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杉山和一 画像・略歴


高倉蘭更 句入書状

甲斐国志にみる 馬場美濃守信房と関連記事

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甲斐国志にみる 馬場美濃守信房

◇天文十五年(1546)武川衆教来石民部を擢て五十騎の士(さむらい)大将とし馬場氏と改め民部少輔と称す。(三代記云、馬場伊豆守虎貞ト云者直諫爲信虎所戮嗣、晴信立令教来石民部影政爲紹馬場氏之祀云云。 虎貞の事未知明據故不采教来石ハ武河筋ノ村名ナリ。彼地ハ馬場氏ノ本領ナレハ時ノ人稱之カ爲氏族者本州ニ所見ナシ。   

◇永禄二年(1559)加騎馬七拾合爲百貳十騎。此内ニ小幡彌三右衛門(小幡山城庶男)・金丸彌三左衛門・早川彌左衛門・平林藤右衛門・鳴巻伊勢守・鵄大貳(本ト根来法師長篠ニテ飯崎勘兵衛ト名乗リ討死スト云、其弟ハ二位)皆饒勇ノ裨将ナリ。  

◇永禄八年(1565)授美濃守。武田家ニ原美濃ノ英名アルヲ以テ令三外人避其稱最モ規模トスル所ナリ。

◇永禄九年十月信州真島城城代トナル。信玄ヨリ七歳上ニテ信虎ノ代ヨリ功名アリ。道鬼日意カ兵法ヲ傳得タリ。場数二十一度ノ証文、其方一身ノ走リ回リ諸手ニ勝レタリト褒賞セラルゝコト九度ニ及ベリ。戦世四十餘年ヲ歴テ身ニ一創瘢ヲ被ル無シ。知勇常ニ諸将ニ冠タリト云。旗ハ白地ニ黒ノ山路、黒キ神幣ノ指物ハ日意ヨリ所乞受ナリ。

◇天正三年(1575)五月廿一日長篠役軍巳ニ散シテ勝頼ノ馬印遙ニ靡(ナビ)走ルヲ目送シテ立還リ、傍ノ小岡ニテ坐シ大ニ喚テ云、馬場美濃守ナリ今将就死ト終ニ刀柄ヲ握ラス。安然トシテ首級ヲ授ク。

〇諸記ニ深澤谷ニテ塙九郎左衛門内河合三十郎討之参河國墳墓記ニ馬場美濃守信政ノ墓ハ長篠橋場近所ニ在シテ元禄中毀テ爲畠馬場ハ須澤ト云所ニテ討死、信長ノ幕下岡三郎左衛門獲首賜二感状一三河国政績集ニ須澤作出澤)  

法名乾叟自元居士 武河筋白須村自元寺ノ牌子ナリ。  
馬場民部少輔 

美濃守男ナリ。大宮神馬五匹(同心ト共ニ)トアリ、天正壬午ノ時民部信州深志城ヲ衛ル。(三国志ニ作信春一書ニ氏員又信頼ハ信房ノ甥ナリ。戦死ノ後家督セリト皆無明記・編年集成天正七年(1579)九月沼津ノ條ニ馬場民部昌行と云者アリ。

〇 正壬午十年(1582)七月記ニ法条氏直信州ニ入ル、馬場右馬助房勝(美濃氏勝ノ二子)其外国人ヲ郷導トシ碓氷峠ヲ越ユト云々。  
・女婿ハ軍艦ニ信州丸子(大全作三右衛門)傳解ニ初鹿傳右衛門(岩淵夜話ニ所記初鹿ノ傳アリ可参照・鳥居彦右衛門(関原記・大全所記ナリ。家系ニハ形原ノ家廣女ハ鳥居ノ妻ナリ。即チ左京亮忠政、土佐守成次ノ母ト云)按スルニ馬場氏本州ニ舊ク之アリ。  
・一蓮寺過去帳ニ
・長禄四年・寛正元年(1460)十二月廿七日臨阿(馬場参州)  
・文明ノ頃(1469~1487)(年月日無記)来阿馬場中書。浄阿馬場民部。金阿馬場小太郎。  
・下ノ郷信州起請文六河衆ノ列ニ馬場小太郎信盈花押アリ。(是ハ永禄中ナリ)後年マテ彼筋ニ土着セル馬場氏ノ事ハ士庶部ニ詳ニス。教来石・白須・臺ガ原、三吹・逸見ノ小淵澤等傳領セリ。民部信春ト云者ヲ擢出シ、命ニ軍将一ノミ元来ノ馬場氏ト見エタリ。  
・木曾千次郎義就ノ家老ニ馬場半左衛門昌次ト云者アリ。後に幕府ニ仕ヘ尾州義宣卿ニ附属セラル。彼先祖ハ木曾義 仲ノ裔讃岐守家教ノ男家村稱讃岐守家村ノ第三男ヲ云常陸介家景始メ以馬場爲氏數世ニシテ半左衛門ニ至ルと云。本州ノ馬場氏モ盖シ是ト同祖ナリシニヤ。其系中絶シテ詳ニ知レズ。三代記ニ所謂三位源頼政ノ後トスル者ハ本州ニ所關詳ナラザレハ適従セン事難シ馬場ト云地名ハ州中ニモ所在多シト云。    
<参考内藤修理亮昌豊の項>
  • 昌豊ハ爲人度量アリ。閑雅小節ニ不抱馬場美濃守 山懸ニ抗衡シテ諸将の魁タリ。 

永禄拾二年 1569
・信玄略地武相ニ至リ逼小田原昌豊東道ノ先鋒トシテ進ミテ四ツ門蓮池ニ入ル戦将ニ酣   ナラントスル時馬場美濃ハ後陣ニ在リ使ニ早河彌三左衛門昌豊ヘ謎カケテ云「いとけのくそくてきをきる」昌豊解テ云「こたち」早川河 往返シテ蒙炮創ニト云。
(按スルニ實ハ先陣ノ様ヲ侯スルナリ。絲毛具足斬敵ハ大敵ナレハ胴勢ヲ固ク備ヘ兒戯ノ如ク會左釋シテ輕ク撃レヨト云意ナラン。昌豊モ其心得なリシトテ小太刀ト答ヘシナルヘシ) 
○ 同時退キ口ニ三増峠ニテ一戦ノ時内藤ハ小荷駄ヲ警固シテ脇ノ方ニ在リ。山路嶮ニシテ長蛇ノ首尾合ヲ事遲シ魁兵 山懸カ先ノ見ユルニ及ヒテ内藤ヨリ使寺尾豊後馬場ヘ謎ヲ贈ル。「待霄に更行かぬの聲きけは」、馬場答曰「車牛離牛」(按ニ長蛇ノ首尾合ヒテ待詫タリト云意カ、来ル間モ憂シト雖モ既ニ来リ挑戦、敵モ大軍ナリ。離散スル事モ亦容易ナラント答ヘシナラン方言牛通憂)他人の戦ヲモ身ニ引受クル趣ナリ。   
○ 家臣早河彌三左衛門馬場氏の裨将ナリ。後、勝頼没後井伊家ニ属ス。受馬場氏ノ傳兵學ニ秀ツ武州八王子信松院ニ幸豊ノ所寄賜軍船ノ雛形(大小二箇)保衣並ニ添状アリ。早河の由緒ハ大石和筋栗原筋ニ委シ。  

◎ 馬場半左衛門昌次「木曾伊豫守義昌」の項 

家村三男常陸介家影(初三郎)馬場氏の祖ナリ。二人ハ木曾ノ属臣タリ(諸記ニ作二千村左左京一親族繁多ナリ。建武中従足利氏封本領木曾並伊那郡内嫡男木曾太郎義親又稱高遠是箕輪氏ノ祖ナリ。慶長元年千次郎身代果テ 後各々幕府ニ奉仕ス。  

〇参考・兵家茶話云、木曾義仲六世讃岐守家教ノ長男讃岐家村(初太郎)是ヲ千村の祖トス。

義直卿 慶長八年(1603)卯正月受二封於本州一云々…『地頭慶長郷村帳』馬場民部(四百石)。

・真田隠岐守信尹(三千石・馬場美濃守の男の女婿)  
・城番馬場民部 慶長十二年(1607)義利卿国替ノ後、武河逸見在住ノ諸士交代シテ衛之。馬場民部。  

・白須某、七澤作左衛門の項『甲斐国志』 

青木ハ武川衆白須ノ黨ナリ。…因ニ云、或説ニ其頃武川ニ白須某ト云者アリ。身貧ニシテ刀モ今ハ賣代カヘ常ニ府ニ出デ此處彼處ニ寄食セリ。或時其方ノ人々三四人白須氏を誘ヒ京師ニ遊相人アリ。白須氏 ヲ視テ駭キテ云、足下蚤ク本国ニ帰ルベシ。三十日ヲ過ズ必ス大ナル幸アラン。近頃如斯ナル富貴ノ相ヲ視ズ。若違フコトアラハ僕又人ヲ相セスト人々敢テ信ゼス笑ヒテ止ミヌ既ニシテ國ニ帰ル。程ナク江戸ヨリ召ス人アリテ  使来リテ催シケレハ人々旅装ヲ繕ヒ江戸ヨリ赴カシメテ今年ヲ歴タレハ其事慥ナラストナン。       
 

馬場美濃守 由緒書 北巨摩郡高根町某家 家系書

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由緒書 北巨摩郡高根町某家 家系書

一、馬場美濃守信房ハ教来石民部少輔景政と号す。然ニ一族馬場伊豆守虎貞、武田家 の長臣なるが信虎公大悪無道の人なる故に虎貞を誅せられる。これに依って馬場の家断絶に及びけるを其後信玄の代に至り此事を歎き一家なれハ教来石民部少輔を以て伊豆守が名跡を続しめ美濃守になされ信の字を賜って信房と改め武田菱の紋を賜りける。子息をハ民部少輔と云て嫡子なり。然に勝頼の代に至り其諫を茂用ひ給はず長坂・跡部等の侫人奸曲の語を而其巳誠と思はれけれハ、信房是を怒り今度三州長篠の合戦の時(天正三年なり)生年六拾弐才にて討死せらる。長篠の橋場より只一騎取て返し深澤谷の小高き処に駆上り馬場美濃守行年六拾弐歳首取て武門の眉目にせよと呼ハれハ敵兵四五騎駆寄って四方より鑓を付る。信房太刀に手をも掛す二王(仁王)立に成って討れしハ前代未聞の最期なり。
 首ハ塙九郎左衛門直政が郎党河合三十郎討取たり。惜哉信房ハ信虎より勝頼ニ至って三代に仕へ、武田家爪牙の重臣にて享禄四年十八歳にて初陣に立しより十度の高名を顕すと雖とも一生疵を蒙らず此の合戦勝頼大に敗北し武田家伝の指物諏訪法性の兜孜金等を捨て逃けられける。此の時町人の落書に
 
信玄の跡をやふやふ四郎殿敵の勝より名をハ流しの

下部町常葉馬場家家系由来書  馬場美濃守信房

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下部町常葉馬場家家系由来書

其祖ハ清和天皇後裔丹後守忠次ト稱スル者元弘建武の乱ヲ避ケ甲州都留郡朝日馬場村北東ノ億ニ隠住ス。
武田氏ニ仕ヘ地名ヲ取リ馬場姓トス。妙圓寺ヲ開基シ黒印五石ヲ寄付シ殿堂ヲ建立ス。清和天皇ヲ祀リ後相州鎌倉八幡 宮ヲ氏神ニ祀リ之始祖也(中略)

信房

伊豆守虎貞信虎ノ暴虐ヲ憂ヒ屡直諫ス。信虎容レス。虎貞之カ為メニ遂ニ殺サル。馬場系血是ニ於テ手絶エントス而時常葉次郎ナル者馬場家ヲ継グ。馬場美濃守信房ト稱ス。(中略)  

下部町馬場家関係記述 抜粋

『甲斐国志』志庶部 第百十七巻代十六

○ 常葉院の牌子に昌厳院笑岩道快居士 天正拾午年六月廿一日
(一ノ瀬妙圓寺ニ丹後守忠次、法名日瀬トアリ。北川ノ妙立寺ニ丹後守
ノ女法名ハ妙来ト云アリ。其状ニ記セ)

○ 妻ハ繁宝妙昌大姉天正十一年四月七日

○ 同但島守(丹後守ノ名ナリト)仙岳宗椿上座 同八辰年正月一日

○ 妻ハ雲岳理庵大姉 同年八月五日

○ 同五郎左衛門 東前院傑翁良英庵主同十八寅年八月十五日

○ 妻ハ昌英院玉瀬清昌珍大姉文禄元辰年十一月十五日

此二牌子ハ当村東前院ニアリ。五郎左衛門ノ位牌ハ早川法明院ニモアリ 

○ 同八八郎左衛門 清雲院宗岸宗茂上座文禄四未年七月十五日

○ 同彦之丞 恕山道思禅定門 右ニ載スル所原記ノ支干錯乱シシヲハ今繕
写スト雖モ亦其実ヲ得タリト云フベカラズ
○ 里人別ニ馬場弥五郎、弥次郎ナド云人ヲモ云伝ヘタリ
○ 本村諏訪明神ノ社記ニ元禄九丙子年
(馬場八郎左衛門忠次、渡辺十郎右衛門正次)
神殿再興云々是モ元禄ノ字ノ誤リアルヘシ又丹後守源信ト記セリ皆ナ後
世ノ為飾信用シ難シ
○ 按ニ軍艦ニ穴山衆 馬場八左衛門見エタリ云々
【註】加賀美遠光-秋山光朝-常葉光季……常葉次郎

馬場与三兵衛家系 朝気村(現甲府市朝気)馬場美濃守信房

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馬場与三兵衛家系 朝気村(現甲府市朝気)

『甲斐国志』第百八巻士庶部第七浪人馬場彦左衛門ノ家記ニ云、
馬場美濃守ノ孫同民部ノ末男丑之介壬午(天正拾年)ノ乱ヲ避ケ其母ト倶ニ北山筋平瀬村ニ匿ル後本村(朝気)ニ移居シテ与三兵衛ト更ム、其男四郎右衛門、其男善兵衛(元禄中ノ人)今ノ彦左衛門五世ノ祖ナリ善兵衛ノ子弟分流ノ者アリ皆小田切氏ヲ稱セリ
元禄十一年戊寅年ノ村記ニ依ル苗字帯刀ノ浪人馬場惣左衛門ノ妻ハ江戸牛込馬場一斎ノ女トアリ
善兵衛(六十歳)総左衛門(三十八歳)新五兵衛(三十三歳)三人兄弟ナリト云 
 

自元寺由緒書末尾『馬場美濃守信房公の子孫』史跡保存館発行

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自元寺由緒書末尾『馬場美濃守信房公の子孫』史跡保存館発行

自元寺開基馬場美濃守信房始メ号教来石民部少輔到信玄公美濃守信房改被下信虎・信玄・勝頼三代武田家爪之老臣云
享禄四年十八歳ノ初陣ヨリ数十余度ノ戦ニ高名ヲ露シ一生終ニ疵ヲ不蒙然而
天正三年乙亥年五月二十一日於三州長篠合戦引受け家康・信長等大敵其日兼而遺言シテ思定メ討死にスト云長篠ノ橋場ヨリ只一騎取テ返シ深沢谷ノ小高キ処ニ駆ケ揚リ馬場美濃行年六十二歳首取リテ武門ノ眉目ニセヨト呼ハリケレバ敵兵聞テ四五騎四方ヨリ鑓ヲ付信房太刀ニ手ヲ掛ケズ仁王立ニ成テ討セシハ前代未聞ノ最期也  
首ハ河合三十郎ト云者討取ル 兼テ遺言ヲ承リシ家臣原四郎遺物遺骨を持来於甲州自元寺法事等相勤 
法名乾叟自元居士 墓所白須有也

享保十二年丙牛年江戸大塚住旗本大番馬場喜八郎殿ヨリ被来享保十二ノ冬御位牌修補成リ越方金一歩書状等御差添向陽院古同ト申僧ノ状相添被越候、此方ヨリ返事礼状仕候喜八郎殿知行四百石余 自元寺住職恵光代

一、馬場美濃守信房 号 
   乾叟自元居士、馬場民部少輔信忠 又云フ初ニ信春於信州深志城討死
一、号 信翁乾忠 此ノ二代御位牌立成過去帳記載有之候

一、馬場民部少輔信義初号 勘五郎 此代家康ヘ御奉公相勤候

自元寺 馬場美濃守の位牌

正面  開基馬場美濃守源公法号乾叟自元居士
右   柳営幕下小臣武州豊島郡大塚公五世胤馬場喜八郎義長旧名義教拜白
左公七世外孫出家得法同牛込竜山松源禅寺 向陽院惟庸字古同敬書
裏面  信州槙嶋城主甲国武田舊臣新羅后胤馬場美濃守源公諱信房始稱敬禮
師民部少輔諱正光天正三年乙亥五月廿一日六十三歳或作四役于参州
於長篠西北之間滝川橋場自殺従者齏遺骨少帰州臺原墓石采地或云武
河之白須村於自元寺以佛古又祭法号如前面矣聞自元寺之神儀弊壊新

之贈寺旦欲迎其壊於家而仰鎮護也

自元寺馬場三代

一、信房法名自元乾叟自元居士

  天正三年乙亥年五月二十一日 於三州長篠討死生年六十三歳   
  家臣原四郎承遺言 遺物遺骨等来於白須村自元寺法事相勤御墓名塔立来
一、馬場二代民部少輔信忠
  法名信翁乾忠居士 信房嫡子 信忠或ハ信春と云
  天正拾年三月信州深志之城討死 自元寺過去牒ニ記墓所有之
一、馬場三代民部少輔信義
是ハ信忠の嫡子此の人始めて家康公に仕へ法名等相見不申右之通相違無御座候以上

   慶応四年戊辰七月 巨摩郡片颪清泰寺末

【筆註】   

 三代馬場民部信義は『寛政重修諸家譜』によれば馬場美濃守の子供で長男が二代信忠で次男が信義(民部勘五郎)で「東照宮(家康)に召されて御麾下に列し、甲斐国白淵(洲)、教来石、台原等のうちにをいて旧地をたまひ、天正十七年采地を加へられ、御勘気をかうぶる」とある。又『寛政重修諸家譜』の馬場信久の項に、「信保(武田信虎に仕へ、甲斐国武川谷大賀原台ケ原根小家の城に住す」

-長男馬場美濃守信房-次男善五兵衛信頼、(兄信房の家嫡となる)-その子供が信久-その子供が信成で根小家に住し、武川の諸氏と共に徳川家康に仕え本領の地を給う(右衛門尉・民部)とあり、信義と信久は同一人物の可能性も有る。「根小屋」の地は現在も白州台ケ原の尾白川の対岸高台にあり、縄文・中性の遺跡も発屈されている。馬場一族として後世包含されているが、馬場美濃守と馬場信保の家系の繋がりは不詳。 

自元寺に現存する古文書(寺領)

一、三十七間 廿二間  屋敷弐反八畝拾壱歩 自元寺

是は自元寺屋敷の儀千六百八拾五坪御免坪にて四奉行衆御黒印取揃先年は白須村の内坊田と申所に寺御座候所先御給人馬場民部殿御知行所の時分六十九年以前辰年民部殿御指図を以高外芝間の処を寺地に仕立て御黒印の屋敷共に御年貢不納地に而御座候間前々の通御除地に被仰付下度候

一、廿間  八間  下田五畝拾歩 同寺領

是は自元寺屋敷黒印地林の内十五年以前戊年開発仕御年 貢不納地に而御座候間前々の通り御除地に被仰付下度候

一、廿壱間  拾五間下田壱反拾五歩 同寺領右同所

一、五拾間  三拾間同寺領

是は白須村先御給人馬場民部殿御知行の節七拾年以前、民部殿より白須村御高の内中田弐畝拾八歩下畑弐畝弐歩田畑合四反八畝八歩の所、御年貢なしに自元寺に被下置申候、民部殿御替り八代越中守殿御知行所の時分も前々の通り御年貢なしに被下置候然所に御蔵入に罷成、平岡七兵衛殿御代官所の節右四反八畝八歩の田畑御高内の由にて御年貢被仰付候に付、自元寺退転ニおよひ申躰に御座候故村中相談を以つて、白須村高外向川原にて新田開発仕自元寺へ付申度由七兵衛殿に御訴訟仕候処、願の通り仕候様にと被仰付、右川原間三拾九年以前戊年開発仕自元寺へ付置申候、其以後平岡勘三郎殿御代官の節超間御改の時右のわけ申候間前々の通り御除地に被仰付下度候

中山砦(北杜市白州町・武川町)馬場美濃守との関係

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中山砦(北杜市白州町・武川町)
 『甲斐国志』古跡部に
「三吹・台ケ原二村ノ西ニ在リ其ノ裏ハ横手村ナリ。北ニ尾白川、南ニ大武川ヲ帯タル孤山ノ嶺ニ方四、五十歩ノ塁形存セリ。半腹ニ陣ガ平卜云フ平地、又水汲場卜云フ処モアリ。麓ヨリ凡ソ三十町計リノ阪路ナリ…天正壬午御対陣ノ時ハ武川衆之ヲ警固ス。家忠日記ニ八月廿九日ノ条二武川ノ士花水阪ニ戦ヒ北条ノ間者中沢某ヲ討取ル、山高宮内、柳沢兵部首級ヲ得ル」
とある。 
『寛政重修諸家譜』によると、馬場美濃守信房の父「遠江守信保は武田信虎につかえ、甲斐国武川谷大賀原(台ケ原)根小屋の城に任す」とあり、また「信保の二男信頼(隼人)の子信久根小屋に任す」「その子信成(馬場民部)武田勝頼に仕え板小屋に住む」とある。
 戦国時代武川衆の拠点となり、武田勝頼の新府城の前衛として、また徳川家康にとっても北条氏直との戦いのため軍事上重要な位置にあった。この砦は中山の南北に延びる尾板状の山頂部南北七〇メートル、東西二〇メートルを利用して構築し、尾根の南と北側を掘り切り、その範囲を削平して四つの小郭を形成している。山頂部には土塁に囲まれた二つの郭が南北に並んでいる。南端にある郭は一段下がつて設けられており弧状を呈している。さらに下がつて弧状の郭に沿って空濠と低い土塁をめぐらしている。東側には郭の下に二段から三段の帯郭がある。
 土の山麓の台ケ原寄りの尾白川段丘上を根古屋といい、中山砦に対する城下の住居地で、住時は集落をなし鎮守「荒尾神社」があったが、のち人家は台ケ原に移って、荒尾神社も大正三年台ケ原の田中神社境内内に遷座された。

教来石氏(馬場氏とも)居址と鳥原屋敷跡

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教来石氏居址と鳥原屋敷跡
 甲斐国志古跡部に「下教来石村ニ上屋敷、中屋敷、裏門ナドノ名存セリ、其ノ地ニ枯井戸モアリ、上教釆来石村ニモ同氏ノ居述トシテ内杭板、外杭板、裏門卜云フ地名アリ、又古碑アリ、明応三年庚寅ノ字ヲ見ル、古事ヲ知ラズ」とある。
 この地域では釜無側を表と呼んでおり、下教来石の教来石氏居跡は、小字下木戸と屋敷裏との間、今の国道二〇号縁付近にあつたのではないかと推定する。 地の人は教来石民部の生れたところと言っている。
 その西鳥原にかけて、浦門、後林、三蔵、矢ノ下、内屋敷などの小字や俗称馬飯場、殿畑、お城坂などの 地名がある。教来石氏の鳥原屋敷は、下教来石から鳥原部落に行く道、鳥原部落北東の小高い所、殿畑にあったという。およそ一〇〇メートル四方の畑の南側と東側・西側に掘跡があるが、北側は確認できない。
城山(万燈火山)
 白州町鳥原の西、松山沢川の渓口に石尊神社がある。その南の山を万燈火といい、蜂火台があつたところといわれている。『甲斐国志』に鳥原ノ塁として「蓋シ煙火台ナリ、逸見筋笹尾ノ塁ニ抗衡シテ国選ニ備フトイフ」とあり、また笹尾墨跡の項に「小渕沢・小荒間両道ノ番所へ各モ一里、上笹尾村ニ遠観(とうみ)番所アリ大井ガ森卜抗衡ス、西ノ方ハ武川筋鳥原ノ亭候ニ相並ンデ教来石ノ番所へモ一里余、皆諏訪ロ、大門嶺ロノ警衛ニアタル…湟塁二三重ニシテ甚ダ広カラズ、左右ノ山腹ニモ塁形存ス、本城高キ処五六十歩、南ニ下ルコト十五歩ニシテ洞穴アリ数十人ヲ容ルベシ、鐘釣リ穴ト名ヅク、此ニテ鐘ヲ鳴セバ鳥原ニテ太鼓ヲ打テ相応ズ云ヒ伝フ」
とある。
 甲信国境に近く、北方警備のためのみでなく武田の信濃侵攻のための警備や連絡の重要な拠点であったといえる。笹尾の塁(標高七五九m)に対し鳥原の万燈火(城山、標高九四八m)は直線的に至近距離で相互に鳴り物で合図することは可能であつた。
この煙火台は、南は神官川、北は松山沢川の谷で、西は峰つづきで、東方が開けて笹尾と相対している。炉跡などはなく、城山の山頂から一段下った万燈火という辺りが番人小屋のあったところと目されている。数年前まで木祠があり、往時は提灯を点じて祭りが行われたと古老が語っていた。

白州町 馬場氏屋敷跡 これは間違い

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馬場氏屋敷跡
 『甲斐国志』古跡部には
「白須ノ字ヲ大庭卜云フ、其ノ下ニ殿町卜云フ処アリ、梨柏ノ老樹アルヲ園樹ナリト云ヒ伝フ」とある。白須に上屋敷という字があり、その西、国道より西が大庭、その南に俗称殿町という部落がある。今の若宮八幡神社の南に梨の大樹があったと古老が言うが、これが国志にある「梨柏ノ老樹、園樹」即ち屋敷内の大樹ではないか。その付近から古井戸と思われる大きな穴が発見されたり、その南に濠跡と思われる窪地があるという。そのあたりが馬場氏が鳥原屋敷から移ってきて、この辺一帯を采地としたころの館跡であると思われる。

白州町白須は太平記のころの白須上野守の居住した所で、馬場美濃がここに住居を持っていたことはない。馬場美濃の屋敷は現在の武田神社の前方にあり、甲府市により遺跡調査も行われ、馬場美濃が死んだ後も子息や妻は住んで居た。
中世の屋敷跡が在ったとしてもそれが馬場美濃の屋敷とは断定できない。
これは鳥原遺跡にしても同じで、安易な指定は歴史を混乱させる。


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