芭蕉庵再建 その時素堂は
素堂の俳諧感
山口素堂 『冬かつら』杉風編。芭蕉七回忌
素堂の俳諧 寛文時代
- 寛文五・六年・荻野清氏の説だと、この頃に素堂は上洛した形跡があるとし、大和に遊んだとされる。
- 寛文七年(1667)伊勢の加友編「伊勢踊」板行。山口信章五句人集。信章名での初出である。加友は伊勢松坂の樹教寺中の法樹院住職で、般舟庵・春陽軒と号し、初め杉田望一(寛永七年六月没)の門人で、後貞門子となる。晩年は同国山田に移り住んだ。寛文七年『伊勢踊」集編集のため、江戸の高島玄札を頼り下った。発句の募集は一年程前から始めたらしい。同年十一月、京都で板行し翌八年になり刊行となる。
- 寛文八年(1668)28才
- 寛文九年(1669)29才・「一本草」集 石田未琢編 信章で入集。▽素堂、『一本草』発句一入集。未琢編。(俳号、信章)化しかハり日やけの草や飛蛍 信章【未琢】生(?)~天和二年(1682)歿。年七十余か。本名、石田要之助。江戸の人、未得の息。
江戸時代前期の俳人,狂歌作者。通称,又左衛門。別号,乾堂、巽庵。江戸の人で、両替商。草創期江戸俳壇の大立物の一人で、徳元、玄礼、加友、卜養とともに「江戸五哲」 と称された。息子未琢 (みたく) の編『一本草 (ひともとぐさ) 』 (一六六九) は未得の遺志 による。未琢は未得の長男で神田鍋町に居住していた。未得はこの年七月に没した。
- 寛文十一年(1671)30才
- 寛文十三年(1673)32才・「女夫草」集 立儀編 信章で人集
▽素堂、山口清勝編『蛙井集』に発句一入集。
(俳号、信章)姫氏國や一女をもとの神の春 信章【清勝】山口清勝についての資料は少なく、この『蛙井集』は当時の軽口俳諧への非難を述べている。号は「自足子」を名乗っている。乾裕幸氏著『俳諧師西鶴』に掲載の『遠近集』の作者名に、清勝山口氏九良兵衛の名が見える。西鶴が延宝八年(1680)に興行した、『大矢数』(西鶴独吟四千句)の役人中の脇座十二人の中に、山口清勝の名が見えるが、素堂との関係は未詳。
★延宝二年(1674)33才。季吟編。《信章歓迎百韻》
100出来ん殿の御代継をまつ 正立
素堂事績 貞享1年 甲子(1684)43才
素堂事績 貞享2年 乙丑(1685)44才
素堂、江戸の家・茶道今日庵について
有明はけふの素堂の名残かな 郁文
『俳聖芭蕉』野田要吉氏(別天楼)著 素堂のこと
山口素堂 俳諧大辞典 明治書院 昭和三十二年発行
素堂の生まれたところは現在の白州町山口か?
◎『甲州風土記』
山口素堂の家は巨摩郡教来石山口に土着した郷士の家柄であった。
◎『俳文学大辞典』「素堂の項」
甲斐国北巨摩郡教来石村山口に出生。云々
◎『元禄名家句選』
甲斐国北巨摩郡教来石村山口に於いて出生。云々
以下、素堂の紹介書は数限りなくあるが、その大半は『甲斐国志』の記述影響が強いことが分かる。しかし素堂没後から『甲斐国志』刊行以前の山梨県や他の著作書には素堂が甲斐国の出身とする書は皆無である。
『甲斐国志』「素堂の項」の記述は、濁川工事の責任者とされる時の甲府代官桜井孫兵衛の事蹟を素堂の項を借りて書したもので、その根拠は斎藤正辰之の碑文である。
◎『国志』
其ノ先ハ州(くに)ノ教来石村字山口ニ家ス。因(より)氏ト為ス。後ニ居を府中魚町ニ移ス。家頗ル富ミ時人山口殿ト称ス。(中略)江戸市中東叡山麓葛飾安宅草庵。
◎『連俳睦百韻』「序文」寺町百庵著
抑々素堂の鼻祖を尋ぬるに、河毛(蒲生)氏郷の家臣 山口勘助良佞後に佞翁と呼ぶ 町屋に下る。山口素仙堂、太郎兵衛、信章、俳名来雪、其の後素仙堂の仙の字を省き素堂と呼ぶ。云々
◎『人見竹洞全集』の元禄六年(1693)素堂五十二才の項に次のように記されている。
癸酉季夏初十日二三君乗舟泛浅草川入。
川東之小港訪素堂隠屈竹径門深荷花池凉。
松風繞圃瓜満畦最長広外之趣也。
◎『地子屋敷帳』元禄九年(1696)の九冊目、深川の条
四百三十三坪(元禄六年に購入)
この土地は元禄十五年には四百二十九坪と変更されている。
◎『本所深川抱屋敷寄帳』宝永元年(1704)
素堂の抱屋敷として
深川六間掘町続、伊那半左衛門御代官所、町人素堂所持仕早老地面四百二十九坪之抱屋敷云々
この紹介文書は森川昭氏の手によるものである。
素堂は葛飾の庵に暮らし、細々と生活していたとされる書もあるが、素堂の家敷地は広大なもので抱屋敷も持っていたのである。
特に深川六間堀に所持することになった抱屋敷は伊那半左衛門代官所管轄の地である。
◎『国志』
其ノ先ハ州(くに)ノ教来石村字山口ニ家ス。因(より)氏ト為ス。後ニ居を府中魚町ニ移ス。家頗ル富ミ時人山口殿ト称ス。(中略)江戸市中東叡山麓葛飾安宅草庵。
◎『連俳睦百韻』「序文」寺町百庵著
抑々素堂の鼻祖を尋ぬるに、河毛(蒲生)氏郷の家臣 山口勘助良佞後に佞翁と呼ぶ 町屋に下る。山口素仙堂、太郎兵衛、信章、俳名来雪、其の後素仙堂の仙の字を省き素堂と呼ぶ。云々
素堂の幼少から致任するまでの間の住所と住居の変遷は確かな資料が少ない。『国志』の言を全面的に信用したい所であるが、当時山口家が巨摩郡教来石村字山口に所在したかは疑わしいもので、現在の国道二十号線沿いの旧甲州街道(甲府から諏訪)は段丘の上を通過していて、山口集落の出現も徳川時代に入ってからの口留番所を設けて久しく経過してからの集落であり、徳川以前は国境の地としてまた常に戦争の狭間として人々の住める場所ではなかった。当然素堂の家(祖先を含む)が存在した可能性は少ない。現在の上教来石村字山口集落の段丘上に「海道」の地名が遺り、付近の墓所の墓石刻印も素堂没以後の年代の物が多く、当時『国志』素道の項の記述者が、山口素堂の氏「山口」の出処を甲斐に求めた結果、教来石村山口か該当する地名がなく困惑の結果の所産ではなかろうか。
編纂約百七十五年前の素堂の出生と祖先の住居についての記述は、歴史資料に基づくものではなく、著者の推説と創作記述と断定しても間違いない。『国志』編纂に於いての上教来石村の『書上』にも素堂の記述はなく江戸の素堂の事蹟記述は『国志」編纂者の手による可能性も残されている。
資料の入手困難の中での『国志』の編纂の努力は並大抵のものではない。しかし素道の項については史実とかけ離れた記述である。
甲斐府中山口屋と素堂の関係は資料には見えない
さて甲斐府中(甲府)の魚町に在った魚町酒造業山口屋市右衛門家は本当に素堂の生家なのであろうか。これも『国志』の記述が現在では通説となっているが、その記述には曖昧さが感じられる。
先にも示した『連俳睦百韻』(佐々木来雪、三世素堂号襲名記念俳諧集)の序文を著した寺町百庵は『俳文学大辞典』によると、素堂の家系にあり、『連俳睦百韻』 には素堂の嫡孫素安より素堂号の継承を許可されたが、断わり佐々木来雪に譲った旨も記されている。この山口素安は素堂が死去した(享保元年…1716)後の享保二十年(1735)に素堂の追善を素堂亭にて実施している。所謂素堂の家系は甲斐府中ではなく、江戸に於て継承されているのである。
◎『国志』
其ノ先ハ州ノ教来石村山口ニ家ス因テ氏ト為ス。後ニ居ヲ府中魚町ニ移ス。家頗ル富ミ、時ノ人ハ山口 殿ト称ス。……長ジテ市右衛門ト更ム。盖シ家名ナ リ。
ここで注意を要するのは魚町の山口屋は酒造業を営むとは記していないことである。当時魚町に住む山口屋市右衛門は確かに酒造業を営んでいた。元禄九年(1696)を示唆する「酒造業書上書」によれば、府中には山口屋を名乗る家が二軒あった。一軒は魚町山口屋市右衛門家で、他の一軒は上一条町の山口屋権右衛門である。 さて『国志』の記述によれば
もしこれを認めるなら素堂家は教来石村に在住した時から富豪であった事が必要である。しかし素堂が生まれた寛永十九年(1642)当時の甲斐の国は大飢饉に襲われ多くの人々が飢えに苦しみ死んでいったのである。そんな時代背景の中で素堂家が教来石村にて富豪で過ごせる条件は皆無であり、山口には集落さえなかった可能性もある。またそんな中で府中に出ていって、府中山口屋を築く事など不可能に近い。
江戸時代の酒造業は厳しく幕府に管理されていて米一粒でも無駄にできず、勝手酒造は許されない仕組みになっていた。酒造業での一攫千金の業は有り得ない。
確かに山口屋は府中魚町四丁目西角に存在した。ここに山口屋市右衛門に関する確かな資料を提出する。
◎寛文十三年(1673)素堂三十三才。
『魚町宿取之覚』二月中…甲州文庫資料第二巻
当月九日に西郷筋上いますわ村拙者母
気色悪□御座候故いしゃにかゝり于今羅有候
◎貞享年間(1684~1687)素堂四十三~四十六才。
『貞享上下府中細見』…山梨県図書館蔵
一、魚町西側 表九間 裏へ町並
是は先規軒屋敷にて御座候処
四年以前子年隣買受け壱軒に
仕候付弐軒分之御役相勤申候
一、柳町四丁目 表八間 裏へ二拾二軒
北角 魚町市右衛門抱 四郎左衛門
一、川尻町弐丁目 表拾五間裏へ三拾間
魚町市右衛門抱家守六兵衛
この記録は素堂の生家としてよく引用される魚町市右衛門屋敷と抱え屋敷である。
◎『山田町宗旨改帳』…甲府市史第二巻
代々浄土宗府中尊躰寺旦那印
市郎左衛門印
同人妻印
是は府中魚町市右衛門娘拾三年以前
市郎左衛門妻ニ成 夫同宗ニ罷成候
◎享保九年(1724)
『山梨郡府中町分酒造米高帳』…甲府市史第二巻
元禄丁丑年造高 四拾三石五斗
卯造酒米石 拾四石五斗
魚町 山口屋 市右衛門印
元禄丁丑年造高 四拾弐石弐斗四升
卯造酒米石 拾四石八斗
西一条町山口屋 権右衛門印
《丁丑…元禄十年(1697)》
甲斐濁川と素堂
元禄時代以前より濁河の氾濫は続き、元禄四年には河除奉行が実地検分して幕府に申し立てをするが不許可となる。同年村役人八名は江戸に出て新堀の落ち口を切り開く訴えをするが、落ち口が上曽根村に当たるえを以て工事はできない旨となる。元禄八年四月三十日桜井孫兵衛外一名で再度実地検分する。工事許可となり同九年三月二十八日に水抜き工事の準備が始まる。四月二日河除奉行戸倉八郎左衛門、熊谷友右衛門面見分として来甲する。千八百間の内千二百間は入札請負として、同五日堀始めて五月十六日水落ちとなる。
このようにして工事は短期間で終了する。『甲斐国志』の云うような孫兵衛は兎も角素堂の関与など無い事が分かる。『甲斐国歴代譜』には、
元禄九年三月、中郡蓬澤溜井、掘抜被仰付、五月成就也。と簡単に記されている。
工事にかかった経費は三百両余である。
桜井孫兵衛は元禄七年から十四年まで甲府代官を務めた後大阪に赴任している。
斉藤正辰は元禄十六年(1703)に養子先斉藤家の遺跡を継ぎ御次番となり、宝永五年(1708)桐門番に転じ、同六年常憲院殿(綱吉)薨御により務めを許され小普請となり、享保十二年(1728)御勘定に列す。十四年(1730)御代官に副て御料所を検し、あるいは甲斐国に赴き、堤河除普請の事を務む。元文四年(1739・碑文を著した次の年)、その務めに応ぜざることあるにより、小普請に貶して(格下げ)出仕をとどめられ十一月に許される。明和二年(1765)に致任して翌三年に没している。《『寛政重修諸家譜』》
正辰は享保十八年と元文三年に甲斐入りしている。現存する石祠「桜井社」の建立年月日は享保十八年である。 私見であるが享保十八年に甲斐入りした正辰は、濁川の見分ををした折に、孫兵衛の事蹟を示す石碑を蓬澤と西高橋の名主に申しつけて、石祠もこの時に両村に建立を申しつけたのである。石祠を生祠とする説が甲斐では確定しているようであるが、一考を要する問題である。 素堂の濁河改浚工事への関与を示す歴史資料は『甲斐国志』のみで、その基の資料は未見である。
素堂死去した後、『甲斐国志』までの期間に素堂及び山梨県の歴史資料には、素堂と甲斐の関係や濁河工事関与を示す書は無い。
※三、享保十二年(1732)『甲州囃』村上某著
◎四、元文三年(1738)『孫兵衛地鎮碑文』正辰著
◎五、宝暦元年(1751)『俳諧家譜』丈石著
※六、宝暦二年(1752)『裏見寒話』野田成方著
◎七、明和二年(1765)『摩訶十五夜』山口黒露著
※八、明和六年(1769)『みおつくし』久住他著
◎九、明和七年(1770)『俳諧家譜拾遺集』春明著
◎十、安永八年(1779)『連俳睦百韻』佐々木来雪著
※十一、天明三年(1789)『甲斐名勝志』萩原元克著 十二、文化十三年(1816)『甲斐国志』松平定信編
荻野清氏の「山口素堂の研究」
『甲斐国志』巻之四十三 「庄塚碑」 誤伝の伝播
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☆甲斐濁川改浚工事概要 素堂は関与していない
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