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葛飾派の俳論書

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葛飾派の俳論書

 葛飾派の馬光に伝わる俳諧書には享保十六年(1731)の馬光の門人練水書写による『俳諧大意弁』が有るが、この書が素堂から馬光に伝わったのかは不詳である。この様な俳諧論書は古くは 北村 季吟か芭蕉の伝授された延宝2年(1673)の『俳諧埋木』がよく知られところであるが、このような「奥伝」とか「秘伝」・「秘書」とも呼ばれる理論書は多く有り、芭蕉も門人に伝授したようにみえる。芭蕉没後に起きた蕉門内部論争はよく知られ、嵐雪と深川衆、支考と其角らの論争が有名である。素堂も仲裁に腐心したようで有る。この論争は其角の病死で一旦収まったかにみえた。これが江戸蕉門と田舎蕉門の論争であるが、江戸で勢力の有った其角系の江戸座内部で起きた点取り俳諧に対する芭蕉の復古運動が『五色墨』であり、これを支援した稲津祇空(敬雨)の没年の『四時観』(祇空門系)、百庵が参加した『今八百韻』(嵐雪・沾徳系青峨門系)と続いた。
 その後葛門を芯とする『続五色墨』(嵐雪門と葛門の提携)が成されたわけである。また、安永七年の『三篇五色墨』(野逸編、竹阿序)は葛門の勢力誇示の動きであろうことは云うまでもない。この件については楠本六男先生の「杉風と白兎園系。流派興亡の一例」に詳しいので参照されたい。
 『葛飾正統系図』によれば、著書は多数に及んでいるようであるが、二世素丸の著した書が最も多く、次いで九世其日庵錦江が多い。延享3年(1746)成立の、二世素丸の『乞食袋』では田舎蕉門系の俳風を指向しているとされる。蕉門初世の馬光は其角・嵐雪及び沾徳の周辺に居た人であるから、当然其角・嵐雪への憧憬は深い。宝暦7年(1757)の馬光追善集『ふるぶすま』に入っている「滄浪亭夜話」(栢舟舎千亮筆)には「馬光の俳諧観を継承」する旨の記述がなされ、まだ俳系統の確立には及んでいまかったようである。『葛飾正統系図』の素丸の項に「六十才にして活道耳と言ひ、蕉翁より五老井(森川許六)に伝ふる処の二巻を得て、法といひ式といひ、此外に求るに及ばずと、天明四年(1784)甲辰の春、始めて葛飾蕉門と号し云々」とある。この二書とは、元禄六年(1693)3月中頃に芭蕉より門人の森川許六に伝授されたと言う「俳諧新式極秘伝集・俳諧新々式・大秘伝白砂人集」伝書を写す。(元禄6年3月相伝の奥)と云う伝書であるらしい。この書は一部では「芭蕉と素堂」の伝書とも云う。
 これらの秘伝書は後に竹阿の門人小林一茶が天明7年、竹阿に伝えられた連俳秘書『白砂人集』を手写(奥に小林己橋)とある。また天明八年法眼苔翁から譲られた『俳諧秘伝一紙本定』(奥今日庵内菊明)や寛政5年(1793)には竹阿に伝わる素堂の歌道伝書『仮名口決』を書写したと云う。
 また識者に偽書か後世の仮託書とされる素堂の俳書『松の奥』がある。今日、天理図書館の和露文庫本と山梨県立図書館の甲州文庫本がある。天理本の巻尾は未詳であるが、甲州本は「文政9年(1826)丙戊初秋中院、かつしか正風、桃暁庵蓁阜写」と明記されている。文脈系図によれば、蓁阜は素仙堂の項に「蓁々翁門下の高弟蓁峨…中略…二世蓁仙堂称す。後蓁峨の俳弟蓁阜三世を称す」とあり、文政8年の事で蓁仙堂は素仙堂の間違いではないかと思われるがどうであろうか。蓁々翁とは葛門八世の事で、九世錦江の父。正統系図に文化14年(1817)桃葉庵蓁々と成った人で、文政9年(1826)其日庵を嗣号した。文政7年には甲州の上野原や逸見筋に検見役として出張している。素堂の『松の奥』については寺町百庵が『華葉集』で触れているが、寛政の三大俳家の夏見成美が著した文政2年(1819)刊の『随斎諧話』の中に甲州で閲覧した『松の奥』の記載がある。また『随斎諧話』には素堂に関する他の著述も見える。『松の奥』は夏目成美の門人坎家久蔵が収集整理した『素堂家集』(文化七年/1810)に『松と梅序』が収められている。奥は「元禄三年十二月廿日」で山口信章来雪とある。素堂49才の折の著である。この外にも大野酒竹校訂俳諧文庫『素堂鬼貫集』があり、『松と梅の序』・『松の奥』が収められていてその外題に「此書頗る疑はし。案に素堂の作にあらざらん云々」とある。この『松の奥』については清水茂夫先生の、「山口素堂の研究(八)松の奥について」に詳しく説明されているので参照されたい。余談ではあるが、芭蕉は俳諧書は著さなかったと云われているが『俳諧新式』を書いたとする書もあり、甲斐の高山麋塒に送った「俳諧心得」的なものがある。芭蕉門弟の俳書を整理してみる。






芭蕉門弟の俳論書

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芭蕉門弟の俳論書

○元禄3年(1690)『聞書七日草』図志呂丸著(呂丸は元禄6年京都で客死)
○元禄4年(1691)『雑談集』宝井其角著。
●元禄7年(1694)芭蕉没。
○元禄11年(1698)『俳諧問答』森川許六(芳麿編『青根が峰』天明5年刊)
○元禄11年(1698)『続五論』各務支考著。
○元禄12年(1699)『旅寝論』向井去来著。(安永7年刊)
○元禄12年(1699)『西華集』各務支考著。
○元禄13年(1700)『東華集』各務支考著。
○元禄15年(1702)『三冊子』服部土芳著。(元禄15、16年頃)
○元禄15年(1702)『去来抄』向井去来著。(暁台編。安永5年刊)
○元禄15年(1702)『東西夜話』各務支考著。
○元禄17年(1704)『白陀羅尼』各務支考著。
○宝永3年(1706)『本朝文選』森川許六著。(後の『風俗文選』)
○宝永4年(1707)『南無俳諧』各務支考著。
○宝永6年(1709)『蕉翁文集』服部土芳著。(蘭更編。安永5年刊)
○享保3年(1718)『本朝文鑑』各務支考著。
○享保4年(1719)『俳諧十論』各務支考著。
○享保10年(1725)『十論為弁抄』各務支考著。
○享保12年(1727)『和漢文操』各務支考著。
○享保15年(1729)『俳諧古今称』各務支考著。
○享保21年(1736)『芭蕉翁二十五ケ条』各務支考著。



江戸俳諧の時代的背景

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江戸俳諧の時代的背景

 江戸時代も太平の世となれば、旗本や御家人ら並びに各藩士らは実務に携わる者以外は余剰人員となってくる。しかし幕府の法令で人員の削減も容易にできない。従って有能な者はす役職につくことができたが、撰二に洩れた者たちは、特別の事が無い限り冷や飯を食う事になる。大身の士はよいが小身の士は就職できないと死活問題になってくる。将軍家直属の旗本や御家人は江戸幕府開府以降、その構成が定められており、代々の将軍により多少の増減が有ったものの、後には旗本御家人株の売買の対象になるほどだった。太の世の中のなると、前出の如く武を以て常時出仕できる者、役職に就ける者は限られて武の鍛練は義務付けられているが、特別な時以外は出仕は叶わない訳で、小身に家の者は俸禄を貰っていても手当がないから生活は厳しい状況であった。また俸禄の額により格式が定められているから大変である。仕事のない武士は年に数回の義務出仕以外は殆ど仕事無い。こうした者達は「小普請組」という職分に入れられて、仕事にありつくためには伝(つて)を頼んで就職運動をする外は、内職に精を出す者、勉学に励む者、諸芸に走る者など生活を営むための生き様は雑多であった。分かり易く云えば、「収入は少なく出費は多い」武家の嗜みとしての余技や対面上の出費は厳しく内情は火の車であった。運良く奉職できた馬光の年齢を例にとれば、40才という当時では初老とされる年齢で、西の丸警護の小十人組という番士に採用された。この様な例は非常に多かったのである。
 ではその勤務状況はと云うと、今日のサラリ-マンの様に毎日出勤するのでなく、一日出勤すれば一日ないしは二日休みとなる。つまり職務らに特別有能な者以外は、比較的に自由な時間が多く持てたのである。多くの自由時間の処理は各自の考え方で色々あり、武士の嗜みとされる武芸や学芸・茶などに、遊芸など余技に励んだのである。この時代は無骨一辺倒では世を渡れなくなっていた。教養とは書や学問・和歌だけでなくて、遊び芸一般にまで及び、この為に一芸に秀でるために武士達は必死であった。一例を上げれば、幕府方の御茶坊主と云う職分の者は、今日のホスト的なものとするのはそれと異なり、故事来歴から称諸芸一般、行儀作法など全般に亙って身に付けなければ、その職を全うする事ができなかった。この様な背景をよく理解していないと当時の武士が何故勤務の間を縫って諸芸に励んだかが理解できない。中にはその芸に秀でたものが宮仕えから離れて、その芸の師匠になり職業とした者も居た。


素堂と芭蕉の俳諧

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素堂と芭蕉の俳諧

 この項とは直接の関係はないが、素堂のように多種多芸でその一つ一つの達成度の高い人物はそう居る訳ではなく、かの芭蕉も及びもつかなかった。素堂と芭蕉の並列する時代から素堂の生き方に憧憬の念を持つ俳人は多く見られ芭蕉没後はどっと素堂の周辺に集まって来た。素堂の俳諧姿勢を目標とした雁山や馬光、それに晩年の嵐雪や桃隣、杉風や洒堂までも生き方は素堂を求め、俳諧は時代の要請から芭蕉を目指すようになり、芭蕉の俳諧の底流である素堂の俳論は見過ごされて時代と共に薄れていったのである。しかしその時代を代表する与謝蕪村や小林一茶も素堂の発句を手本にしていた節があり、与謝蕪村の句集にはそれが如実に表れている。また素堂の『仮名口決』を大切に保持していた小林一茶は晩年の素堂像に重なる部分も見られるのである。
 素堂没後の俳諧の流れを掻い摘んで述べてみた。まだこの項で書きたいことが山ほどあるが、今回はこの位で筆を休め、次回にはもう少し素堂俳論と人物像について言及してみるつもりである。

平成17年12月1日。清水記。

山梨文学講座 山口素堂       新資料  素堂母の喜寿の宴
 
 
 
 素堂の動向
 
元禄    5年 壬申  1692 51才
七月七日、素堂の母、喜寿の宴。
(『韻塞』入集。李由編。序奥は元禄九年冬、刊行は元禄十年)
               
      
素堂の母、七十あまり七としの秋、七月七日にことぶきする。
万葉七種をもて題とす。
これにつらなる者七人、
此結縁にふれて、各また七叟のよはひにならはむ。
 萩
七株の萩の手本や星の秋              芭蕉
尾花
織女に老の花ある尾花かな               嵐蘭
葛花
布に煮て余りをさかふ葛の花             沾徳
なでしこ
動きなき岩撫子や星の床              曾良
女郎花
けふ星の賀にあふ花や女郎花             杉風
ふぢばかま
蘭の香にはなひ侍らん星の妻             其角
 
むかし此日家隆卿、七そじなゝのと詠じ給ふは、みずから
を祝ふなるべし。
今我母のよはのあひにあふ事をことぶきて、
猶九そじあまり九つの重陽をも、かさねまほしく、おもふ事しかなり。
あさがほ
めでたさや星の一夜もあさがほも 素堂
 
李由
 寛文二年(1662)生、~宝永二年(1705)歿。
年四十四才。本名河野通賢。近江国 平田村 の真宗光明遍照寺第十四世住職。蕉門。
許六の盟友として、この書等を共著。
海棠や初瀬の千部の真盛り       〈『篇突』〉
 
《註》
 この喜寿の宴には、菊本直次郎氏所蔵芭蕉真蹟の一幅(阿部正美氏著『芭蕉伝記考説、行実編』紹介)や、今栄蔵氏の『芭蕉年譜大成』にも記載があるが一部異なる箇所がある。
 今回は『日本俳書大系』所収『韻塞』と芭蕉真蹟一幅による。
 《註》
素堂の母は元禄八年夏に突然死去する。素堂の家系で、母の没年については元禄三年説があるが、母の死は元禄八年であり、素堂の妻の死は元禄七年の事である。素堂は妻を娶らずとの説もあるが、一考を要する。又素堂の家系と甲斐府中山口屋市右衛門の家系を直接結ぶ資料は見えない。
 
 

 元禄十三年まであった芭蕉庵

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 素堂59才 元禄十三年(1700)
 
『冬かつら』杉風編。………芭蕉七回忌追善集………

 ことしかみな月中二日、芭蕉翁の七回忌とて、翁の住捨ける庵にむつまじきかぎりしたひて入て、堂あれども人は昔にあらじといへるふるごとの、先恩ひ出られた涙下りぬ。空蝉のもぬけしあとの宿ながらも、猶人がらなつかしくて、人々旬をつらね、筆を染て、志をあらはされけり。予も又、ふるき世の友とて、七唱をそなへさりぬ。
其一 
  くだら野や無なるところを手向草 
其二 
  像にむかひて紙ぎぬの佗しをままの佛かな
其三 
  像に声あれくち葉の中に帰り花
其四 
翁の生涯、鳳月をともなひ旅泊を家とせし宗祇法師にさも似たりとて、身まかりしころもさらぬ時雨のやどり哉とふるめきて、悼申侍りしが、今猶いひやまず。
  時雨の身いはば髭なき宗祇かな
其五 
  菊遅し此供養にと梅はやき
其六  
形見に残せる葛の葉の繕墨いまだかはかぬがごとし
  生てあるおもて見せけり葛のしも
其七  
予が母君七そじあまり七とせ成給ふころ、文月七日の夕翁をはじめ七人を催し、万葉集の秋の七草を一草づつ詠じけるに、翁も母君もほどなく泉下の人となり給へば、ことし彼七つをかぞへてなげく事になりぬ。
  七草よ根さへかれめや冬ごもり

素堂の漢詩文そして芭蕉

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素堂の漢詩文そして芭蕉

(略)藤原惺窩は冷泉家為純の子で、若くして僧となった人で京都嗚相国寺の学僧、程朱の学を学び、桂庵玄樹の「朱註和訓」を学んで独自性を知り還俗し、朱子学を仏教より離して独立させた京学の祖である。朱子学の墓礎を確立し、儒学を貴族・僧侶の社会より解放したのである。後に徳川家康の招致で講援はしたが門人の林羅山を推し、仕える事はしなかった。惺窩も五山派の学僧であったのである。
〇林羅山(道春)
博学強記と云う林羅山(道春)は京都の人で、祖は元武士で町屋に下って商いを営んでいた。羅山は弱年で五山の一つ建仁寺に入って学んだが、僧になるのを嫌って戻り、惺窩に師事して朱子学を学び、師の推薦により徳川家康の侍講に召し出された。当時は学問で立身する者は僧侶に限られていたことから、剃髪法躯を命じられた。以後儒学者は元禄二年に剃髪が廃止されるまで絨けられた。
寛永七年、羅山は上野忍ヶ岡に土地を与えられ家塾を建てた。また尾州侯徳川義直の援助により先聖殿(孔子廟、後の湯島聖堂)が造られ、後に家塾は寛文三年に弘文院号を与えられた。元禄三年、将軍綱吉の命で忍ヶ岡より湯島に移転となり、先聖殿が湯島聖堂を、家塾が昌平と改められて、林家は歴代が弘文学士・昌平黌主(国子祭酒)を継承することになった。羅山もまた五の禅宗に関係していたのである
素堂の漢詩文
 山口素堂は漢学者であるが国文にも通じ、俳諧にも並々ならぬ素養を持ち、その見識は当時の先駆者的立場であった。しかし、俳諧の面では松尾芭蕉の後援者となり、後世、単なる好き者(別格の意もある)扱いをされ、多くはその評価も芳しいものではない。確かに漢詩文や鑑の作品の多くは興に乗っての即興即吟であるが、中に推敲を重ねての作品も多数ある。この傾向が現れるのは延宝末年の頃だが、これも俳諧集などの序跋文が多くなって来たこと根ざしていると考えられる。
素堂は寛文年末頃から俳階の幽古体からの脱却を目差したのと機を一にしており、漢詩文でも古典体に囚われない自由詩体を模索して、好事者の評価を得ていた。和歌にしても原安適や「用語の自由を主張して和歌の革新をとなえた」戸田茂睡とも親交がある通り、今に残る作は少ないが機を一にしている。
素堂と芭蕉
 松尾芭蕉は古体の俳諧を革新し、芸術文芸にまで引き上げたとして、後世「俳聖」として崇められた。連歌より派生した俳諧が、松永貞徳により体系化され、北村季吟・西山宗因が堅苦しいマンネリ化した遊戯的俳諧を、独自の「さび・わび・しおり・ほそみ・かろみ」などを極致とする俳風を開き、芸術的俳諧に高めた事による。
 芭蕉も最初からこの域に達していたのではない、初めは貞門俳諧の手解きを受け、同じ門葉の季吟に師事し、後に宗因の談林調に投じ、そして素堂の後援を受けて、独自の俳風に至ったのである。
素堂と芭蕉の結び付
素堂と芭蕉の結び付は一般には唐突である、しかし、寛文年の末頃の素堂と季吟の接触にあると推察される。勿論、春陽軒加友や内藤風虎の仲介の有ってのことであろう。延宝二年に素堂が信章として季吟に会った時には、一通りの俳諧者として遇していた。この時期は風虎と季吟の間で書状の遣り取りが頻繁であり、宗因の江戸招致も宗因の都合で中々進まずにいたのである。風虎のサロン入りをしていた素堂は、信章として仕えていた主家(未詳)の用で上溶するおり、風虎の依頼で季吟に会い、次いで難波の宗因に会ったのである。
〈季吟廿会集・信章難波津興行(鉢敲序)〉
季吟は宗房(芭蕉)に奥書「埋木」を与えたものの腰の定まらない宗房の、江戸での引き立て方を信章に依頼したのであろう。宗房は信章(素堂)の友人である京都の儒医・桐山正哲(知幾)に依頼して「桃青」号を付けて貰い、江戸に向かったらしい。しかし、江戸に向かう前に素堂に誘われて大阪に行ったとも考えられる。(素堂の名は見えないが芭蕉語録に芝居見物の話がある)此処で宗因化紹介されたのか、ただ見ただけなのかは判らないが、この後蓑笠庵梨一の「芭蕉伝」にあるように、季吟の門人卜尺(孤吟)に誘われ江戸に向かったのである。
素堂も宗因に会って風虎の依頼を伝えたものらしく、翌年初夏に宗因は江戸に到り、「宗因歓迎百韻興行」には、宗房改め桃青(桃青号の初め)は素堂こと信章と一座し、これと共に風虎サロンにも紹介されたと考えられる、以後素堂は致仕するまで、江戸に在る時はいっしょして俳諧に一座していた。
 素堂の退隠後は、芭蕉はしばしば素堂のもとを訪れ、いろいろと学んでいたようで、門弟達と漢詩等の勉強会を開き、死ぬ元禄七年まで書物を借り出している。

内田不知庵氏 「芭蕉後伝」における山口素堂

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 明治期の内田不知庵氏が、当時引用出来得る限りの吉文献を駆使して、興味深い芭蕉論を「芭蕉後伝」(素堂鬼貫全集)として展開しているので、抜き出しながら紹介するが、不知庵氏の骨子は是々非々の立場を保とうとしているものの、概ね芭蕉門葉の伝書などを用い、元禄期の花見箪、化政期から幕末期の「芭蕉論」書を交えて綴っておられる。編年体論でないところから、芭蕉賛美論に終っているところが少々煩わしい。
 
「芭蕉後伝」の(二)芭蕉の学識修養の項の中で
 
『芭蕉は実に此門(季吟)に出づ。洛に住する数年、季吟に教を受けて古しへの俳匠の為るが如く、万葉.古今.源氏.狭衣等の諸典を研鑽しぬ。芭蕉が見地の時流より一等上りしは、一つには此学問あり為めなるべし。勿論学者とし見れば、盛名今に残れる同学者若しくは儒者よりも、造詣深からざりしなるべけれども、無学者も亦一躍して点者たるを得べき俳壇にありては、通常以上の学識ありしが如し』
更に
『且つ当時の古今を崇拝し、源氏を随喜する中に、特に「山家集」と「金塊集」との気韻高きを推し、「土佐日記」を俳諧なりと喝破したる如き眼識の、決して尋常ならざりしを知るべし。殊に季吟が芭蕉の説を聞いて、万葉の一疑を釈きたりといふ逸事の如き、益々芭蕉が超風の読書眼を具せしを証するに足る』
 
 土佐日記で思い出したが、寛文元年の初冬頃、季吟が江戸の知らせで、林春斎が誰とかの注釈「土佐日記」が版本され、その序文を春斎が書いたと知り、季吟が「春斎に何が分かるか」と立腹した事が「季吟日記」にあった。また『季吟が芭蕉の説云々』の処は、「芭蕉一葉集」(湖中他共編文政十年刊)の「遺語之部」に
 
  季吟云、・・或時桃青・・として載せ、末尾に「季吟物がたり素堂より伝ふ。」
とある。
 なおも不知庵氏は、芭蕉が儒学を伊藤担庵に学んだとし
 
『山口素堂に益を享けたり、漢詩の文芸、殊に経学に精通したる事跡伝らざる上に、林門の一書生にして不熟の悪詩を残せし素堂をすら、詩に精しと称したるほどなれば、造詣の度は患像すべしといへども、白氏を渉猟したるの痕跡は、明かに俳句の上に見えたり。且つ平生
杜律を誦受して--中略--唐詩は恐らく精読せし処なるべく云々』
 
続けて
 
『然れども、芭蕉の俳骨を渾成せしは国典にあらず、儒学にあらずして禅の修養なり。芭蕉は仏頂と往来せし日短く---中略---仏頂との往来が正風開創の一導火となりしが如し。
  門人浪化曰く、仏頂禅師と茶話の詞あり、翁いはく、道心を求めんとするもの、着し市中の愴忙に飽けば幽谷に隠れん、其初めに飽くものは其終りは寂莫に飽かん。左れば、今日の是非に交りながら、其是非つかはれずして自在に道を得んこと、此俳諧に遊びて名利を圧はんには如かずどなり』---中略---「然れども芭蕉は生涯禅を説かず、常に門人に道義の重んずべきを諭したれども、参禅工風の甚深なる妙趣を説法する事とて勿りき。後人が濫りに「古池の句」に附会して「特別の禅機」を這句裡に示したりと云ひ---中略---終には禅を学ばざれば、芭蕉の句を解する能はずと云ふ如きは、云々』
 
 この個所は、本小論の冒頭の命題と同じである。不知庵氏は支考ら説や錦江の説も読んでいた。ただ芭蕉が参禅したのは禅機を得るためでは無い、己の性癖修養のためである。
 
  「芭蕉の学識は大凡斯の如く、惣ての詩人が概ね爾る如く深奥掩博なるものにあらざりき。勿論、学才と眼識とは明かに時流に超えたれども、修養の深浅広狭を以て比ぶれば、季吟の篤学なる、素堂の博聞なる由的の精通なる、其他猶ほ芭蕉に勝る者多かりしなるべし云々」。
 
 前にも述べたが、不知庵氏はこの書で芭蕉の性癖及び行状の項に逸しているのだが、持って生まれた性格を分析していなかった点にある。多くの芭蕉論に.洩れているのと機を一にしているのである。
 芭蕉は天才肌であり、軽重浮薄なところがあって、見識が高く、物事に対する自己顕示欲が強く、しかも朝令暮改的要素を含み、我が儘な点が多い。しかし、物事に対する執心は強いのだが好き嫌いが激しく、学識は浅く広くと、云った点で、為に上水道改修水吏を途中で投げ出して深川に隠遁し、己の修養に目覚めて参禅した訳で、諸伝が云うような参禅では無かったのである。確かに人品備わり人を別け隔てなく接し、情が濃やかで人当たりが柔らかくといった良い点は多くある。これが無ければ多くの門弟たちを厳しく指導しても従わなかったはずである。人柄の温かさがあったのである。(芭蕉の門人と称する人々も追善興行に参加しなかった俳人も多く見える。芭蕉の心でなく名声だけ利用していた者も多かった)
 芭蕉の才能を愛した素堂は、出会いからその性格を見抜き、その欠点をそれとなく悟らせようとした。それが「蓑虫応答」(芭蕉と素堂の一連の遣り取り)である。結果は分からないが素堂の意に反していたようである。芭蕉は芭蕉で俳文を綴れば素堂に見せて意見を聞くと云った(幻住庵の記まで)事が続いている。
 
不知庵氏は
 
「蕉が平生愛謂して幻住庵に落柿舎に、或は行脚に折々に携へしとて、明かに知れたるは「白氏文集」「杜子美詩集」「世継物語」「源氏物語」「土佐日記」「百人一首」「吉今集」「吉今集序註」「山家集」「応安新式」等なり。其他の国朝諸典は季吟の門に在りしなれば、勿論ひとわたり渉猟せしならん。「徒然草」「方丈記」宗祇・長嘯の家集及び謡曲・小唄の如きは、好んで沈読せしか止思はる。
 
更に(三)芭蕉の俳風で、
 
「芭蕉が俳諧の壇上に建し新旗幟は不易流行の説なり。此不易論は、芭蕉が多年の修練工風より捉来りし見地にして、単り俳諧の上のみにあらず、自家の安心立命も亦此中に宿せしなるべし。之を俳諧の上に於てせば、不易とは時代の変化に移らず、千古に通じたる風情を咏びしをいふ。曰く「万台不易あり、一時の変化あり、この二つに究まる。其一といふは風雅の誠なり、不易を知らざれば実に知るにあらず。不易といふは、新古によらず変化流行にもかかはらず、まことによく立ちたる姿なり。代々の歌人の歌を見るに、代々其変化あり。又新古にもわたらず今見るところ、昔し見しにかはらずあはれる歌多し。是れ本と不易心得べし。又千変万化するものは自然の理なり。云々(赤草子)
 
 この説を芭蕉が唱えるのは元禄二年(1689)の奥州北陸吟行の時であるが、(呂丸の「聞書七日草」)ここでは「天地固有の俳諧説」ではあったが、素堂は貞享四年(1687)十一月に、其角の「続虚栗集」に序文を与え、『不易流行説』とは銘打っていないが
 
「風月の吟たえずして、しかももとの趣向にあらず、たれかいふ、風とるべく影ひろふべくば道に入べしと、此詞いたり週て心わきがたし。ある人来て今ようの狂句をかたり出しに、風雲の物のかたちあるがごとく、水月の又のかげをなすに似たり。あるは上代めきてやすくすなほなるもあれど、ただけしきをのみいひなして、情なきをや。古人いへることあり、景のうちにて情をふくむと、から歌にていはば「穿花挟蝶深深見 点水蜻蛉款々飛」これこてふとかげろふは処を得たれども、老杜は他の国にありてやすからぬ心とや、まことに景の中に情をふくむものかな。やまとうたかくぞあるベき云々」
 
 続虚栗の序文は後項の「素堂と芭蕉の俳諧論」で、芭蕉の「虚栗の序」(天和三年)と併せて紹介するが、素堂の俳論で重要なのは次の点で、
 
「はなに時の花有り、ついの花あり。時の花は二度妻にたはぶるゝに同じ。終の花は我宿の妻となさむの心ならし。人みな時の花にうつりやすく、終の花にはなほざりになりやすし。人の師たるもの此心わきまへながら、他のこのむ所にしたがひて色をよくし、ことをよくするならん。来る人のいへるは、われも又さる翁のかたりける事あり。鳩の浮巣の時にうき、時にしずみて風波にもまれざるごとく、内にこゝろざしをたつべしとなり。余わらひて之をうけがふ。いひつゞくればものさだめに似たれど、屈源楚国をわすれずとかや。これ若かりし頃狂旬をこのみて、いまなほ祈にふれてわすれぬものゆゑ、そゞろに弁をついやす。君みずや漆園の書いふものはしらずと。我しらざるによりいふならく。」
 
 清水茂夫氏(故)は論文「素堂の俳潜・天和貞享時代」の中で
 
 「時の花とは一時に興を求めるものであり、その時だけの目新しさ新奇さをもった句である。終の花とは永遠にその生命の変わらないも
の、つまり芭蕉の言う鳳雅の誠を責めて作られた句である。後年蕉門において盛んに論ぜられた不易流行論は、既に素堂を通じてこういう形で、最初に提出されたのである。」
 
 いま少し追加すれば、素堂・芭蕉蔓焦とも貞門俳諧に出て談林調に浸り、天和調(漢詩文調)流行の中に在っては漢学者の素堂にとり、得意の分野ではあるがのめり込むことはなく、ただ遊んだだけの事で、続虚栗序にある通りである。これとは反対に芭蕉は談林漢詩文調にどっぷりと浸ってしまった為、その行き詰まりを感じて脱出に苦心していた。天和の初めの頃芭蕉は新式興隆をうたったものの、なお模索をしていた処へ江戸大火事に会い類焼し、誘われて甲斐谷村に流寓して江戸に戻った。しかし門弟の其角の『虚栗集』の序文を書いた時は、まだ方向が定まっていなかったのである。
 今日定説の如く云はれる「旅を家とす」と云う気持ちを持つのは、もっと後のことであろう。芭蕉は現状を脱するには、座して考るより旅に出てとしたのである。
 素堂の「続虚栗序」は其角に対して物であるが芭蕉に向けた文が主で、其角には
 
「お前さんの師匠は芭蕉であるから、序を私に求めるのは筋違いであろう」
 
と、諭している。其角は初め素堂のもとにいたが、芭蕉に付かされたのであろう、その後も其角は素堂に序文をねだっている。
 素堂と芭蕉の句作の傾向は前述の通りで、年代順に追えば判ることだが、初句を発表してから推敲し直し成句にしている数は芭蕉が圧倒的に多い。共に自ら刊行することをせず、色紙等でも作年が記入して有るものも少ない、芭蕉は門入等による選集が多く、これに載集されているから良いが、素堂の場合、門弟は取らなかった事もあるが、興に乗った時の作や頼まれての物が圧倒的に多く、残されている作も他の人の句集に取られたものが主であるから大変に少ない。死後に刊行された「とくとくの句合」『素堂家集』によって見ても少ない。従って芭蕉の研究が多く成されて、素堂は後年まで俳壇のバックボーンとして別格の位置に据えられ、研究の対象外に置かれてしまい、時々篤学の人によって掘り起される始末となったのである。
 例えば与謝蕪村・小林一茶・夏月随斎らがそれである。
素堂の甥の山口黒露、親族と云う越智百庵(寺町氏)は近いのであるから、能弁で有っても良いはずであるが寡黙に近い。三世来雪庵素堂(佐々木氏)も同様、素堂の門流を称する馬場錦江は「白蓮集解」の研究書を著しているが、何れも芭蕉の研究には熱心であった。それだけ素堂が隠士の名に隠れて、芭蕉を後援していたと云うことであろう。
 
 素堂を「林門の一書生」と痛罵した不知庵氏も
 
『蕉門の元勲といふべきは「二十歌仙」(延宝八年)の作者、殊に杉風・ト尺・嵐蘭・螺舎(其角)・治助(嵐雪)の五人と素堂なり』
 
と、無視することは出来なかった。また芭蕉没後の蕉門について
 
『嵐雪と其角は芭蕉の徳量を欠くを以て、同門諸子及び諸国の俳匠を馴伏するを得ず、蕉門は条忽ち統一失ひて、滅後数年ならずして崩壊し「二十五条」を説き「十七条」を論じ「茶話禅」唱え、「山中問答」を称し、「貞享式」を銅破し「旅寝論」を絶叫し、宇陀法師に諤々し、「続五論」饒舌す。--中略----杉風は耄(おいぼれ)し、丈草は隠れ、其角は嘯(うそぶ)き嵐雪は黙し、惟然は狂し、去来は歎じ、素堂は知らざる倣して、伊賀の三十一人衆は聾の如く唖の如し』
 
と、手きびしい。今日の明かされた資料からすると、不知庵氏の記述は一方的であるが、それはそれとして、蕉門の軋轢は芭蕉の生前から有り、芭蕉もかなり持て余していた。それを素堂は一分始終を知っていたらしい。丁度芭蕉の死と機を一にするように、素堂の身辺にも不幸が襲い(妻の死など)、蕉門間の取り纏めをする暇も無いほどで有った。
 選集の出来を巡って其角・嵐雪に攻められた杉風は、深川に退隠して表に出たがらずに、それではと、西の去来に「蕉門建て直し」の期待を託し、素堂はしばしば京都を訪れては口説いていた。去来抄の巻末には「人伝(づて)」の如く記してあるがそうでは無かろう。
 
「今年素堂子、洛の人に伝へて曰く、蕉翁の遺風天下に満て、漸又変ずべき時。いたれり。吾子こころざしを同じうして、我と吟会して一ツの新風を興行せんとなり。去来云、先生の言かたじけなく悦び侍る匂予も兼て此思なきもあらず、幸に先生をうしろだてとし、一つの新風起さば、おそらくは一度天下の俳人驚ろかせん。しかれども、世波老の波日々にうちかさなり、今は風雅に遊ぷべきいとまもなければ、唯御残多おもひ侍のみと申。云々」
 
 『去来抄』は偽書との説もあるが、元禄十五年頃までには成稿されたものと考えられており、また十二・三年ころの著とする説もある。素堂は元禄十一年・十三年・十四年から十五年にかけて上洛している。
 
素覧の「東武太平鑑」(荻野清氏紹介)には、
  「江戸風の鑑とて今世さまざまに品つくり、変りたる風をよろこびて、目にあまる事おびただしければとて、葛飾の素堂大人此由、丈草・去来がもと、そのほか伊貫の衆にはかり、俳諧正風のおもてを興さむとありけれども、去来は手届かず、又丈草は此ほど身すぐれずとて取わず、ただ伊賀の衆中には志をのべてこしたるもありけれど、力なくてやみき云々」(「俳諧二百年史」紹介)
 
荻野氏は
「隠逸にして、人を訪ぬるさへ煩しいとした人物である。かかる彼が、俗に趨いた其角一派の句風に飽き足らず思つてゐた事は背かれるとするも、それ以上、新風興行等の煩瑣なる企画をなさうとは思はれ無い。彼の俳諧観及び其角との関係より見ても此事は疑はしい。云々」(山口素堂の研究上)
 
と、記すが如何であろうか。
 
 元禄十五年は、不知庵氏が主に取り上げている、京の轍士の編集による「花見車」が刊行されている。素堂は宝永元年四月に上洛の旅に登ったが、前年の十二月の元禄大地震のあとの大火で類焼したのであろうか、町奉行所に深川六問堀続きの地に家作願いを出し、七月に許可が出ている。その九月には去来は病死し、素堂は京都で越年して翌二年四月に江戸へ向い、尾張鳴海の知足亭に寄り、江戸に帰った。その九月の去来追善集『誰身の秋』(元察編)に追悼句を寄せている。
「随斎諧話」に去来の死後、支考が向井家を訪れ、秘蔵の「伝書」を買い取ったとの記事があるが、如何であろうか。「去来抄」は安永四年に暁台の編集で刊行されている。尚、去来の父元升は儒医として禁裏に仕えたが、元長崎において「聖堂祭酒」(儒学の校主)を務めていた。恐らく素堂と桐山知幾とを結び付けたのは元升であろう。素堂と芭蕉は親友で在りながら、ある点までは素堂は先輩として芭蕉をリードし、芭蕉は素堂を目標として指導を仰いだ。ある点から芭蕉は素堂をライバルと意識しはじめたが、旅行中にも門弟に手紙で
 
「素堂文章此近き頃のは御座無く候哉、なつかしく候」(元禄三年九月、曾良宛書簡)
 
と、素堂の序文等を求め、句作の方向を探っている。
 兎に角、素堂の資料は数が少ない。これも素堂の生き方であるから致し方ないが、ただその資料は芭蕉の資料の中に埋没しており、つぶさに検証すればその掘り起こしも可能である。芭蕉が元禄四年の「嵯峨日記」中で
 
「長痛隠士の日、客半日の閑を得れば、あるじ半日の閑をうしなふと、素堂この言葉を常にあはれぶ。予も又 うき我をさびしだらせよかんこどり とは、ある寺に独居して言いし句なり云々」
 
と記す。隠士とは名ばかりの素堂にとっては、多忙の日々の閑日を持った時は大事にしたいから、芭蕉であっても事前に手紙で訪問の打ち合わせをしないと会えなかったのである。荻野氏の解くように「折にふれて所懐を述ぶる程度に云々」とするには無理がある。
素堂は自由詩人であり即興詩人である。興が沸かないと作品は作らない。誘われないと俳席にも一座しない。色紙を依頼しても興がないと出来上がりが遅いなどがある。元々寡作で有った素堂は、芭蕉の死後は余計瓢々と過ごすのはもっと後の事であったのである。
 
 大分紙数を費やしてしまったが、いま少し素堂の学芸歴にもふれておくと
 

「常陸風土記」 と富士山

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大理石 (白)
「常陸風土記」
には、副慈神に関する伝説が伝えられる。
 むかし、祖神尊(みおやのみこと)諸神の宮処を巡行なされて、駿河国の副慈岳(即ち富士山)に到った時にはもう日も暮れ方であったので、一夜の宿を請われた。
 時に、副慈神の答えのたまわく、「今夜は、新嘗祭で、家内中物忌していますから、おとめ申すわけにはまいりませぬ。」と。それで、祖神尊、恨み告げたまわく、
 汝(いまし)が親に、何故宿を借さないのか。さればよし、汝がいるところの山は、生涯夏でも雪霜に襲われて、人も登らず、飲食物を献るものも無からしめ富士を望んとおおせられて、祖神尊は、更に、筑波岳までまいられて、一夜の宿を誘われた。筑波 の神は、今夜は新甘祭でありますけれども、敢てお言葉に従いましようといって、直に飲食を設けて敬い仕え奉った。
 そこで、祖神尊は、歓然として謡いたまうよう
 「愛しきかも我が胤、巍きかも神つ宮、天地を竝斉しく日月と共同じく、人民集い賀び、飲食富豊に、代々絶ゆることなく、日々に弥栄えて、千秋万歳、遊楽窮らし。」と謡いたまわれた。それで、副慈岳は、常に雪ふりてりで登ることを得ず、筑波岳は、往集い、歌い、舞い、飲み、喫いすること、今に至るまで絶えないのだということである。

<徐福と富士山>

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<徐福について>秦国徐福集団の渡来と業績(紀元前219)
炎帝神農氏一男、黄帝有熊氏四男、忠顕氏より第八十八代の徐福は、秦国の始皇帝に仕え、勲功多く書記長官に昇進致したが、無見顧所と、始皇帝を内心批判していた。始皇帝は古代中国を統一し、秦国三年の春、東国を御巡幸の時、朝峰山の峰に登り、東海の大海に遊び、蓬来山島を遠望、蓬拝して皇城に帰られた。
時に、これ吉幸なりと、徐福は始皇帝に偽り申し上げた。
「東海の蓬来山島は、全世界の大元祖国にして、大元祖々神の止まり座します御国にして、この蓬来山島には、長生不死の良薬あり、この良薬を用い給えば、千万歳の寿命を保つ良薬と伝うこの良薬を求め来るには、大舟八十五船造り、老若男女五百余人に金銀・五穀・塩・味噌を沢山船に積み、十年または、十五年かかっても、きっと求めて帰ります」
ところが、始皇帝は、これ吉幸なりと、その長生不死の良薬を、どうしても求めるよう、信任厚い徐福に直ちに命令した。
こうしたことから、徐福と眷属は、伝説の蓬来島の蓬来山、つまり日本列島へ渡来することになった。
徐福の家系は、代々学問の家として世襲し、徐福より七代前の祖先の子路は、孔子の門人筆頭者として有名であった。
眷属は百工、つまり各種の技能者を選び、一族を合わせ、老幼男女五五八名(今日に残る名簿により)秦国二十八年六月、船団は東海の蓬来島の蓬来山を目標に、中国大陸の山東半島より出発した。
時に日本国は、孝霊天皇七十二年とあり、筑紫島(九州)から紀伊の熊野山まで来たが、伝統の蓬来山は見当らず、しばらく熊野に滞在した。そのうちに、東海に富士山を見付け、住留家浜(駿河)にて上陸。西富士の水久保駅、川口駅路を通り、北麓の家基都駅へ到着した時は、孝霊天皇七十四年(bc217)十月五日とあり、一同は富士北麓の各地へ分散し土着した。
<註>
家基都(かきつ)は『延喜式』に、加吉と当て字で書いている。
徐福は家基都(現 富士吉田市)の中室へ土着し、神武天皇によって定められた三十六神戸の人びとの口碑、口談、伝一言、各々の覚え記録書を集め、日本国の創始時代、つまり、今日にいう縄文中期から神武天皇の時代に至る、およそ二千年間の歴史を集大成した。日本国史を纏め、文字の文化をもたらし、さらに眷属による産業への寄与などその功績は顕著であり、人皇八代孝元天皇七癸巳年(西暦紀元前208)二月八日、中室にて徐福は死亡し、天照大御神を祭る太神宮のかたわらに、手厚く埋葬された。後、徐福大神と祭られ、現存する。
<註>
紀伊国の 新宮市 にも徐福の伝承と墓があるが、当所が本宮であり、徐僧の二男、福万が五十人を引き連れ、熊野へ分霊を持参し移住したので、地名を新宮という。<『探求幻の富士山古文献』>
 
日本に於ける徐福伝説(『徐福弥生の虹桟』羅其湘氏・飯野孝宥氏共著)
<富士吉田>
山梨県富士吉田市 には、徐福の遺跡として福源寺と徐福祠がある。羽田氏によれば、秦の始皇帝が蓬莱の国日本へ徐福を遣わして不老不死の妙薬を探させたが、徐福はその途中で不死山(富士山)にて他界してしまった。そして、三羽のつるとなって舞い上がり、そのうち一羽が死んで福源寺の地に落ちてきた。それを葬ったのが鶴塚であると伝えられている。福源寺の山門の右側の鶴塚碑は江戸時代以前の建立で、その碑文には、「峡州(甲斐国)に鶴郡(都留郡)有り。其の地、南は富岳の趾(フモト)に接す。相伝う、孝霊帝(人皇七代)の時、秦の徐福結伴して薬を東海の神山に求む。ここに到るにおよび、以為らく、福壌の地なりと。ついにとどまりて去らず。のちに鶴三隻ありて居る。恒に遊びて郡中にとどまる。時人以て徐福らの化するところとなす。」とある。なお、市の東部の小明見地区にある明見湖周辺の小丘に建つ甲子神杜の境内に徐福の祠がある。
 <河口湖>
山梨県河口湖町 には浅問神杜の末杜である徐福社があり、機神(紡績の神)として信仰されている。町誌には、「----聞くところによると、倭国の蓬莱山(富士山)には不老長生の薬草が生えている。直ちに家臣徐福に命じて目本に渡らせることになった。徐福は命に従って海を渡り、紀州那智が浦に上陸、熊野三山を巡って富士山中に踏み入ったが、欝蒼と繁る原生林の山腹には小路一つなく、いくら探しても薬草は見当らず、始皇帝は暴君であっただけに、とても手ぶらでは帰国できないことを悟ると、引き連れてきた童子三〇〇~五〇〇人を奴僕として河口湖の北岸河口の里近くに荘園をひらき、みのりを朝廷に捧げ、供の翁(おきな)の娘をめとって帰化し、土民に養蚕・紡績・農法などの術を教えたから、ついに湖畔で果ててしまった。」とある。
 <山中湖長池>
山梨県山中湖村長池地区の伝承によれば、長池はその昔、長命村ともいい、秦の徐福が不老長生の薬草を求めてこの地に来たり、子孫が住み着いたという。また、徐福は始皇帝の三年六月二十目に中国を出発し、海上を漂うこと百日余り、紀伊国へ上陸し、造船、捕鯨その他当時の最新技術を教え広めたのち、不二蓬來山こそ目的の地であることを知り、海路をとって駿河湾島原に上陸した。高天原呵祖谷に到着したともいっている。これとは別に『甲斐国志』には、「現在、その子孫は秦氏と称し、河口、吉田の師職(神主の位階)一の人に秦または波多、羽田姓を名乗る家が数家ある。」と記載され、徐福の子孫であると伝えている。

富士山湧出 甲斐國志

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富士山湧出甲斐國志巻之三十五 従五位下伊豫守定能編輯----山川部第十六ノ上都留郡----
「神社考」に曰、
----孝安天皇九年十二年六月、富士山湧出、初雲霞飛來如穀聚云々依之後に「穀聚山」とも称する。山形平地に穀を盛るが如くなればなり、故に穀を量るに升を以ってするに准らへ、山路を測る称号とすると云う。
富士山 甲斐國志巻之三十五 従五位下伊豫守定能編輯----山川部第十六ノ上都留郡----
 
郡ノ西南に当り南面は駿河に属し、北面は本州に属す。
東南は大行合(八合目)より東の方、大天井、小天井、それより下りて「七ツヲネ」
それより「天神峠」見おろし「かご(籠)坂」へ下る事百五間、
又東南へ下る事二丁三拾七間にして、甲駿の国界たり。
西は「藥師カ嶽」より「無間谷」、「三ツ俣」それより、長山ノ尾崎に下り、「三ヶ水」、「狐ヶ水」、裾野に至りて「裂石(われいし)」まで、また甲駿ノ國界ナリ。
八合目より、頂上に至りては、両国の境なし。東南、籠坂峠より西北「裂石」に至るまで裾野の間、拾三里故に古へより「駿河の富士」とは云えども、七分は本州の山なり。
天正五年武田勝頼、浅間明神への願書に古人云。三州に跨ると雖も、過半は甲陽の山なり、とあるはこれなり。(古より三州に跨る諸記にあれども、実は二州のみ)
登山路の北は、吉出口、南は須走口、村山口、大宮口の四道なり。そのうち須走道は八合目に至て「吉田道」と合す。
故にこの所を「大行合」と云う。村山道、大宮道に合す。故に頂上に至ては唯南北二路なり。南面を表とし、北面を裏とすれども、古より諸園登山の族人は北面より登る者多し。故に北麓の村落吉田、川口二村に師職ノ者数百戸ありて、六七両月の間参詣の族人を宿せしむ。これにて案内者を雇ひ、これに旅具等を持たしむ。
吉田より「鈴原」まで三里、道険ならず故に馬に跨(またが)り登山する。
まず、「山役銭」として参詣の旅人より、師職共百二十文請け取る(古は二百四十四文なりしとぞ、今はその半減なりと云う。この内不浄祓いの料三十二銭、役行者堂二十銭。(賽銭)
「中宮」三十二文、(内十六文は休息料)。
「薬師が嶽」、二十文。(内十四銭は大宮の神主、六銭は吉田の師職)
古へは、この役銭を領主に上納せしとぞ。天正十八年十一月十五日、領圭加藤作内より與へし文書に
----不二(富士)山御改に付き河尻氏に被卯付候。以先書訴之條の如く先規爲、道役料、青鋼四貫文、師職共慥(たしか)に上納爲其記、刀一慨棄光作寄附於神前可帯之委細者可爲前々事----
とあるは是也。「採薬小録」に駿河大納言様山の道法御改の節、上 吉田村 鳥居より御改の由、富士の山上まで、吉田よりおよそ三百五拾七町七間半ありとぞ。この鳥居は浅間社中五丈八尺の大鳥居の事なり。
<日本武尊>甲斐國志巻之三十五 従五位下伊豫守定能編輯----山川部第十六ノ上都留郡----
(前項文に続き)是より登山門を出て、松林の間を南行すること三町ばかり左方に、一堆丘あり。大塚と称す。塚上に小祠あり、「浅間明神」を祭る。土人相伝え云う、上古日本武尊(やまとたける)東夷征伐の帰路、道を甲斐國に取り、富士を遥拝したまえし地なり。後世、塚を築きその徴とし、上に小祠を建るとぞ。口碑に伝わる歌あり
----あつまち(吾妻路)のえみし(蝦夷)をむけしこのみこ(御子)の 御威稜にひらく富士の北口----
是よりして北口の道は開けしとぞ。甲斐國志巻之三十五 従五位下伊豫守定能編輯----山川部第十六ノ上都留郡----
<七合目:聖徳太子・駒ヶ岳>
甲斐國志巻之三十五 従五位下伊豫守定能編輯----山川部第十六ノ上都留郡----
七合目この間小屋およそ九軒。この辺りより道益々急なり。「駒カ嶽」と云う所に小屋あり。
「聖徳太子の像」並「鋼馬」を安置する。
新倉村如來寺兼帯す「太子略伝」に云う。
----推古帝六年夏、四月、甲斐國貢一驪駒、四脚白者、云々。舎人調子麿加之飼養、秋九月試馭此馬、浮雲東去、侍従以仰観、麿獨在御馬有、直入雲中、衆人相驚、三目之後、廻レ輿帰来、謂左右曰、吾騎此馬、瞬雲凌霧、直到富士嶽上、轉到信濃、飛如雷電、経三越、竟今得----
按ずるに、この古事を以って「駒カ嶽」と云いて、太子を安置せるあり。
 

◇芭蕉は甲斐に来たのか 史実は何処に

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◇『随斎諧話』(夏目成美著。文政二年・1819刊)
 芭蕉深川の庵池魚の災にかかりし後、しばらく甲斐の国に掛錫して、六祖五平といふものあるじとす。六  祖は彼もののあだ名なり。五平かつて禅法を深く信じて、仏頂和尚に参学す。彼のもの一文字も知らず。故に人呼で六祖と名づけたり。ばせをも又かの禅師の居士なれば、そのちなみによりて宿られしとみえり又、
 『奥の細道管菰抄』(蓑笠庵梨一著。安永七年・1778刊)
  此時仏頂和尚甲州にあり。祖師は六祖五平を主とすと一書に見えたり。六祖五平は高山氏にて秋元家の家  老也。幼名五兵衛、後主税と言は通称にて、今も猶しかり。六祖の異名は仏頂和尚の印可を得しより、其  徒にての賞名也。祖師と同弟なれば寄宿せられし也。今高山氏に祖師の筆蹟多し。米櫃の横にさへ落書せ  られしもの残れり。  
◇『芭蕉翁略傳』(幻窓湖中著・弘化二年・1845)の一説に、
  甲州郡内谷村の初雁村に久敷足をとどめられし事あり。初雁村之等々力山万福寺と言う寺に翁の書れしも  の多くあり。又初雁村に杉風(鯉屋・芭蕉の門人・友人・伊勢出身とされる)が姉ありしといへば、深川  の庵焼失の後、かの姉の許へ杉風より添書など持たれて行れしなるべしと言う。と云う説である。   
◇『芭蕉翁消息集』(芭蕉の真筆とされる。元禄三年説あり)北枝宛書簡(加賀金沢如本所蔵・『芭蕉年譜大成』では元禄三年四月二十四日付けとある)には自己の火災の体験を伝えている。
 「池魚の災承、我も甲斐の山里に引き移り様々苦労いたし候ば、御難儀のほど察し申し候。云々」とある。北枝宛の書簡は年不詳ではあるが、芭蕉自身の口から甲斐の山里に云々とあり、彼の素堂の「芭蕉庵再建勧化簿」の著が天和三年九月である事から天和二年十二月の大火の後であろう事は推察出来るが確証はなく、芭蕉書簡の内の「様々苦労いたし候ば」は何を意味しているのであろうか。
 又芭蕉の甲斐入りの折りに、寄寓されたとする万福寺境内には、万福寺住職三車によって「行駒の麦に慰むやどりかな」の句碑が建てられている。ある調査によれば真蹟であると云われている。又初狩村には芭蕉の最も信頼する杉風の姉が居たとする説も軽視するわけにはいかない。それを示す資料が見当たらないからと言って「事実が無い」ことにはならないのである。主張する説を定説にする為に他の説の抹消は避けなければならない。可能性を残して後世の研究に委ねる事が大切である。

不確かな芭蕉谷村流寓と高山糜塒別荘桃林軒

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『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』
 芭蕉の甲斐谷村流寓説に大きな力を発揮したのは大虫(明治三年没)の稿本『芭蕉翁年譜稿本』の次の記載による。小林佐多夫氏の『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』に詳しい内容が記されているが、概略は、
 それまで六祖五平という定かでない人物を頼っていたとする芭蕉の甲斐流寓の旧説を打破して、秋元家の国家老高山傳右衛門繁文(麋塒)を頼ったする新説が大きな要因を占めていると思われる。芭蕉は江戸大火の直後に浜島氏の家に仮寓していて、芭蕉が参禅していた仏頂和尚の門に居て、芭蕉の門弟でもある高山麋塒の帰国の際に芭蕉を誘い、さらに杉風にも相談すると、姉が甲斐初雁村にいるので折々滞留して下さい、との申し出に芭蕉も甘んじる事となる。この際、麋塒の別荘を「桃林軒」と号し、芭蕉はこの「桃林軒」を寓居と定め、心のまゝに城外にも逍遥し玉ふ、云々。
 大虫の説と勝峯晋風氏の説が重なり揺るぎないものとして「芭蕉の甲斐谷村流寓」が定説化に向けて進んでいる。しかし確たる資料を持たないものは、研究者の論及も仮説、推説であって定説とはならないのである。 芭蕉の来甲した時期であるが、秋元家では知行所一帯で溜まりに溜まった秋元家への不満が爆発した。延宝八年(1680)の郡内百姓一揆である。騒動は拡大して百姓総代が江戸町奉行に越訴して、受け入れられず翌九年(天和元年・1681)二月二十五日には谷村城下の金井河原に於てはりつけ及び斬首と云う極刑で幕を閉じる。当時の谷村周辺の庶民生活の困窮振りが忍ばれる。騒動が続く中でも秋元家の躍進は進み、庶民の困窮振りはさらに悪化していたと推察できる。芭蕉の谷村流寓は、そうした時代背景の中で為された事なのである。
 この時に高山麋塒が国家老であったかは分からないが、大変な時期に芭蕉は甲斐を訪れた事になる。芭蕉の書簡の「様々苦労いたし候はば」こうした時代背景を意識していたとすれば、妥当な文言ではある。
 さて今栄蔵氏の『芭蕉年譜大成』によると芭蕉の天和三年の行動は次のようになる。
◇『芭蕉年譜大成』
天和二年(1682)十二月二十八日
  芭蕉庵類焼、その後当分の居所定かならず。    
天和三年(1683)一月
 当年歳旦吟(採茶庵梅人稿『桃青伝』に「天和三癸亥さい旦」として記載。)         
元日や思へばさびし秋の暮れ(真蹟歳旦)
 春(一月~三月)五吟歌仙成る。【連衆】芭晶・一晶・嵐雪・其角・嵐蘭
 花にうき世我酒白く食黒し  芭蕉     
 夏(四月~六月)甲斐谷村高山麋塒を訪れ逗留。一晶同道。逗留中三吟歌仙二巻成る。
この後の五月には其角の『虚栗』刊行され、芭蕉は序文を書す。芭蕉の寄寓先の高山麋塒の句も見える。
天和二年
餅を焼て富を知ル日の轉士哉        麋塒
参考    
 烟の中に年の昏けるを
霞むらん火々出見の世の朝渚        似春
天和三年
浪ヲ焼かと白魚星の遠津潟  麋塒
雨花ヲ咲て枳殻の怒ル心あり        麋塒
《連衆…露沾・幻呼・似春・麋塒・露草・云笑・四友・杉風・嵐蘭・千春》
人は寐て心ぞ夜ヲ秋の昏     麋塒
花を心地狸に醉る雪のくれ   麋塒
参考
花を心地に狸々醉る雪のくれ 『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』
 これによれば、芭蕉は天和二年暮れの江戸大火の後、直ちに甲斐に来たわけではなく、天和三年の四月以降のことで、この火事では秋元家の江戸屋敷も火災に見舞われているので、国家老との高山麋塒にしても芭蕉の処遇どころではなかった筈である。又五月には江戸に戻り、其角編の『虚栗』の跋文を書している。
 次の歌仙が芭蕉が甲斐谷村に高山麋塒を訪ねて逗流した折に巻いたものとして、芭蕉が甲斐に入った事を示す実証として用いられている。
…逗留中三吟歌仙二巻…
 『蓑虫庵小集』猪来編。文政七年(1824)刊。「胡草」(歌仙)【へぼちぐさ】
胡草垣穂に木瓜もむ家かな     麋塒
 笠おもしろや卯の実むら雨     一晶
 ちるほたる沓にさくらを払ふらん  芭蕉
『一葉集』湖中編。文政十年(1827)刊。      
 夏馬の遅行我を絵に見る心かな      芭蕉 
  変り手濡るる滝凋む滝          麋塒
 蕗の葉に酒灑ぐ竹の宿黴て     一晶
 
 当時は春(一月~三月)夏(四月~六月)秋(七月~九月)冬(十月~十二月)であり、『芭蕉年譜大成』の夏、甲斐谷村に高山塒麋を訪ねて逗留。五月江戸に戻るので、芭蕉の逗留期間は非常に短期間と云う事になる。さらに先述した『虚栗』には、麋塒の句も入集しているが、これらの句が甲斐に居て詠まれた句かは定かではない。さらに『虚栗』の編集期間の問題もあり、芭蕉が五月に跋文を書して、又入集句に目を通し板行する期間も短期間となり、ましたや『虚栗』は弟子其角のはじめての選集である。刊行なったのは六月であっても、準備は以前から進められていたとするのが自然で、当たり前の事であるが句作は刊行より以前となる。   
私には句作の季節や句意などは分からないが、芭蕉が跋文のみで終わるという事はなく、『虚栗』の末では其角と芭蕉の連歌が記載されている。両者の句作はどの時期亥にわれたのであろうか。
『虚栗集』所載の句
○ 酒債尋常往ク處ニ有人-生七-十古来稀ナリ
詩あきんど年を貪ル酒債(サカテ)     其角
-湖日暮て駕(ノスル)レ馬ニ鯉      芭蕉    (以下略)
○ 改夏
ほとゝぎす正()月は梅の花              芭蕉
待わびて古今夏之部みる夜哉            四友
山彦と啼ク子規夢ヲ切ル斧         素堂     (以下略)
○ 憂テハ方ニ知リ酒ノ聖ヲ 貧シテハ始テ覚ル銭ノ神ヲ
花にうき世我酒白く食黒し      芭蕉
眠テ盡ス陽炎(カゲホシ)の痩        一唱 (以下略)
《連衆…芭蕉・一唱・嵐雪・其角・嵐蘭》
○ 素堂荷興十唱(略)
○ 改秋
臨 素堂秋-池ニ
風秋の荷葉二扇をくゝる也       其角
『芭蕉年譜大成』によると、一月、歳旦吟。春、五吟歌仙                                   
憂方知酒聖 ・貧始覚 銭神                                           
花にうき世我酒白く食黒し     芭蕉 
  眠ヲ尽す陽炎の痩せ               一晶               
 
 『虚栗』所収の秋冬の句は、刊行が天和三年六月であるから、前年、天和二年以前の秋冬(七月~十二月)の句である。
 芭蕉は夏、谷村逗留の後に五月江戸へ戻る。五月其角編『虚栗』の跋文を草す、六月刊。
 さて、甲斐出身とされる山口素堂はこの芭蕉の最も親しい友である。『甲斐国志』の記載以来、素堂の伝記は大きく歪められてしまっている。国志によれば素堂の家は甲府でも富裕の家柄であった云う。弟に家督を譲り、江戸に出たとされる素堂ではあるが、芭蕉庵を再建する発起人となるのであれば、何故芭蕉の甲斐流寓の手助けをしなかったのであろうか。素堂側に立って「素堂と芭蕉」の親密さを見れば、素堂は芭蕉の甲斐流寓の目的を十分理解していたと思われる。芭蕉が江戸に戻り参加した其角の『虚栗』には、素堂は中心的存在で参加している。後の『続虚栗』には素堂は「風月の吟たえずしてしかもゝとの趣向にあらず云々」で始まる序文を与えている。其角にとっても素堂の存在は大きなものであったのである。もちろん高山麋塒にとっても素堂は、幕府儒官林家に出入りする素堂の知識と俳諧に於ける先駆者としての位置づけは承知していた筈である。 九月、さて江戸に帰った芭蕉ではあるが、住む所が定まらず親友素堂の呼びかけで芭蕉庵を再建する。

歴史は創作される 芭蕉の谷村流寓

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研究者の論議については、 
一、岩田九郎氏…『芭蕉の俳句俳文』
 仏頂和尚の弟子六祖五平を頼る。翌年夏まで逗留。 
二、小宮豊隆氏…『俳句講座』
 同内容 
三、山本健吉氏…『芭蕉』                   
 同内容 五月まで滞在。 
四、荻野清氏…『俳諧大辞典』      
 塒麋に伴われて谷村逗留。 
五、飯野哲二氏…『芭蕉辞典』             
 同内容 仏頂和尚の紹介で五平の許に身を寄せる。    
六、穎原退蔵氏…『芭蕉読本』
 『随斎諧話』を引き、夏目成美の学識を重視する。   
七、目黒野鳥氏…『芭蕉翁編年誌』  
 三、四月の交り、六祖五平を頼る。 
八、高木蒼梧氏…『俳諧人名辞典』  
 甲州谷村の城代家老高山繁文(麋塒)を頼る。 
九、『校本芭蕉全集』
 罹災後のある時期、甲斐谷村の高山麋塒(秋元家家老)を頼り、翌年五月頃まで逗留する。   
十、高木蒼梧氏
…『俳句講座』      
 杉風の家系には姉は居ない。万福寺は初狩村では無く勝沼町等々力村である。 
十一、勝峯晋風氏
…『芭蕉の甲州吟行と高山麋塒の研究』 
十二、萩原井泉水氏…『芭蕉風景』  
 芭蕉庵焼失後、彼は一時、二本榎の上行寺(其角の菩提寺)に〔杉風研究家〕厄介になり、間も無く杉風の紹介でその姉の所の逗留する。『  芭蕉略伝』による。そこに六祖五平というものが居て、その家を宿としたと言う説もある。としている。      
十三、麻生磯次氏…
 『芭蕉‐その作品と生涯』 芭蕉は堀江町の其角の家に身を寄せたり、その菩提寺である本榎上行寺に厄介になった。(中略)芭蕉は谷村の麋塒の次男五兵衛の所に宿し杉風の姉にも世話になった。
十四、井本農一氏
 …『芭蕉評伝』 谷村秋元国家老の高山麋塒を頼ったことと思われる。 
十五、安部正美氏
…『芭蕉伝記考説』 谷村流寓説は何の根拠も無く、六祖五平は全くの架空もの。   
十六、杉浦正一郎氏
 …『芭蕉研究』 六祖五平は高山麋塒の次男と思われる。麻生氏と同説。 
十七、菊山当年男氏
 …〔芭蕉研究家〕 庵類焼後、直ちに甲斐に逃れた芭蕉は『虚栗』の跋文を書いているから甲斐からは五月頃江戸へ帰ったらしい。    
 
前述、赤掘文吉氏『都留高校研究紀要』の論述のまとめとして、 
 
 「芭蕉は麋塒を頼って谷村に来た。その根拠…『真澄の鏡』所集、麋塒の子息が書いた〔芭蕉真蹟軸箱の裏書〕他による、とされ六祖五平を頼ったとされる『随斎諧話』・『奥細道管菰抄』の説は高山家の五平衛や高山伝右衛門繁文の次男五平衛が麋塒と混同され芭蕉歿後八十年或いは百二十五年の後に六祖五平として登場したと思われる」。赤堀氏は諸説や谷村・秋元家の研究を通して右記のように結論を出されて居る。そして学会には認められなかった説として次の郷土史家(不詳)の研究文を揚げられている。 
 「先年郷土史家の手により、都留市谷村の桂林寺で五平家の系譜を記した過去帳が発見され、小林友右衛門という人が〔六祖五平〕であることを確認し桂林寺の保存されていた古文書を調べていくうちに、麋塒から友右衛門に宛て芭蕉の世話を依頼した手紙の切れ端が発見され、それに五平衛の文字が出ていて、小林家が初狩の旧家であり、五平衛桑と呼ばれる桑の木までも現存しているところから、五平衛の家が初狩に現存したと報道があったが学会からは認められなかった。」
 不思議の話ではある。文学や歴史の研究者はこうした民間の研究者の自説と離れた説は無視する事は常である。自説や自己の見識以外については無視する事で自説を守ろうとする習性があるようで、地域で踏査して研究して居る人達への暖かい配慮に欠けておられる。この説をどうして最もっと真正面から採り上げなかったのか、何の根拠もない推論より遙かに真実に誓い説を見逃して居てはいつまで経っても真実は解からない。     又『研究紀要』では最近(昭和四十三年頃)の話として「南都留郡中野村山中字〔堂の前〕のH家の祖先に五平衛という人が居り、旧家であり豪農であって、芭蕉が来て泊まったという事が山中湖付近の口伝として今もなお伝わっていて、菩提寺である寿徳寺の過去帳に微しても誤りなかろうと言う新説が出たがこれも断定するには未だ早急である」としてこの説も日の目を見ないで終わってしまっている。誠に寂しい限りである。    さて芭蕉の甲斐流寓の話に戻るが、小林貞夫氏・赤堀文吉氏の研究は他の文学者のそれよりも遙かに読む人の心に訴える熱い物がある。それは踏査と人生の有る部分を賭けた労作であるからで、こうした先生方でさえも事実が掴みきれない出来事が時間の経過と共に確定論となって行く。それも歴史なのだろうか。著名な先生方も思い違いや読み誤りもあると思われる。事実を示す新・真資料が出て自説と違っていたらそれを訂正する勇気と寛容な姿勢が必要であり、又、地道な地域歴史研究者の声を聞き受け入れる度量こそが大切であろう。 結局のところ芭蕉の甲斐谷村流寓年時の歴史事実を示す資料は確たるものはないのである。
 さらに、
十八、本山桂河氏
 …一時甲斐の国に退遁し仏頂和尚の弟子六祖五平方や初雁村の万福寺に仮寓して越年した。云々
十九、吉本燦浪氏…芭蕉は甲州に赴きて杉風の姉、又は仏頂の弟子六祖五平などを頼りていたりしが。
二十、沼沢竜雄氏
 …天和二年の暮、江戸の大火にて芭蕉庵焼失の時、杉風の勧めにて、正月から五月頃ま
 で、初雁村の杉風の家に滞在、その間に東山梨郡等々力村万福寺にも仮寓、云々
 

芭蕉の再来甲(貞享二年) 谷村には来ていない

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芭蕉の再来甲(貞享二年)
 
『芭蕉年譜大成』
 芭蕉と甲斐郡内の関りはもう一件ある。『芭蕉年譜大成』によると、       
  貞享二年四月中旬頃      甲斐の山中を訪れる  
 甲斐の山中に立ち寄りて 
  行く駒の麦に慰む宿り哉                         
 甲斐山中          
 山賎のおとがひ閑づる葎かな
 貞享二年四月末甲州街道経由で江戸に帰省。(木曾路経由の予定を東海道に変更)とあり、この「山中」についても「さんちゅう」か地名「やまなか」と読むかが論争点になっている。             
 
 四月九日には鳴海の知足亭を訪れ一宿、四月十日には知足亭を出発、帰路は東海道を下った可能性が大である。と今栄蔵氏は推察されている。がこれさえも定かではない。諸説があり又、芭蕉の身辺についても記述された部分(甲斐の)が少なく推論でしか語れない事になる。「推説」は「定説」にはならない。今氏によると東海道から甲斐山中に立ち寄ったことになり、天和三年(1683)に続いて貞享二年(1685)の甲斐入りは年代も近く、全く無関係ではあるまい。天和二年の甲斐流寓が確実なものであれば貞享二年の芭蕉の行動も先年の謝礼のために甲斐山中に立ち寄る事情があった事は人間としてごく自然であり、その関連を追求すれ天和三年の甲斐逗留も明確になる可能性が有り、研究の余地が残されている。絶対的な資料が無い限りは今後も定説はないままに諸書に著述されて行く事になる。是非小林貞夫氏の『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』赤堀文吉氏の『研究紀要』所集の「天和三年の芭蕉と甲州」の御一読をお薦めする。 
 天和二年の『武蔵曲』・『錦どる』には芭蕉・麋塒・素堂翁も参加している。芭蕉と麋塒もだが麋塒と素堂翁も前述の谷村城主秋元但馬守と素堂の関係も官職を通じ深い繋がりがあったと思われる。素堂は晩晩年、川越を訪れている。この天和二年当時は芭蕉・三十九歳。麋塒三十四歳。素堂四十一歳である。もっとも芭蕉の生まれたとされる正保元年(1644)は寛永二十年十二月十六日に改元があり十二月十六日~三十一日までの十六日間が正保元年となり、芭蕉はこの間に生まれた事になるとの見解を示す研究者もおられる。

◇『夏草道中』 貞享二年の芭蕉の甲斐入の疑問

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◇『夏草道中』
 『夏草道中』では貞享二年の芭蕉の甲斐入を次のように明言している。
 《芭蕉の第二回の入峡は、貞享二年初夏四月ことである。貞享元年八月から二年四月までの「野晒紀行」の途次で、二年の春「思ふ立つ木曾や四月の桜狩」と熱田で吟じて、木曾路に入り塩尻、諏訪を経て、甲州道中信州路を東に下った。初狩村の杉風の姉の許に立ち寄って、一昨天和三年暫く世話になった礼をも述べたことであろう。
 追而申入候。此中にふじに長々逗流、其上何角世話に成候へば、別而御内方御世話に候。いしがしき中に、うかうかいたし居候而きのどくに候。長雨にふりこめられ候事、とかうに及びがたく候。       
 行駒の麦になぐさむやどりかな
 いずれへもよろしく御まうし可被給候。くはしきは重 
 而々以上十三日                                      桃青
   空水様
 
 そして
  (書簡の日付は)帰庵後の五月十三日と思われる甲斐の俳人、空水宛ての此の書翰でも明らかのように、空水(『夏草道中』筆者注-不明)のところで、雨に降りこめられなどしたが、今度は、甲州道中二十五次を踏破して、四月末に深川の芭蕉庵に帰った。》
 とあるが史実なのであろうか。
 
 芭蕉は熱田からの帰路に木曾路から甲州街道に入り、郡内に至る道筋を踏破した事は文献資料には見えず、諸説混迷しているのが現状である。
 『芭蕉傳記考説』「行實編」(阿倍正美氏著)によると、芭蕉は四月九日熱田を出立して、鳴海へ、十日江戸へ下る(『知足齋々日記』)。その後の芭蕉の行動は不明である。木曾路なのか、東海道を通ったかは資料不足で決定していない。それに関する書簡などがあっても、『野晒紀行』には甲斐の途中吟などは見えず、
 
甲斐の国山中に立寄て 
  行駒の麦に慰むやどりかな
 
 の記載となる。阿倍正美氏『芭蕉傳記考説』によると、この「山中」のは
かひの国山家に立ちよる……………真蹟長巻
甲斐の国山家にたちよりて…………泊舶集
甲斐の山中に立ちよりて……………真蹟絵巻本
甲斐の国山中に立寄て………………濁子絵巻本
 とありその読み方も「やまなか」か「さんちゅう」か意見が別れる所ではあるが、芭蕉が鳴海から東海道経て、御殿場から須走を通り籠坂峠―山中―谷村(流寓か)甲州街道を通過して江戸に戻ったか、木曾路をへて諏訪から甲州街道を経て郡内谷村に入ったのか、資料文献からは決定することはできない。
 しかし先述の『夏草道中』には芭蕉は甲州街道を利用し江戸へ戻ったと明記してある。こうした確説のような話は、後に比較資料を持たずにその書を読む人には真実として伝わる事となるのである。

素堂 芭蕉 木因

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◇天和 元年(1681)☆素堂40才 芭蕉、38才 
〇九月二十九日改元して天和元年
素堂の動向
東日記 池西富水編 九酉歳林鐘中旬奥 六月中旬刊
月 ・王子啼て三十日の月の明ぬら
埋火・宮殿炉也女御更衣も猫の声
 
▽七月廿五日 桃青・木因を迎えて三物
    秋訪はばよ詞はなくて江戸の隠    素堂
     鯊(ハゼ)釣の賦に筆を棹さす    木因
     鯒(コチ)の子は酒乞ひ蟹は月を見て 桃青
 
〔この三物についての資料〕   
『校本 芭蕉全集 第八巻 書翰編』
     小宮豊隆監修 荻野清 今栄蔵校注 一部加筆
 
 一 木因宛(延宝九年七月廿五日)
九月二十九日改元 天和元年
御手紙忝致拝見候。昨日終日御草臥(くたびれ)成候。されども玉句殊(の)外出来候而、於拙者大慶(に)存候。就其香箸の五文字いかにも御尤(に)被存候間、かれ枝と御直し可成候。愚句も烏の句・猿の句皆しそこなひ残念ニ存候。
寐に行蝿の烏つるらむ
といふ句ニ而可御座を、急なる席故欠ごろをはやくはなち、面目もなき仕合(しあはせ)にて御座候。且又今日之儀、天気此分ニ御座候ハヾ御同道申度候。天気能過侯へバ、亭主も宿に居ぬ事可御座候。幸ニ御座候間大かたの天気ニ御座候ハヾ、御同道可申候。天気あしく御座候ハヾ私宅にて語可申候間、昼前より御入来奉待候。されども拙者夜前ハ大ニ持病指発(さしおこ)り、昨昼之気のつかれ夜中ふせり不申候間、昼前迄気を安メ可申候間、かならず昼前御出可成候。
清書之致様あしく侯ハヾ、是又可仰聞候。
一、七百五十韵爰元ニはや無御座候。其元京へ可仰遣候。
明日御隙ニ御坐侯ハヾ、朝之内ニも御入来可成候。此度返御残多難盡候。以上
 
(前略) 木因が芭蕉の真蹟によって写し、本来「桃青」とあって署名の個所を、一般の耳に親しい「はせを」の号に便宜改めて掲げたものらしく、執筆の年次は、次出の一通に照らし、また本書簡に見える「寐に行蝿の烏つるらむ」の付句が『次韻』調であることから、延宝九年と決定される。次出のものとの先後はなお知られないが、ともあれ二通共に、現在伝わる芭蕉書簡中もっとも早期の筆であり、珍重すべき書状と考えられる。
 延宝九年度における木因の東遊は、他に資料の徴すべきものがなく、ここに出す二通の芭蕉書簡を通じてのみ判明する事実であった。江戸で木因は、芭蕉や素質らの季吟門の人々に接し、数度にわたり俳席も共にしたようで、書中の「亭主」もおそらくは素堂をいうものと解せられる(次出書簡の頭注参照)。木囲が芭蕉に心服し、芭蕉に帰依するに至ったのは、この時以後であるべく、その意味からするとここの二通は、木因個人の伝記資料であるだけでなく、蕉風伝播史の上からも逸しがたい資料と見られるのである。
 
註、亭主=素堂
(前略)
一通の執筆が延宝九年秋であるのは、後段に見える『七百五十韵』
問係の記事や添状に掲げる連句の季によって明白であろう。
 木因添状に記す素堂・木因・芭蕉(当時は桃青)の三吟連句に関して認めた書状であるが、別にまた『七百五十韵』が江戸市中の書肆に払底した事実を報じ、直梓京へ注文すべき旨を申し添えており、同書が江戸俳人の間で争って読まれた事を伝えて興深い。木因の添状は、この書簡を理解する上に不可欠のもと考えられるので、左に全文を録しておく。
 
今朝は(注、要所冒頭の文字) 芭蕉翁筆 印 
             (注、下の角印には谷氏印とある)
  右手簡、予先年東武滞留之節山口素堂隠士をとふに、あ
るじ発句あり、予脇あり、芭蕉見て第三あり、是を桃青清
書して贈れり、其の時の一簡なり。
  
木因大雅のおとづれを得て
   秋とハヾよ詞ハなくて江戸の隠  素堂
   鯔(はぜ)釣の賦に筆を棹(さをさす)    木囚
 鯒(こち)の子ハ洒乞ヒ蟹ハ月を見て  芭蕉
 
清書如此。本紙ハ赤坂金生山堯遍法印所望に
て贈之       白桜下木因記  
 
【註】七月二十五日付木因宛書簡が現存する最も古い芭蕉書簡。「はせを」と署名。
 
〇九月二十九日改元して天和元年
 
◎季吟合点懐紙断簡(延宝六年三月以降の物、江戸三吟の物に批点したと思われ、季吟の批点に芭蕉の附句がある。)
     ・婿を祝ひかけにまかせて桶の水 素堂
        履 背 苦 瘠 馬    素堂
        丸 身 類 裸 煌    素堂
 

素堂の儒学と漢詩文

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素堂の儒学と漢詩文
 素堂が林門で経学を修めたと云う記述は、今のところ見えない、ただ林家の私塾は儒学だけではなく、前述の如く四書五経から和文に及び、師の春斎も認めていた俊才子晋(素堂の号)は、先輩の英才人見竹洞も一目おくほどで、生涯親友の交わりをしていた。しかし子晋は二十前後で林門を去ったが、完全に関係は切れて無かったのであろう。後に弟と言う訥言や水間沾徳を林門に入れ、儒学をもって諸藩に講義したとされる。
 私人としての素堂の生業は不明の事が多く、号名を素仙堂と云うから書家であるか、医師の家であったのか不明だが、この号の仙の字を省いて素堂とした訳で、芭蕉も延宝時代素宣を号しているから、医に関係が有りそうである。林門時代で子晋と記したが、実名を信章とするには着干疑問が残り、子晋としたのであるが、素堂自身「山口信章来雪」と署名しているし、黒露の「睦百韻」小叙に
「人見竹洞子、素堂を謂ていはく、素堂とは山口信章来雪なりと」
とあり、百庵の「連俳睦百韻」序に「山口素仙堂太良兵衛信章」と有るから、そうで有ろう。だがまだ雅号のような気がするからである。
 さて、まくらが長くなったが、素堂は漢学・和文に造詣が深く、漢詩を得意として、石川丈山を尊敬していた。漢学者丈山は、朝鮮通信使の権式之が日東の李杜と称美された詩人で、殊に素堂はその生き方に深い感銘を受けて、退隠後は斯く有りたいと思ったようである。竹洞は万治元年京都に丈山を訪ね、いろいろと尋ねているから、竹洞から素堂は啓発され、敬慕に導かれたかも知れない。万治元年は竹洞二十三才、素堂は十七才である。或いは竹洞に誘われて対面したか不明だが、丈山の存命中に対面しているらしい。素堂は丈山に魅力を感じて敬愛して止まなかったのである

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