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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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素堂消息、西鶴と素堂

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素堂消息、西鶴と素堂
西鶴…寛永十九年(1642)生、~元禄六年(1693)没。
 西鶴と素堂の接触は延宝九年(1681)に興行された『西鶴大矢数』に参加したことでもわかる。ただしこの句集には「来雪」・「信章」の名が見える。また脇座には山口清勝の名も見える。(清勝については不詳)
 

素堂消息、芭蕉、元禄6年五月四日付、許六宛書簡(抜粋)

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素堂消息、芭蕉、五月四日付、許六宛書簡(抜粋)
 
  1. 繪色紙素堂へいまだ今ニ得遺し不申候間、明日一所ニ可進之候。
    はさミ箱へ御入れ可被成候。桃隣方は遣はされ候は拙者先日参り其角方へ人やらせ吟味させ申し候へ共、
    其角留守にてしえ申さず候。明日参り候様に申し遣はすべく候。
     

素堂 内藤露沾亭で「六吟歌仙」 元禄6年

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素堂 内藤露沾亭で「六吟歌仙」
 
素堂・芭蕉・露沾・沾荷・沾圃・虚谷。
 五月晦日会
  その富士や五月晦日二里の旅              素堂
   茄子小角豆も己が色知る                露沾
  鷹の子や雲雀に爪のかたまりて

素堂 元禄6年五月、『桃の實』発句一入集。兀峰編。綿の花たまく蘭に似たる哉

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素堂 五月、『桃の實』発句一入集。兀峰編
 富花月 艸庵に桃櫻あり、門人にキ角・嵐雪有
 両の手に桃とさくらや草の庵              芭蕉翁
 
菓子盆に芥子人形や桃の花              其角
  桃の日や蟹は美人に笑るゝ              嵐雪
 かゝる翁の句にあへるは、人々のほまれならずや、おもふに素人
の句は、青からんものをと人はいふらん。思ふらん。
  しろしとも青しともいへひしの餅        兀峯     
  躑躅咲うしろや闇き石燈籠              桃隣
  冷酒にのみつく比かもゝの花            曲水
  綿の花たまく蘭に似たる哉                  素堂
 例の素堂の感情、蘭よくとの風雅にこそ
【註】『桃の實』備前国岡山藩士兀峯が江戸勤番の暇に編んだ集。

素堂消息、蕪村書簡 わたの花たまく蘭に似たる哉

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素堂消息、蕪村書簡
『蕪村書簡集』武藤山治氏蔵。大魯宛(抜粋)
 ちか頃無理成哉留之事、御尤と被存候。拙句ニも折々有之候。
連哥者流やかましく可相申と存候へ共不存候。
わたの花たまく蘭に似たる哉       素堂
春の水ところどころに見ゆるかな        鬼貫
老なりし鵜飼ことしは見えぬかな        蕪村
 右之類はいづれも不苦歟と覚申候。先頃拙句ニ
きのふけふ高根のさくら見ゆるかな
 これ等は無理歟と存候へども、かまはず致置候。

素堂 十月九日、《素堂菊園之遊》 漆せぬ琴や作るらぬ菊の友

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素堂 十月九日、《素堂菊園之遊》
重陽の宴を神無月のけふにまうけ侍る事は、その比は花いまだめぐみもやらず、菊花ひらく時則重陽といへるこゝろにより、かつは展重陽のためしなきにしもあらねば、なを秋菊を詠じて、人々をすゝめられける事になりぬ。
菊の香や庭に切たる履の底              芭蕉
  柚の色や起きあがりたる菊の露          其角
  菊の気味ふかき境や藪の中              桃隣
  八専の雨やあつまる菊の露              沾圃
  何魚のかざしに置ん菊の枝              曾良
  菊畠客も圓座をにじりけり            馬 
 紫桑の隠士無絃の琴を翫しをおもふに、菊の輪の大な らん事をむさぼり、造化もうばふに及ばし。
 今その菊をまなびて、をのずからなるを愛すといへ共 家に菊ありて琴なし。かけたるにあらずやとて、人見竹洞老人、素琴を送られしより、是を夕にし是を朝に して、あるは声なきに聴き、あるは風にしらべあはせて、自ほこりぬ。
  うるしせぬ琴や作らぬ菊の友            素堂
 
 
 
 
 
▽素堂 「素堂亭残菊の宴」素堂・芭蕉・沾圃三物
  漆せぬ琴や作るらぬ菊の友              素堂
  葱の笛ふく秋風の蘭                    芭蕉
  鮎よはく籠の目潜る水落て              沾圃
〔俳諧余話〕
 甲斐の身延に詣ける時、宇都の山邊にかゝりて
  年よりて牛に乗りけり蔦の路            木節
(『続虚栗』所収句)
▼芭蕉 十月九日付、許六宛書簡文中、(抜粋)
 素堂菊園に遊びて
  菊の香や庭にきれたる沓の底
▼芭蕉 十一月八日付、荊口宛書簡文中、(抜粋)
 素堂菊園之遊
   菊の香や庭に切たる沓の底
【註】素堂、「漆せぬ」の句について
柴桑の隠士、陶淵明のこと、薄陽縣の柴桑に隠棲したことによ、この名がある。無弦の琴云々、淵明が琴を愛して、酒間にこれを撫して「但識琴中趣何勞弦上音」と和したといふ故事。造化、自然・人見竹洞老人、儒士、林明春(?)の門人。素琴、素木の琴。淵明が無弦の琴を翫んだことを考へると菊も強ち大輪を欲して自然を矯める必要もあるまい。自分も淵明に學んで、その自然な姿を愛するとは云へ、我が家には菊はあつても琴がないの琴が無いので、それでは淵明の愛した二物の一が欠けてゐるではないか、と云うことで、竹洞老人が素木の琴を贈ってきれたといふのが前書意である。「琴や作らぬ」とは反語である。淵明の故事を體して、うるしせぬ琴、即ち素木の琴を贈ってくれた竹洞老人をたゝへたのである。「菊の友」は竹洞老人を指したのであって、両者の高雅な風交を象徴した言葉であり、同時にこれに依って菊の句となっている。芭蕉の句「月の友」と同例である。素堂や芭蕉を通じて見ることのできる、時代的な一の理想である隠士風の感懐である。     
(芭蕉七部集『俳句鑑賞』川島つゆ著)

素堂消息 元禄6年八月二十八日、松倉嵐蘭没。

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八月二十八日、松倉嵐蘭没。
 正保四年(1647)生、~元禄六年(1693)没。年四七才。
 本名、松倉盛教。板倉侯に仕え禄高三百石の武士。致任後江戸浅草に住み、素堂とも深い交流を結ぶ。元禄六年に相模国鎌倉に遊び、帰途発病して他界。

素堂 元禄6年十月、『流川集』発句一入集。露川編。(未見)

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素堂 十月、『流川集』発句一入集。露川編。(未見)
  このわすれながるゝ年の淀ならん
 
▼『流川集』四季に分けて各季ごとに、歌仙・蕉門諸家の発句を掲載。
【露川】寛文元年(1661)生、~寛保三年(1743)歿。年
八十三才。
本名、沢市郎右衛門。伊賀国友生に生まれ、尾張名古屋の札の数珠屋渡辺家の婿養子になるが、後沢姓に復姓する。
元禄四年(1691)芭蕉に入門し、この集を編み、宝永三年(1706)剃髪して月空居士と号した。その後全国を俳諧行脚を繰り返した。
一たきの灰掃ながせ秋の水(『秋の水』)

素堂 『葛の松原』俳論書。発句一入集。元禄5年奥

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素堂 『葛の松原』俳論書。発句一入集。
元禄五年(前年)五月十五日奥 
  此わすれながるゝ年の淀ならむ         (素堂)
  名月や池をめぐりて夜もすがら         (芭蕉)
 必とする事なきは、素堂亭の年忘れにして、固とせざるは芭蕉庵の月見なるべし。云々

▽素堂と芭蕉の親交 川上と川下や月の友

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▽素堂と芭蕉の親交
川上と川下や月の友      芭蕉
芭蕉の次の句は素堂と親交を示すものとして諸書に紹介されている。
 深川の末、五本松に舟を浮かべ月を賞で
  川上と川下や月の友          芭蕉
▼『七部通旨』に
「五本松は東都深川小名木川通り、大島にあり、九鬼家の邸中より道路を越へて水面を覆ふ古松をいふ。昔しは五株ありと云。今は其一株を存す」とある。
▼『蓼太句集』にも
 深川舟逍遥
十人の月見の友よ松ひとり
とある。芭蕉の畏友素堂が、川上に當たる葛飾に居を占めてゐたことから、この句は専ら素堂を対象としたものとして解されてゐるが、云々。      (芭蕉七部集『俳句鑑賞』川島つゆ著)

▼素堂周辺の人々の住居 『武功年表』・他書より。

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▼素堂周辺の人々の住居 『武功年表』・他書より
人見竹洞 ― 筋違橋内              
宝井其角 ― 伊勢町
吉川是足 ― 京橋          
服部嵐雪 ― 石町一丁目
松尾芭蕉 ― 本所          
河合曾良 ― 五間堀
高野幽山 ― 本町一丁目    
原 安適 ― 深川
椎本才麿 ― 石町四丁目    
内藤露沾 ― 溜池
岸本調和 ― 通一丁目              
水間沾徳 ― 五郎兵衛
岡村不卜 ― 伊勢町                
山田宗偏 ― 本所一丁目

山口素堂消息『ふでの穐』素堂の嫡孫、素安の確認。享保20年 乙卯 1729

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山口素堂消息『ふでの穐』素堂の嫡孫、素安の確認。享保20年 乙卯 1729
素堂亭のこと、素堂号を寺町百庵に譲ること、百庵は断わり佐々木一徳が継承すること。(『連俳睦百韻』)
 
『毫の龝』ふでのあき
執文朝が愛子失にし嘆き我もおなしかなしみ袂を湿すことや、往し年九月十日吾祖父素堂亭に一宴を催しける頃、
かくれ家やよめ菜の中に残る月
といひしは嵐雪が句なり、猶此亡日におなしき思ひをよせて
十日の菊よめ菜もとらず哀哉
かくて仏前に焼香するの序秋月素堂が位牌を拝す百庵素より素堂か一族にして俳道に志厚し。我又俳にうとければ祖父が名廃れなむ事を惜しみ、此名を以て百庵に贈らむ思ふに、そかゝるうきか中にも道をよみするの風流みのかさの晴間なくたゝちにうけかひぬによつて、素堂世に用る所の押印を添て、享保乙卯(二十年/1735)九月十一日に素堂の名を己百庵にあたへぬ。山口素庵
 
百庵……本姓越智氏、本名言満、名は三知、又は友三。号を道阿・梅仁翁・不二山人・新柳亭という。元禄五年(1692)生~天明六年(1786)歿。年八七才。
幕府の茶坊主で百俵二人扶持を受け、後坊主頭をつとめたが、事あって(柳営連歌の連衆となるべく運動する)鼓楼の時守に落とされ、後に小普請入りとなる。
 
《註》
…素堂の号について、歿後葛飾門を名乗り様々な俳号が生まれるが、それらは継承者を自負する人々の手による号が多い。百庵が素堂号を名乗った形跡は見られず、佐々木来雪が継承する。三世素堂襲名記念集、『連俳睦百韻』には『ふでの龝』で百庵は素庵に素堂号の襲名を勧められたが辞退した。
 

山口素堂消息 黒露『摩訶十五夜』素堂五十回忌追善集。山口黒露編。明和2年 1765

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山口素堂消息 黒露『摩訶十五夜』素堂五十回忌追善集。山口黒露編。明和2年 1765
(前文略)けふ亜父の恩報ぜんに、はし立て及ぶべからず。山高く海深し、千峰と仰ぎ直下と見おろす。其館し奉る事は暫く置て、世に云伝ふ恩を仇にて報にハ、今一個の身の上にせめ来れり。清名けがす事あまた度なれど、生涯露ほども腹だち給ふ機だに不見、吾舅ながら実に穏柔和客の翁也し。
学は林春斎の高弟、和歌は持明院殿の御門人なと、和温の方に富とやいはん。折にふれて花のもと、月の前に扇とりて一さしかなでつ。舞曲は宝生良監秘蔵せし弟子入木道の趣、茶子の気味は葛天氏代の好き者也と拝し給ひし。あるは算術にあくまで長じ給ひけるも、隠者におかし。云々
 

山口素堂消息 鬼貫『鬼貫句選跋』大祇編。明和6年 1769

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山口素堂消息 鬼貫『鬼貫句選跋』大祇編。明和6年 1769
五氏の風韻をしらざるものには、ともに俳諧をかたるべからず。こゝに五氏といふものは、其角・嵐雪・素堂・去来・鬼貫。素堂はもとより句少なく、云々

山口素堂消息『春泥句集』召波著、維駒編。蕪村序。安永6年 1777

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山口素堂消息『春泥句集』召波著、維駒編。蕪村序。安永6年      1777
問 ……其ノ友とするものは誰ゾや。
蕪村答…其角を尋ね、嵐雪を訪ひ、素堂を倡ふ、日々四老に会して、はつかに市城名利の城を離れ、林閑に遊ひ山水にうたげし。云々
 

山口素堂消息『連俳睦百韻』佐々木来雪編。(佐々木一徳の来雪庵三世素堂襲名記念集)安永8年 1779

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山口素堂消息『連俳睦百韻』佐々木来雪編。(佐々木一徳の来雪庵三世素堂襲名記念集)安永8年 1779
 
<註>
素堂の家系について触れている。それによると、素堂の鼻祖は織田信長・豊臣秀吉の家臣の蒲生氏郷の家臣、山口勘助で有る時期に町屋に下る。とあり『甲斐国志』の甲斐の北巨摩郡教来石村字山口の出身とする記述と大きく異なる。
又、素堂の嫡孫山口素安の確認も出来て、『甲斐国志』の記述とこれも異なる。                                                                                                  素堂
 
「寿像感得の記」山口素堂消息『連俳睦百韻』佐々木来雪編。(佐々木一徳の来雪庵三世素堂襲名記念集)安永8年1779
此翁は、寛永十九年正月四日に誕じて、享保八月十五日寿七十有五にして終りをとれり。今も按ずるに、其の一周に当りて摂陽の茶瓢先師の恩恵を仰ぎ慕ひ熙心より生涯菊を友とし、無絃を愛し、園中に集める草庵の幽趣を捜写して、百世の筺とは成したるなるらん。両士の考心軟ずるに余り有りと言ふべし。
 
素堂……寿像の裏書
摂陽ノ隠士酒堂東都之大隠素堂之恩□(ママ)ヲ慕ヒ同志茶瓢ト寿像を製し畢ル享保二年酉八月也
 

俳諧余話〕『一話一言』巻の十三―大田南畝著。芭蕉翁の事

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俳諧余話〕『一話一言』巻の十三―大田南畝著。芭蕉翁の事
 芭蕉庵桃青、幼名は松尾金作、後甚七郎と改、藤堂和泉守家来也。目白臺下上水堀割の時、甚七郎其事をつかさどりしとぞ、其後日光御普請の事をつかさどりし時、何やらんあやまちありて 云々
 
〖三物〗
  漆せぬ琴や作らぬ菊の友           素堂
   葱の笛ふく秋風の薗(えん)        芭蕉
  鮎よはく籠の目潜(くぐ)る水落ちて     沾圃

元禄七年 ▽依水 三月七日付、曾良宛書簡 素堂の事

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▽依水 三月七日付、曾良宛書簡 素堂の事
来ル十八日の翁も参られ候筈に御座候。一席催し候間、素堂子御
誘ひなされ候ひて御出で下され候様に待ち奉り候。

素堂消息▼芭蕉 元禄7年五月十六日付、曾良宛書簡 素堂書物

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▼芭蕉 五月十六日付、曾良宛書簡 素堂書物
尚々宗波老へ 願置候素堂書物早々かへされ候と相申よし申上可被下候。 『芭蕉文集』(荻野清氏著)
尚々宗波老へ 預置候素堂書物早々かへされ候様ニ頼申よし御申可被下候。 『甲斐俳壇と芭蕉の研究』(池原錬昌氏著)

素堂消息 ▼素堂 元禄7年九月刊、戸田茂睡編『不求梨本隠家勧進百首』入集。

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▼素堂 九月刊、戸田茂睡編『不求梨本隠家勧進百首』入集。
すむ庵を世の人のかくれ家といふきゝて
人しれぬ身にますれはをのつから
もとむともなきかくれかにして   法し  茂睡
いりかある言葉の花の世にもれは
身のかくれかのかひやなからむ信章  素堂
隠家もとなりありとは言の葉の
道をわけたる人にしられて       幽山 高野
けふはまつよろつの民の言の葉に
治る御代の春をしるかな         清水 宗川
貝ひろふ蜑の子あまた数見えて
霞む海邊の春の朝なき           原  安適
 
【茂睡】寛永六年(1620)生、~宝永三年(1706)歿。
年七十八才。
戸田氏。通称茂右衛門、後に茂睡。渡辺監物忠(三河国戸田家から旗本渡辺山城守茂の養子となる)の子として駿府城内に生まれる。  父は主君徳川忠長の改易の事に坐して下野国黒羽に蟄居、茂睡も二十才まで同地で過ごした。
その後江戸の伯父戸田政次の養子となり、明暦元年~寛文十二年(一説には天和三年~宝永元年)の間、本多侯に仕官した。しかし本多侯の国政改革に際して浪人となり、晩年は遁世して浅草金龍山などに住んだ。祖父・父とも和歌連歌を嗜む名門で、環境に恵まれた。実作より歌学面に見るべき点があり、古今伝授や制詞を重んじる因襲的の堂上歌学に痛烈な批判を加えた。
著作書 『梨本集』『百人一首雑談』『僻言調』『鳥の迹』『紫の一本』『梨本書』『御当代記』など。
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