妙の作用ありて人おのづからにほとゝぎすの句なることを感ずるは、霊妙といふべし。青葉と云ひて、ほとゝぎすと云ひたる両者の間の山の語、青葉にもかゝりて、絲は見えねど確と縫ひ綴められあり、ほとゝぎすといひて、堅魚(       ) といひたる間の初の語、堅魚には無論にかゝりて、又郭公は何時もこれを待つこと他の鳥ならば其初音に焦るゝ如き情けあり。既に 郭公はつ聲、と云ひかけたる素性法師の歌も古今集巻三にあり。かゝる故に暗に郭公にもかゝりて、是亦両者を結びつけて隙間無く、しかして郭公青葉と堅魚の其中心に在りておのづから主位たるの實を現わし、一句を総べて渾然一體、透徹一気に詠じ去れり。是の如きを天衣無縫とは云ふなり。素堂の気象の雄なる、偶然にして是の如き句の成れるに至りしにもあるげけれど、其人治水の功を立てゝ甲斐の國には生祠を建てられ、又他の一面には茶道に精しくして、宗 の茶道の書に求められて序を爲れるほどの隠士なれば、雄豪一味のみにてかゝる句を得たるにもあらじと思はる。                           (『評釈曠野 上』所収 昭和十一年刊)
 

素堂……『鱗形』発句一入集。雪芝編。                                                           雑巾や松の木柱一しくれ

 
雪芝…… 寛文十年(1670)生、~正徳元年(1711)歿。年四十二才。本名弘岡保俊。通称七郎右衛門。伊勢国上野の酒造家。芭蕉の縁者とも。
                          折々や雨戸にさはる荻のこゑ          雪芝(『続猿蓑』)
 
 

素堂(来雪) 延宝6年(1678)37才

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延宝6年 己未 1678 37才
 
素堂
……三月、『江戸八百韻』 入集。幽山編。一座する。(俳号来雪)
何踊
花ふんで鐶鞴うらめし暮の聲          幽山
松は知らねか年号の聲                安昌
白い雉子青かしらの山見えて          来雪
裾野の里に人崩れ有リ                青雲  (松木氏、甲斐)
歩行の者それより下は草枕            言水
四方の秋はづかしい事もなかりけり    如流
さりとは内気小萩さく宿              一鐡
白露の細かな物を見てばかり          執筆  (一順-以下略)
何笛
其事よ蜑の咽干る今日の海             言水
扨都衆は嶋山の花                    青雲
四畳半青きを庭に踏初て              泰徳
曙の雫風つたひ行                    一鐡
中とをし匂ひや音に通ふらん          安昌
岩切立下水に勢い有リ            来雪(素堂)
月は尾上片陰にして鶩鳴ク            幽山   鶩=アヒロ
猪は木の葉の色に伏あり              如流   猪=ブタ
就中秋は悲しき下屋敷                執筆  (一順-以下略)
三字中略
相宿リ天狗も婀娜ほとゝぎす           青雲   婀娜=ヤサシ
鬼心せよ五月雨の闇                  来雪
泥の海其時は春秋もなし              如流
草木の外に赤貝の色                  泰徳
月細く鱠の山の峡よりも              幽山   峡=カイ
初て凉し棟の槌音ト                  言水
同名に跡は譲りて町はなれ            安昌
慥な手代松に立添フ                  一鐡
大方は伊勢の生れの浦の波            執筆  (一順-以下略)
何子
夏痩に蘿の細道もなかりけり           一鐡
蚤蚊にゆづる苺の狭むしろ            幽山
渋團岩根の夢や破るらん              言水   渋團=シブウチワ
暑やさむやの今朝の水音              安昌
室咲の梅が香しめる雨過て            如流
手作にふくむ青物の露                泰徳
語りながら一日来やれ庵の月          青雲
もう哥仙ほど暮残る龝                来雪
淋しさや机の上の塵ならん            執筆  (一順-以下略)
何香
石筆に腕かいだるし野路の月           安昌
油單の枕袖に松むし                  幽山
しはぶきしげく草の上かれ            如流
近き比味ひ初るズウトホウ            一鐡
立よる陰やツウランの軒              青雲
文字は何三句めいかん此處            来雪
水邊はなれ千鳥啼也                  言水
魚取ル事堅ク守を付らるゝ            執筆
何袷
大名やどうおぼしめす秋の暮れ         如流
内屋敷ゆけば松風の露                一鐡
露の隙水こす砂利の山晴て            青雲
蜆石花から是にさへ月                来雪
さむしろにまゝ事亂す夕氣色          泰徳
ちんよころく白黒のくも              安昌
八重煙生ずる所野路の里              言水
文字定りて草刈の哥も                幽山
鼻縄の涎も長くつたわり行            執筆   涎=ヨゴレ
(一順-以下略)
木何
茶の花や利休が目には吉野山           来雪
麓の里に雪をれの筒                  如流
牛車跡に嵐を響かせて                安昌
左衛門右衛門詠めゆく雲              言水
あれでこそあれ御兄弟中月はよし      一鐡
野は人形に分てやる色                幽山
灸おろし蓬によはる虫の聲            泰徳
古釘ふんで拂ふ露霜                  青雲
明はつる雲のかけたる崩レ橋          執筆
赤何
雪や思ふ松に并しを竹箒               泰徳
雑巾氷て軒端ゆく風                  言水
銅壺の湯煙みじかき朝朗              一鐡   銅壺=ドウコ
屋形に月を捨舟の浪                  幽山
はつ嵐よしなき吐逆進めけり          来雪
子もりが不沙汰いかならん秋          青雲
是はしたり小壁の庇の村絶            如流
折釘つたふ雨の飛ばしり              安昌
宿願を心にこめし雲晴て              執筆
 
素堂
……夏の頃、長崎旅行に赴き越年する。
唐津での句をめぐって、(仕官先が窺える)
二万の里唐津と申せ君が春
「山梨大学研究紀要」
…素堂研究者の清水茂夫氏(故)はこの旅行の、二万の里……唐津の句をもって、素堂が主君との別れの挨拶句であるとしている。
「ところで信章は、延宝六年の夏には長崎旅行をし、翌年暮春ころ江戸に戻りました。そして程なく致任して、上野不忍池のほとりに隠居しました。それまでは、林春斎に朱子学を学んだ信章は儒官として何処かに任官していたと思われますが、確証はありません。上に記した長崎旅行の際唐津まで赴いてつぎの句を吟じています。
二万の里唐津と申せ君が春
君が春は御代の春と同じで、仕官している唐津の主君を祝っていると考えますと、唐津に藩主にでも仕官していたのではなかろうかとも考えられます。しかしこの旅行を契機として理由はわかりませんが致任しています。
 
不易流行…… そして清水氏は『続虚栗』の素堂の序文「はなに時の花有り」を挙げて、
素堂は時の花とは一時の興を与えるものであり、その時だけの目新しさ・新奇さを持つ句にあるとし、終の花とは永遠にその興を与え続けるものであり、
時代を超えて人々を感動させる句にあると考えたのです。これは後に芭蕉によって論された不易流行の先駆をなす見解であると言えます」とある。

素堂(来雪) 延宝7年(1679)38才

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延宝7年 己未 1679 38
 
素堂……四月、『富士石』発句二入集。調和編。
二万の里唐津と申せ君が春            来雪
かな文や小野のお通の花薄             々
 
素堂……五月上旬、『江戸蛇之酢』発句一入集。言水編。
西行は富士を詠けんが組蓬莱          言水
ふじニて
山は扇汗は清見が関なれや            来雪(素堂)
阿蘭陀も花に来にけり馬の鞍          桃青
万歳やあ富士の山彦明の春            青雲(甲斐・松木氏)
髪結と青豆うりと白露と              信徳
口切や今朝はつ花のかへり咲          風虎
分て今朝四方も秋也曾我の宿          露沾
出替や宿はととはゞ櫃一つ            一鐡
忠峯が目脂やあらふ花の瀧            幽山
 
素堂……九月、『玉手箱』発句一入集。蝶々子編。
目には青葉山郭公はつ鰹              来雪
 
素堂……『芭蕉門人真蹟集』(掲載写真より)
枯木冷灰物不月  遊魂化螺舞者風
夢中説夢伝千□  真夢出醒詐試終
 素堂主人 来雪
 
素堂……九月、『二葉集』付合四章入集。西治編。  未見。
 
『二葉集』…… 俳諧付合集。来山跋。西鶴『物種集』続編。俳諧の付合一千組、宗因、西鶴を多数収録する。
素堂
   はりぬきの猫もしる也今朝の秋           芭蕉
    七つ成子文月の歌                      素堂
《註》
…この発句を録した尾張鳴海の下郷家(知足家)伝来の書留には、三組の付合が一紙同筆で書かれている。(筆者不明)
「はりぬきの」句には、「七つに成子文月の哥」という素堂の脇が付けられ、外に素堂・芭蕉の発句・脇、素堂・夷宅・芭蕉の三物が見える。
第一の付合の素堂の発句の前書に「市中より東叡山の麓に家を移せし比」とあるが、素堂の上野移居は彼が延宝七年晩秋春に長崎から帰って間もなくの頃といわれる。当面の付合には何れも素堂が顔を出しており、三組発句は秋季なので延宝七年秋の作と推定してよかろう。(『芭蕉発句全講』阿部雅美氏著)

芭蕉と神田上水(『別冊太陽』「芭蕉」〔芭蕉庵と江戸の町〕鈴木理生氏著。

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芭蕉と神田上水(『別冊太陽』「芭蕉」〔芭蕉庵と江戸の町〕鈴木理生氏著。
延宝八年(1680)神田上水惣払       町触
一、明後十三日 神田上水道水上惣払有之候間 致相対候町々ハ 桃青方へ急度可被申渡候 桃青相対無之町々之月行持(事) 明十二日早天ニ 杭木、かけや水上迄致持参 丁場請取可被申候 勿論十三日中ハ 水きれ申候間 水道取候町々ハ左様に相心得      可被相触候 若雨降候ハゝ 惣払相延候間     左様に相心得可被申候以上
六月十一日                町年寄 三人
 
一、明廿三日 神田上水道水上惣払有之候間 桃青と相対いたし候町々ハ 急度可申渡候 相対無之町々ハ人足道具為持明早天水上江罷出可被申候勿論明日中水切候間    町中不残可被相触候少モ油断有間識候。
六月廿二日                町年寄 三人
 
……『一話一言』大田南畝著。
いふところ桃青は、或は松尾宗房か。のち二年すなわち天和二年九月二十八日の惣払町触には六左衛門と有り。
恐らくは神田上水水役 内田六左衛門其人なるべし。水役は三年寄に属して、水上の監視を掌り、惣払普請等の外、極めて閑散なる職也。六左衛門の前の宗房亦、三年寄の好意に由り、此の閑職に在りて、糊口の資を得、以て専ら力を俳諧に用ひたりし者に似たり。云々
 
〔素堂余話〕
……『甲斐国志』「素道」の項
(略)素堂答ヘテ云人者コレ天地ノ役物ナリ。観可進ム素ヨリ其分ノミ況ヤ復父母ノ国ナリ。友人桃青モ前ニ小石川水道ノ為ニ尽力セシ事アリキ。云々
 
 

芭蕉が訪れた甲斐谷村 芭蕉どころの話ではなかった 


高山麋塒所蔵の芭蕉遺墨 本式俳諧之次第

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高山麋塒所蔵の芭蕉遺墨
 
 白亥の『真澄の鏡』に発表されている芭蕉翁の遺墨や、本式俳諧之次第、作法の伝書等は、芭蕉関係を知る唯一の貴重な文献といわれ、傑作揃いの逸品であると激賞されている。高山家のこれらの遺墨は、惜しくも後年に散逸し、芭蕉図録や遺墨集等にその真蹟の写真が掲載され、伊賀上野の菊本氏の蒐集品に麋塒旧蔵の短冊四枚が発表されている。
 
  馬ぼくく我を絵にみん夏野哉  桃青
  鶯を魂にねぶるかたはやなぎ  桃青
 
『虚栗』には「うぐひすを牌にねむるか嬌柳」とある。嬌柳はしなやかな柳のことで、その眠れるがごとき様に鶯を思い寄せたが、荘周が夢に胡蝶になった故事(荘子・斉物語)を踏まえている。
  三ケ月や朝真の夕べつぽむらん 桃青
『泊船集』「虚栗」にある。満月となりゆく今の三日月は、言わば朝顔が夕方まだつぼんでいるといったようなものだとの意味である。
  夕顔に米つき休む哀かな    桃青
「続の原」等には「昼顔に米つき涼むあはれ也」として出ている。真夏の暑さに米つきをしていた農夫が昼顔の下で休んでいる姿を見て詠んだものであろう。
 
芭蕉の糜塒宛書簡二通
 
 芭蕉句集(朝日新聞社)抜すい
 東京の安藤兵部氏の蔵として『芭蕉図録』に写真版が紹介され、古くは『真澄鏡』に出ているもので、天和二年五月十五日附松尾桃青名義で高山傅右衛門宛である。
 甲州谷村の糜塒から連句の巻を送って批判を乞うたのに対し、連句作法に関する心得を説き、糜塒の参考に供する意味で才丸、其角、芭蕉の付句を附記している。この六連の付句は他に所見がなく、本簡を通じて初めて知られるものであった。新風体が目鼻立ちを整えてゆく頃の俳壇状勢が察知されるとともに、一つ書した個所から芭蕉の俳諧観が伺がわれるなど、資料価値のゆたかな書簡といえる。
 糜塒の俳諧が「古風のいきやう多く御座侯而一句の風流おくれ侯様に覚申候」と苦言を遠慮なく述べ、それと言うのも「久々爰元俳諧をも御聞不被成」と推諒している。
 「爰元」は江戸のことをさし、遠く国詰家老職であった糜塒が俳風の変遷に通じなかった頃の手簡と思はれる。「校本芭蕉全集」では、この執筆年次についていろいろと考察され、一応天和二年としている。
 『真澄鏡』のいま一通は、消息の様式でなく、秘事口訣とされた作法の伝書である。題して「本式俳諧之次第」とある。
 糜塒が本式俳諧百韻の形式について文書で教示を望んだのに対し、懇切に説明的伝書を送ったもので年代は不明である。
 
高山傅右衛門(糜塒)宛
 
  五月十五日高山傅右衛門様
(天和二年五月十五日付) 松 尾 桃 青 書判
 
貴墨忝拝見、先以御無為(に)被成御坐珍重(に)奉存候。私無異儀罷有侯。偽而御巻致拝吟候。尤感心不少候へ共、古風之いきやう多御坐候而一句之風流おくれ候様ニ覚申候。其段近比御尤、先ハ久々爰元俳諧をも御聞不被成、其上京大坂江戸共ニ俳諧殊之外古ク成候而、皆同じ事のミニ成候折ふし、所々思入替候ヲ、宗匠たる者もいまだ三四年巳前の俳諧ニなづミ、大かたハ古めきたるやうニ御坐候ヘバ、学者猶俳諧ニまよひ、爰元ニても多クハ風情あしき作者共見え申候。然る所ニ遠方御へだて候而此段御のミこミ無御坐、御尤至極(に)奉存候。玉句之内三回句も加筆仕候。句作のいきやうあらまし如比ニ御坐候。
 一、一句前句二全体はまる事、古風中興共可申哉。
 一、俗語の遣やう風流なくて、又古風ニまぎれ候事。
 一、一句の細工に仕立侯事不用(に)候事。
 一、古人の名ヲ取出て何々のしら雲などと云捨る事、第一古風ニて候事。
 一、文字あまり三四字五七字あまり侯而も、句の響き能候ヘバよろしく、
      一字ニても口ニたまり候ヲ御吟味可有事。
      子供等も自然の哀(あわれ)催すに
     つばなと暮て覆盆子刈原(いちごかる)  才丸
      賤女とかゝる蓬生の恋         才丸
     よごし摘あかざが薗にかいま見て
      今や都ハ鰒を喰らん
     夕端月蕪ははごしになりにけり      其角
      といはれし所杉郭公    
     心野を心に分る幾ちまた         其角   
      山里いやよのがるゝとても町庵
     鯛売声(うる)に酒の詩を賦ス
      葛西の院の住捨し跡
     ずいきの声蕗壺の間は霜をのみ
            『校本芭蕉全集』(角川書店)抜すい
 
 本式俳諧之次第
 
  一、初折の面十句。但シ面十句之内名所一ツ必出すなり
  一、名残のうら六句なり
  一、花は先四本五六七八も有之面に花をひとつづゝしてもくるしからず
  一、月は五句去にいくらもあるべし
  一、雪月花郭公寝党是五色の内いづれも二句去なり
  一、猿と檜原山類に用ゆ。往古之式には初折の面十句之内何れも賦物を
        とる。一順のはじめに賦物を書つくすなり。
    其後はむづかしき故に発句斗りにふしものをとれるなり
  一、降るものとふりもとの間二句
  一、五句のもの三句、三句の物は二句去
  一、七句去のものは十句去なり
    右あらまし如此
  一、みゆ  ウクスツヌフムルシ
     むかふの山に雲のたつみゆ
     あれなる海に舟をこくみゆ
     花の垣根に胡蝶とふみゆ
  一、下の句つゝ留り
     大やうものを二ツ言ならべてとまるべし  
     譬ば  
      右も左も袖はぬれつゝ
     また
      二艘のふねを漕流しつゝ
     又ものゝかぎりなき心にもあり
     譬ば
      たえず深(み)谷の水流れつゝ
   一、上の句つゝ留
     是難儀大切なる手爾波なりとて先途も多くはせざるなり
     譬ば
      散花は筏に波にながしつゝ
     此上の句の留も下の句のつゝとまりとしたての心相似たり。
     物を二つにいふと、又かぎりなき思入などにてとまるべし
  一、下の句て留
     前句の上の句の五文字に、さればこそ、心こそ、などある時下の
          句にててと留るなり。
     また前句にもかまはずして、てどめあり
     譬ば  ラリルレロ
     此五文字、ての宇の上におくなり
      花のにほひは袖にとまりて
      ものおもふとは色にしられて
  一、下の句に留
     譬ば
     前句上の句五文字にかさなりてつらなりてなど有時にと留るな
          り。
     また前句にもかゝはらずにと留るあり
     譬ば
      涙は袖に 露はたもとに
      花は園生に 露はまかきに
     右二ツ手本なり。是山を見る玉を見るといふ手爾遠波なり。
     一大事の秘伝あなかしこ、あなかしこ
     右山玉の字を坐の句のかしらにおくなり
  一、大まはし発句
     譬ば
      稲筵敷島の道草の種
    或は三段切。かさね切。らん留。をまはし。五文字切。
    但シ坐の五文字なり
  一、脇てには留
    腰に韻字をすゑてあるなり
  一、第三韻字留
    前句の五文字かゝらず長高くして一句慥ニとまる。同第三のてにて
        留申内、あるひはらん。 
    らんは常の事のやうに候へども口傅あり。
又もなし留に留前の句のあひしらひによりあるべし口傅あり
一、二字のらん留
     にほひのみ花は霞に咲ぬらん   
雪いと高しふみ迷ふらん
    右口博
一、過現未三ツのし文字
    現在のし
     山遠し 水高し
    過去
     過し 見えし 教へし
    未来
     去りぬべし 来たるべし
一、こそかゝえ手爾波 ヘケセンメ
一、下句のこそどめ ニバ
一、下の句上の句もの字留
野も山も。山も梺も。雪もあられも。などゝも文字をニツ対してい
へば留るなり
一、花に桜付やう
    是別て秘するに侍る。前句の花、花がつを、花の袖などゝいふたら
        ば桜を付てくるしからず。
    前の花別のものなるゆゑに又たとへ本花に仕立たる句なりとも、
名字の付たる桜を付候はばくるしからず。
乍去此分にても不功者の人ならば付はだへ相違あらんかと覚束な  
し。功考ならではいかが。
一、上の句やと言て下にてと留る事とかく口あひのやならばとまるべ
    し。
譬ばその原や近江路やなどゝ名所かかるや文字にててと留る事は大

杉風の塒糜宛書簡

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杉風の塒糜宛書簡
 安政六年(一八六九)守徹白亥編の『真澄鏡』に「杉風消息」と題され、「塒糜宛芭蕉書簡」、「あかあかと」の句の自画讃とともに「同処蔵これは祖翁の遺語なり。右に倣ふて真跡の本文をあぐるのみ」と前審されて全文が紹介された。発信日の『六月朔日』は、日附けの上の欄外に「元禄八年(一六九五)ナリ」と註書きがある。
 芭蕉の没した元禄七年十月十二日の一年後のもので、芭蕉が決して糜塒への信誼を晩年まで忘れなかったことを立証している。
 
一、翁近年申し候は、「俳諧和歌の道なればとかく直成様(すぐなるよう)にいたし候へ。尤言葉は世に申し習しかた言も申候えば、其句のすがたにより、かた言は申べし。それも、道理叶不(かないもうざず)申候かた言は無用、埒明申斗用(らちあきもうすばかりもちう)べし」。
 
一、「段々の句のすがた重く、利にはまり、難しく句の道理入りほかに罷り成り候えば、皆只今までの句体打ち捨て、軽く安らかに不断の言葉ばかりにて致すべし、此れを以って直成(すぐなり)と被申し候。
 
一、「前句へ付候事、今日初て俳諧仕候者も付申候へば、かならず前句へ付べからず。随分はなれても付物也。付様は、前句は糸程の縁を取て付けべし。前句へ並べて句間へ候へば、よし」と申置候。句の行やう段々申し置候へども、紙筆に申し上げ尽さず候。
 
一、「古事来歴いたすべからず。一向己の作なし」と申置候。
 
一、翁古法を打破申候事は恋也。「恋の句は句姿は替りても、句の心は同じ事也。恋の心に替りたる心なし。然る上は、恋の句は二句にて捨べし。若し宜き付句此れ無き時は、一句にても捨てべし。恋の句一句にて捨る事、古法に無之事は皆人のしりたる事也。見落しに成ともすべし。かならず必ず、恋の句つゞけ申事無用」と申置候。
 
一、古人の賀の哥、其外作法の哥に面白き事なし。山賎・田家・山家(の)景気ならでは哀深き哥なし。俳諧も其ごとし。賤(しづ)のうはさ、田家山家、景気専に仕べし。景気俳諧には多し。諸事の物に惰あり。気を付ていたすべし。不断の所にむかしより云残したる情、山々あり」と申置候。
 
一、翁「近年の俳諧世人しらず。古きと見へし門人どもに見様申聞せ候。
一辺見ては只軽く埒もなく不断の言葉にて古き様に見へ申べし。
 二辺見申しては前句へ付様合点いき申しまじく候。
三辺見候はば、句のすがた替りたる所見へ申べし。
四辺見申侯はば、言葉古き様にて、句の新敷所見へ申べし。
五辺見侯はば、句は軽くても意味深き所見へ申べし。
六辺見申侯はば、前句へ付やう各別はなれ、只今迄の付やうは少もなき所見へ申べし。
七辺見申侯はば、前句の悪き句には付句も悪く、正直にいたし候所見へ申べし。是にて大
形合点致すべし。と申され候。
 
一、翁近年の俳諧合点仕り候者、江戸上方の門人の中に人数三十人ばかりも御座有べく候。其の外は前句付け、また点取りばかり仕り候えば、其の者どもには少しも伝え申されず候。惣じて江戸中・上方ともに十年先の寅の俳諧替り目のところに留まり罷り有り候。其の時よりは悪しく御座候よし、翁申され候。
一、翁申し置き候は、深志なる者は候はば、「この段為申し聞かせ候様に」と戌の年上り申す時分私に申し置き候間其の元へも申し上げ候。兼々其の元へ参り申す候えば亥の春は罷り下り秋中其処許へ参り申すべき申し置き候処に、皆夢現と成り行き申し候。此の度玉句拝吟仕り候えば、涙流し申し候。
以上
      六月朔日         杉風
  糜塒様  尚々白豚丈へもこの段御伝え下さるべく候。
 
 

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素堂と歌舞伎役者中村七三郎

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素堂と歌舞伎役者中村七三郎
素堂67才 宝永五年(1708)
『梅の時』 中村七三郎追善集、序文と句
 いきて人をよろかばしふるほど死して人をなかしふることはり、今猶昔におなじ。
世に名だたる中村七三郎、過にし初三日のよるみまかりけるに、辞世とおぼしくて、梅に種を結びて、一句をのこせり。
かつしかの同郷に追悼のこころざしあり。予もまた泣きをうつされて、
  
たきさしやそ架の中よりこぼれ梅
 
 といひてさりぬ。かねてより、其人となかをかがなへみるに、風雅の酒落をしたひ、茶人の閑適をうらやみて、その業はひくきにかくるるものならし。
もろこしの何とかやいひし人山林にいらず、朝廷をかくれがとせり。
我日のもとにも髪をそらす、妻を避けず、翁和尚とよばれて、市中人なみなみにまじはり、隠逸伝にいれるも有りけるをや。
縁に随ひてものずきもまた一様ならず。
  
かくれがの芝居の市に花ちりぬ
     ( き ) ( さら ) ( ぎ )の日かつしかの隠居 素堂 序
 
中村七三郎の句
  
旅日記湯冷め心地に附け終わる  (『ホ誌雑詠撰集』)
  桜餅下げて出を待つ下手哉
 
【註】中村七三郎(初代)1662(寛文二年)年生まれ~1708(宝永五年)歿。
市川団十郎と二分する歌舞伎役者で、和事の名人。元禄十一年(1698)に京都で演じた「傾城浅間嶽」は百二十日続演された。
  
 
 
中村七三郎、関連記事 『鉢敲』 素堂序・句
素堂71才 正徳二年(1712) 
 
『鉢敲』 億麿・素白編 「蟻道二周忌追善集」
 
 摂州伊丹の住、蟻道子しきしに五月中の三日に、世を早うすときくは実か、其人を見すとういへとも、茂兵衛そとしりつつあへれ鉢敲といへる句を耳にとどろきて反面をいる人の如し。今きけは五文字弥兵衛なるよし。されとも東部にてひとのよろこひし茂へいにて侍れは、いまさら改るに忍ひす。
 
 予若かりしころ、難波津にて興行
 
  春日の山の下手代めか
   藤原の又兵衛とそ名乗りけり  梅翁(宗因)
 
 と付けられしを人々興に侍りき。又近きころ、中村七三(郎)曽我のふることを仕りけるに、朝比奈も今は落ふれて鳶のものとなりぬ。名をも八郎兵衛とあらためけるよし申けれは、見物の諸人興にいりける。自然と其名の相臆せるにや、古今集、初の名を融位、紫式部は始は藤式部、これらは皆後をよろしとす。又後たりとも、茂へいとこそいはまはほしけれ、それはさるものにて、五月十三日竹酔日とかや。亡友芭蕉が句に、
 
  降らすとも竹うえる日や蓑と笠
 
 この句にすがりて
  竹植える其日を泣や村しくれ
   辛卯の年神無月十三日   東部宿  素堂

北杜市の民家 築150年

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