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素堂の生涯を誤らせた 『甲斐国志』素道の項
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素堂消息 杉山杉風書簡 岸本八郎兵衛宛て
杉山杉風書簡 岸本八郎兵衛宛て
『芭蕉と門人』山喜好氏著 昭和22年刊 弘文社
岸本八郎兵衛様 鯉屋市兵衛(杉山杉風)
貴報
昨日貴札悉拝見候。如仰、先日はゆるゆると得貴意大慶奉存候。然らば短冊五冊被遣候。桃青ニも書かせ申候。乍去頃日持病気之由承候間、少々遅々可仕候へども、其段は御待可被下候。機嫌見合書セ可申候。其角儀ハ嵐雪斗存候。残リハ常々出会不申候。擧白儀ハ宗匠ニてハ無御座候。私共之様成商人ニて御座候。
宗匠ニて無之者ニも、名之高キ者ハ、素堂と申者ニて御座候。其外慥成者も無御座候。内々左様ニ心得可被遊候。其内貴面ニ可得御意候。
正月十五日
この一通は、短冊五枚を送り、諸名家の染筆を依頼した手紙の返事と見えるが、杉風は芭蕉・其角・嵐雪・擧白・素堂の五人の名を挙げている。この人々は杉風眤懇の者だったのに違いないが、同時に江戸に於ける芭蕉門の名家を五人選ぶとすれば、先ず人選はここらに落ち着くのだったろう。ただ擧白の名を聞くのは変わっているが、その身分が商人で宗匠でなかったことが知られるのは珍しいとすべく、又、素堂が依然として世に重んじられた様が明記されるのも嬉しい。芭蕉が当時持病気味だとあるのは、多分胃腸の方だろうが、それも猶子桃印の看病疲れに誘発されたのでもあったろう。
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◇天和1年 辛酉 1681 素堂40才
◇天和1年 辛酉 1681 素堂40才
俳壇…一月、信徳ら『七百五十韻』に呼応して、七月、芭蕉ら『俳諧次韻』刊。十一月、来山『八百五十韻』刊。以後来山、大阪俳壇で確固たる地位を築く。
▽素堂附句、三月、『ほのぼの立』高政編。
芭蕉入集句と素堂の附句について。
枯枝に烏のとまりたけり秋のくれ はせを
鍬かたげ行霧の遠里 素堂
▼新編『芭蕉一代集』昭和六年刊。勝峯晋風氏著より(P431)
『二弟準縄』の脇五體の證句打添「枯枝に烏のとまりけり秋の暮」「鍬かたけゆに烏の遠里」口傳茶話の事ありとあるが、此脇句附は尾張鳴海の蝶羅が『千鳥掛』に洩れたものを『冬のうちわ』に拾遺した其の一つである。加賀山代永井壽氏の許に真蹟を存する。
▼「枯枝に」の句について(『俳聖芭蕉』野田別天氏著明柑十九年刊)
嵐雪門の櫻井吏登の『或問答』に或人の間いに答えて、
今は六十年も巳前、世の俳風こはぐしく、桃青と中せし頃は「大内雛人形天皇かよ」或は「あやめ生り軒の鰯のされこうべ」斯る姿の句も致され候。梅翁(宗団)なんど檀休の棟梁として、枝になまきず絶えなんだの最中に侍りしを、季吟も難かしがられ、桃青、素堂と閑談有りて、今野俳風和ぐる方もやと、三叟神丹を煉て、桃青その器にあたる人と推して進められしにより、然らば斯くに趣にもやと「枯枝に鳥のとまりたるや秋の暮」の一句を定められし、是を茶話の傳と申すなり。云々
▼葛飾素丸『蕉翁発句説叢大全』
云ふ所の季吟、芭蕉、素堂新立の茶話口傳と云事いぶかし。素堂と季吟の対面はなき事なり。黒露に聞しが、是も右のごとく答へし。云々
【筆註】季吟は延宝三年に京都で信章(素堂)歓迎百韻の歌仙を興行している。
▽素堂。夏、『東日記』言水編。発句二入集。
法師又立リ芹やき比の澤の暮 言水
餅を夢に折結ふしだの草枕 桃青
いつ弥生山伏籠の雲をきそ初 露沾
狭布子のひとへ夢の時雨の五月庵 杉風
住べくはすまば深川ノ夜ノ雨五月 其角
王子啼て卅日の月の明ぬらん 素堂
宮殿爐也女御更衣も猫の聲 々
【言水】慶安三年(1650)生、~享保七年(1722)没。
年七十三才。本名、池西則好、通称八郎兵衛。大和奈良の人。十六才で法体して俳諧に専念する。祖父、父とも俳諧に親しんだ。言水は延宝四年(1676)頃、江戸に出て、素堂等と交流した。天和二年(1682)京都に移る。
▼芭蕉書簡、「木因宛芭蕉書簡」の木因添状の中所収。
山口素堂隠士をとふに、あるじ発句あり、芭蕉見て第三あり、是を桃青清書して贈れり、其の一簡なり。
秋訪ハゞよ詞ハなくて江戸の隠 素堂
鯔(ハゼ)釣の賦に筆を棹(サオサス) 木因
鯒(コチ)の子ハ酒乞ヒ蟹ハ月を見て 芭蕉
【木因】正保三年(1646)生、~享保十年(1725)没。年八十才。
本名、谷九太夫可信。美濃国大垣の舟問屋。江戸舟二艘、川舟七艘所有。西鶴との交流が深く、芭蕉との交渉は尾張国鳴海の知足主催の「空樽や」の百韻に芭蕉の「点」を請い、翌年、天和元年に東下して素堂・芭蕉と同席する。
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俳諧芭蕉談 素堂消息
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素堂消息 74才 しらじらとしらけし花や
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素堂の俳諧論
素堂の俳諧論
素堂(信章)がいつ頃から俳諧を始めたかは明確な資料を持たないが、寛文七年(1667)二十六才の時に貞門俳諧師、伊勢の春陽軒加友の俳諧撰集『伊勢踊』が初出である。
発句は本文に掲載してあるが、注目されるのは、前書の少ない『伊勢踊』の信章の句には、加友が「予が江戸より帰国の刻馬のはなむけとてかくなん」と認めている。これは素堂の職業上の地位か俳壇に置けるものかは分からないが、それなりの地位を確保していたものと考えてもよい。寛文九年(1669)には石田未得の子息未啄の『一本草』に入集している。素堂が北村季吟に師事したとの説が俳諧系譜や研究書に見られるが、これは否定できる。(後述)当時の江戸においての重鎮高島玄札や先の石田未得辺りとの接触も多いに有り得る。素堂が京都の清水谷家や持明院家から歌学や書を習ったという説もあるが、その時期などは定かではない。
延宝二年(1674)二十三才の十一月に上洛して季吟や子息の湖春らと会吟した。(九吟百韻、二十回集)「江戸より信章のぼりて興行」が示すように、歓迎百韻であり師弟関係でないことが理解できる。
素堂の動向が明確になってきたのは、寛文の早い時期から風流大名内藤風虎江戸藩邸に出入りをしていて、多くの歌人や俳人との交友が育まれた。その中でも寛文五年(1665)大阪天満宮連歌所宗匠から俳諧の点者に進出した西山宗因からも影響を受けた。宗因はそれまでの貞門俳諧の俳論は古いとして、自由な遊戯的俳風を唱えて「談林俳諧」を開き、翌六年に立机して談林派の開祖となった。素堂が出入りしていた内藤風虎と宗因の結びつきは、寛文二年の風虎の陸奥岩城訪問から同四年江戸訪問と続き、風虎の門人松山玖也を代理として『夜の錦』
『桜川』の編集に宗因を関わらせた。風虎は北村季吟・西山宗因・松江重頼とも接触を持った。重頼は延宝五年(1677)素堂も入集している『六百番発句合』の判者となっている。
延宝二年(1674)宗因の『蚊柱百韻』をめぐって、貞門と談林派との対立抗争が表面化して、俳諧人の注目を浴びる中、翌三年五月風虎の招致を受けて江戸に出た宗因は『宗因歓迎百韻』に参加する。この興行には、素堂や芭蕉(号、桃青)も参加する。素堂も芭蕉も共に貞門俳諧を学び、延宝の初年には宗因の談林風に触れて興味を示し、『宗因歓迎百韻』に一座して傾倒していく。四年、芭蕉は師季吟撰の『続連珠』に入集している。芭蕉は季吟より「埋木」伝授されていて門人であるというが、その後の接触は見えない。
素堂は季吟の俳諧撰集への入集はなく、巷間の「素堂は季吟門」は間違いということになる。
貞享二年(1685)に『白根嶽』を刊行した甲斐、一瀬調実には季吟の批点を示す史料がある。(『甲斐俳壇と芭蕉の研究』池原錬昌氏著。参照)調実は岸本調和門ではあるが、紙問屋という職業も幸いして広く著名俳人に接触した形跡が残る。天和二年暮れの大火事で焼け出された芭蕉を甲斐谷村に招いたとされる谷村藩国家老高山麋塒(伝右衛門)との交友も深い。
素堂は延宝六年(1678)三十七才の夏に、長崎に向かった。素堂研究家の清水茂夫氏(故人)は『大学をひらく』の中でこの旅行に触れ、「二万の里唐津と申せ君が春 の句は仕官している唐津の主君の新春を祝っている」としている。これが事実とすれば『甲斐国志』に言う素堂の仕官先桜井孫兵衛政能とは大きな食違いが生じる。
さて宗因の感化された素堂と芭蕉は延宝五年に『江戸両吟集』を翌六年にかけて京都の伊藤信徳を迎えて『江戸三吟』を興行した。
梅の風俳諸国にさかむなり 信章 こちとうづれも此の時の春 桃青(『江戸両吟集』)
素堂も芭蕉も共に貞門俳諧から出発した。素堂が『続の原』跋文や『続虚栗』の序文に於て「狂句久しくいわず」や「若かりし頃狂句を好みて」と云うように、俳諧は滑稽・遊びとして捉えていたようである。従
ってそれまでに培った知識を縦横無尽に駆使して作句した。季吟や宗因の影響で一時は談林風に傾斜したが、
延宝六年から七年の号を来雪とし、長崎旅行を経て致任、翌八年来雪から素堂(本名)と改号した辺りからと考えられる。延宝八年(1680)素堂三十九才の時である。この年素堂は高野幽山『俳枕』の序文で自らの俳諧感を述べ、「俳枕とは、能因が枕をかってたはぶれの号とす」として中国唐時代の司馬遷の故事・李白や杜甫の旅、円位法師(西行)や宗祇・肖柏の「あさがほの庵・牡丹の園」に止まらずに「野山に暮らし、鴫をあはれび、尺八をかなしむ。是皆此道の情なるをや」と生き方の共通性を云い、幽山の旅遍歴を良として「されば一見の処々にて、うけしるしたることばのたねさらぬを、もどりかさねて」と和歌・連歌・俳諧等の一貫した文芸性を指摘して「今やう耳にはとせまの古き事も、名取川の埋木花咲かぬも、すつべきにあらず」として、此の道の本質(俳諧の情け)として捉え、旅をする生き方の重要性と風雅感を吐露している。これは後の景情の融合と情け(心)の重要性を説いている。
素堂歿後の享保六年(1721)素堂の晩年の世話をした子光編の『素堂句集』には「弱冠より四方に遊び、名山勝水或いは絶れたる神社、或いは古跡の仏閣と歴覧せざるはなし」とあり、旅の豊富さを認めている。
漢詩文を得意とする素堂は一派に属さず天和調とも云われる漢詩文調の句を多作する。この頃の素堂の句は「字余り」も多いが、これは余すことで詩情を余韻を良くし、貞門俳諧以来の外形的形態を満たし、素堂んならではの高踏らしさの感動を顕しているのである。
その頃芭蕉は信徳らの『七百五十韻』を受けて、天和元年(1681)『俳諧次韻』を出し、俳諧革新を進め、天和調の第一歩を拓いた。(『俳文学大辞典』)また新風を興す模索を続ける。天和三年には甲斐逗流の後其角の『虚栗』の跋を認め、貞享元年には帰郷の目的で「野晒し」の旅に出る。翌年江戸に戻るが、芭蕉は漢詩文調を脱する新風を興す手応えを感じていた。
素堂の俳諧感が遺憾なく現れているのが貞享四年(1687)其角の編んだ『続虚栗』の序文である。これは一部の識者も認めている「不易流行」論は、芭蕉に先がけ素堂が唱えたことである。芭蕉没後の門弟たちの「芭蕉俳論」の根底をなす俳論の裏側には素堂の考えが横たわっていたのである。
『続虚栗』の序は本文を参照していただくこととするが、その旨は、
風流の吟の跡絶えずに、しかも以前のような趣向ではない。
……今様な俳諧にはただ詠じる対象を写すだけで、感情の込められているものが少なく情けないことである。
昔の人の云うように、景の中に情けを含むこと、その一致融合が望 ましい。杜甫の詩を引用してそれは「景情の融合に在る」と説き、和 歌や俳諧でもこうありたい。詩歌は心の絵で、それを描くものは唐土との距離を縮め吉野の趣を白根にうつすことにもなり、趣を増ことにもなり、詩として共通の本質があるのだ。例えば形態のない美女を笑わせ、実体のない花をも色付かせられるのだ。
……人の心は移り気で、終わりの花は等閑になりやすい。
人の師たるものは、この心をわきまえながら好むところに従って、色や物事を良くしなければならない。
として、其角が序を求めた事に対して、『虚栗』とは何かと問い掛け、序文は余り気が進まないので断りたいが、懇望するので右のとりとめのないことを序とも何なりとも名付けよと与えれば頷いて帰った。
これは素堂が其角だけでなく芭蕉に対しても説いていることが理解でき、厳しい口調となっている。序文は漢詩や和歌それに俳諧も同じ文学性を持っており、景情の融合の必要性を指摘して情(心)の重要性を説いたものである。振り替えって見れば、素堂は延宝八年の『俳枕』序に於て、古人を挙げて、生き方の共通性を「是皆此道の情」と表現し、漢詩・和歌・連歌・俳諧の共通の文芸性は、この道の本質として、旅する生き方が重要な要素となって、風雅観が生まれると説いたのである。
素堂(信章)がいつ頃から俳諧を始めたかは明確な資料を持たないが、寛文七年(1667)二十六才の時に貞門俳諧師、伊勢の春陽軒加友の俳諧撰集『伊勢踊』が初出である。
発句は本文に掲載してあるが、注目されるのは、前書の少ない『伊勢踊』の信章の句には、加友が「予が江戸より帰国の刻馬のはなむけとてかくなん」と認めている。これは素堂の職業上の地位か俳壇に置けるものかは分からないが、それなりの地位を確保していたものと考えてもよい。寛文九年(1669)には石田未得の子息未啄の『一本草』に入集している。素堂が北村季吟に師事したとの説が俳諧系譜や研究書に見られるが、これは否定できる。(後述)当時の江戸においての重鎮高島玄札や先の石田未得辺りとの接触も多いに有り得る。素堂が京都の清水谷家や持明院家から歌学や書を習ったという説もあるが、その時期などは定かではない。
延宝二年(1674)二十三才の十一月に上洛して季吟や子息の湖春らと会吟した。(九吟百韻、二十回集)「江戸より信章のぼりて興行」が示すように、歓迎百韻であり師弟関係でないことが理解できる。
素堂の動向が明確になってきたのは、寛文の早い時期から風流大名内藤風虎江戸藩邸に出入りをしていて、多くの歌人や俳人との交友が育まれた。その中でも寛文五年(1665)大阪天満宮連歌所宗匠から俳諧の点者に進出した西山宗因からも影響を受けた。宗因はそれまでの貞門俳諧の俳論は古いとして、自由な遊戯的俳風を唱えて「談林俳諧」を開き、翌六年に立机して談林派の開祖となった。素堂が出入りしていた内藤風虎と宗因の結びつきは、寛文二年の風虎の陸奥岩城訪問から同四年江戸訪問と続き、風虎の門人松山玖也を代理として『夜の錦』
『桜川』の編集に宗因を関わらせた。風虎は北村季吟・西山宗因・松江重頼とも接触を持った。重頼は延宝五年(1677)素堂も入集している『六百番発句合』の判者となっている。
延宝二年(1674)宗因の『蚊柱百韻』をめぐって、貞門と談林派との対立抗争が表面化して、俳諧人の注目を浴びる中、翌三年五月風虎の招致を受けて江戸に出た宗因は『宗因歓迎百韻』に参加する。この興行には、素堂や芭蕉(号、桃青)も参加する。素堂も芭蕉も共に貞門俳諧を学び、延宝の初年には宗因の談林風に触れて興味を示し、『宗因歓迎百韻』に一座して傾倒していく。四年、芭蕉は師季吟撰の『続連珠』に入集している。芭蕉は季吟より「埋木」伝授されていて門人であるというが、その後の接触は見えない。
素堂は季吟の俳諧撰集への入集はなく、巷間の「素堂は季吟門」は間違いということになる。
貞享二年(1685)に『白根嶽』を刊行した甲斐、一瀬調実には季吟の批点を示す史料がある。(『甲斐俳壇と芭蕉の研究』池原錬昌氏著。参照)調実は岸本調和門ではあるが、紙問屋という職業も幸いして広く著名俳人に接触した形跡が残る。天和二年暮れの大火事で焼け出された芭蕉を甲斐谷村に招いたとされる谷村藩国家老高山麋塒(伝右衛門)との交友も深い。
素堂は延宝六年(1678)三十七才の夏に、長崎に向かった。素堂研究家の清水茂夫氏(故人)は『大学をひらく』の中でこの旅行に触れ、「二万の里唐津と申せ君が春 の句は仕官している唐津の主君の新春を祝っている」としている。これが事実とすれば『甲斐国志』に言う素堂の仕官先桜井孫兵衛政能とは大きな食違いが生じる。
さて宗因の感化された素堂と芭蕉は延宝五年に『江戸両吟集』を翌六年にかけて京都の伊藤信徳を迎えて『江戸三吟』を興行した。
梅の風俳諸国にさかむなり 信章 こちとうづれも此の時の春 桃青(『江戸両吟集』)
素堂も芭蕉も共に貞門俳諧から出発した。素堂が『続の原』跋文や『続虚栗』の序文に於て「狂句久しくいわず」や「若かりし頃狂句を好みて」と云うように、俳諧は滑稽・遊びとして捉えていたようである。従
ってそれまでに培った知識を縦横無尽に駆使して作句した。季吟や宗因の影響で一時は談林風に傾斜したが、
延宝六年から七年の号を来雪とし、長崎旅行を経て致任、翌八年来雪から素堂(本名)と改号した辺りからと考えられる。延宝八年(1680)素堂三十九才の時である。この年素堂は高野幽山『俳枕』の序文で自らの俳諧感を述べ、「俳枕とは、能因が枕をかってたはぶれの号とす」として中国唐時代の司馬遷の故事・李白や杜甫の旅、円位法師(西行)や宗祇・肖柏の「あさがほの庵・牡丹の園」に止まらずに「野山に暮らし、鴫をあはれび、尺八をかなしむ。是皆此道の情なるをや」と生き方の共通性を云い、幽山の旅遍歴を良として「されば一見の処々にて、うけしるしたることばのたねさらぬを、もどりかさねて」と和歌・連歌・俳諧等の一貫した文芸性を指摘して「今やう耳にはとせまの古き事も、名取川の埋木花咲かぬも、すつべきにあらず」として、此の道の本質(俳諧の情け)として捉え、旅をする生き方の重要性と風雅感を吐露している。これは後の景情の融合と情け(心)の重要性を説いている。
素堂歿後の享保六年(1721)素堂の晩年の世話をした子光編の『素堂句集』には「弱冠より四方に遊び、名山勝水或いは絶れたる神社、或いは古跡の仏閣と歴覧せざるはなし」とあり、旅の豊富さを認めている。
漢詩文を得意とする素堂は一派に属さず天和調とも云われる漢詩文調の句を多作する。この頃の素堂の句は「字余り」も多いが、これは余すことで詩情を余韻を良くし、貞門俳諧以来の外形的形態を満たし、素堂んならではの高踏らしさの感動を顕しているのである。
その頃芭蕉は信徳らの『七百五十韻』を受けて、天和元年(1681)『俳諧次韻』を出し、俳諧革新を進め、天和調の第一歩を拓いた。(『俳文学大辞典』)また新風を興す模索を続ける。天和三年には甲斐逗流の後其角の『虚栗』の跋を認め、貞享元年には帰郷の目的で「野晒し」の旅に出る。翌年江戸に戻るが、芭蕉は漢詩文調を脱する新風を興す手応えを感じていた。
素堂の俳諧感が遺憾なく現れているのが貞享四年(1687)其角の編んだ『続虚栗』の序文である。これは一部の識者も認めている「不易流行」論は、芭蕉に先がけ素堂が唱えたことである。芭蕉没後の門弟たちの「芭蕉俳論」の根底をなす俳論の裏側には素堂の考えが横たわっていたのである。
『続虚栗』の序は本文を参照していただくこととするが、その旨は、
風流の吟の跡絶えずに、しかも以前のような趣向ではない。
……今様な俳諧にはただ詠じる対象を写すだけで、感情の込められているものが少なく情けないことである。
昔の人の云うように、景の中に情けを含むこと、その一致融合が望 ましい。杜甫の詩を引用してそれは「景情の融合に在る」と説き、和 歌や俳諧でもこうありたい。詩歌は心の絵で、それを描くものは唐土との距離を縮め吉野の趣を白根にうつすことにもなり、趣を増ことにもなり、詩として共通の本質があるのだ。例えば形態のない美女を笑わせ、実体のない花をも色付かせられるのだ。
……人の心は移り気で、終わりの花は等閑になりやすい。
人の師たるものは、この心をわきまえながら好むところに従って、色や物事を良くしなければならない。
として、其角が序を求めた事に対して、『虚栗』とは何かと問い掛け、序文は余り気が進まないので断りたいが、懇望するので右のとりとめのないことを序とも何なりとも名付けよと与えれば頷いて帰った。
これは素堂が其角だけでなく芭蕉に対しても説いていることが理解でき、厳しい口調となっている。序文は漢詩や和歌それに俳諧も同じ文学性を持っており、景情の融合の必要性を指摘して情(心)の重要性を説いたものである。振り替えって見れば、素堂は延宝八年の『俳枕』序に於て、古人を挙げて、生き方の共通性を「是皆此道の情」と表現し、漢詩・和歌・連歌・俳諧の共通の文芸性は、この道の本質として、旅する生き方が重要な要素となって、風雅観が生まれると説いたのである。
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素堂、芭蕉にさきがけ「不易流行」を唱える
素堂、芭蕉にさきがけ「不易流行」を唱える
素堂……
十一月、其角の『続虚栗』に序文を与える。発句五、入集。
風月の吟たえずして、しかもゝとの趣向にあらず。
たれかいふ、風とるべく影をひろふべくば、道に入るべしと。
此詞いたり過て、心わきがたし。ある人来りて、今やうの狂句をかたり 出しに、風雲の物のかたちあるがごとく、水月の又のかげをなすに似 たり。あるは上代めきてやすく、すなほなるもあれと、たゞにけしきのみをいひなして惜なきをや。古人のいへる事あり。
景のうちに情けをふくむと、から歌にていはゞ、
穿花蝶深深見點水蜻?飛
これこてふとかげろふは、所を得たれども、老杜は他の國にありてやす からぬ心と也。
まことに景のの中に情をふくむものかな。やまとうたかくぞあるべき。
又きゝしことあり、詩や哥や心の繪なりと、
野渡無人船
月おちかゝるあはぢ嶋山などのたぐひ成べし。
猶心をゑがくものは、もろこしの地を縮め、吉野をこしのしらねにうつし て、方寸を千ゝにくだくものなり。
あるはかたちなき美女を笑はしめ、色なき花をにほはしむ。
花に時の花有、つゐの花あり。時の花は一夜妻たはぶるゝに同じ、終 の花は、我宿の妻となさんの心ならし。
人みな時の花にはうつりやすく、終の花にはなほざりになりやすし。人 の師たるものも、此心わきまへながら、他のこのむ所にしたがひて、色 をよくし、ことをよくするならん。
来る人のいへるは、我も又さる翁のかたりけることあり、鳰の浮巣の時 にうき時にしづみて、風波にもまれざるがごとく、内にこゝろざしをたつべしとなり。
余笑ひて之をうけがふ。いひつゞくれば、ものさだめに似たれど、屈原 楚國をわすれずとかや、われ若かりし頃、狂句をこのみて、今猶折に ふれて、わすれぬものゆへ、そゝろに辨をつゐやす。君みずや漆園の書、いふものはしらずと、我しらざるによりいふならし。
こゝに其角みなし栗の續をゑらびて、序あらんことをもとむ。
そもみなし粟とはいかにひろひのこせる秋やへぬらんのこゝろばへなり とや。
おふのうらなしならば、なりもならずもいひもこそせめ、といひつれと、こ まの爪のとなりかくなりと猶いひやます。
よって右のそゞるごとを、序 なりとも何となりとも名づくべしと、あたへけ ればうなづきてさりぬ。
江上隠士 素 堂 書
素堂……
十一月、其角の『続虚栗』に序文を与える。発句五、入集。
風月の吟たえずして、しかもゝとの趣向にあらず。
たれかいふ、風とるべく影をひろふべくば、道に入るべしと。
此詞いたり過て、心わきがたし。ある人来りて、今やうの狂句をかたり 出しに、風雲の物のかたちあるがごとく、水月の又のかげをなすに似 たり。あるは上代めきてやすく、すなほなるもあれと、たゞにけしきのみをいひなして惜なきをや。古人のいへる事あり。
景のうちに情けをふくむと、から歌にていはゞ、
穿花蝶深深見點水蜻?飛
これこてふとかげろふは、所を得たれども、老杜は他の國にありてやす からぬ心と也。
まことに景のの中に情をふくむものかな。やまとうたかくぞあるべき。
又きゝしことあり、詩や哥や心の繪なりと、
野渡無人船
月おちかゝるあはぢ嶋山などのたぐひ成べし。
猶心をゑがくものは、もろこしの地を縮め、吉野をこしのしらねにうつし て、方寸を千ゝにくだくものなり。
あるはかたちなき美女を笑はしめ、色なき花をにほはしむ。
花に時の花有、つゐの花あり。時の花は一夜妻たはぶるゝに同じ、終 の花は、我宿の妻となさんの心ならし。
人みな時の花にはうつりやすく、終の花にはなほざりになりやすし。人 の師たるものも、此心わきまへながら、他のこのむ所にしたがひて、色 をよくし、ことをよくするならん。
来る人のいへるは、我も又さる翁のかたりけることあり、鳰の浮巣の時 にうき時にしづみて、風波にもまれざるがごとく、内にこゝろざしをたつべしとなり。
余笑ひて之をうけがふ。いひつゞくれば、ものさだめに似たれど、屈原 楚國をわすれずとかや、われ若かりし頃、狂句をこのみて、今猶折に ふれて、わすれぬものゆへ、そゝろに辨をつゐやす。君みずや漆園の書、いふものはしらずと、我しらざるによりいふならし。
こゝに其角みなし栗の續をゑらびて、序あらんことをもとむ。
そもみなし粟とはいかにひろひのこせる秋やへぬらんのこゝろばへなり とや。
おふのうらなしならば、なりもならずもいひもこそせめ、といひつれと、こ まの爪のとなりかくなりと猶いひやます。
よって右のそゞるごとを、序 なりとも何となりとも名づくべしと、あたへけ ればうなづきてさりぬ。
江上隠士 素 堂 書
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元禄五年(1692)著。 素堂翁 五十歳。
元禄五年(1692)著。 素堂翁 五十歳。
『三日月日記』
我友芭蕉の翁、月にふけりて、いつとはわかぬものから、ことに秋を待わたりて、求めなし。
あるときは敦賀の津にありて、越の海にさまよひ、其さきの秋は、石山の高根にしはし庵をむすひて、琵琶湖の月を詠し、二とせ三とせをへたてて、此郷の秋と共にあふならし。
文月のはしめは、蚊のふせきも静ならす、玉祭頃はこれにかゝつらひ、在明のころ下絃のころも、雨のさわりのみにして、初秋は暮ぬ。 なかの秋にいたりて、はつ月のはつかなる日より、夜毎に文月のおもひをなし、くもりみはれみ、扉をおほうことまれ也。
我庵ちかきわたりなれは、月にふたり隠者の市をなさんと、みつから申つることくさも古めきて、入くる人々にも、句をすゝむることになりぬ。
むかしより隠の實ありて、名の世にあはるゝこと、月のこゝろなるへし。我身はくもれと、すてられし西行たに、曇りもはてす、苔のころもよかはきたにせよと、かくれまします遍昭も、かくれはてす。
人のよふにまかせて、僧正とあふかれたまふも、なほ風流のためしならすや。此翁のかくれ家も、かならす隣ありと、名もまたよふにまかせらるへし。
『三日月日記』
我友芭蕉の翁、月にふけりて、いつとはわかぬものから、ことに秋を待わたりて、求めなし。
あるときは敦賀の津にありて、越の海にさまよひ、其さきの秋は、石山の高根にしはし庵をむすひて、琵琶湖の月を詠し、二とせ三とせをへたてて、此郷の秋と共にあふならし。
文月のはしめは、蚊のふせきも静ならす、玉祭頃はこれにかゝつらひ、在明のころ下絃のころも、雨のさわりのみにして、初秋は暮ぬ。 なかの秋にいたりて、はつ月のはつかなる日より、夜毎に文月のおもひをなし、くもりみはれみ、扉をおほうことまれ也。
我庵ちかきわたりなれは、月にふたり隠者の市をなさんと、みつから申つることくさも古めきて、入くる人々にも、句をすゝむることになりぬ。
むかしより隠の實ありて、名の世にあはるゝこと、月のこゝろなるへし。我身はくもれと、すてられし西行たに、曇りもはてす、苔のころもよかはきたにせよと、かくれまします遍昭も、かくれはてす。
人のよふにまかせて、僧正とあふかれたまふも、なほ風流のためしならすや。此翁のかくれ家も、かならす隣ありと、名もまたよふにまかせらるへし。
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素堂歌文(出典未詳) 総武之間かつしかの隠士
素堂歌文(出典未詳)
津山の住推柳子のもとへ赤井氏より我友芭蕉の翁か絵かきて、みつから賛せるを送らせたまふに、二月中句瓜をすゝむといふ唐哥の心をとりて句につらね、報せられしを、感吟にたえす、予をしてこれに申せとの仰ことあるにより、金
玉の声に瓦石をもつて答ふるならし。
いつはらぬはせをの絵とやきさらきの 瓜の花見て心うこかす
総武之間かつしかの隠士
素堂稿
推柳句文
とし月芭蕉翁の手跡をしたひ侍りしこゝろさしを赤井公にきかせたまふて、ひめ置せ給ひし、自畫自讃の一幅をくたしひぬ。
桃隣の撰集に入し瓜の花の句をしるしてゑかける風情、又よにまれなるものなり。見るにめさむる心地して朝夕身をはなたす、外にたくひも、もたせたまはぬにめくみ給し御心さしの切なること、身にあまり、ありかたふおほえしまゝ、つたなき一句をつゝりて友部氏まて奉るならし。
推柳上
きさらきに瓜の花見る恵かな
【註】桃隣 『俳文学大辞典』
本名・天野勘兵衛。通称藤太夫。芭蕉の縁者だが関係は不明。『炭俵』で活躍した。許六を芭蕉に紹介したのは桃隣。彼は、芭蕉没後元禄9年になって師の『奥の細道』の後をたどり、『陸奥衛』を著した。
露川「蕉翁自画賛解」
正徳丙申とし、みまさかや推柳子の亭に遊ひて、蕉翁の手跡を見る。夕にも朝にもつかす瓜の花とや。けに、あさかほの哀、タ皃のまつしきにもよらす、歓然として、此華の本情を尽す事、凡口に及ましや。廿余年の後、自重を感して、
ふたゝひ泪を蝋紙のうへにおとし侍る。
名にしあふたねうしなふな瓜の花
三月
月空 露川居士
【註】露川(ろせん)『俳文学大辞典』
沢市郎石衛門。別号、霧山軒・月空庵。伊賀友生の産。名古屋札の辻住。数珠師。寛保三年(1743)六月二十三日没、八十三歳。
初め季吟・横船に学び、元禄四年(1691)蕉門に帰したが、真に暗躍したのは隠居した宝永三年(1706)以後の後半生である。その間勢力の拡張と門葉の獲得とに狂奔して、行脚と撰集に浮身をやつし、野心のためには先輩支考との論戦をも辞せず、ついに「六十余ケ国を巡り其徒に遊ぶ者二千余人」と誇称するまでの一派を樹立した。しかし、それは量の問題で、その作風は平俗低調、真の蕉風とは縁遠いものだった。
草刈の道々こぼす野菊かな
露川懐紙 (岡田利兵衛氏蔵)
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江戸幕閣大活躍 甲斐祖、土屋右衛門昌常
新井白石『折たく紫の記』
- 土屋民部と新井白石について
柳沢吉保の事について記されている箇所があるということで、紐解いてみると、そこには武田滅亡の際に獅子粉塵の活躍した土屋右衛門尉昌恒のこと、その後土屋家について記してあるのを見て、白石と甲斐の関係に何か因縁深いもの感じた。
(前文略)父が、土屋民部の家に来られて、まだわたくしの母を妻に迎えられないうちに、親交のあった人の三男を養子にし、正信と名のらせておられた(幼名一弥)。この人は、常陸の大掾の家に仕えた、郡司某の子孫だということであった。かの正信の十六歳のときから、土屋民部の二男が、陸奥の相馬家を継がれたときに、召し連れられて、あちらに仕えておられた。(成人のちには弥一右衛門)自分の父が土屋の家を去られた後は、その方のもとから、老年を養うに足る料をおくられた。その後、かの人は所領を嫡男に譲り与えて、二人の子供に郡司を名のらせた。自分が禄について後は、その人からおくられていたのを辞退した。間もなく、その人も亡くなったが、その嫡男もまた早逝し、二男がそのあとを継いたが、この人もまた早逝した。今はその二男の幼い子が、父のあとを継いでいる。
嫡男をば軍治一郎兵衛といい、二男を同弥一右衛門という。その子は一弥というのである。どうしてか、郡司を改めて軍治としるす。
土屋民部の祖父は、甲斐の武田四郎勝頼の侍大将で、土屋右衛門尉昌恒といった。その兄の右衛門尉昌次というのが、戦死した後、兄を継いだ。主家が亡びた際、重代の家人等も、皆主家に後ろ失を射たが、この昌恒一人だけは主に離れず、ついに一所で死んだ。その輩下の志水、神戸という二人の武士は、昌恒の妻と子をともない、駿河国に落ちのびて来た。清見寺の住僧は、神戸の知人であったので、かの子息を、その僧に弟子入りさせた。その六歳の時、大御所が御覧なさって、土屋の子である由をお聞きになり、「立派な武士の子である。いただきたい」とおっしゃり、召し連れられて、竹千代君に仕えさせてから、次第に身を起こして、元服後、叙爵して民部少輔忠直と名のらされた。これが後の土屋民部である。
【割注 徳川実紀東照宮御実紀附録巻十三】
甲斐の土屋惣蔵昌恒が子は、昌恒が主の勝頼がために討死せし後、故ありて駿河国清見寺にありしを。一とせ駿河より江戸へ入らせられしとき。清見寺へ立寄らせられ、御硯箱めせしに、この子硯箱持いでゝ奉れば、墨すれと上意にて御側にさし置れ。囃子の番組など書しるしたまひ。出立せ給ふにのぞみ。このをさなきものは誰が子なりやと御尋あれば、寺僧これは御敵なりし者の子なれば憚なきにあらず。さりとて今はつゝむべきにも侍らず。甲斐の土屋惣蔵が子なりと申上れば。そは忠臣の子なり。われにくれよと宣ひ、御召替の御輿にのらしめて召連られ、江城の御玄関まで成せられしに、台徳院殿出で迎へ給ふ所へ御みづからこの童子の手を引て、これは此度道中にて思はずほり出せし懐中脇差なり。忠臣の種なれば随分に秘蔵し給へとてさづけらる。台徳院殿童子の袖をとらしめて。盛意をかしこみ謝し給ふ。これより御側に近侍し寵眷浅からず。後に民部少輔忠直とていと才幹ある者になりしなり。
かの志水の子孫はどうなったのであろうか。神戸の子孫は、土屋家では無二の譜第の侍であった。神戸の孫兄弟は三人あった。長幼は父のあとを継ぎ、二男は陸奥三春を領する松下家に仕えた。(松下家の長老で神戸三郎右衛門)三男も土屋民部の家に仕えた。その二男の妻は、わたくしの母の姉君である。したがって、三男にとっては兄嫁の妹であったので、わたくしの母を仲立にして、わたくしの父にめあわされたのである。
武蔵国青梅という所にある天寧寺の前住持祖麟和尚という人は、かの二男であった神戸の子供で、自分のためには母方の従弟であった。三男の人は、さるものの孫であったが、年来不幸に沈淪して、六十歳になった冬の初めに出家を思いたち、子供のことなどをわたしの父に頼まれたことがあったが、三十日ばかりのうちに、土屋民部の舎弟であられた但馬守数直朝臣が、執政の職に任ぜられたので、神戸の子孫一人を賜わりたいと請われ、忽ちかの家の長老となられた。かかる老いての後の幸福を、自分は眼のあたりに見た。しかしながら、これはその祖先の余慶に外ならぬと考えられる。(これから後は神戸新右衛門といった)その嫡子は、父とともに数直朝臣の家に仕えた。二男は土屋民部の家にとどまり仕えていたが、早逝した。かの嫡男の後は、今も栄えているようである。
父が、わたくしの母を妻に迎えられたのは、四十をはるかにこえられてからのことであろう。初め女子が二人まで生まれたが、二人とも三歳未満で死んだ。(略)その次も女子で、十九歳で亡くなられた。白分の妹一人があったが、十八歳で亡くなった。わたくしが生まれたのは、父が五十七歳、母が四十二歳の時のことであろうか。(明暦三年二月)
(中略)
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綱吉将軍薨去と「生類憐令」の廃止 その時柳沢吉保は
- 新井白石『折たく紫の記』に見る柳沢吉保
- 綱吉将軍薨去と「生類憐令」の廃止 その時吉保は
宝永六年(一七〇九)の春正月十日に、綱吉将軍粟去の報があり、明日人々は皆西城に参上するようにとの告知があった。自分も翌十一日に参上した。その時、意見書を袖に入れて、詮房朝臣を通じて奉ろうと思ったが会えなかったので、その舎弟の中務少輔詮衡を通じて奉った。碑謁蛸綿のその意見書には、当面の急務である三力条を記しておいた。この日、夜になって雨が降った。これは、去年の十月二十日以来はじめて降った雨であった。十二日にも、また参上して意見書を奉った。この夜また雨が降って暁までつづいた。これ以後毎日参上したが、まだ詮房朝臣には会わなかった。十五日になって、はじめて会って、これまで申しあげたことなどについて、様子を聞いた。十七日に、当十銭を廃止されるという仰せがあった。この夜また雨が降って、暁までつづいた。人々の宅、地、町々等を他所に移転さすこと、などが中止になったのも、この頃のことであろう。
当十銭のことは、前に記したように、去年の冬以来、商人たちに使用する旨の証文をさし出すようにとあり、その催促は、去の日までつづいた。また人々の宅地や町々を移転させる件も、年がすでに改まったので、家を壊し、家屋を作り、資財雑兵などを持ち運んだ。先例では、将軍薨去の場合には、七日ぐらいは工商ともにその仕事を休んだが、その期間が過ぎると、の売買、家屋の建築なども始まるので、これらの御沙汰がなくては、世の人は安心できないのであろう。それではよくないので今日の事を仰せられたのである。
十九日参上した時、元和令ついて仰せがあったので、家に帰って、その夜、「神祖法意解」一冊を撰述して、明日献上しょうと思ったところ、夜が明けると召されたので、参上してその事をも献上した。午後一時すぎに帰宅したが、重ねてお召しがあったので参上した。この日、前代の御時に制定せられた、生類あわれみの令が停廃された旨を承った。二十二日になって、御葬送の儀があった。雨が降りつづいたので、この日になったのだということである。
ある人の言うのに、御葬送の儀が今日まで延期になったのは、ほんとは雨が降りつづいたためではない。理由があってのことである。
いつの頃であったか、世継の君が参上されたところ、少将吉保(柳沢)、右京大夫輝貞、伊賀守忠栄、豊前守直重などの朝臣をはじめ、近習の人々を召されて、「自分が年来生類をいたわったのは、たとえ不条理のことではあっても、このことだけは、百年後も、自分が世にあった時のように御沙汰あるのが孝行というものである。ここに祇候の者たちも、よく心得ておれ」
と仰せられた。
しかし、この数年来、このことのために罪におちた者は、その数何十万人に及ぶかわからない。未だに判決がきまらず、獄中死の屍体を塩漬けにしたのも九人まである。まだ死なない者も莫大な数である。この禁令がのぞかれなければ、天下の憂苦はなくなるまい。
しかし、あれほどまでに遺言しておかれた禁を、当代になって、除かれるのもよろしくない。ただどのようにもして、遺誡のとおりでありたいとお考えになったので、まず吉保朝臣を召して、考えられたことをおっしゃつた。
この朝臣もともとこの禁令をよいと思うはずもなく、とくに前代の御覚えは他に異なっでいたものの、薨去後はどうなるかわからないと思ったので、
「仰せのおもむきは、まことに御孝志の至りと存じます」
と言ったので、
「では輝貞をはじめとして、今までこのことを司っていた者どもにこの旨を伝えよ」
と仰せられた。そこで吉保が人々に仰せを伝えたところ、一人として異議を唱える者はなかったので吉保はその旨を申しあげた。
それではというので、二十日に御棺の前においでになって、
「はじめ仰せを承りましたことは、わたくしとしましては、いつまでもそむくことは致しません。ただ天下人民のことになりますと、思うところがありますので、お許しをいただきたいと存じます」
とおっしゃった。そしてむかしかの遺誡を承った人々を御棺の前に召し出されて、それまでのいきさつを説明なさり、そのあとでこの禁令を廃止する旨を仰せられたのである。
まだ御葬送の儀も行なわれないうちであったので、世間ではこれが御遺誠のことだと思ったのである。
また今夜の御供をすべき近習の人々のうち、髪をおろすことを希望した者も少なくなかったが、これも旧例によってその人数が一定しているので、その人を選ぶ役目は、吉保らの人々に申しつけられた。この時に吉保も髪をおろして、御供をしたいと望んでいる由であった。
「この上ない御恩に感じて、そのように思うのはもっともであるから、自分はそれを止めようとは思わない。しかし代々の例を考えるに、貴殿のような方が、髪をおろして御供をしたためしはない。むかし厳有院家綱公の御代になって、殉死を禁止された。今また自分の治世のはじめに、これらの例をはじめるのは、適当でないであろう。所詮は、御葬事が終ってから退職して、子息に家督を譲って後に、望むとおり髪をおろしたら、代々の例にも違反せず、また自己の志をも遂げることになろう」
とおっしゃつたので、この吉保朝臣はついに仕えを辞されたという。
この二つの事は、わたくしには仰せ聞かせられなかったのだから、そのことの真偽は知らない。しかしわたくしに語った人も、いいかげんなことを言う人でもないから、その話をここに記しておく。
今日聞いたところ、はじめ信篤は、「代々周【国家財政困窮の事】二月三日お召しがあったので参上した。詮房朝臣に仰せ下されたことに、大喪の後は、家老たち一人ずつを本城に宿直させている。ところが彼らが言うに、かようなとき一日でも本城に主君がおられないのはよくない。自分がすみやかに移るべきであるというのである。代代の例によれば、前代も常の御座所を改造して移られた。今度は大御台所の移り住まれるべき御所をつくって差しあげる予定なので、これらのことについて協議させたところ、国財はすでにことごとく尽き、今後のためには少しも残っていないという。前代における国家の財政は、加賀守忠朝敵久がつかさどっていたというが、実際は近江守重秀一人りに委せられたので、重秀は美濃守吉保、秋元対馬守富明らと相談したのである。だから加賀守もその詳細を知らず、ましてやその他の家老たちは関与していない。いま重秀が議り申すところは、御料地はすべてで四百万石、年々納入される税金はおよそ七十六、七万両余、このうち長崎の運上というもの四万両、酒運上というもの六万両、これらは近江守が命じたところである。
このうち夏冬御給金として三十万両余を除くと、あまるところは四十六、七万両余である。ところが去年の国費は、およそ金百四十万両に達した。このほかに内裏を造営して差しあげる費用がおよそ金七、八十万両要るであろう。したがっていま国財の不足分は、およそ百七、八十万両を越えている。たとえ大喪の御事がなくても今後使用しうる国財はない。まして、当面の急務たる四十九日問の御法事の費用、御廟を建てる費用、将軍宣下の儀を行なうための費用、本城に御移転になる費用、このほか内裏造営のための費用はなお必要である。ところが現在、御蔵にある金は、わずか三十七万両にすぎず、このうち二十四万両は、去年の春、武相駿三州の地の灰砂を除くための夫役を諸国に課して、およそ百石の地から金二両を徴収された約四十万両のうち、十六万両をその費用にあてられ、その余りを、城北の御所をお作りになる費用として残しておかれたのである。これより他に、国家の費用にあてるべき金はなく、たとえ今これをもって当座の費用にあてても、十分が一も足りないであろう、というのである。加賀守をはじめみなみな大いに驚き、心配して近江守に考えさせたところ、前代綱吉公の御時・毎年支出が歳入よりも倍増して、国財がすでに破綻しはじめたので、元禄八年の九月から金銀貸を改鋳された。それ以来今まで、年々に収められた公利は、総計およそ金五百万両であった。これでもつていつもその不足分を補充していたところ、同じ十六年の冬、大地震によって傾いたり、壊れたところを修理せられるに及んで、かの年々に収められた公利も、たちまち使いはたしてしまった。
その後、また国財の不足が、以前どおりの状態になったので、宝永三年(一七〇六)七月、重ねてまた、銀貨を改鋳されたが、それでも歳費に足りないので、去年の春、対馬守重富のはからいで、当十銭を鋳出さるることをも決行された。今になって、この危急を救うには、金銀貸を改鋳される以外には、方法はないでしょうと言う。加賀守は年来このことに関与していてすら、それでもその詳細を知らず、ましてその他の者は、これらのことは初耳なので、今になって、どうとも考えようも知らず、ただ近江守が言うとおりに従おうという旨を述べた。自分もこの年来、国費が不足であろうとは思っていたが、これほどの窮迫ぶりだろうとは夢にも思わなかった。
しかし金銀貨の改鋳は、わたくしの賛成する事でなく、このこと以外は、よろしく相談しょうと言った。重ねて、また、近江守が言うには、はじめ金銀貨の改鋳を行なって以来、世の人の批評をまぬかれなかったが、もしこの方法によらなかったならば、十三年ばかりの間、なにをもって国の費用を補うことができたであろうか。ことに、また元禄十六年(一七〇三)の冬など、これによらなかったら、どうしてその急難をお救いになれたであろうか。だからまずこのことによって応急の処理をなし、これより後に年芸穀物も豊かにとれ国財も余裕を生じた暁に、金銀貨の製法をむかしに返されることは、きわめてやさしい事であろう、と言う。
皆の言うところもまたこれと同じで、天下の変事はいつ起こるかわからない、今のような事態であったら、もし今後思いがけぬ異変が起こった時、なにをもってその変に対処することができよう。ただ彼の意見に従うに越したことはない、というのである。自分はこれに答えるのに、近江守が言うところも、道理があるように思われるが、はじめ金銀貨の改鋳のようなことがなかったら、天地の災変も、うち続いて起こらなかったかも知れない。もし今後思いがけない異変が起こった時、その変に対処すべき方法がなかったら、わが代においては、神祖の大統が絶えらるべき時が来たのである。どうして、自分はまた天下人民の怨苦を招くような愚かなまねをしようか。ただ、どのようにも、他の方法を以て処理に当ってくれよ、と言った。
この仰せを聞いて、小笠原佐渡守長重は、しきりに涙を流して、言う言葉もなかった。しばらくして、秋元但馬守喬朝だけが、ありがたい仰せを承りましたと言って人々は御前を退出されたということである。
【大赦の事】
同月四日に、また意見書を奉呈して、大赦の件をとりあつかった。これは、詳細に御下問があったからである。同月七日からは、私の長女が疱瘡にかかったので、家に籠っていた。
同月三日、大御台所御他界の御事があったので、近習衆をしてこのことを告げ知らされ、同月二十日に、大赦の件を仰せ下された旨を、また告げ知らされた。
去年の冬から、疱瘡が江戸に流行して、将軍薨去の御事も、この病気のためというほどであるから、小児はいうまでもなく、老人も若人も、この病のために死をまぬがれた者は少なかった。それで、この年の五月高い場所にのぼって、家々の端午の節句の幟を見るに、二、三町の間に、幟を立てたところは、わずか一、二カ所しかなかった。ところが、自分の一男二女は、この病にかかり、それぞれ危険な症状があらわれ、治療のしょうもなかった。とかくするうちに、皆無事で、病が癒えた。これは天のたすけがやったようなものだと、ある医者が言った。大赦を行なわれる旨を告げて来たのは、長女がこの病気にかかりはじめた時にあたっていた。しかしながら、これは雷雨解散の応報なのであろうか。そうなら、有難い国恩によったのであろう。
この時に前代綱吉公の時の裁判の記録をとりよせられて、毎夜、夜明け方までこれを御覧になり、その罪を赦免されたもの、およそ九百五十六人。そののち間もなく大御台所の御死去によって、前のようになさり、御みずからその罪を赦免せられたもの、およそ九十二人。天下の大名以下の家々において、罪を赦されたもの、およそ三千七百三十七人に及んだ。五月一日、将軍宣下の儀が行なわれて、同二十三日にまた天下に大赦を行なわるる旨の仰せがあった。この時もまた、前のように御みずからその罪を赦免せられた者、およそ二千九百一人。天下の大名以下のおいて罪を赦されたもの凡そ、千八百三十一人である。そのうち、大名以下の家々で赦免した五千五百九十九人のことは、当徳川家が世を治められて以来、かつてこうした恩赦はなかったところである。
はじめ天下の大名以下に仰せ下されたところ、この事は前例がなかったので、仰せにしたがって行なう旨を申しあげる人もなかった。重ねてその事の仔細をくわしく書いて呈上せよと仰せられたので、この時になって、めいめい仰せにしたがって行ない、その事の仔細をも書いて呈上した。すべてこれらの事どもをくわしく書かれて、詮房朝臣を通じて自分に下賜された。このことは、かねて申しあげたことがあったからであろう。
これより後になっては、断罪のこと、奉行所においてはかり定めたところを記した裁判記録をとりよせられて、御みずからそれを御覚になり、さてその後でわたくしのもとへ下され、各人の下に、わたくしの所存を書いて差しだすように仰せられ、わたくしがはかり定めたところが、かねてのお考えと違うところがあれば、重ねてまたわたくしの所存をくわしくお聞きになって、その後にその罪刑を決定された。むかしから今まで、これほどまでに万民をあわれまれた例は、まだ聞いたことはない。また将軍宜下のことによって大赦が行なわれた時には、町々にいる博徒や鳶の者などの無頼漢のこと、女芸者、遊女などの妓女の類を禁ぜられる制条を出された。これらのこともわたくしが申しあげた案であるので、そのことを仰せ下された草案の写しを、詮房朝臣を通じてわたくしに下さった。
二月二十一日、前代綱吉公の近習の人々のことを仰せられ、三月七日に、今後は万石以上の人々は皆従五位下に叙せられるとの仰せがあった。この日、前代綱吉公の御時に、美濃守吉保、右京大夫貞らにおあずけになっていた人々を帰され、それぞれに宅地を下賜された。
【大赦】綱吉政権下に於ける「生類憐みの令」廃止とそれに伴う同令違反者の赦免(遠流・処払いの解除、闕所の返還など)のように、政権の代替わりに際して、綱吉における悪政とされるものを実質的に正した。次の大赦の事も同じ。
正徳六年の春の末から、上様(家継)はまた御病気になられ、御薬もききめがなく、四月三十日の午後四時頃に、おかくれになった。日の暮れ頃に、前代家宣公の御遺言にしたがって紀伊殿を第二城に迎え入れられ、翌五年一月に、昨夜おかくれになった旨の発表があった。
【註】家綱は正徳六年(一七一六)三月、病の床に臥し、四月三十日に死去した。
(略)十二日に、中の口にある、わたくしの部屋をお返しした。このころ詮房、忠良等の朝臣をはじめ、近習の人々がことごとくみなその職をやめさせられた。
詮房、忠良等の朝臣が今まで承っておられた職掌は、時代が隔たると、どういうことかわからなくなるだろうから、そのことをここに書いておく。神祖家康公から第二代の御時までは、奉書連判衆などというのは、その官は五位の諸大夫にとどまり、その禄も少なかった。第三代の御時、二条第に行幸があった頃から四品にし、侍従になされたことなどが起こった。その頃に、堀田加賀守正盛朝臣は、はじめの間は奉書連判衆になされたが、間連なくその職をやめさせられ、御側に近侍していて、老中の人々に仰せ下される御旨をも、また老中の人々が申しあげることなど、この人を通じてなされた。この御代に、大老、若年寄衆などの職掌も始まったのである。第四代は、御幼少で御代を継がれ、老中の人々が御政務を輔佐せられたので、その後は、正盛朝臣のような職掌の人はなかった。第五代の御時、牧野備後守成貞の朝臣は、藩邸の御時からしたがっておられたので、以前の正盛朝臣の時のように、老中にも仰せをも伝え、申し告ぎもなされたのであった。
その後に、柳沢出羽守保明(吉保)が、御家號を許され、御名字を下さって、四位の少将になされ、甲斐の国主になってからは、老中は皆その門下から出て、天下の事は大小となく、保明朝臣の思うままになり、老中はただかの(吉保)朝臣のいうことを外に伝えられるだけで、御目見え(御成)などということも、一月の内にわずか五、七回にも至らなかった。
ついで前代家宣公が御代を継がれ、老中の人々を毎日召し出し問われることなどもあったがこの人々は、もともと世の諺にいう「大名の子」であって古の道を学んだ事もなくて、今のこともよく知らず、長年仰せ事を伝えただけで、前に記したように、天下財政の有無さえ知らぬほどであり、まして機密の政務については知る筈もなかった。それで上様の明敏さに恐れて、前後の返答に窮されることは、度々なので、世の常の事もまず内々に詮房朝臣を通じて、御考えをおっしゃり人々の意見が一致するのを待たれて、そののちに御前に召して、仰せ下された。
筑後守従五位下源君美 正徳六年丙申五月下旬筆を絶つ。
↧
素堂が親しんだ 儒官たちの動向
『厳有公記』 儒学関係記載事項
一部加筆
◇ 延宝三年(1675)
*◎ 四月二十日、林春常(鳳岡)信篤、春東(晋軒 林読耕齊の子)等、法会の記作る。
◇ 延宝七年(1679)
◇ 延宝八年(1680)
*◎ 二月四日、林耕文院春勝隠居、子春常継ぐ。
*◎ 二十六日、四代将軍家綱の葬礼を行ふ。石蓋の銘は。人見友元之を書す。
** 庚申五月五日、厳有公疾劇なり、継嗣未だ定まらず館林宰相綱吉卿を召て養子とす。
*〇 五月十三日、前代近習以下の諸臣落髪す(儒髪の者は、羽織袴にて事に従ふ)。
*〇 五月二十六日、葬礼を行ふ。石蓋の銘は。人見友元之を書す。(云々)
*〇 九月十一日、儒者林春常、人見友元をめして、親(朝)から経書を討論す。此の後、
毎月両三度づつ常例とす。
*◎ 九月十七日、林春常、大学を進講する、毎月両三度常例とす。
*◎ 十月九日、林春常(鳳岡)文庫書冊の目録を撰ぶ進す。
◇天和元年(1681)
◎ 二月二十九日、林春常に命じて、四書、五経、小学、近思録の訓点を正せしむ。
◇天和二年(1682)
◎三月二十三日、林春常に命じて、其の伝を作らしめ、之を刊行せらる。是徳川氏、孝子
節婦等を要するの始なり(其の伝は春常の作る所に詳なれば、今之を略す)。
◇貞享元年(1684)
◎ 正月二十四日、服忌令(内容略)この令は、林常春が孝定する所。
◎ 三月四日、儒者林春常信篤、人見友元卿、并に右筆に、大名以下に賜る判物朱印の事を命ずる。
*◎ 八月二十八日 若年寄稲葉石見守正休、大老堀田正俊を刺す。正俊が同僚大久保忠朝、戸田忠昌、阿部正武等馳来り、正体を殺す。
人見友元宜卿は、深く正俊が人と為りを知る者なり。嘗て正俊が驕横の人に非ることを弁ず。
◇ 貞享二年(1685)
*◎ 二月四日、林春常に、道三河岸の宅を賜ふ。しばしば召されて出仕するを以て也、後荒川出羽守の宅地を賜ふ。
*◎ 四月二十六日、林常春、詩経を進講する。これより後毎月三、四次常例となる。
◎ 十二月六日、儒者林春常、今後奥医師に同じく、奥に出仕すべき旨命あり。
◇ 貞享三年(1686)
◎ 九月五日、林春常、和漢禨祥(キショウ)の故事を集録して上る、命によりて也。
◎ 十八日、先きに命ありし三河記校正なりて進覧す、名づけて『武徳大成記』と云ふ。総裁阿部正武、儒者林春常、人見友元、木下傾奄、及び林の門人に時服、又は銀を賜ふこと差あり。
◇ 貞享四年(1689)
【生類憐みの始まり】
*◎ 二月十一日、林常春信篤、法印に叙し、弘文院法印と改称すべき旨命あり。
◇ 元禄元年(1688)
*◎ 九月二十八日、林弘文院を招きて、その邸内の孔廟に参拝あるべし。時日を撰び儀注を定めて申すべき旨、命ぜられる。
* 十一月朔日 四書直解新刻成りて、之を伊勢両宮及び日光山に納む。
*◎ 二十一日、林弘文院(鵞峰)が忍岡邸中の孔庿(ビョウ)を拝す(長袴を著す)。杏檀門を入り、回廊にて下輿、殿上膝着にて拝し、酒を献じて退き、書院に於て弘文院尭典
を進講す、大猷公参拝の先例を追ふ也。
*◎ 二月三日、又孔子廟を拝す。林弘文院が宅に臨み、物を賜ひ、猿楽あり、将軍自から舞ふ。老中阿部正武、側用人牧野成貞も同じく舞ふ。此の頃しばしば猿楽を催す毎に、将軍及び老中役人皆自から舞ふ。
◎ 七月十八日、大河内春良資召出され、儒者となる。奥医に准ず。弘文院(林鵞峰)門人なり。
* 十二月二十一日、北村季吟、その子湖春とも召され、医師に準ず(季吟に二百俵、湖春に二十人扶持)。季吟、湖春とも柳沢吉保の家臣。
◇ 元禄三年(1690)
*◎ 七月九日、林弘文院の私邸に設けたる、孔子廟を神田の台に引うつし、構造あるべき旨命ぜらる。
*◎ 二十一日、将軍親大学を講じ、諸老臣をして聴しむ。これより毎月一度、三吉を講説する。是将軍親講の始也。
*◎ 十二月十九日、林弘文院論語を講じる。
*◎ 十二月二十一日、大成殿の三字を書して、林弘文院に賜ふ。卿の願いを聞れし也。
*◎ 林弘文院を両典薬の上座とする。
◇元禄四年(1691)
*◎ 正月十三日、林弘文院信篤に束髪せしめ、大学頭と称し、五位に叙す。是迄儒者の職に在者は、僧侶の如く剃髪して僧官に叙し、医師に准ずる有様なりしを、今度改めて他の士林に同じく、僧侶の体を学ぶことなからしむ。是よりさき水戸にては、既に剃髪のことなからしめたるが、府の儒者は改正に至らざりしを、此の度始て俗体に命ぜられたり。
*◎ 二月二日 相生橋を改めて、昌平橋と名づく、昌平卿の名にとれる也。
*◎ 孔子像を昌平坂の大成殿にうつす。老中大久保忠朝、若年寄秋元喬知参向し、先手頭は仰高門と後門とを守、徒頭は殿下を守る。松平輝貞、忍岡より聖像を迎へ目付先駆し、輝貞後乗して、小十人徒士六隊供奉し、昌平坂に至る。林信篤(大紋着)出迎へて仰高に至り、遷坐の事を告ぐ。
*◎ 十一日、大成殿の孔子像を拝す(長袴を着)、人徳門内にて下輿、膝突にて拝し、上香して退く。大学頭信篤幣帛を奉り、告文を読む、了て釈菜の礼を行ふを観る。四配 (木像)、十哲(神主)、七十二賢(画像、狩野益信が画なり)を配享す。三献祝文告文あり、伶人楽を奏し、問答五条あり。
*◎ 此の日、林信篤は衣冠、門人事に従ふ者は、皆六位の衣冠を服す。信篤が門人礼を行ふ者三十人、皆拝謁す(大河内新介、和田伝蔵、林春益、坂井伯立、伊庭春貞、源尾春奄、以下倍臣、松平陸奥守が家人佐藤文右衛門、松平薩摩守の菊地藤介、松平安芸守の津村総右衛門、味木立堅、松平讃岐守の菊池新三郎、松平隠岐守の福富十蔵、松平越中守の山田庄右衛門、酒井河内守の斎藤才次郎、和田伝次郎、酒井靭負佐の松浦庄右衛門、佐治左太郎、榊原式部大輔の中村新兵衛、南部信濃守の板木半蔵、丹羽若狭守の小宮山安兵衛、安見道乙、水野隼人正の村井与惣右衛門、大久保加賀守の樋口弥門、阿部豊後守の片岡勘介、土星相模守の片山助之丞、牧野備後守の小出善介、柳沢出羽守の安見文平、土田孫三郎、寺内段之介、牧野駿河守の木野文内、岸田忠介、葛山十蔵なり)、銀五十枚を賜ふ。云々
◇ 元禄七年(1694)
*◎ 八月二十二日、孔子廟に謁す、例の如し。
*◎ 十一月九日、中村新兵衛房喬、松浦藤五郎成之、召されて儒者となる、共に林信篤の門人なり。
*〇 十二月十八日、保明が邸に臨む。講釈、質問、討論の事あり。
*〇 十一月九日、桂昌院尼大奥に至る、柳沢保明が家臣細井次郎太夫、忠村三左衛門、村田平蔵、山本久左衛門、荻生惣右衛門(徂徠)等をめして、桂員院尼の前に於て、経義討論せしむ。
◇ 元禄十年(1697)
*〇 二月二日、保明の邸に臨む、賀泳を賜ふ
(幾久し、千代を重ねて、もろともに、尽せね年をいはふよろこび)。
講経の後に、家臣二十七人をして、宋史道学伝を講論せしめらる。荻生惣右衛門に、葵の紋の時服を腸ふ。
*◎ 四月十六日、儒者人見元沂、坂井伯隆、束髪せしむ。元沂は又兵衛、伯隆は三左衛門と改む。
◇元禄十三年(1700)
*◎ 十一月二十一日、易の講筵定竟宴あり、元禄六年四月二十一日、親から易を講じてより、是に至りて八年二百四十座にして終る。依て林大学頭信篤に、二百石を加ふ。七三郎信充に、時服を賜ひ、其の門人大河内新助良資、和田伝蔵長重、安見文平元道、近藤半助玄寿、桂山十五郎義樹等、皆加恩あり。人見又兵衛行光、深尾権左衛門永常、坂井三左衛門正直に、銀を賜ふ。三家以下諸大名、近習諸役人皆物を献ず。
- 元禄十四年(1701)*〇 三月二十一日、林大学頭信篤、雁間の講書を毎月十日と定む。
- 元禄十六年(1703)
*◎ 六月七日、有馬大吉寿家人、徳力十之丞良顕、松平隠岐守定直家人、秋山半歳某、松平大膳大夫吉広家人、津田宇内長文、林信篤門人たるを以て召出され、十五人扶持を賜ふ。
- 宝永元年(1704)
*◎ 二月二十六日、林七三郎信光、同百助信智、御文庫書目編成成りて献ず。
*◎ 十一月四日、林信篤が二子、七三郎、百助ともに布衣に進む。
*◎ 二十五日、護持院に臨む。此の日、孔子廟成りて遷座あり、林信篤の弟子等之に供奉す。
◇ 宝永二年(1705)
*◎ 閏四月二十三日、林信篤初て西丸に侍講す、是より毎月一回定例とす。
- 宝永四年(1707)
*◎ 二月朔日、林大学頭信篤が二子、信充、信智召され、各三百俵を賜ふ。
文昭公記(六代家宣)
◇ 宝永六年(1709)
*◎ 四月十六日、林大学頭信篤、論語を侍話す。(以下略)
◇ 宝永七年(1710)
*◎ 正月十五日、武家諸法度の令(新井君美草稿)四月十五日発令。
武家法度を頒つ。座所にて三家拝謁、黒書院にて溜詰並に所司代、松平紀伊守信庸拝し、大広間にて万石以上拝し、法度を示す由面命ありて、奥に入る。林七三郎信充、之を読む。
此の令は、新井勘解由の草せし所なり。又別に、新令句解をつくりて並び行ふ。因て君美に金三枚、時服を賜ふ。
*〇 正月十五日此の日、金銀改鋳のこと命あり。老中秋元喬知、大目付横田備中守由
松等、其の掛りとなる。十六日、万石以上の輩に法令を頒つ。林百助之を読む。
(以下略)
↧
素堂が活きた江戸時代 甲斐幕臣がいっぱい 柳沢 米倉 秋元 土屋等
柳沢吉保は、甲斐の武田の支流にて、柳沢兵部丞信俊が孫なり。信俊が二男を、刑部左衛門安忠と云ふ。元和元年より駿河大納言殿につかへ、寛永十六年にめし返されて、上総国市葉村にて采地を賜ひ広敷番となり、又館林殿につけられて、延宝三年に致任し、貞享四年に死す。吉保初名は弥太郎房忠といふ、後保明に改む。
*寛文四年に初めて常憲公に見え奉り、交の後を継て百五十石を領し、三百七十俵を加ふ。*同八年に本丸の小納戸となり、
*貞享二年の冬叔爵して出羽守に任ず。是より先に、頻りに加恩ありて、
*元禄元年十一月地加へられ、始て万石の列となる(和泉上総にて万石加へられ、合せて一万二千三十石)。この比、公(綱吉)盛んに文学を好みて、吉保を以て弟子とし、学問怠らざるを賞して、骨子の像を画きて之を賜ふ。
*天和二年の正月元旦、読書姶の式を行はれしに、吉保をして、大学三綱領の章を講ぜしめ、永例として年々之を仕ること怠らず。此の時松平忠周、喜多見重政の列に同じく、内外の事承るべしと命ぜらる、「御用御取次」と云。
*三年三月二十六日、二万石を増し、十二月廿五日、年比の勤労を賞して、四品にのぼり、二本道具(鎗)もたすべき旨を命じ、四年三月はじめて其の邸に臨む。これよりさき、邸内新たに殿舎を経営す、結構宏麗、臨駕の日、母妻子及び一族等に至るまで、皆拝謁して物賜ふこと、あげて数へがたし。吉保も亦数々の宝貨をささげ、山河の珍味をつくして之を饗す。これより後、しばしば臨邸ありて、凡そ五十余度に及ぶ。先親から経を講じ又は武芸を試み、家臣等をして経を講じ、義を論ぜしめ、又猿楽を催し、宴楽を開くこと、いつもかはらず。
*五年十一月、三万石まして六万二千余石になり、七年正月には、又一万石を加へて、川越の城主になさる。十一月二十五日、老中に同じく評定所に着座し、侍従に昇る。
*十年七月、東叡山に根本中堂営まれしに、惣奉行となり、二万石をくはへ、十二午七月、其の落成の功によりて、左近衛少将に昇り、中堂長時不断の燈をかかぐ。これ延暦中比叡山の常燈を、忠仁公勅使として掲げられし例に倣はれし所也。九月八日、紅葉山拝礼の先立を勤む。これより三山の拝礼に、父子代る代る先立を勤む。
*十四年十一月二十六日、臨邸の時、父安忠より以来、忠貞をつくすこと、凡そ臣たる者の模範たるべしとの旨を以て、松平の称号をゆるされ、講の字賜はりて、松平美濃守吉保と改む。子三人も同じく称号をゆるし、長子安輝は諱の字賜はりて、吉里と改む。十二月二日、吉保を少将の輩に列し、官位年順たるべしと命ぜられ、
*十五年三月九日、桂昌院尼を一位にすすめられしこと、蕾保が申し行ふ所なればとて、又二万石をまし、合せて十一万二千三十石になる。
*十六年正月三日謡初の式に、曹保父子に大広間にて盃賜はるべしとありしが、吉保切に辞して、子吉里にのみ賜はれり。十二月二十一日、将軍の儲嗣に定まりしこと、偏に吉保が執り行ふ所にして、何事も整備一事の欠漏なきを賞し、殊に甲斐の国府の城を賜ふ。其の税額は二十万石に余りぬれど、猶十五万千二百八十八石余と称す。これより後は、甲斐国主と称すべしと命ぜられ、
*宝永三年七月二十九日、甲府に於て私に金貨を造ることをゆるされ、九月四日に打物もたすることをゆるし、此の日隠居して保山入道と号し、此の後も時々の恩遇、在職の時に異ならず。歳毎の正月七日には、羽織著して登営し、大奥までもまかりて、御台所を拝すること年々かはらず。
*正徳四年十一月二日卒、年五十七。
此の人の一代、殊に恩寵を蒙りて、身の栄耀を極めしことは、徳川氏勲旧、前後諸臣のなき所にして、威福を弄し奪俗に耽りしこと、亦世の頬ひなき所なり。但し性質佞才ありて、能く迎令に巧みに、陽に忠実を以て君の信を得、希代の寵遇を蒙りしは、偏に便嬖の致す所なり。されど性亦謹慎にして、敢て虐悪を肆ままにするの心あるに非ず、是其の始終君寵を失はざりし所以なるべし。
(保山行実に、日々御登城被遊候へ共、暁六半時比、御城詰御小姓衆迄、御手紙にて毎夜の御機嫌御伺被遊候、又常に常意公の為に、男子誕生あらんことを祈られし由見へ、又蔵
人は、権現様の御名故、後々迄も、遠慮可仕旨被遊御意候とあり、是等の事、以て其の小心なることを推知すべし、又鳩巣の手簡に、瑞春院御前へ、保山事被罷在、御仕直之改り候事共、色々被中上候て、近年御徒之内何某、深川にて魚を釣、生類御憐みの御法を侵候に付、流刑に仰付置候、然る所、其の者を被召返、御赦免被成候迄にても無之、此の間、野へ御供も無構相勤候様被仰出候、是は余りなる事に御座候旨、被申上候所、瑞春院様屹度御詞を被改、扨は常憲院様近年の御政道、御尤なる事と被存候や、すきと箇様の事共、其の方など被致候事に侯、此の度段々御改め被成候を、却て左様に被存供儀は、相聞不申儀と被仰候所、保山一言も不申、退出に候、云々とあるが如きも亦保山が心のほどを推測
るべきものなり)。
其の身文学望心し、又倭歌を好み、己が詠草に、かしこくも東山院の勅点を乞ひ奉り、労ら禅学を嗜みて、みづから著す所の書を、「護法常応録抄」と題して、院の御製序を賜はり、名山におさめ、又其の比堂上の中に識者と聞えし、正親町二位公通公の妹を迎へて妾となし、「松蔭日記」とて、わが身の栄華を筆記せしめ、駒込の別邸(六義園)に十二景を設け、これをも院より名を賜ほらんことを請ひ奉り、公卿の昧歌を集めて清翫となす。其の邸中の異樹珍石は、皆諸大名の贈る所にして、仮山泉水、悉く風致を極め、奢麗を尽したりと云。世には此の人の栄華を憎む心の甚しきより、くさぐさの訛謗を伝へて、淫褻僭乱のことありなど伝れども、其は皆信ずるに足らざる也。
*〇 七月二日、秋元但馬守喬知、大内造営奉行として上洛する。
*〇 七月六日、六日、寄合新井勘解由君美に、采邑五百石を賜ふ。君美此の時侍講の事に従ひしのみならず、凡そ天下の大事に参預して、建白対問する所多かりしかば、かく褒せられし也。其の職なく、只寄合の名を以て奥にもまかり、顧問に備はる、人以て特恩とす。
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**山口素堂 古式之百韻**貞享二年(1685)
**古式之百韻**貞享二年(1685)
『日本俳書大系』芭蕉一代集 上巻 一部加筆
古式之百韻とは清水連歌の事で、表十句、名残の表六句で百韻の表及び名残の裏とも各八句なると相違して居る。尾花澤の鈴木清風が江戸に於いて貞享二年六月芭蕉からその制式伝授を受け後、門人芝嵐に授興し、芝嵐の孫其日庵尺艾が享和三年正月『芭蕉翁古式之俳譜』といふ書名で、京都橘治から出版したのである。
貞享二年六月二日 東武於二小石川-興行
賦花何俳諧之連歌
涼しさの凝(コリ)くだくるか水草 清風
青鷺草を見越す朝月 芭蕉
松風の博多箱崎露けくて 嵐雪
酒店の秋を障子あかるき 其角
社日来にけり尋常の煤はくや 才丸
舞ふ蝶仰ぐ我にしたしく コ斎
みちの記も今は其儘に霞こめ 素堂 *
氈(セン)を花なれいやよひの雛 清風
老てだに侍従は老をへりくだり 芭蕉
氷きよしと打守りけり 嵐雪
戸隠の山下小家のしづかにて 其角
阿闍梨もてなす父の三年 才丸
笑顔よくむまれ自慢の一器量 コ斎
船に夜々いのち商ふ 素堂 *
雨そぼつ蚊やり火いたく煙てし 清風
草庵あれも夏を十疂 芭蕉
既にたつ碁に稀人をあざむきて 嵐雪
鴻鴈高く白眼ども落ず 其角
晩稲(オクテ)刈干みちのくの月よ日よ 才丸
静璃瑠聞んやど借らん秋 コ斎
椎の實の價算(カゾヘ)る半蔀(ハジトミ)に 素堂 *
うしろ見せたる実婦妬しき 清風
花ちらす五日の風はたがいのり 芭蕉
北京透き丸山の春 嵐雪
三尺の鯉に小鮎に料理の間 其角
はや兼好をにくむ此とし 才丸
幾囘(イクタビ)の戦ひ夢と覚やらす コ斎
逝水やみを捨てぬものかは 素堂 *
白鳥のはふり湯立の十五日 清風
夫醉醒の愚に嚏(テイ)して 芭蕉
梮(カンジキ)のすすみかねたる黄昏に 嵐雪
おし恩愛の澤を二羽たつ 其角
桟造わ曲輪のつみを指おらん 才丸
きぬぎぬの衣薄きにぞ泣く コ斎
いかなればつくしの人のさはがしや 素堂 *
古梵のせがき花皿を花 清風
ひぐらしの聲絶るかたに月見窓 芭蕉
引板(ヒダ)を発とすおのこ噓(ウソブ)く嵐雪
武士のものすさまじき艤(ハナヨソオイ)ひ 其角
七里法華の七里秋風 コ齊
丑三の雷南の雲と化し 才丸
槐の小鳥高くねぐらす 芭蕉
陰陽紳の官主其儘の仮屋建 素堂 *
狂女さまよふ跡したふなる 清風
情しる身は黄金の朽てより 芭蕉
輕く味ふ出羽の鰰(ハタハタ) 才丸
寒月のこともづなあからさまなりし 嵐雪
枯てあらしのつのる荻萩 其角
独楽の茶に起伏を舎(ヤド)るのみ 才丸
三里も居(スエ)ず不二いまだ見す コ斎
鹿を迫ふ弓咲花に分入て 素堂 *
春を愁る小の晦日 清風
陽炎に坐す橡低く狭かりき 芭蕉
砥水きよむる五郎入道 嵐雪
倅もたば上戸も譲るかくごなり 其角
雲ちりぢりに風薫る藪 才丸
伊預すだれ湯桁の数はいざしらず コ斎
入院見舞の長に酌とる 素堂 *
一陽を襲正月はやり来て 清風
汝さくらよかへり咲ずや 芭蕉
染殿のあるじ旭を拝む哉 嵐雪
しのぶのみだれ瘧(オゴリ)ももたび 其角
うき世とはうきかは竹をはづかしめ 才丸
名をあふ坂をこしてあらはす コ斎
彼の月家に入右尉出る兒 素堂 *
わけてさびしき五器の焼米 清風
みの虫の狂詩つくれと噂ならん 芭蕉
息に死たる塚に彳(タタズ)ム 嵐雪
初雪の石凸凹に凸凹に 其角
小女郎小まんが大根引ころ 才丸
血をそそぐ起請もふけは飜(ヒルガエ)り コ斎
見よもの好の門は西むき 素堂 *
神明しの夜をささがにの影消えて 芭蕉
汗深かりし憤る夢 芭蕉
はらからの旅等閑に言葉なく 嵐雪
ふるごとさとる小夜の中山 其角
枝花をそむくる月の有明て 才丸
ふらこゝつらん何某が軒 コ斎
谺(コダマ)して修理する船の春となり 素堂 *
立初る虹の岩をいろどる 清風
きれ凧に乳人(メノト)が魂は空に飛 芭蕉
麻布の寝覚ほととぎす啼け 嵐雪
わくら葉やいなりの鳥居顕れて 其角
文治二年のちから石もつ 才丸
乱れ髪俣くゞりしと偽らん コ斎
礫に通ふこころくるはし 素堂 *
三日月の影西須磨に落て鳧(ケリ) 清風
秋はものかはあけ拾の棟 芭蕉
燈しんを負(オヘ)ばかならすはつ嵐 嵐雪
只一眼もみちはひとすじ 其角
特(コッテイ)のくろきもさすがゆふ間ぐれ 才丸
定家かづらの凄む冬ざれ コ斎
低く咲花を八手と見るばかり 素堂
桶の輸入れの住居いやしく 清風
ひだるさを鎌にかへたるこころ太 芭蕉
瀧をおしまぬ不動尊き 嵐雪
聲なくてさびしかりけるむら雀 其角
出る日はれて四方しづかなり 才丸
花降らば我を匠と人やいはん コ斎
さくらさくらの奥深き国 執筆
↧
稲津祇空と素堂
稲津祇空と素堂
*享保20年(1735)とくとくの句合 祇空
祇空により編集。附録に馬光との歌仙。素堂と知幾の俳漢五十韻二巻。
素堂の句を立句とした歌仙二巻掲載。
*元文元年(1736)二夜歌仙 祇空・祇雲
素堂句掲載。
*寛保4年(1744)句餞別 稲津祇空
素堂発句、詩文入集。
*享保20年以降 『くち葉』稲津祇空遺句集
享保 十八年に没した祇空の稲津祇空遺句集
**素堂関連の記述あり。
『くち葉』刊年未詳であるが、没後間もなく(三周忌以後)の刊行と推定される。
著者紙空は稲津氏。青流(洞)・敬雨・石霜庵・竹尊者・玉笥山人・有無庵などと号する。
大阪の伊丹屋と号する薬種商の家に生れ、弟に芳室、芳洲がいた。若年の頃青流と号して惟中の指導の下に談林の俳諧を学び、元禄七年には最晩年の芭蕉とも一座したことがあるが、芭蕉なき後は江戸に下って其角に従った。その隠逸的性格から深く宗祇を慕い、正徳元年箱根早雲寺の宗祇墓前で剃髪し、号を祇空と改め、以後京都紫野の大徳寺内にとどまったこともあるが、多くを旅に過し、享條十八年四月二十三日箱根の石霜庵に没した(享年七十一)法師風と呼ばれるその作風は、沾徳・沾洲の酒落・比喩の俳諧に倦んだ俳壇に新しい息吹を送り込み、『五色墨』(享保十六年刊)・『四時観』(同十八年刊)などの反点取主義運動を招来した。というものの、祇空の作品自体が高い芸境にあったというより、むしろ世俗を超越した人格が慕われたのであり、三周忌の享保二十年には探川八幡宮の境内に祇敬霊神として祀られた。跋を草した芳室は祇空の実弟。稲津氏、後に師である旧徳(才麿)から譲られて椎本氏を称する。名は清佐。祇空の百力日には『石霜庵追善集』を編んでいる。
*磐城平に着く、露沾公にて御会
平けく山や鷂(ハシタカ)の其きほひ
*悼、素堂
蓑虫々々錠に鈷浮き水の月
*素堂翁の幽居を訪いて
茶杓打音に覚へす菊寒し
*甲斐塩の山に一句を乞
近江には兄あり三かみはつみ雪
↧
甲斐武田の総合資料
↧
素堂と芭蕉『和漢俳諧』八月満尾。
素堂と芭蕉『和漢俳諧』八月満尾。支孝編『三日月日記』
(享保十五年刊所集)
納涼の折々いひ捨てたる和漢、月の前にしてみたしむ。
破風口に日かげや弱る夕すゞみ 芭蕉
煎茶蝿避烟 素堂
合歓醒馬上 素堂
かさなる小田の水落すなり 芭蕉
月代見金気 素堂
露繁添玉涎 素堂
張旭がもの書きなぐる醉の中 芭蕉
幢を左右に分るむら竹 芭蕉
挈箒驅偸鼠 素堂
ふるきみやこに残る御魂屋 芭蕉
からぬ首かき立る柘の撥 芭蕉
乳をのむ膝に何を夢みる 芭蕉
舟鈞風早浦 素堂 鈞(ゆるく)
鐘絶日高川 素堂
貌ばかり早苗の泥によごされて 芭蕉
食は煤けぬ蚊やり火の影 芭蕉
託教三社本 素堂
韻使五車塡 素堂 塤(いしずえとす)
花月丈山閙 素堂 閙(さわがし)
篠を杖つく老のうぐひす 芭蕉
剪吟鮎一寸 素堂
箕面の瀧の玉を簸らん 芭蕉
朝日かげかしらの鉦をかがやかし 芭蕉
風飧唯早乾 素堂
よられつる黍の葉あつく秋立て 素堂
内は燈ともす庭の夕月 芭蕉
霧籬韻孰與 素堂
■浦目潜焉(ナミダグム) 芭蕉
■(しぐれ)(上―雨・下―眔)
蒲団着て其夜に似たる鶏の聲 素堂
わすれぬ旅の珠数と脇ざし 芭蕉
山伏山平地 素堂
門番門小天 素堂
鷦鷯窺水鉢 芭蕉
霜の曇りて明る雲やけ 素堂
興深き初瀬の舞臺に花を見て 芭蕉
臨谷伴蛙仙 素堂
元禄八月八日終
《註》
『春秋』に「元禄五年八月八日歌仙満尾ス。云々とある。支考の「和漢文操」巻の三、大和聨句ノ序に、
其後元禄之始也焉。在武江之芭蕉庵、
而素堂與故翁夜話之次、往古評漢和之為不自由、
當時論聨句之為不吟味、而其夜試有一聨之隔對。
「唐土有芳野櫻妬海棠」。山素堂
「揚州無伏見桃被悪山薑」白龍子(芭蕉)
(『芭蕉の全貌』萩原蘿月氏著より)
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忘年書懐 素堂亭
忘年書懐 素堂亭
節季候
節季候を雀のわらふ出立かな 芭蕉
餅春
餅つきやあがりかねたる鶏の泊屋 嵐蘭
衣配
文箱の先模様見る衣くばり 曾良
佛名
佛名や饅頭は香の薄けぶり 酒堂
歳暮
腹中んも反古見はけん年のくれ 素堂
余興
としわすれ盃に桃の花書ン 酒堂
膝にのせたる琵琶のこがらし 素堂
宵の月よく寝る客に宿かして 芭蕉
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山口素堂&松尾芭蕉 和漢連句
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山口素堂 芭蕉庵十三夜 素堂亭十日菊
**素堂亭十日菊**
貞享五戊辰菊月仲旬
蓮池の主翁(素堂)又菊を愛す。
きのふは廬山の宴をひらき、
けふはその酒のあまりをすゝめて、
獨吟(狂吟)のたはふれとなす。
なを思ふ、明年誰か、すこやかならん事を
いざよひのいづれも今朝の残る菊 はせを
残菊はまことの菊の終りかな 路通
咲事もさのみいそがじ宿の菊 越人
昨日より朝霧ふかし菊畠 友五
かくれ家やよめなの中に残る菊 嵐雪
此客を十日の菊の亭主あり 其角
さか折のにひはりの菊とうたはゞや 素堂
よには九の夜日は十日と、
いへる事をふるき連歌師のつたへしを、
此のあした紙魚(シミ )を拂ひて申し侍る。
又中頃
恋になぐさむ老のはかなさ、
むかしせし思ひを小夜の枕にて、
我此心をつねにあはれぶ、
今猶おもひづるまゝに
はなれじと昨日の菊を枕かな 素堂
**芭蕉庵十三夜**
ばせをの庵に月をもとあそびて、只つきをいふ。
越の人あり、つくしの僧あり、まことに浮艸のこへるがごとし。
あるじも浮雲流水の身として、石山のほたたるにさまよひ、
さらしなの月にうそぶきて庵にかへる。いまだいくかもあらず。
菊に月にもよほされて、吟身いそがしひ哉。花月も此為に暇あらじ。
おもふに今宵を賞する事、みつればあふるゝの悔あればなり。
中華の詩人わすれたるににたり。ましてくだらしらぎにしらず、
我が国の風月にとめるなるべし。
もろこしの富士にあらばけふの月見せよ 素堂
かけふた夜たらぬ程照月見哉 杉風
後の月たとへば宇治の巻ならん 越人
あかつきの闇もゆかりや十三夜 友五
行先へ文やるはての月見哉 岱山
後の月名にも我名は似ざりけり 路通
我身には木魚に似たる月見哉 僧 宗波
十三夜まだ宵ながら最中哉 石菊
木曾の痩もまだなをらぬに後の月 はせを
仲秋の月はさらしなの里、姨捨山になぐさめかねて、
猶あはれさのみにもはなれずながら、長月十三夜になりぬ。
今宵は宇多のみかどのはじめてみことのりをもて、
世に名月とみはやし、後の月あるは二夜の月などいふめる。
是才士文人の風雅をくはうるなるや。
閑人のもてあそぶべきものといひ、
且は山野の旅寐もわすれがたうて人々をまねき、
瓢を敲き峯のさゝぐりを白鴉と誇る。
隣家の素翁、丈山老人の、一輪いなだ二部粥といふ唐歌は、
此夜折にふれたりとたづさへ来れるを壁の上にかけて、
草の庵のもてなしとす。
狂客なにがししらゝ吹上とかたり出けれは、
月もひときははへあるやうにて、中々ゆかしきあそびなりけり。
貞享五戊辰菊月中旬 蚊足著
物しりに心とひたし後の月 蚊足
本名、和田源助。若いときより芭蕉の周辺に居る。素堂の口入れで若年寄り、秋元田島守に仕官する。二百石。絵も達者で芭蕉没後、肖像を描きまるで芭蕉が生きているようだと評判をとる。又蚊足の描いた芭蕉石刷像に素堂の讃がある一幅がある。
「素堂亭十日菊」(『芭蕉と蕉門俳人』大磯義雄氏著より)(p58~60)
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