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柏木素龍&芭蕉&柳沢吉保

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柏木素龍&芭蕉&柳沢吉保
 「復刻研究文献」小ばなし、風律稿

素龍は京の人にて、歌学は季吟の弟新玉津島正立の弟子なり。手跡は上代様なり。江戸に来りて客居す。或時坡翁、深川の芭蕉庵へ行けるに、翁云ふ素龍といふ人京より下り被申し由、聞き及びたる人なり。逢度候間聞き合せ可給と申さる。夫よりあれこれ聞き合せたるに旅宿屋に居られしを尋ね行て逢ふ。芭蕉庵逢申度由被頼候間、深川の庵へ御同道申度よしいひしに、芭蕉庵はこの方にも聞き及び候へば、幸いの事にて候間、御同道参可申由にて被参候、夫より三年程庵に居被申候、其の時分翁此素龍の手を習ひ被申候。予また此の手跡を習ひ被申候なり。其後翁被申には若き人、久々隙にて有之町々にて講釈など可然ことゝ被申候故同道致し帰り、坡師弟書店なればこの方にて歌書講釈など有候。正立門人故季吟師へも出入り被、殊の外気に入り、方々代講に被参候、大村侯など御懇意にて候処、柳沢(吉保)侯へお抱へにて被参頃は、柏木儀左衛門と申し候、後に藤之丞と申し候。大村侯よりお世話にて道具など調集被申し候。「奥の細道」「炭俵集」は素龍の筆なり。
 ・・坡師語・・
 
【註】完成原稿が能書家柏木素龍の手で清書されたのは、芭蕉が亡くなる年の、元禄七年四月。素龍清書本は、現在も福井県敦賀市の西村家に伝わっている。
【註】~歿、正徳6年(1716)。元禄5年江戸下向。

阿波徳島の人。通称は、儀左衛門。第五代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保に仕えた。能書家で、芭蕉の『奥の細道』の曾良本を基にして、「柿衛本」「西村本」を清書したことで有名。発句も『炭俵』に入集している。


素龍の代表作

障子ごし月のなびかす柳かな
中下もそれ相應の花見かな
青雲や舟ながしやる子規
帷子のしたぬぎ懸る袷かな
さみだれやとなりへ懸る丸木橋
明月や不二みゆかとするが町
鹿のふむ跡や硯の躬恒形
江の舟や曲突にとまる雪の鷺
爪取て心やさしや年ごもり(『炭俵』)
姫百合や上よりさがる蜘蛛の糸(『續猿蓑』)

山口素堂 甲斐国志の伝播

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山口素堂 甲斐国志の伝播
 甲斐国志の誤報は伝播していく。
内田露庵著
 
山口素堂が、東叡山下より葛飾の阿武に居を移せしも亦天和年中なり。素堂は季吟門にして芭蕉が親友なり。名は信章、字は子晋、通稱官兵衞といふ。甲斐巨摩郡教來石村字山口の人なり。代々山口に住するに依て山口氏と稱す。山口市右衞門の長男にして寛永十九年五月五日に生る。幼名を重五郎と云ひ、長じて父が家を繼ぎ家名市右衞門と改む。其後甲府魚町に移り、酒折の宮に仕へ頗る富めるをもて郷人尊稱して山口殿と呼べり。幼時より四方に志ありて、屡々江戸に遊び林春齋の門に入て經學を受け、のち京都に遊歴して書を持明院家に、和歌を清水谷家に學び、連歌は北村季吟を師として宗房即ち桃青、信徳及び宗因を友とし俳諧に遊び、來雪又信章齋と號し、茶道を今日庵宗丹の門に學んで終に嗣號して今日庵三世となる。斯る異材多能の士なれば、早くより家を弟に讓りて市右衞門と稱せしめ、自ら官兵衞に改めて仕を辭し、江戸に來りて東叡山下に住し、素堂と號して儒學を諸藩に講じ以て業となし、傍ら人見竹洞、松尾桃青等諸同人と往來して詩歌聯俳を應酬唱和し、點茶香道を樂み、琵琶を彈じ琴を調べ、又寶生流の謠曲を能くしければ、素仙堂の名は風流を擅にしたりき。
(以上『葛飾正統系圖』に據る。)

桃青はもと同門(季吟)の友たれば、東下以來『江戸三百韻』を初めとして、文字の交際尋常ならざりしが、殊に素堂が葛飾阿武に移居せし後は、偶々六間堀の假寓と近接したれば、小名木川を上下して互に往來し愈々親しく語らひける。素堂の號は此頃より名乘りしものにて、庭前に一泓(*淵)の池を穿ちて白蓮を植ゑ、自ら蓮池の翁と號し、晋の惠遠が蓮社(*慧遠・謝霊運等の白蓮社)に擬して同人を呼ぶに社中を以てし、「浮葉卷葉この蓮風情過ぎたらん」の句を作りて隱然一方の俳宗たり。一説に芭蕉は儒學を素堂に學びたりと云へど、其眞否は精しく知るを得ず。されど當時の俳人を案ずるに、季吟の古典學者たるを除くの外は連歌に精しき者の隨一流の識者として、素堂程の學識ある者は殆ど其比を見ず。芭蕉は稀世の天才にして且つ季吟が國典に於ける衣鉢を繼ぎたれ共、素堂如き才藝博通の士に對しては勢ひ席を讓らざるを得ざるべし。且つ縱令師事せざるも文詩の友を結んで益を得たるは、恐らく失當の推測にあらざるべし。芭蕉の遺文を案ずるに、其角丈と云ひ杉風樣と呼ぶ中に、獨り素堂先生と尊稱するを見るも亦、尋常同輩視せざりしを知るに足る。されば枯枝の吟に於ける口傳茶話の如き、蓑蟲の贈答の如き、『三日月日記』に漢和の格を定めたる如き、若くは其日庵に傳ふる芭蕉・素堂二翁、志を同うし力を協して、所謂葛飾正風を創開せしといふ説の如き、或は『續猿蓑』の「川上とこの川しもや月の友」を以て素堂を寄懷せるものとなす如き、皆素堂と芭蕉との淺からぬ關係を證するものにして、芭蕉が俳想の發展は蓋し素堂の力に得たるもの多かりしなるべし。素堂傳に芭蕉と隣壁すとあれども、素堂は阿武に住し芭蕉は六間堀に寓したれば、隣家といふも恐らくは數町を距てしなるべし。當時深川は猶葛飾と稱し、人家疎らなる僻地なれば、茫々たる草原に數町を距てゝ二草舍の相列びしものならん乎。


【割注】以後、甲斐国志に依る。
因に云ふ。元祿八年、素堂五十四歳の時歸郷して父母の墓を拜せし序、前年眷顧を受けたる頭吏櫻井孫兵衞政能を訪ひたりしに政能大に喜びて云へらく、笛吹川の瀬年々高く砂石河尻に堆積して濁水常に汎濫し、沿岸の十ヶ村水患を蒙むる事甚しく殊に蓬澤及び西高橋の二村は地卑くして一面の湖沼と變じ釜を釣りて炊き床を重ねて座するの惨状を極め禾穀腐敗して收穫十分の二三に及ばざるに到れば百姓次第に沒落して板垣村善光寺の山下に移住するもの千石(× 千戸)に達し、殘れる者も其辛楚に堪えざらんとす。數里の肥田は流沙と變じ餓莩將に野に充ちんとする酸鼻の状は苦痛に堪えざれど喪獨力經過の難きを歎ずる折から、足下の來れるのは幸ひなり。願くは姑く風月の境を離れて我に一臂の力を假して民人の爲に此患を除くの畫策をなさゞらんやと。素堂慨然として答へて云ふ、善を見て進むは本より人の道なり。況してや父母の國の患を聞いて起たざるは不義の業にして我が不才も之を耻づ。友人桃青も曾て小石川水道工事の功を修めたれば一旦世事を棄てたる我も君の知遇を受けて爭でか奮勵せざらんやと。終に承諾しければ、政能大に喜び公廳の許を得んとて江戸に出立しける。出づるに臨みて涕泣して沿道に送れる十村の民に向ひ、今度の素願萬一被許相成らざる時は今日限り再び汝等の顔を見ざるべし。今よりは萬端官兵衞が指導を仰ぎて必ず其命に背違する勿れと云ひて訣別しぬ。禿顱の素堂再び山口官兵衞と名乘りて腰に兩刀を帶び日夜拮据(奔走)勉勵して治水の設計を盡策しぬ。斯くて其翌年孫兵衞政能終に公許を得て歸郷しければ素堂、孫兵衞は協議して大設計を立て、夙夜營々として事に從ひ、西高橋村より南方笛吹川の堤後に沿て増坪、上村、西油川、落合、小曲、西下條に到るまで、新に溝渠を通じ土堤を築く事二千間餘、疏水の功全く落成せしかば、惡水忽ち通じて再び汎濫せず、民人患を免がれて一と度他に移住せしものも郷土に從歸して祖先の墓を祀る幸福を得るに到りしかば、民人崇敬して猶生ける時より祠を蓬澤村の南庄塚に建て、政能を櫻井明神と稱し素堂を山口靈神と號して年々の祭祀久しく絶えざりしといふ。

【割注】ここまで甲斐国志

素堂は其後再び江戸に來りて俳諧に遊び、亡友芭蕉の爲に定林院の域内に桃青堂を建立して西行及び芭蕉の像を安んじ、『松の奧』及び『梅の奧』の秘書に永く其日庵の俳風を殘し、享保元年八月十五日七十五の壽を以て終りぬ。芭蕉が水道遺事は廣く人口に膾炙すれども然も精しく其蹟を尋ぬれば漠として捕捉しがたし。素堂が笛吹川の工事は多く知られずして却て赫々たる功は今に顯著たり。既に有志の硅(*ママ)は永く其功績を後世に殘さんが爲、數年前素堂疏水紀功碑を建設したりと云ふ。素堂は決して尋常俳諧師にあらざるなり。(『葛飾正統系圖』及び露伴子の『消夏漫筆』五十四に據る。)

山口素堂 蓑虫記 真筆写し

山口素堂&松尾芭蕉 和漢連句 元禄五年

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  1. 破風 ( はふ ) ( くち )に日かげやよる夕すゞみ                芭蕉

  2. レバ蝿避                                                     素堂

  3. 合歓醒馬上             素堂

  4. かさなる小田の水落すなり                 芭蕉
  5. ( しろ )金気ヲ              素堂
  6. 露繁ケテ玉涎           素堂

  7. 張旭がもの書きなぐる醉の中                芭蕉
  8. ( とばり )を左右に分るむら竹                  芭蕉
  9. 偸鼠ヲ          素堂
  10. ふるきみやこに残る御霊屋 ( たまや )        芭蕉
  11. くろからぬ首かき立る ( つげ ) ( ばち )       芭蕉
  12. 乳をのむ膝に何を夢みる         芭蕉
  13. ( ゆるく )風早浦             素堂
  14. 日高川                   素堂
  15. 顔ばかり早苗の泥によごされて            芭蕉
  16. めしは煤けぬ蚊やり火の影        芭蕉
  17. メシム三社 ( なら )          素堂
  18. 韻使メス五車 ( いしつえと )                 素堂 
  19. 花月丈山 ( さわが )                    素堂 
  20. 篠を杖つく老のうぐひす         芭蕉
  21. 鮎一寸             素堂
  22. 箕面の瀧の玉む簸らん          芭蕉
  23. 朝日かげかしらの鉦をかがやし      芭蕉
  24. 風飧唯早 ( かわく )              素堂
  25. よられつる ( きび )あつく秋立て      素堂
  26. 内は火ともす庭の夕月          芭蕉
  27. 籬顔孰與 ( いつれ )              素堂
  28. ( しぐれの )浦目潜焉 ( なみだぐむ )            芭蕉 
  29. 蒲団着て其夜に似たる鶏の聲       素堂
  30. わすれぬ旅の数珠と脇指         芭蕉
  31. 山伏山平地              素堂
  32. 門番門小天                       素堂
  33. 鷦鷯窺水鉢             芭蕉
  34. 霜の曇りて明る雲やけ          素堂
  35. 興深き初瀬の舞臺に花を見て       芭蕉
  36. レテ蛙仙          素堂

 
元禄五年八月八日終

山口素堂と禅宗文化 素堂と芭蕉

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山口素堂と禅宗文化
 
素堂と芭蕉
素堂と芭蕉は俳訟によって結ばれた師弟、親友、兄弟のような関係であると色々解説される。
文芸的な芸術家の芭蕉に対して、素堂はあまりにもアカデミックな学術家のため、後世取り上げられる事も少ない。素堂のその文学的原点をとらえるには芭蕉と同様に、禅宗文化の面から論じて見たい。些か脱線しそうな感じもするが、素堂に至るまでの流れを追って見る。
** 素堂と禅宗文化 **
初めに禅宗各派の動きを見ておくと、臨済禅宗は初祖栄西の正治二年(1200)開山の鎌倉・寿福寺(建長寺派・五山 第三)建仁二年(1211)の京都・建仁寺(五山 第四)建長五年(1253)中国元の禅僧・蘭渓道隆(大覚禅師)が北条時頼の招きで鎌倉・建監寺を開山(五山第一・建長寺派大本山)
 【註】 
尚、蘭渓道隆は寛元四年(一1264)長崎に来日、文永九年頃讒言によって甲斐に配流、のち許され鎌倉に戻ったが、再び甲斐に流され東光寺(甲府)で布教する。
弘安五年(1282)時宗の開基、無学祖元(仏光国師)開山の円覚寺(円覚寺派本山・第二)同じく第五の浄妙寺は始め真言宗極楽寺と言ったが、建仁元年に蘭渓道隆の嗣法月峯了然が入山して禅寺となり、浄智寺(第四)は弘安六年(1283)兀庵普寧の開山で、鎌倉幕府期の五山である。
続く夢窓疎石(国師)は初め天台を学び、後に各地を遊学して顕密を究め、その後建長寺の一山一寧らに参じ、万寿寺の高峰顕日に就いて学び印可を受け、建武元年には 勅命で京都・南禅寺に移り、夢窓国師号を賜り五山を歴往。北条貞時・後醍醐天皇・足利尊氏など支配層の帰依をうけ、京都・鎌倉間を往来し、尊氏に勧めて安国寺・利生塔を建てさせたとも云い、後醍醐天皇の冥福に天竜寺を造営させた。夢窓門下には春屋妙葩・義堂周信・絶海中津(仏智国師)・龍秋周沢ら五山文学に登場する人がいる。
宗峰妙超(大燈国師)は花園・後醍醐天皇の帰依を受けて大徳寺を開き、臨済禅の宜揚につとめ、弟子の関山は妙心寺を創建して、両寺ともに五山の権勢を余所に坐禅工夫に精進し、法脈を長く維持してのちの主流となった。
臨済禅は、元々比較的厳しく禅風を守るものと、緩やかなものとの二派があり、夢窓国師は後者の系統であって、五山の主流となった。
曹洞宗も道元禅師以来門弟養成の禅僧修行に努めていたが、嗣法四世榮登山紹瑾(常済大師)はこれまでの方針を転換して、元享元年(1321)能登の風至郡櫛比の庄の真言道場・諸岳寺住持定賢律師の請により、永平寺より入山して律宗を曹洞宗の禅苑に改めた。この年、後醍醐天皇より藤原行房の勅額「総持寺」を賜り、翌年曹洞宗総本山勅額大道場となった。尚、総持寺は明治三十一年火災に患り、同三士九年貫主石川素堂師が横浜市鶴見への移転を決し、同四十四年移転した。
榮山師は祈祷的な要素を入れると共に、北陸地方を開拓して農村に勢力を布殖し、その高足明峰素哲の系統雪山玄呆は、正慶二年(一三三三)甲斐の大井春明の招きで西郡に入り、寒厳義尹(法王派)の法流鶏岳永金、総持寺二世峨山韶碽の系統(峨山脈)と相次いで法線を伸ばし、榮山の法孫・丁庵慧明は応永元年(一三九四)相模の南足柄に大雄山最乗寺を開山、関東方面への拠点となり、その法流は甲信二国に伸びた。
了庵の法嗣大綱明宗・その法嗣吾宝宗璨(そうさん)・その門弟拈笑宗英・雲岫宗龍(雲岾一派) 州庵宗彭(州庵派)は、拈笑が東信、雲岫州庵は甲州と法線を広げて、雲岫派が甲州の曹洞最大の教団として繁栄を見た。
 論旨からすると大分脱線したが、禅宗文化を江戸時代まで解説するためには、小論の何十倍もの紙数を必要とする。これを避けるためには端折るにしかずである。
我が国の漢詩文は、平安時代に於いて貴族社会を中心に盛んであったが、末の頃には末法思想と共に下火となっていった。
鎌倉期に入ると禅宗文化の流入が盛んとなり、その中心勢力を成したのか武家で、禅宗の修業方法が[自力を原理とする、精神の鍛練を重んじる事]が彼ら武家社会の気風と合致することにより迎え入れられ、その文化流入に力を尽したのが、禅僧をはじめと した僧侶や、政治的力を失った公家・貴族らが多く、中国の影響を受けた禅宗文化が交 易により多く輸入され、禅僧は政治・外交の面でも活勤し、文化形成に貢献している。
それは鎌倉・南北期を挟み、室町期には臨済禅と共に全盛期を現出したのである。つまり禅宗寺院の格式化であるが、始めは鎌倉中心での寺格を五山と称した。後に官寺内での最高位に列する五寺を京都・鎌倉各五山として、院官等で五山千剥が定められ、五 山の僧等は修禅の外に儒教・漢詩文・絵画の成作と中国の流行を逸早く取り入れ、武家 公家等も相次いで漢詩文や儒教的な教養が流行して、日本の漢文学中でも優れた「五山文学」が生まれたのである。
*宋学と五山文学*
宋学は中国末代の北宋・周敦頣により開かれ、程明道(程)程伊川(程頣)兄弟に継がれ、南宋の朱熹(朱子・晦庵)によって大成された儒学で、古代よりの儒学とは違い、禅宗や道教の影響を受けて思索的でより哲学的となった学問であり、儒学の正統と認知され、大学・中庸・論語・孟子の四書が五経と共に尊重された。
辞典等によれば、五経(易・春秋・書・礼記・詩)の経典を研究する外に、特に四書 (論語・孟子・大学・中庸)を聖人の道を説いた言として重視し、大儀名分論によって立場と結合し、字句の解釈よりも儒学の精神・哲理に重点を置いて、宇宙の原理、人性の研究を主とする性理学とされる。またすゝんで道徳政治の学と基定され、程朱の学あるいは朱子学とも云われるようになる。
この宋学は鎌倉時代に円爾や弁円を中心に、禅僧によって伝えられ、鎌倉期の末から南北朝期に虎関・夢窓・中厳円月・玄恵ら五山の禅僧間で行われ、室町期には更に研究が盛んになり、公家の中にも広がった。最も宋学興隆に貢献したのが義堂周信で、末期には岐陽・瑞渓・了庵・桂庵らの学僧を出した。
これらの禅僧は修禅の外に儒学(儒教)を研究し、また漢詩文を盛んに作った。中国の流行を早速に取り入れたものだが、上流武士や公家らも相次いで取り入れ、漢詩文や儒教的な教養が流行し、地方にも波及していった。この五山の学僧を中心とした漢詩文学を「五山文学」と呼んでいる。
また漢詩文の第一人者は南禅寺の学僧・虎関師錬や、夢窓国師の弟子義堂周信で、同門の絶海中津は双璧をなし、惟肖得厳らの頃(応仁)が隆盛期であり、横川景三らの詩僧の頃までは盛んであった。その後は次第に衰退して行った。
義堂周信は禅宗の世俗化と共に、禅僧が漢詩文作成に没入することを厳しく戒めているが、時代が下るにつれ、詩文・絵画の製作に専らになる禅僧が出た。つまり詩僧と云われる人々、絵画では雪舟もそれである。
禅宗と宋学・五山文化は、前述の通り不離一体のむので、室町期の五山禅僧を中心とした漢詩文の復興は、宗風はあるが「自己の悟道の境地」を詩文で表現する風も有って、純然たる詩文にも関心が深まって行った訳で、末学も禅僧の多くが心を寄せ、岐陽文秀 (1363~1424)が朱子の「四書葉註」に和点を加え、桂庵玄樹(1427~1508)は岐陽系の末学を学んで応仁元年(1467)還明使に随行して中国に渡り、文明五年(1473)程朱の学を学んで帰朝した。時に世は「応仁の大乱」の最中で有ったが、文明士三年(1477)朱子の「大学章句」を出版し、これを受け継いだ藤原惺窩によって朱子学として大成され、徳川時代に全盛期を現出することになる。
*藤原惺窩*
藤原惺窩は冷泉為純の子で、若くして僧となった人で京都相国寺の学僧、程朱の学を学び、桂庵玄樹の「朱註和訓」を学んで独自性を知り還俗し、朱子学を仏教より離して独立させた京学の祖である。朱子学の基礎を確立し、儒学を貴族・僧侶の社会より解放したのである。後に徳川家康の招致で講授はしたが門人の林羅山を推し、仕える事はしなかった。惺窩も五山派の学僧であったのである。
*林羅山*
博覧強記と云う林羅山(道春)は京都の人で、祖は元武士で町屋に下って商いを営んでいた。羅山は弱年で五山の一つ建仁寺に入って学んだが、僧になるのを嫌って戻り、惺窩に師事して朱子学を学び、師の推薦により徳川家康の侍講に召し出された。当時は学問で立身する者は僧侶に限られていたことから、剃髪法躰が誉命じられた。以後儒学者は元禄二年(1689)に剃髪が廃止されるまで続けられた。
寛永七年(1630)羅山は上野忍ケ岡に土地を与えられ家塾を建てた。また尾州侯徳川義直の援助により先聖殿(孔子廟、後の湯島聖堂)が造られ、後に家塾は寛文三年(1663)に弘文院号を与えられた。元禄三年(1690)将軍綱吉の命で忍ケ岡より湯島に移転となり、先聖殿が湯島聖堂を、家塾が昌 と改められて、林家は歴代が弘文学士・国子祭酒を継承することになった。羅山もまた五山の禅宗に関係していたのである。

素堂と禅宗文化*素堂の漢詩文*

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**素堂の漢詩文**
山口素堂は漢学者であるが国文にも通じ、俳斟にも並々ならぬ素養を持ち、その見識は世を風摩する勢いであった。しかし、俳諧の面では松尾芭蕉の良き後援者となり、多くの俳諧人の撰修や茶道書に序文跋文を残し、その数は群を抜いている。後世、単なる好き者(別格の意もある)扱いをされ、多くはその評価も一部の研究者を除いて芳しいものではない。
確かに漢詩文や俳諧の作品の多くは、興にのって即興的即吟であるが、中には推敲を重ねた作品も多数ある。この傾向が現れるのは延宝来年の頃だが、これも俳諧集等の序分跋文依頼が多くなり撰集内の句も精錬する必要があった事に根ざしていると考えられる。
素堂は寛文年末頃から俳諧古体からの脱却を目差したのと機を一にしており、漢詩文でも古典体に囚われない自由詩体を模索して、好事者の評価を得ていた。和歌にしても原安適や、「用語の自由を主張して和歌の革新をとなえた」戸田茂睡とも親交がある通り、今に残る作は少ないが学者素堂の面目躍如を伝えている。
 **素堂と芭蕉**
松尾芭蕉は古体の俳諧を革新し、芸術文芸にまで引き上げたとして、後世「俳聖」として崇められた。連歌より派生した俳諧が、松永貞徳により体系化され、北村季吟・西山宗囚が堅苦しいマンネリ化した遊戯的俳諧を、独自の「さび・わび・しおり・ほそみ・かろみ」などを極致とする俳風を開き、芸術的俳諧に高めた事による。
芭蕉も最初からこの域に達していたのではない。初めは貞門俳諧の手解きを受け、同じ門葉の季吟に師事し、後に宗因の談林詞に投じ、そして素堂の後援を受けて、独自の俳風に至ったのである。このことは既に「素堂像の考察」・「山口素堂俳諧資料概説」等で述べているから、詳しくはそちらに譲るとする。
素堂と芭蕉の結びつきは一般には唐突である。推察すれば、寛文年の未頃の素堂と季吟の接触にあると推察される。勿論、春陽軒加友や内藤風虎の仲介の有ってのことであろう。延宝二年(1674)に素堂が信章として季吟に会った時には、一通りの併殺者として遇していた。この時期は風虎と季吟の間で書状の遣り取りが頻繁であり、宗因の江戸招致も宗因の都合で中々進まずにいたのである。風虎のサロン入りをしていた素堂は、信章として仕えていた主家(未詳)の用で上洛するおり、風虎の依頼で季吟に会い、次いで難波の宗因に会ったのである。(『季吟廿会集』・信章(素堂)難波津興行『鉢叩』序)大阪に行ったとも考えられる。(素堂の名は見えないが芭蕉語録に芝居見物の話があり此処で宗因に紹介されたのか、ただ見ただけなのかは判らないが、この後蓑笠庵梨一の「芭蕉伝」にあるように、季吟の門人ト尺(孤吟)に誘われ江戸に向かったのである。
素堂も宗因に会って風虎の依頼を伝えたものらしく、翌年初夏に宗因は江戸 「素堂像の考察」で述べたが、季吟は宗房(芭蕉)に奥書「埋木」を与えたものの腰の定まらない宗房の、江戸での引き立て方を信章に依頼したのであろう。宗房は信章 (素堂)の友人である京都の儒医桐山正哲(知幾 素堂と「和漢連句」五十韻あり)に依頼して「桃青」号を付けて貰い、江戸に向かったらしい。しかし、江戸に向かう前に素堂に誘われてに到り、「宗因歓迎百韻興行」には宗房改め桃青(桃青号の初め)は素堂こと信章と一座し、これと共に風虎サロンにも紹介されたと考えられる。以後素堂は致仕するまで、江戸に在る時はいっしょして俳席に一座していた。
 素堂が公職の退身後は、芭蕉はしばしば素堂のもとを訪れ、いろいろと学んでいたようで、門弟達(其角・嵐蘭等)と漢詩等の勉強会を開き、死ぬ元禄七年まで書物を借り出している。
 明治期の内田不知庵氏が、当時引用出来得る限りの古文献を駆使して、興味深い芭蕉論を「芭蕉後伝」 (『素堂鬼貫全集』)として展開しているので、抜き出しながら紹介するが、不知庵氏の骨子は是々非々の立場を保とうとしているものの、概ね芭蕉門葉の伝書などを用いて元禄期の『花見車』、化政期から幕末期の「芭蕉論」書を交えて綴っておられる。編年体論でないところから、芭蕉賛美論に終っているところが少々煩わしい。
 
*内田不知庵著『芭蕉後傳』 
 (二)芭蕉の学識修養の項の中で*
  「芭蕉は実に此門(季吟)に出づ。洛に住する数年、季吟に教を受けて古しへの俳匠の為るが如く、万葉・古今・源氏・狭衣等の諸典を研鑽しぬ。芭蕉が見地の時流より一等上りしは、一つには此学問あり為めなるべし。勿論学者とし見れば、盛名今に残れる同学者若しくは儒者よりも、造詣深からざりしなるべけれども、無学者も亦一躍して点者たるを得べき俳壇にありては、通常以上の学識ありしが如し」 更に
「且つ当時の古今を崇拝し、源氏を随喜する中に、特に『山家集』と『金塊集』との気韻高きを推し、『土佐日記』を俳諧なりと喝破したる如き眼識の、決して尋常ならざりしを知るべし。殊に季吟が芭蕉の説を聞いて、万葉の一疑を釈きたりといふ逸事の如き、益々芭蕉が題意の読書眼を具せしを証するに足る」。
『土佐日記』で思い出したが、寛文元年の初冬頃、季吟が江戸の知らせで、林春斎が誰とかの注釈『土佐日記』が版本され、その序文を春斎が書いたと知り、季吟が春勝に何か訳るか、と立腹した事が「季吟日記」にあった。
 また、「季吟が芭蕉の説云々」の処は。
 『芭蕉一葉集』(仏兮・湖中共編 文政十年 一八二七刊)の「遺語之部」に季吟云、「或る時桃青、として載せ、末尾に季吟物がたり素堂より伝ふ」。とある。
 なおも不知庵氏は、芭蕉が儒学を伊藤担庵に学んだとし、「山口素堂に益を享けたり。漢土の文芸、殊に経学に精通したる事跡伝らざる上に、林門の一書生にして不熟の悪詩を残せし素堂をすら、詩に精しと称したるほどなれば、造詣の度は想像すべしといへども、白氏を渉猟したるの痕跡は、明かに俳句の上に見えたり。且つ平生杜律を受誦じて―― 中略 ――唐詩は恐らく精読せし処なるべく云々」続けて、「然れども、芭蕉の俳骨を渾成せしは国典にあらず、儒学にあらずして禅の修養なり。芭蕉は仏頂と往来せし日短く――中略――仏頂との往来が正風間創の一導火となりしが如し。門人浪化曰く、仏頂禅師と茶話の詞あり、翁いはく、道心を求めんとするもの、若し市中の匯忙に鮑けば幽谷に隠れん。其初めに飽くものは其終りは寂莫に飽かん。左れば、今日の是非に交りながら、其是非につかはれずして自在に道を得んこと、此俳諧に遊びて名利を圧はんには如かずとなり」――中略――「然れども芭蕉は生涯禅を説かず、常に門人に道義の重んずべきを諭したれども、参禅工意の甚深なる妙趣を説法する事とて勿りき。後人が濫りに「古池の句」に附会して「特別の禅機」を這句裡に示したりと云ひ――中略――終には禅を学ばざれば、芭蕉の句を解する能はずと云ふ如きは、迂戇の妄語云々」
 この個所は、本小論の冒頭の命題と同じである。不知庵氏は支考ら説や錦江の説も読んでいた。ただ芭蕉が参禅したのは禅機を得るためでは無い。己の性癖修養のためである。
「学才と眼識とは明かに時流に超えたれども、修養の深浅広狭を以て比ぶれば、季吟の篤学なる、素堂の博聞なる由的の精通なる、其他猶芭蕉に勝る者多かりしなるべし云々」
前にも述べたが、不知庵氏はこの書で(四)芭蕉の性癖及び行状の項に逸しているの だが、持って生まれた性格を分析していなかった点にある。多くの芭蕉論に洩れているのと機を一にしているのである。芭蕉は天才肌であり、軽重浮薄なところがあって、見識が高く、物事に対する自己顕示欲が強く、しかも朝令暮改的要素を含み、我が儘な点で、為に上水道改修水吏を途中で投げ出して深川に隠遁し、己の修養に目覚めて参禅した訳で、諸伝が云うような参禅では無かったのである。確かに人品備わり人を別け隔てなく接し、情が濃やかで人当たりが柔らかくといった良い点は多くある。これが 無ければ多くの門弟たちを厳しく指導しても従わなかったはずである。人柄の温かさがあったのである。
 
 芭蕉の才能を愛した素堂は、出会いからその性格を見抜き、その欠点をそれとなく悟らせようとした。それが「蓑虫説の応答」である。その後芭蕉は素堂の意に反して行動したいたようである。芭蕉は芭蕉で俳文を綴れば素堂に見せて意見を聞くと云った(幻住庵の記まで)事が続いている。
 不知庵氏は、「芭蕉が平生愛誦して幻住庵に落柿舎に、或は行脚に折々に携へしとて、明かに知れたるは「白氏文集」「杜子美詩集」「世継物語」「源氏物語」「土佐日記」 「百人一首」「古今集」「古今集序註」「山家集」「応安新式」等なり。其他の国朝諸典は季吟の門に在りしなれば、勿論ひとわたり渉猟せしならん。「徒然草」「方丈記」 宗祇・長嘯等の家集及び謡曲・小唄の如きは、好んで沈読せしかと思はる」 更に芭蕉の俳風で「芭蕉が俳諧の壇上に建し新旗識は不易流行の説なり。此不易論は、芭蕉が多年の修練工風より捉来りし見地にして、単り俳諧の上のみにあらず、自家の安心立命も亦此中に宿せしなるべし。之を俳諧の上に於てせば、不易とは時代の変化に移らず、千古に通じたる風情を咏びしをいふ。曰く、
「万台不易あり、一時の変化あり、此二つに究まる。其本と一なり。其一といふは風雅の誠なり。不易を知らざれば実に知るにあらず。不易といふは、新古によらず変化流行にもかゝはらず、まことによく立ちたる姿なり。代々の歌人の歌を見るに、代々其変化あり。又新古にもわたらず今見るところ、昔し見しにかはらずあばれる歌多し。是れ本と不易心得べし。又千変万化するものは自然の理なり。云々」(『赤草子」)
 この説を唱えるのは元禄二年(一六八九)の奥州北陸吟行(奥の細道)の時であるが、(呂丸の『聞書七日草』)ここでは「天地固有の俳諧説」ではあったが、
素堂は貞享四年(一六八七)十一月に、芭蕉の第一の門人とされる榎本其角の『続虚栗集』に序文を与え、「不易流行説」とは銘打ってはいないが、
 『風月の吟たえずして、しかももとの趣向にあらず。たれかいふ、風とるべく影ひろふべくは道に人べしと、此詞いたり過て心わきがたし。ある人来て今ようの狂句をかたり出しに、風雲の物のかたもあるがごとく、水月の又のかげをなすに似たり。あるは上代めきてやすくすなほなるもあれど、ただけしきをのみいひなして、情なきをや。古人いへることあり、景のうちにて情をふくむと、から歌にていはば「穿花挟蝶深見 点水蜻蛉蜒款々飛」これこてふとかげろふは処を得たれども、老杜は他の国にありてやすからぬ心とや、まことに景の中に情をふくむものかな。やまとうたかくぞあるべき云々-
続虚栗の序文は後項の「素堂と芭蕉の俳諧論」で、芭蕉の「虚栗の序」(天和三年 1683)と併せて紹介するが、素堂の俳論で重要なのは次の点で、
 『花に時の花有り、ついの花あり。時の花はI夜妻にたはぶるゝに同じ。終の花は我宿の妻となさむの心ならし。人みな時の兆にうつりやすく、終の花にはなほざりになりやすし。人の師たるもの乱心わきまへながら、他のこのむ所にしたがひて色をよくし、ことをよくするならん。来る人のいへるは、われも又さ基さる翁のかたりける事あり。胤の浮巣の時にうき、時にしずみて、風波にもまれざるごとく、内にこころざしをたつべしとなり。余わらひて之をうけがふ。いひつづくればものさだめに似たれど、屈原楚国をわすれずとかや。これ若かりし頃狂句をこのみて、いまなほ折にふれてわすれぬものゆゑ、そぞろに弁をついやす。君みずや漆園の書いふものはしらずと。我しらざるによりいふならく。』
 

**松永貞徳発句**『犬子集』他

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**松永貞徳発句**『犬子集』他

ありたつたひとりたつたる今年哉 鳳凰も出でよのどけきとりの年

春立つは衣の棚のかすみかな   花よりも団子やありて帰る雁

ゆきつくす江南の春の光り哉   雪月花一度に見する卯木哉

高野山谷のほたるもひじり哉   七夕のなかうどなれや宵の月

歌いづれ小町をどりや伊勢踊   酒や時雨のめば紅葉ぬ人もなし

系譜に見る素堂

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系譜に見る素堂


  • 歴代滑稽傳 許六著 正徳 五年(1715)

素堂七十四才。 江戸 山素堂は隠士也。江戸三吟の時は信章と

云。幽山八百韵は来雪と云。芭蕉翁桃青と友トシ善シ。後正風の

体を専とす。


  • 綾錦 沾凉編 享保十七年(1732)

祖 北村季吟----素堂 山口今日庵。始ハ云信章又来雪トモ云。

享保二申八月十五日卒。齡七十五 住本所 有墳谷中感応寺


  • 誹諧家譜拾遺集 丈石編 明和八年(1771)

祖 松尾芭蕉----素堂 山口氏稱今日菴トモ 名信章

號来雪 住東府 享保二丁酉年八月十五日歿。齡七十五。


  • 連俳睦百韻寺町百庵著 安永八年(1779)

山口太郎兵衛  信章 来雪    来雨 素仙堂―仙=素堂。


  • 甲斐国志 松平定能編 文化十一年(1814)(別記)

祖 北村季吟----素道(堂)山口氏。

信章  来雪 字、小晋・公商



  • 蕉門諸生全傳 曰人編 文政中期(1818~30)

甲斐酒折産也 神職ノ人也 葛飾隠士 信章斎来雪
號山素堂 性巧俳句及詩歌而 名品其矣。
享保元年八月十五日歿。法名廣山院秋厳素堂居士   

碑面 本所中ノ郷原町東聖寺松浦ヒゼン守隣ナリ


  • 俳家大系図 春明編 天保九年(1839)

祖 北村季吟----素堂 山口氏名信章 

字、子達・来雪・復白蓮 享保元年八月十五日谷中感応寺


  • 葛飾蕉門文脈系図 錦江編 嘉永期(1848~5)   

祖、山口素堂


  • 葛飾正統系図錦江編 嘉永三年(1850) 

祖、山口素堂



俳諧年表 正保 元年(一六四四)~寛文 三年(一六六三)

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正保 元年(一六四四)芭蕉生まれる。

一月、重頼、東下し江戸俳壇と交流。

一〇月、貞徳、『天水抄』を令徳に伝授、俳諧伝の基礎となる。

『寛永廿一年俳諧千句』一二月一六日改元。

幕府、諸国大名に国絵図作成を命じる。


**松江重頼発句**『犬子集』他

春の日の威光をみする雪間哉  咲きやらで雨や面目なしの花

初花になれこ舞する胡蝶かな  やあしばらく花に対して鐘つく事

順礼の棒ばかり行く夏野かな  此度はぬたにとりあへよ紅葉鮒

芋豆や月も名をかへ品をかへ  生魚の切目の塩や秋の風

 

正保 二年(一六四五)

二月、重頼『毛吹草』刊。『厳島大明神法楽連歌三百韻』

『十一韻』歿一二月、沢庵七十三没。

正保 三年(一六四六)

春、正式『郡山』、正章『氷室守』の両書、『毛吹草』を攻撃。

『切紙秘伝良薬抄』『底抜磨』


正保 四年(一六四七)

貞徳、新年を新宅柿園で迎える。

九月、宗因、里村家の推挙で大阪天満宮連歌所宗匠となる。

『云成俳諧独吟千句』『追福千句』『誹諧集三千句』

『誹諧集二千句』(『長崎独吟』『徳元俳諧紗』)

歿二月、小堀遠州六十九才。歿徳元八十九才。


  


慶安 元年(一六四八)

一月、季吟『山の井』刊、季蓮に例句を添えた季寄せの囁矢。

九月、『正章千句』刊。正章、俳壇における地位を確立。

『西行谷法楽千句』 二月一五日改元。

 

** 安原貞室発句 **『正章千句』『一本草』『玉海集』他

黄鸝(うぐいす)も三皇の御代を初音かな

歌いくさ文武二道の蛙かな   葉は花の台にのぼれ仏の座

これはとばかり花の吉野山 いざのぼれ嵯峨の鮎食ひに都鳥

松にすめ月も三五夜中納言   そちは何を射げきの森のよるの蝉   小便の数もつもるや夜の雪   涼し溝のかたまりなれや夜半の月   


** 北村季吟発句 **『続連珠』『山の井』『師走の月夜』他

一僕とぼくありく花見哉  こゝぞ京のよしの能見よ地主の花

太郎月につぐ紅梅や次郎君   めづらしや二四八傑のはとゝぎす

夏をむねとすべしる宿や南向き 女郎花たとへばあはの内侍かな

閑なる世や柊さす門がまへ   咲くやこの今を春べと冬至梅

年の内へふみこむ春の日足哉


** 西山宗因発句 **『懐子』『宗因発句集』他

ながむとて花にもいたし頸の骨 そうよそよきのふの風体一夜の春花むしろ一けんせばやと存じ候 世の中よ蝶々とまれかくもあれ郭公いかに鬼神もたしかに聞け  なんにもはや楊梅の実むかし口

慶安 二年(一六四九)

一月、宗因、大阪天満宮月次連歌再興。

『花月千句』『師走の月夜笥そらつぶて』『風庵懐旧千句』

『望一千句』二月、農民の心得を記す慶安御触書発布。

三月、木下長哺子『挙自乗』刊。四月、

未得『吾吟我集』成、個人狂歌集の嚆矢。


慶安 三年(一六五〇)

一〇月、『嘉多言』刊(成)。『伊勢山田俳諧集』『くるる』

『誹諧抜書』『歩荒神追加』『野狩集』


慶安 四年(一六五一)

四月、立圃、備後国福山藩に仕える。

七月、貞徳、『俳話御傘』に式目をまとめ俳言を説く。

一〇月、令徳『遠山集』刊、貞門俳詰最大の撰集。

七月、由比正雪事件。八月、家綱、将軍宣下。


承応 元年(一六五二)

一月、柳営連歌、一一日に式目を変更以後、幕府瓦解まで続く。

二月、宗因、菅家神退七五〇年忌万句を興行。

三月、『尾陽発句帳』刊、尾張俳壇俳書の囁矢。

一二月、『若狐』刊、井筒屋(表紙屋)庄兵衛刊行俳書の囁矢。

『十寸鏡』園定六月、若衆歌舞伎禁止。九月一八日改元。

承応 二年(一六五三)

一一月、貞徳八十三才没、生前、『貞徳独吟』を遺す。

西武・正章(貞室)ら、後継を争う。

卜養、将軍に見参を許され、江戸に居宅を賜る。

この年、任ロ、西岸寺住職となる。

『貞徳終焉記』『美作道日記』

一月、玉川上水の工事着工、翌年完成。


承応 三年(一六五四)

一月、正章、貞徳後継を意識し貞室と改号。

一〇月、宗因、重頼らと百韻興行。

『承応三年平野熊野権現千句』『伏見千句』

三月、土佐光起、絵所預となり土佐派を再興。

七月、明憎隠元、長崎に来航。


明暦 元年(一六五五)

『紅梅千句』『信親千句』『毎延俳諧集』『夜のにしき』

四月一三日改元。この年、山崎闇斎、京都で講義を始める。


明暦 二年(一六五六)

一月、長式『馬鹿集』刊、令徳・貞室を批判。俳壇にわかに活発

化。同月、休安『ゆめみ草』刊(奥)、守武流を標榜し、反貞門

勢力の大阪・堺・伊勢俳壇が結集。宗国風流行の素地となる。

三月、季吟、祇園社頭で俳諧合を催し宗匠として独立、貞室を

攻撃。『いなご』刊(序)、絵俳書の嚆矢。

九月、宗因、天満碁盤屋町向栄庵に入り俳諧月次会を主催。

『祇園奉納誹諧連歌合』『玉海集』『口真似草』

『崖山土塵集』『拾花集』『せわ焼草』『有芳庵記』

『吉深独吟千句注』

汀松平直矩『大和守日記』執筆始まる(元禄八年まで)。


明暦 三年(一六五七)

一一月、蝶々子『物忘草』刊、江戸俳家による撰集の嚆矢。

この年、『嘲哢集』刊、『守武千句』を基準とする伊勢俳壇の式

目書。

『牛飼』『沙金袋』『春雨抄』

一月、江戸大火。遊廓新吉原に移る。

二月、徳川光圀、『大日本史』編纂に着手。


万治 元年(一六五八)

『鸚鵡集』『尾張八百韻』『拾玉集』『俳諧進正集』

七月二十三日改元。

七月、中川暮雲『京童』刊。


万治 二年(一六五九)

九月、胤及『飽屑集』刊(跋)、中国地方俳書の嚆矢。

この年、風虎、発句初見。江戸において諸流に門戸を開き文学

サロンを形成。

『伊勢俳諧新発句帳』『捨子集』『貞徳百韻独吟自註』

『満目集』


万治 三年(一六六〇)

七月、『境海草』刊、堺俳壇撰集の嚆矢。

重頼『懐子』で、本歌本説取りの新風を掲げ、宗因の謡曲調を

紹介。

一二月、宗賢ら『源氏鬢鏡』成、俳家系図の嚆欠。

万治年間、河内国の重興、雑俳の起源となる六句付創案。

『歌林鋸屑集』『木間ざらひ』『新続犬筑波集』

『誹諧画空言』『俳仙三十六人』『百人一句(重以編)』

『慕綮集』『和歌竹』

一九月、内海宗恵『松葉名所和歌集』刊。

一二月、大蔵虎明『わらんべ草』成、能と狂言を連歌・俳諧の

関係に譬える。

このころ、浅井了意『東海道名所記』成。


寛文 一年(一六六一)

この年、在色、江戸へ下向、忠知に俳諧を学ぶ。

『烏帽子箱』『思出草』『天神奉納集』『へちま草』

『弁説集』『水車・水車集』

四月二五日改元。


寛文 二年(一六六二)

この年、西鶴、俳諧点者となる。

『伊勢正直集』『雀子集』『旅枕』『俳諧小式』『初本結』『花の露』『鄙諺集』『身楽千句』

二月、伊藤仁斎、京に古義堂開設。


寛文 三年(一六六三)

八月、一雪、『俳諧茶杓竹・追加幅紗物』刊、『正章千句』を攻

撃。貞室側は翌年六月刊『蝿打』で反撃する。

『埋草』『尾蝿集』『木玉葉』『早梅集』『貞徳誹諧記』

『誹諧忍草』『俳集良材』『破枕集』

五月、「武家諸法度」に殉死禁止を加える。


堂関連年表(素堂と親しい人の動向)明暦元年~寛文六年

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堂関連年表(素堂と親しい人の動向)明暦元年~
◇明暦 元年(一六五五)

北村季吟が俳諧の奥書「俳諧理木」を著す。(季吟は延宝三年、素堂を招いて、京都にて「歓迎百韻」を催す)

○山田宗偏が小笠原家の茶道指南となる。(素堂の友人 「今日庵」の掛軸を素堂に贈る)
**明暦 三年(一六五七)一月、江戸の大火。林家の文庫類焼し「本朝通鑑」焼ける。同月林羅山没七十五才 
万治 元年(一六五八)

北村季吟、立机と云う。(明暦元年鋭もある)

○幕府儒官人見竹洞(林家に於ける素堂の先輩)が京都に赴き石川文山に面会する。
◇内藤義概(風虎・素堂はここで様々な俳人に出会う。また「目に青葉」の句は、内藤家菩提寺時の光明寺裏山から詠んだ句と思われる)「御点取俳諧」をこの頃から始めたか。俳諧指南には高島玄札・石田未得・野々口立圃等が当たったか。
○十二月、千宗旦京都「今日庵」にて没す。八十一才。
**万治 三年(一六六〇)

一月、甲府の大火。柳町より魚町まで焼失する。(山口屋も焼ける)

◇風虎、父忠興に従い大坂に行く。(五月~十一月)松江重頼と接触か。
**寛文 元年(一六六一)

八月、甲府城主に徳川綱重なる。江戸に在住。

◇風虎、季吟と書簡応答で接触。
○林春斎、江戸のト祐の板行「土佐日記」に序を寄せる。
◇季吟は日記に批判を記す。(十月十一日条・季吟日記)
**寛文 二年(一六六二)

「裏見寒話」に甲府の「町々も暖簾も成し云々」の記述を著す。

編者は野田成方、享保九年、甲府勤番赴任。内容は甲斐国見聞記。

◇西山宗因、内藤風虎の重ねての招請に応じる。
**寛文 三年(一六六三)

十二月、林春斎の家塾に幕府より弘文院号が与えられる。

**寛文 四年(一六六四)

二月、宗因は江戸に風虎を訪ね、その後九州に赴く。

○十一月、幕府は国史舘を忍岡に置き、春斎に「本朝通鑑」の続修を命じる。
▼芭蕉、二十一才、松江重頼編『佐夜中山』に「松尾宗房」の名で二句入集。俳書への初入集。
○元政「扶桑隠逸伝」を刊行する。(かれは母を連れ身延山詣でに甲斐に来ている。)
**寛文 五年(一六六五)

松江重頼、秋に風虎を磐城に訪ねる。

▼芭蕉、二十二才 十一月十三日、蝉吟主催の「貞徳翁士二回忌追善百韻」に一座する。連衆は、蝉吟・季吟・正好・一笑・一以・宗房、(ただし季吟は脇句を贈ったのみ。)
◇大坂天満宮連歌所宗匠西山宗因、初めて俳諧に加点。

寛文 五年(一六六五)

三月、似船、『蘆花集』を刊行し、以後京俳壇で活躍。

一 一月、『雪千句』刊、宗因を大阪俳壇の盟主に据える。

芭蕉、蝉吟主催貞徳翁一三回忌追善百韻に一座。

『書初集』『小倉千句』『小町躍』『西国道日記』

『四十番俳諧合』『天神の法楽』『俳譜談』『都草』

『連歌新式増抄』

七月、諸大名の人廃止。この年、山鹿素行『山鹿語類』成。

寛文 六年(一六六六)

三月、西鶴、可玖『遠近集』に初入集。

九月、重徳『誹諧独吟集』刊。

重徳は、以後俳諧出版書として新風を援助。

『東帰稿』『正友千句』『名所方角抄』『夜の錦』

歿蝉吟二十五才。

三月、了意『伽婢子』刊、怪異小説流行を招来。

内藤風虎の『夜ノ錦』集成る。

●四月二十五日、蝉吟没する(二十五才)。


▼芭蕉発句 

二十三才、内藤風虎編『夜の錦』に発句四句以上入集

(『詞林金玉集』は『夜の錦』より引用)。

  年は人にとらせていつも若夷    (千宜理記)
 ・年や人にとられていつもわかゑびす (詞林金玉集)
   *号 伊州上野松尾氏

京は九万九千くんじゅの花見哉   (詞林金玉集) 

  花は賤(しづ)のめにもみえけり鬼莇(詞林金玉集)
  時雨をやもどかしがりて松の雪   (続山井)
   *号 いが上野松尾氏 宗房
 ・時雨をばもどかしがりて松の色   (詞林金玉集)
       ・この項『芭蕉俳句集』中村俊定校注 岩波文庫刊







▼芭蕉の生まれと周辺

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芭蕉の生まれと周辺
   この項(「松尾芭蕉」昭和36年刊・阿部喜三男氏著)


 素堂も芭蕉も江戸で活躍する以前の動向は定かではない。それは阿部氏の「松尾芭蕉」の展開で理解できる。
*生まれた年

芭蕉の生まれた年は、その没年の元禄七年(五十一歳説・1694)から逆算して、正保元年(1644)とされる。ただし、門人の筆頭其角は五十二歳とし(自筆年譜)、他に五十三歳とする説もあるが、同じく門人の路通(「芭蕉翁誕生記」)や許六(「風俗文選」)・土芳(「蕉翁全伝」)らが五十一歳とし、芭蕉自身が書いたものの中にもこれがよいと思われるものがあるので、享年は五十一歳と推定されるのである。

正保元年は寛永二十一年が十二月に改元された年であるから、寛永二十一年生まれとすべきだという説もあるが、生まれた月日については推測できる資料はない。

ちなみに、この年は第百十代後光明天皇、三代将軍徳川家光の時代であるが、俳壇では中心人物松永貞徳が七十四歳になっていて、その俳論書『天水抄』の稿を書きあげた年である。


*偉人伝説

芭蕉に限ったことではないが、偉人の伝記にはその賛仰・顕彰の気持から生ず余計な詮索や付会、伝説・異説がつきまとう。

たとえば、僧文暁編著『俳諧芭蕉談』『芭蕉翁反故文』(一名、花屋日記)『次郎兵衛物語』『凡兆日記』などは有名だが、虚構的作品。

*芭蕉伝記いろいろ

芭蕉伝書といわれる『芭蕉翁二十五条』・『桐一葉』『幻住庵俳諧有也無也関(うやむやのせき)』などの、俳論書あるいは作法書も信じられない。

『翁反故』は二百二十余通を含む「偽書簡集」。芭蕉の書簡で信用できるものは今のところ百五十通ほどであるが、あやしいものの数は、「翁反故」も含めて、その三倍強ほども管見に入っている。

発句についても頴原退蔵校註.山崎喜好増補『芭蕉旬集』(『日本古典全書』)で見ると、存疑句が五三九、誤伝句が二〇四句もある。その他、詠草・画賛・短冊の類にもあやしいものがおびただしくある。まったく油断はできないが、そうしたものの中にも考慮すべきものがないでもない。こうした資料をかきわけながら、なるべく正確な芭蕉伝を書きたいと思う。


*芭蕉の先祖・家系

芭蕉の先祖・家系については門人支考が享保三年(1719)刊『本朝文鑑』に載せた「芭蕉翁石碑ノ銘」序に「その先は桃地の党とかや」といつたが、同じく門人土芳稿『蕉翁全伝』には記載がない。土芳の門人で伊賀上野(三重県上野市)の藤堂采女(うねめ)家の家臣竹人が師の稿をうけて、宝暦十二年(1762)に書いた『芭蕉翁全伝』には、

「弥平兵衛宗清の裔孫にして、伊賀の国柘植の郷、日置・山川の一族松尾氏也。中頃の祖を桃司(ももじ)某郁証某といふ」
とし、松尾家系略図を載せる。そのころ同じく上野の藤堂新七郎家臣安屋冬李(とうり)が上柘植の富田杜音に送った『蕉翁略伝』にも同様に見え、杜音と交渉のあった蝶夢の『芭蕉翁絵詞伝』に至って、この説が詳説された。


*芭蕉の先祖

あずまかがみすなわち、芭蕉の先祖は『平家物語』『源平盛衰記』『東鑑』(吾妻鏡)などに見える平宗清で、その一族が柘植に住みつき、その子孫になるというのである。どこまで正確なのかはよく測定しかねるが、そのころ以後の芭蕉伝の諸書はこれを認め、宗清の子孫が柘植付近に住んでいることは今でも認められる。それで、芭、蕉が生まれた所は柘植だとする説も出たのである。


*故郷

拓殖は三重県上野市の東北方約十五キロ、芭蕉柘植誕生説は利一ちの『芭蕉翁伝』(「奥の細道菅菰抄」)、竹二坊の『芭蕉翁全伝』(寛政10年)等これを採るものが多いが、この説の弱点は芭蕉白身の書いたものの中にそれと明らかに認められるものが一向にないことである。

路通の『芭蕉翁行状記』(元禄8年)に「芭蕉老人本土は伊賀国上野にあり」と記し、竹人の『芭蕉翁全伝』は「上野の城東赤坂の街に生る」と記す。芭蕉の書いたものも故郷とするのはこの地であった。たとえば、「伊陽の山中」に帰るといい、

「ふるさとや膳の緒に泣く年の暮」(貞享4年)

とよんでいるのは赤坂町の兄の家で、ここに芭蕉の臍の緒も保存されていたのであろう。

家系説も拓殖誕生説も後年の付会だとする説もあるが、厳密に生まれたところを突き止めるためには、松尾家が赤坂町に住み着いた時期究明する必要がある。だが、それは今では明確にはなしがたく、芭蕉のよんでいる故郷の意味で、それは伊賀上野赤坂町と認めていかなければならない。


*芭蕉の父

芭蕉の父名についても異説があるが、与左衛門とするのがよい。土芳の『蕉翁全伝』に「上野赤坂住」とあるから、この人の時からそこに住んでいたと認められる。柘植の福地家系図には慶長のころ上野に移住したとある。慶長といえば、その十三年(1608)に藤堂高虎がその辺の領主となって、上野城およびその城下町を経営し始めたころであるから、そのころ柘植の農士松尾与左衛門が志を抱いて、そこに移住したことを考えても不自然でない。

その父は、貞享五年二月十八日に三十三回忌が催されているので、逆算して明暦二年(1655)同日、芭蕉十三歳の時に死んだと考えられているが、年齢はわからない。冬李の『蕉翁略伝』に「手蹟の師範」と伝えるが、それも確かにはわからず、どこに出仕したという伝えもない。

母は土芳の『蕉翁全伝』に、伊予宇和島、桃地氏女」とあり、竹人の『芭蕉翁全伝』に「伊予の産、いがの名名張に来りて其家に嫁し、二男四女を生す」とある。高虎は伊予から伊勢・伊賀に転封されて来たので、それにつれて伊予から移住して来た桃地(あるいは百地・百司)氏の娘であったろうと考えられている。

天和三年(1683)六月二十日、芭蕉四十歳の時に死んでいるが、年齢はわからない。前記支考の桃地、その他桃青・桃印・桃隣の桃をこの母の縁に考え寄せる説があり、名張より上野に近い友生(とものう)村喰代(おうしろ)の百地家かと考える説もある。

また、元禄七年(1694)九月二十三日付兄半左衛門宛芭蕉書簡に「はは様」とあるので、父与左衛門に権妻(妾)があったかとする説や、これを「ばば様」とよみ、祖母とする説もある。

兄は一人説がよい。この人が手蹟師範だったとの説もあるが、はじめ藤堂内匠家に、のち藤堂修理長定に仕え、上野における松尾家の菩提寺愛染院の過去帳によると、元豫十四年(1701)三月晦日に死んでいる。年齢はわからない。

右の内匠家は食録二千石、津に本城を置いた藤堂藩の伊賀付藩士で、上野城二の丸に邸宅があったが、天和二年(1682)十二月に修理家と交替して、津に移った。修理家は食録千五百石、長定は俳号を橋木と称し、芭蕉の門に遊んだ人である。半左衛門は農家から引続いて修理家に仕えたわけで、後述するが、身分は低いものであったらしい。

この兄に宛てた芭蕉の書簡に、依頼された援助をことわったり(貞享年間八日付書簡)年末の送金ができなかったと謝ったり、(元禄二年正月付書簡)正月の餅代としてもらった金を送ったたり、また去来宛書簡(元禄四年七月十二日付)にもその配慮が見えるので、芭蕉は時々この兄へ送金していたとが考えられる。

この芭蕉の送金はその妻子を兄の家にあずけていたからだと考える説があるが、そのことは(後述もするが)確められない。事情はよくわからないが、兄の家の経済が楽ではなかったことは考えなければなるまい。

愛染院の過去帳によると、半左衛門の妻は宝永二年(1705)に死んでいるが、元禄元年(1688)九月十日付卓袋宛芭蕉書簡に「姉者人」の死が見えるのを、半左衛門の妻のことと考え、過去帳に見える妻は後妻だろうとする説もある。

また、同過去帳に元藤十二年十月十七日没とある松尾又右衛門をも、芭蕉の兄とする説があるが、これは土芳の「蕉翁全伝』によると、半左衛門の子で、それが死んだので、末妹およしを半左衛門の養女としたと考えるのがよいであろう。妹は三人であるが、末妹は上記のごとく、兄の養女となり、一人は片野氏へ、一人は堀内氏へ嫁した。片野氏は家号を幹.彫屋といった伊賀上野、宮の前の商家。芭蕉の妹の夫は通称を新蔵・俳号を望翆といって、芭蕉の門人となり、俳譜をたしなんだ。宝永二年八月二十四日没、九品寺に葬る。同寺の過去帳によると、その妻(芭蕉の妹)は元禄九年に死んでいるらしい。堀内氏も家号を丸屋といった伊賀上野、本町の商家。もと伊予から移住して来た家というから、芭蕉の母方の知りあいであったか。同家の菩提寺西蓮寺の過去帳によると、芭蕉の妹は宝永二年に没したらしい。


**芭蕉の姉

土芳や竹人の記す姉は一人である。その姉は山岸重左衛門、俳号半残に嫁したとの説があるが、半残は芭蕉より年下なので、その父同重左衛門、俳号陽和の妻だったろうとの説が出た。また、山岸家は五千石の藤堂玄蕃家の臣で、陪臣ではあるが三百石前後の家であり、家柄から見て松尾家と格差がありすぎるとし、この婚姻関係を否定する説もある。

芭蕉との関係で半残は最も親しかった伊賀蕉門の一人と見受けられ、妻といっても、このころは正妻ならぬ妻も考えられるから、山岸家との姻戚関係も全然否定し去ることもできないように思うが、土芳はこの姉は早死したと記している。ほかに中尾氏に嫁したとの説もあるが、これも証左なく、この辺はどうもはっきりしていない。 なおまた、芭蕉の書簡中にはこの姉とは思えない別の姉の存在が考えられる点が出てくるので、それについて異母姉を考えたり、次に述べる寿貞の姉や桃印の母を推量したりする説がある。


**寿貞尼

問題の女性、寿貞のことは芭蕉の最晩年の元禄七年の文献上にあらわれてくる。すなわち、

(一)同年五月十六日付曾良宛芭蕉書簡中に、留守にしている深川の芭蕉庵について述べるところに、「寿貞も定而移り居可申」とあり、
(二)、閏五月二十一日付杉風宛中に、病人の寿貞が芭蕉庵中にいることが見え、
(三)六月三日付猪兵衛宛中にも寿貞のことを心配しているが、(四)六月八日付猪兵衛宛中には、寿貞が、まさ・おふう・理兵衛らを残して死んだことが見える。
(五)芭蕉はその七月に寿貞たまの死を悲しんで、「数ならぬ身とな思ひそ魂(たま)祭り」とよみ、
(六)十月の遺言状の中にも、奮の世話をしてくれた猪兵衛の感謝の言葉をのこしている。

そして、後年の文献(「小ばなし」)でではあるが、門人野坡の回顧談中に「寿貞は翁の若き時の妾にて、とくに尼になりしなり。其子次郎兵衛もつかひ被申し由」と見える。

次郎兵衛が寿貞の子であることは、其角の「芭蕉翁終焉記」の中にもすでに書かれているが、その次郎兵衛は元禄三年には江戸にいたと認められる(曾良芭蕉宛書簡)から、寿貞もそのころには江戸にいたらしい。ほぼ以上のような文献から、寿貞に関する諸説があらわれている。すなわち、

(一)芭蕉の故郷亡命説に結んで、藤堂家出仕時代に関係の生じた女性とする説。
(二)芭蕉の「閉関之説」から考えて、芭蕉の遊蕩時代に関係の生じた玄人女(遊女)とする説。
(三)次郎兵衛を芭蕉との間の子とする説。
(四)次郎兵衛のみならず、理兵衛・まさ・おふうも芭蕉との間の子とする説。
(五)理兵衛は寿貞の父、まさ・おふうは芭蕉と別れた後の夫との間の子とする説。
(六)猪兵衛を寿貞の姉の夫とする説。
(七)次郎兵衛も芭蕉との間の子ではないとする説。
(八)寿貞は後述する桃印の妻であったとする説。
(九)まさ、が桃印の妻、おふうが猪兵衛の妻であったとする説。
(十)寿貞はその子らと共に長く芭蕉の故郷の兄の家に同居していたとする説。
(十一)寿貞は元禄六年には再建の芭蕉庵に同居していたとする説。
(十二)右の芭蕉庵同居説を否定する説。
(十三)門人野坡談を信じ得ぬとし、芭蕉との妻妾的関係を認めない説。
その他、詳細に及んではここに書きつくせない。


**若き時の妾

故郷上野の念仏寺の過去帳、二日の条に「松誉寿貞中尾源左衛門」とあるのが指摘され、寿貞は元禄七年六月二日没、芭蕉在郷時代の女性と考える説がことに有名であるが、今日ではその説にも弱点があげられて来ている。すなわち、諸説紛々としていずれとも決しがたいが、上記の文献類から、寿貞は芭蕉との特別な関係があった女性とは認められよう。野坡談の「若き時の妾」というのは、同談の他の部分から類推しても、ほぼ信じてよさそうであり、芭蕉の在郷時代、あるいは江戸に下った初期のころには、正妻とまではしなかったであろうが、特に親しんだ女性が在存したことを考えても不自然ではない。

だが、その女性が家族的に関係を持ち続けたとまで考え得名根拠はなはだ弱い。おそらく、関係に中断があり、芭蕉が有名になり、生活も安定した晩年のころに再び芭蕉の周辺に近づくようになり、芭蕉にも特別な愛着があったし、寿貞も尼になり病身になっていたので、元禄七年の留守になる芭蕉庵にはこれを入れることも許したのであろうが、そのころの関係は、「若き時の妾」という以上ではなかったと思われる。


**次郎兵衛

それで、次郎兵衛が寿貞の子だったからといって、すぐに芭蕉の子でもあったと考えることも承認はしかねる。芭蕉は晩年の芭蕉庵生活では次郎兵衛を身近かに置き、これを使い、元禄七年の最後の旅にはこれを同伴し、途中この若者を気にして労わったさまは、その旅から猪兵衛や曾良へあてた書簡中によくうかがわれる。この辺から芭蕉の父としての姿を読みとろうとする説もある。しかし、次郎兵衛のことを記した門人らの記事中には、これについて敬称が全く用いられていない。次郎兵衛は芭蕉の臨柳身終の病床にも侍し、葬式にも参列しており、そのことを特に其角も記しており、かつ、遺言状等を江戸へとどける使者ともなっているが、支考は「芭蕉翁追善之日記」に「従者二郎兵衛……この者はみな月の頃母を失い、此度は主の別をして」と記している。それに、芭蕉没後の次郎兵衛の消息は消えてしまう。多くの門人が非常に敬慕した芭蕉の子であるならば、こうした状態はおかしい。次郎兵衛は芭蕉の子とは見なしがたい。まして、まさ.おふうや理兵衛もそうである。結局、芭蕉には妻子があったとは認めがたい。後述するように、かれが多くの人々から尊敬された理由の根本には、よく孤独.貧寒な生活を堅持したという点のあったことも考慮せずにはいられない。


**猶子、桃印

桃印については芭蕉自身が元禄六年四月二十九日付、荊口宛書簡中で「猶子」と書いており、同年三月二十日ころの許六宛申に、「旧里を出て十年余二十年に及び候て、老母に二度対面せず、五~六才にて父に別候て、其後は拙者介放にて三十三に成候」といい、三月十二日付公羽宛中にも「手前病人」として見え、肺結核で、その春に芭蕉庵内で死んだ事実が認められる。

猶子には養子・義子の意もあるが、ここは甥の意であろうか。すると、その父母のことも考えねばならないが、それは明らかでない。ともかく右の芭蕉の手記によると、桃印は寛文十年(芭蕉十八歳のとき)に生まれ、同五~六年に父と別れ、延宝二年ころ(二十年前)故郷を離れ、以後芭蕉が世話をした。別に元禄三年に江戸にいたことがわかるが(曾良宛芭蕉書簡)、その桃印が同六年春に芭蕉庵で死んでいるのである。


**猪兵衛・桃隣

某その他、芭蕉の縁辺で考えられる人に桃隣がある。

天野氏・通称を藤太夫といい、太白堂・呉竹軒、晩年は桃翁と号した。芭蕉と同郷人で、芭蕉より年長であるが、芭蕉の門に入り、俳人として活躍した。また、前出した猪兵衛は伊兵衛とも書き、その山城の加茂にあった実家を芭蕉もたずねているが(元禄七年閏五月二十一日付書簡)、「真澄の鏡」によると、芭蕉の甥であり、一時杉風方の番頭をつとめたが、のち高山ビジの世話で武士となり、松村真左衛門と名乗り、本郷春木町(文京区)に住んだという。『芭蕉翁真跡集』などを著わした桃鏡はこの人の子孫だという。なお、望翠。半残のことは既述したが、故郷で芭蕉を親しくかこんだ俳人たちの中には、土芳・雪芝・卓袋。意専らにも縁辺関係が考えられるという。

こうした点は上記のようにまだ不明なところが多いのであるが、芭蕉伝にとっては見過しえないことであるので、あえてこの序章に述べておくのである。(以下略)


 一方素堂について最も多く引用紹介されている『甲斐国志』の素道の項については多くの間違いが指摘され、その間違いを訂正することなく今日まで紹介され碑まで建立されている。

素堂家墓所   

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九、素堂家墓所 
(1)素堂の墓所感応寺(天王寺)との関連。
(2)甲府尊躰寺の山口家墓所について、荻野清氏の調査では、

三十基にあまる山口一家の墓標が今も残されていて、その中でも、最も古いのは、寛文十三年六月七日、江岸詠月禅尼 と誌されたものであるという。

(2)小高敏郎氏は、この、江岸詠月禅尼 なる人物が素堂の妻だ

とすれば、素堂は寛文十三年(三十二才)、若くして妻を喪ったことになるといった。 

…この項「山口素堂の研究」筑波大学、黄東遠氏著より。      

(3)甲府尊躰寺の山口家墓所について調査の結果、前述の荻野氏の調査とは大きな違いが判明する。山口家の正面の墓石は山口勝(藤)左衛門と読める刻字がある。肝心な主市右衛門の墓石が無い。勤番士萩原氏の刻字のある墓石がある。

正面元禄三年 皈眞 光誉清意禅定尼 冥位
 側面老母 山口市右衛門尉建立
山口氏勝(藤)左衛門 天和三年

施主山口氏の刻字墓石 年不詳

魚町山口氏の刻字墓石 貞享元年
施主山口氏の刻字墓石 宝永六年
素堂の父母の墓石は不明


 この項については別記する。間単に説明すると、この墓所の古い墓石は寄せ集め墓石で甲府勤番士や他家のものもある。素堂の生家とされる「山口屋市右衛門」などの名前も無く、「側面老母 山口市右衛門尉建立」の刻字も後世のものとも考えられる。

いずれにしてもこの墓所と素堂の関与は無い。

素堂&芭蕉 和漢連句 元禄五年

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  1. 破風 ( はふ ) ( くち )に日かげやよはる夕すゞみ          芭蕉
  2. レバ蝿避                                                   素堂
  3. 合歓醒馬上                         素堂
  4. かさなる小田の水落すなり                       芭蕉
  5. ( しろ )金気ヲ                     素堂
  6. 露繁ケテ玉涎                        素堂
  7. 張旭がもの書きなぐる醉の中                      芭蕉
  8. ( とばり )を左右に分るむら竹                    芭蕉
  9. 偸鼠ヲ                     素堂
  10. ふるきみやこに残る御霊屋 ( たまや )                  芭蕉
  11. くろからぬ首かき立る ( つげ ) ( ばち )         芭蕉
  12. 乳をのむ膝に何を夢みる                                  芭蕉
  13. ( ゆるく )風早浦                              素堂
  14. 日高川                                                素堂
  15. 顔ばかり早苗の泥によごされて                                     芭蕉
  16. めしは煤けぬ蚊やり火の影                                   芭蕉
  17. メシム三社 ( なら )                           素堂
  18. 韻使メス五車 ( いしつえと )                              素堂 
  19. 花月丈山 ( さわが )                                      素堂 
  20. 篠を杖つく老のうぐひす                                      芭蕉
  21. 鮎一寸                                           素堂
  22. 箕面の瀧の玉む簸らん                                     芭蕉
  23. 朝日かげかしらの鉦をかがやし                               芭蕉
  24. 風飧唯早 ( かわく )                                     素堂
  25. よられつる ( きび )あつく秋立て                     素堂
  26. 内は火ともす庭の夕月                                       芭蕉
  27. 籬顔孰與 ( いつれ )                                  素堂
  28. ( しぐれの )浦目潜焉 ( なみだぐむ )           芭蕉 
  29. 蒲団着て其夜に似たる鶏の聲                                素堂
  30. わすれぬ旅の数珠と脇指                                    芭蕉
  31. 山伏山平地                                                  素堂
  32. 番門小天                                                               素堂
  33. 鷦鷯窺水鉢                                            芭蕉
  34. 霜の曇りて明る雲やけ                                        素堂 
  35. 興深き初瀬の舞臺に花を見て                                  芭蕉
  36. レテ蛙仙                                         素堂
 
元禄五年八月八日終
                                                                                                                                                    

『大阪獨吟集』(延宝3年 1675)

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『大阪獨吟集』(延宝3年 1675)


日本俳書体系(大正15年 1926) 神田豊穂氏著 一部加筆


外題


 談林派を起した大坂の西山宗因はもと武士で、遁世後は禅もあり、里村流の連歌を好くしたが、『和蘭丸二番船』の獨吟、「今筑波や鎌倉宗鑑が犬桜」の発句でも解るように、頗る洒落な心境で、どうせ戯れの俳諧をするなら貞門の掟を守るより、宗鑑の『犬筑波』を常世風に行かう程度の野心を持ってゐたに過ぎないから、世間に名前の出るのも割合に後れて、談林派がつひに貞門を俚壓倒する勢ひの延宝時代には、もう七十の坂を越えた老翁であった。が、流石に『大坂独吟集』の評語を見ても頷かれるように、注も若い気持で言葉も洒落れたもので、老人めいた一徹な頑固なところはちっともない。


その芸術的にいつも水々しい若さ、鋭さ、奇抜さ、そして気分の新しさが、奔放な談林調となって流行したので、『大坂獨吟集』はまさに宗因一派の頂点にあらわれたのである。集中の作者は彼の早口で覇気のばかに強い西鶴の鶴永や、女人形の来山の義父山平や、幾音や、重安や、悦春や孰れにしても大坂方の中堅分子で、その一人々々が技量の限り見せた百韻十巻に對し、宗因がすべて引墨して、ねんごろな句評を施したものなので、一巻といへども迂潤に見落されない代表俳諧である。 

外題の下に西山宗因点取とあるのは、宗因がその意に叶った句のかしら平點及び長點を引掛けた巻々をさしたので、後世行はれた點〆落巻のごとき坐興式の點取の事ではないであらう。その平點はついと斜めに軽く筆を落したもので、長點ははその上にさらにちょんと點を置いたもので以て、點の高下を示し、巻毎に愚墨何句、そのうち長何句と通算して記すのが通例なので、宗因もそれに倣つてゐる。點数の多寡からいへば未學の六十二句・長廿六句が最高で、悦春の四十八句・長廿一句がどん尻であるが、そればかりで人物価値を判する譯にはいかない



『談林十百韻韵』田代松意(延宝3年 1675)

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『談林十百韻韵』田代松意(延宝3年 1675)
日本俳書体系(大正15年 1926) 神田豊穂氏著 一部加筆
 
外題
 大坂で成功した宗因は飛体といって軽蔑するらしい江戸の風聞に接して、その新俳諧を理解させるため延宝二年(1674)江戸へ下って来た。その前、宗因派の八九人が鍛冶町にときどき命令して、
「此席をば我等ごときの俳諧談林とこそ申すべけれ」
といひ合せ、世間の方でも談林と呼び慣れはした同志が、宗因の下向を
「是ぞ幸ひ渡に舟と」喜んで招待し、百韻の巻頭句を望んだので、
「されば爰に談林の木あり栴の花」
と如才なく煽て、同志の雲柴は
「世俗眠をさますうぐひす」
とさっそく脇句を附けて一巻成就した。その
「次で而白きに人―登句せよ」とてそゝのかし合ひ、百韻十巻を纏めたのが即ち『談林十百韵』である。重安の『糸屑』に宗因は同年の夏、京へ向けて出立した事が見えるから、此の一座で出来た貢ら巻には助言もし、添削もしたらうが、余巻残らず捌いたのではあるかい。開板までの仕事は多分松意が引受けてやったのであらう。松意は田代氏、純江戸人ではないが、大坂に寓居した時代宗因風に心酔し、その急先鋒として江戸に来てゐたのであるらしい。十百韵以後は檀林軒とさへ改號して談林流行の主要な人物となってゐる。
 『談林十百韵』には作者の抱負がなかなかあったようで、跋に
「此連衆の内に一両年つとむる作者三四人加わる」のは事実だが、たとへ俳道に多少の未熟者が同坐するからといって、「年老の人々に敢て、をとるべ含にあらす」と傲語する風に出方が高飛車であったので反響も大きく、談林といへば、直ちに宗因風の事と頷かせるように全国的に波及したのであった。延宝二年の初校本が江戸から出て、すぐ翌年は京都の書肆寺田から別様式の根本仕立で、再校される勢ひで、団々へ似指して行った。かうした書史的方面から考察しても『談林十百』は、軽視し難い反撥力を持つてゐるので、常時の人々を激しく刺戟したであらう事は疑ひない。

**【参考資料】素堂以前の俳人たち 「発句」 **

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**【参考資料】素堂以前の俳人たち 「発句」 **
 
 
**松永貞徳発句**『犬子集』他
ありたつたひとりたつたる今年哉 
鳳凰も出でよのどけきとりの年
春立つは衣の棚のかすみかな   
花よりも団子やありて帰る雁
ゆきつくす江南の春の光り哉   
雪月花一度に見する卯木哉
高野山谷のほたるもひじり哉   
七夕のなかうどなれや宵の月
歌いづれ小町をどりや伊勢踊   
酒や時雨のめば紅葉ぬ人もなし
 
**松江重頼発句**『犬子集』他
春の日の威光をみする雪間哉  
咲きやらで雨や面目なしの花
初花になれこ舞する胡蝶かな  
やあしばらく花に対して鐘つく事
順礼の棒ばかり行く夏野かな  
此度はぬたにとりあへよ紅葉鮒
芋豆や月も名をかへ品をかへ  
生魚の切目の塩や秋の風
 
* 安原貞室発句 **『正章千句』『一本草』『玉海集』他
黄鸝(うぐいす)も三皇の御代を初音かな
歌いくさ文武二道の蛙かな   
葉は花の台にのぼれ仏の座
これはとばかり花の吉野山 
いざのぼれ嵯峨の鮎食ひに都鳥
松にすめ月も三五夜中納言   
そちは何を射げきの森のよるの蝉   
小便の数もつもるや夜の雪   
涼し溝のかたまりなれや夜半の月   
 
** 北村季吟発句 **『続連珠』『山の井』『師走の月夜』他
一僕とぼくありく花見哉  
こゝぞ京のよしの能見よ地主の花
太郎月につぐ紅梅や次郎君   
めづらしや二四八傑のはとゝぎす
夏をむねとすべしる宿や南向き 
女郎花たとへばあはの内侍かな
閑なる世や柊さす門がまへ   
咲くやこの今を春べと冬至梅
年の内へふみこむ春の日足哉

『虎渓の橋』井原西鶴 延宝六年(1678)

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『虎渓の橋』井原西鶴 延宝六年(1678)
 
日本俳書体系(大正15年 1926) 神田豊穂氏著 一部加筆
 
大坂の西鶴と江戸の松意とが、ある日京は智恩院前の葎宿亭に寄り合ひ、「是はと三人笑ひ」ながらの三吟三百韻。一日の中に巻き上げて、「花はなき桜木にちりばめける」といふのが、『名残の友』に書き残した西鶴の思ひ出で、『虎渓の橋』に就いてのおほよそはこれで推諒されるが、その時松意は「俳諧修行のためとて遥々上り」宿を宿として、その三百韻以外にも「京の作者残らず參會して」頗るさかんな俳席がもよほされたらしい。
同じ京の作者ながら高政をこの一坐に引き入れたならば、まだずっと面白い幕が打てたかも知れない。大坂・京・江戸を通じての談林三人男は西鶴・高政・松意であるから三人同坐して、西鶴が阿蘭陀張りで異体な前句を出せば、高政は惣本寺一流の珍重々々であしらひ、殺意は二人の仲を取り持つ事になったのであろう。虎渓三笑の故事はただ外題に借りたまでで本文に関係ないし、この三吟を開版するにも、西鶴一人の才覚であったようで、附録の歌仙はその二人とは無交渉な対馬の俳人定俊と西鶴の両吟である。「又の日は対馬の人にさそはれて」嵯峨野をさまよひ、瀧口の奮跡にたゝずんで懐古の情を歌仙につゞった前文がこれに附いてゐる。

素堂追善 内藤露沾

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かつしかの素堂翁は、やまともろこしうたを常にし、こと更俳の狂句の達人なり。おしひかな、享保初のとし八月中の五日、終に古人の跡を追いぬ、予もまた志を通ること年久し。しかあれど猶子雁山、をのをの追悼の言葉を桜にお集んとて予に一序を乞。おもふに彼翁、周茂叔が流に習ふて、一生池に芙蓉を友とせしは、此きはの便りにもやと、筆を染るものならし。
 

遊園軒
  月清く蓮の実飛で西の空  露沾

素堂追善 甥、黒露(雁山)

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 追悼

狙公をうしなふて朝三暮四のやしなひだにあたはず。
猿引にはなれてさるの夜寒かな  雁山

素堂追善 杉風

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素堂翁は近きあたりに軒を隔て、月雪花鳥のころは、互に心を動し、句をつづりけるに、時こそあれ、仲秋中の五日に世を去て筆の跡を残す。
  

 枕ひとつ今宵の月に友もなし  衰杖(杉風)

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