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白州町台ケ原 寅の舞 広報北杜表紙


樹木にやさしいフエンス 何かを教えている

やはり狛犬は笑っている

北杜市破壊された遺跡 遺物 縄文から平安

明野新田 名門小野家の墓参り行ってきました

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2015年10月23日 - 北杜市ふるさと資料館 明野町 ・ 峡北偉人伝 永峯秀樹 生家 ・ 峡北偉人伝 小野琢輔 ・ 峡北偉人伝 小野春輔 ・ 小野泉 ... 明野町 故郷の偉人たちより 名門小野家の系譜 ... 山梨県歴史上最高の土木功労者 現明野町浅尾新田窪田幸左衛門.
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2015年9月29日 - 北杜市偉人伝 小野實(実)北杜市明野町浅尾新田通仙次男 参考資料 小野春輔(實)『 評伝 永峯秀樹』永峯秀樹 家門勤学 ... 実は小野家の二男として生まれた。 ... 天保元年 (1830)家を辞して伊豆地方に遊び、三島にて医院を開業する。
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2015年8月18日 - 長男、泉は県立病院創設者、次男実も蘭万医戸塚文海の弟子、実の孫娘に小野勇二 氏(甲府市小野病院長)を迎えている。三男民也は ... 小野家の跡地は浅尾新田明野線の大榎のあるバス停から南へ少しいった処にある。その空地を南へ ...
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2015年6月21日 - 修験小野家系譜について ◎『甲斐国寺記・社記』一部加筆 分家二軒 医師 小仙、先祖 小野玄貞秀長 は拙寺四世玉宝院 秀伝三男 に御座候所、去る享保 年中寺内江分家 仕り候。 ... 薬王寺 巨摩郡浅尾新田(現在の北杜市明野町浅尾新田).
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... の偉人たちより 永峯秀樹. ・山梨県歴史上最高の土木功労者 現明野町浅尾新田窪田幸左衛門 ... 〇金ケ嶽の薪左衛門 明野町. ・『甲斐叢記』朝尾新田 小野家関係 入 集作品 ... 北杜市偉人伝 小野實(実)北杜市明野町浅尾新田. ・北杜市明野町 浅尾 ...
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山梨県明野村浅尾新田の蘭方医小野通仙の末子(三人の兄も蘭法医)として生まれた 。 .... 韮崎駅から明野線バスで三十分、便の大樹が立つバス停「朝神小学校」(現在は ... こゝで、薬王寺と永峰の生家である小野家との関係が問題になるわけであるが、先.

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2015年12月25日 - 山梨の偉人 山梨の先人 山梨県郷土歴史)(北杜市ふるさと資料館 三枝雲岱と周辺の 人々 足跡と事績)
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山梨の偉人 山梨の先人 山梨県郷土歴史)(北杜市偉人伝 - 詳細表示 - 北杜市ふるさと 資料館 三枝雲岱と周辺の人々 足跡と事績)
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山梨の偉人 山梨の先人 山梨県郷土歴史)(三枝雲岱 - 詳細表示 - 北杜市ふるさと 資料館 三枝雲岱と周辺の人々 足跡と事績)
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白州ふるさと文庫 山口素堂資料室さん: 三枝雲岱と周辺の人々 .... 2015/12/27 00:09 北杜市の偉人 山田水穂(大泉町)の歌碑; 山田水穂の歌碑『甲州の文学碑』奥山正則 氏著 一部加筆 大泉村の西井出にある 耕志廼業怠る郡家乃子ら山田尓み膿流秋乎わ  ...

笛吹權三郎の秘話と笛吹川の名の起こり

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笛吹權三郎の秘話と笛吹川の名の起こり

「おお、今夜も月が出た。そろそろ權三郎さまの笛の音が、また物悲しく聞こえてこようぞ」
「ほんにおかわいそうな権三郎どのよな。母君を慕う真心の一念が、ああして死んでしもうたあとまで、川の瀬に高麗(こま)笛を吹かせるとはのう」
 笛吹川に沿った万力から大野村(現山梨市)へかけての部落では、きまって月夜の晩には権三郎のことを話しあったあと「ナムアミダブツ」と唱えながら大きなにぎりめしをつくり、笛吹川に流して供養していた時代がある。
飢えを偲んで溺死した殿上人の子を悼んでしばらく続けられた仕来りである。
 時は後醍醐朝(一二八八~二二三九) の正中年中のことだ。鎌倉幕府を倒そうとして計画のもれた日野資朝は、日野俊元とともに捕えられて佐渡へ配流されたのち処刑された。
芹沢部落の古記録に依ると藤原北家流に属する藤原権三郎という少年が、母とともに父のあとを慕って三富村芹沢へ来たり、住んでいたとある。藤原北家流とは日野家を指すもので、女は三代にわたり足利将軍の正室として権力を
ふるったのは、日野富子などで知られるところである。
 この藤原を名乗るある殿上人の一人が、正中の変に加わって、京を遁れて芹沢部落で死んだあと、その殿上人の妾が権三郎を伴って、芹沢に世を忍ぶ身となったことからこの物語ははじまる。
 殿上人の側室「おせよ」は京をのがれて浪々の身を甲斐路に向けたのは京を出て数年目のことである。
「三富村の奥に名のある殿上人が隠棲している。」
こんな噂を耳にした母子は、胸膨らませてそこを訪ねあてると、不運にもその人はすでに故人となっていた。
「もはや望みは絶たれた。ここに住んでひっそりとお父上の墓掟を葬いつつ、帝(みかど)の世に復する機を待とうぞ」
「せよ」は権三郎を相手に、夫の部下でいまは百姓に身をやつしている日原十左衛門を心の頼りに、子酉川(ねとり)の岸辺にある方十六間という巨大な岩陰に小屋を建てて身を落ちつけた。なれぬ旅路の果てに草深い奥秩父の山奥で、細々と暮らしをたてていた「せよ」の心に常に浮かぶのは、華やかな京の暮らしと、恋しい夫の面影であった。こんな傷心の「せよ」をいつも慰めてくれたのが権三郎の吹く高麗笛の音であった。
 権三郎は身の守りにとて兜の下に潜めて置いた一寸八分ほどの兜不動尊像を大岩の上に安置し、その前に座して、希望のない山峡の明け暮れに、笛を唯一の慰めとしていた。芸に長けた一家の天性を享けた権三郎はどんな難曲も吹きこなし村人たちにも潤いを与えていたので、村人たちから「笛吹き権三郎さま」と親しまれていた。
 「せよ」が望む京都では後醍醐天皇が隠岐に移され、ますます京へ帰るのぞみは絶たれた。こんな寄る辺ない母子に聞くも無残な死が相次いでおとずれようとは……
 そのころの子酉川(ねとりかわ)下流は、まったく治水の策など講じられていない時代のことである。
 沿岸の部落は、大雨の降る旅に洪水が襲った。その洪水が権三郎母子の住む小鼻を押し流したのはある初秋の夜半のことだった。幸い水魔から逃れた権三郎は、必死になって母の姿を捜したが、洪水も治まり、ふたたび笛吹川の水が青く澄みかえっても母の姿はついに発見できなかった。
 天涯孤独の身となった権三郎は、母の姿を求めて夜となく昼となく笛吹川原を上り下りして笛を吹きまわった。初めのうちは同情していた村人たちも、この気違いじみた母恋うる権三郎を次第にうとましく思うようになった。
 真黒に日焼けして働く若者たちにとって、色白美男の貴族のご落胤は、働くことの嫌いな怠け者に見えたのかもしれない。あまつさえ権三郎の面倒をみていた十左衛門までが、
「いくら生死を共にしてここまで遁れてきた主の御子とは申せ、あのように学問武芸にも身を入れず稚児のように母を恋うて笛を吹き暮らしていては、時いたって京へ連れ帰っても、ものの役には立ち申さぬ。面倒みてもせんない子よな」
と愛想づかしをしてしまった。
 権三郎は浪々のうちに成長したとはいえ、殿上人の御子であるという母のもつ誇りが権三郎を大らかに育てたうえに、天性の働くことなど考えなくても、立派な殿上で多くの供にかしつかれ威敬されていればすむといった貴族的素質がそなわっていたので、母を失った権三郎は、何一つ自分の身を保っていく生活のことなどは考えおよばなかった。
 しかし権三郎とて人の子、ようやく周囲の目が冷たく自分の背に注がれていることを知ると、ますます母恋いしさに十左衛門の元へも寄りつかなくなり、不動岩の小屋にこもって人目をさけて笛を吹いてすごしていた。糧を得ることをしらぬ権三郎は、飢えてもひもじさを顔にあらわさず、食を乞うようなこともせず、命果つることさえも念頭におかずに笛を吹きつづけていた。彼の命を支えていたものはわずかに水と木イチゴのような木の実の類にすぎなかったので、いつしか権三郎は骨と皮ばかりにやせ細ってしまった。孤児となった権三郎の心のすべてを占めているのは母の面影であり、母へのひたむきな愛情であった。
「権三郎や、美しい音色だこと」
 懐かしい笑顔で母が呼びかけてくるものと信じて、日夜川原をさまよっていた権三郎の姿がぷっつりと消えてしまったのは、そろそろことしも洪水の襲ってくる九月初秋のことだった。
 すっかり世間から見放された権三郎ではあったが、姿が見えなくなると、にわかにその身を案ずる声が高まり、
「手分けして探しだそう」
「高貴なお方の御子じゃ。村中で面倒をみるのが当然じゃわい」
とばかりようすが一変した。
「おかわいそうな権三郎さま」ことに村の若い娘たちは、異端者として近づくことをゆるされなかった少年ながら、心の底では「なんと美しく高貴の顔立ちをしたお人よ」と、それぞれ憧れを抱いていたので、ひとしく涙を絞った。こぞって村人が川べりをたずねまわると、
「おお笛を吹く少年とな。それならせんだって、丸太のいかだに乗って笛を吹きつつ川を下っていったはずじゃが」
 さらに下流の方を訪ね訪ねて万力、大野を経て小松の川原にいたると、日川と重川をあわせる三川合流点に、権三郎の乗っていた筏が漂着していた。そのあたりをいくら探しても権三郎の姿は見えず以来妖怪がおこるようになった。
夜な夜な笛の音が
「おっ、あれは権三郎の笛の音ではないか」
 十左衛門は洪水もおさまり、ほっと一息いれて晩の食膳にむかっていると、初秋の月光に誘われるように、じようじょうとした笛の音が流れてきた。十左衛門は顔青ざめて箸をとりおとした。
「だれか笛の音のするあたりにでかけてみてこい。もしや権三郎君ならばすぐさま連れかえって、あたたかい食事を与えよ」
 十左衛門は下僕に命じた。主の御子を飢死にさせたことに対し、ひどく心を傷めていたからである。下男はまもなく息せき切ってもどってきた。
「旦那さん、わしが川原へいったときには、もう村の者たちも権三郎さまではないかと案じて集まっておりやしたが、権三郎さまの姿はどこにも見当たらねえので戻りやした」
「何と、ではあの笛の音は?」
「はい、笛の音はたしかに聞こえるが、権三郎さまはいらっしやらねえだ。村の衆は権三郎さまにひもじい思いをさせたのでその恨みで亡霊が笛を吹くのだといって、みんな逃げちまっただ」
「だがあの笛の音はたしかに権三郎のよく吹いていた聞きおぼえのある曲」
 十左衛門は、突然裸足のままその笛のする方向に、脱兎のように駈けていった。
「ゆるせ権三郎ぎみ、この不忠なる十左を」
 姿は見えねど高まる笛の音を前にして、十左衛門は両手をついて悔恨の涙をしぼった。
 飢えた権三郎は、深い子酉川の淵に、足をとられて沈んでしまったか、世をはかなんで身を投じたか、いずれにしてももう権三郎の気品に満ちた色白の優雅な姿をみることはなくなったが、笛の音だけは月のある晩ほかならず聞こえてきた。また、そんな晩には村人たちがおにぎりをむすんで川へ流したともいう。

笛吹川の名のおこり

 手品のあと、手の内をみせるようだが、さいごに笛吹川の名の起こりについて調べてみよう。笛吹川は三富村芹沢に一枚のこつている古文書をみると、むかしは芹沢部落の下方にある不動尊岩から上を子酉(ねとり)川といい、下流を笛吹川と呼んでいたとある。東電の地図ではナレイ沢までを笛吹川、上流を子酉川と記してあるが、古老の口伝にたよると上流は子酉川で不動尊岩下流が笛吹川だというご説である。
 甲斐国語をみると、笛吹川は方位子より発し九曲して酉に流れるので子酉川あるいは昔は淵多く、瀬が笛吹くように聴こえたからなどみえる。
 さらに笛吹川は、支流に「琴川(別称帯締川は山伏が琴屋敷より金峰山に登ったとき沐浴して帯をしめたからなど)」・「鼓(つつみ)川」のあるところから、日本の古代楽器、笛、琴、故に因んでつけられたという、頷ける説もある。鼓川は別に堤(つつみ)川とも書く。これは現牧丘町小田の山の城主だった安田遠江守義定(在世一一三四~九四)が堤を築いて川の水を貯えておき、いざ敵ござんなれというときは、堤の土手を切り崩して人工洪水をおこして敵の人馬もろとも押し流して一挙に殲滅するため堤を造って置いたからという説もおもしろい。
 さて権三郎の墓が石和町近くの小松の長慶寺にある。いまもって三富芹沢の部落の人達はこの墓の供養を怠らない。ではこの権三郎を東山梨郡誌から拾ってみる。内容は天正五年(一五七七)七月二十日。三富村上釜口の権三郎が笛吹川に溺死し、その骸が小松に漂着したので長慶寺に葬り、いつも香華が絶えないとある。
さらに無量山長慶寺開山の由来には、永禄不年(一五五八)三月十七日に、武田信玄が巡察のみぎり、権三郎を済度した賞として長慶上人に金欄の袈裟を賜ったとある。しかしこれではまだ権三郎が溺死しないうちに、(永録は天正より二十年前)祟りを及ぼして上人が済度し、信玄から恩賞をいただいたことになる。さらに上人の権三郎を済度した徳四方に聞こえて村の有士よりあって長慶寺を建てて長慶上人を開山にしたとある。

 甲斐国志に次の記録がある。

天正五年七月十六日、三富村芹沢の少年が洪水で溺死し、死体の漂着した小松長慶寺に葬り、いまそこに塚があるといったところから後世の伝説であることはたしかである。芹沢にある権三郎の不動尊のうしろに、
「山おろし雪の白波ふきたてて、子酉流れる笛吹の川」
とある。夢想国師が、トサカ山から広瀬へおりてきたときの歌ということだが、国師の著書には何一つ見当たらぬが、上広瀬にある国司山西光寺の開山となっているとしたら国師年表に加わる新しい事実だ。
 その他三富の伝説をひろうと前記の国司山西光寺である。いまも上広瀬西側に「寺平」「鐘撞堂」という地名がある。広い石垣のあとから寺跡ということがはっきり分かる。西光寺は夢想国師が国師(司)岳から砥坂(とさが)山の諸山を経て、ここに到り霊感をうけてここに一宇を建効したという由来だ。三富村の三の橋から上釜口ではむかしから「寺なし蔵なし」ということわざがあって、寺を建てても災いあって、うまくいかず、いまもって蔵がなく寺が建たぬというところ。西光寺のあったことはあきらかでも、こんないわくもあってつぶれてしまったものだろう。
 なお芹沢に多い日原性は自野資朝の義兄日野道義の末流とも、日野河内守?の末ともいわれる。
 七つ釜不動尊芹沢の不動岩(いまは区で処分してない)を前不動、七ツ釜を北奥宮といった。別に筑江山頂に大国主命他神を奉る山官もあった。
 おもしろいのは女郎星が三軒あったという新地平である。ここには七、八軒の部落がある。いつのころかここに女郎屋敷があって女郎がいて春をひさいだという。これは地名からして存在したことはあきらかだ。山伏や行者が飛竜権現、将監峠の午王法印(熊野系)砥坂山の霊山を回って修行のため往来の激しいころ、武田金山の鉱夫、山伏を相手にした遊女だ。
 

北杜市から富士山を望む

日本社寺建築の美 長坂町清光寺の総門


歌舞伎  写楽画 松本幸四郎 中山富三郎

江戸時代街道地図

源氏物語絵巻 竹河

 新羅三郎義光 足柄峠事績は 両者の年代が合わない

源頼光 大江山酒天童子

装飾古墳 北九州王塚古墳

甲斐 武田勝頼に見捨てられた幼君の顛末

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武田勝頼に見捨てられた幼君の顛末

 二つの(芍薬)シャクヤク塚 

 天正十年三月九日のこと、新府城を焼いて石和の宿まで落ちてきた勝頼主従の隊列にまじって、乳母に抱かれた幼児の姿が痛々しく人々の目に映った。これが勝頼あるいは一子信勝側妾の子とはっきりしない幼君だが、これからのべるシャクヤク塚の碑文通りに受け止めると勝頼側妾の男子とみるべきだろう。
 さて石和の宿半ばにして勝頼は馬上で幼君の泣き声を耳にして馬を留めた。乳母の懐に抱かれた幼君は腹でもすいているのか、火のついたように泣きじゃくって容易に泣き声は止まらなかった。名門武田の最後が迫り、打ちひしがれた将兵の中にあって、乳母は早くなだめようとすれば、かえって自分の方が泣けてくる始末だった。
 勝頼はしばらくその憐れな様子をみていたが、はたと思いつくことがあって、鎮目の臣渡辺加兵衛久郡を馬前に呼んだ。
「加兵衛に頼みがある」
「へ、へいわたくしめにできますことならなんなりと」
加兵衛は頭をたれて一礼した。
「いましきりにすねておるその子をみてふびんでならぬ。いずれは勝板の子として首討たれるやもしれぬが、その間なりとも育ててはくれぬか」
「へ、へいお言葉とあればこの加兵衛、命にかけてもお守りいたしまするが、おん殿の大事をまえに、加兵衛ここより袖わくるはうしろ髪ひかれる思いにて無念に存じまする」 
「その心づかい無用じゃ。勝頼の男子を恙なく育てかくまうことも大事ぞ、兄弟うち揃うて決戦まじうる所
存にてその子の行末しかとたのんだぞ」
 ということで、加兵衛は弟二人とともに幼君を守ってこっそりと鎮目の屋敷にもどった。
 口伝によると、加兵衛のあずかった勝頼の男子は、まもなく三日三晩泣きあかしてのち急死してしまったということである。三日目というと三月十一日、折しも勝頼主従はいさぎよく戦って、ことごとく田野において討死自刃した日である。
 現在この幼君を葬ったといういわれの、シャクヤク嫁が一つある。一つは石和北小の西側橋のたもとにある某氏宅の田の中に、五輪の頭だけをのこす古い石塚と、石和北小東側を南に少し入った突き当りの中村起雄氏宅の宅地内に、謂れの判読できる墓碑である。いずれもシャクヤクの花が植えてある。土地の人たちは昔から、「シクヤク姫の塚」といっているが、碑の正面に戒名は「武性院殿斉理周哲大童子」とある以上明らかに男子で、武将のような身分の高い子供に与えられたものである。さらに五輪塔といえば名のある武将でないと建てられなかった点で、これも勝頼が匿わせた幼君と判じて誤りはあるまい。
 よく討死した総大将の墓は五輪塔(密教に由来し、地、水、火、風、空の五大をあらわし四角、円、三角、半円、如意形の五輪の積石には一字ずつ梵字が刻まれているものが多い)で、それをとりまく家臣の墓は宝筐印塔という四角ばった宝塔であることに気づかれるとおりだ。
 棒氏宅の墓碑銘をみると、建立は文化四年(一八〇七)八月とあるから一六〇年程前のものだが某氏宅の塚は四百年の風雪を経ていることがよくわかる。
 碑文は漢書で刻んであるので分かり易く述べると次のようになる。
 
天正十年壬午、武田氏が滅んだとき、その臣渡辺加兵衛久衛は一族を率いて主君勝頼のあとを慕い追う。主君の子、二歳を鎮目に逃してこれを匿い、その成長を願った、その子は翌天正十一年三月に早死してしまった。そ
してその子を某氏の別荘に葬り、石をもって祀り、そこにシャクヤクの花を植えた。その後久しくこの墓を守っ
ていたが某家は産を失い別荘をおいて他へ居を移した。この墓の中の宝器でも目当てか、墓はその後の天明年間に盗まれて荒廃が久しくつづいたが、渡辺孫太郎兵衛の代にいたって志をおなじくする兄弟縁者集がまってここに墓碑を再建した云々)
とある。
 墓碑面の東側には、建立した者の姓名が、渡辺太郎兵衛を筆頭に五名刻まれて文化の年号でおわっている。
 渡辺家はむかしから「一丁田の郷士渡辺太郎左衛門」といわれて本家は鋲目近在の豪農といわれている。
 渡辺加兵衛久郡がわが身のため幼君を始末してしまったと考えられるのは、武田滅亡とともに久郡は大久保長安の伊豆銀山へ召し抱えられ、その子に至って長安事件で浪人したと甲斐国志にでている以上、忠臣のうちには入らない。
 

牧の成り立ち 木崎牧 

山梨に眠る真田の歴史 長坂町

長坂町 龍眼寺 真田隠岐守信尹の系譜

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真田隠岐守信尹の系譜
  真田一族の系譜 田中誠三郎氏著(松代史談会会長)
真田一族の系譜 『歴史と旅』「特集 戦国真田軍旗」昭和60年刊

 (略)
隠岐守信之(信伊 のぶただ)の系譜
・真田幸村が大坂の陣を前にして大坂城へ入城したことは、徳川家康にとって大きな心理的打撃であったにちがいない。そこで家康は旗本の真田隠岐守信尹(信昌が正しい)に命じていろいろと有利な条件をしめして懐柔を試みたが、遂に幸村は応じなかった。
 その信尹は幸隆の四男だが母は分らない。幼名を源次郎といい、武田氏の一門加津野氏を継ぎ、加津野市右衛門と称した。
 『甲陽軍鑑』に「信州先方衆 かず野市右衛門 十五騎足軽十人持」とあるのがそれである。永禄十二年に北条左衛門太夫網成を相州深沢城に攻めたとき、網成の旗印の「黄八幡」の旗を奪って信玄から激賞されている。この旗ほ、現在も真田宝物館に所蔵されている。
 天正十年(一五八二)に武田氏が滅亡したあと徳川家康に仕え、甲斐国巨摩郡のぅちで三千石の知行をうけた。関ケ原および大坂冬・夏の陣に戦功をたて千石を加増され御旗奉行となり、寛永九年(一五三二)五月四日、八十六歳で没した。
山梨県長坂町龍眼寺に墓がある。
 妻は武田氏の臣馬場美濃守信房(氏勝ともいわれる)の娘である。同家から本家の松代真田家に寄せた「親類書」に次の如くある。
 信声の長男は長兵衛幸政(三千石・御鉄砲頭)、二男は内蔵助正信(信勝とも。千二百石・御花畑組頭)といった。幸政の妻は昌幸の娘であるが、その子の左兵衛幸信二千五百石)に子がなく断絶。
二男幸能(五百石)にも男子がなかったが、娘に縁続きの妻木彦右衛門頼照の二男幸頼を迎え、それ以後は幸隆-幸久-幸定-幸充-幸徳と続いた。
 なお松代藩士柘植信辰の書いた「真田家御系図」に次のようなことが書いてある。
・・幸政の子の幸信に男子がないため、幸政の妻(昌幸娘)は、二男の幸能に
跡目を継がせたいと思い運動したが「遺跡断絶知行召し上げられる」との判決で幸信系は断絶した。また幸能の養子となった幸頼(妻木氏)の母も昌幸の娘で、紀州九度山にて御召仕女の御腹に御出生、大坂陣のとき酒井左衛門尉の手の者に捕えられしを、妻木彦右衛門が聞き出し縁組、徳川秀忠公この由を開かれ御勘気ありしが後年御免なり・・。(下略)

北杜市・韮崎市古代三御牧(馬牧・勅旨牧)歴史家の誤り

甲斐源氏と馬

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