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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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芭蕉庵再建 その時素堂は

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芭蕉庵再建
 
 甲斐に佗しい日々を迭つていた芭蕉は、天和三年の夏五月に江戸に帰った。江戸にいた門人等の懇請に依ったものであろう。大火後の江戸の跡始末も一片付した頃である。芭蕉は江戸に帰りはしたが、芭蕉庵は焼失していたし、門人の家などで厄介になっていたかも知れぬ。芭蕉の境遇に門人達はけ大いに同情したであろう。そこで有志の物が協力して芭蕉庵を再興することになった。その勧進帳の趣旨書は山口素堂(信章)が筆を執った。 成美の『随斎諧話』に
 
…上野館林松倉九皐が家に、芭蕉庵再建勧化簿の序、素堂老人の真蹟を蔵す。所々虫ばめるまゝをこゝにうつす。九皐は松倉嵐蘭が姪係なりとぞJ
  とて次の文を載せている。
 
  …芭蕉庵庵烈れて芭蕉庵を求ム。(力)を二三子にたのまんや、めぐみを数十生に侍らんや。廣くもとむるはかへつて其おもひやすからんと也。甲をこのます、乙を恥ル事なかれ。各志の有所に任スとしかいふ。これを清貧とせんや、はた狂貧とせんや。翁みづからいふ、たゞ貧也と、貧のまたひん、許子之貧、それすら一瓢一軒のもとめ有。雨をさゝへ風をふせぐ備えなくば、鳥にだも及ばす。誰かしのびざるの心なからむ。是草堂建立のより出る所也。
   天和三年秋九月竊汲願主之旨 濺筆於敗荷之下山 素
 
  素堂文集の文とは多少の異同がある。()の中は同文集に依って補うた。
  かやうにして芭蕉庵再建の奉加帳が廻されたので、知己門葉々分に応じて志を寄せた。その巨細が『随斎諧話』に載っている。やゝ煩わしいことではあるが、転載して当時を偲ぶよすがとする
 
   五匁柳興三匁 四郎次 捨五匁 楓興
    四匁長叮四匁 伊勢勝延 四匁 茂右衛門
    三匁傳四郎四匁 以貞赤土 壹匁 小兵衛
    五分七之助二匁 永原愚心 五分 弥三郎
    五匁ゆき五匁 五兵衛 二匁 九兵衛
    四匁六兵衛三匁 八兵衛 五分 伊兵衛
    二匁不嵐一匁 秋少
    二匁不外一匁 泉興 一匁 不卜
    一匁升直五匁 洗口 五分 中楽
    五分川村半右衛門一銀一両 鳥居文隣 五匁 挙白
    五分川村田市郎兵衛三匁 羽生調鶴 五分 暮雨
 
  次叙不等
 
    二朱嵐雪一銀一両 嵐調 一銭め 雪叢
    三匁源之進一銭め 重延 よし簀一把 嵐虎
    一銭め正安五分 疑門 一銭め 幽竹
    五分武良二匁 嵐柯 一匁 親信
   (不明)嵐竹五匁(不明) 
    破扇一柄嵐蘭大瓠一壺 北鯤之
 
  かやうな喜捨によって、芭蕉庵は元の位置に再建された。再建の落成は冬に入ってからのことであたろう。『枯尾華』に、
   それより、三月下人ル無我 といひけん昔の跡に立帰りおはしばし、人々うれしくて、焼原の舊艸にに庵をむすび、しばしも心とゞまる詠にもとて、一かぶの芭蕉を植たり。
    雨中吟
  芭蕉野分してに盥を雨を聞夜哉  (盥=たらい)

素堂の俳諧感

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素堂の俳諧感
 
素堂の俳諧感が遺憾なく現れているのが貞享四年(1687)其角の編んだ『続虚栗』の序文である。
これは一部の識者も認めている「不易流行」論は、芭蕉に先がけ素堂が唱えたことである。
芭蕉没後の門弟たちの「芭蕉俳論」の根底をなす俳論の裏側には素堂の考えが横たわっていたのである。
 『続虚栗』の序は本文を参照していただくこととするが、その旨は、
 
風流の吟の跡絶えずに、しかも以前のような趣向ではない。……今様な俳諧にはただ詠じる対象を写すだけで、感情の込められているものが少なく情けないことである。
昔の人の云うように、景の中に情けを含むこと、その一致融合が望ましい。杜甫の詩を引用してそれは「景情の融合に在る」と説き、和歌や俳諧でもこうありたい。
詩歌は心の絵で、それを描くものは唐土との距離を縮め吉野の趣を白根にうつすことにもなり、趣を増ことにもなり、詩として共通の本質があるのだ。例えば形態のない美女を笑わせ、実体のない花をも色付かせられるのだ。
人の心は移り気で、終わりの花は等閑になりやすい。人の師たるものは、この心をわきまえながら好むところに従って、色や物事を良くしなければならない。
 として、其角が序を求めた事に対して、『虚栗』とは何かと問い掛け、序文は余り気が進まないので断りたいが、懇望するので右のとりとめのないことを序とも何なりとも名付けよと与えれば頷いて帰った。
 
 これは素堂が其角だけでなく芭蕉に対しても説いていることが理解でき、厳しい口調となっている。序文は漢詩や和歌それに俳諧も同じ文学性を持っており、景情の融合の必要性を指摘して情(心)の重要性を説いたものである。振り替って見れば、素堂は延宝八年の『俳枕』序に於いて、古人を挙げて、生き方の共通性を「是皆此道の情」と表現し、漢詩・和歌・連歌・俳諧の共通の文芸性は、この道の本質として、旅する生き方が重要な要素となって、風雅観が生まれると説いたのである。

山口素堂 『冬かつら』杉風編。芭蕉七回忌

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山口素堂 『冬かつら』杉風編。
芭蕉七回忌追善集 素堂七唱 素堂59才 
元禄十三年(1670)
 
ことしかみな月中二日、
芭蕉翁の七回忌とて、
翁の住捨ける庵にむつまじきかぎりしたひて入て、
堂あれども人は昔にあらじといへるふるごとの、
先思ひ出られた涙下りぬ。
空蝉のもぬけしあとの宿ながらも、
猶人がらなつかしくて、
人々句をつらね、筆を染て、
志をあらはされけり。
予も又、ふるき世の友とて、七唱をそなへさりぬ。
其一 
くだら野や無なるところを手向草
 其二 
像にむかひて紙ぎぬの佗しをままの佛かな
 其三 
像に声あれくち葉の中に帰り花
 其四  
翁の生涯、
鳳月をともなひ旅泊を家とせし宗祇法師にさも似たりとて、
身まかりしころもさらぬ時雨のやどり哉とふるめきて、
悼申侍りしが、今猶いひやまず。
  時雨の身いはば髭なき宗祇かな
 其五
菊遅し此供養にと梅はやき
 其六 
形見に残せる葛の葉の繕墨いまだかはかぬがごとし
  生てあるおもて見せけり葛のしも
 其七
予が母君七そじあまり七とせ成給ふころ、
文月七日の夕翁をはじめ七人を催し、
万葉集の秋の七草を一草づつ詠じけるに、
翁も母君もほどなく泉下の人となり給へば、
ことし彼七つをかぞへてなげく事になりぬ。
  七草よ根さへかれめや冬ごもり
 
 
さびしきまゝに  芭蕉
長嘯隠士の曰、客は年日の閑を得れば
主は年日の閑をうしなふと。
素堂此こと葉を常にあはれむ。
 
朝の間雨降。
今日は人もなしさびしきまゝに、
むだ書して遊ぶ。其詞
 
  喪に居るものは悲しみをあるじとし
  酒を飲ものはたのしみを主とし
  愁に住すものは愁をあるじとし
  徒然に任するものはつれづれを主とす
 
さびしさなくばうからまし と、
西上人のよみ侍るは、さびしさを主なるべし。
叉よめる、
  山里にこはまた誰をよぶこ鳥
   ひとりすまんと思ひしものを
 
獨すむほどおもしろきはなし。
長囁隠士の曰、客は年日の閑を得れば
主は年日の閑をうしなふと。
素堂此こと葉を常にあはれむ。
予も叉、
  うき我をさびしがらせよかんこ鳥
とは、ある寺に端居していかし句也。
暮方、去来より消息す。
乙州が武江より帰るとて、
朋友・門人の消息どもあまたとどく。
其中曲水が書状に、
予が捨てし芭蕉の舊跡を尋て宗波に逢よし。
  むかし誰小鍋あらひしすみれ草
叉云
我住むところ、弓杖二丈ばかりにして楓一本、
外は青き色を見ずと書て、
 
  わか楓茶色になるも一さかり
嵐雪が文に
  狗脊(ぜんまい)の薼にえらるゝわらび哉
  出代やおさな心におもひもじ
  (嵯峨日記)
 

素堂の俳諧 寛文時代

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素堂の俳諧
  • 寛文五・六年 
    ・荻野清氏の説だと、この頃に素堂は上洛した形跡があるとし、大和に遊んだとされる。
     
  • 寛文七年(1667
    伊勢の加友編「伊勢踊」板行。山口信章五句人集。信章名での初出である。加友は伊勢松坂の樹教寺中の法樹院住職で、般舟庵・春陽軒と号し、初め杉田望一(寛永七年六月没)の門人で、後貞門子となる。晩年は同国山田に移り住んだ。寛文七年『伊勢踊」集編集のため、江戸の高島玄札を頼り下った。発句の募集は一年程前から始めたらしい。同年十一月、京都で板行し翌八年になり刊行となる。
〔俳家大系図外〕
 加友は同郷の玄札とも親しかったし、京都の季吟を度々訪ねた事が、季吟の紀行文に見える。「伊勢紀行」(貞享四年五月十一日条)林照庵院主加伝に招かれた時の事でヽ加伝は「加友法師の弟子也。加友は京にのほりて拾穂亭にも尋来て、たひたひ俳諧などせし人なれは」とある。
 素堂と加友との関係は、加友が寛文七年に江戸に来て滞在した折に、撰集の手助けを素堂がしたと思われる。
 
  • 寛文八年(1668)28才
「伊勢踊」集
   伊勢の加友が帰国の刻馬のはなむけに
    かへすとて名残おしさは山々田
この頃の素堂は高島玄札・石田未得・未琢・野々口立圃・高井立志等貞徳門の俳匠にせっしていたと考えられ、寛文五・六年頃から春陽軒加友にも接触していたとも見られ、この頃には北村季吟・西山宗因とも繋がりを持った様である。
 
  • 寛文九年(1669)29才 
    ・「一本草」集 石田未琢編 信章で入集。
    ▽素堂、『一本草』発句一入集。未琢編。
    (俳号、信章)
    化しかハり日やけの草や飛蛍    信章
    【未琢】生(?)~天和二年(1682)歿。年七十余か。
            本名、石田要之助。江戸の人、未得の息。
【註】石田未得(いしだ みとく)とは - コトバンク

江戸時代前期の俳人,狂歌作者。通称,又左衛門。別号,乾堂、巽庵。江戸の人で、両替商。草創期江戸俳壇の大立物の一人で、徳元、玄礼、加友、卜養とともに「江戸五哲」 と称された。息子未琢 (みたく) の編『一本草 (ひともとぐさ) (一六六九) は未得の遺志 による。未琢は未得の長男で神田鍋町に居住していた。未得はこの年七月に没した。

  • 寛文十一年(1671)30才
・蛙井集
姫氏國や一女をもとの神の春
 
  • 寛文十三年(1673)32才
    ・「女夫草」集 立儀編 信章で人集

    ▽素堂、山口清勝編『蛙井集』に発句一入集。

    (俳号、信章)
         姫氏國や一女をもとの神の春   信章
    【清勝】山口清勝についての資料は少なく、この『蛙井集』は当時の軽口俳諧への非難を述べている。号は「自足子」を名乗っている。
    乾裕幸氏著『俳諧師西鶴』に掲載の『遠近集』の作者名に、清勝山口氏九良兵衛の名が見える。西鶴が延宝八年(1680)に興行した、『大矢数』(西鶴独吟四千句)の役人中の脇座十二人の中に、山口清勝の名が見えるが、素堂との関係は未詳。
素堂は、寛文十年以降に内藤風虎の俳諧人の集まり「桜田サロン」に顔を出すようになった。恐らく「夜ノ錦」の締め切りに間に合わなかった句を集めて「桜川集」の編集が始まった事に関係があると思われる。信章名(号)に付いては前に触れた通り、本名であるか雅号であるか不明である。「俳諧睦百韻」掲出の点から見ると雅号と考えられる。林家の儒学面での号(子晋)ではなかったかと推測する。

★延宝二年(1674)33才。季吟編。《信章歓迎百韻》

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★延宝二年(167433
・「廿回集」北村季吟編
素堂……『廿會集』入集。季吟編。《信章歓迎百韻》(抜粋掲載)
霜月三日江戸より信章のぼりて興行(付句十一 抜粋)
1 いや見せじ富士を見た目にひえ(比叡)の月  季吟
2 世上ハ霜枯こや都草            信章
3 冬牡丹はなハだおしゝはやらせて      湖春
10 下戸ならぬこそ友にはよけれ        季吟
11 打わすれ橋はこえても法ハこえじ      信章
12 駄賃に高る此札の辻            湖春
18 月より申しに夕月の雨           信章
19 舟待のあくびやちとのふるらん       季吟
29 買得たるこそハ宝の市ならめ        信章
36 うつりかは於る和歌の風俗         信章
43 人形はとくたみのきすつくろハれ      季吟
44 吟味はさぞな上留りのふく         湖春
45 をのが自姿うなづきよれる伴部やに     信章
46 やゝともすれば例の手ぐさミ        友部
55 七日迄るやむ心のうら嶋に         季吟
56 涙の海しやわつれなき陰          信章
57 売覚て枕の下やさがすらん         湖春
58 刀があらばやらじまおとこ         可全
59 貧なりと我をみすつるうらめしさ      正立
63 春の夜の月に千金かたじけな        季吟
64 敷物ぞな身円座がたつき          湖春
65 風流は誰わらふぞの東山          正立
66 沖とろりとつゆでたれに          家英
67 汲はこぶ塩らしけなるなりかたち      信章
68 いたゝく桶のそこ忘んぞ思ふ        季吟
69 たつときは高きあしだの羽黒山       可全
77 花に雨はつ神鳴もやミぬとや        正立
78 梢はさけて残る梅が香           湖春
79 春風にかすミの衣ばらりさん        宗英
80 ふる綿なれや去年の白雪          信章
81 山頂連世になし物のつほの内        湖春
82 のむ酒もかなうれへわすれん        季吟
83 まじまじとねられぬ肌のさむしろに     友部
84 ひとりといきを月の夜すがら        宗英
85 四方山のいろいろの事問ひかし       可全
86 来ぬはつハりかもし見捨たか        湖春
87 玉津さも是度のわ後ハかよハさず      信章
88 うらミられたらいかに思ん気や       正立
89 見ていにしもミのきはづき恥かしさ     季吟
93 墨江もはなも一かどわらまほし       可全
94 新宅にての節のふるまひ          信章
95 生壁に正月小袖用捨して          尚光
96 うでまくりたやてんガをうをカく      友部
97 心中のうは気しらるゝいれほくろ      湖春
98 おもふときくも末とぎふやら        宗英
99 本意はありでのうへのくどき事       季吟

100出来ん殿の御代継をまつ          正立

 
【註】素堂の俳諧論 素堂の地位 北村季吟との関係
 
延宝二年(1674)三十三才の十一月に上洛して季吟や子息の湖春らと会吟した。(九吟百韻、二十会集)「江戸より信章のぼりて興行」が示すように、「歓迎百韻」であり師弟関係でないことが理解できる。素堂の動向が明確になってきたのは、寛文の早い時期から風流大名内藤風虎江戸藩邸に出入りをし、多くの歌人や俳人との交友が育まれた。その中でも寛文五年(1665)大阪天満宮連歌所宗匠から俳諧の点者に進出した西山宗因からも影響を受けた。宗因はそれまでの貞門俳諧の俳論は古いとして、自由な遊戯的俳風を唱えて「談林俳諧」を開き、翌六年に立机して談林派の開祖となった。素堂が出入りしていた内藤風虎と宗因の結びつきは、寛文二年の風虎の陸奥岩城訪問から同四年江戸訪問と続き、風虎の門人松山玖也を代理として『夜の錦』・『桜川』の編集に宗因を関わらせた。風虎は北村季吟・西山宗因・松江重頼とも接触を持った。重頼は延宝五年(1677)素堂も入集している『六百番発句合』の判者となっている。
  延宝二年(1674)宗因の『蚊柱百韻』をめぐって、貞門と談林派との対立抗争が表面化して、俳諧人の注目を浴びる中、翌三年五月風虎の招致を受けて江戸に出た宗因は『宗因歓迎百韻』に参加する。この興行には、素堂や芭蕉(号、桃青)も参加する。素堂も芭蕉も共に貞門俳諧を学び、延宝の初年には宗因の談林風に触れて興味を示し、『宗因歓迎百韻』に一座して傾倒していく。四年、芭蕉は師季吟撰の『続連珠』に入集している。芭蕉は季吟より「埋木」伝授されていて門人であるというが、その後の接触は見えない。
素堂は季吟の俳諧撰集への入集はなく、巷間の「素堂は季吟門」は間違いということになる。素堂を北村季吟の系とする書が多いが、この集により門人ではなく、友人もしくは先輩、後輩の関係であることが分かる。この書以後素堂と季吟の直接交流は資料からは見えない。芭蕉にしても素堂も、元禄二年には江戸に出てきているが以後季吟との交流は少ない。
 【註】季吟撰『続連珠』に「信章興行に」と詞書する湖春の附け句が見える。(荻野清氏『元禄名家句集 素堂』)

素堂事績 貞享1年 甲子(1684)43才

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貞享1年 甲子(1684)素堂43才
 
          素堂、『孤松』尚白編。発句二入集。
雨の蛙こは高になるもあはれ也
寒くとも三日月見よと落葉哉
 
【尚白】慶安三年(1650)生、享保七年(1722)没。
本名、江左大吉。近江国大津柴屋町住。医師。芭蕉が「野晒し紀行」の途次、大津に立ち寄った際に入門。『猿蓑』期の芭蕉の新風を理解できす、編著『忘梅』の千那序文をめぐって芭蕉との間に確執を生じ、以後疎遠となる。
 
          素堂、三月、『ほのぼの立』高政編。芭蕉入集句と素堂の附句について。
枯枝に烏のとまりたけり秋のくれ   はせを
   鍬かたげ行霧の遠里               素 堂
 
《註》…新編『芭蕉一代集』昭和六年刊。勝峯晋風氏著より(P431)
『二弟準縄』の脇五體の證句打添
「枯枝に霧のとまりけり秋の暮」
「鍬かたけゆに烏の遠里」
口傳茶話の事ありとあるが、此脇句附は尾張鳴海の蝶羅が『千鳥掛』に洩れたものを『冬のうちわ』に拾遺した其の一つである。
 加賀山代永井壽氏の許に真蹟を存する。として前句が掲載されている。
 
《註》「枯枝に」の句について(『俳聖芭蕉』野田別天氏著 昭和十九年刊)
 嵐雪門の櫻井吏登の『或問答』に或人の問いに答えて、今は六十年も已前、世の俳風こはぐしく、桃青と申せし頃は「大内雛人形天皇かよ」或は「あやめ生り軒の鰯のされこうべ」斯る姿の句も致され候。梅翁(宗因)なんど檀林の棟梁として、枝になまきず絶えなんだの最中に侍りしを、季吟も難かしがられ、桃青素堂と閑談有りて、今野俳風和ぐる方もやと、三叟神丹を煉て、桃青その器にあたる人と推して進められしにより、然らば斯くに趣にもやと「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」の一句を定められし、是を茶話の傳と申すなり。云々
《註》…葛飾素丸『蕉翁発句説叢大全』
 云ふ所の季吟、芭蕉、素堂新立の茶話口傳と云事いぶかし。素堂と季吟の対面はなき事なり。黒露に聞しが、是も右のごとく答へし。云々

素堂事績 貞享2年 乙丑(1685)44才

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貞享2年 乙丑(1685)44才
 
素堂……『稲筵』清風編。発句一入集。
素堂……春、四月、芭蕉の「甲子吟行」よりの帰庵を祝って句を贈る。
いつか花に茶の羽織檜笠みん                          
 
素堂……六月二日、小石川に於て『古式之百韻』鈴木清風編。付句十三入集。
  凉しさの凝くだくるか水車                               清風
   青鷺草を見こす朝月                              芭蕉
  松風のはかた箱崎露けくて                               嵐雪
     酒店の秋を障子明るき                               其角
  社日来にけり尋常の煤はくや                            才丸
   舞蝶仰ぐ我にしたしく                                   コ斎
  みちの記も今は其まゝ霞こめ                           素堂
 抜粋
いかなればつくしの人のさわがしや       素堂
 
【清風】慶安四年(1651)生、~享保六年(1721)没。年七十一才。
鈴木氏。通称島田屋八右衛門。金融業を営む傍ら、出羽国の物産問屋を兼ねた。俳諧は、延宝七年(1679)の『俳諧中庸姿』に独吟歌仙一巻が収められ、特に言水と親しく、多くの俳人とも交流を深めたが、晩年は俳諧から遠ざかる。
 
素堂……『一楼賦』風瀑編。発句三入集。「山逸人」と署名して『一楼賦』に跋文を書す。
風瀑序(抜粋)…
大槐風雪を仮して春秋四窓にみてり。雪は恵運の毫を惜しみ、有家の夕さくら詠めせし間に咲ぬ。惣て五月の鰺文月の瓜此花勝概静にして吟ふ。
是に先達もの二子、芭蕉江頭は原憲が糂を残せし、迹蓮は素堂が蓮にして連濂に凉む。
山家に年を越て
誰カ婿ソ歯朶に餅おふ牛の年                    芭蕉
  梅あるに菜摘ははえぬ若衆哉            風瀑
   餘花ありとも楠死して太平記             素堂
 
    蕉桃青たひに有をおもふ
   いつか花に茶の羽織檜笠みん             素堂
   吾荷葉梅に烏のやどり哉                    素堂  
 
素堂跋
   垂虹堂風瀑英子与予有交如之孚深耽風雅以達其道心
   膓蘊錦一言敷繍此茲乙丑首夏待客於楼上終日相会倶
   賦三篇尾澄心善出塵慮起雲凝霞函春秋於筆端野山籠
天地於尺素藻思彬々殆可謂曲尽其妙而又撰集子満嚢
之住趣以付其後名曰一楼賦鳴呼果到茲楼之勝概則恐
狭泰山跨四海以逍遥乎無窮之外者与 山逸人書其後
 
素堂跋(読み下し)
垂虹堂風瀑英子に与ふ、予と交り有るハ深く風雅に耽る孚の如し、以て其の心に達す。腸を蘊む錦の一言を繍ひ敷く。此茲れ乙丑首夏客を楼上に待ちて終日相ひ倶に賦三篇を合す。美馨は心を澄ましめて善き塵慮を出し、雲を起し霞に凝どめて春秋を函つみ、筆の運びの端々に於て野山の天地籠め、尺素の藻に於て、その思ふことは文・質ともに備わる。彬々殆ど謂ふ可きは曲に其の妙を尽す。而、て又衆子を撰びて嚢を満す。之佳き趣なり。以て其の後に名付けて曰く一楼賦と。鳴乎、致を果せし茲の楼は之れ概ね勝る。則ち狭きを恐る。泰山を跨ぎて以て四海を逍遥する乎。無窮の外に与ふるもの。  山逸人書  其後(素堂)
 
【風瀑】伊勢山田の人で松葉屋七郎太夫、師職の家の三代目で江戸の出店伊勢屋を開き定住する。貞享元年(1684)に帰郷に際して芭蕉は餞別句を贈っている。芳賀一晶の門下で、信徳・芭蕉・素堂らと親交があった。貞享三年には伊勢帰郷、以後家業に専念し俳諧から遠ざかる。
 
素堂……『俳諧白根嶽』一ノ瀬調実編。(調和門)発句一入集。
蠹とならん先木の下の蝉とならん                       
【一ノ瀬調実】甲斐市川の人。名は繁実、通称市十郎。御用紙漉業を営む。
素堂とも交流があるというが、有効な資料が見えない。
                           
『並山日記』巻之五。安政二年(1855)藤原信吉著。
 二十八日、けふは雨ふりて、つれくなめりとて、此里の舊家一瀬重左衛門といふ人、家の文書とも携へて来て見せたり。先祖市十郎は天和のころの人にて、拾穂軒季吟翁の俳諧の弟子なりければ、翁の添削せられし詠草ともおほかり。又消息も數通ありて、それか中にも珍らかなるは花押ある一通あり、人はしらねどわか見るははじめてなり。の字の略体なるへし。ふみの末に十月廿四日 一瀬市十郎  季吟(花押)
かく見えたり。又古文書ともを抜きみるに、一通は機山入道の消息にて、神長殿と見えたり。昔此一瀬氏は此の里の鎮守なる八幡の神官なりしとそ。

素堂、江戸の家・茶道今日庵について

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素堂、江戸の家・茶道今日庵について
素堂、七月、山田宗偏著の『利休茶道具図絵』の序文を著す。
 宗偏は延宝八年(1680)に『茶道便蒙抄』、元禄四年(1691)に『茶道要録』を書す。(未見)
 序文「喫茶の友……」「元禄壬午夷則上旬濺筆於円荷露葛村隠士素堂」
 (壬午夷則-十五年七月)
 
 素堂、素堂には茶道書関係の文書が三篇ある。『鳳茗記』・『茶入 號朝山』それに『利休茶道具図絵』の序である。
 奥書……前年便蒙(『茶道便蒙抄』)要録(『茶道要録』)ノ両篇ヲ出スト雖此図ヲ残ス。今厚イ志ノ求メモ切ニ且ハ先書疎缺ノ為ノ書肆上田氏ニ投ジテ板行ヲナシ、云々。
 〔茶道余談 宗偏〕
宗旦四天王の一人。宗偏流の祖。三州吉田の産。父は本願寺末京都二本松長徳寺の住職仁科道玄。故ありて母方の姓山田を称し、初名周覚、後周学。號四方庵・力圍斎。六歳の時、小堀遠州の門に入り学ぶこと九年、後宗旦に就き皆伝。偶江戸にて小笠原侯当時茶道地に堕せんとするを憂へ、宗旦を迎へ其弊を矯めんと企てしが、宗旦、宗偏を代らしめ、宗 江戸に下り、不審庵を称し、鋭意改革に意を用ひ数種の著書を刊行。宝永五年四月二日歿。年八十五才。(『茶道辞典』による)
 〔素堂余話〕
 『今日庵』
…素堂の家には宗偏から譲渡された宗旦筆「今日庵」の掛軸があった。これが後に『甲斐国志』に、素堂が「今日庵三世」を称したと記載された原因と思われる。
 素堂の一周忌追善集『通天橋』の草庵五物に、
 一、今日掛物 宗旦筆
仲秋の辞世風雅の人目出ざらめや。往日元伯が書る今日庵のいほりをけづりて、けふといふ文字ばかりはむべつきなからずとて毎に弄ばれたるを、

有明はけふの素堂の名残かな  郁文

とある。
 素堂が『甲斐国志』のいう「今日庵」を名乗った形跡は認められないが、宗旦直筆の「今日」の掛軸を山田宗偏から譲り受けて草庵に掛けて居た。宗偏も一時「今日庵」を名乗った事もあるようである。
 宗偏は四十三年間仕えた小笠原家を致任し、家督を甥の宗引に譲り、元禄十年(1697)七十一歳で江戸の本所に茶室を構えた。素堂五十六歳の時である。
 素堂と宗偏交遊を示す資料は前の「今日」の掛物と、茶書の序文くらいである。
 素堂が茶道に於ける「今日庵三世」を継承したことを示す茶道資料や素堂周辺資料は見えないが、三篇の茶道関係の文章や序文は素堂の茶に対する知識の深さを示している。

『俳聖芭蕉』野田要吉氏(別天楼)著 素堂のこと

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『俳聖芭蕉』野田要吉氏(別天楼)著  
                 昭和19年刊。理想社発行
 
 延宝時代桃青の連句
 
 宗鑑守武等の興した俳譜は俳諧連歌のことで、滑稽體の連歌といふ意味である。俳諧といへば、その初頭の長句、即十七句の発句と、之に続く短句、十四字の脇句より以下の附合全體を総括した名称であるが、近来は俳諧のことを一般に連句と称えているから、私も連句と呼ぶことにする。
 桃青時代の連句で今日傳っている最古のものは、延宝四年(二十三歳)の作『江戸両吟集』である。江戸両吟集は桃青がその俳友山口信章(素堂)と二人で、菅神奉納の為に試みた二百韻のことである。後、延享四年に『梅の牛』と改題して前半は再版せられたものが、今日行はれている。
 江戸両吟集の作者の一人山口信章は甲斐の国巨摩郡教来石村字山口の産で、名は信章、別に来雪と號し、其日庵とも今日庵とも称した。又素仙堂と號したが、後には専ら素堂、といふ俳號を用ひた。素堂の家は、元来富裕であったが、彼は江戸に遊学して林春斎に経学を修め、後京都に上りて俳諧を北村季吟に、書道を持明院家に、和歌を清水谷家に学び、又茶道香道にも勝れ、琵琶、謡曲等の諸芸に通じていた。一たび郷里に帰ったが、遂に家を弟に譲り江戸に出でゝ更に儒学を修め、諸藩の間に講学した。
 後居を葛飾に移して隠棲した。たまたま桃青の芭蕉庵に近く、元より同門の好みもありて二人の交遊は年と共に深まった。素堂が葛飾に移り住んだのは天和元年と『葛飾蕉門分脈系図』に云っているが、延宝四年に『江戸両吟集』が出ているのを見ると、二人の交情は桃青が江戸に下った後日ならずして結ばれたものであろう。素堂は常時既に談林の影響を受けていた。そしてそれを桃青に及ぼしたものであろう。素堂は桃青より長ずる事一歳、漢学の造詣深かりし故、桃青も素堂を門人扱ひにせす、素堂先生と呼んで推伏していたほどであった。かくて二人は俳諧革新の意気相投合して、一時は談林の感化を受けしが、遂に天和の新風を興し、蕉風樹立の基礎を築いたのであった。
 素堂は嘗て郷里に於て、代官桜井政能の嘱を受けて蓬沢治水の業に従ひ、克く土民の苦患を除きしに依り、蓬澤に祠を建てゝ山口霊神と祭られたことは『葛飾蕉門分脈系図』に記すところである。  
 桃青が小石川水道工事に従事した頃には、既に素堂との交情は深かったのだから、桃青の治水の技術方面には、素堂の後援があったのではあるまいか。郷里に於て治水の功を樹てた功績を慕はれて、土民から山口霊神として祀られたほどの素堂が、桃青の水道工事に何程かの援助を與へたであろうことは無稽な推察ではあるまい。

 吉田博士の地名辞書引く所の『産業事蹟』には、

 甲州笛吹川の畔河流壅塞して平常水患を被るもの九村、蓬澤西高橋の一村境甚し。元禄中田園変じて池沼となり、多く鰤魚を産するに至る。代官櫻井孫兵衛政能見庶の疾苦を察し、濬治の計を幕府に以聞す。元禄九年政能新に渠道を通じ土堤を築くこと二千百五十間、其の広さ四五間より六七間に至る。
以て濁川を導く。淳水一旦に排泄して田園悉く舊に復す。府中魚町の富民山口官兵衛信章(素堂)政能を輔けて治河の功あり、村人之を徳とし、生祠を蓬沢南庄塚に建てゝ、櫻井山口二人を祭拝したりとぞ。……
 
 とある。これに依れば素堂治河の功は芭蕉没後のことのようである。されど『葛飾蕉門分脈系図』には
 
  始甲斐国巨摩郡教来石山口に住し山口市右衛門と号し頗る家富り。櫻井孫兵衛政能に廃し蓬澤の水利に功有、後東都東叡山下に寓居し儒を専門とし詩歌を事とし、云々。
 
 と見えてみる。これに依れば東都に出る前に郷里に於て治水の功ありしものゝ如くである。私は姑くこの後説に従って桃青との関係を述べた。
 素堂は享保元年八月十五日江戸に於て享年七十五で逝去した。その俳系は葛飾風として傳へられ、素堂を其日庵一世とし長谷川馬光、溝口素丸、加藤野逸等相継ぎ、門葉大いに栄えた。彼の一茶は、初め素丸の門に学んだのであった。
 『江戸両吟集』の二百韵は、今日傳っている桃青の連句としては最古のものであるが、この二百韵には既に談林の感化が認められるのである。信章の素堂が談林かぶれのしてゐたことは前にも挙げたが、桃青の親友の一人小澤卜尺もまた談林に足を入れていた。云々

山口素堂 俳諧大辞典 明治書院 昭和三十二年発行

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俳諧大辞典 明治書院 昭和三十二年発行
俳人。山口氏。名は信章。字は子晋、文、公商。通称、勘兵衛(異説もある)。別号、来雪・松子・素仙堂・蓮池翁。又、茶道の号に今日庵・其日庵。覚永十九年(一六四二)五月五日生、享保元年(一七一六)八月十五日没、年七十五。墓、上野谷中感応寺中瑞音院。
 
【閲歴・編著】
甲斐北巨摩那教来石宇山口の産。少時、父と共に甲府に移り、更に二十歳前後の頃江戸に出て、林家について漢学を修めた。寛文中期頃は、しばらく京都に在って、和歌や書道を堂上家に学んだらしい。江戸定住後は、儒学文は算用の才をもって官に仕えたようで、延宝七年三十八歳の折致任して上野不忍池畔に居隠棲した。貞享二・三年、葛飾の阿武に移り、芭蕉その他、蕪門系俳人及び戸田茂睡・人見竹洞のような文人と交わりを深め、隠逸閑雅の境に徹して生を終えた。但し、元禄五年に母を失い(?)同七年親友芭蕉に死別してからは、しばしば旅に出かけ、又、九年には郷里の吏の懇望によって濁河の治水に尽した。俳諧は一般に季吟門と伝えるが、最初の師はなお他にあったものと推測される。
句の初出は伊勢踊(寛文七年)で、その後、延宝年間には『江戸両吟集』『江戸三吟』等に談林作家として活発な動きを見せ、天和年間には虚粟調の俳諧を支持して、蓮を詠じて名高い荷興十唱などの作品があったが、貞享末年以後は沈滞に陥り、元禄十一年頃新風の興行を去来に申し入れた外は、総じて俳諧に対して不即不離の態度を持続するにとどまった。後半生における俳諧は、彼が別に嗜んだ茶道・書道・能楽・漢詩・和歌と同じく、畢竟、品性を培う一法にすぎなかったようである。けれども、その作品は、寡作の憾みこそあれ、人間を反映して高踏清雅な趣があり、両者の間には自然混融が生まれ、素堂の脱俗高邁は芭蕉に、よって摂取され血肉化されたものと考えられる。ことに『虚栗』の前後において、儒学者素堂の左袒による芭蕉の利は多大なものがあったに相違なかろう。かくて素堂は蕉風の歩みに親しく参与する者であり得た。彼が蕪門の客分として重んぜられたのも当然といわねばなるまい。門人に黒露・馬光・子光らがあり、後世、馬光門の素丸によって、素堂を始祖とする葛飾蕉門なる俳系が誇称せられた。著書にはその没後世に出た『とくとくの句合』がある。
外に素堂の名に託した『松の奥』『梅の輿』があるが、共に偽書であろう。家集に、享保六年子光編のものと、後世成美の門人久蔵が編したものがあり、文『俳諧五子稿』のうちにも素堂の句集を収める。追善集には『通天橋』(一周忌)『ふた夜の影』宝暦二年・『摩詞十五夜』(五十周忌)等があった。

素堂の生まれたところは現在の白州町山口か?

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素堂の生まれたところは現在の白州町山口か?
 
 今日も素堂について尋ねてきた人が居られたが、私は応対に困惑した。「素堂は白州町山口の碑の所で生まれたのですか」『甲斐国志』以来、河川工事の現場監督の位置を与えられた素堂は現在でもその位置を保っている。度重なる紹介から生まれた素堂に対する大きな誤解、誤伝を疑う人は少ない。
 しかし、そのことが素堂研究の発端となり、真実を求めて長い調査が始まった。素堂のことが一行でもあれば読み、資料や足跡を求めて仕事も休みがちとなったが、家族の理解もあって、今日までその三十年余続けられた。
素堂は白州山口で生まれたとする諸説はそのほとんどが「甲斐国志」からの引用を著者が着色したもので、史実とはほど遠い。
◎『甲斐国志』
 其ノ先ハ州(くに)ノ教来石村字山口ニ家ス。因(より)氏ト為ス。
後ニ居を府中魚町ニ移ス。家頗ル富ミ時人山口殿ト称ス。

『甲州風土記』
  山口素堂の家は巨摩郡教来石山口に土着した郷士の家柄であった。
『俳文学大辞典』「素堂の項」
  甲斐国北巨摩郡教来石村山口に出生。云々
『元禄名家句選』
  甲斐国北巨摩郡教来石村山口に於いて出生。云々
 以下、素堂の紹介書は数限りなくあるが、その大半は『甲斐国志』の記述影響が強いことが分かる。しかし素堂没後から『甲斐国志』刊行以前の山梨県や他の著作書には素堂が甲斐国の出身とする書は皆無である。
 『甲斐国志』「素堂の項」の記述は、濁川工事の責任者とされる時の甲府代官桜井孫兵衛の事蹟を素堂の項を借りて書したもので、その根拠は斎藤正辰之の碑文である。

二、住所と住居
 素堂の住んでいた場所や関連の資料で確実のものは儒家の『人見竹洞全集』(国立国会図書館蔵)と『地子屋敷帳』それに『本所深川抱屋敷寄帳』である。また生まれた場所やその動向についての記載がある書を見ることにする。
 
 参考書『甲斐国志』の素道(堂)の項と『連俳睦百韻』

『国志』
 其ノ先ハ州(くに)ノ教来石村字山口ニ家ス。因(より)氏ト為ス。後ニ居を府中魚町ニ移ス。家頗ル富ミ時人山口殿ト称ス。(中略)江戸市中東叡山麓葛飾安宅草庵。

 とあるが、次の書とは大きな違いを見せる。

『連俳睦百韻』「序文」寺町百庵著
 抑々素堂の鼻祖を尋ぬるに、河毛(蒲生)氏郷の家臣 山口勘助良佞後に佞翁と呼ぶ 町屋に下る。山口素仙堂、太郎兵衛、信章、俳名来雪、其の後素仙堂の仙の字を省き素堂と呼ぶ。云々

『人見竹洞全集』の元禄六年(1693)素堂五十二才の項に次のように記されている。
  癸酉季夏初十日二三君乗舟泛浅草川入。
  川東之小港訪素堂隠屈竹径門深荷花池凉。
  松風繞圃瓜満畦最長広外之趣也。

 

『地子屋敷帳』元禄九年(1696)の九冊目、深川の条
  四百三十三坪(元禄六年に購入)
 この土地は元禄十五年には四百二十九坪と変更されている。

 

『本所深川抱屋敷寄帳』宝永元年(1704)
  素堂の抱屋敷として

 深川六間掘町続、伊那半左衛門御代官所、町人素堂所持仕早老地面四百二十九坪之抱屋敷云々
 この紹介文書は森川昭氏の手によるものである。
 素堂は葛飾の庵に暮らし、細々と生活していたとされる書もあるが、素堂の家敷地は広大なもので抱屋敷も持っていたのである。
 特に深川六間堀に所持することになった抱屋敷は伊那半左衛門代官所管轄の地である。

 
参考に『甲斐国志』の素道(堂)の項と『連俳睦百韻』の記述を比較してみる。

『国志』
 其ノ先ハ州(くに)ノ教来石村字山口ニ家ス。因(より)氏ト為ス。後ニ居を府中魚町ニ移ス。家頗ル富ミ時人山口殿ト称ス。(中略)江戸市中東叡山麓葛飾安宅草庵。

 とあるが、次の書とは大きな違いを見せる。

『連俳睦百韻』「序文」寺町百庵著
 抑々素堂の鼻祖を尋ぬるに、河毛(蒲生)氏郷の家臣 山口勘助良佞後に佞翁と呼ぶ 町屋に下る。山口素仙堂、太郎兵衛、信章、俳名来雪、其の後素仙堂の仙の字を省き素堂と呼ぶ。云々
 

素堂の幼少から致任するまでの間の住所と住居の変遷は確かな資料が少ない。『国志』の言を全面的に信用したい所であるが、当時山口家が巨摩郡教来石村字山口に所在したかは疑わしいもので、現在の国道二十号線沿いの旧甲州街道(甲府から諏訪)は段丘の上を通過していて、山口集落の出現も徳川時代に入ってからの口留番所を設けて久しく経過してからの集落であり、徳川以前は国境の地としてまた常に戦争の狭間として人々の住める場所ではなかった。当然素堂の家(祖先を含む)が存在した可能性は少ない。現在の上教来石村字山口集落の段丘上に「海道」の地名が遺り、付近の墓所の墓石刻印も素堂没以後の年代の物が多く、当時『国志』素道の項の記述者が、山口素堂の氏「山口」の出処を甲斐に求めた結果、教来石村山口か該当する地名がなく困惑の結果の所産ではなかろうか。
 編纂約百七十五年前の素堂の出生と祖先の住居についての記述は、歴史資料に基づくものではなく、著者の推説と創作記述と断定しても間違いない。『国志』編纂に於いての上教来石村の『書上』にも素堂の記述はなく江戸の素堂の事蹟記述は『国志」編纂者の手による可能性も残されている。 
 資料の入手困難の中での『国志』の編纂の努力は並大抵のものではない。しかし素道の項については史実とかけ離れた記述である。

 

甲斐府中山口屋と素堂の関係は資料には見えない

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甲斐府中山口屋と素堂の関係は資料には見えない 

 さて甲斐府中(甲府)の魚町に在った魚町酒造業山口屋市右衛門家は本当に素堂の生家なのであろうか。これも『国志』の記述が現在では通説となっているが、その記述には曖昧さが感じられる。
 先にも示した『連俳睦百韻』(佐々木来雪、三世素堂号襲名記念俳諧集)の序文を著した寺町百庵は『俳文学大辞典』によると、素堂の家系にあり、『連俳睦百韻』 には素堂の嫡孫素安より素堂号の継承を許可されたが、断わり佐々木来雪に譲った旨も記されている。この山口素安は素堂が死去した(享保元年…1716)後の享保二十年(1735)に素堂の追善を素堂亭にて実施している。所謂素堂の家系は甲斐府中ではなく、江戸に於て継承されているのである。

『国志』
  其ノ先ハ州ノ教来石村山口ニ家ス因テ氏ト為ス。後ニ居ヲ府中魚町ニ移ス。家頗ル富ミ、時ノ人ハ山口  殿ト称ス。……長ジテ市右衛門ト更ム。盖シ家名ナ  リ。
 ここで注意を要するのは魚町の山口屋は酒造業を営むとは記していないことである。当時魚町に住む山口屋市右衛門は確かに酒造業を営んでいた。元禄九年(1696)を示唆する「酒造業書上書」によれば、府中には山口屋を名乗る家が二軒あった。一軒は魚町山口屋市右衛門家で、他の一軒は上一条町の山口屋権右衛門である。 さて『国志』の記述によれば
 

  少々自り四方の志あり。屡【しばしば】江戸に往還して章句を林春斎に受く、
 (中略)遂に舎弟某に家産を譲り、市右衛門を襲称使め、自らは官兵衛を名乗る。
 とあり、不自然な記述である。
 素堂家が幼少の頃府中魚町に移住して忽ち富家になった事など当時の酒造業を始め他の産業にしても無理な話である。さらに「山口殿」と時の人々に呼ばれた事も有りえない事である。

 もしこれを認めるなら素堂家は教来石村に在住した時から富豪であった事が必要である。しかし素堂が生まれた寛永十九年(1642)当時の甲斐の国は大飢饉に襲われ多くの人々が飢えに苦しみ死んでいったのである。そんな時代背景の中で素堂家が教来石村にて富豪で過ごせる条件は皆無であり、山口には集落さえなかった可能性もある。またそんな中で府中に出ていって、府中山口屋を築く事など不可能に近い。
 江戸時代の酒造業は厳しく幕府に管理されていて米一粒でも無駄にできず、勝手酒造は許されない仕組みになっていた。酒造業での一攫千金の業は有り得ない。
 確かに山口屋は府中魚町四丁目西角に存在した。ここに山口屋市右衛門に関する確かな資料を提出する。

 

寛文十三年(1673)素堂三十三才。
 『魚町宿取之覚』二月中…甲州文庫資料第二巻
  当月九日に西郷筋上いますわ村拙者母
  気色悪□御座候故いしゃにかゝり于今羅有候

   四丁目 市右衛門

貞享年間(1684~1687)素堂四十三~四十六才。
 『貞享上下府中細見』…山梨県図書館蔵
  一、魚町西側 表九間 裏へ町並
    是は先規軒屋敷にて御座候処
    四年以前子年隣買受け壱軒に
    仕候付弐軒分之御役相勤申候

  一、柳町四丁目 表八間 裏へ二拾二軒
    北角 魚町市右衛門抱 四郎左衛門

  一、川尻町弐丁目 表拾五間裏へ三拾間
    魚町市右衛門抱家守六兵衛
 この記録は素堂の生家としてよく引用される魚町市右衛門屋敷と抱え屋敷である。

しかし素堂と山口屋の関係が定かでなく、抱え屋敷が二カ所あっても、これをもって素堂が長男として暮らしていた「山口屋」であり、「山口殿」と呼ばれ富豪であったとする説は、魚町山口屋が素堂の生家であるという的確な資料が存在しない限り断定はできない。
 その他の甲府中の市右衛門関係の資料を見る。
宝永元年(1706)素堂六十五才。

『山田町宗旨改帳』…甲府市史第二巻
  代々浄土宗府中尊躰寺旦那
 市郎左衛門
 同人
  是は府中魚町市右衛門娘拾三年以前
  市郎左衛門妻ニ成 夫同宗ニ罷成候

享保九年(1724)
 『山梨郡府中町分酒造米高帳』…甲府市史第二巻
  元禄丁丑年造高 四拾三石五斗
  卯造酒米石  拾四石五斗
   魚町 山口屋  市右衛門
  元禄丁丑年造高 四拾弐石弐斗四升
  卯造酒米石  拾四石八斗
   西一条町山口屋 権右衛門
 《丁丑…元禄十年(1697)》

甲斐濁川と素堂

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元禄時代以前より濁河の氾濫は続き、元禄四年には河除奉行が実地検分して幕府に申し立てをするが不許可となる。同年村役人八名は江戸に出て新堀の落ち口を切り開く訴えをするが、落ち口が上曽根村に当たるえを以て工事はできない旨となる。元禄八年四月三十日桜井孫兵衛外一名で再度実地検分する。工事許可となり同九年三月二十八日に水抜き工事の準備が始まる。四月二日河除奉行戸倉八郎左衛門、熊谷友右衛門面見分として来甲する。千八百間の内千二百間は入札請負として、同五日堀始めて五月十六日水落ちとなる。
 このようにして工事は短期間で終了する。『甲斐国志』の云うような孫兵衛は兎も角素堂の関与など無い事が分かる。『甲斐国歴代譜』には、
 元禄九年三月、中郡蓬澤溜井、掘抜被仰付、五月成就也。と簡単に記されている。
 工事にかかった経費は三百両余である。

 桜井孫兵衛は元禄七年から十四年まで甲府代官を務めた後大阪に赴任している。
 斉藤正辰は元禄十六年(1703)に養子先斉藤家の遺跡を継ぎ御次番となり、宝永五年(1708)桐門番に転じ、同六年常憲院殿(綱吉)薨御により務めを許され小普請となり、享保十二年(1728)御勘定に列す。十四年(1730)御代官に副て御料所を検し、あるいは甲斐国に赴き、堤河除普請の事を務む。元文四年(1739・碑文を著した次の年)、その務めに応ぜざることあるにより、小普請に貶して(格下げ)出仕をとどめられ十一月に許される。明和二年(1765)に致任して翌三年に没している。《『寛政重修諸家譜』》

 正辰は享保十八年と元文三年に甲斐入りしている。現存する石祠「桜井社」の建立年月日は享保十八年である。 私見であるが享保十八年に甲斐入りした正辰は、濁川の見分ををした折に、孫兵衛の事蹟を示す石碑を蓬澤と西高橋の名主に申しつけて、石祠もこの時に両村に建立を申しつけたのである。石祠を生祠とする説が甲斐では確定しているようであるが、一考を要する問題である。 素堂の濁河改浚工事への関与を示す歴史資料は『甲斐国志』のみで、その基の資料は未見である。
 素堂死去した後、『甲斐国志』までの期間に素堂及び山梨県の歴史資料には、素堂と甲斐の関係や濁河工事関与を示す書は無い。

一、元禄八年(1695)『甲山記行』素堂著
二、享保二年(1717)『通天橋』 山口黒露著
※三、享保十二年(1732)『甲州囃』村上某著
四、元文三年(1738)『孫兵衛地鎮碑文』正辰著
五、宝暦元年(1751)『俳諧家譜』丈石著
※六、宝暦二年(1752)『裏見寒話』野田成方著
七、明和二年(1765)『摩訶十五夜』山口黒露著
※八、明和六年(1769)『みおつくし』久住他著
九、明和七年(1770)『俳諧家譜拾遺集』春明著
十、安永八年(1779)『連俳睦百韻』佐々木来雪著
※十一、天明三年(1789)『甲斐名勝志』萩原元克著 十二、文化十三年(1816)『甲斐国志』松平定信編

荻野清氏の「山口素堂の研究」

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一、生涯
山口素堂、名は信章、字は子晋又公商、通称を勘(官)兵衛(太郎兵衛・松兵衛・佐兵衛・太郎衛等の異説あり、今一般の呼稱に従ふ)素堂は素仙堂の略といふ(連俳睦百韵)。別號として来雪、松子等を稱した。尚来雨の號があったと『連俳睦百韵』はいってゐるが、之は明かでない。彼は、又茶道に於ける庵號として、今日庵、其日庵を稱してゐる。
山口家は、その祖山口勘助良侫(蒲生家の家臣)以来、甲斐国北巨摩郡教来石山口に土着した郷士であった素堂は、その家の長子として寛氷十九年五月五日(一説に正月四日)に生まれたのである。
即ち、芭蕉に先んずる事二年であった。彼は幼名を、『甲斐国誌』に依れば、重五郎といひ、長じて家名市右衛門を継いでゐる。暫くして、家督を弟に譲り、勘兵衛と改名して上京した。山口家は、後年甲府に移住したのであるが、それは恐らく、素堂の少年時代であったらうと思われる。
山口家は、甲府に於いて、魚町西側に本宅を構え、酒造業を営み巨富を擁し(功刀亀内氏蔵…『写本酒之書付』及び『貞享上下府中甲府再見』に依る)、
『甲斐国誌』にも……「家頗る富み時の人山口殿と稱せり」……と記す如く、時人の尊敬を享けたのであった。かゝる正しき家柄と、巨富ある家に、幼少年期を過した素堂は、必ずや、端厳且つおっとりした気風を持って長じた事と思はれる。
とかくして、彼は、江戸に遊学のため出づる事になった。その時期は、勿論明確な事は云へないが、先づ寛文初年廿歳頃と推測される。元来山口家には好学の血が流れ、素堂の末弟の如きも、林家の門人にて、尾州摂津守侯の儒臣であったといふ。
彼も又少々より学を好み、彼が性格として又好学のため、酒造の如き家業を厭つた故もあつたらうが、ともあれ此巨萬の富ある家を惜気なく弟に譲った事は、以て、彼の執着心の乏しさを、察するに足るものである。(略)
 
 こうした記述の中には荻野氏の創造と創作が多く含まれている。
 素堂の母の死や濁川工事についても、
 
素堂の母親の歿年は、『韻塞』所見の素堂の母の喜寿の賀宴が、いつ行はれたかに依つて相違してくる。一般に此賀宴は元禄五年に行はれたとせられてゐる。成程此説にも無理からぬと思はれる節もあるのであって、若し斯く、此宴が元禄五年に挙行せられたとすれば、その歿年を元禄三年とする如き説は當然誤謬である。だが併しながら、かの元禄五年説も絶対的肯定を強ひるには未だその證憑乏しく、そこに此の私説も生じてくる次第である。先づ私論の根拠を示さう。昨年の夏、素堂一家の菩提寺である甲府の尊躰寺を訪れた際、私は光譽清意禅定尼なる一つの墓碑を見出した。
 その墓碑の正面には、右の如き戒名の外に、元禄三年午十二月十四日と没年を記し、且つ墓碑の側面には、魚町山口市右衛門尉老母と註してあった。前述の如く市右衛門は山口家の家名である。素堂は早く家督を弟に譲ったのであるから、此市右衛門は素堂自身ではなく或は彼の弟であるかも知れない。併しながら、いづれにせよ、此老母なるものが素堂の母親である事に狂ひは来ないと思ふ。
 また、濁川工事については
元禄三年、素堂は母を失ひ(註二参照)、天涯孤独の身となったのであった。(要は既に早く寛文の頃世を去ったらしい)彼が母に仕へて至孝であった事は、諸書の傳へる所であり、彼が後妻を迎へなかった事も、一は母の意にたがはん事を恐れたためであったらしい。母の死に際して、彼が痛惜したのは、もとよりの事であったらうが、それも一面より見れば、彼の閑居を更に徹せしめる事になったと思はれる。
 彼は『甲山記行』に見ゆる如く、元禄八年甲府に帰ってゐるが、その翌年、再び甲斐に至って、濁河の治水に力を盡した。此事は、彼の實際的才能の一面を窺い得る事で興味ある事ながら、今縷述を避け、ここにはたゞ、此治水が元禄九年三月二十八日に起工され、五月十六日に竣工を見たといふ。『山梨県水害史』の談を擧ぐるに止めて置く。
 
 と云う様な相当認識不足と誤伝を生む内容になっている。しかしこうした著名の学者が述べた説は否定されることはなく、引用される毎に真実の様に伝わる事となる。

『甲斐国志』巻之四十三 「庄塚碑」 誤伝の伝播

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『甲斐国志』巻之四十三 「庄塚碑」
『甲斐国志』巻之四十三【庄塚碑】
 
蓬澤村 西高橋ノ堺ニ在リ、一条ト油川庄ノ分界ニ標ヲ立テシ處ナリト云傳フ、元禄中ニ至リ漸々下水ノ道塞カリ、国玉村始メ数村稔穀實ラズ、殆ト沼淵ニ等シカラントス、蓬澤高橋二村最モ甚シ。
桜田殿ノ御代官桜井孫兵新政能興功救民患濁河ヲ浚ヒ剰水ヲ導キ去ラシム。蓋シ大績ナリト云。手代山口勘兵衛(後號素堂別傳ニ委シ)補助其事頗有勉。以故二村ノ民喜而利之、終ニ生祠ヲ塚上ニ建テ、桜井霊神ト称シ、正月十四日忌日ナレドモ今二月十四日ニ祀之。側ニ山口霊神ト称スル石塔モアリ。後ニ斎藤六左衛門正辰者作地鎮銘以勒石祠前ニ樹ツ。(銘文ハ附録ニ載ス)
《読み下し》
 蓬沢村、西高橋の堺に在り。一条と油川の庄の分界に標(シル)しを立し処なりと云い伝う。元禄中に至り漸々下水の道塞がり、国玉村始め数村稔穀實らず、殆ど沼淵に等しからんとす、蓬澤高橋二村最も甚し。(中略)文昭廟(徳川六代将軍家宜)本州領国たりし時、代官桜井孫兵衛正能は功を興して民の患を救う。濁川を浚い剰水を導き去らしむ。手代の山口官兵衛(後に素堂と号す。別伝に委し)其の事を補助し、頗る勉るを故を以て、二村の民は喜びて之を利(サイワイ)とす。終(ツイ)に生祠を塚上に建つ。桜井霊神と称し正月十四日忌日なれども今は二月十四日にこれを祀る。側(カタハラ)に山口霊神と称する石塔もあり。 後の斎藤六左衛門なる者。地鎮の名を作り、以て石に勒して祠前に建つ。
  
【参考資料】庄塚 『蓬澤村明細帳』享保十九年(1724
  貳十年己前元禄拾四巳年

   西御丸様内領地の節、石原七右衛門様御検地

        庄塚 二間三間  一 字庄ノ木 村支配
   是ハ山梨群郡油川村の庄塚にて御座候
 
【参考資料】『裏見寒話」巻之三「漁釣」宝暦二年(1752)刊。
 蓬沢(前文略)
湖水の眺望絶景なりしを、桜井孫兵衛と云し宰官、明智博学にして、此の湖水を排水し、濁川へ切落す、今は一村田畑にして、農民業を安んす、農民此の桜井氏を神と仰ぐよし。
 
『甲斐国志』巻之四十三 「庄塚の碑」
《読み下し》
蓬沢村、西高橋の堺に在り。一条と油川の庄の分界に標し(シルシ)を立し処なりと云い伝う。(中略)文昭廟(徳川六代将軍家宜)本州領国たりし時、代官桜井孫兵衛正能は功を興して民の患を救う。濁川を浚い剰水を導き去らし代官桜井孫兵衛政能は功を興して民の患を救う。濁川を浚い剰水を導き去らしむ。手代の山口官兵衛(後に素堂と号す)其の事を補助し、頗る勉るを故を以て、二村の民は喜びて之を利(サイワイ)とす。終に生祠を塚上に建つ。「桜井霊神」と称し正月十四日忌日なれども今は二月十四日にこれを祀る。側らに「山口霊神」と称する石塔もあり。云々 後の斎藤六左衛門なる者。地鎮の名を作り、以て石に勒して祠前に建つ。(桜井社の建立は享保十八年、裏面に刻してある)とあるが、はるか以前の『裏見寒話』には、素堂の関与は示されてはいない。
 
『裏見寒話』宝暦二年(1752
『国志』より六十年前の書(野田成方著)
昔は大なる湖水ありて、村民耕作は為さず、漁師のみ活計をなす。其の頃は蓬沢鮒とて江戸まで聞こえよし。夏秋漁師の舟を借りて出れば、その眺望絶景なりしを、桜井孫兵衛と云し宰臣、明智高才にして、此の湖水を排水し、濁川へ切落し、其の跡田畑となす。農民業を安んす、一村挙げて比の桜井氏を神に祭りて、今以て信仰す。蓬澤湖水の跡とて纔(ワズカ)の池あり。鮒も居れども小魚にして釣る人も無し。
 
『甲斐叢記』大森快庵著(国志を引用)嘉永元年(1848
(前文略)
元禄中桜田公の県令桜井政能孫兵衛功役を興め二千四間余の堤を築き濁川を浚い剰水を導き去りて民庶の患を救へり。属吏山口官兵衛(後素堂と号して俳諧を以て聞ゆ)其の事を奉りて力を尽せり。因て堤を山口提又は素堂堤とも云ふ。庶村の民喜びて生祠を塚上に建て、桜井霊神、山口霊神と崇祀れり、云々
 
★『山梨県水害史』
古老手記(未見、福与氏著)元禄九年の条に三月二十八日、蓬澤村の水貫(抜き)被仰付(中略)五月十六日八つ時分に掘落申候へば、川瀬早河杯の様に水足早く落中候。(中略)桜井孫兵衛政能なる人、此苦難を救わんとして来り、堤を築き、河を浚い、以て湖水を変じて良田に復す。而して此工事に山口官兵衛なるひと補助役として努力し、其の土工の浚成を迅速且つ完全にならしめたりと云ふ。
 
★「葛飾正統系図」
元禄八年乙酉素堂年五十四、甲陽に帰り父母の墓を拝するの時桜井政能に見ゆ。政能の曰く、此頃甲州の諸河砂石を漂流し其瀬年々に高く、河水溢れ流れ濁河の水殊に甚しく、山梨の中郡に濡滞して其禍を被る事十ケ村に及び、逢沢・西高橋の二村地卑しくして沼淵となり、雨ふる時ハ釜をつりて炊ぎ床をかさねて坐し、禾稼腐敗して収する事十分の二三に及ばず。政能是をうれふる事久し。足下我に助力して此水患を除んやといふ。素堂答へていふ。人ハ是天地の役物なり。可を見てすすむハ元より其分なり。ましてや父母の国なるをや。友人桃青も先に小石川の水道の為に力を尽せり。勉め玉へと言ひて遂に承諾す。政能よろこび江府に至り其事を公庁に達せんとするに、十村の民道におくり涕泣してやまず。政能眷(カエリミ)ていへらく「事ならざる時ハ汝等と永く訣れん。今より官兵衛が指揮をうけてそむく事なかれと。素堂是より復び双刀をさしはさみ又山口官兵衛と号す。幾程なく政能帰り来る。官兵衛また計算に精けれバ夙夜に役をつとめ、高橋より落合に至り堤をきづき、濁河を濬治し笛吹川の下流に注ぎ、明年に至りて悉く成就し、悪水忽ちに流れ通じて沼淵涸れ、稼穡蕃茂し民窮患を免がれ、先に他にうつれるもの皆旧居に復し祖考の墓をまつる。村民是に報ぜんが為に生祠を蓬沢村の南庄塚といふ地に建て、政能を桜井明神と称し、官兵衛を山口霊神と号し、其祭祀今に怠る事なしといえり。
しかして其の事終れば素堂速に葛飾の草庵に帰り宿志を述べて俳諧専門の名をなせり。
 
【註】こうして『甲斐国志』の記述は伝播していく。
 

☆甲斐濁川改浚工事概要 素堂は関与していない

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  • 濁川改浚工事概要
さてここで、濁川工事の概要が著されている確かな資料があるのでここに提出する。
 
★『元禄年間濁河改修事蹟』 武井左京氏著 《》印筆者
『甲斐』第二号 P3136
 濁河は、甲斐国志に「高倉川・藤川・立沼川・深町川等城屋町の南板垣村の境にて相会する処に水門あり、是より下を濁河と名つく。東南へ湾曲して板垣界より中郡筋の里吉・國玉両村の間を南流す」とあり。改修以前は現今の玉諸村の内里吉・國玉の界を南流し、同村の内蓬澤を経て住吉村の内増坪の北横手堤(信玄堤)に抵り、一曲して東に向ひ玉諸村の南にて笛吹川(明治四十年の大水害にて改修せられ今は平等川となれり)に合流したるものなりしが、延宝年度頻年の大出水にて笛吹川瀬高になり、川尻甕塞して平常水患を被るもの沿岸村九ケ村即ち現在の里垣村の内坂折・板垣、王諸村の内里吉・国王・西高橋・蓬澤・七澤・上阿原、住吉村の内畔村にして就中西高橋・遅滞、最も甚敷田園過半沼地となり鮒魚多く生産す。其頃物産の一なりしと云ふが如き状態に陥りたるを以て排水の為常時の合流地点より約十四五町の下流西浦川(住吉村の内)附近に於て濁河を笛吹川に合流せしむべく計画したるに、対岸東浦川村(富士見村の内)に於て故障を申立たるを以て遂に工事に着手すること能はさりしを以て、延宝三年(二百五十六年前)《1675》正月西高橋、遅滞村の名主長百姓連書し、延宝二年《1674》八月度々出水にて田畑は勿論住宅迄浸水し、居住困難に陥りたるを以て何れにか移転を被命度且つ東油川村の意向を取糺したるに、既定計画の合流口を多少の変更を為すに於ては異議なき旨に付、同春中に工事を遂行せられ度旨奉行所に訴へ出たり。
 其の後十一年貞亨年丙寅年(二百四十五年前)《1686》六月十二日出水浸水床上四寸に至り畑作物皆無となれり。
同四丁卯年《1687》八月二十七日出水あり。
越へて元禄元戊辰年《1688》七月二十日・二十一日に亘り大出水家屋内浸水五六尺に達し溺死者を出し、田畑共作物皆無となり示後八月十日及九月の両度出水あり。
 同二年巳年《1689》四月九日・五月二十九日・六月十八日・十九日同二十四日の数度出水あり。
 同《元禄二年》七月六・七日に旦る大出水は元禄元年七月の
出水より三寸の増水にて浸水十日の久しきに旦り。田畑の作物皆無は勿論床上浸水一尺三寸に至りたるを以て沿河九ケ村の名主長百姓連署を以て、「本年七月の出水は未曾有の出水にて田畑は勿論、西高橋・蓬澤の両村は住家の軒端迄浸水したるが如き惨状を呈したるを以て、先年目論見の排水工事に付ては対岸東浦川村に於て合流拠を少々下げらるゝに於ては支障なき旨に付変更の上工事遂行方奉行所に訴へたり。
 翌三庚牛年《1690》六月六日及九月六、七日数度の出水ありたるを以て十月中前年八月同様沿河九ケ村名主長百姓より前願趣旨を継承し「排水口に落合村(山城村の内)用水先年落来りし。蛭澤堰落口又は荒川へなり何れへなり共決定、工事遂行せられ度旨」前同断訴へ出たり。
 同四辛来年《元禄四年 1691》二月三日川除奉行臨検実地に就き排水路の測量をなしたり、
 同四月中「水路工事の義、着手に全らず荏再経過せられ数度の出水にて村民困難に陥りたるを以て工事遂行の件、轄地に於て難決幕府に上議せらるゝ」とせば村役人幕府に出頭すべきに付添翰を下付せられ度申立。
 同《元禄四年》五月中「当春、川除奉行賞地臨検の結果落合村(山城村の内)用水落口に九ケ村出願の排水路落口に見立られ右は何れも故障を生ぜざものに付右目論見の通工事遂行方」訴の上、
 同月十一日西甘高橋・蓬渾村の村役人八名江戸に出立排水路堀塞之義を幕府に申立たるも右落口は上曾根村の対岸に当れるを以て同村の意響を慮り差控られ詮議の運に至らざりしに、
 同年《元禄四年》六月四日又々出水あり。同間八月引績き落合村蛭澤堰落口に堀繋すべく目論見たる排水工事遂行に至らざるを以て西高橋、蓬洋画村は排水の為困難を極め居住に難堪、他に移轄の己を行ざる場合に立至りたるに付荒川に排水せられ度旨訴べたり。
 翌五壬申年《1692》は五月三、四日及七月二十一日両度、
 同六突酉年《1693》は四月二十五日、七月四・五日、九月十二一日、十八日数度の出水を重ね、
 翌七甲戊年《1694》富時梗田殿甲府宰相松平綱豊(後の徳川家宣文明公)の領地たりしとき櫻井政能、代官として任にむや同年も五月閏五月十九日、七月三日、八月二日数度の出水あり西高橋、蓬澤は最も卑地なるを以て田畑多く沼淵となり(此時に富り村民魚を捕へ四方に鬻き食に換へ蓬澤の鮒魚本州の名産たりし)降雨毎に釜を吊し床を重ね稲田は腐敗し収穫毎に十の二、三に及ばず前に水中に没したる者数十九戸、既に善光寺〈里垣村の内)の山下に移輯し、残余の者も居住に堪へさらむとするに至り、政能憂慮し屡々上聞に達したるも聴されず、
 同八乙亥年〈1695》四月三十日蛮地踏査の上意を決し之を幕府の老臣に訴へ遂に許を得、
 同九丙千年《1696》(二百三十五年前)三月二十八日濁川の流域を西高橋より落合村に至り笛吹川に合流変更するの計画を致表し、四月二日より川除奉行をして蛮地を調査せしめ増坪より落合迄延長二千六間(甲斐団志には二千一百有余聞とあり)広き四、五間より六、七間外に附工事たる蛭澤堰附替千四百五十七間にして千二百を請負に付し其の他は関係村に夫役を賦課し、四月十五日より工事に着手し西浦川村に於て民家拾軒の移韓を要し、五月十六日悉皆竣工、其の夜の中に排水を了し田圃悉く舊に復し沼淵枯れ稼穡蕃茂し民窮患を免かるヽに至れり。
村民其の洪恩を感載し政能の生祀を建て(蓬澤庄塚)之を祀る。爾来祭祀を僻ることなく元文三戊午年《1738》(百九十三年前)孟夏従子斎藤六左衛門正辰祇役して此に至り石を司に樹て地鎮の銘を勒せり《地鎮銘略》。

素堂、芭蕉と其角を諭した『続虚栗』 序 不易流行論

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素堂の俳諧感
 
素堂の俳諧感が遺憾なく現れているのが貞享四年(1687)其角の編んだ『続虚栗』の序文である。
これは一部の識者も認めている「不易流行」論は、芭蕉に先がけ素堂が唱えたことである。
芭蕉没後の門弟たちの「芭蕉俳論」の根底をなす俳論の裏側には素堂の考えが横たわっていたのである。
 『続虚栗』の序は本文を参照していただくこととするが、その旨は、
 
風流の吟の跡絶えずに、しかも以前のような趣向ではない。……今様な俳諧にはただ詠じる対象を写すだけで、感情の込められているものが少なく情けないことである。
昔の人の云うように、景の中に情けを含むこと、その一致融合が望ましい。杜甫の詩を引用してそれは「景情の融合に在る」と説き、和歌や俳諧でもこうありたい。
詩歌は心の絵で、それを描くものは唐土との距離を縮め吉野の趣を白根にうつすことにもなり、趣を増ことにもなり、詩として共通の本質があるのだ。例えば形態のない美女を笑わせ、実体のない花をも色付かせられるのだ。
人の心は移り気で、終わりの花は等閑になりやすい。人の師たるものは、この心をわきまえながら好むところに従って、色や物事を良くしなければならない。
 として、其角が序を求めた事に対して、『虚栗』とは何かと問い掛け、序文は余り気が進まないので断りたいが、懇望するので右のとりとめのないことを序とも何なりとも名付けよと与えれば頷いて帰った。
 
 これは素堂が其角だけでなく芭蕉に対しても説いていることが理解でき、厳しい口調となっている。序文は漢詩や和歌それに俳諧も同じ文学性を持っており、景情の融合の必要性を指摘して情(心)の重要性を説いたものである。振り替って見れば、素堂は延宝八年の『俳枕』序に於いて、古人を挙げて、生き方の共通性を「是皆此道の情」と表現し、漢詩・和歌・連歌・俳諧の共通の文芸性は、この道の本質として、旅する生き方が重要な要素となって、風雅観が生まれると説いたのである。

貞享3年 素堂45才 古池や蛙飛びこむ水のおと 芭蕉

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貞享3年 丙寅(1686)素堂45才
 
          素堂、『蛙合』仙化編。発句一入集。衆議判に加わる。                                                                                               
雨の蛙聲高になるも哀哉                    素堂 
古池や蛙飛びこむ水のおと                芭蕉
 
《註》この古池やの句の最初の五は、「山吹や」であった。
魯庵の『桃青傳』によると、この句成立に関しての話として、
「甲斐國巨摩郡鳥澤・犬目両村の間に、三家塚といふ坂があって、その坂の上の桑畑の側に小池がある。口碑によると、こゝで芭蕉が古池やの句を詠んだのである」といふが之も信じがたい。(『芭蕉の全貌』萩原蘿月氏著より)
《註》十月五日、野波、許六宛書簡。
翁の古池の句貴丈ならでは聞得るもの天下になかるべきよし。然るに今天下
に名句といふ事は、俳諧せぬ者も申候。
素堂も四句の名句の内に撰出し候事、集御覧にて御存あるべく候。云々。
(『芭蕉の全貌』萩原蘿月氏著より)
《註》本間家の記録。
(前略)鹿島詣の草稿、山口素堂十三夜の文を芭蕉の清書したもの、其他一品都合三點を吐花侯へ進上した。なほ本間家には伊賀餞別一巻・深川ノ夜・芭蕉及び越人の附句一巻・阿弥陀坊前文発句一福・素堂亭集残り発句一幅云々。

「めづらしや」歌仙草稿・素堂書簡より 素堂の妻の死 芭蕉の死

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「めづらしや」歌仙草稿・素堂書簡より
森川昭氏著 一部加筆
素堂書簡
 
御無事ニ御勤被成候哉其後便も不承候野子儀妻に
離申候而当月ハ忌中ニ而引籠罷有候
 一、
桃青大坂ニて死去其事定而御聞可被候
御同前ニ残念ニ存事ニ御座候 嵐雪、桃隣廿五日ニ上り申され候
尤ニ奉存候内ゝのミのむしも忌明中候ハゝ其日相したゝめ可申候
其内も人の命はかりかたく候へ共待々て忌中もいかゝニ奉存候故也
 一、
日外翁と両吟ノ漢和之巻此方ニハひかへも無御座候
尤不宜物翁もわれらも人に見せ可申心は無御候
キ然共それ成共見申候而替度心に御座候
其上所々直し申候ハバ見られ申候儀も可有と存ル心も御座候間
御封し被成いつそ此方へ御越可被下候
一、 
例ノ年わすれ去年ハ嵐蘭ヲかきことしハ翁ヲかき申候而明年又たそや
十月廿六日冬至十一月上旬ニて
元来冬至前ノ年わすれ素堂ゟはじまると名にたち申候へ共
手前の趣何角ニて冬至前ニハ仕かたく候
其内御左右可申上候ヘハ奉待候
 
貴様  左太夫宗也 我等たな之衆ノ内ニて一両人
専吟、杉風何とそと奉存候其角ハ大坂、嵐雪・桃隣も
其内ニハ帰り申され候へく候へ共我らたれも存寄無御座候
 
曽良雅丈       素堂
 
右は高山市の長瀬茂八郎氏御所蔵の貼交屏風中の一点である。一応右のように読んだが、私には難読の点が多かったので、御教示頂ければ幸いである。
本書簡は芭蕉病歿直後親友素堂によって書かれた点に注目されるのであるが、その心情はむしろ淡々と控え目に述べられて居る、とは言うものの、
「御同前に残念ニ存事ニ御座候」
と言い、
「去年ハ嵐蘭ヲかきことしハ翁ヲかき申候而明年又たそや」
というところに、親友を失った身辺の寂寥がにじみ出ている。
この前後の門人達の動静についても新知見はなく、嵐雪・桃隣二十五日西上の事も、「枯尾花』などに知られることではあるが、それを傍証する第一等の資料とすることはできよう。
冒頭近くにいう「野子儀妻に離申候而… … 」は素堂伝記上注目すべき事実であろう。素堂の妻については、荻野清氏「山口素堂の研究」付録の年譜寛文十三年条に、甲府尊躰寺に、此の年六月七日歿の江岸詠月禅尼なる墓碑を存す。あるいは彼の妻か。(『芭蕉論考』二五一頁)
とされ、小高敏郎氏はこれを踏襲され、付して、「素堂は早くから孤閨をまもって再び娶らなかったという」と言われ、そこから素堂の人物の一面を評価された(明治書院俳句講座俳人評伝篇上三〇九頁)。ところが、本書簡によれば、素堂の妻は元禄七年、おそらくは九月に歿したものとも考えられ、上記諸説は再考を要するかも知れない。
「日比翁と両吟ノ漢和之巻… … 」は『芭蕉庵三日月日記』をさすものと考えられる。同書は、呂丸が芭蕉から乞いうけた草稿本が鶴岡の平田家に伝来するが、それと別の本がこの頃曽良の手許にあり、素堂はそれを補訂する意志があったのである。
因みに、元禄七年の冬至は、藤木三郎氏『芭蕉時代の暦」によれば十一月五日で、本書簡にいう十一月上旬に符合する。猶、本書簡が貼られている屏風には、他にも、木因書状、嵐雪書状、支考付合書留、蕪村書状(五月十四日、春泥宛)、下総守宛小堀遠州書状、天祐紹杲・松平君山の漢詩など数々の筆蹟が合装されている。
貴重な資料の閲覧・公開を許された長瀬茂八郎氏、及びあっせんの労をとられかつ同行して種々御教示を賜った北条秀雄・小瀬の両先生に心からお礼申あげます。
 
森川先生により、これまでの素堂に対する視点が大きく変わることになってきている。曾良宛の文書からは、素堂の妻の死年次が確かになった。また素堂の妻の墓について荻野先生の調査結果は明確に間違いである。それはこの墓所は複数の家の墓石があり、素堂家や甲斐諸書が伝える山口屋とは何ら関係が見えない墓である。また荻野先生の『山口素堂の研究 上』には大きな誤りが見える。「出生」・「母の没年」・「妻の没年」・「親族」など資料を持たない推説が素堂生涯を大きく誤らせた要因ともなっている。確かな資料が表れた場合は、勇気をもって訂正していくことが求められるのではないか。間違いを継承する事は賢明ではない。

素堂と芭蕉『和漢俳諧』八月満尾。支孝編『三日月日記』

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素堂と芭蕉『和漢俳諧』八月満尾。支孝編『三日月日記』
  (享保十五年刊所集)
 
納涼の折々いひ捨てたる和漢、月の前にしてみたしむ。
 
破風口に日かげやよぁる夕すゞみ 芭蕉
煮茶蝿避烟          素堂
合歓醒馬上          素堂
かさなる小田の水落すなり    芭蕉
月代見金気          素堂
露繁添玉涎          素堂
張旭がもの書きなぐる醉の中   芭蕉
幢を左右に分るむら竹      芭蕉
挈箒驅偸鼠          素堂
ふるきみやこに残る御霊屋    芭蕉
くろからぬ首かき立る柘の撥   芭蕉
乳をのむ膝に何を夢みる     芭蕉
舟鈞風早浦          素堂 鈞(ゆるく)
鐘絶日高川          素堂
顔ばかり早苗の泥によごされて  芭蕉
めしは煤けぬ蚊やり火の影    芭蕉
詑教三社本          素堂
韻使五車塤          素堂 塤(いしずえとす)
花月丈山閙          素堂 閙(さわがし)
篠を杖つく老のうぐひす     芭蕉
剪吟鮎一寸          素堂
箕面の瀧の玉む簸らん      芭蕉
朝日かげかしらの鉦をかがやし  芭蕉
風飧唯早乾          素堂
よられつる黍の兼あつく秋立て  素堂
内は火ともす庭の夕月      芭蕉
霧籬韻孰與          素堂
■浦目潜焉(なみだぐむ)   芭蕉 ■(しぐれ)
蒲団着て其夜に似たる鶏の聲   素堂
わすれぬ旅の数珠と脇ざし    芭蕉
山伏山平地          素堂
門番門小天          素堂
鷦鷯窺水鉢          芭蕉
霜の曇りて明る雲やけ      素堂
興深き初瀬の舞臺に花を見て   芭蕉
臨谷伴蛙仙          素堂
 
元禄八月八日終
 
《註》『春秋』に「元禄五年八月八日歌仙満尾ス。云々とある。

支考の「和漢文操」巻の三、大和聨句ノ序に、

  其後元禄之始也焉。在武江之芭蕉庵、
而素堂與故翁夜話之次、往古評漢和之為不自由、
當時論聨句之為不吟味、而其夜試有一聨之隔對。
「唐土有芳野櫻妬海棠」。山素堂 
「揚州無伏見桃被悪山薑」白龍子(芭蕉)
          
 (『芭蕉の全貌』萩原蘿月氏著より)
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