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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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柳沢吉保の家臣、素龍は芭蕉の奥の細道を清書した

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柏木素龍&芭蕉&柳沢吉保


 「復刻研究文献」小ばなし、風律稿


素龍は京の人にて、歌学は季吟の弟新玉津島正立の弟子なり。手跡は上代様なり。江戸に来りて客居す。或時坡翁、深川の芭蕉庵へ行けるに、翁云ふ素龍といふ人京より下り被申し由、聞き及びたる人なり。逢度候間聞き合せ可給と申さる。夫よりあれこれ聞き合せたるに旅宿屋に居られしを尋ね行て逢ふ。芭蕉庵逢申度由被頼候間、深川の庵へ御同道申度よしいひしに、芭蕉庵はこの方にも聞き及び候へば、幸いの事にて候間、御同道参可申由にて被参候、夫より三年程庵に居被申候、其の時分翁此素龍の手を習ひ被申候。予また此の手跡を習ひ被申候なり。其後翁被申には若き人、久々隙にて有之町々にて講釈など可然ことゝ被申候故同道致し帰り、坡師弟書店なればこの方にて歌書講釈など有候。正立門人故季吟師へも出入り被、殊の外気に入り、方々代講に被参候、大村侯など御懇意にて候処、柳沢(吉保)侯へお抱へにて被参頃は、柏木儀左衛門と申し候、後に藤之丞と申し候。大村侯よりお世話にて道具など調集被申し候。「奥の細道」「炭俵集」は素龍の筆なり。


 ・・坡師語・・


 


【註】完成原稿が能書家柏木素龍の手で清書されたのは、芭蕉が亡くなる年の、元禄七年四月。素龍清書本は、現在も福井県敦賀市の西村家に伝わっている。


【註】~歿、正徳6年(1716)。元禄5年江戸下向。


阿波徳島の人。通称は、儀左衛門。第五代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保に仕えた。能書家で、芭蕉の『奥の細道』の曾良本を基にして、「柿衛本」「西村本」を清書したことで有名。発句も『炭俵』に入集している。


素龍の代表作


障子ごし月のなびかす柳かな


中下もそれ相應の花見かな


青雲や舟ながしやる子規


帷子のしたぬぎ懸る袷かな


さみだれやとなりへ懸る丸木橋


明月や不二みゆかとするが町


鹿のふむ跡や硯の躬恒形


江の舟や曲突にとまる雪の鷺


爪取て心やさしや年ごもり(『炭俵』)


姫百合や上よりさがる蜘蛛の糸(『續猿蓑』)



素堂・芭蕉・其角の三幅一対の真蹟画賛。

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素堂・芭蕉・其角の三幅一対の真蹟画賛。
 

右  笙        其角  けしからぬ桐の落葉や笙の声

中  琴        芭蕉  散花や鳥も驚く琴の塵

左 太鼓         素堂   青海や太鼓ゆるみて春の声

 (一部、文面と違い位置が移動している)
(右、芭蕉 中、素堂 左其角)
粛山子のもとめ、画は探雪なり。琴ト笙ト太鼓ト賛のぞまれしに
 
散花や鳥も驚く琴の塵         芭蕉
 
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みてひとつあそばして山の鳥も驚かし給へ(『末若葉』所収)


 松山藩家老、久松粛山子(其角の弟子)の需めに応じて、狩野探雪の描く、笙琴・太鼓の絵に加えた賛で、この一幅は小林一茶が寛政七年(1795)の九州旅行の際に四国の松山で見る。
  
★『寛政日記』一茶
 
魚文かたに、素堂、芭蕉翁、其角の三幅對のあれば、訪ふて拜す。
 
正風の三尊見たり梅の宿         一茶

甲斐国志 素堂の項は こうして伝播していく 芭蕉庵桃青伝

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山口素堂
芭蕉庵桃青伝 内田魯庵著

随所に間違いが見える。

山口素堂が、東叡山下より葛飾の阿武に居を移せしも亦 天和年中 なり。 素堂 は 季吟 門にして 芭蕉 が親友なり。名は 信章 、字は 子晋 、通稱 官兵衞 といふ。甲斐巨摩郡教來石村字山口の人なり。代々山口に住するに依て山口氏と稱す。 山口市右衞門 の長男にして 寛永十九年 五月五日に生る。幼名を 重五郎 と云ひ、長じて 父 が家を繼ぎ家名 市右衞門 と改む。其後甲府魚町に移り、酒折の宮に仕へ頗る富めるをもて郷人尊稱して山口殿と呼べり。幼時より四方に志ありて、屡々江戸に遊び 林春齋 の門に入て經學を受け、のち京都に遊歴して書を持明院家に、和歌をを清水谷家に學び、連歌は 北村季吟 を師として 宗房即ち桃青 、 信徳 及び 宗因 を友とし俳諧に遊び、 來雪 又 信章齋 と號し、茶道を 今日庵宗丹 の門に學んで終に嗣號して 今日庵三世 となる。斯る異材多能の士なれば、早くより家を弟に讓りて 市右衞門 と稱せしめ、自ら 官兵衞 に改めて仕を辭し、江戸に來りて東叡山下に住し、 素堂 と號して儒學を諸藩に講じ以て業となし、傍ら 人見竹洞 、 松尾桃青 等諸同人と往來して詩歌聯俳を應酬唱和し、點茶香道を樂み、琵琶を彈じ琴を調べ、又寶生流の謠曲を能くしければ、 素仙堂 の名は風流を擅にしたりき。(以上『 葛飾正統系圖 』に據る。) 桃青 はもと同門の友たれば、東下以來『 江戸三百韻 』を初めとして、文字の交際尋常ならざりしが、殊に 素堂 が葛飾阿武に移居せし後は、偶々六間堀の假寓と近接したれば、小名木川を上下して互に往來し愈々親しく語らひける。 素堂 の號は此頃より名乘りしものにて、庭前に一泓(*淵)の池を穿ちて白蓮を植ゑ、自ら 蓮池の翁 と號し、晋の 惠遠 が蓮社(*慧遠・謝霊運等の白蓮社)に擬して同人を呼ぶに社中を以てし、「浮葉卷葉この蓮風情過ぎたらん」の句を作りて隱然一方の俳宗たり。一説に 芭蕉 は儒學を 素堂 に學びたりと云へど、其眞否は精しく知るを得ず。されど當時の俳人を案ずるに、 季吟 の古典學者たるを除くの外は連歌に精しき者の隨一流の識者として、 素堂 程の學識ある者は殆ど其比を見ず。 芭蕉 は稀世の天才にして且つ 季吟 が國典に於ける衣鉢を繼ぎたれ共、 素堂 如き才藝博通の士に對しては勢ひ席を讓らざるを得ざるべし。且つ縱令師事せざるも文詩の友を結んで益を得たるは、恐らく失當の推測にあらざるべし。 芭蕉 の遺文を案ずるに、 其角 丈と云ひ 杉風 樣と呼ぶ中に、獨り 素堂 先生と尊稱するを見るも亦、尋常同輩視せざりしを知るに足る。されば枯枝の吟に於ける口傳茶話の如き、蓑蟲の贈答の如き、『 三日月日記 』に漢和の格を定めたる如き、若くは其日庵に傳ふる 芭蕉 ・ 素堂 二翁、志を同うし力を協して、所謂葛飾正風を創開せしといふ説の如き、或は『 續猿蓑 』の「川上とこの川しもや月の友」を以て 素堂 を寄懷せるものとなす如き、皆 素堂 と 芭蕉 との淺からぬ關係を證するものにして、 芭蕉 が俳想の發展は蓋し 素堂 の力に得たるもの多かりしなるべし。 素堂 傳に 芭蕉 と隣壁すとあれども、 素堂 は阿武に住し 芭蕉 は六間堀に寓したれば、隣家といふも恐らくは數町を距てしなるべし。當時深川は猶葛飾と稱し、人家疎らなる僻地なれば、茫々たる草原に數町を距てゝ二草舍の相列びしものならん乎。
因に云ふ。 元祿八年 、 素堂 五十四歳の時歸郷して父母の墓を拜せし序、 前年 眷顧を受けたる頭吏 櫻井孫兵衞政能 を訪ひたりしに 政能 大に喜びて云へらく、笛吹川の瀬年々高く砂石河尻に堆積して濁水常に汎濫し、沿岸の十ヶ村水患を蒙むる事甚しく殊に蓬澤及び西高橋の二村は地卑くして一面の湖沼と變じ釜を釣りて炊き床を重ねて座するの惨状を極め禾穀腐敗して收穫十分の二三に及ばざるに到れば百姓次第に沒落して板垣村善光寺の山下に移住するもの千石に達し、殘れる者も其辛楚に堪えざらんとす。數里の肥田は流沙と變じ餓■將に野に充ちんとする酸鼻の状は苦痛に堪えざれども獨力經過の難きを歎ずる折から、 足下 の來れるのは幸ひなり。願くは姑く風月の境を離れて 我 に一臂の力を假して民人の爲に此患を除くの畫策をなさゞらんやと。 素堂 慨然として答へて云ふ、善を見て進むは本より人の道なり。況してや父母の國の患を聞いて起たざるは不義の業にして我が不才も之を耻づ。友人 桃青 も曾て小石川水道工事の功を修めたれば一旦世事を棄てたる 我 も 君 の知遇を受けて爭でか奮勵せざらんやと。終に承諾しければ、 政能 大に喜び公廳の許を得んとて江戸に出立しける。出づるに臨みて涕泣して沿道に送れる十村の民に向ひ、今度の素願萬一被許相成らざる時は今日限り再び汝等の顔を見ざるべし。今よりは萬端 官兵衞 が指導を仰ぎて必ず其命に背違する勿れと云ひて訣別しぬ。禿顱の 素堂 再び 山口官兵衞 と名乘りて腰に兩刀を帶び日夜拮据勉勵して治水の設計を盡策しぬ。斯くて其 翌年 孫兵衞政能 終に公許を得て歸郷しければ 素堂 、 孫兵衞 は協議して大設計を立て、夙夜營々として事に從ひ、西高橋村より南方笛吹川の堤後に沿て増坪、上村、西油川、落合、小曲、西下條に到るまで、新に溝渠を通じ土堤を築く事二千間餘、疏水の功全く落成せしかば、惡水忽ち通じて再び汎濫せず、民人患を免がれて一と度他に移住せしものも郷土に從歸して祖先の墓を祀る幸福を得るに到りしかば、民人崇敬して猶生ける時より祠を蓬澤村の南庄塚に建て、 政能 を櫻井明神と稱し 素堂 を山口靈神と號して年々の祭祀久しく絶えざりしといふ。 素堂 は其後再び江戸に來りて俳諧に遊び、亡友 芭蕉 の爲に定林院の域内に桃青堂を建立して 西行 及び 芭蕉 の像を安んじ、『 松の奧 』及び『 梅の奧 』の秘書に永く 其日庵 の俳風を殘し、 享保元年 八月十五日七十五の壽を以て終りぬ。 芭蕉 が水道遺事は廣く人口に膾炙すれども然も精しく其蹟を尋ぬれば漠として捕捉しがたし。 素堂 が笛吹川の工事は多く知られずして却て赫々たる功は今に顯著たり。既に有志の硅は永く其功績を後世に殘さんが爲、數年前 素堂 疏水紀功碑を建設したりと云ふ。 素堂 は決して尋常俳諧師にあらざるなり。(『 葛飾正統系圖 』及び 露伴子 の『 消夏漫筆 』五十四に據る。)

元禄辛酉之初冬九月素堂菊園之遊

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元禄辛酉之初冬九月素堂菊園之遊

 

重陽の宴を神無月のけふにまうけ侍る事は、その比は花いまだめ

ぐみもやらず、菊花ひらく時即重陽といへるこゝろにより、かつ

は展重陽のためしなきにしもあらねば、なを秋菊を詠じて人々を

すゝめられける事になりぬ

 

菊の香や庭に切たる履の底      芭蕉

柚の色や起あがりたる菊の露     其角

菊の気味ふかき境や藪の中      桃隣

八専の雨やあつまる菊の露      沾圃

何魚のかざしに置ん菊の枝      曾良

菊畠客も圓座をにじりけり      馬見

 

柴栞の陰士、無絃の琴を翫しをおもふに、菊も輪の大ならん事を

むさぼり、造化もうばふに及ばじ。今その菊をまなびて、をのづ

からなるを愛すといへ共、家に菊ありて琴なし。かけたるにあら

ずやとて、人見竹洞老人、素琴を送られしより、是を朝にして、

あるは聲なきに聴き、あるは風にしらべあはせて、自ほこりぬ

うるしせぬ琴や作らぬ菊の友     素堂

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**談林調や派生した素堂の漢詩文調の句を紹介する

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**談林調や派生した素堂の漢詩文調の句を紹介すると


 ・素堂号 信章 ➡ 来雪 ➡ 素堂


〇延宝四年 梅の風俳諧国に盛なり    信章 「江戸両吟」


〇延宝五年 鉾ありけり大日本の筆はじめ  々 「六百番発旬合」


      茶の花や利休が目にはよしの山 々 「々」


〇延宝六年 目には青葉山郭公初鰹     々 「江戸新道」


      遠目鑑我をおらせけり八重桜  々 「江戸広小路」


〇延宝七年 鮭の時宿は豆腐の雨夜哉   来雪 「知足伝来書留


      塔高し梢の秋の嵐より     々 「々」


○延宝八年 宿の春何もなきこそなにもあれ素堂 「江戸弁慶」


      髭の雪連歌と討死なされしか  々 「誹枕」


      武蔵野や月宮殿の大広問    々 「々」


      蓬の実有功経て吉き亀もあり  々 「俳諧向之岡」


〇延宝九年 王子啼て三十日の月の明ぬらん 々 「東日記」


      宮殿炉女御更衣も猫の声    々 「々」


      秋訪はばよ詞はなくて江戸の隠 々 「々」


〇天和二年 舟あり川の隈タ涼少年歌うたふ 々 「武蔵曲」


      行ずして見五湖煎蠣の音を聞  々 「々」


〇天和三年 山彦と埠ク子規夢ヲ切ル斧   々 「虚栗」


      浮葉巻葉此蓮風情過ぎたらむ  々 「々」


○貞享二年 みのむしやおもひし程の庇より 々 「々」


      余花ありとも楠死して太平記  々 「一棲賦」


      亀とならじ先木の下の鐸ならん 々 「俳諧白根」


○貞享三年 市に入てしばし心を師走哉   々 「其角歳旦帖」  


      長明が車に梅を上荷かな    々 「誰袖」


      雨の蛙声高になるむ哀哉    々 「芭蕉庵蛙合」



**談林調や派生した素堂の漢詩文調の句を紹介する

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**談林調や派生した素堂の漢詩文調の句を紹介すると
 ・素堂号 信章 ➡ 来雪 ➡ 素堂
〇延宝四年 梅の風俳諧国に盛なり    信章 「江戸両吟」
〇延宝五年 鉾ありけり大日本の筆はじめ  々 「六百番発旬合」
      茶の花や利休が目にはよしの山 々 「々」
〇延宝六年 目には青葉山郭公初鰹     々 「江戸新道」
      遠目鑑我をおらせけり八重桜  々 「江戸広小路」
〇延宝七年 鮭の時宿は豆腐の雨夜哉   来雪 「知足伝来書留
      塔高し梢の秋の嵐より     々 「々」
○延宝八年 宿の春何もなきこそなにもあれ素堂 「江戸弁慶」
      髭の雪連歌と討死なされしか  々 「誹枕」
      武蔵野や月宮殿の大広問    々 「々」
      蓬の実有功経て吉き亀もあり  々 「俳諧向之岡」
〇延宝九年 王子啼て三十日の月の明ぬらん 々 「東日記」
      宮殿炉女御更衣も猫の声    々 「々」
      秋訪はばよ詞はなくて江戸の隠 々 「々」

〇天和二年 舟あり川の隈タ涼少年歌うたふ 々 「武蔵曲」

      行ずして見五湖煎蠣の音を聞  々 「々」
〇天和三年 山彦と埠ク子規夢ヲ切ル斧   々 「虚栗」
      浮葉巻葉此蓮風情過ぎたらむ  々 「々」
○貞享二年 みのむしやおもひし程の庇より 々 「々」
      余花ありとも楠死して太平記  々 「一棲賦」
      亀とならじ先木の下の鐸ならん 々 「俳諧白根」
○貞享三年 市に入てしばし心を師走哉   々 「其角歳旦帖」  
      長明が車に梅を上荷かな    々 「誰袖」
      雨の蛙声高になるむ哀哉    々 「芭蕉庵蛙合」
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〔素堂余波〕  杉風(さんぷう)画、素堂賛

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〔素堂余波〕  


 


杉風(さんぷう)画、素堂賛


 


 『日本随筆大森』 『一話一言』大田南畝著。巻の三十二


 


杉風の子孫 深川四軒寺町鯉屋所蔵書画


 深川四軒寺町に鯉屋といふ煙草屋あり。杉風の子孫なり。


芭蕉翁其外俳諧師の書等多く所蔵也。


   


   主軸 紙地 杉風画素堂賛


 


寒くとも三日月見よと落葉かな     素堂


 


横幅


別紙に申し渡し候其以後堅圍之番所に承及候、江戸表変地先々驚候事共に御座候、此度萬句廻状所々へ出申候所、別布而貴翁御事御取持奉頼候、此筋丈草出未浪地上■在打つヾき御果候而、今は殊更心細き折節何事も先輩失候てちからなき心地仕候、此度萬句巻頭に深川連衆にて出し申度願望に御座候、尤も先師(芭蕉)舊住之地と申貴翁先達之よしみ旁々難黙奉願度存候、此旨猶萬千公へもなげき遺候。


 此序の事は此方に御入候間素堂へ頼候へば、書て可給候旨に御座候、返萬部ひとつ御発句にて御上候 以上
   三月十八日         支考
    杉風様
■-不明


素堂 漢詩文調の発句 図版

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**談林調や派生した素堂の漢詩文調の句を紹介すると
 ・素堂号 信章 ➡ 来雪 ➡ 素堂
〇延宝四年 梅の風俳諧国に盛なり    信章 「江戸両吟」
〇延宝五年 鉾ありけり大日本の筆はじめ  々 「六百番発旬合」
      茶の花や利休が目にはよしの山 々 「々」
〇延宝六年 目には青葉山郭公初鰹     々 「江戸新道」
      遠目鑑我をおらせけり八重桜  々 「江戸広小路」
〇延宝七年 鮭の時宿は豆腐の雨夜哉   来雪 「知足伝来書留
      塔高し梢の秋の嵐より     々 「々」
○延宝八年 宿の春何もなきこそなにもあれ素堂 「江戸弁慶」
      髭の雪連歌と討死なされしか  々 「誹枕」
      武蔵野や月宮殿の大広問    々 「々」
      蓬の実有功経て吉き亀もあり  々 「俳諧向之岡」
〇延宝九年 王子啼て三十日の月の明ぬらん 々 「東日記」
      宮殿炉女御更衣も猫の声    々 「々」
      秋訪はばよ詞はなくて江戸の隠 々 「々」
〇天和二年 舟あり川の隈タ涼少年歌うたふ 々 「武蔵曲」
      行ずして見五湖煎蠣の音を聞  々 「々」
〇天和三年 山彦と埠ク子規夢ヲ切ル斧   々 「虚栗」
      浮葉巻葉此蓮風情過ぎたらむ  々 「々」
○貞享二年 みのむしやおもひし程の庇より 々 「々」
      余花ありとも楠死して太平記  々 「一棲賦」
      亀とならじ先木の下の鐸ならん 々 「俳諧白根」
○貞享三年 市に入てしばし心を師走哉   々 「其角歳旦帖」  
      長明が車に梅を上荷かな    々 「誰袖」
      雨の蛙声高になるむ哀哉    々 「芭蕉庵蛙合」

素堂 芭蕉庵十三夜

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**芭蕉庵十三夜**
ばせをの庵に月をもとあそびて、只つきをいふ。越の人あり、つくしの僧あり、まことに浮艸のこへるがごとし。あるじも浮雲流水の身として、石山のほたたるにさまよひ、さらしなの月にうそぶきて庵にかへる。いまだいくかもあらず。菊に月にもよほされて、吟身いそがしひ哉。花月も此為に暇あらじ。おもふに今宵を賞する事、みつればあふるゝの悔あればなり。中華の詩人わすれたるににたり。ましてくだらしらぎにしらず、我が国の風月にとめるなるべし。
もろこしの富士にあらばけふの月見せよ  素堂
かけふた夜たらぬ程照月見哉            杉風
後の月たとへば宇治の巻ならん           越人
あかつきの闇もゆかりや十三夜          友
行先へ文やるはての月見哉       岱山
後の月名にも我名は似ざりけり     路通
我身には木魚に似たる月見哉    僧 宗波
十三夜まだ宵ながら最中哉       石菊
木曾の痩もまだなをらぬに後の月   はせを
 
仲秋の月はさらしなの里、姨捨山になぐさめかねて、猶あはれさのみにもはなれずながら、長月十三夜になりぬ。
今宵は宇多のみかどのはじめてみことのりをもて、世に名月とみはやし、後の月あるは二夜の月などいふめる。
是才士文人の風雅をくはうるなるや。閑人のもてあそぶべきものといひ、且は山野の旅寐もわすれがたうて人々をまねき、瓢を敲き峯のさゝぐりを白鴉と誇る。隣家の素翁、丈山老人の、一輪いなだ二部粥といふ唐歌は、此夜折にふれたりとたづさへ来れるを壁の上にかけて、草の庵のもてなしとす。狂客なにがししらゝ吹上とかたり出けれは、月もひときははへあるやうにて、中々ゆかしきあそびなりけり。

貞享五戊辰菊月中旬   蚊足著

物しりに心とひたし後の月    蚊足


徳川綱吉を支えた、甲斐の秋元田島守・米倉丹後守・柳沢吉保の屋敷

山口素堂の抱え屋敷と芭蕉庵は重なる

素堂、芭蕉『のざらし紀行』跋文

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▽『野晒紀行』素堂跋(濁子本)


 


こがねは人の求めなれど、


求むれハ心静ならず。


色は人のこのむ物から、


このめば身をあやまつ。


たゞ、心の友とかたりなぐさむよりたのしきハなし。


こゝに隠士あり、


其名を芭蕉とよぶ。


はせをはおのれをしるの友にして、


十暑市中に風月をかたり、


三霜江上の幽居を訪ふ。


いにし秋のころ、


ふるさとのふるきをたづねんと、草庵を出ぬ。


したしきかぎりハ、これを送り猶葎をとふ人もありけり。


何となく芝ふく風も哀なり        杉風


他ハもらしつ。此句秋なるや冬なるや。


作者もしらず、唯おもふ事のふかきならん。


予も又朝かほのあした、夕露のゆふべまたずしもあらず


。霜結び雲とくれて、年もうつりぬ。


いつか花に茶の羽織見ん。


閑人の市をなさん物を、


林間の小車久してまたずと温公の心をおもひ出しや。


五月待ころに帰りぬ。


かへれば先吟行のふくろをたゝく。


たゝけば一つのたまものを得たり。


そも野ざらしの風は一歩百里のおもひをいだくや。


富士川の捨子ハ其親にあらずして天をなくや。


なく子は獨リなるを往来いくはく人の仁の端をかみる。


猿を聞人に一等の悲しミをくはえて今猶三聲のなミだだりぬ。


次のさよの中山の夢は千歳の松枝とゞまれる哉。


西行の命こゝにあらん。


猶ふるさとのあはれは身にせまりて、


他はいはゞあさからん。


誠や伯牙のこゝろざし流水にあれば、


其曲流るゝごとしと、


我に鐘期が耳なしといへども、


翁の心、とくくの水うつせば句もまた、とくくしたゝる。


翁の心きぬたにあれば、うたぬ砧のひゞきを傳ふ。


昔白氏をなかせしは茶賣が妻のしらべならずや。


坊が妻の砧ハいかにて打てなぐさめしぞや。


れは江のほとり、これはふもとの坊、地をかゆともまたしからん。


美濃や尾張のや伊勢のや、狂句木枯の竹斎、


よく鞁うつて人の心を舞しむ。


其吟を聞て其さかひに坐するに同じ。


詞皆蘭とかうばしく、山吹と清し。


しかなる趣は秋しべの花に似たり。


其牡丹ならざるハ、隠士の句なれば也。


風の芭蕉、我荷葉ともにやぶれに近し、


しばらくとゞまるものゝ形見草にも、


よしなし草にも、ならばなりぬべきのミにして書ぬ。




素堂消息 水間沾徳と素堂

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素堂消息 水間沾徳と素堂

**参考資料 『芭蕉と三人の友』 沾徳・素堂・安適伝参考 小高敏郎氏著 
**参考資料 『俳文学大辞典』
**参考資料 『一字幽蘭集』
 **『江戸市井人物事典』北村一夫氏著。

『芭蕉と三人の友』
元禄六年四月、初夏の訪れと共に、深川の芭蕉庵では、郭公の声がさかんに聞える。閑静な水辺の地で、待ちつ(づ)けたこの郭公を聞くのも逸興とばかり、杉風、曾良など門人たちがつれだって芭蕉庵の戸を敲き、師の吟懐を尋ねた。だが、芭蕉は、猶子桃印が、旅先のこの庵で他界して間もないこととて、郭公の声にも、蜀王望帝の流離のうちに歿したことが思い出され、一人桃印死去の悲しみを強めるから、ほととぎすの句は詠まないと断わった。しかし杉風、曾良が更にすすめたので、ふと思いついた
 
ほととぎす声や横ふ水の上
一声の江に横ふやほとゝぎす
 
の両句を示し、共に前赤壁賦の「水光接天白露横江」をふまえた同想の句だがと、その勝劣を問うた。
右は有名な荊口宛真蹟書簡(元禄六年 1693 四月二十九日附) の伝えるところで、今更云々する必要もないが、この頃の芭蕉と親しい門入との一情景、雅交の雰囲気を紙髣髴とさせて楽しいので敢て引いた。
さて、この書簡には次の一節が続いている。
 
ふたつの作いつれにやと推稿難定処、水沼氏沾徳と云もの吊来れるに、かれ物定の博
士となれと、両句評を乞。沾曰、横江の句、文二対〆考之時ハ句量尤いミじかるべけ
れば、江の字抜て水の上とくつろげたる句のにほひよろしき方ニおもひ付べきの条申
出候。兎角する内、山口素堂・原安適など詩寄のすきもの共入来りて、水上の究よろし
きニ定りて事やミぬ。
 
この気のおけない集まりのところに、水間沾徳が訪れて来て、がやがやとした論義の判者となり、さらに詩寄のすきもの素堂・安適がやって来たというのである。だが、この三人には、杉風や曾良などの門人とちがって、芭蕉も多少気のおける、友人のような口吻が感ぜられる。
本稿では、この三人をとりあげて、芭蕉との関係をも揣摩憶測してみたいと思う。

〔註〕揣摩憶測=自分だけの判断で物事の状態や他人の心中などを推量すること。

 
沾徳については、いままでかなり研究されているし、最近、白石悌三氏の労作「水間沾徳年譜」(連歌俳諧研究第十九号) によって、その伝記的研究の基礎資料も整った。しかし、従来の沾徳観はあまり芳ばしいものではない。出身は不明とされながらも、『俳家奇人談』にいう磨工説が、暗々裡に論者の意識に影響を与えているようである。
したがって、譬喩俳諧と称せられる、その知に偏し技巧にはしった作風も、素堂など知識人作者にありがちな衒学癖のためと解釈されず、ろくな学問もないくせに、都会人らしくわるく気取った結果と見做されているようである。

〔註〕 衒学=学識をひけらかし、傲慢な態度を見せるような人物のこと。
 
また、享保時代には、江戸俳壇の中心人物になったことや、大名の内藤風虎、露沾父子をはじめ、貴顕の家に出入し、その辱知をうけたことも、彼の文学的才能と教養、あるいは文壇的地位が然らしめたという点への配慮がなされず、専ら支考、蓼太のごとき、世俗的な手腕、顕門にへつらういやらしさを予想するようである。これには在色が江戸に来たおり、「鍔もあり間の宿などほととぎす」なる沾徳の発句の趣向を尋ね、その愚昧さにあきれ、「かくの事知らぬ者として、此道の宗匠をして、点料をかすめ、初心を誣して、物知り顔するは、よくも愚盲の至なり。言語に絶たり」(俳諧解脱抄、享保三年・1718成)などという、侮蔑の辞が影響してもいよう。しかし、古来より同業は相妬むものである。ことに俳壇では、貞門、談林以来、論戦の態をなさず口ぎたないだけの攻撃が多い。だから在色の罵言にも江戸の俳壇に君臨していた沾徳への嫉視反感が考えられる。『解脱抄』の悪口をそのまま受けとるのはいかがであろうか。
もちろん、私は沾徳の文学的才能をさして高く評価するものではない。また、沾徳の世渡り上手を否定するものでもない。だが、従来の沾徳観は、多少偏頗であって、全面的にはやはり同感できないものがある。すなわち、若し、沾徳が磨工あがりの無学な人間で、世渡り上手の俗物だったなら、前引の芭蕉書簡に見られたように、何故、その批評の座の「物定の博士」にされたのか。年齢からいっても、当時の沾徳はいまだ三十三才(白石氏「水間沾徳年譜」。従来の説によれば三十二才、芭蕉・曾良・杉風たちより二十才ほども年少なのである。
これは沾徳が門人でなく、友人、客分としての配慮があったのだろう程度の憶測では解釈がつかない。沾徳は、芭蕉はじめ他の門人から敬重されるような学問があったのではないか。  


『一字幽蘭集』水間沾徳編。内藤露沾序。


『俳林一字幽蘭集ノ説』素堂序あり。


元禄5年(1692)素堂、51才


 


「俳林一字幽蘭集ノ説」

沾徳子甞好俳優之句遂業之來撰一字幽蘭集儒余于説幽蘭也應取諸難騒而除艾長蘭之意 我聞楚客之三十 恂不為少焉雖餘芳於千歳未能無遺梅之怨矣斯集也 起筆於性之一字而掲情心忠孝仁禮義智始終本末等總百字之題以て花木芳草鳴禽吟蟲四序當幽賞風物伴載而不遺焉何有怨乎叉原斯集之所従来前岩城の城主風虎公所撰之夜錦 櫻川 信太浮島此三部集。愁不行於世也 仍抜萃自彼三部集若干句副之句之古風時世之中其花可視而其實可食者畫拾之纂之其左引證倭歌漢文而為風雅媒是編者之微意也可以愛焉従是夜錦不夜錦浮嶋定所櫻川猶逢春矣雖然人心如面而不一或是自非他謾為説誰知其眞非眞是各不出是非之間耳若世人多費新古之辯是何意耶想夫天地之道變以為常俳之風體亦是然寒附熱離時之勢自不期然而然者也強不可論焉沾徳水子知斯趣之人也
 為是 素堂書 佐々木文山冩    


読み下し
沾徳水子は、甞って俳優の句を好みて遂にこれを業とす。ちかごろ一字幽蘭集を撰びて予に説を求む。それ幽蘭なるは、まさにこれを離騒に取りて艾を除き蘭長ずるの意なるべし。我聞く楚客の三十もことに少しとなさず芳せを千歳に余すといえども、未だ梅をわするゝの怨み無きことあたはず。その集や筆を性の一字に起こして、情心・忠孝・仁禮・儀智・始終・本来総て百字の題を揚げ、以て花木・芳草・鳴禽・吟中四序、まさに幽賞すべき風物を伴ひ載せてこれおわすれず。何ぞ怨有らんや。又その集のよりて来る所をたずぬるに、さきの岩城の城主風虎公撰したまふ所の夜の錦・櫻川・信太之浮嶋この三部の集、世に行なはざれしを愁いてなり。すなはち萃して彼の三部の集より若干の句を抜きてこれに副るに、古風、いまよう姿の中、その花を視るべくして其のミ実食すべきはこれを拾い尽くして、これを纂め、以てその左に倭歌漢文を引證して風雅の媒と為す。是を編める者の微意なり。以てめでつべし。是により夜の錦、夜の錦ならず浮嶋も所を定め、櫻川猶春に逢がごとし。しかれども人の心面の如くにて一ならず。或は自らを是とし他を非なりと謾る説を為す。誰かその真非真是を知らん。各是非の間を出でざるのみ。しかのみならず世人の多く新古の辨を費やす。これは何の意ぞや。想ふに、それ天地の道変を以て常とし、俳の風体もまたこれに然り。寒に附き熱にさかる時の勢ひ、自ら然ることを期せずしてる者なり、強いて論ずべからず。沾徳水子その趣きを知る人なり。
    これが為に素堂書す佐々木文山寫す


『一字幽蘭集』発句四入集。沾徳編。
   河骨やつゐに開かぬ花ざかり      素堂
   一葉浮て母につけぬるはちす哉     素堂
   魚避て鼬いさむる落葉哉        素堂
   茶の花や利休が目にはよしの山     素堂
   
  沾徳の消息

 『沾徳随筆』に、素堂の逝去に対して、
 山素堂子、去る仲秋みまかりぬ。年行指折で驚く事あり、予を入徳門に手を引き染めて四十年、机上の硯たへて三十年、今に持来りて窓に置く。云々。
 《注解》 『沾徳随筆』
俳諧随筆。享保三年(1718)稿。素堂追悼句文掲載。
寛文二年(1662)生、~享保十一年歿。年六十五才。
 はじめ門田沾葉、のち水間沾徳。江戸の人ではじめ調和門調也に師事し、調也に随伴して内藤風虎の江戸藩邸に出入りし、同藩邸の常連である素堂の手引きで林家に入門、また山本春正、清水宗川に歌学を学び、同門の原安適と親交を結んだ。貞享二年(1685)頃立机、素堂を介して蕉門に親しむ。


合歓堂沾徳  『江戸市井人物事典』北村一夫氏著。
   帯程に川も流れて汐干かな
   折りてのちもらう声あり垣の梅

などの句でしられる合歓堂沾徳は、京橋五郎兵衛町(現在の八重州口六丁の
内)に住む通称水間治郎左衛門という刀剣の研師である。飛鳥井雅章が和歌
のことで問題を起こし、岩城平に左遷された時、沾徳は俳 諧の師でもあり
城主である内藤露沾に選ばれて御伽衆として雅章に仕えた。雅章は配所に三
年ほどいて京都に帰ったが、その時沾徳に「汝必ず和歌に携わるべからず。
只俳諧のみ修業すべし」と言い残した。(『俳諧奇人談』)
沾徳は気骨のある人で播州顔赤穂の大高子葉(源吾)、富森春帆(助右衛
門) 神崎竹平(与五郎)、茅野涓水(三平)などの門人がいる。赤穂浪士
の遺文中に俳句が多いのは沾徳の力に大いに預かっている。




素堂が育てた 水間沾徳(せんとく) 『俳文学大辞典』

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水間沾徳(せんとく) 『俳文学大辞典』
俳諧師。寛文二(1662)~享保十一(1726)・六五歳。

はじめ門田沾葉、のち水間沾徳。別号、合歓堂。江戸の人。はじめ調和門の調也に師事。調也に随伴して内藤風虎の江戸藩邸に出入りしたらしく、延宝五年(1677)ごろ、露沾から各一字を賜り、調也は露言、彼は沾葉と号した。以後、露言とともに調和系の俳書に入集する。同じころ同藩邸の常連である素堂の手引きで林家に入門、また山本春正・清水宗川に歌学を学び、のち同門の原安適と親交を結んだ。やがて内藤家に召されたらしく、延宝末年ごろ、国元の陸奥国磐城平に赴いたが、天和三年(1683)、露沾の退身で出仕に望みを失い、貞享二年(1685)、風虎没後に致仕、法体となる。
貞享四年ごろ沾徳と改めて立机、露沾とともに調和系を離れ、素堂を介して蕉門に親し其角と末長く提携する。芭蕉没後、其角・沾徳の両門は交流しつつ江戸俳壇の主流を形成し、両点者の俳風は洒落風と称され時流を主導した。其角没後はほかに有力宗匠のいないまま、傘下に江戸俳壇の諸派を糾合し、「大宗匠」と仰がれたが、俳壇経営には必ずしも積極的でなく、市中に閑を好む睡癖によって合歓堂と号したという。本所法恩寺に葬る。
*『沾徳随筆』によれば、「本歌本詩を一重抜きて取る」または「その上を一曲あるやうに翻訳する」ことによって、古きを新しくする句作を重視し、しかも手際の跡を見せない緊密直裁な仕立てをよしとした。編著、撰集『俳林一字幽蘭集』『文蓬莱』『余花千句』『後余花千二百句』沾徳点『江戸筏』、句集『俳諧五子稿』ほか。追善集、『自字録』(沾洲ほか編)百か日『水精官』(仙鶴編)一周忌『ちりの粉』(紹廉編)七回忌『浜松ケ枝』(姑山編)一三回忌『合歓の華道』(同)。

沾徳著『沾徳随筆』
享保三(1718)稿。全巻一つ書きの雑纂形態で、自他の詩歌俳諧を記録し、評解な
ど加える。後水尾院・飛鳥井雅章・鳥丸資慶・中院通茂・木下長囁子・山本春正・清水宗川らに関する伝聞記事、中村少長・市川三升・赤穂浪士らとの俳交記録、原安適の沾徳句評、沾徳の藤原定家・武者小路実陰・芭蕉・其角評、素堂追悼句文、散逸俳書の序・跋や年々の歳旦・歳暮吟など注目すべき記録や言説が中の発句を収める。
初日の出伊勢に住たくおもひけり 沾徳

人見竹洞と山口素堂

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『升堂記』にみる素堂と竹洞
『芭蕉と三人の友』 沾徳・素堂・安適伝参考 小高敏郎氏著より 一部加筆 

先ず、『升堂記』の記事だが、これはすでに沾徳の項でふれた。勘兵衛の名でなく、山口素堂の号になっているから、のちに書き入れられたものであろう。入門の時期は荻野氏の推定のごとく、寛文初年(1661)二十才ごろ鵞峰に入ったと見做すべきであろう。しかし、この記事によって、今まで不確実であった、素堂の林家入門の事実が確証を得られたことは、注目すべきであろう。また、人見竹洞との雅交が、鵞峰門下の誼みに始まるという推定も有力になる。
次には、竹洞との関係について考えてみたい。竹洞は人見卜幽の姪である。卜幽は、羅山門下の俊足で、のち水戸光圀に仕え、始めて水戸の儒臣となった。その縁で、竹洞も業を羅山の子鵞峰に受け、幕府に仕えて儒臣となった。素堂との交友については、嘗て私は、同門の士として交わりはあったが、素堂よりも二十二才の年長であり、学者としての地位のちがいもあるから、その交友はさして密接だったとは考えられない、と述べたことがある(「芭蕉と同時代文壇について」解釈と鑑賞三十四年二月号)。
だが、その後朝倉治彦氏の御厚意により、竹洞全集を通読するに及んで、案外二人の交が密だったと認識を改めた。素堂の母の遠忌によばれたり、はるばると素堂の隠居に遊んだりしているし、あるいは素堂の嘱に応じて、硯の銘なども撰している。竹洞という人が、羅山、鵞峰、鳳岡など林家代々の人のごとく、カデミックな学者でなく、隠遁を好む餘裕のある、文人タイプの性格だったからかもしれない。また、『続猿蓑集』によれば、素堂に琴を贈ったりしているが、これも真に琴を愛したかららしい。竹洞は琴を愛し、明人心越禅師が帰化してくると、その琴に詳しいのを聞いて、これに学び、『琴弾指法』なる二書を著したという。耳もよく、音感がたしかであったようだし、次の逸話も竹洞全集に見える。すなわち、成化年中李大用の作った琴を心越禅師がもっていたが、これを修補しよう思い立った。そこでわざわざ材を伊予大津山中の古桐に求め、その藩主に乞うて之を得るや、竈の上に五六年も置いて枯らし、さらに数ケ月を費してその頭部を作り補ったという。器用だし、全く音楽好きであったわけである。竹洞はこういう性格だったから、俳諧などにも興味を有したであろう。すれば、『曠野』に載る
ひらひらとわか葉にとまる胡蝶哉  竹洞
の竹洞は、明証はないが、やはり人見竹洞とすべきであろう。ただ、蕉門の盛期に先立って、元禄九年に六十九才で歿しているから、その作品が他に載らないのではないか。隠遁を好み音楽を愛するような人だから、芭蕉とも仲よくなれたろう。生きていたら、素堂・沾徳・安適らと一緒に、芭蕉の追悼詠ぐらい手向けたかもしれない。
だが、素堂を介して、芭蕉と竹洞の交渉を考えるのはいいが、だからといって性急に石川丈山の漢詩の影響が芭蕉に与えられたとすることには、まだ躊躇を感ずる。たしかに芭蕉庵の六物は石川丈山の六物を模したものであり、芭蕉は丈山の高風を知らなかったわけではない。また竹洞も、その隠遁を好む性格から、丈山や木下長嘯子を敬愛したようである。竹洞が寛文六年に西遊した折の日記『寛文六年・1666 丙午添長日録』には、親友野間三竹が、
「自分は半百の齢になるまで多くの古老に会ったが、丈山と長嘯子ほどの人物はない」、
と語った由を録している。だが、竹洞はこの西遊のとき、三竹の介紹で丈山にはじめて会っただけで、その後寛文十二年(1672)には丈山が九十才で歿しているから、二人の交渉はさして密であったとは思えない。加えて、芭蕉と竹洞との交友もどの程度であったのかわからないのだから、この点から特に芭蕉と丈山を結びつけるのには躊躇するのである。そうでなくても、丈山の声名は当時の文壇に高かったから、その著述をよんで芭蕉が影響を受けるという方が、考えやすいように思う。だが、沾徳といい、素堂といい、当時の江戸文壇においては、かなり広い交友群を有した正規の漢学者であった。芭蕉はこの二人を介し、直接にまたは間接に、儒者と知り合いもし、漢文学の知識を得たことであろう。これは単に芭蕉と竹洞との交渉とか、「ほととぎす」の句の勝劣などという些事に止まらない大きな問題である。芭蕉に及ぼせる中国文学の影響というものを考える上に、芭蕉がこういう当時の漢学者グループと交渉があったことを想定することができるのである。芭蕉が素堂に漢学を学んだとか、『虚栗』は漢学の教養の深い素堂の影響だなどという性急な論にはやはり従えないが、漢学者グループの影響という観点から、芭蕉と中国文学の関係を揣摩する一つの手がかりが与えられるように思う。

芭蕉は江戸に来て水道工事に関わっていた。

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芭蕉 神田上水工事 勤務
喜多村信節編『嬉遊笑覧』文政十三年(1830)引用
      『筠庭雑録』天保十四年(1843)引用
延宝八年六月「役政日記」による。
六月十一日
 一、明後十三日、神田上水水上惣掛有之候間、致相封候町々は桃青方へ急度可申渡侯。桃青相封無之町へ爲行持、明十二日早天に杭木かけや水上に致持参、丁場請取可申候。勿論十三日中は水きれ申候間、水道取候町々は、左様相心得可相場候。若雨降り候はゞ、惣払い相延候間、左様相心得可申候。以上
  六月十一日 延宝八年 町年寄三人

【註】町年寄三人(喜多村彦兵衛・奈良屋市右衛門・樽谷藤植右衛門)

  覚
 延宝八年の神田上水惣払 町触に、
六月二十日
一、明二十三日、神田上水道水上惣払有之候間、桃青と相対致候町々ハ、急度可申候。相対無之町々者、人足に道具を為レ持、明早天、水上佳之へ罷出可レ被レ申候。勿論明日中水切可申候間、町中不レ残可レ被二相觸一候。少も油断有間敷候。
   
【註】信節は江戸時代末期の考証家として著名であり、決して無根の言をなす人ではないから、この資料も信頼できるものと思はれる。これによって延宝八年六月に、芭蕉が神田上水の工事に関係したことが明らかになるのであるが、彼と水道工事との関係は、信節よりもはるかに早く、『本朝文選』の芭蕉伝に、
 嘗世爲レ遺レ功、修二武小石川之水道一四年成。速捨レ功而入二深川芭蕉庵一出家。
年三十七。
〔読み下し〕
「明後十三日、神田上水道、水上総掛りこれ有り候ふ間、相対致し候ふ町々は、桃青方へ急度申し渡すべく候。」の記事と、「明二十三日、神田上水道、水上総掛りこれ有り候ふ間、桃青方へ相対致し候ふ町々、急度申すべく候。相対これなき町々は、人足に道具を持たせ、明早天に水上へ差出し申すべく候。勿論明日中、水きれ申すべく候ふ間、町中残らず相触るべく候。

はせをくら 芭蕉の重要事項

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はせをくら
増訂『一話一言』 巻二十二
                 一部加筆

俳優権田某なる者、さいつ年雑談のあまりに、この駿河臺中坊某君の藩に、元禄の昔、はせを(芭蕉)翁、伊賀より初めて大江戸へ来たり給い、居を卜し蔵ありと言いしにも、其の頃は世のたつきひまなく心にもとめざりしに、去年霜月の頃偶々浅草へ罷りにしに、古本屋にて、この「はせをくら」の本を求めて閲すれば、彼の権田氏の言いしと実に符合せり。
 この辰四月二十七日、ものへまかりけるに、ふと思い出して中坊公の屋敷に立ち寄り、舊相識服部甚左衛門央勝(つちとし)に対面し折から、この「はせをくら」の事を問えば、甚左衛門が言いけるは、この三月頃より、「はせをくら」修理にかかり、昔の如く建て替え、今は大かた作事が出来てと言いしによりて、その御蔵を見たしと乞えば、服部氏自ら案内して見せけり。倉は長さ五間二間(十坪)計りの足高の蔵なり。今大工たちがここかしこをこしらえていて、未だ土をば塗らであり、即ちその御蔵の古き材を乞い得て帰り、一つの聯にし、今ご府内に楼川を築く宗匠なければ、江戸座古き宗匠満葉庵平砂〔二代目〕年七十有余、赤羽の辺りに庵しけるを行きて、この「はせをくら」の古き材へ「古池や蛙飛び込む」の句を題書させて、西川蔵珍とする。
 また服部氏の言いけるは、はせを翁伊賀より来たりし頃は、この屋敷の主人、奈良奉行にて、江戸のおはしまさず、明暦の災い(明暦3年)にこの蔵残りて有りしに、この藩中浜島〔当時の家老市之進〕とはせを翁と親類のよしみ有て、浜島に頼りしに、」未だに普請も出来ず有れば、この土蔵のうちに、はせをしばらく僑居なせしと言う。これより深川へ庵を結ぶと也。

 旭和居士〔当時坊長兵衛様より四代先讃岐守様〕〔花入れへ泰里の記文浜島氏より権方へも恵れたり〕楼汕君〔今小川町二千石 森喜右衛門様也〕長兵衛様大叔父也、中坊より御養子に御入被遊候中坊御舎弟也〕〔中坊長兵衛様御内〕服部甚左衛門央勝〔権二三十年之舊識也〕遊中坊御舎弟也〕

  文化六年(1809)巳十一月五日 西川権

素堂の抱え屋敷に重なる芭蕉庵の位置について

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芭蕉庵の位置について
 参考資料 『定本』奥の細道 大薮虎亮氏著 昭和29年刊 一部加筆

元禄二年(1689))頃は前述の如く今の江東区新大橋三丁目の辺(新大橋の東、即ち元の六間掘りの辺りと信ずる。従来の説や予が考えていた番にも疑いを起したので、次に述べる。
新大橋三丁目辺は、北は千歳町二丁目に接し、その北は竪川、また南は常磐町に接し、その南は小名木川(をなぎがは)で、三丁目の西方には新大橋が隅田川に懸かっている。
これよりさき芭蕉は延宝八年(1680)の冬の頃か、今の江東区(元の深川区)内の庵に初めて入ったが、それから二年後即ち天和二年の冬類焼にあって焼け出され、翌三年甲斐国に旅行して江戸に帰り、本船町の小沢卜尺の家に寄寓したりして、その冬再築の庵に入った(素堂再建観化簿)。芭蕉は此の庵から杉風が別墅に移ったのである。
 さて最初の庵はどこにあったか。頼確な記録が無いのは遺憾であるが、これの第一資料たる芭蕉の作品をしらべてみても、単に深川とあるのみで、的確に場所を書いたものは見当たらない。予は深川方面の地図について、古くは寛文十一年(1671)頃(之は後の地図の基礎となつたもの)、延宝四年(1676)、天和三年(1683)、貞享五年(1688)、元禄二年(1689)、同三年(1690)、同六年(1693)の地図をしらべてみたが、得るところが多い。地図と実地踏査其の他の点から考察して、前述の如く新大橋三丁目の辺と断ずるのである。
 新大橋三丁目辺は昔深川村と称した所で、大間堀の西側に掌り、寛文十一年の地図に深川村と見え、芭蕉の奥羽施行の元禄二年の地図にはまだ深川村とある。すでに元禄六年の地図には見えない。深川と云う名が漸次広い地域にまで広がっていったのは、もと此の深川と云う村名から起ったものと思う。之については詳説を省く。芭蕉の文(延宝八年冬の作)に「市中に住み侘びて、居を深川のほとりに移す……」(『続深川』)とあるのも、後の深川区ではなくて、深川村の辺という意味で、ほとりとあるのに注意すべきである。
 次に小名木川が隅田川に注ぐ辺(今の常磐町一丁目)に万年橋が懸かっていて、今は近代式の立派な橋である。此の橋は昔、元番所橋と称したもので、寛文十一年地図に「本番所のはし」、延宝四年の地図には「元番所ばし」とある。享保十年(元禄二年から三十六年後・1725)のには既に「万年橋」と変っていて、江戸砂子に、長二十三間とある。此の万年橋附近に芭蕉庵があったと云う説があるが、疑わしいので、之について述べる。
万年橋の四方隅田川岸に近い所に今小祠があって、内に高さ一尺くらいの芭蕉翁の陶製の像が安置してある。その傍に小さな稲荷の社があって、藤棚がある。予が三回目に訪うた時は五月頃で、薄紫の藤娘が汐風にそよいでいた。この芭蕉堂の前に立札が立っていて、左の記事がある。
〔史蹟〕 一 芭蕉庵址 
俳聖芭蕉翁草庵ヲ結ビテ古池ノ句ニ知ラレタル所
       大正十三年(1924)四月 東京府
 
此の記事はおそらく杉風秘記などに拠って認定したものかと思われるが、ここを庵址とするのは疑わしい。杉風秘記披書(杉風句集に載するもので、此の句集は天明五年(1785)杉風四世抹茶庵梅人編。抹茶席の事は後に云う)に云う
「……その後此方深川元番所生簀の有之所に移す時にはせを翁桃青と改名せられ供」
とあって、次に古池やの句が載せてある。杉風秘記は信じ難い点が少くないが、右に引
く条も疑わしい。芭蕉が深川に始めて移り住んだのは延宝八年の頃であるが、その頃は前述の如く深川村と云う村が六間堀の西にあって、元番所(今の萬年橋)の辺とは大分位置が隔っている。そこに生洲が在ったと云うのも疑わしく、一朝大川が有水すれば流失しそうな所で、今は河岸が高くなっているが、それでさえ増水すれば危険な所である。生別のあるような所は六間堀の辺が尤もだとうなずかれるのであり、万年橋の北の辺は往来の要路に寄り、隙栖者の住むような併ではない。
第一此の北詰の辺は既に寛文の地図にもある如く、伊奈半十郎の大邸宅の在った所で、その北は尾州中納言とあり、之も大邸宅であった。伊奈氏は深川方面の地図には元禄にかけて必ず書入れてあるので、こゝに略述しておく。
伊奈氏の祖は家康に仕えて産業土木等に抜群の功があり関東郡代となり、以後代々同じ職にあり、代々水利土木等に傑出していた。寛文の頃は二代で、二代目から代々俗称を半十郎と云った。延宝から元禄にかけては三代目四代目の頃であった。此の邸内に杉風の生洲があったとも思われず、又芭蕉が住んだとも思われず、たとえ部外の地先としても、往来の要衝ではあり、大川の浸水氾檻等の危険が度々あり、到床静間な住居をなすべき場所とは思われないのである。
曰人の『蕉門諸生全伝』に
「六間掘元番所卜云處杉風か別荘也。其處ヲ藤右衛門ニ譲リテ不レ用古池同前ニナル。其處ヘ芭蕉翁ヲ置申セシ也」
とあるのは、右の秘記に依ったらしく、又「六間堀元番所」と云うのは怪しく、六間堀と元番所とは方角も異なるのである。
また前述の如く天和二年に類焼にあったのであるが、元番所の辺は類焼もありそうに思われない。やはり深川村附近即ち今の新大橋三丁目の辺で、延宝天和頃の地図や、延宝五年刊『江戸雀』などを見ても、此の辺りは町並も在ったので、類焼したことがうなずかれる。此の火事は今の本郷から両国橋に延焼し、隅田川を越して本所から深川へと移ったのであつた。武江年表天和二年の条に云う
「十二月廿八日未下刻、駒込大圓寺より出火、本郷、上野、下谷池の端、筋連御門、神田の辺、日本橋まで、浅草御蔵、同御門、馬喰町辺、矢の御倉、両国橋焼落、本所深川に至る、夜に入て鎮火す。此火事に邁ふて財賓を失へるもの、或は焼死怪我人等著しく、天神の臺死人多く、道路に悲泣のさまを哀憫して、学寮の了翁僧都四年来貯へ置れし書籍の料一千二百両の余を貧人に施せり……深川の芭蕉庵も急火にかこまれ、翁も潮にひたり烟中をのがれしといふは此時の尋なるべし」云々。翁の記事は大分誇張して書かれている。
江戸名所図会などに
「芭蕉庵は萬年橋の北詰松平遠州侯の庭中にあるとあるのは俗伝と思われるし、又前述の如く信じ難い説である。旧記では梨一の『菅菰抄』中の芭蕉翁伝が極めて簡単ではあるが最も正確であろう。いわく
「……其後東武へ下向ありて、深川の六間堀といふ處に庵をまうけ、天和二年まで在住ありしに、其庵囘禄の災にあひて暫らく甲州に赴き、彼国にて年を越え、翌三年の夏の末ならんか深川の舊地へ帰り」云々。
 そこで強いて憶測すれば、初庵は六間堀の川が小名木川に灌ぐ西の辺(今の常磐町二丁目の辺)であったろう。
再庵は此の辺から六間堀の川に沿うて北の方、深川村に移ったのであろう。三度目の庵も此の附近である。
 芭蕉が其の庵を「泊舶堂」と号した事は越人の『鵲尾冠』などに見える。同書上、
似合しや新年古き米五升 の句について、
「此発句は芭蕉江府舶町の囂(かまびす)に倦、深川泊船堂に入れし次る年の作なり」云々。これらに依りて芭蕉は初庵を泊船堂と号した事か知られるが、之に依って大川の河岸近く庵が在ったと推測するのは誤りで、六間堀も小名木川も舶を通じていたものである。又「芭蕉を移詞」(元緑五年作)に
舊き庵もやゝちかう三間の茅屋つきづきしう、杉の柱と清げに削りなし、竹の枝折戸安らかに、葭壇厚くしわたして、甫にむかひ池にのぞみて水樓となす。地は富士に対して、柴門景を追うてなゝめなり。浙江の潮、三ツまたの淀にたゝへて、月を見る便よるしければ、初月の夕より雲をいとひ雨をくるしむ」云々。
「舊き庵もやゝちかう」とあるに依って三度目の庵は二度目のに近かった事が知られるが、「浙江の潮三ツまたの淀にたゝへて」とあるので、いかにも庵が三叉の近くの河岸にあった如く思われるが、之は六間堀の辺から大河も見え、三又も眺められるので、大まかに書いたのである。三又は六間堀の庵から西南方に見えていた所で、河筋が三又の如くなり、隅田川の一名處であった。今は流域が変遷していて、位置が違っているが、今の清洲橋(きよすばし)の辺に当る。貞享四年(元禄二年から二年前)作、鹿島紀行に「門より舟に乗りて行徳といふところにいたる」とあるが、之は庵の前近くにある六間堀(幅が六間ある)を舟に乗って小名木川(既出)に出て、この川を遡って行徳にあがったのである。河合曾良の随行日記にも、出発の日「深川出舶」とある。
 さて元禄二年頃の庵の風情は前に引いた『鵠属冠』にある初庵の記事や、前端「芭蕉を移詞」にある三度目の庵の記事などに依って推測され得る如く旧庵と同じような住居で極めて簡素な茅屋であったと思われる。

人見竹洞(元禄時代幕府儒官)
六月十日、人見竹洞等が二三の友と素堂亭を訪れる。【素堂の家(『人見竹洞全集』所収。国立国会図書館蔵)】
素堂の家
癸酉季夏初十日与二三君乗舟泛浅草入。
 川東之小港訪素堂之隠窟竹径門深荷花池凉。
 松風續圃爪茄満畔最長広外之趣也。(『俳句』朝倉治彦氏紹介。)

素堂の知友、人見友元事蹟 『武徳大成記』

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素堂の知友、人見友元事蹟 『武徳大成記』
堀田氏の家系に、
 天和三年十一月九日、御当家御記録御改被成候旨、阿部豊後守正武、堀田下総守正仲両人吟味可仕旨仰付候
 貞享二年八月五日下総守御用掛リ御免
『営中日記』
天和三年十一月十三日ノ条ニ
 御書物御用被仰付候 阿部豊後守 堀田下総守 可受差図旨被仰付候     
林春常 人見友元 木下順庵
貞享三年九月七日
 御記録出来差上候ニ付
  時服十      阿部豊後守
  銀二十枚 時服三 林春常 
  銀二十枚 時服二 人見友元 木下順庵
  銀五十枚     弟子五人へ
 右者御書物御用被 仰付候ニ付被下之

◇延宝 三年(1675)☆素堂34才 芭蕉、32才

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◇延宝 三年(1675)☆素堂34才 芭蕉、32才
素堂の動向
宗因歓迎百韻(談林百韻)西山宗因編 三年京都刊
 鎌倉内藤風虎邸で興行(梅翁俳諧集―早大本)
領境松に残して一時雨    信章(素堂)
  一生はたゞ萍におなじ    信章 (萍―うきくさ)
芭蕉の動向
▼5月、東下申の西山宗因歓迎の百韻に桃青号で一座。
連衆、宗因・幽山・桃青・信章・木也・吟市・少才・似春。
▼広岡宗信編『千宜理記』に「伊州上野宗房」として発句六句。
▼内藤露沽判『五十番句合』に発句二句入集(『芭蕉翁句解参』)。
  芭蕉発句
人毎の口にある也したもみぢ
針立や肩に槌打つから衣
▼この年、夏、帰郷、猶子桃印を連れて江戸に下る。北村季吟編『続連珠』に発句六句、付句四句。巻末句引の「武蔵国」の部に「松尾氏、本住伊賀、号宗房桃青」と見える。
【註】この時代俳諧世界は大きな展開に際会していた。微温的な貞門俳諧の退屈なマンネリズムは、徳川の安定期の時代背景の中で育った新しい作家達の関心を繋ぎとめることはできなくなった。もっと無遠慮な、荒唐無稽な非合理の中に放笑を求めるような新風がおこり、それが非常な勢で俳壇を風扉した。
新風は文壇の長老、大阪天満宮の連歌宗匠西山宗因を担ぎ上げて大阪で起こった。芭蕉は『貝おほひ』を奉納した次の年、寛文十三年には、井原西鶴が『生玉万句』を興行刊行して、新風の峰火をあげ、その異風の故に「阿彌陀流」とよばれた。
翌延宝二年には宗因の『蚊柱百韻(かばしらのひゃっく)』をめぐって旧態派からの攻撃があり、宗因流の方からは、翌三年に論客岡西惟中が登場してこれを反撃、さらに惟中の『俳諧蒙求(はいかいもうぎゅう)』が出て、新風はあらたな論的根拠を得ることになる。すなわち、俳諧の本質を寓言にありとし、「かいてまはるほどの偽をいひつづけるのが俳諧」だといい、「無心所着」の非合理、無意味の中に俳諧があるという奔放な詩論が生れる。
そしてこの年宗因の東下によって江戸俳壇にも宗因流が導入されることになるのであるが、この五月、深川大徳院で興行された宗囚を迎えての百韻には、「宗房」を「桃青」と改めた芭蕉も、幽山・信章(素堂)似春などとともに、一座している。
芭蕉年譜 櫻井武次郎氏著
○この春、 時節嘸伊賀の山ごえ華の雪  杉風
 身は宴元に霞む武蔵野   桃青
 以下の両吟歌仙成るか。翌年帰郷の際の餞別とする説もある。
〇五月、江戸大徳院礎画事典行の宗因歓迎百韻に一座。
天理図書館蔵『談林俳諧』(写本)に「延宝三卯五月 東武にて」と端作りしてみえるもので、連衆は、宗因・磁画・幽山・桃青・信章(素堂)・木也・吟市・少才・似春・又吟。
これが文献にみえる桃育号の初めである(顕原退蔵「宗因一座の芭蕉連句」『頴原退蔵著作集』二)。
〔周辺の動き〕
▽季吟ら『花千句』  ○宗信『千宜理木』 ▽高政『誹諧絵合』
▽『信徳十百韻』   ▽松意『談林十百韻』▽『大坂独吟集』
▽重徳『新続独吟集』 ▽西鶴『独吟一日千句』 
▽難波津散人『糸屑』 ▽胡今『到来集』
○惟中、四月京坂に上り任口・宗因に会い、任ロの跋を得て『俳諧蒙求』を刊。貞門俳諧および「軽口俳諧」を批判。
『しぶ団返答』(九月序)では『蚊柱百句』を批判した去法師の『渋田』に反駁。    
○宗因、江戸から帰坂の途、京に立ち寄り、六月二十九日、重頼を訪ねる。
○似船、六月二九日、万句興行。
○北峯正甫、この年没か。
○露沾判『五十番発句合』(原本不明。『芭蕉翁句解参考』による)に発句二以上入集。
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