山口素堂消息『ふでの穐』素堂の嫡孫、素安の確認。享保20年 乙卯 1729
素堂亭のこと、素堂号を寺町百庵に譲ること、百庵は断わり佐々木一徳が継承すること。(『連俳睦百韻』)
『毫の龝』ふでのあき
執文朝が愛子失にし嘆き我もおなしかなしみ袂を湿すことや、往し年九月十日吾祖父素堂亭に一宴を催しける頃、
かくれ家やよめ菜の中に残る月
といひしは嵐雪が句なり、猶此亡日におなしき思ひをよせて
十日の菊よめ菜もとらず哀哉
かくて仏前に焼香するの序秋月素堂が位牌を拝す百庵素より素堂か一族にして俳道に志厚し。我又俳にうとければ祖父が名廃れなむ事を惜しみ、此名を以て百庵に贈らむ思ふに、そかゝるうきか中にも道をよみするの風流みのかさの晴間なくたゝちにうけかひぬによつて、素堂世に用る所の押印を添て、享保乙卯(二十年/1735)九月十一日に素堂の名を己百庵にあたへぬ。山口素庵
百庵……本姓越智氏、本名言満、名は三知、又は友三。号を道阿・梅仁翁・不二山人・新柳亭という。元禄五年(1692)生~天明六年(1786)歿。年八七才。
幕府の茶坊主で百俵二人扶持を受け、後坊主頭をつとめたが、事あって(柳営連歌の連衆となるべく運動する)鼓楼の時守に落とされ、後に小普請入りとなる。
《註》
…素堂の号について、歿後葛飾門を名乗り様々な俳号が生まれるが、それらは継承者を自負する人々の手による号が多い。百庵が素堂号を名乗った形跡は見られず、佐々木来雪が継承する。三世素堂襲名記念集、『連俳睦百韻』には『ふでの龝』で百庵は素庵に素堂号の襲名を勧められたが辞退した。