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山梨県歴史誤伝●素堂と濁川改浚工事 県内参考資料

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     素堂と濁川改浚工事
 
 素堂像を大きく歪めたのは元禄九年の濁川改浚工事への素堂の関与が、『国志』に劇的に記載されたことが起因である。
 この項はよく読んで見ると、時の代官触頭桜井孫兵衛政能の事蹟顕彰を「素道」の項を借りて記述している。こうした記述方法は他の人物の項などにはなく独特のものであり、講談調の語りを入れるなど「お涙頂戴」の構成になっている。
 素堂没後約百年経てから編纂された『国志』「素道」の項は素堂の事蹟、特に「濁川改浚工事」への関与を特書して、命を賭けて国を救った土木技術者として祭り挙げてしまった。後年になり事蹟顕彰の石碑が立ち土木書に引用され、山梨県内外の歴史書には素堂を義民の生神様としてしまった書もある。
 
     素堂と桜井孫兵衛&桜井社
 
 素堂は桜井孫兵衛より七歳年下であり、没年は素堂が享保元年、孫兵衛は享保十六年である。孫兵衛は甲府の代官を辞した後大阪に赴任している。
 孫兵衛の石祠と顕彰石碑は濁川のほとりにあり、地域の人々は今でも「桜井しゃん」として祀っている。この石碑は刻字もはっきりしていて正面には「桜井社」裏面には享保十八年建立、西高橋村・蓬澤村と刻字してある。これは桜井孫兵衛政能の姪斎藤六左衛門正辰(政能孫兵衛と兄政蕃は父定政の子で、政蕃の子政種、その子が政命で、斎藤六左衛門正高の家に婿に入り、斎藤正辰と名乗る…『寛政重修諸家譜』)が享保十八年(1733)甲斐に来た折に地元に建立させたものである。正辰は元文三年(1738)にも来甲して、その折には地鎮碑を建立している。碑文によれば桜井孫兵衛の生祠に関わる部分として、「政能死してから久しい。而して両村民はその恩を忘れることは能わず。乃ち政能を奉じて地の鎮めと為し、祠を建て毎歳これを祀る。ああ生きて人を益すれば、即ち死してからこれを祀るは古の典也」とあり、生祠では無い。
前述のように孫兵衛の没年は享保十六年であり、石祠の建立は十八年である。この石祠は明らかに生祠ではないことが明白である。
 山梨県の歴史書や紹介書は長年この石祠を生祠として記している。また『国志』以来素堂の「山口霊神」も合祀されているとの記述も見られるが、その存在を証する書もなく不詳であり石祠は現存しない。傍らにある石碑は孫兵衛の兄の子供が斎藤家に婿に行った斎藤正辰(当時勘定奉行の一員)が甲斐を訪れた時(正治三年)に建立したものである。正辰は孫兵衛の兄政蕃の子であり、斎藤家に婿入りしている。この石碑の刻文を後の『国志』が拡大引用したものである。残念ながら石碑刻文の中には素堂に関与する記述は見えず、孫兵衛の威徳を顕彰しているだけである。何故素堂が孫兵衛の事蹟の中に組み入れられたかは、それを示す史料が無く不明である。
 
     『甲斐国志』の創作箇所                                    
 
 元禄八年(1695)乙亥歳素堂年五十四、帰郷して父母の墓を拝す。且つ桜井政能に謁す。前年甲戊政能擢されて御代官触頭の為め府中に在り。
 政能素堂を見て喜び、抑留して語り濁河の事に及ぶ。嘆息して云う。「濁河は府中の汚流のあつまる所、頻年笛吹河背高になり、下の水道(みずみち)の塞がる故を以て、濁河の水山梨中郡に濡滞して行かず。云々   
 然れども閣下(素堂)に一謁して、自ら事の由を陳べ、可否を決すべし望み、謂う足下に此に絆されて補助あらんことを」
 
「素堂答えて云う。人は是天地の役物なり。可を観て則ち進む。素より其分のみ。況んや復父母の国なり。友人桃青(芭蕉)も前に小石川水道の為に力を尽せし事ありき。僕あ謹みて承諾せり。公のおうせにこれ勉めて宜しくと」云々
 
 素堂は薙髪のまま双刀を挟み再び山口官兵衛を称す。幾程なく政能許状を帯して江戸より還る。村民の歓び知りぬべし。官兵衛又計算に精しければ、是より早朝より夜遅くまで役夫をおさめて濁河を濬治【水底を深くすること】す。云々
 是に於て生祠を蓬澤村南庄塚と云う所に建て、桜井明神と称え山口霊神と併せ歳時の祭祀今に至るまで怠り無く聊か洪恩に報いんと云う。
 
 
 ●『甲斐国歴代譜』
(なんとも味気ない記述)
  元禄九年丙子三月、中郡蓬澤溜井掘抜仰付、五月成就也。
 これが幕府の正式な書類である。河川工事は幕府直轄事業であり。国志のいうような工事形態は有り得ない。
 
 ●『竹洞全集』幕府儒管人見竹洞著
 
 元禄八年夏、素堂の母卒 素「堂山子八旬老萱堂  至乙刻夏忽然遭喪」
 
(素堂の墓があるとされる 甲府市 尊体寺の墓所と墓石は素堂とはまったく関係ないもので、後世において付帯された石物もあるが、肝心の市右衛門家の墓でもない、この家の母は元禄三年に没とあるが、これは間違いか他人のものである。なおこの墓所は寄せ墓で甲府勤番士やその関係者の墓石刻字も見える。素堂の母は元禄八年。妻の死は元禄七年九月である。)
 
 素堂は元禄六年に林家に入門。七年の冬に妻と盟友芭蕉を亡くし、八年夏には母を亡くしている。

 ●『甲山記行』素堂著
 
 それの年の秋甲斐の山ぶみをおもひける。そのゆえは予が母君がいまそかりけるころ身延詣の願ありつれど、道のほどおぼつかなうて、ともなはざりしくやしさのまま、その志をつがんため、「また亡妻のふるさ」となれば、さすがになつかしくて葉月の十日あまりひとつ日かつしかの草庵を出、云々
 十三日のたそがれに甲斐の府中につく。外舅野田氏(妻の父)をあるじとする。云々
 重九の前一日かつしかの庵に帰りて(九月八日)
        旅ごろも馬蹄のちりや菊かさね
 素堂は元禄八年八月十一日に来甲し九月八日に江戸葛飾に帰っている。
素堂が元禄九年に甲斐に居て、三月から五月まで孫兵衛の手代として濁川改浚工事を指揮した事を示す史料は見えない。また『甲山記行』には孫兵衛と会ったことや濁川改浚工事への関与を窺わせる記述は無く、『甲斐国歴代譜』は淡々と工事の開始と終了を告げている。(空白の日時はある)
 素堂の府中の宿は外舅野田氏宅である。外舅野田氏とは素堂の妻の父親である。(別記)
 
『裏見寒話』
 
  元禄七年~十四年
        御代官触頭 桜井孫兵衛
          〃     野田市 右衛門
        御入用奉行 野田官兵衛
 
素堂は実家山口屋を訪れたのであろうか。当時も素堂没後も山口屋市右衛門は居た。素堂の弟が家督を継いだという山口家と府中魚町山口屋市右衛門家は同一なのだろうか。これも明確な資料が不足で言及できない。
 
 ●『国志』素道の項
 
舎弟某に家産を譲り、市右衛門を襲称せしめ、自らは名を官兵衛と改むる。時に甲府殿の御代官桜井孫兵衛政能と云ふ者、能く其の能を知り頻に招きて僚属となす。居る事数年、致任して東叡山下に寓し、云々
 
 素堂が江戸に出たとされるのは二十歳の頃とされているが、孫兵衛は素堂より八歳年下である。従ってこの時点で孫兵衛の僚属となることや、甲府代官になっていることも有り得ない。 
 
     『山梨県史』「資料編九」元禄八年
 
覚 金割付御奉行所より被遺候文 小判十両 うを町 市右衛門
 
 ●『山梨県史』「資料編九」近世2甲府町方 享保二年(1715)
 
        御用留口上書 御巡見様御泊之節御役人衆留書 町役人詰所  魚町市右衛門
 
 ● 『甲府市 史』「資料編第二巻」近世1享保八年(1723)
 
山梨郡府中分酒造米高帳  魚町 山口屋市右衛門
         元禄十年(1697)造高四十三石五斗
         享保八年(1723)造高 十四石五斗
  当時山口屋は西一条町にも存在した.
        西一条町 山口屋権右衛門
         元禄十年(1697)造高四十二石二斗八升
         享保八年(1723)造高 十四石八斗
 
 山口屋は酒造業とすれば決して大きいほうではない。伝えられる説では素堂家は素堂が幼少の頃現在の 北巨摩郡白州町 下教来石字山口を出て府中魚町に移り住み、忽ち財を成したと云う。 しかし生地とされる下教来石字山口地区にはそれを示す資料や史実は見えず、『国志』以後の「戻り歴史」で、中央の書を見てそこに書されている事象を地域に当てはめる歴史それが「戻り歴史」である。
 『甲山記行』の「また亡妻のふるさとなれば、さすがになつかしくて」のふるさとを身延とする説もあるが、「甲斐の山ぶみをおもひける」を踏んで甲斐が亡妻のふるさととも解釈できる。むしろこの方が自然である。素堂の妻は元禄七年に没している。盟友芭蕉が大阪で十月十二日に没したとき素堂は妻の喪に服していた。
 
 ●「素堂、曾良宛て書簡」抜粋
 
  野子儀妻に離れ申し候而、当月は忌中に而引籠罷有候。
  桃青(芭蕉)大阪にて死去の事、定而御聞可被成候。
  云々
 
 これは素堂の妻の存在は河合曾良に宛てた書簡により明確である。素堂の母も人見竹洞の事を伝える『竹洞全集』により元禄八年夏に急逝したことがわかる。素堂の母の没年には元禄三年説があるが、元禄八年逝去が正しい。また府中山口屋市右衛門の母の墓石が甲府尊躰寺にあるが、これが素堂の母の墓石である可能性は極めて低く、側面の「市右衛門 老母」の刻字は不自然である。また尊躰寺にあったと『国志』が記す素堂の法名「眞誉桂完居士」も同様である。素堂の法名は現在も谷中の天王寺(当時は感應寺)の位牌堂に安置されていて、法名は、「廣山院秋厳素堂居士」である。         
 従って『国志』の「元禄八年乙亥歳素堂年五十四、帰郷して父母の墓を拝す」は史実ではなく創作話である。
 素堂の父の存在は資料が無く明確に出来ない。父は素堂が何歳まで生存していたかもわからないが、何れにしても素堂家の墓は江戸に在ったとするほうが自然である。先代の山口屋市右衛門の墓は尊躰寺の墓所内には見えず、山口屋及び「山口殿」代々の墓所は何処に存在したのであろうか。
 
 ●『甲斐国志』巻之四十三 「庄塚の碑」
文化十一年(1814)刊行(前文略)
 
 代官桜井孫兵衛政能は功を興して民の患を救う。濁川を浚い剰水を導き去らしむ。手代の山口官兵衛(後に素堂と号す)其の事を補助し、頗る勉るを故を以て、二村の民は喜びて之を利とす。終に生祠を塚上に建つ。桜井霊神と称し正月十四日忌日なれども今は二月十四日にこれを祀る。
 
側らに山口霊神と称する石塔もあり。云々
 
後の斎藤六左衛門なる者。地鎮の名を作り、以て石に勒して祠前に建つ。
 
とあるが、はるか以前の『裏見寒話』には、素堂の関与は示されてはいない。
 
 ●『裏見寒話』巻之三 宝暦二年(1752)『国志』より六十年前の書(野田成方著)
 
 昔は大なる湖水ありて、村民耕作は為さず、漁師のみ活計をなす。其の頃は蓬澤鮒とて江戸まで聞こえよし。夏秋漁師の舟を借りて出れば、その眺望絶景なりしを、桜井孫兵衛と云し宰臣、明智高才にして、此の湖水を排水し、濁川へ切落し、其の跡田畑となす。農民業を安んす、一村挙げて比の桜井氏を神に祭りて、今以て信仰す。蓬澤湖水の跡とて纔の池あり。鮒も居れども小魚にして釣る人も無し。
 
●『甲斐叢記』(国志を引用)嘉永元年(1848) 大森快庵著(前文略)
 
 元禄中桜田公の県令桜井政能孫兵衛功役を興め二千四間余の堤を築き濁川を浚い剰水を導き去りて民庶の患を救へり。
 属吏山口官兵衛(後素堂と号し俳諧を以て聞ゆ)其事を奉りて力を尽せり。因て堤を山口堤又素堂堤とも云と称ふ。諸村の民喜ひて生祠を塚上に建て、桜井霊神、山口霊神と崇祀れり。云々

●●濁川工事の概要
 さてここで、濁川改浚工事の概要が詳しく著されている資料があるのでここに提出する。
 
●『山梨県水害史』
 
 古老手記(未見、不詳)元禄九年の条に三月二十八日、蓬澤村の水貫被仰付(中略)五月十六日八つ時分に掘落申候へば、川瀬早河杯の様に水足早く落申候。(中略)
 桜井孫兵衛政能なる人、此苦難を救わんとして来り、堤を築き、河を浚い、以て湖水を変じて良田に復す。而して此工事には山口官兵衛なる人補助役として努力し、其土工の俊成を迅速且つ完全にならしめたりと云ふ。(中略)また桜井孫兵衛等によりて、中郡一帯安全の土と為りたる効を沒す可かならず、地方土民等其遺績に感激し桜井孫兵衛を祭りて桜井霊神とし今日至る迄に崇敬を厚うする亦宜なる哉(後略)
 

素堂が指揮したという●山梨県濁川改浚工事の概要  諸資料

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●●濁川工事の概要
 さてここで、濁川改浚工事の概要が詳しく著されている資料があるのでここに提出する。
 
●『山梨県水害史』
 
 古老手記(未見、不詳)元禄九年の条に三月二十八日、蓬澤村の水貫被仰付(中略)五月十六日八つ時分に掘落申候へば、川瀬早河杯の様に水足早く落申候。(中略)
 桜井孫兵衛政能なる人、此苦難を救わんとして来り、堤を築き、河を浚い、以て湖水を変じて良田に復す。而して此工事には山口官兵衛なる人補助役として努力し、其土工の俊成を迅速且つ完全にならしめたりと云ふ。(中略)また桜井孫兵衛等によりて、中郡一帯安全の土と為りたる効を沒す可かならず、地方土民等其遺績に感激し桜井孫兵衛を祭りて桜井霊神とし今日至る迄に崇敬を厚うする亦宜なる哉(後略)
 
 ●『元禄年間濁河改修事蹟』武井左京氏著『甲斐』第二號P31~36《》印筆者
 
 濁河は、甲斐国志に「高倉川・藤川・立沼川・深町川等城屋町の南板垣村の境にて相會する虞に水門あり、是より下を濁河と名つく。東南へ湾曲して板垣界より中郡筋の里吉・國玉両村の間を南流す」とあり。改修以前は現今の玉諸村の内里吉・國玉の界を南流し、同村の内蓬澤を経て住吉村の内増坪の北横手堤(信玄堤)に抵り、一曲して東に向ひ玉諸村の南にて笛吹川(明治四十年の大水害にて改修せられ今は平等川となれり)に合流したるものなりしが、延宝年度頻年の大出水にて笛吹川瀬高になり、川尻壅塞して平常水患を被るもの沿岸村九ケ村即ち現在の里垣村の内坂折・板垣、王諸村の内里吉・國玉・西高橋・蓬澤・七澤・上阿原、往吉村の内畔村にして就中西高橋・蓬澤、最も甚敷田園過半沼地となり鮒魚多く生産す。其頃物産の一なりしと云ふが如き状態に陥りたるを以て排水の為當時の合流地點より約十四五町の下流西油川(往吉村の内)附近に於て濁河を笛吹川に合流せしむべく計画したるに、対岸東油川村( 富士見村 の内)に於いて故障を中立たるを以て遂に工事に着手すること能はさりしを以て
 延宝三年(二百五十六年前)《1675》正月西高橋、蓬澤村の名主長百姓連書し、
 延宝二年《1674》八月度々出水にて田畑は勿論住宅迄浸水し、居住困難に陥りたるを以て何れにか移轉を被命度且つ東油川村の意向を取糺したるに、既定計画の合流口を多少の変更を為すに於いては異議なき旨に付、
 同春《延宝二年》中に工事を遂行せられ度旨奉行所に訴へ出たり。
 其の後十一年貞亨年丙寅年(二百四十五年前)《1686》六月十二日出水浸水床上四寸に至り畑作物皆無となれり。
 同四丁卯年《1687》八月二十七日出水あり。
越へて元禄元戊辰年《1688》七月二十日・二十一日に亘り大出水家屋内浸水五六尺に達し溺死者を出し、田畑共作物皆無となり示後八月十日及九月の両度出水あり。
 同二年巳年《1689》四月九日・五月二十九日・六月十八日・十九日同二十四日の数度出水あり。
 同《元禄二年》七月六・七日に旦る大出水は元禄元年七月の出水より三寸の増水にて浸水十日の久しきに旦り。田畑の作物皆無は勿論床上浸水一尺三寸に至りたるを以て沿河九ケ村の名主長百姓連署を以て、「本年七月の出水は前舌未曾有の人出水にて田畑は勿論、西高橋・蓬澤の両村は住家の軒端迄浸水したるが如き惨状を呈したるを以て、先年目論見の排水工事に付ては対岸東油川村に於て合流點を少々下げらるゝに於ては支障なき旨に付変更の上工事遂行」方奉行所に訴へたり。
 翌三庚千年《1690》六月六日及九月六、七日数度の出水ありたるを以て十月中前年八月同様沿河九ケ村名主長百姓より前願趣旨を継承し「排水口に落合村(山城村の内)用水先年落来りし。蛭澤堰落口又は荒川へなり何れへなり共決定、工事遂行せられ度旨」前同断訴へ出たり。
同四辛来年《元禄四年》二月三日川除奉行臨検實地に就き排水路の測量をなしたり、
 同四月中「水路工事の義、着手に全らず荏再経過せられ数度の出水にて村民困難に陥りたるを以て工事遂行の件、轄地に於て難決幕府に上議せらるゝ」とせば村役人幕府に出頭すべきに付添翰を下付せられ度申立
 同《元禄四年》五月中「當春、川除奉行實地臨検の結果落合村(山城村の内)用水落口に九ケ村出願の排水路落口に見立られ右は何れも故障を生ぜざものに付右目論見の通工事遂行方」訴の上、
 同月十一日西甘高橋・蓬澤村の村役人八名江戸に出立排水路堀塞之義を幕府に申立たるも右落口は上曾根村の対岸に當れるを以て同村の意嚮を慮り差控られ詮議の運に至らざりしに、
 同年《元禄四年》六月四日又々出水あり。同間八月引績き落合村蛭澤堰落口に堀鑿すべく目論見たる排水工事遂行に至らざるを以て西高橋、蓬澤両村は排水の為困難を極め居住に難堪、他に移轄の己を行ざる場合に立至りたるに付荒川に排水せられ度旨訴べたり。
 翌五壬申年《1692》は五月三、四日及七月二十一日両度、 同六癸酉年《1693》は四月二十五日、七月二一・四・五日、九月十二一日、十八日数度の出水を重ね、
 翌七甲戊年《1694》富時櫻田殿甲府宰相松平綱豊(後の徳川家宣文明公)の領地たりしとき櫻井政能代官として任に    むや同年も五月閏五月十九日、七月三日、八月二日数度の出水あり西高橋、蓬澤は最も卑地なるを以て田畑多く沼淵となり(此時に當り村民魚を捕へ四方に鬻き食に換へ蓬澤の鮒魚本州の名産たりし)降雨毎に釜を吊し床を重ね稲田は腐敗し収獲毎に十の二、三に及ばず前に水中に没したる者数十九戸、既に善光寺〈里垣村の内)の山下に移轉し、残余の者も居住に堪へさらむとするに至り、政能憂慮し屡々上聞に達したるも聴されず、
 同八乙亥年《1695》四月三十日實地踏査の上意を決し之を幕府の老臣に訴へ遂に許を得、
 同九丙千年《1696》(二百三十五年前)三月二十八日濁川の流域を西高橋より落合村に至り笛吹川に合流変更するの計画を致表し
 四月二日より川除奉行をして實地を調査せしめ増坪より落合迄延長二千六間(甲斐団志には二千一百有余間とあり)廣き四、五問より六、七間外に附工事たる蛭澤堰附替千四百五十七間にして千二百を請負に付し其の他は關係村に夫役を賦課し
 四月十五日より工事に着手し西油川村に於て民家拾軒の移轉を要し
 五月十六日悉皆竣工、其の夜の中に排水を了し田圃悉く舊に復し沼淵枯れ稼穡蕃茂し民窮患を免かるヽに至れり。
村民其の洪恩を感載し政能の生祀を建て(蓬澤庄塚)之を祀る爾来祭祀を懈ることなく元文三戊午年《1738》(百九十三年前)孟夏従子斎藤六左衛門正辰祇役して此に至り石を司に樹て地鎮の銘を勒せり《地鎮銘略》
 此役に要したる人夫一萬三千五百三十四人《延べ人数》
  内夫役      三千百四十九人
  請負金      二百二十両
  其の他      六一十両差分
  民家移轉    十七両貳分五百文
  総計        三百両三分銭五百文
 
 ●元禄年間の濁川の水害史
 
元禄元年 1678 
七月二十日   
大出水、田畑皆損、
二十一日
人畜死傷あり。                                    
 八月十日    
 出水、蕎麦皆損、笛吹川唐柏にて切れたる為水引早し。
 九月        
 唐柏にて八月の切所水留をなしたるを以て雨降らずとも水堪へ少しも麦蒔くるず。                                    
 
元禄二年 1679
 四月九日
出水、麦及中作豆小豆皆腐る。
  五月二十九日
 出水、此年は春より雨降り東之野は半分作物蒔きは不能。
  六月
 出水、添栗、小豆、等蒔き付けたるも皆損。
        二十四日 
 出水、萩原筋の夕立にて出水。                            
 七月六、七日 
大出水、家屋内五、六尺十日迄水湛へ田畑皆損、潰家二軒、元禄元年の水より三寸多し。                                    
 
元禄三年 1690
 六月六日   
出水、家屋内二、三尺、二年の水より一尺少し十日迄水湛へ畑は皆損。
 九月六、七日 
家屋内少し水湛へ此水村内は十日迄湛へたり。
 
元禄四年1691
 二月三日
川除奉行主張、新掘の水盛を為し幕府に申立。   
五月十一日
村役人八名江戸に發足新掘の義に付申立たるも、新掘の落口は上曾根村向に當りたるを以て遠慮せらる。                                    
   六月四日  
出水、家屋内迄水湛へ大豆、小豆腐る。
 
元禄五年 1692 
五月三、四日 
出水、元禄四年六月の水と同様。
七月二十一日 
大出水、畑皆損。
 
元禄六年 1693
 四月二十五日 
出水、麦、大豆、小豆皆損。
   七月
   出水、四月より三尺多多し、耕作皆損。
  九月 十三日 出水。
 
元禄七年 1994
 五月十六日  
出水。
 閏五月十九日  
出水。五月より三尺多し畑皆損。
   七月三日   
 五月より一尺多し、耕作皆損。
   八月二日   
 大出水。七月の水に一尺多し、六日より家屋内に水湛ゆ、九日亦切れて二十三日迄浸水。                                    
 
元禄八年 1995
 四月三十日
改修工事、櫻井孫兵衛外一名掘瀬實地検分。                                    
元禄九年 1996
 三月二十八日 
改修工事、蓬澤水抜仰出さる。
   四月朔日   
 改修工事同上十四ケ村に仰出さる。
  四月二日   
川除奉行戸倉八郎左衛門、熊谷友右衛門見分として出張増坪より落ち口迄千八百間。                                    
 四月五日
掘始め板垣、坂折、里吉、国玉、上阿原、七澤、西高橋、蓬澤、畔村、増坪、 上村 、小瀬、落合、下鞍冶屋、千二百間は入札せり。     
 
掘始め入札二百二十両にて堀方土手方、水門打切共に請負西油川民家十軒余堀瀬に相成請負人に申付 上村 小瀬にて屋敷を下げ、五月朔日移轉。
 
元禄九年 1997
 五月十六日  
掘瀬落成。川瀬早川の様に水足早く相成其の夜の内に村内の水落ち申し候。
         濁川蛭澤通二口〆
 
  一、長              千九百八十九間   濁川通
         此人足        九千六百三十八人
         内長          四百七十二間
         此人足        二千七十二人     十四ケ村出人足
 
  一、長              千二百四十一間
         此人足        三千八百九十六人
         内長          四百六十三間
         此人足        千七十九人       十四ケ村出人足
         外長          二百十六間西     高橋村御杯之内
         此人足        四百十三人       土手上置
         長二口合      三千二百三十間
         人足合        一萬三千五百三十四人
         内村出二口合  九一百二一十五間
         人足合        三千百十九人
 
 『蓬澤村明細帳』享保十九年(1724)
  
 貳十年己前元禄拾四巳年
   西御丸様内領地の節、石原七右衛門様御検地
        庄塚 二間三間  一字庄ノ木 村支配
   是ハ山梨群郡油川村の庄塚にて御座候

●素堂の家と家系 素堂は白州町山口の生まれではない

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●素堂の家 
 《参考資料》「竹洞日記」幕府儒官人見竹洞著《元禄六年夏》
        癸酉季夏初十日与二三君乗舟泛浅草川入 
        川東之小港訪素堂之隠窟竹径門深荷花池涼
        松風繞圃瓜茄満畦最長広外之趣也
元禄九年九月 江戸町奉行 地子屋敷帳
 
●素堂の抱え屋敷《参考資料》元禄九年本所深川屋敷帳 深川の条
 素堂抱え屋敷
        四百三拾三坪後、元禄十五年 四百二十九坪
 この土地は郡代伊那半十郎屋敷跡地である。元禄十五年には四坪減少しているが、この原因はわからない。素堂の屋敷は享保二十年までその存在が確認できる。広大な住家の他に抱え屋敷を持つ素堂、草庵はほんの一部に過ぎないのである。
 素堂が濁川工事に関与していたかどうかの資料不足は否めないことが理解されたと思う。また直接の関与も疑わしい。素堂は、この年に度重なる家人の不幸や盟友芭蕉の死去により、精神的に相当落ち込んでいて、俳諧活動も少ない。素堂は元禄八年の「身延詣」が終わると江戸に戻っていた。元禄九年の三月~五月にかけて甲府に居たとする資料は見当たらないのである。

甲府市 山口素堂の墓の墓石調査                                   
 
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●『連俳睦百韻』にみる家系
 安永六年(1777)『連俳睦百韻』佐々木来雪、三世素堂号襲名記念              
 寺町百庵序文中
 
 抑々素堂の鼻祖を尋るに、川毛(蒲生)氏郷の家臣、山口勘助良佞後に佞翁と呼ぶ町屋に下る。山口素仙堂太郎兵衛 信章俳名来雪その後素仙堂の仙の字を省き素堂と呼ぶ。其の弟に世をゆづり後の太郎兵衛、後法体して友哲と云ふ。後桑村三右衛門に売り渡し詫屋に及ぶ。其の三男山口才助訥言林家の門人 尾州摂津公の儒臣、其の子清助素安兄弟数多くあり皆死す。其の子幸之助。詫名片岡氏を続ぐ。云々
 素堂の生まれ----寛永十九年一月四日生まれ。
 
●『甲斐国志』
…註…『連俳睦百韻』と『甲斐国志』の記述を比較すればその違いがよく理解できる。
 
 素道
 山口官兵衛と云ふ。姓は源、名ハ信章。字ハ子晋。一に公商とも云ふ。其の先は州の教来石村山口ニ家ス。因氏と為す。後に居を府中魚町に移す。家頗る富ミ、時の人は山口殿と称ス。信章は寛永十九年壬午五月五日生ル、故ニ重五郎を童名トス。長ジテ市右衛門と更ム。蓋シ家名ナリ。遂舎弟某ニ家産ヲ譲り、市右衛門を襲称使め、自らは名を官兵衛と改むる。
               
 
●山口屋市右衛門 『甲州文庫資料第二巻 魚町宿取上帖』 延宝元年(1673)
 
 二月 当月九日に 西郡筋いますわ村 拙者母気色悪敷御座候故いしゃにかかり于今羅有候
 四丁目 市右衛門
 
●『甲斐国志』文化十三年(1816)
 
 少々自り四方ノ志アリ。屡々江戸に往還して章句を林春斎に受く。亦京都を遊歴して書を持明院家に学び、和歌を清水谷家に受け、連歌は再昌院法印 北村 季吟ヲ師トス。松尾  芭蕉ト同門なり。俳諧を好みて宗因梅翁と号す大阪の人信徳伊東氏京都の人等ヲ友トシ、假リニ来説ト号ス。亦今日庵ト号ス。蓋シ宗旦ノ授クル所カ。
 
●『連俳睦百韻』 明和二年(1765)山口黒露編
 
 学ハ林春斎の高弟、和歌は持明院殿の御門人なと、舞曲は室生良監秘蔵せし弟子入木道の趣、茶子の気味は葛天氏の好き者也と拝し給ひし。あるは又算術にあくまでも長じ給  ひけるも、隠者におかし。
 
●『素堂句集』 享保六年(1732)子光編
 
 隠逸山口素堂信章は、江上の北東浅草川領国橋の傍ら、下総の国、葛飾の郡の内に於て廬を結び、歳月を経て久し。稟性の志多く、固より貨財を以て世事を経ず。心偏らず雪  月花の風流を弄ぶ。弱冠より四方に遊び、名山勝水、或いは絶たる神社、或いは古跡の仏閣とあます事無く歴覧す。詩歌を好み猿楽を嗜み、和歌俳句及び茶道に長けたるなり。云々
 
●『奥の細道解』 天明七年(1787) 来雪庵素堂(佐々木来雪)
  葛飾の隠士素堂は我先師なり。芭蕉翁友とし善、俗名山口太郎兵衛、名は信章俳号は素仙堂来雪なり。本系割符の町屋にして、世々倣富の家なり。性、詩歌を好み又琴曲を学び又謡舞に長ず。家産を投ち第は山口胡庵に譲り、云々

山口素堂と江戸の儒者との交流について 紹介記事

『連俳睦百韻』 これが正しい素堂の系譜 全文掲載

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甲斐国志以前に書かれた『連俳睦百韻』全文掲載

 和歌に再貫之なし、連歌に宗祇なし、然るに近来たはれうたに古人の芳名を着ることあり。徳を慕ひ侍る故へ願ふ。其の始めは無関門と云ふ。
芭蕉柱杖 
芭蕉和尚示ク 汝有ラハ柱杖子一  我与柱杖子ヲ クバ柱杖子 
我汝ハン柱杖子  
読み下し〕
芭蕉柱杖
芭蕉和尚衆に示して云く、汝に柱杖子有らば、我汝に柱杖子を与えん。汝に柱杖子無くんば、我汝が柱杖子を奪はん。
〔説明〕ここで云う、芭蕉和尚は芭蕉慧清で新羅の人。
百庵謂らく、無関門芭蕉和尚あり。俳諧子に芭蕉庵桃青あり。俳諧を以て世に鳴る。深川の片邊に形ばかりの庵を結びて生涯楽隠。
其の頃和漢の才子、かつしかの隠士山口素堂翁を友とし睦みあへり。桃青庵中庭の邊に芭蕉一株を栽ゆ。繁茂して人称す芭蕉庵、人の呼に従ひて翁自称す。桃青没後に記念として素翁の庭に移さる。贈者も蕉翁、貰人も素翁、殊によき遣物なりけらし。されどほどなくして枯れにき。
往昔、水無瀬御流に有らん。其の心の坐を隔て松あり。御目とヾめさせ給ふなり。
後鳥羽上皇遙の御流の後
いにしへは萩もあるじを志たいにき 松ぞ人をもおもはざりけり
といふ御歌をその松にかけさせ給ふ間、枯るとや。
(出頓阿井蛙抄雑談
百庵庵云ふ、松は年寄堅正之木 不霜雪不凋四時 かくの如きものする□る事あり。
芭蕉は秋風に不甚殊に草なり。然といへども陸佃日嶺南ノ芭蕉尤高大、冬不壊儀多生子。百庵熟謂ラク、暖頃風出るに従て異ナル乎。草木心なしと雖も主人を慕ふ事貴賎相ヒ同じ。雪裏ノ芭蕉ハ摩詰ガ画と、天ノ梅蘂(まいずい)ハ簡斎ガ詩(摩詰吾詩自負トリ簡斎集山谷同人)雪中王維画多不門四時桃李芙蓉蓮衰安 雪図ニ有リ雪中芭蕉象安得心年意到レバ便(スナワ)也。原安適ノ芭蕉追悼に「あはれ芭蕉の霜のよの中」と詠れたり。安叟其ノ頃「以和歌鳴于世」芭蕉・素堂・沾徳誰彼門人也。蓋、桃青宗祇法師の遺風名勝地をたづね旅泊を宿とし、生涯旅に終
新古今集に
世にふるはくるしき物をまきのやに やすくもすぐる初しぐれ我
とあるをとりて宗紙法師 
世にふるはさらにしぐれのやどりかな 
是をとりて芭蕉庵桃青 
 よの中はさらに宗紙のやどり哉
と無季の発歌をなす。(有僻説)此の短冊を深川長慶寺に門人古杉風おさめ墳碑を建つ。其の後柳居再興して新たになす。芭蕉俳諧中興の祖、其の門流今に昌(さかん)なり。是陸佃が嶺南の芭蕉尤も高大、多く生子といへるに叶ふ。
 世にふるは朽ぬ芭蕉のしぐれ哉   百庵
蕉翁没後、素翁上京の砌、吾友芭蕉の墳葉に手向て
志賀の花水うみの水それながら   素堂
是は一休禅師
山城の瓜や茄をそのままに 手向になすぞかも川の水
此の歌の面影也。
素堂翁退隠の後、しのはすの蓮他に十蓮の佳句あり。其ノ後深川阿武に移る。
享保元八月十五日に終る。谷中感応寺中瑞音院に葬る。
 志のはずの水手向ばや秋の月    百庵
是前に蕉翁を素翁追悼の句による者也。元しのはずに住み、今谷中に葬るによりて也。
抑々素堂の鼻祖を尋るに、其ノ始メ河毛(蒲生)氏郷の家臣山口勘助良佞〔後呼佞翁)、町屋に下る。山口素仙堂太良兵衛信章俳名来雪、其の後素仙堂の仙の字を省き素堂と呼ぶ。
其の弟に世をゆずり、後の太良兵衛後ち法體して友哲と云ふ。後ち桑村三右衛門に売り渡し婚家に及ぶ。其ノ弟三男山口才助言は林家の門人、尾州摂津侯の儒臣。其ノ子清助素安兄弟数多クあり皆な死す。其ノ末子幸之助佗名片岡氏を続ぐ。雁山ノ親は友哲家僕を取立て、山口氏を遣し山口太良右衛門、其ノ子雁山也。後チ浅草蔵前米屋笠倉半平子分にして、亀井町小家のある方へ智に遺し、其の後ち放蕩不覊て業産を破り江戸を退き、遠国に漂泊し黒露と改め俳諧を業とし、八十にして終る。
蓋、古素堂翁和漢の方士、芭蕉翁に省る叟にあらず。□然此の叟詩歌を弄び茶事を好むらん。其の余多芸、俳諧の妙手なるといへども俳諧のみにあらず。門弟子をとらず、誠に絶者なりけらし。然るに蕉翁俳諧を好み是に妙也。行状侘びに超て閉逸に其の妙今に絶す。国々在々までも崇る事仏神の如し。蕉翁の末弟乙由後ち麦林と呼ぶ。于時佐久間長水、後ち彼が門弟となる。始め沾徳の門人、沾徳六十五にして死す。『白字録』と云ふ追悼集を撰す。其の子勢吉五つの時歳旦を長水催す。
彼が句に
 はま弓や取て五ツの男山    勢吉
勢吉長水の代句をして引附を出す。後ち麦林が門人に入りて麦阿と呼ぶ。それより東武蕉翁の門流多く、猫もしゃくしも、芭蕉と云へば俳諧子のやうになれり。是れ蕉翁の徳の至にやあらん。手鑑佐々木一徳来雪は、黒露が門に入りて俳諧を弄ぶ事ねもころなり。予も往昔知己なれり。是蕉翁の徳の至りにやあらん。
 于茲佐々木来雪は黒露の門に入りて俳諧を弄ぶ事ねもころなり。予も応昔千古なき素堂翁を信仰し、今般素堂の芳名を附て、来雪安素堂と改名したき由予に告ぐ。予も其の名の事は四十余、素堂の孫素安が我に名各乗るべき由を伝え、恐れあれば不名乗。其の趣きは予が撰る『毫の秋』と云ふ編集の中にしるす。乃、之の後ち素堂と関防の印に著はす。其の事『毫の秋』に委しく述ぶ。然るに素仙堂大路と云う者、今亥初度小冊を催し、素仙堂の芳名を付けて侍る事、尤も縁なき者にして紛れ者なりと予に告ぐ。それはともあれ来雪庵素堂、汝ならで有べからざると、佐々木民某に免し与ふるものなり。
しかいふものは、古素堂の外甥黒露、素翁嫡孫素安、親族百庵かく聯綿と伝来正しき三世の素堂云々

素堂 山田宗偏『利休茶道具』 の序文を草す

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素堂二件 朝倉治彦氏著 一部加筆

素堂二件 - J-Stage www.jstage.jst.go.jp/article/haibun1951/1959/.../ja/

朝倉治彦. 公開日 2010/08 /10. 本文PDFプレビュー. 本文PDF [282K]. 抄録. 本文PDF [282K]. Copyright © 俳文学会.による。
   一
 最近、山田宗徧(偏)の著書を読まねばならぬ必要があって、上野図書館にあるものを一見した所、『利休茶道具』(大本二冊、図書館本刊記なし)に山口素堂が序文を与えているのを知った。序文中に『喫茶の友』と言う文字が見える。宗偏は宗偏流の開祖で、千宗旦に学んで、利休伝来の四方釜を授けられたので四方庵と号した人で、明暦元年(1655)三州吉田の小笠原忠知(後年唐津藩主となった小笠原家)の茶頭となり、元禄十年(1697)致して、江戸に出て、本所二丁目に茶室を構えた。(素堂が)宗偏の書に序文を書いているという事は、簡単なる関係ではない筈で、素堂の茶道方面をこの辺りが探りを入れてみる緒になるのではなかろうか。此の序文は素堂の自筆坂下と目されるが、二□(不明)の印の内の一つは、未だ読めていない。「壬午夷則」は元禄十五年七月である。
 
世雖遊芸者礼無点茶之交我聞礼始於飲食ヨリ蓋拗地而貯飲食モテ之時其理既備而後礼儀三百威儀三千簠簋籩豆類之類皆自然所之者也
茶器之行於世ニ亦然リ矣熟想強定式法数斯道マタルモ定式法数実斯道ヲ者
爰山田氏宗偏撰茶亭之定数及茶器之図法而示サル後学是応マサニ而筌之意ナル矣宗偏夫何人也ソヤ千氏宗旦老人之高弟而究宗易居士少庵翁所授受之道以テ譲於不審庵之人也雖然以旦老之子孫有ルヲ数多漫不其号旧呼四方庵于茲矣去甲寅之冬応或人之需而界四方庵之額門人之勧茶亭挑不審庵之額且従是号宗易居士四無之不審庵者也
予以喫茶之友此趣聯題スル篇首
元緑壬午夷則上旬濺筆於円荷露
葛村隠素堂
 陽刻   (不明)
                陰刻 素堂
 
    二
次に、『竹堂全集』中に見えるものを事の序に紹介して置く。これは、既に知られているものであるが、一般化してないと思われるので、『竹堂全集』中の素堂の名のはっきり出ている箇所を示す事にする。
 
癸西季夏初十日与二三君子乗舟泛浅草川入川東之小港訪山素堂之隠窟竹径門深荷花池凉松風繞圃瓜茄満畦最長塵外之趣也偶掲竹深荷浄為題分童稚不知衣冠為韻得不字
 
遙問水村幽白無塵暑受隔園蓮三潭挾門竹数畝曾希濂渓賢又引徂徠友琅玕素堂簾 琥珀碧阝焉趣其猷為酔吟独何不曳杖晩風清凉月上東阜 
同韻偶興 
喁白笑言爵禄非受至楽書一棚足食田百畝経史尚古師農漁忘年友納凉竹与荷坐園
茶当酒童稚 龐鼓吹聞夫不松風入素琴高歌天民阜(巻一)
〔注記〕誤写か(他資料と比較)
琥珀碧酒  の字が
趣其猷為  の字が阝焉 
 
素堂山処士美八旬老萱堂至孝乙亥之夏忽然遭喪哀毀日□➜忄勃因作一律以代
藁里日々板輿荷杖随堪嗟忽作北堂悲八旬寿滴斑衣涙三歳添白髩絲竹径猶懐寒筍泣芸窓情癈蓼莪詩看尹子金剛誦妙法蓮花開満池
(『竹堂全集』巻七)
人見竹堂は寛文三年(1663)暮に、葛東に地を賜わったので、地理的には近かつたらしい。上野図書館蔵『竹堂(洞)全集』全十巻は、足利学校へ人見家が寄進したもので、人見家の他の詩文集と共に、明治初年文部省に提出させられたらしい。同じ詩文集は、調度品と共に菩提寺にあるそうであるが、その方は未見である。竹堂の詩文集に見えるのだから、何とかその周囲の人の詩文集中に見出したいと心がけて、林家から人見ト幽・板倉篁軒の詩文稿に迄目をさらしたが、まだ見出す好機に恵まれない。素堂伝の多い不明の部分も、追々と努力に伴なつて、明瞭になってくるという期待を持ちたい。
 
・先生の文の中で、『竹堂』は『竹洞』が正しい
・「山田宗」は「宗」が正しい

大淀三千風、甲斐入り

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大淀三千風、甲斐入り              

寛永十六年(1639)生、~宝永四年(1707)歿。              
年六十九才。伊勢国射和(いざわ)の商家に生まれる。
三十才頃まで家業に従事するが、寛文九年(1669)三十一才の時俳諧師となるために陸奥国松島に赴き、仙台に十五年滞在する。
延宝七年(1679)二千八百句独吟の矢数俳諧に挑戦して成就する。
天和三年(1683)『日本行脚文集』の旅に出る。
元禄二年(1689)までの七年間全国津々浦々を歩き、元禄三年(1690)に『日本行脚文集』を刊行する。
 
身延詣(抜粋)貞享三年(1686)
 三千風はこの間貞享三年(1686)に富士から大宮を通過して、身延山久遠寺に立ち寄り、七面山に登り、当住持日脱上人と歓談し、
肉團のかをり颪は身延かな
その峰の鷲の尾につくみのぶ山うへみぬ法の古集成りけり
その後四日間逗留して、甲府柳町伴野氏を訪問し、八日間留まる。
 
善光寺で興行、天神畫像に、
梅神の毛虫秡や下枝風
 是にて満座せし。
 当所酒折天神は連歌の濫膓なり。往古日本武尊東夷征伐の時の行宮なり。甲府の連宿一萬句奉納その発句を金板に冩し、巻頭の句をして小序をつけて書と所望せられ、ぜひなくかき侍りし、其発句、序は略。
 
かをりけりおほふて外なき翅梅        三千風
凉風に常冬見するしら根哉                             仝
暑を譲る幾曙か松がねか            安貞
雲水の客人は暑の□なし          森氏  一峰
そなれ波の松島衣夏もなし      内田氏  吉堅
みち風の秡しまゝに水無月           一任
俳風かをれは端山に蝉のを聲もなし   禰津  松聲
夏桃や三千てふ人の鄙裏        高橋  安信
晝顔翁夜は咄その月咲り             奥野  昌信
凉風や月を求食て三千ほ             牧野  宗山
花あり實あり眞夏の園の桃翁     加賀美  三盆
譽り蝉心なり無我翁          伴ノ  長行
白根の夏の芭蕉衣を除てふけ      高橋  安春
名ぞ茂る宗祇二代の宮城萩       金沢  好元
夏富士や手につけまはす放下僧     奥野  好興
 
いざや信玄公舊城を見めと人々誘引て行。昔の形まさしくのこり、築地礎花園の畔、塘の獨梁、かしこは櫓、富士見の御殿、かばかりあせはてにし事の悲しさに、さすがに名将の餘波いまだ靈威のとゞまればや、野飼の牛馬も石垣のうちへ有ゆるさずとなむ。
夏葉や有し富士見の玉の床
かくて甲府を立、さし出の磯、鹽の山、鵜飼寺を見て、かの信玄公菩提所、乾徳山恵林寺に案内して、荊山老和尚の謁し、旅行のはふれをはらす。云々
 
《註》石氏三寂、一任
三千風は恵林寺を後にして、大月猿橋を過ぎ八王子に入る。連衆の中に見える石氏三寂、一任は医師で、素堂が元禄八年に甲斐に入り、府中の妻の実家と思われる外舅野田氏宅に寄宿した。その折に素堂を招き興行した人である。

貞享期の素堂と芭蕉

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貞享期の素堂と芭蕉
 「素堂との交友」     蓑虫の音を聞きに来よ草の庵
            (『芭蕉翁の肖像百影』乾憲雄氏著)★二人の隠者(一部加筆)
 
 貞享の素堂の発句が、その気品の高遇さにおいて、当時の芭蕉をしのいでいるという評価は、次の諸句に照らして、決して過褒ではない。
  市に入りてしばし心の師走かな
  雨の蛙声高になるも哀れなり
  春もはや山吹白し苣苦し
 
 この時期にこうした作品を残した最大の理由は、いうまでもなく芭蕉との交友が最も緊密に保たれたからである。両者の交友は、延宝三年の出会い以来終生のものであったはずであるが、貞享期の親密さは、思想的に一体であったという意味に於いて、きわだった時期である。両者を結びつけた思想は、いうまでもなく隠逸への志向である。「甲子吟行」跋文をめぐる両者の態度に、思想的に一体であった二人を認めることができる。
 「甲子吟行」跋には長短二種のものが伝えられており、私は、長文は素堂の文章そのままであり、短文は芭蕉が手を加えたものではなかったかと考えている。この両者を比較してみると、素堂が
「わたゆみを琵琶になぐさみ、竹四五本の嵐かなと隠家によせける、此の両句をとりわけ世人もてはやしけるとなり。しかれども、山路きてのすみれ、道ばたのむくげこそ、此吟行の秀逸なるべけれ」
といっていることがまず注目される。一見素堂は、世評に抗してあえて隠逸の句を賞していないかのごとくであるが、素堂のこの一文は、
「洛陽に至り三井氏秋風子の梅林をたづね、きのふや鶴をぬすまれしと、西湖にすむ人の鶴を子とし梅を妻とせしことをおもひよせしこそ、すみれ・むくげの句のしもにたゝんことかたかるべし」
という文章を書くための行文でしかなった。
 素堂は世評以上に隠逸的世界を喜んでいたのである。(中略)結局芭蕉は、「甲子吟行」の句を隠士の句だという素堂の言を認めており、また素堂と自分の間柄を、伯牙・鐘子期のそれにくらべることをよしとしていたのである。
 

山口素堂の俳諧論と芭蕉

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山口素堂の俳諧論
 
 素堂(信章)がいつ頃から俳諧を始めたかは明確な資料を持たないが、寛文七年(1667)二十六才の時に貞門俳諧師、伊勢の春陽軒加友の俳諧撰集『伊勢踊』が初出である。発句は本文に掲載してあるが、注目されるのは前書の少ない『伊勢踊』の信章の句には、加友が「予が江戸より帰国の刻馬のはなむけとてかくなん」と認めている。これは素堂の職業上の地位か俳壇に置けるものかは分からないが、それなりの地位を確保していたものと考えてもよい。寛文九年(1669)には石田未得の子息未啄の『一本草』に入集している。素堂が北村季吟に師事したとの説が俳諧系譜や研究書に見られるが、これは否定できる。(後述)当時の江戸においての重鎮高島玄札や先の石田未得辺りとの接触も多いに有り得る。素堂が京都の清水谷家や持明院家から歌学や書を習ったという説もあるが、その時期などは定かではない。
 延宝二年(1674)二十三才の十一月に上洛して季吟や子息の湖春らと会吟した。(九吟百韻、二十回集)「江戸より信章のぼりて興行」が示すように、歓迎百韻であり師弟関係でないことが理解できる。
 素堂の動向が明確になってきたのは、寛文の早い時期から風流大名内藤風虎江戸藩邸に出入りをしていて、多くの歌人や俳人との交友が育まれた。その中でも寛文五年(1665)大阪天満宮連歌所宗匠から俳諧の点者に進出した西山宗因からも影響を受けた。宗因はそれまでの貞門俳諧の俳論は古いとして、自由な遊戯的俳風を唱えて「談林俳諧」を開き、翌六年に立机して談林派の開祖となった。素堂が出入りしていた内藤風虎と宗因の結びつきは、寛文二年の風虎の陸奥岩城訪問から同四年江戸訪問と続き、風虎の門人松山玖也を代理として『夜の錦』・『桜川』の編集に宗因を関わらせた。風虎は北村季吟・西山宗因・松江重頼とも接触を持った。重頼は延宝五年(1677)素堂も入集している『六百番発句合』の判者となっている。
 延宝二年(1674)宗因の『蚊柱百韻』をめぐって、貞門と談林派との対立抗争が表面化して、俳諧人の注目を浴びる中、翌三年五月風虎の招致を受けて江戸に出た宗因は『宗因歓迎百韻』に参加する。この興行には、素堂や芭蕉(号、桃青)も参加する。素堂も芭蕉も共に貞門俳諧を学び、延宝の初年には宗因の談林風に触れて興味を示し、『宗因歓迎百韻』に一座して傾倒していく。四年、芭蕉は師季吟撰の『続連珠』に入集している。芭蕉は季吟より「埋木」伝授されていて門人であるというが、その後の接触は見えない。
 素堂は季吟の俳諧撰集への入集はなく、巷間の「素堂は季吟門」は間違いということになる。貞享二年(1685)に『白根嶽』を刊行した甲斐、一瀬調実には季吟の批点を示す史料がある。(『甲斐俳壇と芭蕉の研究』池原錬昌氏著。参照)調実は岸本調和門ではあるが、紙問屋という職業も幸いして広く著名俳人に接触した形跡が残る。
天和二年暮れの大火事で焼け出された芭蕉を甲斐谷村に招いたとされる谷村藩国家老高山麋塒(伝右衛門)との交友も深い。
 素堂は延宝六年(1678)三十七才の夏に、長崎に向かった。素堂研究家の清水茂夫氏(故人)は『大学をひらく』の中でこの旅行に触れ、
「二万の里唐津と申せ君が春 の句は仕官している唐津の主君の新春を祝っている」としている。これが事実とすれば『甲斐国志』に言う素堂の仕官先桜井孫兵衛政能とは大きな食違いが生じる。
 さて宗因の感化された素堂と芭蕉は延宝五年に『江戸両吟集』を翌六年にかけて京都の伊藤信徳を迎えて『江戸三吟』を興行した。
 
  梅の風俳諸国にさかむなり    信章
こちとうづれも此の時の春    桃青(『江戸両吟集』)
 
 素堂も芭蕉も共に貞門俳諧から出発した。素堂が『続の原』跋文や『続虚栗』の序文に於いて「狂句久しくいわず」や「若かりし頃狂句を好みて」と云うように、俳諧は滑稽・遊びとして捉えていたようである。従ってそれまでに培った知識を縦横無尽に駆使して作句した。季吟や宗因の影響で一時は談林風に傾斜したが、延宝六年から七年の号を来雪とし、長崎旅行を経て致任、翌八年来雪から素堂(本名)と改号した辺りからと考えられる。
延宝八年(1680)素堂三十九才の時である。この年素堂は高野幽山『俳枕』の序文で自らの俳諧感を述べ、「俳枕とは、能因が枕をかってたはぶれの号とす」として中国唐時代の司馬遷の故事・李白や杜甫の旅、円位法師(西行)や宗祇・肖柏の「あさがほの庵・牡丹の園」に止まらずに「野山に暮らし、鴫をあはれび、尺八をかなしむ。是皆此道の情なるをや」と生き方の共通性を云い、幽山の旅遍歴を良として「されば一見の処々にて、うけしるしたることばのたねさらぬを、もどりかさねて」と和歌・連歌・俳諧等の一貫した文芸性を指摘して「今やう耳にはとせまの古き事も、名取川の埋木花咲かぬも、すつべきにあらず」として、此の道の本質(俳諧の情け)として捉え、旅をする生き方の重要性と風雅感を吐露している。これは後の景情の融合と情け(心)の重要性を説いている。素堂歿後の享保六年(1721)素堂の晩年の世話をした子光編の『素堂句集』には
「弱冠より四方に遊び、名山勝水或いは絶れたる神社、或いは古跡の仏閣と歴覧せざるはなし」
とあり、旅の豊富さを認めている。
 漢詩文を得意とする素堂は一派に属さず天和調とも云われる漢詩文調の句を多作する。この頃の素堂の句は「字余り」も多いが、これは余すことで詩情を余韻を良くし、貞門俳諧以来の外形的形態を満たし、素堂んならではの高踏らしさの感動を顕しているのである。
 その頃芭蕉は信徳らの『七百五十韻』を受けて、天和元年(1681)『俳諧次韻』を出し、俳諧革新を進め、天和調の第一歩を拓いた。(『俳文学大辞典』)また新風を興す模索を続ける。天和三年には甲斐逗流の後其角の『虚栗』の跋を認め、貞享元年には帰郷の目的で「野晒し」の旅に出る。翌年江戸に戻るが、芭蕉は漢詩文調を脱する新風を興す手応えを感じていた。

「不易流行」論は、芭蕉に先がけ素堂が唱えた。

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「不易流行」論は、芭蕉に先がけ素堂が唱えた。
 素堂の俳諧感が遺憾なく現れているのが貞享四年(1687)其角の編んだ『続虚栗』の序文である。これは一部の識者も認めている「不易流行」論は、芭蕉に先がけ素堂が唱えたことである。芭蕉没後の門弟たちの「芭蕉俳論」の根底をなす俳論の裏側には素堂の考えが横たわっていたのである。
 『続虚栗』の序は本文を参照していただくこととするが、その旨は、
風流の吟の跡絶えずに、しかも以前のような趣向ではない。……今様な俳諧にはただ詠じる対象を写すだけで、感情の込められているものが少なく情けないことである。
昔の人の云うように、景の中に情けを含むこと、その一致融合が望ましい。杜甫の詩を引用してそれは「景情の融合に在る」と説き、和歌や俳諧でもこうありたい。詩歌は心の絵で、それを描くものは唐土との距離を縮め吉野の趣を白根にうつすことにもなり、趣を増ことにもなり、詩として共通の本質があるのだ。例えば形態のない美女を笑わせ、実体のない花をも色付かせられるのだ。
人の心は移り気で、終わりの花は等閑になりやすい。人の師たるものは、この心をわきまえながら好むところに従って、色や物事を良くしなければならない。
 として、其角が序を求めた事に対して、『虚栗』とは何かと問い掛け、序文は余り気が進まないので断りたいが、懇望するので右のとりとめのないことを序とも何なりとも名付けよと与えれば頷いて帰った。
 これは素堂が其角だけでなく芭蕉に対しても説いていることが理解でき、厳しい口調となっている。序文は漢詩や和歌それに俳諧も同じ文学性を持っており、景情の融合の必要性を指摘して情(心)の重要性を説いたものである。振り替えって見れば、素堂は延宝八年の『俳枕』序に於いて、古人を挙げて、生き方の共通性を「是皆此道の情」と表現し、漢詩・和歌・連歌・俳諧の共通の文芸性は、この道の本質として、旅する生き方が重要な要素となって、風雅観が生まれると説いたのである。

山口素堂 母の喜寿の宴 歿年令 

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山梨文学講座 山口素堂
    
 素堂母の喜寿の宴
 
 
 
【解説】
 
 これまで素堂についての間違い記事について、時折訂正してきたが、素堂の妻の死、母の死についてはそれが顕著である。素堂は生涯妻を娶らずとか、素堂の母の死は元禄三年などがそれである。素堂には妻も居たし、孫(素安)も居た。素堂の妻は甲斐の代官野田氏の娘であり、芭蕉が死んだ折に葬儀に出席できない旨の手紙を曽良に出している。また母の死は幕府儒官人見竹洞の書に明記してある。
ここに掲載の『韻塞』は元禄五年刊行なので、素堂の母は健在で、元禄八年の夏に急逝した。
素堂母の喜寿の宴

 素堂の動向

元禄 5年 壬申  1692  51才
 七月七日、素堂の母、喜寿の宴。
『韻塞』
入集。李由編。序奥は元禄九年冬、刊行は元禄十年)

 
 七 月
 素堂の母、七十あまり七としの秋、七月七日にことぶきする。万葉七種をもて題とす。これにつらなる者七人、此結縁にふれて、各また七叟のよはひにならはむ。

   萩
 七株の萩の手本や星の秋        芭蕉
   尾花
 織女に老の花ある尾花かな       嵐蘭
   葛花
 布に煮て余りをさかふ葛の花      沾徳
   なでしこ
 動きなき岩撫子や星の床        曾良
   女郎花
 けふ星の賀にあふ花や女郎花      杉風
   ふぢばかま
 蘭の香にはなひ侍らん星の妻      其角

  むかし此日家隆卿、七そじなゝのと詠じ給ふは、みずからを祝ふなるべし。今我母のよはのあひにあふ事をことぶきて、猶九そじあまり九つの重陽をも、
  かさねまほしく、おもふ事しかなり。
   あさがほ
 めでたさや星の一夜もあさがほも  素堂

 李由…… 寛文二年(1662)生、~宝永二年(1705)歿。年四十四才。本名河野通賢。近江国平田村の真宗光明遍照寺第十四世住職。蕉門。
  
許六の盟友として、この書等を共著。
   海棠や初瀬の千部の真盛り 〈『篇突』〉

 《註》
この喜寿の宴には、菊本直次郎氏所蔵芭蕉真蹟の一幅(阿部正美氏著『芭蕉伝記考説、行実編』紹介)や、今栄蔵氏の『芭蕉年譜大成』にも記載があるが一部異なる箇所がある。
 今回は『日本俳書大系』所収『韻塞』と芭蕉真蹟一幅による。
  
 
素堂の母の死 資料 
 
(1)  元禄三年説
甲府尊躰寺山口家の墓所にある墓石刻字による。
(『国語国文』「山口素堂の研究」荻野清氏著)
 
(2)元禄八年夏、人見竹洞著 
       素堂山処士養八旬 老萱堂至孝乙亥之夏 
忽然遭喪哀       
      (『竹洞全集』「素堂の母に捧げる挽歌」)
 

芭蕉の生涯 芭蕉の生い立ち

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芭蕉の生涯
参考資料 芭蕉の生涯展(芭蕉の忌二百七十年記念冊子記事)
     「松尾芭蕉」(芭蕉翁記念会編)
     自著「誤伝 山口素堂の全貌」。「芭蕉と素堂」
 
芭蕉の生い立ち
 
芭蕉は寛永二十一年(一六四四)甲申の年に生れた。西鶴より二つ年下、近松より九才年長ということになる。私の研究している山口素堂より二才年下である。
もっとも、これは没年と時の年齢から逆算して知り得ることで、多くの著名人にも適用されている。したがって生れた月日はわからない。この年は十二月二十六日に改元があり、芭蕉の誕生がこの日以後であれば、正確には正保元年生れということになる。
徳川三代将軍家光の治世、江戸開幕以来僅か四十年を経たばかりであるが、幕藩体制も漸く整い、島原の乱も平定し鎖国が令ぜられ、徳川幕府三百年の太平がはじまった頃である。生れた所は伊賀上野の 赤坂町 、現在の 三重県上野市赤坂町 である。四方を山に囲まれて静かに眠る伊賀盆地、その中央やや北よりの台地に位置する上野の街、それが芭蕉の故郷である。
上野の街の東のはずれ、柘植方面からの街道が上野に入る坂をのぼり切ったところ、 赤坂町 に現在も芭蕉生家が遺っている。建物は安政の地震後の再建というが、位置は変っていないはずである。芭蕉の生れた頃の上野は藤堂家の領地で、藤堂家は伊勢の安濃津(津市)を木城として、伊勢伊賀をあわせ領し、上野には七干石の城代を置いて、伊賀一国を治めさせた。
しかし僅か七干石の城下として上野のイメージを描いてはならない。上野の地は、元来戦国の世には筒井定次(十二万石)の城下であったのを、江戸時代になって、慶長十三年(一六〇八)に、藤堂高虎が四国の今治から二十二万九百石をもって伊勢に移封され、この地をあわせ領することになったものである。
幕府が名将籐堂高虎をここに移したのは、当時まだ反抗勢力の中心であった大阪方に対する戦略的配慮の結果といわれる。上野はその位置からも、大阪の東国進出に対する隆路口を掘って、要衝の地である。土木築城の名手高虎は、新たに城取り縄張りをして城郭を改修構築し、城下町を拡張整備して、大いに新しい街づくりに努めた。その結果上野の町は、城も街も、優に数万石の城下にも相当する威容を備えていることになる。
現在も遺る白鳳城の雄大な遺構、深い濠、高い石垣、あるいは長屋門に武者窓の旧武家屋敷のつづく整った街なみは、往時の威容を想像させるのに十分である。
芭蕉のころの上野の町も、街の規模は大きく整っていて、しかも実質は人少なで物静かな、一種古都に似た落ちつきと風格をそなえていたに違いない。芭蕉の出自、周囲の肉親の関係などは、すべて確実な資料を欠き、従来の伝記などの推測でとりまかれ、おぼろげな伝承を書く人の主観や臆測で覆われている。
これとても絶対の正しさは有していないが、芭蕉の父は松尾与左衛門、母は名はわからないが、四国宇和島の人で、桃地氏の出だという。半左衛門と名乗る兄のほか、姉一人妹三人があったらしい。松尾家の家系は元来平家の流れをひき、父与左衛門の代に、柘植から上野に移って来たものと推定されている。身分家格もはっきりしないが、藤堂家でいう無足人という身分ではなかったかという説がある。無足人というのは、武士と農民との巾間的な身分、郷士(上級の農民)であったらしい。
当時の古絵図を見ても、生家のある赤坂は農人町と接しており、身分職業によって居住区域を分かつ城下町の通例を考えると、この推測は当を得たものと思われる。父は手習いの師匠をしていたと伝えられ、芭蕉も藤堂家に出仕するし、全くの百姓ではなかったことは事実であるが、普通に考えられるような武士社会の環境とは、よほど違った、もっと土の匂いの濃い生活環境が彼のものであったと思われる。
幼名を金作、藤堂新七郎家に仕えて甚七郎宗房といった。幼名通称については異説も多い。宗房というのはその名乗りで、これをこのまま俳号として用いることになる。
 


芭蕉 青年時代

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参考資料 芭蕉の生涯展(芭蕉の忌二百七十年記念冊子記事)
     「松尾芭蕉」(芭蕉翁記念会編)
     自著「誤伝 山口素堂の全貌」・「芭蕉と素堂」

青年時代
最近の歴史書や芭蕉などを著したものの中には、「である」とか「疑いの余地がない」など断言するだけの資料がないのに言い切る風潮がある。「とつたわる」とか「ではないか」が本来で、断定調の根拠は希薄で史料が見えない場合が多い。
芭蕉は承応二年(一六五三)頃、つまり十才になった頃に、藤堂新七郎家の嗣子、藤堂主計良忠に小子姓として仕えたという。出仕の時期については異説もある。上野には城代の采女(うねめ)家に次いで、侍大将として藤堂玄蕃、新七郎の両家があり、ともに代々五千石の大身である。その一つの新七郎家の嗣子良忠は、寛永十九年(一六四二)の生れだから、芭蕉より二つ年長になる(素堂と同じ)。だから芭蕉が約十才の頃出仕したとすれば、遊び相手のようなものだったかもしれない。この主従の関係は良忠が二十五才で没するまで、約十余年つづくことになるが、この二人の少年の問には、単なる主従の問柄をこえた親密さがお互いに感じられたものらしい。
竹人の『芭蕉翁全伝」には「愛龍頗る他に異なり」とある。良忠はいつの頃からか、蝉吟と号して、貞門の俳諧を京の 北村 季吟に学ぶことになる。古典注釈家・和学者として多角的な活動をした季吟は、明暦二年(一六五六)以後俳諸宗匠として、諸方の貴紳豪家に出入していた。そして当時の俳諧、それは和歌の伝統的マンネリズムや、既に儀礼的文学になっていた連歌とちがって、用語も自由だし、何よりも、軽いユーモラスな気分のもので、地方の青年公子良忠の文学趣味を満足させるに十分なものであった。
藤堂家は文学に全く無縁であったわけではない。数少ない俳諧初期の資料として珍重すべき、藤堂高虎と家臣八十島道除との「両吟俳諧百韻」が、現在も遺されており、新七郎家の初代良勝、高虎等の連歌の懐紙も遺っている。
さらに蝉吟と時代を同じくして、本家三代目の弟で、伊勢久居五万三千石の初代領主となった藤堂高通は、任口と号して同じく季吟の教えをうけていた。良忠の蝉吟が季吟を帥と選んで俳諸を嗜んだのも、ごく白然なことであったのである。
芭蕉が、ついに生涯をともにする俳諧と結ばれたのも、おそらくこの蝉吟の文学趣味に影響されたものであろう。
すでに寛文四年(一六六四)四月に刊行された『佐夜中山集』には「松尾宗房」として、
姥桜さくや老後の思ひ出
月ぞしるべこなたへ入らせ旅の宿
の二句を入集している。文献に見える彼の句の最初のものであり、ともに謡曲の文章によりかかって仕立てた句で、言葉の技巧的なおかしみをねらったもの、当時の風体をそなえて巧みである。 
翌五年十一月十三日には、蝉吟の発句に季吟の脇句を得て興行した「貞徳十三回忌追善」の俳諧に一座している。一座の連衆は正好・一笑・一以等上野の俳人である。当時上野の武土・町家の且那衆に俳諧が行われ、『続山之井』には、上野の俳人が三十六人も入集している程で、一種の俳壇が形成されていた。
翌寛文六年は芭蕉の生涯の一転機となる重大な年である。その年の四月二十五日、主君蝉吟が僅か二十五才で亡くなったからである。特別に自分に目をかけてくれた主人の死、それは二十三才の多感な青年にとって大きなショックであったに違いない。
殉死を願出て許されなかったという説(?)があるのも、近世初期の殉死流行期を隔ること遠くなく、有名な「列死禁令」が出たのが僅か三年前の寛文三年であったことを思えば、あながちに伝記作者の理想化の結果ともいきれないが、定かな史料は伝わらない。
六月中旬、命ぜられて蝉吟の位牌を高野山報恩院に収め(確認の史料は見えない)、その後致仕を願い出たが許されず、無断で伊賀を出奔したというのが通説である。出奔の動機についてはいろいろな推測が行われている。通例として、伊賀を出て上洛し修学したと伝えられるが、これまた確実な資料を欠き、推測の域を山ない。芭蕉伝記の中で、史料からは、寛文十二年までの間は全く空白である。そして、六年後に、世上にあらわれて来た芭蕉は、既にしっかりした考えを持ち、驚異的な成長を遂げていた。芭蕉が無断で出奔したように書かれている書も多くあるが。芭蕉と伊賀は江戸に出てからも親密な関係にあり、特に帰郷した折などの交際などから推察すれば、江戸の藤堂家との関係も考慮されるべきである。していた。自句をも含めて、上野の俳人たちの句を左右に分け、それに宗房自身の判詞を加えた三十番の句合せ『貝おほひ』一巻を、上野菅原社に奉納したのがそれである。ここに集められた句は、当時の流行「小歌」や「はやり言葉」を「種」として作らせたもの、それに加えた宗房の判詞もまたこれらを種とした気の利いた文章で、彼の処女作であり、彼口身の企画と編集になるものである。そしてその自序の末に、
「寛文拾二年正月廿五日 伊賀上野 松尾氏宗房釣月軒にしてみずから序す」
と署名している、彼のこの書に対する自身と宗匠的立場がうかがわれる。
自序や跋文などは現在でもその書の格式を示すもので、それを書く自体すでに俳諧における芭蕉の地位を示している。芭蕉の朋友素堂の序跋文や詞書の多さもその地位と名声を押し図る上でも重要である。
 
現在、伊賀の生家の奥に残された釣月軒、あの狭い薄暗い部屋で、将来を見据えて、昂然と眉を上げて机に向っている青年芭蕉の姿が思われる。
この「貝おほひ」の企画、内容のもつ澗達奔放な気分は、西山宗因に代表される、当時の俳壇の最も前衛的な傾向、爾後数年問、「談林俳諧」へと俳文芸が進んで行った、その路線に明らかに指向されており、その前駆的な意義をもつ作品である。二十九才の芭蕉がいかに俳壇の動き、時代の流れに対して敏感であったかを証明するものである。またこれは芭蕉の中に、この才気を目覚めさせ成長させ、このダンディズムを身につけさせたのは、この以前六年問の空白時代をおいてはないと考えられる。『貝おほひ」は芭蕉の東下後、延宝初年に、江戸の中野半兵衛から出版された。
芭蕉は『貝おほひ』一編を奉納して、この年の春(あるいは九月)に江戸に下ったと伝えられる。しかし東下の年次は諸説ありこの年ときめられない。
ただ確実なことは、遅くとも三年後延宝三年(一六七五)春以前に江戸に下っていたことと、その前年延宝二年三月十七日、師の季吟から、作法書「埋木』の伝受をうけている事実だけである。現在芭蕉記念館に蔵する写本『埋木』巻末に、季吟が自筆でで「宗房生」が「俳諧執心浅カラザルニ依リテ」この季吟家伝の秘書を写させ、奥書を加える旨を書きつけて、「延宝二年弥生中七季吟(花押)」と著名しているからである。
芭蕉の東下には、小沢卜尺または向井卜宅が同道したと伝えられる。卜尺は江戸木舟町の名主で、季吟門の俳人。ト宅は藤堂任口の家臣でこれまた季吟門である。江戸について、草軽をぬいだのはト尺の所とも、杉山杉風の家とも伝えられる。杉風は屋号を鯉屋といい、小 田原町 に住んでいた幕府御用の魚問屋であり、姉が甲斐に居て天和二年に芭蕉が甲斐に逃れたときに逗留したとの話もあるが、今では確認できない。
 
芭蕉年譜
・寛文 4年(1644)21才
●松江重頼編『佐夜中山』に「松尾宗房」の名で二句入集。俳書への初入集。
○元政「扶桑隠逸伝」を刊行する。(かれは母を連れ身延山詣でに甲斐に来ている)
・寛文 5年(1645)22才
●11月13日、蝉吟主催の「貞徳翁士二回忌追善百韻」に一座する。連衆は、蝉吟・季吟・正好・一笑・一以・宗房、(ただし季吟は脇句を贈ったのみ。
○大坂天満宮連歌所宗匠西山宗因、初めて俳諧に加点。
・寛文 6年(1646)23才
●4月25日、蝉吟没する(25才)。内藤風虎編『夜の錦』に発句四句以上入集(『詞林金玉集』による)。
○西鶴、鶴永の初号で『遠近集』に発句三句入集。
・寛文 7年(1667)24才
● 北村 湖春編『続山井』に発句二八句、付句三句入集。
・寛文 9年(1559)26才
●荻野安静編『如意宝珠』に発句六句入集。
寛文10年(1560)27才
●岡村正辰編『大和順礼』に発句二句入集。
・寛文11年(1561)28才
●吉田友次編『籔番物』に発句一句入集。
・寛文12年(1562)29才
●宗房判の三十番発句合『貝おほひ』成る。自序に「伊賀上野松尾氏宗房釣月軒にしてみずから序す」と見える。伊賀上野の菅原社に奉納、後に江戸の中野半兵衛方から板行された。
●松江重頼編『誹諸時勢粧』に発句一句入集。高瀬梅盛編『山下水』に発句一句入集。この年、江戸に下るか。(?)

山梨文学講座 山口素堂の俳諧 清水茂夫氏著(故人)

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山梨文学講座 山口素堂の俳諧

蕉風俳諧の先駆者 山口素堂

  信章(素堂)と桃青(芭蕉)時代の幕開け
  濁川工事
  素堂の芭蕉俳諧に与えた影響
  不易流行など
  素堂と芭蕉の交友

山梨大学教授清水茂夫氏著(故人)『微典会』 会報第6号 1966

  はじめに

 清水茂夫先生は過年逝去されました。山口素堂や松尾芭蕉を含む俳諧の研究では、全国でも有数な研究者であり、一度お目にかかりたいと思っていたが、その時は入院をなさっているとのことで、その機会を逸してしまった、その後お目にかかりたいとの思いは募るばかりであったが、ついにその機会に恵まれず今日に至っている。

 先生の著作は早くから拝見させていただいていたが、私なんかには専門過ぎて理解できないことが多く、またその洞察力の深さには圧倒され、また専門すぎて理解できないことも多かったのも事実です。

 先生の著者の中でも、山口素堂の研究は特に多く熱心で、それは『山梨大学研究紀要』や論文集の中に収められている。

 先生の多くの研究著書の中で、たまに先生の山口素堂の伝記の箇所の筆勢が弱まる時があり、またそっと意識づけをする著書も拝見した。

 その一つは素堂の伝記の部分であり、また素堂の濁川改修工事に関わる記述である。そのあたりに先生の人に言えない苦しさを感じ取ることができる。

 先生は多くの人に本を刊行するように懇願されたようでしが、断固として研究者の信念を貫かれた。

 今回はそうした清水先生を研究を偲ぶとともに、俳句の研究に役だっていただければと、先生の講演資料から引用紹介をさせていただきます。

 なお、便宜上先生の著述にはない上記の項目を設けて紹介します。

   蕉封俳諧の先駆者 山口素堂 清水茂夫

 目には青葉山郭公はつつ鰹 (『江戸新道』延宝六年)

この句には「鎌倉にて」とい前書がついている。延宝六年といえば、素堂三十七才あったが、そのころ鎌倉に赴いて吟じたものであろう。一見名詞の羅列に終っているが、實は最初の「目には」で、以下「耳には」「口には」を類推させたことが、手腕のあるとところで、それと警戒なリズムとによって有名にな句となった。初鰹を上リあげた点も人気を博する所以であろう。当時俳壇に談林風が勢をふるっていた時代で、素堂もまた親友芭蕉とともに、檀林俳諧に熱中していたのである。

寛文の初年二十才ごろ江戸に出た素堂は、林春斎について漢学を学び、同門の人見竹洞(貞享三年に木下順庵と共に「武徳大成記」を編述した幕府の儒官)などと親交をもって朱子学を学ぶと共に、当時中流以上の町人の社会的教養であった俳諧や茶の湯に心を傾けた。素堂が最初に学んだのは、貞門俳諧で特に北村季吟の影響を強く受けている。延宝二年十一月二十三日江戸から京都に上った素堂を迎えた季吟は、九人で百韻を興行している。その時の発句と脇は次の句である。

  いや見せじ富士を見た目にひへの月 季吟

   世上は霜枯こや都草 信章(素堂)

 ところがその翌年延宝三年五月には、江戸に下ってきた西山宗因を迎え、素堂は桃青(芭蕉)と新風ある談林俳諧を興行して、貞門俳諧から談林俳諧へと転向した。素堂と芭蕉との出会いはこれが最初で、この後終生暖かい友情が二人を支をしていた。延宝四年には、西山宗因に対する熱狂的な鑽仰が高まって、二人は『江戸両吟』を興行して、端的に談林風を謳歌する叫びを表わしている。

  梅の風俳諧諸国に盛んなり 信章(素堂)
  こちとうずもれ此の時の春 桃青(芭蕉)

 「梅の風」で、「梅翁」すなわち宗因を表わし、その俳風が全国に流行する姿を賞讃し、それに共鳴する自分等の満足感を力強く歌っている。『江戸両吟』の付句などには、当時の町人の願うところ欲するところが、極めて大胆に率直に表わされていて、町人の風俗詩として談林俳諧の面目躍如としている。

  山椒つぶや胡椒なるらん 桃青(芭蕉)
  小枕やころころぶしは引たふしは 信章(素堂)
  台所より下女の声 桃青(芭蕉)
  通ひ路の二階は少し遠けれど 信章(素堂)

 素堂の付句「小枕」は女の髪の髢(かもじ)の根に用いるもので、紙を固く束ね、また黄楊(つげ)などでつくり、その上を紙や絹で包んだものである。

 一句は髪も乱れて小枕のころころころぶ様に、女がころころころび臥す様を表わしている。女の臥す様、男の引き倒す様は、前句の山椒粒や胡椒粒の散乱した状態にも比すべきであろうと前句に応じている。つづく付句も場面は異なっているが、まったく町人的な愛欲の様相を露骨に表わしていて、人間自然の愛欲を肯定する姿勢が見られる。肉体を罪悪の府ともる中世的なき仏経的な人間感からの脱却に文学としての意義が認められよう。

 延宝七年長崎旅行から帰った後、素堂は上野の移居して致任退隠の生活に入った。

東叡山のふもとに居市中より居をうつして

  鰹の時宿は雨夜のとおふ哉 (『武蔵曲』天和二年刊)

  池はしらず亀甲や汐ヲ干ス心 (『武蔵曲』天和二年刊)

 前の句の鰹は既述のように江戸においても初鰹として人々に賞味されていた。世間で鰹をもてはやす時、自分は草庵に降る夜の雨音を聞きながら豆腐を食べていると言うのである。裏面には自分の退隠生活を官途にある友人の栄達と対比させている。白氏文集十七の

  「蘭省ノ花時錦帳ノ下、廬山ノ夜雨草庵ノ中」

 を踏まえながら、その痕跡を少しも残さず淡々と表現している。後の句では、「汐ヲ干ス」が春の季題で、春暖のころ水際に出て来た亀が、折りからの春光を浴びて甲を干している嘱目の情景であろう。極めて静かなあたたかい満ち足りた世界である。そこに退隠生活の中に生き甲斐を感じ安堵している素堂が、まざまざと象徴されている。

 芭蕉は延宝八年に門弟杉風の深川下屋敷にあった生州(いけす)の晩小屋を改造して入居した。芭蕉はこの芭蕉庵入居を機縁として、自己の俳諧を真に文学的自覚をもって反省するようになり、漢詩文調であるいわゆる天和調を経て、蕉風樹立へと向かうのであるが、その芭蕉庵入りは、前年退隠した親友素堂の隠者生活に動機づけられるところがあったではなかろうか。芭蕉は嵯峨日記卯月廿二日の条に

  「長嘯隠士の曰、客半日の閑を得れば、あるじ半日の閑を失ふと、

   素堂此の言葉を常にあはぶ。予も又うき我をさびしがらせよか

   んこどりとはある寺に独居して云ひし句なり」

 と記しているように、閑静を愛好する素堂の生活に心ひかれていたわけであって、遠く芭蕉庵入りの動機の一つに素堂の退隠生活があったと見てよかろう。

 天和時代は漢詩文調によって行き詰まった談林俳諧から脱皮しょうという時代であった。放埒な通俗性にのみ走って文芸性の支柱をを喪失した談林俳諧が、漢詩文調の文芸性を採取すると共に、漢語や漢詩文調によって調子を強化し、一種の新鮮味を出そうとした。この時に漢学に造詣の深い素堂が指導的手腕を発揮したのは当然である。

その様子を記述する遑(いとま)はないが、『三冊子くろざうし』(土芳著)に、

   ある禅僧詩の事をたずねられしに、師の曰 詩の事は隠士素堂いふもの、此道にふかき好ものにて、人も名を知れる也。かれつねに云、詩も隠者の詩風雅にて宜と云と也。

 とあるので実証できるであろう。素堂の漢詩文調の代表作としては、天和三年刊の『虚栗』(みなしぐり/其角編)に見える荷興十唱(中、五句を揚げた)をあげることができる。

   浮葉巻葉此蓮風情過ぎたらむ

   鳥うたがふ風蓮露を礫てけり

   そよがさす蓮雨に魚の児踊る

   荷をうって霞ちる君みずや村雨

   連世界翠の不二を沈むらく

 素堂が漢学的なバッグボ-ンの所有所であったことは、単に漢学の知識があったと言うことにとどまらず、故郷である甲斐の国に来て濁川の土木工事に従事したことに結実している。『甲斐国志』は代官触頭の桜井政能の苦心と素堂の協力とについて、次のように記している。

  この項終り

目には青葉山郭公はつ鰹 

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目には青葉山郭公はつ鰹 
 山口素堂資料室編

上記の句は素堂のもっとも有名とされる句である。
その素堂は俳諧者の中でもその足跡を最も誤り伝えられている人物である。その誤りは数多くここでは割愛するが、出生から青年時代までの定説は目を覆うばかりである。また全く関与していない甲府濁川浚渫工事責任者され(『甲斐国志』)、その架空事績が過大解釈されて、以後土木業の神様に祭り上げられてしまった。これが現在でも罷り通っている。
さて「目には青葉」の一句であるが、素堂の発句の中でも最も愛されている句には違いないが、素堂自身が特別にこの句を採り上げてはいない。
この句の解説は、山梨県の俳諧においての第一人者、清水茂夫先生(故人)の解説を紹介するが、私は前書きの「鎌倉にて」に興味があり、鎌倉まで数度訪ねて素堂句の詠まれた場所や背景を探ってみた。その結果、素堂が俳諧を鎌倉材木座光明寺において裏山からみた海岸を詠んだものではないかと推察できる。またその風虎の父は陸奥国岩城平七万石の城主忠興。

(『江戸新道』延宝六年)
蕉風俳諧の先駆者 山口素堂 清水茂夫氏著

この句には「鎌倉にて」という前書がついている。延宝六年といえば、素堂三十七才あったが、そのころ鎌倉に赴いて吟じたものであろう。一見名詞の羅列に終っているが、實は最初の「目には」で、以下「耳には」「口には」を類推させたことが、手腕のあるとところで、それと警戒なリズムとによって有名な句となった。初鰹を上リあげた点も人気を博する所以であろう。当時俳壇に談林風が勢をふるっていた時代で、素堂もまた親友芭蕉とともに、檀林俳諧に熱中していたのである。
素堂と内藤風虎(ないとうふうこ)陸奥国岩城平七万石の城主
山口素堂&北村季吟&内藤風虎

生年:元和五年(1619) 没年:貞享二年(1685) 年六十七才。
風虎は寛永十三年(1636)に十八才で従五位下、左京亮に叙任。寛文十年(1670)素堂二十九才のおり、風虎(内藤頼長・義概)は父忠興の隠居により、五十二才で陸奥国岩城平七万石の城主になる。
俳諧作品の初出は『御点取俳諧俳諧百類集』。北村季吟・西山宗因・維舟らと深い交流が見られる。又和歌や京文化へのあこがれも強かった。
素堂は通説では致任して市中から不忍池畔の池の端に住居を移し、寛文年間初期から、風の江戸桜田部の「風虎文学サロン」の常連であったと諸研究書に記されてある。風虎の父、忠興は大阪城代を勤めた時期もあるが、文人としての活動は不明である。素堂が風虎の文人交友者を通じて文人の道に入ったことも推察できるが、寛文十年頃素堂は未だ何れかに勤仕していたのである。素堂が生まれてから寛文七年の初出『伊勢踊』までの歩みは不詳部分が多くあり定かには出来ないが、何れにしても内藤風虎と素堂の関係解明が必要である。風虎の文人としての活動は息子露沾に引き継がれるのである。
風虎の別邸は鎌倉にあり、素堂の「目には青葉山ほととぎす初鰹」の句は鎌倉で詠んだものであり、年代から押しても旦那光明寺の裏庭もしくは風虎の別邸で詠んだ可能性が高い。
又素堂は水間沾徳を内藤家に紹介したと伝える書もある。延宝五年の風虎主催の『六百番俳諧発句合』に素堂も参加してその中の句「茶の花や利休の目には吉野山」は、長年にわたり諸俳書に紹介されている。

山口素堂と内藤露沾(ないとうろせん)
 生年:明暦元年(1655) 
歿年:享保十八年(1733)  
 年七十八才。
本名内藤義英。陸奥国岩城平の城主内藤義概の次男として江戸赤坂溜池の邸生まれる。(素堂十三才の時)家中の内紛により延宝六年(1678)蟄居を命ぜられ天和二年(1682)二十七才の折り退進、麻布六本木に住む。
素堂歿(享保一年)後、二年(1717)の夏素堂追善興行『通天橋』では序文を書して素堂との交友の深さを知る。露沾の門人、沾徳・沾圃・沾涼なども素堂の周りの俳人である。又芭蕉とも交友深く、素堂・芭蕉・露沾の吟もあり、共通した諸俳書にその名が見える。
素堂序文 元禄五年(1692)『俳林一字幽蘭集』(水間沾徳編)
 ここに素堂の数ある序文のうち元禄五年(1692)の『俳林一字幽蘭集』(水間沾徳編)の序文を見てみる。
 素堂 九月、『一字幽蘭集』水間沾徳編。内藤露沾序。
  『俳林一字幽蘭集』素堂序あり。    

「岩城之城主風虎公所撰之夜錦・櫻川・信太浮島此三部集」

   「俳林一字幽蘭集ノ説」
   素堂著 
沾徳子甞好俳優之句遂業之來撰一字幽蘭集儒余于説幽蘭也應取諸離騒而除艾蘭之意我聞楚客之三十畝不為少焉雖餘芳於千歳未能無遺梅之怨矣斯集也起筆於性之一字而掲情心忠孝仁禮義智始終本末等總百字之題以花木芳草鳴禽吟蟲四序當幽賞風物伴載而不遺焉何有怨乎叉原斯集之所従来前岩城之城主風虎公所撰之夜錦櫻川信太浮島此三部集。愁不行於世也仍抜萃自彼三部集若干之句副之句之古風時世妝之中其花可視而其未實可食者盡拾之纂之其左引證倭歌漢文而為風雅媒是編者之微意也可以愛焉従是夜錦不夜錦浮嶋定所櫻川猶逢春矣雖然人心如面而不一或是自非他謾為説誰知其眞非眞是各不出是非之間耳若世人多費新古之辯是何意耶想夫天地之道變以為常俳之風體亦是然而不可論焉沾徳水子知斯趣之人也
  為 素堂書 佐々木文山冩  
【読み下し】
 沾徳水子は、甞って俳優の句を好みて遂にこれを業とす。ちかごろ一字幽蘭集を撰びて予に説を求む。それ幽蘭なるは、まさにこれを離騒に取りて艾を除き蘭長ずるの意なるべし。我聞く楚客の三十もことに少しとなさず芳せを千歳に余すといえども、未だ梅をわするゝの怨み無きことあたはず。その集や筆を性の一字に起こして、情心・忠孝・仁禮・儀智・始終・本来総て百字の題を揚げ、以て花木・芳草・鳴禽・吟中四序、まさに幽賞すべき風物を伴び載せてこれおわすれず。何ぞ怨有らんや。又その集のよりて来る所をたずぬるに、さきの岩城の城主風虎公撰したまふ所の夜の錦・櫻川・信太之浮嶋この三部の集、世に行なはざれしを愁いてなり。すなはち萃して彼の三部の集より若干の句を抜きてこれに副るに、古風、いまよう姿の中、その花を視るべくして其のミ実食すべきはこれを拾い尽くして、これを纂め、以てその左に倭歌漢文を引證して風雅の媒と為す。是を編める者の微意なり。以てめでつべし。是により夜の錦、夜の錦ならず浮嶋も所を定め、櫻川猶春に逢がごとし。しかれども人の心面の如くにて一ならず。或は自らを是とし他を非なりと謾る説を為す。誰かその真非真是を知らん。各是非の間を出でざるのみ。しかのみならず世人の多く新古の辨を費やす。これは何の意ぞや。想ふに、それ天地の道変を以て常とし、俳の風体もまたこれに然り。寒に附き熱にさかる時の勢ひ、自ら然ることを期せずしてる者なり、強いて論ずべからず。沾徳水子その趣きを知る人なり。これが為に素堂書す
【文山】
佐々木池庵の弟、江戸の書家。享保二十年(1735)歿。年七十七才。
江戸の書家で兄玄龍とともに活躍する。
【沾徳】
寛文二年(1662)生、~享保十一年歿。年六十五才。
はじめ門田沾葉、のち水間沾徳。江戸の人ではじめ調和門調也に師事し、調也に随伴して内藤風虎の江戸藩邸に出入りし、同藩邸の常連である素堂の手引きで林家に入門、また山本春正、清水宗川に歌学を学び、同門の原安適と親交を結んだ。貞享二年(1685)頃立机、素堂を介して蕉門に親しむ。

『沾徳随筆』に、素堂の逝去に対して、
山素堂子、去る仲秋みまかりぬ。年行指折で驚く事あり、予を入徳門(湯島聖堂)に手を引き染めて四十年、机上の硯たへて三十年、今に持来りて窓に置く。云々。

『沾徳随筆』
俳諧随筆。享保三年(1718)稿。素堂追悼句文掲載。
 
 どうであろうか。当時一流の俳諧人の序文を書すことで素堂の地位と名声の高さを窺い伺い知る事ができる。
この幽蘭集を編んだ沾徳を素堂は磐城平城主内藤風虎(義概)に紹介して沾徳は内藤家に仕える事となる。風虎の父忠輿の娘(実は風虎の兄弟の美輿の娘を養女とする) は上諏訪の高島城主内藤忠晴(俳号路葉)に嫁いでいて、諏訪内藤家も代々俳諧を嗜み、頼水―忠恒―忠晴―忠虎と活躍している。頼水は江戸斉藤徳元と交流があり、忠晴は芭蕉の第一の門人とされる其角に師事している。其角は素堂と親しく素堂の紹介で芭蕉の門人となる。忠虎は前記の水間沾徳や風虎の子露沾との交友が深い。露沾や沾徳は素堂に非常に近い存在である。こうした事も素堂の文人としての地位の高さを示している。

素堂……『一字幽蘭集』発句四入集。沾徳編。
河骨やつゐに開かぬ花ざかり  素堂
一葉浮て母につけぬるはちす哉   〃
魚避て鼬いさむる落葉哉   〃
茶の花や利休が目にはよしの山   〃

【註】… 合歓堂沾徳。『江戸市井人物事典 』北村 一夫氏著。
帯程に川も流れて汐干かな
折りてのちもらう声あり垣の梅
などの句でしられる合歓堂沾徳は、京橋五郎兵衛町(現在の八重州口六丁目の内)に住む通称水間治郎左衛門という刀剣の研師である。飛鳥井雅章が和歌のことで問題を起こし、岩城平に左遷された時、沾徳は俳諧の師でもあり城主である内藤露沾に選ばれて御伽衆として雅章に仕えた。雅章は配所に三年ほどいて京都に帰ったが、その時沾徳に「汝必ず和歌に携わるべからず。只俳諧のみ修業すべし」と言い残した、(『俳諧奇人談』)
沾徳は気骨のある人で播州顔赤穂の大高子葉(源吾)、富森春帆(助右衛門)神崎竹平(与五郎)、茅野涓水(三平)などの門人がいる。赤穂浪士の遺文中に俳句が多いのは沾徳の力に大いに預かっている。

【註】佐々木文山……佐々木玄龍の弟、江戸の書家。享保二十年(1735)歿。年七十七才。
【註】〔俳諧余話〕……「佐文山の戲書」(『近世奇跡考』巻の二)
佐々木氏、名は襲、字は淵龍(エンリュウ)文山と號し、墨花堂(ボククワドウ)と稱す。
俗称百助、玄龍の弟なり。西の窪に住す。志風流に厚く、兄玄龍とゝもに、書を以て名高し。ゆゑに都鄙神社仏閣の扁額、皆書を文山にもとむ。性甚だ酒を好み、醉裏筆をふるへば殊に絶妙なり。世に醉龍の後身と云。榎本其角は玄龍に書を学ぶ。ゆえに文山ともしたしく、酒友の交りふかし。一日(アルヒ)文山富豪の主人〔割註〕一説に紀文と云」及び其角と花街に遊び、酒たけなわなる時、揚屋の主人、文山が書名高きを知りて、春山櫻花畫ける屏風を出して賛辞を乞。文山筆をとりて、此所小便無用と書す。主人これを見て頗る不興の色あり。其角筆をとり、これにつぎて花の山と書。つひに俳諧の一句となる。
 此所小便無用花の山
主人喜び、つひに家寶とす。其頃あづま童の口さがなきが、此所小便無用佐文山とたはぶれいひけるとぞ。此事、世に傳へて風流の話柄とする。
文山享保十年乙卯五月七日病て歿す。享年七十七。芝増上寺塔中浄蓮院に葬る。

素堂と曾良 餞別吟及び書簡(『諏訪史料叢書』巻九所収)

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素堂 餞別吟及び書簡(『諏訪史料叢書』巻九所収)
□(素)堂主人、曾良宛書簡
尚々素翁江□□(二字讀難シ)人殿歳旦之詩文可□(一字讀難シ)候、林家試毫ハ今日申候到来次第可懸御目気つかれ何事も早々御推覧候以上
昨夜は病気御防(訪カ)忝暫時仙家交友の意味、爐中の柴茶に梅か香を手折添残雪の餅の欠ほちほちと閑話今以俤對する心地のみ又々近夕御尋奉待存候然は其節御物語仕候通せかれ、此道書の片隙にいつか好き者蚊足先生、たん尺色紙大望之旨申候間迄申上御頼被成可被下候歳旦のこと夜前御尋候へとも舊臘のいそか
しさ存寄も無御座候病中髭なかさに毛ぬきに筆を持ち添てかく申候いかゝ
   向鏡しらぬ叟に對ㇲ予半白のおかしさを読めり
筆始手に艶つける柳哉
   舊年取込タル務に夢ニわすれかたし苦ム内になくさまんとふと申候句
孤疑心のおのれみかへる落葉哉
扨蚊足士何とそ時も御出會い素堂へもと存候へとも暇なく候へとも暇なく候こゝに物語あり御船蔵渡邊貴作殿舊友ニ而此三四年参候筈當春迄相延候此春夏中何とそ可参候此節素翁招可申旨兼約候間蚊足翁貴文御誘引可仕候間内々此よし御傳置可被忝候病中筆さへに痩早々投墨候萬縷賢顧々々以上
二 月 五 日
岩波曾良雅英几下                                 □ 堂 主 人
 
読み下し
(前欠文)追伸、素翁の□□人殿への歳旦の詩文は□可く候、林家の書き初めのことは今日使いが申してきました。到着したらすぐさま御目にかけましょう。気疲れしました何事も早々推し量って下さい。以上
昨夜は病気見舞いかたじけなく暫しの間静かな住まいで交友の意味合いは、炉中の柴茶に梅の小枝を手折って添え、古くなった餅の欠片を焼いて、ほちほちと食べながら無駄話をしたこと、今もって佛に対する心持ちだけ又々近いうちにお尋ねになるかと待っていますよ。そうであるなら御話致したました通り急がされ俳諧書をする片暇に何時だったか好き者の蚊足先生へ短冊色紙を欲しいと申しましたから、貴方に申し上げておきます。貴方からも御頼みに成って下さるようお願います。歳旦のこと前夜お尋ねに成りましたが、去る年末の忙しさ、存知寄りも御座いませんから、病中の髭の長さに、毛抜きを筆に持ち替えて、こう申しましょういかが。
向鏡もしない貴方に対する私ごましお頭のおかしさを詠みました。
筆始手に艶つける梅柳
 旧年取り込んでしまった務めに、夢にも忘れることが難しい苦しむ内
 になぐさもうと、ふと申しました句、
 孤疑心のおのれのみかへる落葉哉
扨、蚊足士へ何とかしてしばらくの間もお会いすること素堂も存じていますがその暇さへありません。こゝのお話することがあります。御船蔵に住まいする渡辺喜作殿は旧友でしてこの三四年参られる筈でしたが当春迄延引して居ります。この春夏のうち何とかして参られるようにと思います。この折私が招きますから兼ねての約束の通り蚊足翁、貴文をお誘い致しますので内々この事をお伝えしておいて下さい。病中、文を書くのも貧しくなり、早々に筆を置きました。よろずこまごまとかえすがえす賢し。
二 月 五 日
岩波曾良雅英几下                     □(素)堂主人
 
『書目解題』 
□堂主人より曾良宛書状一巻(東京 杉村裕氏蔵)
 
これも亦年号不明にしてたゞ月日のみあり、差出人も欠字あって不明なるは惜しむべし。文中素堂、蚊足等の名が見ゆ。初に「昨夜は病気御防……」とあり。文字は正しく「防」なれと文意より推す時は「御訪」の方當れりとも思はる。この字がその何れなるかは曾良研究の上に大切なる問題となるべきも、本書の字体のまゝを載せたり。(『諏訪史料叢書』「巻九」所収)
 
【註】この書簡の年は定かではないが、宝永七年ではないかと推論する。

** 素堂俳諧事蹟年譜 **

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** 素堂俳諧事蹟年譜 **
 ここで素堂の俳諧に於ける年譜を作成した。句集など多少の年移動があり、また未見資料もある。
 
寛永十九年 1642    
誕生、一月四日(『連俳睦百韻』)
寛文 五年 1665 23 
三輪神社参詣  荻野清氏の説、「山口素堂の研究」
寛文 七年 1668 26 
伊勢踊 伊勢、加友編。信章、発句五。
寛文 九年 1670 28 
一本草 未琢編。発句一。
寛文十一年 1672 30 
蛙井集 山口清勝編。信章、発句一。
延宝 二年 1674 33 
信章歓迎百韻 
十一月二十三日、上洛して北村季吟や湖春ら以下の歓迎百韻の席にのぞむ。
信章、付句十一。
延宝 三年 1675 34 
宗因と百韻興行 江戸下向中の宗因を中心に、桃青(芭蕉)等と共に百韻興行。
信章、付句九。
俳諧繪合 高政編。信章、発句二。
延宝 四年 1676 35
  俳諧当世男   蝶々子編。発句一。
到来集 胡兮編。発句二。
草枕 旨恕編。旨恕・信章百韻一巻。
延宝 五年 1677 36
  六百番俳諧発句合 岩城平城主、内藤風虎編。発句二十。
江戸三吟 冬、伊藤信徳・桃青と共に三吟三百韻興行。
延宝 六年 1678 37
江戸三吟 春、前年に続き三吟三百韻興行。
江戸八百韻   幽山編。発句一。付句七。
新附合物種集 井原西鶴編。付句五。
江戸新道 言水編。発句六。
江戸廣小路   不卜編。発句七。
鱗形 雪柴編。発句一。
夏の頃、江戸を出立して長崎に向かう。
延宝 七年 1679 38                   
肥前唐津にて新春を迎える。清水茂夫氏(故)は「二万の里唐津と申せ君が春」は、仕官していた唐津の主君の新春を祝っているのでないかという。
暮春頃、江戸に帰着する。
致任して、不忍池畔に退隠する(?)
玉手筥 蝶々子編。発句一。
富士石 岸本調和編。発句二。
江戸蛇之鮓   言水編。発句一。号来雪。
二葉集 西治編。付合四章。
延宝 八年 1680 39     
誹枕 始めて序文を著す。幽山編。
始めて素堂と号す(正式な名称も山口素堂)
発句十七、幽山・素堂両吟半歌仙一巻。
大矢数 五月、井原西鶴が難波本覚寺で興行する。
号、信章で付句一。
江戸辧慶 言水編。発句二。
向之岡  不卜編。発句三。
天和 元年 1681 40
東日記  言水編。発句二。
三物  芭蕉・木因・素堂。
天和 二年 1682 41
月見の記 
高山麋塒(伝右衛門。老中、秋元但馬守の家老)主催の宴。
武蔵曲 千春編。付句十、発句四。
芭蕉庵再興勧化文 
前年冬の焼失した芭蕉庵を再建する為有志を募る。
天和 三年 1683 42     
虚栗 荷興十唱他二句。
空林風葉 自悦編。発句二。
貞享 元年 1684 43
孤松 尚白編。発句二。
貞享 二年 1685 44
稲筵 清風編。発句一。
一楼賦 風瀑編。発句三。跋文(漢文)
古式百韻 芭蕉等と古式の百韻興行。付句十三。
白根嶽 調実(甲斐市川の人)編。発句一。
貞享 三年 1686 45     
蛙合 仙化編。発句一。
芭蕉の瓢に「四山」の銘を与える。
貞享 四年 1687 46                   
春、上京する。
蓑虫説 蓑虫に関する芭蕉との遣り取り。
句餞別 十月、長崎旅行の折に求めた頭巾を芭蕉に贈る。
発句一、詩三絶。
続虚栗 序文、(芭蕉に先がけ「不易流行」を説く)
其角編。発句五。
続の原 不卜編。芭蕉・調和・湖春と共に四季句合春の判者。
元禄 元年 1688 47     
素堂亭残菊宴             発句二。
芭蕉庵十三夜             発句一。
追善興行 大通庵道円居士の追善興行に芭蕉・曾良等と参加。
付句三。
元禄 二年 1689 48     
送別賦 芭蕉「奥の細道」行脚に出立。素堂「松島の詩」
其袋 名月を賞して、十三唱。
曠野 荷兮編。発句六。
元禄 三年 169049        
其袋 服部嵐雪、素堂の助力で『其袋』の撰を成就。
酒折宮奉納漢和 序文。漢和。甲斐酒折宮奉納の漢和俳諧八句の序文を草す。
(漢和の部分は前年)
忘年会 冬至の前の亡年会。
松の奥 梅の奥 俳諧作法書。一部では偽書とされる。
いつを昔 其角編。発句五。
吐綬鶏 秋風編。発句一。
秋津嶋 団水編。発句一。
後の塵 其詞編。発句一。
元禄 四年 1691 50
誹諧六歌仙   鋤立編。序文。
俳諧勧進牒   路通編。発句五。
雑談集 角編。発句一。
元禄百人一句 江水編。発句一。
色杉原 友琴編。発句一。
餞別五百韻   立吟編。発句一。
西の雲 ノ松編。発句一。
元禄 五年 1692 51
母喜寿の賀   連衆、芭蕉・嵐蘭・沾徳・曾良・杉風・其角。
発句一。
和漢連句 芭蕉・素堂両吟の和漢連句(別項参照)

** 素堂俳諧事蹟年譜 **2 元禄5年~元禄15

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** 素堂俳諧事蹟年譜 **
 
元禄 五年 1692 51
母喜寿の賀   連衆、芭蕉・嵐蘭・沾徳・曾良・杉風・其角。
発句一。
和漢連句 芭蕉・素堂両吟の和漢連句(別項参照) 序文。
俳諧深川集   芭蕉・嵐蘭・曾良・洒堂等を招き、年忘れの会。
発句一。付句一。
俳林一字幽蘭集 沾徳編。序文。発句四。
己が光 之道編。発句一。
旅館日記 許六編。発句三。
元禄 六年 1693 52     
杉風書簡 宗匠にて無レ之者のも名高きは素堂と申者にて御座候。
残菊の宴 芭蕉・其角・桃隣・沾圃・曾良・馬等出座。
幕府儒官、人見竹洞、素堂に素琴を贈る。
竹洞、素堂宅を二三人で訪れる。
本所深川に四百二十九坪の土地を買い求める。
流川集 露川編。発句一。
桃の實 兀峰編。発句一。
元禄 七年 1694 53     
蘆分船 不角編。序文。発句一。
隠家百首 戸田茂水編。和歌一首入集。号・信章素堂。
《芭蕉没》  
枯尾花 芭蕉追善歌仙に参加。
妻の死 十二月素堂は曾良宛書簡で「妻の死」を伝える。
炭俵 野は唐変。発句二。
句兄弟 其角編。発句一。
名月集 心桂編。発句一。
芳里袋 友鴎編。発句二。
芭蕉没に際して竹洞から贈られた素琴の弦を切る。
元禄 八年 1695 54     
歳旦詩 乙亥歳旦詩一篇。
甲山記行 夏、母が急逝する。母の生前の願い「身延詣」の旅に出る。宿を外舅野田
氏宅。
花かつみ 文車編。発句一。
住吉物語 青流編。発句一。
笈日記 支考編。発句四。
元禄 九年 1696 55
裸麥 芭蕉三回忌追善の句。
翁艸 里圃編。発句十二。一座の歌仙二巻及び文章一篇。
元禄 十年 1697 56
陸奥鵆 桃隣編。跋文。発句五。付句一。
俳諧錦繍緞 其角編。発句四。
署名、江上隠士山松子(山口松兵衛か)、序文。
韻塞 許六編。序文・跋文。発句一。
真木柱 擧堂編。発句十二。
末若葉 其角編。発句一。
柱暦 鶴声編。発句一。
元禄十一年 1698 57     
歳旦詩 歳旦、六言六句の詩一篇。(『素堂家集』)
夏から秋にかけて京都に留まる。芭蕉の塚に詣でる。
鳴滝で茸狩り、多くの詩歌発句あり。
続有磯海 浪化編。発句二。
続猿簔 芭蕉遺編。発句一。
泊船集 風国編。発句一。
寄生 桂聚亭編。発句二。
去来抄 素堂、去来に新風興行を持ちかける。
元禄十二年 1699 58     
海道東行 良因編。序文。
俳諧伊達衣   等窮編。発句一。
皮籠摺 涼菟編。発句一。
簔笠 舎羅編。発句一。
元禄十三年 1700 59     
冬かつら 芭蕉七回忌追善吟七。
六玉川 百丸編。跋文。
暁山集 方山編。発句一。
続古今誹諧手鑑 笑種編。発句一。
元禄十四年 1701 60     
宗長庵記 素堂、春上洛。島田宿で『宗長庵記』を草す。
秋にも上洛し、『長休庵記』と改作する。発句二。
そこの花 支考編。発句一。
きれぎれ 白雪編。発句三、一座の表六句一連入集。
追鳥狩 露堂編。発句一。
杜撰集 嵐雪編。発句一。
続別座敷 杉風編。発句一。
荒小田 舎羅編。発句一。
裸麥 曾米編。発句一。
元禄十五年 1702 61     
知足亭逗留   京都より下る途中、鳴海知足亭に逗留。
花見車 素堂評あり。
三河小町 白雪編。発句一。
利休茶道具図 茶人、山田宗偏の『利休茶道具図』に序文。
元禄十六年 1703 62     
歌林尾花末   梅柳軒水編。和歌一首入集。
行脚戻 五桐編。発句一。
分外 艶士編。発句一。


** 素堂俳諧事蹟年譜 **3 宝永元年~享保元年

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宝永 元年 1704 63     
山中集 涼菟編。素堂、木因併せて芭蕉の二友と称せられる。
四月江戸出立、七日から十二日まで逗留。発句、連句あり。
千句塚 除風編。文章一篇、発句一。
渡鳥集 卯七・去来編。発句二。
誹諧番橙集   除風編。発句一。
五十四郡 沾竹・沾荷編。発句一。
濱萩 柳舟編。発句一。
たみの草 湖白編。発句一。
文章一、発句二。
宝永 二年 1705 64     
歳旦漢詩 歳旦所懐漢詩二編。
寸濃字 支考・座神編。序文。
蝶羽亭逗留 閏四月九日、鳴海の蝶羽亭に至り、
五月五日まで滞在。
五日鳴海を発って江戸に向かう。
知足斎日々記 発句三。
誰身の秋 吾仲編。発句一。
夢の名残 海棠編。発句一。
木曾の谷 楚舟・野坡編。発句一。
やどりの松   助給編。発句一。
賀之満多知   発句一。
宝永 三年 1706 65     
東山萬句 支考編。序文。発句一。
猫筑波 梅員編。発句一。
宝永 四年 1707 66     
東海道記行 春、上洛。東海道記行を草す。和歌・漢詩・発句
風の上 嵐雪追善集。追悼文。
菊の塵 園女編。序文。
かくれさと 片海編。発句一。
宝永 五年 1708 67     
とをのく集   百里編。嵐雪一周忌。
梅の時 少長(歌舞伎俳優 中村七三郎)追善集。序文。
宝永 六年 1709 68     
星會集 輪雪編。発句一。
既望集 吟墨編。発句一。
根無草 艸士編 発句一。
素堂主人書簡 曾良宛。発句二。
宝永 七年 1710 69     
歳旦漢詩 一篇。
三山雅集 呂茄編。発句一。
素堂病に臥す。瘧(おこり)にかかる。
葛飾 芭蕉十七回忌追善集。序文。
正徳 元年 1711 70     
誰袖 蘭臺編。発句一。
とくとくの句合 自著、この年頃成立か。
鉢扣 伊丹、蟻道追悼集。序文。発句一。
正徳 二年 1712 71     
歳旦漢詩 京都にて歳旦の臨み、漢詩を吟ずる。
千鳥掛 蝶羽編。序文。発句六。
素堂書簡 京都にて伊丹の億麿に鉢扣贈呈の礼状。
花の市 寸木編。発句一。
正徳 三年 1713 72     
   舎羅編。発句一。
火災遭遇 師走、火災に遭う。
正徳 四年 1714 73     
歳旦漢詩 漢詩一篇。
正徳 五年 1715 74     
みかへり松   祇空編。発句一。
昔の水 古梅園編。発句一。
享保 元年 1616 75     
この馬 法竹編。発句一。
鵲尾冠 発句一入集。越人編。(刊は、翌年)
享保 元年
素堂、八月十五日    逝去。

▼〔素堂余話〕青海や太鼓ゆるまる春の聲について

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▼〔素堂余話〕青海や太鼓ゆるまる春の聲について
 
  散る花や鳥も驚く琴の塵                芭蕉
何れの年の吟にや未知 
○泊船集に此句琴と太鼓と簫の畫の讃也と有り。
「うら若葉」に、此句の詞書曰、南山子の求め、畫は探雪也、琴と
笙と太鼓との賛望まれしに、
散る花や鳥も驚く琴の塵                芭蕉
見てひとつのあそばして山の鳥をも驚かし給へと有りて是中也、
左は、
青海や太鼓ゆるまる春の聲              素堂
右は、
けしからぬ桐の一葉や笙の聲            其角
 中は
  散る花や鳥も驚く琴の塵                芭蕉
▼句解に是は楽器の賛也。『劉向別録』に曰、
魯有善歌者 、廬公發聲清哀拂動梁上塵、
此心に通へり、彼の梁上の鹿を落花飛鳥に言ひ替へたる俳諧の手づま千煉を稱すべし。
 
○「説叢」に、
句解を難じて曰く、廬公は諷人也、楽器の事には非ず、此句は更更通はぬ也、然れども楽器の讃と眼の付たる所は當れり。其名を指さぬこそ可惜哉。此句ぼ楽器は必琴なるべしと。

琴の故事によらば、列子曰、瓠巴鼓琴而鳥舞魚躍。史記二十四巻樂書第二曰晋平公曰寡人所レ好者音也。顧聞之師曠不得已援琴而鼓之、一奏有玄鶴八集二廊門、再奏之延頸而鳴、舒翼而舞云々、此句意は琴

の賛にて、此琴や誰人の弾きけん、其昔しは清聲に梁の塵をもはらひ、清韵には鳥魚をも感ぜしめけんと琴の徳を稱せし也。散花は當季の入物ながら琴の塵と見て、一たび掻き鳴さば花も散り鳥も驚かさんと也。翁の句には手づまきゝし也。塵は落花飛鳥に云ひ替へたるとは如何にや。準らへし事とは聞えぬ文語也。又是程の事翁の手に聞かざらんや。千鍜にも非ず。琴を弾かば花も吹落ちて琴の塵とも見えんとの風情格別也。畫讃の句體也。去りながら、畫讃と云ふ慥かなる證跡有りや。何れの集にも見えず。然るに伊豫の松山にて何某の家に傳へし三幅對の軸物あり。信を求めて松山の何某に求む。 
 
其讃
左太鼓    青海や太鼓緩みて春の聲   素堂
中琴      ちる花や鳥も驚く琴の塵   芭蕉
右笙 遂鳳凰 けしからぬ桐の落葉や簫の聲 其角
 
爰に於て予始めて歓喜す、所持の人名は聊か故障ありて略し出さず。云々。(『芭蕉句選年功』石河積翠園著)
(略)小林一茶の九州旅行めぐりはさして収穫を見ない。おそらく期待はづれたらう。同六年は「冬の月いよく伊豫の高根哉」を遠望して四国へ渡ったやうだ。遺稿の寛政紀行では翌七年の歳旦は讃岐の観音寺で迎へている。そこの浄土宗専念寺僧五梅は竹阿の門人なので、一茶は別して昵懇にして九州へ落る前にも寄食したと見えて、紀行に「已四とせの昵近とは也けらし」と記している。竹阿の供養塔もこの寺に建立されて居た。「塚の花にぬかづけば古郷なつかしや」は塔前低徊の吟である。宗鑑の一夜庵はその近傍だ。竹阿は一夜庵に杖をとめて師馬光の十三囘を遥拝し、琴弾山の麓十三堂の境内に芭蕉の早苗塚を造立した際の二つ笠の序文を書いたりしてゐる。一茶はさだめし懐旧の泪をすゝったであろう。伊豫の松山には曉臺門の樗堂がその庵を構へて居た。紀行に「十五日松山二塁庵に到る」
とあるだけだが、樗堂の事は後で書く。この松山に竹阿の「友の春」に出詠して一茶より先輩格の魚文が住居した。一茶は魚文亭で素堂、芭蕉・其角の三幅對を鑑賞している。これは其角の著『うら若葉』に掲出してあるもので、松山藩の家老久松肅山の需によって狩野探雪筆の太鼓と琴と笙との畫賛に、三人がそれぐその句を題したのだ。
 
青海や太鼓ゆるみて春の聲             素堂
ちるはなや鳥も驚く琴の塵             芭蕉
逐鳳凰
けしからぬ桐の落葉や笙の聲           其角
 
といふので、今は大阪の素封家土居吉郎氏の愛蔵する逸品である。一茶の鑑定書とも見るべき考証の禮讃の句を書添へて、それが二枚の紙に別々に認めてある。紀行には前文を逸するのでこゝに紹介しよう。
玉櫛笥二名の島に住ませる六々亭は、亡師も休もりたまはりし家にしあれば、やつがれもこたびはた筑紫のかへるさ訪ひ侍りきに、こや鳥が鳴吾妻ゆもきゝつたひたる三軸のありて、とみにおろがみたいまつるに、あが、ねぎごとのとゝなへる日にぞありける。
正風の三尊見たり梅の宿
右 東都墨水散人 一茶 華押
 
とあるが、『うら若葉』には芭蕉の句を前に掲げて前文があり、左、素堂右、其角の断りが附いてゐる。一茶は別紙に「是は三幅對の配り違アリ」と注意したのは、『うら若葉』を参照してこれを真蹟と見たる証左である。(『日本文学講座』「一茶研究」勝峰晋風氏著)
 
【筆註】 この三幅對については元禄七年の項にも関連記述がある。
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