杉山和一 画像・略歴
高倉蘭更 句入書状
甲斐国志にみる 馬場美濃守信房と関連記事
◇天文十五年(1546)武川衆教来石民部を擢て五十騎の士(さむらい)大将とし馬場氏と改め民部少輔と称す。(三代記云、馬場伊豆守虎貞ト云者直諫爲信虎所戮嗣、晴信立令教来石民部影政爲紹馬場氏之祀云云。 虎貞の事未知明據故不采教来石ハ武河筋ノ村名ナリ。彼地ハ馬場氏ノ本領ナレハ時ノ人稱之カ爲氏族者本州ニ所見ナシ。
◇永禄八年(1565)授美濃守。武田家ニ原美濃ノ英名アルヲ以テ令三外人避其稱最モ規模トスル所ナリ。
◇永禄九年十月信州真島城城代トナル。信玄ヨリ七歳上ニテ信虎ノ代ヨリ功名アリ。道鬼日意カ兵法ヲ傳得タリ。場数二十一度ノ証文、其方一身ノ走リ回リ諸手ニ勝レタリト褒賞セラルゝコト九度ニ及ベリ。戦世四十餘年ヲ歴テ身ニ一創瘢ヲ被ル無シ。知勇常ニ諸将ニ冠タリト云。旗ハ白地ニ黒ノ山路、黒キ神幣ノ指物ハ日意ヨリ所乞受ナリ。
〇諸記ニ深澤谷ニテ塙九郎左衛門内河合三十郎討之参河國墳墓記ニ馬場美濃守信政ノ墓ハ長篠橋場近所ニ在シテ元禄中毀テ爲畠馬場ハ須澤ト云所ニテ討死、信長ノ幕下岡三郎左衛門獲首賜二感状一三河国政績集ニ須澤作出澤)
美濃守男ナリ。大宮神馬五匹(同心ト共ニ)トアリ、天正壬午ノ時民部信州深志城ヲ衛ル。(三国志ニ作信春一書ニ氏員又信頼ハ信房ノ甥ナリ。戦死ノ後家督セリト皆無明記・編年集成天正七年(1579)九月沼津ノ條ニ馬場民部昌行と云者アリ。
昌豊ハ爲人度量アリ。閑雅小節ニ不抱馬場美濃守 山懸ニ抗衡シテ諸将の魁タリ。
◎ 馬場半左衛門昌次「木曾伊豫守義昌」の項
〇参考・兵家茶話云、木曾義仲六世讃岐守家教ノ長男讃岐家村(初太郎)是ヲ千村の祖トス。
・義直卿 慶長八年(1603)卯正月受二封於本州一云々…『地頭慶長郷村帳』馬場民部(四百石)。
・白須某、七澤作左衛門の項『甲斐国志』
馬場美濃守 由緒書 北巨摩郡高根町某家 家系書
由緒書 北巨摩郡高根町某家 家系書
下部町常葉馬場家家系由来書 馬場美濃守信房
下部町常葉馬場家家系由来書
信房
下部町馬場家関係記述 抜粋
『甲斐国志』志庶部 第百十七巻代十六
○ 妻ハ繁宝妙昌大姉天正十一年四月七日
○ 同但島守(丹後守ノ名ナリト)仙岳宗椿上座 同八辰年正月一日
○ 妻ハ雲岳理庵大姉 同年八月五日
○ 同五郎左衛門 東前院傑翁良英庵主同十八寅年八月十五日
○ 妻ハ昌英院玉瀬清昌珍大姉文禄元辰年十一月十五日
○ 同八八郎左衛門 清雲院宗岸宗茂上座文禄四未年七月十五日
馬場与三兵衛家系 朝気村(現甲府市朝気)馬場美濃守信房
馬場与三兵衛家系 朝気村(現甲府市朝気)
自元寺由緒書末尾『馬場美濃守信房公の子孫』史跡保存館発行
自元寺由緒書末尾『馬場美濃守信房公の子孫』史跡保存館発行
享保十二年丙牛年江戸大塚住旗本大番馬場喜八郎殿ヨリ被来享保十二ノ冬御位牌修補成リ越方金一歩書状等御差添向陽院古同ト申僧ノ状相添被越候、此方ヨリ返事礼状仕候喜八郎殿知行四百石余 自元寺住職恵光代
一、馬場民部少輔信義初号 勘五郎 此代家康ヘ御奉公相勤候
自元寺 馬場美濃守の位牌
之贈寺旦欲迎其壊於家而仰鎮護也
自元寺馬場三代
一、信房法名自元乾叟自元居士
慶応四年戊辰七月 巨摩郡片颪清泰寺末
三代馬場民部信義は『寛政重修諸家譜』によれば馬場美濃守の子供で長男が二代信忠で次男が信義(民部勘五郎)で「東照宮(家康)に召されて御麾下に列し、甲斐国白淵(洲)、教来石、台原等のうちにをいて旧地をたまひ、天正十七年采地を加へられ、御勘気をかうぶる」とある。又『寛政重修諸家譜』の馬場信久の項に、「信保(武田信虎に仕へ、甲斐国武川谷大賀原台ケ原根小家の城に住す」
自元寺に現存する古文書(寺領)
一、三十七間 廿二間 屋敷弐反八畝拾壱歩 自元寺
一、廿間 八間 下田五畝拾歩 同寺領
一、廿壱間 拾五間下田壱反拾五歩 同寺領右同所
一、五拾間 三拾間同寺領