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甲斐の史跡巡り 東光寺
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甲斐の城 毎日新聞 信春館
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甲斐の城 白山城
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甲斐の城 毎日新聞 旭山砦
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甲斐の城 毎日新聞 小山城
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甲斐の城 毎日新聞 甲府湯村山城
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甲斐の城 毎日新聞 御坂城
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農家 米つくり古図
中世の米作り
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誤った山梨県の歴史 山口素堂と甲府濁川工事
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甲府市文珠神社 山口素堂治水碑
素堂治水碑
所在地 甲府寿町 文殊神社境内
正面
翁諱信章通称官兵衛氏山口素堂其号也寛永十九年五
月生于甲府為人清廉忠直博渉諸芸最精水利代官桜井
政能挙僚属信任甚渥城南濁河原毎歳漲溢高橋蓬沢諸
村特甚元禄中翁佐政能築堤二千一百間添河十村頼以
免其害村民深徳之建生祠於蓬沢祀政能与翁之霊享保
元年八月翁病没於江戸近年志士建碑于東京本所桃青
寺品川子爵題曰素堂翁治水碑撰文表彰其蹟翁妙俳諧
好遊四方与芭蕉翁最親名聲亦相匹云所著有句集文集
等行于世頃者翁後裔山口伊兵衛與諸友謀建石于甲府
新町稲荷祠前請余記其事顧翁之功績子爵既悉之不俟
余贅也因聊録其梗概繁之銘曰
築堤致績頓屏禾穀豊熟民物安寧恩被閭里遺徳
馨後人追慕勤功慰霊死者如活苔石青々
表側
明治三十三年八月 山田弘道篆 平原豊撰並筆 志村三代蔵刻
裏側
右 浅川□□□・浅川□□郎・高瀬源十郎(上部欠損)
左 賛成人
山田町 石氏兵作 緑町 早川元兵衛
佐渡町 荻野金吉 江州□□□ 石井権八
泉町 中谷孫兵衛 新町 青柳定兵衛・加藤静甫
柳町 向井定七 畑 京助・山口幸太郎
金手町 佐野定七 大木喜内・小宮山兼作
貢川 小林常兵衛 高木金二・小宮山光作
(以下欠損のため不明) 小宮山理作
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山口素堂 妻のふるさと甲斐に入る
『甲山記行』(素堂著)
それの年の秋甲斐の山ぶみをおもひける。
そのゆゑは、
予が母君いまそかりけるころ身延詣の願ありつれど、
道のほどおぼつかなうてともなはざりしくやしさのまゝ、
その志をつがんため、また亡妻のふるさとなれば、
さすがになつかしくて、葉月の十日あまりひとつ日、
かつしかの草庵を出、むさしの通を過て
かはくなよわけこし跡はむさしの々月をやどせるそでのしら露
其日は八王寺村にやどり、十二日の朝駒木根の宿を過、
小仏峠にて
山窓や江戸を見ひらく霧の底
上野原に昼休、これより郡内領なる橋泊。
橋の長さ十六間、両方より組出して橋柱なく、
水際まで三十三尋、水のふかさも三十三ひろあるよしをまうす。(註 猿橋のこと)
暫シ止レ吟ズルコトヲ鞍往キ又帰、渓深ク苔滑カニシテ水音微カナリ。
雲埋二老樹一猿橋上、未レ聴二三声一沾二客衣一ヲ。
勝沼昼の休す。此所あふげば天目山、
臥て見れば一里ばかりの間みな蒲萄のみなり。
下くゞる心は栗鼠やぶどう棚
伊沢川日上人(日蓮)の一石に一字書つけてながし玉ふも拾ひつくして乗るによしなし。
さびたりとも鮎こそまさめたゞの石
十三日のたそがれに甲斐の府中につく。
外舅野田氏(註、妻の父)をあるじとす。
十五夜、
またもみむ秋ももなかの月かげにのきばの富士の夜のひかりを
十三夜沢三寂興行に
楓葉巻レ簾入レ興時、主賓相共ニ促二ス二新詩一ヲ。
今宵玉斧休脩ノ月、二八蛾眉猶是レ宜シ。
晴る夜の江戸よりちかし霧の不二
十九日信玄公古府中を尋侍りて
古城何處問二フ栖鴉一ニ、秋草傷霜感慨多シ。
力抜レ山今時不レ利アラ。惜シキ哉不レ唱二大風ノ歌一ヲ。
城外の夢の山にのぼりて奇石を見出し、
草庵へむかへとりて山主人に一詩をおくる。
万古高眠老樹ノ間、一朝為我落ツ慶寰ニ。
石根應レ見白雲ノ起ルヲ、今尚不レ醒在リ夢山ニ。
二十一日身延へ詣けるに青柳村より舟を放て
竹輿破レリテ暁出二城門一ヲ、紅葉奪フレ名ヲ青柳村。
十里舟行奔二リ石上一ヲ、急流如レ矢射二ル吟魂一ヲ。
はき井の村につきて某夜はふもとの坊にやどりし。
元政上人の老母をともなはれし事をうらやみて、
夢にだも母そひゆかばいとせめてのぼりしかひの山とおもはめ
一宿ス延山ノ下、終宵聞二ク妙音一ヲ。
清流通リテレ竹ヲ鳴リ、閑月落二ツ松陰一。
暁ニ見二烟嵐ノ起一ルヲ、偏ニ忘二ル霜露侵一スヲ、
鐘鳴ハ猶二ホ寂莫蕈一、好ク是ヲ洗二フ塵心一ヲ。
翌朝山上に至り上人の舎利塔拝て、かひの府より同道の人、
上人の舎利やふんして木々の露
北のかたへ四里のぼりて七面へ詣けるに山上の池不レして一点のちりなし。
此山の神法会の場に美女のかたちにて見え給ふよしかたりけるに
よそほひし山のすがたをうつすなる他のかゝみや神のみこゝろ
下りに一里ばかりの間松明の火にてふもとの坊に帰りぬ。
翌日甲斐の府へ帰路の吟
帝おちの柿のおときく深山裁
重九の前一日かつしかの草庵に帰りて
旅ごろも馬蹄のちりや菊かさね
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甲府市濁川 甲斐国志 素道の項
『甲斐国志』素道
元禄八年(1695)乙亥歳素堂年五十四、帰郷して父母の墓を拝す。
且つ桜井政能に謁す。
前年甲戊政能擢されて御代官触頭の為め府中に在り。
政能は素堂を見て喜び、抑留して語り濁河の事に及ぶ。
嘆息して云う。
濁河は府中の汚流のあつまる所、
頻年笛吹河背高になり、
下の水道『みずみち』のふさがる故を以て、
濁河の水山梨中郡に濡滞して行かず。云々
然れども閣下(素堂)に一閲して、自ら事の由を陳べ、
可否を決すべし望み、謂う足下に此に絆されて補助あらんことを
素堂答えて云う。
人は是天地の投物なり。
可を観て則ち進む。
素より其分のみ。況んや復父母の国なり。
友人桃青(芭蕉)も前に小石川水道の為に力を尽せし事ありき。
僕謹みて承諾せり。
公のおうせにこれ勉めて宜しくと 云々
素堂は薙髪のまま双刀を挟み
再び山口官兵衛を称す。
幾程なく政能許状を帯して江戸より還る。
村民の歓び知りぬべし。
官兵衛又計算に精しければ、
是より早朝より夜遅くまで役夫をおさめて濁河を濬治
【水底を深くすることす。云々】
是に於いて生祠を蓬渾村南庄塚と云う所に建て、
桜井明神と称え山口霊神と併せ
歳時の祭祀今に至るまで怠り無く聊か洪恩に報いんと云う。
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”山梨県私立歴史電子図書館” 山梨県の歴史情報満載””
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『利休茶道具』山田宗偏著 山口素堂序文
『利休茶道具』山田宗偏著 山口素堂序文
世雖多遊芸者専礼無過點茶之交胃我聞礼始ト於飲食蓋坳地而貯飲食手食之時其理既備而後礼儀三百威儀三千簠簋籩豆之類皆自然所興之者也茶器之行於世亦然矣熟想強拘定式法数実不知斯道者還廢定式法数実不知斯道者也爰山田氏宗偏撰茶亭之定数及茶器之図法而示後学是應得魚而忘筌之意矣宗偏夫何人也
曰千氏宗旦老人之高弟而究宗易居士少庵翁所授受之道以譲於不審庵之人也雖然以旦老之子孫有数多漫不彰其號因舊呼四方庵有年于茲矣去甲寅之冬應或人之需而界四方庵之額且依門人之勧而茶亭挑不審庵之額従是號宗易居士四無之不審庵者也予以喫茶之友聞此趣聯題篇首耳
元緑壬午夷則上旬賤筆
於圓荷露
葛村隠素堂
(陽刻)(陰刻)
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『連俳睦百韻』による素堂消息
『連俳睦百韻』による素堂消息
素堂を語る時、安永八年(1779)三世素堂による『連俳睦百韻』は外せない。『甲斐国志』は寛政10年(1798)、甲府勤番支配として滝川長門守利雍が赴任し、利雍在任中の同 11年(1799)は林大学頭が、甲斐の地誌編纂を利雍に命じた。そして文化十一年(1814)に完成した。従って『連俳』はそれ以前に素堂周辺の人々で編まれたもので、『国志』編纂関係者も年代的には「素道」の項に取り入れることが出来た。しかし『国志』の文面からはこの集を取り入れた形跡はない。従って素堂事績も大きな誤りを生んでしまった。しかし甲州文庫の功刀亀内は、上段にこの『連俳』を掲載している。その以後研究者は『国志』からの引用を繰り返している。
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『利休茶道具』山田宗偏著 山口素堂序文
『利休茶道具』山田宗偏著 山口素堂序文
茶器之行二於世ニ一亦然リ矣熟想強チ拘二定式法数ニ一実ニ不下知二斯道ヲ一者ニ上還マタ廢二ルモ定式法数一ニ実不知二ル斯道ヲ者上ニ也
爰ニ山田氏宗偏撰二テ茶亭之定数及ヒ茶器之図ヲ法一而示二サル後学一是応下マサ得レ魚ヲ而忘レ筌ヲ之意上ナル矣宗偏夫何ン人也ソヤ日ク千氏宗旦老人之高弟而究下二メ宗易居士少庵翁所二授受一ル之道上ヲ以譲二ル於不審庵一之人也 雖然以三旦老之子孫有二ルヲ数多一漫不レ彰二其号一因レテ旧ニ呼二コト四方庵一ト有レ年二于茲一ニ夷矣去ル甲寅之冬応二テ或人之需一ニ而界二ヘ四方庵之額一ヲ凶且依門人之勧茶亭ニ挑二ケ不審庵之額一従レ是号宗易居士四無之不審庵者也
予以喫茶之友聞此趣聯題篇首耳元緑壬午夷則上旬灘筆於円荷露
葛村隠素堂
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山口素堂序文 山田宗偏 若草茗椀記(わかくさめいわんき)
若草茗椀記(わかくさめいわんき)
旧知山田氏茶器数多(あまた)翫(もてあそ)べる中に、分きて若草の茗椀は、その拠り出る所、千宗守翁の家に、宗易の土より伝え来たる木守(きまもり)といえる茶椀、何れの年にか、池魚の災いに罹りしを、其の形を写して玩ぶこと前に同じ、其の後(おく)る方、守翁手づから写して並べ、これを愛せられし、ある時山田氏のもとへ袖にし来たりて与えられしとなり、
抑(そもそも)これを若草と名付くること、焼野の草の其の根たらむ、若葉の生い出たる心をとるなるべし、又剥の卦の木守の心をいわば、これを復といわん、若草若草武蔵野の縁の心も寵りて楽しみ果てなかるべきをや、唐・玉川の言えらく、肌骨(きこつ)清く、六椀仙家に通ずとかや、
将に是れ老いず死なずの薬となりて、常しなえに若草とよぶものならじ
雲行きて雨を施し、物皆潤う
心地悠然たること、草根に通ず
見見ゆるに若葉を生ずる時有り
一椀又是一乾坤なり
素堂山子書 (印)(印)
元禄十五新樹の時
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山口素堂 俳諧大辞典 明治書院 昭和三十二年発行
俳諧大辞典 明治書院 昭和三十二年発行
俳人。山口氏。名は信章。字は子晋、文、公商。通称、勘兵衛(異説もある)。別号、来雪・松子・素仙堂・蓮池翁。又、茶道の号に今日庵・其日庵。覚永十九年(一六四二)五月五日生、享保元年(一七一六)八月十五日没、年七十五。墓、上野谷中感応寺中瑞音院。
【閲歴・編著】
甲斐北巨摩那教来石宇山口の産。少時、父と共に甲府に移り、更に二十歳前後の頃江戸に出て、林家について漢学を修めた。寛文中期頃は、しばらく京都に在って、和歌や書道を堂上家に学んだらしい。江戸定住後は、儒学文は算用の才をもって官に仕えたようで、延宝七年三十八歳の折致任して上野不忍池畔に居隠棲した。貞享二・三年、葛飾の阿武に移り、芭蕉その他、蕪門系俳人及び戸田茂睡・人見竹洞のような文人と交わりを深め、隠逸閑雅の境に徹して生を終えた。但し、元禄五年に母を失い(?)同七年親友芭蕉に死別してからは、しばしば旅に出かけ、又、九年には郷里の吏の懇望によって濁河の治水に尽した。俳諧は一般に季吟門と伝えるが、最初の師はなお他にあったものと推測される。
句の初出は伊勢踊(寛文七年)で、その後、延宝年間には『江戸両吟集』『江戸三吟』等に談林作家として活発な動きを見せ、天和年間には虚粟調の俳諧を支持して、蓮を詠じて名高い荷興十唱などの作品があったが、貞享末年以後は沈滞に陥り、元禄十一年頃新風の興行を去来に申し入れた外は、総じて俳諧に対して不即不離の態度を持続するにとどまった。後半生における俳諧は、彼が別に嗜んだ茶道・書道・能楽・漢詩・和歌と同じく、畢竟、品性を培う一法にすぎなかったようである。けれども、その作品は、寡作の憾みこそあれ、人間を反映して高踏清雅な趣があり、両者の間には自然混融が生まれ、素堂の脱俗高邁は芭蕉に、よって摂取され血肉化されたものと考えられる。ことに『虚栗』の前後において、儒学者素堂の左袒による芭蕉の利は多大なものがあったに相違なかろう。かくて素堂は蕉風の歩みに親しく参与する者であり得た。彼が蕪門の客分として重んぜられたのも当然といわねばなるまい。門人に黒露・馬光・子光らがあり、後世、馬光門の素丸によって、素堂を始祖とする葛飾蕉門なる俳系が誇称せられた。著書にはその没後世に出た『とくとくの句合』がある。
外に素堂の名に託した『松の奥』『梅の奥』があるが、共に偽書であろう。家集に、享保六年子光編のものと、後世成美の門人久蔵が編したものがあり、文『俳諧五子稿』のうちにも素堂の句集を収める。追善集には『通天橋』(一周忌)『ふた夜の影』宝暦二年・『摩詞十五夜』(五十周忌)等があった。
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素堂の事 『俳聖芭蕉』野田要吉氏(別天楼)著
『俳聖芭蕉』野田要吉氏(別天楼)著 昭和19年刊。理想社発行
延宝時代桃青の連句
宗鑑守武等の興した俳譜は俳諧連歌のことで、滑稽體の連歌といふ意味である。俳諧といへば、その初頭の長句、即十七句の発句と、之に続く短句、十四字の脇句より以下の附合全體を総括した名称であるが、近来は俳諧のことを一般に連句と称えているから、私も連句と呼ぶことにする。
桃青時代の連句で今日傳っている最古のものは、延宝四年(二十三歳)の作『江戸両吟集』である。江戸両吟集は桃青がその俳友山口信章(素堂)と二人で、菅神奉納の為に試みた二百韻のことである。後、延享四年に『梅の牛』と改題して前半は再版せられたものが、今日行はれている。
江戸両吟集の作者の一人山口信章は甲斐の国巨摩郡教来石村字山口の産で、名は信章、別に来雪と號し、其日庵とも今日庵とも称した。又素仙堂と號したが、後には専ら素堂、といふ俳號を用ひた。素堂の家は、元来富裕であったが、彼は江戸に遊学して林春斎に経学を修め、後京都に上りて俳諧を北村季吟に、書道を持明院家に、和歌を清水谷家に学び、又茶道香道にも勝れ、琵琶、謡曲等の諸芸に通じていた。一たび郷里に帰ったが、遂に家を弟に譲り江戸に出でゝ更に儒学を修め、諸藩の間に講学した。
後居を葛飾に移して隠棲した。たまたま桃青の芭蕉庵に近く、元より同門の好みもありて二人の交遊は年と共に深まった。素堂が葛飾に移り住んだのは天和元年と『葛飾蕉門分脈系図』に云っているが、延宝四年に『江戸両吟集』が出ているのを見ると、二人の交情は桃青が江戸に下った後日ならずして結ばれたものであろう。素堂は常時既に談林の影響を受けていた。そしてそれを桃青に及ぼしたものであろう。素堂は桃青より長ずる事一歳、漢学の造詣深かりし故、桃青も素堂を門人扱ひにせす、素堂先生と呼んで推伏していたほどであった。かくて二人は俳諧革新の意気相投合して、一時は談林の感化を受けしが、遂に天和の新風を興し、蕉風樹立の基礎を築いたのであった。
素堂は嘗て郷里に於て、代官桜井政能の嘱を受けて蓬沢治水の業に従ひ、克く土民の苦患を除きしに依り、蓬澤に祠を建てゝ山口霊神と祭られたことは『葛飾蕉門分脈系図』に記すところである。
桃青が小石川水道工事に従事した頃には、既に素堂との交情は深かったのだから、桃青の治水の技術方面には、素堂の後援があったのではあるまいか。郷里に於て治水の功を樹てた功績を慕はれて、土民から山口霊神として祀られたほどの素堂が、桃青の水道工事に何程かの援助を與へたであろうことは無稽な推察ではあるまい。 吉田博士の地名辞書引く所の『産業事蹟』には、
甲州笛吹川の畔河流壅塞して平常水患を被るもの九村、蓬澤西高橋の一村境甚し。元禄中田園変じて池沼となり、多く鰤魚を産するに至る。代官櫻井孫兵衛政能見庶の疾苦を察し、濬治の計を幕府に以聞す。元禄九年政能新に渠道を通じ土堤を築くこと二千百五十間、其の広さ四五間より六七間に至る。
以て濁川を導く。淳水一旦に排泄して田園悉く舊に復す。府中魚町の富民山口官兵衛信章(素堂)政能を輔けて治河の功あり、村人之を徳とし、生祠を蓬沢南庄塚に建てゝ、櫻井山口二人を祭拝したりとぞ。……
とある。これに依れば素堂治河の功は芭蕉没後のことのようである。されど『葛飾蕉門分脈系図』には
始甲斐国巨摩郡教来石山口に住し山口市右衛門と号し頗る家富り。櫻井孫兵衛政能に廃し蓬澤の水利に功有、後東都東叡山下に寓居し儒を専門とし詩歌を事とし、云々。
と見えてみる。これに依れば東都に出る前に郷里に於て治水の功ありしものゝ如くである。私は姑くこの後説に従って桃青との関係を述べた。
素堂は享保元年八月十五日江戸に於て享年七十五で逝去した。その俳系は葛飾風として傳へられ、素堂を其日庵一世とし長谷川間尤、溝口素丸、加藤野逸等柑継ぎ、門葉大いに栄えた。彼の一茶は、初め素丸の門に学んだのであった。
『江戸両吟集』の二百韵は、今日傳っている桃青の連句としては最古のものであるが、この二百韵には既に談林の感化が認められるのである。信章の素堂が談林かぶれのしてゐたことは前にも挙げたが、桃青の親友の一人小澤卜尺もまた談林に足を入れていた。云々
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芭蕉の甲斐落ち
……芭蕉の甲斐落ち……
引用資料『俳聖芭蕉』 野田要吉先生(野田別天楼) 昭和十九年発行
天和時代の芭蕉
《前文略》
其角の枯尾花に芭蕉庵急火に依り、芭蕉は潮にひたり苫をかつぎて煙のうちを逃げ延び「是ぞ玉の緒のはかなぎ初也。爰に猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発して」と云ってみるが、芭蕉はこれより前に、俳頂禅師に参じて悟道の修行をしていたのだから。世蕉庵の焼失に遇ひて、始めて「猶火宅モの変を悟り、無所住の心を発して」といふ譯でもあるまい。しかし芭蕪庵の焼失は芭蕉に「無常迅速生死事大」の念を一層深からしめたに違いなかろう。芭蕉庵焼失を十二月廿八日の大火の時とすれば、やがて年も暮れ果てゝ佗しいうちに天和三年を迎へた事であるう。杉風、卜尺など物質的に芭蕉を援護してぬた門人達の家も多く類焼したのだろうから、芭蕉は真に身を措くに処なき思いであったろう。されば焼野の原となった江戸を逃れて、甲州落となったのである。
芭蕉庵の甲州落
後年のことであるが、金沢の北枝が火災に遭った見舞状の中にも、
……池魚の災承り、我も甲斐の山里に引うつり、さまざまの苦労いたし候へば、御難儀の程察し申候……と芭蕉がいっている。
『枯尾華』に
……其次の年夏の半に、甲斐が根にくらして、富士の雪のみつれなければ……
といっているが、其角は芭蕉庵焼失を天和三年としているから、その次の年は貞享元年となるわけだが、これも誤りであって、芭蕉の甲州行は天和二年(?)の事である。
成美の『随斎諧話』
芭蕉深川の庵池魚の災いにかゝりし後、しばらく甲斐の国に掛錫して、六祖五平というものをあるじとす。六祖は彼ものゝあだ名なり。五平かって禅法をふかく信じて、仏頂和尚に参学す。彼もの一文字だに知らず、故に人呼んで六祖と名づけたり。ばせをも又かの禅師の居士なれば、そのちなみによりて宿られしと見えたり。……
とあり、
湖中の『略伝』には、
深川の草庵急火に、かこまれ殆あやぶかりしが(中略)その次の年佛頂和尚(江戸臨川寺住職)の奴六祖五平と云(甲州の産にして、仏頂和尚竹に仕へ大悟したるものものゝ情にて甲斐に至り、かの六祖が家に冬より翌年の夏まで遊されしとぞ……
といひ、
一説に、甲州の郡内谷村と初雁村とに久敷足をととゞめられし事あり。初雁村の等力村萬福寺と云う寺に、翁の書れし物多くあり。
又初雁村に杉風が姉ありしといへば、深川の庵焼失の後かの姉の許へ杉風より添書など持れて行れしなるべしと、云う。
とも云っている。これ等の説悉くは信ぜられないが、芭蕉が参禅の師仏頂和尚の奴六祖五兵衛といふもの甲斐に国に居り、彼をたよりて甲斐の国に暫く杖を曳かれたといふ事は信じてよいようだ。五兵衛のことはよく分らぬが、眠に一字なきにも拘はらず、禅道の悟深かりし故六祖といふあだ名を得ていたものらしい。
六祖はいふまでなく、慧能大鑑禅師のことで、眼に文字無かりしも、菩提本非樹、明鏡亦非臺、本来無一物、何処惹塵埃。の一偈によりて五祖弘忍禅師嗣法の大徳となった。六祖の渾名を得ていた五兵衛と同門の囚みに依って、芭蕉は甲斐の国に暫く衣食の念を救れたのであった。
甲斐の国には芭蕉門下の杉風の姉が住んでいたといふ『略伝』の説が事実とすれば、一層好都合であったろう。なほ甲斐の国は芭蕉の俳友素堂の郷国であるら、素堂が何ら後援をして、芭蕉を甲斐の国に一時安住の地を得しめたのではないかと、私は臆測を逞うするのであるが、単に臆測に止りて、之を実証するに足る文献の発見されないのは遺憾とする所である。
甲斐の国に芭蕉の居ったのは約半年位のことゝ思はれる。その間芭蕪は高山麋塒、芳賀一唱等と三吟歌仙二巻を残して桐雨の『蓑虫庵小集』に採録している。
夏馬の遅行我を絵に見る心かな 芭蕉
変手ぬるゝ瀧凋む瀧 麋塒
蕗のに葉に酒灑の宿黴て 一唱
弦なき琵琶にとまる黄鳥
洗ふ瀧の鏡などゝてはさくらは二十八計けん
……芭蕉の甲斐落ち……
引用資料『俳聖芭蕉』 野田要吉先生(野田別天楼) 昭和十九年発行
天和時代の芭蕉
《前文略》
其角の枯尾花に芭蕉庵急火に依り、芭蕉は潮にひたり苫をかつぎて煙のうちを逃げ延び「是ぞ玉の緒のはかなぎ初也。爰に猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発して」と云ってみるが、芭蕉はこれより前に、俳頂禅師に参じて悟道の修行をしていたのだから。世蕉庵の焼失に遇ひて、始めて「猶火宅モの変を悟り、無所住の心を発して」といふ譯でもあるまい。しかし芭蕪庵の焼失は芭蕉に「無常迅速生死事大」の念を一層深からしめたに違いなかろう。芭蕉庵焼失を十二月廿八日の大火の時とすれば、やがて年も暮れ果てゝ佗しいうちに天和三年を迎へた事であるう。杉風、卜尺など物質的に芭蕉を援護してぬた門人達の家も多く類焼したのだろうから、芭蕉は真に身を措くに処なき思いであったろう。されば焼野の原となった江戸を逃れて、甲州落となったのである。
芭蕉庵の甲州落
後年のことであるが、金沢の北枝が火災に遭った見舞状の中にも、
……池魚の災承り、我も甲斐の山里に引うつり、さまざまの苦労いたし候へば、御難儀の程察し申候……と芭蕉がいっている。
『枯尾華』に
……其次の年夏の半に、甲斐が根にくらして、富士の雪のみつれなければ……
といっているが、其角は芭蕉庵焼失を天和三年としているから、その次の年は貞享元年となるわけだが、これも誤りであって、芭蕉の甲州行は天和二年(?)の事である。
成美の『随斎諧話』
芭蕉深川の庵池魚の災いにかゝりし後、しばらく甲斐の国に掛錫して、六祖五平というものをあるじとす。六祖は彼ものゝあだ名なり。五平かって禅法をふかく信じて、仏頂和尚に参学す。彼もの一文字だに知らず、故に人呼んで六祖と名づけたり。ばせをも又かの禅師の居士なれば、そのちなみによりて宿られしと見えたり。……
とあり、
湖中の『略伝』には、
深川の草庵急火に、かこまれ殆あやぶかりしが(中略)その次の年佛頂和尚(江戸臨川寺住職)の奴六祖五平と云(甲州の産にして、仏頂和尚竹に仕へ大悟したるものものゝ情にて甲斐に至り、かの六祖が家に冬より翌年の夏まで遊されしとぞ……
といひ、
一説に、甲州の郡内谷村と初雁村とに久敷足をととゞめられし事あり。初雁村の等力村萬福寺と云う寺に、翁の書れし物多くあり。
又初雁村に杉風が姉ありしといへば、深川の庵焼失の後かの姉の許へ杉風より添書など持れて行れしなるべしと、云う。
とも云っている。これ等の説悉くは信ぜられないが、芭蕉が参禅の師仏頂和尚の奴六祖五兵衛といふもの甲斐に国に居り、彼をたよりて甲斐の国に暫く杖を曳かれたといふ事は信じてよいようだ。五兵衛のことはよく分らぬが、眠に一字なきにも拘はらず、禅道の悟深かりし故六祖といふあだ名を得ていたものらしい。
六祖はいふまでなく、慧能大鑑禅師のことで、眼に文字無かりしも、菩提本非樹、明鏡亦非臺、本来無一物、何処惹塵埃。の一偈によりて五祖弘忍禅師嗣法の大徳となった。六祖の渾名を得ていた五兵衛と同門の囚みに依って、芭蕉は甲斐の国に暫く衣食の念を救れたのであった。
甲斐の国には芭蕉門下の杉風の姉が住んでいたといふ『略伝』の説が事実とすれば、一層好都合であったろう。なほ甲斐の国は芭蕉の俳友素堂の郷国であるら、素堂が何ら後援をして、芭蕉を甲斐の国に一時安住の地を得しめたのではないかと、私は臆測を逞うするのであるが、単に臆測に止りて、之を実証するに足る文献の発見されないのは遺憾とする所である。
甲斐の国に芭蕉の居ったのは約半年位のことゝ思はれる。その間芭蕪は高山麋塒、芳賀一唱等と三吟歌仙二巻を残して桐雨の『蓑虫庵小集』に採録している。
夏馬の遅行我を絵に見る心かな 芭蕉
変手ぬるゝ瀧凋む瀧 麋塒
蕗のに葉に酒灑の宿黴て 一唱
弦なき琵琶にとまる黄鳥
洗ふ瀧の鏡などゝてはさくらは二十八計けん
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