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馬場美濃守信房公総合調査資料


馬場美濃守信房の系譜 甲斐の馬塲氏

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馬場美濃守信房の系譜
 甲斐の馬塲氏
<馬場姓を名乗る武将・信房との関係は未詳>
 長禄  四年(1460)
馬場参州(法名臨阿)死す。『一蓮寺過去帳』
 文明  年間(1469~86)
馬場民部(法名、浄阿)死す。『一蓮寺過去帳』
 永正十一年(1514)1歳           
○生誕 俗名…氏勝・玄蕃・民部権大輔政光・信房・信春・景政など諸説あるが、文書では「信房」。「信春」は甲陽軍艦以来の名前で、信房の息子の名前。以下この書は「信房」とする。
   
『寛政重修諸家譜』
 清和源氏義光流(新羅三郎義光)武田氏流。
  頼光……源三位頼政……下野守仲政(初めて馬場氏を称す)
………其の裔が甲斐教来石に移り在し地名を持って家号とし、武田家に仕え、駿河守信明の時、武田信重の婿となり馬場氏に改む。
……其の男遠江守信保
……其の男美濃守信房にいたり武田一族につらなり花菱の紋を受くという。
遠江守信保-甲斐国武川谷大賀原(現在の台ケ原)根小屋に住州す。
信保が長男を美濃守信房(はじめ民部氏勝とし、武田の老臣馬場伊豆守虎貞が家名を継ぎ云々)
 
清和源氏義光流武田支流巻一八四
  武田五郎信光
…五男、一条六郎信長…二男、四郎頼長(初めて馬場氏を称す) 
…小四郎長広…二男権三郎(民部)広政(玄蕃・民部・敬礼師)
…権太郎(民部)政次…権太郎(民部)政久…権太郎(民部)
…政長…権太輔(民部)政房……権太輔(民部)政忠……権太輔(玄蕃・民部)
…房政……信房(馬場氏を称す)
  
『姓氏家系大辞典』
○清和源氏ノ後裔甲斐国教来石ニ移リ教来石(敬禅寺)氏ヲ称ス。
○駿河守信明ノ時、武田信重ノ婿トナリ馬場氏ニ改ム。信房ハ初名景政マタ氏勝、民少輔ト称ス。ソノ族馬場虎貞、武田信虎ヲ諫メテ殺サル。
 
『植松正邦氏家系書』
○……十一代馬場但馬守重信……十二代馬場修理克信忠
 ……十三代馬場虎房
 ……十四代馬場伊豆守虎貞(常光院殿日心城公庵主 大永六年/1526)
 ……十五代馬場丹後   守五郎左衛門信忠
 
 ◎下部町の馬場家の家系
 ○下部町の馬場家の家系には馬場美濃守信房が無く、丹後守五郎左衛門に繋がる。
 常葉次郎の父として常葉(馬場)孫三郎豊信がいる。…『馬場家系図』 詳細は別述する 
其祖ハ清和天皇裔丹後守忠次ト称スル者建武ノ乱ヲ避ケ甲州都留郡朝日馬場村北東の奥に隠住す。武田氏に仕へ地名を取り馬場姓とす。妙園寺(実在)ヲ開基シ黒印ヲ五石ヲ寄付ス、清和天皇ヲ祀リ、後相州鎌倉八幡宮ヲ氏神ニ祀リ之始祖也。…『馬場家系図』
 信房…伊豆守虎貞武田信虎ノ暴虐ヲ憂ヒ屡直諫ス。信虎容レス。虎貞之カ為メニ遂ニ殺サル。馬場系血是ニ於テ絶エントス。…『馬場家系図』
 秋山太郎光朝の三男常葉次郎光季…十一代後裔常葉彦之條丞馬場伊豆守虎貞の嫡男…馬場丹後守信忠(常葉彦之丞の名跡継ぐ)次男…馬場美濃守信房(常葉次郎□□)
而時常葉次郎ナル者馬場家ヲ継ク馬場美濃守信房ト称ス。云々…『馬場家系図』
  筆註
 常葉家は下部町に実在した。常葉家は現在存在しないが馬場家の家系に編入された事も考えられる
 

☆山口素堂と京都《愛宕山》

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☆山口素堂と京都《愛宕山》

京都市右京区上嵯峨の北部に在る山、山頂には愛宕権現(雷神)を祭る社がある。往時は神仏混交で有ったから宿坊大善院も置かれていた。
  白雲を下界の蚊屋につる夜かな
(元禄十一年六月廿四日・素堂句集)
愛宕山を釈中の淵明と賞かし玉ふにより云
  富聴暮寒山道骨 釈中陶潜不知誰

☆山口素堂と京都《御手洗川(鴨川・鳴滝)》

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☆山口素堂と京都《御手洗川(鴨川・鳴滝)》
京都府下賀茂神社の前を流れる川で、参拝者が手洗口濯ぎなど潔斎して身を清める所。今出川(賀茂川)と高野川があるが、常識的には賀茂川であろう。尚、みだらしはみとらしで貴人の弓に対する敬称でもある。
元禄十一年二月刊、『寄生』(やどりぎ)佳聚亭編。
加茂川に遊びて
御手洗や半ハ流るゝ年忘れ   素堂
橋立や景過もせず霧のひま   素堂
素堂は夏から秋にかけて京都に留まる。芭蕉の塚に詣でて手向草二句を供え(『続有磯海』)又鳴滝に茸狩りを催して句三章を得る(『橋南』)。
元禄十一年『橋南』入集。
戊寅の秋洛陽に遊ひ、一日鳴滝の茸狩して両袖にいたきて帰りぬ。
其片袖は都の主人にあたへ、大津の浦の一隠士安世のかたへ此三唱を添て送るならし。
   其一 椎茸や見付ぬさきのおもしろさ  素堂
   其二 松茸やひとつ見付し闇の星    素堂
   其三 袖の香やきのふつかひし松の露  素堂
尚この年京都で「寄生(やどりぎ)集」が上梓され、この句と「橋立や景過」の句が人業している。同業の序に大淀三千風が「寅のきさらぎのころ」と奥を付けていることから、十一年以前の作との説もあるが、素堂の上洛は元禄三年秋から冬以後十一年夏から秋しか無いと思われるから、条件が合うのはこの年である。この業の三千風の序は如月に書かれた徊へ撰者の佳茶亭の編集が三千風の序の奥付より遅れてなされたらしい。また板行刊行が遅れて補填されたと思われる。良くある事ではある。同年の「泊船集」にも入集し「糺にて」の前書きがあり、「糺」は下賀茂を差し、その南の森を「糺の森」と云い、この森に鎮座する神を「糺の神」と云っている。古来よりほととぎすや納涼で知られる。

☆山口素堂と京都《男山》

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☆山口素堂と京都《男山》
男山(岩清水八幡宮)京都府綴喜郡男山、八幡山とも云う。山頂に八幡宮が在り、例祭は九月十五日に行われる。北の賀茂祭りに対し南祭り(臨時祭)と云う。
八月十五夜 岩清水に詣侍りて
  くもりなき御代ぞやをとこ山名だかきかげをなほてらすらむ
 

☆山口素堂と京都《廣澤の池》

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☆山口素堂と京都《廣澤の池》
京都市右京区嵯峨広沢在、上嵯峨の地になるが嵯峨と御室の仁和寺の中ほどにある。元禄四年刊行の「句奏別五百韻」に
  いづれゆかん蓮の実持て広沢へ  
(『真木柱集』・元禄十年刊行前書きなし)
前書きに、すみ所を宮古にと聞えければ、我あらましも嵯峨のあたりに侍れど、かの池に蓮のなき事をうらみ申ス、とあり。『とくとくの句合』に
「小野川洛陽に住所を求とて登りける頃、予も又其心ざしなきにしもあらず、稿本『とくとくの句合」は
『小野川立吟住所求むとて洛陽におもむきけるに、やつがれも其志なきにしもあらねバ』
とあり、共に
蓮の実よとても飛なら広沢へ
 と改めている。『真木住』は挙堂が素堂の句作法を紹介したもので、二句目のは後に改作したものであろう。この句は立吟が京都に移住するについての「句餞別」で白身も京都に移るなら嵯峨の広沢辺りにしたい、だが広沢には蓮が無いから蓮の実を持っていづれ行こうと云う願望の句である。
 同じいざよひに広沢にあそびて
  我舞て我にみせけり月夜かな   『素堂句集』

☆素堂と京都《男山》

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☆素堂と京都《男山》
京都北方の舟岡山・衣笠山・岩倉山などの山々の総称。衣笠山は岡とも呼ばれ
絹掛山・絹笠山とも云い、歌枕でもある。京都市北区大北山に在る標高約二百米ほどの山、麗には金閣寺(鹿苑寺)等持院などがある。
 北山の草枯にいざなはれし頃
  茸狩りやひとつ見付しやミの星  【素堂句集】
 古き歌に ほしひとつ見付たる夜の嬉しさ八月にもまさる五月雨の空
 
この句の前書きには、『とくくの句合』は西山の茸狩にいざなはれて、『稿本とくとくの句合』は洛外の鳴滝にて、『橋南』および『素堂家集』では、戊寅の秋洛陽に遊て一日なる滝に茸狩して云々とあり、この句の地が何処であるか定めがたいが、洛北・洛西ともに茸狩りの地であり、鳴滝での句は西山の句と関連する処が読み取れ、決め難い。

芭蕉&素堂消息 周辺俳人の動向◇貞享四年(一六八七).

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芭蕉&素堂消息 周辺俳人の動向◇貞享四年(一六八七).
【芭蕉】四十四歳
八月、曾良・宗波と常陸鹿島へ赴き『鹿島詣』成。
十月二十五日、『笈の小文』の旅に発つ。
【素堂】四十六歳
春上洛か(続虚粟・素堂家集)。秋「蓑虫記」を書く。
十月二十五日、帰郷する芭蕉に餞別の句詩を贈る(句餞別)。『続虚栗』に序す。
【曾良】三十九歳
八月宗波と共に芭蕉に従い常陸鹿島の仏頂禅師を訪問(鹿島詣)。『続虚栗』(其角揆)に発句二入集。
【去来】三十七歳
 春、芭煮・其角・嵐雪と「久万や」歌仙成(梅の草子)。初夏ごろまで江戸滞在か。
【嵐雪】
 正月、芭蕉に小袖を贈る。十一月末、西吟を迎え両吟歌仙二巻成(ねさめ廿日)。
【越人】三十二歳
十一月九日芭蕉と知足亭に行き、その後伊良胡に蟄居中の杜国を見舞う(知足斎日々記・如行子・千鳥掛)。
【其角】二十七歳
四月八日母没(続虚栗)。夏、新城の白雪夫妻を送る
十月十一日自亭で芭蕉餞別の四十四興行(同)。
十一月十三日『統虚粟』刊。
【野披】二十六歳
『統虚粟』(其角撰)に「野馬」で発句十一座の歌仙一入集。それ以前から其角に師事し其タンと号した(鉢袋)。
【尚自】 『孤松』刊。
【西吟】 東下し『寝覚廿日』刊。
【言水】 『京日記』、

芸術祭参加作品 ピカソ木の顔

芸術祭参加作品 木の表情

☆素堂と京都《鳴滝・嵯峨》

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☆素堂と京都《鳴滝・嵯峨》
○右京区鳴滝、嵯峨・広沢池の北方山間にある。往時は鳴滝川の総称であったが景勝の地で、山荘などが造られた。川は双ケ丘の西を流れて酉ノ庄付近で桂川に流人する。現在は御室川と云う。
 戊寅の秋洛陽に遊び、一日なる瀧に茸狩して帰りぬ。
其片袖は都の主人にあたへ、其片袖は大津の浦の一隠士安世のかたへ、
此三唱を添て送ならし
  茸狩や見付ぬさきのおもしろさ
  松茸やひとつ見付て闇の厘
  袖の香やきのふつかひし松の露  素堂 (真蹟色紙)
【注記】「橋南」の前書きでは「両袖にいだきて」が入っている。

清涼を 求めて群がる 人の波

北村季吟 廿会集 素堂は季吟の客人

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素堂は季吟門ではない。

▽素堂、『廿會集』入集。季吟編。《季吟信章歓迎百韻》
(抜粋掲載)
霜月三日江戸より信章のぼりて興行(付句十一)
 いや見せじ富士を見た目にひえの月   季吟
世上ハ霜枯こや都草      信章
冬牡丹はなハだおしゝはやらせて    湖春
 
【註】素堂の俳諧論 素堂の地位 北村季吟との関係

 延宝二年(1674)二十三才の十一月に上洛して季吟や子息の湖春らと会吟した。(九吟百韻、二十会集)「江戸より信章のぼりて興行」が示すように、歓迎百韻であり師弟関係でないことが理解できる。
 素堂の動向が明確になってきたのは、寛文の早い時期から風流大名内藤風虎江戸藩邸に出入りをしていて、多くの歌人や俳人との交友が育まれた。その中でも寛文五年(1665)大阪天満宮連歌所宗匠から俳諧の点者に進出した西山宗因からも影響を受けた。宗因はそれまでの貞門俳諧の俳論は古いとして、自由な遊戯的俳風を唱えて「談林俳諧」を開き、翌六年に立机して談林派の開祖となった。素堂が出入りしていた内藤風虎と宗因の結びつきは、寛文二年の風虎の陸奥岩城訪問から同四年江戸訪問と続き、風虎の門人松山玖也を代理として『夜の錦』・『桜川』の編集に宗因を関わらせた。風虎は北村季吟・西山宗因・松江重頼とも接触を持った。重頼は延宝五年(1677)素堂も入集している『六百番発句合』の判者となっている。
 延宝二年(1674)宗因の『蚊柱百韻』をめぐって、貞門と談林派との対立抗争が表面化して、俳諧人の注目を浴びる中、翌三年五月風虎の招致を受けて江戸に出た宗因は『宗因歓迎百韻』に参加する。この興行には、素堂や芭蕉(号、桃青)も参加する。素堂も芭蕉も共に貞門俳諧を学び、延宝の初年には宗因の談林風に触れて興味を示し、『宗因歓迎百韻』に一座して傾倒していく。四年、芭蕉は師季吟撰の『続連珠』に入集している。芭蕉は季吟より「埋木」伝授されていて門人であるというが、その後の接触は見えない。
  素堂は季吟の俳諧撰集への入集はなく、巷間の「素堂は季吟門」は間違いということになる。素堂を北村季吟の系とする書が多いが、この集により門人ではなく、友人もしくは先輩、後輩の関係であることが分かる。この書以後素堂と季吟の直接交流は資料からは見えない。芭蕉にしても素堂も、元禄二年には江戸に出てきている季吟との交流は俳書からは見えない。

【註】季吟撰『続連珠』に「信章興行に」と詞書する湖春の附け句が見える。(荻野清氏『元禄名家句集 素堂』)

駆け落ちる ダムの速水 輝く機械

森の中 線路がなくても 乗車駅


森の中 何が無くても 観光地

聳え立つ 山頂の 物見台

この道は 私が守る 地蔵仏

富士見町 古松の葉先 伸び伸びと

赤錆びて 歴史を重ね 何語る 

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