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延宝 四年(1676)☆素堂35才 芭蕉、33才

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延宝 四年(1676)☆素堂35才 芭蕉、33才
春 天満宮奉納二百韻、(信章、桃青両吟集 六年刊)
 梅の風の巻      
梅の風俳諧国に盛なり    信章
  こちとうずれも此時の春   桃青(芭蕉)
  世の中よ大名あれば町人あり 信章
柳は緑かけは取りがち    桃青
 此梅の巻       
此梅に牛も初音とつべし   桃青
  ましてや蛙人間の作     信章
芭蕉発句       
天秤や京江戸かけて千代の春  「当世男」
此梅に牛も初音と鳴きつべし  「奉納両吟」
武蔵野や一寸ほどな鹿の声   「当世男」
山のすがた蚤が茶臼の覆かな
雲を根に冨士は杉形の茂りかな 「続連珠」
命なりわづかの笠の下
百里来たりほどは雲井の下涼み
(なが)むるや江戸にはまれな山の月
富士の風や扇にのせて江戸土産
夏の月御油より出て赤坂や
一百里きたりほどは雲丼の
けふの今宵寝る時もなき月見哉 「続連珠」
*延宝 四年(一六七六)『俳文学大辞典』角川書店
 
春、芭蕉ら、『江戸両吟集』を著し、宗因流新風に傾倒する。
一二月、梅盛『類船集』刊。冬、宗因、伊勢へ下向。
弘氏、伊勢談林の中心となる。
書『あまあがり』『大坂歳旦』『岳西惟中吟西山梅翁判十百韻』
『温故目録』『季吟廿会集』『草枕(旨恕編)』
『古今誹諧師手鑑』『言之羽織』『宗因五百句』『宗因三百韵』『練達珠』『談林三百韻』『天満千句』『到来集』
『誹諧当世男』『半入独吟集』『柾木葛』『武蔵野(重頼編)』『渡奉公』(『伊勢俳諧長帳』)
○惟中、秋、上洛か。
○宗因、一〇月二三日に伊勢山田の荒木田氏富に招かれる。
一二月二日、松坂を発って 帰坂。
○重頼、伊丹へ赴く。
 
 
 
 
 
 
 
 
*延宝四年(一六七六)(この項『俳文学大辞典』角川書店)
**素堂(三十五才)春、桃青と両吟二百韻興行。『江戸両吟集』と題し三月刊行。
 
**曾良(二十八才)このころ宗困流俳諧に心酔、間もなく江戸に下るか。
 
**嵐雪(二十三才)六月二十一日主君新庄民部直矩急死(徳川実紀・寛政重修諸家譜)により浪人したか。後、土方河内守に仕える(江戸廿四条)。
 
**許六(二十一才)十二月藩主井伊直澄に召し出される。
(侍中由緒帳)
 
**鬼貫、宗因に師事。
 
**松意『談林三百韻』、『宗因五百句』。
 
**宗因『天満千句』、『惟中吟、梅翁判十百韻』刊)6
 
**其角(十六才)このころ書を佐々木玄龍に、画を英一蝶に学ぶ。
 
 

最終の芭蕉庵は素堂の抱え屋敷内にあった!!

山口素堂 『芭蕉書簡』曽良宛。53才 元禄七年(1694) 

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山口素堂 『芭蕉書簡』曽良宛。53才 元禄七年(1694) 
()尚々宗波老へ預置申侯素堂書物早々かへされ候様に待ち奉り候に頼申よし御申候。浄久へも御伝被成候。
 
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山口素堂 『慶分船 詩文』不角編。53才 元禄七年(1694)

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山口素堂 『慶分船 詩文』不角編。53才 元禄七年(1694) 
五月あめ晴過る比慶分船をさしよせて、江の扉をたたく人有。この船や難波の春を始めて玉江のあしの夏狩りものせて是をおもしとせず。尚しほれ戸のからびたるも一ふしあるはそれすてみや。しばしかたらひ手をわかつとき
  鳩の巣や帰る目路成芦のひま    素堂
  春もはや山吹しろし萱苦し     素堂
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山口素堂 芭蕉の瓢(米入)に四山の銘を

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四山瓢名(五言絶句)。貞享3年(1686)素堂、45才。
 
一瓢垂岱山。自笑称箕山。勿慣首陽山。這中飯顆山。
一瓢は岱山より重く、白から笑ふて箕山と称し、首陽山に慣れること勿かれ、
 這(こ)の中に米粒の山あり。
《解説》
…岱山一岱山(泰山)は中国山東省にある名山で五岳の一山。
…箕山一箕山は古代尭の代に許由が隠遁した故事で退隠の語を意味する。
…首陽山は周の武王が暴君殿の尉王を伐とうとしたおり、家臣の伯夷・叔斉の兄弟が君
 臣の道を説いて諌めたが聞き入れられず。□が滅び周が興った時「周の棄を食むを恥じて」首陽山に隠れ。蕨を採って噴い遂に餓死した故事を云う。
…素堂の云おうとしているところは、「この一瓢は揺るぎない岱山よりも重いが、自ら笑って退隠と称するなら、首陽山に隠れた伯東の兄弟に習うことはない。肩肘張らずに気楽にしなさい。この瓢の中には米粒が山ほど入っているよ。
《参考》素堂が芭蕉の死後書いた「芭蕉庵六物の記」の文中には、
……ある人芭蕉庵にひさこ(瓢)をおくれり。長さ三尺にあまり、めぐり四尺にみつ。
天然みがかずして光あり。うてばあやしきひびきをだす。これを鳴らして謳歌し、あるは竹婦人にばぞらへて納涼のそなへとし、また米をいるゝ器となして、朋友の許へ投ずれば持ち満ちて帰りぬ。予これに銘じていはく打ち虚しき時は
・・‥・・一瓢垂岱山 自笑称箕山 勿慣(莫習)首陽山 這中飯顆山
《参考》 芭蕉『四山瓢』
(前文略)中にも飯顆山は老荘のすめる地にして、李白がたはぶれの句あり。素翁李白にかはりて我貧をきよせむとす。かつむなしきとこはちりの器となれ。得る時は一壷は千金を抱きて、岱山もかろしとせむことしかり。
……ものひとつ瓢はかろき我よかな   芭蕉庵桃青

素堂と芭蕉の家 延宝八年

百済国阿佐太子筆写 聖徳太子像

百済国阿佐太子筆写 聖徳太子像


素堂周辺北村季吟と湖春(季吟の子)&林道春 『雨憲閑話』

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北村季吟と湖春(季吟の子)&林道春 『雨憲閑話』
 
天和貞享の頃、江州の北村季吟法印花の本の宗匠になりて、連歌の会を催す
  まさまさと在すが如し魂祭   季吟
と云う句を吐き出して、百韻既に半ばにも至る頃、季吟がせがれ、その時未だ十歳にて傍らに在りしが、小便に立ちけり。
季吟曰く、其の方何れにゆくやと、湖春は小用に立つと答える。
季吟曰く、我が倅連歌を身に入りて、居たれしたりといはんには、道に置いて規模なるべし。其の儘そこにて小便を致し候へと申しけるとぞ。これ等雑談ながら、道に敢ての心入、他事なき事感じるに余りあり。林道春幼少の時も、これに似たる事あり。千勝丸とか云て家貧しく、その上父病屈していける折しも、ある方より鐘の銘を書き呉れよと頼み来る事有り。父は医者にて有りしかば、ケ様成る事を作る事は家業に似たれど、この程病気にて難しく思い、等閑に打ち捨て置けるを、度々催促申し来れるまゝ、千勝丸子供心にも気の毒に思い反故の裏へ件の鐘の銘を書きて父に見せれば、是を見て大いに驚き且つ賛嘆しその文章華美にして證意詳細なり。得も言われぬ面白き事なりと感誦する。道春七歳の時の事なりとぞ。今に其の反故の裏に書きたる鐘の銘は、林家に有りと聞き及びぬ。または道春父の服用する薬煎じ乍ら、火箸にて灰に何やらん書ている故、父は是を見て何を書しにやと申しければ、金の銘が余り遅くなり、度々催促申し来気の毒に存じ候故に、認めて見候と申しければ、父さらばその裏に書いて見せよとて、反故を出してその裏に書かせて見るところに、絶倫の事為れば、大いに感称すといへり。

**素堂の漢詩文について**

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**素堂漢詩文**
 (略)藤原惺窩は冷泉家為純の子で、若くして僧となった人で京都嗚相国寺の学僧、程朱の学を学び、桂庵玄樹の「朱註和訓」を学んで独自性を知り還俗し、朱子学を仏教より離して独立させた京学の祖である。朱子学の墓礎を確立し、儒学を貴族・僧侶の社会より解放したのである。後に徳川家康の招致で講援はしたが門人の林羅山を推し、仕える事はしなかった。惺窩も五山派の学僧であったのである。
 博学強記と云う林羅山(道春)は京都の人で、祖は元武士で町屋に下って商いを営んでいた。羅山は弱年で五山の一つ建仁寺に入って学んだが、僧になるのを嫌って戻り、惺窩に師事して朱子学を学び、師の推薦により徳川家康の侍講に召し出された。当時は学問で立身する者は僧侶に限られていたことから、剃髪法躯を命じられた。以後儒学者は元禄二年に剃髪が廃止されるまで続けられた。
 寛永七年、羅山は上野忍ヶ岡に土地を与えられ家塾を建てた。また尾州侯徳川義直の援助により先聖殿(孔子廟、後の湯島聖堂)が造られ、後に家塾は寛文三年に弘文院号を与えられた。元禄三年、将軍綱吉の命で忍ヶ岡より湯島に移転となり、先聖殿が湯島聖堂を、家塾が昌平と改められて、林家は歴代が弘文学士・国子祭酒を継承することになった。羅山もまた五の禅宗に関係していたのである
*素堂の漢詩文*
 山口素堂は漢学者であるが国文にも通じ、俳諧にも並々ならぬ素養を持ち、その見識は当時の先駆者的立場であった。しかし、俳諧の面では松尾芭蕉の後援者となり、後世、単なる好き者(別格の意もある)扱いをされ、多くはその評価も芳しいものではない。確かに漢詩文や鑑の作品の多くは興に乗っての即興即吟であるが、中に推敲を重ねての作品も多数ある。この傾向が現れるのは延宝末年の頃だが、これも俳諧集などの序跋文が多くなって来たこと根ざしていると考えられる。
 素堂は寛文年末頃から俳階の幽古体からの脱却を目差したのと機を一にしており、漢詩文でも古典体に囚われない自由詩体を模索して、好事者の評価を得ていた。和歌にしても原安適や、用語の自由を主張して和歌の革新をとなえた戸田茂睡とも親交がある通り、今に残る作は少ないが機を一にしている。

松尾芭蕉家系譜

素堂と芭蕉の出会い

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**素堂と芭蕉**
 松尾芭蕉は古体の俳諧を革新し、芸術文芸にまで引き上げたとして、後世「俳聖」として崇められた。連歌より派生した俳諧が、松永貞徳により体系化され、北村季吟・西山宗因が堅苦しいマンネリ化した遊戯的俳諧を、独自の「さび.・わび・しおり・ほそみ・かろみ」などを極致とする俳風を開き、芸術的俳諧に高めた事による。
 芭蕉も最初からこの域に達していたのではない、初めは貞門俳諧の手解きを受け、同じ門葉の季吟に師事し、後に宗因の談林調に投じ、そして素堂の後援を受けて、独自の俳風に至ったのである。
 素堂と芭蕉の結び付は一般には唐突である、しかし、寛文年の末頃の素堂と季吟の接触にあると推察される。勿論、春陽軒加友や内藤風虎の仲介の有ってのことであろう。延宝二年に素堂が信章として季吟に会った時には、素堂は一通りの俳諧者として過ごしていた。この時期は風虎と季吟の間で書状の遣り取りが頻繁であり、宗因の江戸招致も宗因の都合で中々進まずにいたのである。風虎のサロン入りをしていた素堂は、信章として仕えていた主家(林家?)の所用上洛するおり、風虎の依頼で季吟に会い、次いで難波の宗因に会ったのである。<季吟廿会集・信章難波津興行(鉢敲序)
季吟は宗房(芭蕉)に奥書「埋木」を与えたものの腰の定まらない宗房の、江戸での引き立て方を信章に依頼したのであろう。宗房は信章(素堂)の友人である京都の儒医・桐山正哲(知幾)に依頼して「桃青」号を付けて貰い、江戸に向かったらしい。しかし、江戸に向かう前に素堂に誘われて大阪に行ったとも考えられる。(素堂の名は見えないが芭蕉語録に芝居見物の話がある)此処で宗因化紹介されたのか、ただ見ただけなのかは判らないが、この後蓑笠庵梨一の「芭蕉伝」にあるように、季吟の門人ト尺(孤吟)に誘われ江戸に向かったのである。
素堂も宗因に会って風虎の依頼を伝えたものらしく、翌年初夏に宗因は江戸に到り、「宗因歓迎百韻興行」には、宗房改め桃青(桃青号の初め)は素堂こと信章と一座し、これと共に江戸風虎サロンにも紹介されたと考えられる、以後素堂は致仕するまで、江戸に在る時はいっしょして俳諧に一座していた。
 素堂の退隠後は、芭蕉はしばしば素堂のもとを訪れ、いろいろと学んでいたようで、門弟達と漢詩等の勉強会を開き、死ぬ元禄七年まで書物を借り出している。

山口素堂 芭蕉七回忌追善 『冬かつら』杉風編。

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山口素堂 『冬かつら』杉風編。


芭蕉七回忌追善集 素堂七唱 素堂59才 


元禄十三年(1670)


 


ことしかみな月中二日、


芭蕉翁の七回忌とて、


翁の住捨ける庵にむつまじきかぎりしたひて入て、


堂あれども人は昔にあらじといへるふるごとの、


先思ひ出られた涙下りぬ。


空蝉のもぬけしあとの宿ながらも、


猶人がらなつかしくて、


人々句をつらね、筆を染て、


志をあらはされけり。


予も又、ふるき世の友とて、七唱をそなへさりぬ。


其一 


くだら野や無なるところを手向草


 其二 


像にむかひて紙ぎぬの佗しをままの佛かな


 其三 


像に声あれくち葉の中に帰り花


 其四  


翁の生涯、


鳳月をともなひ旅泊を家とせし宗祇法師にさも似たりとて、


身まかりしころもさらぬ時雨のやどり哉とふるめきて、


悼申侍りしが、今猶いひやまず。


  時雨の身いはば髭なき宗祇かな


 其五


菊遅し此供養にと梅はやき


 其六 


形見に残せる葛の葉の繕墨いまだかはかぬがごとし


  生てあるおもて見せけり葛のしも


 其七


予が母君七そじあまり七とせ成給ふころ、


文月七日の夕翁をはじめ七人を催し、


万葉集の秋の七草を一草づつ詠じけるに、


翁も母君もほどなく泉下の人となり給へば、


ことし彼七つをかぞへてなげく事になりぬ。


  七草よ根さへかれめや冬ごもり





山口素堂 『宗長庵記』 素堂60才 元禄十四年(1701)

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山口素堂 『宗長庵記』 素堂60才 元禄十四年(1701)
 
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『宗長庵記』
連歌の達人蕾庵宗長居士は、当嶋田の郷にして、父は五条義助、母なん、藤原氏なりける。若年の頃今川義元公につかへ、故ありてみづから髪を薙出、華洛にのぼり、種玉庵宗祇法師にま見え、連歌を学び、道既長じて宗祇の宗をうけつぎ、斯道の規範として猶歌仙に人丸赤人有がごとし。性行脚を好み、江山を友とし岩上樹下を家となして風月に宿る事いまさらいふに及ばず。記詞花言葉・新撰筑波集・北国の道之記及び宇津の山の記にのこれり。然共宗祇居士、牲丹花翁のごとく世にいひ傳へたる事多からず。同国の東北にあたつて天柱山のふもと柴屋といふ所に両居士は文亀年中相州箱根山にて終たまふよし、宗長居士は享禄元年弥生初の六日と計傳へきて桂城の地きはめてさだかならず。此郷にて出生の事はうたがふ所なし。よつて郷人風雅の旅人をやどさしめむとおもひたつこと久し。予たまたま此郷にやどりて聊きく所をしるしさりぬ。他日よくしれらん人、記つきたまへ、
   元禄辛巳(十四年)二月五日 武陽散人素堂書

さびしきまゝに  芭蕉 素堂、此こと葉を常にあはれむ。

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さびしきまゝに  芭蕉
長嘯隠士の曰、客は年日の閑を得れば
主は年日の閑をうしなふと。
素堂此こと葉を常にあはれむ。
 
朝の間雨降。
今日は人もなしさびしきまゝに、
むだ書して遊ぶ。其詞
 
  喪に居るものは悲しみをあるじとし
  酒を飲ものはたのしみを主とし
  愁に住すものは愁をあるじとし
  徒然に任するものはつれづれを主とす
 
さびしさなくばうからまし と、
西上人のよみ侍るは、さびしさを主なるべし。
叉よめる、
  山里にこはまた誰をよぶこ鳥
   ひとりすまんと思ひしものを
 
獨すむほどおもしろきはなし。
長囁隠士の曰、客は年日の閑を得れば
主は年日の閑をうしなふと。
素堂此こと葉を常にあはれむ。
予も叉、
  うき我をさびしがらせよかんこ鳥
とは、ある寺に端居していかし句也。
暮方、去来より消息す。
乙州が武江より帰るとて、
朋友・門人の消息どもあまたとどく。
其中曲水が書状に、
予が捨てし芭蕉の舊跡を尋て宗波に逢よし。
  むかし誰小鍋あらひしすみれ草
叉云
我住むところ、弓杖二丈ばかりにして楓一本、
外は青き色を見ずと書て、
 
  わか楓茶色になるも一さかり
嵐雪が文に
  狗脊(ぜんまい)の薼にえらるゝわらび哉
  出代やおさな心におもひもじ
  (嵯峨日記)
 

山口素堂 『そこの花』浪花編。句文 素堂60才 元禄十四年(1701)

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山口素堂 『そこの花』浪花編。句文 素堂60才 元禄十四年(1701)
 
『そこの花』浪花編。
 
粟津がはらにて奮友はせをが墓をたずねしに、
 
  志賀の花湖の水それながら    江戸素堂
 
むかひに志賀の山、前に湖水あり、
それはたぶさにかけるたていとかかり、
三世の仏に花奉る。
また一休の詠に
  山城の瓜や茄子もそのままにたむけになすぞ鴨川の水も
 此二首にすがりていふ。

山口素堂 第二次『宗長庵記』素堂60才 元禄十四年(1701) 

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山口素堂 第二次『宗長庵記』素堂60才 元禄十四年(1701) 


 


第二次『宗長庵記』


仲秋十二、島田の騨にいたる。


日はまだ高けれど名にしほふ大井川の水にさへられ、


はからざるに此所に旅牒す。


つたへ聞、


宗長居士は此郷より出て名をふるふ。


五条義助といへる鍛士の祖族たりとぞ。


母なん藤原氏なりけり。


偶如舟老人かへらぬ昔を慕ひて一草庵をしつらふ。


名づけて長休と號し、


故墳となして往来の騒客をとどむ。


しかはあれど、


牽強するにはあらず。


其風姿をしのびよれるものは、


親のこときし子の如くす。


 


  ふらばふれ牛は牛づれ秋のくれ


 


舟翁、


何がしの両三子にかの記を乞求めて一軸とし、


愛敬してしばらくも身をはなたず。


予ひそかにあるじをたばかりて見るに、


流石にほろき難波江のよしともあしともいふべき事ならぬ。


只祇長の風がに徳ある事を感じて涙を落すのみ。


 


  そよ更にむかしえをうゑて忍ぶ草


 


  朝霧や嚥朝寝にて柴の庵


 


  そよ更にむかしえを植て忍ぶ草  素堂


   石蕗に色つく庵の巻筆     如舟


  来年と捨ておく月の晴でて    乙州


 


  ささいからお宿申や燕子花    如舟


  衣更せす夜着も借るまし     素堂



素堂と芭蕉

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**素堂と芭蕉**
 松尾芭蕉は古体の俳諧を革新し、芸術文芸にまで引き上げたとして、後世「俳聖」として崇められた。連歌より派生した俳諧が、松永貞徳により体系化され、北村季吟・西山宗因が堅苦しいマンネリ化した遊戯的俳諧を、独自の「さび.・わび・しおり・ほそみ・かろみ」などを極致とする俳風を開き、芸術的俳諧に高めた事による。
 芭蕉も最初からこの域に達していたのではない、初めは貞門俳諧の手解きを受け、同じ門葉の季吟に師事し、後に宗因の談林調に投じ、そして素堂の後援を受けて、独自の俳風に至ったのである。
 素堂と芭蕉の結び付は一般には唐突である、しかし、寛文年の末頃の素堂と季吟の接触にあると推察される。勿論、春陽軒加友や内藤風虎の仲介の有ってのことであろう。延宝二年に素堂が信章として季吟に会った時には、素堂は一通りの俳諧者として過ごしていた。この時期は風虎と季吟の間で書状の遣り取りが頻繁であり、宗因の江戸招致も宗因の都合で中々進まずにいたのである。風虎のサロン入りをしていた素堂は、信章として仕えていた主家(林家?)の所用上洛するおり、風虎の依頼で季吟に会い、次いで難波の宗因に会ったのである。<季吟廿会集・信章難波津興行(鉢敲序)
季吟は宗房(芭蕉)に奥書「埋木」を与えたものの腰の定まらない宗房の、江戸での引き立て方を信章に依頼したのであろう。宗房は信章(素堂)の友人である京都の儒医・桐山正哲(知幾)に依頼して「桃青」号を付けて貰い、江戸に向かったらしい。しかし、江戸に向かう前に素堂に誘われて大阪に行ったとも考えられる。(素堂の名は見えないが芭蕉語録に芝居見物の話がある)此処で宗因化紹介されたのか、ただ見ただけなのかは判らないが、この後蓑笠庵梨一の「芭蕉伝」にあるように、季吟の門人ト尺(孤吟)に誘われ江戸に向かったのである。
素堂も宗因に会って風虎の依頼を伝えたものらしく、翌年初夏に宗因は江戸に到り、「宗因歓迎百韻興行」には、宗房改め桃青(桃青号の初め)は素堂こと信章と一座し、これと共に江戸風虎サロンにも紹介されたと考えられる、以後素堂は致仕するまで、江戸に在る時はいっしょして俳諧に一座していた。
 素堂の退隠後は、芭蕉はしばしば素堂のもとを訪れ、いろいろと学んでいたようで、門弟達と漢詩等の勉強会を開き、死ぬ元禄七年まで書物を借り出している。



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芭蕉死す

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芭蕉死す
山口素堂 『素堂一曽良宛書簡』53才 
芭蕉、大阪にて死去(十月十二日) 元禄七年(1694)
 
御無事ニ御務稜成候儀、
其後便も不承候、
野子儀妻ニ離申候而、
当月ハ忌中ニ而引籠罷有候。
一、
桃青大阪ニて死去の事、
定而御聞可被成候、
御同然ニ残念ニ存事ニ御座候。
嵐雪、桃隣二十五日ニ上り申され候、尤もニ奉存候。
二、
元来冬至の前の年忘れ素堂より始まると名立ち候。
内々ノミのむしみ忌明侯ハバ
其日相たため可申候其内も人の命ははかりがたく候へ共、
……云々
例の年忘れ、去年ハ嵐雪をかき、
今年は翁をかき申候、明年又たそや。
      
曽良雅丈         素堂
 

 曾良より芭蕉への書状 素堂、菊の句・素堂十三唱の事など

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曾良より芭蕉への書状
素堂、菊の句・素堂十三唱の事など
 
この書状元禄三年(1690)九月二十六日、
曾良から芭蕉へ宛てたものである。
奥羽三越路の大旅行を終へた翌年である。
乃ち深川の曾良の草庵から大津、
乙州の宅に静養していた旋先の芭蕉へ送ったものと見える。
 
九月十二日之貴墨一昨廿四日伊兵衛持参再三於今不止拝見候
御下血再発之義倍偖々(さてさて)無心元奉存じ候せゝ(膳所)大津之内彼是御馳走ニ而
殊老医も都連衆之内ニ有之候故御心之儘に御養生被成儀由承先ハ乍安堵それにも御心つかひ等も可有之かと又無心元奉存候如仰此方は乍御不自由足りたる御住所程之事ニ候へは
御心安き方ハ可有之かご存候ても御文言之趣ニ而ハ常年之御下りは不定之様に被察一人御馴ケ敷存候、先書ニも申上候通野子も常年ハ様々之煩共ニ而息災成間無之候故、空草庵ニ一年を暮申候、随分致養生候、若、年内御下りも無之候ハ、春ハ早々乍御迎罷上り可申と奉存候、其内ニも何とそ御下向を願斗ニ候、いかにも御住所御求御門弟中待被申候由尤かと被
存半左衛門殿御息災と聞へ申候、先日従是も書通仕候、此の元替事無御座候。
昨日杉風にも逢申候故御書中見せ申し候。
左衛門殿金出不申上ニ当年ハ大分鮭荷参り毎日仕切金夥敷此間少々あくまれ候程之対に見へ申候
一、
露通事高橋の手前の裏ニ店かり春迄は江戸住と見へ申候、
折々此方へも参塗候御書中之通りにて候、野子なと出曾も無用之事にや、
重而思召ひそかに承度候、先はいか様之すべ共委不存故不替躰にもてなし候へとも、
貴翁御通シ無之者ニ出会候も不快候故御内意承度候。
一、
ひさこ集ノ事かねて及承候 キ角(宝井其角)より露通かり参由及承候間かり見可申候キ角などハ心に入不申候様ニ承候、御発句共御書付被下悉奉存候、かすかにさひたる意味得心仕なから、例之念入病除不申それのミ杉風とは申事ニ候、十三夜御座候外にも聢に無之との事ニ候。
 
何とやらん重く不快ニ御座候、いか様「ひさこ集」見取し候而心付候ハバ、おい(?)仕上ケ可申と存候、杉風句とも反故之内より見出申候故縣御目候、是も重くしたるく聞へ申候、先日武野へ同道仕候発句文なと見せられ候、書き出しなといかが乍存外へ見せられも、不被致し候故先能出来候分ニ仕置申候、嵐雪集出来「其袋」と申候、自序にて御座候、中々出来申候、素堂手傳と申候。発句・歌仙等不面白候、素堂去年名月十三句入申候、巻頭季吟にて
御座候。
一、
字か神弁才天の事別紙書付懸御目候、別御覧不分かと無心元奉存候
素堂きく(菊)の句之事得其意候、此間にかゝせ申候而重而上せ可申候、
幻任庵之記之事畏入候、拝見仕度候。
 
 〔筆註〕
十三夜は貞享五戊辰長月の其夜芭蕉庵で、素堂・杉風・越人・友五・岱水・露通・宗波・石菊・芭蕉・蚊足」の十人が一座して興行。
 曾良発句
茄の木を引すつるにも秋の果
 
元禄三年九月十三夜 遊園中十三唱
ことしの中秋の月は心よからず、
此夕はきりのさはりもなく、
遠き山よもうしろの園に動き出ルやうにて、
さきの月のうらみもはれぬ
其一
  富士筑波二夜の月を一夜哉
其二 寄菊
たのしさや二夜の月に菊そへて
其三 寄茶
江を汲て唐茶に月の湧夜哉
其四    
旨すぎぬこゝろや月の十三夜
其五 寄蕎麦
月に蕎麦を占ことふるき文に見えたり、
我そばゝうらなふによしなし
月九分あれのゝ蕎麦よ花一つ
其六 畠中ニ霜を待瓜あり。誠に筆をたてゝ
冬瓜におもふ事かく月み哉
其七 同隠相求といふ心を
むくの木のむく鳥ならし月と我
其八 寄薄
蘇鐵にはやどらぬ月の薄かな
其九 寄蘿
遠とも月に這かゝれ野邊の蘿
其十     
一水一月千水千月といふ古ごとにすがりて、
我身ひとつの月を問
袖につまに露分衣月幾クつ
其十一 荅
月一つ柳ちり残る木の間より
 其十二
寄芭蕉翁
こぞのこよひは彼庵に月をもてあそびて、
こしの人あり、つくしの僧あり。
あるじもさらしなの月より帰て、
木曾の痩せもまだなをらぬになど詠じけらし。
ことしも又月のためとて庵を出ぬ。
松しま、きさがたをはじめさるべき月の所々をつくして、
隠のおもひでにせんと成べし。
此たびは月に肥てやかへりなん
其十三 国より帰る
われをつれて我影帰る月夜かな
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