阿波徳島の人。通称は、儀左衛門。第五代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保に仕えた。能書家で、芭蕉の『奥の細道』の曾良本を基にして、「柿衛本」「西村本」を清書したことで有名。発句も『炭俵』に入集している。
柏木素龍&芭蕉&柳沢吉保
山口素堂 甲斐国志の伝播
桃青はもと同門(季吟)の友たれば、東下以來『江戸三百韻』を初めとして、文字の交際尋常ならざりしが、殊に素堂が葛飾阿武に移居せし後は、偶々六間堀の假寓と近接したれば、小名木川を上下して互に往來し愈々親しく語らひける。素堂の號は此頃より名乘りしものにて、庭前に一泓(*淵)の池を穿ちて白蓮を植ゑ、自ら蓮池の翁と號し、晋の惠遠が蓮社(*慧遠・謝霊運等の白蓮社)に擬して同人を呼ぶに社中を以てし、「浮葉卷葉この蓮風情過ぎたらん」の句を作りて隱然一方の俳宗たり。一説に芭蕉は儒學を素堂に學びたりと云へど、其眞否は精しく知るを得ず。されど當時の俳人を案ずるに、季吟の古典學者たるを除くの外は連歌に精しき者の隨一流の識者として、素堂程の學識ある者は殆ど其比を見ず。芭蕉は稀世の天才にして且つ季吟が國典に於ける衣鉢を繼ぎたれ共、素堂如き才藝博通の士に對しては勢ひ席を讓らざるを得ざるべし。且つ縱令師事せざるも文詩の友を結んで益を得たるは、恐らく失當の推測にあらざるべし。芭蕉の遺文を案ずるに、其角丈と云ひ杉風樣と呼ぶ中に、獨り素堂先生と尊稱するを見るも亦、尋常同輩視せざりしを知るに足る。されば枯枝の吟に於ける口傳茶話の如き、蓑蟲の贈答の如き、『三日月日記』に漢和の格を定めたる如き、若くは其日庵に傳ふる芭蕉・素堂二翁、志を同うし力を協して、所謂葛飾正風を創開せしといふ説の如き、或は『續猿蓑』の「川上とこの川しもや月の友」を以て素堂を寄懷せるものとなす如き、皆素堂と芭蕉との淺からぬ關係を證するものにして、芭蕉が俳想の發展は蓋し素堂の力に得たるもの多かりしなるべし。素堂傳に芭蕉と隣壁すとあれども、素堂は阿武に住し芭蕉は六間堀に寓したれば、隣家といふも恐らくは數町を距てしなるべし。當時深川は猶葛飾と稱し、人家疎らなる僻地なれば、茫々たる草原に數町を距てゝ二草舍の相列びしものならん乎。
山口素堂 蓑虫記 真筆写し
山口素堂&松尾芭蕉 和漢連句 元禄五年
破風 ( はふ )口 ( くち )に日かげやよはる夕すゞみ 芭蕉
煮レバレ茶ヲ蝿避レ烟ヲ 素堂
合歓醒ム二馬上ニ一 素堂
- かさなる小田の水落すなり 芭蕉
- 月代 ( しろ )見ル二金気ヲ一 素堂
露繁ケテ添フ二玉涎ク一 素堂
- 張旭がもの書きなぐる醉の中 芭蕉
- 幢 ( とばり )を左右に分るむら竹 芭蕉
- 挈テレ箒ク驅ル二偸鼠ヲ一 素堂
- ふるきみやこに残る御霊屋 ( たまや ) 芭蕉
- くろからぬ首かき立る柘 ( つげ )の撥 ( ばち ) 芭蕉
- 乳をのむ膝に何を夢みる 芭蕉
- 舟ハ鈞 ( ゆるく )風早ノ浦 素堂
- 鐘ハ絶ツ日高川 素堂
- 顔ばかり早苗の泥によごされて 芭蕉
- めしは煤けぬ蚊やり火の影 芭蕉
- 詑ハ教メシム二三社ヲ一本 ( なら ) 素堂
- 韻使メス五車ヲ一塤 ( いしつえと ) 素堂
- 花月丈山閙 ( さわが )シ 素堂
- 篠を杖つく老のうぐひす 芭蕉
- 剪テレ吟ヲ鮎一寸 素堂
- 箕面の瀧の玉む簸らん 芭蕉
- 朝日かげかしらの鉦をかがやし 芭蕉
- 風飧唯早乾 ( かわく ) 素堂
- よられつる黍 ( きび )の葉あつく秋立て 素堂
- 内は火ともす庭の夕月 芭蕉
- 霧ノ籬顔孰與 ( いつれ ) 素堂
- ■ ( しぐれの )浦目ハ潜焉 ( なみだぐむ ) 芭蕉
- 蒲団着て其夜に似たる鶏の聲 素堂
- わすれぬ旅の数珠と脇指 芭蕉
- 山伏ハ山平地 素堂
- 門番門小天 素堂
- 鷦鷯窺二水鉢ヲ一 芭蕉
- 霜の曇りて明る雲やけ 素堂
- 興深き初瀬の舞臺に花を見て 芭蕉
臨レテ谷ヲ伴フ二蛙仙ニ一 素堂
山口素堂と禅宗文化 素堂と芭蕉
素堂と禅宗文化*素堂の漢詩文*
**松永貞徳発句**『犬子集』他
**松永貞徳発句**『犬子集』他
ありたつたひとりたつたる今年哉 鳳凰も出でよのどけきとりの年
春立つは衣の棚のかすみかな 花よりも団子やありて帰る雁
ゆきつくす江南の春の光り哉 雪月花一度に見する卯木哉
高野山谷のほたるもひじり哉 七夕のなかうどなれや宵の月
歌いづれ小町をどりや伊勢踊 酒や時雨のめば紅葉ぬ人もなし
系譜に見る素堂
- 歴代滑稽傳 許六著 正徳 五年(1715)
素堂七十四才。 江戸 山素堂は隠士也。江戸三吟の時は信章と
云。幽山八百韵は来雪と云。芭蕉翁桃青と友トシ善シ。後正風の
体を専とす。
- 綾錦 沾凉編 享保十七年(1732)
祖 北村季吟----素堂 山口今日庵。始ハ云信章又来雪トモ云。
享保二申八月十五日卒。齡七十五 住本所 有墳谷中感応寺
- 誹諧家譜拾遺集 丈石編 明和八年(1771)
祖 松尾芭蕉----素堂 山口氏稱今日菴トモ 名信章
號来雪 住東府 享保二丁酉年八月十五日歿。齡七十五。
連俳睦百韻寺町百庵著 安永八年(1779)
山口太郎兵衛 信章 来雪 来雨 素仙堂―仙=素堂。
- 甲斐国志 松平定能編 文化十一年(1814)(別記)
祖 北村季吟----素道(堂)山口氏。
信章 来雪 字、小晋・公商
蕉門諸生全傳 曰人編 文政中期(1818~30)
碑面 本所中ノ郷原町東聖寺松浦ヒゼン守隣ナリ
俳家大系図 春明編 天保九年(1839)
字、子達・来雪・復白蓮 享保元年八月十五日谷中感応寺
葛飾蕉門文脈系図 錦江編 嘉永期(1848~5)
祖、山口素堂
葛飾正統系図錦江編 嘉永三年(1850)
祖、山口素堂
俳諧年表 正保 元年(一六四四)~寛文 三年(一六六三)
正保 元年(一六四四)芭蕉生まれる。
一月、重頼、東下し江戸俳壇と交流。
一〇月、貞徳、『天水抄』を令徳に伝授、俳諧伝の基礎となる。
書『寛永廿一年俳諧千句』参一二月一六日改元。
参幕府、諸国大名に国絵図作成を命じる。
**松江重頼発句**『犬子集』他
春の日の威光をみする雪間哉 咲きやらで雨や面目なしの花
初花になれこ舞する胡蝶かな やあしばらく花に対して鐘つく事
順礼の棒ばかり行く夏野かな 此度はぬたにとりあへよ紅葉鮒
芋豆や月も名をかへ品をかへ 生魚の切目の塩や秋の風
正保 二年(一六四五)
二月、重頼『毛吹草』刊。書『厳島大明神法楽連歌三百韻』
『十一韻』歿一二月、沢庵七十三没。
正保 三年(一六四六)
春、正式『郡山』、正章『氷室守』の両書、『毛吹草』を攻撃。
書『切紙秘伝良薬抄』『底抜磨』
正保 四年(一六四七)
貞徳、新年を新宅柿園で迎える。
九月、宗因、里村家の推挙で大阪天満宮連歌所宗匠となる。
書『云成俳諧独吟千句』『追福千句』『誹諧集三千句』
『誹諧集二千句』(『長崎独吟』『徳元俳諧紗』)
歿二月、小堀遠州六十九才。歿徳元八十九才。
慶安 元年(一六四八)
一月、季吟『山の井』刊、季蓮に例句を添えた季寄せの囁矢。
九月、『正章千句』刊。正章、俳壇における地位を確立。
書『西行谷法楽千句』 二月一五日改元。
** 安原貞室発句 **『正章千句』『一本草』『玉海集』他
黄鸝(うぐいす)も三皇の御代を初音かな
歌いくさ文武二道の蛙かな 葉は花の台にのぼれ仏の座
これはくとばかり花の吉野山 いざのぼれ嵯峨の鮎食ひに都鳥
松にすめ月も三五夜中納言 そちは何を射げきの森のよるの蝉 小便の数もつもるや夜の雪 涼し溝のかたまりなれや夜半の月
** 北村季吟発句 **『続連珠』『山の井』『師走の月夜』他
一僕とぼくくありく花見哉 こゝぞ京のよしの能見よ地主の花
太郎月につぐ紅梅や次郎君 めづらしや二四八傑のはとゝぎす
夏をむねとすべしる宿や南向き 女郎花たとへばあはの内侍かな
閑なる世や柊さす門がまへ 咲くやこの今を春べと冬至梅
年の内へふみこむ春の日足哉
** 西山宗因発句 **『懐子』『宗因発句集』他
ながむとて花にもいたし頸の骨 そうよそよきのふの風体一夜の春花むしろ一けんせばやと存じ候 世の中よ蝶々とまれかくもあれ郭公いかに鬼神もたしかに聞け なんにもはや楊梅の実むかし口
慶安 二年(一六四九)
一月、宗因、大阪天満宮月次連歌再興。
書『花月千句』『師走の月夜笥そらつぶて』『風庵懐旧千句』
『望一千句』参二月、農民の心得を記す慶安御触書発布。
三月、木下長哺子『挙自乗』刊。四月、
未得『吾吟我集』成、個人狂歌集の嚆矢。
慶安 三年(一六五〇)
一〇月、『嘉多言』刊(成)。書『伊勢山田俳諧集』『くるる』
『誹諧抜書』『歩荒神追加』『野狩集』
慶安 四年(一六五一)
四月、立圃、備後国福山藩に仕える。
七月、貞徳、『俳話御傘』に式目をまとめ俳言を説く。
一〇月、令徳『遠山集』刊、貞門俳詰最大の撰集。
参七月、由比正雪事件。八月、家綱、将軍宣下。
承応 元年(一六五二)
一月、柳営連歌、一一日に式目を変更以後、幕府瓦解まで続く。
二月、宗因、菅家神退七五〇年忌万句を興行。
三月、『尾陽発句帳』刊、尾張俳壇俳書の囁矢。
一二月、『若狐』刊、井筒屋(表紙屋)庄兵衛刊行俳書の囁矢。
書『十寸鏡』園定参六月、若衆歌舞伎禁止。九月一八日改元。
承応 二年(一六五三)
一一月、貞徳八十三才没、生前、『貞徳独吟』を遺す。
西武・正章(貞室)ら、後継を争う。
卜養、将軍に見参を許され、江戸に居宅を賜る。
この年、任ロ、西岸寺住職となる。
書『貞徳終焉記』『美作道日記』
参一月、玉川上水の工事着工、翌年完成。
承応 三年(一六五四)
一月、正章、貞徳後継を意識し貞室と改号。
一〇月、宗因、重頼らと百韻興行。
書『承応三年平野熊野権現千句』『伏見千句』
参三月、土佐光起、絵所預となり土佐派を再興。
七月、明憎隠元、長崎に来航。
明暦 元年(一六五五)
書『紅梅千句』『信親千句』『毎延俳諧集』『夜のにしき』
参四月一三日改元。この年、山崎闇斎、京都で講義を始める。
明暦 二年(一六五六)
一月、長式『馬鹿集』刊、令徳・貞室を批判。俳壇にわかに活発
化。同月、休安『ゆめみ草』刊(奥)、守武流を標榜し、反貞門
勢力の大阪・堺・伊勢俳壇が結集。宗国風流行の素地となる。
三月、季吟、祇園社頭で俳諧合を催し宗匠として独立、貞室を
攻撃。『いなご』刊(序)、絵俳書の嚆矢。
九月、宗因、天満碁盤屋町向栄庵に入り俳諧月次会を主催。
書『祇園奉納誹諧連歌合』『玉海集』『口真似草』
『崖山土塵集』『拾花集』『せわ焼草』『有芳庵記』
『吉深独吟千句注』
参汀松平直矩『大和守日記』執筆始まる(元禄八年まで)。
明暦 三年(一六五七)
一一月、蝶々子『物忘草』刊、江戸俳家による撰集の嚆矢。
この年、『嘲哢集』刊、『守武千句』を基準とする伊勢俳壇の式
目書。
書『牛飼』『沙金袋』『春雨抄』
参一月、江戸大火。遊廓新吉原に移る。
二月、徳川光圀、『大日本史』編纂に着手。
万治 元年(一六五八)
書『鸚鵡集』『尾張八百韻』『拾玉集』『俳諧進正集』
参七月二十三日改元。
七月、中川暮雲『京童』刊。
万治 二年(一六五九)
九月、胤及『飽屑集』刊(跋)、中国地方俳書の嚆矢。
この年、風虎、発句初見。江戸において諸流に門戸を開き文学
サロンを形成。
書『伊勢俳諧新発句帳』『捨子集』『貞徳百韻独吟自註』
『満目集』
万治 三年(一六六〇)
七月、『境海草』刊、堺俳壇撰集の嚆矢。
重頼『懐子』で、本歌本説取りの新風を掲げ、宗因の謡曲調を
紹介。
一二月、宗賢ら『源氏鬢鏡』成、俳家系図の嚆欠。
万治年間、河内国の重興、雑俳の起源となる六句付創案。
書『歌林鋸屑集』『木間ざらひ』『新続犬筑波集』
『誹諧画空言』『俳仙三十六人』『百人一句(重以編)』
『慕綮集』『和歌竹』
参一九月、内海宗恵『松葉名所和歌集』刊。
一二月、大蔵虎明『わらんべ草』成、能と狂言を連歌・俳諧の
関係に譬える。
このころ、浅井了意『東海道名所記』成。
寛文 一年(一六六一)
この年、在色、江戸へ下向、忠知に俳諧を学ぶ。
書『烏帽子箱』『思出草』『天神奉納集』『へちま草』
『弁説集』『水車・水車集』
参四月二五日改元。
寛文 二年(一六六二)
この年、西鶴、俳諧点者となる。
書『伊勢正直集』『雀子集』『旅枕』『俳諧小式』『初本結』『花の露』『鄙諺集』『身楽千句』
参二月、伊藤仁斎、京に古義堂開設。
寛文 三年(一六六三)
八月、一雪、『俳諧茶杓竹・追加幅紗物』刊、『正章千句』を攻
撃。貞室側は翌年六月刊『蝿打』で反撃する。
書『埋草』『尾蝿集』『木玉葉』『早梅集』『貞徳誹諧記』
『誹諧忍草』『俳集良材』『破枕集』
参五月、「武家諸法度」に殉死禁止を加える。
堂関連年表(素堂と親しい人の動向)明暦元年~寛文六年
北村季吟が俳諧の奥書「俳諧理木」を著す。(季吟は延宝三年、素堂を招いて、京都にて「歓迎百韻」を催す)
北村季吟、立机と云う。(明暦元年鋭もある)
一月、甲府の大火。柳町より魚町まで焼失する。(山口屋も焼ける)
八月、甲府城主に徳川綱重なる。江戸に在住。
「裏見寒話」に甲府の「町々も暖簾も成し云々」の記述を著す。
編者は野田成方、享保九年、甲府勤番赴任。内容は甲斐国見聞記。
十二月、林春斎の家塾に幕府より弘文院号が与えられる。
二月、宗因は江戸に風虎を訪ね、その後九州に赴く。
松江重頼、秋に風虎を磐城に訪ねる。
寛文 五年(一六六五)
三月、似船、『蘆花集』を刊行し、以後京俳壇で活躍。
一 一月、『雪千句』刊、宗因を大阪俳壇の盟主に据える。
芭蕉、蝉吟主催貞徳翁一三回忌追善百韻に一座。
書『書初集』『小倉千句』『小町躍』『西国道日記』
『四十番俳諧合』『天神の法楽』『俳譜談』『都草』
『連歌新式増抄』
参七月、諸大名の人廃止。この年、山鹿素行『山鹿語類』成。
寛文 六年(一六六六)
三月、西鶴、可玖『遠近集』に初入集。
九月、重徳『誹諧独吟集』刊。
重徳は、以後俳諧出版書肆として新風を援助。
書『東帰稿』『正友千句』『名所方角抄』『夜の錦』
歿蝉吟二十五才。
参三月、了意『伽婢子』刊、怪異小説流行を招来。
内藤風虎の『夜ノ錦』集成る。
二十三才、内藤風虎編『夜の錦』に発句四句以上入集
(『詞林金玉集』は『夜の錦』より引用)。
京は九万九千くんじゅの花見哉 (詞林金玉集)
▼芭蕉の生まれと周辺
芭蕉の生まれた年は、その没年の元禄七年(五十一歳説・1694)から逆算して、正保元年(1644)とされる。ただし、門人の筆頭其角は五十二歳とし(自筆年譜)、他に五十三歳とする説もあるが、同じく門人の路通(「芭蕉翁誕生記」)や許六(「風俗文選」)・土芳(「蕉翁全伝」)らが五十一歳とし、芭蕉自身が書いたものの中にもこれがよいと思われるものがあるので、享年は五十一歳と推定されるのである。
正保元年は寛永二十一年が十二月に改元された年であるから、寛永二十一年生まれとすべきだという説もあるが、生まれた月日については推測できる資料はない。
ちなみに、この年は第百十代後光明天皇、三代将軍徳川家光の時代であるが、俳壇では中心人物松永貞徳が七十四歳になっていて、その俳論書『天水抄』の稿を書きあげた年である。
芭蕉に限ったことではないが、偉人の伝記にはその賛仰・顕彰の気持から生ず余計な詮索や付会、伝説・異説がつきまとう。
たとえば、僧文暁編著『俳諧芭蕉談』『芭蕉翁反故文』(一名、花屋日記)『次郎兵衛物語』『凡兆日記』などは有名だが、虚構的作品。
芭蕉伝書といわれる『芭蕉翁二十五条』・『桐一葉』『幻住庵俳諧有也無也関(うやむやのせき)』などの、俳論書あるいは作法書も信じられない。
『翁反故』は二百二十余通を含む「偽書簡集」。芭蕉の書簡で信用できるものは今のところ百五十通ほどであるが、あやしいものの数は、「翁反故」も含めて、その三倍強ほども管見に入っている。
発句についても頴原退蔵校註.山崎喜好増補『芭蕉旬集』(『日本古典全書』)で見ると、存疑句が五三九、誤伝句が二〇四句もある。その他、詠草・画賛・短冊の類にもあやしいものがおびただしくある。まったく油断はできないが、そうしたものの中にも考慮すべきものがないでもない。こうした資料をかきわけながら、なるべく正確な芭蕉伝を書きたいと思う。
芭蕉の先祖・家系については門人支考が享保三年(1719)刊『本朝文鑑』に載せた「芭蕉翁石碑ノ銘」序に「その先は桃地の党とかや」といつたが、同じく門人土芳稿『蕉翁全伝』には記載がない。土芳の門人で伊賀上野(三重県上野市)の藤堂采女(うねめ)家の家臣竹人が師の稿をうけて、宝暦十二年(1762)に書いた『芭蕉翁全伝』には、
あずまかがみすなわち、芭蕉の先祖は『平家物語』『源平盛衰記』『東鑑』(吾妻鏡)などに見える平宗清で、その一族が柘植に住みつき、その子孫になるというのである。どこまで正確なのかはよく測定しかねるが、そのころ以後の芭蕉伝の諸書はこれを認め、宗清の子孫が柘植付近に住んでいることは今でも認められる。それで、芭、蕉が生まれた所は柘植だとする説も出たのである。
拓殖は三重県上野市の東北方約十五キロ、芭蕉柘植誕生説は利一ちの『芭蕉翁伝』(「奥の細道菅菰抄」)、竹二坊の『芭蕉翁全伝』(寛政10年)等これを採るものが多いが、この説の弱点は芭蕉白身の書いたものの中にそれと明らかに認められるものが一向にないことである。
路通の『芭蕉翁行状記』(元禄8年)に「芭蕉老人本土は伊賀国上野にあり」と記し、竹人の『芭蕉翁全伝』は「上野の城東赤坂の街に生る」と記す。芭蕉の書いたものも故郷とするのはこの地であった。たとえば、「伊陽の山中」に帰るといい、
「ふるさとや膳の緒に泣く年の暮」(貞享4年)
家系説も拓殖誕生説も後年の付会だとする説もあるが、厳密に生まれたところを突き止めるためには、松尾家が赤坂町に住み着いた時期究明する必要がある。だが、それは今では明確にはなしがたく、芭蕉のよんでいる故郷の意味で、それは伊賀上野赤坂町と認めていかなければならない。
芭蕉の父名についても異説があるが、与左衛門とするのがよい。土芳の『蕉翁全伝』に「上野赤坂住」とあるから、この人の時からそこに住んでいたと認められる。柘植の福地家系図には慶長のころ上野に移住したとある。慶長といえば、その十三年(1608)に藤堂高虎がその辺の領主となって、上野城およびその城下町を経営し始めたころであるから、そのころ柘植の農士松尾与左衛門が志を抱いて、そこに移住したことを考えても不自然でない。
その父は、貞享五年二月十八日に三十三回忌が催されているので、逆算して明暦二年(1655)同日、芭蕉十三歳の時に死んだと考えられているが、年齢はわからない。冬李の『蕉翁略伝』に「手蹟の師範」と伝えるが、それも確かにはわからず、どこに出仕したという伝えもない。
天和三年(1683)六月二十日、芭蕉四十歳の時に死んでいるが、年齢はわからない。前記支考の桃地、その他桃青・桃印・桃隣の桃をこの母の縁に考え寄せる説があり、名張より上野に近い友生(とものう)村喰代(おうしろ)の百地家かと考える説もある。
また、元禄七年(1694)九月二十三日付兄半左衛門宛芭蕉書簡に「はは様」とあるので、父与左衛門に権妻(妾)があったかとする説や、これを「ばば様」とよみ、祖母とする説もある。
兄は一人説がよい。この人が手蹟師範だったとの説もあるが、はじめ藤堂内匠家に、のち藤堂修理長定に仕え、上野における松尾家の菩提寺愛染院の過去帳によると、元豫十四年(1701)三月晦日に死んでいる。年齢はわからない。
右の内匠家は食録二千石、津に本城を置いた藤堂藩の伊賀付藩士で、上野城二の丸に邸宅があったが、天和二年(1682)十二月に修理家と交替して、津に移った。修理家は食録千五百石、長定は俳号を橋木と称し、芭蕉の門に遊んだ人である。半左衛門は農家から引続いて修理家に仕えたわけで、後述するが、身分は低いものであったらしい。
この兄に宛てた芭蕉の書簡に、依頼された援助をことわったり(貞享年間八日付書簡)年末の送金ができなかったと謝ったり、(元禄二年正月付書簡)正月の餅代としてもらった金を送ったたり、また去来宛書簡(元禄四年七月十二日付)にもその配慮が見えるので、芭蕉は時々この兄へ送金していたとが考えられる。
この芭蕉の送金はその妻子を兄の家にあずけていたからだと考える説があるが、そのことは(後述もするが)確められない。事情はよくわからないが、兄の家の経済が楽ではなかったことは考えなければなるまい。
愛染院の過去帳によると、半左衛門の妻は宝永二年(1705)に死んでいるが、元禄元年(1688)九月十日付卓袋宛芭蕉書簡に「姉者人」の死が見えるのを、半左衛門の妻のことと考え、過去帳に見える妻は後妻だろうとする説もある。
また、同過去帳に元藤十二年十月十七日没とある松尾又右衛門をも、芭蕉の兄とする説があるが、これは土芳の「蕉翁全伝』によると、半左衛門の子で、それが死んだので、末妹およしを半左衛門の養女としたと考えるのがよいであろう。妹は三人であるが、末妹は上記のごとく、兄の養女となり、一人は片野氏へ、一人は堀内氏へ嫁した。片野氏は家号を幹.彫屋といった伊賀上野、宮の前の商家。芭蕉の妹の夫は通称を新蔵・俳号を望翆といって、芭蕉の門人となり、俳譜をたしなんだ。宝永二年八月二十四日没、九品寺に葬る。同寺の過去帳によると、その妻(芭蕉の妹)は元禄九年に死んでいるらしい。堀内氏も家号を丸屋といった伊賀上野、本町の商家。もと伊予から移住して来た家というから、芭蕉の母方の知りあいであったか。同家の菩提寺西蓮寺の過去帳によると、芭蕉の妹は宝永二年に没したらしい。
土芳や竹人の記す姉は一人である。その姉は山岸重左衛門、俳号半残に嫁したとの説があるが、半残は芭蕉より年下なので、その父同重左衛門、俳号陽和の妻だったろうとの説が出た。また、山岸家は五千石の藤堂玄蕃家の臣で、陪臣ではあるが三百石前後の家であり、家柄から見て松尾家と格差がありすぎるとし、この婚姻関係を否定する説もある。
芭蕉との関係で半残は最も親しかった伊賀蕉門の一人と見受けられ、妻といっても、このころは正妻ならぬ妻も考えられるから、山岸家との姻戚関係も全然否定し去ることもできないように思うが、土芳はこの姉は早死したと記している。ほかに中尾氏に嫁したとの説もあるが、これも証左なく、この辺はどうもはっきりしていない。 なおまた、芭蕉の書簡中にはこの姉とは思えない別の姉の存在が考えられる点が出てくるので、それについて異母姉を考えたり、次に述べる寿貞の姉や桃印の母を推量したりする説がある。
問題の女性、寿貞のことは芭蕉の最晩年の元禄七年の文献上にあらわれてくる。すなわち、
そして、後年の文献(「小ばなし」)でではあるが、門人野坡の回顧談中に「寿貞は翁の若き時の妾にて、とくに尼になりしなり。其子次郎兵衛もつかひ被申し由」と見える。
次郎兵衛が寿貞の子であることは、其角の「芭蕉翁終焉記」の中にもすでに書かれているが、その次郎兵衛は元禄三年には江戸にいたと認められる(曾良芭蕉宛書簡)から、寿貞もそのころには江戸にいたらしい。ほぼ以上のような文献から、寿貞に関する諸説があらわれている。すなわち、
故郷上野の念仏寺の過去帳、二日の条に「松誉寿貞中尾源左衛門」とあるのが指摘され、寿貞は元禄七年六月二日没、芭蕉在郷時代の女性と考える説がことに有名であるが、今日ではその説にも弱点があげられて来ている。すなわち、諸説紛々としていずれとも決しがたいが、上記の文献類から、寿貞は芭蕉との特別な関係があった女性とは認められよう。野坡談の「若き時の妾」というのは、同談の他の部分から類推しても、ほぼ信じてよさそうであり、芭蕉の在郷時代、あるいは江戸に下った初期のころには、正妻とまではしなかったであろうが、特に親しんだ女性が在存したことを考えても不自然ではない。
だが、その女性が家族的に関係を持ち続けたとまで考え得名根拠はなはだ弱い。おそらく、関係に中断があり、芭蕉が有名になり、生活も安定した晩年のころに再び芭蕉の周辺に近づくようになり、芭蕉にも特別な愛着があったし、寿貞も尼になり病身になっていたので、元禄七年の留守になる芭蕉庵にはこれを入れることも許したのであろうが、そのころの関係は、「若き時の妾」という以上ではなかったと思われる。
それで、次郎兵衛が寿貞の子だったからといって、すぐに芭蕉の子でもあったと考えることも承認はしかねる。芭蕉は晩年の芭蕉庵生活では次郎兵衛を身近かに置き、これを使い、元禄七年の最後の旅にはこれを同伴し、途中この若者を気にして労わったさまは、その旅から猪兵衛や曾良へあてた書簡中によくうかがわれる。この辺から芭蕉の父としての姿を読みとろうとする説もある。しかし、次郎兵衛のことを記した門人らの記事中には、これについて敬称が全く用いられていない。次郎兵衛は芭蕉の臨柳身終の病床にも侍し、葬式にも参列しており、そのことを特に其角も記しており、かつ、遺言状等を江戸へとどける使者ともなっているが、支考は「芭蕉翁追善之日記」に「従者二郎兵衛……この者はみな月の頃母を失い、此度は主の別をして」と記している。それに、芭蕉没後の次郎兵衛の消息は消えてしまう。多くの門人が非常に敬慕した芭蕉の子であるならば、こうした状態はおかしい。次郎兵衛は芭蕉の子とは見なしがたい。まして、まさ.おふうや理兵衛もそうである。結局、芭蕉には妻子があったとは認めがたい。後述するように、かれが多くの人々から尊敬された理由の根本には、よく孤独.貧寒な生活を堅持したという点のあったことも考慮せずにはいられない。
桃印については芭蕉自身が元禄六年四月二十九日付、荊口宛書簡中で「猶子」と書いており、同年三月二十日ころの許六宛申に、「旧里を出て十年余二十年に及び候て、老母に二度対面せず、五~六才にて父に別候て、其後は拙者介放にて三十三に成候」といい、三月十二日付公羽宛中にも「手前病人」として見え、肺結核で、その春に芭蕉庵内で死んだ事実が認められる。
猶子には養子・義子の意もあるが、ここは甥の意であろうか。すると、その父母のことも考えねばならないが、それは明らかでない。ともかく右の芭蕉の手記によると、桃印は寛文十年(芭蕉十八歳のとき)に生まれ、同五~六年に父と別れ、延宝二年ころ(二十年前)故郷を離れ、以後芭蕉が世話をした。別に元禄三年に江戸にいたことがわかるが(曾良宛芭蕉書簡)、その桃印が同六年春に芭蕉庵で死んでいるのである。
某その他、芭蕉の縁辺で考えられる人に桃隣がある。
天野氏・通称を藤太夫といい、太白堂・呉竹軒、晩年は桃翁と号した。芭蕉と同郷人で、芭蕉より年長であるが、芭蕉の門に入り、俳人として活躍した。また、前出した猪兵衛は伊兵衛とも書き、その山城の加茂にあった実家を芭蕉もたずねているが(元禄七年閏五月二十一日付書簡)、「真澄の鏡」によると、芭蕉の甥であり、一時杉風方の番頭をつとめたが、のち高山ビジの世話で武士となり、松村真左衛門と名乗り、本郷春木町(文京区)に住んだという。『芭蕉翁真跡集』などを著わした桃鏡はこの人の子孫だという。なお、望翠。半残のことは既述したが、故郷で芭蕉を親しくかこんだ俳人たちの中には、土芳・雪芝・卓袋。意専らにも縁辺関係が考えられるという。
こうした点は上記のようにまだ不明なところが多いのであるが、芭蕉伝にとっては見過しえないことであるので、あえてこの序章に述べておくのである。(以下略)
素堂家墓所
三十基にあまる山口一家の墓標が今も残されていて、その中でも、最も古いのは、寛文十三年六月七日、江岸詠月禅尼 と誌されたものであるという。
とすれば、素堂は寛文十三年(三十二才)、若くして妻を喪ったことになるといった。
…この項「山口素堂の研究」筑波大学、黄東遠氏著より。
(3)甲府尊躰寺の山口家墓所について調査の結果、前述の荻野氏の調査とは大きな違いが判明する。山口家の正面の墓石は山口勝(藤)左衛門と読める刻字がある。肝心な主市右衛門の墓石が無い。勤番士萩原氏の刻字のある墓石がある。
施主山口氏の刻字墓石 年不詳
いずれにしてもこの墓所と素堂の関与は無い。
素堂&芭蕉 和漢連句 元禄五年
- 破風 ( はふ )口 ( くち )に日かげやよはる夕すゞみ 芭蕉
- 煮レバレ茶ヲ蝿避レ烟ヲ 素堂
- 合歓醒ム二馬上ニ一 素堂
- かさなる小田の水落すなり 芭蕉
- 月代 ( しろ )見ル二金気ヲ一 素堂
- 露繁ケテ添フ二玉涎ク一 素堂
- 張旭がもの書きなぐる醉の中 芭蕉
- 幢 ( とばり )を左右に分るむら竹 芭蕉
- 挈テレ箒ク驅ル二偸鼠ヲ一 素堂
- ふるきみやこに残る御霊屋 ( たまや ) 芭蕉
- くろからぬ首かき立る柘 ( つげ )の撥 ( ばち ) 芭蕉
- 乳をのむ膝に何を夢みる 芭蕉
- 舟ハ鈞 ( ゆるく )風早ノ浦 素堂
- 鐘ハ絶ツ日高川 素堂
- 顔ばかり早苗の泥によごされて 芭蕉
- めしは煤けぬ蚊やり火の影 芭蕉
- 詑ハ教メシム二三社ヲ一本 ( なら ) 素堂
- 韻使メス五車ヲ一塤 ( いしつえと ) 素堂
- 花月丈山閙 ( さわが )シ 素堂
- 篠を杖つく老のうぐひす 芭蕉
- 剪テレ吟ヲ鮎一寸 素堂
- 箕面の瀧の玉む簸らん 芭蕉
- 朝日かげかしらの鉦をかがやし 芭蕉
- 風飧唯早乾 ( かわく ) 素堂
- よられつる黍 ( きび )の葉あつく秋立て 素堂
- 内は火ともす庭の夕月 芭蕉
- 霧ノ籬顔孰與 ( いつれ ) 素堂
- ■ ( しぐれの )浦目ハ潜焉 ( なみだぐむ ) 芭蕉
- 蒲団着て其夜に似たる鶏の聲 素堂
- わすれぬ旅の数珠と脇指 芭蕉
- 山伏ハ山平地 素堂
- 番門小天 素堂
- 鷦鷯窺二水鉢ヲ一 芭蕉
- 霜の曇りて明る雲やけ 素堂
- 興深き初瀬の舞臺に花を見て 芭蕉
- 臨レテ谷ヲ伴フ二蛙仙ニ一 素堂
『大阪獨吟集』(延宝3年 1675)
外題の下に西山宗因点取とあるのは、宗因がその意に叶った句のかしら平點及び長點を引掛けた巻々をさしたので、後世行はれた點〆落巻のごとき坐興式の點取の事ではないであらう。その平點はついと斜めに軽く筆を落したもので、長點ははその上にさらにちょんと點を置いたもので以て、點の高下を示し、巻毎に愚墨何句、そのうち長何句と通算して記すのが通例なので、宗因もそれに倣つてゐる。點数の多寡からいへば未學の六十二句・長廿六句が最高で、悦春の四十八句・長廿一句がどん尻であるが、そればかりで人物価値を判する譯にはいかない
『談林十百韻韵』田代松意(延宝3年 1675)
**【参考資料】素堂以前の俳人たち 「発句」 **
『虎渓の橋』井原西鶴 延宝六年(1678)
素堂追善 内藤露沾
かつしかの素堂翁は、やまともろこしうたを常にし、こと更俳の狂句の達人なり。おしひかな、享保初のとし八月中の五日、終に古人の跡を追いぬ、予もまた志を通ること年久し。しかあれど猶子雁山、をのをの追悼の言葉を桜にお集んとて予に一序を乞。おもふに彼翁、周茂叔が流に習ふて、一生池に芙蓉を友とせしは、此きはの便りにもやと、筆を染るものならし。
遊園軒
月清く蓮の実飛で西の空 露沾
素堂追善 甥、黒露(雁山)
狙公をうしなふて朝三暮四のやしなひだにあたはず。
猿引にはなれてさるの夜寒かな 雁山
素堂追善 杉風
素堂翁は近きあたりに軒を隔て、月雪花鳥のころは、互に心を動し、句をつづりけるに、時こそあれ、仲秋中の五日に世を去て筆の跡を残す。