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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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馬場美濃守信房公の屋敷は甲府市武田神社手前

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遺跡調査有り「甲府市史」に掲載

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馬場美濃守 御持仏
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 白州町鳥原 馬場美濃守宅地跡(馬場氏との関係は何ら裏付けるものは無い)

『蘇明山荘発句藻』(松平美濃守信鴻) 素堂 目には青葉

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『蘇明山荘発句藻』(松平美濃守信鴻) 天明四年(1784)板 一部加筆」
 かわらず君恩をいただきて
  初時服手にしだり尾の抱心

郡山に夏を迎えて
  喰わず開かず目には素堂が若葉哉
 
『蘇明山荘発句藻』(松平美濃守信鴻) 天明四年(1784)板 一部加筆」
 

柳沢信鴻(やなぎさわのぶとき)は、江戸時代中期の大名。大和国郡山藩第2代藩主。郡山藩柳沢家3代。初代藩主柳沢吉里の四男。 隠居後に祖父の吉保が築いた江戸六義園に居住した。

 犬公方綱吉の重臣として其の栄達を爪はじきされた柳澤吉保の孫であるため、松平美濃守信鴻として政治的に才幹を現はし得なかつたが、江戸座の俳人「月村所米翁」としては平民的に寛潤な天分を以て風流に名を得てゐた。安永二年(1773)大和郡山の所領十五万三石を嫡子甲斐守保光に譲り、江戸下駒込の染井別荘に隠居後は殊に自由な生活に入ったので、そのころの俳書に米翁の落款ある序跋を縷々見るように、大名なるが故の阿訣でも追従でもなく、職業的俳人の間に畏敬されて天明時代の一家をなして居た。沾徳座の紫小春来を入門の師としたので生粋の江戸座育ちであり、同門の八楽庵米仲を後の師に招いて、米翁の表徳も彼にあやかって附けたらしいが、その後湖十座の洪珠来が常に出入して俳事に就いての祐筆の格で専らその用を辨じていた。この『蘇明山荘発句藻』は米翁が退隠十年の吟詠を「みつから彩亳をふるひ謀ひて、かれこれあつめさせ玉ひ」さて後、珠来をして適宜その中から選抄させた米翁の家集である。その句作の着眼は自然の観照よりは、人事現象の滑稽化にあるので、用語の俗に落るを嫌はず都会風俗の情調を本位としている。これは江戸座の通人趣味から生れたので、米翁その人の個人色も自ずからそこにあり、一面には句その者がその故人色によって彩られてもいる。江戸文学の門に入るにはこれ位の洒落を寛容する余裕がなければならぬ。かの抱一上人は米翁の感化によって、『軽輩観句藻』の題名を本集の句藻の二字から思い附いたのである。米翁の意を汲んで本集を板枚に起こした珠成は、六角家の養子になった第五子の信濃守里之である。父と同じく俳諧の愛好者であった。

白州町と馬場美濃守信房公

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 「白州台ケ原田中神社馬場八幡社記」
  美濃守信房ノ鎮守ナリ。采地ノ節此社地ノ西ニ居住ス。円中手裁ノ桜同松今朽。信房長篠ノ役自殺ノ遺骸ハ其臣某齎シ来リテ居址或ハ此八幡祠ノ側ニ埋葬セシトソ申伝候。
  社地…竪二十四間、横十間(二百四十坪)

  『巨摩郡北山筋吉沢村太寧寺由緒書』
  再開基 武田信玄之将士馬場美濃守、法号 乾叟自元大居士ニ御座候…  
  …『甲斐 寺記・神社記』  『馬場彦左衛門家記』
  馬場美濃守ノ孫同民部ノ男丑之介壬午ノ乱ヲ避ケ其母ト倶ニ北山筋平瀬村ニ匿ル後本村ニ移居シテ與三兵衛ト更ム。

  『馬場祖三郎家由緒書』開基馬場美濃守源公 法号 乾叟自元居士 公七世外孫出家得法同牛込御龍山松原禅寺向陽院惟庸字古同敬書信州槙嶋城主甲国武田旧臣新羅后胤馬場美濃守源公諱信房 始称敬禮師民部少輔諱政光天正三年乙亥五月二十一日六十三歳、或作四。役于参州拾長篠西北之向瀧川橋場自殺。従者斎遺骨少帰州臺原(台ケ原) 墓石朱地或云、武川之白須村於自元寺以佛古又祭法号如前面矣聞自元之神儀弊壊新之贈寺且欲迎其壊於家而仰鎭護也。
  柳營 幕下小臣 居武州豊嶋郡大塚公五世胤馬場喜八郎義長 旧名義教 拜自(これは甲府桜町「開峡櫻」の主人馬場祖三郎氏(当時)の古文書に見える。馬場祖三郎氏は『馬場彦左衛門家』の家系に繋がる。又自元寺は天保十四年(1843)に現在地に移つる。(棟札)

  『自元寺由緒書』末尾
  享保十二年(1727)江戸大塚住旗本馬場喜八郎殿ヨリ被来享保十二年ノ冬御位牌修理補成リ越方金一歩書状等御差添向陽院古同ト申僧ノ状相添被越候此方ヨリ返事礼状仕候喜八郎殿知行四百石余自元寺住職恵光代。
   馬場美濃守信房 号 乾叟自元居士 『自元寺過去帳』
   馬場民部少輔信忠   号 信翁乾忠 居士『自元寺過去帳』
   馬場民部少輔信義

素堂著、『鳳茗記』

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素堂著、『鳳茗記』
 
凡茶のたねの、わが日の本にわたりしは、建仁寺の開山千光國師、栂尾の明憲上人、同船に入唐して携へ来り、筑前のせふり山に植そめしか也。是を岩上の茶と號す。それより栂尾へうつし、宇治へうつす。それより以前も、日向國健千ほといふ所に、神代の木あり。しかれどもこれをつみ、是をほうじて飲む事をしらず、あれどもなきがごとし。数奇の字、漢書李廣が傳に見えたれども、茶のことにあらず。茶の式法は、東山慈照院義政公、天下の名器をあつめて、茶の會を催ほし玉ふ、此時南都より珠光を召て、それより能阿彌相阿彌藝阿彌と傳来して、和泉の境に武田紹鴎、此道をうけつぎ、宗易に傳ふ、利休と號す。秀吉公めし出され、
 三千石まて御取立、天下の大名小名、もてはやすといへとも、故ありて天正十九年二月廿八日、切腹おほせ付られ、年八十。惣領道安は出奔して病死す子なし、二男少庵は會津蒲生飛騨守殿へ御預けなされ、七十の後御赦免、其子宗旦、宗旦に三子あり、宗左宗専宗室、此三男洛陽にありて、茶道の師範たり、拆茶の種國國へはびこり、中人以上は挽茶を用ゐ、中人以下はせんし茶を用う。しかれとも、貴人にてせんし茶を好たまふあり、また賤しきものにもひき茶を好めり。そのたのしみにおいては一也。それ人の人たる道は、禮義を大なりとす。鳥獣にも寒暑をしり、死をおそるゝことは人におなし。かれには禮義なし、禮は飲食たくはへ、手にてくむの時、はや禮義備はれり、それよりまゐれ、いやそれよりといふを以て、禮の字をいやと訓す。されば茶に天然と禮義あれば、少年の人に、六藝の外に一藝くはえて、茶の式法ををしふべきことなり。物みな一得あれば一失あり、茶には得ありて、失なし。またちかきころ、鎌倉雪の下に、了明といふ尼、みそちあまりより食をたち、茶のみにて(以下半帋ばかり欠文あり)神へ備へて、清浄なるもの、茶よりまされるはなし。是をしたしみ、これをたのしむべきのみ。

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