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目を覆う 夕日に映える 駒ヶ岳
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☆山口素堂と京都《大江山》
☆山口素堂と京都《大江山》
○オホエヤマ 西京区大技町背後の山、旧宮道丹波道の老坂峠がある。源頼光が勅命で山賊を退治した所。酒顚童子の伝説で名高い丹波の大江山は京と加佐両部の境に在り、歌枕の与謝の大山。頼光の鬼退治伝説は誤伝されて、これに因んだ遺跡が散在している。この難路の山道を越えて丹後宮津に至るために、酒顚童子の伝説が生じた様で、大江山に棲む酒顚童子(酒呑・酒天・酒典)は、都に出ては婦女子を略奪する鬼形の盗賊とされ、源頼光等に退治されたとされる伝説上の事、で謡曲「大江山」御伽草子「酒顚童子」浄瑠璃「酒呑童子」など、文芸上の素材にされている。
《素堂》
丹陽のはしだてにまかりける頃、大江山をこゆるとて
ふみもみぢ鬼すむあとや栗のいが
この句を詠じたのは老の坂か大江山の道なのか俄に決め難いが、後書きに和泉式部の娘の小式部の内侍の和歌を引いているから、丹波の大江山としておく。
大江山いく野の道は遠ければまだひみもみず天の橋立
素堂は「ふみもまだみず」としている。
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山口素堂と滋賀《石山寺》
素堂と滋賀《石山寺》
○滋賀県大津市石山、真言宗東寺派で聖武天皇の勅願で良弁僧都の開基。瀬
田川の右岸に在り、眺望もよく月の名所で近江八景の一つ、背後の山の千頭岳は紅葉の名所。陰暦十月甲子の日に参詣することを石山詣と云う。
石山寺へもミぢ見にまかりし頃
雲半岩をのこしてもみぢけり (元禄十一年の作)
石山寺のふもとに蛍見にまかれるころ
水てりてうなぎの穴も蛍哉
粟津野やこのまの星を打蛍
ふくる夜は簾も蚊やも蛍哉
あくるあしたあるじの手より蛍をうすぎぬに包て送りけるに
後朝にきぬ引かつぐ蛍かな 素堂 〔真蹟懐紙〕
石山寺の開帳の頃詣侍りて (年代不詳)
夕だつや石山寺の銭のおと
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素堂と京都《丹波》
素堂と京都《丹波》
○京都府南部から兵庫県北東部に広がる旧国名、京都からは丹波口が道の出発
点て往時は島原遊廓の入口が道に面していた。この道を西に向かうと京都と丹波の境の老の坂峠である。所謂「丹波越え」と云う語が残っているが、此処では省く。
丹波にて (既望十六夜集・宝永六年刊行)
我むかし一重の壁をきりぎりす
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☆素堂と京都《宮津》
☆素堂と京都《宮津》
〇 京都府宮津市、元丹後の国与謝郡。宮津湾頭の城下町。天の橋立が在る。素堂が云う宮津の主人は特定できない。
宮津のやどりにて
浦島が鰹は鰤いまだ
宮津主人水上氏へ
記得杜翁句 天柱再渡時 四海洋海水 孤月掛松枝
清話眼相対 吟行影亦随 人間汗水会 旅泊是生涯
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☆素堂と吉野山・西行庵・吉野川
☆素堂と吉野山・西行庵・吉野川
○吉野山 奈良県吉野郡吉野町を中心にした一帯を称し、吉野川に臨み山谷の美で知られ、桜の名所で歌枕にもなっている。また修験道の道場でもあり、吉野朝四代(南北朝期)の遺跡も在る。
大和めぐらせし頃よしの山に人 〔元禄三年〕
をちにミしきのふの雲をけふわけて花になれゆくみよしのゝやま
大和めぐりせし頃よしの山にて
是つらよよし野の花に三日寝て
○西行庵 吉野山の金峰神社の奥の、奥の一と目千本付近。神社より凡そ五百米所に苔清水と庵跡が在る。西行法師は号を円位、俗名を佐藤義清と呼ぶ鳥羽天皇の北面の武士であったが二十三才で出家し、諸国を遍歴して名歌を残した自然歌人で、吉野には建久年間の三年籍もった。付近は桜の名所である。
西行法師の旧庵の跡をたづねて
はなごろもけふきてぞしるよしの山やがて出じのこころふかさを
おなじとくとくの文をむすびて
山かげにひとくくとなくとりも岩もる水のおとにならひて
西行法師
とくとくのおつる岩間の苔清水汲ほすほどもなきすまひかな
○吉野川 吉野の中の千本と下の千本の中程に、殆どが集中しており、後醍醐
天皇が足元元年に足利氏の圧迫により、京都を逃れて吉野山に入って仮の皇居にしたのが吉水院(現吉水神社)後実城寺(元金輪王寺)に移った。天皇の御陵は中の千本の塔ノ尾如意輪寺の後ろ山に在る。
尋問南朝跡 行々遠市塵 前山紅世界 後嶺白雲浮
昔聴降天女 今猶有地仙 臥花南三日 可惜別苔延
どうやらこれにより『是つらよ吉野の花に三日寝て』となったらしい。
同夜興唱句
白雲花燭暈 日月笠を暈といへば(そはしトモ)たはむれにいふ
○吉野川 大台ヶ原山を水源として流下し、和歌山県に入って紀の川となる。
よしの川にて
結に鮎花の雫を乳房にて
此ではさかなにつよくなべしや
『とくとくの句合』では『鮎小鮎花の雫を乳房かよ』としている。
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☆素堂と吉野山・西行庵・吉野川
☆素堂と吉野山・西行庵・吉野川
○吉野山 奈良県吉野郡吉野町を中心にした一帯を称し、吉野川に臨み山谷の美で知られ、桜の名所で歌枕にもなっている。また修験道の道場でもあり、吉野朝四代(南北朝期)の遺跡も在る。
大和めぐらせし頃よしの山に人 〔元禄三年〕
をちにミしきのふの雲をけふわけて花になれゆくみよしのゝやま
大和めぐりせし頃よしの山にて
是つらよよし野の花に三日寝て
○西行庵 吉野山の金峰神社の奥の、奥の一と目千本付近。神社より凡そ五百米所に苔清水と庵跡が在る。西行法師は号を円位、俗名を佐藤義清と呼ぶ鳥羽天皇の北面の武士であったが二十三才で出家し、諸国を遍歴して名歌を残した自然歌人で、吉野には建久年間の三年籍もった。付近は桜の名所である。
西行法師の旧庵の跡をたづねて
はなごろもけふきてぞしるよしの山やがて出じのこころふかさを
おなじとくとくの文をむすびて
山かげにひとくくとなくとりも岩もる水のおとにならひて
西行法師
とくとくのおつる岩間の苔清水汲ほすほどもなきすまひかな
○吉野川 吉野の中の千本と下の千本の中程に、殆どが集中しており、後醍醐天皇が足元元年に足利氏の圧迫により、京都を逃れて吉野山に入って仮の皇居にしたのが吉水院(現吉水神社)後実城寺(元金輪王寺)に移った。天皇の御陵は中の千本の塔ノ尾如意輪寺の後ろ山に在る。
尋問南朝跡 行々遠市塵 前山紅世界 後嶺白雲浮
昔聴降天女 今猶有地仙 臥花南三日 可惜別苔延
どうやらこれにより『是つらよ吉野の花に三日寝て』となったらしい。
同夜興唱句
白雲花燭暈
日月笠を暈といへば(そはしトモ)たはむれにいふ
○吉野川 大台ヶ原山を水源として流下し、和歌山県に入って紀の川となる。
よしの川にて
結に鮎花の雫を乳房にて
此ではさかなにつよくなべしや
『とくとくの句合』では『鮎小鮎花の雫を乳房かよ』としている。
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☆素堂と姫路《井出の里》
☆素堂と姫路《井出の里》
○ 京都府綴喜郡の地名。山吹の名所で歌枕でもある。
《素堂》
暮春、井出の里にて
春もはや山吹白く、苣苦がし
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☆素堂と高野山
☆素堂と高野山
○ 和歌山県伊都郡高野町。弘法大師空海が開いた真言宗総本山金剛峰寺が ある。老杉古檜に包まれ、標高千米の信仰の対象地。
《素堂》
高野山にて
しんしんたる山はいろはのはじめ哉
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☆素堂と玉津島
☆素堂と玉津島
○ 和歌山市南方の海岸一帯の名勝地「和歌の浦」に在る玉津島神社、背後 の妹背山と東に名草山が在り、祭神は稚日女命・神功皇后・衣通姫、衣通姫は和歌の神として尊崇されている。
《素堂》
玉津島 〔紀南玉津島にて〕
霧雨に衣通姫の素顔見む
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☆素堂と兵庫・播磨
☆素堂と兵庫・播磨
〇 神戸市兵庫区辺り、平の清盛が治承四年京都より都を移したが、半年で元の京都に戻った。
《素堂》
福原にて
菜畠の爰が左近のさくらかよ
○ 播磨 兵庫県西部の旧国名
《素堂》
播磨めぐわせし頃唱句
牛行花緩々
尚 牡丹花をになひて
遅き日やしかまのかち路牛で行
○飾磨 (しかま)姫路市飾磨区古来瀬戸内の要港、藍布の産地であった。
○書写寺 姫路市の北方に市の西側を流れる夢前川を挟んで在る山で、中国山地の末端にある標高三百六十米余りの丘陵に書写寺が在る。
書写寺へ詣しに、弁慶法師の手習せし所とて其ほとりに、弁慶水ハ是之
老人の教へける。
弁慶の面影白し花の雪
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誤伝 山口素堂の生誕地とされる 北巨摩郡白州町上教来石山口
誤伝 山口素堂の生誕地とされる 北巨摩郡白州町上教来石山口
☆ 現在の、山梨県北巨摩郡白州町上教来石(カキキョウライシ)宇山口(当時の上教来石村宇山口)
☆ 素堂の出身地については、『甲斐国志』を始め、山梨県の著作物や辞典等には、教来石村または上教来石村宇山口とあり、その多くは『甲斐国志』からの引用が目立つ。『甲斐国志』以前の書物には素掌翁の記載は見えない。
素堂から連綿と続く葛飾派の溝口素丸(初代素丸は長谷川馬光)が甲州街道を南下した折に著した『素丸発句集』の内に『甲信紀行』なるものがある。
後継者に上記の出身地の認識があれば、素堂の生家や足跡を訪ねると思われるが、山口や甲府についても何も触れていない。しかし当時から有名であった甲州街道下教来石村の「教化石」には立ち寄って句作をしている。
教化石にて
とんぼうや立かねて居る教化石
「甲信記行」
甲信紀行之内
富士しらね献立そろふ月見哉
同音取川にて
瀬々つよし夜更は虫の音取川
同苗吹川にて
小男鹿の笛吹川や幾めぐり
同稲中門下二葉子に始て対し
からみ合ふ枝のゆかりや道の萩
甲斐の山々目前に横はりふせれば
山々や董のむきしつくねいも
甲の琳鯉追善
秋つれなしなど此人をさそひ行
穂屋大明神の神前、石垣の上にははせを翁の碑あり「雪ちるや穂屋の薄」の句あり
我とても穂屋のいなごぞ飛めぐり
甲州記行之内 素英留別
待たまへ土産に不二と十三夜
甲州記行之内 素明亭
着て行や厚き情をきくの笠
信州上諏訪 朱雀亭
菊と洒の香をしたい来ぬやつれ蝶
曾良の後裔 季郭の許にて、翁の真跡余多々一見して
薬草の棍の薫りしる花野哉
素堂忌
雁もけふ初音の松や素堂の忌
蓑虫の辭やけふの千部経
此翁下谷に月を見果けり
良夜絢堂の会にまかりて、黒露の著『まか十五夜』(まかはんや}を塾覧するに其の日は素堂の忌日なれば
素堂忌の夜話に徳あり摩詞月見
感應寺深川の月それながら
《註》順不同。寛政八年刊。日本俳書大系所集〉
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誤伝素堂の背景 『葛飾正統系図』
『葛飾正統系図』甲府市史 資料編 第4巻 近世3
- 俳文芸
『葛飾正統系図』嘉永三年(1850)
〔書誌〕
山梨県立図書館蔵甲州文庫。馬場錦江自筆稿本。
正統とは素堂から錦江に至る九代の其日庵主のことであるが、各世主に属する主要俳人も記されている。本文末尾にある錦江の条に、嘉永庚戌の秋此系譜を作る」とあるので成稿の時を知り得る。素堂の伝記については、松平定能 の編集の『甲斐国志』(文化十年成)によるところが多い。
葛飾正統系図
山口素堂芭蕉翁と酬和し、正風体の俳譜を創建して、葛飾隠士、其日庵素堂といふ。葛飾正風と号す。其日庵を以て葛飾正統の崇号として連綿たり。
葛飾正風大祖芭蕉翁友人
☆素堂
其日庵 初名来雪 号山口霊神 始信章斎 素仙堂 蓮池翁 今日庵 俗称山口官兵衛 幼名重五郎 又市右衛門 隠名素道 又素堂 姓源名倍章 字子晋 号葛飾隠士
略 伝
葛飾正風之大祖其日庵素堂、姓ハ源、名ハ信章、字ハ子晋、通して官兵衛と言ひ、後素道と改め、又素堂といふ。其先世々甲州巨摩郡教来石村山口に居住するに依りて山口氏を号す。山口市右衛門某の長男なり。寛永十九年壬午五月五日生るるによって幼名重五郎と名づく。芭蕉庵桃青は正保元年甲申生れる。素堂長ずる事二歳也。父の家を受けて家名市右衛門と改、後甲府魚町に移り、酒
折の宮に仕へ頗る富るを以て時人山口殿と称せり。
其いとけなき時より四方に志ありてしばしば江府に往還し、林春斎の門に入りて経学をうけ、洛陽に遊歴して書を持明院に学び、和歌を清水谷家にうけ、連歌ハ北村季吟を師とし、松尾宗房(後芭蕉庵桃青)を同門とし、又宗因・信徳を友とし、俳諧を好ミ来雪と云、信章斎と号す。又今日庵宗丹が門人となり喫茶をよくし、終に今日庵三世の主となる。然して家産を弟に譲り市右衛門を称せしめ、みづから官兵衛とあらたむ。時に甲府殿の御代官桜井孫兵衛政能(九丗其日庵錦江外祖父桜井忠左衛門政直末流の先人なり)其の才能ある事を知り招きて僚属とす。致仕して後江戸東叡山下に寓居し名を素道と号し、人見竹洞を友とし、諸藩に講し、儒を以て専門とし、詩歌を事とし、茶・香・聯俳を楽しみ、又ハ琵琶を弾じ、琴をすがき、或ハ宝生流の謡曲をも好む此の時既に素仙堂の号あり。天和年中一旦世外の思ひを発し、家を葛飾の阿武に移し、芭蕉庵桃青の隣人とし、共に隠逸を楽しミて葛飾の隠士素堂といひ、其日庵を標号とし、桃青と志を同じくして正風体の俳諧を起立し、桃青を開祖とし、素堂ハ葛飾正風と号せり。此時桃青ハ庭上に一株の芭蕉を植て芭蕉庵と号し又芭蕉翁とよばれ、素堂ハ一泓池をうがちて白蓮を植て蓮他の翁と称せられ、『三日月の日記』にも蓑虫の贈答にも世に高尚と称せられて或は賓となり或ハ主となり、蕉翁ハ法界の蕉、素翁ハ禅庭の栢ともきこえしハ素翁の庭に栢ありし故なるべし。斯くて蕉翁四方に雲遊の間、素堂常に東武の教導をうけがひ其遊歴を心安からしめ、芭蕉死するの後、元禄八年乙酉素堂年五十四、甲陽に帰り父母の墓を拝するの時桜井政能に見ゆ。政能の曰く、此頃甲州の諸河砂石を漂流し其瀬年々に高く、河水溢れ流れ濁河の水殊に甚しく、山梨の中郡に濡滞して其禍を被る事十ケ村に及び、逢沢・西高橋の二村地卑しくして沼淵となり、雨ふる時ハ釜をつりて炊ぎ床をかさねて坐し、禾稼腐敗して収する事十分の二三に及ばず。政能是をうれふる事久し。足下我に助力して此水患を除んやといふ。素堂答へていふ。人ハ是天地の役物なり。可を見てすすむハ元より其分なり。ましてや父母の国なるをや。友人桃青も先に小石川の水道の為に力を尽せり。勉め玉へと言ひて遂に承諾す。政能よろこび江府に至り其事を公庁に達せんとするに、十村の民道におくり涕泣してやまず。政能眷(カエリミ)ていへらく「事ならざる時ハ汝等と永く訣れん。今より官兵衛が指揮をうけてそむく事なかれと。素堂是より復び双刀をさしはさみ又山口官兵衛と号す。幾程なく政能帰り来る。官兵衛また計算に精けれバ夙夜に役をつとめ、高橋より落合に至り堤をきづき、濁河を濬治し笛吹川の下流に注ぎ、明年に至りて悉く成就し、悪水忽ちに流れ通じて沼淵涸れ、稼穡蕃茂し民窮患を免がれ、先に他にうつれるもの皆旧居に復し祖考の墓をまつる。村民是に報ぜんが為に生祠を蓬沢村の南庄塚といふ地に建て、政能を桜井明神と称し、官兵衛を山口霊神と号し、其祭祀今に怠る事なしといえり。
しかして其の事終れば素堂速に葛飾の草庵に帰り宿志を述べて俳諧専門の名をなせり。ある時素堂武州川越におもむくの日、無人の郊外に好色の婦人招きてもとむるにまかせ、「我ほかに誰やきませと花芒」といふ句を書て与へけるに其婦人忽ちに見へず成りしが、川越城中其の社内にて其短冊を見たりといふ。素堂風雅の精研なる鬼神に通ずる事斯くのごとし。嘗て三日月日記をしるせる時、蕉翁と共に漢和の一格を定め、又松の奥・梅の奥の秘書を撰して門下に伝へ、又とくとくの句合に自評の判詞を加へ、宮川・御裳濯川の古き流れをくミ、又家集数巻を後に伝ふ。享保元年丙申八月十五日死す。谷中感応寺に葬る。年七十五、法名廣山院秋巌素堂居士。
《注記》●黒字は「甲斐国志」より引用
●赤字は馬場錦江の自作
《評》
私はこの『葛飾正統系図』の素堂の項を読んだときに唖然とした。連綿として続く系統であれば、その祖の生き様は正しく伝えるべきであり、また引用する文書も大切であり、素堂身内の各種文書は引かれなかった。こうした文書は他にもそのまま引用されて、さらに誤伝が深まり、別人素堂の誕生となった。
素堂は門人を取らずに俳諧を嗜み、芭蕉や素堂を慕う人は多く居た。又素堂は系図の云う様な赤字の号は名乗ってはいない。
☆素堂
其日庵 初名来雪 号山口霊神 始信章斎 素仙堂 蓮池翁 今日庵 俗称山口官兵衛 幼名重五郎 又市右衛門 隠名素道 又素堂 姓源名信章 字子晋 号葛飾隠士
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芭蕉「はりぬき--」素堂脇 七つ成子文月の歌
○下里知足伝来書留 市中より東叡山の麓に家を移せし頃。
秋 市中より上野不忍の他のほとりに移り隠棲する。
☆桃青両吟発句脇二組 三吟三物一組。
・鮭の時宿は豆腐の両夜哉 素堂
茶に煙草にも蘭の移り香 芭蕉
・塔高し梢の秋の嵐より 素堂
そぞろ寒けき池の見わたし 夷宅
一羽二羽鳥はあれども声もなし 芭蕉
張抜の猫も知る也今朝の秋 芭蕉
・七つになる子文月の歌 素堂
▽素堂と名乗るのは翌年から、芭蕉は三四年後に、桃青から芭蕉へ。
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奥の細道 素堂松島の詩を贈る
奥の細道 松島 素堂松島の歌
日すでに午に近し。船を借りて、松島に渡る。その間二里余り、雄島の磯に着く。
そもそも、ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、およそ洞庭・西湖を恥ぢず。東南より海を入れて、江の中三里、浙江の潮を湛ふ。島々の数を尽くして、欹(そばだ)つものは天を指さし、伏すものは波に葡匐(はらば)ふ。あるは二重に重なり、三重に畳みて、左に分かれ右に連なる。負へるあり抱けるあり。児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉潮風に吹きたわめて、屈曲おのづから矯(た)めたるがごとし。その気色窅然として、美人の顔を粧ふ。ちはやぶる神の昔、大山祗のなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞か尽くさむ。
雄島が磯は、地続きて海に出でたる島なり。雲居禅師の別室の跡、坐禅石などあり。はた、松の木陰に世をいとふ人もまれまれ見えはべりて、落穂・桧笠など打ちけぶりたる草の庵、閑かに住みなし、いかなる人とは知られずながら、まづなつかしく立ち寄るほどに、月、海に映りて、昼の眺めまた改む。江上に帰りて宿を求むれば、窓を開き二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。
松島や鶴に身を借れほととぎす 曾良
予は口を閉ぢて眠らんとしていねられず。旧庵を別るる時、素堂、松島の詩あり。原安連、松が浦島の和歌を贈らる。袋を解きて今宵の友とす。かつ、杉風・濁子が発句あり。
十一日、璃巌寺に詣づ。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐、帰朝の後、開山す。その後に、雲居禅師の徳化によりて、七堂甍改まりて金型荘厳光を輝かし、仏土成就の大伽藍とはなれりける。かの見仏聖の寺はいづくにやとしたはる。
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奥の細道足跡図 行程表
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芭蕉 臨滅之図
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蕪村 芭蕉奥の細道
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宝永4年富士山噴火資料
宝永4年富士山噴火資料
「隆砂記」富東一禿著 正徳六年(1716)
読み下し、永原慶二氏著「富士山宝永大爆発」
第一章 六二0年ぶりの大爆発(P34・35)
これ時に宝永四丁亥の年冬十一月二十三日昼辰の刻、大地俄かに動揺して、須臾(シユユ・しばらく)あって黒雲西方より出でて一天を蓋(オオ)う、雲中に声有り百千万の雷鳴の如し、巳の刻ばかりしきりに石砂を雨(フラ)す。大は蹴鞠の如し、地に落ちて破れ裂けて火烙を出す、草木を焦し民屋を焼く、時に雷声有って東西より中途に至りまた東西に別る、これを聞く者数十里のうち己が屋上にあるが如とし、火災なき所は日中猶暗夜の如し、燭を点じてこれを見れば黄色にして塩味有り、まさに憶え三災壊空(エクウ)の時至る、男女老少仏前に座し、高声に仏名を唱え、慇懃に聖経を誦し、唯□(祈カ)臨終速、夜半に至って雲間に星光を見る、識る、天未だ地に落ちず、然りと雖も世界一般石砂従(タトイ)天地有るとも生民何を以てか生命を存せん、なお速やかなる死を欲す。二十四日に至って微明有り、燭を捨て始めて親子の面を見る、雨砂微少にして桃李の如く、二十五日雲中日光を現す、雨砂なお微かにして豆麦の如く、間に桃李の如きあり、前日他方に行きし者帰り家人に告げていわく、これ士峰(富士山)火災なり、富東数郡に及びなお平安の土地有りと、生民これを聞きて蘇息す。資財を捨て重器を忘れ、老衰を扶け幼弱を負い、牛馬を牽き西南に走る、鳴呼悲しい哉禽獣は地無くして飛走(トビサ)るべきに打殺され斃れぬ、
二十六日に至って半晴半暗、雨砂微塵の如く、まま豆麦の如き有り、
十二月初八日に至って雷鳴尽き雨砂なお止む、天気元の如し、国令命を下し、生民を弔い、石砂の深厚を計る、近村遠郷平地山沢おのずから浅深有り、富麓一村は平地一丈二尺、その山岸深沢は人カを以て計るべからず、我が村は富麓の村を去ることわずかに三里、士峰焼穴を去ること九里、なお平地三尺五寸、その山岸深沢は一丈二丈五丈七丈に及べり、士峰の火災それ希有哉、生民の辛苦大いなる哉、降砂の害を恐れ、一旦他方に走るといえども誰か食邑(ショクユウ)の地を与えん、再び砂石の中に帰り、虆梩(モッコ)を以て屋棟の降砂を山沢に除き、水力を仮りて田畠の砂石を川合に流す、累代の重器を売り老親の保養と為す、親愛の幼児を出して他郷の奴僕と為す、況や牛馬眷属に於てをや、ことごとく四方に散じ、砂を払う器具を求む、それ平世三尺の地を平げ一丈の井を掘る、人以て難事と為す、郷に食無く土地に旦夕飢渇の身あるのみ、深厚の石砂を膏腴(コウユ)の良田と為す、辛苦多少なり、余筆記して後世に伝うるものは海水の一滴、九牛の一毛なり、曲暢旁通に至って我れに孟軻子弁有り、班固子筆を与うるも未だ及ぶべからず。
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素堂 芭蕉の瓢に銘を与える 図
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