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武川町 神代桜 見ごろは来週哉かな?
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吉川監物 桂小五郎 写真
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島津久光の写真
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堀田正睦 写真
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神代桜 みはらし案内
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甲斐駒ヶ岳山頂
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あなたの幸せを祈る
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藪の湯みはらしの北杜市春の田園風景
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甲斐駒ケ岳 (2966メートル)
甲斐駒ケ岳 (2966メートル)
『日本百名山』深田久弥著より 一部加筆
東京から山の国甲斐を貫いて信州に行く中央線。私たち山岳宗徒にとって最も親しみ深いこの線路は、一たん甲府盆地に.馳せ下った後、今度は釜無川の谷を左手に見おろしながら、信州の方へ喘ぎながら上って行く。さっきまで遠かった南アルブスが、今やすぐ車窓の外に迫ってくる。
甲斐駒ケ岳の金字塔が、怪異な岩峰摩利支天を片翼にして、私たちの眼をおどろかすのもその時である。汽車旅行でこれほど私たちに肉薄してくる山もないだろう。釜無川を隔てて仰ぐその山は、河床から一気に二千数百メートルも突きあげているのである。
日本アルプスで一番代表的なピラミッドは、と問われたら、私は真っ先にこの駒ヶ岳をあげよう。その金字塔の本領は、八ヶ岳や霧ヶ峰や北アルプスから望んだ時、いよいよ発揮される。南アルプスの巨峰群が重畳している中に、この端正た三角錐はその仲間から少し離れて、はなはだ個性的な姿勢で立っている。まさしく毅然という形容に値する威と品をそなえた山容である。
日本アルプスで一番奇麗な頂上は、と訊かれても、やはり私は甲斐駒をあげよう。眺望の豊かなことは言うまでもないとして、花崗岩の白砂を敷きつめた頂上の美しさを推したいのである。
信州ではこの山を白崩山と呼んでいたが、その名の通り、遠くからは白砂の峰に見えるのである。
私が最初にこの略に立った時は、信州側の北沢小屋から仙水峠を経、駒津峰を越えて行った。六方石と称する大きな山石の傍を過ぎると、甲斐駒の広大な胸にとりつくが、一面に裏白な砂礫で目映いくらいであった。九月下旬のことでその純白のカーペットの上に、所どころ真紅に紅葉したクマコケモモが色彩をほどこしていて、さらに美しさを添えていた。ザクザクと白い砂を踏んで、頂上と摩利支天の鞍部へ通じる道を登って行くのだが、あまりにその白砂が奇麗なので、踏むのがもったいないくらいであった。南アルプス中で、花崗岩の砂礫で美しいのは、この甲斐駒とお隣の鳳凰山だけである。
頂上に花崗石の玉垣をめぐらした両のほかに、幾つも石碑の立っているのをみても、古くから信仰のあつかった山であることが察しられる。祭神は大己貴命で、昔は白衣の信者が登山道に続いたものだという。その表参道ともいうべきコースは、甲州側の台ケ原あるいは柳沢から登るもので、両登山口はそれぞれ駒ヶ岳神社がある。この二つの道は、山へ取りかかって間もなく一致するが、それから上、頂上までの道の途中に、鳥居や仏像や石碑が点綴されている。
日本アルプスで一番つらい登りは、この甲斐駒ケ岳の表参道かもしれない。何しろ600メートルくらいの山麓から、3000メートルに近い頂上まで、殆んど登りづくめである。わが国の山で、その足許からてっぺんまで2400メートルの高度差を持っているのは、富士山以外にはあるまい。木曽駒ヶ岳は、木曽からも伊那側からも、それに近い高度差を持っているが、登山道は緩く長くつけられている。甲斐駒ほど一途に頂上を目がけてはいない。
甲斐駒の表参道は、途中の黒戸山あたりの弛みを除けば、あとは急坂の連続である。上へ行くにつれて傾斜は激しくなり、険しくなり、梯子や鉄の鎖や針金などが次々とあらわれる。山麓から一日で頂上へ達するのは普通不可能であって、五合目あるいは七合目の小屋で一泊しなければならない。
わが国には駒ヶ岳と名のつく山が多いが、その筆頭は甲斐駒であろう。西にある木曽駒ヶ岳と区別するために、以前は東駒ヶ岳と呼ばれたが、今は甲斐駒で通っている。山名の由来は、甲州に巨摩郡、駒城村などの地名のあるところから推しても、かつて山麓地方に馬を産する牧場が多かったので、それに因んだものと思われる。
甲斐駒ケ岳は名峰である。もし日本の十名山を選べと言われたとしても、私ほこの山を落さないだろう。苦から言い伝えられ崇められてきたのも当然である。この山を讃えた古い漢詩を一つ最後にあげておこう。「駒ヶ岳ヲ望ム」と超し、僧海量の作である。
甲峡ニ連綿トシテ丘壑重ナル
雲間独リ秀ズ鉄驪ノ峰
五月雪消エテ絶頂ヲ窺へバ
青天ニ削出ス碧芙蓉
言うまでもなく鉄驪ノ峰とは甲斐駒のことである。これは甲州側から映じたのだが、信州側からすれば、碧芙蓉でなく白英蓉ということになろうか。
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◇素堂43才 野晒紀行 芭蕉と素堂
◇貞享1年 甲子 1684 素堂43才
俳壇 江戸の於いては二月、其角が京都に向けて出立。京都にて伏見の任口を訪ね、湖春等と表六句を巻き、仁和寺に赴く。
四月に季吟は新玉津島移住後の月次を息湖春に任せる。其角はさらに京都で千春・信徳・只丸・との五吟歌仙五巻、八吟歌仙を興行する。其角は夏秋頃去来と対面する。
八月中旬、芭蕉は千里を伴い「野ざらし紀行」の旅に出る。
冬には岸本調和が甲州市川の調實を訪ね、両吟歌仙を興行。
京都に於いては、漢詩文調が流行する。大阪では小西来山が三月、有馬に鬼貫を訪ね、百韻を満尾する。
西鶴は『古今俳諧女歌仙』を鬼貫は『有馬日書』を刊行し、
三千風は大阪にて、西鶴・来山等と百韻興行を行ない、その後長崎に向かう。
▽素堂、『孤松』発句二入集。尚白編。
雨の蛙こは高になるもあはれ也 素堂
寒くとも三日月見よと落葉哉 々
【尚白】慶安三年(1650)生、享保七年(1722)没。年七十三才。本名、江左大吉。近江国大津柴屋町住。医師。芭蕉が「野晒し紀行」の途次、大津に立ち寄った際に入門。『猿蓑』期の芭蕉の新風を理解できす、編著『忘梅』の千那序文をめぐって芭蕉との間に確執を生じ、以後疎遠となる。
▼芭蕉、故郷へ。
十月二十五日、江戸を出立。帰郷の途に就く。
「無何に入」
貞享四年の第二回目の行脚の時、山口素堂の送行詩に「胸次素無何有郷」と言ってあるのも、第一回目行脚の「無何に入」を再び繰り返し言ったのである。(『芭蕉全傳』山崎藤吉氏著 昭和十七年刊)
旅程…東海道を経て、伊勢に出で伊賀に帰り、吉野に遊び、美濃、尾張を経て再び伊賀に帰り越年、更に京都、奈良、大津、熱田を経て木曾路により帰途甲斐に寄る。江戸には貞享二年四月に戻る。
▽素堂
…我友はせを老人、故郷の故きをたずねみつゐでに、行脚の心つきて、其の秋江上の庵を出で、またの年(貞享二年)のさ月ころ帰りぬ。
芭蕉と素堂 野ざらし讃唱
芭蕉、『野ざらし紀行』
千里に旅立てみち粮をつゝまず、三更月下無何に入と云けむ、むかしの人の杖にすがりて、貞享きのえね秋八月江上の破屋を出るほど、風のこゑそゞろ寒げなり。
野ざらしをこゞろに風のしむみかな
秋十とせ却てゑとをさす故郷
關こゆる日は終日雨降て、山はみな雲にかくれたり。
霧しぐれふじをみぬ日ぞおもしろき
何某千りと云けるは、此たび路とのたすけとなりて、萬いたはり心を盡し侍る。常に莫逆の交深く、朋友に信あらかな此人。
ふかゝやはせをふじに預ゆく ちり
ふじかわのほとりをゆくに、三ツばかりなる捨子の哀げに泣あり。此川の早瀬にかけて、浮世の波をしのぎにたへず、露ばかりの命まつ間と捨置けむ、小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、
猿をきく人すて子にあきのかぜいかに
いかにぞや、汝ちゝににくまれたるか、母にうちまれたるか。父はなんぢを悪ムにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯是天にして、汝が性のつたなきをなけ。大井川越る日は、終日雨降ければ、
秋の日の雨江戸に指折ん大井川眼前、
道のべの木槿は馬にくはれ鳧
二十日餘りの月かすかに見えて、山の根ぎはいとくらきに、馬上にむちをたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りてたちまち驚く。
馬に寝て残夢月遠しちやのけぶり
松葉や風瀑が伊勢に有けるを尋音信て、十日ばかり足をとゞむ。暮て外宮に詣侍りけるに、一の鳥井の陰ほのくらく、御燈處々に見えて、また上もなき峯の松風身にしむばかり、ふかき心を起して、
みそか月なし千とせの杉を抱あらし
腰間に寸鐵を不帯、襟に一嚢を懸て、手に十八の珠を携ふ。僧に似て塵あり、俗に似て髪なし。我僧にあらずといへども、髻なきものは俘屠の属にたぐへて、神前に入をゆるさず。西行谷のふもとに流あり。をんなどもの芋あらふをみるに、
いもあらふ女西行ならば歌よまん
其日のかへさ、ある茶店に立よりけるに、てうといひけるをんな、あが名に発句せよと云て、白き絹出しけるに書付侍る。
蘭の香や蝶の翅にたきものす
閑人の茅舎をとひて
蔦植て竹四五本のあらしかな
長月の初故郷に帰りて、北堂の萱草も霜枯果て、今は跡だになし。何事もむかしに替りて、はらからの鬢白く、眉皺寄て、只命有てのみ云て言葉はなきに、このかみの守り袋をほどきて、母の白髪おがめよ、浦島の子が玉手箱。なんぢが眉もやゝ老たり、と、しばらくなきて、
手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜
大和国に行脚して、葛下の郡竹の内と云所にいたる。此處はれいのちりが旧郷なれば、日比とゞまりて足を休む。藪よりおくに家有
わた弓や琵琶に慰む竹のおく
二上山当麻寺に詣て、庭上の松をみるに、凡千とせもへたるならん。大いさ牛をかくすともいふべけん。かれ非情といへども、仏縁にひかれて、斧斤の罪をまぬがれたるぞ幸にしてたっとし。
僧朝顔幾死かへる法の松
獨よし野のおくにたどりけるに、まことに山深く、白雲峯に重なり、烟雨谷を埋ンで、山賤の家處々にちいさく、西に木を伐ル音東にひびき、院々の鐘の聲の心の底にこたふ。むかしより此山に入て世をわすれたる人の、おほくは詩にのがれ歌にかくる。いでや、唐土の廬山といはむもまたむべならずや。ある坊に一夜をかりて
碪打てわれにきかせよ坊が妻
西上人の草のいをりのあとは、奥の院より右の方二町ばかりわけ入程、柴人のかよふ道のみわずかに有て、さがしき谷をへだてる。いとたふとし。彼とくくの清水はむかしにかはらずと見えて、今もとくとくと雫落ける。
露とくく心見にうき世すゝがばや
若是扶桑に伯夷あらばかならず口をすゝがん。もしこれ許由に告ば耳をあらはむ。山を登り坂を下るに、秋の日既ニ斜になれば、名のある處々見残して、先ず、後醍醐帝の美陵を拜む。
御廟年を経てしのぶは何をしのぶ草
大和より山城を経て、近江路に入て、美濃にいたるに、います・山中を過ぎて、いひしへの常盤の塚あり。伊勢の守武がいへるに、よしとも殿に似たる秋風 とは、いづれの處かにたりけん。我もまた、
義朝の心に似たりあきの風
不破
秋風や藪も畠も不破の関
大垣に泊りけるに夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野出し時、野ざらしを心におもひて旅立ければ、
死にもせぬ旅ねの果よあきのくれ
桑名本當寺にて
冬牡丹千鳥よ雪のほとゝぎす
草のまくらに寝あきて、まだほの暗き中に濱のかたへ出て、
あけぼのやしら魚白き事一寸
熱田の詣ヅ。社頭大イニ破れ、築地たはふれて草村にかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすえて其神と名のる。よもぎ・しのぶ心のまゝに生たるぞ、なかくに目出度よりも心とまりける。
しのぶさへ枯て餅かふやどり哉
名護屋に入ル道の程諷吟ス
狂句凩の身は竹斎に似たるかな
草まくら犬もしぐるゝか夜の聲
ゆき見ありきて
市人よこの笠うらう雪の傘
旅人を見る
馬をさへながむる雪の旦かな
海邊に日暮して
海くれて鴨の聲ほのかに白し
爰にわらぢをとき、かしこに杖をすてゝ旅寝ながらに年の暮ければ、年くれぬ笠きてわらぢはきながらといひくも山家にとしを越て
誰が壻ぞ齒朶に餅おふ牛の年
奈良に出る道のほど
春になれや名もなき山の朝霧
二月堂に籠りて
水取リや氷の僧の沓の音
京に登りて、三井秋風が鳴滝の山家をとふ。
梅白し昨日や鶴をぬすまれし
樫の木花にかまはぬすがたかな
伏見西岸寺任口上人にあふて
我衣にふしみの桃の雫せよ
大津に出る道、山路を越て
やま路来てなにやらゆかしすみれ草
湖水眺望
辛崎の松は花よりおぼろにて
晝の休らひとて旅店に腰を懸て
つゝじいけて其陰に干鱈さく女
吟行
菜畑に花見皃なる雀哉
水口にて廿年を経て故人あふ
命二ツ中に活きたるさくらかな
伊豆の國蛭が小島の桑門、これも去年の秋より行脚しけるに、我名をきゝて、草の枕の道づれにもと、尾張の國まで跡をしたふ来たりければ、
いざともに穂麥くらはんくさまくら
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笛吹權三郎の墓
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山本勘助 甲斐国志関連記事抜粋
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誤伝山梨の歴史 山口素堂の真実(『連俳睦百韻』寺町百庵序文中)
甲斐国志を固守する山梨の山口素堂履歴、素堂の出生と生家それに親族の新展開をここに示す。
(『連俳睦百韻』寺町百庵序文中)
抑々素堂の鼻祖を尋るに、其ノ始メ河毛(蒲生)氏郷の家臣山口勘助良佞〔後呼レ佞翁)、町屋に下る。山口素仙堂太良兵衛信章俳名来雪、其の後素仙堂の仙の字を省き素堂と呼ぶ。
其の弟に世をゆずり、後の太良兵衛後ち法體して友哲と云ふ。後ち桑村三右衛門に売り渡し婚家に及ぶ。其ノ弟三男山口才助納言は林家の門人、尾州摂津侯の儒臣。其ノ子清助、素安、兄弟数多クあり皆な死す。其ノ末子幸之助佗名片岡氏を続ぐ。
雁山ノ親は友哲家僕を取立て、山口氏を遣し山口太良右衛門、其ノ子雁山也。後チ浅草蔵前米屋笠倉半平子分にして、亀井町小家のある方へ智に遺し、其の後ち放蕩不覊て業産を破り江戸を退き、遠国に漂泊し黒露と改め俳諧を業とし、八十にして終る。
〔素堂 〕
名は信章、通称を松兵衛、太郎兵衛或は太郎右衛門。号は素仙堂、俳号ヲ来雪、のち素堂。寛永壬午年一月四日の生まれ。鼻祖が浪人して以来の家系で在ったが、親の代あたりで家運に恵まれ富裕と成った。家業は商家で有ったらしいが職種は不詳。次弟に家を譲り江戸に出て、林家の家塾に入って学ぶ。同門の人見竹洞は彼を評して「林門三才の随一」(「含英髄記」)と云う。官職に就いていたらしいが黙して語らず、上級武士としてのたしなみは多岐に亘り、漢学者として漢詩文に長け古典に通じ、連歌を良くし能書家でもある。以上が身辺より知られる処である。
〔参考 挿入『毫の秋』山口素安〕
執文朝が愛子失にし嘆き我もおなしかなしみの袂を湿すことや、往し年九月十日膏祖父素堂亭に一宴を催しける頃、
よめ菜の中に残る菊
といひしは嵐雪か句なり、猶此亡日におなしき思ひをよせて
十日の菊よめ菜もとらす哀哉
かくて仏前に焼香するの序秋月素堂が位牌を拝す、百庵もとより素堂か一族にして俳道に志厚し、我又俳にうとけれは祖父が名廃れなむ事を惜しみ、此名を以て百庵に贈らむ思ふに、そかゝるうきか中にも道をよみするの風流みのかさの晴間なく、たゝちにうけかひぬよつて、素堂世に用る所の押印を添て、享保乙卯の秋(二十年・一七三五)九月十一日に素堂の名を己百庵にあたへぬ
山口素安
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山口素堂の出身地・官職
出身地・官職
出身地について自らは触れていない、しかし周囲からは甲斐府中(甲府)との声も上っているが、『甲山記行』(素堂著)では亡母の身延代参の中で、「亡妻の故郷なればさすがに懐かしくと記し、府中で舅野田氏を主とす」と書く。
今一度官職について見れば、甥で格子になっていた黒露(雁山・守常)が素堂三十三回忌の句集「摩珂十五夜」の中で「ある高貴の御家より高禄をもて召されけれども、不出して処子の操をとして終りぬ」また「算術にあくまで長じ給ひけるも、隠者にはおかし」と記す。退隠又は隠棲はそれとして、市中に住んで居た所は組屋敷の中であると記す者も有り、官職についても御普請役(『俳諧二百年史』)と述べている人もいる。
誤った甲斐国志「素道」の項と以後の記述で見ると
名ハ信章、幼名ヲ重五郎、通称ヲ官兵衛マタ市右衛門、寛永十九年(壬午・1642)五月五日生。代々郷士の家柄で、父の代に甲府に出て商家を営み富裕となる。甲斐国巨摩郡教来石村山口の出身。土地の名をとり山口氏を称す。
後はほぼ同じ。
『甲斐国志』等では濁川工事で代官触頭桜井氏に対し「父母の国なる」(本当は妻の故郷)云々と言ったとある。
出身に付いても後世の人だが、舐空門の夏目成美が「随斎韓話」(文政二年刊)に
「素堂は甲斐国の産なり。酒折の宮の神人(註、飯田正紀)真蹟を多く伝へり」
と記すが、ここでは置く事にし、巨摩郡教来石村山口の事に触れておくと、素堂と同時期の親友でもあった芭蕉や、直弟子とされる馬光(素丸)が旅の途時に同地を経ているが、素堂の故地とは伝えていない。また後になるが寛政文化頃の教来石宿(下教来石村)の俳人塚原甫秋(彦平)やその子幾秋等は芭蕉には熱心であるが、同じ村出身であるとされる素堂には触れていない。同村の山口出身の素堂は先人と云う事になるのであり、現在の北杜市は素堂門に連なる俳人が活躍していたから懐旧談くらいは在って不思議ではない。塚原親子についても同郷の北原台・河西素柳についてももっと研究する必要がありそうである。
素堂の仕官先について
……夏の頃、長崎旅行に赴き越年する。
唐津での句をめぐって、(仕官先が窺える)
二万の里唐津と申せ君が春
「山梨大学研究紀要」
…素堂研究者の清水茂夫氏(故)はこの旅行の、二万の里……唐津の句をもって、素堂が主君との別れの挨拶句であるとしている。
「ところで信章は、延宝六年の夏には長崎旅行をし、翌年暮春ころ江戸に戻りました。そして程なく致任して、上野不忍池のほとりに隠居しました。
それまでは、林春斎に朱子学を学んだ信章は儒官として何処かに任官していたと思われますが、確証はありません。上に記した長崎旅行の際唐津まで赴いてつぎの句を吟じています。
二万の里唐津と申せ君が春
君が春は御代の春と同じで、仕官している唐津の主君を祝っていると考えますと、唐津に藩主にでも仕官していたのではなかろうかとも考えられま
す。しかしこの旅行を契機として理由はわかりませんが致任しています。
参考資料 『甲州街道』中西慶爾氏著 昭和47年 木耳社 一部加筆
山口関と山口素堂
ここから北上すると、やがて国境近くの山口であるが、此処へ行くには別の道もある。
小淵沢駅から蔦木行のバスに乗ると、終点はすでに信州である。ここで国界橋を渡ると、また甲州路に出る。八ヶ岳の残雪を仰ぎながら、釜無川の右岸に添って、田んぼの中の甲州街道をちょっと下って行くと、じき山口である。右手には国道二十号線がすさまじく轟いているが、この街道はひどく閑寂で、路ばたの草に坐って煙草を喫っていると、何処かで雲雀が鳴いたような気がするという道である。
去年のことになるが、はじめてわたくしが山口を訪ねた時、小淵沢でバスに乗りそこねて、甲州街道の上道、つまり武田勝頼の敗走した古道を逆に歩いて行くと、初めての道は言うより長いもので、うんざりして、途中から村人に教わって左へ曲る間道にはいったのだが、七里岩の上の山中で道がなくなり、ひどい目にあった。無闇に歩いて、七里岩の岩間を捜して辿り下ると、釜無川がこの大岩塊にかみついている。わたくしはそこをかち渡る外に手はなかった。はじめはズボンも靴も脱いで、後生大事によちよち渡ってみたが、とうてい駄目だ。今度はズボンも靴もはいたまま、ままよとばかり驀進(バクシン)すると、腰までつかったが、足の滑ることのないに助けられてようやく成功することができた。山口村に辿りついて一軒の商家をみつけ、そこでパンを買って食った。一時間ぐらい休ませてもらって話を聞き、一時間ぐらいその辺を歩いたら、ズボンも靴も乾いてしまった。
さて、閑話休題。部落の北の外れ、道の右側に「鳳来山口関趾」という碑石が立っている。ごく最近のもので、据え方も不安定、文字もまずく、見栄えのしないことおびただしい。碑陰に「昭和四十三年秋建、為信長男二宮清造、八十四歳」とある。為信というは、二宮三八郎平為信と名乗った人で、ここの最後の関守であった。前に書いた天保騒動の時、一揆勢のため関を打ち破られたかどで謹慎を命ぜられたが、また返り咲いた実力者である。
佇んでいると、盛んに昔話をしたがる足腰の不自由な老翁が出て来て、自らを何度も宮沢重則と名乗りながら、わたしの名付け親は二宮為信先生だと誇った。
この老翁の案内で、道を距て西側の進藤積善家の管下に、この関所の門扉だったというみすぼらしい一枚が無雑作にしばりつけてあるのを見た。とてもひ弱な感じで、かりにも関扉といってかなり重要視されたという。記録には「女改め、男手形不要」とある。所有者ももてあましているようで、いずれ近く薪になることであろう。この外に昔をしのばせるものはなんにもない。
この関趾は、かくていずれも貧弱であるが、昔は国境を守るものとした。
ところで、この山口関址はともかく、山口村の大いに誇るべきものが一つある。それは山口素堂の生れ故郷だという一事である。
山口素堂(1642)通称官兵衛は、例の「目には青葉山郭公はつ鰹」の名吟で夙に知られた俳人で、葛飾派の祖と仰がれ、芭蕉も一目おいた大物であるが、そればかりでなく、すぐれた土木業者という一面があった。一例をあげると、元禄八年(1695)石和の代官桜井孫兵衛政能に招かれて、甲斐の濁川改修工事に挺身し、測量設計工事の監督など一人できりもりして、二ヶ年ほどでみごとに竣工、川尻の住民たちを災害から守ったという実績がある。甲府の蓬沢に庄塚というがあるが、これは当時の農民たちが、これに感謝して、桜井代官とともに生きながら祀ったいわゆる生祠である。
「産業事蹟」は
「元禄中、田園変して池沼と為り、多く卿魚を産するに至る。(中略)元禄九年。政能新に渠道を通じ、土堤を築くこと二千百五十間、其広さ四五間より六七間に至る。以て濁川を導く。淳水一旦に排泄して田園悉く旧に復す」
といい、ついで二人の生祠のことに言及している。生祠は今も存しているが、荒れている。佐藤八郎さんは鎌を持って行って、雑草を薙ぎ倒しながらそれを捜して歩いたという。
国界橋のほとりに「山口素堂先生出生之地」として、先の初鰹の句碑が立っている(現在は白州道の駅に移設)。新しいもので、それほど粗末なものではないが、この村として、これだけのことでは物足りない。何か恰好な施設を考えるべきだろう。
ところで、この村が素堂出生の地であることは誰も異存がないが、そのはっきりした根拠がてんでみつからないのは残念である。ここが屋敷あとだと名乗る家は数軒あり、先にわたくしがパンを齧った雑貨屋もその一軒であるが、みんな証拠は何一つない。甚だ物足りない気分であるが、しかし考えようによっては、それでもよいように思われる。誰彼の私有物とせず、村全体がそうであっていいのではないか。みんなの家が彼の生れ故郷だと思えばよい。それも愉快である。その愉快さを濁りなくいつまでも持続することこそが肝要である。
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山口素堂の孫 素安
『毫の秋』山口素安〕
執文朝が愛子失にし嘆き我もおなしかなしみの袂を湿すことや、往し年九月十日膏祖父素堂亭に一宴を催しける頃、
よめ菜の中に残る菊
といひしは嵐雪か句なり、猶此亡日におなしき思ひをよせて
十日の菊よめ菜もとらす哀哉
かくて仏前に焼香するの序秋月素堂が位牌を拝す、百庵もとより素堂か一族にして俳道に志厚し、我又俳にうとけれは祖父が名廃れなむ事を惜しみ、此名を以て百庵に贈らむ思ふに、そかゝるうきか中にも道をよみするの風流みのかさの晴間なく、たゝちにうけかひぬよつて、素堂世に用る所の押印を添て、享保乙卯の秋(二十年・一七三五)九月十一日に素堂の名を己百庵にあたへぬ
山口素安
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富士山に駒ケ岳がある
<七合目:聖徳太子・駒ヶ岳>
甲斐國志巻之三十五 従五位下伊豫守定能編輯----山川部第十六ノ上都留郡----
七合目この間小屋およそ九軒。この辺りより道益々急なり。「駒カ嶽」と云う所に小屋あり。
「聖徳太子の像」並「鋼馬」を安置する。
新倉村如來寺兼帯す「太子略伝」に云う。
----推古帝六年夏、四月、甲斐國貢一驪駒、四脚白者、云々。舎人調子麿加之飼養、秋九月試馭此馬、浮レ雲東去、侍従以仰観、麿獨在御馬有、直入雲中、衆人相驚、三目之後、廻レ輿帰来、謂左右曰、吾騎此馬、瞬レ雲凌レ霧、直到富士嶽上、轉到信濃、飛如雷電、経三越、竟今得レ帰----、
按ずるに、この古事を以って「駒カ嶽」と云いて、太子を安置せるあり。
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ヤマトタケルと甲斐
景行天皇四十年(110)天皇は
倭武命(ヤマトタケルミコト)に詔勅して東海道十二道を始め、東夷追討を命じ給。依て吉備臣、建日子を副帥とし、比比羅木の八尋矛を賜る。
それより伊勢の大御神の宮に参詣し、伯母の倭日女に大御神の御神託に依て、宝剣(但し、天の叢雲の剣也)並に錦の御袋を授け給わり、尾羽張国、国造の祖、尾張源太夫穂明男命の家に入り座々て、一女岩戸姫と一夜の契り深く成り、七箇月十八日泊り、岩戸姫、身目美しき女成るに依て、美夜受日女と名を改め給。供に従いて討征追討の供とし、福地山高天原にて、東の大軍を焼討し、小室の宮守宮に、三七二十一日滞在中、美夜受姫、女子を産む。
此れを福地姫と名付け、高天原の天津諸々の大御神の総宮守司、福地記太夫に養育の守護を託し、東諸の国を鎮め平げ給う時、佐賀見より上総に御船は乗り越す途中、波荒し、天都大御神の崇成りと申し、后橘姫、海中に入り給えば浪静に成りて、御船は上総に上り給。
記太夫は熱都山の麓の四辻に宮を建築し、美夜受姫親子を保護す。
此の宮は四方より下り坂下の宮成るに依て、坂下の宮と申す(今日の 富士吉田市 大明見)。
倭武命は、東諸の国を鎮め平げ、二度、高天原小室成る新宮、坂下宮に帰り給。
其の夜、歌に日く。
「にひばりつくばをすぎて、いくよかねつる」
爾に其、御火焼の老人記太夫、御歌を続けて、歌に曰く。
「かかなべて よにはここのよ ひにはとをかを」
是を以て、其老人、記太夫を誉む。美夜受姫親子の養育保護、並に歌の功に依て、東総国造に任じ給う。
上総の小海耳男と、浜に浮き来たる御櫛を拾い、命の後を追て来たり。坂下宮の倭武命に、姫の櫛を捧げ給う功に依て上総の国造に任ず。亦命、后の橘姫の差し櫛を姫の霊とし、熱都山峰に御陵を作りて納め置き、台朗神(今日は風神社、お台朗様といい現存する)と祭祀す。此の神を萬の悪暴風鎮護の神と諾人崇祭祀す。
其より倭武命は、大伴武口、吉備武彦等を率て海(後世甲斐)の湖端を巡り、上毛より科野に越し、見野に出て尾羽張に至り、美夜受姫の兄、建稲種命に阿津毛、大湖の伊吹山に入り、毒霧に合いて病発し、尾張に帰り、美夜受姫に申して曰く、「此の宝剣を朕と思え、腹なる御子を安産し、生長を頼む」と詔して宝剣(但し、草那芸剣(草薙の剣))を美夜受姫に渡し、名残を惜みて別れ、伊勢に移るに及て病益々激し。依て蝦夷の俘を大神宮に献じ、吉備武彦をして京帥に奏せしめ、遂に能保野に崩ず、時に年三十也。日本武尊と諡す。明年五月五日、美夜受姫、男子誕生、長田王と名付く。<『探求幻の富士山古文献』>
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甲府市 山口素堂家の墓?の調査
『素堂の墓』
江戸感応寺
甲斐国志に谷中感應寺(今の天王寺)に葬るとあれど墓現存せず。位牌一基を蔵之。小石川区指ケ谷厳浄院に山口黒露の建し碑あり、明和元年申庚の歳四十九の春秋の成より、小碑を黒露建と刻せり。
小石川厳浄院
碑面に長方形の穴にして、碑銘大□只左黒路建碑を刻せしのみ。現に穴の中に「素堂翁之墓」と刻せし小碑をハメあるは、明治三十年頃宇田川と云ふ人の、ものせしときく。甲府尊躰寺に山口家代々の墓あり、素堂の碑ありと聞くけど不詳。明治三十一年五月、内務省属織田定之金原昭善と謀り、本所区原庭町芭蕉山桃青寺内に、時の農相品川弥二郎撰文「素堂治水碑」を建てしが、震災に羅り現存せず。甲府市寿町金比羅境内に「素堂治水碑」あり。明治三十二年八月、甲府平原豊撰文、山田藍々(弘道)篆額、後裔山口伊兵衛建碑す。
谷中天王寺(元感応寺)に位牌一基在蔵す。
(表)廣山院秋厳素堂居士 (裏)山口今日庵享保元年丙申年八月十五日
六世 今日庵社中再興之。
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白州ふるさと文庫 山口素堂資料室
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山口素堂は濁川改浚工事には関与していない
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