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甲斐駒の 開山不動尊 横手本良院 (史蹟)
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甲斐駒の開山 権三郎 民話伝説 それとも実話
4~8 全国駒ヶ岳 全国駒ヶ岳友好連峰会議パンフレット
9 序にかえて
10~11 甲斐駒ヶ岳『日本百名山』 深田久弥氏著
12~13 南アルプスの開発に尽力された白州町古屋五郎について
13~14 大武川鳥瞰(蘇り来る河)古屋五郎氏著(元白州町長)
15 甲斐駒ヶ岳は横手修験本良院により開山されていた。
16 横手の著名人 桜井義令氏 『白州町誌』一部加筆
17 横手の著名人 当時の名主、横手彦左衛門
18~19 横手の著名人 中山正俊氏山梨の高等教育に献身
20 横手の著名人宮川義汎県会議員電力尽力者
21 横手 巨麻神社
23 横手 王大神社
23~25 甲斐駒ヶ岳開山の真実と疑問 横手村修験本良院
26 甲斐国志 荻生徂徠「峡中紀行」抜粋
28 甲斐駒ヶ岳開山記事(報道・ホームページ)
29 今右衛門の墓誌と権三郎遺品の検証
29~34 白州町横手 山田孫四郎?家系への疑問 横手村名主
35 〔白州町の民話と伝説〕駒ケ岳神杜 集落 横手
34~35 参考記事、報道や資料展から
36 「甲斐駒嶽信仰と山田家当主たち」田中英雄氏
41 横手 駒嶽神社由緒
43 横手 巨麻神社
44 横手 津島社 駒ケ岳大権現(山田嘉三郎建立)
45 慶応四年 駒ケ岳神社社記
45~52 甲斐の古代牧(御牧)・真衣野牧について
53 地域の歴史書と甲斐駒ヶ岳開山
54 甲斐修験法度書
55 甲斐駒ヶ岳 角川日本地名辞典による
57 横手駒ケ岳神社は明以降 参考諸文献
58 甲斐駒ヶ岳 白州町誌 山寺仁太郎氏著
60 峡中紀行 駒ヶ岳 荻生徂徠著
61 甲斐国志 鳳凰山・駒ヶ岳
62 続 甲斐駒ヶ岳 白州町誌 山寺仁太郎著
63 甲斐の石造物探訪 山寺勉氏
65 横手村明細帳に見る駒嶽神社
67 江戸時代の横手村
68 駒ケ嶽開山小尾権三郎 山寺仁太郎氏
70 駒ケ岳講 北杜市の石造物
71 甲斐駒ヶ嶽略図
72 甲斐駒ヶ嶽山明細案内図
73 甲斐駒ヶ岳明細再編図
74 現在の信仰 山寺仁太郎氏
73 権三郎が身を置いた修験の世界
84 白州町の修験道
86 白州町台ケ原 修験 智拳寺
91 白州町の修験
95 武川町の修験
104 白州町の神社 峡北神社誌 駒嶽神社
106 駒ヶ岳開山 田中英雄氏著
108 甲斐駒ヶ岳の二人 藤森栄一氏著
124 駒ヶ岳開山 新田次郎氏著
145 駒ケ岳開山時 地域の歴史(江戸時代)
146 横手村と周囲の歴史
157 横手村、台ケ原山境定書
153 駒ヶ岳神社の歴史は浅い
158 横手村、隣村大坊新田入会訴訟
162 修験 横手本了院 台ケ原知見寺
163 白州町の寺子屋
165 横手 巨麻神社
166 十八神道について
171 甲州駒ヶ岳に登った外人 ヴィルヘルム・シュタイニッ ツアー
177 甲斐駒ヶ岳の信仰 茅野市上古田
181 甲斐駒ヶ岳開山威力不動尊由来記
186 修験道の歴史
190 駒ケ岳講 富士見町乙事
197 皇太子殿下 甲斐駒登山
200 駒ヶ嶽開山由来記
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甲斐駒ヶ岳開山
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駒ケ嶽開山由来記 小さな村の伝説?
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甲斐駒ヶ岳 駒ヶ岳講 文久二年
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甲斐駒ヶ岳開山 延命行者(小尾権三郎)の命の在り方
甲斐駒ヶ岳開山 延命行者(小尾権三郎)の命の在り方
藤森栄一氏著『剱岳の錫杖』より
(前文略)日本の開山者たちの苦心譚うち、わりと資料の残っているのは槍ヶ
岳の「播隆」と、「甲斐駒の延命」である。私もすでに書いたし、新田次郎君は、二人とも小説に仕上げている。が一つ気になることがある。
それは甲斐駒を拓いて、たった一年、登頂日の六月十五日を命日だと予言して、その日に死んでいった延命行者の命の在り方である。かれはたった二十一歳で死んだ。
それも一年前に駒ヶ岳へ登頂できた体が一年たったその日に、予言通りに死んだということは、すくなからず不審である。合理的な解釈は、自殺、「百年後に我が墓を掘ってみよ」と遺言したこと自体に、その信仰自身を百年の後につなぐ必要があった法類の考え方がかくされている。
延命行者はどんな思いで、この世を去っていったのだろうか。たった一つの手掛りがある。
それは、小尾権三郎、延命の本拠、長野県茅野市上古田の生地には、かれの自画像、法印などの他、さしたるものは残っていないのに、甲斐駒表口の横手村原の当時かれが開山の長い逗留の足だまりにした山田孫四郎家には、彼の遺言によって送られていった形身の品々がある。現在この道具は山田瑞穂さんの保管するところとなっていて、年々に四月二十一日、駒ヶ岳神社で開陳される。
そのなかにいろいろな遺品にまじって、独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵と三つもの杵が遺存していることである。これは開山にあたって、かれ延命行者が、孤独というもっとも恐るべき敵との闘いの、もっとも愛情の深い道具だったことはたしかである。ちょうど、われわれ老兵が、いまもシュンクだ、ブルジュンスタットだという工合にすぐに戦のおわったピッケルを宝蔵しているのと同じである。
たぶん、想像するに、その信仰登山の結縁のため、生きて入定して、この世から消えようとしているとき、人間としてもっとも思い出も深かった山田家に贈ったということには、何か人らしい思慕のかげもうかがえようというものだが。かれも「威力不動尊延命行者菩薩」などと強そうなおくり名(謚)をいただいてはいるけれど、土台は二十一歳の多感な青年であるはず。私にはどうしても恋愛感情に起因するものと思えてならない。
この辺の柳沢にのこる民謡「えんこ節」の文句の中にそれらしい残照もうかがえるのだが、長い追求もそのかいなく残念なことにその確かな資料はまだ握っていない。
山の道具というテ-マに、もっとも日本的な道具を書いた。いま思うと、直接、岩登りにも、山登りにも使える道具とは思えないのに、もっとも大切な開山の道具と考えられていたところに、精神主義的な日本の登山の本質があったようである。
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白州先人伝 中山正俊氏 山梨の高等教育に献身
白州先人伝中山正俊氏山梨の高等教育に献身
正俊号は駒峰(または環山楼ともいう。)
安政二年(一八五五)九月二十五日、旧駒城村字横手の旧家中山福俊・いせの長男として生まれる。
少年時代より学を志し岡千仭の塾生として学び、その後塾長になり帰省して居を甲府市横近習町(中央二丁目) 、郷里の徽典館(梨大の前身)で子弟に漢文・倫理の教育をする傍ら、藤原多魔樹や竹田忠に教えを受けた。
その後上京して岡鹿門について漢学を学び、孔子の論語を懐から離さなかったほど常に精進努力の人であった。
明治十六年、二十八歳のとき山梨県尋常師範学校の助教諭、
明治三十一年には尋常中学校(現二高の前身)教諭に任ぜられ、三十年間の永きにわたって山梨の高等教育に献身した功績は大きく帝国教育会より表彰を受け、偉大な足跡を残して大正三年九月教員生活を終えた。氏は温厚で、ことば少なく君子の風格を具えていた。特に漢詩文に長じ、各所の碑文を撰している。
現在甲府市立富士川小学校庭にある「権太翁遺徳碑」の撰文を始め県内に数多く遺っている。また「正俊会」は氏の徳をたたえるために多くの門弟が集って設立した会である。
大正六年八月二十六日病のため六十二歳で死去、甲府市の信立寺に葬られているが(【割注】調査の結果、甲府市の墓は消失している)、横手馬場原の共葬墓地にも分骨されている。
著書『山県大式』(明治三十一年柳正堂発行)がある。
なお、正俊の妻、中山貞(てい)は梨本宮家の女官長をつとめ、朝鮮李王殿下の妃となられた方子殿下のご結婚の取り運びに尽くされ、後には東京九段にある東京家政学院の経営にあたられた。
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武川衆 横手氏(横手彦右衛門の祖)
武川衆 横手氏(横手彦右衛門の祖)
『姓氏家系大辞典』に
「横手氏は清和源氏武田氏族、甲斐国巨摩郡横手邑(白州町)より起る、一条氏の族裔にして信俊を祖とす」
とある。『甲斐国志』に
「一条信長の裔、青木弥十郎義虎の男に信定あり、其の男尾張守信立の次男監物満久(信国)武田信玄に仕え横手村を領して氏とす、其の子半右衛門(源三)也、家紋割菱」。
と記している。下の郷(長野県生島足島神社)起請文に武河衆の中に横手監物満俊あり、満友は誤りなりと付記している。
青木信立の長男信時が青木氏を嗣ぎ、次男信国が横手村に分封して横手氏を称し、横手監物信国と呼んでいた。武田信玄に仕え、元亀元年(一五七〇)正月下旬、駿河花沢城攻めのとき討死した。それで弟信俊が横手氏を嗣いでいたが、勝頼は柳沢氏の名跡が絶えるのを惜しんで、横手信俊に柳沢氏を嗣がせた。横手氏はそのあと、信俊の養子源七郎が嗣いでいる。長篠の役に典厩信豊に従う三騎のうち横手源七とあるはこの人である。天正十年十二月七日の家康朱印状により、横手源七郎の本領として「甲州横手郷八拾弐貫文」が安堵された (甲州古文書2)。
『甲斐国志』
下ノ郷起請文ニ六河衆トアリ。伝解ニ青本尾張信立ノ二男横手監物信国、花沢ニテ討死卜記シタレド信国ノ名誤ナルヘシ。長篠ノ役ニ横手源七郎トアルハ前所記柳沢信俊ガ横手氏ヲ相続セリ時ノ名ナリ。
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白州町人物史 桜井義令氏 『白州町誌』一部加筆
白州町人物史 桜井義令氏 『白州町誌』一部加筆
白州町横手 文人・歌人 省費救民の建白八条 学制改革の建白
嘉永二年(1849)六月二十一日、旧駒城村横手九三番戸に桜井義台(名主)・伊志子の二男として生まれる。幼少のころから学を志して精進、特に国学に通じ和歌をよくし、歌の数三万三千、長歌七百首以上。武水と号した。
明治、大正、昭和にかけての大歌人の中に数えられ、また書家としても界隈に名をなした。
慶応三年(1867)十一月、江戸の国学者平出篤胤の門に入り勉学に励む。
明治三年(1870)、国政活用の建白二十六条、
明治四年(1871)、省費救民の建白八条を県庁に陳情、また甲府徽典館に於いて郷校取立に尽力したので賞せられた。
明治五年(1872)逸武両筋(逸見、武川筋)学校世話役拝命、
明治六年(1873)小学校訓導に任ぜられる。学制改革の建白を県庁に提出。また郡下の主な神社の神官に任命された。郡下の学校の訓導のみでなく、河口、野田、そして廉学校の教頭を歴任、
明治十九年(1886)徽典館の教員に擢でられ、
明治二十二年(1889)と四十四年駒城村長に選ばれ、
明治三十五年(1902)に菅原村長(官選)に就任した。
氏は謂謹に富み暇があれば近所の人々を集めて諸謹を交えて社会学的な話をするのが得意であった。また物を大切にし、墨など竹にはさんで使えるまで使い、紙など裏表に歌や習字を書き、決して無駄にはしなかった。
偉大な国学者であり、教師であり、神官でもあったし、行政者でもあった。庭先には菅原道真朝臣の祠を建てて敬まっていたのもむべなるかなである。
晩年は風流を友とし詠歌、書道で閑日月を送る。
昭和四年(1929)一月二十九日、八十一歳の生涯を閉じた。辞世の歌あり、
なきがらと世をばおはるかことのはを
いくよろづたびくりかへしつつ
【註 参考資料】
巨摩岳麓集 : 国学者桜井義令詠草 (安福又四郎):1944|書誌詳細 ...
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甲斐駒ヶ岳開山の真実と疑問 横手村修験
甲斐駒ヶ岳開山の真実と疑問 横手村修験
- 横手村当山派修験宗格院本良院 〔一部加筆〕
巨摩郡(現白州町)横手村当山派修験宗格院本良院
由緒明細書上帳
一、御祈願道場但シ弐間半ニ弐間
本尊不動明王
祭礼日十一月廿八日、
護摩修行天下泰平国家安全今上皇帝御宝祚延長之御祈祷相勤罷在候
兼帯所
一、駒ケ嶽観世音菩薩但シ護摩堂三間四方石鳥居高一丈
祭礼日八月六日柴燈護摩修行
一、愛宕大権現御社地
長十四間横六間 此坪八十四坪 祭り十月廿四日
一、山ノ神社地
長拾四間横六間 此坪七十四坪 祭礼十月十七日
一、神明宮社地
但長拾四間横六間 此坪七十坪 祭り日三月十六日
一、鳳凰大権現社地 長七間横四間 二十八坪 祭り日九月九日
一、風神社地 長七間横五間 此坪 三十五坪 祭七月十日
一、水神社地 小社 祭礼七月二十五日
一、上今井山神 小社
右者同村神主拙僧立会祭礼ニ御座候十一月二度目の亥の日
一、湯大権現 小社
同じく神主隔年ニ祭礼仕儀処六月十四日
一、妙見大菩薩 小社
一、居屋敷 弐畝拾歩 本良院 但御年貢地
一、院宅 但八間半五間
一、土蔵 弐間半三間
右駒嶽之儀者高山に御座候得バ
峰三ケ処ニテ御本地観世音菩薩也、
中之岳ニハ大権現、
奥之院ニハ日輪魔梨支天(摩利支天)大明王ニ御座候、
古来別当仕居候処猶又天保十亥年(1839)之時分、私実父故実之時候、
江戸上野之宮様ヨリ元三大師之御尊像被下置候時節高山之儀ニ御座候得者、
時節差図之上登山人先達致候様、被仰付候処相違無御座候
以上
尤祭り同村ニ御座候得ハ神主等モ立合申候
右者今般御一新ニ付当院兼帯処其外所持之分可書出旨被仰渡候処相違無御座候依之奉書上候以上
慶応四辰年八月日 巨摩郡横手村駒獄別当 別納本良院㊞
寺社御役所
【筆註】
この書上帳で大切なことは、本良院には地理的に甲斐駒ヶ岳を仰ぎ見ることが出来る場所にあることで、横手や竹宇の駒ヶ岳神社から甲斐駒ヶ岳を仰ぐことは出来ない。この記事によると他の社も併設されている。
駒ヶ岳信仰が中心であることは明瞭である。また横手村の江戸地図や横手明細書には駒嶽神社は存在していない。諏訪神社・若宮八幡神社などの名が見え、駒嶽神社は明治以降にこうした神社を併合または名義を代えて成立したと思われ「白州町誌」や「峡北神社誌」などのいわれはその際に創られたともとれる。日本武尊(やまとたける)や聖徳太子と馬、それに地域の武将(山梨では新羅三郎義光)などは県内の社寺の由緒に見えるもので、それは国中では特に多い。
駒嶽之儀者高山に御座候得バ峰三ケ処ニテ
御本地観世音菩薩也、中之岳ニハ大権現、
奥之院ニハ日輪魔梨支天(摩利支天)大明王ニ御座候、
【写真】現在の本良院阯 駒ケ岳不動尊の文字塔
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甲斐駒ヶ岳 甲斐国志以前「峡中紀行」荻生徂徠記 宝永3年(1706)刊
甲斐国志以前「峡中紀行」荻生徂徠記 宝永3年(1706)刊
武川村に入る(峡中紀行)抜粋
小武川を渡り宮脇村に至って日が暮れる。土地の富豪の家に泊まる。この日は寒気が凄まじく、しかもこの村は山中にあれば、尚更なり。夜分庭に出て散策すれば、月痕頗る小さく、樹木蒼然たるを覚える。鬼神が人を落とす様に見える。独り「猛虎一声山月高し」を吟じて、庭に佇み立ち尽くす。暫くして部屋に入れば省吾はすでに寝入っていた。
十三日、宮脇村を出て牧ノ原を経て、金峰を右に見る。丑寅の方角なり。北は八ヶ岳なり。西北へ進み山高村に入る。道の側らに村人数人が平伏している。人々に問えば柳沢の郷人が迎えに出ていたと云う。
大武川
大武川を右に見て西に進む。川は鳳凰山より出て東南の方に流れ小武川と合流して、東の方を流れる釜無川に注ぐ。南の方は青木より、北の方は教来石に至る一帯を武川と呼ぶのはこれによって得たり。それにつけても吉保公十二世の祖、源八時信君、十二人の子息をこの武川の地に封じている。その在所を問えば答える。
三吹は艮にあり、六里にして近く、白須は子の方角にあり、山を以て境としている。横手は戌の方にあり、大武川を境界とする。ここからは僅かに三里ばかりなり。教来石は乾の方角にあり、上下二村有り。上教来村十二三里、下教来石村は十五六里なり。上教来石村に関所があり、山口と云う。則ち信州の境界である。(一部間違いがある)
新奥村は宮脇村の西南の山中にあり、その東北には馬場、東南に山寺、各々多少の間道あり。またここまで来る路中にあった、青木村・牧の原村・宮脇村を併せて、十二の士族が姓を受けた処であると。ふと見上げれば金峰は東の方角に転じていた。甲府城を出て既に五十里、甲州と信州の境にまで来てし
まっている。
駒ヶ岳・鳳凰山・駒ヶ岳も駕籠の前に近づいて来ている。これを望めば山の草木の無い処三里四方に及び、焦げた石を重ね上げたようで、岩の尖った角は一つ一つ数える事が出来るようで、山の形は勢いは猛々しく、これより前に富士山が微笑むようで、相向かう山容は似つかない。相伝に昔聖徳太子が飼育する甲斐の黒駒と云うは、この谷の水を飲んで育ったと成長したと云う。山上に祀る社もなく、ただ化物のようなものに出会った人も居て、故に地域の人は余程のことが無い限りこの山には登らない。
昔この山に登ろうした人が居て愚かにして勇なる人で、三日の食料を持って絶頂に登る。独りの老翁に出会う。翁は登った人にここは仙人の住む処で、その方などの来る処ではない。と、その髪を掴んで崖の下に突き放したれば、ぼんやりとしている間に自分の家の後の山に落ちたと云う。鳳凰山の由緒を問えば神鳥が来て棲む処故に鳳凰山と云う。字はまた法王とも書く、法王は大日如来なり。法王は奇瑞をこの山に表わし賜ふ事ありとも云う。また法王は東へ左遷された時に、この山に登り京都を望む故にこの名があるとも云う。徂徠はその弓削の道鏡の事を疑う。
柳沢村
あれこれ話をしているうちに、早くも柳沢村の入り口に至る。星山という古城あり。左の方に黍畑の中に、竹を割って板をはさんで立ててある処、これが先祖の柳沢兵部丞信俊太守の屋敷跡という。その西の方角十歩ばかりにところに、昔大きな柳の樹があり、これにより柳沢の名が生まれたという。その来も今は枯れて姿は見えない。
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甲斐駒ヶ岳開山の謎?横手村の名主『白州町誌』による。
横手村の名主『白州町誌』による。
延享二年 (1745) 名主 傳左衛門(横手村明細帳)
宝暦六年 (1756) 名主 庄兵衛 (横手山小物成上納連判状)
宝暦十二年(1762) 名主 庄兵衛 (入会訴訟費並山夫銭受領證文)
寛成六年 (1794) 名主 彦左衛門(横手・大坊入会定書)
寛成六年 (1794) 長百姓 孫四郎 (横手・大坊入会定書)
寛成九年 (1797) 名主 孫四郎 (横手と白須・台ケ原村入会出入)
文化十年 (1813) 名主 彦左衛門(山手米納吟味願書)
文化十一年(1814) 名主 彦左衛門(横手と白須・台ケ原村入会出入)
文化十一年(1814) 長百姓 孫四郎 (横手と白須・台ケ原村入会出入)
文化十二年(1815) 名主 彦右衛門(横手と白須・台ケ原村入会出入)
文政七年 (1824) 名主 彦兵衛 (大武川村々大災害に付御見分願)
天保三年 (1832) 名主 彦左衛門(入会地新開囲込議定並継添證文)
天保四年 (1833) 名主 五兵衛
天保五年 (1834) 名主 彦兵衛 (水晶堀出願書)
天保九年 (1838) 名主 彦兵衛 (馬市再興承知書上)
天保十四年(1843) 名主 孫四郎 (山論訴訟負担金請取手形)
天保十四年(1843) 取締役 横手彦左衛門(山論訴訟負担金請取手形)
嘉永三年 (1850) 名主 三之丞
嘉永六年 (1853) 名主 五兵衛 (水晶堀取取締願上)
【参考】横手村 山田紋次郎
明治七年 (1932)横手村伍長総代 大久保治左衛門
副戸長 山田紋次郎
【参考】横手、諏訪神社
享保二年 (1717)享保八年(1722)諏訪大明神神主 古屋長門
【参考】駒城村歴代村長 (横手・大坊・柳沢)山田田護樓
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横手 駒嶽神社 『山梨県社寺記』 明治以降の神社
横手 駒嶽神社 『山梨県社寺記』
一部加筆
所祭
大己貴命 諏訪大明神御親神也、駒嶽山頂上ニ鎮座
横手村ヨリ頂上迄凡四里余
同山麓ニ前宮
依大風度々破損於斯安政年間(1854~59)再興ス
石鳥居 高壱丈余
巨摩之神社と申すことのよしハ当国西北にあたりて甲信両国の駒ケ嶽ありその麓にまします故に昔しより巨麻神社とぞ称へ奉るそもそもこの駒ケ嶽にます神ハ大己貴命、同じ所に宇賀魂神二柱を祭れり、(勅撰風土記に高麗と書り、野史には巨麻と書り)
この山脈に附属する里郷を六川筋と云(今は武川と作りけり)そのよしは一に釜無川、二に曰く濁川、三に曰く尾白川、四に曰く大武川、五に曰く小武川六に曰く御勅使(みだい)川、合せて六の流れ有、故に六川筋と名つくと云
々、このうち雄なる四川駒ケ嶽より発源す。『甲陽茗話』釜無川の水源に神馬の精あるによりて、此水を飲て畜育たる駒は必す霊ありと云、又この山より下渡る水流の及ぶ限りを一郡とす、或人の説に云、平原多くして馬を畜に依りよき地なれハ、他郡よりも多く牧を置れしと見へて、今もそこここに牧の名残れり、されは駒を産するの地なる故に駒ケ嶽と称し此山の縁由をもて巨摩郡と名つけしと云えり、又ある伝に神の代に健御名方命諏訪国にいたります時ここの
山ハいと高くしてすがすがしき地也、かれここにあか御親の神(大己貴命)を祭るべしとのり給ひきと云々。
そののち又此山の頂ニ石の半破あり、その石に延久主義光といふ五文字幽にありかれ、度々これを按ふに、古へ新羅三郎義光当国に到ります時ここの山の神に祈をこめて子を儲くと、今に到るまで土人の口碑に残れり是則義光ハ従四位下刑部丞になりて甲斐国に任せられ、其武力世に勝れたるは、偏ひとえにこの神の蒙思頼しものならんと云々(中略)
ここに横手村は当国の西隅にあたりて実に山間幽栖の土地也故に往古の人情殊に質朴にして巷談人口には説々■灸すれども、筆記は甚疎論也、是以件々の数社そのかみ土を重て家をなし、祭事捧之必以幣帛其後人情漸至りて板宮となし、又是より後世となりては朽損を恐れ石を刻て宮となすの類不少侯然則再興及数度に実に其不知源始を然るを筆頭に潤ひを以て文意を飾り件々の始末記し申上は甚恐多之至に候得ハ是迄申伝或は焼に失之今日相残り候書類等之中取調右に奉書上候已上
神主屋敷 愛宕古社地住居
許状之儀ハ武田家ヨリ代々相請ケ罷有候
先祖之儀ハ代々武田家ニ仕已ニ天正九年新府城道立之節隣郷之同職中ニ而地鎮祭相勤倹由モ御座候
又其後徳川家ニ相仕慶長已後私共仲間百六十余人内皆同意同列ニ候間不奉書上候
右之通り此度相改奉差上候已上
慶応四年辰 八月日
巨摩郡武川筋横手村
巨摩神社 諏訪大明神 神主 古屋 三河 ㊞
寺社御役所
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◇駒ヶ岳〈白州町〉『角川日本地名大辞典 19山梨県』
◇駒ヶ岳〈白州町〉『角川日本地名大辞典 19山梨県』
中央アルプスの駒ヶ岳と区別するため甲斐駒ケ岳(甲斐駒)・東駒ヶ岳(東駒)とも呼ばれ,また長野県側からはかつて,自崩山と呼ばれた。北巨摩郡白州町と長野県長谷村の境にある山。白崩山の命名は山頂の花崗岩が崩壊した山容にちなむ。明治初年の頃は,駒ヶ岳と白崩山は別個の山と認識されていた。
南アルプス甲斐駒ケ岳山系・鳳凰山系の最高峰で,頂上1等三角点の標高2,965.6m。全国に10数座を数える駒ヶ岳を称する山の最高峰でもある。「日本百名山」の著者深田久弥が,日本に十名山を選ぶとしてもその中に必ず入る名峰といっている様に,古来,全国に著名な山岳であった。
国鉄中央本線または,中央自動車道の車窓から,釜無川の河谷を隔てて,2,000数百mの高度差を有する当山は,巨大な三角錐の山容を示し,南に摩利支天峰の奇峰がある。全山閑雲母花崗岩からなり,その貫入は中生代白亜紀とされ,激しい造山活動と,風化,浸食作用の結果,南アルプスでは珍しい鋭頭峰をなし,山容は峻険。標高2,500m以上は高山景観を呈し,花崗岩の崩壊した砂に覆われる。
山頂を中心として,多くの支脈を派生する。北方に三ツ頭―鋸岳―棟岳と続く山稜は,さらに白岩山―入笠山―守屋山と続き,赤石山地の頂点をなす主脈となる。
山名の由来には数説がある。
- 山中に神馬がすむという伝承にちなむ説,
- 残雪期に現れる雪渓が馬の形であることにちなむ説,
- 山容が駿馬の駆ける姿にみえることにちなむ説,
- 巨摩郡第一の峰であることにちなむ説などがある。
巨摩郡説は,当山に発する釜無川の語源の1つが,巨摩第一の河すなわち「巨摩ノ兄川」であることと照応する説で(?),古代の渡来人との関連を思わせて興味がある。植物相は,花崗岩山地のため,他の山岳に比して貧弱といわれるが,中腹から森林限界にかけての,トウヒ・シラビソ・コメツガなどの針葉樹林帯は重厚で,山頂付近のハイマツ帯の中に各種高山植物が分布する。特に山頂直下の地獄谷一帯はその宝庫といわれる。コマガタケスグリ・コマガタケシラベなどは,この山名をとった特有の植物。また山頂付近にはライチョウの姿も見受ける。
当山は古来信仰の対象となった山で,山頂に駒ヶ岳神社奥の院があり,大己貴命が祀られ,また,修験道的信仰の威力大権現も祀られている。弘幡行者らによって文政年間,新たに開山されてその行場が各所に残る。鉄剣・石像・石碑などが無数に存在して,木曽御岳のそれと比肩し,山岳信仰の山としての一面がよくうかがわれる。
駒ヶ岳神社
山麓に駒ヶ岳神社の前宮が横手と竹宇の2か所にあり,駒ヶ岳講などは,今も盛んに行われている。
明治12年地元から発行された木版の甲斐駒ケ岳之略図は頂上に大己貴命、摩利支天に手力男命,黒戸山に猿田彦命が鎮座すると記載している。
当山は早くから登山の対象として開発され,南アルプスで最も人気のある山として,各方面から登山コースが開かれた。特に,古屋五郎を会長とする菅原山岳会の活動は特記すべきものがあった。各コースのうち最も一般的なのは,横手または竹宇から黒戸尾根を登るもので,両道は笹の平で合して,屏風の頭―刃渡り―黒戸山(2,253,7m)から五合日または七合日の山小屋で1泊,翌日八合目御来迎場を経て頂上に達するルート。この尾根道は峻険であるが,鉄鎖・梯子などが整備され,白州口からの主要登山道である。竹手前宮から尾白川を遡行すると旭滝・神蛇ケ滝・不動滝・噴火滝などの奇勝があり,千丈滝の手前で,黒戸尾根を急登,五合目に達する。
尾自渓谷道として,その渓谷美が満喫できる優れたコースであったが,昭和34年の7号台風で荒廃,今は険路となった。大坊から大武川を遡行,摩利支天の南楚を仙水峠に出るコースは古い登山道で,途中ヒョングリ滝などもあって,第2次大戦前は利用されたが,今はまったく廃道となった。頂上西面,戸台川の源流を六合目小屋に直登するコースは,赤河原の丹渓山荘を基地とする険路。日向山―鞍掛山―大岩山の岩稜を縦走するコースも今は廃道となった。野呂川林道が開通して,自動車が北沢峠を通過するようになってからは,登山道は大きく変わった。北沢峠からは徒歩で双児山―駒津峰―六方石を経て頂上を目指すか,または,北沢をさかのぼって,仙水峠に出て,駒津峰に直登する。この2つのコースは,時間的に有利で,北沢峠を基地とすれば,日帰りが可能である。特殊な岩登コースも多く,尾白川の千丈滝の上流には,大坊主・小坊主の奇怪な岩峰がそそり立ち,その上部に尾白本流あるいは黄蓮谷の好適な岩場があり,また地獄谷上流の赤石沢もロッククライミングの対象となる。ただし,夏期,厳冬期とも危険が多く,毎年遭難者がある。
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駒ケ岳開山の間違い 『甲斐国志』 鳳凰山・駒ヶ岳の項
『甲斐国志』鳳凰山・駒ヶ岳の項
〔鳳凰山〕
駒カ岳ノ東南ニ在リテ、芦倉山ノ北梢々西ニ在リ、東面ヲ御座石山卜称ス、西ハ能呂川ヲ隔テテ白峰ニ対ス、絶頂ニ高数丈ノ立巌アリ、遠ク望メバ人物ノ状ノ如シ、州人多クハ誤認メテ是ヲ地蔵カ岳ナリト云ハ非也、鳳凰山権現ノ石祠アリ、祭日ハ九月九日ナリ、神主小池氏柳沢村ニ住シ、此山柳沢ヨリ西南ニ当レリ、村ヨリ一里ニシテ雄山社ニ至リ、又武里ニシテ精進瀑ニ至ル、此ヨリ峻嶺ヲ攣ヅル事又一里ニシテ絶頂ナリ、
其絶頂ニ詣ラント欲スル者ハ必ズ八九月ヲ以テ候トス、必ズ此ノ瀑ニ沐浴シテ、然後始テル登ル者トシ、尤不浄穢火ヲ禁ズ、又六七月ノ間ニ登ル者アルハ、疾風暴雨シテ寒気早ク至リ、秋稼ニ大害アリト云、一説ニ絶頂ノ祠中ニ掛鐘アリ、往時盗アリテ之ヲ竊去ラントヤシニ、同前ノ厳間忽窄マリテ、行事能ハス、畏レテ立帰リ鏡ヲ舎ケバ路復開テ始ノ如クナリシト云、
是ヨリ東南ノ方ニ対峠スルヲ地蔵ケ岳卜云相拒ル事一里弱、山背少シク低シ、其次ヲ観音ガ岳卜云、地蔵カ岳ヨリ此ニ至ル、亦一里ニ近シ、皆東南ニ連リタル一脈ノ山ナリ、其仏名ヲ以テ山ノ分名トセルハ各処ニ小石仏ヲ置ケルガ故ナリ、土人地蔵、観音、薬師ノアル所ヲ三岳卜云、又薬師カ岳ヲ或乗鞍カ岳トモ呼ブ、乗鞍カ岳ヲ南へ下レバ砂払卜云処アリ、此ヨリ芦倉村へ五里許、南々東ニ当ル御室、焼山、堀切、杖立、苅合、清水等阪路特ニ峻悪ナリ、凡ソ此山絶頂二里許ノ間、砂自クシテ海浜ノ景色アリ奇石、怪巌、樹、□?草、一々名状シ難シ、又此山ノ面ニ春三月頃ヨリ雪消エ残リタル雪、自然ニ牛ノ形ヲ作ス処アリ、土人望テ農候トシ農牛卜称ス。
〔駒カ嶽〕
横手、台ガ原、白須、諸村ノ西ニ在リ、樵蘇スル者山祖干ヲ貢ス、山上ヲ甲信ノ界トス、大武川ニ沿イテ南方山中ニ入ル事若干里ニシテ、石堂二所アリ、下ヲ「勘五郎ノ石小屋」卜呼ヒ、上ヲ「二條ノ石小屋」卜呼ブ、此ヨリ上ハ絶壁数拾丈ニシテ、攣援スべカラス、樵夫山伐ノ者卜雖モ至ラサル所ナリ、遠ク望メハ「山頂巌窟ノ中ニ駒形権現」ヲ安置セル所アリ。
【注記権現(ごんげん)】
日本の神の神号の一つ。日本の神々を仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号である。権という文字は「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す。
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横手村明細帳にみる駒嶽神社 延享二丑年(1745)
横手村明細帳にみる駒嶽神社 延享二丑年(1745)
『白州町誌』資料編 第一節 村明細帳 一部加筆
【註記】駒ヶ岳神社は無かった。下記掲載神社の内現存するのは王大神社のみ。駒ケ岳神社は「諏訪神社」「子安神社」の地に明治以降新たに造ったものと推察できる。様々な由緒や伝承はこの際創られたもの。
表紙 「延享二丑年(1745)二月 明細帳 巨摩郡横手村
一、高三百八拾弐石六斗三升三合
比反別百拾九町六反五畝拾歩
一、村内分 東西廿四丁 南北三拾壱丁
一、家数七拾三軒之内 七拾軒役百姓 三軒水呑百姓
一、人数三百五拾四人之内 百八拾壱人男 百拾三人女
一、牛馬百五疋之内 拾四疋馬 九拾壱疋牛
一、道法 甲府江七里半 江戸江四拾三里半 鰍沢江九里
一、田方 稲作一毛作
一、畑方 栗 粟 蕎麦 大豆 油 菜 荏(にんじん)大根
一、作間挊(ロク はたらく)男ハ韮崎薪少少出シ候者も御座候
女は働無御座候
一、用水堰 長三千五百五拾四間 幅四尺
是ハ人足御扶持米斗り被下候
一、御年貢皆金納場ニ御座候
一、當村用水堰御人足御扶持米斗里被下候御役引ニ御座候
一、名主給米 七俵
一、定使給 納籾弐俵甲金壱両
一 堰定番賃 甲金壱両
一、奥山入会之儀
當村白須台ケ原右三ケ村者大武川入より濁川迄入会申候
當村柳沢三吹右三ケ村ハ大武川通り
日影日向とも双方入込逸見筋日野・長坂上条・同下条・渋沢右四ケ村ハ大
武川限り薪木沢迄入会申候
一、御小物成米四斗三升 奥山草間分
一、當村中山入会 當村台ケ原・三吹村御小物成米九升台ケ原江出し申候
一、百姓居数 拾ケ所
是ハ屋敷畑御年貢地ニテ御座候分之内風除ニ竹植御年貢地ニ御座候
一、百姓林 七ケ所 御小物成米壱斗壱升
一、秣(まぐさ)場 御殿原堰上原 大武川御川除上原
一、御普所六ヶ所之内 三ヶ所大武川通り 三ヶ所古川通り
一、土橋八ケ所之内 八間一カ所 三間七カ所 自普請
一、鉄砲七挺 猟師筒
一、當村江入作 大坊新田・白須村・台ケ原村
一、台ケ原江伝馬 大助之場ニ御座候
一、御除地境内百八拾坪 長二町 横一丁 安福寺
一、御除地畑壱反三畝九歩 安福寺
一、御除地高七斗四升四合 西光寺(無住)
一、神主壱人 長門
一、山伏壱人 本良院
一、諏訪大明神 神主 長門
御除地高壱石五斗壱升 社中長三拾弐間横拾壱間
是ハ御黒印地ニ御座候所右黒印焼失仕候
一、若宮八幡宮社中 支配 長門 長八間 横四間
一、愛宕社中 支配 長門 長五間 横四間
一、勘定地社中 支配 長門 長三間 横二間
一、山神社中 支配 長門 長拾間 横七間
一、愛宕社中 支配 長門 長四間 横六間
一、王大神社中 支配 西光寺 長拾間 横十間
一、辻堂弐ケ所 支配 安福寺
一、秋葉権現社中 長三拾間 横三拾間
右ハ當村ニ有来り候儀銘々吟味仕書上申処スコシモ相違無御座候以上
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白州町の修験 台ヶ原修験 智拳寺奉書上明細帳
台ヶ原修験 智拳寺奉書上明細帳 〔一部加筆〕 慶応四年七月 日 巨摩郡台ケ原宿 当山派修験一示 袈裟頭 触頭 智拳寺 御除地 一、居屋鋪 千寿院領 四拾八坪余 右境内家ハ南向ニシテ口七間半奥行四間也 内隠宅壱ケ所間口四間奥行弐間半也 弘法大師御作ニ而 一、本 尊 不動明王 石堂茅葺ニシテ九尺奥行弐間半也 西方畳敷端本尊前往古より百寿香卜相称候花木壱本あり 一、役之行者 理源大師 木像ニ而御座候 一、弘法大師 一鉢御座候 一、東照宮大権現 御宮勧請罷有候 右本尊祭礼之儀ハ三月七日天上泰平五穀成就 今上皇帝御宝詐延長御附属之面々武運長盛之御祈祷として 大般若経転読勤行仕申候 一、当時特高弐石六斗五升四合 千寿院智拳寺持 外二小物成山 壱ケ所 御除地 一、田六畝廿七歩 同寺領 右寛文十二壬子(1672)七月朔日国中御検地御改之節も御除地ニ而所持罷在候処貞享五戊辰年(元禄元年 1688)六月十四日尚亦国中御検地前寺社除地之分御改之節如何之事哉御高入ニ相成候 当地所十七八ケ年以前極貧ニ売渡置申候 尤御水帳ニ如比認入有之申候 兼帯所 一、愛宕大権現 社地四百坪余 右石河也堂壱ケ所弐間半四面也 右ハ往古才拙寺支配兼帯罷有慎ニ相違無御座候 祭日之儀ハ毎年七月廿四日 於神前ニ柴燈護摩修行仕天下泰平国家安全今上皇帝御宝詐悠久之御祈祷仕候仕来ニ御座候 右本地ハ勝軍地蔵尊武川筋弐拾弐番二而十三年目ニ開帳御座候仕来候 寄附地 一、米山金毘羅大権現 社地百坪 右ハ当村百姓平石衛門九死一生之処、立願成就依之右百坪之処江天明三卯年(1783)三月廿八日勧請仕拙寺支配兼帯罷在候、人才寄附証文所持仕居申候右社中続山林持当村長百姓八之丞見分之処是迄之通百坪ニ相違無之ニ付前々仕来之通支配可致旨ニ而慶応三卯年(1867)三月九日改添書証文同人才請取永年支配兼帯仕儀相違無御座候 祭日之儀ハ三月八日八月十日両日法用相勤申候 当寺什物 一、大般若経 六百巻 一、十六善神 掛物壱幅 一、土作家画 三幅対 右ハ福尾茂右衛門直筆ニ御座候 一、八之宮様 御直筆 一、当村役人井惣村中連印書付 壱通 但シ諸祈願頼之一札也 一、当山派修験宗之触頭役御印章 数適所持仕居候袈裟頭被仰付候御消息之写左之通其方儀是迄数代触頭職ニ被処依勤功 今般当山一派之袈裟頭ニ転職被仰付候条自今弥励当山之修学修験道之事自先規如有来諸事不可有混乱之旨可令触知者法頭御門主御気色之処依執達如件 安政四年巳(1857)十一月十五日 北村伊賀守保邦 ㊞ 山田式部刺為舜 ㊞ 大渓宮内卿豪円 ㊞ 巨摩郡台ケ原宿 智拳寺 祐源 山寺号御消息左之通 勝軍山智拳寺 右三宝院菅官被仰出之処仇執達如件 元文二年(1737)七月九日 密厳院 奉 演深 書判 巨摩郡台ケ原宿 志音院 祐規 前書之通謹而可存其旨者也 北村伊賀守 ㊞ 甲村参河 ㊞ 小野右京 ㊞ 出世官昇進御消息写左之通 巨摩郡台ケ原宿 智拳寺 祐源 補任 応令出世昇進事 右奉当山法頭御門主御気色件人宜叙法印着摩紫金令称大先達依御消息行之者 安政二年(1855)八月二日 奉 僧正法印演隆 書判 宮内卿法印家門 ㊞ 式部刑法印為舜 ㊞ 伊賀守源保邦 ㊞ 右者代々官位之軽重御消息数通并前書奉中上候通卿相違無御座候且亦拙寺儀者当山派修験宗之触頭役袈裟頭迄被仰付置候ニ付一宗ニ抱り候儀ニ而御尋向或者被仰渡候御儀御座候節者不寄何事ニ御書付之儀是迄村瀬ヲ以被仰付候御儀ニ御座候間何卒自今以後是迄之通御聞済御慈斗被成下置度奉殿上候尤別段御用向ハ飛脚ヲ以被仰付候御儀ニ御座候右者今般王政御一新ニ付由緒兼帯所可書出旨被仰出候ニ付相改候処柳相違無御座候依之乍恐奉書上 候以上 智拳寺触下之分 巨摩郡 片嵐村 清寿院 (白州町) 同郡 下笹尾村 成就院 (小淵沢町) 同村 常学院 (小淵沢町) 同郡 大八田村 西方院 (高根町) 同村 成泉院 (高根町) 同郡 長坂村 清教院 (長坂町) 同郡 谷戸村 城元院 (大泉町) 同郡 五丁田村 貴宝院 (高根町) 同郡 同村 常蔵院 無住(高根町) 同郡 箕輪村 天王院 (高根町) 同村 横森院 無住(高根町) 同郡 津金村 吉祥院 (須玉町) 同郡 小尾村 大昌院 (須玉町) 同村 昌宝院 (須玉町) 同郡 比志村 善明院 (須玉町) 同郡 同村 永寿院 (須玉町) 同郡 江草村 不動院 (須玉町) 同村 一行院 (須玉町) 同村 宝性院 (須玉町) 同郡 上手村 専昌院 (明野町) 同郡 小笠原村 宝泉院 (明野町) 同郡 上手村 正学院 無住(明野町) 同郡 穴山村 金剛院 (韮崎市) 同郡 駒井村 行宝院 (韮崎市) 同郡 鳥原村 天竜院 (白州町) 同郡 白須村 自学院 (白州町) 同郡 柳沢村 大学院 (武川町) 同郡 黒沢村 教慶院 (武川町) 同郡 新奥村 智宝院 (武川町) 同郡 青木村 福正院 (韮崎市) 同郡 浅尾新田 薬生寺 (明野町) 〆三拾壱ケ院 右者往古人より拙寺支配下ニ相違無御座候間此段奉申上置候 同寺末寺之分 甲府横沢町 福正院 巨摩郡甘利村 持宝院 同郡 白井沢村 清宝院 同郡 五丁田村 貴宝院 同村 常蔵院 同郡 大八田村 西方院 同村 成泉院 同郡 江草村 一行院 同郡 同村 法性院 同郡 白須村 自学院 同郡 箕輪村 天王院 同郡 津金村 吉祥院 同郡 谷戸村 域元院 〆拾三ケ院 右者往古拙寺末寺ニ相違無御座候間此段奉申上置候 慶応四年七月 三宝院宮御末寺 巨摩郡台ケ原宿 当山派修験一宗 袈裟頭 触頭 知見寺 ㊞ 寺社御役所 |
白州町内の修験白須文殊院 巨摩郡白須村 明細書上帳 聖護院宮末派本山修験二十四ケ院組文殊院 文殊院良敬 除地 一、弐百坪 東西拾弐問南北拾八問 右境内之内 一、東西九間半南北五間家作 一、東西弐間二尺南北三間堂場 一、東西弐間半南北三 |
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武川町山高 神代桜歌碑 桜横の石碑
神代桜歌碑
大正9年(1920)6月
中巨摩郡落合村 藍玉商 浅野長右衛門
碑身 正面
去る明治廿三年亘令の催しにて近在紺屋四十五人を招き花見をせし時に詠める歌なるを其の席に在りし武川村村長長坂勘兵衛翁と今の紺屋青木教高氏ととの周旋にて茲に記念として之を建つ
<読み下し>
神代桜を見てよめる
名にしおふミのりの寺の桜花
老いも若きと八千代おもへば、
催せしわれもよ路こひ人々の
こころも花もそろい開け里
三十日にも月夜と思ふ桜かな
大正九年六月
七十七翁 喜翁
武川村誌 資料編より
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武川町 中山砦(史跡と文化財『武川村誌』一部加筆)
武川町 中山砦(史跡と文化財『武川村誌』一部加筆)
中山は、釜無川の右岸に東西に横たわる標高八八七メートルの独立した山で、眺望は極めてよく、この山頂部に中山砦がある。
中世の煙火台を兼ねた山城で北を尾白川、南を大武川が流れる。かつて武川衆として活躍した武士団が拠点としたところである。牧原・三吹・山高・柳沢・横手・台ケ原・白須などの集落が、周囲の山裾や河岸段丘上に点在している。
頂上部の城郭は現在下三吹区有地として管理されており、一等三角点がある。
武川衆は、釜無川右岸のいわゆる武川筋における地域的武士集団で、武田信光の末男一条六郎信長の孫一条源八時信の子孫が武川筋の各村に分封したのに始まるという。
【武川衆】
戟国時代の武川衆は武田氏の一勢力として存在していた。天文十年(一五四一)の武田信玄による武田八幡宮本殿造営の際、七名の奉行の中に武川衆の中心的人物ともいえる青木尾張守満懸の名がみえる。また武川衆は永禄四年(一五六一)の信濃の川中島合戦においても武田左馬助信繁に従って活躍している。なかでも山高石見守親之は信虎、信玄に仕え、武川衆の随一とされ、永禄四年九月十日川中島合戦で武田信繋が戦死したとき、親之はその敵を討って信繁の首を奪い返してともに信玄に献上したと山高氏の奮戦ぶりが『甲陽軍鑑』に記されている。
永禄十年(一五六七)八月、武川衆は信濃国の生島足島神社において武田信玄に誓詞を出している。いわゆる「下之郷起請文」であるが、馬場・青木・山寺・宮脇・横手・柳沢などの名が見える。やがて武田信玄が天正元年(一五七三)に没すると、武田勝頼が家督を継ぐが、同十年三月、織田徳川連合軍との戦いに敗れ、武田氏は滅亡する。この時、武川衆は戦う機会を失い、主家の終わりを見送る結果となった。
こうした武川衆が、再び活躍するのは織田信長が本能寺の変で倒れたのち、徳川氏と北条氏とが甲斐国をめぐって激しく戦う時である。徳川家康はいち早く武川衆の有力者であった折井市左衛門尉次昌、米倉主計助忠継との接触を図り、自らの勢力下に置くことに成功している。
【徳川軍と共に】
天正十年八月十二日北条氏忠軍と黒駒合戦となり、武川衆は徳川方の鳥居元忠と共に戦って勝利している。一方、新府城に入った家康は若神子一帯に布陣する北条氏直軍と対峠していた。この時武川衆は中山砦を警固していた。新府城の前衛として重要な位置を占めていたのである。『甲斐国志』は諸録を参照して八月二十九日に
「武川ノ士花水坂ニ戦ヒテ、北条ノ間者中沢某ヲ討取ル。山高宮内、柳沢兵部、首級ヲ得ル」
とし、ここを拠点として武川衆が果敢に戦っていることが知られるのである。
中山砦は『甲斐国志』によれば、
「孤山ノ嶺二万四、五拾歩ノ塁形存セリ、半旗二陣が平卜云平地又水汲場と云処モアリ」
と伝えている。
この砦は中山の南北に延びる尾根状の山頂部を利用して構築している。尾根の南と北側を掘り切り、その範囲を削り平らにして四つの小郭を形成している。山頂部には土塁に囲まれた三つの郭が南北に並んでいる。南端にある郭は一段下がって設けられており、弧状を呈している。さらに下って弧状の郭に沿って空堀と低い土塁がめぐっている。東側には郭の下に二段から三段の帯郭がある。
【馬場氏】
砦の支配者としては馬場氏が勤めている。馬場遠江守信保は、武田信虎に仕え、武川谷大賀原根古屋の城に任した。またその子駿河守信久は、信玄、勝煩に仕え、同じく根古屋城に任し、慶長十五年十月、八十歳で没している。信久の子右衛門尉信成も勝頼に仕え根古屋城に任していた。なお美濃守信房の次男助五郎信義は家康に帰属し、甲州白須、教来石、台ケ原の内において旧領を賜っており、やはり根古屋に住んで居た。
この根古屋というのはすなわち中山城の勤務を終えた下番の将士が体を休めた場所である。近くには江草(須玉町)の獅子吼城に対する根古屋も同じである。
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武川町指定山高氏代々とその墓 鳳凰山高龍寺
武川町指定山高氏代々とその墓 鳳凰山高龍寺
(史跡と文化財『武川村誌』一部加筆)
昭和五十三年十一月一日指定
高龍寺は山高氏の菩提寺で、境内には山高氏代々の墓がある。山高氏は祖先甲斐守信方が、山高村に封じられ初めて山高氏を称した。信方は一条義行の長男である。一条氏は宗家武田氏の第二代信光の第四子一条信長よりはじまる。信長の子一条信経、信経の子時信、時信の子が義行、義行の子が山高信方である。
山高氏の系図は図1のとおりである。(略)
【越後守信之】
山高基春までは記事がない。越後守信之は武田信虎に仕えた。墓は山高の高龍寺にある。石見守親之は信虎、信玄に仕え、武川十二騎の随一であった。永禄四年九月十日川中島合戦で武田信繋が戦死したとき、親之はその敵を討って信繁の首を奪い返してともに信玄に献じた人である。同九年六月十八日没した。年五十八。
【宮内少輔信親】
宮内少輔信親は信玄に仕え、永禄十二年の小田原攻めに参加し、三増合戦に首級を獲り、功があった。元亀三年十二月二十二日、三方原合戦で討死した。四十二歳であった。
【信直】
信直は信玄、勝頼に仕え、武田信繁の男信豊に属していたが、天正十年勝頼没落ののち武川衆一同と共に家康に帰属した。
そののち若神子に対陣のとき、北条氏直の誘致に応じなかった。ついで十二年小牧長久手の戦、十三年信州上田城攻め、十八年小田原陣、関東入国後の鉢形移住、十九年九戸一揆のとき供奉、文禄元年朝鮮出陣に当たり、が船材伐採指揮をとった。慶長九年三月二日には折井次忠に宛てて下された武川衆一四名、連名一紙の知行宛行状において、七〇石の加増を受け、武蔵男余郡内にてすべて二〇〇石を知行した。十九年致仕、寛永二年四月二十日没した。七十三歳。
【親重】
親重は、わが子信俊が山高本家を相続したのに対し、別に一家を創立したが、その経歴は天正十九年九戸一揆のとき初めて家康に謁し、父信直と共に岩手沢まで供奉したのが始まりであり、関ケ原役のときの上田城攻め、大坂冬陣の従軍、同夏陣のときの甲府勤番、駿河大納言忠長附属、忠長没落による処士生活、家光に召し返されて甲斐の本領を安堵せしめられ、大番を勤めた。慶長八年知行地を与えられようとしたとき、親重は、成績正成に就いて、父信直と別格に賜りたいと請い、慶長九年旧知を巨摩郡山高村において二七〇石余を拝領した。これが甲斐の本領である。
親重は山高の高龍寺は先祖代々の菩提寺であるので、以前は村から遠くたびたび盗賊の難に合っていたので慶長十六年現在地を取立引き移した。親重三十七歳のときである。高龍寺は以後も法道の地として望んでいたので、客殿を建立しょうと心掛けて四〇年を経過し、ようやくその実現に至る寸前に慶安元年八月九日、七十五歳をもって病死したのである。
【信俊】
親重の子供は信俊、信保の兄弟があった。長子信俊は祖父信直の養子となって慶長十九年山高本家を相続した。信俊は慶長十三年十三歳のとき秀忠に拝謁し、相続したときは十九歳であった。その後は大坂両度の陣に従軍した。
元和二年駿河大納言忠長に附属した。忠長没落ののち処士となり、寛永十九年十二月十日召返されて家光に仕えた。忠長に仕えたとき三〇〇石を領したが、家光に召し返されたとき本領巨摩郡の内、もとのごとく三〇〇石を賜った。このとき慶安四年弟信保と力を合わせて父の意志に従って高龍寺を再興し、積翠寺の興国寺に対して末寺としてくれるよう依頼している。
のちに下総に移り、延宝四年十一月十四日八十一歳をもって没した。
【信保】
弟信保は、父親重が別家を賜ったので、父のあとを継いで、高龍寺の再興に力をつくし慶安三年四十五歳のとき客殿普請にあたり広く世の人に呼びかけ、慶安四年、是鏡和尚住職の時完成した。しかしながら高龍寺は無寺領のため、山高氏の法道の地として末長く続く様に寺領として永代高一〇石を絵図改帳と共に添えて寄進した。それによると、田二筆、畑二九筆、合わせて三一筆で一町七反七畝九歩分米合一〇石となっている。ときに慶安四年十月九日である。
信保は一〇年後寛文元年兄の信俊と共に下総に移され二七〇石を知行し、五月十四日御代官となり、寛文十年五月二十七日石見国において死す。年六十五歳であった。
高龍寺中興開基として左の方が信保の墓で、右の方は開基山高信之である。この他代々の五輪塔四基、宝筐印塔五基石室一基がある。いずれも小形のものであるが中世武士の質素な生活を象徴するといえよう。青木の常光寺にある青木氏の墓も同様である。
親重の宝筐印塔は二基あるがいずれも信俊と、信保兄弟が施主となっている。あるいは一基は親重の妻か、なお親重信俊以降の山高家の墓は東京牛込の宗参寺にある。
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