↧
山梨県の偉人 浅川巧 北杜市高根町
↧
山梨県の偉人 浅川巧 北杜市高根町
山梨県の偉人 浅川巧 北杜市高根町
環境保全と国際親善の先駆者
連翹(れんぎょう)の花
忘憂里(マンウリ)の丘
平成四年四月二日 浅川巧の墓参のため韓国を訪問する私たち一行八人を乗せた日航九五一便は、午前十時東京国際空港を出発。予定通り午後零時二十五分頃金浦国際空港に到着した。
到着ロビーで族行社の出迎えを受け、ガイドが紹介された。その案内のもとに、共同墓地のある忘憂里に直行した。地理に暗く、山の名前もわからないが、岩肌の露出した山のあちこち尼、連翹や山つつじの花が咲き乱れ、柳の緑が美しかった。漢江の北岸を進むこと約七十分、車はソウルの街を西から東に貫いて忘憂里に到着した。
浅川巧の墓
浅川巧の墓は、はるかに漠江の流れを望むなだらかな山の中腹にあった。彼は、今から六十二年前の今月今日、忘憂里の自宅でなくなり一度里門里(ソルロンタン)の韓国人墓地に葬られたが、後にその墓地が道路工事にかかったため現在地の忘憂里に改葬された。よく整備された墓域には、中央に土を盛りあげた墓があり、墓前右手には、兄伯教の設計になる李朝白磁の壷を摸した高さ約一メートル二・三〇センチの白い花崗岩の墓碑、左手には、一九六六年(昭四一)、韓国林業試験場職員一同によって建てられた「浅川巧徳之碑」があり、墓前中央には、一九八五年(昭六〇)、これも韓国の人々によって建てられた
「韓国を愛し韓国人を愛し、韓国の山と民芸を愛した日本人韓国の土となる」とハングルで刻まれた碑が建っていた。里門里から忘憂里への改葬も月々の墓域の整備も全て韓国林業試験場の人々をはじめ有縁の人々の手によって行われたという。今も墓地の清掃は、名称はかわったが山林鹿林業研究院院長趙在明(ゾザイミヨン)氏をはじめ関係の方々の奉仕によってなされているという。
私たちは用意された花籠とマッコリ(濁酒)一瓶を墓前に供え、異国の地に淋しく眠る同郷の先人のみ霊に敬虔(けいけん)な祈りを捧げた。拝礼を終ってふりかえった時、ガイドさんがそっとハンカチで目頭をぬぐうのを目にした。墓前に供えた花籠は、成田空港出発前に旅行社を通じて予め準備を依頼したものだが、マッコリは彼女の好意によるものであった。
「故人は、生前マッコリが大変お好きであったと伺いましたので……」
との説明であった。
浅川巧は、今も、韓国の人々の心にしっかりと生きているのである。
墓地の背後の林の中にも連勉の花が咲き乱れていた。
伯教・巧の育った風土
北杜市高根町五町田村
洩川巧は明治二十四年(一八九一)一月十五日、山梨県北巨摩郡甲村(現・北杜市高根町)五町田に生まれた。実家は農業兼紺屋を業とし、養蚕も行った。五町田は八ヶ岳南麓のほぼ中央に位置する高原の村である。地名の由来について二説がある。一つは地主神熱田明神の神領が五町歩余であったことによるとする説、いま一つは御所田の転靴によるとする説である。
近世には五町田村といい一つの村であった。『甲斐国志』によれば
「村高三一七石二斗五升七合戸九七、口三七二 男一九三女一七九 馬二四 西井出村(現大泉町)ノ南隣り 大八田村(現長坂町)へ三町許り」
とある。維新後、明治七年十一月十七日、五町田村上黒沢村下黒沢村の三村が合併して一村となり、村の中央を商流する甲川に因んで甲村と命名された。
浅川巧が少年時代を過した五町田の様子を書いた兄伯教の文章があるので、少し長文であるが紹介する。これは巧の没後、昭和九年に『工芸』が」浅川巧追悼号」を編集した時、「彼の故郷と其祖父」という題で掲載されたもので ある。
甲州と云ふたら、日本内でも山の中で、その北巨摩郡の逸見と云ふたら馬と同居していると人のよく云ふ処で、実際は鰹や鰊やひらきはあの通りの姿で泳いでいるものと子供の時は思ふたものだ。八ヶ岳の南麓の原で、村が十ケ村位ある。甲村と云ふのは其の中程の村で、字を五丁田と云ふた。
金峰山から出る旭は西の駒ヶ岳に没する。駒ヶ岳に続いて鳳風山、地蔵ケ岳がある。これ等の山を西山といふ白根も極僅かに見える。青田越しに遠く富士が見える。岡の起伏に雑木林があり、間に畑や水田がある。大きな金持ちもなければ、そして貧乏人もない。働けば食へる部落である。
五丁田と云ふのは百戸位の家数で、周囲の部落に用を弁ずる百貨商・古着屋・菓子星・染物屋・紙屋・鍛冶屋・豆腐屋・床屋・医者・仕立屋・大工・佐官などの家があり、半農半商で、この高原の極めて小さな町である。毎月の午の日には、倉原(蔵原:註)の(鎧堂・よろいどう)観音へ参る奥地の人が、ここに出て来て用を弁ずる。
昼の時計は太陽で、夜の時刻は星で定める。高原の夜の星は都会で想像する事の出来ない美しさを持つ。ことに秋から春にかけては、三つ星さんは最も深い印象を持つ。冬籠りの炬燵から出ては三つ星さんで刻限を計る。
登板を定めて廻る冬の夜番も星の刻限で、一軒々々丁寧に「ご用心なすって(なさって)」と起して歩く。「ごくろうさんでごいす(ございます)」と返事のある迄一夜の中に三回起して歩くのだ。三つ星が斜に駒ヶ岳の上に傾く頃が最後である。
歳時記の季節を追ふて一年中の行事を行ふ。次から次へと準備備、実行、
完成、収穫と時節に応じてくり返して行く。仕事の間に適当にお祭りが割込ませられる。七夕の星の祭りから空の祭りが始まる。盆祭り、十五夜、十三夜、秋の収穫の済む頃に十ケ夜(とうかんや)、山の仕事が済んでお山の神の祭り、冬篭りに入る。商家の恵比寿講が済んで正月に入る。
村の青年の十四日祭礼、娘さんたちの祭りの針供養、手習いの子供の天神講、初午祭り、彼岸の寺請、季節に応じて仕事に祭りが織り込まれ、村も人も同じ気分で時を追ふて行く。天候などでも長い経験で不思議な予感を持つ。諏訪口が明けると晴、佐久(長野)風が吹くと雨、駒ヶ岳に嵐が立つと翌日は寒い。上行寺の鐘が聞こえると雨、蟻の歩き方や、蚤を火にして其の音で天気を判断したりする。
こうした天体の運行や季節の変化、動植物の成長、人事の出来事等に人間の行動を順応させ、そこに詩情を見出きせ、短い詩形の俳句と云ふものが与へられる。
きさらぎ、水ぬるむ、ささなき、下萌、つくし、たんぽぽ、只こう名詞を羅列しただけでも故郷の春を思はずには居られない。(後略)
村の自然のたたずまいや、その自然にとけ込んだ純朴な村人の生活が、淡々とした筆致で描かれていて、読むものにほのぼのとした温かさを感じさせる。
明治九年
話はややさかのぼる。明治九年六月、山梨県令藤村紫朗は、地租改正に当って地価算定の規準となる米麦の石代について、従来貢納石代相場として用いてきた甲府外三ケ所(鰍沢・黒沢・勝沼)の相場の過去五ケ年の価格を平均した
ものを布達したが、上記四ケ所の平均では全管内の平準を得難いとの批判があったので、四ケ所に加えて峡南の南部村、西八代の市川大門村、峡北の五町田の三村を加えた計七ケ所五年間の平均を算定して米麦価を布達した。
このことは、五町田村が八ヶ岳南麓の村々の経済の中心的な存在であったことを示しているものといえよう。
中央線の開通
その後、国鉄中央線が明治三十七年(一九〇四)十二月、長野県富士見まで開通し、日野春駅が開設されるに及んで、逸見台地の中心が次第に日野春へ移っていった。(長坂駅の開設は大正七年十二月)
好学
ところで、甲村であるがこの村は、好学の村柄であった。大正四年、山梨教育会北巨摩支会発行の『北巨摩郡誌』は甲村の項で
「本村は維新前より学事大いに開け居たり」
とし、学制旗布前の明治四年五町田村の農家を充てて、博文堂という教育施設を設け、前徽典館学頭須田遵を招聴して教育を行ったこと、明治五年、この学校は逸見郷学校と改められたことが伝えられている。
また、『高根町誌』によれば、幕末から明治初年にかけて美濃の国安八郡養股村黌(こう)門寺の三男清一郎なるもの霊応寺北門に住居し、漢籍の素読を指南したこと、同じ頃、五町田村小尾伊平の子息圭一が清水源五郎(蕪庵四世彦貫)の跡を継いで清水姓を名乗り、琢礱(たくろう)社を建てて漢学を指南していたが、後に横浜に出て英語を学んで帰り、博文館を開設して漢学に英語を加えて指導したという。
兄伯教の前掲の文章の続きの部分で、時代ははっきりしないが、思朝閑と名乗る上方の人が五町田に来て庵を結んで一生を終った。この人は学者であると同時に諸芸に通じており、生け花は池の坊で東山銀閣寺の百杯に出たとも云
い、京都の公卿の出ともいわれ、伯教・巧の祖父四友はこの人に生け花を学んだともいう。
この他五町田村とその近郷には、関流の和算の研究グループもあった。明治三年、このグループは近くの郷社熱那神社算額を奉納した。これが県内唯一の算額で、高根町の文化財に指定されている。この様な風土のよってきたる渕源をたどれば、ゆきつくところは兄弟の曾祖父小尾兵之進までさかのぼらなければならないが、この次の項「伯教・巧の系譜」にゆずることとする。
伯教・巧の系譜
曾祖父小尾兵之進
小尾兵之進は、寛政四年(一七九二)五町田に生まれた。諱(いみな)は保教、字は子孝、鳳山と号した。兵之進は通称である。伯教・巧兄弟には曾祖父にあたる。家は代々村の名主をつとめた。幼くして隣村大泉村谷戸の森越義樹について漢学を修め、学は一家をなした。
宋の程朱を祖述して詩は中唐の元、白居易の詩風を奉じた。
前掲の『北巨摩郡誌』によれば、天保年間、甲府代官松坂三郎左衛門則方は学事を好み、台ケ原・駒井・五町田の三ケ所に学校をおき、小尾兵之進に出講させたという。同書の人物誌-小尾兵之進の項に「私塾を開き子弟を教養すること千余人」というのはこのことを指していると思われる。
俳号、守彦
また、兵之進は俳句を蕪庵二世蟹守に学び、その衣鉢を継いで蕪庵三世となり、俳号を守彦といった。
蕪庵とは、甲州における蕉(芭蕉)風俳諧の結社で、藤田村(現・中巨摩郡甲西町)の五味可都里を創立者とし、二世蟹守までは藤田村が中心であったが、三世守彦以降中心が逸見地方に移り、五町田を中心に発展した。
守彦のあと、四世清水彦貫・五世植松田彦・六世小尾四友・七世雨山無畏・八世洩川刑洲と昭和初年まで続いた。
『土鳩集』
『土鳩集』は守彦の撰になる句集であるが、県内外を問わず三百名近い俳人の句が掲載されており、守彦の宗匠としての活躍の広さが推測される。この他、兵之進には『人道俗説弁義』・『鳳山詩文稿』・『新編俳譜文集』等の著作があった。
兵之進は五町田村の名主としても名里正であった。農事に励み村民をよく教導し、淳朴の風他と大いに異なるところがあったという。特に年貢のとりたては公平で無理がなかったので、村民の信頼厚く三十余年訴訟事は全くなかったという。天保七年(一八三六)八月、甲州全域を震験させた天保騒動に際しては、騒動は五町田村にも及んだが、名主兵之進の処置は極めて適切で、乱後、代官所から銀七杖を下賜されお褒めにあずかった。
天保十五甲辰年(一八四四)九月四日没、五十三歳であった。辞世の句、
名月の余波ばかりとなる夜かな
兵之進には三人の息子があり、長男五兵衛は俳号を保守といい家を継いだ。次男俊右衛門は、隣村村山西之割村の植松俊右衛門家を継いだ。俳号を田彦といい蕪庵五世である。三男を伝右衛門といい小尾伝右衛門家を継いだ。俳号を四友といい、蕪庵六世である。
浅川巧の系譜(簡略)
祖父小尾兵之進(蕪庵三世守彦)1793~1844
三男、小尾伝右衛門(小尾清内家を継ぐ 蕪庵六世四友)1827~1890
小尾清内 娘 きくと結婚(養子に入る)
長男 如作(浅川家を継ぐ)
千野真蔵➡娘 けいと結婚
伯教 (1884~1964)
たかよ(1887~1970)
みつえ(1891~1921)
巧 (1891~1931)
政蔵 (1892~1945)
咲子 (1893~1976)
さかえ(1904~1981)
祖父、小尾四友
小尾兵之進の三男、通称伝右衛門、俳号四友といったことは前説で述べた。浅川巧の父方の祖父である。明治三十四年(1901)一月十六日に七十五歳で亡くなっているので、逆算して文政十年(1827)頃の生まれである。小尾清内の娘きくと結婚して清内の養子となり清内家を相続した。家業は紺屋であった。小尾清内は通称を伝右衛門といい、四友の伝右衛門は養父の名を嗣いだものである。家は代々名主の家柄であり、清内も、天保騒動の時には、兵之進と共に銀五枚を下賜された。兄植松田彦の跡をついで蕪庵六世となり宗匠生活を送った。
出生前に父を失った巧は、この祖父の庇護のもとに成長した。
前掲の雑誌『工芸』浅川巧追悼号に、兄伯教がのせた「彼の故郷と其祖父」の中で、祖父四友の思い出を次のように語っている。
そしていつも祖父のことに話題が入ると、「よいお爺さんだったなあ」と思はず言ふて話を結ぶ。お爺さんの性質を最もよく受けて居るものは弟であった。年を拾ふに従って益々お爺さんに似て来た。
兄弟の祖父四友への思慕の情が極めて深いことがよくあらわれているとともに、巧の性格が祖父似であったとがわかる。
四友の相続した小尾清内家も名主の家柄であったことは前述したが、四友自身も村の名主を勤め郡中総代まで勤めたことが、兄伯教の次の文でわかる。
旧幕中は郡中絶代とか云ふ役で、この地方の米を集めて幕府に納める為江戸に行った。鰍沢から富士川を下って、岩渕に出で、清水から品川に上り、上納が済む迄江戸に居らなければならなかった。こんな事で何か思ふたものか焼きものを始めたこともあった。職人を入れて窯を作り始めた処が、高火度の土がなくて本焼が出来ず、失敗したらしい。自分が覚えてからも轆轤(ろくろ)や型ものが家にあった。又種壷、徳利がごろごろして居た事を覚えている。物心が出てから籾殻を積んで素焼する事や、土の出場所を教へて貰った事があった。少年のこんな一寸した事が自分等の現今に、こんなに影響するかと思ふと恐ろしくなる。
明治二十三年七月十五日、息子の如作(伯教・巧の父親)が、幼い子供二人と妻の胎内灯未生の児をのこしてこの世を去ってから、四友もその妻も「隠居気持ちから心を更へて、孫共を大前にしなければならぬ」と生活態度を変え
た。手習いの子供が大勢来ていたが、それらをことわって、農業と家業である紺屋の仕事に専念した。兄伯教は、その頃を思いおこして
「祖父母も母も、何しろよく働いたものだ」と述懐している。そのような生活の中でも昼食後一時間位は、定まって座敷の柱によりかかって読書をする。自氏文集・七都集・唐詩選などをよく読んだ。
祖父は俳人としてその天才とも思はれぬが、連歌は達者なものだった。よく遊歴人が他国からも訪ねてきたが、感心して居った事も憶へて居る。祖母の田舎料理は味噌汁と漬けものが自慢と云ふでも無いが、いつも賞められた。別に厄介するでもなく、気安く宿したり泊めたりしたものだ。帰る時には人によっては族費を包んで渡す。この銭は別に持って居った。それは句会に行った時の謝礼其まま中も見ずに小さなカバンに沢山入れて置いて、下から出しては用ひて居った事が死後に判った。謝礼の中を改める気持ちを嫌ったものらしい。
いつも朝は七部集の連歌を口ずさみ乍ら庭を掃く。狂句木枯の句や、初冬や今年も袴着て帰る、など終り迄全部自分等でも暗誦した位だから、何時でもやって居ったものだ。-中略-朝早く起きて、田の水を見廻る。帰りにはおもだか・水引草・めど萩・ふとゐの様な草花をとって来て、うすばたに挿した。
- 中略 -
巧は根性が宜いと云ふてよく嘗められた。自分が十八歳弟が十二歳の春とは成った。ふとした事から風邪を引いて正月を炬燵で過した。裾について月の十六日に去った。病床でどんなに苦しくても七部集を読んでやると喜んで居った。
変に静になったので、「お爺さん」と呼ぶと返事が無い。驚いてそばに行って見ると、もうこの世の人ではなかった。
明治三十四年一月十六日の朝であった。
理屈を抜きにして泣き事を云はず、楽に働いて環境に興味を感じ、その内に人のなさけや詩を見出し、所謂、俳人かといふとそうでもなく、百姓かと云ふとそうでもない。学者でもなく仕事の中に俳句を見出し、俳句に仕事を見出し、村に事件が起ると頼まれて行っては何とか片つけて来る。結婚の事から、夫婦喧嘩の仲裁、若い男女のかけおちの後しまつ迄持って来る。
仕事に貴賤のあるを知らず、何でも働いて暇があれは読書する。裾について眠る迄は其の日の出来事を俳句にまとめる。連歌を詩の対話と心得、心得のある人に過へば直ぐ始める。祖父は結極自然に対してのブルジョアーであった。
宗匠四友の日常生活である。昭和三年五月、門人たちが集って四友の句碑を氏神熱田神社の境内に建立した。
不断きく 声をはなれて 初烏
伯教と巧みの父母
↧
↧
山梨県の偉人 林業技術者 浅川 巧
林業技術者浅川 巧
農林学校に学ぶ
巧は、明治三十年四月村山西尋常小学校に入学した。当時小学校の義務年限は四年であったので、同三十四年三月同校卒業。同年四月に秋田尋常高等小学校に入学した。三十四年には村山西小学校にも高等科が設置されているが、巧は如何なる理由によるのか秋田へ入学した。当時の高等小学校は修業年限が二年~四年の別があったので、その関係であろうか。
秋田尋常高等小学校を三十八年三月卒業、同校補修料一年を経て、明治三十九年四月、県立山梨農林学校に入学した。第三回生である。同年六月、校名が山梨県立農林学校と改められた。
この学校は、明治三十七年四月、農林業振興を目的として中巨摩郡竜王町赤坂に設立された。設立の場所選定に当たっては「沃土を選ばず不毛の土地を拓いて優れた技術の導入によって実習させる」とし、開拓精神の旺盛な学校で
あった。
この学校への入学が、その後の巧の一生を左右する大きな要因となった、と考えられる。彼がこの学校に入学を望んだのは、早く夫を失い、幼い子供三人を抱えてその養育に懸命な母親や年老いた祖父母の労苦を察してのことと思 われる。それは、農林学校を卒業して秋田営林署に赴任する巧に、母親が与えた餞別を「卒業したら世話はかけぬ約束だ」として、そっと仏壇において出かけたというエピソードにもあらわれている。
当時この学校には、農学、林学の他に養蚕、果樹、養畜等の科目があったが、巧は林学に関心をもっていたと思われる。実姉栄の談話にもあるとおり、幼少のときから樹木の苗を育てることに興味をもっていたし、三年次の林業実 習では、中巨摩郡榊村(現櫛形町)の都有林で、学校が実施した造林作業にも参加した筈である。
明治時代、山梨県では河川の水害が頻発した。有泉貞夫氏の『やまなし明治の墓標』(山梨郷土研究会 昭和五十四年十一月発行)によれば、従来わずかの年貢(小物成)を支払うことによって住民の共同利用下におかれていた入会
地が、明治初年の地租改正に際して官有地とされ、更に明治二十二年にはこれが皇室御料林となって、地元住民の入合権が一切認められなくなった。この当時、県内では養蚕業、製糸業の発展によって、薪炭の需要が急激に増大して
いたが、入会権を失ってかつての入会地の利用が出来なくなった地元住民は山林愛護の気持ちを失い、濫伐・盗伐はひどくなり、山火事も頻発した。その結果が相継ぐ河川の氾濫となってあらわれたのである。中でも明治四十年八月
二十二・三日に発生した水害は最大といわれ、死者二三二人・流失家臣二、九四三戸に達した。農林学校在学中の巧は甲府盆地の惨状を目のあたりにしたはずであり、治水の根元である治山の重要性を痛感したものと思われる。
兄弟、キリスト教に入信
この頃、兄伯教の影響でキリスト教に入信し、二人で甲府メソジスト教会に通った。トルストイの愛読者でもあった。また、農林学校在学中に生涯の友人二人を得た。一人は同窓の友人浅川政歳である。政歳は竜岡村(現韮崎市竜
岡町)若尾新田の生まれで熱心なクリスチャンであった。後に巧は政歳の姉「みつえ」と結婚したので義兄弟の間柄となったが、生涯のよき理解者であった。政歳は村の産業組合長や村長を勤め、郷党の信頼が厚かった。もう一人の友人は小宮山清三である。小宮山は、巧が農林学校在学中兄伯教と二人で住んでいた池田村(現甲府市池田町)の人で、兄弟と同じ甲府メソジスト教会の会員であった。この人が、のちに兄弟が朝鮮に渡るきっかけをつくったのではないかといわれている。兄弟の生涯の友人となった。
明治四十二年三月、巧は農林学校を優秀な成績で卒業した。そして、秋田県大館営林署小林区署に就職した。翌年、明治四十三年八月、日本は韓国を併合した。日本の朝鮮に対する植民地支配の始まりである。
大正二年五月、兄伯教が朝鮮に渡る。前述の小宮山清三であるが、彼は村長や県会議員も勤めた素封家であり、早くから古美術等にも関心を示していた。そのコレクションの中の朝鮮の陶磁器を見たことが、伯教に朝鮮行きを決意させた大きな要因ではなかったかと言われている。
兄伯教の渡鮮の翌年、大正三年五月、巧も兄の後を追うように朝鮮に渡り、京城府独立門通り三-六に居を定めた。
そして、朝鮮絶監府農商工部山林課の雇員となり、京畿道高陽郡延禧面阿峴北里(現ソウル特別市酉大門区北阿峴洞)林業試験所に勤めた。ここで巧に与えられた仕事は、朝鮮産主要樹木ならびに輸移入樹種の養苗に関する試験と調査
であった。
大正六年七月には『大日本山林会報』に「テウセンカラマツ(朝鮮唐松)の養苗成功を報ず」を石戸谷勉との連名で発表している。
当時朝鮮半島では林野の荒廃が甚だしくこれが大きな問題となっていた。その原因は、「半島林野荒廃の原因は、濫伐・濫採および林政の不備、弱体、弛廃による」というのが通説となっていた。これに対して巧は、『朝鮮山林会
報』昭和二年七月号に「禿山の利用問題に就いて」を発表し、その中で禿山の特性、として
- 川地毛を欠き常に裸である、
- 表土が落ち着かず崩壌し易い、
- 基岩は風化し易い、
- 土浅くして下層には常に適度の湿気を有す、
- 排水良好、
- 地表温度は夏と冬、昼と夜との差違著しく、夏と昼間は特に高し、
- 害虫、病菌等極めて少なし、桝土串は腐植質を殆ど欠く、川土壌の性質概ね良く、砂埴混合の割合適当なること等で、
この点は平地の土壌とその趣を異にしているところである。然しこの他にも注意して調査研究したら、更に多くの新事実を発見することも難事でないと思う。
とし、このような特性をもつ禿山を如何に利用するかについて二、三の方法を挙げれば、萩類、赤楊頬等の播種造林、竹林仕立、甘藷、落花生の栽培等が有効であるとしている。そして最後に、
朝鮮産業の癌とされた禿山も、何時かは苦にならぬ日が来ることを待ち望んでいる。筆者は本問題を考える様になってから、従来は面をひそめて見て来た禿山を涎(よだれ)流して眺める様になったことを告白する。
然し此の問題は仕事の全体から看る時、試験時代に一歩踏み込んだばかりである。此の試験は研究室で試験管を振る試験でなく、気候なり土質なりの異なる各地に於いて、多数の人が多方面から観察し研究してはじめて完成すべき性質のものと信じ、玄に本紙上を借りて都見を述べ、江湖諸彦の御援助を希う次第である。
と結んでいる。如何にも技術者らしい禿山の特性についての見解であるし、「禿山を涎を流して眺める」とは、自信に充ちた痺もしい言葉である。
巧の林業に関する調査研究は多方面におよび、山林緑化に大きく貢献した。特に前述のチョウセンカラマツの養苗成功は特筆大書すべき研究であった。その他チョウセンマツ、ミヤマハギ、シベリアハンノキ、ヤマハンノキの植栽、病害虫の駆除、肥料の研究などいずれも山林線化に極めて有効な研究であった。と、行政管理庁監察局で農林行政を担当した三宅正久氏は、昭和十二年から敗警で朝鮮総督府山林課にいた人であるが、その著『朝鮮半島の林野の荒廃の原因』(農林出版株式会社一九七六年十一月発行)の中で、
二十世紀の初めの頃、当時十八万町歩を超えるとみられていたこの広大な荒廃地は、日本の施政時代三十五年余りの間に、砂防事業の施行により、約十七万町歩余りに、すなわちその大部分に緑化が実施された。十分でないとしても、これを世界の例を覧れば、十九世紀初期の頃から大規模に始められ、成功した荒廃地造林として有名なフランスの八十万㌶荒廃地の復旧をはじめ、その後、これにならったといわれるデンマーク、オランダ、ベルギーあるいはオーストリアなど中欧諸国の荒廃地復旧造林、また日本の海岸砂防造林などの成功例と共に、一つの成果とみてよいのであろう。
と半島の線化を評価している。そして、その基礎の部分に林業技術者浅川巧がいるとみてよいであろう。
巧の林業に関する著作・論文は次の通りである。
林業に関する著作
一、単行本
『朝鮮巨樹養樹名木誌』(大正八年朝鮮給監府出版 石戸谷勉氏共著)
『樹苗養成指針』(同 上)
『朝鮮産主要樹木の分布及適地』(年号出版所不明 鄭台鐘共著)
『主要樹苗に関する肥料之要素試験』
(昭和六年十二月朝鮮稔督府林業試験所版 林業試験所報告第十三号)
二、雑誌
「てうせんまつ養苗成功を報ず」
(大正六年『大日本山林会報』第四二凹号掲載 三六頁 石戸谷勉氏共著)
「朝鮮に於ける「カタルしハスペシラ」樹の養苗及造林成続を報ず」
(大正六年『大日本山林会報』掲載第四一九号
「西国担当の友に贈る」(大正十三年『朝鮮山林会報』掲載 第二二号
「萩の種塀」(大正十四年『朝鮮山林会報』掲載 第一六号
「禿山利用問題に付て」(昭和四年『朝鮮山林会報』掲載 第五三号
三、遺稿
「病虫害」 (一三行美濃罫紙 両面一九枚)
「苫田の土壌」 (同一〇枚)
「シベリヤハンノキ、ヤマハンノキ播種養苗に付て」(同二七枚)
「雑草の話」(同三六枚)
「肥料の話」(同七枚)
「苗圃肥料としての堆肥に付て」(同一二枚挿画一枚)
「盛岡の朝鮮松」(一〇行美野罫紙両面一四枚 挿画三枚)
以上何れも年月日記載無く不明。此の以外に種田発芽状態の写生が実に沢山ある。 (以上『工芸』第四十号浅川巧追悼号(昭和九年三月発行)による)
↧
北杜市の偉人 朝鮮の美に魅せられた浅川巧
朝鮮の美に魅せられた浅川巧
柳宗悦との出会い
林業試験所(林業試験所は大正十一年八月林業試験場となった)に勤務する傍ら、巧は、兄、伯教の陶窯の研究調査に協力すると共に朝鮮に古来から伝わる民衆の工芸に強い関心を寄せた。そして朝鮮民族美術館の設立や民芸運動の創始覧きく関わりをもった。 -
この件を述べるためには、まず、柳宗悦との出合いについて述べなければならない。
柳宗悦は、明治二十二年東京に生まれたが、学生時代から雑誌『白樺』の創刊にかかわり、のち同人になった。東京帝大文学翠業後、東洋大学、明治大学、同志社大学等の教授になったが、朝鮮を訪ねて洩川巧に遇ってから、民
衆的工芸に着目し庶民の生活の中の美を啓発した。
巧の柳との出合いは、高崎宗司氏の「洩川巧関係年表」(『朝鮮の土になった日本人』)によれば、大正五年九月のことである。この前年、兄伯教はロダンの彫刻を見るため千葉県我孫子に柳宗悦を訪ねたが、この時、土産として
持参したのが李朝の陶器六面取秋草紋の染付壷であった。これを見た柳はすっかり李朝覧のとりことなり、早速、翌年京警訪ねて巧の家に泊まった。これが巧と柳との出合いである。その後、柳は朝鮮民族美術館の設立を発願し、大正十三年四月開館した。また、昭和六年一月雑誌『工芸』を創刊して、民芸運動の普及発展に専心した。そして巧は常に良き協力者であった。特に民芸運動については、その基礎は、巧が素材の提供者であり、これに理論づけをしたのが柳であったといわれている。
昭和四年三月、浅川巧の著書『朝鮮の膳』が民芸叢書第三編として出版 『朝鮮の膳』と覇鮮陶磁器名考』された。わずか五五頁という小冊子であるが、巧の朝鮮民族とその工芸に対する理解と愛情の深さを示す名著である。
朝鮮の膳・朝鮮陶磁名考
その冒頭には祖父に対する次のような献辞がある。
此書を祖父故四友先生の霊に捧ぐ
敬愛する祖父ま
生まれし時すでに、父の亡かりし私は、あなたの慈愛と感化とを多分に受けし悦び、郷党を導くに温情を以てし、村事に当たって公平無私なりしその生涯は追憶するだに嬉し。
今年の夏村人挙って鋲守の森にその頒徳碑を建てしと聞けど、郷里を遠か離れてすでに二十年、墓参すら意の如くならざる身のせんすべもなく此貧しき書を供物に代ふ。
昭和三年十二月
京城郊外清涼里に於て 孫 巧
父を知らぬ子として巧を殊更に慈しみ育てた祖父四友に対する感謝の気持ちと追慕の情が、行間にあふれていて、読む者の心をうつ献辞である。さらに、本文冒頭には巧の工芸に対する考え方が次のように示されている。
正しき工芸品は親切な使用者の手によって次第にその特質の美を発揮するもので、使用者は或意味での仕上工とも言ひ得る。器物から吉ふと自身働くことによって次第にその品格を増すことになる。然るに如斯工芸品は世に段々少くなる傾向がある。即ちこの頃の流行は器物が製作者の手から離れる時が仕上ったときで、その後は使用と共に破壊に近ずく運命きり持ってゐない。-中略-
そこで正しき工芸品とはどんなものかと言ふと、これには種々の定義もあり方面を異にした様々の議論もあると思ふが、以上の結果から最も簡単な標準の一つを挙げれば、工芸品真偽の鑑別は、使はれてよくなるか悪くなるかの点で判然すると思ふ。-中略-
然るに朝鮮の膳は淳美端正の姿をたもちながらよく吾人の日常生活に親しく仕へ、年と共に雅美を増すのだから、正しき工芸の代表とも称すべきものである。
『朝鮮の膳』は前半に説明部分があり、後半に各種の膳の写真と解説が載せられているが、後半の写真部分はその殆んどが巧と柳が朝鮮民族美術館のために収集したものであるという。
次に、昭和六年九月、巧の第二の著作として『朝鮮陶磁名考』が出版された。巧の没後五ケ月日である。
『朝鮮の膳』が、巧の朝鮮民族に対する愛とその工芸に対する深い理解とから「愛と智慧の書」とよばれるのに対して、『朝鮮陶磁名考』は、巧が「十余年来心掛けて学び得た」李朝陶磁器についての知識から生まれたものである。
全篇は
- 緒言
- 器物の名称
- 陶磁器に関係ある名称
- 結語とからなり、
二つの器物の名称では、李朝陶磁器をその用途から九種類に分類し、個々の器物についてその漢字名・諺文名を挙げ、それぞれの器物の正しい用途を示した。三の陶磁器に関係ある名称では、窯場及製陶用具・陶磁原料等々八項目にわたって詳細に説明した。李朝の陶磁器についての正確な知識が失われつつあったこの時期に、巧打この研究は極めて高い評価をうけた。
柳宗悦は、巧のこの著作について「著者をおいて何処にも朝鮮の陶器に対し、情愛と理解と知識と経験と語学とを兼ね備へた人は他に無い」と絶賛した。
巧は、緒言の中で、古い
「器物が名称や用途さへも追々忘れられつつある状態」
の中で、
「生まれながらの名前で呼び掛けるならば、喜んで在りし日の昔を語り、一層親しみを感じ得ると思ふ。又延いてはその主人であった朝鮮民族の生活や気分にも自ら親しみある理解を持てることは必然である」と述べ、『朝鮮陶磁名考』の出版も究極の目的は朝鮮民族に対する理解と愛情にあることを語っているのである。
以下、巧の工芸に関する著作を列挙すると次の通りである。
↧
北杜市の偉人 浅川巧 著作物
工芸に関する
一、単行本
『朝鮮の勝』(昭和四年東京丸の内有楽館工政会刊行。民芸叢書第三編)
『朝鮮陶磁名考』(昭和六年九月東京丸の内有菜館工政会刊行)
二、雑誌
「窯跡廻りの一日」(大正十一年九月号『白樺』李朝陶磁紹介号掲載)
大正十一年一月、柳宗悦らと冠岳山の窯跡を調査したときの紀行文。
「窯跡めぐりの族を終えて」(大正十四年四月号五月号『アトリエ』に連載)
大正十三年末から十四年正月にかけて兄伯教や小森忍・中尾万三らと鶏竜山・康津等の窯跡調査をしたときの記録を柳宗悦宛の手紙の形式で書いたもの。
「分院窯跡考」
(昭和二年十二月号『大調和』に掲載。分院窯跡考証)
「朝鮮の棚と軍司塀に就いて」
(昭和五年二月号『帝国工芸』朝鮮工芸特集号に掲載)
「朝鮮茶碗」
(昭和六年五月号『工芸』に掲載。これが浅川巧の絶筆となった)
「朝鮮窯業振興に関する意見」
(昭和六年七月号『工芸』に掲載。柳宗悦の推定によれば、大正十五年から昭和二年頃に執筆されたもので、巧の死後、河井寛次郎の所で発見された)
「金海」
(昭和九年三月号『工芸』浅川巧追悼号に発表されたもの。金海の窯跡を調査したときの紀行文。末尾に三月十六日とあるが、何年かは不明)
この他、未発表の日記の一部に、窯跡調査の紀行文「北漢山一周」・水落山」があったというが今は散逸してしまっているという。
その他の著作
「朝鮮の漬物」
(昭和九年三月号『工芸』洩川巧追悼号に掲載)
「自動車」創作
(二〇〇字詰原稿用紙二二枚。三月二日と日付けあり、年号不明)
「崇」創作
(四〇〇字詰原稿用紙一七枚。大正十二年十二月三十日)
「雷山小過」創作
(四〇〇字詰原稿用紙七四枚。大正十三年二月二十二日)
以上、創作の三編はいずれも未発表のものである。
(『工芸』第四十号 浅川 巧追悼号 昭和九年三月発行による)
↧
↧
北杜市の偉人 人間 浅川巧
人間 浅川巧
徳巧ならず
巧は数え年四十二歳でこの世を去った。短過ぎる左である。その短い一生にあって、巧は林業技術者として多くの優れた美雪残し、更に、朝鮮民族が長い歴史の中から育てた工芸に対しても、卓越した研究成果を挙げた。
然し、それらにも増して特筆すべきは、崇高ともいうべきその人間性にあった。農林学校時代の友人で、のちに巧の義弟(先妻みつえの弟)となった浅川政歳は、農林学校在学中の巧について、雑誌『工芸』第四十号(浅川巧追悼号 丁九三四年三月)で、次のように述べている。
巧君は在学当時から確に特色の有る男として其の存在を認められ、尊敬され親しまれて居た。彼は演習(筆者註・軍事演習)などの有る時、指揮刀などを持って得意がってゐる仲間に向かって「下らない男だ」と云ったやうなことを洩らした事があるが、この気持は一生涯を通じて持ち続けてゐたやうに思ふ。
巧君は只仕事を熱愛した。自分の仕事については彼らしい考へを持ち、それが如何に尊き仕事であるかを理解してそれに没頭した。だから官吏としては物質上の不平も、地位に対する欲望も、凡そ下らないものだとして終り迄変わらなかった。巧君の偉かった一面だと思ふ。- 後略 -
巧と安倍能成
阿倍能成は旧制第一高等学校々長で、終戦後六・三・三制の新教育制度を採用した当時の文部大臣であり、その後、国立博物館々長や学習院大学々長などを歴任した。明治・大正・昭和三代を通じてのリベラリストであった安倍能成は、京城帝大教授時代的三年間、巧との交流をもつが、巧急逝後の昭和六年四月二十五日から五月六日にかけて都合五回、京城日報に「浅川巧さんを惜しむ」と題して巧への追悼文を掲載した。その中で安倍能成は次のように述べている。
巧さんのやうな正しい、義務を重んずる、人を畏れずして神のみを畏れた、独立自由な、しかも頭脳が勝れて鑑賞力に富んだ人は、実は有難き人である。 巧さんは官位にも学歴にも権勢にも富貴にもよることなく、その人間の力だけで露堂堂(禅語・何一つ隠すことなく堂々と顕われる様、出典『却外録』-筆者註)生き抜いて行った。かういふ人はよい人といふばかりでなくえらい人である。かういふ人の存在は人間の生活を頼もしくする。
- 中略 -
かういふ人の喪失が朝鮮の大なる損失であることは無論であるが、私は更に大きくこれを人類の損失だといふに躊躇しない。人類にとって人間の道を正しく勇敢に踏んだ人の損失ぐらゐ、本当の損失はないからである。
この追悼文は、その後昭和九年(一九三四)七月岩波書店刊の中等学校教科書「国語六」に、長さを二分の一に締めて「人間の価値」と題して収録され、人々に感銘を与えた。
安倍はその後、自叙伝『我が生ひ立ち』(岩波書店刊)のなかで、この追悼文に触れ、「これは私の確信である。さうして今もなほさう思ってゐる」と述べている。
巧と安倍能成との交流は朝鮮工芸会を通じてのものであるが、趣味を語る会として発足し、のちに朝鮮工芸会として発展した。哲学者の速水溌、美術史家の上野直昭、三井物産社負高橋保清、この会は、兄伯教の提案によって昭和三年ごろ朝鮮会員には浅川兄弟を中心に、前記安倍能成の他に、メソジスト教会の音楽隊の世話役渡辺久書、朝鮮銀行員で新しき村の会員土井浜一、蜂谷吉次郎、市山盛推等の人々がいた。
東京帝大教授で植物分類学の権威中井猛之助は、戦後、国立科学博物館々長等を歴任したが、朝鮮の植物採集等を通して巧と親交をもった。彼は、巧の一周忌の追悼会の席上、巧の意志を継いで朝鮮の山林の緑化に努力することを誓ったが、三年後発刊された雑誌『工芸』の浅川巧追悼号には、「浅川巧君へ」の一文をよせ、巧の「こき下ろし」するとことわりながら、巧の人間性を赤裸裸に書いてその魅力を称揚した。
その他、自由教育の実践家の故に長野県を追われた赤羽王郎(本名一雄)や、陶芸家で「模様の作家」と呼ばれた富木憲書とも親交があったし、柳宗悦の弟子浜口良光は、巧の没後発刊された『朝鮮陶磁名考』の校正を担当した。
巧は、このような多彩な人々との交流を通じて、己れを高め、また人々に深い影響を与えたのであるが、これらのことにもまして、巧の人間としての偉大さを物語るのは、巧の朝鮮民衆との交流の仕方であった。
日清・日露両戦役前後から進められてきたわが国の半島に対する帝国主義政策は、明治四十三年八月の日韓併合をもって一応目的を達した。日本は朝鮮半島を植民地として支配することになったのである。
武断政治は、朝鮮人民の言論・出版・集会・結社などの自由を全て剥奪した。一方朝鮮民族を日本人化する同化政策が着々と進められた。
「土地調査事業」や「林野調査事業」「会社令」による朝鮮経済の植民地的再編成が行われた。一つの民族が、他の民族を力によって抹殺しょうとする不合理が進められたのである。民衆の抵抗は根強く、遂に一九一九年(大正八年)三月一日に爆発した。いわゆる三・一独立運動である。
大正九年五月(三・一独立運動の翌年)、柳宗悦は朝鮮を族行した。その時の紀行文「彼の朝鮮行」の中に、京城にいる彼の愛する一人の日本の信徒から、次のような便りをもらったことが書かれている。
日本人と朝鮮人とが信頼し合う真の平和は、宗教的に覚めて理解し合う道しか他にない事を切に思ひました。
私は始め朝鮮に来た頃、朝鮮に住むことに気が引けて朝鮮人に済まない気がして、何度か国に帰ることを計画しました。
朝鮮に来て朝鮮人にまだ親しみを深く感じなかった頃、淋しい心を慰めて朝鮮人の心を語って呉れたものは矢張朝鮮の芸術でした。私はいつもの祈りに、私が朝鮮に居ることが何時か何かの御用に立つ様にと云ふことを加へて淋しい心に希望を与へられてゐました。
『朝鮮の土となった日本人』の著者高崎宗司氏は、この「彼の愛する一人の日本の信徒」こそ浅川巧に相違ないとしている。続いて柳宗悦は
「彼は此友達に愛と敬意とを感じてゐた。殆ど全ての日本人が憎の的である時も、此友達ばかりは彼が住む町の全ての朝鮮の人達から、愛せられ慕はれて、その名を知らない者はなかった。」
と書いている。
巧は、訂分が朝鮮にいることが、日本人と朝鮮人が互に信頼し合う真の平和のために役立つようにと、いつも、神に祈っていたのである。
当時、朝鮮総督府は、日本人が朝鮮人の社会に入ってゆくことを嫌っていたが、巧は朝鮮の民衆の中に進んで入って行った。職場以外では常にパヂ・チョゴリ(朝鮮の民族衣装)をつけ、朝鮮の家屋に住み、なめらかな朝鮮語を使った。酒はマッカリ(朝鮮のどぷろく)しか飲まなかった。しばしば朝鮮人と間違えられ、日本語のうまい朝鮮人と思われていた。
巧と朝鮮の民衆との心の交流を示す逸話は数多く伝えられている。それらについて述べることは紙数が許さないが一つだけ紹介したい。
巧の亡くなった当時の職制上の身分は判任官の技手であり、月給は五級であった。当時の中等学校初任者程度の給料であったという。「俺は神様に金はためません」と誓ったという巧は、祖父四友の血をうけ清貧の人であった。その巧が、林業試験場職員で貧しい家庭の子女に奨学金を贈っていたと伝えられている。右手で行った善行を左手に知らしめないという巧の道徳的純潔さから、その数は明らかでないがかなりの数にのぼったらしい。弱者を見過ごせない道徳的性格と、朝鮮の人たちよりは恵まれていた自分の給料に対する頗罪の気持があったのではないかといわれている。
巧は、常に朝鮮の人々と心からの友人になりたいと思った。すばらしい陶磁器や民芸品をのこした朝鮮民族が、自信と希望とをとり戻して共に歩む日の一日も早からんことを祈った。
礼を大樹の下に習う
巧は、昭和六年(一九三一)三月十二日付で、次の様な手紙を義弟の浅川政歳宛に出している。
日一日と春らしくなる。
今度禿山の造林法に就いて新しい研究がはじまり、朝鮮林業界の大問題になりつゝある。
政府はこの不景気にも不拘、二十万円もの予算をそれに配布することになり、一方に又反対意見もあって面白くなってゐる。人事に閲したケソカには興味はないが、仕事の研究は随分有意義と考へて大いに奮闘してゐる。そのため此の頃東奔西走の態。
十五日頃帰宅。 三月十二日
政歳様 巧 忠州にて
この年二月から三月にかけて、巧は養苗についての票をするため朝鮮の各地をまわった。この手紙の文面によると、
三月十日には自宅に帰った。この時にはすでに風邪をこじらせていたが、風邪をおして職場の仕事や教会の用事などに忙しく立ち働いた。そして、三月二十七日、ついに急性肺炎のため床についた。病床で高熱にしみながら、柳宗悦に約束した『工芸』五月号のための原稿「朝鮮茶碗」を脱稿した。この間の事情について、柳宗悦は『工芸』五、昭和六年五月号誌1に浅川巧の絶筆「朝鮮茶碗」の後に、「編者附記」の一文をのせ、次のように説明している。
此号の為に朝鮮の茶碗に就いて、三月中に何か執筆してもらひたいと云う依頼を浅川巧君に出した。春の頃とて林業に従事する同君にとっては最も多忙な時であった。
原稿は正確三月三十一日に私の手許に届いた。併し見馴れない筆跡であって、令兄伯教君の手紙が之に添えてあった。
「弟は肺炎で今寝ているが、責任感の強い彼は四十度近い熱に冒され乍ら、此の原稿を断片的に書いた。未完成ではあるが、兎も角他人に清書して貰って一先ずお届けする。文章を然るべく訂正して欲しい」
越えて、翌四月一日夕、「病重し」の知らせに接し、取るものも取りあへず、その夜京都を立って挑戦に旅立った。
私はどうしても逢ひたかったのである。併し翌二日中夜汽車が大邸を過ぎた時、再び電報をうけて「巧二日午後六時死す」との知らせに接した。
まんじりともせず其夜を過ごし、清涼里に駆けつけた時、言葉なき骸(むくろ)が私の前に横たわるのみであった。心をえぐられる想ひである。
熱に悩み乍ら床の上で仰向きなったまゝ、私の為に書きつけてくれた此原稿は遂に絶筆になった。日付は三月廿九日であるから死ぬ四日前である。此事が死を早めた一つの原因であるかを想ひ、誠に済まない事をして了ったのである。こゝ挿入した写真も、一々奥さんに命じて其間にとらせてくれたものである。下書を見ると、病ひが既に重かった事が分かる。文字文脈共乱れ互に錯覚する。而も終り迄訂正し加筆し整理しようと努力した跡がありありと見へる。書き終って令兄を省み、「之以上書けないから、直した上兄さんの名で出してもらってもいゝ」と話した。原稿はそのまま直されずに私に送られたが、他人が清書したものに二三巧君の筆跡で訂正した箇所があるから、尚も目を通そうとしたものと見える。題と署名日附とだけを自身で書き終り、写真を添え、令兄の手紙を添え、遂に投函された。出し終った時、それを聞いて非常に安心した悦びを洩らしたと云ふ。そのまゝ病勢は進み再び立たず、四十二歳を以て此の世を去った。 - 以下略 -
巧はこのように人との約束をきちんと果して、昭和六年(一九三一)四月二日午後五時三十七分、この世を去った。数え年四十二歳であった。
葬式は一日おいて四月四日(土)午後三時半から、清涼里の林業試験場構内の樺の大樹の下で行われた。巧の友人浜口良光は、その模様を「夫子礼を大樹の下に習ふ」に似ていたろうと云った。
式の中で、聖書詩篇第二十三篇薦は曽田嘉伊智によって朗読された。曽田は「朝鮮孤児の父」として有名な人で、のちに韓国文化勲章を与えられた人である。
式が始まると同時に、空は急に墨を流したようになり、大雷雨がきた。それは、天がこの人の死に対して何かの意思表示をしたとしか思えなかったという。
白い民族衣装をまとった巧の遺骸は重さ約百六十キロの柩に納められ、里門里の朝鮮人共同墓地に朝鮮式に埋葬された。
巧の部下や近隣の朝鮮の人たちが競って奉仕を申し出、墓穴に入れた柩のまわりや上を、朝鮮歌の音頭哀しく、棒でつき固めた。
あとがき
『歴史にかがやく人びと』に執筆を依頼され、真っ先に頭に浮かんだのが「浅川巧」であった。十年程前、高崎宗司氏の『朝鮮の土となった日本人浅川巧の生涯』(株式会社草風館一九八七年発行)を読んで受けた感銘を忘れがたかったからである。
浅川巧は、株業技師として、荒廃した朝鮮の林野の再生に生涯を捧げ、朝鮮の人々の心を、工芸を通して深く理解し、「朝鮮の土になった」人である。浅川巧の生き方に一貫していたものは、人のために一生を捧げて悔いない無私の精神であった。
今日、地球規模の環境破壊それにともなう人類滅亡の危機が、切実な問題として叫ばれているが、浅川巧は、遥かな昔、生来の素直さに由来する直感的な鋭さで、文字どおり一所懸命に生きた日本人であった。国や民族や宗教といった人間を区別する垣根を心のうちに築くことなく人類の一員として愛に目覚めて、朝鮮の人々のために己を捧げた人、真の国際親善の実践者であった。
こうした浅川巧の生き方は、今日の我々にとって実に尊い指針であり、二十一世紀を生きなければならない小学生、中学生、若い人々に、人間への信頼を授けてくれる大きな宝でもある。
しかし、浅川巧について書こうとすると、その偉大さに圧倒される思いで、評伝など筆者にはとても無理であると思われ、力不足を痛感した。もっとじっくりと、時間をかけて取り組むべき課題であることを承知しつつ、なんとかまとめてみた次第である。
この稿を書くにあたっては、次のことを心がけた。
基本的には、前述の高崎宗司氏の著作を参考にさせていただき、兄伯教について述べるについては、すでに赤岡武氏の『浅川伯教』(『郷土史にかがやく人々』第十七集 青少年のための山梨県民会 議平成一年三月二十日発行)があるので、極力重複を避けた。また、つとめて客観的巌述したいので、引用文が多くなった。さらに、洩川兄弟の育った背景、五町田の風土や系譜についても紙数を多くあてたいと思ったが、まだまだ不充分で、今後の調査に待たなければならない点が多い。
最後に、日本民芸館学芸員の尾久彰三氏には、資料提供について格別の御便宜をいただいた。ここに記して御礼申し上げる。
↧
北杜市の偉人 浅川巧 年譜 著者手塚洋一氏
浅川巧 年譜
明治24・1
十五日山梨県北巨摩郡甲村(現高板町)五町田に生まれた。父亡浅川如作・母けい。父は前年七月、三十一歳で亡くなった。
30・4
村山酉尋常小学校に入学した。
34・1
祖父小尾四友が死んだ。
34・4
秋田尋常高等小学校に入学した。
39・4
山梨県立農林学校に入学した。甲府市外池田村に兄伯教と家を借り自炊生活に入る。
42・4
農林学校を卒業し、秋田県大館営林署小林区署に就職。8月日韓併合。
大正2・5
兄伯教が朝鮮に渡った。
3・5
十七日、巧が朝鮮に渡り、京城府(現ソウル)独立門通り三の六に居を定め
た。のち、阿峴洞へ引っ越した。
3・7
朝鮮総監府農商工部山林課に雇員として就職、朝鮮産主要樹木並びに輪移入樹種の着荷試験に従事した。
大正3・9
兄伯教が千葉県我孫子に柳宗悦を訪ねた。
5・2
親友浅川政歳の姉「みつえ」と結婚。
5・9
朝鮮を訪ねた柳宗悦と知り合った。
6・3
長女園絵が生まれた。
8・3
三・一独立運動おこる。
9・4
朝鮮総監府農商工部山林課は、殖産局山林課となり、浅川巧は技手となっ
た。林業試験所が阿峴里から清涼里に移り、浅川巧は同所新築官舎に移る。
9・5
柳宗悦が京城に来て巧の所蔵する李朝の大壷を見て感動し朝鮮民族美術館の設立を発願、巧も全面的に協力。
10・1
柳宗悦が「白樺」一月号に「朝鮮民族美術館の設立について」を発表。
10・9
二十九日、妻みつえが山梨県病院で死去。三十歳。
11・1
柳宗悦と冠岳山の窯跡を調査した。
・8
林業試験場が設置された。
・9
柳宗悦・兄伯教・赤羽王郎・小田内通敏・今和次郎らと分院の窯跡を調査
・10
富本憲吉が浅川巧宅に滞在した。
13・1
柳宗悦と甲府に小宮山清三を訪ね、木喰仏を発見した。
・4
九日、朝鮮民族美術館が京城景福宮内緝敬堂に開館した。
・12
翌年一月にかけて、鶏龍山・唐津などの窯跡を兄伯教・小森忍・中尾万三らとともに調査した。
14・10
京都の大北咲子と再婚。咲子は河井寛次郎の妻やすのいとこである。
15・11
二十七日、妻咲子との間に二女が生まれたがすぐに死亡した。
昭和 2・4
兄伯教と共に分院窯跡を調査した。
3・7
このころ朝鮮趣味を語る会、京城に誕生。のちの朝鮮工芸会である。安倍能成・上野直昭・速水渓・浜口良光・土井浜一・高橋保清・渡辺久吉・蜂谷善次郎らが参加した。
4・3
『朝鮮の膳』出版。
4・11
倉橋藤治郎らと釜山の窯跡を調査した。
6・1
『朝鮮陶磁名考』を書いた。
6・2
三月にかけて林業指導のため、慶尚南道、忠清北道などに長期出張した。
6・3
二十七日病気臥床。
6・4
一日、危篤に陥った。二日、午後五時三十七分に急性肺炎で死去。
告別式を四日、京城清涼里林業試験場構内で行なった。里門里の朝鮮人墓地に葬られた。
四月二十四日から五月六日にかけて五回にわたり、安倍能成が「浅川巧さんを惜しむ」を『京城日報』に発表した。
7・4
十六日、朝鮮工芸会主催により「洩川巧氏一周年記念講演会」が、京城メソジスト教会で開かれた。講師は、柳宗悦・安倍能成・洩川伯教であった。
7・9
安倍能成が「浅川巧さんを惜しむ」「洩川君の『朝鮮陶磁名考』」などを収録した『青丘雑記』を出版した。
昭和9・4
『工芸』四〇号が「洩川巧追悼号」として刊行された。
9・7
岩波書店刊、中等学校「国語六」に安倍能成の「浅川巧さんを惜しむ」が二分の一に縮められて「人間の価値」と題して収録された。
11・10
東京目黒区駒場に日本民芸館開館。柳宗悦館長となる。
17・7
浅川巧の墓が里門里から忘憂里に移葬された。
20・12
十五日、敗戦、朝鮮独立。浅川伯教、朝鮮民族美術館整理のため京城にとどまる。
20・12
洩川咲子・浅川園絵の母子、日本に引き揚げる。
21・11
浅川伯教、日本に引き揚げる。
30・11
在日韓国基督教育年会、祖国解放十周年を記念して「愛と誠実を朝鮮に捧げた日本人に感謝する集い」を開催。浅川咲子が巧の代理として招待された。
36・5
柳宗悦、死去。
39・1
十四日、浅川伯教、濃胸にて死去。
39・3
月刊『民芸』三月号、洩川伯教追悼号として特集する。
39・6
二十日、加藤松林人が京城忘憂里に浅川巧の墓を訪ね、林業試験場の職員と共に修復葬を営む。
41・6
韓国林業試験場職員高の名によって、「浅川巧功徳之碑」が浅川巧の墓の脇に建てられる。
51・10
十九日、浅川咲子死去する。八十二歳。
51・11
十三日、浅川園絵死去する。五十九歳。
52・3
山梨県北巨摩郡高根町五町田、浅川家の墓地に浅川巧らの墓碑完成する。
平成3・3
二十五日、山梨県北巨摩郡高根町五町田農村公園内(生家の北方)に「浅川伯教・巧生誕之地」の碑が同町教育委員会によって建てられる。
参考文献
『朝鮮の土となった日本人-浅川巧の生涯』高崎宗司書 草風館(1982)
「浅川巧を廻る人々」山村正光『山梨県キリスト教史研究』第一集(1984)
『木履の人-韓国の土になった甲州人』中村高志山梨日日新聞社(1987)
『郷土史に輝く人々』第17集「浅川伯教」赤岡武
『青丘雑記』安倍能成著 岩波書店刊
『朝鮮の膳』浅川巧著作集 八潮書店
『朝鮮陶磁名考』浅川巧著作集 八潮書店
『小品集』浅川巧著作集 八潮書店
『民芸の趣旨』柳宗悦著 日本民芸館発行
『明治の墓標』有泉貞夫著 山梨郷土研究会発行
『朝鮮半島の林野荒廃の原因』-自然環境保全と森林の歴史-
三宅正久著 農林出版株式会社(一九七六)
↧
山梨県の偉人 浅川巧 北杜市高根町
↧
あけましておめでとうございます 北杜市花水坂から見た富士山日の出
↧
↧
2016・1・1 あけまして駒ヶ岳
↧
猿年に因んで 猿橋 富士36景
御坂峠 甲斐大月
甲斐猿橋
甲斐犬目峠
↧
山梨県の歴史と人物: 八巻十万のブログ - ココログ
↧
山梨県の偉人 浅川伯教(あさかわのりたか)北杜市高根町
↧
↧
山梨県の歴史編集項目 偉人 武田信玄ほか
↧
若神子小学校創立百周年記念碑
若神子小学校創立百周年記念碑
『須玉町誌』社寺・石造物編 一部加筆
沿革の大要
明治五年学制布告され翌六年九月十五日妙円寺を仮校舎とし藤田村も属して創立開校し若神子学校と称す
同九年三月現須玉農協倉庫の位置に藤村式新校舎略完成し妙円寺仮校舎より移転同年四月新沢児童穴山学校より本校に転校同十一年五月十二日盛大な落成式を行う
明治二十年四月穂足学枚と合併して若神子尋常小学枚と称す
翌明治二十一年二月二十四日本村大火の際校舎全焼し妙円寺及び旧穂足学校と仮用す
同年十二月十八日旧校舎跡に新築校舎落成この日を大正十四年まで学校記念日として祝賀す
明治二十五年四月新小学校今により若神子村立若神子尋常小学校となる
明治四十年四月より新沢組児童就学
同四十二年四月長泉寺を校舎に仮用分教場とする
明治四十三年九月高等科を併置し若神子尋常高等小学校と改称す
大正十五年十月十日校舎を現在地に新築落成この日を学校記念日と定める
昭和二年四月大平尋常小学校廃止と共に之を合併昭和十一年八月校舎増築す
昭和十六年四月学校令改正により若神子国民学校となる
昭和二十二年四月学制改革六三制により若神子小学校と改称
昭和三十年三月町制施行に伴い須玉町立若神子小学校となる
創立以来百年卒業生実に四千百有余名を数えあまた有為の人材を育み伝統ある若神子小学校の名声を高め現在に至る
↧
山梨県 小海線の開通に尽くした人びと
↧
素堂『通天橋』素堂一周忌追善集。黒露編。
↧
↧
北杜市広報 浅川伯教と巧の記事
↧
北杜市広報紹介 富岡敬明
↧
北杜市広報 窪田幸左衛門
↧